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レッドタートル ある島の物語

The Red Turtle
The Red Turtle
2016年
日本・フランス・ベルギー

マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット 監督・脚本・原作
高畑勲 アーティスティックプロデューサー
スタジオジブリ制作


昨日の映画にも謂えるが、人間性とか思想以前の「いのち」の水準で描かれた作品として受け取れた。
どこかNHKやBBCでよくやる動物の生態を長年丹念に追ったドキュメンタリーフィルムを観る思いもした。
そう、思いに溢れた生命を見守る目か。
その主人公は、人類一般を代表するようなとても禁欲的な、個性を抑えたキャラクターである。
アカウミガメの方がずっと鮮やかで際立ち、脇のカニたちの方がユーモアや愛嬌を備えている。
(カニが如何にもスタジオジブリである。まっくろくろすけみたいな存在だ)。


嵐で無人島に漂着し、そこから何とか脱出を試みるも、創る筏をことごとく壊されどうしても島から離れられない独りの男。
人間的なサバイバルドラマの範疇で暫く続くが、どうやらその妨害をしていたと目される(投げ込まれた水中で目が遭った)アカウミガメに海辺でしっかり出逢う。
男は逆上し、仕返しとばかりにカメの頭を棒でたたき、おまけに甲羅を裏返しにして放置し、陽に干してしまう(うちのカメなら数秒で飛び起きるが、ウミガメはひっくり返ったらそれでおしまいのようだ)。
しかしさすがに男はカメに申し訳なくなり、もう一遍ひっくり返そうとするも重くて動かせず、水をかけたり草で覆い直射日光を避ける措置はとってみるが、あえなくカメはそのまま死んでしまう。

しかし、その夜カメの甲羅には罅が入り、中には何と女性(人間)が横たわっているではないか!
ここから事態は一変する。
サバイバル・リアリズムから寓話の世界に唐突に接続した。
いや、これもより精妙なひとつのリアリズムと謂えるかも知れない。
カフカの「変身」にみるような(その意味で寓話的とは呼べる。が、それに拘る必要もない)。

女性は目覚め、自分の甲羅を海に打ち流して捨てる。
これを機に男も島を離れることを諦めた。

この映画にはセリフは一切ない。
だが(淡々とした情感と自然の)描写は饒舌である。
深く惹き込む静謐さが終始物語を支配する。
絵本で読んでも(観ても)充分に鑑賞に堪え得るものだろう。

やがて二人は恋に落ち、こどもも誕生し家族としての生活が島で営まれる。
簡単な道具と火は使われているが、極めて必要最低限のものにとどめた生活だ。
ここに至っても、絵~図形によるコミュニケーションはみられるが、音声言語はない。
であるから、名前というものも登場しない(通俗映画ならきっとすぐにこれが出る)。
自分の名を書いて知らせたり、相手の名を確認したり、自分の息子に名を付けたり、その書き言葉(音声言語は書き言葉を基本として成立する)を破棄している。そのため、(有機的に)分節化した発声や文法は生じない。
筏による帰還を断念した時点で、文化を破棄したのだ。
その水準の生活をきっと男は死守しようとしたのだ。
ただ相手の安否を確かめる叫び声は必要に迫られ発せられる。

実は暫く、この映像を男の孤立感と寂莫感から生まれた幻想(幻覚)として捉える気持ちになったり、女性(ウミガメであったとしても)と二人の間にできたこどもの3者の実在する空間における物語として味わうものか戸惑う(疑う)時間が続く。
つまりそのままの全体を受け容れることに躊躇する気持ちも残しつつの鑑賞となっていた。
(これは特に映画の作りにおいての問題ではない。こちらが視点を上手く固定できない点にある)。

だが、「いのち」~生命の出逢いという観点でとらえると、とても切なく尊く美しい光景に湛えられていることに気づく。
息子は、或る日幼い時に拾った、漂着した文明の欠片~瓶に再び出逢い興味を示し、二人の元を旅立って行く。
親友のウミガメたちに連れられて、、、。そう、もういつでも帰ろうと思えば帰れる状況ではあったのだ。
しかし、ふたりはずっと離れない。男は出逢いの時に既に覚悟していたのだ。
愛し合っているからである。

そして、この物語がそのままの(ありのままの)世界を描いたものであることが最後に明瞭に分かる。
海辺で白髪の男が息絶える。
傍らの女がとても慎ましく嘆き哀しみ、夫に添えた手がウミガメの手へと変わり、彼女は独り寂しく夜の海に帰って行く、、、。


この物語はいのち~生命の奇跡の邂逅(しかしだれの出逢いだってそうだ)をもっとも純粋な形で描写しようとしたものかも知れなかった。
(これは昨日の映画にも感じられたものだ)。

The Red Turtle002

この世界の片隅に

konosekainokatasumini.jpg

In This Corner of the World
2016年
監督・脚本 片渕須直
原作 こうの史代
音楽 コトリンゴ


主人公のすずの声~喋り方がとてもよかった。
これまでにみたヒロインの中でもっとも親近感をもった。
意味(役柄)の上ではなくその身体性において。
実写よりも現実感を感じた。余りない体験である。
(もし実写でやるなら、有村架純であろうか?)
実写はやらない方がよいが、、、。


