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戦艦ポチョムキン

Battleship Potemkin003

Броненосец «Потёмкин»
(Battleship Potemkin)
1925年
ソ連

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督・脚本
ディミトリー・ショスタコーヴィッチ音楽

アレクサンドル・アントノーフ
グリゴリー・アレクサンドロフ
ウラジミール・バルスキー


モノクロのサイレント。それであることで、不滅の傑作となっている面は大きい。
その抽象性の高さから、、、。
さらにモンタージュ技法(カッティング・エディティング)~複数カットの組み合わせ・構成により一つの意味~新たな意味を生成する。(しかし考えてみればワンショット、ワンシーン以外は基本的にモンタージュと謂えよう、、、)。
異質なショットをどのように接続するか、これはとても創造的で極めて映画的な(自覚的な)実験でもあったはず。
後の映画への手本となった事は確かであろう。

美しい光と影~シルエットによる映像。
その映像に寄り添う音楽。
戦艦ポチョムキン機関室のメカの動き~連動とゆっくり立ち上がる大砲。
激しく揺れる波頭。
陰影の深い群衆。

蛆虫の入ったスープや腐った肉に怒り戦艦ポチョムキンの水兵たちが船上ストを決行する。
蛆入りスープに不服の者は銃殺だ、とは上官もよく言ったものである。
この時期、もう慢性的になっていた圧制に誰もが従うしかないような諦観のムードが甲板に広がったときに、「兄弟を撃とうとするのか!」の一声で皆、我に返る。
上官を次々に海にぶち込み「海の底で蛆虫に喰われろ!」は傑作であった。
しかしその時、このクーデターの火付け役となった男は撃ち殺されてしまう。

「スプ-ン一杯のス-プのために殺された」水夫の亡骸に寄り集まって来るオデッサの群衆。
蛆虫スープから起きた船員の反乱が民衆の帝政への不満を爆発させる流れとなる。
この長い階段もモニュメンタルであるが、降りて来る群衆も多種多様で、個々に際立つ。
反体制への民衆の感情の高ぶりがじわじわと高揚して行く。
(このあたりのプロパガンダ性もかなりのもの)。

Battleship Potemkin002  The Untouchables008

「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ)の乳母車はここから来た。*左画像
ここの虐殺は冷酷無比で凄まじいものである。
撃ち殺された子供の身体を踏みつけ蹴飛ばしてゆく民衆。
そしてうら若い母親が撃ち殺されて倒れた弾みでカタカタと階段を下って行く乳母車。
これは、当時としてはショッキングな映像であったと想われる。
(今見ても充分にショッキング)。

Battleship Potemkin004  Francis Bacon008

フランシス・ベーコンによる『戦艦ポチョムキン』の中の保母のための習作の元画像をとくと観た。
アップの使われ方が実に的確で効果的。

キャストの多彩さも驚く。特にオデッサの階段にて。
下半身のない人から赤ん坊まで、、、民衆の蜂起に対し政府軍の惨殺が行われるドラマチックな階段である。
ここでの虐殺はとても惨い。何度見てもキツイ場面だ。

Battleship Potemkin001

「皆は一人の為、一人は皆の為」、、、わたしの中学時代の運動会の集団競技(組体操)で掲げられていた文句で懐かしい(笑。
氾濫の元となったポチョムキンを追尾する敵戦艦といよいよ対峙することとなる。
中央突破を図り、万全の砲撃体制を敷いて臨む戦艦ポチョムキンであるが、相手の戦艦から赤旗があがる。
最後は、黒海艦隊の多くの戦艦からの同調を得て、「兄弟よ」と叫び、彼らもその戦隊に入って行くのだった。
何というのか、ハッピーエンドなのか、、、。

Battleship Potemkin005

史実についての知識はないが、とても臨場感あるリアルな映像体験となった。
モノクロのサイレント。
この表現の雄弁さを充分に味わえた。

不滅の作品であることを実感した。







愛を綴る女

Mal de pierres001

Mal de pierres
2016年
フランス・ベルギー・カナダ

ニコール・ガルシア監督・脚本
ミレーナ・アグス原作
ジャック・フィエスキ脚本

マリオン・コティヤール、、、ガブリエル
ルイ・ガレル、、、アンドレ(帰還兵)
アレックス・ブレンデミュール、、、ジョゼ(ガブリエルの夫)


如何にもフランスの映画である。
「結石」か?
それと南仏とはラヴェンダーなのか、、、。その畑が広がっているではないか。
「プロヴァンスの贈り物」もラヴェンダーであった。それを窓辺に置いておくとサソリがこないとか、、、?

一昨日の軽めのマリオン・コティヤールとは打って変わって、とても危なくエキセントリックで重い。
わたしの知る限り、最も軽いマリオンさんはリック・ベンソンの”taxi”(プジョー406がやたらとカッコよい(笑)であるが、そこから見るとどれ程重いか、、、。
しかし過剰に重苦しくもなく淡々と進み、洗練されていてお洒落(スタイリッシュ)でもある。
この辺の美学で内容がかなりきつくても惹き込まれてしまうに充分なものが在る。

Mal de pierres002

情緒不安定で激しく直情型のガブリエルの扱いに苦慮し、両親は自分の農園に働く堅実なジョゼに娘を任せようとする。
結局二人は結婚することになるが、絶対にガブリエルは彼を愛する気はないという。
それからの結婚生活は、ジョゼにとっては砂を噛むような生活であったか、、、。
彼女は夫を拒み、あくまでも自分の恋を追い求める。そうしたなか、彼女は「結石」で独り療養所生活を送ることとなる。
ジョゼは、高い療養費も工面し、彼女を救うため献身的に尽くす。
その施設でガブリエルは病に苦しむ帰還兵に恋する。彼は日々苦痛に苛まれており、彼女に魅力を覚えても受け容れられる状況ではない。だがお互いの好意は確認し合う。
その士官は或る日、救急車に乗せられ病院へと運ばれてゆく。
丁度その前日、夫も彼女の見舞いに訪れ、その士官とも語り合っており、彼女がその士官の乗る救急車を狂ったように追いすがって駆けてゆくところも見届けている。
療養所を去って病院に運ばれると大概、亡くなることがこれまでの流れのようであったが、その夜(アンドレは)君に会いに来た、と言って彼女の元にやって来る。彼女はとても喜び感動する。その夜、ふたりは初めて結ばれる。
彼女は退院することとなり、夫が新築したピアノのある綺麗な新居に戻るが、士官のことを変わらず愛する彼女は手紙を書き続ける。
子供が生まれるとき、彼女はアンドレの子であると信じていた。
手紙をいくら綴っても返事は来なかったのだが、、、。

後に、ジョゼから衝撃の事実が告げられる。
あの夜、眠れなくて戻って来たのは自分であったと。
そして、息子のコンクールでやって来た場所がかの士官の住むアパートの傍であることを知り、彼女はタクシーを降りそこを訊ねる。するとアンドレの部下に出くわし、彼が病院ですぐに亡くなっていたことを知らされる。
事態の全貌を彼女は把握するが、一つ気になることがあり、鞄に潜めてあったアンドレと一緒に撮った写真を確認してみた。
驚くべきことに、その写真には彼女一人しか写っていなかったのだ。
(これにはこちらもギョッとする。鞄にその写真をしまう時、綺麗に二人で写っていたからだ。つまり彼女のその時の意識のあり様~表象である)。

Mal de pierres003

「君に生きてもらいたかった」
わたしもそうだ。
もうどうしょもない、もうお手上げだと思うことが連続していても究極的にその意識で繋がり続けている。
過去帳から遡って今の本人に関わるような、、、上杉精文氏みたいだが、、、そんな相対し方しかない相手はある。
言うに及ばぬ、うちの場合娘たちであるが、ジョゼの場合のガブリエルだ。

ここでは基本的に、ジョゼは息子が自分の子である確信の元、彼女の不貞を耐えられた~見守れたと言える。
しかし、のっけからガブリエルの性格とその精神状態は良く分かっていたにせよ、あの療養施設において彼女にはアンドレと夫との区別がつかなかったのだろうか、それほどの精神状況であったのか、、、統合失調症の幻覚状態にあったことになるのだろうが、、、見方を変えれば夫はそれをうまく利用したとも謂える。
そして息子が長じてピアノコンクールに出場するまでとなるが、彼はそのことをずっと黙っていた。
「君に生きてもらいたかった」からである。

Mal de pierres004

亡くなった帰還兵が療養所で弾いていた「舟歌」(チャイコフスキー)を息子に弾かせる。
これは夫のジョゼも知らない彼女の秘密の想いである。
こういう秘密は、きっと誰もがもっているものかも知れない。
息子はそれを弾いてコンクールで二位に輝く。

「これがあなたの生まれ故郷なのね」とガブリエルがジョゼに優しく微笑みかけるラストシーンで、こちらもホッと安心する。
ここで「結石」が初めて溶けたのだ。
彼女の中に永く巣食ってきた何か~苦しい拘り~から解放されたのだ。


マリオン・コティヤールという女優はどのような役でもはまり役という感じに熟してしまうが、「たかが世界の終わり」の穏やかで静かな役がとても懐かしい(好ましい)?気がした(笑。
ジョゼ役のアレックス・ブレンデミュールの抑えた禁欲的な演技は光った。
その人相がタルコフスキーを想わせ、余計に重厚さを増した(笑。


それにしてもこれくらいのレベルのSFはないのか(怒。。
(まだ拘っている(笑)。

神々のたそがれ」の衝撃がじわじわと来ている、、、。








プロヴァンスの贈りもの

A Good Year002

A Good Year
2006年
アメリカ

リドリー・スコット監督・製作
マーク・クライン脚本
ピーター・メイル原作
マルク・ストライテンフェルト音楽

ラッセル・クロウ 、、、マックス・スキナー(金融トレーダー)
マリオン・コティヤール 、、、ファニー・シュナル(レストラン経営者)
フレディ・ハイモア 、、、少年時代のマックス
アルバート・フィニー 、、、ヘンリーおじさん(富豪のワイン醸造家)
アビー・コーニッシュ 、、、クリスティ・ロバーツ(ヘンリーの娘)
ディディエ・ブルドン 、、、フランシス・デュフロ(ワイン醸造職人)
トム・ホランダー 、、、チャーリー・ウィリス(マックスの親友、不動産屋)
ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ 、、、ナタリー・オーゼ(公証人)


「当たり年」、、、粋な題名である。「ワインの当たり年」。
「プロヴァンスの贈りもの」というのも雰囲気的には分かる。

リドリー・スコット監督というのがよく分からなかったが、彼自身がプロヴァンスにブドウ園を持っていてその話を映画にしたかったそうだ。
何とも贅沢な趣味~映画だ。
(趣味で作ってみたのかも知れない)。
彼特有の光と物質感がほとんど感じられなかったのだが、、、。
ここはレンブラントではなく、ゴッホの地である。
(しかしゴッホならではの物質性を発揮してもらいたいところではあった)。

A Good Year004

えげつないトレーダーとしてロンドンで大儲けしてきたマックス・スキナーであったが、唯一こころを許していた(育ての親)叔父の死去により、その遺産相続を巡り、プロヴァンスの叔父ヘンリーの邸宅に数十年ぶりに帰る。
叔父は正式な遺言状を書いていなかったために、最も近い血縁のマックスが遺産の全てを相続することとなったが、マックスにはそこを(ブドウ園も)引き継ぐ気など全くなかった。
そもそも彼の頭には金融トレードでぼろ儲けすることしかないのだ。
そこに着いてもひっきりなしに会社からの電話で携帯は鳴りっぱなし。
ゆっくりなどしていられない(彼もそのつもりはない)。

すぐにブドウ園も含め屋敷ごと売却して戻ろうとするが、場所にまつわる記憶が蘇って来る。
想いが膨れてきて、結局プロヴァンスに予定を越えて滞在することとなる。
更に、素敵な女性ファニー・シュナルに出逢い、気持ちが揺らぐ。

場所というものは、人にとって大きい。
場所がヒトを変えてゆく。

A Good Year003

そこに、叔父の娘と名乗るクリスティが突然やって来る。
皆ビックリはするが、快く迎え入れる。
遺言を残していない以上、娘が現れたら遺産はそちらに流れてしまう。
(嫡子も非嫡子も相続権は同等であるとのこと。やはりフランスである)。
マックスはすでに充分に金持ちであるが、穏やかではない。
金はいくらでも欲しいのだ。
だが、叔父を知る周りの人間は、皆彼女の鼻を観れば、間違いなく叔父の娘だと分かると口をそろえる。
その辺は寛容というか、のんびりというか、マックスの相手の裏をかき、日々生き馬の目を抜くような生活からは感覚的にも大いに隔たっている。

そのやけにワインに詳しい娘は、ただ父親の事を知りたくてアメリカ(カリフォルニア)からやって来ただけだという。
すこし滞在した後に帰ると言って出てゆく。

A Good Year001

その屋敷やブドウ畑など想い出の場所に触れるにつれ、次第にマックスのなかの何かが変わって行く。
そして叔父と暮らしていた少年時代の思い出の中に、この地で出逢ったファニーがいたことを思い出す。
彼女も彼と同様にこの地が故郷ではなく毎年母に連れられて来ており、ヘンリー宅にも訪れていた。
少年のマックスと少女のファニーは、ある夏のプールで出逢い、彼女は彼に詩の一節を囁いていた。
その出来事は彼女もほぼ同時期に思い出す。彼はその詩をしっかり覚えていた。

彼は叔父の字体を真似ることが得意で子供のころから書類のサインは代わりにやっていた。
彼はクリスティに自分が書いた叔父の遺書を渡し、彼女に叔父の遺産相続権を譲る。
そして自分は、会社を多額の退職金を受け取って辞め、プロヴァンスの叔父の家に移り住む。
ファニーと共に暮らすために。
クリスティはそこのブドウ園をフランシスと共に守って行くことになった。
「ル・コワン・ペルデュ」というブティックワインである。
飲んでみたくなるワインだ。
(最近まともに飲んでいないが、以前山梨のワイナリーで飲んだ甘口の貴腐ワインがまた飲みたくなってしまった)。

マックスはチャーリーからのんびり生きることなど出来るはずがない。すぐに飽きてこっちに戻りたくなる。と言われるが、彼はそのつもりはないことを伝える。

都会から田舎に移り住むことで癒される、という幻想があるが、プロヴァンスと謂う場所と、そこが彼自身のルーツでもあること、これが説得力となっているか(わたしも南仏に対する憧れは強い。だがプロヴァンスの人を魅了する自然の質感とそれが主人公に浸透して行く過程がいまひとつ窺えないのだ)。
いやそこに少年期に出逢ってずっと意識下に潜在していた想いが、ミューズのかたちをとって白日のもとに現れたことが何より大きかったのだろう。
リドリー・スコットの異色作品ととれる、ホッとする力の抜けた良い映画ではあったが、、、。

ラブコメでも、リドリー・スコットならではの質感があれば、、、という気はやはりする。
他の監督が撮ったといっても、分からない映画に思えた。







ジェーン・カンピオン短編集

A GIRLS OWN STORY

1984年
オーストラリア

”PEEL”
”PASSIONLESS MOMENT”
”A GIRL'S OWN STORY”

ジェーン・カンピオン監督・脚本・製作・撮影


ジェーン・カンピオンの初期短編集である。

学生時代の作品というから確かに初期であろう。
タルコフスキーの「ローラーとバイオリン」が大学の卒業制作という事に圧倒されたが、、、
何よりタルコフスキーが初めからタルコフスキーであったことの驚きが大きかった。
これらが「ピアノレッスン」に繋がる作品かどうか、何とも言えないが、とてもこそばゆい面白さをもった作品集である。
勿論、センス(ユーモアのセンスを含む)や着眼点はとても鋭く感じるが。


”PEEL”(オレンジの皮)は赤毛の頑固者パイ一家のトリオの肖像である(笑。
車が遅れていることに妹が不機嫌となりしきりに文句を言う、運転手の兄は妹のその様子に苛立ち、彼の息子は何故かずっとむくれていてミカンの皮を窓から道路に投げ捨てている。
車のなかは不穏な空気が充満してくる。
兄はついに怒り息子を車から降ろし、投げ捨てた全ての皮を拾い集めて来るように言い渡す。
暫く放って置いてから息子を見つけに戻ると、皮を拾えるだけ拾って座り込んでいた。
兄は息子を肩車して車のところまで戻って来るが、その時妹は、、、。
もう時間の遅れも限界を破っており、怒りを通り越した放心状態で、剥いたミカンを手にしている。
下には皮が捨ててあり、甥が皮を拾えと叔母に突っかかる(爆。
突然、最後に3人の(行ってしまった)目が大映しになり、急いでいたはずなのに車は止まったきりで、何故か息子が車の屋根の上で飛び撥ねている、、、。

