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ダークナイト ライジング

THE DARK KNIGHT RISES004

THE DARK KNIGHT RISES
2012年
アメリカ

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作

クリスチャン・ベイル 、、、ブルース・ウェイン/ダークナイト=バットマン
マイケル・ケイン 、、、アルフレッド(ブルースの執事)
ゲイリー・オールドマン 、、、ジェームズ・ゴードン市警本部長
アン・ハサウェイ 、、、セリーナ・カイル(キャットウーマン)
トム・ハーディ 、、、ベイン
マリオン・コティヤール 、、、ミランダ・テイト
ジョセフ・ゴードン=レヴィット 、、、ジョン・ブレイク
モーガン・フリーマン 、、、ルーシャス・フォックス
マシュー・モディーン 、、、フォーリー市警副本部長
アロン・モニ・アブトゥブール 、、、パヴェル博士


ブルースの邸宅の凄い事。ピアノキーで書棚が開き、その向こうは滝の裏側にある湖みたいな空間。
そこからバットで出入りできるというのがまた素晴らしい。
あんな家に住みたい。
あんなメカに乗りたい。

THE DARK KNIGHT RISES001

アン・ハサウェイの乗りこなすバットポッドもかなりのものであった。
直覚にカーブするところがゾクッとさせる。
アン・ハサウェイ~キャットウーマンが圧倒的にカッコよかった。

空からバットマンの”バット”、陸からキャットウーマンの”バットポッド”による追跡はこの映画でも出色の出来である。
アクション面ではかなりの面白さが味わえた。
(欲を言えばもっと見たかったが)。

THE DARK KNIGHT RISES003

ベインを見ると「北斗の拳」を連想してしまう。
そのマスクと出で立ちからも。
しかしどう見てもラオウの腕力の強い手下のひとりくらいにしか見えないのだが。
確かに彼のお陰でアクション、ファイトは多くなり、重みが加わり派手にもなっている。
だが長く出ずっぱりとなると、このマスクスタイルでの演技はかなり難しさを感じて来る。
役者も苦労したのではないか。特に顔~表情の演技。
その強さは信念によるものだと分析されていたが、最後にミランダに対する愛であったことが分かる。
ラーズ・アル・グールの遺児であったミランダ・テイトを愛した男。愛はもっとも信念を強固なものにする。
(ラーズとは、世界を完璧なバランスに維持する事を目的とする国際的な犯罪の首謀者とされるが、ジョーカーは世界はコントロール出来ないと断じている)。
「愛の戦士」であったのだ。増々北斗の拳みたいである(セーラームーンでは行き過ぎであるか)。
何かを守る為の自己犠牲という点において、バットマンのゴッサム・シティに対するベインのミランダである。


ジェームズ・ゴードン市警本部長の八面六臂の活躍ぶりは前作を上回る。実に良い味を出している。
アルフレッドの人情味あふれる役柄は更に熱く濃くなっていた。
ルーシャス・フォックスは相変わらず飄々としていて肝心なところを抑えている。
そしてジョン・ブレイクは魅力の若手である。何といっても主要脇役が高齢のいぶし銀トリオであることから、この人はよく目立った。

THE DARK KNIGHT RISES002

一番意外であったのは、マリオン・コティヤール演じるミランダであった。
こちらもブルース・ウェインと一緒に騙され不意を突かれた。
ビックリした。では彼女は子供のころから飛び抜けた身体能力を備えていたのか。
システム設計に優れたクリーン・エネルギー推進を強力に推し進めていた起業家に思えていたのだが、それだけではなかった。
ルーツが凄かった。「希望を持たせて一気に壊滅させる」魂胆を胸に秘めたテロ首謀者であった。
何とも彼女が今回の黒幕であったという事か。

マリオン・コティヤールファンにとっては大変複雑な心境となろう、、、?
片やアン・ハサウェイは厭世的な大泥棒からバットマンへの協力者となってゆく。
これは思想を転向したというよりブルース・ウェインの頑固さ直向きさに打たれたというところか。

原爆の起爆プログラムもミランダによって書き換えられ、爆発は避けられないようにしてしまっていた。
だが、バットマン~ブルース・ウェインも”バット”のオートパイロット機能を有効に書き換えて対抗した。
どちらもプログラム書き換え作戦であったが、原爆をゴッサムからなるべく離れた海上で爆破して自身は姿を消すには、この死んだふり作戦は有効であった。
お陰で葬式をあげてもらい銅像も出来た。
一度は泥を被ったバットマンであったが、ジェームズ・ゴードン市警本部長の手記から名誉回復も図られる。
(最初はベインによって市民の混乱・扇動を意図し読まれたものではあるが)。


エンディングは夢のようで爽やかなものであった。
まさにアルフレッドが夢に描いていた願い通りのものではないか。
ネックレスは彼女~セリーナに渡したのか、、、それは自宅からは紛失している。
わたしも正直、このハッピーエンドには嬉しくなった(単純。
ジョン・ブレイクは本名はロビンであったというのも、、、これで相棒となるのか。
メモがブルースから渡されていた、、、。


まだ続きそうである。

わたしとしては、今回の方が面白かった。






ダークナイト

The Dark Knight002

The Dark Knight
2008年
アメリカ・イギリス

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作
ボブ・ケイン、ビル・フィンガー『バットマン』原作

クリスチャン・ベイル 、、、ブルース・ウェイン/バットマン
ヒース・レジャー 、、、ジョーカー
アーロン・エッカート 、、、ハービー・デント検事/トゥーフェイス
ゲイリー・オールドマン 、、、ゴードン警部補
マイケル・ケイン 、、、アルフレッド
マギー・ギレンホール 、、、レイチェル・ドーズ
モーガン・フリーマン 、、、、ルーシャス・フォックス


レイチェル・ドーズ役のケイティ・ホームズが降板してしまったことがとても残念であるが、ヒース・レジャーのジョーカーが誘惑の悪魔であるメフィストフェレスそのものといった感で愉しめた。
悪魔であるから、尋常な相手ではない。
この物語で唯一人間離れした超人であった。

この役は単なる悪党を遥かに超越しており大層難しいであろうが、ヒース・レジャー実に見事である。
規範~超自我で抑えられないカオスのリビドーを上手く操る。
(「人が善良なのは世の中がまともな時だけだ。倫理だ何だと言ってもそんなの悪い冗談にしかならない」「おれは何も企まない。企むのはそっちで、おれはそれに乗っかるだけさ。一歩先を行ってね。」いちいち的を得たことを要所要所で騙るジョーカー)。
ブルース・ウェインが一時、全幅の信頼を寄せたハービー・デント検事すら変貌させてしまう。
もっとも、彼には元々トゥーフェイスである危うさが秘められており、火傷で文字通りその顔となって、パーソナリティが明確に表れたとも謂える。清濁併せ呑むようなタイプではなく、コインの裏と表のようにスウィッチしてしまうひとなのだ。

これにはゴードン警部補も困りはらう。というより、危機的状況に追い込まれる。一番手に負えないタイプかも知れない。
しかし、このトゥーフェイス・メイクは凄いものであった。
一番、頑なな善人~正義漢がある意味、ジョーカーの操り人形になってしまう。
ゴッサムシティの救世主が、まさにトゥーフェイスというクリーチャーになってしまっていた。
兎も角、この物語はジョーカーがポイントである。
彼が(彼の役が)脆弱だともう噺も薄っぺらで軽いものになってしまうだろう。
ジョーカーの厚み次第であり、ヒース・レジャーに負うところは大きいと謂える。

他の役は皆、人間臭い。
特にバットマンは苦悩する普通の人間である。
スーパーマンみたいなあっけらかんとした人ではない、、、別に単純という訳ではない。
(こちらもクリストファー・ノーランが製作しているが)。
ゴードン警部補やアルフレッドやルーシャス・フォックスに支えられている部分が大きい。

それにしても、ゲイリー・オールドマンにマイケル・ケインにモーガン・フリーマンとよくもまあ、脇に大物を揃えたものである。
出ているだけで、風格があり作品の格も上がってしまう。
実際、そうした面は大きいと想われる。

それらの錚々たる俳優の作る絶妙なバランスの上にブルース・ウェインが上手く乗っかっていた感じだ。
しかし、ブルース・ウェインとハービー・デント検事両者の相手役でもあるレイチェル・ドーズ役のマギー・ギレンホールはかなりキビシイ。明らかにケイティ・ホームズが続投すべきであった。キャストの中で唯一疑問を抱くところである。これで観る気をなくしたファンもいるかも知れない。

わたしもゲイリー・オールドマンが出ているので最後まで観たという面はある。
であるから彼が途中で死んだときは、放り出そうかと思った。
でもヒース・レジャーの怪演が気になり見続けていたら、生き返ってきたのでそこが一番嬉しかった所かも知れない(笑。
策略上あそこで死んだふりする必要性があったのかどうか、いまひとつよく分からないのだが、、、。
兎も角、ジョーカーが非現実的な程、常に先を行くので(この辺は「グランド・イリュージョン」のお手軽さも感じてしまうところもあるのだが)何とか衝撃的な策を講じようという焦りも感じる。

ヒーローものに見られる超人アクションはない(これは故意に抑えている気はする)。
ガジェットやバットモービルも然程、圧倒的なものでもなく、そこそこスタイリッシュで実用的なものに留まっていた。

最後にバットマンがハービー・デント検事の名誉を守り彼の犯した罪を被り去って行くが、意味が分からない。
ゴードン警部補、その意味を教えてくれと内心訴えたものだが、よく分からなかった、、、。
続編で待つ、というところか、、、?


「この世界はコントロールできない」ジョーカーのこの言葉は至言である。
欧米が世界をコントロールしようとしたツケが至る所にまわっているところだ。
ジョーカーとは偏在するヴィデオドロームでもある。

The Dark Knight001


この映画自体ヒロイン以外に文句はないが、この監督作品としては「インターステラー」の方が遥かに良かった。
そして「インセプション」、「ダンケルク」、「メメント」の順で気に入っている。








打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

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1993年
岩井俊二 監督・脚本

山崎裕太 、、、ノリミチ
奥菜恵 、、、ナズナ
反田孝幸 、、、ユウスケ
小橋賢児 、、、ジュンイチ
ランディ・ヘブンス 、、、カズヒロ
石井苗子 、、、ナズナの母
麻木久仁子 、、、三浦先生


両親の離婚により、学校を去ることになるナズナは夏休み前に少し気のあるクラスの男子と思い出を作っておきたかったのか、、、。
いやそれ以上の何か、周りの枠や運命に対する身悶え~彼女なりの反逆を示したかったのか。
小学校という時期は(中学・高校までもそうだが)、何でも親や周囲の大人の都合で運ばれてゆく。
単に周りに流されるままにされるというだけでなく、自然に育まれていく想いも、突如外部からの理不尽な力でズタズタにされてしまう。
そこで自分の意思の問われるようなことはまずない。
(少なくともわたしはそうであった。そして多くは似たような仲間と徒党を組むか、内面化するか。わたしは後者であった)。
ある意味、一生の中でその後の精神の基調を形作るもっとも過酷な(人によってだが)時期であるとは謂えよう。

ナズナの家の具体的な事情や転校については担任の三浦先生と関係者しか知らない。

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ナズナはノリミチとユウスケの二人が自分の事を好きなのは、知っている。
二人がプールにいるのを見計らい何気なくやって来て、50m競争をたきつける。
そして勝った方と花火を見に行くことに決めていた。
(きっと自分の運命を占うような賭けであったかも知れない)。

勝ったのはユウスケであり、彼女は約束の5時に彼の家の前まで大きなトランクを下げて来た。
だが、ユウスケは約束をすっぽかす。急に面子を気にしだす。
(ノリミチはナズナからユウスケが誘いを受けたことは教えられて知っていた。何故だかナズナをノリミチに託すようなそぶりでもあった)。
ナズナはそこで母に見つかり、泣きわめきながらも強引に連れ戻されてゆく。
この様子を見てノリミチはユウスケを殴りつけて立ち去る。


ここで時間系の乗り換えとなり、プールではノリミチが勝ってナズナと花火の約束をすることになる。
やはり彼女は例の大きなトランクを引いて、浴衣姿で彼の家の前に5時に到着した。
ユウスケが勝手に上がり込んで遊んでいたため、彼の隙をついて二人で手を繋いで走って逃げる。
その後ろ姿をユウスケは見届け、悔しがる。

彼女は花火に行く気など全くなく、トランクの中は家出の品が一揃いであった。
ナズナは思わせ振りに浴衣からちょっと背伸びした服に着替え化粧もして「どう16に見える?」と挑発的に聞く。
どう見ても16は無理だが、ノリミチでは到底対応しかねる。
彼女は「駆け落ち」と言い、ノリミチを強引に誘ってバスに乗り込む。彼は駆け落ちの意味すらよく分かっていなかった。
あなた一人くらい面倒見てあげる等と騙り駅まで乗り、電車に乗って何処に行きたいかと問う。
「女は何をしても生きていけるのよ」などと何処で聴いたか知らないようなセリフまで繰り出す。
ノリミチは完全に巻き込まれ判断不能状態におり、そのままでは何でも彼女の言う通りに従ってしまう状態だ。

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自分たちは電車で遠くの何処かへ行ってしまうものとすでに思い込んでいるところ、彼女に促され最後のバスに乗って街に取って返す。
ノリミチにはその行動の意味が何なのかさっぱり分からない。
そして渋るノリミチをしり目に彼女に引っ張られ学校のプールに忍び込み、二人で服のまま水に入り泳いではしゃぐ、、、。
ひとしきり夜のプールの水~その神秘的なロマンを味わって遊び~彼女は最後に、「また2学期に会えるのが楽しみね」と言って突然、泳いで立ち去る。
何とも言えない郷愁と焦慮の念が立ち騒ぐ、、、。

これが彼らにとって最後なのだ、、、。

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花火は横から見ても下から見ても、基本的に球であろう。
特に題にするようなテーマとは思えぬが。
(テーマとして引っ張れるものとは思えぬ)。
ノリミチとナズナの物語に並行して悪友たちが灯台に登って花火を横から見てやると、花火は横から見ると「平ら派」と「丸い派」に分かれ喧嘩しながら長い道のりをとぼとぼ歩いてゆく。
自分の好きな女子の名を時折叫びながら、、、。
「ナズナ~」、「三浦先生~」、「観月ありさ~」、「セーラームーン~」
勝手にしなさい、である。
ただ、どんな角度から観てみたい、という趣向はヒトそれぞれにあると思う。


コンパクトに無駄なくまとまった危うく甘酸っぱい噺であった。
恐らく奥菜恵の最高傑作に当るのではないか。
彼女の他の出演作など観てはいないが、これを観ればもうこのような「気」を演じることなど不可能であることが分かる。
その意味で大変貴重な作品と謂えよう。
(時間は残酷である)。

夏休み明けの2学期に、ノリミチとユウスケのクラスの机が一つ空いている息を呑む光景をいやでも想像させる。
ここでノリミチは、あの日の意味をはじめて知ることととなるだろう。
それはとても静かで永遠の切なさを湛えている。
(自分もそんな想いをどこかで経験したことがあった気がする、、、)。



Amazon プライムビデオで鑑賞。
なお、アニメバージョンが発売中。広瀬すずが声。



フローズン・タイム

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Cashback
2006年
イギリス

ショーン・エリス監督・脚本・製作
ガイ・ファーレイ音楽
アンガス・ハドソン撮影

ショーン・ビガースタッフ 、、、ベン
エミリア・フォックス 、、、シャロン
ショーン・エヴァンス 、、、ショーン
ミシェル・ライアン 、、、スージー


不眠症が慢性的に続くと、幻覚を見る(場合があるらしい(笑)。
その幻覚は自分の周囲の「時」が止まったように感じられるという、、、。
時が止まればとても便利だろう、と想えるが巻き戻せるわけではない。
単に一旦止めるだけでは何ら事態を変えることなど出来ないことが分かる。
特にメリットはないのだ。
相手~対象の思考や認識、記憶にどうこう働きかけられる訳ではない。

ただ、画家の卵である主人公にとって、対象をじっくり眺めて描く時間はたっぷりとれる。
(見方を変えれば異様に加速した彼の意識~認識作用がそう知覚させたのかも知れない。あるいは単なる病的幻覚か)。
後は止まっている店長を台車に乗せてそのまま他の場所に運ぶなどというコミカルな場面はあったが、、、
ここでは止まっている対象に対し物質的に働きかけられる、という事情を示す。
止まっている女性にも働きかけをしてヌードを描いている場面もある。
そうなると単なる幻覚とは片付けられない個人の内面的な世界に留まらない噺となろうか。
何とも奇妙な居心地の悪い事態ではある。(時間の)止まった対象を自在に動かせるというのは、論理矛盾である。

時間を止める系の映画に(別に深く考える類のものではないのだが)自分だけが自在に動けるというものが多い。
時間が停止したと認識する主体があるから事態がそれと分かるのだが、このとき自分とはどこまで自分で周囲とはどこまでを指して周囲ー環界とみなすのかである。その問題は不可避的に発生する。
然も本質的に時空連続体としてわれわれ~世界が存在する以上、その織物に対し別の超越的な自分独自の時空間という系をどう絡めるのか。その別の時空系が他の系に作用を及ぼすとなれば如何なる事情~メカニズムによるものか。

単に自分の時間意識が狂って加速し、周囲が遅延して見えるということか。
(そのような病状は知らぬが、極限状態~アルタード・ステイツにおいて、一瞬のうちにこれまでの人生を俯瞰・圧縮してしまう等という事例報告は少なくない。)
時間意識~認識が狂うことは精神の変調(変性)によって起こる可能性はあるかも知れない。
しかし物質的に相手に働きかけられるとなると、もはや「時間」ではなく、生命活動の一時凍結により事態を動かす等といった次元に及ぶか。働きかけたという幻想に留まらない客観性がみられる場合(つまり店長の例、、、しかしこれも微妙であり、運んだ結果が背後の音で確認されただけである為、本人の幻想~幻聴にも受け取れる)。
確かに、モデルをヌードにして描いたとしても、それは想像で描いたものに過ぎないと受け取れる(その可能性の方が高い)。
美大生であれば、体格を服の上から見るだけで、ヌードデッサンを通して習得した骨格・筋肉の付き方は再現できる。

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しょうもない横道に逸れてしまった(笑。
「時間」に足を取られてはいけない。
この映画は端から時間など、大した要素ではないのだ。
ちょっとしたファンタジックな演出のひとつ、主人公の感性の一面くらいのものである。
出て来るキャストも皆、調子外れの連中揃いだ。
独自の世界を生きている。

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兎も角、主人公は不眠症の芸術家なのだ。
何があろうがそれ程、おかしくない、というノリでのラブファンタジーである。
ユーモアとウェットがあり、流れの緩急と全体的なテンポが小気味よい。
主人公が妙に真面目なのも笑える。
そう、この映画は独特の(外れた)調子をもった神秘的な静謐さも漂う、ラブコメディなのだ。
映像も音楽センスもかなり良い。
不思議の国のアリスの伝統を背景にもつイギリス映画である。


最後に新しく出逢った女性とキスをする~恋が実ったことで、しっかり熟睡できたというのは、とても分かるところだ。
良いことがあると、まさに芋づる式で、画廊のオーナーに認められ個展が開かれ大盛況、そこで出逢った大物パトロンにニューヨークでの個展の誘いも受ける。
そういうものなのかも知れない。
これはリアルな現実なのだと思う。
(もう時間が止まる必要もあるまい。その意識から解放されたのだ)。
なんせ、良く眠った後なのだから(爆。


ただ一言、相手役女性が今一つな感じが否めなかったのだが、、、。
ミア・ワシコウスカあたりがやったら申し分ないのだが、、、そんな気が観ているうちにして来た(あまり良い観客ではない(爆)。






アンコール!!

