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GOMA28

Author:GOMA28
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マラヴィータ

Malavita001.jpg

Malavita、The Family
2013年
フランス・アメリカ

リュック・ベッソン監督・脚本
マーティン・スコセッシ製作総指揮


ロバート・デ・ニーロ 、、、フレッド・ブレイク/ジョヴァンニ・マンゾーニ(元マフィアのボス)
ミシェル・ファイファー 、、、マギー・ブレイク(妻)
トミー・リー・ジョーンズ 、、、スタンスフィールド(FBI、フレッド一家の監視と保護役)
ダイアナ・アグロン 、、、ベル・ブレイク(長女)
ジョン・ディレオ 、、、ウォーレン・ブレイク(長男)


ちなみにこの一家の飼い犬が「マラヴィータ」である。

兎も角、面白い映画であった。
脚本も良いが、キャストも曲のある芸達者揃いだ。
こういう役でロバート・デ・ニーロの右に出る人はいないと思う。
(単に怖いだけの人なら他にもいるが)。
ダイアナ・アグロンの存在感もかなりのものだった(ある意味、この娘が最も怖い)。

Malavita002.jpg


フランス・ノルマンディーの片田舎にアメリカ人家族が引っ越してくるのだが、、、。
そのアメリカ人家族は、ブラックジョークとバイオレンスを基本とする家族と謂えるか。
ここでもロバート・デ・ニーロは、ユーモラスでペーソスある憎めない怖い人だ。
家族も全員、チャーミングで怖い。

所謂、マフィア組織の実態~秘密を全部警察に売った見返りの証人保護プログラム(WITSEC)により組織のお礼参りから守られ、別人として(当然名前を変え)別天地で暮らす一家の話だ。
アメリカのマフィアのボスだが、今はフランスでひっそりと暮らすはずなのだが。
フランス文化に取り敢えず馴染もうとしながらも、料理にいちいちケチをつけるところ、文化のギャップが随所に散りばめられていて、田舎であることからもフラストレーションがたまってゆく。
結局、自分たちのライフスタイルを変える気はない。
(何処へ行っても自分たちを通すアメリカ流といえるか)。
それに、根っからのコテコテマフィアなのだ。
人格は容易に変わりようもない。

少しでも気に障る事があると、忽ち相手は半殺しの目に逢う。
しかし一般市民として暮らす身である。
ご丁寧に、階段から落ちまして、と言って複雑骨折の重傷を負った相手を病院には担ぎ込む。
奥さんも息子も姉も皆、スウィッチが入れば相手をボコボコにしてしまう。(奥さんは爆破だが)。


フレッドは、この土地では「作家」として暮らす。
つまり彼らは作家先生の一家である。それで隣近所からは一目置かれるインテリ家庭である。
しかもこともあろうに、彼は本気で自叙伝をタイプライターで書きとめ始める。
これには奥さんもびっくりしやめさせようとする。
まさか実名で写真なんか載せたりしないわよね、、、当たり前だが死んだことにして隠れて暮らしているのだ。
「俺独りが読者の本だ。自分を知る為に書いている。安心しろ」と言って、毎日書き進めてゆく。実に危ない(笑。

こうしたなか、この一家がひっそり暮らせるはずもない。
それぞれがあちこちで暴れる。
長女は恐ろしい一途な愛を貫こうとする。純粋さと狂気は紙一重か。
大変なのは彼らの身を守る役のFBIのスタンスフィールドである。
気が気ではない。

Malavita005.jpg


映画上映会にゲスト(作家)として招待され、マーティン・スコセッシ監督の「グッドフェローズ」の討論会となったフレッドは、もう活き活きとその映画の登場人物の1人となって(体験談みたいに)熱く饒舌に語る。
終わると会場の人々からの拍手が鳴りやまない。
もうヒーロー気分である。
彼なりの地元の住人との交流とは言え、正体がバレないか、スタンスフィールド独りが冷や汗をかいている状況だ。

自叙伝執筆中の、昔の武勇伝の回想シーンなども残虐なのだが思わず笑ってしまう。
ほとんどギャグに近い。
ホントにデニーロが良い味出してる(笑。

そして彼らを見守るトミー・リー・ジョーンズの仕事だから仕方ないという感じのうんざり顔~とても共感できる~がとても可笑しかった。まあ、大変なお守り役である。

下の息子の一言が新聞に載ったことで、牢獄に繋がれたマフィアの目に触れ、一家の居所が殺し屋にバレてしまう。
今やマフィアの間で彼らの首にはとんでもない懸賞金がついているのだ。
終盤は殺し屋の容赦ない襲撃で、ひたすら銃器の火が噴くバイオレンスシーンの畳みかけである。
ここで気の毒にも近所の気の好い人たちや、彼らの身を守っていたFBIの護衛隊も殺されてしまう。

だが、悪運強い一家はみな無事であった。
最後に、一家はまた名を変えて、遠く離れた街に移り住むこととなる。
「また生き残った」、、、と呟くフレッドのホッとした虚しい表情が印象的、、、。
懸賞金はまた跳ね上がる。
トミー・リー・ジョーンズ~スタンスフィールドの苦労はこの先も続く、、、。

Malavita003.jpg


噺はとっても面白い。
これだけ見せ場があってよく出来たストーリーなら、文句はない。





普通の人々

Ordinary People001

Ordinary People
1980年
アメリカ

ロバート・レッドフォード監督
アルヴィン・サージェント脚本
ジュディス・ゲスト原作
マーヴィン・ハムリッシュ音楽

ドナルド・サザーランド 、、、カルビン(父)
メアリー・タイラー・ムーア 、、、ベス(母)
ティモシー・ハットン 、、、コンラッド(息子)
ジャド・ハーシュ 、、、バーガー医師(セラピスト)
エリザベス・マクガヴァン 、、、ジェニン・ブラット(彼女)


まさに”Ordinary People”
キャストの演技が素晴らしい。
ドナルド・サザーランド のこんな姿は初めて見た。感動した。

Ordinary People003

そしてティモシー・ハットン。
ことばもない。

さらにジャド・ハーシュの精神科医。
この職業の必要性を実感する。

優れたカウンセリングの価値は非常に大きい。
自分で治すことの限界がこの映画でも示されているが、その通りだ。
外部からの~他者の手は、ときに絶対的窮地を救う。
心の拠り所となり得る。

そしてどうにもならない、母の心も充分説得力があった。
これは、もうどうにもならないことなのだ。
理屈ではない。
メアリー・タイラー・ムーアが見事にそれを体現していた。

彼女は去ってゆくしかない。
家族は解体するしかない。
そういうものだ。

Ordinary People002

「感情は恐ろしい」
「それは痛みを伴う」
「しかし痛まない者は死んだも同然」
「君は生きている」
「痛みを感じる」
「でも辛い」
「それはいいことだ」

それが「普通」なのだ。
神に頼らない。
真摯に生きる。
”Ordinary People”

これを実に実感できた2時間強であった。
これを謂う為の映画であった。
わたしにとって。


音楽は、ずっとパッフェルベルのカノンばかり鳴っていた。

エリザベス・マクガヴァンのセンシティブな演技も魅惑的であった。
誰かに似ていると思ったら、欅坂の平手さんに似ているではないか(笑。
娘の影響で、乃木坂と欅坂には、徐々に詳しくなってきた、、、。
そのうちブログ記事にも入れていきたい、、、。
わたしも、いくちゃんの大ファンであるし。


ロバート・レッドフォードは、しっかり見ておきたい監督だ。












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ある天文学者の恋文

La corrispondenza001

La corrispondenza
2016年
イタリア

ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本


ジェレミー・アイアンズ、、、エドワード・フィーラム(天文学者、大学教授)
オルガ・キュリレンコ、、、、エイミー・ライアン(成績優秀な学生、エドワードの恋人)
シャウナ・マクドナルド、、、ヴィクトリア(教授の娘)
パオロ・カラブレージ、、、オッタヴィオ(船頭)
アンナ・サバ、、、アンジェラ(教授の別荘の管理人)


何と「ニューシネマパラダイス」、「鑑定士と顔のない依頼人」の監督ではないか、、、。どちらもとても印象に残る映画だ。「海の上のピアニスト」の監督でもある。
となるとかなりの作品を期待してしまう。


遠方~過去からの情報を星々から受けている。
もう何億年も前に死んだ星の光を見ている(リルケの詠うように)。
われわれは過去からの~死者からの情報~通信を頼りに生きている部分は大きい。
(宇宙線やニュートリノは常に降り注いでいる)。

不治の病で余命幾許もない天文学者もそんな星となって若き恋人にメッセージを送り続けたかったのか。
確かに、お互いの時間というものは、短いものだ。
本質的に、短い僅かなものだ。
稲垣足穂流に謂えば、「一瞬の泡のようなもの」か。
だが、それを永遠という価値に置き換える幾何学が天文学にはめくるめく秘められている。

La corrispondenza004

しかしこの”CORRESPONDENCE”はどうあっても双方向にはなりえない。
(謂うまでもなく星間通信のように技術上の問題ではなく原理的に)。
一方的にエドワードがエイミーに愛を伝える。
エイミーはそれを確認するのみだ。

とは言え生きていてずっと一緒に暮らしていれば、もっと濃密に広がる関係性を生成できるかというと、どうであろう、、、。
かえって、こんな関係の方がお互いの相手に対する幻想が稠密なものに純粋に昇華しないか、、、。
そんな気もする。
実際、双方向性をもつため、関係が瓦解しているケースの方が多い。
いや、双方向と思い込み、全く食い違いの中で相克するだけの場合がほとんどではないか。

しかし彼らの場合、決定的なのは、関係における前提としての相手~対象の不在である。
原理的に関係を結ばない幻想に、分かっていながら浸る空虚に充ちてゆく、、、。
(教授は起伏のあるプログラムを練りに練って送って来るが)。
この完結性にそれ自体で出口はない。
メールでそのプログラムの停止コマンドを送って(彼のいない世界に)解放されるのみだが。
それを巡る彼女の苦悩と煩悶は続く。

実際、これはしんどいものだろう。そう簡単に忘却は出来まい。
どうしたって先は見えて居ながら過去に留まろうと、引き裂かれる一方なのだ。

La corrispondenza002


何処をとっても、絵だ。
美しい記憶~想いは。

ゴルゴベントーソ。
湖に映る山。
桟橋からの黄昏。
かに星雲~超新星爆発。

その場所では、塵となっていていても、地上からはまだ何千年も美しく輝き続けて見える。
自らも彼女にとってそんな存在でありたいと願う、、、。
最期の3カ月をそのためのプログラミングに費やす、、、。

すでに実体は消え失せていても、輝き続けたい!
もはや対話の願いではなく、相手に対し光を放ちたいのだ。

そう、、、わたしとしてもきっと死に際しては、娘にとってそんな存在でありたいと想うかも知れない。
しかし、そんなプログラムを計画し制作することは容易なことではない。
芸術家が自らの全てを投入した作品を残すことなどが差し詰めこれに当たろう。
日常生活にどれだけ垂直性を埋め込むか、、、。
大概はそんなことを考える間も無く、生は地表で突然、切断される。


La corrispondenza003


オブリビオン」のオルガ・キュリレンコの好演も光る。ウクライナの女優がイタリア映画のヒロインとなっても、この映画なら気候差は感じられない。

エイミーと恋人エドワードは丁度、娘と父の年齢差である。
自分の運転ミスから自動車事故で父を失った外傷経験が関係するかも知れない。
彼女のバイトは、非常に危険を伴うスタントの仕事だ。
その為にエドワード教授からは「カミカゼ」と呼ばれている。
彼女は最後のバイトに、自分と向き合う決意とともに車が道を逸れて転落する、かつてのシーンを再現するかのようなスタントで締めくくる。
これが恐らく彼女の死と再生の儀式ともなったはず。
彼女はその後、教授にも勧められたように、母と和解し、結局解放されてゆくのだろう。


美しい映像作品であった。
しかし「ニューシネマパラダイス」や「鑑定士と顔のない依頼人」のようなレベルの作品ではない。






午後8時の訪問者

La fille inconnue001

La fille inconnue
2017年
ベルギー・フランス

ジャン=ピエール・ダルデンヌ,リュック・ダルデンヌ監督

アデル・エネル、、、ジェニー(医師)
オリビエ・ボノー、、、ジュリアン(研修医)
ジェレミー・レニエ、、、ブリアンの父
ルカ・ミネラ、、、ブリアン(高校生、ジェニーが主治医)


ジェニーをひたすら追うドキュメンタリーフィルムのような質感の映画であった。
ドラマ的な演出が一切ない。というか演技を排除している。
BGMも一切ない。
映画とは一体何なのか。
それを観るとは、いかなる行為なのか、ということが意識に残るような作品であった。


診療時間を一時間超えた頃に誰かの訪れを告げるブザーが鳴ったが、研修医は外を確認しようとするも、ジェニーはそれを止める。こんな時間に何よという具合に。しかしそれは丁度まさに研修医を諭している最中のことで、彼の動きを制したのは権力関係の誇示の結果でもあった。
しかも彼女はその夜、自身のキャリアアップを祝すパーティーに呼ばれていた。
若くして将来を嘱望されている優秀な医者なのだ。

しかし翌日、ブザーを押してどうやら助けを求めて来たらしいその若い女性の死体が見つかる。
(診療所のビデオの検証に警察がやって来てそのことを知る)。
まだ未成年のその女性は司法解剖後に、素っ気なく無縁仏として荒れた共同墓地に葬られる。
ジェニーは彼女のことが脳裏から離れなくなり、昇進を蹴って診療所に留まり、その身元不明のアフリカ系の女性の名前を突き止めようとする。

何故、あの時自分は扉を開けなかったのか。
彼女を迎え入れてさえいれば、死なずに済んだはず。
自責の念とせめて彼女が生きた証または死んだことを知らしめる意味でも墓碑に刻み込む名前だけは突き止めたいという気持ちがジェニーを突き動かす。

La fille inconnue003

それと並行して父親の暴力がトラウマになってそれを見抜けなかった医者への不信感から自ら医者になろうとしていた研修医が医者を断念したことも気遣い、丁寧なフォローと励ましを粘り強く続けて行く。
ジェニーが彼をきつく叱ったことが彼の断念を決意させる引き金ともなっていた。
彼は苦痛にもがく少年に自らの少年期の姿を投影してしまい、適切な処置が行えなかったのだ。