~ホラー映画であったことを知る。
(家でもどうしようもないホラー域に追い込まれることは、多い。他人事として苦笑したいところなのだが)。


”PASSIONLESS MOMENT”(無為の瞬間)は短い断片のオムニバスである。
散文詩的な日常の情景の一齣が切り出されたもの。
作為を感じさせない一角~細部が妙に夢の欠片にも思える。

わたしは、日曜日に6枚のワイシャツにアイロンをかけるエドのエピソードが妙に印象に残った。
ビールを呑みながら、ラグビーの試合で活躍した頃を思い浮かべながらシャツにアイロンを1枚1枚かけてゆく。
ひと休憩しているうちに5缶空けてしまう。もうラグビーなど遠い昔のビール腹だ。
それだけの光景なのだが、、、。

ジーンズを洗いながら昔流行ったモンキーズのテーマを唄う男も良い。
「頑張れスリーピージーンズ!スリーピージーンズを洗おう。」
唄いながらハタと気づく。こんな歌詞だっけ?と。こんな歌詞ある訳ないだろうと気付く。
でも気にしないで今日も唄ってしまう。
これも分かる。自分も結構いい加減な歌を唄ってきた気がする(笑。

それから、、、
「キツツキはいない」(これがこのオムニバスの邦題になっている)。
コンコンという木の鳴る音に「日本の拍子木を叩いている音かしら」と思う主婦。
オーストラリアでふとそう感じるというのも、その女性手元を見ると花を活けている。日本流の華道であることで納得。
しかしまだ聞こえるその音が、キツツキの音にも受け取れて、外を観てみるとご近所さんが布団を叩いていただけであった。
布団を叩いた音にしてはちょっと、、、と訝りながらも、オーストラリアにキツツキはいないわね、という日本文化に造詣の深い婦人の御話。わたしには、拍子木を叩いている音にしか聴こえないが。

「スコッティのデザインは世界一」は、VHSジャケット写真につかわれているもの。
「無数の瞬間がある。個々の瞬間は、はかなく 生まれたと同時に消えていく」
女の子が何やらモノポリーの札をスコッティの箱に乗せたりしながらちょっと哲学的な物思いに耽る。
(うちの娘も折り紙などで、黙々と不可思議なことに何やら専念しているのを時折見かける)。

「焦点距離」は男同士のカップル登場。男が相手を睨み何やら(浮気に)腹を立てているようだが、睨まれている方は意に介さないで淡々としている。
何故、2つの物に同時に焦点が結ばないのか、と腹を立てている恋人そっちのけで焦点距離の説明図を頭の中に想いうかべている。
そもそも最初からこの2人、カップル不可能だろう、と思うのだが(笑。

耳鳴りを聴きながら寝転んでいて、「綿ほこりは天使だ」と母親が言っていたことを想いうかべる。
そして、そろそろ結婚しようかな~と迷っている男の噺。
この赤の他人の全くどうでもよい想いに何故か郷愁を覚えてしまう。
別に共感したい気など微塵もないにも関わらず、、、。

その他にも、誰もが恐らく経験しているマメを持って早く家に入らないと爆発するなどという「独り想いこみゲーム」や挨拶されたと思い、愛想良い顔を向けたがどうやら思い違いだった噺とか、これは単なるあるある噺かというようなものまで、、、

このオムニバスは何度か観たくなる微妙な味がある。


”A GIRL'S OWN STORY”これは、構想を練り上げきっちり作られた短編映画と謂えよう。
演出が効果的だし、「間」と「モノ」~ガジェットの使い方がとてもしっくりしており安心して観てゆける。

思春期の少女の性への好奇心、肉親への反発、微妙な友達関係、妄想や恋愛感情、無防備で過激な行為、、など瑞々しくも危なっかしく綴られる。
ビートルズが好きで写真の切り抜きにキスしたり、テニスラケットをギターにしてトリオで”I Should Have Known Better”を唄ってみたり、、、。
キャストが生々しく素人臭い女子ばかりで、臨場感が半端ではない(爆。
特にヒロイン?女子の存在感、、、こういう娘、確かにいる。

高校の文化祭的な雰囲気で、身近な息遣いを感じる。
コミカルでキッチュでむず痒く、、、この時期の戸惑いや反撥、好奇心、憧れに充ちてゆく。
最後の歌が何とも言えない哀愁を湛える。この時期流行ったリリカルなサウンドだ(ビートルズの頃にはなかった)。
「寒いわ 寒いわ
ここはとても寒いわ
溶けてしまいたい」
生きづらさや不安を切々と訴えてはいる。
彼女らのヒリツキがダイレクトに感じられ、どこか爽やかな気分に浸れた。



「神々のたそがれ」を観た後では、生半可な大作を観る気にならない。
このような小品集でそよ風に吹かれたいと思った、、、。
そして、久々にビートルズを聴いてみた。やはりビートルズはビートルズである。


神々のたそがれ

Hard to Be a God001

Hard to Be a God
2013年
ロシア

アレクセイ・ゲルマン監督・脚本
スヴェトラーナ・カルマリータ脚本(ゲルマン死後、妻が引き継ぎ完成)

ストルガツキー兄弟「神様はつらい」原作

レオニード・ヤルモルニク、、、ドン・ルマータ (地球人の「神」)
アレクサンドル・チュトゥコ、、、ドン・レバ(反動的指導者)
ユーリー・ツリーロ、、、男爵
エヴゲーニー・ゲルチャコフ、、、医師ブダフ
ナタリア・マテーワ、、、アリ


これは「SF映画」であるらしい。タルコフスキーの「ソラリス」もSFの枠に入ってはいるが、神学的な哲学作品であろう。
その意味で、これも舞台設定だけは地球より800年くらい遅れた丁度ルネサンス初期に当たる?ある惑星に30人ほど派遣された地球の学者が神の立場で彼らに関わる(観察する)噺であるか、、、噺などというものではないのだが、、、。


「そう言えば、最近映画界に非常に才能ある人間が現れたよ。
レニングラードのアレクセイ・ゲルマンだ。」(タルコフスキー談より)
実際にこの映画を彼が観たら何と評することだろう。

「ルートヴィヒ 神々の黄昏」は、ルキーノ・ヴィスコンティの豪華絢爛な美しくも虚しい傑作であるが、こちらはロシアのアレクセイ・ゲルマン監督のもの。
これを「映画」という枠で語れるのかどうかすら疑わしい、前代未聞、空前絶後の映像作品である。
絵画ではヒエロニムス・ボスが描き得た世界に近いようにも思うが、、、。

Hard to Be a God005

ルネサンスに当たると謂っても非常に反動的な体制が敷かれ、書物を焼いたり、大学を潰したり、知識人・学者を追いやったり処刑したりを繰り返す社会である。(中世という方が当たっていよう)。
商人が幅を利かせていて、灰色隊という組織も蔓延り、残虐な殺戮が日常的に行われている。
アルカナルという都市を舞台に描く、、、(ロシアの何処かの田舎であろうか、、、)。

そんな内容を語ってもおよそ意味のないこと。
ストーリーとして俯瞰する視座~空間を与えない画像で3時間充填されているのだ。
ヒトが他者の身体性を常に侵犯して接触し合い押し合い圧し合い、殺し合い、唾を吐き、血や内臓がドロドロ滴り落ち、糞尿やその他の汚物塗れの雨水でグチャグチャの地を徘徊しのた打ち回る。
ともかく狭い空間にヒトや動物が寄り集まり重なり合い妙なものを食べ、疫病も流行ってあたりまえな空気がこちらにまで漂ってくるような息苦しさを覚える。

映像の力とはこのように惨たらしくも作用するのだ。
「混沌の地獄絵図」などと距離を持って冷静に語れない強度。
キャストの嘲りがあからさまにこちらに向けられているところもある。

Hard to Be a God002

そう、キャストがこちら(視聴者)を意識しているかのようなカメラ目線を送って来るのは何故なのか?
なかには手や物でカメラレンズを遮る真似をする演者もいる。
われわれと彼らが地続きであることを示しているのか?
こういう人々の神となったらさぞつらいだろう、、、と、観ていて思っていたが、その世界はこの世界でもあるのか?
めくるめく距離感すら定かでなくなってくるのだ。
ドキュメンタリータッチと謂うか、、、
「この体験」という同時性において。

ある意味、いや厳然とこのような知的退行は今、起きているのだと思う。
その実感は充分にもっている。
特に自己投影、狂信、不寛容において、、、。
また、ドン・ルマータに「何をやってみても結果は同じだ、、、。」(搾取の構造は変わらない)とも言わせている。

Hard to Be a God003

このような作品をどうやって製作するのか、過程が想像できない。
ただ、ディテールに拘り続け、撮影に6年、編集に5年を費やし、最後の段階で監督自身が亡くなっているという。
映画を観てから、これだけ知ってもその壮絶さに気の遠くなる想いだ。
(よくキャストの精神が持ったと思う)。
しかも撮影は、パラジャーノフの「スラム砦の伝説」のユーリー・クリメンコが担当しているとのこと。
全然違うので驚く。やはり監督の采配で固められている。
彼のスワンソングであるか。

Hard to Be a God004

セルゲイ・エイゼンシュテイン、アンドレイ・タルコフスキー、セルゲイ・パラジャーノフ、アレクサンドル・ソクーロフ、、、に並ぶソ連~ロシアの危険で凄まじい映画監督を知った。

その怪物度からすると独り際立つ。
まさに途轍もない監督の、ことばなど寄せ付けない(無意味になる)映像作品であった。



この作品、わたしはDVDを購入していたが、Blu-ray版の付録映像がとても充実しているということを知った。
わたしの知りたかったメイキング映像がふんだんに入っているとのこと、、、。
監督のインタビューも、、、。残念。
購入を検討している人は、Blu-ray版がお得であると想われる。きっと。







エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜

La Môme003

La Môme
2007年
フランス

オリヴィエ・ダアン監督
イザベル・ソベルマン脚本

マリオン・コティヤール 、、、エディット・ピアフ
シルヴィー・テステュー 、、、モモーヌ(悪友)
パスカル・グレゴリー 、、、ルイ・バリエ
エマニュエル・セニエ 、、、ティティーヌ(エディットを保護する娼婦)
ジャン=ポール・ルーヴ 、、、ルイ・ガション
ジェラール・ドパルデュー 、、、ルイ・ルプレ(名門クラブのオーナー)
クロチルド・クロ 、、、アネッタ
ジャン=ピエール・マルタンス 、、、マルセル・セルダン(プロボクサー、恋人)
カトリーヌ・アレグレ 、、、ルイーズ
マルク・バルベ 、、、レイモン・アッソ
カロリーヌ・シロル 、、、マレーネ・デートリッヒ
マノン・シュヴァリエ 、、、エディット・ピアフ(5歳)
ポリーヌ・ビュルレ 、、、エディット・ピアフ(10歳)

インセプション」、「ミッドナイト・イン・パリ」、「コンテイジョン」、「たかが世界の終わり」、「 美しい妹」、、、
全てまったくイメージが異なる女性を演じているが、、、(「愛を綴る女」と「プロヴァンスの贈り物」も持っているので、近いうちに観たい)、、、このエディットピアフへの変貌ぶりは徹底している。「モンスター」のシャーリーズ・セロン(アカデミー主演女優賞)とはまた違うが、凄いものだ。
そう謂えば、ニコール・キッドマンもヴァージニア・ウルフ役「めぐりあう時間たち」で アカデミー主演女優賞であった。
3人ともえらく顔を変形して受賞している。パッと見ではその女優とは気づくまい。
そのままの(美しい)顔ではどうやらアカデミー賞は無理なのか、、、。
余計なことを思ってしまった。

ブラック・スワン」のナタリー・ポートマンは、そのままの顔で受賞したことを思い出した。
(あれは、バレエで体の苦行がかなりあったはずだが、、、ともかく何処か無理をする必要はありそうだ)。


わたしは映画にもシャンソンにも疎いほうだが、ピアフは少し聴いた覚えはある。
恋多き女性とも聞いていたが、ここではいちいち皆を取り上げるようなことはしていない。
(すべて紹介していては冗長になるだけであろう)。

La Môme001

昨日の「美しい妹」がグランジなフレンチロックという感じであったが、これはフランスの国民的歌手の生涯を綴るシャンソンそのものの映画である。
「愛の讃歌」は日本人でも知らぬうちに幼いころから耳に馴染んでいるであろうピアフ作詞の名曲中の名曲だ。
(わたしは越路吹雪の歌で知らぬうちに聴いていた)。

何と謂ってもマリオン・コティヤールが若い時期(二十歳代)から死ぬ間際の歳まで違和感なく演技で表現しきっているところは特筆ものである。(「ラ・マルセイエーズ」を唄った子役もなかなか堂々とした演技であった)。
姿勢や所作の癖や難しい性格を非常に詳しく研究したことはよくわかるが、、、あの弱弱しさ、ぎこちなさ、猫背、マリオンの元の体格からは想像できない小柄振り、だがあの喜怒哀楽の激しさに熱唱(ピアフの音源)スタイル、、、ピアフが憑依したかのような鬼気迫る繊細な演技であった。

La Môme002

彼女の幼い時期と最盛期と晩年の各シーンが頻繁に交錯しながら進んでゆくが、内容的に自然な展開となっていた。
その記憶の接合でエモーショナルな流れが切断されることはなかった。
その構成は見事であった。
特にマルセルが死んでホテルの廊下を狂乱状態で這っていく地続きの先に観客の犇めく舞台が開かれていて(時間系~記憶が接続され)、そこでそのまま歌うことになるその残酷さは映像で彼女の宿命を雄弁に見せられたとしか言えない。

La Môme004

それにしても少女期の彼女の環境の凄まじさにはこころが痛んだ。
あの親の放任はありがちであるが、その為の虚弱体質であったかも知れない。
父が彼女が密かに惹かれた人形を知って或る夜プレゼントしてあげたことは、とても嬉しかった。
それくらいの救いがなくてはこちらも観てはいられない。

下町で放置されたり、売春宿に幼くして預けられたり、父に引き連れられ大道芸やサーカスで転々として生活したり、或る時お金を入れる帽子を胸に咄嗟に客の前で「ラ・マルセイエーズ」を唄ってブラボーの大合唱を受け、その時が彼女の歌手人生の始まり~芽生えとなったものか、、、。それから彼女の街頭での歌を聴き、彼女を導いてくれる存在に出会ってもゆく。
捨てる者ばかりではない、チャンスをくれる者も現れる。そして歌の才能で広く人々に認められ、確固たる知名度を得て昇りつめてゆくが、愛には恵まれない。漸く人生をかけて愛せる人が見つかり幸せを掴んだかと思った矢先、相手の乗る旅客機が墜落してしまう。
その後アルコールで痛めてきたからだが更に悪化し、モルヒネ中毒が進行して行く、、、。ステージで倒れ闘病生活となるも、病院にじっとしていられる性格ではない。
晩年、綺麗な砂浜で女性記者から10の質問を受け、一つ一つに極めて穏やかに丁寧に応えてゆく姿は、もうこの世の人を超脱したかのような風情に見えた、、、。
「愛しなさい。愛しなさい。愛しなさい、、、。」~このことばの重みが凄まじい。

悲劇と栄光の数奇な運命などと一言では表せない壮絶な人生に揺さぶられる。

La Môme005

コンサートの後でかのマレーネ・ディートリッヒが彼女の元に訪れ、緊張するピアフに対し「歌を聴いてしばし、私の心はパリへ旅をしました。あなたの歌にはパリの魂がある」と言われ満面の笑顔で喜んで、そのまま恋人のマルセルと車に乗って幸せを噛み締める姿がとても印象に残った。そのマルセルを失い、、、
「愛の讃歌」”Hymne à l'amour”がここで描かれた経緯で作られたというのなら、もう涙なしで聴くことは出来ない。

彼女は純粋に(教理的ではなく)神を崇め信じていた。
最後の頃のコンサートで、あの十字架が無ければ詠えないと強く訴えたことは確かに分かる。
彼女はふたりのマルセル~娘と唯一愛した恋人を失っている。
コンサートに臨んで、あの十字架~想いがこころの礎となっていたのだ。



「エディット・ピアフ」にどっぷり浸かってしまった気がする。

改めてみると、マリオン・コティヤールは見た目もなり切っていた。
映画を観てからこれを聴くとまた感無量である。


ちなみに最後に流れる曲は「水に流して」”Non, je ne regrette rien”
締めくくりにピッタリの曲であった、、、。
まさにピアフの人生の歌である(彼女自身もそう言っていた)。