Song for Marion001

Song for Marion
2012年
イギリス

ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督・脚本

テレンス・スタンプ、、、 アーサー(72歳の男)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ、、、 マリオン(アーサーの妻)
ジェマ・アータートン、、、 エリザベス(音楽教師、老人合唱団顧問)
クリストファー・エクルストン、、、、 ジェームズ(アーサーの息子)


72歳からでも、愛する伴侶を亡くしてからでも、人生はやり直せる。
愉しい生を求め前を向き、生きることが出来る。
何一つ遅すぎることなどない。
何事にも臆せず真摯に向かい合えさえすれば、新たな生はやってくる。
とても本質的でシリアスな内容をベタに表現するコメディであった。

一組の老夫婦と若い音楽教師の絆を中心にして夫婦愛と親子愛と友愛を描く。
個性的で愉快な合唱団などというコミュニティとの関わりは、わたしも苦手な感じがするが、偏屈な頑固者であるアーサーにとってはもっと億劫で鬱陶しいものであろう。
彼は妻にだけはこころを開き大切に慈しむが、他の人間に対してはとても気難しく融通も利かない。
実の息子とも常にすれ違い、意図的に遠ざけている有様だ。
社交的で明るい妻は、合唱団で歌う事を何よりの愉しみとしていた。
マリオンの送り迎えはアーサーにとって大切なルーチンでもあった。
性格はまるで違うのに本当に仲の良い夫婦なのだ。
しかしその妻は、癌の末期に来ていた。
マリオンは最期までアーサーに送り迎えを頼み、合唱を友人たちと思う存分愉しんで逝った。

時と共に彼は彼女がそこでどのように感じていたのか知りたくなってくる。
彼女の生がどのようなものであったのか、身をもって知りたいと思うのだ。
彼女の生の実質をその片鱗であろうと縋る様に受け止めたい。きっとそんな気持であっただろう。
毛嫌いしていた合唱団にマリオンの代わりに入り、共に歌を歌い始める。
予想以上の個性派揃いであったが、彼は次第にエリザベスとの固い信頼関係を築き、仲間との距離を詰めてゆく。

妻が存命中に合唱団で最後にソロで歌った曲はCyndi Lauper の”True Colors”でありアーサーに向けて歌ったものだ。
(シンディ・ローパー懐かしい。わたしもよく聴いていた)。

 わたしはあなたの本当の色を見ている。
 だからこそ、あなたを愛しているの。
 それを見せることを
 恐れないで
 あなたの本当の色を
 本当の色は美しいわ
 まるで虹のよう

彼はその気持ちを察しながらも、率直に受け止めきれず戸惑っていた。
しかし今は違う。
その返歌としてアーサーはBilly Joelの”Lullabye (Goodnight, My Angel)”を妻が愛した合唱団の全国大会の舞台で歌う。
大変な決意とともに。まさに”Song for Marion”なのだ。
素敵である。
会場の暗闇から孫娘が「がんばれ、おじいちゃん!」と声をかける。その隣には長年上手くいっていない息子が真剣に見つめていた。
アーサーがやっと歌い出すと、嘲笑を漏らしていた会場の空気が一変する。

 お休み 僕のエンジェル もう眠る時間だよ
 でもまだとても多くの事を僕は言いたい
 思い出して 君が僕のために歌った歌をみんな
 あの時僕らは船に乗りに行った エメラルド・ベイに

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いつの日か 僕らはみんないなくなるだろう
 でも子守唄は続く
 それは決して絶えない そんな風に君と僕も...


その声はとても優しく綺麗であった。
ずっと秘められていた優しさが解き放たれたかのよう。
優しさは時に過激な力を持つ。
人を深く動かす。
皆が自然に立ち上がって「アンコール」を求めていた。
それだけの歌であった。
(わたしも何度も聴きたくなる歌であった。ルー・リードを聴いたときの感覚に近い)。


この映画は昨日の映画と異なり、音楽そのものの凄さとそれを生むための苦悩など「音楽」で魅せるものではなく、音楽を拠り所にしてひととの繋がりを暖かく描こうとしている。
これも見事に成功している。
自然に胸に熱いものの込み上げてくる映画であった。


Song for Marion002






パガニーニ  愛と狂気のヴァイオリニスト

Der Teufelsgeiger003

Der Teufelsgeiger
2013年
ドイツ

バーナード・ローズ監督・脚本・撮影
デイヴィッド・ギャレット、フランク・ファン・デル・ハイデン音楽


デイヴィッド・ギャレット、、、ニコロ・パガニーニ 、製作総指揮
ジャレッド・ハリス、、、ウルバーニ(パガニーニ のマネージャー)
アンドレア・デック、、、シャーロット・ワトソン(パガニーニ の愛した娘、オペラ歌手)
ジョエリー・リチャードソン、、、エセル・ランガム(ジャーナリスト)
クリスチャン・マッケイ、、、ジョン・ワトソン(イギリスの指揮者、シャーロットの父)
ヴェロニカ・フェレ、、、エリザベス・ウェルス(ジョンの内縁の妻、オペラ歌手)


パガニーニと謂えばフランツ・リストがピアノに編曲した”ラ・カンパネラ”と来てしまうが、ここでは他にも弾きまくっている。
”ラ・カンパネラ”はピアノになっても超絶であるが、元のバイオリンでも当然、超絶である(笑。

主演のデイヴィッド・ギャレットは、何と「ストラディバリウス」を超絶技巧を駆使して劇中で弾きまくっている。
5億円とか。いやデイヴィッド・ギャレット恐るべし。
この映画は何といってもデイヴィッド・ギャレットの弾くパガニーニの演奏を聴く~観るに尽きる。
いとも容易く、左手でピッツィカートをはじきつつ、右手で弓をあやつる技巧に聞惚れるが、その躍動感と情熱に圧倒されもする。
それだけで成り立つ映画。やはりヴァイオリニスト兼モデルが主演であるから音も絵も凄い。

Der Teufelsgeiger004

アンドレア・デックの瑞々しさも後に残る。
彼女は自分で唱っているのか?
彼女の歌とパガニーニの演奏で聴かせる、彼のシャーロットに捧げた”アリア”の美しいこと。
この曲は劇中何度も流される。まるでテーマ曲みたいに。

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噺は、パガニーニに彼が唯一本気で恋をしたシャーロットと彼をヨーロッパの覇者に祀り上げたウルバーニとの絡みで進展する。
途轍もない才能に恵まれていながら、舞台の合間に袖で誰も注目しないバイオリンの曲芸弾きをしていたうだつの上がらぬパガニーニに或る夜、ウルバーニという紳士が訪ねて来る。
「君をすぐに世界的ヴァイオリニストにしてみせよう」「代償は?」「何もない」怪しい、悪魔的な契約を想わせる。
「君は有り余る才能と技術を持っているが、物語が無い」まさにそれを作る人間が名プロジューサーであろう。
パガニーニは勧められるまま書類にサインをしてしまう。
ファウストと悪魔メフィストフェレスの雰囲気そのもの。

しかし直ぐにミラノ次いでパリで大ブレイクする。
その勢いでイギリスに招かれる。
(イギリスの港の景観は凄い。一目で絵と分かる見事なものであった(笑)。
何処に行こうと、稼いだ金は酒と女とギャンブルに全てつぎ込んでしまい、常に金欠状態にある。
このだらしなさは~いや蕩尽の欲求は、天才芸術家にはよく見られるものではある。
(画家もこのパタンは多い。酒、女ではモディリアーニも負けてはいない(笑。いや愛への拘りは、と謂うべきか)。
そこでウルバーニの提案が面白い。ギャンブルで負けたくなければカジノを自分のものにすればよい。
それで頑張った分けではなかろうが、パガニーニは次々とコンサートを成功させ、遂に自分のカジノを持つ。

Der Teufelsgeiger005

演奏シーンは全て見どころである。
まずは、パブでの演奏は狂気である。ここでの熱狂の噂からイギリスに彼の名が浸透して行く。
屋敷の家財まで売り払って彼をイギリスに呼んだジョン・ワトソンのコンサートには、オーケストラが演奏を始めても出て来ない。姿を眩ませたかと思ったら、後ろの出入り口から通路に現れ弾きまくる。まるで演劇の出みたいに。
そして技巧の限りを尽くした演奏を繰り広げる。
コンサート(クラシック)で若い女性の黄色い声援と失神する姿は、もう現代で謂えばカリスマロックアーチストのステージに見るものではないか。
まあ、モーツァルトもそのような感じであったし、その当時であれば彼らこそ進み過ぎたコンテンポラリーミュージックのアーティストに相違ない。失神しても不思議はないのだが。
そしてシャーロットの歌~アリア~も加わり大変な盛況で終わり彼と彼女の才能が高く評価される。
だが天国と地獄の浮き沈みの激しい運命の人である。

強烈な支持があれば、それに対するアンチも現れる。
そのパガニーニを素行~女性関係~の面から風紀を乱すと断罪しようとする女性団体というのもえげつない。
この辺は投獄されたことも含めエゴン・シーレに近いものを感じる。
何ともイギリスに着くなりの悪魔の崇拝者呼ばわりの排斥運動である。受け容れ側との極度の温度差。こういう圧力団体は怖い。
そこにジャーナリストも絡み二人の悪い噂が広がり、彼だけでなくシャーロットも深く傷つく。

Der Teufelsgeiger001

ただウルバーニが何故、あのような策略を弄してパガニーニからシャーロットを遠ざけたのか。
その辺がわたしには理解できない。
ウルバーニの言うように、パガニーニと親密になると彼女が堕落しただろうか。
シャーロットは非常に心がしっかりしており、そうなるとは思えないが。
エセルと言いウルバーニにしても他の感情が渦巻いているように見える。
パガニーニのことを純粋に考えたのなら、寧ろ彼女と共にいることが彼自身を変えたのではなかろうか、、、。
、、、何とも言えないが、、、(爆。
それっきりの、失意のパガニーニのまま終わって逝く、、、。
シャーロットが意外とあっさりしていたので少しがっかりした。
(でも、彼女のコンサートで例のアリアは欠かせない曲となっていたようである)。


兎も角、デイヴィッド・ギャレットの凄まじい演奏を観るだけでも充分価値のある映画である。

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オーケストラ!

Le Concert001

Le Concert
2009年
フランス

ラデュ・ミヘイレアニュ監督・脚本
アラン=ミシェル・ブラン、マシュー・ロビンス脚本
アルマン・アマール音楽
ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)
その他クラシックの名曲がたくさん、、、。一杯あり過ぎて出て来ない、、、。

アレクセイ・グシュコブ、、、アンドレイ・フィリポフ(天才指揮者)
メラニー・ロラン、、、アンヌ=マリー・ジャケ(名バイオリニスト)
ドミトリー・ナザロフ、、、サーシャ・グロスマン(アンドレイの親友、チェロ奏者)
フランソワ・ベルレアン、、、オリヴィエ・デュプレシス(シャトレ座オーナー)
ミュウ=ミュウ、、、ギレーヌ・ドゥ・ラ・リヴィエール(アンヌ=マリーのマネージャー、育ての親)
ヴァレリー・バリノフ、、、イヴァン・ガヴリーロフ(共産主義者、臨時マネージャー)
アンナ・カメンコヴァ、、、イリーナ・フィリポフ(アンドレイの妻)


いろいろと想いの込み上げてくる映画であった。
チャイコフスキー自身がとてもマイノリティに対して理解の深い人物であった。
その為、この映画のテーマにチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」が据えられているのは納得である。
(わたしもチャイコフスキーは大好きだ。「弦楽セレナード」はよく聴いた。「猫の民子」のCMでも泣いたものだ(爆)。


ロシア・ボリショイ交響楽団で主席指揮者を務めていたアンドレイ・フィリポフは30年前、ブレジネフ政権下ユダヤ人演奏家の排斥に従わなかった為解雇され、ボリショイ劇場の清掃員になって呑んだくれになっていた。他の楽団員たちも音楽の生活から追われて散り散りになってしまう。
或る時アンドレイは偶然にサンフランシスコ交響楽団が演奏をキャンセルした為、パリのシャトレ座で代わりの楽団を探している情報をファックスを盗み読みして知ることとなる。

そこで彼は奇想天外な策略を思いつく。
昔の仲間を探し出して楽団を再結成し、パリにボリショイ成済まし楽団として乗り込み、奇跡の復活を狙うというのだ。
それを奥さんが大乗り気で後押ししてれたのも、実に心強い。良い奥さんで感動した。

因縁のチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏によって蘇るのだ!
かつてコンサートでその曲の演奏中に政府の横槍が入り中断され(タクトが折られ)、ユダヤ人の名演奏家はシベリアに送られ命を落とす事にもなった。
彼はその曲に徹底的に拘り、その演奏で復活を遂げることを決意する。
更に彼にはある女性とパリで運命的な(29年越しの)再会を果たす目的があった。
ソリストに招いたスター女性バイオリニスト、アンヌ=マリー・ジャケである。

Le Concert003

だがいざ実行に移すにも30年のブランクにより、問題は山積であった。
まず散らばった仲間を見つけるのが大変なのだ。
これは「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」でもそうであった。(ライ・クーダが苦労していた)。
マネージャーを頼んだ男はかつてアンドレイの楽団を潰した共産党の張本人であったが、パリと聞いた途端やる気を漲らせる。
(フランスの共産党に接触を図る魂胆があった)。
マネージメントの腕は良いが、団員たちとの折り合いは悪い(当然ではあるが。KGBと言って彼を嫌う)。
ドタバタ騒ぎの連続であり、コメディタッチで所々で笑わせながら展開する。

かつての名演奏家達は皆、音楽を離れた生活を送っており、楽器すら手放した者もいた。
楽器が足りない。
金もない。
旅券を持っていない者も多い。
金を余計に支払って別ルートで旅券を60人分作る。
兎も角、資金問題が大変で、マフィアのような富豪の「ガス王」にも縋りつく。

やっとの思いでかき集めた全員をパリに連れてゆくが、解放感からかホテルに着くなりお金を貰って皆何処かに遊びに行ってしまう(笑。
この締まりのなさは、ロシア的なのか?
なかには、商売を始めてしまう父子もいる(この2人はコンサート本番にちょっと遅れて舞台に滑り込む)。
そして強面の急遽スポンサーになったロシアガス王が強引にコンサートの独占放映権を主張してくる。
放映権を巡ってまたイザコザである。これもロシア的か?
それをフランス陣営(シャトレ座)は、電波が大規模衛星により他の国に拾われてしまうこともあります。
それで音や画像が共有されても構いませんよね、で丸め込む。
放浪して全然戻ってこない団員に業を煮やしてデュプレシスは契約破棄をチラつかせて脅かすが、ロバのようなロシア人はこうして動かす、などと充分心得ている。こんなやり取りが続く。
しかもマネージャーの設定したレストラン(トゥル・ノルマン)のディナーに誰も姿を見せないというありさま。

あげくにリハーサルの日も参加する者がおらず、リハなしの、いきなり本番という運びとなる。
これにはパリのスター演奏家であるアンヌ=マリーは呆れ返り演奏に参加することを躊躇う。
彼女は夜のディナーでアンドレイから30年前のいきさつを途中まで聴く。
彼はレアというバイオリンの天才ソリストを見出し、チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」に究極のハーモニーを見出したことを告げる。しかし彼女がKGBに捕まったことまででその先は話さず仕舞いであった。
アンヌ=マリーは、わたしはレアの身代わりはできない。過去には誰も戻れないと言い、出演を断って去って行く。
アンドレイには、その先を語ることは出来なかった。

Le Concert002

アンドレイの親友グロスマンはギレーヌの家を探し、フランス語が苦手だが、何とか説得に務める。
彼女は、彼が思わず口にした演奏することで、最後に両親のことが分かると漏らしたその言葉に強く拘る。
しかし、それをグロスマンは彼女につぶさに語ることが出来ない。
ただ「言葉は裏切るが、音楽は今も美しい」とフランス語で語ってその場を立ち去る。