ジェニー自身、変って行く。
時間も関係なく患者の往診に出かけるようになる。
何時に診療所に患者が来ようが受け容れる。
(ある意味、つまらない拘りを捨てたと謂えよう)。
そうしながら、亡くなった少女~娼婦の「名前」を探り出すために手掛かりを追ってゆく。
闇世界に半ば踏み込んでもゆくことで、危険な目にも逢う。


不安も混じる緊張感のある静謐な日常があくまでも淡々と描写されていくのだが、、、
ジェニーが少年の脈拍数から「何か知ってるわね?」と切り出す大変鋭く冷静な所と、独自の捜査を妨害する強面ゴロツキに脅されまともに怯えるもすぐに手掛かりを探り始める姿や、食べ物・飲み物を勧められると何でも貰うわと頂いてしまう面など、彼女のしなやかでブレない強さと率直さ、可愛らしさが自然と浮き彫りとなっている。
元々真面目で直向きな人なのだ。

この見ず知らずのアフリカ系少女の「名前」を求めて、ジェニーが街の迷路をひたすら車で乗り回すシーンは、どこかカフカの小説も連想してしまう。
登場人物のほとんどが、こころに何かを隠し持っていたり、こころを閉ざしていたり、しこりをもって病んでいる。
その中を彼女が突っ切って行き、徐々に彼らを揺さぶり、こころを開いてゆく過程の物語とも謂えるか。

そして、彼女の捜査の成果が実り、少女を直接(事故)死に追いやった相手を自首させるところまで行く。
おざなりな警察の捜査結果が、彼女にこころを開いた少女の姉の登場によって、全くの誤りであることが判るラストがこれまた静かにやってくる。
さらに、彼女の励ましの結果、研修医もこころを開き、再び医者を目指す意欲を取り戻す。
内容的には劇的で、彼女がこころから望むところとは言え、なかなか容易でない結末である、、、。
BGMがないことも関係しているだろうが、どのような場面であっても精緻で静かな映像なのだ。
ハーフトーンの美しい素描を観ている気分である。

La fille inconnue002

また、これはという「映画」と監督に出会ってしまった。
監督は兄弟のようだ。
他の作品にも当ってみたい。






ナイトウォッチ

NOCHNOI DOZOR001

NOCHNOI DOZOR
2004年ロシア

ティムール・ベクマンベトフ監督
セルゲイ・ルキヤネンコ原作
ユーリ・ポテイェンコ音楽
セルゲイ・トロフィモフ撮影

コンスタンチン・ハベンスキー、、、アントン・ゴロジェツキー(光の異人)
マリア・ポロシナ、、、スヴェトラーナ・ナザーロヴァ(光の異人)
ウラジミール・メニショフ、、、ゲセル(光の異人、ボス)
ガリーナ・チューニナ、、、オリガ(光の異人。魔術師)
ディマ・マルティノフ、、、イゴール(アントンの息子)
ヴィクトル・ヴェルズビツキー、、、ザヴロン(闇の異人、ボス)


VFXが至る所で使われていて目まぐるしく勢いのある映画であった(笑。
素早いカットの連続とどぎつい色彩に蚊やビスなどの小さなモノの見せ方が凝っている。
特に時間~速度感の演出が冴えており、全体をスリリングでタイトなものにしていた。
そう、グロテスクで粘液質のシーンも含め、感覚を擽る映画である。

光陣営と闇陣営の対立で、1000年お互いを監視し合い力の均衡を保ってきたが、その均衡を破る強大な力を秘める異種の誕生を契機に、その異種の自陣への取り込みをめぐる駆け引き~争いが展開されてゆく。
誠に単純この上ない骨格である。
それを面白い話に練り上げている、とは言え分かりにくいシーンは幾つもあるのだが。
主人公アントンはいい加減な軽い男で、浮気した恋人のことで、それと知らず魔女(闇陣営)に相談に行ったばかりに光の戦士として戦う羽目となる。彼もその時、はじめて自分が異種であった事を知る(その魔女を捉えに来た光の戦士が見えてしまったことで)。
恋人には子供が出来ていて、魔女はその胎児を浮気相手の子だと殺そうとするが、実はアントン自身の子であり、最後に分かるのはその子こそ恐るべき力をもった予言で待ち望まれていた存在であった。

追いかけにくい断片的で奇妙に捻ったストーリーや伏線が活かされており、なかなか面白い。
また、双方の間に交わされた協定(冷戦状態)がかなりお互いを生き難くしているところが、妙にリアルでもあった。
(法にがんじがらめにされて人間界に居心地悪そうに暮らしている)。

そして色々出てくる。闇の異種がヴァンパイアとなって人を襲いヴァンパイアにしてしまったり、それを協定違反として追う光の異種=ナイトウォッチ。ちなみに光の異種の行動を監視するのがデイウォッチである。
いざこざは、日々あるようだが、伝説の「禍の女」の出現で大きく状況が変わる。
その眼鏡をかけた女性の出現の仕方が印象的だ。
主人公の乗る電車内でその女性だけが髪が上昇気流に煽られており、その強風は上空高く渦巻いていた、、、。
偉大な異種誕生を告げる禍々しい異変であるようだ。
この手の見せ場は、幾つもある。

NOCHNOI DOZOR003


特に最後の屋上シーンなど、冒頭の軽い出だしをしっかり回収し、なるほどねと感心した。
主人公は最初から罠にかけられていたことが判明し、まんまと実の子を闇陣営に取られてしまう。
その子が闇側に自らの意思でついてしまうように巧妙に仕組まれていたのだ。
闇のボスが一枚も二枚も上手であった。
(なんせ、その計画をCGゲームでシュミレートしているのだ。IT的に光陣営は遅れを取った)。
しかし何も背骨を刀にしなくともよかろうに、、、奇想天外というか余りに無茶な絵も少なくはない(爆。


どうも物々しく登場した人物が「Xメン」みたいに仕事を何もしないし、誰もがこれといった能力を発揮せぬ(フクロウ女以外は変身もせぬ)まま終わったな、、、と思っていたら、これは3部作の第1作目にあたるものだそうだ。
これからなのだ、、、と思うと導入部~序章としては、まずまず成功しているかと思う。
(今、調べてみたら2作目「デイウォッチ」、3作目「ダスク・ウォッチ」、4作目「ファイナル・ウォッチ」まで行くシリーズものだという。ロシアでは大変な興行収入をあげており、ハリウッド映画より受けているそうだ)。

お金は見るからにかけていないようだし、こじんまりしているが、独特の風情がある。
ロシア的なのかどうかよく分からないとはいえ。
また、VFXへの拘りが尋常でないところは、表現自体は全く異質であるが先日観た「アトラクション」と同様である。
ロシア人はこういった極めて感覚的な効果に惹かれるところが大きいのか。
この領域においてはハリウッドと比べても全く遜色はない。

この映画、ロックがエンディングも含め、ガンガンかかっていたが、とてもピッタリ合っていた。
ロックサウンドの似合うサイケデリックな映画である。
やはり感覚・感性に訴える作品だ。
決して嫌いなタイプではない(どちらかと謂えば好きな方だ)。
続編もかなり気になる。


しかしロシアには、もうタルコフスキー(ソ連だが)みたいな作家はいないのか、、、。
彼は自身の表現の自由を確保するため亡命しパリに没しているが、ロシアは今も何ともきつそうだな、、、。
日本にも溝口みたいな監督はいないが。
こういう割り切った(思想的な深みや何らかの問題意識など微塵もなくただ面白い筋と効果で魅せる)大衆娯楽映画も丁寧に作られていればそれはそれでよいが、他の方向性も期待したい。
アレクサンドル・ソクーロフ監督(「太陽」)がいたか。

NOCHNOI DOZOR002


兎も角、とてもマニアックなおもちゃの詰まった箱をひっくり返したような作品であった。
取り敢えず、手に入れば「ファイナル、、、」まで観てみたいとは思う。
暇があればのはなしだが(笑、、、。


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スターシップ9

Orbiter 9 002

Orbiter 9
2017年
スペイン・コロンビア

アテム・クライチェ監督・脚本

クララ・ラゴ、、、エレナ(クローン)
アレックス・ゴンザレス、、、アレックス(エンジニア)
ベレン・ルエダ、、、シルビア(心理カウンセラー)
アンドレス・パラ、、、研究所のボス


そもそも、わたしにとって、映画は然程身近なものではないし、見る事自体に抵抗があり億劫に感じることも多い。
その為ジャンルがSFかどうかではなく、良い映画~見られるものでないと、大変キツイ。

兎も角、「ノスタルジア」や「ブレードランナー」、「アラビアのロレンス」は、何であろうが、文句なしに良い映画である。
そして、最近もこれは、という映画には巡り合った。
今日見た映画は、紛れもなくそのうちのひとつに数えられる。
素晴らしい作品だ。
マスターピースに出逢った時のトキメキに最初から惹きこまれ、20分後の尋常ではない展開からはもうどっぷり浸かり込んでしまった。
徹底して画像で語り迫る監督である。
不穏な雰囲気の光景に、不思議に心地よい空気が充ちている。
ブレードランナーへのオマージュにも時折、ニンマリする。

Orbiter 9

たった独りの孤独な移住(移民)のための星間飛行(いや周回飛行なのか”Orbiter”)をこの先20年続ける予定のエレナという20歳の女性。両親の存在はビデオの中で知るのみで、彼女を宇宙船の中で生んだ後に幼子を残し船外に出て行ってしまったらしい。
この初源における喪失~不在感とは、何であろう。
しかし、何かわたしにもそういった感覚が深々とこころに巣食っていることに気付く。
何とも言えない郷愁と焦慮の念と共に。
そういった感覚をふいに引き釣り出す映像なのだ。

うら若き女性が宇宙船にたった独りというのも余りにストイックな状況である。
そこへ酸素の供給システムの不具合で救援に応じてやって来たエンジニア。
彼女の初めて見る生身の人間であった。
しかしエンジニアは修理が済むとすぐに帰還してしまう。唖然とするほどの、その余りのそっけなさ。
彼女は、慣れ切った孤独に引き戻る。
(しかし戻れるのか。一度覚えた高揚感を身体的に忘れる事が出来るか)。


暫くして何の前触れもなく再び彼はやって来て、前回とは全く異なる感情的な面持ちで、いきなり信じ難い事実を告げ、事態を俄かに呑み込めない彼女を半ば強引に外へと連れ出す。
「外」である。
文字通りの彼女の身体性における完全な「外」であり、これまでの自分の記憶・文脈をすべて上書きしなければならない場所に追い遣られる。

彼女は生まれてこのかた20年間も、地球の地下施設で過ごしていたのだ。
幽閉され、監視され、テストされ続けて来たのだ。
何故、わたしが、、、何故その場所に居なければならなかったのか。
彼女と共に、こちらも眩暈に襲われる。
しかし、こうしたことはあり得る。
今わたしの居るこの場所が、本当にわたしがいるべき場所なのか、、、。
この光景がわたしの見るべき風景なのか?
わたしは何故、ここにいて別のどこかに居ないのか?
これは、わたしも常に持つ本源的疑惑である。
(決して本来居るべき場所が何処かにあるという超越的な前提など全くないにも関わらず不可避的に生じてしまう問いなのだ)。

地下生活、、、。
それ自体は魅惑的である。
深宇宙におけるたった独りとは、どう異なるのだろう。
身体的には、重力と宇宙線・光の作用であるが、それは全てシュミレートされた上での環境が作られているだろうが。

Orbiter 9 003

彼女はその実験施設のモルモットとして選ばれた理由を自ら探り出してしまう。
自分はクローン人間であったのだ。
両親と思っていた科学者夫婦は、DNAをクローン作成のため進んで提供した存在であった。
(植物はずっと昔からクローン技術によって繁栄してきた)。
彼女は寄る辺ない上に、何者でもない(人間と認定されていない)存在となる。
究極のわたしとは何か。
そしてわたしは何処からきて、何処に行くのか。
リドリースコットが映画で問い続けて来た問いにここからも繋がって行く。


「オービター計画」という人類移住計画のために10体のクローンが地下の実験施設で実際のロケットに乗っていると思い込んで生活~宇宙空間移動をしていたのだ。
毎日の様子や身体状況~健康チェックはモニターされて蓄積されてゆく。
地球に住めなくなった人類の20年かかる星間旅行の為の大掛かりな実験だという。
アレックスはその計画を推進して来た研究者であった。
しかし、実際にその実験対象に出逢って、そこに命と精神を見てしまう。
(自分の周囲の人間にないものを)。
そして彼女と共に逃避行する決心をする。
(まるでデッカードとリプリーのように)。


しかし彼女は地球の大気~太陽光には耐えられない体であった。
地下シュミレーターの中に最適化した身体として成長して来たのである。
軍隊のような研究機関に追い詰められてゆく二人。
彼女が処分される絶体絶命の時に検査で判明する。
アレックスとエレナの間には子供が出来ていた。
最後はそれを盾に、ふたりで共に地下施設に籠ることを機関に認めさせる。
そう自ら地下にゆくのだ。
遥か彼方の宇宙ではなく、地下に、、、。

それから20年経ったのか、、、その地下の扉から成長した女の子が微笑みながら外へ出てくる。
それを迎える年老いた所長。


全く無駄のない展開であった。
ひとりエレナ(とその外部としてのアレックス)を描く事でテーマの全てを語り切った映画であった。


わたしの意識のもっとも下部を揺り動かす映像である。
わたしにとってこうした作品こそが観るに値するものなのだ、ということを実感させる。
間違っても「パッセンジャー」などではない。

低予算映画のようだが、そのせいか音楽は今一つであった。
この映画なら、ハロルド・バッドあたりに音楽を頼みたいところだ。

アテム・クライチェ、、、この監督の名は覚えておく必要がある。






アトラクション 制圧

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ATTRACTION
2017年
フョードル・ボンダルチュク監督

イリーナ・スターシェンバウム、、、ユリア(ロシア軍の司令官の娘)
リナル・ムハメトフ、、、ヘイコン(ユリアの異星人の彼氏)
アレクサンドル・ペトロフ、、、チョーマ(ユリアの元カレ)
オレグ・メンシコフ、、、レベデフ大佐(ユリアの父)