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美しい妹

LES JOLIES CHOSES001

LES JOLIES CHOSES
(PRETTY THINGS)
2001年
フランス

ジル・パケ=ブランネール監督
ヴィルジニー・デパント脚本

マリオン・コティヤール 、、、マリー/リュシー(双子の姉妹)
ストーミー・バグジー 、、、ニコラ(マリー/リュシーを売り出そうとする友人)
パトリック・ブリュエル 、、、ジャック(大物音楽プロデューサー)
ティトフ 、、、セバスチャン(彼氏)
オフェリエ・ウィンテル、、、ジェシカ(リュシーの友人)


マリオン・コティヤールの存在感が際立つ。

双子というのは難しい。
個性を尊重しつつ公平に接していても、どちらに贔屓したとかどうとか絡んで来る。
うちは二卵性で、普通の姉妹よりも似ていない。
個性も資質も性格も見た目も体格も違う。
その為、違うものとして接してきたが、本人たちは同じように見てもらいたがっていることが思いの外多いように想える。

ここでのマリー/リュシーは完全な一卵性双生児で見分けがつかないほど似ている。
勿論、性格や資質は異なる。
だが、見かけはそっくりなのだ。
服や化粧と表情、所作でこれだけ違う。
というのを魅せるマリオン・コティヤールの演技である。
それが凄い。
はじめは教師の父親に可愛がられるのは、勉強のできる姉のマリーである。妹のリュシーは公然と虐げられる。
出来の悪い子だと。
しかし、父親は家を出てゆく。
8年経って何故か家に戻って来るが、その後は女らしいリュシーがお気に入りとなり、地味なマリーを疎んじる。

この父親、明らかにおかしい。
やがて両親ともに死に、リュシーはパリに行って女優を目指す。
パリのカフェで二コラと出合い、以後彼はマリー/リュシーと深く関わる友人となる。

ここから春夏秋冬の章に分かれ話が展開して行く。が、別に季節ごとに大きく飛躍するわけではなく、話が濃く重くなってゆく展開と謂えようか。

リュシーは歌手デビューのチャンスを掴む。
二コラの曲に姉のマリーの詩で曲を作るが唄うのもマリーに頼む。
歌も唄えない彼女は実質、この過程に全く関与していない。自分のイメージを姉に貸して様子を見てゆくつもりか。
しかし、ライブ(マリーがリュシーとして出た)は、かなりの注目を浴び、成功に終わる。
この結果に対しリュシーは何も言わずに独り窓から飛び降り自殺をしてしまう。
双子の確執とそこから生まれる自意識の強さ~深さはつくづく凄いものだとは日頃から思っているが、これはたらたまらない。

マリーは死んだのはマリーであり、自分は妹のリュシーということにして、警察に伝える。
二コラはそれに反対するが、彼女は金が欲しいからどうしてもリュシーとしてCDを出すと言い張る。
結局、マリーがリシューに成りすます線で進んでゆくことになる。
まずは服や化粧などからリュシーを真似てゆく。
マリーはリュシーの名~イメージでデビューするもすぐにマリーの個性がリシューを呑み込んでしまう。
当然、リシューを知る人からは訝られるが、マリーの存在感がリシューのイメージを塗り替えてゆく。


セバスチャンというマリーの(かつての)彼氏が出所してまず最初にリュシーに逢いに来る。
彼はリュシーと愛し合ったと思っているが、実は元彼女のマリーと愛し合っていた、、、それに気づきびっくりしたところで、彼女に追い出される。何とも微妙な非現実的出来事である。
この出獄して来たセバスチャンという軽い男は双子に二股かけていたのだった。
この男は実質元カレである為、暫く撚りを戻して付き合うが、所詮世界が異なり別れる。

マリー=リシューはパーティに招待され、そこで会う音楽プロジューサーのジャックに目をかけられる。
「何故唄う?」と聞かれ結局、「お金が欲しいの」と返す。
果たしてお金が真の目的なのかどうか、、、分からない。
かなり深い闇を抱えた女性であることからも。

ライブでは若者たちのカリスマとなっており、ジム・モリソン(ドアーズ)の再来とまで讃えられる。
コアなファンをぎっしり抱える身となる。
とてもエキセントリックで危険な匂いを纏うアーティストであり、もうかつてのリュシーの影など何処にもない。
もうすでにだれも最初のリュシーを覚えている者はいない。
リュシーはカリスマアーティスト~若者の神に書き換えられた。
二コラのもとからも離れジャックと共にイメージを巷に浸透させてゆく。

その後、ありがちなマスコミによる旬のアーティストのゴシップ探しで、駆け出しのころのオリジナル・リュシーのポルノヴィデオが発見される。初期リュシーであれば話題にもなるまいが、今の(2代目)リュシーにとってはその神格化されたイメージに大打撃であり事務所(ジャックの)では大騒動となる。ライブを中止してマスコミ対応で切り抜けるかなど策が話し合われるが、もともと2代目にとっては他人事であり、ライブを強行して成功に収める。
その後、ジャックに勧められこのショービジネス界から突然消えることにする。

二コラはマリーとの確執から彼女が成功を収めたあたりから、分かれていたがマリーが全てを捨てて一緒にどこかで生活をしようと持ち掛ける。
彼は断り、マリーは独り旅に発つが、最後は二コラと共に若い頃の思い出に浸っている場面で終わる。

最後に使われている曲”Les Jolies Choses”はそこそこよかったが、わたしとしてはどうせなら所謂フレンチポップスの方が良い(笑。

ヴァネッサ・パラディの”ジョーのタクシー”など最高である。ここには似合わないにしても、魅力弾ける(爆。
またはシャンソンも含めてフランソワーズ・アルディのタッチもたまらない。わたしの永遠の定番。
過激なポップならミレーヌ・ファルメールこれはインパクト充分。
そして何と言っても、、、ブリジット・フォンテーヌであろう。「ラジオのように」はクリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」に並ぶ1969年のアルバムであった。
最後はエディット・ピアフとあいなるか、、、アカデミー主演女優賞の名演のマリオン・コティヤールをまた観てみよう。
無理やり繋ぐ(爆。

Édith Piaf






アシク・ケリブ

ASHIK KERIB001

ASHIK KERIB
1988年


セルゲイ・パラジャーノフ監督 (ダヴィッド・アバシーゼ監督)
ミハイル・レールモントフ原作


〜タルコフスキーに捧ぐ〜

盟友である亡きアンドレイ・タルコフスキーに捧げられた作品である。
この作品がパラジャーノフ監督の遺作ともなった。
(ゴルバチョフのもとペネストロイカによりはじめて映画を自由に作れる身となる。が、これが最後で次作に取り掛かろうとした矢先に、病に倒れ帰らぬ人となる)。

ボーカリゼーションと激しい踊りが全編にわたり響き渡り、「ざくろの色」に近い感覚がある。特に高音のボーカリゼーションと打楽器の融合したうねりが精神の高揚を呼ぶ。
ちょっと民族音楽のミュージカルみたいな趣もある。
吟遊詩人アシク・ケリブの恋物語であり、ミュージカルは合うと思う。
実際、音楽主体の映画に感じた。
(「ザクロの色」とはまた趣きが異なる、、、あちらは音に負けず映像も飛んでもなかった)。

ASHIK KERIB003

噺は見ているうちにどんな話だったか忘れてしまう(どうでもよくなる)ものであるが、吟遊詩人が確か大金持ちの娘に恋をするがその父親(品性下劣な男)に金もないのに何を生意気なという感じで断られてしまう。
吟遊詩人は相手の女性と母に1000日修行をして詩人として身を立てて帰って来ると言い旅立つ。
彼は旅を共にしようと持ち掛けられた男に河を渡る際、衣服を持ち逃げされ、その男は帰るとアシク・ケリブは溺れ死んだと吹聴し、これが証拠だと皆にその服を見せ、母と恋人を深く落胆させる。母は悲嘆の内に絶望から目が見えなくなる。恋人は何であろうが1000日は待ち続ける決心をする。
旅の先々でアシク・ケリブも幾多の苦難に遭遇する~パラジャーノフ自身のように、さらにタルコフスキーのように~それは実際に取り戻せない痛手になってしまうことも多い。

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如何にもお伽噺が下敷きになっているという話の運びである。
目の不自由な人の婚姻で詩を詠み歌を詠うのだ。
耳の不自由な人の婚姻で詩を詠み歌を詠うのだ。
そして将軍の徳を湛える詩を詠み歌を詠うのだ。
戦争の好きな王の為、甲冑を着て楽器を奏で詠うのだ。
、、、といったパタンである。

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シンプルな民族衣装なのか象徴的表現なのか分かりにくいところも多々ある。
これは所作、習慣的に見える行いにしても役者の日常的な感情表現にしても。
恐らくほとんどすべては形を作っているのだと思われるが。
兎も角、エキゾチックなのだ。
夢のように。

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悪役は途轍もない悪役面である。
夢に出てきそうな元型的な顔をしている。
このデフォルメは本質力がある。
日本の能にも通じるものを感じる。
クリムトにも接続する装飾的な象徴性も勿論のこと、、、。

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とても解放感のある喜びの表現が印象的であった。
特に女性の解放的な喜びの表情と踊りはこころに響く。
この監督の映画の登場人物は、所謂絵に描いたような美しい造形の役者ばかりである。
パラジャーノフ監督の様式美の拘りの内なのだろう。

最後にこのような境地に彼も辿り着けたなら、、、こちらも少し安堵できる。


ユーチューブでDVD映像が流れていたのを観たが、随分VHSビデオより画質が良いことに驚いた。
ヴィデオより安いし、これは購入して損はないと思われる。
また、音楽だけ別に聴きたい欲求に駆られるものである。
基本はイランの音だと思う。
しかしインドそのものといった演奏もあり、イラン、中央アジア、そしてコーカサスのアマルガム的なサウンドなのか。
わたしは、このへんの音楽はロックを通して僅かに接して来たに過ぎず、この強烈なエネルギー、その強度は下手なロックなど吹き飛ばすエキサイティングなものである。はっきりワクワクしてくる。

プログレッシブロックのもっとも自覚的な音を出しているアーティストのサウンドにも触れるところが多い。
(このレベルの音に達しているアーティストはごく稀であるが。ロックグループがそのまま演奏して成り立つものもあった)。


善や悪、古さや新しさの彼岸にある作品だ。





スラム砦の伝説

THE LEGEND OF THE SURAM FORTRESS002

THE LEGEND OF THE SURAM FORTRESS
1984年

セルゲイ・パラジャーノフ ダヴィッド・アバシーゼ監督


前作「ざくろの色」が完成したのが1968年であるから16年ぶりの製作であった。
その間、彼はソ連当局によって投獄されていたのだ。
そうしたこともありダヴィッド・アバシーゼ監督がサポートで入っているらしい。

基本的にパラジャーノフの映画作品には言葉を失う。
この映画を観て、ペラペラ感想など語れるものではない。
そのまま暫くの間、胸中で発酵を待つような藝術である。


しかし観終わってみて敢えて謂えば、、、この作品は大人しくなってしまっている。
それでも象徴性を湛えた芳醇な画像に屡々ハッとさせられるが、「ざくろの色」の奇想天外なイメージの畳みかけはほとんど影を潜め、御噺として不思議に分かり易い線状的な構造をとっている。
「ざくろの色」は、そのような時間制は弱く、その推移は章に分けることで表していた。
宗教性も「ざくろの色」程強くはない。
(向こうは度し難い程の熱気と共にあった)。
音楽も噺から溢出する凶暴さはなく、演出効果のうちに心地よく流れるものであった。

噺の内容は、、、
解放された奴隷ドゥルミシハンが恋人ヴァルドーを残し独り旅立つ。金を儲けて必ず迎えに来ると言い残し。
しかし彼は戻らず、金持ちとなるが他の女と結婚し男子をもうけてしまう。
ヴァルドーは彼を諦め、占い師となっていた。
或る日彼女の下をグルジア皇帝の配下の者が訪ね、幾たび建立しても崩壊を繰り返す「スラム砦」を何としても堅牢なものにしたい皇帝の悲願を伝える。祖国を敵の侵入から守るトビリシの南門の砦であり民族の命運の掛かった事業であった。
何とその兵士の中にズラブという(彼女が恋人に子供が出来たらその名にしたいと望んでいたその名を持つ)若い者がいるのだ。
恐らく彼女はそのことに気付いたのだろう。
彼女はその兵士一人その場に残し、若く美しい青い目をした若者を城壁に埋め込み人柱にすれば「スラム砦」は崩壊から免れると密かに答える。
その若者ズラブは、夜自らその城壁に入り込み人柱となる、、、如何にもという古典的な(神話のような)物語である。

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「ざくろの色」のような詩人のめくるめく濃厚で象徴的な世界ではない。
しかしとても豊かな詩情を秘めた、シンプルな噺である。
相変わらずの役者を正面から(固定カメラで)撮る、、、そのまま舞台劇に移行できるような様式美に貫かれた。
シンメトリーを基本とした平面性、、、。
パラジャーノフ以外の誰のものでもない独自の世界であることは間違いない。

THE LEGEND OF THE SURAM FORTRESS004

この映画も傑作であることは言うに及ばない。
だが「ざくろの色」があまりにも圧倒的過ぎた。
「ざくろの色」からそのまま地続きでイメージの奔流に任せていたら、どれ程の傑作~を越えたものが出来ていただろうと思う。
16年のブランク(創造行為の断絶)の及ぼす影響がどれほどのものか想像すら出来ない。
心身に与えたものがどれだけのものか、、、。

とても印象に残ったバグパイプの先生のセリフがある。
「苦痛に打ちひしがれるプロメテウスが鎖を解いたとき、グルジアは解放されるのだ。」
(自身の解放とも重ねているのか、、、)。
流石はタルコフスキーの盟友である。
設定が凄い。

映画としてとても観易く見応えのある(あくまでも「ざくろの色」より)ドラマチックな、美しい作品となっていた。

THE LEGEND OF THE SURAM FORTRESS001




ざくろの色

THE COLOR OF POMEGRANATES001

THE COLOR OF POMEGRANATES
1971年
ソ連

セルゲイ・パラジャーノフ監督
(セルゲイ・ユトケーヴィチ監督再編集版)


中世アルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯を描く。
(まさにアルメニア文化のルーツであるか)
わたしにとっては大変エキゾチックな事象である。
それは、、、
一言で謂えば途轍もなく美しい詩に身を委ねるような体験か。
息を呑む色彩とシンプル(しかもユーモラス)だが途轍もなく厳密な(宗教的な)構図と構成。
そして全編に反復しつつ分厚く溢れる魔術的な民族音楽。
前衛MVである。
まさに。

購入した頃はほぼ3分の1くらいのところで安らかに入眠していた。
余りに気持ちが良いのだ。
不眠症の人には特にお薦めである。

やはり「赤」が鮮烈と謂えるが、何もかもが鮮烈なのだ。
しかしそれは決して神経を逆撫でしない。
かえってこころの深層に共鳴する静けさを本質的に湛えている。
音楽の影響も極めて大きいと謂えるが。
(これが内容もなくただ過剰なショックを与えようとする最近の映画との違いである)。

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映画製作後、当局にフィルムを没収され、75分ほど残った部分で構成されたものだが、それでも彼の最高傑作の誉れ高い作品である。
よく旧作のデジタルリマスターとかBlu-ray高画質版などというが、それ以前の完全な形でのフィルムの修復は望めないのだろうか。
切り取られた部分というかオリジナルが廃棄されていたらもう永遠にそれまでの噺である。
完全版がどれほどのものであっただろうかと、恐ろしささえ感じるものだ。
ただ、この不完全版でもわれわれを呑み込む呪力は充分にもっている。

THE COLOR OF POMEGRANATES002

個性というより独自性(独創)と呼びたい形式である。
パラジャーノフ以外の誰のものでもない生々しい様式美~そのシンメトリックな構図と強烈な色彩の織りなすプリミティブで陶酔的なめくるめく感触。
後は、眠ってしまうか、その世界にのめり込んでゆくか、、、である。
少し距離を置いてみると、どのカットもそのままスチール写真としても一つの作品~いやイコンとして成り立つものであることに気付く。

それぞれのカットがジョルジュ・メリエスの映画みたいな編集手法で手品みたいにポンと変わる。
トランジションを特に入れずに変るところが面白い。
これは、場合によっては切り取られたフィルムのせいであるかも知れぬが、基本的にメリエスと同じ手法であると想われる。