この映画は邦画によくある(アメリカ映画にもその気はある)、スポ根音楽映画(一生懸命練習して優勝をもぎ取る類のもの)とは全く次元の異なるものであることが分かる。

Le Concert005

育ての親で彼女の出生の秘密を知っているギレーヌに促され、アンヌ=マリーはコンサートに出演することにする。
両親の事が分かるという希も託して。

30年前、アンドレイたちのコンサートをぶち壊し、彼らから音楽を奪ったガヴリーロフがコンサート直前に会場にタクシーを飛ばしてやって来た(休暇でパリを訪れていた)現ボリショイ交響楽団オーナーを見つけ、他のビルに彼を誘導して閉じ込め、二度目のコンサートの中止を阻む。この功績は大きい(爆。
そしてガヴリーロフは、出だしに調子の乗らない演奏を聴いて、神がいるなら助けてくれと祈る。すると「神は確かにいた」というくらいに素晴らしい演奏になってゆく。
アンヌ=マリーのソロに絡み全ての音が美しく調和して昇まってゆくのだった、、、、。
楽団の誰もが彼女にかつてのレアを観ていた。目を潤ませて。
この終盤20分は圧巻の演奏であった。

アンドレイが指揮の最中に彼女にこころのなかで語り掛ける。
「あの話の続きをしよう。レアには6カ月の赤ん坊がいた。子供は何としても収容所に渡したくない為、彼らはその娘をギレーヌに託したのだ。」
最後に楽団のメンバーの彼女を見つめる目を通し彼女は全てを察知していた(いや直覚した、か)。
この重層的な流れが音楽の調和と共に大変感動的であった。

Le Concert004

結局、ここがチャンスとみたら、無謀なチャレンジと思える事でも、やってしまった方がよい、、、というメッセージにも受け取れる。
そういうものかもしれない(笑。

コミカルでギクシャクした流れから後半のハーモニーへと一気に駆けあがって行く手際は素晴らしかった。

キャストも皆、とても個性的でマイノリティたちの民族的な雰囲気もよく出ていた。
アレクセイ・グシュコブは天才指揮者(芸術家)の孤独と威厳を漂わせていて、このような役にピッタリの人に思える。
相棒のドミトリー・ナザロフも人間的な魅力に溢れた雰囲気をよく表現していた。

メラニー・ロランは有名女優であり監督でもあり歌手でもありモデルもやっていたことを知った(笑。
わたしが知らなかっただけであるが、これまでに恐らくどこかで(映画やメディアで)見てきたはずだ。
何となく覚えている。
だがそのなかでもこの役は極めて素敵な役であったと思う。
素晴らしかった。







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グランド・イリュージョン

Now You See Me001

Now You See Me
2013年
アメリカ

ルイ・ルテリエ監督

ジェシー・アイゼンバーグ 、、、J・ダニエル・アトラス(マジシャン“フォー・ホースメン”のリーダー)
マーク・ラファロ 、、、ディラン・ローズ( FBIの特別捜査官“フォー・ホースメン”を追う)
ウディ・ハレルソン 、、、メリット・マッキニー(メンタリスト“フォー・ホースメン”の一員)
メラニー・ロラン 、、、アルマ・ドレイ( ICPOのフランス人捜査官ローズと共に“フォー・ホースメン”を追う)
アイラ・フィッシャー 、、、ヘンリー・リーブス(マジシャン“フォー・ホースメン”の一員)
デイヴ・フランコ 、、、ジャック・ワイルダー(若手マジシャン“フォー・ホースメン”の一員)
コモン 、、、エバンス(FBIの特別捜査官。ローズの上司)
マイケル・ケイン 、、、アーサー・トレスラー(世界的な大富豪“フォー・ホースメン”のパトロン)
モーガン・フリーマン 、、、サディアス・ブラッドリー(マジックの種明かしを行うことで有名な老マジシャン)


トランスポーター』の監督ということで、カーチェイスはまさにそれを想起するものであった(笑。

最初の出だしのインパクトは凄い。
とんでもないマジシャンが何かを仕出かすぞという煽りは充分であった。
派手でスタイリッシュでまさにトリッキーな映画であろう、、、。
正直惹き込まれた。

だが、印象は次第に変わって行く。

この映画はスケールの大きい鮮やかなトリックで度肝を抜くシーンを楽しむものである。
確かにそうなのだが、具体的にどうやって準備~実行に漕ぎつけたのか?
また、それら~金の巻き上げをやる意図もよく分からない。

その大掛かりなイリュージョンの仕掛けを彼ら“フォー・ホースメン”が如何にして発想・計画・準備・作成を実際に行っていったのか、個々が実際にどう手分けして動いたのか、外注を出したにしてもそれはどのパートなのか、どうやってその大きな仕掛けを秘密裡に仕込み隠蔽できたのか、その辺がすっぽり抜け落ちていて、ただ映画として舞台をCGを駆使したVFXで繋いでいる為、今一つ入り込めるリアリティがない。
あれだけの大掛かりな仕掛けをするには、相当な仕事が必要なのは言うまでもない。
謂わば、彼らの舞台裏~種が見たいのだが、われわれも映画の中の観客と同様に本番舞台しか観れないというのもどんなものか、、、。ブラッドリーが推理する部分は一部出てくるが、実際どうなのか全くのブラックボックスなのだ。
あのリーダー格のアトラスの上滑りの軽薄さが余計に際立ってしまうではないか。
ホントにこんなことの出来る連中なのか、、、という気持ちが次第に強まり距離感が生まれて来る。
パリから来た男性に、メンバーが次々にイメージを植え付けてゆく過程があったが、少なくともあれくらいの説明がイリュージョン実行までの流れに対して欲しい。
(出来る連中とこちらにしっかり思い込ませるプロットが抜けている。結果だけを単にCGで見せるだけでは、そこで演じる彼らがとても嘘くさく見えてくる)。

Now You See Me004

ということで、最初の異様にスタイリッシュな煽りに惹き込まれ大いに期待して行くが、途中のお得意のカーチェイスなどで気を引くものの、どうにもペラペラな展開にシラケが強くなり、、、何だったんだという虚しさが残る。
こういう映画だからこそ、地にしっかり足を付けている人物が必要ではないか?
皆、抽象的な存在なのだ。
特に“フォー・ホースメン”が誰も、いけ好かない。
黒幕であったローズが何年もかけて周到な計画を練ったとドレイに漏らすが、もしそうだとしても“フォー・ホースメン”とそれこそ周到な打ち合わせをしなければ実現できまい。彼らはそんな立場にない(ローズの意図も正体も知らない)し、暇も余裕もない。
更に、計画を緻密に立てた割に命からがら必死に走って逃げる場面が多すぎはしないか?
カーチェイスでワイルダーを死んだと見せつけるあんな手の込んだトリックをする必要があったのか?

そして極め付けが、FBIの捜査官でありながら、詐欺師集団“フォー・ホースメン”を結成させ、自分の父親の仇を討たせるとは、一体いかがなものか?この姿こそイリュージョンなのかい?
それを最後に聞かされたインターポールのやり手女性捜査官が、「それは知らなかったことにしましょ」とか言って落着である。
あんなに必死で任務遂行に賭けていたはずなのに、この腰砕けは何なのだ?ちょっと親しくなったくらいで、矜持というものがないのか?

Now You See Me002

この女性の存在も半ば謎のままであった、、、ただ極めて綺麗な捜査官ではあった、、、それも怪しい。一体何者だ!
更に余裕綽々の大物2人の扱いである。スポンサーの有力者で大富豪のトレスラーと如何にも引き出しを沢山持っている感じのその道の大家ブラッドリーが、あっけなくハメられて、それまで、というのもどうなのか、、、(大御所に失礼ではないか(爆)。

そして最後の最後に4人に送られたカードを合わせて木の幹に当てるとメリーゴーランドが回り出し、その中にいたローズに「おめでとう、君たちを『ザ・アイ』のメンバーに迎えよう」と言われ4人は「あなただったのか!」と感激する。どうやら4人は『ザ・アイ』(本物の魔術師集団)に入るのが目的で一連の金の巻き上げ(入会の為の試練?)をしていたのか、、、マッキニーは金さえ入ればもう知らないみたいなことを言ってはいたが。
ローズに導かれ皆笑顔で達成感に浸っている、、、あれだけドタバタと犯人を追って来て、このローズのマッチポンプぶり一体何なんだという感じである(怒。
『ザ・アイ』を出すからには続編があるのだろうが、ちょっとねえ、、、。

Now You See Me003

登場人物たちにこれ程、違和感を抱く映画は無かったと思う。


物語、役柄自体が非現実的なのだ。
まさに全てがイリュージョン、、、根も葉もない。



ボーン・アイデンティティー

The Bourne Identity001

The Bourne Identity
2002年

アメリカ

ダグ・リーマン監督
トニー・ギルロイ・ウィリアム・ブレイク・ヘロン脚本
ロバート・ラドラム『暗殺者』原作

マット・デイモン 、、、ジェイソン・ボーン
フランカ・ポテンテ 、、、マリー・クルーツ
クリス・クーパー 、、、テッド・コンクリン
クライヴ・オーウェン 、、、教授
ブライアン・コックス 、、、ウォード・アボット
アドウェール・アキノエ=アグバエ 、、、ニクワナ・ウォンボシ


マット・デイモンは好きな役者なので、これは観ておかないと、、、と思い観てみた。
オデッセイ」では植物学博士がとても似合っていた。あれは良かった、、、。

こちらは、サスペンス・アクション映画か。
このカーチェイス観ると、自分でも何か粋な車に乗ってやってみたくなるではないか!
ミニクーパーでよくあれだけ乗りこなせると感心した(例えスタントが入っているとしても)。
途中で壊れると思ったが最後まで走り切ったのでホッとしたものだ。
わたしはシトロエン2CVあたりでやってみたい(笑。
走り出してすぐ解体かもしれないスリルも味わいながら、、、。
ルパン3世のルノーもいいな、、、。
兎も角、カーチェイスのインパクトがあった。

The Bourne Identity002

この映画全てのアクションがリアルでよい。
最初の海にジェイソン・ボーンが浮かんでおり、漁船に救出されて弾丸をナイフで抜き取られる生々しさからしてそうであるが。
実際あるようなことではないのだが、映像の上でのリアルさがとてもあり、そこにグッと惹きつけられる。
記憶喪失でありながら訳も分からず次々に自分の命を狙って敵が襲ってくる畳み掛けに弛むところがない。
ジェイソンの状況がそのようなものである為、更にスリリングさが増す。

他の凄腕エージェントとの闘いも緊張感と臨場感タップリだ(特に倒したと思った敵が急に背後に直立したときなど観ていて仰け反ったものだ(爆)。
ただほとんどの場合が殴り合いのファイトか出合い頭の銃撃戦が多く、特殊な装置や罠や緻密な策略で相手を倒し唸らせるような場面はなかったように思う。
だが迫力あるダイナミックでスリリングな躍動感は充分に感じられらた。
やはりこのタイプの映画の醍醐味が堪能できる。

The Bourne Identity004
ジェイソン暗殺に送り込まれるエージェントたちも皆、如何にも凄腕のエリートという感じで、キャラが立っていた。

記憶喪失で登場するが、身体はそれまでの全生活史を漏らさず蓄えており、自動(反射)的に外部刺激に対して俊敏に応答~対応する。
考えても自分が何者か思い出せないが、他者との様々な関わりを通して自分のアイデンティティのイメージが浮かび上がって来る。
この過程は確かにそういうものだろう。われわれの生活レベルでもそういった認識場面は確実にある。
そして彼は自分がかなり特別な際どい仕事に携わっていることが分かって来るのだ、、、。

後に知ることになるが、要人暗殺などの目的の為、多額の経費によりCIAによって育成された戦闘員なのだという。
スパイ~諜報員というのは、(冷戦時は特に)各国にいたことは実際に知られているが。
この闇に隠れた政府の陰謀組織みたいな存在が工作員を世界の各地に暗躍させ、他の権力中枢を壊したりコントロールするというような噺はネタとして余りにありきたりではある~まだこの当時は新鮮味があったかも知れないが。
だが携帯とパソコンのアナログモニターはノスタルジックで良かった。
(この雰囲気は好きである。ゾクゾクする(笑)。

ストーリー自体には複雑な事情やハプニングも特になく、丁寧に練られ手堅い演出で一気に畳みかける類のよく出来たドラマであった。
ジェイソンは要人暗殺任務の際、ターゲットが子供3人と一緒に寝ていた為、撃ち殺せず、反対に自分が銃弾二発を喰らい海に落ちてしまい、意識の戻ったときは記憶を失っていたのだ。任務をしくじった工作員は組織に消される運命にあった。

ジェイソンが結果的に巻き込むことになったマリーという存在であるが、やはり足手まといとなる部分は当然あるにしても、彼独りでは出来ない働きもしてくれ、かなりこころ強かったはず。
マリー自身も彼と僅かに接触を持っただけで、自分が見えない権力に見張られ調べ上げられていることに激しく動揺していた。
(このエシュロンの脅威は、やはり幾つもの映画で取り上げられている。「エンド・オブ・バイオレンス」、「デジャヴ」、「エネミー・オブ・アメリカ」、「ワールド・オブ・ライズ」等々)。
女性の協力者~同伴者は、相手からは丸見えで、相手の見えない極めて神経をすり減らす孤独な逃亡にとって大きな支えとなったことが分かる。

The Bourne Identity003
このシーンのみ、緊張感が足りなかった気がする。
生命の危機の場面であるが、何だか妙な余裕が感じられた。

マット・デイモンのマッチョ系作品であるが、他のアクション俳優とは違う繊細な陰りと知性の感じられる雰囲気で一味違うものになっている。
俳優の存在はホントに大きい。
しかしその点で見ると相手役の女優が今一つしっくりこなかった。
マット・デイモンの相手としては存在感がどうにも弱い。
クリス・クーパーは如何にもという感じで、一番のはまり役に思えた。
彼も最後は歯車の一つに過ぎなかったという形であっさり始末されてしまう。その悲哀も充分出ていた。


疲れず見応えも感じられる映画の一つであった。
余りコンディションの良くないときでもワクワクしながら観られる作品である。






ブルーム・オブ・イエスタディ

The Bloom of Yesterday001

Die Blumen von Gestern(The Bloom of Yesterday)
2007年
ドイツ・オーストリア

クリス・クラウス監督・脚本

ラース・アイディンガー、、、トト(ホロコースト研究者)
アデル・エネル、、、ザジ(ホロコースト研究インターン)
ヤン・ヨーゼフ・リーファース、、、バルタザール(トトに対立する同僚)
ハンナー・ヘルツシュプルンク、、、ハンナ(トトの妻)


ホロコースト映画にみられる、シリアスな暗さと湿り気、何より当時を回想した物語の悲惨さや衝撃の類(再現)はない。
そうした定型のドラマ性(それは真摯な制作姿勢かも知れないが)を排している。

アウシュビッツ会議の企画を進めているホロコースト研究者のところに若いインターンの女性がフランスからやってくる。
目的意識は一致するも、彼らは家系から謂えば加害者と犠牲者の関係にあった。
二人は逢った先から大いに揉める。彼女はベンツのガストラックに拘っているが、何の理由でというより、送迎の車が彼女の情緒不安定な攻撃性のトリガーになったに過ぎない。兎も角、常時何かにつけ過剰な反応を示す(爆発する)。
自分の祖父がナチスの党員であった事実や自分のユダヤ人の祖母がナチスに殺された事実が自らのルーツとして彼らを病的に苦しめて来ていることが窺える。
それにより思想以前に身体的苦痛に苛まれている。
トトにしても、自分が研究の中心から外されたことに腹を立てバルタザールと大喧嘩になり、その最中、彼らの敬愛する教授が死んでしまう(この暴力性は耐性の低さだけでなく性的な歪みも見て取れる。非常に性的レトリックを多用した罵り合いなのだ)。
これはほぼ、アイロニカルでコミカルなドタバタ劇スレスレを行っている。

情緒不安、暴力(攻撃)性、インポテンツ、脱毛、繰り返すリストカット(自殺未遂)、等々、、、。
更に(特異な)性衝動にも顕著にあらわれてくる。
それも両極端な形で。
片や不能となり妻にさえ他の男を紹介するまでに至っており、黒人の女の子を養子に迎えている。インターン女性の方は、逆に性に対し非常に奔放であり、ドイツに来るなり、トトと強く対立するバルタザールといつの間にか関係を持っている。
(これにはわたしも驚いた)。

トトは自分の家系がナチス党員であっただけで、彼は17歳の時それに気づき脱党している。だが家族のしたことに対する罪の意識は強く、その為に研究家となったが、如何せん関係書籍を読み漁り歴史書を書くだけでは一向に苦痛~罪悪感は癒えない。その出口なしの閉塞感はトトにもザジにもあり彼らの不安定と暴力衝動または自傷(自殺)衝動にも繋がり、性的メカニズムにも深く刻まれ、違う形にせよ(苦痛を伴う様態)で表出して来るのか。
何れにせよ、ホロコーストのような陰惨な歴史のトラウマが性衝動に対して深い影響を与え得ることが窺える。
(少なくともこの映画はそれを強く訴えている)。

Adèle Haenel001  Adèle Haenel002

午後8時の訪問者」の物静かで内省的な医師を演じていたアデル・エネルがここではアグレッシブで壊れかけた研究者となっている。
かなり危うい。
車に乗っている最中口論となり、咄嗟に犬を外に放り投げてしまう。
そういう基調だ。これは常軌を逸している。
犬(ガンジーという教授が飼っていた犬)もたまったものではない。

The Bloom of Yesterday002

後半、ザジの持っているアルバムでトトの祖父と彼女の祖母が同じクラスであった事が明かされる。
実はそれを知った上で、祖母を殺した人間について調べるためにザジは、トトのの元に来たのであった。
だが、それによって二人が親密になり、関係も持つ。
きっと子供が出来たという霊感が働き、その子の名前を「カルミナ」にしようと決める(半ば冗談ではあるが真剣に)。