わたしは、体調が今ひとつのときは、元気付けにSFを観ることもある。恋愛ものなどは見切れないが(爆。
実際、ここのところ最悪のコンディションなのだ。
何とか「気」から回復を試みる必要があった。
そこで散歩がてら、CD・DVDショップに買い物に行く。
「乃木坂46」のCDでも娘に買ってゆくかと思いつつ、SF映画のコーナーに。
もう「ブレードランナー2049」最新作も並んでいるではないか、、、と、棚を横へとゆっくり観てゆくと、ちょっと凄そうなパッケージが、目についた。

何と、そこには、ロシアのSF超大作とあり、またまた何と、「エリジウム」、「第9地区」の製作スタッフが関わっているなどと書いてあったため思わず舞い上がってしまった。(これだけで少しばかり元気になるのだ)。
タルコフスキーの「ソラリス」にブロムカンプの「第9地区」というふたつの大傑作が融合・昇華した作品だったら、もう映画史上に燦然と輝く金字塔だぞ。
しかもロシアはニコライ・ゴーゴリやアントン・チェーホフ、ドストエフスキー(余り読んでいないのだが)、トルストイはよく映画にもなってきた、、、の国である。
いやが上にも期待は膨らむ。
パッケージ写真は紛れもなく、「第9地区」スタッフでなければ作れない絵である。

これは。大袈裟な宣伝ではなく、ホントにSF超大作なのかも、、、。
と思ってしまい、危うく買うところだったが、(何故か嫌な予感がして)踏みとどまり、、、借りた。


予感は大当たり。
借りてもお金の惜しい大作であった、、、(哀。
何よこれ、、、、。

邦題に「制圧」と余計な文字をくっつけたのがどういう意味かさっぱりである。
ただ、間抜けなUFOが地球近傍で撃ち落とされてモスクワにビルにぶつかりながら墜落しただけなのだが。
水を貰って元気になり~修復して去って行くという物語だ。
何故か船が直るまで、異星人は街をぶらぶらしてモスクワヤンキー娘と恋に落ちてみたりする。
だが、元カレが焼きもちを焼いて、宇宙人から地球を守るぞ~と暴動を起こしたりする。
これどう見てもローカルな、彼女を巡るゴロツキ同士の喧嘩ではないか。

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確かにVFXは、彼のスタッフの製作に間違いない、飛んでもなく高水準の完成度である。
重厚で威圧感のある独創的なUFOの造形と奇想天外な動きといい、エイリアンのスーツの細部に及ぶ精緻な出来栄えとその敏捷かつ特異な動作など、目を見張るものだ。
水の扱いも他のSFには見られないダイナミックで繊細な表情豊かな表現に驚かされる。

だが、これ程、表現技術とストーリー~内容・本が乖離したものも珍しい。
よくこんな映画作りに、そのスタッフたちが協力したものだ、、、。
はなしは、全く持って他愛もないと言うより、気分が悪くなるような筋書きなのだ。
有り触れても既視感すらもないくらい、陳腐で愚劣で趣味の悪い内容であった。
確かにチープでステレオタイプなシーンも寄せ集められてはいる。
(各国首脳のニュース演説をだしてみたり、やたらと演出面でも風呂敷を広げて大作めいた体裁にしようとする)。

コミカル青春ラブストーリーに徹すれば、このVFXなので奇想天外なギャグ映画として楽しめるはずだが、妙にシリアスな問題に能天気に関わってみたりする。永遠の命より愛を選ぶとか何とか、、、ギャグに昇華しないとどうなるのか?

ヒロインが何と言っても異様だ。どういう精神構造なのか分からないが、ひとりで何か勝手に納得して悦に入っている。
何か認識を得たようなのだが。
それで彼女が充足したのはよいが、こっちは置いてけぼりなのだ(と言うより最初からついてゆけないのだが)。
一体どういうつもりだ。

ここに決定的なのは、一人のブロムカンプがいないということだ。
それが決定的なのだ。
タルコフスキーはわたしの勝手な思い過ごし(思い入れ)であり、先に挙げた作家も別に関係ないと言えばそれまでだが。
決定的欠如があった。
決定的欠如の上に成り立ってしまった(製作してしまった)映画である。

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ロシア藝術(文学)と「第9地区」の幻想に躓いた。
民衆は、これ程軽いのだ。みんなゴロツキ。異星人もゴロツキ(爆。
映画の登場人物のだれひとり共感できる者はいないし、ご都合主義と言うよりあり得ない話の運びだ。
流れは変だし、キャラクターの設定がどれも異星人みたいで、そもそも何で異星人が普通のロシア人なのか?
ゴダールの「アルファヴァル」みたいな映画であれば、自然に観れるのだが、これには説明が欲しい。
よく謂われる、低い文明にむやみに高い文明が接触するとその文明を破壊してしまう為、極力違和感のない姿で現れたとかいうものか。
自分の宇宙船のなかでは、元の姿に戻ってもよいのではないか、、、と思うのだが。

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この高い文明社会から来たロシア人異星人も結局何しに地球近傍までわざわざやって来たのか分からないし、、、。
一体どういう監督なのか、、、。
それが最大の疑問となってきた。

VFXだけ途轍もない、空っぽ能天気映画という以外に評し様もないものに時間を費やしてしまった。
勿論、体調が上向きになるはずもない。
もう、、、明日から養生しないと、、、。


これからは、ロシア映画には警戒したい。

モーガン プロトタイプL-9

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Morgan
2016年
アメリカ・イギリス

ルーク・スコット監督
セス・オーウェン脚本

マックス・リヒター音楽
マーク・パッテン撮影

ケイト・マーラ 、、、リー・ウェザーズ(危機管理コンサルタント、L4)
アニヤ・テイラー=ジョイ 、、、モーガン(モーガンプロジェクトL9)
トビー・ジョーンズ 、、、サイモン・ジーグラー博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)
ローズ・レスリー 、、、エイミー・メンサー博士(モーガンが最も慕う博士)
ボイド・ホルブルック 、、、スキップ・ヴロンスキー(調理人)
ミシェル・ヨー 、、、ルイ・チェン博士(モーガンの生みの親)
ジェニファー・ジェイソン・リー 、、、キャシー・グリーフ博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)
ポール・ジアマッティ 、、、アラン・シャピロ博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)


ルーク・スコット監督、リドリー・スコットの息子とは、まいった。
監督ファミリーだな、、、。
トニー・スコット(『デジャヴ』、『エネミー・オブ・アメリカ』、「トップガン」が一番有名か?)は弟だし、長女や長男も監督のはず。ルークは次男となる。


流石に映像には父親譲りの澄み切った「レンブラント光線」が射し込む(決して親の七光りではない)。森に射す光が一際、幻想的で綺麗であった。
これはリドリー家の血筋だ。
内容的には、、、
どこか、、、そうテーマ的に『エクス・マキナ』に近いものがある。
ヘンデルの「なつかしき木陰よ」が映像の雰囲気にピッタリ合っていた。

「あなたは本当の自分になろうとしている。」「それは一番大切なこと。」(エイミー)
そうした感情を「兵器」に持たせるとどうなるのか、、、。
周りの研究開発者(保護者)たちは、モーガンをかなり過保護に(腫れ物に触るように)育てていた。
ジーグラー博士をはじめ、最高の研究の成果=作品として彼女を誇りにして大切に扱う面が主調であるが。
エイミーはそのなかではもっともモーガンの精神に直截触れる関係をもっていた。

”L-4”はすでに兵器として完成されている。
”L-9”は、その上に感情を育ませるとどうなるのか、という実験であろうか、、、それとも現場の博士たちの暴走なのか。
遺伝子操作とは、このように結果が総体として発現されるか分からない面は大きいはず。

シンセクト社の研究施設で極秘裏に開発されたハイブリッド新生命体とは。わたしは人間そっくりのAIなど絶対に生まれることはないと確信しているが、遺伝子操作で超人的な新人類が作られる可能性は否定できないと思う(レプリカントを想起しないわけにはゆかないが)。
モーガンプロジェクトから生まれたL-9をアニヤ・テイラー=ジョイ。『ウィッチ』、『スプリット』、ここでも役柄を完璧に熟している。
L-4を『オデッセイ』のケイト・マーラ。驚異的に知的でクールでタフなのは何故かが最後に分かる、、、いや、終盤にははっきりしてしまうが。

「外の自由」に触れて、自分の外部に憧れる。
「わたしはわたし以外の者にはなれない」と悲観していたモーガンであったが。
最後はエイミーの語っていた湖に見入って、そこに天国を観て感動する。
危険極まりない純粋さで。

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彼女の商品化が妥当かどうかを評価する心理テストで追い込まれたモーガンは暴走する。
それを制止するために麻酔で一端眠らせるが、大きな外傷を受けていた。
ともだちだと信じていた者たちに裏切られたという。

人は究極的な自己存在証明として、人を作りたい~造物主となりたいようだ。
しかし、作られた者は人に対する畏怖や畏敬の念などもたない。
それは、人が神に対して抱くようなこころがそれには備わっていないというより、人が神のように不在ではないからである。
不死(よって誕生もない)ではなく身近にあって生活し衰えてゆく者に対し、如何なる神秘性も神話性も生じようがない。
しかも自分より(多くの場合)遥かに脆弱な生き物に過ぎないのだ。

さらにモーガン(の心)が5歳相当ということもあるのか、、、比喩が理解できない。攻撃性の抑制が効かず衝動的。感情が適切な(人間の規範に則った)行動に結びつかない。しかしそれまでは、反省の感情が生じるべき時に沸いては来たが、(とは言え、それを行動の「ミス」と捉えるレベルで)、、覚醒後の感情の変化は大きい。まさにバーストしている。完全に(ある意味、感情の爆発とともに自分を解放し)タガが外れ、エイミー以外の人間は彼女にとって無価値となった。
元々自分は人間ではない、他の何者かだ、という認識ははっきり持っている彼女であるが、片っ端仲間を平然と惨殺し、エイミーと共に湖~天国に逃避行するも、憩う間も無く追い詰められる。

森のなかで神秘的な湖の水面に、初めて見たかのように自らの顔に眺め入る。
彼女は人間とは決別し、新たな自分になる晴れやかな感情に静かに包まれた。
だがそれも束の間、ウェザーズがターミネーターみたい銃声を森に響き渡らせ迫って来るのだった。

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かなり過激な人間離れしたバトルがモーガンとウェザーズとの間に繰り広げられる。
ウェザーズの驚異的な回復力というか蘇生力が不気味この上ない。
ウェザーズが何者であるかも明白になり、怪しいとは思っていたが改めてショックを受ける(笑。


最後の光景はショッキングで余りに虚しいものである。
ここで終わってしまうのか、、、と思うとやりきれないものだ。
わたしは、モーガンが蘇生すると想っていたのだが、、、(ウェザーズを見ても)どうなのだろう?
ウェザーズに水に沈められたときにモーガンが何やら語っていたように見えたが。
そして、冷酷非情な任務に忠実な機械であるウェザーズも、そう単純ではなく、ひとつ魂胆~野望があるように窺えるのだが。
「わたしに仕事をさせなさい」と言って任務を遂行する姿からはそれだけの生物兵器にも受け取れるが、最後の様子からして、単なる最強の危機管理コンサルタントで満ち足りているようには見えないのだが、、、ただの思い込みか?

続編はあるのか、、、なさそうな気はするが、、、あって欲しい。


(人間的な)感情と思考のありよう(感情のない思考が可能かどうかはともかく)を巡る物語でもあったが、この映画に感情を揺すぶられるところがなかったのが不思議に感じる。
ブレードランナー」のような感動が何故ないのか、暫く間を置いて考えてみたい。
(単にわたしの体調の問題か)。

新しさはないが、テーマは深く(普遍性があり)、突き詰めればかなりの作品になったはずだが。
アニヤ・テイラー=ジョイは、やはり凄い女優であった。
この役でまた観たい。

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太陽

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The Sun/Солнце
ロシア・イタリア・フランス・スイス
2006年

アレクサンドル・ソクーロフ監督
ユーリ・アラボフ脚本

イッセー尾形、、、昭和天皇
ロバート・ドーソン、、、ダグラス・マッカーサー(連合国軍最高司令官)
佐野史郎、、、藤田尚徳(侍従長)
桃井かおり、、、香淳皇后
つじしんめい、、、老僕


第二次世界大戦の終戦直前の昭和天皇の内面を綴る物語。
コミカルでシニカルでリリカルなとても美しい映像で描かれる。

淡々とまるで昭和天皇のドキュメンタリーいや日常の一コマを切り取るような自然な居心地の悪さが静かに味わえる。
乾いてヒリツク感覚が生々しく再現される。
この感覚~描写の地平は、戦争とか天皇とかいう特殊な場所(場)ではなく、ありふれた他の何事か~誰かであってもきっと切り取れるものだ。
記録(日記)に触れるような共感の出来る映画であった。

このロシア監督とこの役者でなければ、生まれなかったある意味、奇跡的な逸品だろう。
御前会議の様子。ヘイケガニの研究での安らぎのひと時。チョコレートを巡る侍従とのとぼけたやり取り。米軍兵にスナップを撮られ「チャーリー」と囃し立てられる様子。家族のアルバムと共に、海外の映画俳優のプロマイド写真を眺めて物思いに耽り、うっとりする姿。マッカーサーとの探り合いとかけひきの会話(彼が決断の場にいなかったことを悟るマッカーサー)。
天皇の悪夢。このシーンのVFXには驚いた。こんなに生々しい悪夢の映像は見たことがない。海洋生物の研究者である天皇ならではの夢である。(魚が空を舞って、燃え爛れた地上を爆撃して行く)。悪夢までリアルに切り取った生々しさだ。


途轍もなく大きな荷を背負い、葛藤し悪夢に悩まされもする真摯で知的な人間性が露わになる。
彼は現人神から人間になることを決断する。
そしてマッカーサーに対し、終戦に当たっての自らの決意を表明する。
これも淡々と。
イッセー尾形が見事に昭和天皇であった。


どうやらこの時期、昭和天皇は宮城地下に設けられた防空壕に皇室の誰とも離れ(他の方々は別の場所に疎開し)限られた侍従たちと共に孤独に暮らしていたようだ。
終戦も決まり、天皇の元に香淳皇后がみえ、二人の暫しのやり取りが何ともぎこちなく微笑ましいものであった、、、。
二人で「あっそう」と言い合っているのには笑える。
皇后もそうだったとは知らなかった。