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この監督、余りの前衛さにより20年もの間投獄され、大きな作品は4作?しか撮らずに病に倒れて66歳で亡くなってしまう。
タルコフスキーは亡命するが、どちらにせよ時代に翻弄されたではすまされない、、、残酷なことであり、われわれにとっての途轍もない損失である。

タルコフスキーに並ぶ圧倒的な孤高の才能だと思うが、その宗教性(神学的性質)についても同様に尋常ではない。
映像~ビビットな色彩と過剰に象徴的で芳醇な絵~その構図・構成には終始、目を瞠るばかりであるが、それ以上にやはり音楽であった。まさに映像に溶け込みさらに深みに引き釣り込む強度に充ちた音楽なのだ。サウンドトラックを別に欲しくなるような圧倒的な魅力である。
パラジャーノフのタルコフスキーとの大きな違いは、その空間を埋め尽くす音楽にある。
(タルコフスキーの場合、それが風や雨や火の音に代わる)。

THE COLOR OF POMEGRANATES004

如何せんVHS(しかも随分長い間寝かしておいたメディアで)画質も今一つで、何か滲んだ風合いがあったりする。
暗いところなど潰れが目立ち、はっきり言ってよく見えない。
全体に細部のぼんやりさ加減が気になり雰囲気で受け取るしかない部分も多い。
だが、映像の塊の力はずっしりと伝わって来る。
「、、、世の中から滅ぶものなどないのだ。」(パラジャーノフ)

THE COLOR OF POMEGRANATES007

このような作家の作品は、本当に夢を想わせる形象があからさまに現れ唖然とすることがある。
タルコフスキーしかり、ベルイマンしかり、、、テオ・アンゲロプロス、、、など。
だが、もっとも独自なプリミティブな形でそれが露出してくるのが、このパラジャーノフ監督のものに想える。
それが民族音楽と宗教性の深さ(寧ろ原始的な宗教性)によってとても芳醇な香りすら漂ってきて、、、また眠くなるのだった、、、。
眠らないでは見ることが出来ない映画なのか。

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1992年にダゲレオ出版から出され、一度も最後まで見れずに入眠していたVHSビデオをやっとおしまいまで観た。
とは言え、詩人の一生が8章に分かれて描かれた香り高い映画であったとしか謂えない。
少年時代、青年時代、壮年時代、老年時代とその死まで、それぞれの詩人といい、恋した王妃といい、キャストや衣装が皆エキゾチックで素敵であった。儀式や様々な所作、振舞いも(鶏の捌かれてゆくところなど)全てとても非日常的で、至る所に様式美を感じたものだ。

わたしは、当時これと「アシク・ケリブ」と「スラム砦の伝説」を合わせて買った。どれも観終わらなかった。
1本が8755円である。今からしてみれば、かなり高い。
今ではDVD映画ソフトが安いモノなら1000円で買える。

そう謂えばロックミュージシャンのMVビデオも10000円以上のものが幾つも出ていて、とてもありがたい気持ちで購入していたものだ。そういう価値なのだと思っていたのだ。商品とは須らくそうしたものだ。
当時と今でもっとも価格の変わったものはそうしたメディア類とパソコンである。
パソコンも普通に100万していた。
でも買っていた。(今なら子供のおもちゃレベルのスペックだ)。

ケイトブッシュなどもVHSが出るなりすぐに買った。
VHSビデオは、観たら巻き戻して保管・管理が鉄則だが、わたしは大概観たところで止めておいた。
その為、1万円以上のケイトたちのMVは直ぐに傷んでしまったものだ。
パラジャーノフのソフトにも少し痛みのノイズが入っていた。
他の2作も、今のうち最後まで観ておこう。


これからは、物凄く溜まっているVHSのリソースから面白そうなものを掘り出し、見れるうちに観ておきたい。



ついにBlu-ray版が発売された。この色彩は是非、Blu-rayで観たい。




トラピスト1に寄せて

TRAPPIST 1 001

TRAPPIST-1
みずがめ座の方角にある直径が太陽の10分の1ほどの赤色矮星である。
その惑星が7つも見つかり何れも地球とほぼ同じ大きさ~つまり岩石惑星であることがわかる。
確か2017の2月の事だ。

あの4光年先に見つかったプロキシマ・ケンタウリbが2016年のことであった。
この辺から皆、色めきだったと思う。
それにしても何故これ程、他の惑星の生命に拘るのだろう、、、。
丁度、エドワード・シザーハンズを面白がりたいのと同じ心境か。

究極的には、他者に対する根源的な畏敬の念~神の希求が無意識にあるのか?
第二の地球などという言い方からすると、自分に都合の良い対象を求めるだけの単なる自我の拡張意識からくるものか?
本当にそこに「他者」~エイリアンがいたらどうするつもりなのか?!
生存欲に根差す覇権主義、、、移住を狙っての、、、やはり「新天地」が一番のウエイトか。
、、、個人的な富と名誉と権力欲も絡み、資源をまたも枯渇させて増殖してゆく侵略者たち、、、、


ケプラー宇宙望遠鏡が星のひしめいている明るい場所を捜索している時、見つかった惑星は4000以上、、、と言ってもスーパーアースがほとんどで、大きさが微妙に大きく岩石か氷か分からない惑星ばかりであった。本当に地球型(岩石惑星)と思われるものは20程と謂われている。生命を考えるとまずは岩石惑星が基準となった。しかもそれは3000光年先であったり、500光年先(2014年)であったり、1200光年先(2015年)であったり、でおよそ現実的な範囲のものではなかった。遠すぎて詳細も掴めない場所にあるのだ。

しかし、、、
ケプラー宇宙望遠鏡の姿勢制御機構に故障が生じ、偶然天の川の暗い場所を捜索することになった時に、それは見つかった。
見つかってしまった、、、これはなんにしてもはっきり一つの段階が進んだものだと言えよう。

これまで宇宙の4分の3を占める(多数派の)赤色矮星に照準を合わせることが無かったため、このような好条件の惑星が発見されなかったようだ。赤色矮星は小さく暗いが、その前を惑星が過るとその明るさの変化はとても大きい。波長の異なる光の変化も掴みやすい。つまり酸素があるかどうかの光の波長の詳細も掴める(トランジット法)。生命を考えるなら、この酸素の波長が決め手になる(酸素を生成する生物の存在が推定できる)。
これが太陽大の恒星の前を地球大の惑星が過っても光の変化は微々たるものであり、そのせいからこれまでよくってスーパーアース(地球の数倍、天王星のような氷惑星よりは小さいもの)までしか見つけにくかったのかも知れない。

そもそも惑星そのものは観測は出来ない。
光るものの影でその存在を推し量ることが出来る。
そう、われわれ自体、電磁波と重力の賜物であった。


プロキシマ・ケンタウリbは4光年先でうっかり現実性を感じてしまう距離だが、如何せん地球から見ると恒星の前を通過しない(横切らない)惑星なのだ。
であるから、公転する惑星の重力により生じる恒星の揺れでその存在を推し量ることになる(ドップラー偏移)。
影も掴めないのだ。(それなのにNASAのHPを見ると行って来たかのような凄いイラストが描かれているではないか)。
だがそこから分かることは、大まかな大きさと公転周期くらいであり、詳細を知るには観測機を実際に飛ばすしかない。

そうなると、4光年先であっても詳細情報を得るまでに少なくとも44年を要することになる(もっとかかる可能性は高い)。
これがスターショット計画”Breakthrough Starshot”(ホーキング博士お墨付きプロジェクト)である。
(ホーキング博士は以前から、人類は他の星に移住するべきであると主張しておられる)。
お金はロシアの大富豪が持ってくれるらしい。ほんとに移住可能な星ならその富豪の孫の代には飛んでもない大富豪と化していよう。
地球からのレーザー光線で推進する超小型探査船である。
切手大のチップに様々な機能が乗っている(ナノテクノロジー)。それを1m程の帆にとり付け高速の20%を実現するという。
一度に一杯飛ばすようだ。沢山飛ばして精度を高めるのだ。
だが現在はプロジェクトを立ち上げた段階で、技術開発に入ったばかりだという、、、娘にどうなったかあちらで聞くことにしよう(爆。その探査船そのものは魅力的である。

Breakthrough Starshot


そうなると恒星の前を揃って通過するトラピスト1惑星系の方が詳細判明は遥かに早い。
ちょっと忘れていた頃にNASAが大発見ニュースを報じるはず。
b~hまでの7つの地球大惑星が小さく暗い赤色惑星のすぐ近くに密集して公転しているのだが、そのうちのefgがハビタブルゾーンに当たるという。単に水が液体であるだけでなく、恒星の活発なフレアの影響をどう対処する機構を生命(いたとしたなら)が身に付けているか、環境がそのフレア、X線、宇宙線を良い形に転嫁できているか(オゾン層の生成とか)も大きい要素だと思う。

一番遠いhの公転周期が20日という近さの内に彼ら(彼女ら)はひしめく。
太陽系では最も内側の水星が88日だ。
しかし恒星に対し余りに近い為、潮汐ロックがかかっている。(地球に対する月のように)。
永遠に昼の部分と裏側の夜の部分に分かれる。しかし、水が液体として存在する環境であれば、大気があり雲も生成され、海(海流による)対流があり、その循環によって裏側もそれほど寒くはならない。
温暖な気候が保持されている可能性はある。

世界も赤の感度を基本にした豊かな色彩世界~その表象により成り立つのだろう。
地球人は知っての通り黄色の感度を元にした色彩世界に生きて、藝術を育んだり語ったりしている。
基本、彼らが(いたとしても)共通感覚は期待できない他者である。基本(究極のパラダイム)が違うのだから。
しかし、かなり安定した(落ち着いた)世界を想う。
地球のように公転と自転をもつ環境は変化が激しい。朝から昼、夜と一日だけでも大きく移り変わる。
知性をもつにしても観念~概念の差は大きいはず(度合いの問題ではないか)。

但しefgの何れにも生命が誕生し進化を遂げているのならば、星同士お互いに知り合う知性は備えているだろう。
赤色矮星の寿命は長く、時間は充分に与えられている(太陽は100億年。赤色矮星は核融合がゆっくりだから1兆年~10兆年をゆうに超えたりする。質量によるが、これは面白い。宇宙の誕生から現在までの時間より遥かに永いのだから、まだ死んだ赤色矮星はひとつもないのかも知れぬではないか。不慮の事故?とかなければ)。

TRAPPIST 1 003

すでにお互いに差別し合い(生存と存続に排他性がどれほどの基本的属性であるかであるが)、泥沼の闘いに至っていたなら、地球人の移住どころの噺ではなくなる。
その悪魔の侵略者に対し3つの星が結束する契機を提供することになるか。
地球でも移民問題は大きい。決して彼らもわざわざリスキーな外者を受け容れようとはしないだろう。
どう考えても受け容れて得はない。特に地球人である。のこのこやってくる頃には事前調査の済んでいる可能性は高い。
恐らく、巨大宇宙船などで近づいたところでたちどころに総攻撃に出喰わすはず。
まあ、侵略者が滅びて和平がしかれるならそれに越したことはない。
面白いが他人ごとである。


どうでもよい妄想に浸っていてもしかたないが(笑、
まだまだ、地球の表面でも分からないことだらけであるし、地球の過去についても謎だらけである。
ヒトにおいても、、、。まさにそうだ。
これまでに生命は幾度も滅亡と隆盛を繰り返して来た。
地球が滅亡するのならそれに最適化されて生かされてきたわれわれも運命を共にするのではいけないのか。

その辺は、科学や哲学の役割だけでなく、まずはSF映画などが人々に対し果敢な仮説を提示していってもよいはず。
ジュールベルヌみたいに、、、。

TRAPPIST 1 002



シザーハンズ

Edward Scissorhands001

1990年
アメリカ

ティム・バートン監督
キャロライン・トンプソン脚本
ダニー・エルフマン音楽
ステファン・チャプスキー撮影

ジョニー・デップ 、、、エドワード・シザーハンズ(人造人間)
ウィノナ・ライダー 、、、キム(ペグの娘、高校生)
ダイアン・ウィースト 、、、ペグ(化粧品のセールスレディ)
アンソニー・マイケル・ホール 、、、ジム(キムのボーイフレンド)
キャシー・ベイカー 、、、ジョイス(近所の女性)
アラン・アーキン 、、、ビル(ペグの夫)
ロバート・オリヴェリ 、、、ケヴィン(キムの弟)
ヴィンセント・プライス 、、、発明家(エドワードの生みの親)
ディック・アンソニー・ウィリアムズ、、、アレン巡査


街に雪の降る訳をキムおばあちゃんがベッドで眠ろうとする孫娘に語って聞かせる噺。

ティム・バートンの模型世界の幕開けという感じで始まる。
ティム・バートン&ジョニー・デップのコンビは良い。
この『シザーハンズ』、『エド・ウッド』、『スリーピー・ホロウ』、『チャーリーとチョコレート工場』、『アリス・イン・ワンダーランド』、『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』、『ダーク・シャドウ』、、、他は観ていない。後二つくらいあるはず。一つはアニメーションでディップは声で出ていたようだ。
どれも好きな映画だが、『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』だけ、ちょっと惜しい感じか。
ほかは申し分ない。『スリーピー・ホロウ』が一番好きかな、、、。

ヒューゴの不思議な発明 」のアーティフィシャルな世界も素敵であったが、これもまた素晴らしい機械仕掛けの郷愁に充ちている。
カラフルな箱庭のような街の光景。
山の上のお城でのクッキー作りの工程がたまらない。
あのオートメーションはちょっと他では見られない。
ジュールベルヌの世界である。
発明家の博士がまたよい雰囲気を醸す。
エドワードは単純なロボットから次第に複雑で高度なロボットに作り変えられていったようだ。
そして手をプレゼントしてやろうという時に彼の造物主は絶命する。

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手があんなにでかい鋏だとこれは他者との触れ合いは極めて困難となろう。
(実際、象徴的な意味で、手が鋏になってしまっているヒトはいるだろう。きっと思いの外たくさんいるかも知れない)。
コミュニケーション能力次第であるところまではもっていけても。
ちょっとしたはずみで怪我をさせてしまう~関係を壊してしまう。
自分も気がつけば傷だらけになってしまっている。
まず落ち着いた安らかな生活というものは送れまい。

城で独り過ごしていたところ、化粧品のセールスレディに不憫に思われたエドワードは彼女の家に引き取られる。
これは変わったペットを連れ帰る感覚に近い。
いや基本的にペグは親切でこころ優しいひとなのだ。
一生懸命彼女はエドワードの世話を焼く。(前半のほとんどエドはペグとのやり取りだ)。
他者~外部との関係に慣れていないエドワードは大人しく従う。
最初彼が街に連れてこられたときに周囲の者は皆、好奇の目で見守る。
まずは見世物状態である。
手が鋏なので握手やハグは無理だが、無害である分には共同体は手懐けて組み込んでしまう。
表面的には好意的に受け容れるが、あくまでも自分たちの尺度に当て嵌めたうえである。

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やがて人々が自分のエゴで彼を利用しようとし始める。
思惑通りに彼が動けるわけでもない。鋏が多くのシーンにおいて邪魔をする。彼自身の志向性や個性もある。
住人にとって都合が良く彼の才能を活かせる庭木の剪定とかヘアカットのような受け身の行為なら問題ないが、彼自身が自らの意志を窺わせると、彼を邪魔に思うものは必ず出てくる。
個性や才能は、マイナスの価値に反転する(また情勢によって更に反転もするが)。
コミュニケーション能力の未熟さ、これは精神科医の分析する通り対人経験の乏しさからくるところが大きいであろうが、更に彼が何よりキムに恋をしてしまったところから流れが変わって行く。
犯罪まがいの無理強いされたり、しかし彼はキムの為に一人罪を被る。
その辺から一転して彼への風当たりは強くなる。
することなすこと全て悪い方に受けとられてゆく。
ケヴィンを事故から救って命を助けても、鋏で付けたかすり傷の方が取沙汰される。
一度悪いイメージを被せられると、その払拭は極めて難しい。

更にジムの嫉妬の膨張がエドワードを追い詰める。
キムのこころがエドワードに傾くにつれそれは大きくなり遂には行くところまで行ってしまう。
住人たちの集団ヒステリーが募り、まるでフランケンシュタインの怪物を追い詰める村人みたいに城に押し寄せてゆく。
ここでアレン巡査が彼らを懐柔しようとするが、それで収まらず、結局キムが彼が死んだ証拠に城で拾った鋏を見せて皆を納得させて帰す。
アレン巡査のような人もなかにはいるが、全体としては、こうしたパタンとなってしまう事は抑えられない。

キムは最後にエドワードに「愛しているわ」とキスをして、彼を残し城を降りて行ってしまう。
そのまま長い年月が経ったということか、、、。


孫娘はどこまで理解しただろうか?
エドワードがキムの氷の彫刻を作ることで、その飛沫が飛んで雪が降っているというのは、なかなかのものだ。
それはきっと納得しただろう。

今年も雪が降っているのはエドワードが元気だから、、、
いや孤独だからだ。

孤独の白い結晶が模型の街に降り積もる。

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雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

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Demolition
2015年
アメリカ

ジャン=マルク・ヴァレ監督
ブライアン・サイプ脚本

ジェイク・ギレンホール 、、、デイヴィス・ミッチェル(義父の金融業社に務める)
ナオミ・ワッツ 、、、カレン・モレノ(カスタマーサービス担当)
クリス・クーパー 、、、フィル・イーストウッド(デイヴィスの義父、社長)
ジュダ・ルイス 、、、クリス・モレノ(カレンの息子)
C・J・ウィルソン 、、、カール(カレンの彼氏)
ポリー・ドレイパー 、、、マーゴット・イーストウッド(フィルの妻、デイヴィスの義母)
ヘザー・リンド 、、、ジュリア(デイヴィスの亡き妻)


邦題が完全な誤解釈で鑑賞に悪影響を与える。
もっとも肝心な部分を誤った先入観~イメージにより潰してしまう。
これは害悪以外の何ものでもない。

そのうえ、(その反復的ニュアンスから)サイコな怪奇ミステリーか(ジャケット写真と相まってその散文仕立てから)安っぽいトレンディードラマを連想してしまった。
そもそも邦題などわざわざつける必要があるのか?それ自体を考えさせる。
真夜中のカーボーイ」とかは笑えて悪くはないが。

わたしも、無感覚に生きて来た歴史は長い。
本当に最近である。
爆発したいときに遠慮なくしているのは(爆。
自分に率直であることが善である前提となる。
これは確かだ!


