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「労働疎外より人間疎外」によせて

StrawberryMoon002.jpg

、、、、、、、、、

あらゆるものの物象化の時代
人間の個々の価値意識こそに
その解決の糸口が
潜んでいるものありましょう、、、

          「労働疎外より人間疎外」から終盤部分の引用。
        ”エストリルのクリスマスローズ”より。


最近、わたしがつくづく身に染みて感じていることを、いつもながら精緻に論理的に然も詩的にまとめ、指針も示して貰ているので、触発された勢いで、この機にわたしなりに本文に則して反芻しておきたいと感じた、、、。

わたしは、様々な物事に対し距離をもって批評する(俯瞰する)余裕が日頃ないため、いつもじたばたした記事にもあるように生活者として過ごすことが多い(またそれを強いられている)。しかし時には沈潜し遡行し、自分自身の方向性と今後の展望も考える間をもちたい。だがこれに再考の余地があるかどうか、、、。今日は幸か不幸か風邪でずっとベッドにいるので丁度良いところかも知れない。


貨幣(市場)経済によってすべてを平等に測れるものにしてしまったことで、物象化が世に徹底したものだと思う。
その、ものとしての取引や操作、評価は、そのまま人自身~その関係性を支配する構図として定着する。
それが単にシステム上~ことばにより取り決められるやいなや起源は忘却され(透明化され)システム上におけるそのものの価値が内在化し、あたかも本来もっている価値~本質であると信じ込んで疑わない倒錯が自明の状態となる。
共同体の規範(道徳や規律・規則)や認識枠~パラダイムとなる。

自然の流れから、膜構造をもって遅延した段階で自然(エントロピーの方向)から疎外された存在~生命としてわれわれは誕生した。やがてことばを持ちそのことばによって(いや文字をもって)純粋に疎外される(つまり自然を遮断し心的シュミレートを完全に行うことを可能にする)ひとの段階になる。そして記号~貨幣による市場社会において更に(決定的に)疎外される。その関係性によって外傷を受け(リビドーが)内面化することで内面と外界とを現出させる意識が発生し、風景も現れるに至る。
自然というより環界との親和性が極度に低下したことによる風景の現れと物象化~人間関係の希薄化~の極まりは同時(単なる)異なる側面であったか。


引用の最後のところ、「個人の価値意識にこそ解決の糸口が潜んでいる」というくだり、、、。
実際に、そこにしかないとしか言えない。
これまでも、これからも、、、。
そういうものだと思う。
わたしにとっては、個の系をひたすら垂直に伸ばしてゆくイメージでもあり、非常に孤独な闘いである。
(これまでもずっとそうしてきたが)

それに続く結びの「人生とは自己意識の発展プロセスそのもの」というヘーゲル的な一節。
(ヘーゲルの云う自己意識とは他者の承認を要する~前提とする~意識でもある)。
そして自らの価値意識を確認・強固にし拡張するうえでの「制作」~対象化はやはり不可避の行為となろう。
具体的な形態が必要だ。
ヘーゲルは、それを「労働」としていたか。(「主人と奴隷」において)。マルクスもしかり。


具体的な取り組み(労働)を進めよう。計画通りに。
(計画は遅々として進まぬが、、、)。
しかし地塗りは済ませている(爆。




クリムト

Gustav Klimt001
「接吻」

何故か、クリムトについて書いていなかったことに気付く、、、。
あの圧倒的な金と装飾性がヒトの生~性の余りの生々しさ(更に対比的な死)を過剰に強調しているかのようで、興味がありながらどこか敬遠して来た感もある。


クリムトには風景画が多い。
最近、気付いた。
しかしよく見るとその風景は恐らく彼の得意とする装飾的で象徴的な物語~構成である。
所謂、「風景」が出現していない時代ではないと思われる。
印象派の目前にはすでに恐るべき「風景」が現出していたではないか、、、。
恐らく彼にとっては風景も女性もあの塊~アマルガム調となったドラマチックな男女(老若男女)の絡む像も、同じ心象風景であったのだと思われる。
彼の内面世界(の投影)に違いない。

今回彼について書いてみようとしたところで、画集を見直して気付いたことである。

そう想うと風景も肖像も構成的物語像も等しく同じ次元の作品に感じられ腑に落ちる。
描き方も基本的に同じである。
金細工職人の息子に生まれ、工芸学校を出て、建築装飾の仕事に就く。
身に付けた(ルーツでもある)金の装飾技術を遺憾なく発揮した極めて構成的で装飾的な作品群。
象徴性に富むというよりそれをいやが上にも引寄せてしまう平面的世界の構築である。
(通常の奥行き・遠近法を締め出しているものが多いぶん、特異な象徴性~文学性は深まる)。


しかしそれはまた反面、通常の物語性を解体する視座の提示でもあったことは重要である。
それまで、主流の絵画で「愛」を語るには神話のフィギュア構成~物語上に描く事が自明であった。
そこからすると、奔放な性の奔流する(エロチシズム)の生々しさと過剰な装飾性(構成と共に金箔の多様な使用)の共存はそこからの衝撃的な逸脱であった。明らかに新たな絵の出現だ。
テーマの捉え方が内容的~意味においても形式的にも、センセーショナルであったと謂える。

金の箔の使い方が、やはり親譲りのものか、反射率の異なる箔の貼り方を駆使しており、人物の衣装に使われる部分は全体に思いっきり輝きが強く、背景の金は反射率の低いくすんだ金箔の地となっている。
日本画(琳派など特に多いか?)の技法も思わせるものである。

Gustav Klimt002
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II」

先日、日曜美術館で彼を取り上げていたのだが、そこでも腑に落ちたポイントがあった。
エミーリエ・フレーゲというミューズの存在である。
もっとも、彼には愛人が多く、アトリエには常に二桁のモデルがひしめいていて彼女らとの間に14人の子供がいたことは、この番組で知った。NHKも役に立つ。
その時代の先端を行くミューズが彼に大きな影響を与えていたようだ。
特にエミーリエは、まだ女性の地位と自立が然程認められていない時期に、実業家として活躍していたのである。
そうした(精神的・経済的に)自由な立場の女性との関係は、自らの芸術の解放に拍車をかけるに充分であっただろう。

もう一つ。コルセットで固めた身動きしにくそうな上流の女性のドレスをゆったりした動きの美しさにシフトしたドレスをデザインしたことである(これについては画集にも解説されていたが)。デザイナーとしてだけでなく、その写真も彼が撮ってファッション誌(その始まりらしい)という形に掲載したそうだ。
つまり新時代のファッションリーダーでもあったのだ(エミーリエとともに)。
静的な堅苦しい線のドレスから動きの美しさを狙ったドレスへの変貌は、女性の解放の形体をも意味したであろう。
実際、この時期は、ブルジョア新興勢力の台頭期である。
だから尚更、クリムトのような画家はもてはやされたはず。
美しく先進的で確固たる信念をもった女性にも大モテであった。
良い人生であったはず。恐らく(笑。

彼の着物みたいな不思議な衣服もきっと自らデザインした物だろうと合点した。
(以前からずっと気になっていたちょっと妙な感じの服であるが、確かに着やすそうで自由な感じはする(笑)。
しかし、第一次世界大戦の勃発により、華やかさは息を潜め、至る所に死の蔓延る混とんとした時代となる。
彼の、性~生が性~死に繋がるような晩年の「金」を封印した象徴性の高い絵が生まれてゆく。

Gustav Klimt003
「死と生」

番組で紹介されていた絵はそれぞれクリムトらしさをもっとも表しているものに思えた。
ベストチョイスに感じる。
番組としては皆が自分の趣味に惹き付け感想を述べあう井戸端会議みたいで、それはそれで面白かった。

Gustav Klimt004
「白樺の林」




最高の花婿

Quest-ce quon a fait au Bon Dieu 001

Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu ?
2017年
フランス

フィリップ・ドゥ・ショーヴロン監督・脚本

クリスチャン・クラヴィエ 、、、クロード・ヴェルヌイユ(父、カトリック教徒でドゴール主義者)
シャンタル・ロビー 、、、マリー・ヴァエルヌイユ(母)
アリ・アビタン 、、、ダヴィド・ヴェニシュ(次女の夫・ユダヤ人、失業中)
メディ・サドゥン 、、、ラシッド・ベナセム(長女の夫・アラブ人、国選弁護士)
フレデリック・チョー 、、、シャオ・リン(三女の夫、中国人、銀行の幹部)
ヌーム・ディアワラ 、、、シャルル・コフィ(四女の恋人、コートジボワール出身カトリック教徒、舞台俳優)
フレデリック・ベル 、、、イザベル・ヴェルヌイユ(長女、弁護士)
ジュリア・ピアトン 、、、オディル・ヴェルヌイユ(次女、歯科医)
エミリー・カン 、、、セゴレーヌ・ヴェルヌイユ(三女、画家)
エロディ・フォンタン 、、、ロール・ヴェルヌイユ(四女、テレビ局の法務部)
パスカル・ンゾンジ 、、、アンドレ・コフィ(シャルルの父、退役軍人)
サリマタ・カマテ 、、、マドレーヌ・コフィ(シャルルの母)
タチアナ・ロホ 、、、ヴィヴィアン・コフィ(シャルルの妹)


自分の娘4人がそれぞれアラブ人、ユダヤ人、中国人、最後にアフリカ人と結婚となり、混乱を極める裕福なフランス人家庭を描く。
アルビノの人も出て来たりして。(監獄の中で)。
差別対象になり得るであろう人たちが勢ぞろいである。
(確か昨日も怪物が勢ぞろいであった)。
移民の国フランスである。
この手の噺があっても可笑しくない。
4人娘が4人とも外国人と結婚というのはこの映画ならではの誇張としても。
ただし全員、フランス語を流暢に話し、教会(カトリック)で歌も唄う。
(しかし民族の誇りは高い。特に宗教問題は譲らない)。

とても忙しいコメディ作品であったが、軽快でリズムの好い楽しい映画であった。
キャストがとても良い。
葛藤しオロオロうろたえるヴェルヌイユ夫妻が特に面白いが、娘たちも個性・性格が分かり易く(特に画家の神経過敏な3女がナーバスで)やり取りが楽しい。婿たちのそれぞれの民族意識の張り合いといい加減さも、掛け合いも笑える。
それでいて、義理の両親に上手く取り入ろうともしている憎めない連中だ(言いたいことを主張し合った後、皆でフランス国家を唄い、義父を手なずけていたりする(笑)。
その辺のコミカルなタッチで魅せている部分はかなり大きい。

Quest-ce quon a fait au Bon Dieu 004


差別という問題にフォーカスすれば、かなり堅苦しいものになるだろう。
差別の場は別に人種とか宗教・信条、社会的階級などだけでは勿論ない。
僅かな価値観の違い、利害関係からも差別は生じる。
何処にでもどんな場にもそれは存在する。
そもそも差別のない状態というものが在り得るか?
つまり差別を生む権力関係は、基本的に人が二人出逢えば不可避的に生じてくる。
だが、極めて日常的な微細な場面での差別を描くのは、かなり困難であり、面白く描くのも大変だ。
コメディ化出来れば凄いが、、、そういうものも見てはみたいが、、、。

この映画は移民問題に何かと揺れるフランスの(ゆとりのある層の)一般家庭ヴァエルヌイユ家を舞台に人種の異なる娘婿とその親族との関わりを面白おかしく描いてゆく。
夫婦自慢の美しい娘たちの結婚相手がよりによって何で全て外国人なんだ、しかも白人は一人もいないとは、、、。
という差別意識~いや差別生理を婚姻問題に絡めて誇張して描くところにこの噺の面白さ~肝がある。
クロードとマリーの現実と何とか折り合いを付けようと努力する様が可笑しくもペーソスに溢れ、カトリックとドゴール主義のもとプライドを守ろうとしながらも迎合する父と精神分析医に通い、ネズミに対する恐怖を他者~外国人に投影してしまっているのだと自己分析し合理化と受け容れを図る母、、、本人たちにすればのっぴきならない駆け引きでもある。

1女から3女の婿たちが、自分たちの立場を守る為、四女の結婚を邪魔しようとするところなど、確かに現実味がある。
何とか、自分たちとの関係は上手く落ち着いてきて安堵した矢先に、四女がこともあろうに黒人と結婚しようというのだ。
婿がカトリックではあっても大波乱である。
両親はその受け入れを巡り離婚状態にまで至る。

Quest-ce quon a fait au Bon Dieu 003

さらに黒人の彼シャルルの父アンドレは、ドゴールのアフリカ政策に怒りを覚えている。
彼の方も白人を差別しており、大変な頑固者である。
当然の如く、クロードとアンドレは激しくぶつかり合う。
そして、両方ともに結婚に反対であることから、何とか協力して式をやめさせようと仲良く相談になる。
一緒に釣りをして大きな獲物を釣り上げたり、泥酔して入ったケーキ店で警察に捕まったり、留置場でアンドレがアルビノの人に過剰反応して切れたりするまでに、何度も二人の間際で差別が顕になってゆく。
しかし、もしそれなし(その要素を徹底排除した形)では、逆に何をどう描いた映画でもセリフなど成り立たなくなるだろう。

Quest-ce quon a fait au Bon Dieu 005

終盤になってコメディさの度合いが加速する。
あれだけ反目しあっていたクロードとアンドレが酒の勢いも手伝ったか意気投合し、一気に畳みかけてくる。
多分にコメディな映画であるが、最後に四女ロールが両親のことを思いシャルルに別れを告げパリ行き特急に乗っていってしまうところをオヤジ二人組で阻止する。
そのやり方がもうローワン・アトキンソン(ミスタービーン)の域なのだ。
そこまでやるか、、、しかし笑って許してといった強引な流れがすでに出来ている。

Quest-ce quon a fait au Bon Dieu 002

何なんだという全てが丸く収まる派手なハッピーエンドである。
皆仲良し、関係も修復、ファミリーこそ善という構図である。

兎も角、笑いながら観てしまった。
確かにキャストの演技が面白いので飽きるようなことはない。
わたしは、(病んだ表現主義みたいな)画家の彼女に妙に惹かれるところがあった。
(皆から作品を邪険にされていて、実家に帰る時だけ父が壁にかけておくところなど、ホントにリアルで面白い)。


観て損はない作品だと思う。







ヴァン・ヘルシング

Van Helsing004

Van Helsing
2004年
アメリカ

スティーヴン・ソマーズ監督・脚本・製作

ヒュー・ジャックマン 、、、ヴァン・ヘルシング(カトリック教会の裏組織に所属するモンスターハンター)
ケイト・ベッキンセイル 、、、アナ王女(ヴァレリアス家の最後の子孫)
リチャード・ロクスバーグ 、、、ドラキュラ伯爵
デヴィッド・ウェンハム 、、、カール(修道僧で科学者、武器製作者、ヘルシングのパートナー)
シュラー・ヘンズリー 、、、フランケンシュタインの怪物
ウィル・ケンプ 、、、ヴェルカン(アナ王女の兄、狼男となる)
エレナ・アナヤ 、、、アリーラ(ドラキュラの花嫁・赤毛)
シルヴィア・コロカ 、、、ヴェローナ(ドラキュラの花嫁・黒毛)
ジョジー・マラン 、、、マリーシュカ((ドラキュラの花嫁・金髪)


ドラキュラ、フランケン、狼男、ジキル・ハイド、、、と勢ぞろいのアクションスペクタクル映画であった。
VFXも実に派手なこと。然程高度ではないが斬新な(ノスタルジックでゴシックな)場面も目立つ。
しかし残念なことに終始、画面が暗かった。
折角の奥行きやディテールの雰囲気が充分に楽しめない。
ヴァン・ヘルシングは例の大学教授ではなく、何とカトリック教会の裏組織に属するモンスター・ハンターである。
しかも前世?はガブリエル=神の左側に座る者であった。
彼こそ、かつてドラキュラを殺した英雄でもあったのだ。
何とも言えないスケールである。

異様なスケール設定だが、内容~ストーリー的には、娯楽アクション平板を滑って行くだけであり、深みの構造は全くない。
それは正解だと思う。監督の狙い通りの映像が仕上がっていると思われる。
ドラキュラが狼男を天敵としていた、(狼男から人に回復できる薬もあり伯爵がそれで制御していることが一つのキイとなる)。

キャストは誰もピッタリであった。
特にドラキュラは如何にもという感じ(ホントに如何にもという怪物界のエリートの風格である)。
ケイト・ベッキンセイルの強気のアクションもなかなかのものだ。
この手の跳ね返り娘役は板についている。(未だにわたしにとっては、「レタッチ」が一番だが)。
3人のドラキュラの花嫁の毒のある美は、いや美しい毒気は魅惑的であった。
顔が美しくなったり怖くなったりの変容が楽しかった。
その絵に惹き付けられ、グイグイと見入ってしまうタイプの映画だ。

Van Helsing001


フランケンが登場人物のなかで一番優しく、利他的な良い人であった。その分迫力はない。迫力は狼男である。
造形的に継接ぎがどうのという以前にあれではロボットではないか?
こういうアクションヒーローものでは、欠かせない相棒役のカールもひょうきんで臆病な性格で適度にマッチしていたが、もう少し多彩な武器やアイテムを用意しておいても良いのではと思う。光を発するアイテムが偶然役立ったくらいではないか。
過去の文献の解読などはそこそこしているが、それほど働きがない。彼次第でもっと展開に幅が出るのでは?