最後に「人間宣言」の録音を担当した者が自決したことを知らされ、それを止めもしなかった侍従長に対する香淳皇后の眼光が異様に鋭く映され、エンディングとなる。


時代も定かではないどこかの場所の寓話のようにも思える独特の映像美であった。













スプリット

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Split
2016年
アメリカ

M・ナイト・シャマラン監督・脚本

ジェームズ・マカヴォイ 、、、ケビンその他23人(解離性同一性障害)
アニヤ・テイラー=ジョイ (5歳の時:イジー・コッフィ)、、、ケイシー・クック(女子高生)
ベティ・バックリー 、、、Dr.カレン・フレッチャー(ケビンの先生、精神医学博士)
ジェシカ・スーラ 、、、マルシア(女子高生)
ヘイリー・ルー・リチャードソン 、、、クレア・ブノワ(女子高生)


この監督の映画は他に「サイン」「シックス・センス」「ヴィジット」は観ているが、あまりピンとこないものであった。それほど馴染みがない。


アニヤ・テイラー=ジョイが少し大人になって、孤独で影を宿したクールな女子高生になっている。
巻き添えとなりとんでもない相手に拉致されて、立ち向かうことになるが、、、。
(ケイシーは、障碍者であるケビンに性的な悪戯をした女子高生マルシアとクレアとたまたま一緒にいたことで攫われることとなる)。
相手とは24の人格をもつ、 解離性同一性障害の男なのだ。
人格と謂っても性格~価値観・精神的な差異に留まらず、身体性も大きく変容する。
(一人だけインシュリン注射の必要な人格や、コレステロール値の高い人格もおり、体力・身体能力も大きく違う。性差も勿論)。
文字通り24人の老若男女を相手に闘うことと変わらない。9歳の少年も出てくる。
その少年パーソナリティは、危うくケイシーに騙され操られそうになる。
だが、他の人格が黙ってはいない。
皆、椅子に座って出番を待っているが、照明が当たるとその人格が断ち現れる、という具合のようだ。
(とは言え、映画では24人全員出てはこない。役者も訳が分からなくなるだろうし(笑)。

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ジェームズ・マカヴォイ役者冥利に尽きる役柄であったろう。
ここぞとばかりに芸達者を披露できる。
それぞれはっきりメリハリをつけて各人格を描いていたが、こちらは誰が誰だか追いきれない(爆。

ともかく、最初のパーソナリティであるケヴィンを守る為に、次々に新たな人格が生まれて来たようだ。
母親からの虐待に耐えきれない彼が、ある時点でこれは僕の事ではないと感情や記憶を切り離してしまった。
それらが成長して幾つかの異なる人格として立ち現れてくる。
それぞれの人格には優劣があり、強い人格に他のすべてが吸収されてしまうこともある。
「アイデンティティ」は、そうであった)。

この幼年期からの苦境は、ケイシー・クックが叔父から受けた虐待によるトラウマに深く悩んできた状況に近い。
だが、彼女は特定の人格を保持し、アウトサイダーではあるが自分を癒しながら普通の日常生活の範囲に留まって来た。

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ケビン(たち)を担当しているフレッチャー博士は、彼(ら)を解放しようとしつつも、負の側面よりその超能力とも呼びたい多様な身体性の変貌ぶりに驚愕し研究心にも火がついている。
学会でも発表するが、その現実が今一つ専門家にも受け容れられない。
彼女は解離性同一性障害の解釈を拡張するというより、そこに人間の新たな可能性を見ようとしているようなのだ。
その革新性について行ける人がいない。
その為、自身も孤独であり、彼女はその分とても丁寧に細やかにケビン(たち)に接してゆく。

しかし、囚われた3人の女子高生たちもしぶとく脱走を何度も試みる。
特にケイシーにおいては、何でわたしが、、、である。
この極限状況にあって、幼い頃の森での猟のことやショットガンの扱い、美しい思い出を侵食するように忌わしい叔父の性的暴力のシーンがフラッシュバックする。
彼女はその叔父の元に父の死後引き取られ、家出や問題行動等を繰り返していた。

ケビン(たち)の中に、不安定になり現状を博士にそれとなくメール等で知らせようとする者もおり、彼女も彼らの異変に気付く。
彼らの元に赴き実際に少女の拉致の現場を発見する。
そして想像で作り上げたと信じていた「ビースト」という凶暴な存在が彼らにやってくることを知る。

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23の人格が畏怖する人格である「ビースト」が終盤満を持して具現化し、彼女らの眼前に立ち塞がる。
それまでの人格は皆、堕落した女子高生に報復はしようとするが、暴力は極力控えようとしていたが、ビーストは躊躇いもなく殺す。
それまで彼らの側で必死に理解しようとしてきたフレッチャー博士も殺害してしまう。

だが、ビーストは、追い詰めたケイシーの体の虐待の傷跡を見て、彼女を称えて去って行く。
自らと同じ人種であることを察知したのだ。
ビースト人格は、ショットガンを至近距離から二発食らった後、鉄格子を捻じ曲げるくらい元気でいる。
もはや彼に至っては、超人レベルである。(それに殺された博士は本当に皮肉な運命であった)。
彼がわれわれの存在を世に知らしめる、と爪を研ぐ場面で終わる。


最後にブルース・ウィリスやサミュエル・L・ジャクソンもちょこっと出て来た、、、。
ストーリーから謂っても、明らかに続編へと繋げるエンディングである。
これだけ気を持たせて続編が流れてしまったら苦情がどれだけ集まることか、、、。

取り敢えず、次も出たら観る。
アニヤ・テイラー=ジョイは完全に大人の女優として真価を問われるところでもあろう。

この映画もジェームズ・マカヴォイと彼女の存在感が支える部分が大きかった。






たかが世界の終わり

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JUSTE LA FIN DU MONDE
2016年
フランス

グザヴィエ・ドラン監督・脚本
ジャン=リュック・ラガルス原作

ギャスパー・ウリエル 、、、ルイ(余命いくばくもない劇作家)
レア・セドゥ 、、、シュザンヌ(ルイの妹)
マリオン・コティヤール 、、、カトリーヌ(ルイの義姉)
ヴァンサン・カッセル 、、、アントワーヌ(ルイの兄)
ナタリー・バイ 、、、マルティーヌ(ルイの母)


家族である。
これが家族というものだ。
勿論、一家団欒の和気あいあいの家族を常に過ごしている家もあろうが、、、
家族というものの危うさの本質が見える。

JUSTE LA FIN DU MONDE002

12年ぶりに作家のルイは、家族に自らの死を告げに戻って来るが、ついにそれを切り出せずに立ち去って行く物語である。
確かにあれでは、自分の話などする余地もない。

とってもよく分かる。
アントワーヌが良い味出しているが、他の面々も自分のことを気ままに喋るだけで基本は変わらない。
ルイを見て彼の話に耳を傾けようとはだれもしない。

しかし元々人は自分の事にしか関心はないのだ。
ルイにしても家族の事を多少でも気にかけてきたものか、、、。
恐らくアントワーヌに(本人が言うように)は興味など微塵もないだろう。
結局、自分がすぐ死ぬという事、その恐怖と不安を誰かと共有したい漠然とした気持ちを元に戻って来た(辿って来た)だけではないか。
藁をも掴む気持ちで。

シュザンヌにしてもルイが家を出た頃の記憶もほとんどない、兄とは言え憧れの作家に接するような心境で話をするだけである。
母は愛情表現ととりとめのない話とに、得意な手料理を振舞うことでともかく自分の喜びを表したい一心だ。
ただ、初対面の義姉カトリーヌだけは、ルイに距離を取って、彼を冷静に見つめる姿勢がある。
とは言え、夫がやたらとエキサイトして喚きたて家族の場を台無しにするためそちらに気を向けざるを得ない。

JUSTE LA FIN DU MONDE003

勝手なお喋りが只管渦巻くが、肝心の話はしないし、させない。
自己幻想でも共同幻想でもない幻想領域~磁場にいることははっきりしている。
しかしルイは家族とは言え、他者のようによそよそしくこの場に侵入~帰還してきていることで兄は本能的に過剰な拒絶~防衛反応を示す。彼はルイがある意味、今ある家族を解体しかねない危険性を感じ取っている。
ルイが知的階級に属し気取っている(そして兄を馬鹿にしている)というのではなく、家族~対幻想の領域に浸かってはいない。
彼は自己幻想のなかに留まり続けている。
「自分の死」のみが気がかりなのだ。
まさに実存の不安と危機で一杯なのであって、この場に他者を気に掛ける余裕はない。
全員そうである。


基本的に家族~家庭というものは、誰にとっても居場所などなく、誰もが出てゆきたいと思いつつ(願いつつ)生理的に反発し合い反目しながらも、一緒に居続けてしまう磁場なのだろう。
無論、対関係からしか生じ得ない幻想領域は存在しよう。
胎外胎生期から思春期までの保護育成と教育、峠の我が家的な機能は度合いの差はあっても認められるが。
ルイは何も気持ちを告げられず、出て行くしかない。
本質的に、そういう場でもある。
アントワーヌの切れようが実に雄弁に語っている(あの車の中で捲し立てるシーン)。

JUSTE LA FIN DU MONDE004

違う角度からコミカルに模型的に家族を表したものに「家族ゲーム」がある。
わたしは、ギャスパー・ウリエルより松田優作の方が面白い(笑。
重い映画であった。
まだ体力的にキツイ。
明日はもっとお気楽な映画を観たい、というかそういうものしか観れない。


マリオン・コティヤールの『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』を観たくなった。
(以前から気になっていたのだがまだ観ていない)。







ウィッチ

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The Witch / The VVitch: A New-England Folktale
2015年
アメリカ、カナダ

ロバート・エガース監督・脚本
マーク・コーヴェン音楽

アニヤ・テイラー=ジョイ 、、、トマシン(長女、初潮を迎えたばかりの少女)
ラルフ・アイネソン 、、、ウィリアム(父)
ケイト・ディッキー 、、、ケイト(母)
ハーヴィー・スクリムショウ 、、、ケイレブ(長男、トマシンの弟)
エリー・グレインジャー 、、、マーシー(双子の妹)
ルーカス・ドーソン 、、、ジョナス(双子の弟)


17世紀のニューイングランド。
街の共同体からはじき出され森の中で自給自足生活をする息が詰まるような厳格なキリスト教徒の家族。
父親は福音派の(過激な)原理主義者か。非常に頑なである。
罪を告白ばかりして過ごしている。
その罪が原罪に根差すものであるから、もう原理的にどうにもならない。
そして何か不幸なことがあると、内省はせず悪魔のせいにする。
全て無意識に外部に投影してしまう。
(娘に投影し、「お前は悪魔と契約したのか」と真面目に聞く。しかし娘の声には真面目に耳を貸さない)。
それ(罪と悪魔のイメージ)に怯える大変暗い家族である。

しかしその幻想が尋常ではない強度をもつ。狂気をもつ。

そう言えば、「セイラム魔女裁判」は17世紀だったか、、、。
所謂、宗教過激主義の結果の集団ヒステリーである。
「魔女」として闇雲に告発し合って処刑されてゆくのだから、陰惨極まりない状況だ。
まだゾンビがうようよいる世界の方が牧歌的だろう。
一神教の狂気の側面か。


一家の赤ちゃんがトマシンが子守をしている最中に消えていなくなってしまう。
「居ない居ないばあ」をしている合間に、煙のように消えて居なくなった。
あり得ないマジックである。

それから家族はオオカミのせいに表向きはしていても、内心トマシンを疑っている。
トマシンも一番下の弟を自分が世話をしている時に失ったにも関わらず、何故かあっけらかんとしている。
意地の悪い双子が悪魔扱いをしてくると、それに悪乗りして見せたりもする。
双子も殊の外、悪魔に興味を持ち、何かと叫び声が耳に障り、黒山羊と話をしていたりする不気味さが目立つ。

人里離れた小さく不便な閉塞環境に暮らしていることによるストレスも溜まって来て諍いも絶えなくなる。
食料もままならない。トマシンとケイレブの性の意識も芽生えてくる。父の厳格な宗教性。特に罪の意識と悪魔(罰)への怖れ。
潔癖で神経質な母親のケイトはしきりに故郷に帰りたがる。
そしてその不満と不幸の原因をトマシンに向けるようになる。
父親が彼女を庇うと、余計に母はヒステリックになる。

The Witch002


だが、厄介者のトマシンを街に奉公に出す~一家から排除する計画を立てている両親の話を夜こっそり長女と長男で聞いてしまう。
ケイレブはトマシンを何とか守ろうという事で(姉は儚い性の対象にもなっており)馬で深夜抜け出る。
どういう心積りで何をしに行くのかは明かされないが、ケイレブも同伴して深い森に入って行く。

しかしケイレブは艶めかしい魔女に捕まってしまう、、、。
どうにか帰って来れたのはトマシンだけであった。
それが何であるのか、微妙な(極めて性的な)イメージである。

ただ確かなことは、ケイレブも犬も馬も一家からいなくなってしまった。
今度は家の頼みの綱が失踪である。トマシンと一緒だった子供がまたいなくなったのだ。
この後の彼女の境遇は、容易に想像がつく。

その後、トマシンが嵐の夜ヤギの世話をしに出た時に、ケイレブが裸で這う這うの体で家まで辿り着く。
彼女は驚き介抱するも、この事態に母と父そして双子があからさまにトマシンを魔女だと責め立てる。
父ははっきり彼女を魔女であると告発する意思を表明する。
母は激しく彼女を罵り、双子も揃って攻撃する。
(母はトマシンが性的に悪魔的に弟と父を誘惑したと憎しみをぶつける)。

一番の見所がこのケイレブの死に様であろう。
法悦の中で彼は饒舌に神を称えて息を引き取るのだ。
口からはリンゴが零れ出て。
このシーンは斬新で極めて印象に残る。
トマシンが魔女だと決定されるところでもある。

The Witch003


そこから一家は一挙に崩壊してゆく。
ちょっとエイリアンみたいなショッキングなイメージが続く。
(悪魔の魅せ方が、絶妙なのだ。その在り様がどうとでも取れるところが不安度と恐怖心を煽る)。
そして父も母も双子もみんな無残に死ぬ。
(父は黒山羊の角で刺し殺され、母はトマシンを絞殺しようとして返り討ちに逢い、双子はどう死んだか忘れた)。
父は最期に信仰に疑いを持って唖然として死ぬ。