彼は妻を交通事故で亡くす。
自分の隣に座っていた妻であり、自分だけは無傷で生還する。
ただ自分の妻の死に際し、涙ひとつ出て来ない。
一体妻とは何であったのか、結婚生活とは、いや自分のこれまでの生とは、自分とは、、、。
その後すぐにいつもの日常生活に淡々と~自動的に戻ってしまう。
「異邦人」(カミユ)のムルソーみたいに。

しかし或る日、周囲から精神状態を危惧されるような行為をしでかしてしまい心配されるようになる。
自分にも動機が分からない。適当な言い訳しか思いつかない。義父からは精神科医を勧められる。
果たして、わたしは妻を愛していたのかどうか。
実感が沸いてこない。いや何に対しても実感がないのだ。
自分がこれまで何に関心をもって、どんな生活を送って来たのかさえ定かでなくなってくる。
真っ白い絵にかいたようなセレブ的部屋が象徴的だが、、、。
コンピュータで数字を追って生きて来ただけのように想えた。
(非現実的で記号的な世界にどっぷり浸かって過ごしてきたのだ。大概誰もがそうだが)。

義父からモノが壊れたときは”解体”して中を調べるようにアドバイスを受ける。
それがトリガーとなって妻から苦情を受けていた冷蔵庫を解体~破壊してしまう。
以前義父から貰った工具セットで、これまで関心のなかったモノを片っ端から解体してゆく。
それを組み立てることはしない。
ひたすら壊したままで終わってしまう。
エスカレートして解体業者の手伝いまで始める。

妻の死んだ日に病院の m&m'sのチョコの自動販売機からチョコが引っかかり出て来ないため、その機械の販売会社のカスタマーサービスに手紙を書く。
その手紙に妻を失った後の色々な出来事も含め自分のこころの経緯を書き記してゆく。
手紙は何通も送られる。
しかし担当者カレンはその手紙をしっかり読むのだ。
(これは現実にはほとんどあり得ないことだ。しかしこういった繋がりが新たに生じることはあり得る)。

わたしも自分の個人的な些細なことや重苦しいことなどを赤の他人(どうでもよい人)にペラペラ話した記憶はある。
詩にして不特定に読ませたり(笑、してもいた。
丁度、ロックにどっぷり浸かっていた頃か(今でも聴いているが)。
タガが外れたように自分を巡って何もかも語りつくしてゆきたくなった。
(自我の脆弱さからくる身悶えみたいなものでもあろう)。
もしかしたら今も似たようなことをしているのかも知れない。
(だとしたらこの行為は誤りか?継続する必要があるからしているのは知っているが)。

こころは別に部分の寄り集まった全体ではない。
構成物ではない。
全体としての何かだ。
解体して何かが見えてくることはない。
ここでは全てことごとく解体ではなく破壊である。
これまで自分を形作って来たものを、手あたり次第根こそぎ破壊しつくそうとしているのだ。
それを自分の身体を使って行うことに意味がある。
その物理的な暴力行為が逆照射するモノ。
破壊した後で、まだ残る確かな何かがこころにあるか、それにぶち当たりたいのだ。

カレンとデイヴィスは実際に逢って語り合い、付き合い始める。
そこに登校拒否のカレンの息子クリスも絡む。
3人ともその時、互いに惹き合うものがあったのだ。
お互いの存在の相乗効果でそれぞれの解体と解放が進んでゆく。
(白昼夢のような恍惚な時間は、どこまで現実にあった事なのか判然としなくなるところもある)。

そんな折、亡き妻ジュリアが他の男との間に子供を身籠り中絶していたことを知る。
(丁度、クリスと一緒にブルトーザーまで繰り出して自宅を解体していた時に見つけた書類で知ったのだ)。

このこと~衝撃で、デイヴィスは現実の手触りを得た。
妻の生=他者性をはっきりと実感する。
妻の生の厚み~実存を知り、自分の生の感覚に目覚める。
そして初めて妻がとても身近に感じられたのだ。
それこそ世界の感触であった。


サンバイザーの裏側に隠されていたクシャクシャな付箋?に走り書きされた文章は、妻が夫の気を惹こうとくっつけていたものだ。「雨の日は気づかなくても、晴れの日にはちょっとは気にかけてね」とお茶目(無邪気に)に書いている。
(間違っても彼が主体の文ではない。彼の気付かなかった彼女の想いだ)。
そんなもの(付箋にシンプルな願いとタイミングもあっただろう)で、彼のこころの壁は一気に崩れ感情が迸る。
初めて彼は妻の事を想って泣く。
堰を切ったように涙が溢れ出る。
そして妻を愛していたことに、はっきり気付く、、、


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ダンケルク

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Dunkirk
イギリス、オランダ、フランス、アメリカ
2017年

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作

フィオン・ホワイトヘッド、、、 トミー(英国陸軍二等兵)
トム・グリン=カーニー、、、 ピーター(ミスター・ドーソンの息子)
ジャック・ロウデン、、、 コリンズ( 英国空軍。スピットファイアのパイロット)
ハリー・スタイルズ、、、 アレックス(英国陸軍「高地連隊」の二等兵)
アナイリン・バーナード、、、 ギブソン(トミーと行動を共にする無口な兵士)
ジェームズ・ダーシー、、、 ウィナント大佐(陸軍将校)
バリー・キオガン 、、、ジョージ(ミスター・ドーソンに同行する青年)
ケネス・ブラナー、、、 ボルトン中佐(海軍将校)
キリアン・マーフィ、、、 謎の英国兵(ミスター・ドーソンに救出された英国兵)
マーク・ライランス、、、 ミスター・ドーソン(小型船の船長。ピーターの父親)
トム・ハーディ、、、 ファリアー(英国空軍。スピットファイアのパイロット)


隊が殲滅してひとり残ったトミーとDunkirkの海岸にふと入ったとき、夢のなかに滑り込んだようだった。
のっけから、美しい。
未来派宣言のように。
または、キリコの白い絵のように。

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Dunkirkの海岸が夢の入口だったのか、どんな場面~時間も美しいのだ。


1940年5月26日から6月4日第二次世界大戦初期に当たる。
フランスのダンケルク海岸でドイツ軍に包囲されたイギリス、ベルギー、カナダ、フランスから成る連合軍将兵の壮絶な撤退作戦を描く。「ダイナモ作戦」と呼ばれているものだ。

何と謂っても物語の構造が重層的にスリリングに構成されたものである。
独り生き残ったトミーが合流して敵から逃げ救援を待つ”陸”の一週間、ドーソンらの民間船が勇敢に将兵の救援に向かう”海”の一日、陸の兵士に容赦なく襲いかかるドイツ軍の戦闘機を迎撃するファリアーら”空”の一時間が同時に交錯して描かれる。
最後にそれらの時間系がひとつの空間”陸”の闘いへと収束して息を呑むほど静かなカタストロフを迎える。
一瞬も目の離せない、稠密な夢をみているかのようである。

スピットファイアの臨場感が凄い。
これ程かつて、戦闘機のコクピットからパイロットに寄り添い(パイロット視線ではない)対メッサーシュミット戦を堪能出来る対空戦映画があっただろうか!
その尺も長い。

ファリアーの操縦するスピットファイアが燃料計を壊されてしまい、燃料の残量を気にしながら戦うところが緊張感を高める。
何と相棒のコリンズから後どれくらいあるか遂次教えてもらいながら飛ぶのだ。
スピットファイアはガス欠がポイントの戦闘機であったらしい(ゼロ戦と違い長距離が飛べない)。
最後には、空中で燃料が切れ、プロペラの回らない状態で空を無音で風に乗って飛びつづける。
それまでの空中戦から静かな遊泳に切り替わって空を暫く漂い、白い砂浜にフワッと着地するまでが特別な時間系であった。

このような戦闘機というものは、軽量化をギリギリのところまで図られており、揚力によってかなり飛べる。
ゼロ戦しかり。グライダーみたいに飛べる。
こういった空中戦に寄り添っていると自然に非現実的ないや、超現実的な気分に浸ってしまう。

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イギリス政府の呼びかけに応じ集まって来た民間人ボートや小型船も素晴らしい。
その心意気も良いが、ここでのドーソン船長が軍人よりもしっかりしているのが面白い。
そしてマニアだ。
「ロールスロイス製エンジンの至高の調べ」と、スピットファイアを背に感じ、目視する前に呟いている。
丸腰なのに勇敢で、的確な指示で海に投げ出されている兵士を次々に拾い上げて行く。
重油塗れで息も絶え絶えの男たちが藁をも縋る勢いで泳いで集まる。
(この時、皆下の船室には行きたがらない。魚雷が怖いのだ。外が常に見られるところにいたがるのだ)。

コリンズも海上に着水するも風防が開かず、コクピットで溺れかけているところを全速でその場に駆け付けて救い出している。
「メッサーシュミットは攻撃の際に急降下する。その時に舵をとる。わたしの指示に従え!」
ドーソン氏程の指示を小気味よく出している将校はいなかった。
このまま戦艦の指揮が執れそうな民間人だ。

将兵を救出し無事に国に帰す為、危険を顧みず一艘ずつ様々な小舟がダンケルクの埠頭に集まって来るところも感動的だ。
ボルトン中佐も彼らを笑顔で迎え、粋な挨拶を送る。

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要するに、この映画その辺を見せたいがために撮っている部分が大きい。
監督の趣味で染め上げられている感がする。
細部に渡りとてもきめ細やかに描き出され質感に拘った映画であるが、それが模型世界のように想えるのだ。
確かにリアリズムである。
ヒーローの活躍する勇猛果敢な戦争娯楽ドラマと比べ、とてもリアルな内容であるが、妙に綺麗な描写によってアーティフィシャルな光を感じてしまう。

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防波堤ですし詰めになっていたら、上から攻撃を受けたらおしまいではないか、、、。
船を待つのは分かるが、何で長時間に渡り、こんなところで固まっているのか。

ある意味、象徴的でもある。
このような状況に甘んじるしかない情勢というものが在る。
例えば現在で謂えばテロだ。
爆撃を受けて飛び散る若い兵士たちが人形のように映る。
このような脅威はわれわれの住む世界に地続きなのかも知れない。
(実際にイギリス、フランスの無差別テロである)。


基本、敵の何処かを攻め落とすとかではなく、ただ撤退するだけであるが、それが困難を極める奇跡的な作戦であったようだ。
その分、胡散臭いヒーローもおらず、敢えて言えば空を舞うスピットファイアと海を横切る小さな民間船の活躍で若者たちが国に戻って行く、虚しくも晴れやかな場面に終わる、、、。

わたしにとっては夢から覚めるような奇妙な映画経験でもあった。


ジャンギャバン似のボルトン中佐(ケネス・ブラナー)とミスター・ドーソン(マーク・ライランス)が実に渋くて良い味を醸していた。






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ムーンライト

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Moonlight
2016年
アメリカ

バリー・ジェンキンス監督・脚本
タレル・アルヴィン・マクレイニー"In Moonlight Black Boys Look Blue"原案
ブラッド・ピット製作総指揮


アレックス・ヒバート、、、子供シャロン
アシュトン・サンダース、、、青年期シャロン
トレヴァンテ・ローズ、、、大人シャロン

ジェイデン・パイナー、、、子供ケヴィン
ジャレル・ジェローム、、、青年期ケヴィン
アンドレ・ホランド、、、大人ケヴィン

ナオミ・ハリス、、、ポーラ(シャロンの母、薬物依存)
ジャネール・モネイ、、、テレサ(フアンの彼女、シャロンの擁護者)
マハーシャラ・アリ、、、フアン(子供期シャロンの擁護者)


キャスト全員が黒人である。
監督もそう。
3章で構成され、主人公たちも大きく年齢が変わってゆく。

しかし彼らには一貫した流れ、ひとつ筋が通っていて変化していても彼と分かる。
特に成人したシャロンは筋骨隆々で金歯まで嵌め一見フアンかと思う程の精悍さだが、幼い頃の彼らしさ~そのレイヤーが容易に重なって見えるところがある。
その何とも言えないアイデンティティの保持が凄い。

ジャンキーのたまり場の街で彼らは育つ。
黒人同士でも当然、差別やいじめは存在するだろう。
シャロンは薬物中毒の保護能力のない母親に愛されもせず、歩き方が他人と違ったことでいじめのターゲットとなる。
さらに思春期になってからも体が華奢で、リトルとあだ名でその階層に嵌め込まれていたと言えよう。
自分の外に出ようにも性的マイノリティーでもあり(であることに気付き)、内向は深まり、孤立と孤独は増すばかりであった。
ほとんどいつも、無口でうつむいて独りでいる。
とてもひりつく。神経だけは過敏となりひりつく。
まるでルー・リードの歌詞のように、、、。

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マイアミという舞台のせいもあるのか、、、
かなりコントラストの強く色相も彩度の高いものとなっている。
カメラワークも対象の周りをクルクル回るような撮り方や被写界深度の調整も含め、特徴的な視覚効果が気になった。
肌の色への拘りは特に感じる。
「月明かりの下では黒人は青く見えるんだ。」
音楽の(禁欲的な)入り方、使い方、センスも素晴らしいものであった。


魅惑的なキャストばかりであったが、、、とりわけ、、、
わたしにとってフアンはとても羨ましい存在であった。
シャロンがいじめっ子たちから逃げて隠れている時に、幸運にも彼に見出されたのだ。
「黒人は世界で初めて誕生した人類だ。」「おれはキューバから来た。」
彼は黒人であることに誇りを持っている。

彼はそれから度々、精一杯シャロンに接触して励まし、気持ちを解放させようとする。
食事も頻繁に作って食べさせる。この時期の食事は何より大切だ。
薬浸りの母と荒んだ生活に悩んでいるシャロンに対して「おれもお袋は嫌いだった。みんなそうさ、、、。」
共感的環境で硬直して内向したこころを打ち解けさせて行く。
しかし、彼自身薬の売人(元締め)で良い生活を送っていることに後ろめたさを感じており、陰りを纏っている。

或る日シャロンから「薬を売っているの?」「、、、ああ、そうだ。」「ママにも薬を売ってるの?」「(結果的にはそうなのだ)」と問われたときの彼の悲痛な表情が焼きつく。
もしかしたらフアンの生きている時の最後のシャロンとの会話であったのだろうか。
あれだけの関係を築いてきて、最後の肝心の記憶がこれでは、、、。
無念なんてものではなかろう。

幼い頃、あのような人が身近にいたらどれだけ自分がもっと自分らしく生きれただろうかと想う。
勿論、本来の自分などというフォーマットが予め在るはずもないが、まさにそう想えてしまう自分になることが出来る気がする。
あのような擁護者に憧れるのは、安易な欲望であろうか、、、。

