
Silence
2016年
アメリカ
マーティン・スコセッシ監督・脚本
遠藤周作原作「沈黙」
ロドリゴ・プリエト撮影
アンドリュー・ガーフィールド、、、セバスチャン・ロドリゴ神父
アダム・ドライヴァー、、、フランシス・ガルペ神父
浅野忠信、、、通辞
窪塚洋介、、、キチジロー(何度も踏み絵を踏んで生き延びているキリシタン)
イッセー尾形、、、井上筑後守
塚本晋也、、、モキチ(信心深いキリシタン)
小松菜奈、、、モニカ(パライソに憧れるキリシタン)
リーアム・ニーソン、、、クリストヴァン・フェレイラ神父(ロドリゴ・ガルペ神父の師)
笈田ヨシ、、、イチゾウ(キリシタン村の長)
わたしは、原作は読んでいない。

「神の沈黙」と「人間の弱さ」を巡りポルトガルからやって来た宣教師と神を何度も裏切り続けるキリシタンを通して描く。
極めて精神的な次元から見た信仰を巡る悲痛な葛藤のドラマであった。
セバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルペ神父は、最後の日本(極東の果て)に派遣される宣教師であり、棄教したと噂される彼らの師、クリストヴァン・フェレイラ神父の行方も確認する必要があった。
そしてこの国にはキリスト教は根付かない。根腐れしてしまうのだと、、、布教を諦め宣教師は自らも「転ぶ」。
日本は彼らにとってどのような「沼地」なのか、、、。

文学的な風景が美しくも、痛々しい。
元々日本は外来文化を何でもすんなり受け入れ、データベース化して貯蔵してしまう流れがある。
3種類の文字という装置がその大きな役目を果たしてきたが、決して外部からやって来た知をそのままで受け容れない形で機能する。
博物誌的に整理して置くだけであり、文脈に合わせて(日本流にして)適宜利用しましょうというレベルで呑み込んでゆく。
ロドリゴ神父もその師フェレイラ神父も日本名を与えられ安寧の境地を得る。
(布教する時点では、彼らは全く日本語を学ぼうという姿勢がない。一方的に日本人に英語で話すことを要求するばかりである。これでは日本を理解することは到底出来ない)。
では(幕府は)何故キリスト教に、これ程表立って、禁制を敷いたのか。
当時キリスト教は強大な武力そのものであり、布教に貿易と侵略がセットとしてしてやってくるのだった。
信者が増えることはそのまま国の統治を揺るがすことに直結していた。
この情勢に対し時の統制者(ここでは徳川幕府)が自己防衛(拒絶)反応を示さぬはずもない。
また一神教で王政と共存してきた(王権神授説による)キリスト教国の、神~王の下に平等という理念は、治世とは別に基本的に八百万の神を崇め、士農工商の階級制度で統治する日本の制度に原理的にそぐわない。
案の定、キリシタン大名たちによる、神社・仏閣の破壊も勃発して、伝統文化を揺るがす動向が表面化する。
そもそも宗教による原理的な支配に出るとき、必ずこういった破壊・虐殺行為で他国を治めるしかなくなる。
更に死ねば「パライソ」に例外なく逝けるという思想は、一向宗(一向一揆)などを際限なく生み出す恐れもある。
こうした背景あってのキリシタン~キリスト教排除政策である。
この物語は恐らくそのすぐ後の状況下での、最後の宣教師の過酷で危険極まりない個人~人としての布教活動の噺となろう。