キャストは皆、申し分のない好演であった。双子は癪に障るが。

また最後が素晴らしい。
トマシンが黒山羊に話しかけると彼はしっかり応えるのだ。
そして「おまえに、、、世界を見せてやろう」と。
彼女は裸になって契約書にサインをする。
森に導かれてゆくとその先には炎の周りで呪文を唱える魔女たちの集いがあった。

やがて皆、恍惚となって宙に浮かんでゆくのだ。
タルコフスキーの趣も感じる。
それを見たトマシンも悦びの内に宙を漂ってゆく、、、。

The Witch004


宗教からの解放か。
音楽(エンディング)もピッタリなものであった。
さほど製作費がかけられているように見えない映画であるが、ずば抜けた完成度である。
久しぶりに凄いものを見た。






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ディストピア パンドラの少女

The Girl with All the Gifts

The Girl with All the Gifts
2016年
イギリス、アメリカ
コーム・マッカーシー監督
マイク・ケアリー原作・脚本
クリストバル・タピア・デ・ヴィーア音楽

セニア・ナニュア 、、、メラニー(パンデミックセカンドチルドレン)
ジェマ・アータートン 、、、ヘレン・ジャスティノー(教育者)
パディ・コンシダイン 、、、エディ・パークス軍曹(ジャスティノー先生を守ろうとする)
グレン・クローズ 、、、キャロライン・コールドウェル博士(人類を救うワクチンの開発を使命と信ずる)


パンデミックから『ハングリーズ』(ゾンビ)とハイブリッド新世代による世界の幕開けを描く。
わたしはゾンビ(映画を含め)には全く興味がないが、このセカンドチルドレンがどのような方向に進むのかには興味を感じて最後まで観た。このゾンビ化は真菌によるものであるという。
導入部分の椅子に拘束された物々しい環境での子どもたちの教育環境から、なかなか惹きつける映像ではあった。
だんだん尻つぼみの感は拭えないが。

「選ばれし者」

全世界的規模の強力な真菌感染により人が捕食本能だけで生きるハングリーズと化し社会は壊滅状況を呈す。
(われわれも真菌の感染は日常的にあることで、免疫力によって防御して発症を抑えている)。
ハングリーズとは、謂わばゾンビである。実質、人としては死んでおり、内的な生活などない。
しかしハングリーズの第二世代(子供)は、思考力を備えており、人間(軍)に拘束され監禁されていた。
どうやら厳重な監視下で教育を受けつつ実験材料として管理されているみたいである。
彼らは、油断すると人を捕食してしまう危険性をもっているため恐れられている。
その中でも能力優秀と目されるメラニーは、捕食欲求をうまくコントロールすることも出来た。
(コールドウェル博士から「シュレディンガーの猫」の問題なども出されていた)。
そしてジャスティノー教官をとても慕っており、教官も殊の外メラニーに情をかけている。

人類がとても小さく描かれているが、もうかなり先細りした末のことだろう。
ネットワークも覚束ない小集団に散在しているようで、荒涼とした終末観に充ちている。
統制も何もないところで、登場人物たちは基地をハングリーズに襲撃され、命からがら本部に到達しようとするのだが。
一行の中でハングリーズから攻撃を受ける心配のないメラニーが一番頼りになるというのも皮肉である。
人のとる行動の愚かさもあちこちに目立つ分。

The Girl with All the Gifts003

このハングリーズの特徴は、普段は置き物みたいにじっと外に立っていて全く自ら動くことはしない。
音と匂いに反応し、獲物に対しては激走して襲いかかる(だがどんな音に対してもではないみたいだ)。
噛まれた人間はたちどころにハングリーズになってしまう(これはゾンビモノの鉄則らしい)。
メリハリが激しい。というより単なる捕食〜感染機械だ。
クリームをちょっと塗ると匂いが消えて安全というが、、、間近をすり抜けて突破するスリルはなかなか。
謎の真菌によってゾンビ化するのだが、セカンドチルドレンはその真菌と共生してハイブリッド化を遂げている。

とはいえ第二世代の子どもたちは、原始時代の人類といった風情で狩りをして常に活発に動き回っている。
知能は感じるが、言語も内面もなく野生状態の危険極まりないゾンビと人類のハイブリッド生物である。
飼いならされていない凶暴な猿以外のものではない。
主人公の優秀なメラニーも腹を空かすと猫や鳥を捕らえて喰ってしまう。
猫が好きでポスター等飾っているが、そいうい意味で好きであったようだ。

累々と横たわるゾンビの死体から生えた真糸が無数に絡まり莢を形成し、高い塔を覆い尽くしていた。
コールドウェル博士によるとそれは彼らの第三段階で、熱などで莢が割れると胞子が飛び散り人類は壊滅するしかないという。

The Girl with All the Gifts002

終盤、彼らは食料の備蓄も充分なソーラ発電の設備の完備された移動式軍用ラボに辿り着く。
そこで、ここぞとばかりにコールドウェル博士がメラニーの脳と脊髄からワクチンを作ろうとする。
博士も噛まれた痕が悪化しもう余命は残り少なかった。
自分の使命を果たそうと実力行使に出るが、メラニーは人類のために犠牲になる意思はない。
さっさと逃げてゆく。

自分を切り刻んで人類を救うワクチンを作ろうとする博士に反旗を翻し、彼女はハイブリッド第二世代による世界を選択する意思を固めた。
先ほどの菌糸の塔に火をつけ燃やしてしまうのだ。
それで「パンドラ」の箱を開けてしまったというわけ?
莢は割れ人類の壊滅は決定的となる。

結局、選ばれし少女が人類を見限って、新たな世代による世界を作るという話。
しかし文明的な後退は凄まじいものだ。
全員基本ハングリーズになってしまって存続できるのか?
何を喰うのか?厄災は人類だけのものか。
到底人類よりマシな新人類の社会が生まれるとはとても思えない。
後から来たものがより優れているとは限らないのだ。

最後、ラボで保護されひとり生き残ったジャスティノー先生が、保護シールド越しに外のセカンドチルドレンに授業をするところで終わる。メラニーが皆を脅して授業を静かに受けさせている。
こんなことがどれだけ続くものでもない。先生もあと僅かでおしまいだろう。
食料も水もすべてが尽きる。
先生も人類よりメラニーを選択したのだ。


音楽はよくシーンに溶け込んでいた。






旅情

Summertime001.png

Summertime
1955年
イギリス・アメリカ

デヴィッド・リーン監督・脚本
H・E・ベイツ脚本
アーサー・ローレンツ原作
ジャック・ヒルドヤード撮影
アレッサンドロ・チコニーニ音楽

キャサリン・ヘプバーン、、、ジェーン・ハドソン
ロッサノ・ブラッツィ、、、レナード・デ・ロッシ


何故か観てみた。
デヴィッド・リーン監督である、、、
戦場にかける橋」” The Bridge on the River Kwai” (1957)、「アラビアのロレンス」” Lawrence of Arabia (1962)”、
ドクトル・ジバゴ」” Doctor Zhivago (1965)”はどれもわたしにとって特別印象に残る映画である。
「アラビアのロレンス」には取り分け大きな衝撃と影響を受けた。
しかし、この映画はわたしの管轄外のものか、、、。
恋愛ものには疎いのだが、「旅情」という邦題は良いと思う。


ここは、ヴェネツィアである。
何と謂っても、ヴェネツィアである。
どこもかしこも「絵」ではないか、、、しかしこういうところに行くと孤独は更に純化しないか。

そろそろ世界旅行にでも行きたいな、と思う今日この頃。
こういう映画を見ながら、映画のストーリーとはほとんど関係ない夢想に沈んでしまう。
ヨーロッパ旅行と言えばジェーンも乗って来た汽車「オリエント急行」である。
それがまたノスタルジックでよい。
この汽車が、最初と最後の幕のように現れる。

例の、映画の「オリエント急行殺人事件」もつい想いうかべてしまう。
ストーリーではなく、風景~場所を、、、。
1955年の(ラブロマンス)映画にまたそれを見出す必要もなかろうが、、、やはり「絵」である。

ヴェネツィアに長期休暇を採ってやって来たジェーン。
表面的には明るく快活で、カメラ片手にあちこちを撮って周るよくいる旅行者。
あまり海外旅行に慣れている感じはしない。アメリカでは秘書をしているという。
汽車から船に乗り換え、水路を渡り宿をとっている「ペンシオーネ」へ。
警戒心が強く、孤独の陰りを湛えるジェーン。
何かを求めてやって来たようではあるが、時折諦観漂わせる表情がとても淋し気である。
ともかく、”独り”らしい。

「サン・マルコ広場」で、ふと或るイタリア人男性を強く意識する。
こんな広場ならきっと感受性も研ぎ澄まされるはず。
自分の気持ちに対しうろたえ、挙動がぎこちないジェーン。
どういう境遇でどんな人生を生きて来たのかは一切明かされないが、何となくひととなりの分かるところだ。

Summertime003.jpg


恋は突然やって来た。
いつでも恋は一瞬に落ちる(本来恋はそういうものだろう)。
もう、この時点でこの主役二人のラブロマンスであることが分かる。いやメロドラマか。
後はどんな風に予定調和に向けて、すれ違いや偶然や誤解など適度な困難を経てクライマックスに持ち込み、最後は情感たっぷりの別れ?に持ってゆくか、ことの成り行きを愉しむという感じとなる。
ここではアメリカとイタリアとの恋愛文化の差異もドラマの鍵として作用するか。
ビーフステーキとラビオリ、、、夢(理想)と現実であろうか。
ご都合主義的に現れる非現実なピエロ的な子役。
ベネチアングラスなどの小物も巧みに使われ、、、。
ロッシーニがカフェで高く鳴り響く。
ともかく波乱万丈の末、分かり合う、または心を分かち合う。そこがハリウッドだ。
ハッピーエンドかどうかは、、、終盤には察しが付くこと。


色々あって(書くのもメンドクサイので割愛するが)両者の恋心は燃え上がるも、結ばれない運命と悟り、ジェーンは突然別れを告げて汽車に乗る。大体思っていた通りに来る(笑。
最後に追いかけるイタリア人レナード。
デートの想い出の白い花(くちなしの花)をもって走るが、もう少しのところで手渡せない、、、。
一回目は手渡すも、夜の河の流れに落ちてしまった。
その花は、決してジェーンの手元には残らない運命であるかのよう。
ただ手を振るジェーン。
大きく振るジェーン。
(あんなに身を乗り出して手を振ってどこかにぶつからないか心配してしまうが)。

「初めて来た時の事を想い出している、、、」
「初めて逢った日の事を、、、」
「すべて覚えていたい。」
「どの瞬間も。」
「絶対に忘れない!」
こう言って、別れを切り出すところには、流石にグッときた。

これなのだ、、、

Summertime002.jpg


だが、綺麗な別れだ。







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地下室のメロディ

Mélodie en sous-sol001

Mélodie en sous-sol
1963年
フランス

アンリ・ヴェルヌイユ 監督・脚本
ミッシェル・オーディアール、アルベール・シモナン脚本
ミシェル・マーニュ 音楽


アラン・ドロン、、、フランシス・ヴェルロット
ジャン・ギャバン、、、シャルル(見たまんま)
ヴィヴィアーヌ・ロマンス、、、ジネット(シャルルの妻)
カルラ・マルリエ、、、ブリジット(高級ホテルの踊り子、ヴェルロットの彼女)
モーリス・ビロー、、、ロイス(フランシスの義兄)

シトロエンが走って来るところを見ると、フランス映画だなあと、ちょっと安心する。
(どういう心理か?)


シャルルはムショを出たはよいが、自分の家を探すのに手子摺る。
何しろ街自体がすっかり様変わりしていたのだ。
自分の家のある「ゴーティエ(テオフィル・ゴーティエか?)通り」がなくなり、「アンリベルグソン通り」となっていた(笑。
(どういう意味合いなのか、、、緑が失せ、すっかりビル街となっていたようだが)。
ともかく取り残され感は半端ではないような。

シャルルは堅気の仕事などには全く興味はなく、性懲りもなく大きなヤマを狙うことしか頭にない。
(一度、その手で甘い蜜を吸うともう止められないものなのか?)
シャバに出たばかりなのに最期の大仕事に選んだのは、カンヌのカジノの地下金庫から10億フランを強奪すること。
相棒には獄中で知り合った若くて粗野で軽薄なフランシスを選ぶ。
ついでにフランシスの堅気の義兄も運転手として巻き込む。
大真面目な人なのに何故か二つ返事で話に乗るったのは、シャルルに誘われ問答無用という感じになったからか?

