レッドタートル ある島の物語

The Red Turtle
2016年
日本・フランス・ベルギー
マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット 監督・脚本・原作
高畑勲 アーティスティックプロデューサー
スタジオジブリ制作
昨日の映画にも謂えるが、人間性とか思想以前の「いのち」の水準で描かれた作品として受け取れた。
どこかNHKやBBCでよくやる動物の生態を長年丹念に追ったドキュメンタリーフィルムを観る思いもした。
そう、思いに溢れた生命を見守る目か。
その主人公は、人類一般を代表するようなとても禁欲的な、個性を抑えたキャラクターである。
アカウミガメの方がずっと鮮やかで際立ち、脇のカニたちの方がユーモアや愛嬌を備えている。
(カニが如何にもスタジオジブリである。まっくろくろすけみたいな存在だ)。
嵐で無人島に漂着し、そこから何とか脱出を試みるも、創る筏をことごとく壊されどうしても島から離れられない独りの男。
人間的なサバイバルドラマの範疇で暫く続くが、どうやらその妨害をしていたと目される(投げ込まれた水中で目が遭った)アカウミガメに海辺でしっかり出逢う。
男は逆上し、仕返しとばかりにカメの頭を棒でたたき、おまけに甲羅を裏返しにして放置し、陽に干してしまう(うちのカメなら数秒で飛び起きるが、ウミガメはひっくり返ったらそれでおしまいのようだ)。
しかしさすがに男はカメに申し訳なくなり、もう一遍ひっくり返そうとするも重くて動かせず、水をかけたり草で覆い直射日光を避ける措置はとってみるが、あえなくカメはそのまま死んでしまう。
しかし、その夜カメの甲羅には罅が入り、中には何と女性(人間)が横たわっているではないか!
ここから事態は一変する。
サバイバル・リアリズムから寓話の世界に唐突に接続した。
いや、これもより精妙なひとつのリアリズムと謂えるかも知れない。
カフカの「変身」にみるような(その意味で寓話的とは呼べる。が、それに拘る必要もない)。
女性は目覚め、自分の甲羅を海に打ち流して捨てる。
これを機に男も島を離れることを諦めた。
この映画にはセリフは一切ない。
だが(淡々とした情感と自然の)描写は饒舌である。
深く惹き込む静謐さが終始物語を支配する。
絵本で読んでも(観ても)充分に鑑賞に堪え得るものだろう。
やがて二人は恋に落ち、こどもも誕生し家族としての生活が島で営まれる。
簡単な道具と火は使われているが、極めて必要最低限のものにとどめた生活だ。
ここに至っても、絵~図形によるコミュニケーションはみられるが、音声言語はない。
であるから、名前というものも登場しない(通俗映画ならきっとすぐにこれが出る)。
自分の名を書いて知らせたり、相手の名を確認したり、自分の息子に名を付けたり、その書き言葉(音声言語は書き言葉を基本として成立する)を破棄している。そのため、(有機的に)分節化した発声や文法は生じない。
筏による帰還を断念した時点で、文化を破棄したのだ。
その水準の生活をきっと男は死守しようとしたのだ。
ただ相手の安否を確かめる叫び声は必要に迫られ発せられる。
実は暫く、この映像を男の孤立感と寂莫感から生まれた幻想(幻覚)として捉える気持ちになったり、女性(ウミガメであったとしても)と二人の間にできたこどもの3者の実在する空間における物語として味わうものか戸惑う(疑う)時間が続く。
つまりそのままの全体を受け容れることに躊躇する気持ちも残しつつの鑑賞となっていた。
(これは特に映画の作りにおいての問題ではない。こちらが視点を上手く固定できない点にある)。
だが、「いのち」~生命の出逢いという観点でとらえると、とても切なく尊く美しい光景に湛えられていることに気づく。
息子は、或る日幼い時に拾った、漂着した文明の欠片~瓶に再び出逢い興味を示し、二人の元を旅立って行く。
親友のウミガメたちに連れられて、、、。そう、もういつでも帰ろうと思えば帰れる状況ではあったのだ。
しかし、ふたりはずっと離れない。男は出逢いの時に既に覚悟していたのだ。
愛し合っているからである。
そして、この物語がそのままの(ありのままの)世界を描いたものであることが最後に明瞭に分かる。
海辺で白髪の男が息絶える。
傍らの女がとても慎ましく嘆き哀しみ、夫に添えた手がウミガメの手へと変わり、彼女は独り寂しく夜の海に帰って行く、、、。
この物語はいのち~生命の奇跡の邂逅(しかしだれの出逢いだってそうだ)をもっとも純粋な形で描写しようとしたものかも知れなかった。
(これは昨日の映画にも感じられたものだ)。