ただ、あの海がたまらない、、、。
あの海のシーンは何度も見たい。
何故なら、自分がかつて経験したことではないのに、無性に懐かしく思えるシーンだからだ。
わたしもこの宇宙の無限の時間のどこかであんな風に浮かんでいたことがあったのだから、、、。

わたしのもっともこころ惹かれるシーンである。
「そのときがきたら将来の事は自分で決めろ。他の誰にも決めさせるな。」

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フアンの彼女テレサも彼が亡くなった後もシャロンを無条件で受け容れてくれる大変特別な人であり続けた。
「ここは愛とプライドの家よ。」母に邪険にされる度に何度もシャロンはその家に泊まりに行く。
うつむくシャロンを彼女は励ます。
この隠れ家が無ければ、到底やっていけなかっただろう。
母が客を連れ込み家を追い出されて、どこで寝るというのだ。


長じて、彼も結局、薬の売人となる。
フアンみたいに良い車を乗り回す身となっていた。
自分で選んだ道であったのだろうか?師匠に諭されたように自分で決定したことなのか。
わたしは、人が自分で何をか選択できるということ自体が疑わしい。
全て必然に流されてくるのでは、、、これはフアンも語っていたことだ。
矛盾するが彼の認識もそうであった。

そして、シャロンにとってもっとも特別な存在であったケヴィン。
唯一彼に触れ得た同世代の人間~男であった。
幼い子供のころから、二人は何故か馬が合う。対等に接しそれ以上の繋がりも持ってしまっていた、、、。
他は、恩師フアンだけか、、、。彼は本当の親代わりであった。テレサは優しい姉であったか。
(フアンは何故、死んだのだろう。葬式を上げたという事実以外彼については何も語られない)。

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他の人間~黒人は、シャロンを殴るか罵るだけだった。
勿論、母親もそのなかの1人だ。
無口なシャロンに対しケヴィンは詩的に接する。彼はシャロンをブラックとか呼んでいた。
「風を感じようとしてシンと静まりかえる。」
何気ない会話の文脈に自然とこんなことばが溶け込んでくる男だ。
やはり、、、ルー・リードだ。(ルー・リードが少しだけ入っている(笑)。

時が経ちシャロンはケヴィンの経営する店に招待される。
ケヴィンには息子がいて、裕福ではないが安らかな生活を手に入れていた。
シャロンはケヴィンのシェフ特製料理を振舞われる。

夜も更けてシャロンはケヴィンを自慢の車で家まで送ってゆく。
その月明かりの部屋で、思いつめた表情のシャロンの悲痛な独白の重みに、わたしは耐えられないものがあった。
(精神的にも生理的にも)。

単なる問題作を超える強度をもった作品だ。





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サラエボの銃声

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Smrt u Sarajevu
2016年
ボスニア・ヘルツェゴビナ

ダニス・タノヴィッチ監督・脚本
ベルナール=アンリ・レヴィ戯曲『ホテル・ヨーロッパ』原案

ジャック・ウェベール 、、、ジャック(フランスから招かれたVIP)
スネジャナ・ヴィドヴィッチ 、、、ラミヤ(ホテル従業員フロントウーマン)
イズディン・バイロヴィッチ 、、、オメル(ホテル支配人)
ヴェドラナ・セクサン 、、、ヴェドラナ(ジャーナリスト)
ムハメド・ハジョヴィッチ 、、、ガヴリロ・プリンツィプ(インタビューを受ける男)
ファケタ・サリフベゴヴィッチ―アヴダギッチ、、、ハティージャ(ラミアの母、ホテル・リネン室長)

「テロリストか英雄か」、、、ボスニア・ヘルツェゴビナには必らず一つの出来事に対し二つ以上の物語があるという。
民族によってその意味付けが真っ向から対立するのだ。
”血の20世紀はサラエヴォに始まり終わるのだ”
構えて観てしまう映画となる、、、。

2014年6月28日サラエヴォの「ホテル・ヨーロッパ」では、サラエヴォ事件(第一次世界大戦の発端となった事件)から100年の式典が開催されることとなっていた。そのホテルは事件現場に近い場所にある。
ホテルのなかでは、それぞれの人間がまるで世界の縮図を見るかのように錯綜しつつ自らの仕事に取り組んでいる。
屋上、リネン室、ロビー、スウィートルーム、暗い地下室、支配人室、厨房に同時に繰り広げられる群像劇である。

フランスから招かれたVIPがスウィートルームでずっと式典での演説練習をしている。
その男の様子をビデオカメラで監視しボディガードを務める者たち。
如何にウケる演説をドラマチックにすることが出来るか、調整に調整を重ねる。
大変熱心な勤勉な準備だが如何せん、「ガヴリロ・プリンツィプ」の名前が覚えられない。言い難い。それに苦労する。

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屋上のジャーナリストの戦争(歴史認識)に関するインタビューでは、次々に様々な評論家が100年目の出来事から現在の情勢に至るまでの自説を展開し、インタビュアーの女性は手際よくそれを引き出しているようである。
しかしその話のなかでも、如何に民族間の感情的な対立が激しいかを窺い知る。
(バルカン半島の民族対立は当時と何も変わっていないようだ、、、)。
「EUは装甲車で走り回り、この国に融資し、生き方を指図してくる。」これは思わずメモしてしまった。
全く歴史認識の相容れない同士に、それの押し付けで和平の保てるはずはなかろう。

100年前この近くの場所でセルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプによるオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻の暗殺が起きた。サラエボの視察中の事である。
ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアに併合されたことに端を発するが、暗殺に使用された武器がセルビア政府から得たものであることが発覚し、オーストリアがセルビアに宣戦布告することで第一次世界大戦勃発となった。

その青年と同じ名の、田舎からやって来た男(別に肩書はないようだ)が屋上でジャーナリスト相手に自説を激白する。
ジャーナリストの女性はどうやら青年と思想的に対立する立場にいるようである。
彼女は何故か自分の立場を忘れ本気で彼と激論を交わす。
これで番組は成立するのか、、、心配した同僚がやって来て、ふたりは暫く番組から外れることに。

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資金繰りに行き詰り、ホテル支配人は給料を二か月支払えないでいる。
サラエボで一番のホテルがそんな事情とは、、、。
その為に計画されている従業員のストを支配人は面子にかけて何とかやめさせようとしている。
銀行からも最後通告が来ている様だ。
従業員は抗議の意味でも丁度お偉方の集まる日をこれ見よがしにスト決行の日に決めたのだ。
そのリーダーは、地下組織に暴力で潰されたため、急遽一番長く務めているラミアの母ハティージャが引き受けることになる。

ホテルの地下迷路の底では、闇の世界が息づいており、カジノに興じる人や暴力団が潜んでいるのだ。
どこの国でも地下組織のボスはそれ相応の風袋をしているものだと妙に感心する。
ホテルの重職に就いているラミアは支配人と母との間で板挟み状態となる。
リネン室に駆け付け母や従業員を懐柔しようと試みるが、無理やりリーダーを押し付けられたわりに母が一番強情であった。
結局ラミアは支配人からクビを宣告され母は地下組織に連れ去られることに、、、。

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Smrt u Sarajevu003

ラミアは半狂乱でホテルの迷路を母を探して駆け巡る。

VIPが演説会に向け部屋を出た時を同じくしてボディガードは彼の警護に就く。
丁度論争で気の高ぶったテロリスト~英雄と同名の男がその場にピストル持参でやって来てしまう。
このタイミングはない。
出合い頭、すぐさまボディガードは彼を狙撃する。
ジャーナリストはすぐ後ろで、その一瞬の一部始終を見届けてしまう。
彼女は頭を抱えて項垂れ階段に座り込む。
その眼前には少し前まで自分と激しい論戦を繰り広げていたかつてのテロリスト~英雄と同じ名を持つ男が血を流し身動き一つしないで転がっている。

論争で謂いたいことを吐き出し切ったふたりは最後にこんな言葉を交わしていた、、、。
「大洪水で国土が水没しない限り、私たちが1つになることはない。」
「私たち、あなたたち、彼らのまま。悲しいわね。」
「でも人間性は残ってる。」
「そうは思わない。優しさなど信じない。ただの生存本能よ。」

Smrt u Sarajevu005



この時の銃声でホテル内はまさに混沌となる。
混乱に乗じ、囚われていたハティージャは逃げ出し、地下で母を探していたラミアと抱き合う。

Smrt u Sarajevu006






沈黙 サイレンス

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Silence
2016年
アメリカ

マーティン・スコセッシ監督・脚本
遠藤周作原作「沈黙」
ロドリゴ・プリエト撮影

アンドリュー・ガーフィールド、、、セバスチャン・ロドリゴ神父
アダム・ドライヴァー、、、フランシス・ガルペ神父
浅野忠信、、、通辞
窪塚洋介、、、キチジロー(何度も踏み絵を踏んで生き延びているキリシタン)
イッセー尾形、、、井上筑後守
塚本晋也、、、モキチ(信心深いキリシタン)
小松菜奈、、、モニカ(パライソに憧れるキリシタン)
リーアム・ニーソン、、、クリストヴァン・フェレイラ神父(ロドリゴ・ガルペ神父の師)
笈田ヨシ、、、イチゾウ(キリシタン村の長)

わたしは、原作は読んでいない。

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「神の沈黙」と「人間の弱さ」を巡りポルトガルからやって来た宣教師と神を何度も裏切り続けるキリシタンを通して描く。
極めて精神的な次元から見た信仰を巡る悲痛な葛藤のドラマであった。
セバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルペ神父は、最後の日本(極東の果て)に派遣される宣教師であり、棄教したと噂される彼らの師、クリストヴァン・フェレイラ神父の行方も確認する必要があった。

そしてこの国にはキリスト教は根付かない。根腐れしてしまうのだと、、、布教を諦め宣教師は自らも「転ぶ」。
日本は彼らにとってどのような「沼地」なのか、、、。

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文学的な風景が美しくも、痛々しい。

元々日本は外来文化を何でもすんなり受け入れ、データベース化して貯蔵してしまう流れがある。
3種類の文字という装置がその大きな役目を果たしてきたが、決して外部からやって来た知をそのままで受け容れない形で機能する。
博物誌的に整理して置くだけであり、文脈に合わせて(日本流にして)適宜利用しましょうというレベルで呑み込んでゆく。
ロドリゴ神父もその師フェレイラ神父も日本名を与えられ安寧の境地を得る。
(布教する時点では、彼らは全く日本語を学ぼうという姿勢がない。一方的に日本人に英語で話すことを要求するばかりである。これでは日本を理解することは到底出来ない)。

では(幕府は)何故キリスト教に、これ程表立って、禁制を敷いたのか。
当時キリスト教は強大な武力そのものであり、布教に貿易と侵略がセットとしてしてやってくるのだった。
信者が増えることはそのまま国の統治を揺るがすことに直結していた。
この情勢に対し時の統制者(ここでは徳川幕府)が自己防衛(拒絶)反応を示さぬはずもない。
また一神教で王政と共存してきた(王権神授説による)キリスト教国の、神~王の下に平等という理念は、治世とは別に基本的に八百万の神を崇め、士農工商の階級制度で統治する日本の制度に原理的にそぐわない。
案の定、キリシタン大名たちによる、神社・仏閣の破壊も勃発して、伝統文化を揺るがす動向が表面化する。
そもそも宗教による原理的な支配に出るとき、必ずこういった破壊・虐殺行為で他国を治めるしかなくなる。
更に死ねば「パライソ」に例外なく逝けるという思想は、一向宗(一向一揆)などを際限なく生み出す恐れもある。
こうした背景あってのキリシタン~キリスト教排除政策である。
この物語は恐らくそのすぐ後の状況下での、最後の宣教師の過酷で危険極まりない個人~人としての布教活動の噺となろう。

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ただ、それが単に信仰だけで民間に浸透して来るものなら、それとして断じて認めない平和的な受け容れは、可能であると想える。実際、領民としての務めをしっかりと果たしていれば、「隠れキリシタン」として黙認しても問題は一向にないし、そのような実例はかなりあったようである。つまり本国からの(経済的・政治的・軍事的)根が切れていれば、弾圧対象にする必要もない。ポルトガル、スペインなどカトリックの国のような侵略に及ばなかったプロテスタントとの交易(つまりオランダ、撤退するがイギリス)は進められていた。

セバスチャン・ロドリゴ神父は、自分に縋り自分の教えを純粋に守ることによって、次々に眼前で惨い形で処刑を受け死んでゆく信者を前に、幾度となく神に語り掛け自問自答する。
通辞や井上筑後守からも、あなたのせいで彼らが苦しみもがき死んでゆく、と追及される。
ここはポルトガルではない。日本ではキリスト教は根付かぬ草であり、悪なのだと諭される。
ロドリゴ神父にとっては、自分を導く教えは普遍の真理であったのだ、、、が。

信者たちを次々に惨殺されるなか彼は自らの信念を疑うしかなくなる。
「神は何故、彼らをこれほどまでに過酷な運命に晒すのか。」
「神は何故、沈黙を守るのか。」
「それとも神はいないのか。」

ロドリゴ神父は彼の師フェレイラ神父同様に「転ぶ」。

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「転ぶ」~棄教。
「踏み絵を踏む。」
キリスト教であれば、全面的な転向であり、これまでの自我(自分)の完全否定と(新たな価値体系の)無条件の受け容れを意味する。これは尋常ではない決断を要することになるだろう。
仏教(これも外部から入って来た宗教だが)であるのなら「踏み絵」など方便のひとつか。
だが、あのような途轍もなく過酷な生活を強いられて生きる者たちにとっては、目に見え確かに触れることのできるまたは御言葉の聴ける「拠り所」に縋ろうとする気持ちには充分共感できる~フェティシズムはそういう場所から生じてくるのか。
元々キリスト教は偶像崇拝は禁じている。しかし神についてはそうだが、その子キリストへの礼拝は認めている。
信仰の対象が形を持たないことは過酷な場にある者ほど、不安なのだ。
どれだけ強靭な精神をもってしても永遠の「沈黙」に人は耐えきれまい。
この映画でも絶えずそのアイテム~「ロザリオ」や手彫りの小さな「十字架」がそして「踏み絵」が大きなポイントとなる。
(特にモキチが死を覚悟してロドリゴ神父に手渡すとても小さな手彫りの十字架の重みは計り知れない。モノの持つ力の強さを思い知る機会となった)。
「踏み絵」がキチジローのような自己意識の強い、パラダイムから少しズレてしまっている人間以外には相当に大きな効果をもったはずである。

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イッセー尾形の井上筑後守が出色の出来であった。
キリシタンを処刑する冷徹な弾圧者という悪者ではない、有能な味わいのある人物を豊かに描いていた。
これは、浅野忠信の通辞もそうである。語りに充分な説得力がある。
塚本晋也の壮絶なモキチの姿は実にリアルに迫って来た。
わたしがもっとも込み上げるものを感じたのは彼の演技である。
リーアム・ニーソンのクリストヴァン・フェレイラ神父の虚脱感と憂いのある達観した姿は如何にもという感じであった。
そして窪塚洋介の何度も神を裏切るキチジローの人間的な弱さも崇高な信仰に縋るアンドリュー・ガーフィールドのセバスチャン・ロドリゴ神父とセットで互いの在り様を際立たせてゆくが、結局はとても近いところにふたりは落ち着く。
ロドリゴが最低の人間として見下していたキチジローが自分と対等の、いや同類の人間として見え~現れてくる。
そして、キチジローはずっとキリシタンであり続けていた、、、。

小松菜奈もよい形でのハリウッドデビューだと思う。
彼女が藁で手足を縛られ河に落とされて溺死させられる場面は確かに胸が痛む。
(これはガルペ神父の死と共にロドリゴに多大なインパクトを与えるシーンである)。

師と同様に完全に棄教した形で、日本人として妻子を持ち、長く幕府に仕えて来たロドリゴであったが、その死に際し手の中にモキチの作った十字架を隠し持っていた。
(あれはもしかして妻が持たせたのか?)