そして彼ら一行は、ドラキュラ城への侵入にしろ、何にしろ全く行き当たりばったりの無策状態でただ勢いで無防備に乗り込んでゆく。
ここが凄い。
いくら何でも普通、それなりの作戦とか装備~武器を携えて慎重に敵地に赴くではないか。
そのへんがまるでなく、特殊効果の力技でひたすら場面を繋いでゆく映画なのだ。
シチュエーション的には圧倒的に、空を自由自在に飛べ鋭い牙や爪をもつ敵の方が有利に思えるが。
何となく花嫁たちと最後にはドラキュラ伯が負けてしまう。
「お前は利用されている。わたしもかつてはそうだった。自由になるのだ。」
ドラキュラ伯の最後に放つ名台詞にヘルシングはどう思ったか?
ヴァン・ヘルシングが狼男に変身したことが勝因でもあり、それがアナ王女の命を奪う結果ともなる。

Van Helsing003


最後まで見て思ったことは、ヒュー・ジャックマンが一番、地味ではなかったか、、、特徴がないのだ。
リチャード・ロクスバーグのドラキュラ伯爵の方がずっとキャラが鮮明であった。
この役、デヴィッド・ボウイがやってもピッタリである。
嫁たちも毒々しい美しさでとても良かった。彼女らがいるといないでは、こういう絵を見せる映画だと随分違ってくるはず。
勿論、ケイト・ベッキンセイルもこうした映画のお約束の美女~ヒロインだが(笑。
最後に死ぬのだけは、ちょっと流れから謂って意外であった。
ヴァン・ヘルシングとアナ王女の二人で夕日でも見てハッピーエンドの方が、この映画では似合っていると思うが、、、。

Van Helsing002


ミイラ男も出てきてよかったような、、、。
そこそこ愉しい映画であった。





リズムの問題

sun001.jpg

風邪で家族全員、屋内待機状態である。

もう何も手に着かない為、ボヤっと過ごす。
子供は二人とも外に出れないので、朝から晩までゲームをしている。
調子悪くてもゲームをする体力はあるのだ。
その後は、訳の分からぬナンセンスアニメをアマゾンプレミアム動画で見ている。
感覚的な堕落はどこまでも出来る。
そういうものだ、、、。
(しかし最近訳の分からぬアニメが多い)。


わたし以外、みな病院に行き、たんまり薬を飲んでいる。
わたしは、血圧関係の薬を7種類毎日飲んでいるので、更に増えると訳が分からなくなる。
だからもう薬は貰わない。
医者との関係も最小限としたいのだ。
それを言うと、店との関係も最小限にしたい。
(全てウェブ取引と宅配にしようかと思っている)。
こちらが主体であるにも関わらず、注意しないとかなりそれを揺るがそうという動きに出てくるからだ。
油断できないし疲れる。


二人はピアノをいつまでもやらないのだが、こちらも寝ていて声をかけられない。
どうにか9時半にやらせることができた。
二番目にやる長女は12時までやることになる。

咳が酷いがやらせる。
次女はリズムがどうにもとれていない。
いつもの事だが、そのあたりの甘さで、上がらないことがある。

何時だろうがやらせたいのだが、騒音を考えて、明日にその分をやらせることにした。
何とも甘い。


躾は出来ていないかと思う。
確かに物語は教え込んでおく必要はある。
それは健康にも影響してくるはず。

リズムの問題である。
リズムを身体性のレベルから教え込むものである。
優秀なスポーツ選手のコーチが言っていることを聞くと、どうやらその辺に骨格があるなと踏むことがある。

理論をサラッと説いたところで、身にはならない。
反復してもっとも好ましいリズムに身体を馴染ませるエクササイズが必要だと最近とみに感じる。
毎日のルーチンを大切にしたい。


ここのところ明治プロビオヨーグルトR-1の瓶入りのものを宅配で毎日飲ませているが、これもそのひとつだ。
飲み終わった瓶を湯直ぐのも含め、繰り返しをひとつでもふやしてみたい。
別に明治の回し者ではない。
先日たまたま親戚を駅に送った帰り道に入った店(オーケー)でそれを複数買おうとレジに持っていったら、ひとり一本だと言われ強制的に一本だけ残して他は戻されてしまった。
これはショックであった。「どうして?」と聞くと
その時、「つれはいるのか?」と聞かれ何のことか分からず唖然としているうちに、「持ってって」レジ店員が別の店員に指示を出し、さっさとレジを終わらせてしまった。「なるべく多くのお客に飲んでもらう為です」とかなんとか言っていた。
そこで何やら言い争うような真似はする気もなかったのだが、、、
「つれはいるのか?」ってどういう意味なのか、、、未だに分からない。

娘に最低2本必要であったため、他の店で購入したが、他の店は購入制限などなかった。
(どこがオーケーだ?)
もうそこ(オーケー)には二度と行かないが、そもそも行く必要もないが、ろくな店ではない。
それは断言する。
娘ふたりに飲ませる分も提供できないくらい入荷が覚束ないのなら、そもそも店頭に出すな!
それからレジにゴロツキを置くな!

噺は逸れたが、なるべく店と病院の関わりは最小限としたい。
リズムの乱れる関係性は極力排除したい。

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次女と公園に

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春休みで天気も良い。
3年生も終わる。

ちょうど姉妹の大喧嘩ついでに、次女が家出するというから車で送ろうということで、公園につれて来た。
長女と公園を訪れることはかなりあるが、次女と来るのは久しぶりであった。
勿論、ふたり一緒に連れ立って来ることが、一番多い。
しかし最近は友達との約束などあって、社交的な次女がわたしと来る機会が減ってきたことは確かだ。
(親離れの傾向である)。

長女はわたしと座るとき、ピッタリ横に腰を落とすが、次女は空間を開けて隣に座る。
だから水ボトルを渡すときにも、手を伸ばして差し出す。
この距離感がそのまま、わたしと次女の距離感である。
長女とは明らかに違う。

暫く、あちこちで買い食いをしてから、熱帯植物園のいつもわたしが読書する公園の噴水の見渡せる椅子に座る。
ちょっとコーヒーを飲むのに適したコーナーだ。
そこで、わたしのメモノートを差し出し、彼女に自分の考え、気持ち、興味などを書かせることにした。

するとすんなり集中して書き始めたのだが、その内容は彼女自身の創作した「怪奇譚」なのだ。
小さい文字で普段使い慣れないボールペンで書いたものだが、自分が友達との遊びの中で経験した「怖い噺」が元になる。
実体験という、昔あるところではない、地続き間~臨場感があり、幼いながら面白い噺であった。
(詰まり、不可思議な出来事ではあるが、特に恐怖感はない(笑)。

わたしがかなり興味を示すと、調子に乗って今度は一作目の二倍以上の分量の噺を書き込んでゆく。
これも実際、友達と経験した怖い噺だという。
「怒らないでね」というからどんな内容だろうと思って読んでみると、、、
ああ、こんなことして遊んでるのか、とちょっと強めの炭酸を飲んだときのような気分になる。

呪いとか御呪いとか都市伝説などから彼女らなりに収集した情報~結束をそれによって強めるというような秘密~から恐る恐る取り出したルールを元に、エレベーターのボタンを決まりに従い順に押していき、途中の階で、誰が入ってきたらどうだとか、女の子が最後に入って来ると自分が死ぬこともあるとか、ホントに死んでしまったら困るから、その前にこうしようなどと葛藤する話が拙いながら臨場感をもって伝わって来る。
結構、それなりに面白いのだ。

噺としては、最初に書いた柳田國男の集めた民間伝承みたいな風合いを感じるものの方がよかったが。プリミティブという面でだが(笑。
一話目の方が好きだというと不服そうであった。


彼女らが真剣に(かかりポゼッション的に)、マンション(10階以上でないとダメなそうだ)のエレベータの前で密談している様子が目に浮かぶ、、、。
学校の隣の公園に集合してから、公民館で遊んでいるとばかり思っていたのだが、そんなところを遊び場にしているとは今まで気付かなかった。
彼女ら固有の濃密な空間が恐らく街のあちこちに点在しているのかも知れない。
そう言えば、長女も秘密基地がどうのと喋っていたことがある。

異次元がまだ残っている場に暮らしている彼女らが羨ましい。
一度、等質空間・線状的時間にくくられてしまうとそこを超脱するには、何らかの理論・御呪いを必要とする。
それでじたばたしているところもある。
いやまさにそれで苦労しているのかも知れない。


まあ、それはともかく、喧嘩はいい加減にしてもらえないか、、、それが一番の頭痛の種である。


Pluto moons



バーニー・フュークス

Bernie Fuchs001 Norman Rockwell001

バーニー・フュークスにした。ノーマン・ロックウェルではなく。
J・Fケネディの肖像で決めた。
(自分の好みでもある)。
どちらも「アメリカのポートレート」画家(作家)~~アメリカの良心(ジャクソンブラウンがよくそう言われていた意味でも)であると感じるが、同じ対象を描いてもかなり趣が異なる。
*左のケネディがフュークスで右がロックウェル。

Norman Rockwell002 Bernie Fuchs006
基本的な作風の違いはよく現れてはいるが、左はまだフュークスがスポーツ選手を描く前のファッション誌のコテコテのイラストレーションを描いていた時期で、彼の既知の物語性をズラし斬新で本質的なフレーミングを切り取り編集するところまでは至っていない。
*左がロックウェルで右がフュークス。

輪郭においてロックウェルは極めてスタティックであるが、フュークスは、動的なぼかし溶け込みが感じられる。
ロックウェルの精緻で忠実な描写に対しフュークスは必ずその対象の本質的な要素を押さえる機智に富んだ描写が見られる。
それがケネディにおいてはワイシャツである。階級的な象徴となるボタンダウンを彼は着なかったことをその目の覚めるような白いシャツで強調する。常に合衆国そのものとともにあろうとする不屈の使命感を滲ませる。
(ケネディの肖像は、沢山あるがどれもほとんど野心的な若いイケメン大統領の域を出ない)。

ロックウェルの絵は基本的に静的であり、アメリカらしい(アンドリュー・ワイエスで極まるが)写実の系譜と謂えるか。
とても庶民性があり日常の機微とユーモアに満ち、絵本に親和性の高い典型的な絵に思える。

フュークスの絵には、ただそれらしく描いただけ、というものは恐らくひとつもないだろう。
攻めのイラストレーションなのだ。その意味でモダンなのだ。全く古さを感じない。

二人とも商業主義的な広告(CM)などを含むイラストレーターとしての活躍の場が主体であるが、フュークスの与えられたテーマにおける彼独特の場面の選定とそのフレーミングと構図・構成は、どの絵においても彼のスタイルとなっている。
初期のデトロイトでの車のイラストでも、それまで(通常)のイラストでは、人の姿など添え物として端に僅かに描かれる程度であるが(今の広告でもそんなものだ)、彼の絵では、勿論車は卓越したテクニックで魅惑的に中央に描かれているが、寧ろその車と共にいることの楽しさや幸せを、ひとを様々に活き活きと描く事で目一杯表している。ひとをこれ程しっかりと描き込んでいる車の広告は彼のもの以外にあるまい。

Bernie Fuchs002

そしてスポーツである。彼の真骨頂が描かれる。
実はわたしが、このバーニー・フュークスという偉大な画家を知ったきっかけがこの絵である。
Bernie Fuchs005
ケネディの崇高な孤独の姿にも深く胸をうたれたが、この野球選手の画像には、ただ圧倒されるばかりであった。
そして感情的にグッと込み上げるものが、あった。

神聖な威厳すら湛えた肖像である。まだ黒人はメジャーリーグで活躍する場を与えられておらず、野球史に残る名選手(実力者)であったにもかかわらず国民の注目を浴びる機会に恵まれなかった男の姿~生き様を浮きたたせる。
これは彼のその選手に向けた畏敬の念の表出の結果であろうが、技法的に見れば対象を後光の如くに照らす荘厳な光の役割が大きい。フュークスは、ここでも独自の光の表現法を見出している。背景を描き切ったところで、周到にテレピン油で光の場所を拭き取るのだ。これはやり直しは効かない絶妙な技術である。
「消し取り描法」と彼によって命名される手法だ。(まあ、わたしも無意識に絵の具を拭き取り光を作る経験はしてきたが、、、多分そういう人は少なくないと思うが、しかし彼の絵における、この効果には目を見張るばかりだ)。
更にここでもさりげなく、しかしとても肝心なところに彼の人生を支えて来た家族の姿をしっかりと描き込んでいる。
ここが違うのだ。彼の絵には必ずこれがある。探すまでもなく、あるべきところに、あるのだ。

Bernie Fuchs007
モハメド・アリの肖像でもこれを凌ぐものがあるだろうか。
その存在の偉大さをひしひしと感じさせる。
肩書はイラストレーターであるが、これらの肖像の厚みはレンブラントの人物画や自画像群にも引けを取らないと思う。

Bernie Fuchs003
ゴルフ場であるが、メインが何処か一見分からない。
主役であるはずの選手は実に小さく、ギャラリーと見分けがつきにくいくらいに入っている。
そしてフェアウェイがその先の先まで描き込まれ、われわれの視線はいやが上にも丈高い木々へと注がれる。そこに射す光に。
そのゴルフ場の特徴とその下でのプレーを一瞬に物語る。

同様の作品に得意の野球ものがあるが、、、
「グリーン・モンスター」である。
Norman Rockwell009
外野の選手がたった独り守備をしているプレーの最中を切り取った絵である。
この球場はその設置環境の条件から、ホームラン性の玉も跳ね返してしまう、守備も大変な高いネットが聳えていることが何よりの特徴なのだ。
そのやりにくそうな選手の姿に共感してしまう構図が面白い上に絵としてもとても印象に残るものだ。


そしてわたしの一番好きな絵は、彼の絵本にある。
ジョセフィン・ベーカーの少女期を表した愛情をたっぷり感じる物凄く精緻に描かれた贅沢過ぎる絵本である。
これには驚く。ジョセフィン・ベーカーの可愛いこと。ダンスしながら歌う弾ける姿は、特に可愛い。
静かな肖像なら、ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール」などあるが、この活き活き感は、ちょっとないだろう。