二人が結ばれるかという時にそれを察知したバルタザールの妨害工作が入る。
彼はナチス戦犯のトトの兄について調べ上げていた。
その件をザジにわざわざ知らせるのだ。
周囲がこの調子であり嫌気もさし、彼女はトトの今後の研究生活のことも考え彼の前から消える。
(バルタザールのような同僚と共同研究は到底無理であろう。トトはアメリカに拠点を移し人種融合研究所で同様のジェノサイド等、先住民虐殺の歴史研究をする)。

The Bloom of Yesterday003

5年後、二人は賑わうクリスマスのデパートで偶然再会する。
彼の養女も大きく育っており、ザジにも子供がいた。
彼女はトトにモーリスよ、と男の子で3歳だと騙ってその場を離れる。
だが、その様子を見た彼の娘が、「あの子は女の子よ、酷いわ。カルミナって呼んでたわよ」と知らせる。
目を丸くして、ザジの向かった方向を見据え、トトが今にも飛び出そうというところで、エンドロールとなる、上手い終わり方だ。

ラース・アイディンガーとアデル・エネルの名演であった。
最初は随分と煩い落ち着かない話だと思い、生理的にきつかったが、後半からグイグイと惹き込まれた。
これはある意味、ラブコメディでもある。
かなり重くて病んだ、しかし真摯な恋愛ドラマとも謂えることは間違いない。


トラウマが性に与える影響の大きさを考えさせる映画でもあった。
性は生命に直結する根源的な衝動でもあり生を支えるエネルギーである。
(であるから、意識的コントロールが出来ない)。
それが破壊~失調することはパーソナリティや生命力にも強く響いてくるはず。
勿論、恋愛にも。
その角度からの切込みである。

数あるホロコースト映画のなかでも、特筆に値する作品だと思う。





X-MEN: ファイナル ディシジョン

XMenThe Last Stand001

X-Men: The Last Stand

2006年
アメリカ

ブレット・ラトナー監督

ヒュー・ジャックマン 、、、ウルヴァリン
ハル・ベリー 、、、ストーム
パトリック・スチュワート 、、、プロフェッサーX(エグゼビア)
ジェームズ・マースデン 、、、スコット・サマーズ(サイクロップス)
ファムケ・ヤンセン 、、、フェニックス=ジーン・グレイ(フェニックス)
イアン・マッケラン 、、、、エリック・マグナス・レーンシャー(マグニートー)
レベッカ・ローミン 、、、、ミスティーク
アンナ・パキン 、、、マリー・ダンキャント(ローグ)
ケルシー・グラマー、、、ヘンリー“ハンク”・マッコイ(ビースト)
ショーン・アシュモア 、、、アイスマン
エレン・ペイジ 、、、キティ・プライド
アーロン・スタンフォード 、、、パイロ
ダニエル・クドモア 、、、ピーター・ラスプーチン(コロッサス)
ヴィニー・ジョーンズ 、、、ジャガーノート
ベン・フォスター、、、ウォーレン・ワージントン三世(エンジェル)

シリーズ第3弾である。第2弾が手に入らなかったので、一つ飛ばした。
これは、良かった。
「猿の惑星」シリーズなみに惹き込まれた。
抑圧を受ける側が多数派に対してどのようなスタンスをとり得るか、その苦悩と葛藤が様々なレベルで描かれる。
特に今回は、ミュータントを人間にしてしまう特効薬が開発され、ミュータントとしてそのままでいるか人間として生きるかを選択できることになる。特殊な能力を持つミュータントは人間にとって潜在的な脅威であることに間違いない。
その人間側の無力化して統制しようという意図と自らのプライドから多くのミュータントは程度の差こそあれ反撥する。
最も強硬な姿勢で全面対決を図ろうとするブラザーフッドから人間との融和を求め人間側に立ってそれを阻もうとするX-Menたちを両極とし、その間に様々な温度差の派閥が存在するという構図か。

XMenThe Last Stand006

ジーンが第2話で死んだそうだが、ここで生き返る。
途轍もない潜在能力をもっていたことが判明するが、それをコントロールできず大変なことが起きる。
何とX-Men統率者であり学園(若い能力の高いミュータントを匿う隠家)の長でもあるエグゼビアを殺害してしまうのだ。
その前に恋人でもあったスコットも制御不能な力の奔流で殺してしまっている(X-Menのリーダー格である)。
これまでプロフェッサーXの右腕を務めて来た彼女がである。
ウルヴァリン達にとっては、とんでもない打撃である。
エグゼビアの後任にはストームが就く。

XMenThe Last Stand005

一方、人間は今度は、「ミュータントは病だ」と定義して彼らを人間にしてしまう薬を作り出してしまう。
ミュータント省のハンクもこれには動揺する。これにはミュータント社会が揺れ動いた。
本気で怒るミュータントが出てきて当然だが、その新薬”Cure”に飛びつくミュータントもいる。
触れるものの生命力を奪ってしまうマリーは学園を抜け出て自ら投薬を受けに行く。
確かにその特性次第では、能力はない方が穏やかで自分の望む生活が送れる者もいるのだ。
しかし、ミュータントの中では、それが希望者ではなく体制的権力により全的投与となることを危惧する者たちが増えてゆく。
薬の発明者の息子もミュータントに覚醒しており、父の薬を投与される最初のミュータントになるはずであったが、それを断りビルのガラスを突き破り、空を白い翼をひろげて飛び去る。この様は象徴的な光景でもあった。彼は学園に助けを求めてやって来た「エンジェル」である。

XMenThe Last Stand004

そしてマグニートーことエリックは、ブラザーフッドというミュータントの過激組織を率いて新薬の使用を阻止するために実力行使に出る。その為に最終兵器として、潜在能力を覚醒させ強大な破壊力を発揮するジーンを組織下に引き入れる。
更に新薬の生成の鍵となる少年ミュータントを保護施設から奪い、薬の生成を根絶しようとする。

特殊能力のぶつかり合う闘いが始まる。特にミュータントに操られないよう全ての銃器をプラスチックにして戦う工夫は面白かったが、闘い方の単調さで簡単に覆されてしまう。作戦が人間側は些か弱いのだ。

XMenThe Last Stand003

今回のミュータント・キャラはどれもビビットで彼らが個々に繰り出す力も多様で見栄えがある。
シーンの細かい絡みが感じられた。
噺は格段に面白くなっている。
しかしエリックが念力でゴールデンゲートブリッジを持ち上げて架け替えてしまうのには呆れた。
あれだけ出来るなら一人でやりなさいと言う感じである。
火と氷の対決などもう少しやりあって欲しいところもあったが、、、
エレン・ペイジ演じるキティが壁や床をすり抜けるだけで、凶暴極まりないジャガーノートを倒すところなど可愛らしい。
エレン自身のちょっと儚げなオーラによるところも大きいが。

XMenThe Last Stand002

彼女が救出する少年と暴走するジーンの動向を巡って展開するストーリーとなっていた。
結局は自らの感情、力を(無意識下の能力も含め)如何にして自らのものとできるか、が双方に求めれられていたと謂える。
あらゆる法を超えた叡智が求められる。


ウルヴァリンがこの闘いの最後の決着をつける。
そしてその後、この世界はどう展開して行くのか、、、それはまだまだという感じで終わる。


イアン・マッケランとパトリック・スチュワートにエレン・ペイジの存在感が際立っていた。





X-メン

X-MEN001.jpg

X-MEN
2000年
アメリカ

ブライアン・シンガー監督・原案
デヴィッド・ヘイター脚本
トム・デサント原案

ヒュー・ジャックマン 、、、ローガン(ウルヴァリン)
パトリック・スチュワート 、、、プロフェッサーX(チャールズ・エグゼビア)
イアン・マッケラン 、、、マグニートー
ファムケ・ヤンセン 、、、ジーン・グレイ
ジェームズ・マースデン 、、、スコット(サイクロプス)
タイラー・メイン 、、、セイバートゥース
アンナ・パキン 、、、マリー(ローグ)
ハル・ベリー 、、、ストーム
レベッカ・ローミン=ステイモス 、、、ミスティーク
ブルース・デイヴィソン 、、、ケリー上院議員
レイ・パーク 、、、トード


かの傑作「ユージュアル・サスペクツ」の監督である。
あれは凄い映画であった。ケヴィン・スペイシーの存在感も異様な程のものであったが、噺それ自体が大変面白かった。
ジャックと天空の巨人」の監督でもある。何というかこちらに近い作品であろうか。「ジャック、、、」の鬼気迫るド迫力も極めて印象的であった。
ハル・ベリーにとってはアカデミー主演女優賞を貰う一年前の作品である。
こういう戦隊モノ女子みたいな役をやっていて、いきなり翌年のあの重厚な「チョコレート」である。
役次第だな、とはつくづく思う。「チョコレート」も胸に焼きつく作品であった。その後、「キャットウーマン」をやってしまうが、、、。
やはり役次第だ(爆。
(尚、戦隊モノ女子の映画で最も面白いのは邦画の「女子ーズ」であろう。関係ないが)。

さてこれは、端から特殊で荒唐無稽な設定で進行してゆく。
アメコミ原作らしい勢いが感じられ、分かり易くシンプルでテンポがよい。
大雑把で些か乱暴な展開ではあるが、気楽に観られることが何より助かる。
まとまった時間が取れないときでも、細切れで観ても繋がる。

だが、「ユージュアル・サスペクツ」から見て大きく異なる。
同じ監督とは思えない。作風とか展開の緻密さなど、質的レベルで、、、。
やはり脚本の違いであろう。脚本で決まる部分は大きいと思う。

勿論、原作から謂えば、この作品で正解であり、他にどう作るのかという映画ではある。
それぞれのミュータントが特殊能力を発揮して闘うものの走りであろうか。
今見るとその特技の面白味や新鮮味は然程感じられないが、その能力によって幼少時から差別の対象となり(危険視され)、理不尽な扱いを受け(迫害され)社会問題となっている状況に関しては頷ける。
違いを恐れ忌み嫌う世の中は変わらない。これは普遍のテーマでもある。
特にマリー(ローグ)の人に触れるとその身体から生命力を奪ってしまう能力というのは、自他ともに不幸にするリスクの高い厳しい個性であり境遇となろう。

まず思想的には、普通の人間対ミュータントとしてあくまでも闘いを表明しているミュータント差別派の人間と人間を徹底して敵視しているミュータントであるマグニート派の対立。そしてミュータントを受け容れようとする人間と人間との融和を図ろうとするプロフェッサーX率いるミュータントとの存在に分かれる。
明らかにプロフェッサーX側は人間全般を尊重し守る立場をとっているが、人間側はマグニートとそうでないミュータントを分けて考えている者は少ないようだ。
実際の闘いが起きるとその破壊力から揃って人間はミュータント全てに対する防衛、抵抗姿勢を固める。
基本、マイノリティ対マジョリティの構図となろう。
闘いの場では恐らくプロフェッサーX側の負担と消耗は大きいと想われる。


どこかで読んだが、プロフェッサーXがキング牧師で、マグニートがマルコムXとか書いてあった。
イメージ的にそうかも知れない。マグニートは物語冒頭で少年時代ホロコーストを経験した生存者でもある。
但しマルコムXは暗殺されるまで暴力運動に出たことは一切ない。
キング牧師は暗殺前は、マルコムXのように過激な言動をとっていたようである。ここは微妙である。

自らの種族の解放といっても、原体験による立場から勢力は異なる形に分かれるものだ。
(これは「猿の惑星」でもみられるように。アメリカの公民権運動のメタファーは無意識的にも窺える)。

基本、登場人物がどのような能力をもっており、それをどのように魅せてゆくか、で楽しませる映画である。
しかし、このX-MEN、然程チームとしてまとまりはない感じであったが。
”ウルヴァリン”でよいような気がする。
なかなかインパクトのあるルックスでもあり。

兎も角、シリーズモノである。
続編も機会があれば観ておきたい。
一作としての面白さと見応えは、断然「ユージュアル・サスペクツ」であり、迫力とスケールと緊張感では、断然「ジャックと天空の巨人」であるが、この映画なりの面白さは、ある。






ひまわり

I Girasoli 001

I Girasoli
1970年
イタリア

ヴィットリオ・デ・シーカ監督
ヘンリー・マンシーニ音楽

ソフィア・ローレン 、、ジョバンナ
マルチェロ・マストロヤンニ 、、、アントニオ
リュドミラ・サベリーエワ 、、、マーシャ
アンナ・カレナ 、、、アントニオの母


ひまわりの花だけは覚えている。
当時観たときもとても物悲しいひまわりであった。
一面のひまわり畑にヘンリー・マンシーニの音楽だけで十分に泣ける。
このテーマ、、、

「戦争と平和」のナターシャを演じたリュドミラ・サベリーエワがアントニオの異郷の若き妻。
とても慎ましく優しい一途な女性である。
更にお転婆で可愛い娘もいた、、、。
アントニオの写真を差し出すジョバンナ。
受け取るマーシャも全てを察知してしまう。
しかし、ふたりとも肝心なことは決して口にはしない。
出来るはずもない。

絶対にアントニオの死を認めなかったジョバンナの強固な信念がへし折れる。
彼の死より残酷な認め難い事実の前に。

I Girasoli 003

戦争で愛する二人が引き裂かれ、女は只管男の帰還を待ち、男は過酷極まりない戦地を彷徨うも極寒の真白い雪に力尽き倒れ込んでしまう。死を覚悟し友にも別れを告げた。
しかし異郷の地の女性に瀕死の状況から助け出され、男は彼女に救いの全てを求める。

「記憶」~アイデンティティより「生きたい」という根源的欲望の発動を誰が責めることができようか。
残されたナポリの女は男の生存を信じ続けて出征したシベリアまで独り探しに行く。
そして夫の現在の姿を知ってしまう。
戻れない立場の男と、再会を果たしてしまう。
自分の信念の通り男は生きていたのであったが、、、。
これを喜べるのか、、、この再会は幸運なのか、、、。

彼女は汽車に飛び乗り号泣しながらナポリに帰る。
数年後、出征時に約束した毛皮のマフラーを持って男はイタリアを訪れる。
何とか彼女の現在の住まいを突き止めるが、すでに彼女も所帯を持っていた。
そしてお互いの愛情は再燃するが、隣の部屋から赤ん坊の泣き声がする。

「名前は、、、?」
「アントニオ」
「アントニオ、、、俺の名前か?」
「いいえ、聖者の名前よ」

、、、極まる、、、。

前半の如何にもイタリア人らしい天真爛漫で明るくはしゃぐジョバンナとアントニオの軽さを基調とした物語の流れが、アントニオの出征を境に一変する。
戦地は極寒のシベリアである。
そこで多くのロシア、イタリア、ドイツ兵、敵も味方もなく多くの民間人(女、子供)も殺され埋められてゆく。

やがて、その上には無数のヒマワリが無情に咲き誇る。
それは地平線上まで覆い隠して。
全てを埋め尽くすのだ。
何もなかったかのように。

I Girasoli 002

新たな生が反復する。


美しい詩のようなフィルムであった。





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モディリアーニ 真実の愛

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            Amedeo Modigliani
Modigliani
2005年
アメリカ、フランス、ドイツ、ルーマニア、イギリス

ミック・デイヴィス監督・脚本

アンディ・ガルシア 、、、アメデオ・モディリアーニ
エルザ・ジルベルスタイン 、、、ジャンヌ・エビュテルヌ
イポリット・ジラルド 、、、モーリス・ユトリロ
オミッド・ジャリリ 、、、パブロ・ピカソ
エヴァ・ヘルツィゴヴァ 、、、オルガ
ウド・キア 、、、マックス・ジャコブ
ランス・ヘンリクセン 、、、フォスター・ケイン
ピーター・キャパルディ 、、、ジャン・コクトー
ミリアム・マーゴリーズ 、、、ガルトルード・スタイン
スージー・エイミー 、、、ベアトリス・ヘイスティングス


構図、色調全てが絵的に美しい。
アメリカ人の監督の為か、間違ってもフランス~イタリア的な質や雰囲気はない。
皆、マッチョな感じだ。芸術家たちというより自由自堕落で奔放なボヘミアンといった感じか、、、。

最初に、全ては自由に脚色されたフィクションだとことわっている。
それでよいと思う。
創作であるが、概ねこんな感じであっただろうな、とは推察する。
フィクションであることにより、極めて印象深くものの本質に迫ることの出来る場合も多い。
SFなどそこを基本形式とする。

モディリアーニがこれ程、無軌道でアル中でも友人たちに愛されていたのか。
ライバルのピカソからも。
モディリアーニとピカソはこんなに面白いやりとりをしていたのか。
この物語はモディリアーニとピカソの対立を通して描かれてゆく。
「わたしと君との違いは成功しているか、そうでないか」、だ。
まさにその通りだ。
そんな嫌味を言い合ったり喧嘩を売ったり買ったりしながらもふたりで車に乗ってルノワールに逢いに行ったりしている。
こんな奇妙な友情もあるだろう。お互いに相手の才能を深く認め合っているからだ。
何れにせよ、強烈な個性が他者に与える影響力というものを考えさせられる。
前提として何か確かなもの~作品を創造していることが肝心なことなのだ。
それが無ければ、彼らの集まりなど不良親父の集会にもならない。

貧困、肺結核、アルコール依存、薬物、不摂生、自堕落、奔放、傲慢、、、
単語だけで挙げてゆくと、単に困った人みたいになってしまうが、、、ジャン・コクトーやガルトルード・スタインが見守るこの共同体は面白いし憧れるところは大きい。

わたしも子育てしつつ、出来る範囲で自堕落に過ごしているが、限度はある。
早寝早起きは基本であり、子供と一緒に少なくとも朝食・夕食はしっかり栄養バランスを考えて食べなければならない。
掃除・洗濯は手早く済ませ、買い物は好きな方なので少し時間はかけるが、、、。
宿題やピアノの練習も監督して定時に寝かせたうえでのボヘミアン生活である。
ホントに気持ちだけボヘミアンを寝る前に試みている状況だ。
とは言えその時間帯にブログも書いているから、、、ほとんど普通の生活ではないか(怒。