何にせよ、壮絶な映画であった。





ヒューゴの不思議な発明

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Hugo
2011年
イギリス、アメリカ

マーティン・スコセッシ監督
ジョン・ローガン脚本
ブライアン・ セルズニック原作『ユゴーの不思議な発明』
ハワード・ショア音楽
ロバート・リチャードソン撮影

エイサ・バターフィールド 、、、ヒューゴ・カプレ(孤児)
クロエ・グレース・モレッツ 、、、イザベル(ジョルジュの養女)
ベン・キングズレー 、、、パパ・ジョルジュ(メリエス)
ジュード・ロウ 、、、ヒューゴのお父さん(時計職人)
ヘレン・マックロリー 、、、ママ・ジャンヌ(ジョルジュの妻)
レイ・ウィンストン 、、、クロードおじさん
エミリー・モーティマー 、、、リゼット
クリストファー・リー 、、、ムッシュ・ラビス(図書館長)
サシャ・バロン・コーエン 、、、鉄道公安官
マイケル・スタールバーグ 、、、ルネ・タバール(博士)
フランシス・デ・ラ・トゥーア 、、、マダム・エミール
リチャード・グリフィス 、、、ムッシュ・フリック

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モンパルナス駅が舞台。
孤児となったヒューゴは駅構内に住み大時計のネジを巻きメンテナンスを毎日怠らない。
駅で売られるパンや牛乳を盗んで独りで暮らしている。
機械人形の修理を亡き父から引き継ぎ、そのメカパーツの調達を父のノートを頼りに続けることが彼のライフワークであった。
その機械人形に関わることが、自分は独りではないことの実感にも繋がっていた。

パリの夜景が実に美しい。
機械人形の孤独な表情とその歯車の連動が魅惑的に煌めく。
そして突然現れるイザベルが浮世離れしていて可憐である。
ヒューゴの感じる通り、モンパルナス駅だけでなく時計台の上から臨むパリ全体が機械仕掛けの模型世界のようにも一望できる。
このオートマタのアーティフィシャル感覚が全体に染み渡っているところが心地よい。

ヒューゴはジョルジュが営んでいる玩具屋からパーツの歯車等を盗もうとしたところを逆に捕まってしまう。
そのとき何よりも大切にしていた父のノートも取り上げられる。
ヒューゴはノートの返却だけは食い下がって頼み込む。
ジョルジュに取りすがり家にまでついて行ったときに彼は養女のイザベルに出会う。
彼女は読書家であるが、映画を養父から禁じられていた。
本の中にあるような「冒険」を夢見る少女である。
それ以降、ヒューゴとイザベルは、彼のノート奪回を軸に「冒険」を楽しくスリリングに経験することになる。
親友以上恋人未満と謂えるような、微妙で抽象的な関係であり、これもまたオートマタ的と謂えるか。

今こそ駅構内の一介のおもちゃ屋であるが、彼こそかのジョルジュ・メリエスその人であった。
リュミエール兄弟の発明した映画技術に瞠目し、それまでやっていた手品と機械人形制作を放り出し、映画の可能性をどこまでも追及したSFX(特撮)の創始者でもある。
映画界に及ぼしたその影響力の大きさは計り知れない。
しかし、彼のファンタジーは戦争突入によって見向きもされなくなり、戦火や劣化からほとんどのフィルムも消失してしまう。
その為の酷い傷心が現在の彼の状況を作っていた。
特に、ジョルジュのヒューゴに見せる頑なな拒絶反応は何であるのか。

イザベルのネックレスのハートの鍵が、最後に見つからないでいた機械人形のパーツであったことから事態は進展する。
これは何を意味するのか、、、。
謂わば、映画は少年の機械人形の懸命な修理から、メリエスの封印した映画人生(映画作り)の物語に展開する。

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機械人形が鍵によって正常に作動した結果、ヒューゴとイザベルの見守るなか、何と月の片目にロケットが突き刺さる、ヒューゴの父が初めて観た映画のシーンでもあり、イザベルの養父メリエスの代表作の一つに数えられる『月世界旅行』の一場面を、ペンでさらさらと描き出し、おしまいにメリエスのサインまでしてしまったのだ。
機械人形はメリエスの最後まで作っていながら放棄して博物館に流れたものであり、それが捨てられた際にヒューゴの父が引き取りメンテナンスを続ける半ば火事で命を落とし、孤児になったヒューゴがその後を継いできた数奇なモノであった。
ノートを見たジョルジュがそれに気づいていない訳はなかったのだ。

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ヒューゴとイザベルが図書館で出逢った映画研究家ルネ・タバール氏が『月世界旅行』のフィルムを保存していることが分かり、三人でそれをメリエス夫妻に見せることで、ジョルジュのこころも和らいでくる。
彼自身から映画への関わり、その製作方法、特撮技術の発明と工夫そしてそれを観る人々の熱狂などが語られてゆく。
そこでヒューゴが直した機械人形を彼に見せようと駅に取りに行くが途中で鉄道公安官に捕まってしまう。
どうにか鉄道公安官からは逃げるも、振り切る際に機械人形を線路に落として壊してしまう。
(この公安官はヒューゴの機械人形と対比的な機械人形に見える)。
ここでヒューゴは大ピンチに陥るが、ジョルジュとイザベルが彼を迎えにやって来る。
「その子はわたしの子である」と言い放ち、終盤のルネ・タバール主催のメリエスのフィルム上映会へと繋ってゆく。
ここでわれわれは貴重なメリエスの映画の幾つものカットを見ることが出来る。
まさにメリエスに対するスコセッシ監督のオマージュが窺えるところだ。


ともかく、雰囲気が良い。
間違いなく、素敵な気持ちの好い映画であった。
映像、音楽、撮影、美術、そして何よりキャストが優れていた。
マーティン・スコセッシ監督はこんな映画も撮るのか、、、。

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花の取り換え時期

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先日、次女が家出をすると言って出てゆくところを車に迎えたは良いが、その時に持って出た赤い大きなナップザックが車の中にまだ置き去りになっていたので、家に戻したついでに中を見ると、何と厳選された縫ぐるみで一杯であった。
勿論、家出をするのだから、着替えは入っていた。それから筆記用具と携帯。
わたしは、ひとりで家出するのだから食べ物(缶詰めとかカロリーメイトやチョコ、ペットボトルなど)や着替えとサバイバルグッズなどを連想してしまっていたのだが、お気に入りの縫ぐるみとアクセサリーがとても幅を利かせているのが感慨深かった。
筆記用具は、学校で何処に行くにも持たされるから習慣化したのだろう。それは良いことだ。できればスケッチブックも持たせたい。
ジャケットのポケットにお財布くらいは入れていただろうが、、、。
確かに生活感覚は希薄である。
しかし、価値意識(自分流の美意識)というか、拘りは持っているなとは思った。
その感覚~感性がまず肝心である。
それなしの生活は、あり得ないし。


今日も娘の下校が早かったので、3人で買い物ついでに、ホームセンターで「デルフィニウム」のミントブルーを買った。
夏に弱いと聞いているが沢山店頭に出ており、元気そうなので思わず買ってしまった。
丈も高い。
宿根といっても枯れるものは一年で枯れてしまう。
もともと寒いところの(モンゴルだったか?の)花である。
心配はある。以前、NHKの園芸番組で観て欲しいとは思っていたものだ。
忘れたころに巡り合うものは結構ある。
文字通りの「青い花」である。そこがポイントである。
(花言葉は「高貴」らしい。そういった目で見ると確かに頷ける)。

もうひとつ、「トコナツナデシコ」というナデシコを買った。
耐寒性多年草とある。さらに「四季咲き」とあったので気に入った。
こちらは赤である。赤のグラデーションが美しい。
しかし多年草でも一年で枯れるものは多い。
管理が上手にできるかどうかであろう。
(ちなみに花言葉は「純愛」みたいだ。)
今日買ったのは何れも寒さに強いようだが、これから春~夏を迎えようとする時期である。
何で暑さが好きな多年草を出していないのか、、、。

どちらも冬以外は水はタップリのようだ。
日当たりと風通しの良いところが好きだが、あまり暑いのはダメそうだ。

肥料はデルフィニウムの方が意識的にあげないといけないみたいだ。
ナデシコは月一固形肥料でよいようだ(以前もそんな感じで3年位咲いていたか、、、)。

白い波の中で、赤と青がリズムを豊かにする。


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今日から4年生♡

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この話題を引っ張るのは、本日まで(爆。
何と今日の下校時刻が9:00なのだ!
こんなことがあってよいのか、、、である。
案の定、わたしがカメの水を取り替えている最中に次女が帰宅して来た。
次女はいつでも早い。走って来る。
長女が帰るのは、決まって次女より45分遅れるのが常だがその通りに今日も遅れて帰って来た。
風呂掃除をしている最中であった。
何でもともだちと魔法の練習をしながら帰って来たそうな。

今日は明日の持ち物で、4年生用の新たな名札が必要かどうかが二人の間で論争になっており、長女は絶対必要と説き、次女はそんなもんいらないと吐き捨てていた(論争ではない)。今日帰ったらともかく買いに行こうと誘っていたのだが、次女はそれをきっぱり断っていた。
だが、持って帰った予定表の持ち物欄を見ると、明日の持ち物に4年生の名札も入っている。

次女は「いいも~ン」といって、3を4に斜線で直してクラスが同じだし(偶然)といって直して済ませている。
いつからこういう娘となったのかと訝りながら、長女と買い物ついでに名札を買いに行く。
(名札くらいでそもそも何で言い合いになって意地を張るようなことになるのか)

そこそこ離れたところに学校専用の文具店がある為、ふたりで道沿いの家庭の花をぼんやり見て歩くと、まあよく手入れされていて、皆綺麗に小さな花々が咲き誇っているではないか、、、。ビオラ系が多かったが、、、スミレ、パンジーなどもかなりあった。
中には巨大なウチワサボテンが家の丈位までそそり立っており、ちょっと嬉しくなる家もあった。
中南米でもあるまいし、冬をどう越しているのだろう。

二人に帰ってすぐに聞いたところでは、今度の担任はどちらも新しい(新任に近い)男の先生であるらしい。
4年生はある意味、一番新しい先生に任せ易い学年でもある。
いずれにせよ、家庭訪問もあるし、名札と支柱の他に、ほぼ瀕死状態にある家の鉢植えの花を更新しようという事になった。
つまり花屋にも寄ることに。(花に興味のある先生かどうかは分からないが)

文房具屋では、名札を「二つ」買った。
支柱と丸い囲いはその近くの100円ショップにも丁度良いものがある。
それらを持って(担いで)、ちょっと足を延ばして花屋で花を物色。
最近、白が家ではブームの為、白い花でそれ程、道々で見なかった花にしようという事になる。
結局、丈の大き目の真っ白なマーガレットを二種類買った。
他にもスミレ系の可愛らしい赤と黄色のものも加えた。
(持って歩くのは、意外と大変であることに気付く。いつもは車である)。

ちょっとマーガレットが大きすぎたが、鉢はかなり余っていたので適当なものが選べた。
多年草であることも良い。長女は地植えを望んだが鉢の方が顔色を窺って場所の移動が出来る。
瀕死の鉢物は裏の方へと移し、正面にそれらを置くことに。
土の調合は長女に任せた。保水性・排水性をもつ団粒構造の土とはよく言われているが、、、わたしがやるように彼女も、、、
基本的に、鉢底石を敷いてから赤玉と鹿沼土とバーミキュライトに腐葉土を適度に混ぜて作っている。

まだ、これだという確信の持てるフォーマットは出来てはいない。
当然、植物によっても異なるものだし、、、難しいものだ。
兎も角、出来合いの培養土は直ぐコチコチになるので、使わないことにしている。

わたしはその間、枯れ葉が庭の至る所に落ちている為、とくに射干やミニトマトやイチジク周辺にそれが多いので、虫害を考え徹底的に落穂拾いを行った。モネを想いうかべる余裕もなく、ちょっと自閉的に事を進めていた(笑。
3年ほど前からある名前も知らない端正な青い花を今度、写真に撮って調べることにした。
恐らく鳥が運んできた花である。
この狭い範囲でも、そういう花(多年草)がかなり定着しているオープンスペースであることをつくづく認識する。

かなりきつかったがビニール袋3個分ちょっと危険因子が集まっていた。
その後、暫く寝込んで休んだことは言うまでもない。
まだ、体調も良くなく、睡眠も取れていないのだ。
(眠剤が普通の病院では今後出せなくなってくるらしい)。
わたしも健康的な睡眠スタイルに移行するつもりなので頼らないようにしている。
弱い導入剤であっても痴呆症に繋がる危険は以前より囁かれてきた。


われわれ共々生命の微妙な息吹の(リズムの)絡み合いで環界を生成している。
この極狭い場であっても何とも言えない一体感を醸している。
ミニトマトが採れるだけでもとっても嬉しくなるし、それは買った物より味が濃くて美味しい。
(トマト独自の臭みと酸っぱさが生命力を感じさせる)。
庭に何処からか運ばれてきて定着した花であっても自分の身体性の輪郭内或いは縁に常に存在して揺らいでいる。
それがこちらの意識に登らなくなると(感覚にひっかからなくなると)、枯れていたりするものだ。

次女に真っ新な名札を渡すとまんざらでもない笑顔で受け取った。
ほとんど、庭の植物と変わらぬ反応である。直ぐに名前とクラスを書き込んでいた。
かなり遠回りして、買ってきたというのに、長女は間違えて3年と書いてしまい、それを適当に4に直していた(残。
、、、全く、、、そういうものなのだ。

流れが不意に千切れて逆立したり喪失したり妙な具合に繋がってみたり、、、不協和音も軋むなか、、、
何であっても、、、
健康的な流れに全体として乗ってゆきたいものだ。

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明日から4年生♡

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今日は長女の日本脳炎の最後の接種から始まる。
(二週間前、次女と一緒にするはずであったが、風邪の為延期となる。その最後の風邪をわたしが今もらっている)。

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何故か、春休み最後だから、長女がタイ焼きのカスタード、次女がタコ焼きを食べたいといきなり言う。
何で休みの最後だからそれが食べたいのかさっぱりわからないが、何かしなくてはいられないのだろうし仕方なく店に行った。
確かにタイ焼きとタコ焼きのそこそこ美味しい専門店ではある。
しかしわたしはタイ焼きは普通のあんこ以外に考えられないし、タコ焼きは食べたいと自分から思ったことはない。
ふたりはどうやら友達と食べて味をしめたらしい。
うちで食べた覚えもないし。

長女はタイ焼きカスタードVer.を二つも食べ、次女は大人のタコ焼き一皿食べてしまった。
わたしはそれを眺めていて食欲がどうにも沸かず何も食べなかった。
ここのところ風邪薬を飲むために食べていたが、もう抗生物質がきついので、薬はやめることにした。
高血圧の薬もしこたま飲んでいるのだが、すでに上が105で下が60である。
寧ろ低血圧を心配する域に達しているではないか。
薬を何で飲んでいるのかよく分からなくなっている状況でもある。
(これは考えた方がよいな)。

丁度良い季節になったので、ミニトマトの苗を6つほど植えた。
まん丸いのとやや細長いローマトマトみたいなものだ。
前回ミニトマトの伸び丈の高さに驚いたので、今回はかなりの高さの支柱にした。
丸い囲みも含め大きいものにした。間隔も充分に空けた。
ついでに植物たちの肥料を手分けして与えた。
鉢植えの花は皆もう終わりに限りなく近い状態になっている。
こちらもそろそろ総取り換えの時期なのだ。

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それから庭の金柑の実を大量に採って煮出してジュースを作った。
(親戚のものも採って来て加えた)。
これは喉にも良い。
3人で一番煎じから三番煎じまで飲み比べた。
結果、二番煎じが一番美味しかった。
その瓶にプレミアムラベルを貼って冷蔵した。
一番煎じにはそのまま一番と貼った。
三番はその場で全部飲み片付けることにした。

そして今日はピアノの日である。
練習をするもどうも身が入らない。そわそわしている。
休み中、かなり手を抜いてきたことは確かだ。
だが、ふたりとも1曲ずつ上がって来た。
(こちらは1曲を二回でくらいに構えているので、最近落っこちることが少なくなったのでそれは良しとしたい)。

夕飯はジャージャー麺にした。
何でもそうだが久しぶりに作ると喜んで食べる。
わたしは野菜の具をいつもかなり入れる。
店で食べるときゅうりともやし(ネギも入るか)だけだったりするが、7品目くらい入れてしまう(笑。
タレの影響で全て食べてしまうので、問題ない、みたいだ。
(写真には撮れない不細工さ(爆)。

食べ物と言い、今週末の「桜祭り」(の出店)的な雰囲気で過ごした一日であった。
桜はとっくにピークを過ぎ、桜祭りの頃は花なしで迎える事になる。
わたしの周囲が急に賑やかに煩くなる。車の量が驚異的に増える。
(わたしはまず外には出ないが、今回はちょっと出てみようかとも思う。多肉の良いのがあったら買いたい)。

明日から、また絵の練習も再開することにした。
ずっとさぼって来たのだ、、、。


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最近、トマトがとても美味しく感じる。
自分が作る料理には必ず入れる。(後、玉ねぎである)。