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彼がまだ差別意識の高い時代に、黒人をこれだけ親密に描いているのは、彼にとっては自然であった。
彼はグレンミラーに憧れ、トランペットにのめり込み頭角を示しており、将来を嘱望されていたという。
普通に黒人とセッションする音楽人生を送っていたが、彼の祖父には内緒であったそうだ。
しかし高校卒業後に努めた工場で利き手の指三本をプレス機で失い、演奏家の夢は断たれる。
そこで第二の夢として絵描きを目指すが、利き手の指が3本無いと絵だってそう容易に描けるものではない。


絵に、やはり彼の人生の全ての時間がこめられていることを実感する。


ホイッスラー

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ホイッスラーとくれば”ピーコック・ルーム:青と金色のハーモニー”ときてジャポニスムという感じなのだが、音楽の曲名そのものという画題が示すように色相数を抑えた簡潔な豊潤さをもつ構成的な絵が際立つ。
当時はベートーベン、ショパン、、、。
とても心揺さぶられる斬新なコンテンポラリーなニューミュージック(ミュージシャン)の登場である。
間違いなく彼も熱狂したのだろう。
そして彼の絵も極めて詩的で「音楽的」である。
白のなかの白、、、アザレアの白、ソファの白、ドレスの白、絨毯の白、、、豊かで饒舌でありながらしっとりした白。

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”白のシンフォニーNo.2”と”白のシンフォニーNo.3”
描かれている具象的要素の持つ物語性を解体する作用のある画題である。
この「題」とは、余計な概念に邪魔されず絵自体を何にも(既知の形体の物語性に)従属させない為の小さくない装置になることに気付く。

もっともわたしの好きな彼の絵でもある。
白を主調にした絵でこれほど繊細で芯の強くて美しい絵は他になかなか見つけられない。
印象派の色と光の洪水やプレ・ラファエル派(ラスキンの推す)の偏執狂的な凝縮するディテールにちょっと疲れを覚えたときに、とてもほっとする優しさに浸れる。

マサチューセッツに生まれサンクトペテルブルクで多感な思春期を過ごし、パリで本格的な制作を行うも、周りの強烈な(騒々しい)絵のなかに彼の詩的で繊細な楽の音はかき消されてしまう。
画壇の中心は宗教と神話モチーフの伝統・古典的写実の世界である。
アングル、ジェリコー、ドラクロワ、、、。
しかし彼はすでにジャポニスムの風に当たり、異なる表現の地平にも立っていた。
省略、単純化、平面性、装飾性、単色の豊かさ、、、。マネとの交流は大きかったかもしれない。
そしてさらに音楽であった。
それらの上に、確固たる独自の音楽的世界を絵画に実現してゆく。
抽象に転向せずに。
ロンドンに移りかなりの名声と評価を得ることになる。
例の”ピーコックルーム”である。
(ピーコックブルーだけでなく金色もポイントである。ちょっとロシア的ルーツも感じる?これまでの美の断片の重層する稠密さには違いない)。

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”ノクターン 青と金色”ノクターンシリーズである。
(ノクターンと謂えばショパンである。ショパンと謂えば「いくちゃん」であるがここではそれは追及しない)。
独特の、テレピン油を過剰に混ぜた薄塗の重ねによるトワイライト時間の光景、、、。
これがもっとも彼らしい世界~ニュアンスかも知れない。

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そして花火の絵。”黒と金色のノクターン:落下する花火”
ピアニストの即興演奏のような絵だ。
かの美術評論家で社会思想家(更に篤志家でもある)ジョン・ラスキンからこき下ろされた自信作”ノクターン”については、名誉をかけて裁判で争う。
(しかしラスキンほどの人が何故これに激怒したのか、、、)
その時のラスキン側の弁護士の云う「たった二日くらいで手早く仕上げた絵に200ギニーも要求する価値があるのか」に対し、「手早く描いたと言っても、これを描くにはわたしの全生涯の時間を必要とする」
ラスキン側の弁護士が余りにも頭が悪すぎたとは言え、ホイッスラーの勝訴は当たり前だ。
分かり易い例では日本の書家の仕事などそれ以外の何ものでもない。
制作時間をかければよいのか?アホ。


この作品あたりから、作品は全面的に鑑賞者に託されるようになったかも知れない。
そして絵画にパフォーマンスの要素の立ち上がりをも感じる。

ホドラー

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わたしはスイスの画家、ホドラーについて、ほとんど知識はないが、気になる絵は幾つもある。
本棚の模様替え最中に数枚の絵を観て、これは明らかに自分の好きな画家に入ることを確認した。

わたしがホドラーに惹かれるところは、その身体性における共感度による。
どのテーマを扱っていても、それはリズムを顕にしており、反復(彼の謂うところのパラレリズム)がその強度を高めている。
それも心地よく。
ずばり「オイリュトミー(Eurythmy)」という絵があるが、彼の絵はまさにその”美しいリズム”によって構成される。
ルドルフ・シュタイナーの提唱したオイリュトミーは、言語や音楽のエネルギー(律動)を身体表現によって具象化するものであるが、ここでは心象・イメージのもつエネルギーが見事に絵画(形体の並行した連続・反復性と色)によって具象化されている。
つまり優し気で内省的な老人の並ぶこの「絵」のみならず、彼の絵全てが絵画版オイリュトミーとも謂える。
わたしが「昼Ⅲ」と共に最も好きな絵である。

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それを意図的に打ち出した初期作「夜」からそのリズムは一貫しており、変貌するのは色彩~装飾性(単純さ)である。
人物であろうと風景であろうと、調和のとれたリズムが基調に静かに流れる。


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これは巨大壁画である。
単純化と装飾性においても、ムンクに影響を与えたことが納得できる。

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わたしは風景画は苦手で、人の絵(風景画)を観るのも苦手なのだが、ホドラーの風景には非常に惹かれる。
魅入ってしまう。

この物質性~身体性がたまらない。
彼の風景画には好きな作品が沢山ある。
セザンヌと共に、いつまでも魅入ってしまう「風景画」なのだ。
(勿論、ピサロやゴーギャンもとても素晴らしいのだが、明らかにその種の風景とは異なり、彼の心象というか身体性が心地よくリズムと共に単純化され表出されている)。

そして「青」が神秘的で純粋で美しい。
その特徴的な「青」に、黄色、(緑)、赤が構築性とリズムを際立たせるよう対比的に鮮やかに使われることが多い。

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特に晩年の風景には、穏やかで静謐なリズム~永遠を感じる。
神話性を帯びても来る。
究極の風景。
ほとんど抽象に近い。
現代音楽(ミニマル・ミュージック )を観る想いだ。
(初めから抽象を狙ったものではなく、結果として自然に描かれた、そんな作為を感じぬ絵である)。
何と謂っても気持ちが良い。
快感なのだ。

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久しぶりに清々しい安堵感にも浸った。
そして、、、恐らく自分で描くのが、もっとも健康的な気がして来る、、、。



キリコ

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わたしが恐らく初めて観た彼の絵は、教科書に載っていた「通りの神秘と憂愁」だったと思う。
中学生になって観たものだ。
それ以来、キリコはわたしのなかで特別な場所を持つようになる。

5感を越えた現実を捉え見えるものにするのがシュルレアリズムであるなら、まさにそれかも知れない。
何処までも続くアーケード。
張り詰めた濃密な気配だけ漂う空間。
それはまた何か恐ろしい事件の残響。

少女の影だけが浮かび上がる不吉な時間。
いや、凍結した時間か。
真っ白に、思考の終了による事態。

キリコはイタリアの広場に憧れを持っていたという。
ルーツにあるギリシャ古代都市にイタリア広場の接続。
寂莫と不安の支配する空間。
哲学者同士の出逢う場。

どんより曇った空のもとでの何処から照らされるのか強烈に明るい温度を持たぬ光と幾何学的な影。
その不安は更に崩された幾つかの消失点をもつ遠近法により増幅される。

「形而上絵画」が極まったところで、パリではアンドレブルトン、アポリネールらのシュルレアリストたちから絶賛を浴びる。
だが、直ぐにスタイルを変え、彼らの元を去ってしまう。
キリコは古典絵画の技法の習得に向かう。
これはピカソにも例えてよい変貌であろうか。

ティツィアーノを彷彿させる(実際に彼からの影響とされる)官能的豊かさに輝く色彩と活き活きしたタッチの馬や静物が描かれてゆく。
そしてその技法によるマネキンたちの生成。
ここに芳醇な傑作は幾つも生まれている。


晩年となると、自らの初期「形而上絵画」の模倣や要素を入れ替えただけのものや、日付を書き換えただけの作品の量産が起きる。これは世間を大いに戸惑わせる(誹謗中傷を呼び込む)変貌でもあった。
この意味を解説できる美術評論家は未だにいない状況である。
一部、初期作品の評判が上がったためのリクエストに応えたものだなどという噂もあるが、ニーチェに強く影響を受けた画家~小説家である彼の読み込みはまだ十分になされていない。
少なくともウォーホールなどとは、全く別の系に乗る芸術家であろう。


謎をもっとも愛する画家であったが、自身非常に深い謎を秘めた画家であった。
この謎が深くわたしを魅了し続ける。

実は「通りの神秘と憂愁」は、わたしのノスタルジア~原郷の拠点のひとつなのだ、、、。
それが映画となると、まさにタルコフスキーの「ノスタルジア」そのものとなる。

ライフ

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Life
2017年
アメリカ

ダニエル・エスピノーサ監督
レット・リース、ポール・ワーニック脚本

ジェイク・ギレンホール 、、、デビッド・ジョーダン(医者、ISS滞在記録保持者)
レベッカ・ファーガソン 、、、ミランダ・ノース(検疫官)
ライアン・レイノルズ 、、、ローリー・アダムス(航空エンジニア)
真田広之 、、、ショウ・ムラカミ(システム・エンジニア)
アリヨン・バカレ 、、、ヒュー・デリー(宇宙生物学者)
オルガ・ディホヴィチナヤ 、、、エカテリーナ・“キャット”・ゴロフキナ(司令官)

キャストが豪華である。
つい先ごろ、ファンになったジェイク・ギレンホール繋がりで観ることに決めた。
(この映画、パッケージと裏の説明(売り込み)文を見た範囲では触手の向かないものであった。火星絡みの映画では「オデッセイ」のような傑作もあれば、「ミッション・トゥー・マース」のような大駄作もある。結構危ない橋を渡ることになる気がする)。
観始めるととても皆、大人しく真面目なひとばかり、ジェイクも実に良い人なので、ちょっと戸惑った(笑。


火星探査機ピルグリムの回収に成功したISSのラボにて、収集されたサンプルの中から単細胞生物~地球外生物が発見される。
歴史的発見に沸く船内。
そのステーションの機構やメカのディテール、そこでの船員の立ち振る舞い、全てが実に緻密にリアルに作られており、撮影もワンカットで追う臨場感溢れるものになっている。
ニュースで観る乗組員たちの生活場面よりリアルに感じるほどだ。
かなり淡々と地球の子供たちの質問に応えているところにも好感が持てる。
変にドラマ仕立てにしていない。(ヒステリックな人間やワザとらしく下品な者も出て来ない)。
宇宙デブリがあんなに沢山飛んでいるのは、ちょっとオーバーな気はした。
(日本企業が近く宇宙デブリ清掃事業を具体的に始めることになっている。おそらく80億人の人口になったころには今よりゴミは減っていると思われる)。

そんななか、ラボで生物学者ヒューがその生命を眠り(冬眠)から強引に醒ましてしまう。
こともあろうにその未知の生物を強力とは言えゴム手袋で直接触っている。
この辺のリスク管理からして非常に危うい。ラボの多重封鎖性ともしもの時の殺傷機器の配備である。
もうそこから何が起こるかは、容易に見当がついてしまう、、、。
後はそれ~起こるべき事件が、どのような形で起き、どういう演出で魅せられてゆくか、という見方に集中することとなろう。
ショウが実に冷静沈着なシステム管理者で、真田広之が適任に思える。

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そこに発見された生物は人間のこれまでの生物に関する知見を絶するものであった。
単細胞が急速に分裂増殖し、自立性をもって集合・協働することで、ひとつの固体状に連(運)動する生物体なのだ。
(ということは、死のない生物ということか。細胞の依存関係によって多細胞という組織体が生成されることで、総体としての死を呼び込む。単細胞の分裂の連続の中に死の概念は生じない。とすれば宗教も発生しないであろうし、倫理も生じまい、、、すこし先へ飛躍するが基本的に)。

その生物についての情報は、ISSからの連絡で地球に届き、センセーショナルな話題を振りまく。
小学生の投票から「カルビン」と命名される。
形体は「エイリアン」系列とは大きく隔たる、イカを想わせる生々しく異様なよく出来たフィギュアと謂えよう。
以降、ステーションでも、暫く「カルビン」呼ばわりされるが、、、それも平和なうちだけである。

その生物は、イメージとしてはホタルイカの群れみたいな自立的集合組織形体で、(こちらは単細胞レベルの)集合体としての知性や感覚、運動能力を発揮しているようだ。
それは特に捕食能力に優れている。生命維持はまず捕食~代謝の強靭さにかかってくる。
船員が見事に緊急封鎖されたラボ内で内側から喰われることで明白となる。
この内側~内臓イメージは「エイリアン譲りであり、船内環境は「ゼログラビティ」的である。
黄金のアデーレ 名画の帰還」にも出ていた船外作業の得意なライアン・レイノルズ~ローリーがいきなり(あっさり)最初の犠牲者となる。

それからは、こちらとしてはこの密閉空間内で(この設定の何と多い事か)、次は誰が喰われるかが関心の中心となる。
山場の度に今度は彼か、彼女か、と思っているうちにたちまち(笑、いなくなり最後はこの流れから行くと、80億人のアホ(デビッド曰く)も皆、全滅してしまう流れとなるか。
だがこの不死身の最凶の生物は何があっても地球に運び込んではならない。
宇宙船外にあってもちょろちょろと動き回り、頭を使って船内に入り込むのだ。
頭も利くが動きも素早い。強靭な体と破壊力のある爪をもつ。
殺傷能力は頗る高い。


やはり最後がこうなるか、、、である。
搭乗員誰もが高潔で自己犠牲も厭わない精神をもつ。
(若干、頭の固い管理者はいるが)。
しかしその精神を発揮するタイミングが全てギリギリの場面である。これにはとてもリアルな共感で立ち会える。
誰も自己保存欲が根本にあり、子供の生まれたばかりのショウなどは、何が何でも生きて帰還したい。
だが、このまま自分が生きようとすれば、死ななくてもよい(生きる可能性の残された)者まで犠牲にすると察した瞬間、友(種)を守ろうとする自己犠牲精神が発動するのだろう。このような事態に逢ったこともなく、確信はもてないが。
カルビンは当然の如く自己保存欲以外の何ものも持っていない。それが全てである完全体だ。

イラク戦線でのトラウマをもつ(ISS最長滞在記録保持者の)デビッドは、最後に80億のアホのいるところに戻る気はしないと言って自分の救援艇にその究極の生物を呼び込んで地球から遠い彼方に飛ばし、ミランダの乗る救命艇を地球帰還のコース設定にするが、デブリに衝突などしつつ途中まで並んで飛んでゆくなか、片方が地球に戻って着水してゆき、もう一つは宇宙の彼方に飛ばされてゆく。
予定通りと思ったら、、、何と~である。

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やはり80億人のアホは滅亡の運命か、、、。
しかしどんでん返しのショックとか重みがほとんど感じられない。


噺は(最後を捻ろうが)基本的に単純である。「エイリアン」のような(空間的な)深みも神秘性も物質性もない。
後に何も残らないあっさりした映画であった。



LOW DOWN ロウダウン

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LOW DOWN
2014年
アメリカ

ジェフ・プライス監督
トッパー・リリエン 、エイミー・オーバニー脚本


ジョン・ホークス 、、、ジョー・オーバニー(伝説のジャズピアニスト、エイミーの父)
エル・ファニング 、、、エイミー・ジョー・オーバニー(ジョーの娘)
グレン・クローズ 、、、グラム(エイミーの祖母、ジョーの母)
レナ・ヘディ 、、、シェイラ・アルバニー(エイミーの母)