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Gertrude Stein

しかし、他の破滅的天才画家の映画と比べ、どうも出て来る人々に芸術的繊細さや香りが感じられない。
ガルトルード・スタインが余りにわたしの印象と違い笑ってしまった。
ただの太った世話好きなおばちゃんかい。これは流石に「ミッドナイト・イン・パリ」のガルトルード・スタインの方が理知的だ。それにも不満はあるが、ここの彼女よりましだ。
ピカソも少し小太り成金過ぎはしないか、、、モディリアーニとの対比を強くするためか、、、。
モディリアーニは確かにイケメンであったが、若い頃のピカソも精悍な面立ちの男である。
兎も角、ガルトルード・スタインのサロンでの藝術談義や論争など少しはあってもよい。
ジャン・コクトーも折角出ているのだし(ここに彼がいなかったら不自然だ)。
その辺がまるでないというのも奇異な感じがする。
それからモディリアーニの彫刻である。この彫刻制作から彼独特の単純化された力強いフォルムが生成されている。
体力の問題もあり彫刻自体の制作からは離れるが、身近にもう少し彫刻の気配があってもよい。

後半モディリアーニとピカソが睨み合いながらコンペ参加の記名をするスリリングな場面など、西部劇だ。
その時の会場の拍手と歓声もやはり西部劇のそれだ、、、。
その後のスーチンやユトリロ、リベラ、展覧会に参加するたちの制作風景もまるでボクシングの練習みたいなノリだ。
ロッキーかい、と思わず言いたくなる。
何でこうなるのという感じもするが、監督がマッチョ派なのだろう。
フランスかイタリア映画ではまずこうはなるまい。
できれば、藤田嗣治も出して欲しかった。彼も大事な友達の一人である。

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            Jeanne Hébuterne

妻のジャンヌがまさにモディリアーニの絵の女性そのものであった。
個性的であるが、とても美しかった。
よくこの女優を選んだと思う。
モディリアーニとジャンヌは確かに見た目はしっくりしていた。
後は監督・脚本であるが、この人の趣味の問題なのであろう。

では面白くなかったかと謂えば、不思議に残るもののある映画であった。
もしかしたらエルザ・ジルベルスタイン効果かも知れない。
「モディリアーニの絵」そのものなのだ。
そして終盤の場面~収束である。

展示会最後のピカソも絶賛した彼女の肖像に「瞳」が描かれていたのには、あのコンテクストにあって思わず感動してしまった。
彼の愛のかたちがそこに収斂したのだ。
この作品だけが厳密に謂えば「肖像画」であったかも知れない。
他の裸体像や瞳の無い像は、純粋に造形~フォルムを極める方向性しか持ち得ない。
ジャンヌはその絵に彼の「真実の愛」を観たのだ。


そう、何でも終わりが肝心なのである。
まさに「画竜点睛」以外の何ものでもない。
余りに悲しいエンディングとは謂え、、、。





ジェーン

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Jane Got a Gun
2016年
アメリカ

ギャヴィン・オコナー監督

ナタリー・ポートマン 、、、ジェーン・ハモンド、製作
ジョエル・エドガートン 、、、ダン・フロスト(昔の婚約者)、脚本
ノア・エメリッヒ 、、、ビル・“ハム”・ハモンド(夫)
ロドリゴ・サントロ 、、、フィッチャム
ボイド・ホルブルック 、、、ヴィック・ビショップ
ユアン・マクレガー 、、、ジョン・ビショップ(ならず者のボス)

「ジェーン」というシンプルな邦題に違和感を少し覚える。
原題が”Jane Got a Gun”なのだから普通ならまたごてごてとした文句を並べるところかと思うところだが、、、。
わたしとしては、「ジェーン」でよかった。ブログの題に書くのも楽だし。
ジェーンという女性を主人公とした西部劇である。ナタリー・ポートマンが製作に関わっている。
(「水曜日のエミリア」でも彼女は製作総指揮に携わっていた)。


ナタリー・ポートマン繋がりで観てみたのだが、、、この女優~ヒトはともかく一通り何でもやってみたいのだろう。
ではSFは、、、というとまさか、「Vフォー・ヴェンデッタ」か?それは違うと思うが、あれも大変な力演であった。
やはり完璧という幻想に呑み込まれて破滅してゆく悪夢の「ブラック・スワン」には圧倒されるばかりであったが、、、。これが一番凄かったとは謂える。
それで今度は「西部劇」である。何でも「完璧」にできる女優なのだ。
(女優とはそうしたものなのだろう。クロエ・グレース・モレッツが「キャリー」をやってしまうのも驚くが、、、自分と真逆のパーソナリティもやってみたいというのも女優としての表現意欲からくる必然なのか)。

ユアン・マクレガーがならず者のボスとは知らなかった。
しかし何で、という感じであった。
勿論、これまでにも奥の深い悪役は、「天使と悪魔」のカメルレンゴなどで見事に演じていた。
(わたしはあの役のユアン・マクレガーが一番好きだ)。
それから見ると随分見掛け倒しのイマイチ悪玉親分であった。
最近あまり良い役やっていない気がするが大丈夫か、、、。それに体調も。
T2 トレインスポッティング」を観て余計に心配になった(急に年老いたみたいな感じで)。

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絵の綺麗な映画である。
何気ない場面~室内でジェーンが水を水筒に入れているような光景もバロック期オランダの室内画家の雰囲気を忍ばせている
。光の取り入れ方がよい。
それからこの映画も、最近観る映画がことごとくそうなのだが、回想と今現在の時制が交互に絡む手法である。
とても自然な心象風景として織り交ざって展開するので、違和感はない。
かつての恋人であり婚約者と気球に乗って空を舞うシーンも非常に美化された形でロマンチックに描かれる。
しかし「ずっと気球に乗っていたいの」はちょっとね、、、単なる現実逃避に受け取れるが。
そういう女性でもあるところを表しているものか。
単に男勝りで強いばかりではなく、神経質になったり怒ったり、弱気になったり怯えたりする揺れを見せる。
所謂、スーパーウーマンではない。
拳銃よりも狩の為に使うライフルの方が上手い女性なのだ。

ならず者に追われ、家を突き止められたジェーンは、瀕死の(ならず者に撃たれた)夫と家を守る為、何と昔出征して戻ってこなかったために捨てたかつての婚約者に助けを求める。
(幼いハモンドとの間に出来た娘は友達のところに預けているが、彼との子供はビショップ一家に殺された)。
ダンは南北戦争で手柄を立てた英雄ではあるが、多勢に̥無勢である。
ここは、手前の庭に穴を掘って地雷みたいな仕掛けを作り、その炸裂によりほとんどの勢力を削ぐ。
その後は、生き残りのと死闘となるが、その間に夫のハモンドは外傷が元で絶命してしまう。

Jane Got a Gun001

特にわたしがほっとしたシーンは、どんでん返しの件である。
これはスリリングでもショッキングでもないが、決して小さくないどんでん返しであった。
ビショップが「待て、まだお前の娘は生きている!本当だ」と言って命乞いをするが、ジェーンとダンの二人で「この嘘つきめ!」と罵り、取り敢えず「何処にいるのよ?」、と聞くと「お前が以前働いていた売春宿だ」と答えるも、二人にハチの巣にされて絶命となる。どうせ出任せの嘘だろうと思いながらもそこに行ってみると成長した娘が洗濯の下働きをしているではないか。
これがジェーンたちにとっての一番のサプライズであったはずである。
死んだと思っていたダンとの間に出来た娘が生きており、賞金も保安官からゴッソリ頂き、二人の娘と昔の恋人と共に遠くに(カリフォルニア)に旅立つというハッピーエンドである。西部劇はハッピーエンドの快感がなければ見る気になれない。こうでなければ、というエンディングであった。

ジェーンはずっと自分の娘を殺した ビショップを憎んできた、、、だとすると生かして育てさせてきた親分をそうも虫けらのように殺さなくとも、と思う面もあるが、夫を殺されたのだから仕方ないか。賞金も掛かっているし。
このビショップは何か詰めの甘いボスであり、ダンの背後を取りながら撃ち殺さず、「ジェーンは何処だ」などと、すぐ近くにいることは当たり前なのに訊ねたりしている。要するに妙に余裕をもっていて隙だらけでちょっと人が良いのだ。(悪い奴とは言え)。


荷台にはどっしりと金を積み込み、4人で前途洋々の旅立ちである。
一番ちゃっかりしているのは、ジェーンだったりして。
明らかに勝ち組の彼らであった、、、。






ジャッキー ファーストレディ最後の使命

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Jackie
2016年
アメリカ

パブロ・ラライン監督
ノア・オッペンハイム脚本
ミカ・レヴィ音楽

ナタリー・ポートマン 、、、ジャクリーン・ケネディ(ジャッキー)
ピーター・サースガード 、、、ロバート・F・ケネディ(ボビー)
グレタ・ガーウィグ 、、、ナンシー・タッカーマン
リチャード・E・グラント 、、、ビル・ウォルトン
ビリー・クラダップ 、、、ジャーナリスト
ジョン・ハート 、、、神父

テキサス州 ダラスで外遊中のJFKが1963年11月22日に後方からの狙撃により暗殺された。
それから4日間のケネディ夫人の物語である。

JFK暗殺はいまだに未解決のままだ。
様々な議論を呼んだものだが、オズワルド単独犯で直ぐに口封じのように殺され背景も何もないということで収まってしまっている。
(2017年10月26日に「ジョン・F・ケネディ元大統領暗殺事件に関する機密文書」の公開がトランプ大統領によって約束された。3000以上の公開文書の精査が進んでいるというが、新事実が幾つもあがっているようだ。そもそも隠されてきたこと自体が問題であろうが)。

ここでは、ジャクリーン・ケネディの視座からJFKを失った妻としてのこころの内が静かに鬼気迫る強度で明かされてゆく。


ジャッキーの取り仕切ったホワイトハウスの改修とその紹介番組の白黒TV画像と、JFK暗殺後の回想を交えた記者のインタビューに応える場面を交互に見せることで展開する。
記者との記事を巡る会話はかなりの緊張感ある駆け引きとも言えるものであった。
記者としては当然、世間受けする面白く興味を引く話としたい。だがジャッキーはそれを許さない。

映像の趣向は画質も含めかなり凝っていた。
その1960年代が、ファッション、車、飛行機、TVなどに感じとれるものだ。
実際の銃弾を受けたケネディの頭部とジャッキーの取り乱す姿がリアルに映されているところはショッキングであった。
(白黒の引いた映像はニュース番組で観ているが)。

ジャッキーのその時々の内面を表す強烈な印象の顔アップが連なる。
顔のみで場面を繋いでいるようなところもあった。この演技は特筆もの。
音楽もとても映像のコンテクストにフィットしている。
特に静かに神の不在に憤るジャッキーの心理に沿った音の流れはそのロケーションと共に感じるものは大きかった。

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血痕が飛び散ったピンクのスーツでケネディの死体と共に空港に降り立つ。
実際、車に乗ったまま、頭を撃ち抜かれた夫を膝に抱き脳と血の溢れ出るのを抑えながら走り続けるその「時間」とは、どんなものであろうか、、、!

リンカーン大統領と同様の壮麗な葬儀を行うことにする。
8ブロックもある長い大通りを馬を連ねて棺と共に静かに行進するのだ。他の要人、各国の参列者たちと共に。
ケネディ大統領(ケネディ家)は、謂わば王室のないアメリカにおいてそれに代わる位置(象徴的な意味)も占めていた。
しかし彼女は、容疑者のオズワルドがすぐに暗殺され、一度は参列者や周囲の安全の為、車で厳かに葬儀場へ移動することに変更する。だがその直後にやはり取り消す。
夫の最後の大舞台なのだ。それは葬儀次第で決まる。
ファーストレディとしての最後の使命を果たさなければならない。
邦題そのままであるが、その通りだと思う。
(多分にジャッキー自身のプライドの問題でもあろう)。

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悲しみと苦悩と葛藤と重圧がどれ程のものか想像など出来ない。
しかも立場上、すぐにホワイトハウスを引き渡さなければならない。
暗殺された大統領の夫人の辿る道は過去の例を見ても非常に過酷なもののようである。
決意と覚悟を夫の死後、すぐにしなければならなかった。
参列者、招待者、葬儀の形式の決定からその他、多くのやらねばならぬ差し迫る仕事、、、。
一般の家庭の主婦などからみるとどれ程、多くの責任ある仕事を急かされることか。
死者~夫を偲んでいる余裕など与えられない。
それにしても、棺と共に歩くことが、極めて危険な儀式~行動でもあるのだ。
確かにいつどこから狙撃されるかも知れない、アメリカという国なのだということを改めて実感した。

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「あの時、誰かに撃って欲しかった。そして、夫のところに自分も行ければ幸せだろうと思った」
と神父に語る。
そして彼女は神父にだけ、「他人には何も覚えていないと言っていたが、私はその場面を鮮明に覚えている」と伝える。
ナタリー・ポートマンは決して感情を顕にして激しく訴えたりしないが、静かに運命、神に対する強い憤り~抗議をする。

神父のジョン・ハートは、全ては神の愛によるもの。罰ではない。神の御心はわれわれには計り知れない、、、に終始する。
こう言ってしまえば、それまでだ。
神父なのだから仕方はないにしても、、、。

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ジャッキーのような立場でなくとも、誰でもこのような不条理に直面する。
これから見れば、些細に思える事でも。

わたしは、その時、宗教に頼る気持ちは微塵もない。
(しかし、神と措定するしかない何者かの存在は、宇宙論の「人間原理」などをみても感じざるを得ない)。


ジョン・ハートと謂えば、「コンタクト」、「エイリアン」ではないか。
何れもSFの大傑作である。
(またSF観たくなった、、、勿論見応えのあるSFだが、、、)。





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遠くの公園

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「登ってみてえな~っ」と言って見上げている若いお父さんがいたが、気持ちは分かる。
ボルダリングとかが流行っているし、その感覚で見れば、まさに手足を引っかける手ごろな凹凸でもあれば絶妙な「面」であろう。
わたしには、そんな感覚はないが、見るだけで快感を覚えてしまうロケーションではあった。


少し遠くの公園に行ってみた。
いつもの公園の4倍ほどの距離にある。
(同じ公園ばかりでは、ちょっと寂しい感じがしたのだ)。
山々が背景に聳える小高い丘に広がる場所だ。でっかいダムもある。
道路は広く整備されているが、上に登るカーブは激しい。運転は面白い(笑、が長女が酔わないように気を付けなければならない。
昼頃の時間に行くと渋滞や駐車場で大変な目に逢うはずなので、朝公園が開く5分前到着を狙って家を出た。

高校時代、この地区からわたしの通う高校にバス、電車で来ている友人が何人かいた。
片道、2時間半である(それ以上か、、、)。
でもそういう人ほど、休まない。
ほとんどが「皆勤賞」だったと思う。
皆、真面目で勉強熱心な生徒であったし。
そんなことを思い出した。

丁度、門の開く5分前に駐車場に並ぶ自動車の列に並び、楽々駐車である。
600台以上停められる場所なので、このタイミングで来れば心配ない。
ただし昼頃着いたら危ない。
(休日の公園はどこもそうだ。いつも行く近くの公園も5つ大駐車場があっても空いていないことがある)。

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いつもの公園と違い、高低差が激しい。
平らに広がる面を歩くのではなく、登り降りなのだ。
見下ろしたり見上げたりのロケーションを愉しむ。
その空間の深みのスケールは普段味わえない。
暫くボーっと眺めいってしまう。

ほとんどは汽車型のバス?やエレベーターで移動するので、あまり階段やスローブの辛さはない。
勿論、階段派も充分愉しめるのだが、わたしたちが使わないだけである(笑。
ともかく広いので、ハイキングの感覚で運動にもなる。
わたしたちは運動と謂うより、気晴らし目的といった方がよい。
風は時折強く吹き、ベンチに座ってスマフォ弄っているお父さんの頭部に飛んできたテントが直撃したりしていた。
家族用の小さなテントが夥しい数あちこちにあったが、テントの設置技術~マナーが問われるところでもある。

川(人工の池みたいなところ)があって、子供で賑わいほとんどが水着でキャーキャー遊んでいた。
うちは何故か、よりによってふたりが足に怪我をしていて、水に入るどころではない。
次女など左足はギブスに包帯なのだ。
それでも、その近くに並ぶ巨大な白いトランポリンに飛び乗る。
これはしかたない。
目にしたとたん吸い寄せられてしまったのだ(爆。
これを始めると、なかなかやめられない。
あのピョンピョン跳ねる上下動が心地よいのか、いつまでもやっている。
(これは待つ方には、いささか退屈である)。

竹をばちで叩いたりするのも不思議にのめり込む。暫くふたりでユニゾンを愉しんでいた(笑。
工芸作品の製作体験コースやその工房で作った椅子や机を売っていた。
どうやって麓の駐車場まで運ぶのかは知らないが。
やはりそこで作られた和紙の灯篭が幾つも灯っていて、その涼し気な薄闇のなかでスナップを撮った。
売店では弁当を売っているが、公園でのお昼はお弁当持参と決めている。
(タコウインナーがなかったら一大事ではないか)。

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ここは水の公園と言ってよい。なかなか風情を感じる小さな滝もある。
遊具(アスレチック)はあるが混んでしまって充分に遊びにくいし、並ぶのもメンドクサイ。
(運動会の親子種目みたいに親子でやらないと出来ないものもあるが、あっという間にゴールで終わってしまうのだ)。
それよりダム側に行って、上から貯水湖を眺めたり、遥か下の河を臨んだりした方が清々しい。
解放的な気分に浸れる。
疲れないし汗もかかない(それでよいのか、、、これでよいのだ(爆)。

小ぶりの第二ダムもあり、そこはもう少し水に近づける。
とは言え大きな欄干のある鉄筋の頑丈な橋から湛えられた水を距離を持って眺めても余り強烈な威圧感はない。
わたしは子供の頃、これ程大きなダムではないが、湛えられた水とほぼ同じ高さのコンクリの堰の上に何故だか立っていた記憶が鮮明にある。立ちすくんでいたと言った方が正確か、、、。そんなことになった経緯は分からないが、、、。
今でもその感覚を覚えているのだが、分厚く深い圧倒する緑色の不気味さと謂ったら例えようがない。
、、、どういうつもりだったのか、、、。

謎の多い少年時代、、、。

謎と謂えば、謎の塊のようなふたりである(爆。
これについては言及しない。話し始めたらきりがなくなる(苦。
ここで苦労話をしてもはじまるまい、、、(泣き笑。


再び聳え立っているダムの外壁をしげしげ見上げて、アイスクリーム食べて帰ることにした。
(牧場がすぐお隣にあるのだった。自動的に行ってしまうではないか)。






17歳のエンディングノート

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NOW IS GOOD
2012年
イギリス

オル・パーカー監督

ダコタ・ファニング、、、テッサ・スコット(白血病の少女)
ジェレミー・アーヴァイン、、、アダム(隣の家の彼氏)
パディ・コンシダイン、、、スコット(父)
オリヴィア・ウィリアムズ、、、スコット夫人
カヤ・スコデラリオ、、、ゾーイ(親友)
ケイト・ディッキー、、、医師

意味ないが、邦題で17歳繋がり、、、


直面した死にどう対処するか。
自分が。
周りの人間が。
これこそ極めて伝統的で普遍的な問題である。
であるからこそ、物語として成立させるにもすでに余りに多くの傑作があり過ぎる。
それは当然既視感と凡庸さ(陳腐さ)を纏いかねない。

この映画でも美しい海岸線をアダムのバイクに乗ってまっしぐらに走るのだ。
海辺を走ってしまっては元も子もないような気もするが、やはり若い二人は走ってしまう。

NOW IS GOOD003

そのうえに余命いくばくもない白血病の美少女を巡る恋人、親友、親との関わりが描かれるのだ。
所謂、闘病を通したそれぞれの愛の物語と謂える。
もはや前例がある、ないというより、もう誰の脳裏にもそれらしいメロドラマが自ずと浮かんで来て拒絶反応を催すような主題でもあろう。
だが、天才ダコタ・ファニングを起用しての直球勝負であろうか、、、。
中央突破か!