明日から4年生。
早いものだ。


アトミック・ブロンド

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Atomic Blonde
2017年
アメリカ

デヴィッド・リーチ監督

シャーリーズ・セロン(製作)、、、 ローレン・ブロートン
ジェームズ・マカヴォイ 、、、デヴィッド・パーシヴァル
ジョン・グッドマン 、、、エメット・カーツフェルド(CIA幹部)
ティル・シュヴァイガー 、、、時計屋(MI6工作員)
エディ・マーサン 、、、スパイグラス(機密情報を知るもの)
ソフィア・ブテラ 、、、デルフィーヌ・ラサール(フランス諜報部員)
ビル・スカルスガルド、、、メルケル(ローレンの助手)
ローランド・ムラー、、、アレクサンドル(武器商人、KGB側)

いきなりNew Orderの”Blue Monday”が鳴り響く。
凄いテンポで始まる。
ベルリンの壁崩壊間近の80年代終盤だ。
ハードボイルドに最初から惹きつける。
舞台は1989年ベルリン。

場面展開も激しい。
最初から情報~計画が丸流れしており組織にスパイが紛れ込んでいることが分かる。
次々に裏切る。というか多重スパイであることが分かって行く。
恋愛も裏切る?利用する。こうなると目的に余程、価値を見出していないと精神崩壊してしまうだろう。
または、そうならないでただ目的を手段を選ばず遂行出来る人間をこのようなスパイに育成しているのか?
だとしたら、やはりマインドコントロールによるものだろう。
その訓練・育成過程も観てみたい気がする。

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観終わった感想としては、まさにシャーリーズ・セロンの映画だとしか言えない。
この映画では彼女は非常にタフであるが、銃器で相手を撃ち殺すとかいうばかりではなく、筋肉隆々の大男との殴り合い蹴り合いの肉弾戦を相当量こなしている。転がっているものを武器にしたりして(ジャッキーチェン得意技であるが)闘う姿はクールなばかりではなく必死さが伝わって来る壮絶なモノ。
流石に男たちとのラフファイトでは劣勢に回ったりもするが、何とか戦術と機転を利かせて勝ちをもぎ取る。
血と汗いっぱいで美貌もあざだらけで痛々しい。
終始命を狙われていて、場所を選ばず、もう突然銃撃戦や咄嗟の殴り合いである。

よく市民が巻き沿いにならないと思う。
普通のホテルなどでそれは突然始まったりするのだ。
アクションシーンの長回しは相当なもの。
音楽がずっと流れており、映像との適合性に賭けている感じもあるが、見事なフィットもそこそこに感じるものもある。
そんななか無音のシーンは際立つ(水関係での)。
(氷水風呂で怪我が治るのか、、、)。
かなり練り込まれた演出だ。

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やはりシャーリーズ・セロンのアクションものと言えば、あのフレッシュで若々しい「イーオン・フラックス」の印象が強いが、これはこれで貫禄ものである。
煙草をくゆらせながらイギリス幹部に仕事の報告を見下し目線でしている雰囲気は、とてもイーオン・フラックスの頃の彼女では出せない。
彼女の今後の路線を予感させるものだ。

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噺の流れは、MI6(イギリス対外諜報機関)とCIA(アメリカ中央情報局)の幹部にローレン・ブロートンが呼ばれマジックミラーからの監視の元、テープレコーダーとビデオに記録されながら、作戦の報告を行ってゆく。その話の内容が映画として流れて行く形式をとって展開する。3日後の最後のシーンまではそれで展開する。
MI6所属のローレン・ブロートンが、何者か(KGB)に奪われた、同僚スパイの所持していた時計に組み込まれた東で活躍する西スパイの機密情報マイクロフィルムを奪い返し、2重スパイ(サッチャルと呼ばれている)を暴き始末する任務を与えられる。
MI6のやり手のデヴィッド・パーシヴァルと協力し、真相を探って行くがローレンは彼に疑いを抱いており信頼感はもてない。
そこは各国スパイの入り乱れる全く気の許せない状況であった。
彼女は寧ろフランスの女スパイと組み、活動に当たっていた。
まさに社会情勢の一気に変わる瀬戸際で彼らは利用し合って死闘を繰り広げている。

デヴィッドは情報を売りに時計屋に来た裏切りKGBエージェントからマイクロフィルムを強奪する。
やはりデモに紛れてフィルムの中身を全て記憶しているスパイグラスを保護する(西に亡命させる)作戦で、彼を銃で撃ったのはデヴィッドであった。
更にローレンと協力(利用)関係にあったデルフィーヌを殺したのも彼であった。
デヴィッドがKGBと組んでいたことがデルフィーヌの撮った写真でローレンの知るところとなる。
ローレンの命もKGBに狙わせるが、逆に彼女がデヴィッドを倒しマイクロフィルムの仕込まれた時計を彼から奪う。

彼女はMI6に所属しながらKGBとも取引しており(この時点で2重スパイ)、最終的にCIAに情報を渡すのが目的であった(ここで3重スパイ)。
道理で彼女が両幹部の尋問の場でフィルムの在処は知らないと嘘をついたのか分かる。
しかも偽装テープでデヴィッドを2重スパイ=サッチャルと信じ込ませる魂胆があった。
彼女はCIAのために働いていたのだ。当の2重スパイは主人公自身であった(3重だが)。
ちゃっかり3日後、KGBに情報を渡すふりをして全員射殺して飛行機でロンドンを出てアメリカに向かう。

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丁度その時、ベルリンの壁が崩れて行く。


最後は「帰ろう」である。
例のCIA幹部が飛行機に乗り合わせているだった。
懐かしのロックのMVみたいな映画でもあった。

”Blue Monday”は今も普通に聴いているが、、、。





胡蝶花~射干(しゃが)が咲き誇る

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”Iris Japonica”

3年目についに咲く。
しかもすごい勢いで一気に咲き乱れている。
昨日はまだ蕾であった。
つまり、今朝咲いたのだ。
3年前に公園の土手で自生していたのを一株抜いて、家の庭の壁の脇、日陰に挿しておいたらどんどん株自体は強力な地下茎を張り巡らしつつ増殖していったが、一向に(この2年間は)花をつける気配すらなかった。

3年目にやっと咲いたのだが、まだまだ蕾が沢山あり、全部咲くとかなりの花の群れになる。
これだけで気持ちが晴れやかだ。
白い蝶が群れて舞う。
軽やかなリズムに接続する。
とっても爽やかになる。

アヤメ科の常緑多年草で黄色と紫の斑点が絶妙であり、わたしは以前公園の大木の下や湿地に群生していたのをよく眺めながら通り過ぎていたものだ。
色々な公園や神社の日陰に咲いているのが目につき、いつも気になっていた。
今年は近くの公園やお寺では、まだどこにも咲いていない。
(夕方にしぼむのだが、午前中に行っても咲いていない)。

中国原産の帰化植物らしい(しかしとても古くの)。
葉は結構鋭い剣状で檜扇(ヒオウギ)に似ているところから、その漢名である「射干」と名付けられたそうだ。
「胡蝶花」は、ひっそり日陰に咲く様が、蝶が群がっているように見えることからついた別名とのこと。
わたしは後者の方により共感する。
ちょうどそのような感じで眺め入ってきた。
とてもお気に入りの花のひとつだ。
近くで暫く見ていたい。
飽きのこない花なのだ。

全体が青紫のものは、「姫著莪」と呼ばれる。


今うちの庭で沢山咲いているのが、この胡蝶花こと射干と白に薄紫のクリスマスローズと多肉の小さなアーティフィシャルな花々だ。サボテン系の花はなぜこうも人工的な雰囲気なのか?(やはり夕方しぼむ。勤め人には拝めない花かも)。
ツツジも咲いてきた。どれも白が基調でとてもよい。


白はよい。
ちょっと他の色の混ざった白、、、。


裏窓

Rear Window001

Rear Window
1954年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督・製作
ジョン・マイケル・ヘイズ脚本
ウィリアム・アイリッシュ原作


ジェームズ・スチュワート 、、、ジェフ(カメラマン)
グレイス・ケリー 、、、リザ(ジェフの恋人)
レイモンド・バー 、、、ラース(セールスマン)
セルマ・リッター 、、、ステラ(看護婦)
ウェンデル・コーリイ 、、、トーマス(刑事)


この映画は大分以前、いや相当前に観ているが~VHSで観たのは間違いないが~とても新鮮に見れた。
というのも、脚のギブス以外にほとんど何も覚えていなかったからだ(笑。
不思議に鮮やかなドレス姿の美しいグレイス・ケリーは印象に残っていなかった。

しかし観ていくうちにひとつ思い出したことがあり、それはこちらもむず痒いほどの拘束感、不自由な感覚でジェフに寄り添ってしまっていることである。決して彼の視線の共有ではない。彼の身体性に共振しているのに気付く。
そして彼がレンズの中を覗く時だけ、まさに一緒に覗く。目を凝らして(笑。
この脚を骨折していて動けない人とレンズ視界の組み合わせはとても上手く、その感覚は覚えていた。
(でもこの手は何度も使えはしない)。


しかし考えてみれば面白い光景だ。
いくら何でもここまで室内の見渡せる~個人的なドラマが丸見えな~沢山の開け広げた窓をもつアパートが自分の部屋の前に面していることはちょっと異様でもある。
そこに骨折したカメラマンがしょっちゅうカメラレンズを向けていたら誰か怪しまないか?

だが、誰もそれには気づかない。
一方的に秘密を覗く特権がジェフには与えられているかのようである(そのような設定なのだ)。
この覗くという行為は、どうしても気持ちごと引寄せる。
それぞれ肝心な場面やリザがラースの部屋に忍び込むという危険な賭けに出たときなどでも、全てレンズで捉える視界である。
いやが上にもそのシーン(の意味)が強調されるではないか。

加えて光の使い方が絶妙である。
単に明かりを点けたり消したりだけでなく、犯人が彼らのことに気付きアパートに入って来る時の恐ろし気な光の効果などである。
普通の映画を観るときとは異なる身体感覚で観てしまうのは間違いない。


そしてプロットが良い為ずっとハラハラしながらも、どこか安心して観てしまう。
ラースの妻殺害の隠蔽工作をどのように崩してゆくかのサスペンスであるが、友人の警官トーマスがまるで役立たずで素人だけで結束して探りを入れてゆくこととなる為、危なっかしくこちらの不安は高まる(唯一の男性ジェフは車椅子だし)。
勿論ジェフの推論が正しいということは最初から動かぬ軸として進んでゆくが、それで単純に感じるようなことはない。
ジェフとリザの間に入る看護人のステラの役割も大きい。
3人で動く事と、何よりも勢いと洒落が効いているおばちゃんの存在で、動きの幅が出ている。
この素人捜査で果敢な行為に出たリズをただの金持ちの教養人ではないとジェフは見直す。
恋の行方も定まって来る。

そして、一回だけジェフ=われわれのレンズ越しの視線と向こう側=ラースの視線がピタリと合ってしまった時(物語の破れ目)に、緊張の極み~カタストロフとなる。


映画の始まりからずっと見せられる向かいのアパートの住人たちの生活に、こちらもいつしか馴染んできている。
踊り子にもピアノを弾く作曲家にもしょっちゅうパーティを開いている若い女性にも孤独な夫人にも、、、。
そして犯人に窓から落とされ、本当はギブスの外れる時期に両足ギブスを嵌めて身動きできない状態であるジェフの姿はユーモラスだ。
ベッドの傍らではリザが旅行の本を読んでいる。
ギブスが外れたときの喜びはさぞ大きいものだろう(笑。

Rear Window002




気狂いピエロ

Pierrot Le Fou001

Pierrot Le Fou
1965年
フランス

ジャン=リュック・ゴダール監督・脚本

ジャン=ポール・ベルモンド 、、、フェルディナン・グリフォン
アンナ・カリーナ 、、、マリアンヌ・ルノワール

Pierrot Le Fou002

わたしは時折、こんな風な夢を見たりしてきた。
夢を見るようにまたこれを観る。
また、15インチノートで観るのに丁度よいのだ。
このくらいのサイズで恐らく夢も見ているのだろう、きっと。
わたしが初めて映画らしい映画を観たのが「勝手にしやがれ」とこの映画であった。
映画とはこういうものなんだといたく感じ入ったものだった、、、。

バスタブに浸かり、幼い娘にベラスケスについて説いた本を読んで聞かせる。
娘は素直に神妙に聞いているではないか。
羨ましい。
うちの娘は絶対に聞かない。聞くとしてもお化けの噺くらいだ。

このピエロと呼ばれるフェルディナン、文学空間に生きている。
次々と本を買って抱え込んでいるところがよい。
そしてジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナの呼吸は凄い。
これが全てアドリブとは、、、掛け合いの韻を踏んだ歌などは圧巻である。
語り口も実に洒落ていて、、、反復のリズムが決め手か。
映像世界全体が詩となる。
(最後に南仏で詠まれるランボーの詩は、台本にあるのか?)
鮮やかな対比的な色彩と光、単純化された構図、素早いテンポ全てが見事な編集により構成される。


ピエロは、金持ちの娘である妻と子供たちとの平穏なブルジョア生活に飽き飽きしてくる。
アホくさい退屈な付き合いに辟易する。
そしてパーティでブチ切れる。
5年振りに再会したマリアンヌと再燃する。

Pierrot Le Fou004

ふたりで逃避行した翌朝の白い部屋で仲良く愛を語らうが、何故か男の死体がベッドに転がっている。
普通のカップルなら、まずは叫び驚いて警察に通報し事情聴取の流れとなろうが、もう世間からの超脱を図ろうとしているやさきである。なんだこれはという視線でちょっとした邪魔物を眺める程度だ。
もうすでに高度な(抽象的な)文学空間にふたりして入っている。
ふたりは悪夢からの目覚めと言っていたが、悪夢の始まりなのか、、、分からない。

そしてふたりはパリから南仏へ向かう。
わたしも向かいたい(しかし悪夢は困る)。
ここから先はかなりの強度の濃縮悪夢を通過して行く。
ここかしこで血や火を見る。
金持ちなのに金を一銭も持っていない。いや金をあえて捨てている。すべて踏み倒し盗み暴力ですり抜けてゆく。
小節や映画のように突っ走ろうとする。
(明らかにこの映画の聴衆に向けた視線とセリフをアンナ・カリーナが放つ場面がある。余裕を感じた)。

Pierrot Le Fou003

かなり早い時期から「わたしの兄を探さないと」とマリアンヌは繰り返す。彼からお金が調達できると。
しかし最後までその兄は現れない~いない。
これは、どういう意味か?
キーワードではある。
「愛している」ともよく言うが。

指名手配の中、ひたすら逃げてはいるが、気怠く緊張感はなく、ただ漠然とした不安の漂う雰囲気が続く。
ことばの響きと色のアクセントが独特のリズムを作って流れる。
これまた彼ならではの正面からのほぼナンセンスなアップ。

盗んだ高級オープンカーを乗ったまま海に突っ込ませる贅沢。
そりゃ気持ちよかろう、、、。
いちいち詩的に噛み締める。
「これは現実ではない。何世紀もが嵐のように過ぎ去った。」

嘘をつき合い、いい加減なでたらめと詐欺を続けながらふたりは旅を続ける。
(途中でアメリカ人とベトナム人を馬鹿にした芝居をやってアメリカ人観光客から金をせしめたりしている)。
荒れ野を彷徨ったり、原始的な食生活を試してみたりを心ならずもすることになる。
ふたりの頭はあくまでも文学的な世界に漂ってはいたのだが。
(こんな状況でも本を買って読んでいるのは大したものだ)。
釣りをしたり弓矢などを作って食料調達をはじめる。
そうしたなか結局、「ただ生きる」という究極的な場に行き着く。
生きるとはどういうことなのか、ふたりともおのおの身体で感じようともがいてゆく、、、。

Pierrot Le Fou005

しかし男と女気持ちは次第に、というより自然にズレて離れてゆくのだ。
女は違う何処かに憧れてゆく。
太陽や海や砂浜では我慢できなくなる。
そんな気はする。
ステレオでレコードを聴きたいし、ディスコで踊りたいのだ。

そしてやはり、この波乱に満ちた?生活にも嫌気をさしたマリアンヌが「兄」と言って別の男と逃げてゆく。
ピエロはそれを追って彼女を射殺し、自らも頭部にダイナマイトを巻き付ける。
最期の一言が良い。
火をつけてから、シマッタと言って消そうとするも間に合わず「おれはバカだ」

、、、確かに。

プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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