1974年ハリウッドの噺というが、ここはどの辺に当たるのだろう。
凄い生活者たちの場所である。

薬に溺れる父を心から愛し尊敬している健気な娘にエル・ファニング
とても良かった。
特に、彼女がそおっとターンテーブルに置いたレコードに針を降ろすところ、彼女の性格と音楽に対する憧れと父に抱く畏敬の念の全てが見て取れる。
彼女の視点から父とその友達や周囲の世界を語る。
ジャズピアニスト、ジョー・オーバニーの半生を描く。
確かにやさぐれた憎めない魅力のある男である。(あくまでもジョン・ホークスの演技においてであるが)。

彼女の生活環境がまず物凄い。
薬中の人々、保護者の暴力が元で酷い発作に苦しめられるエミーの男友達、ある日突然若い母親が死に保護施設に引き取られてゆく幼い近所の友達、住居でないところ?に住み着いてレコードプレイヤーを回しエミーに曲を聴かせる芸人。
ハリウッドの何処にこんなところがあるのか。
それぞれ今の自分ではない姿を描きつつも、その磁場を離れられない人々である。

あの空間でエイミーが真っ当に育ったのは、恐らく祖母グラムのお陰であろう。
見渡してもその祖母以外にノーマルな人はどこにも見当たらない。
(ノーマルでいることは凄まじく強靭な精神を必要とする)。
彼女は、エイミーにディラン・トマスの詩集を渡し、勉強するように勧めている。
(彼はウェールズ出身であるが英語で書いた詩人だ)。

父親は娘の心配を他所に然程、薬をやめ立ち直ろうとする意志は無かった。
「恐怖や苦しみが増す事より、ハイになることを選ぶ」と悪びれもせず言ってしまっているところから、もう無理だ。
レコーディングの度に専門筋から高評価を受けていて、チャーリー・パーカーとも共演している玄人好みのミュージシャンであるが、お金に常に困っているようであった。全て薬に回ってしまっているのか、、、。
ピアニストなのに自分の家にピアノが無い。
一体この人は何処でピアノをマスターしたのか。
昔は持っていたという感じもしないのだが。
母が特別に何処かで習わせたのだろう。
(まずその基礎がなければ、どうにもならない)。

父は娘のことは、とても可愛がっており、将来についても漠然と心配はしていたが、ほとんど実質的には何も出来てはいない。
(唯一、彼女のボーイフレンドが発作で倒れたときに頼れる大人の介抱をして頼りがいを示すところもあったが)。
母親にしてはアルコール中毒であろうか。自分の身すら持て余している。
当然、全くエイミーの養育にはノータッチだ。
別居し酒場の歌手をしているようであったが、エイミーが父のことで途方に暮れ彼女をやっと探して訊ねてきたにも拘らず、父や祖母が伏せている事実を明かしてショックを与えたり、エイミー自身に対しても「あなたは学者タイプでもチアリーダータイプでもない」と貶し、「ただの尻軽でしょ」などと愚劣な悪態を浴びせる。
エイミーにしては珍しく感情も顕に怒りを示す。
基本、彼女は誰にも頼れない。

親が無くても子は育つというが、エイミーは長じて作家になっている。
(この親だから、という面もあろうが)。
作家タイプだとわたしも思う。
よく詩を書いていたし。


ジョー・オーバニーが酒場で弾くピアノ「ラッシュ・ライフ」もとても素敵だが、わたしが終始ひきつけられたのは、物語の語り部である娘のエイミーだ。
彼女は父のピアノとその音楽をこころの底から愛していた。
これはゆるぎないものであった。
彼が何をしていても、しでかしていても、刑務所に出入りを続けていても、全く関係なく。

どんな環境にあっても、ひとつ強烈に純粋に信奉できる存在があったことが、きっとそうした精神をあらゆる汚濁から守る結果となったのでは、と思う。
というより、そういう精神をまずもっていることが肝心なのか?
その両者~両面が同時に必要なのだ。きっと。そういうものだ。


才能豊かなジョーより、エイミーの精神により深く惹かれた。
エル・ファニングのこの微細で静かな(直向きな)感情表現は彼女の素の部分とも感じとれた。
もはや姉を越える魅力だ。

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これからエル・ファニングの方に注目を移したい。
Amazonプライム無料視聴第七弾!(爆






マンチェスター・バイ・ザ・シー

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Manchester by the Sea
2016年
アメリカ

ケネス・ロナーガン監督・脚本
マット・デイモン製作

ケイシー・アフレック 、、、リー・チャンドラー(便利屋)
ミシェル・ウィリアムズ 、、、ランディ(リーの元妻)
カイル・チャンドラー 、、、ジョー・チャンドラー(リーの亡き兄)
グレッチェン・モル 、、、エリーズ・チャンドラー(ジョーの元妻)
ルーカス・ヘッジズ 、、、パトリック(ジョーの息子)

グッド・ウィル・ハンティング(マット・デイモン脚本)」に出演していたケイシー・アフレックの主演。
「マリリン 7日間の恋」のモンロー役のミシェル・ウィリアムズ。


これは(淡々と続くしかない)人生の映画というか、、、。
そうリー(たち)の人生を、その機微を、襞を描いてゆくものか。

感覚的に共感できるディテールがありビクッとする部分もある。
なかでも、パトリックが父の遺体を葬儀の春まで冷蔵保存していることを気にかけている時に、冷蔵庫に山積みに詰められた冷凍チキンパックが雪崩落ちてきて、どうにもおさまらずパニックを起こして泣きじゃくるところなど秀逸である。
実に心理的に分かるシーンだ。
そういうヒリツク身体性で語る。
ドラマに陥らないテンションがあり繊細な描写が維持されてゆく。

”マンチェスター・バイ・ザ・シー”という小さな港街が舞台である(アメリカのマサチューセッツ州の)。
小さな共同体でもあり、皆があれはジョーの弟のリーだ、とか知っている。
そんな街だ。港の風景と水面の光景が基調にある。
リーはどうしても自分の過ちから起きた惨事を乗り越えられず、離婚し街を離れボストンで便利屋を営んでいる。
兄の訃報に戻って来ても、どこかよそよそしく自分の居た堪れない過去の想いの充ちる故郷に馴染めず逃げ出そうとしている。
短気で血の気が多く、以前と違い不愛想で(表情を失い)、ことあるごとに暴力沙汰を起こす。

リーは心臓発作で亡くなった兄の遺言により、その子供~甥の後見人になるも、思春期真っただ中の若者の扱いや今後について極めて現実的にあれこれ思い悩む。
彼は甥にコントみたいな彼女とのデート(二股)にも突き合わされ振り回される。
しかし大切な肉親の喪失という現実に、どちらも同等な哀しみと虚無感を胸に湛え続けている。
反目しながらも彼らの絆は育ち、お互いを受容する気持ちは高まって行く。
(なかなか粘り強くコミカルな関係が維持されてゆくなかで)。
最終的に住む場所を巡る対立だけはどうにもならず、お互いに納得し分かれて暮らす事にはなるが。


現実のコンテクストにかつての出来事が織り込まれているかのように出現する(フラッシュバックする)。
明るい海の船上での愉しいひと時、娘たちとの憩いの一齣、兄と幼いパトリックや妻と最愛の娘たちとの和やかな想い。
幾度となくそれが反復するうちに掠れて消えゆく映像もあるだろうが、打ち消えず冴えわたる想いもある。

「わたしたち燃えてるの?」
焼死した二人の娘の記憶は消えようはずもない。
絶対に乗り越えられない、永遠に生々しく蘇る傷として、、、。

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「アルビノーニのアダージョ」がこれ程、ずっしりと使われた映画は観たことはない。
ヘンデルも効果的に入っていた。
カタストロフ~感動などないが、確かな一歩は踏み出してゆく彼らである。


ハリウッド映画には珍しく?安易で奇跡的(ドラマチック)な解放がない。
ヨーロッパ映画の真摯な感触に近い。
渋かった。

またまたAmazonプライムの無料視聴。第六弾となった!
こうなったら、どこまで続くかやってみるか、、、
(いや、もう映画自体、疲れた。他の事がしたい)。


モールス

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Let Me In
2010年

マット・リーヴス監督・脚本


コディ・スミット=マクフィー 、、、オーウェン
クロエ・グレース・モレッツ 、、、アビー
イライアス・コティーズ 、、、警官
リチャード・ジェンキンス 、、、父親

Amazonプライムで無料視聴第五弾!
こうなったら、、、もっと続けるぞ。


「ぼくのエリ 200歳の少女」(スウェーデン)のリメイク版である。
その映画は、CMの入ったカット版で以前、観た気はする。

このクロエ・グレース・モレッツのヴァンパイア~アビーは何とも切ない。
ここでも写真が肝心なアイテムとなる。
アビーの父と思っていた男が普通の人間で、彼だけ歳をとってしまっていた事を知り、ほぼ全容をオーウェンとともに推察して愕然とする。
確かに彼は人に噛みつかず、背後から刺すなどして殺してから血を抜き取っていた。
(もう歳で思うように人狩が出来ない体となって、あのようにヘマばかりしているのだ、、、最期は厄介払いされたも同様)。
それで、その後釜がオーウェンなのか。彼があの役をこの先、引き継ぐのか。
アビーは完全にその気だし(最初は僕の彼女になってと誘われたにしても)。
これからが大変だぞ(クレヨンしんちゃんか?)

Let Me In003

アビーがヴァンパイアになって人を襲う動きは、キック・アスなど問題外の人離れしたアクションであった。
(オオカミみたいな動きか?)
しかしどうせ殺すのだから、もっとしっかり吸い取ればよいのに、まだまだ血液が残ってるような吸い取り方に見える。
(気のせいだろうか?)
熊が鮭をほんのちょっと食い散らかして川辺に捨てる勿体なさを感じたのだが、、、。
(物語にはほぼ関係ない感想ではある)。

アビーは昼間、暗がりで寝ているし、そんな時にモールス信号は役には立つ。
、、、かも知れないが、どうだろう?壁越しにはもうする必要もないし然程やっていたわけでもない。
さして、モールスとか邦題つけるほどのものでもあるまい。
と、思った。
「中に招き入れて」なのだし、、、。
モールスで用が足りれば入るまでの事もないだろう。

しかし入ってどうのという程のものでもないし。
(何故、入っていいよ、と言われないと身体から血が吹き出てしまうのかは謎)。
「アビー」とかにして謎めいた美少女に焦点を当て、観る者の想像力を膨らませた方がよいような、、、。

日光に昼間触れると、忽ち激しく発火してしまうというのも新鮮であった。
爛れて朽ち落ちるとか灰と煙になってしまうなど、いろいろなパタンがあったが、これだけ派手に燃えると爽快感がある。
(ニンニクや十字架とか杭などの効能について言及する場面はない)。

Let Me In002

向こうの映画はどの映画でも虐めっこは半端でない極悪振りであるが、ここでもオーウェンはプールで殺されそうになる。
しかし、そこへ何でまたという感じでアビーが派手な救援に来るのは、もう街を立ち去ったのではなく、彼に張り付いていた証拠である。(でなければ、あのタイミングで助けられまい)。
それにしても、パワーアップしたかのような彼女の破壊力(大熊並の殺傷力)ではないか。
プールに四人分のバラバラ死体である。

基本的に彼女は生きるために仕方なく人を殺して血を吸っているとは言え、罪悪感などはないように思える。
(人が豚を喰っても罪悪感はないのと同様)。
オーウェンのことを愛してると言っているが、前の彼~父にしか見えなかった男のときもそう囁いて働かせていた(尻ぬぐいをさせていた)のか、、、。最後にふたりで~彼女はトランクの中だが~列車に乗って何処かに出ていくところでエンディングであるが、彼の身に一抹の不安を覚える。モールス信号などしてホッとしているが。
勿論、彼は彼なりに覚悟は決めている。
(警官が彼女のバスルームに侵入したとき、眠っていた彼女が飛び起き警官を襲うのを確認しながら彼自らドアを閉めたときに、彼は彼女側の人間となった)。
ふたりの乗る時間系が全く異なり、最初から添い遂げるとか言う事は原理的に不可能である。
敢えてそれを知った上で、ともに捕食の上での困難を抱えて生きようとするのは、余程の覚悟の上である。
お互いの孤独(孤立)に対する共感から生まれた愛情とも謂えようが。


夜の雪の積もったアパートの中庭で孤独を噛み締める時に現れる素足の謎の美少女というところからして、、、
絵が充分堪能できる映画であった。
噺も無駄がなくスッキリしている。
いじめられっ子のオーウェンは如何にもという感じであった。
(そう言えば前の彼もいじめられっ子風の風貌であった。そういう子を狙っていたのかも知れない)。

2人のキャストは良かった。
クロエ・グレース・モレッツが特に良い。
でも彼女、未だにこれ!という役~映画には恵まれていない気がする。


ナイトクローラー

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Nightcrawler
2014年
アメリカ

ダン・ギルロイ監督・脚本

ジェイク・ギレンホール 、、、ルイス・ブルーム(ナイトクローラー)
レネ・ルッソ 、、、ニーナ・ロミナ(深夜TV、KWLA6ディレクター)
リズ・アーメッド 、、、リック(ルイスの助手)
ビル・パクストン 、、、ジョー・ロダー(ライバルのパパラッチ)


所謂、パパラッチである。
これはよく出来た映画である。
キャストがまたまた良い。
特にジェイク・ギレンホール。
いうことなし!