Mélodie en sous-sol004

このフランシスとシャルル、親子くらい歳は離れているが片や母から片や細君から「もういい加減普通に働いて」と謂われながらもその気は全く無しという点でそっくりである(これで両者のひととなりはよく分かる)。
ベテランと駆け出しのよいコンビであろうか。

そのフランシスが作戦決行に当たり、身分を偽装して名家の御曹司となり高級ホテルに暫く滞在して準備を進める。
その手配は全て抜かりなくシャルルが済ませる。彼の計画はずっとこれまでの経験も踏まえ温めて来たもので用意周到だ。
後はヴェルロットとなりすましたフランシスがどこまで期待通りにことを進めるかとなるが、ホテルに入ってからは、姿はほぼアランドロン化している(爆。ただし、「サムライ」のような品格はなく、差し詰めガサツな俄か成金といったところか、金を振りまいてホテルのカジノ(ダンスホール)裏に入れる客にまでは漕ぎつける。しかし彼女として利用したダンサーのブリジットには本気で恋心を抱く。プロとは言えまい。その上、品の悪さから捨てられている。

結局、遅れながらも(こちらをハラハラさせつづ)シャルルの言うとおりに動いて、強奪には成功を収める。
アクション~身のこなしは流石に鮮やかであり、ジャン・ギャバン~シャルルにはまさか、である。
特に通気口の中など入って進めるはずなく、無理に入っても重みで突き破って落下するのがオチだ。
分け前を渡さなくてはならないとは言え、身体能力の高い相棒と組んだのは正解ではあったのだが、、、。

何と翌朝の新聞にヴェルロットの写真が大々的に載っているではないか。
これに驚くシャルルは予定を変えて早め、現金の引き渡し場所を、ヴェルロットのホテルのプールにする。
(騒ぎをゆっくりかわした後で、現金を受け取る予定であったが)。
そこにはすでに警官たちがうようよしていた。

Mélodie en sous-sol003

プールを挟んで向かい合って身動きの取れないもどかしい二人。
緊張感はあるが、これはコメディか、とも受け取れる、その危うさも漂う。
そして、カジノのマネージャーが犯行時使われたバックの特徴をしっかり覚えていることを警察との会話で知るフランシス。
何とか足元の札の詰まったバックを彼らの視線から消したい一心で、バッグごとそっとプールに沈める。
それを新聞越しに注視していたシャルルの唖然とした表情。
おっちょこちょいのフランシスはどうやらバッグの口を閉じていなかった。
水の底に沈んでゆくバッグからプールの水面に夥しい札が浮かび上がって漂う。
二人はそれを力なく呆然と打ち眺めるだけであった、、、。


聞いたことのある音楽が鳴る。
ジャズもよくフィットしている。
この映画の曲だったのだ、、、。

Mélodie en sous-sol002

ジャン・ギャバンの面構えは、どこのギャング(ヤクザ)のボスと比べても見劣りはしなかった。


この噺、シンプルに無駄なくそぎ落とされて作られていることは分かるのだが、運転手をした良心の呵責に悩みだした義兄の流れとブリジットとヴェルロットとの確執の流れがクライマックスに絡まず、その前で切断されているのは惜しい気がする。それぞれの流れを全て最後に引き取る必然などないが、この二点は何らかの形で絡んでエンディングに収斂させても良かったと思う。

それから、あんな風に札を入れたバッグが水底に沈んでしまうものか、、、浮くように思うのだが。
(虚しさの表現~演出としては分かるが)。






ヒロシマモナムール 

HIROSHIMA, MON AMOUR003


イロシマモナムールか。「24時間の情事」でもある。
HIROSHIMA, MON AMOUR
1959年
フランス、日本

アラン・レネ 監督
マルグリット・デュラス 原作・脚本
ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー 音楽
サッシャ・ヴィエルニ、高橋通夫 撮影

エマニュエル・リヴァ 、、、女
岡田英次 、、、男
ベルナール・フレッソン 、、、ドイツ兵


モノローグ的な対話、、、「去年マリエンバートで」と同質の。
すれ違いながらも繋がる。いや繋がりながらも距離を確認する。
映像もやはり耽美的だ。
特に後半、ヒロシマとヌベールが交互に映し出されてゆくシーン。
原爆投下から13年後のヒロシマでのフランス女性と日本の男性との24時間の逢瀬。


女はパリ(その前はヌベール)からきた女優であり戦争映画をイロシマに撮りにやって来た。
男はヒロシマ原爆投下時には、戦地におり不在であったが家族は犠牲となる。

「癒されぬ記憶を持ちたかった」
「影と石の記憶を」
女がいう。
忘却を深く恐れながらも、恐れるがゆえに忘却を望む。

HIROSHIMA, MON AMOUR004


まさに24時間の情事のなかで、女は「わたしはイロシマの全てを見た」と言い、男は「いや君はヒロシマの何も見ていない」と完全に否定する。
「病院を見た」「資料館を見た」「この広場が太陽と同じ温度になった」痕跡を見た、と女は言う。
そしてわれわれは「映画を観た」(彼女は女優でイロシマに映画出演にやって来た)。

しかし、例えその現場~渦中にいても何を見たといえるのか?
ひとは限られたその場所で自分の知ることのみを知る。
いや、恐らくそれ以上の情報を浴びせられ何らかの衝撃~外傷を刻んだにせよ、それについては他者に伝えることばはあるまい。

前半は女が観たというものを男はことごとく否定する。
「よく眺めれば学べる」のか、、、。
確かに学べるだろう。
だが、知るとは何か?
ただ、原爆投下後、間も無く焦土から幾種類もの花が咲き始める。
「灰の中から蘇る生命が花にこそある」ことに驚くところは、わたしにとっても驚きであった、、、。
やはり、場所である、、、。

彼女は明日、撮影が終わり帰国するという。
一日限りの情事。行きずりの恋であるという。
今度は男が少しでも彼女の事を知りたくなる。
何も知らないのだ。
ならば、彼女の居た場所について知りたい。故郷ヌベールにいた当時の彼女を。

HIROSHIMA, MON AMOUR002


後半男はヌベールでの彼女の事を訊ねる。
そしてカフェで彼女はその壮絶な過去について男に打ち明ける。
彼女は故郷でドイツ軍兵士と恋に落ちるも、彼は殺され自分は地元民から制裁を受け髪を刈られ地下室に幽閉されたという。
父の薬屋もその為に閉めることになるが、終戦を境に地下から出ることが許され、その夜彼女は自転車でパリに向う。
パリで彼女はイロシマのことを知ることとなった。

男はその話から女を知ろうとするが、聞けば聞くほどイメージも結ばない。
そのため、彼はもどかしさと焦燥から彼女に纏わりついて離れない。
最初の頃に見せていた余裕の表情は消え失せている。
女は男が追いすがって来ても、身をかわし続ける。

女の何度も出入りするホテル。
夜のヒロシマの街が妙に艶めかしい。
「どおむ」看板、高級クラブ?のガラス張り天井、コンクリートの街並みの陰影と武骨ででかい外車にタクシー、、、。
ノスタルジックなのだが、この世に実際にあったところには想えない。
そんな場所で、男女の姿も一瞬の幻にも見えてくる。

Hiroshima Mon Amour001

最後、別れを前に、「場所」同士でお互いを呼び合う。
ヒロシマとヌベールの街が交錯する。
太田川とロアール川も、別々に流れる。
それぞれの猫。
この切り替えしは見事な絵である。

結局
ヒロシマ、、、何も知らない。
ヌベール、、、何も分からない。
忘却したい、、、出来ない。
忘れたくない、、、忘れるしかない
そして音楽~現代音楽がこの映像に時代を超絶した普遍性~永遠性を与えている。



冒頭の芸術的な絡みのアングルから始まる光景に暫くの間、わたしは女が独りでイロシマの幻想相手に~例えば資料館で観た兵士をサンプルにした像と~語り合っている(自問自答している)のかと思っていたのだが、最後もまたそんな孤絶した存在を感じた。

基本、モノローグなのである。

見る・知ることの不可能性いや不毛性をただ木霊のように問うている、、、。
そして「忘却」の恐怖を。






スイッチ・オフ

Into the Forest

Into the Forest
2017年
カナダ
パトリシア・ロゼマ 監督
『森へ 少女ネルの日記』ジーン・ヘグランド 原作


エレン・ペイジ、、、ネル(ネットで受講している学生)、製作
エヴァン・レイチェル・ウッド、、、エヴァ(ネルの姉、ダンサー志望)
マックス・ミンゲラ、、、イーライ(ネルのボーイフレンド)
カラム・キース・レニー、、、ロバート(姉妹の父)

邦題が紛らわしい。ちょっとサスペンス色を感じてしまう。
”Into the Forest”を描く映画であったはずだ。
製作の方針でこうなったか、映画自体も肝心な部分が伝えられていない。
最後に家を燃やす必然性があの流れでは理解は困難だ。
家が黴臭くて子供の成育に良くないとかいうレベルのはなしではなかろう。
大事な部分の描写が雑だ。または抜けている。


この姉妹は森に住んでいるが、基本わたしが普通(平地)の街に住んでいるのと変わらぬ生活を送っていた。
それが発電所のダウンで送電されなくなったことで、電気文明以前の生活に引き戻される。
(こういう事態に見舞われることは、自然災害を一度受ければ誰にも可能性はある)。
スマフォもTVもパソコン(ネットワーク)も全て不通となり、太陽光コンバータも注文したものが届かない。
最初の頃は、危機感も無く、姉妹共々、ダンスのレッスンや宿題や志望校のことで頭をなやましている。
ろうそくとメトロノームでダンスの練習をし本を読む生活が始まる。

すぐにガソリンの供給も無くなり、人心は乱れ、不安と緊張感が漂ってくる。
街に買い出しに行ってもモノはほとんどない状態になっていたが、ガソリンの目途も立たないため移動も実質不可能となる。
更に、ソーラー電池のラジオまで何も流れなくなる。
情報がどこからも入ってこない。
われわれにとって一番恐ろしいことだ。
新しい信頼のおける情報が入らず、噂話が蔓延って来る。
(実際、わたしの身近な環境においても情報は捻じ曲げられ改竄されて沈殿している)。
中央の情報が入らなくなるということは、すでに尋常ではない事態が起きていると受け取るしかあるまい。
これは完全に全体的な(少なくとも国単位の)崩壊を意味しないか。
その辺、その仄めかしも含めほとんど描写はないのだが。

然も、母に次いで父も亡くしてしまい、大きな後ろ盾が失せてしまう。
姉妹間では不安とストレスから諍いや亀裂が生じ、妹はガセネタを運んできたボーイフレンドと8か月かけてヒッチハイクで送電が回復したという東部に逃げることにする。
結局、離れてみて姉妹の絆を感じ取り、妹は姉独りで残る家に走って戻り、そこで共に暮らすことにする。
二人が同調して力を合わせ森での自給自足の厳しい暮らしが何とか軌道に乗ったかにみえた。

国や文明が崩壊しようが、生活は続く。
元々、この親娘、森に入って普通の生活を送っていたわけだが、いよいよ電気が断たれガソリン(移動手段)も無くなり、森の生活に深く溶け込むことを余儀なくされる。
車で街で買い出しに行っていた頃は、全く意識していなかった野草について研究を始める。
そもそもその環境にいて野草を利用しない手はあるまい。

そんな折に、ならず者に姉が暴行され妊娠までしてしまう。おまけに車まで盗まれる。
この辺からの緊張度はかなり高まってゆく。
「もう何も失いたくはない」と謂い、姉はその不義の子を産む決心を固める。
出産の危機もあり必要に迫られ、イノシシを狩って動物性のたんぱく質を摂る(特にB12)。
恐らく、全てはこういうものだと思う。
しかし大雨の続く中、家屋自体が徐々に倒壊する気配を見せていた。
こうなったときに、われわれにはどのような道が見出せるのか。


森へと、彼女らは完全に入って行くことを選択したのだ。




   



セールスマン

THE SALESMAN001

FORUSHANDE/THE SALESMAN
2016年
イラン・フランス合作
アスガー・ファルハディ 監督・脚本

シャハブ・ホセイニ、、、エマッド・エテサミ(国語教師、劇団員)
タラネ・アリシュスティ、、、ラナ・エテサミ(劇団員、エマッドの妻)
ババク・カリミ、、、ババク(エテサミ夫妻の友人、劇団員)
ファリド・サッジャディホセイニ、、、男(ラナを襲ったとされる)
ミナ・サダティ、、、サナム


如何にも市井の人々の日常感覚を描写しているというディテールと空気感のある稠密な映像であった。
しかし、全く読めないアラビア語や都市計画はどうなっているのかと思わせる唐突な人の住むマンション隣での倒壊工事などは新鮮な出だしでのっけから期待値を上げてくれる。
日常の中の非日常から始まるがこれが鍵でもある。
そして久々に重厚な(重層的な)リアリティ溢れる「映画」を観たという感覚に浸った。

タラネ・アリドゥスティは、ドナルド・トランプが発令したイスラム国家7ヵ国入国制限に抗議し、アカデミー賞授賞式へのボイコットを(トランプ流に)Twitterで表明した女優だ。なかなかやるなと思ったものだ。
映画でも意思は強いが深い思いを抱いた女性を好演している。
シャハブ・ホセイニは、その立場となった夫の生き様を少し武骨だが迫真の演技で描く。

「セールスマンの死」(アーサー・ミラー)の劇中劇(その練習風景と舞台裏も含み)と実際の彼らの生活がパラレルに展開する上手く計算された脚本だ。
主人公の夫妻は、劇団員でその舞台劇の主要演者であるとともに、夫は高校の国語教師であり、妻は劇団看板女優を務める。
相互浸透しながらに進むどちらの空間もお互いの感情・意思のズレてゆく様を微細に描き進み、その先に救いはない。


イランの人々の生活や老若男女の姿がわれわれとほとんど同じであることに少し拍子抜けはした。
舞台の都市が、テヘランであるからか。
もっと伝統的な習慣・因習など描かれてもよいと感じた。特に宗教的な、、、。
若者たちなど、アメリカや日本などよりは幾分か純朴で素直な気はしたが。

事件は本当に何気ない無意識的な行為~生活の隙に唐突に発生する非日常性とも謂える。
だから事件なのだが(トートロジックであるか、しかしつくづく)そういうものだと思う。
彼らが新たに借りたアパートの前の住人が娼婦であったことが、事件を呼び込むきっかけとなった。
二人は前の住人のことなど何も知らされていない。

夫の留守中に妻が浴室で何者かに襲われ重傷を受ける。幸い命には別状なくすぐに退院はした。
妻はドアベルを夫と勘違いして相手を確認せずに何気なく開けてしまったのだ。
そして、その時を境に、二人の日頃の些細なズレが大きな裂け目となり、その溝は拡がり深まってゆく。
平穏無事な時には露呈しないズレの連動が悲惨な場を(不可避的に)引き寄せてしまう。

妻にとっては、それはあくまでも精神的な傷であり、周囲には知られたくない(警察沙汰にはしたくない)事件であり、ひたすらその傷の癒しを求めようとする。
夫にとっては、あまりに不透明な(不信な)犯行と犯人への憎しみ(さらに自身のプライド)からも、真相を暴き白黒つけることに拘り続ける。
(近所の人間が倒れていた妻を発見したことから、すでに噂話は世間では勝手に広がっていてそれにも苛立つ)。

どちらもその立場から、理解できる心情だ。
かえって分かり過ぎる点が、こうした問題の普遍性を思い知るところか。
少なくとも現代の都市社会において、何処の国でもいつでも起こり得る光景なのだ。
ただ、「事件」が(恐らく些細な出来事であったとしても)起きることで、尋常でない後戻りの効かない事態に行き着く可能性が誰の身にも待ち受けていることの恐ろしさをここに実感する。


主人公の夫は、自らの手で手がかりを頼りに犯人を探り出す。
そして厳しく問い詰め、罪を贖いさせようとするのだが、、、。
善と悪~罪と罰、などでスッキリ仕切れるほど、世界は単純で浅はかなものではなかった。
(これは警察沙汰にしても変わらない事だ)。