ただ、それが単に信仰だけで民間に浸透して来るものなら、それとして断じて認めない平和的な受け容れは、可能であると想える。実際、領民としての務めをしっかりと果たしていれば、「隠れキリシタン」として黙認しても問題は一向にないし、そのような実例はかなりあったようである。つまり本国からの(経済的・政治的・軍事的)根が切れていれば、弾圧対象にする必要もない。ポルトガル、スペインなどカトリックの国のような侵略に及ばなかったプロテスタントとの交易(つまりオランダ、撤退するがイギリス)は進められていた。
セバスチャン・ロドリゴ神父は、自分に縋り自分の教えを純粋に守ることによって、次々に眼前で惨い形で処刑を受け死んでゆく信者を前に、幾度となく神に語り掛け自問自答する。
通辞や井上筑後守からも、あなたのせいで彼らが苦しみもがき死んでゆく、と追及される。
ここはポルトガルではない。日本ではキリスト教は根付かぬ草であり、悪なのだと諭される。
ロドリゴ神父にとっては、自分を導く教えは普遍の真理であったのだ、、、が。
信者たちを次々に惨殺されるなか彼は自らの信念を疑うしかなくなる。
「神は何故、彼らをこれほどまでに過酷な運命に晒すのか。」
「神は何故、沈黙を守るのか。」
「それとも神はいないのか。」
ロドリゴ神父は彼の師フェレイラ神父同様に「転ぶ」。

「転ぶ」~棄教。
「踏み絵を踏む。」
キリスト教であれば、全面的な転向であり、これまでの自我(自分)の完全否定と(新たな価値体系の)無条件の受け容れを意味する。これは尋常ではない決断を要することになるだろう。
仏教(これも外部から入って来た宗教だが)であるのなら「踏み絵」など方便のひとつか。
だが、あのような途轍もなく過酷な生活を強いられて生きる者たちにとっては、目に見え確かに触れることのできるまたは御言葉の聴ける「拠り所」に縋ろうとする気持ちには充分共感できる~フェティシズムはそういう場所から生じてくるのか。
元々キリスト教は偶像崇拝は禁じている。しかし神についてはそうだが、その子キリストへの礼拝は認めている。
信仰の対象が形を持たないことは過酷な場にある者ほど、不安なのだ。
どれだけ強靭な精神をもってしても永遠の「沈黙」に人は耐えきれまい。
この映画でも絶えずそのアイテム~「ロザリオ」や手彫りの小さな「十字架」がそして「踏み絵」が大きなポイントとなる。
(特にモキチが死を覚悟してロドリゴ神父に手渡すとても小さな手彫りの十字架の重みは計り知れない。モノの持つ力の強さを思い知る機会となった)。
「踏み絵」がキチジローのような自己意識の強い、パラダイムから少しズレてしまっている人間以外には相当に大きな効果をもったはずである。

イッセー尾形の井上筑後守が出色の出来であった。
キリシタンを処刑する冷徹な弾圧者という悪者ではない、有能な味わいのある人物を豊かに描いていた。
これは、浅野忠信の通辞もそうである。語りに充分な説得力がある。
塚本晋也の壮絶なモキチの姿は実にリアルに迫って来た。
わたしがもっとも込み上げるものを感じたのは彼の演技である。
リーアム・ニーソンのクリストヴァン・フェレイラ神父の虚脱感と憂いのある達観した姿は如何にもという感じであった。
そして窪塚洋介の何度も神を裏切るキチジローの人間的な弱さも崇高な信仰に縋るアンドリュー・ガーフィールドのセバスチャン・ロドリゴ神父とセットで互いの在り様を際立たせてゆくが、結局はとても近いところにふたりは落ち着く。
ロドリゴが最低の人間として見下していたキチジローが自分と対等の、いや同類の人間として見え~現れてくる。
そして、キチジローはずっとキリシタンであり続けていた、、、。
小松菜奈もよい形でのハリウッドデビューだと思う。
彼女が藁で手足を縛られ河に落とされて溺死させられる場面は確かに胸が痛む。
(これはガルペ神父の死と共にロドリゴに多大なインパクトを与えるシーンである)。
師と同様に完全に棄教した形で、日本人として妻子を持ち、長く幕府に仕えて来たロドリゴであったが、その死に際し手の中にモキチの作った十字架を隠し持っていた。
(あれはもしかして妻が持たせたのか?)
何にせよ、壮絶な映画であった。