Amazonプライム無料視聴第四弾!
暫く、これでいこうかという気もするが、どれだけ続くか、、、。
これくらい面白い映画がその対象となっているか、、、。
勿論良い作品はあったがもうすでにここに書いてきた作品が多い。

これは掘り出し物感が十分にあった。
このルイス・ブルームという男。
過度に論理的な割り切りで冷酷非情な気質はサイコパスと呼んでもよかろう。
端から異質なルーツを感じる。
ひょんなきっかけでパパラッチに接触し、それが儲かることと自分に合う仕事だと悟る。
盗んだ競技用自転車でカムコーダーと警察無線受信機を手に入れさっそく見様見真似でそれを始める。
彼特有の学習能力と集中力によりメキメキ力をつけ頭角を現す。

異様な情報収集能力は全てパソコンの前で(ネット上で)得たもの。
そして交渉術に長けている。非情に強気で、更に抜け目がなくポイントを逃がさない。
これは持ち前の資質か。
「おれは覚えが早い」この自己肯定感も揺ぎ無い。おまけに運転も上手い。
真っ赤なダッジ・チャレンジャーSRTで夜のLAの街を縫うように爆走する。
そしてヴィデオの強烈な売り込みである。
自分の作った映像会社名のテロップやアナウンスを強要させるところも強引である。

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人を基本的に、自己実現のため~成功のためのコマとしか思っていない。
リックを研修生として受け入れたのも、彼がホームレスであり使い捨てが容易であると踏んだためだ。
自分を出し抜いたジョー・ロダーの車に細工をして彼を交通事故で重傷を負わせてヴィデオ撮りして交渉のオマケに使ったり。
自動車事故の死体を引きずって、視聴者受けするフレーミング的によい場所に移して撮ったり。
無断で家宅侵入し、瀕死の人間をほったらかしに徹底した(演出を加えた)撮影をする。
(警察に聞かれると、助けが必要かと思い、ドアが開いているので入ったと返す)。
殺人犯人の顔や車のナンバーが撮影された部分は後のために切り取ったビデオ情報を、協力者気取りで警察に渡す。
自分で犯人を割り出して、彼らがレストランに入ったところで警察に連絡を入れ拳銃所持を伝えて煽り、そこで派手に銃撃戦となったところを撮影する。
その際に、欲をかきはじめて邪魔になった助手のリックを、もうやつは死んでいると嘘を言って間近に撮影に行かせて犯人に射殺させる。そのリックの死にゆく顔もヴィデオ撮りして、臨場感たっぷりの生々しい殺傷場面の一部始終を局に売りつける。
勿論高額で。
警察にその違法性を追求されても口八丁ですり抜けてしまう。
ディレクターのニーナはその惨事のヴィデオに感激しルイスに賛辞を惜しまない。
彼の映像のおかげで実際、、KWLA6における彼女の立場は安定する。
いつの間にか彼女の方がルイスの世界に侵食されていた。

その事件に麻薬取引のもつれによる背景が確認されるが、そのような報道より直接的な暴力的刺激をひたすら追い求める映像ばかりが流されてゆく。

ルイスは車を二台購入し3人の助手に対し、正社員目指して頑張るよう奮起を促し、彼らが元気に車に乗り込み走りだすところでエンディングとなる。
彼の会社の明るい未来が予想される。
この仕事、サイコパスにとても向いた仕事に思える。

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ジェイク・ギレンホールがともかく素晴らしかった。
成り切り度が凄い。

ファンになったかも。
敬遠していた「ライフ」借りて観てみようかな、と思う。
(買う気は毛頭ない)。







最強のふたり

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Intouchables
2016年
フランス

エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ監督・脚本
ルドヴィコ・エイナウディ音楽


フランソワ・クリュゼ 、、、フィリップ(頸髄損傷の富豪)
オマール・シー 、、、ドリス(スラム街出身の黒人青年)
アンヌ・ル・ニ 、、、イヴォンヌ(助手)
オドレイ・フルーロ 、、、マガリー(秘書)

通常、出遭うはずもないふたりが出遭ってしまった、というもの。
にしても、「最強のふたり」はないでしょ。この邦題で恥ずかしくて観れない(買えない、借りれない)ひともいるはず。
わたしもそう。
だから、Amazonプライムで無料視聴第三弾とあいなった(爆。

キャストとロケーションと音楽が良かった。
とっても良かった。
それだけで映画として観れる域に達する。

貧しいが飾らない弾けた黒人と頸髄損傷(首から下は麻痺)の教養ある裕福なフランス人との間の交流を描く。
際どいジョークや悪ふざけがかなりあるが、打ち解けるには適度のスパイスかも知れない。

フィリップは一見気難しい男に思われるが、
誰とであっても、ただの人と人との邂逅でありたいのだ。
フィリップは自分を障碍者扱いしたり色眼鏡でみる介護人は好まない。
(フィリップ自身、今の自分に何ら不全感は抱いていない。ただ妻を失ったことだけを哀しく思っている)。
ドリスはその点あからさまに差別的な障碍者ジョークを放って茶化し、余計な神経は使わない。
建前を言わない。反応が率直で自分を曝け出して面白い。素直に私見を臆面もなく言い悪態をつく。
その辺をフィリップは気に入って採用したのだろう。


自分にあてがわれた部屋の豪華絢爛さに圧倒されるドリス。昨日までの生活との落差の激しさが、こちらにも社会的(階級的)格差をとして迫るものだ。しかしふたりの間には格差だけではない差異を尊重し合う関係が築かれる。
馴染み親しんできた文化の差異は双方にとって新鮮な驚きともなる。

それからの生活で、音楽を巡っての感想や観劇の際のドリスの無邪気なはしゃぎぶり、抽象画の買い付け値にたまげ、自らも絵を描いてしまうドリスなど、、、どのシーンをとっても面白い(この絵は真剣に取引される)。
思った通り、ふたりは打ち解け、こころが通い合う。
そう、他の使用人や助手、秘書も含めみんな楽しくなってゆく。

特別愉快だったのは、「あれ、どうしちゃったのよ?」と木の格好をして熱唱するオペラ歌手を指さし会場で大はしゃぎするドリスの姿やヴィヴァルディなどを室内コンサートでたっぷり聴かされた後、おれの一押しを聴けよと言ってアースウィンド・アンド・ファイヤをかけて踊りだすところ。お澄まししていた面々もノリノリで踊りだす、、、この辺から彼に眉をひそめていた連中がみんな彼に打ち解けてゆく。「音楽とはな、踊れないといけないんだよ。」(ボビー・オロゴンではない)。
ヴィヴァルディもアースウィンド・アンド・ファイヤもどちらも良い。
どちらもやはり好きだ。

フィリップの勧めで無理やりパラグライダーに乗せられ、ふたりで蒼い大空を舞うところなど、気持ちよさが伝わってくる。
電動車椅子を改造してスピードを速め、セグウェイをふたりで追い越して大はしゃぎしてゆくところなども。

フィリップはドリスの家族関係の複雑さ、今彼を(義理の)家族が必要としていることを悟り、彼の作品を多額で売った金を渡して解雇し家に戻す。
フィリップは新たに介護人を雇うが体調も精神的にもダウンしてゆく。
心配したイヴォンヌがドリスを呼び寄せる。彼はそのことを十分察知していたようだ。

最後は、最初のシーンと繋がる、一般道路を爆走するクアトロポルテ(マセラティ)で警察を振り切り、捕まっても騙して逃れ、さてどこに向かいうのかと思っていると、、、。
ここからのふたりの何気ない情感極まる演技と夜からトワイライトそして朝へと移る静謐なロケーションそれに絡むリリカルな淡々と迫るピアノの音がひたすら美しく、、、。
ふたりはドリスの予約でとった大きなガラスから浜辺が見渡せる綺麗なカフェに入る。
何と粋な計らいか、ドリスはそのカフェにずっと以前からフィリップが詩情を込めて文通だけを続けてきたエレノアを呼んでいたのだ。

ガラスの外からフリップに笑顔を見せて立ち去るドリス、、、


ともかく、キャストとロケーションと音楽が良かった。
素敵な、また観たくなる作品であった。
(実話であるということを示すためか、本当のふたりをエンドロールで映していたが、それははっきり余計であった。映画はあくまでも映画世界で閉じるべきであり、綺麗な余韻が濁ってしまうような破れ目を作るのはまずい)。

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バンク・ジョブ

The Bank Job001

The Bank Job
2008年
イギリス

ロジャー・ドナルドソン監督
ディック・クレメント、イアン・ラ・フレネ脚本

ジェイソン・ステイサム 、、、テリー・レザー
サフロン・バロウズ 、、、マルティーヌ
リチャード・リンターン 、、、ティム・エヴェレット
スティーヴン・キャンベル・ムーア 、、、ケヴィン
ダニエル・メイズ 、、、デイヴ
ピーター・ボウルズ 、、、マイルズ・アークハート
キーリー・ホーズ 、、、ウェンディ・レザー
コリン・サーモン 、、、ハキム
ピーター・デ・ジャージー 、、、マイケルX


The Bank Job002
王室SEXスキャンダル(マーガレット王女)などを堂々と取り上げているところが、日本では考えられない。

”貸金庫”というものの怪しさ・面白さも実感できる。
おおっぴらにできない金だけでなく、表に出したら一大事の品(写真など)の秘密の隠し場所~温床なのだ。
(だから被害届も出せない。闇の力で当の情報を力づくで回収・処理を行わなければならない)。
全編、闇~疚しさに溢れている。そこをついたこの犯罪ではあるがそれも策略によって(操られて)起きたものだった。
それぞれ目的の違う様々な闇の勢力が絡み縺れて展開する。
これが実話ベースの噺というのも、またすごい。いや事件の綿密な取材によってできているというではないか。

この大仕事を騙されて手を付けたと言っても、素人に毛が生えたくらいの子悪党グループで行うのだ。
一般市民の無線マニアの傍受と通報によって彼らが追い詰められるところなどもリアルである。
警察は銀行を特定できず、それに頼り切りというのも不甲斐なくも、これまた真実味があってよい。
何せ「ウォーキートーキー」(トランシーバー)で連絡取り合っている貸金庫破りのグループなのだ(それでウォーキートーキー事件と呼ばれてもいる)。
よくある地下を掘り進んで銀行の金庫の床をつき破るものだが、かつてペストによって死んだ夥しい死体を葬った墓~地下空間に偶然突き当り、そこが丁度銀行の真下というのも、妙にリアルであった。本当にそうだったのだろう。

彼らはテリーの機転で、MIー5(007みたいなものか?)の追跡をまいて、まんまと逃げおうせてしまう。
だが面倒なのは彼らにとっては金だけが目当てなのだが、それ以外の危険極まりない”お宝”も一緒に盗んでしまっていたのだ。
その間、その貸金庫の盗みの情報は一般警察~マスコミベースで世間に広まってしまう。
慌てたのは、その金庫に依存する怪しい上流階級と王室諜報部であった。
金などより遥かに大事な衆目に晒されたら命取りになる情報を守らなければならない。
「D通告」という国防機密報道禁止令が物々しくしかれる。

これには、犯人たちも驚く。急に自分たちに関する報道が立ち消えるのだ。かえって不安が募る。
政府側ではスキャンダルのもみ消ししかない。
彼らが結局、警察(汚職警官含む)・強盗グループ・マフィア・MIー5、6(王室の諜報部)・ポルノ王(娼館)、黒人(革命家)麻薬組織、、などを敵に回し、命がけの「取引」に出るしかなくなる。
この追い詰められ感はかなりのもの。
まさに絶対絶命である。
分け前を分配した後、グループのメンバーも何人も殺害されてしまう。
しかし犠牲者は出したが、テリーたち3人は金と自由を勝ち取って解放されるのは、かなり爽快感を覚える。
その取引は、警察に対しては汚職警官のリストを渡し、諜報部には「マーガレット王女の例の写真」と引き替えに政府高官レベルで身の安全を保証させる。凶暴なマフィアは警察に任せて捕まえてもらう。
、、、という線で見事に危なっかしくも切り抜ける。

最後は豪華クルージングで釣りを楽しむテリー一家の笑顔である。
資金繰りに苦しんでいた中古車ディーラーから一転、豊かな生活をその後も送ったのか、、、。
多分そうであろう。


ジェイソン・ステイサムとしてはほとんどアクションなどなく、地味な映画なように思うが、面白い噺ではあった。
特に後半の畳みかけは目を離せない。
ミックジャガーがチョイ役で出ていると謂われているが気付かなかった。
ジョンとヨーコもどきがマイケルXといっしょにいたシーンはあったが、、、。
(別にどうでもよいが(笑)。


これもAmazonプライムで無料視聴可能。


ザ・セル

THE CELL007
これが一番印象に残る。一瞬の馬の真空スライスパックである。
瞬時に鋭くカットされた臓器が蠕動を続ける、、、。

THE CELL
2000年
アメリカ

ターセム・シン監督
マーク・プロトセヴィッチ脚本
ポール・ローファー撮影
ハワード・ショア音楽
石岡瑛子 、エイプリル・ネイピア衣装、デザイン(セットデザインか?)

ジェニファー・ロペス 、、、キャサリン・ディーン(小児精神科医)
ヴィンス・ヴォーン 、、、ピーター・ノヴァク(FBI捜査官)
ヴィンセント・ドノフリオ 、、、カール・スターガー(連続殺人犯)
マリアンヌ・ジャン=バプティスト 、、、ミリアム・ケント(精神医学博士)


ドラキュラ」の衣装でアカデミー衣裳デザイン賞を受賞している石岡瑛子さんがここでも衣装である。
確かに際立った衣装であり、セットデザインである。
舞台~日本の古典芸能にも通じるものを感じる。

小児精神科医のキャサリンは、FBIの要請で幼少期の親からの虐待を受けて育った重度分裂病者の精神世界にダイブしてその在り様を探り、彼が誘拐して溺死させようと監禁している女性の居場所も突き止めることになる。勿論、彼女の本業である対象の精神治療(初期治療)に臨む。
もう既にその男~患者は、女性を7人溺死させている。
そしてその犯行を自らの意思でやめることが出来ない。
つまり患者=犯人も自分の行いを止めてもらいたい~救って欲しいと願っている。
(植木等が唄っている「分かっちゃいるけどやめられない」である)。

THE CELL001

今、監禁中の女性の救出も、自動で水が溜まる仕掛けの水槽に入れられており、時間との勝負なのだ。
キャサリンが犯人の少年時代に出逢い彼を救う事と、溺死がプログラムされている女性の救出がピーターによって同時に並行して行われることになる。
ここがサスペンス調でなかなかテンポよく展開してゆく。
終始、水のイメージに溢れる。

THE CELL003

余りに重度の分裂病者の精神世界~心象風景にしり込みするキャサリン。
その世界を現実と受け取ってしまうと、そこに侵入した人間の身体も取り込まれて危険な状態に陥ってしまう。
それはそうだろう。
夢の中でこれは夢だと認識しながら観る夢はある。
(わたしはかなりの頻度であるが、そんな感じで辿って行くのか?)

演出的には、極端な時空間~場の設定で、思いっきり実験的な造形を試すことを可能にしたようだ。
衣装も装置もクラシカルで耽美的ななかにかなり過激で退廃的要素が織り交ぜられている。
しかしこの極彩色の絢爛とした派手さは何なのか。
絶え間なく続く父からの暴力、虐待。そのイメージの変容。
父親から水に溺れさせられかけた洗礼式のイメージのフラッシュバック。その水の恐怖と溺死させた女たちのコレクション~ショーケース。
グロテスクなスプラッター的衝動も窺え、刺激はあるが様式美に拘る。

THE CELL002

彼の中には、今現在の玉座についた悪魔の姿の彼とまだ純粋でひ弱で臆病な少年の彼が同居している。
ここではキャサリンは劣勢を強いられ少年の心に充分触れることはできないが、FBIのピーターも素人ながら彼女に加勢するためカールの内界に入って来る。
まさに彼にとって悍ましくも悪趣味なホラーワールドであった。
(ただし、誰の内界も程度の差はあれど、気持ち悪いものであるに相違ない。通常、本音など聞いて得はあるまい)。
ここでピーターは、誘拐された女性が監禁されている場所に関連する引揚げ機についての情報を得て、元の現実に戻り、ヘリでその機械のある場所を探す。この使命についてはキャサリンは素人であり、荷が重かった。

THE CELL005

キャサリンは、ピーターが現実界へ被害者救助に出て行った後、再び自ら装置を装着し、今度はカールを自分の精神に呼び込む。
そこは彼女のホームである分、少年の後を追って現在の悪魔がやって来ても彼女が有利であった。
彼女は少年の彼とこころが通じ合い、救おうとするが、それは水に沈めることを意味した。
それで彼を救う~解放することになる。
ピーターも水槽を探し出し、ピストルとバールでそれを破壊し、溺死寸前の女性を助け出す。

THE CELL008
絵を愉しむ映画であることは間違いない。
これが圧巻。

このアートワークに接し、”Mishima:A_Life_In_Four_Chapters”(1985)は是非観たくなった。
石岡さんの衣装・セットデザインは勿論だが、音楽もフィリップ・グラスである。
セットデザインのなかでも「金閣寺」が圧倒的らしい。
まだ(恐らくこの先ずっと)、日本版は出ないが、リージョン1ね。
対応しましょう(笑。アメリカ版DVD。キャストも豪華。

THE CELL010

キャサリンが現実に戻ると、傍らでカールは息絶えていた。
むせび泣く彼女であったが、彼を救ったという実感~成就感は抱いたようだ。

THE CELL009

背中にフックを付けて浮かぶという芸は、その浮遊感より痛みの感覚の方が遥かに大きいはずだが、それもやめられない趣味であったのか?
ほとほとやっかいな人生である。
本人が心から解放されたいと願うのは当然であろう。
彼は救われた。