実際に観てゆくと、テッサは若い今の自分自身の場所~身体から不安と恐怖に慄きながらも死を見据えて行く決心はしている。
死~運命を受容し最期にすべきことを成し遂げようとする域に達している。物理療法は彼女自らが断っている。
死期を医者から告げられた患者は通常、否認~>怒り~>抑鬱~>取り引き~>受容という流れで死を迎えるという。
(無論、途中で生の中断される場合も多い事だろう)。
彼女は若さにもかかわらず達観しており、強い意志で果敢に後僅かの生を生き抜こうとしている。
その弱みを見せない姿勢が、周囲にはかなり生意気で扱い難い子にも見える。
家族も実際手こずる。特に父である。

父親は癌治療法をいつまでもウジウジ調べあげるばかりで、死に逝く娘の姿を直視しない。
(ある意味、何もできない自分がもどかしく、悔しく、情けないのだ)。
母はまともな看病すら出来ず、娘の病状についての知識も情報も知らぬままで逃避している。
(どうやら別居しているようである)。
9歳の弟は、まだ姉が死ぬことの現実を想像すら出来ない。
姉のことを思いやるつもりもなく勝手に遊んでいるだけ。
親友のゾーイは、テッサとともに彼女の死を前にしたToDoリストに付き合って行動するが、ゾーイには彼女なりの人生がある。
こればかりはどうにもならない。ゾーイは恋人との間に出来た子供のことで掛かりきりになって行く。
テッサにずっと寄り添うのはアダムひとりかも知れない。

彼女はアダムと森に行ったとき、海辺をバイクで走ったときは、片時も忘れられない死の想念から解かれる。
父は止めるが、テッサはアダムと共に後僅かな生を過ごすことを選ぶ。

NOW IS GOOD002

「暗闇でも一緒にいて」
「わたしが何処にいるか、教えて欲しい」
「ぼくが間違えたら?」
「そんなこと、あり得ない」

彼女は看護師の言うように、痛みのない穏やかに意識の遠のく死を迎えて逝くのだが、、、
とても心細く不安で恐ろしいはずだ。
その寄る辺なさ、何処かにしがみ付きたい思いをアダムは受けとめる。
彼が受けとめるしかない。
彼女の最期の場所であった。

父はまだ彼女が何とか起きれる頃は、「どうか死なないでくれお前はわたしの宝だ」と縋りついて号泣するが、もうお別れの時が近づくにあたり、「よく頑張った。もう逝っていいんだよ」と静かに囁く。
弟も、「ぼくに取り憑いてもいいよ」と、彼なりのスタンスで別れを告げる。

「解き放とう」
「人生は瞬間の連続」とこころに囁き、彼女はたくさんのこれまでの想いとともに解き放たれて逝く、、、。

NOW IS GOOD001

かなり淡々とした硬派な薄命の美少女の物語であった。
必ず誰にも訪れる死である。
わたしにとってもあなたにとっても他人事では決して、ない。


余計な噺だが、墓碑銘に「次はお前だ」と彫る人もいるという。
実際、そうなのだ。





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17歳の肖像

An Education002

An Education
2009年
イギリス

ロネ・シェルフィグ監督
ニック・ホーンビィ脚本

キャリー・マリガン、、、ジェニー・メラー(女子高生)
ピーター・サースガード、、、デイヴィッド・ゴールドマン(詐欺師)
ドミニク・クーパー、、、ダニー(デイヴィッドの親友、詐欺師)
ロザムンド・パイク、、、ヘレン(詐欺師)
エマ・トンプソン、、、ウォルターズ校長
オリヴィア・ウィリアムズ、、、スタッブズ先生
アルフレッド・モリーナ、、、ジャック・メラー(ジェニーの父)
カーラ・シーモア、、、マージョリー・メラー(ジェニーの母)

17歳のカルテ」とかダコタ・ファニングの「17歳のエンディングノート」とか、、、「17歳の~」というのは受けが良いのか?
危うさの感覚は匂わせるに足るものだが、、、。

この映画、非常に映像の質が心地よく、ワクワクして観ることが出来た。
キャストが良いことも大きい。
特にヒロインのキャリー・マリガンである。
華麗なるギャツビー」、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」より以前のまさに女子高生の彼女の知的で瑞々しい煌めく美しさに魅せられる。この役をダコタ・ファニングやクロエ・グレース・モレッツがやってもしっかり成立すると思うが、繊細さではこのキャリー・マリガンかなと思う。
兎も角、雰囲気が良い。
とても良い空気に充ちている。
この気持ち良さで最後まで観ることが出来た。

An Education001

ピーター・サースガードは、「ニュースの天才」、「エスター」でも出ているが、ここでの曲者役はとても面白い。
終始、虚しさがつき纏って影があるところがよい。
しかし実際にもよく3面記事などに出てくるが、何ですぐばれる嘘~結婚詐欺などするのか、、、隠せる類のものではあるまい。
その相手が本当に良いなら、まずはきちんと離婚して身辺整理してから次に進めばよいことであろう。
現状のままで、いきなりプロポーズしてしまえば、もう後は(先は)ない。
でもそうしてしまうパタンが沢山あるのに驚く。

デイヴィッドはマメで口八丁手八丁である。彼女の両親もいとも容易く丸め込む。
ジェニーは学業は極めて優秀だが、多感で好奇心も旺盛なうえに現状に何とも言えない閉塞感も覚えている。
チェロが好きでハーバード大学を狙っており、教師からの評価も高い。英文学に特に関心がありその方面の勉強を深めたいと思っている。そしてパリに憧れていて、シャンソンが好きな夢見がちな少女だ。
外部から魅惑的な誘いが不意を突いてやってくれば、恐らく乗ってしまうであろう。
しかもデイヴィッドは包容力があって優しい。
現在の同じ歳のボーイフレンドが余りに子供なのでなおさらである。

An Education003  An Education006

相手は自分の倍以上年上だが、豊富な経験からくる知識やナイトクラブやクラシック・コンサートそして名画(プレラファエル派のバーン・ジョーズの絵)の落札を経験させてもらったり、憧れのパリなどに連れて行ってくれる行動力と未知の世界の拡がりはまさに魅惑的なめくるめく経験であった。
もう高校の地道な勉強など詰まらぬものに思えてゆく。
大学進学さえも、、、である。
そして、何とデイヴィッドにプロポーズされ、その勢いで学校を中退し大学の試験も受けなかった、、、。
(これは危険だ。わたしは娘には絶対そんなこと認めない(爆)。
だがこの男、実際に要所要所でかなり怪しいのであった。
昨日のエゴンみたいなエゴイストであることは間違いない(ただエゴンは芸術至上主義からのものだが、この男は何から来ているのか、、、ただジェニーが可愛かったから惹かれたのか、本気で好きになったのか、いま一つ分からない)。

An Education005

仕事も盗んだお宝を売りさばいて金を儲けており、文字通りの結婚詐欺でもある。
ジェニーは大変な課外授業を受けてしまった。
お陰で、大学の入試も受けず仕舞いであり、途方に暮れる。
学校に戻ろうにも啖呵を切って辞めてしまったものであるし、ウォルターズ校長は認めない。だが言外に他の進み方を示唆する。
スタッブズ先生の自宅に相談に行き、彼女がジェニーに救いの手を伸ばしてくれる。
結局、オクスフォード大学合格の知らせが来て新たに始まるキャンバスライフの様子を語りエンディングへ、、、。

An Education004


考えてみると、数奇な運命に翻弄されたとか謂うほどドラマチックなものではなく、ちょっぴり背伸びしてほろ苦い経験をした優秀で綺麗な女子学生の物語というところか、、、。
彼女の、誘惑による脱線と熱心な先生のフォローまでを含めた”An Education”であったと謂えよう、、、。
(あの状況でよくハーバード合格に漕ぎつけたなと、、、ちょっとその経緯も知りたかったが、、、)。
学びには、寄り道も必要である。
実際にそれまでのレール上にない、他の道はアンテナを伸ばせば幾らでも見つかってしまうだろう。
それもとても魅惑的な光景が、、、。
迷い脱線(横断)する自由も保証したしなやかな教育があってよい。


そんなありがちな内容と謂っても、充分に怪しく面白く心地よい映画であった。
特に質感が良い。
お薦めである。







エゴン・シーレ 死と乙女

EGON SCHIELE002

EGON SCHIELE: TOD UND MaDCHEN/EGON SCHIELE
2016年
オーストリア、ルクセンブルク

ディーター・ベルナー監督・脚本
ヒルデ・ベルガー脚本
アンドレ・ジェジュク音楽


ノア・サーベトラ、、、エゴン・シーレ
マレシ・リーグナー、、、ゲルティ・シーレ(妹、モデル)
ファレリエ・ペヒナー、、、、ヴァリ・ノイツェル(愛人、モデル)
ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ、、、モア・マンドゥ(愛人、ダンサー、モデル)
マリー・ユンク、、、エディット・ハルムス(妻、モデル)

人物画~ヌードを主に描く画家であることから、モデルは肝心である。
この映画を観たところ、彼にとっては気に入った女性は、気に入ったモデルでありミューズのようだ。
しかし恋愛の対象ではない。
妹もそのなかの1人でもあったわけだし。
どうやら余り人間的な関係に興味はないようで、基本的に淡白である。
だから、一人に固執しない。
何人いても良い。皆ヌードモデルとなりそこから傑作が生まれている。
この辺は兄貴分のクリムトにも似ている。
だが、一番のお気に入りがクリムトから紹介された、ヴァリであったようだ。
ヴァリも彼を大変深く愛していたことが分かるが、その為に離れ離れとなり悲惨な結末を迎えることにもなる。

EGON SCHIELE004


エゴン・シーレはわたしの周りでは好きな人が多く、絵を観る機会もあった方だが、居間に飾るタイプの絵ではないところでも評判が良かったような気がする。
だが、わたしにはエロティシズムにおける死の比重が大き過ぎて、痛々しくも陰惨なひりつきばかりが感じられた。
クリムトのエロティシズムには隣に死神が控えていても、芳醇な官能と喜びもあり、居間に飾っても抵抗などない。
退廃的な文学性はあっても装飾的で見栄えも良いので、派手好きなお客にも喜ばれる(笑。
「死」を色濃く纏うものは、余り居間、というより普通の部屋に飾る気は起らないものだ。
しかし画集などで書棚から取り出し、そっと観るその時間性を愉しむ絵であると想える。
だが、わたしにはエロスというよりタナトスの特異な美を享受する面が大きい。

EGON SCHIELE003

たまたま描いた娘が歳が若すぎて警察に拘置されたりするが、彼は若い娘に特に惹かれるものがあった。
(クリムトは老若男女何でもござれであったが)。
純粋で無垢な生命力の湛える美(余計に死は際立つ)を描きたかったのだろうか。
だが、それはクリムトも警告していたように芸術家としての立場を危険に晒すことでもあった。
若さとは無軌道であり、無分別でもあり、無思慮で思い込みも激しいものだ。
結局、弁護士に助けられ無罪とはなるが、道徳的な罪を問われる。
ここでは裁判官の馬鹿ぶりが露呈するが、もとより芸術論で立ち向かえる場ではない。
不毛である。

女性との問題も皆、規範との闘いとなってしまう。
(法ではなく規範である。いや法的にもほぼ重婚ではないかと思われる提案をヴァリとエディットにした為、それを最後にヴァリは彼のもとを去る)。
これはいくら対幻想と言ってもキツイ。
彼らの家を通りすがりに怪訝な顔つきで覗いて行く人々(子供たち)の描写も印象的だ。
彼自身が自分の芸術表現に確信を持っている分、隠し立てしないお陰で共同体との軋轢は強まるばかり。

EGON SCHIELE001

そこで止まって、と言ってすぐにスケッチ~ドローイングに入る。
ちょっと微妙に捻じれ曲がったポーズと彼ならではの強烈な個性としか言えない描線。
さらに表現主義的な彩色。
その全体を観ると、やはりフォルムのささくれたような美しさにとても痛みを覚える。

他の画家で謂えばクリムトより、ベルナール・ビュッフェに近いものを感じてしまう。
詩人ではトラークルを連想する部分もある。

彼は28で病死するが、その看病は若くしてした結婚をずっと兄から認められなかった妹が必死でする。
妹との絆の深さを感じるものだ。

最後は形見分けとなるが、どの作品にも機械的に値が付けられ手際よく整理されてゆく。
随分淡々とした最後だと思ったが、エゴンの関係者も身近で親密な者はすでに亡くなっている。
最後は事務処理的に財産処分であるか。
戦地に赴くであろうエゴンを想い、別れたヴァリも従軍看護婦として戦地に入り猩紅熱で没してしまう。
妻エディットもエゴンと同じ熱病で先に死んでいる。
最初に彼のヌードモデルをしていた妹だけが健在であった。


本物もイケメンであるが、エゴン役の俳優も大したイケメンであり雰囲気は充分に再現していたのではないか。





ロシュフォールの恋人たち

Les Demoiselles de Rochefort001

Les Demoiselles de Rochefort
1967年
フランス

ジャック・ドゥミ監督・脚本

ミシェル・ルグラン音楽

カトリーヌ・ドヌーヴ、、、デルフィーヌ (バレエの教師、双子の妹)
フランソワーズ・ドルレアック、、、ソランジュ (作曲家、ピアニスト、双子の姉)
ジーン・ケリー、、、アンディ・ミラー(作曲家、シモンの親友)
ジョージ・チャキリス、、、エチエンヌ (流れ者)
グローバー・デール、、、ビル(流れ者)
ジャック・ペラン、、、マクサンス (画家、水兵)
ダニエル・ダリュー、、、イヴォンヌ (双子の母、カフェ経営者)
ミシェル・ピコリ、、、シモン・ダム(楽器店主、イヴォンヌのかつての恋人)

Les Demoiselles de Rochefort004


最高のミュージカルであった。
その愉しさにワクワクして感動する。
ミシェル・ルグランの音楽に全てが乗って流れてゆくようであったが、、、
曲~歌と踊りそして色彩構成の融合が素晴らしい。
カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアックは、本当に華のある姉妹であるが、フランソワーズ・ドルレアックにより魅力を覚えた。役柄というより踊りの動き、身のこなしが素敵であった。
袋小路」の彼女は、ひたすら美しかったが、こちらはチャーミングであった。
そして外国人のアンディ・ミラー役のジーン・ケリーである。「雨に唄えば」、「巴里のアメリカ人」は印象深い。
そう謂えば、「雨に唄えば」の感想を書いていないことに気付いた、、、。もう見たのが昔だからもう一遍見る必要があるが。

Les Demoiselles de Rochefort002

映画通でない為、あまりミュージカル映画も観てはいないが、どうもこの時期やもっと昔のミュージカルものが面白い。
最近のミュージカルはどうも、印象に残らなかったり、ぎらついて騒々しくてついてゆけなかったりする。
ラ・ラ・ランド」とか「ムーラン・ルージュ」など、、、
そして何と謂っても、音楽の良さであろう。
この映画はミシェル・ルグランの音楽で不滅の作品になっていることは間違いない。
そこに粒よりのキャストとセンスの良い美術が絡み素晴らしい結果を生んだものだ。
調和の美学でもある。

Les Demoiselles de Rochefort003

なかなか愉しい感動というものは味わえない。
特に後半のイヴォンヌ とシモン、ソランジュとアンディ、デルフィーヌとマクサンスのすれ違いには、ドキドキのラブコメというよりコントを見るような可笑しさと懐かしさ(その古典的味わい)を感じた。
特にデルフィーヌとマクサンスのすれ違いには、もう笑うしかない。
だが、それも最後に希望を持たせて、こちらを安心させて終わる。
全て予想通りに流れてゆく予定調和が気持ち良い。
音楽的な運びである。