妻と夫のその犯人に対する意志・心情は最後には大きく割れてしまった。
呼び出した病弱な初老の男をもう許し家に戻そうとする妻に対し夫は断固として決着を付けようとする。
その男は前の住人の家だと勘違いし浴室に入ってしまったことは確かなようであったが、そこで何があったかは未だに判然とはしない。何があったか、実際のことは有耶無耶なままなのだ。妻も口を固く閉ざす。夫の苛立ちはそこからも来ている。妻はその事件そのものをなかったことにしたいのだ。そして事件そのものがあったのかどうか、、、。男はどの時点でどれだけの金を置いていったのか、若しくは金など置かなかったのか、、、。夫の考える事件そのものの輪郭があやふやに崩れそうになって行き、夫は更に激高する。

ともかく、何かが起きたことだけは確かなのだ。
だが、それが何であったのか?
何であったのか?
男も何があったのか、誤魔化しではなく、次第にはっきりしなくなってゆく、、、。
(多くの波打つ関係の総体として今‐現存在がある)。
だがそれに(自分の納得出来る内容~因果で)形をはっきりともたせたい夫がいる。

犯人は娘の婚姻を間近に控えた身であったが、夫にとってはもうすでにいい加減な手打ちでは済まなくなっており、引っ込みもつかない。
彼は男の家族全員に今回のことを全て知らせると告げる。夫の考える物語を。
その直後から男の病状(持病)がストレスによって悪化する。
娘と婿、そしてやはり心臓の悪い老いた妻も駆け付け救急車を呼ぶが、階段に倒れたその男の意識は戻らない。
その「事件」そのものを宙吊りにする事態に及んで、夫も妻の気持ちに最終的に沿う形で決着~妥協を図るも、悲惨な結末に物語は収束する。

彼ら夫婦がその後の日常において、お互いの間に生まれた距離を埋めることが出来るのかは、舞台の支度中の彼らのエンディングにとる顔~表情から察しが付く。


ではどうすればよかったのか、、、答えなど、あろうはずもない。

THE SALESMAN002







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エイリアン: コヴェナント

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AlienCovenant
2017年
アメリカ
リドリー・スコット 監督

マイケル・ファスベンダー、、、デヴィッド(プロメテウス号の管理者)/ウォルター(コヴェナント号の管理者)
キャサリン・ウォーターストン、、、ダニエルズ(テラフォーミングの専門家)

「ラインの黄金」:ヴァルハラ城への神々の入場(ワーグナー) これは最初と最後に流される。


「プロメテウス」は大分以前に観ている。
自分の書いたものを読みかえし、大まかな流れは思い出す。
この「エイリアン: コヴェナント」は、「エイリアン」前日譚「プロメテウス」の続編に当たる。
制作年月は離れていてもあまりに両者は緊密な関わりを持っている為、先に「プロメテウス」を観た後にこれを観ないと恐らくほとんど内容は掴めないはず。

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リドリー・スコットは「ブレードランナー」のときからずっと、レプリカント~アンドロイドの存在を通して、人の実存を逆照射して来た。製作総指揮にまわった「ブレードランナー2049」ではそれが極めて色濃く反映されているが、今作(「プロメテウス」とともに)では「人は何処から来たのか」~その古くからの問い~神学的問いをあからさまに提示している。
そして事もあろうに何とそれを具体的に明かしてしまった。
「2001年宇宙の旅」もそうであったが。(そちらは多分に隠喩的表現であった)。
もうこれでは元も子もない。
神も仏もない。文字通り。

しかし、つくづく思い知るのが、西洋人の一神教支配の精神的根深さだ。
こういう問いを追求した作品が日本人から生まれるだろうか?
わたしはその根底における同調が出来ないため、物語の稠密さその神学的な雰囲気に呑まれるばかりで、テーマそのものからちょっと距離を感じつつもアイロニカルな衝撃的(絶望的)な結末にニンマリしてしまった。まだ続くのだという、、、。
エイリアン自体の恐怖もあるが、感染に対する恐怖にも充ちている。そしてアンドロイドの恐ろしさに。


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しかし宇宙探索をしているうちに、人類を作った存在に行き当ってしまえば、彼に話を聴きたくなるのは人情である。
神には関心ないわたしだって顔くらい拝んでみたい。
まずはショー博士(プロメテウス)は強い疑問(異議)を発する。
「何のために地球に行ったのか」
「なぜ、人間を見捨てたのか」「何故、滅ぼそうとするのか」「一体何が悪かったの?」である。
さらに宇宙船オーナーからは「人類を作ったのなら救う事が出来るはずだ」
「このわたしを死から救ってくれ、、、」、、、このごうくつばりめが!
~「プロメテウス」の世界である。

そして「エイリアン: コヴェナント」では、デヴィッドが造物主となっていたことが分かる。
デヴィッドの罠にはまり、コヴェナント号は予定の惑星「オリガエ6」の遥か手前の星(これこそプロメテウス号の11年前に着陸した地)に引寄せられたのだ。

人にとっての神は見えない~信仰の対象でしかないが、アンドロイドの創造者はいつも間近にいる。
(その上、自分と比べてみて、大したこともない連中ばかりだ)。
そして人間は死ぬがわたしは死なない(つまり誕生だけで死は神には握られていない)。
やはり、デヴィッドにとってみれば、自分の作者なんぞに特別な観念(感情?)など抱きようもない(優越性がある)。
「誰もが親の死を望みます」と臆面もなく言い放つ。人に素直に仕える気などない男だ。
(この型のアンドロイド以降、もっと単純な思考経路のモノに変更されたというが、確かにウォルターの方が安全だ)。
創造性をもつことの危険性である。

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結局、彼は究極の生物を作り上げ、自らが造物主となる。
自分にも作れることを証明したかったのか。
(「何故人間はわたしを作ったのですか?」に対し、「作れたから」と博士は答えていた(プロメテウス))。
そして究極の生物は作られた。アンドロイドの手によって。
彼によって(恩人のような)ショー博士も実験の犠牲にされていたことが分かる。
デヴィッドの、完全に親を越えたという自負心に充ちた冷酷な顔~表情。
そして植民船の胎芽の貯蔵庫にその超生物の胎芽も彼によって並べられる。
(2千人の入植者も眠っているが。そして船員は15人中2人しか生き残っていない)。
ダニエルズ博士が最後に冷凍休眠に入る直前に(彼がウォルターではなくデヴィッドであることに)気付くが時すでに遅し。
これが前日譚か。
そしてエイリアン~究極生物が増殖・拡散してゆく。

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デヴィッドの創造した生物が次々に人間を容赦なく殺戮してゆく。
勿論、自らが人類を完全に凌駕するため。

この作品は、続編は必ず作られるはずだ。
コヴェナント号は当初の予定通り入植地オリガエ6に向かう。
もう恐らく、エイリアンがどうのというより、タルコフスキーの神学的問いに答えるかのような作品になるしかあるまい。
肝心のエイリアンが出てくるかどうかが心配だ。

「ブレードランナー2049」の続編も「エイリアン: コヴェナント」の続編も人類の劣勢から始まるしかない。






サマーウォーズ

SUMMER WARS

SUMMER WARS
2009年

細田守 監督
奥寺佐渡子 脚本
山下達郎 『僕らの夏の夢』主題歌

(声:
神木隆之介、、、小磯 健二 (高校2年生、数学が得意)
桜庭ななみ、、、篠原 夏希 (高校3年生、マドンナ的存在)


「サマーウォーズ」の感想をほったらかしていたことに気付いた。
これまでに観た細田監督の作品、『時をかける少女』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』は、どれもが深く印象に残る傑作であった。
特に場所~取り巻く環界に魅了される。
『バケモノの子』で「渋谷」に重なって活気に溢れる「渋天街」が開けているのにはニンマリしたが、他の映画もそうである。
場所が記憶に残っている。

この『サマーウォーズ』の舞台は篠原 夏希のおばあちゃんの家~本家で、これまた大変様々な人のいる賑やかな場所である。
格式は高く先祖に拘る家柄~陣内家ではあるが、村社会的な押し付けや堅苦しさは然程感じられない。
大きなテーブルを囲んでの、和やかな食事場面が印象的である。
メンバーもそれぞれ頼りがいのある面白い個性の集りである。
牧歌的な環境を拠点に「仮想空間OZ」上でのゲーム対戦を夏希を中心に家族で力を合わせ繰り広げる。
とても楽しくも毒のあるポップでアーティフィシャルな仮想空間で皆の気持ちと頭脳が思い切り弾ける。
その決戦ゲームが「花札」なのだ。
「花札」を知らないわたしは、世界中の支援者のひとりといった立場か。
(これがもしチェスや将棋・囲碁であれば、これまでの膨大な蓄積データから、どんな人間が挑んでも勝ち目はないだろうが、「花札」というのは、うまいチョイスであった)。
「あなたのアバター~アカウントを貸してください」と謂われて世界中の人たちが篠原 夏希を応援する。
その数は膨大なものとなってゆく、、、。
陣内家とIT空間と宇宙・地球(諸外国)が端末上でシームレスに繋がる。
スケールはともかく、わたしの場所にもそっくりでもある。

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「仮想空間OZ」とは、ウェブ上で世界中の人々が、「ショッピングやゲームだけでなく、納税や行政手続きなどの様々なサービス」が利用できる身近な日常空間であり、セキュリティも極めて高く安全に管理されていた。
そのシステムの保守点検のバイトに就ていたのが、(もうひとりの)主人公、小磯 健二である。
数学が趣味で得意でもある、高校生で夏希の一年下の後輩である。
ちなみに夏希は学園のマドンナ的存在の人気者。誰もが憧れる存在である。
ひょんなことから、 健二は夏希に頼まれたバイトで、彼女の田舎に一緒に出向き彼氏として紹介され、おばあちゃんを安心させるという役を引き受ける。ここはまさに萌え系少女漫画世界の導入だ。ちなみに、おばあちゃん90歳の誕生パーティへの出席となる。

そんな折、OZ空間に「ラブマシーン」というAIが侵入し、OZが乗っ取られてしまう。
丁度、健二が陣内家に泊まる晩に彼の携帯に数字の羅列が送られてきて、その得意分野の問題を解いて送り返す。
彼はそれを何かのクイズだと思っていたのだが、実はその答えがOZ空間の管理権限のコードであった。
乗っ取ったAIの暴走の影響で世界中のインフラが大混乱に陥る。
人々の生活が脅かされる深刻な事態を呼んだのだ(彼の他にも十数名が問題を解いていたそうだが)。

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晩年にこんな境地になっていれたら、それは素敵であるが、、、。

陣内家のおばあちゃんは、政治経済界の実力者と懇意であり、そのパイプを生かして電話を通し大混乱を鎮める舵取り(陣頭指揮)をする。
あり得ないスーパー指導者だ。しかし実際の効力が現れて来た矢先に突然亡くなってしまう。
後を託された陣内家の面々が夏希を中心にまとまり、それぞれの専門分野の力を集結して、AIとの頭脳戦が開始される。ここで数学の得意な健二が大きな活躍の場を与えられ、「キングカズマ」という格闘ゲームチャンピオンのアバターを持つ夏希の又従兄弟の佳主馬とタッグを組み激しい攻防を見せる。
これによってビジュアル的にド派手でコミカルな戦闘がIT空間上で繰り広げられてゆく。
無数のアバターを取り込み巨大化する悪魔的姿の敵など、まるでプリキュアの闘いを見ているような気にもさせられる。
これまでのアニメの戦闘場面の様々な要素が散りばめられたかのごとく華やかで多彩なバトル光景だ。

しかし話は実際、尋常ではない危機を迎える。巨大な力を得たラブマシーンは、小惑星探査機・「あらわし」を世界に散らばる核施設の何処かに落とす計略を練っていることが判明する。その阻止の為、夏希は決死の花札勝負に出る!
これは何というか陣内家の家芸(家学というのは聞くが)のようなものらしい。
「花札」によるアカウントの奪い合いの勝負は、一時は劣勢になるも、世界中からの多くの支援アカウント(アバター参戦)により勢いをつけ、「こいこい」の声援の下、ついに夏希が「ラブマシーン」を打ち倒し、一件落着にみえた。これってかなり運による勝負なんだな、、、。

しかしその矢先、ラブマシーンは「あらわし」を陣内家に落下させる最後の仕返しに出た。
ここで、一進一退の攻防が続くが、鼻血と共に健二の計算能力が炸裂し、すんでのところで落下軌道を逸らすことに成功する。
陣内家は半壊しかなりのダメージを受けたが、邸敷地内の落下場所から源泉が噴き出しメデタシとなる。
おばあちゃんの葬儀が和やかに行われる中、、、
大活躍でみんなを救った健二は、夏希の方から愛を告白され、再び鼻血は吹き出るがお熱いカップルに。
一族からの祝福を受けてのエンドロール。

と、こう書くと他愛もないラブコメみたいであるが、これが実にこれでもかという程にスリリングでカラフルで面白いのだ。
つまりCG~絵の勝利でもある。それこそアニメーションならではの醍醐味と謂えよう。
しかもSNSなどを日々自らの身体性に繰り込んで生活しているわれわれにとって、ほぼ地続きの噺~環界でもある。
アニメならもっとリアルだが、、、。

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やはり日本は、アニメーションがいける。





東京喰種トーキョーグール

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2017年
萩原健太郎 監督
石田スイ 原作(コミック)

窪田正孝、、、カネキ(人間の大学生であったが「半喰種」となる)
清水富美加、、、トーカ(喰種、普段は女子高生で喫茶店店員)
蒼井優、、、リゼ(大食い喰種、重傷のカネキへの臓器移植に使われる)
鈴木伸之、、、亜門(喰種対策局捜査官)
大泉洋、、、真戸(ベテラン喰種対策局捜査官)
村井國夫、、、芳村(「あんていく」喰種店長)
桜田ひより、、、笛口雛実(リョーコの娘、文学好き)
相田翔子、、、笛口リョーコ(雛実の母、夫を喰種対策局に殺害されている)


コミック(原作)は見ていない。
何か「寄生獣」に似た感じであるが、向こうの方が遥かによく出来ていた(ちなみに向こうは原作も見た。映画共々秀逸であった)。

直ぐに大きな違和感を抱いたのだが、知性と感情を人と同様に持った生命体と何故人類は共存が図れないのか、、、?
(人類、、、まさか日本だけの現象ではないな、、、しかし外国では、という場面はまるでなかった)。
だが相手は、謂わばカニバリズムの文化圏の外国人レベルではないか?
彼ら喰種が人肉しか食べられないのなら、すでにヒトゲノムの完全解析の済んで久しいこの時代、クローン生産して食料用に提供すれば済むことではないか。人体そのものでは気持ち悪ければ、その栄養素のみ完全にコピーして(食べ易く食感の工夫などして)サプリメント供給するとか。食糧問題だけで片付くことなのだから。
一体何のための政治であり科学であるのか?おまけに倫理(宗教)があるのか?
双方の代表による会議の場などで詰められなかったのか。
(彼らの多くがヒトを食べることに対し罪悪感を抱いていることからも、両者は対等の関係にある。何の特別な感情もなく捕食・管理しているのなら人と魚の関係に等しく、一方的な関係として完結するが)。

何故、これだけの大問題が喰種対策局などという一方的で殺戮的な単なる局レベルでの対応どまりなのか?
国民に一切秘密裡に地下解決を図っている極秘プロジェクトならともかく、テレビで普通に放送されて怪し気な喰種評論家まで出てニュースになっている日常茶飯の事案でもあるようだ。その割に人々が実に呑気で無関心な振舞いなのはどうしてなのか?
実際にあちこちで頻繁に殺害・捕食されているのに、世間の余裕がそもそも異様で間抜けである。
政府が事件被害者を行方不明者として一切国民に隠しているのならともかく、、、。
喰われていて、知っているのだ。その状況がどうやら政治・科学的に現実的に放置されているらしい。
そして特殊な局~お仲間で事件に対処している。その辺の前提がまずもって、判然としない。
これって一体どういう状況なのか、、、。

基本とても狭い特殊な範囲~空間において憎悪・復讐の連鎖で展開してゆく。
この特異領域における二項対立に、その間を(一方寄りだが)揺れ動く主人公という構図の物語。
原作を見れば、その辺のことが少しでも腑に落ちるように描かれているのか?