キャサリンは、今自分が担当している昏睡状態から戻らぬ少年の救済~目覚めに再び意欲を燃やす。

これはやりたい仕事ではないな、、、。
(幼い人間ならともかく)。
人間不信になることは間違いない。



Amazonプライムで無料視聴可能。
恐らく観て損はないのでは、、、。




最後のデッキ壊れる

Starship Troopers 3 Marauder

3台あったブルーレイレコーダーが2台実質使用不可となり(つまり2台のTVはただ番組をリアルタイムで観るだけ)、暫く一台だけでTV番組録画をしてきたのだが、本日ディスクドライブのトレーからメディアが排出出来なくなり最後の一台も使えなくなってしまった(苦。(どうやらイジェクト出来ないということは全ての動作にも絡むらしい)。
娘たちが最近頻繁にDVDやBlu-rayを出し入れして観ていたのだがその過程で何やらぞんざいな扱いをしてくれた模様である。
パソコンもそうだが光学ドライブのディスクドライブ~トレー系は壊れやすいパーツだと実感。

ドライブ部分の故障ならと、ダビング予定の番組のCMカットだけでもしておきたくなり、その編集作業を始めたら突然途中でダウン。
これには焦った。冷や汗ものだった。処理動作中落ちるというのはやはり尋常ではない。
番組データ自体にはまだ触っていないはずで、壊れてはいないにしても余計な作業は控えることにする。
自動で備わっている修復機構も効かない。兎も角、まずイジェクトしないと正常な通常動作が始まらない状況なのだ。
かなり深刻なトラブルが発生しているらしい。

兎も角、出そうで出ないというのが気持ち悪く、ウェブ上で探してみると、マニュアルにないデッキの裏側に電源が入っていない状態で手動で針を差し込んで強制排出出来る溝があるらしい。(まるでパソコンの光学ドライブの穴みたいだ)。
早速電源や各ケーブルを引き抜き、ひっくり返して見ると何やらそれらしき細長い溝はあるにはある。
その中が真っ暗なのでどう針を突っ込んでよいかも定かでないため、懐中電灯で中を照らして見ようとしたら、またまた娘の悪戯で我が家の一番信頼性の高い懐中電灯のスイッチ部分が取れていてどうにも点けることが出来ない状態ではないか。AC電源からバッテリーで溜めるタイプなのだが、それも空ときている(怒。
このトラブル続きに、娘たちを思わずにらみつける、、、。

適当な懐中電灯で、中を覗いたら穴の奥にプラスチックの丸い穴の開いた部分が端に見つかる。
そこに錐を引っかけスライドしようとしたが、どのくらい力を込めてよいものか、その匙加減が掴めない。
一番この手の作業が怖い。これでバシッとやってしまえば、故障も複合的になり修理代が更にかさむことになる。
ややこしいことは避けたい。修理の人にもあまり変なことをした跡が見えると怪しまれる。
これも断念して元に戻し、3日後(最も早い出張対応)まで待つことに決めた。
つまりそれまでの予約番組は入らないし、録画番組も見れないし、娘たちはメディアも見れない。
彼女らにはよい薬になればそれはそれでよいかも知れぬが、ここから学ぶ姿勢があるかどうか顔を見たところ疑わしいのだ。


Blu-rayの観れるパソコンは4台あるが、今はノートだけ。
大パネルのディスクトップはUBUNTUにしてから、Blu-rayが見れない。
画面が小さいのは、映画によっては厳しい。
ゴダールなどは、15インチノートパネルでもピッタリ感覚で観れるのだが。
スターシップ・トゥルーパーズ”などは大画面がよかろう(笑。
いや、ホントにTV画面による臨場感がないと魅力半減のものは少なくない。

出張修理代も結構なものだし、デッキをもう一台買う余裕もないので、最悪の場合ノートにTVチューナー付けて対応するかと思うがその際は大パネル出力で行くつもりだ。
HDDはかなり潤沢にある。パソコンを整理する際にHDDだけは取り外しているためだ。
10台以上箱に入れて取ってある。500G~2TBまでだが、それで間に合う。
(メモリーもかなり残っているがもう処置無しである。そちらの古いものは役に立たない)。

ただ、一番の問題は、HDD内のまだ観ていない番組データの保全なのだ。
そもそも今日、データをメディアに移そうとしたときに発覚した事件なのだから。
何を置いてもデータが無事に書き出せることである。
よく、この手のトラブルでメーカー修理となると必ずHDDは初期化される。
それだけは絶対阻止である。
データはハードより遥かに大事なのだ。
特にTVデータについては規制上のコピー制限があるため、メディア書き出し以外の汎用的使用は不可能である。
このコピー10規制が無ければ、外付けHDDに全データ退避して保管して置き、別の新品レコーダー(叉は内臓TV)に繋げば良いだけの噺である。
この規制、せこい(かつてはコピーワンスであった)。

パソコンの通常データは全て外に逃がし、幾つもコピーを作って保管するが、TVデータはその機器の付属品に不可避的になる。
それに外部保管と謂ってもディスクメディアの耐久性では心許無い。
もっとも耐久性のあるメディアは壁面に鏃で引掻くものだ。これが地球上で一番長く残っている。
DVDメディアはせいぜい50年くらいと謂われている。
短い。どことなく虚しい。人生の儚さにも感じ入ってしまうではないか。
しかし、それに取り敢えず移してこの先数回は繰り返して観るつもりなのだ。
何と謂うか、、、。


それだけの事なのだ、、、。

いちご狩り

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「いちご狩り」に行った。
(正確には子供のいちご狩りの送迎をやった(笑)。
かなり大きないちご狩りファームである。
種類も幾つあるか、、、。
こんなところが、ほんの9分で着くところにあったことを今まで知らなかった(笑。

しかし、わたしはこの温室のなかには入れないのだ。
予約は子供たちだけで入れてある。
当初、車の送迎しか考えていなかった。
来てみて入りたくなったし、食べたくなった。

店で買えばそれでよかろうに、、、いちご狩り自体が億劫で、どうしても行きたいというなら取り敢えず、車の送迎だけ請け負うことにしていた。
しかし実際にいちごが無数にたわわになっているのを目前にすると、話は違う。
おいしそうである(爆。
しまった、と思い受付に設置してある、ハーブティとココアとコーヒーをひたすら飲みながら娘たちがたらふく食べるのを待つこととなった。
一度家に戻るつもりであったが、1時間ではせせこましいのでそのまま居ることにした。
帰って亀の水を取り替えてすぐに舞い戻るのも厄介だ。
本など所詮読む間などない。

受付を出て外のベンチで遠くの山々を望む。
空気遠近法で幾重にも重なる山々は確かに風景であった。
それは障害物ではなく、その距離にまで行けば登山の対象となる(文学的)空間に感じられるし、実際そうだろう。
ピクニックくらいならしてもいいかなとは思う。

外に昔懐かしい大きな黒板が置いてあり、自由にチョークで白い線画が描けるのは、これも貴重な経験かも知れない。
少なくとも最近の学校には見かけない。
だが、アミューズメント系の場所ならまずある、顔を出す穴の開いている写真撮影用看板は、恐らく無いところでもあったらそれこそ貴重なものだ。ここでも仕方なく撮ってはみたが、その写真を後日、観た試しがない。今回もそうだろう。


風が次第に強くなり、駐車場の車に戻った。
1時間、何となく過ぎて、戻って来た二人に聞くと、長女は48個、次女は44個全ての種類を食べみたとのこと。
何という銘柄が一番美味しかった?と聞くと皆、美味しかったらしい(笑。
まあ、味は多少違ったとしても、いちごはいちごである。
どれもあの味で美味しかろう。
酸味に差はあるだろうが。
新鮮で面白かったそうである。

何度か家でもプランター栽培したことはあったが、それほどの収穫はなかった。
買った方がお手軽で安かった。
しかし良い出来の美味しいいちごを取り放題、食べ放題は実際、お得感もかなりのもの、、、。


わたしは受付で自分の分をパックで買ったが、虚しいものだ。
次回は参戦することに決めた(笑。



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乳搾り

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次女がここ最近は、単独行動をとっている。
今日は名前を知らぬ隣のクラス(顔見知りというだけ)の子と待ち合わせて、日中遊んでいた。
(先日、友達5人くらいで遊んでいた時、その子が途中から入って来て一緒に遊ぶうちに意気投合したのだという)。
しかし名前やお家はどのへんなの、とか聞かないものか?
相手の名前を知らぬまま、丸一日遊んでいたのだ。
「ねえ」とかお互いに呼び合って遊んでいて何の不都合もなかったらしい。
とても楽しかったと、、、。

まだ、言語(少なくとも文字言語)が生まれる前の人同士の原初的出逢い~交流みたいだ。
ちょっとその関係性に新鮮味を覚える。
名もない女の子同士の邂逅なんて日常の文脈から遊離していて、まさにうちの娘たちが歓んで見ているオカルト映画や漫画の世界の次元を匂わせる。
きっとその方がワクワクするのだ。
そう黄昏時の出逢いにも似た、、、。或いはハレ。

かえって名前や素性など知らぬ方が神秘的で神話的な活き活きした触れ合いが生じるのでは。
名前と家の場所を知ったとしてそれで何が分かるというものではないうえに、端から平板な文脈のなかでのありふれた付き合いになってしまうことだろう。
同一性による疎外。日常化。
名前が無ければ瑞々しい場所が生じる、、、。
そんな経験はわたしにもあった。


だいぶ以前、部屋に題名の思い出せない音楽が鳴り響いて慄然としたことがある。
聴き馴染んでいたはずの楽曲なのだが、、、いまや全く異なる様相を呈していた。
日常の文脈を喰い破って、崇高で霊妙な音が眼前を五色に煌めく大河となって重厚に流れているのだ。
何とか持ちこたえられるギリギリまで耐えたが、題名を(必死に)思い出したところで、全く普通の音と環境に戻ってしまっていた。
ほんの一瞬のことである。
物凄い快感(認識)なのだが自己保全の危機感(死の恐怖)との同時体験であった。
その時のことをまた思い出してしまった。(まだ幽かに色彩が記憶に残っている)。
何故そんなことが起きたのかは分からない。何らかの身体制御(防衛)機構が一瞬外れたのだと思うのだが。


言語(体制)の取り込みによる転倒(倒錯)が起きる以前の精神状態にふいに立ち戻ることが出来たらきっと異質な、場合によってはアルタードステイツとも謂えるめくるめく体験もできるはず。
われわれ日本人が3つの文字体系を所有している特殊性は様々な局面で露呈している。
外から来たものを際限なく受け容れ、カタカナで表記し、漢字の訓読みによって、その文化体系の去勢~内面化から逃れると同時にデータベース化して所有し、いつでも自在に使用出来る言語~文字システムというのは他にない。
これは驚異的なシステムに違いない。
われわれは主体化(同一性の維持~内面化)する必要がなかったのだ。
こんなことを書く場ではなかった、、、。
これについてはまた後日。
変なことを思い出したせいだ。


次女が遊びに行っている間に長女といつもの公園に遊びに行き、はじめて牛の乳搾り体験をした。
ガールスカウトによる説明が長いのがちょっと鬱陶しかったが、とても大きな牛の乳搾り。
(尻尾が意外と長い事に驚いた)。
草を食みながらの乳の出はとても良かった。
長女にとって、生暖かく特殊な感触が新鮮な体験になったようだ。

一緒にいつも通り「木漏れ日の道」を歩き、熱帯植物園で日向ぼっこして、ポニーに乗り、モルモットを抱っこして、山羊と羊にニンジンを食べさせ、広場で鬼ごっこした後、アスレチックに行こうとしたら生憎の前日の雨で遊具が濡れている為、入場出来なかった。
この次は親子乗馬をする約束をして帰ることにした。


丁度、車が家に着いたところに、次女と郵便物が同時に到着した。
笑ってしまった。



エル ELLE

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ここ二日間で、4つ映画を観た。
(3つは愚作。一つは手に余る)。
絵はデッサンを少々。
後は読書。
買い物。
昼寝。
子どもの世話と家事。

歯医者、、、が大変キツイ。

そのせいで夜は早く寝る。

2日ブログを空けてしまったので、”エル ELLE”を観たことだけでも記しておきたい。
わたしにとってはもっとも難解な部類の映画であった。
何を書いたら良いか見当がつかない。
(しかし他に観た映画は、もうどうにも書きようのないとんでも作品ばかりであったから仕方ない)。


Elle
2016年
フランス、ベルギー、ドイツ

ポール・バーホーベン監督
デヴィッド・バーク脚本
フィリップ・ディジャン原作『Oh...』

イザベル・ユペール 、、、ミシェル・ルブラン(ゲーム会社社長)
ロラン・ラフィット 、、、パトリキ(カトリックの隣人)
ヴィルジニー・エフィラ 、、、レベッカ(パトリキの妻)
クリスチャン・ベルケル 、、、ロベール(ミシェルの浮気相手)
アンヌ・コンシニ 、、、アンナ(ミシェルの親友、ロベールの妻)
ジョナ・ブロケ 、、、ヴァンサン・ルブラン(ミシェルの自立できない息子)
ジュディット・マーレ 、、、アイリーン・ルブラン(ミシェルの母)


ポール・バーホーベン監督は、わたしにとっては、「スターシップ・トゥルーパーズ」であり「トータル・リコール」、「ロボコップ」、「インビジブル」である。
「氷の微笑」もこの人なのか、、、この線のものも観てみないと、、、。
この作品は、明らかに「氷の微笑」系の作品かと思われる。
愛・アマチュア」、「ピアニスト」、「8人の女たち」、、、のイザベル・ユペール 主演であるが、「ピアニスト」に並ぶ圧倒的存在感であった(ここでも狂気すれすれの「女」の強靭さがみられる)。

いきなりレイプシーンから始まるが、全体の流れの中で何度も出てくる。
全編にわたり緊張感の濃く漂う映画だ。
警察を頼らず(やはり父親の件もあり)、自分で犯人を探って行く。
気色悪いメールや身辺に嫌がらせのような独特のメッセージを残してゆく犯人。
しかしイザベル・ユペール演じるミシェルは全くおろおろする様子など見せない。

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彼女は強くしなやかで凛とした風情でゲーム制作会社社長をしている。
性の意識も自由奔放である。相手には決して依存しない(溺れない)主体として自由を保つ。
経済的にも恵まれているが、息子は精神的にも経済的にも自立しておらず、恋人にいいように振り回されている。
彼女の母親は見たところ、ミシェルに経済面では依存しており、若い恋人を何人か囲っているような様子である。
父親は、はっきりわからなかったがかつて少女を何人も殺害した連続殺人犯として服役中のようだ。
この父は後半に、彼女の面会日時を知った時点でシーツで首をつって自殺する。
ミシェルはこの父との関係が世に知れ渡っているようで~どうやら少女期に父と一緒に撮られた写真が新聞に掲載されたことがあったようで~カフェでいきなり見知らぬ夫人から残飯を、捨て台詞と共にぶっかけられたりしている。
息子は他の男との間に出来た子供を持つ彼女に翻弄されっぱなしで、母親は整形をしながらやりたい放題の生活ぶり、その両者をお金の上でも支えつつ自身も会社経営を成功させ広すぎる家に住んでいる。
不倫関係の男性もいる。親友の夫でややこしい関係だ。
そのような日常環境を生き抜いてきたことも彼女を強くした。
「恥辱なんかどうというものではない」

ピンと張ったプライドがカッコよく、何があろうが誰も決して彼女をへこますことなど出来ない。
というより、周囲が皆、結局は彼女に靡いてゆくしかない。
妥協せず自分をとことん貫く姿勢は、全く共感できる。
わたしもそう生きるつもりだ。