後に残るのは、面白かったという想いだけであった。

Les Demoiselles de Rochefort006

この映画は今後も定期的に観るつもりである。
健康に良い。


こういうものも観なくては、精神的に偏りが出る。
つまらないSF観るより遥かに良い。
(、、、それでも何か見応えのあるSFが観たい、、、(悲)。






オリジナル・サウンド・トラック



甘い生活

La dolce vita004

La dolce vita
1960年
イタリア/フランス

フェデリコ・フェリーニ監督・脚本
エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ脚本

マルチェロ・マストロヤンニ 、、、マルチェロ(記者)
アニタ・エクバーグ 、、、シルヴィア(ハリウッド女優)
アヌーク・エーメ  、、、マダレーナ(富豪の娘)
ウォルター・サンテッソ 、、、パパラッツォ(カメラマン)
イヴォンヌ・フルノー 、、、エマ(マルチェロの同棲相手)
マガリ・ノエル 、、、ファニー
アラン・キュニー 、、、シュタイナー(友人の文化人)
ニコ 、、、ニコ
ヴァレリア・チャンゴッティーニ、、、パオラ(カフェのウェイトレスの少女)


始まりから遊び心の感じられるヘリでイエス像を運ぶシーンで引き寄せ次々にエピソードが続いてゆく。

それにしても、この時期から、こんなに元気で鬱陶しいパパラッチがいたのか。
ローマとなれば有名芸能人の訪問は半端でなかっただろうが。

パーティやバカ騒ぎに明け暮れる、上流階級の享楽的で空疎な生活ぶりが描かれてゆく。
各エピソードが、それぞれに味わい深く、モノクロの特性を生かした格調高い造形美も印象的。

La dolce vita003  La dolce vita008

特にアニタ・エクバーグとローマのトレビの泉がこれほどマッチするとは。
背景の石像のなかのひとつがしなやかに動き出したかのような見事な優雅さを持った身体と謂えよう。

映画そのものが、絵的に実に計算された構図で構成されている。
これは言わずもがなであるが、群を抜いてる「絵」への拘りだ。
そのシルヴィアが音や気配にも敏感で、感覚を研ぎ澄ませて世界を深く楽しんでいることも分かる。
彼女が拾った猫をいとも無造作に頭の上に乗せたのにもびっくりした。
セレブの細かいことは気にせず、官能や快楽や感覚的な刺激の取入れに抵抗を持たない側面でもあるか。
その拘りの無さは、無節操で無頓着な余裕にも繋がる。
このペースで世界に受け容れられ、注目され(物質的に)豊かな生活が送れることは申し分ないことであるが、、、。
ただシルヴィアについて言えば、極めて美学的な実践を無意識的にして芸術的な生を見出しているように感じられる。
他のセレブは世界を深く享受しているようには窺えない。ただ日々を虚しくやり過ごしている面が強い。

La dolce vita001

マルチェロにしても、あっちこっちの女性に終始フラフラしているだけだったようにも想える。
その他に何かやっていたかどうか思い出せない。
確かに奔放で魅惑的な、ギリシャ彫刻が歩いているみたいなアニタ・エクバーグやこれまた蠱惑的なアヌーク・エーメ(マダレーナ)に、「反撥」でカトリーヌ・ドヌーブの姉役であったイヴォンヌ・フルノー(エマ)などが身の回りにいるのだから落ち着けるはずもない。もっともエマとは痴話げんかばかりではあったが。
更にミステリアスで可愛い頃のニコも出ている(直接な接触はなかったが)。
ともかく女性陣は豪華絢爛である。

マルチェロはかつては文学者を目指した男であり、友人のシュタイナー宅を訪れた際には、彼のような知的でストイックな生活に触発され、彼との関係を深め変わろうとしたが、最愛の子供と共に無理心中を図ってしまう。
そこでマルチェロはさらに混乱を深め虚無的で享楽的な生活に呑まれてゆく。

La dolce vita002  La dolce vita005

ジョイ・ディヴィジョンと同時期に音楽的にピークを迎えたニコも出演している。
まだこの頃は音楽活動ははじめていなかったと思う。
何かミステリアスで気ままなお姉ちゃんという感じで出ている。モデルが主な仕事であったはず。
アンディ・ウォーホルの仲介でヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファーストには参加するが、脚光を浴びるのはやはり70年代後半以降になろう。
そのころのカリスマ的風貌から見ると無邪気な感じで可愛らしい。謂わばセレブの不思議少女として出ている。

La dolce vita007

海岸に打ち上げられたエイ(巨大な怪魚)を眺める彼ら。
不気味な瞳が気にかかる。彼らが見ているのか、見られているのか、、、判然としなくなる。
自らの内に怪物的に膨れ上がった像を見ている~投影しているような眩暈を覚えたか、、、。
誰もが気持ちを逸らし、その場から立ち去ろうとするとき。
パオラが突然現れ、マルチェロに何かを真剣に語りかける。しかし波の音で全く聞き取れない。
彼はカフェを手伝っていたその少女にとても惹かれるものがあった。
すぐ近くなのに「水」に隔たれていて、そこにいくことも出来ない。おまけに声も聴きとれない。
まるで異世界の幻のよう。
実際、すでにお互いに別世界の住人なのだ。
この交われない~戻れない光景が、とても虚しくも哀しく美しい。
郷愁を覚えるのだ。

彼は諦めて仲間と共に、そのまま歩み去ってゆく。
(それしか出来ない)。

La dolce vita006

等質空間は存在せず、時間系もその存在ごと(時間=存在)であることが、これ程説得力をもって描かれた映画は観たことがない。
これは世界の実相だと考える。


そして、フェデリコ・フェリーニの美学が凝縮しているような映画であった。







イフ・アイ・ステイ 愛が還る場所

If I Stay001

If I Stay
2014年

アメリカ

R・J・カトラー監督
ショーナ・クロス脚本
ゲイル・フォアマン『ミアの選択』原作

クロエ・グレース・モレッツ 、、、ミア(チェリストを目指す秀才女子高生)
ミレイユ・イーノス 、、、カット(ミアの母親。旅行代理店勤務。元パンク少女)
ジョシュア・レナード 、、、デニー(ミアの父親。音楽教師。元パンクロッカー)
ジェイミー・ブラックリー 、、、アダム(ミアの恋人。ロックミュージシャン)
ステイシー・キーチ、、、ミアの祖父


テンポが緩い。
自然にこころが惹かれてゆき、葛藤したり反目したり、また強く惹かれ合ったり、、、そういう流れを丁寧に拾ってゆく、よく分かるのだが、、、わたしにそれを追う根気がない。
長い。とっても長い。ホントに長く感じるのだ。
もう少しテキパキ進まないかな~。
だが、これこそが直球のラブロマンスで、正しいのであろう、、、きっと。
(やはりラブコメとかラブロマンスは苦手である)。
わたしとしては、主演がクロエ・グレース・モレッツなので、辛うじて見終えることが出来た次第である(祝。

If I Stay004

恋人同士で色々起きることは分かるが、、、
ミアとアダムが一緒に住むとか離れ離れになるとかでもめていたが、ミアが何処に住もうと~何処の大学に通おうと、どちらにせよアダムもバンドのライブツアーであちこち移動することになるし、成功するほどその活動範囲や規模は大きくなる。
海外遠征だってあるだろうし(ビッグになれば)。
住むところなど関係なくなるのではないのか?
何故彼は地元に拘るのか?
ミアの住むところを拠点にすればよかろうに。彼女はジュリアード音楽院だからニューヨークだ。文句あるか?!
田舎よりも便利だぞ。

If I Stay002

つまりよく分からないところで二人は、くよくよ 悩んだり仲違いしたりするのだ。
17歳の高校生である(クロエの実年齢役)。彼氏は二つくらい上なのか。
寧ろ何処か遠いところに冒険したい年頃ではないか、と思うが。

まあ、悩むことが好きな(趣味でもある)年頃でもある。
良いのではないか、、、
思春期恋愛映画として正しい映画なのだ。
傍から見ているとイラつくこともあるが、、、しかたない。

If I Stay003

この映画は、クロエ演じるミアが、自動車事故に遭うことで、彼女自身が究極の選択を強いられるというものか。
愛情深い両親と幼い弟はその事故で失い、彼女自身は死と生の狭間にあって自らの生きる気力に掛かっている状況なのだ。
彼女は幽体離脱状態で、自分の身体を含め周りの様子を全て知覚出来る立場となる。
(幽体離脱でもしないとわれわれは自分を観る事は出来ない。生きているうちは鏡像を自分として見ている。カメラレンズで補正でもする以外に人が見る自分を見る経験はない)。

一度は分かれたアダムがコンサートを中止して彼女の元に駆けこんで来る。
必死にクラシック音楽を聴かせたり彼女を詠ったオリジナル曲を聴かせたりして蘇生させようとするが意識は戻らない。
外にいて迷っているのだ。なかなか踏ん切りも付かない。
彼女は優しい両親と弟を亡くし生きようとする気力を失いかけている。
おじいちゃんが、是非戻って来てほしいが、逝ってもいいんだよとも耳元で囁く。
よいおじいちゃんだ。


はっきり言って彼女は愛情に包まれている。
亡くなった両親からもタップリ過ぎるくらいの愛情を注がれて育てられており、、、
今もなお、血の繋がりに関わりなく沢山の人々に暖かく見守られている。
そして、彼氏も何であろうがもう彼女と離れないと誓う。
更に彼女の家に侵入してジュリアード音楽院からの返事をベッドにまで運んで来る。
(それにしても事故の前に実技試験を終えていてよかった)。
「合格」と聴いたら、蘇るしかあるまい。

最後にちゃっかり目を覚ましたところで、エンドロール。


クロエ・グレース・モレッツの魅力一つでよく2時間超を見せ切った、という映画であった。
相手の彼氏が今一であった。ジェイク・ギレンホール程ではなくてもよいが、余りに毒気が無さ過ぎる。
クリエイターに狂気や毒気が感じられないようでは話にならない。
曲ももう少しどうにかならなかったか。聴いた範囲ではとてもブレイクは期待できない。
映画から有名になった音楽は沢山ある。ヒットを飛ばすくらいの粋な曲を入れて欲しかったものだが。予算がなかったか。
そちらの方で二人の関係が難しくならないかが心配である(心配することでもないが(笑)。
ミアのチェロはクラシックの演奏である。演奏は奏者の解釈と技術が問題となりこれはまた険しい道であるが、ロックミュージシャンもコンポーズで決まる。良い曲が書けないと終わりである。演奏はゲストでも賄える。
”NewOrder”がここまで長く続いているのも、曲の良さであると断言できる。
彼の方が恐らく険しいところにいる。まだ音楽家と画家のペアなどなら良いが、、、きっと厳しい緊張感あるペアとして頑張ることにを強いられるだろう。
この映画には関係ないが(笑。


結局、クロエ・グレース・モレッツの映画であった。


If I Stay005






鋼の錬金術師/ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章

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ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章
2017年

三池崇史 監督
荒木飛呂彦 原作

山崎賢人、、、東方仗助
神木隆之介、、、広瀬康一(同級生)
小松菜奈、、、山岸由花子(同級生)
岡田将生、、、虹村形兆
新田真剣佑、、、虹村億泰
観月ありさ、、、東方朋子(母)
國村隼、、、東方良平(祖父・警官)
山田孝之、、、片桐安十郎
伊勢谷友介、、、空条承太郎

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鋼の錬金術師
2017年

曽利文彦 監督
荒川弘 原作

山田涼介、、、エドワード
本田翼、、、ウィンリィ
ディーン・フジオカ、、、ロイ・マスタング大佐
佐藤隆太、、、マース・ヒューズ中佐
大泉洋、、、ショウ・タッカー
小日向文世、、、ハクロ将軍
松雪泰子、、、ラスト
蓮佛美沙子、、、リザ・ホークアイ
本郷奏多、、、エンヴィー
國村隼、、、ドクター・マルコー
石丸謙二郎、、、コーネロ教主
原田夏希、、、グレイシア・ヒューズ
内山信二、、、グラトニー
夏菜、、、マリア・ロス少尉


二つ観てみた。
その前に観た「2012」の方が遥かに凄いVFXであった為、大人しく地味に見えた。

三つのなかでは、ジョジョが破綻が少なく無難にまとまっていたようには思える。
しかしわたしは原作はほとんど知らない(最初の頃のジョジョは観ていた時期があったが)。
基本的に原作は問題とせず映画だけで観ればよいとしている(それしか観ようがないし比較も意味がない)のだが、逆にこれを観て是非原作アニメを観ようという気にはならない。
もうよい。という感じだ。

VFXで魅せるとしたなら「2012」はその最たるもので、目で見る最高のアトラクションだと思う。
このように思わず「ひえ~っ」とか「おおっと」とか「あっれ~っ」などと声ばかりを出して観てしまう映画はそうはない。
感覚的に味わうのに特化した映画なのだ。スリリングで無茶苦茶なシミュレーションに立ち会っているような感覚。
ある意味、凄い。VFXひとつで切り抜けるのだ。

噺の内容はもう、どうでもよい、取り敢えず筋が無いと枠が出来ないからというレベル。
科学的に荒唐無稽で支離滅裂な運びと展開は、所詮そんなものだとして、それに絡む人間ドラマなど完璧に破綻している。
(偽善慈善行為に自己陶酔して悦に入っている、こんな自己中だけ生き残ってどうなるのかとお先真っ暗な噺である)。
しかしこのへんは、ローランド・エメリッヒだからよいのだ。人類はこのヘナチョコ船のなかで絶滅だな。後のことなど知った事か。
ドタバタ騒ぎがスリリングで面白ければそれでよい、という人なので、この「2012」はともかく成功作である。

それを観てからこの二作を立て続けに観てみた。どちらも2017年。國村隼が大事な役でどちらにも出演。売れっ子である。
昨夜の事である。昨日は観るだけで手一杯。今日はと言えば、、、
丸一日、娘たちと車で遠出をしており、それどころではなかった。
子供の日だと脅されて朝早くから夕方まで遠くの公園に行って遊び惚けていた。
心地よい疲労感で今にも睡魔が襲ってくるギリギリのところをチューハイの勢いで書き始めた(爆。

何故かもう遠い昔の事のように思えているのは、錬金術のせいか、スタンドの影響か、、、眠いからだろう、、、恐らく。

着想は面白いし、ジョジョの小松奈々の思わせ振りな存在が次作をとても気にさせるものだが、、、。
ジョジョについては何作で完結させるものなのか、この章には無理に話を詰め込み過ぎずに気になる仕掛け~エピソードを投げかけて今後の展開に任せるイントロなのだろう。

である為、この章をもってどうこう書くのも難しい。スタンドの迫力と異質な質感がもっとあってもよいと思うが、次章を待ちたい。
次が楽しみという程そそられはしないのだが、最初の部分だけ見せられては、それがどうなるのか見たいのは人情である。小松奈々などは、顔見せ程度であるから、、、次は彼女のスタンドの活躍とか神木君のスタンドとかが覚醒するのだろうな、、、という、予告編などに覚える期待感は持ってしまっている。
だが、逆に言えばこの映画単体ではキツイ。少なくともこの次とのカップリングで感想を述べたい。


鋼の錬金術師については、原作を知らないためこの映画でだけ見ると、何とも言いようがない。
恐らく詰め込み過ぎて薄くなっているような気がする。
キャストが日本人であること、ロケ地が国外らしいことに違和感を覚える。皆外国人が演じた方が良かったのでは?