その前提状況を不問に付して、この枠内で観てみると、、、。
幸福の科学の清水富美加のキャラ、トーカがやたらカッコよい。

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この人は声優でもいけるし、かなりのポテンシャルをもっているなといつも感心する。
「人狼ゲーム ラヴァーズ」主演の古畑星夏も清水富美加の親友役でワンシーンだけ出てくるが、この人ももっと出てきてもらいたい人だ。強い個性を放たない透明感がよい。
何故か、終わり間際で佐々木希も出てくる。
どうせこのあたりの人を出すなら、もっと出番を多くしなさいよと言いたい。
あれ、もしかしてこの物語は続きがあるのか?
笛口雛実も終盤に力を開花したところだし、充分この次に繋げる要素が詰まっている。
そこで、またこの人々出てくるのか、、、それなら分からないでもない。
それから、リゼという洗練されたレディの蒼井優は大人になったなあ~と、感心する。

その蒼井優-リゼに人間である窪田正孝-カネキが今にも喰われそうになる絶体絶命のピンチに陥ったとき、明らかに何者かの仕業と受け取れる、鉄骨の束が彼らの上に落とされる。
カネキは重傷を負うが、襲ってきたリゼの臓器を提供されたことで命は救われた。
独断でこの手術を執刀した医者も怪しいし、何らかの企みの一環として行われたことを匂わせる。
結果、カネキ自身も人肉を食うことでしか生きられない「半喰種」と化してしまう。コーヒーも大丈夫ということだが、それ以外の食物は口にすると吐いてしまう。
(その後は人肉を喰わずに、何とか「あんていく」でコーヒーを飲むことで繋いでゆくが)。
以降、カネキは人間~喰種両者間において空腹も含め苦悩する立場となる。
時折、同化した喰種リゼの力~作用が大きくなってほぼ喰種そのものともなる。左目が赤い喰種の目となる。

人間側の代表として、大泉洋-真戸が何かに憑かれた人みたいな形相で登場する。見た目も怖い。
どんな役でも熟す人だ。
ここでは復讐に燃えた執念の捜査官だが、狂気がかなり入って行くところまで行ってしまっている。
鈴木伸之-亜門という熱血漢の肉体派捜査官も正義(人間の正義)のために敢然と喰種殺戮に情熱を燃やす。
真戸捜査官とタッグを組んでいる。

半面、喰種側は大人しく控え目な人が登場する。
出来れば人など喰いたくないが、喰わないと死んでしまうので、自殺者の死体などを食している。
普段は、水とコーヒーなら飲めるので、「あんていく」でブレンドを飲んでいる。
それが物静かで優しいお母さんと文学好きの娘だったりする。見た目は皆穏やかで普通の人にしか見えない。
ちなみにカネキも文学好きでその娘、笛口雛実ととても気が合う。
しかし栄養補給しないと生物は生きてゆけない。
これは困難な生き方~設定だと分かるし、こんな生活の破綻は時間の問題ではないか。
「安定区」は保てはしないだろう。
暴動やテロでどうにかなるわけではないし、村井國夫がアラファト議長にでもなるしかないか、、、。

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スリルやアクション・バトルは「寄生獣」というより「寄生獣 完結編」のバトルに近い。窪田正孝と鈴木伸之がかなりのバードアクションを頑張っている。
清水富美加もとてもシャープな切れ味を見せ素敵である。
大泉の捜査官はもうほとんどサイコな怪物状態であるが、二人のダークでヘビーな格闘風景は亜門対カネキに負けない絵になっている。
最後に内向的な笛口雛実の覚醒があり、モンスター捜査官は意外にも彼女に致命傷を与えられる。
この展開はなかなかよかった。
この映画やはり、清水vs大泉と窪田vs鈴木の決戦が一番の見せ所だ。
窪田~カネキは喰種側に付かざるを得ない立場である。
積極的に加担するというのではないが、(トーカと雛実の為にも)彼女らの生命を守らなければならない。

捜査官側の使う武器が今一つ、劇中では説明がなく、よく分からない。
得体の知れない面白い武器だ。
喰種の体から抽出したもので作っているのか。
また捜査官の人物描写やその背景説明もほとんどなく、彼らの仕事への執念の拠り所が掴めない。
原作アニメでは、はっきり分かるものなのか?
少なくとも映画では、中途半端だ。

「あんていく」に喰種の幹部?達に混じり、カネキも店員としてしっかりおさまっているが、その眼はもう赤くはない。
そしてやけに充実した確信を得たようなニンマリ顔なのだ。
外部から来た人なのに、彼らのメンバーとして認知されたことも分かる。
さて、これからどうするのか。


どうも物語の構造が、少女漫画の世界を想わせる。
閉じられたお友達空間の中でキャラを自在に動かして楽しむ特権的な場。
お友達が新たに入りました。これか。


これも、続編だろう、、、。


君の膵臓をたべたい

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2017年
同名のライトノベルが原作。
月川翔 監督
住野よる 原作

浜辺美波、、、山内桜良
北村匠海(高校時代)、小栗旬(現在、教師)、、、僕
大友花恋(高校時代)、北川景子(現在、花屋さん)、、、恭子(桜良の親友)


この映画を観る前にわたしは原作本を買っていた。
ライトノベル自体初めて買ったが、本棚のコーナーもかなり大きく場を占め、客層も違って浮いてしまう。
その膨大な冊数から、、、この分野の需要の高さは実感する。
主にそこ居合わせた中高生対象であろうが、彼らはまだ本を読むのか、、、というのも新鮮であった。
(いや読む人は読むはずだが)。

次女が、話題だからそのうち読みたいと言っていたので手元に置いておいたものだ。
(女子会でも話のネタにするつもりだったか)。
が、未だに読む気配はない。
暇なときはパソコンゲームに興じており、本の事はすでに忘れている感もある。
わたしも最初の方を読んでみたが、漢字の読みをいちいち訊ねられるのも厄介なため、余り家にあることを宣伝していない。
(それでは意味がないのだが)。

なんでも「キミスイ」と言って女子の間では(巷では)ひところ話題の種であったそうな。
もうブームは去ったのか?この系の更新速度はかなり速そうであるし。


その原作による映画実写版を観てみた。
ドラマタッチで、観易くリリカルな雰囲気もあるが、やはりどうにも距離感は覚える。
しかし主演の浜辺美波の圧倒的存在感と演技力(元々の資質からくるものか)で一気に乗せてしまう作品ではあった。
この女優は、小松菜奈と共にこれからの活躍・可能性が楽しみだ。
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まず前提として「思春期もの」である。
それ特有の(ある意味制度的)文体でライトに流されていることは否めない。
とは言え、間近に迫りくる「死」という絶対的な観念の下、生という関係性について不安と恐怖のなか、考えることを強いられた高校生の男女の健気な精一杯が描かれている。

山内桜良は余命一年を宣告された膵臓病の、謂わば薄命の美少女である。
しかしそのことは家族以外の誰にもひた隠し、学校では明るく朗らかに振舞う誰からも愛される人気者で通っていた。
それは死の恐怖に怯える気持ちと裏腹のものでもある。
そんな気持ちの共有など、特に親友の恭子とは考えられないヘビーなものであり、「共病文庫」を独り綴ることで完結しようとしていたのだが、病院の待合室に置き忘れたことで「僕」にその内容~不治の病を知られてしまう。
誰からも距離を置き、自分の時間を確保し読書に没頭していた他の人たちとはちがう身体性の「僕」に、彼女は半ば無理やりその後の自らの日常を託す。

その後は、「僕」は一方的に何かと関わって来る美少女に翻弄されっぱなしとなるが、重大で切迫した秘密の共有から彼女と時間を共に過ごすことが拒否できない事態に巻き込まれてゆく。この辺の展開はラブコメ少女コミック臭が立ち込め、かなりわたしにはキツイものだが。
そして「僕」は彼女に心を開くことで生きることの実感を徐々に瑞々しく深めてゆき、彼女への思いが深まる自分を知る。
彼女も自分にない強さを「僕」に認め、自分の選択の正しさを実感する。
「君がくれる日常がわたしにとっての宝物なんだ。」

「真実か、挑戦か」などのカード勝負でお互いに通常では聞けない思いを聴きとろうとする(関係を濃密にしようとする)ところなど如何にも高校生っぽく、一生懸命だがスケールは小さい。
学園空間モノに留まる(九州旅行をしたにせよ)。
だが存在~関係についての認識を僅かな持ち札で研ぎ澄ましてゆこうとする過程には、とても共感する。


その直向きに懸命に生きようとする彼女らの姿に、ライトだがしらじらしさやわざとらしさや安っぽさは感じられない。
しかしこの女優でなかったら、かなりコケていた可能性はある。
そうそう相手役の男子もそれなりに良い味を出していた。
主演キャストは良かった。

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君の膵臓を食べたい、、、表現では無くこの感覚に辿り着くまでの高まりはなかった。
これは相当な強度の愛がなければまず無理だろう。
「僕は君になれるだろうか?」という自問はあったが。

しかしそれが単なる親愛の情の表現レベルであったら趣味は悪い。
食べてくれた人の中で生き続けたい、、、しかしそれはある意味エイリアンに身体に入り込まれた不気味さと等しい。
桜良は、僕や親友に死後にいろいろと気付く仕掛けをしていたが、自分の死後も相手を拘束することが本意なのであろうか。
ちょっと余計なことに思える。

周囲の人間(遺族)にとっては、死は意識の上では、葬儀・お焼香において区切りをつけることになろう。
(「僕」もお焼香に行ってから、大泣きして区切りをつけている)。
そこで、「死者」としてその魂をこの世の生活空間~「此岸」から切断することが順当に思える。
またそれが如何に肝心なことかは、これまで葬儀の儀式のない文明は存在したことのない例からも分かる。
死者は忘れられなければならない。

しかし桜良の語る「自分の意思が全てを選択している」
このくだりの、偶然などないという関係の絶対性は、かの高名な哲学者の言説を思い起こす。
わたしはこの場面では泣けた。
そして相互補完的に桜良と「僕」がお互いの存在の重みを知る。
それがふたりの生をより豊かにしてゆく。
そう、いつ中断されるか分からぬ生を、今を、如何に豊かに生きるか、、、を噛みしめる。

それを現在、桜良の一言で教師となった僕の視点から振り返って行く。
実際、桜良は膵臓病により生が潰えたのではなく、通り魔に刺されて亡くなってしまう。
(この中断は皮肉であるが、われわれ存在の在り方として物語~寓意的には秀逸な設定であった)。


概ね肯定的に観ようとしてみてきたのだが、、、
桜良が綴って来た「共病文庫」は、当初から(友人でも恋人でもない僕たちふたりの共通の秘密であり)とても重要なアイテムで、物語の流れに潜在しつつ彼女の深い思いが死の直前まで書きつくされているはずのモノである。
そして彼女の死後、「僕」だけに読む(明かされる)ことの許された手記であって、そこからドラマチックで秘められた大きな展開がまた生み出されると思っていたのに、それがほとんどなく~とても小さく、図書室に埋もれた「星の王子様」の本に挟まれた手紙であのように大袈裟に締めくくられてゆくというのはどういうことか?
手紙の内容も全く大したものではない。いまさらなんだというレベルのモノだ。これが果たせなかったサクラを見に行こうという旅行の約束~「サクラの花の芽のサプライズ」に当たるというのか?余計なこじつけではないか?
かなり期待外れのコケる部分である。しかももっとも肝心なところではないか?
ここはストーリーの根幹に関わる大きな疑問箇所ではある。
他の部分には目をつぶるとして。

ミスチルは好きな方だが、この曲でエンディングはいただけない。
静かなオーケストラで終わりにしたい。岩井俊二ならベストチョイスするはず。

最後にクラス委員長であるが、終始可憐で穏やかな浜辺美波から、しつこいとあれほど毛嫌いされ拒絶されてしまっては、「僕」よりも立ち直りが困難であろうに、、、(南無~。
この映画でもっとも教訓的メッセージであったのは、「しつこいのは嫌われる」か!

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浜辺美波、恐るべし。小松菜奈と共にこれからの活躍・可能性が楽しみだってさっき書いた気がする。
どうか国外の映画界にもどんどん進出して行って欲しい。
(日本映画はどうもアニメ以外は今一つなのだ)。


”Bon voyage.”

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