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レイプ犯が最後に意外な人物だったことが判明するとかいうものが、よくある噺のパタンだと思うのだが、この映画ではあっさりそれが中盤で分かってしまう(犯人捜しの噺ではないことは端からはっきりしているが)、その犯人との実に奇妙な関係が続いてゆく。
その辺がよく分からない。そこを描くための映画のようだが、肝心なところでついてゆけない。
共感が困難な点においては、犯人についてもそうだ。
夫婦とも敬虔な?カトリックであるが、襲うというシチュエーションなしでは、何もできないという性癖~病を抱えている、、、一種のどうにもならない弱さ~衝動に支配され翻弄される男なのであろうが。
独特の内向は窺える。

そしてミシェル。女性の特異な心理なのか、、、被害者なのに加害者と以後、あんな風に接することが可能なのか、というところで生理的な違和感が付きまとう。
女の性ならでは、或いはミシェルの策略なのか、、、綯交ぜになったものを感じる。

まあ、レイプされた後、寿司の出前を頼み、ハマチもつけてねとスペシャルメニュー頼んで、帰って来たいい歳の失業息子と淡々と
寿司喰っている女性だ。特殊な余裕を感じる。
ちょっと普通の女性とも違うと思う。

だが、それがどのように最後のくだりに繋がって行くのか、今ひとつ分かりかねる。
勿論、相手を断固許していないことは、はっきりした。
(基本的に、彼女は父も母も息子も許してはいない)。
その、息子を使った報復、、、あれは計算なのか?ちょっとわたしの分かる(共感できる)範囲を超えていた。
女性でも、どうだろうか、、、。
彼女のような女性でないと、、、恐らく分かるまい。


イザベル・ユペール、、、凄いことは確かだが、、、。
こうした役が実にはまる女優だ。


クロール 裏切りの代償

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CRAWL
2011年
オーストラリア

ポール・チャイナ監督

ジョジーナ・ヘイグ、、、マリリン
ジョージ・シェヴソフ、、、クロアチア人の殺し屋



何でも、パーッケージに何とかホラー映画祭で、2011年度の監督賞、主演女優賞、撮影賞を受賞したとかあった。
ホラーは基本的に興味ないがよく出来たものなら、観ても損はないかと思い、、、
(ついでに)借りて観た。

その結果、、、
全く怖くない。登場人物が怖がっていても特に何とも思えない。
少なくともホラーではない。しかし何であるのか分からない。
この「映画」が何であるのか、が分からないのだ。
恐らく、高校の映画部でももっとずっと良いものを作ることは間違いない。
妙なおじさんが家にずかずか入って来て基本、痴呆の徘徊老人みたいにボーっと家の中を歩き回ったりして、女性が怖がり殺されそうにもなるのだが、それが一体何なんだという映画である。

「裏切りの代償」、、、意味不明なオマケ(マヌケ)邦題がまたもついている。
つまらぬ映画によくつく類のものだ。
確かにこれは明らかな客~消費者への「裏切り」行為だ。「代償」払ってもらいたい(怒。
どういう映画祭のどういう審査だったのか、、、はったりかませおって。

途中で、何度か意味深なワード(題名からしても)が出るが、それが何かに繋がる~伏線となることもない。
這って歩く場面はあるが、それが何だというのか、、、。
間をとって視線を何かの対象に向かせてみたりしても、それがどうなのというところが幾つもあり、、、
特になくてよい顔のアップあり、、、
思わせぶりにも程がある。無駄なノイズが障る。人物を掘り下げるとかいうものでは決してない。
噺の流れも大雑把で、だいたい「何を見せたいのか」が分からない。

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物語を動かすカウボーイ姿のクロアチア人殺し屋が、何をしたいのか何をしているのか、意味不明のまま終わる。
(まず格好自体が意味不明であるが)。
家に入り込まれて怖い目に逢った女性は、最後まで何故彼氏が訪ねてこないのか、その消息も知らぬままに、取り敢えず危機一髪のところで殺し屋を倒して助かるが、何の捻りもなく、、、これで終わるのか、と呆気にとられる。

兎も角、殺し屋がとても不思議なおじさんなのだ。
行動の意図が掴みかねる。それで映画自体も何だか分からないまま終わる。
依頼主のバーのオーナーの年代物プレミアピストルを何故わざわざ仕事用に盗み出したのか?
依頼通り商売敵?自動車修理店の主の頭を撃ち抜いた後、そのピストルをワザと床に落として去って行くのは、実は依頼主のオーナーに恨みでもあるのか?それともさらにそこに他の依頼主でも絡んでの事なのか?この謎はそのまま放置される。
金を貰って、その場で数えないのはどうしてか?そんな信用し合う間柄にはどうにも受け取れないが。
オーナーから薬を一度は興味なさげに断っていながらも受け取り、その後はとてもそれに拘っていて、それが元で運転中に前方不注意で人を撥ねてしまい、自分の車もここで壊してしまう。チョコレート色の車だとわざわざオーナー~他人に告げておいて。
(普通その手の仕事をするときに、車の特徴など人に明かすか?)

撥ねたのがヒロインのフィアンセで、その男性の到着を待つ彼女の家に押し入る、この確率はどれほどのものか、、、。
(どれほど小さな世界なのか)。
そこで、バイクを奪い逃走するつもりであったが、鍵はそのフィアンセが車のキーと同じフォルダにまとめていると?
何でも鍵はひとまとめの主義の人はいるかも知れぬが、スペアキーはどうなっていたのか。
そもそも単に殺人現場と轢き逃げ現場から早く遠ざかろうとするのなら、他の家に行って車を強奪すればよいではないか。
(兎も角、空間が最小限に完全限定に完結している)。
メンドクサイのでもういちいち挙げる気もないし、もうだいぶ忘れかけてもいる映画である(笑。

その犯人は、部屋に飾られた写真で彼女らの関係を知るが無論、教えない~喋らない。
最後に彼女に撃たれ息を引き取る際に、彼氏のポケットから盗んだ指輪を放る。
その瞬間に彼女は事の不条理を悟ったか、、、にしても、、、こんな噺をどういうつもりでこんな映画にしようと思ったのか?
それが一番の不思議である。

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オーストラリアには知人も住んでおり、確認してみたいものだが、そこではケーキなどの食べ物を届けに行ったとき、扉の鍵は開いていても人がすぐに出て来なければ、外に置きっぱなしにして立ち去るのか?
ずっとそのままになっていたらとか、、、心配ではないのか?
通りすがりのカンガルーが食べてしまうかも知れないではないか!
この映画でも、悪辣なバーのマスターが靴で踏みつけてしまったぞ、、、虚しい、、、。


なお、セリフが少なく、音楽は多少耳に障るが、全体に絵によって淡々と進み、カメラワークを気にしていることは察するが、間違ってもロベール・ブレッソンみたいにドラマ性を排し、骨太で徹底的に無駄をそぎ落としたストイックでスタイリッシュな作品というわけではない(比べる対象ではないか)。

単に作品自体が丸ごと無駄なのだ。



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クリエーター

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CREATOR
1985年
アメリカ

アイヴァン・パッサー監督
ジェレミー・レヴェン原作・脚本

ピーター・オトゥール 、、、ハリー(ノーベル賞受賞の生物学者、教授)
マリエル・ヘミングウェイ 、、、メリ(ハリーの若い恋人)
ヴィンセント・スパーノ 、、、ボリス(ハリーの助手の生物学大学院生)
ヴァージニア・マドセン 、、、バーバラ(ボリスの恋人の生物学大学院生)
デヴィッド・オグデン・スタイアーズ 、、、シド(ハリーの同僚の教授)


ピーター・オトゥールである。
この人が出ていれば、観たくもなる。

マリエル・ヘミングウェイとヴァージニア・マドセンどちらも健康的で清楚なエロティシズムに溢れ、どの文脈にあっても一際、魅力的であった。
ハリー教授とメリとバーバラの存在はやはり目を引く。

ハリー教授は亡き妻のクローン作りを自宅裏庭の小屋でひたすら進めているが、よくあるマッドサイエンティスト風の人ではなく哲学者然としたダンディでスケールの大きい頼りがいのある男である。
とは言え、多分に我が道を行くタイプであり大学の設備の半分くらいを自宅の小屋~研究室に持ち込んで、妻の再生実験に利用している。公私混同など、科学の発展のためには何とも思わぬ、徹底してマイペースな楽観主義者とも謂えるか。

その博士の助手が決まり、そのボリスの恋人バーバラとの関係や、後に教授の世界観すら揺るがすことになる卵細胞提供者のメリも加わり、テンポのあるコメディタッチな展開となる。
彼は基本、ずっと昔に亡くなった妻のことが常に頭から離れず自分の研究分野の知識・装置を総動員して彼女の再生を日々図っている。その割には、ちょっと低予算的な怪しい施設でもあるが(笑。
実際そうした一つの想念に囚われた人もいるかも知れない。
が、寧ろその手段としての科学的方法にこそ取り憑かれて身動きが出来なくなっている部分も大きいと思われる。
結構、ライフワーク~習慣はそうした形で(手段の目的化で)継続してゆくことが多い。

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意外な展開として、バーバラが一時、昏睡状態となり死にそうになる。
この時、大切なかけがいのない人の喪失の危機においてボリスと教授はかなり精神的に接近する。
ここでボリスと教授は医学的に何らかの手を打つことをしない。
結局、ボリスの懸命なことばかけで彼女は意識を取り戻す。

生命維持装置をシドの言うとおりにあっさり外していたら、そのまま帰らぬ人となっていた。
こんな神秘的な過程も現実にありそうな気もする。
医学や科学が万能な訳ではないし、ことばの力は、殊の外大きいものだ。
取り敢えず決断は、早まらない方が良い。
(噺の流れ上、必ず蘇生することは分かってはいるが)。


全体の雰囲気がちょっと現実離れのファンタジーだが、観易いトーンで進む。
父と娘くらい離れた歳の教授に結婚を迫る女性メリも、マリエル・ヘミングウェイだと違和感がない。
試験管の培養液のなかで、亡き妻の細胞が育って行くところなどは、この先が不安になったが、、、。
大学からの強制介入で機材を没収され、その心配はなくなる。

そして生命力溢れる彼女の奔放で溌剌とした愛で、教授は妻のクローンを諦め、妻の幻想から解かれて、メリとの現実的な生活を選ぶ。
メリと一緒に妻の細胞は、海に流してしまう。
マリエル・ヘミングウェイの快活さが、全てを解放に向ける。
(この映画を観て一番感銘を受けたところは、彼女に象徴される生命力の解放だ)。
教授としては、過去の記憶~イメージに生きることをやめ、メリと未来に向けて生きることにする決心をした。
彼の研究はその後、どんな方向に進めるのかは分からないが。


最後、皆元気になり、教授が研究生たちを引き連れ、海岸沿いを自転車で走って行くところが妙に清々しい。
そう、海岸シーンが印象的な映画である。
メリとの間に子供もできた(笑、、、というところでエンディング。


観終わってみて、特にどうという噺ではないのだが、キャストの良さで魅せてしまう映画であった。
存在感が心地よいというか、気負うところのない良い作品となっている。
そして、元気で快活であること。
その大切さを感じる機会ともなった。
二人の女優の瑞々しさが素敵だ。
ピーター・オトゥールがこういう軽い役で(主役ではあるが)出るのも悪くはない。


重い映画がしんどい時で、ゾンビ物などキツイという気持ちならば、お薦めの軽さと心地よさである。



IT/イット “それ”が見えたら、終わり。

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IT
2017年
アメリカ

アンディ・ムスキエティ監督
スティーヴン・キング原作

ジェイデン・リーバハー、、、 ビル
ビル・スカルスガルド 、、、ペニーワイズ
ジェレミー・レイ・テイラー 、、、ベン
ソフィア・リリス 、、、ベバリー
フィン・ウォルフハード 、、、リッチー
ワイアット・オレフ 、、、スタン
チョーズン・ジェイコブズ 、、、マイク
ジャック・ディラン・グレイザー 、、、エディ
ニコラス・ハミルトン 、、、ヘンリー
ジャクソン・ロバート・スコット 、、、ジョージー(ビルの弟、最初の被害者)


まずこの特異な舞台となる場所の特徴であるが、、、
いじめっ子(少年)たちが恐ろしくケダモノだ。
日本にも近いものはいるが、、、この凶暴さと悪辣さはちょっと凄い。
やっていることは、完全な凶悪犯罪以外の何ものでもない。

また怖く寒々しかったのは、彼ら少年少女たちの親~保護者であり、その関係性である。
この親子関係により、対社会~環界における病的な捻じれ関係が彼らの精神に育まれるのも分かるところだ。
虐め、差別、暴力、虐待、の横行と蔓延、麻痺、、。
親子関係がまずはその最小の濃密で持続する温床となる。
親子関係~家庭環境はなかなか表に見えてこないところが怖い。
(したがって、いじめっ子もその犠牲者と受け取れる面はある)。

さらに、このような田舎であると噂の占める力は大きい。
大概、特定の個人(ターゲット)を貶める下劣極まりない噂~でっちあげだ。
それの共有により結束を強め、上記の暴力行為を正当化さえする環境と化す。

そんななかで何か事件が勃発した時、どうであろう。
ここでは肝心な真相、事件が見えない、、、本当に進行している危機が認識されない、、、実のところ、何がどう発生しているのかが定かではないのだ。
荒涼とした田舎町(デリー?)での昔の言い伝え(記録)通りに厄災が起きてしまったが~実際のところ失踪は共通に認識されている状況だが~その割に大人たちや警察に動揺の様子や動きもなく、寧ろそれを隠蔽して何もないかのような日常をほとんどの人々が送っている光景はとても異様である。

結局特定の子供たちの結束により、その正体ははっきりせぬままだが、取り敢えず「それ」を退治して平和な日常を取り戻すという流れ~結末だが、、、それも、どうもしっくりこない。
この共同体とルーザーズクラブの少年たちとの表象の乖離が甚だしいのだ。
(ベバリーたちには見える血染めの浴室が、彼女を虐待する義父?の目には何の異変もない浴室でしかない)。
だが、ペニーワイズ~ピエロは最初からあからさまに彼らの前にはしっかり出て来た。
その鮮明さ、即物性から少なくとも彼らにとっては疑う余地のない何者か、だ。

少年たちの(オカルト)世界は、実体としてあり単に大人たちは分かっていないだけなのか、(共同体からも対関係からも)虐げられたグループの集団ヒステリーの一種なのか、今ひとつ判然としない。
「それ」がそれぞれの獲物の子供たちの最も(無意識的にも)恐れている像を見せて恐怖に陥れて虐殺すること~何故か宙に浮かせること~を目的としているように映るが、「それ」の実体とは果たして幻想なのか悪霊(悪魔、魔物)の類なのか、、、。
このような失踪または死亡(自死)が同時期にここまで多発することは考え難い点もあり、やはりドラキュラや狼男みたいな特異な怪物の表れと関係すると見た方が納得はできる。
所謂これはオカルトファンタジーとして観る映画か。


少年たちが、いじめっ子に対する形でクラブ(集まり)が出来ていてもそれだけで「スタンド・バイ・ミー」は生じない。
その線での共感や感動などとこれは無縁だ。
ビルが忽然と姿を消した弟を何とか探し出したいという気持ちは分かるし、仄かなベバリーに対する恋愛感情は理解できるが、どうも権力関係から集まってしまったグループにそれ程の結束力と危険を顧みない実践力が生じ得るか、、、。
ここでは友情関係が出来ているようだが、あまり実感として伝わらない。
「スタンド・バイ・ミー」のような説得力は到底、、、。

どのように受け取って映画を観るかはともかく、頃合いよくそれぞれの少年・少女に現れるペニーワイズ~ピエロ~の恐怖を挟み進行する話が、どうも展開が深化せず散漫に続くだけという感じで、そのリアリティの薄さと共にじっくり落ち着いて見れない。
観ている間中、そわそわしてしまい、別のことに気が向いたり、ながら観をしてしまった。
少なくとも、ペニーワイズの線において恐怖やショックより、薄っぺらさしか感じない。
寧ろ人間の殺伐とした関係の方が印象に残る。
そして、少年たちの関係にもほとんどリアリティ~共感を覚えなかった。