それにオリジナルから着想を得て、もうまるきり2時間程度の監督のオリジナル(オマージュを込めた)作品として作り込んだ方が映画として純度の高い優れたものになると思うのだが。
その原作の根底の思想を掴んで監督なりの解釈で首尾一貫して作れば原作を知っている、いないに関わらず映画の完成度の高さで魅せる作品に成り得るはず。

そこから見ると、安易なシーンが目立ち、これでよいのか、、、と感じて白ける部分はある。
主人公と弟が何であの実存を巡る肝心なシーンで殴り合いして仲直りみたいなところに回収されてしまうのか、、、。
弟からの折角の問題提起で、こりゃないだろ兄貴、、、というか横から口だしした本田翼、、、そういう次元で絡めとるのか、、、と一気に話を堕落させてしまう。

噺は死ぬこと(人間)に憧れつつ殺戮を繰り返す松雪泰子のホムンクルスたちやそれを人の命を材料に大量に製作して王となろうとする小日向文世(何とも言えない役を呆れながら熟していた)やキメラを最愛の存在を犠牲にして作る大泉洋博士など、、、そして錬成物、オートメイル、等価交換、等も絡めテーマを深めればそれなりの刺激的な存在論的物語になったと思うが。この手のハリウッド映画も少なくない。
監督含めてキャストのこの作品の思想的な基本的コンセンサスは取れていたのか、、、。
賢者の石という幻想を中心に据えたコンセプト、その石がああやって作られていたのか、という発想は良いと思う。
しかし実際、難しいドラマを短い尺に押し込み軸がしっかり出来ずに破綻した想像がつく映画であった。
本田翼が出てくると軽薄度が増す。
アニメーション映画で観たいものである(3部くらいに分けてもよいのでは)。


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ケープ・フィアー

Cape Fear001

Cape Fear
1991年
アメリカ

マーティン・スコセッシ監督
ウェズリー・ストリック脚本
ジョン・D・マクドナルド「恐怖の岬」原作・リメイク
エルマー・バーンスタイン音楽アレンジ(バーナード・ハーマン オリジナル音楽)


ロバート・デ・ニーロ 、、、マックス
ニック・ノルティ 、、、サム(弁護士)
ジェシカ・ラング 、、、レイ(サムの妻)
ジュリエット・ルイス 、、、ダニエル(サムの娘)
グレゴリー・ペック 、、、リー・ヘラー(弁護士)
ロバート・ミッチャム 、、、エドガード警部


Cape Fear005

レナードの朝」でデニーロのファンになってから久しい。彼の演技はどの映画で見ても痛快であるが、スコセッシ監督とのものでは、何と謂っても「タクシードライバー」か。ここではジュディ・フォスターが鮮烈な本格的デビューを果たしている(13歳であった)。そのあたりも、ちょっと本作と相通じる面があった(ジュリエット・ルイスの立ち位置は異なるも)。
それからわたしの好きな「グッドフェローズ」であるが、こちらでは実に渋くて暗くて怖い感じであった。
どれをとっても、成り切り度が圧倒的だ。
ここでの偏執狂的でエキセントリックな役も常軌を逸してはいるが説得力は抜群である。

弁護士サムのマックスを舐めた(手抜きでマックスを不利に導く)弁護により14年間を監獄で過ごしたマックスが出所して、サムにお礼参りに来た噺である。一言で謂えば、逆恨みなのだが、サムにも法的に見て手順のうえからも落ち度はあった。
こういうケースはあるものだろうが、実際サムが弁護した頃は、字も読めなかったマックスがムショで字を学び猛烈に勉強をして出て来たのだ。法律、哲学、宗教、文学をかなり深めていた。シャバに出てからも図書館でニーチェなどを普通に読んでいる。
しかし見かけは思い切り怖い。顔つきもそうだが、刺青が半端ではない。ここが思い込みの強さを窺わせる。

サムは、マックスを馬鹿にし陥れた自分の罪の意識もある為、最初は金をちらつけせご機嫌取りをして何とか交そうとするが、マックスは14年間のせいで失ったと同様なものをサムにも思い知らせるのだという。
これにビビってじたばたするサムは法を逸脱した方法でその手の探偵や用心棒を頼みマックス排除に奔走し、挙句の果てはマックスをはめて合法的な殺人で解決を図ろうとする。
だがことごとく、マックスの方が上手で、サムたち一家は追い詰められてゆく、、、。

Cape Fear002
狡賢いマックスは、サム一家の分断も図る。
演劇教師に化けて、ことば巧みに娘のダニエルを味方に惹き込もうとする。
サムの浮気も含め家庭内の不和のあることや娘の両親への不満や反撥心などもしっかり調査済みであった。

ダニエル演じるジュリエット・ルイスは、演技以前の少女期ならではの素振り~生理からして、非常に生々しく危ういものを感じる。
この危険な純粋さ~エロティシズムが、死や不安の観念に繋がる恐怖を募らせてゆく。
脚色はとても効果的につけられていると思われる。
この少女の絶妙な存在感が物語の陰影を深めていた。

Cape Fear004
バルテュスの絵画から出て来たような少女である。
やはり一言で謂って、生々しい。
ジュディ・フォスターとはかなり異なるタイプだ(ジュディはどうしても知的になる)。
少女期の生理的で情動的な雰囲気が漂い、マックスとの関わりにより相乗効果を生む。
実際に、彼のアジテーションの巧みさ(確かに理屈には説得力がある)と、思春期特有の性的な欲動が絡み合い、両親よりマックスに同調してゆくところなど、よく分かる。

Cape Fear003

だが、実際マックスは怨念に深く囚われており、彼の理屈・理論も全てそこに根差しており、昇華しはしない。
サムへの復讐の為の思考に閉塞する。
「失う恐怖」を徹底的にサムに知らしめたいだけなのだ。
マックスに共感した部分の大きかったダニエルも、親密であったメイドが彼に惨殺され、はっきりと敵意を燃やす。
宗教(思想)の極端な原理主義者が、いともあっさりとヒトを殺害するケースがあるが、彼もそうした狂信者とも受け取れ、感覚のバランスを逸している。

ある意味、マックスにもっとも痛手を負わせたのはダニエルに他ならない。
実際サム夫妻はやられっぱなしで、怖がっているだけであった。
特にサムは典型的ヘタレである。

最後は、娘の機転と奮闘で流れを引き寄せ、幸運もあり何とかサム一家はマックスの恐怖から解かれる。
かなりの犠牲者も出したうえである。

生きていればどうしても様々な、ネガティブな情勢に呑み込まれることは不可避でもある。
取り返しのつかない損失を被る場合も少なくはあるまい。
セルゲイ・パラジャーノフなどは作家人生の合計20年をソ連当局によって失い、その過酷な環境が元で病に倒れ死んでいる。
だが、それでもなお思考の中立を図り、生きてゆけるかどうか、、、である。

マックスもかなりのインテリになっているのだし、、その使い道が他にもあったのでは、、、と想わせるに足る内容になっていた。
知の使い道の問題である。
それを誤ると恐ろしいホラーサスペンスとなってしまう。
確かに「過去に囚われることは死を意味する」ものだ。
ここなのだと思う。

音楽もかなりマッチしていてよく出来ていた。オリジナル版の音楽のアレンジであるという。
オリジナル版の「恐怖の岬」(62)も観てみたい。
ここで主役をはっていたグレゴリー・ペックとロバート・ミッチャムも出演している。
マーティン・スコセッシ監督の外連味を感じる。
色々と興味深い面白い映画であった。






アメリカン・スナイパー

American Sniper01

American Sniper
2014年
アメリカ

クリント・イーストウッド監督
ジェイソン・ホール脚本
クリス・カイル『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』原作

ブラッドリー・クーパー 、、、クリス・カイル(スナイパーのレジェンド)
シエナ・ミラー 、、、タヤ・カイル(クリスの妻)


戦争映画であるが、好戦とか反戦とかのレベルではない。
戦争という場~状況において、人がどのように変わってしまうのか、その変わってゆく自分との葛藤(乖離)と不安が描かれる。
取り憑かれた(強迫的な)理念で怪物のように膨れ上がってしまう自分を持て余し、只管行動~狙撃に集中しようとする。
憎き敵を撃っているときは、精神的な安定が得られる。
おれは仲間を救っている、、、殺された仲間の仇討ちをしている、、、アメリカの為に闘っている、、、しかし人を殺すことで自分のうちの何かが死んでゆく。
だが彼は激戦区においてイラク兵を160人以上殺し、中でも特に腕が冴えわたり恐れられている敵側の元オリンピック代表選手であったスナイパーを約2000m離れた位置から狙撃して倒し、レジェンドとしてアメリカ中から崇められる存在に祭り上げられてしまう。
彼はそれに戸惑いを隠せない。

イラク戦でランチャーを持って掲げようとした兵を狙撃して殺すが、そのランチャーを幼い子供がやっとのことで拾い上げて掲げる。
クリスはその子に照準を合わせつつも、それを下に置けと心で念じる。
幸い、その子は重みに耐えられずに、道にほっぽり出して逃げてゆき、彼もホッとする。
彼がイラク戦のデビューは、対戦車用の手榴弾を持った子供と母親の狙撃であった。
確かにこれの連続であれば、おかしくならない方が変である。
自分がそれと意識せずとも、知らずこころは犯されてゆくだろう、、、。

American Sniper03

あくまでもアメリカの立場から、主人公クリスの視座から見ている為、残虐で非道なイラクの兵士や幹部が登場する~見られる。
アメリカ人と話をしたというだけの理由でイラク民間人の息子の頭にドリルで穴をあけて殺害するイラク兵幹部の1人など、、、極端な例が幾つも登場する。彼(アメリカ兵たち)のイラク兵殺害の正当化は容易い。良心の呵責は抑えられる。
悪を滅ぼすのだ、、、と。

彼はワールドトレードセンター(911)のTV実況を観て、その復讐に燃えたものだが、そこに至る事態の構造は俯瞰してはいない。
その要因は、ブッシュを中心とした石油官僚たちの利権争いの一環であったことは否めない。
ノーム・チョムスキー博士(生成文法の言語学者)は、はっきりそこに至るアメリカ~ブッシュの罪について分析し批判している。

しかし、これはそういった戦争映画ではない。ある意味、戦争映画ですらない。
丁度、「沈黙 サイレンス」が信仰を利用した侵略主義の国家(カトリック)的背景には一切触れず、個人の信仰レベルに絞ってその壮絶な苦悩を描いていたように、あるイデオロギーに侵された人間がその柵から抜けようとして苦しみもがく姿を描いている。
戦争はそうしたものの極限状態のひとつであろう。
クリント・イーストウッドは、恐らくイラク戦争に賛成か反対かとかいうレベルの作品として撮ってはいない。

American Sniper02

最後の最後までこの人は大丈夫なのか?
この修羅場の何処かで撃ち殺されはしないか、精神的に参ってしまわないか、、、その不安が次第に高まって行き、息苦しさをに耐え兼ねてしまうのだが、、、。
無事に本国に帰還して、こちらも本当にホッとする。

だが暫くの間は適応障害に苦しむこととなる。
これまでならすぐにそれから(自ら)逃れるように戦地に赴く事だろうが、彼はもう引退を固く決めていた。
(妻が引き留めるのも聞かず、4回も危険極まりない戦地に飛び込んで行ったものであった)。
彼の中で冗長性を保ってきたものが一気に相転換したのだ。
普通の生活に戻る決心をした。妻と子供と生きることにした。良かったとこちらも思う。
彼は子供の存在や傷病兵の慰問などによって、自分をしっかり見出してゆき、落ち着いた生活に徐々に戻って行く。
これで後は安らかな生活を送って行くのか、と思ってみたのだが、、、。

ヒーローというのは、苛烈な場ではある意味、不死身であるが、想いもかけないところであっけなく命を落とす。
(かつて松田優作はそういうヒーローを演じていたことを思い出す)。
二時間の約束で招かれて帰還兵の会に出席したとき、元海兵隊所属の男に殺害されたという。

American Sniper04

そういうものなのだ。
最後に奥さんが彼がちょいと出かけて来ると言って車に乗るとき怪訝な表情で見守っていたところが印象深い。
それは監督の脚色かも知れぬが、実際大いにあることだと思う。

胸騒ぎがしたら取りやめた方がよい、、、
きっと、行かない勇気(ちょっとしたもの)も必要である。





アポロ13号

Apollo 13 005

Apollo 13
1995年
アメリカ

ロン・ハワード監督
ウィリアム・ブロイルス・Jr.、アル・レイナート脚本
ジム・ラヴェル、ジェフリー・クルーガー原作


トム・ハンクス 、、、ジム・ラヴェル(船長)
ケヴィン・ベーコン 、、、ジャック・スワイガート(司令船操縦士)
ゲイリー・シニーズ 、、、ケン・マッティングレイ(司令船操縦士、フレッドに交代)
ビル・パクストン 、、、フレッド・ヘイズ(月着陸船操縦士)
エド・ハリス 、、、ジーン・クランツ
キャスリーン・クインラン 、、、マリリン・ラヴェル
ローレン・ディーン 、、、ジョン・アーロン(EECOMアーサー)
クリント・ハワード 、、、サイ・リーバーゴット(EECOMホワイト)
トム・ウッド 、、、EECOMゴールド
メアリー・ケイト・シェルハート 、、、バーバラ・ラヴェル
エミリー・アン・ロイド 、、、スーザン・ラヴェル


誰よりもストイックで慎重な勤勉家のケンが風疹と診断され搭乗メンバーから発射2日前に外される。
急遽、控えのメンバーのジャックが補充された。
優秀であっても訓練不足は否めない。
13に纏わる不安の漂う中、これはかなりの痛手に見えた。
阿吽の呼吸のチームワークもすでに出来ている。

Apollo 13 002

アポロ13号、打ち上げから55時間後のことである。
地球から321,860Kmの地点でフレッドが第2タンクの攪拌機のスイッチを入れたときに酸素タンクが爆発し、3つの燃料電池と2つの酸素タンクを失う。
(これ以前に中央エンジンが振動により予定より早く作動しなくなるトラブルが発生している、、、ここから嫌な予感は走っていた)。
これにより、早くも月面探査ミッションは無くなり、無事に乗組員を帰還させることが目標となる。
管制塔では喧々諤々の議論が起きるが、ジーンの決断で自由帰還軌道(月の裏側を周って自動的に地球軌道に乗せる方法)で彼らを戻すことになる。エンジンを使って周り右をさせることは損傷を受けているエンジンの場合、宇宙船ごと爆発する可能性が高い。
それから極めてハードなサバイバル戦が繰り広げられることとなる。

酸素と水の消失と二酸化炭素の増大と処理、燃料電池の減少と節約これが最大の切羽詰まった問題となって行く。
メーターの残量表示が目に見えて下がって行くこの恐怖と不安は如何ほどのものか、、、。
司令船オディッセイからアクエリアス(月面着陸船)を救命ボートに見立てて乗り移り、そこの環境にデータを移動し本来の目的を離れた地球に帰る為の作業に取り組むことになる。(但しこの着陸船は2人乗りであり、3人乗ってしまった為、二酸化炭素排出量の計算が狂う)。
アクエリアスにとって未知の働きを強制することとなり、対応を聴かれたメーカーもお手上げ状態となる。
(当然のこと、そのような仕様で作られてはいない)。

短期作業用の着陸船の二酸化炭素の除去能力では不十分となり、濾過装置を司令船から着陸船に移設する必要が生じた。
しかし二酸化炭素フィルターの規格が異なる(丸と四角と形状が異なる)為、それを船内に在る物を利用して組み立てざるを得なくなり、管制センターのメンバーでそれを試行錯誤して作りあげ、クルーに伝えて船内(無重力のなか)で工作する。テープや紙やビニルを使った恐ろしくローテックな手作業に癇癪を起す姿には共感する。
その後も耐熱シールドの破損や電力節約のための低温によるクルーの体調維持(排尿の我慢は寒さよりも体に悪い)、パラシュートの凍結など様々な問題・危惧が段階的にもちあがってくる。

機内と管制センターとの深刻な事態を巡っての緊密なやり取りが続く。
船内クルーも宇宙センター職員たちののストレスも高まる。フレッドは発熱するが他の2人もこれまでにない負荷に耐えてゆく。乗組員の家庭の不安と絶望は次第に強くなる。待つ身の辛さ、、、ジムの妻がもう見送りに出たくないと言った気持ちが分かる。
前代未聞のトラブルに見舞われた管制塔は即答に窮して混乱するが、高い指導力を持ったジーンの指揮により一つにまとまる。
そして落胆して寝ていたケンは宇宙センターに呼び出される。電力の深刻な問題を解決しなければならない。
誰よりも操作系に詳しいケンのシュミレーションの繰り返しから電力消費を抑え補充する手順をやっとのことで導き出す。
(ケンの粘り強いシュミレーション実験が無ければ電池切れで帰還は実現不可能であっただろう)。

Apollo 13 003

ジーン・クランツ(エド・ハリス)がとても頼もしかった。
こうしたパニック時にはっきりした方向性の打ち出せる強いリーダーがいるかいないかで結果が大きく違ってくる。
余計な迷いはアポロ13号乗組員の死を意味する。

3人は月の裏側を周り、月面上に自分たちが着陸しサンプルを取るはずの場所(フラ・マウロ高地)を具に眺めながらの、いざ帰還となる。
何と複雑な気持ちであろうか。
それよりも、機械船を切り離したときの損傷の激しさに3人が驚愕していたシーンの印象が強い。
酸素などのタンクを保護するカバーのほとんどが吹き飛んでいた。
まさに生きた心地がしなかった瞬間であろう。
(誰もそれほどのトラブルとは思ってもみなかったのだ)。

最後のもっとも大変な操作が地球に対し司令船の大気圏突入角度を手動で定め機体を安定させることであった。
これは至難な業に思えた。
何とアクエリアスの降下用エンジンを噴射して軌道修正を行うのだ。
ジムでなければ角度が深すぎて燃え尽きるか、浅すぎて大気圏で跳ね飛ばされるかであったはず。
しかし実は宇宙センターの計算では、やや突入角度が浅いことが危惧されていた。しかしそれを伝えて直せる時間の余裕はすでになかった。ここでもジーンの采配は冴えている。迷いもせず、「伝えるな!」である。
これは、二度とない奇跡の生還でもあったのだ。

Apollo 13 001

結局、ケンの風疹は発症せず、医師の誤診であった。
これがかえって幸いしたのであろう。
トラブルの原因は酸素タンクのコイルの欠陥であることが後に判明している。
乗組員の操作ミスなどは基本的にはない(攪拌機のスイッチを入れたことが引き金とはなるが)。
本部からケンが距離を置いて電力を保持する操作手順をひねり出してくれた功績は大きい。

VFXがもっとも活きている映画だ。
まず角度的に撮影不可能のシーンが鮮やかに映っている。
ディテール描写も素晴らしい。
計器盤の上の無数の結露は回路を短絡させ発火に導く恐れもあり(アポロ1号の事故のトラウマから)、ジャックが指示に従う際に一瞬ためらう、、、など。
臨場感が記録映画とは違う質をもっている。
再現性の次元が違う。
キャストも皆良かったが、ゲイリー・シニーズがこれまでで一番良い役をやっていたように思う。

Apollo 13 006

クルーの心身消耗したギリギリのところでの闘い。
宇宙センタースタッフの生死のかかった難問に挑む気迫も充分迫って来た。
家族(特に幼い娘)の不安は観ていて辛くなる。
この3つの場所のドラマがジワジワと緊張感を高めて絡んでゆき最後にカタストロフ~万歳で締めくくられる。
われわれは結果は分かっているにも拘らず、大気圏突入後、交信の途絶えは通常3分半までとされるも4分半まで待たされると本当に心細くなってゆく、、、。
パラシュートでゆっくり降りて来る司令船から通信が入った際は、もう感動するしかなかった。
過剰な演出のない事実に沿った細密な描写には好感をもつ。

Apollo 13 004
「成功した失敗」と讃えられたという。
結果的に讃えらえたが、こんな目に逢いたいと思う人はまずいないであろう、、、。
なお、ケン・マッティングレイはアポロ16号に搭乗している。
(恐らく意地がある。ちなみに一度も風疹は発症していない)。

下手なSFでは到底届かぬ緻密なディテールがあった。
SF映画を作るならこの精度でやってもらいたい。






プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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