兎も角、全体にどうにも入って行けない映画であった。
観る必要性は、どの側面から謂っても感じられない。


猿の惑星 聖戦記

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War for the Planet of the Apes
2017年
アメリカ

ピエール・ブール原作
マット・リーヴス監督・脚本
マイケル・ジアッキノ音楽
マイケル・セレシン撮影

アンディ・サーキス 、、、シーザー
カリン・コノヴァル 、、、モーリス
アミア・ミラー 、、、ノバ
ウディ・ハレルソン 、、、大佐
スティーヴ・ザーン 、、、バッド・エイプ
テリー・ノタリー 、、、ロケット
ジュディ・グリア 、、、コーネリア
ガブリエル・チャバリア 、、、プリーチャー


シリーズ3部作の最終章である。
猿の惑星:創世記」、「猿の惑星:新世紀」そして本作。
シーザーはついに流暢な英語を喋るまでになっている。
モーリスも手話とともに喋れる。
今回は喋れない~言語・コミュニケーション能力に障害をきたした人類も出てくる。
全体に非常によく練られた脚本で、VFXも申し分ない完成度の高い力作だと思う。
アンディ・サーキスの威厳に充ちて苦悩に悶えるその演技は、崇高な域にまで達している。
(ここでもシーザーの苦悩と葛藤は途轍もないもので、コバの悪夢にも悩まされる)。

一番、感動したところは、モーリスがアミア・ミラー演じる孤児となった言葉の話せぬ少女に手話?でわたしは何者なのと聞かれ、「君はノヴァだ」と、シボレーノヴァのエンブレムを差し出して答えるところだ。
並みの人間では、こんな粋なこと出来ない。
シーザー、モーリスの知性の高さが如実に判る場面がたくさんあったがその中でもここは一際センスが光る。
確かに彼女は「新星」である。
アビスと人間とのハイブリットでもあり新種でもある。
これから先、アビスと共存を始める最初の新人類の象徴的存在だ。
(ちなみに、一番最初1968年の「猿の惑星」のやはり言葉を失った人類のヒロインもノヴァであった。この名はそのオマージュでもあろう)。
ノヴァの、可憐で直向きな存在が物語全体に希望を染み渡らせている。

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シーザーは、1を知って100を知るように、敵の情勢も断片的情報からその全体像を見事に構成してしまう。
冷酷非情な少佐もその知性には驚き呆れるばかりだ。
その為、彼らに対する脅威や恐れを深めてゆく。
徹底した殺戮の意思を新たにするのだが、彼の場合、猿インフルエンザに犯され体内でそれが進行した挙句、言語が話せなくなった人間も同様に「人ではない」と片端から殺して来た。それで人間たちにも恐れられる徹底した異物排除者である。
そのやり方に脅威を抱く人間との対立状況もシーザーは見抜いていた。

シリアスで重苦しいキャラクター~ストーリーの中で、ちょっととぼけた緩いキャラとしてバッド・エイプが物語に厚みを加えていた。
自らを「バッド・エイプ」と呼び、言葉の流暢なお道化た彼は毛が薄く、ダウンジャケットを着ている。
ALZ113によって知能を高めた者とはルートが違い、研究所ではなく動物園で人類に蔓延した猿インフルエンザに感染し知能を飛躍的に高めたという。
その姿と仕草・行動は文字通り類人猿だ。
ユーモアとペーソスに溢れ、臆病者でもある。ほとんど人ではないか。

人を凌ぐ知性と身体能力と体力も遥かに勝る彼らが地上に生き残るのは順当に思えてくる。

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人間に深い憎しみを抱くコバの反乱によってアビス対人類の激戦が巻き起こったのだが、今回はそのコバ一派のアビスたちの人間達への寝返りがシーザーに痛手を与え彼を苦戦に追い込む。
さらに妻と息子のブルーアイズ、重臣であるゴリラのルカも殺されシーザー自身も憎しみで激情に駆られ、冷静な判断を失う。
その為、敵に捕らえられ、ここでもまたシーザーは散々な目に逢う。

以前猿インフルエンザ患者の収用所であったその基地では、すでに捕まっていたアビスたちが巨大な壁を作る為に強制労働を課せられているのだった。
壁はアビスに対してではなく少佐に対する反対派の人間~軍隊を食い止める為のものである。
アメリカで近頃問題となっている壁を容易に想いうかべるものだ。
無論、壁を建設後にアビスは一頭残らず始末される手筈である。
脅しに屈しないシーザーは酷い拷問を受けるが、そんな中、ノヴァの手でシーザーの元に運ばれた人形(まさに呪いの人形だ)を素手で拾ってしまった少佐が猿インフルエンザに罹り、自分が惨殺した兵士たちと同じ運命を迎え自殺してしまう。
この流れは鮮やかであった。

AΩ隊~掛け声が「われわれは初め(アルファ)であり終わり(オメガ)でもある」~という狂信的な少佐率いる軍隊相手に苦戦するが、最後にシーザーを裏切ったレッドに絶体絶命のピンチを救われ、この隊を爆破により殲滅する。
しかしその直後この隊を潰す目的で雪崩れ込んで来たより大規模な軍隊にアビスたちが襲われそうになる。
そこを、雪崩が一斉に彼らに向け襲ってくる。この自然の脅威の畳みかけには圧倒される。
結局、身体能力の優れたアビスたちに人は勝ち目はない。。
人間たちが皆、雪崩に呑み込まれるなか、彼らは木の上に退避していた。

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最後に辿り着いた自然に恵まれた土地に喜ぶアビスとノヴァたちを眺めながら崩れ落ちるシーザーとそれを見守るモーリスの姿が切ない。
音楽が終始、哀愁を帯びた音色を奏でていた。
哀しくも希望の薄明りの射す、重厚な締めくくりである。


アミア・ミラー、まだ13歳というが次々に凄い女優が出てくるものだ、、、。
言葉が話せないで意思を何とか伝えようとする難易度の高い演技をしっかり熟していた。
見るからに野心的な感じで、ちょっと怖い。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

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Buena Vista Social Club
1999年
ドイツ、アメリカ合衆国、フランス、キューバ合作
ヴィム・ヴェンダース監督・脚本・製作


ライ・クーダー
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ


ベルリン 天使の詩」、「パリ テキサス」は大好きな映画だ。その雰囲気が格別なのだ。
ライクーダーのギターが冴えわたっていたが、ここではバックで支える。
ライ・クーダー製作アルバムの「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」をヴィム・ヴェンダースが映像バージョンにしたといってよいか。
如何にも淡々としたヴィム・ヴェンダースの映像。
間違っても「ストレイト・アウタ・コンプトン」みたいな強烈なメッセージやストーリーなど全くない。
そこに流れるサウンドは生を謳歌する歓びとちょっぴりペーソスも感じさせる愛情に充ちたものだ。
ニンマリとして魅入っていや聴き入ってしまう作品といえよう。


ライクーダーがキューバ音楽の魅力を発見しそれを世界中の人々に紹介しようと、ミュージシャンを引退して埋もれてしまった実力者たちをそこらじゅうから探し出して来てブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを結成させる。
謂わばライ・クーダーによって実現をみたクラブだ。

キューバ国内でまず驚きをもって迎えられ喝采を浴びるが、レコーディングもしっかりおこないミリオンセラーとなり、その勢いでアメリカまで遠征する。
それをライ・クーダーの古くからの友人であるヴィム・ヴェンダースが素材を生かして映像作品化した。

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内容としては、いぶし銀の老練なミュージシャンたちのライブや収録現場、日常それから紹介・来歴を含めたドキュメンタリーフィルムとなっている。
もうかなりの歳の(おじいちゃん)ミュージシャンばかりであるが、皆純朴で若々しくカッコよい。
そして矜持を失わずダンディな人々ばかりだ。
肝心の音楽の情熱も技巧も全く衰えをみせない。
「ライが見てるから頑張らなきゃ」と彼の期待に応えている。
そう、ライ・クーダーの愛情がもっとも熱いモノであったかも知れない。
(ライの彼らを見つめる笑顔がとても素敵なのだ)。

それぞれの楽器(伝統楽器も含め)のエキスパートにより、それは熱気あふれる演奏が繰り広げられる。
こちらも心地よいリズムに気が付くと乗っている(笑。
(歌詞は驚くほど素朴だ(笑)。
ルベン・ゴンサレスのピアノはもっとじっくり聴いてみたい本当に魅力的なものであった。

編集がとても巧みで、街中で演奏していたものがそのままライブに繋がれていったり、流れにぴったりのキューバの街や浜辺の光景に接続されたり、それは申し分ない特上のMVである。
道路でドラム缶をクルクル回している人がいたり、、、。
街の人がそれと気づいて一緒に歌ったり、、、。
ペンキを塗られてカラフルな年季のいった車、、、。
とっても長いMVとしても愉しめるものだ。

最後の締めくくりのカーネギーホールでのライブまでにはたっぷりと彼ら~キューバミュージックの魅力を堪能できる。
「アメリカに一度来てみたかったんだ。まさにラジオシティーじゃ。家族にも見せたいな~」と言って夜の街をあちこち散策したり、無邪気にショーウインドウを覗きこんでいる姿は、ただのお登りおじいちゃんたちであった。

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「アメリカに憧れていたんだ。」と、目を細めるクラブの中心的な存在であるヴォーカルのイブラヒム・フェレールの表情が印象に残る。
そのすぐ後に、キューバの街の”Karl Marx”と書かれたボロボロになった看板が映される。
明らかに意図的に、、、。
何とも言えない余韻を残す。
やはりヴィム・ヴェンダースの映画であった。

しかし、、、ここはライ・クーダーの情熱をそのまま受け止めて
ただ「音楽」に浸ればよいものだ。

特につべこべ謂うような映画ではない、、、。

T2 トレインスポッティング

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T2 TRAINSPOTTING

2017年
イギリス

ダニー・ボイル監督
ジョン・ホッジ脚本
リック・スミス音楽


ユアン・マクレガー 、、、マーク・レントン
ユエン・ブレムナー 、、、スパッド
ジョニー・リー・ミラー 、、、サイモン(シック・ボーイ)
ロバート・カーライル 、、、ベグビー
アンジェラ・ネディヤルコーヴァ 、、、ベロニカ
ケリー・マクドナルド 、、、ダイアン
シャーリー・ヘンダーソン 、、、ゲイル
ジェームズ・コスモ 、、、レントンの父

「鉄道オタク」~あてもなく、ぼ~っと生きる連中か。
スコットランド映画ではなくイギリス映画とは、、、。
(何と謂うか、敵国民の立場に立って作ったという感じか?)


舞台はスコットランドのエジンバラ。
ノスタルジックな絵にピアノのみの儚いアレンジの”パーフェクトデイ”が流れて始まる。

前作“トレインスポンティング”から20年後の話である(現実に20年後である)。
皆、確かに20年分の歳をとっている、、、熟したというより無常観漂う、、、。
今回は父子の関係~絆も描かれる。
相変わらずのドラッグ幻視ヴィジョンとロックサウンドの融合。
様々な中毒の光景が浮かび上がる。


20年前、薬の取引で得た金を持ち逃げしたマーク・レントンが街に舞い戻る。
務めていた会社が倒産し妻とも離婚し住むところもなく戻って来たのだ。

自分の部屋に20年ぶりに帰り最初、かけようとして思いとどまるレコードがイギーポップの”Lust for Life”である。
このレコードは物語の最後にかける。


ホントに今回もいろいろある(笑。帰る場所はかつての悪友のところしかあるまい。
恐喝と薬売りを生業としているサイモンは悪びれず普通に戻って来たレントンに切れまくる。
だが、取っ組み合い喧嘩のレベルで、何とか遺恨は残しつつも収める。
レントンは遅まきながら4000ドルを彼に渡すが、それでサイモンの腹の虫は収まらない。
彼はレントンをサウナ店の開業の為、利用する魂胆があった。
女主人にゾッコンのベロニカを据えるのが目的でもある。

コアな(排他的な)ユニオニストの集会に出向き、隙を見て彼らのジャケットからカードを盗み出し、そこでカトリックをおちょくり、プロテスタント万歳といったようなオチャラケ即興曲を唄ってずらかる。
盗んだ彼らのカードの番号全てが何と1690なのだ。大金を巻き上げ、店の資金をかなり得ることが出来た。
こんなところで過激で極端な思想グループの危うさが露呈されている。
取り敢えず、この協力関係からレントンとサイモンは昔のような友人気分に落ち着いてきたようだった。

しかしベグビーはそうはいかない。
ベグビーもムショから脱獄して戻って来たのだ。
(また旧友4人が勢揃いというもの)。
ベグビーは、マジに命を狙って襲い掛かり、レントンは追い詰められ逃げ惑う。
そりゃ彼は前から凶暴であったが、やはり相変わらず度を越している。

ただひとり、分け前を貰っていたスパッドはその金のお陰でヘロイン中毒が更に深刻になってしまっていた。
完全なジャンキーである。
そんな自分に嫌気がさし、妻息子に詫び遺書を認め、自殺を図る。
が、すんでのところで、戻って来たばかりのレントンに救われた。
それからは、ふたりでハイキングに出掛けたり、ボクシングをやってみたりして、スパッドは健康を取り戻してゆく。
そしてこれまでの事を小説に書き留め始める。
まるでロックの歌詞みたいな魅惑的で簡潔な文体で。

「最初にチャンスがあった、、、そして裏切りがあった、、、。」
書き出しからカッコよい。
スパッドは文才が開花する。
その文章は、それを読んだベグビーの父子関係にも多大な影響を与える。
(ベグビーが息子を他者として認め、その人格を尊重するに至る)。

前作と変わらずサイケデリックな映像である。
音楽もここぞという時にピッタリの楽曲が鳴り始める。
その辺は、ゾクっとする。

T2 002

ベグビーは子供が立派に育ち、大学でホテル経営学を学んでいる。
無理やり自分の仕事(盗みなどの犯罪)を手伝わせるが、拒否される。
最初のうちは激怒していたが、不器用な仕方で息子の自立を認め、祝福する。
ここの辺には、ジンと来る。


兎も角、この人たちはまともな(地道な)ことは端からやる気ないし、、、大きなヤマを狙っては挫折してしまう宿命を背負っているらしい。いや、情勢の上からも構造的にもそれが出来ないで流されてしまった層とも謂える。
薬に溺れてヘロヘロになっていたスパッドが一番クリエイティブな覚醒をする。
とは言え、その小説を読む人がいるかどうかは分からない、、、。
ベグビーも彼自身はもうドツボだが、息子は立派に育つに違いない。
レントンとサイモンは、うだつが上がらぬまま沈み込んでゆくしかないかも知れない。サイモンの方は常に薬をやっているし。手に職をもてる年齢でもない。
(基本的には20年前とほとんど変わってはいない、、、虚しさに包まれている)。

バーで、ベロニカに「人生を選べ」と饒舌に捲し立ててはいたが。
折角そのレントンの口八丁を頼みに、EUの投資組合に開業資金融資許可のプレゼンの成功で10万ドルの融資を受けたにも関わらず、スパッドの一度見た筆跡を完璧に模倣できる特殊能力を利用され、その金はベロニカのところに流れてしまう。
彼女はまんまと金を得て、故郷に帰ってしまった。

このブルガリアから来たというベロニカ、、、EUを前提とした魅惑的な外人美女である。
アンジェラ・ネディヤルコーヴァ、、、小松奈々似のこれからブレイクしそうな女優である。

まあ20年ぶりに再会したキャスト+アンジェラが実に味があって良かった。
虚しくて面白い事この上ない。
”Lust for Life”でトリップしながらエンディングへ、、、


T3は、やらないで欲しい。
爺さんになった彼らを見るに忍びない。

プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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