戦時中の市井のひとに焦点を当てた(そのひとの視点で描いた)映画は幾つか観ているが、そのなかでも特に生活の臨場感が響いた。
おっとりした絵の上手なすずの人柄。
買い物から始まる料理場面のきめ細やかな描写。
(わたしも毎日料理は作っている為、一番目がいった)。
すずを取り巻くひとたちの自然な息遣い。
様々な感情の活き活きした交錯。
ディテールまで稠密に描き込まれた日常~広島の光景。饒舌な自然の情景。
そこに交じって行くすずの奔放に踊る絵筆が美しい穏やかな(永遠の強度をもった)世界を生成する。

きっとこうなのだ。
どんな過酷な社会状況にあろうと、このような詩情が現実に溶け込み、、、
ではなく、彼女の心象風景の拡がりがこのような日常~表象を形作っていたのだと想える。
すぐ隣に、次の一瞬に、死が控えていても、禍々しい恐怖も不条理な悲劇も、同時にたまらなく愛おしく美しい絵でしかないのだ。

未来派の絵の幾つかを想い浮かべるが、それらのあくの強さはなく、印象派的な柔らかな光に充ちている。
それでいてすずの身体性を通して社会の過酷さ無情さ生きることの困難さは充分に語られてしまっている。
(呆気なく失う絵を描く右腕、、、)。
そのため、特有の緊張感が常に漂う。

そしてわたしの今いるこの世界に地続きに接続している感覚が強いのだ。
この点において、ポスト宮崎駿と評される映画(監督)らしいが、すでにそれを超える作品に成り得ていると思う。



コトリンゴの曲、ヴォーカル、ピアノも世界観の表現において秀逸であった。




聲の形

koenokatachi.jpg
2016年
監督  山田尚子
脚本 吉田玲子
原作 大今良時


基本的に観たまんまのアニメーション映画である。
随分、遅い時間に観始めてしまった為、要点のみ書くつもり。
終盤、かなり端折った展開でちょっと説明(尺)不足な感じは強いが(恐らく原作を見ているアニメファンからは文句も出ているのでは?わたしは知らぬが)共感できる作品ではあった。


音声によるコミュニケーションは、非常にベーシックなものだが、勿論不全なものである。
これは仕方ない。
制度的に表象と対応関係が結ばれているとはいえ、それは多義的であらざるを得ない。

サインではなくコミュニケーションなのだ。
関係とはそういうもの。
個別性(歴史)と内面を持つ社会的動物でもある人にとって不可避的にコミュニケーションはズレである。
その差異そのものが、個~他者であり不透明性~存在となる。

その音声言語が基本的に使えない相手とは、外人相手に等しいであろうか?
それが単に外人であれば、それ相応な対応があるだろう。
(東京オリンピックに向けての外人対応にみるように)。
しかし、それが障害による不全であれば、どうなるか?
共に日本人で言語自体は操れるのであるから、文字を紙に書いて伝え合えば取り敢えずの事は済むであろうが。

それが全く済まないのである。
ただのコミュニケーション(不全)の問題ではないからだ。
聴覚障害者に対する向かい方の問題が大きく覆いかぶさっている。
これは障害~病に付与される隠喩を介する場合とも異なり、一種異様な他者に対する生々しい感覚と、その当の対象が極めて内向化しており所謂コミュニケーションを切断し諂い笑いと共にすぐに謝罪しその場をすり抜けようとする態度にもよってくる。
聴覚障害者である硝子は自分がそこに入ることで、みんなが迷惑をするという想いに過剰に囚われてしまっている為、他者の不快感や攻撃をかわすための自己防衛本能と自己否定(罪悪感)の感情が綯交ぜとなり、そのような態度を身に付けてしまったようだ。
合唱コンの練習時などに特に際立つ、自分が普通に発声出来ないもどかしさ等からのネガティブな自己イメージからの内面化は、相当に深いものだと映る。

しかし、小学生(6年)においてその対象に対する周囲の対応関係の直截さと粗暴な過激さは程度を知らない。
特に主人公の将也は硝子に対する違和感をストレートに暴力~いじめで晴らす。
補聴器を立て続けに外して壊す。筆談用のノートへの落書きなども日常茶飯事となる。
植野という活発な女子も、硝子の虐められても怒りを発せず自らが相手に謝るその態度が許せない(癇に障る)。
確かにその姿勢では対称性の保持できる友人関係は創れない。
しかしそうなってしまった必然性~歴史があることへの思慮がない。
そもそも、他者に対する想像力が育ってはいないのだ(大人になっても全く無い馬鹿もいるが)。
その想像力は、加害者にも被害者にも同等に育まれていない。
お互いに余裕もないと謂えようか。
そんな状況がよく伝わって来る。

高校3年の現在、思いの外人は変わっていなかった。
それはそうだ。
人は変わらない、というのがわたしの実感としてもはっきりとある。
だから分かる人は最初から分かるが、分かり合えない者とは絶対的に分かり合えない。
これは確かだ。

ただ、主人公の将也だけは、小6のときの硝子虐めの全責任を独り押し付けられて、今度は周囲の虐めを一身に受ける立場となり、硝子の転校後ずっと罪悪感に圧し潰されながら孤独で孤立した生活を送って来た。
母親に借りた硝子の補聴器代をバイトで稼ぎ渡してから死のうと試みるが、その前に硝子に一言謝ってからにしようと思うところから、何と謂うかぎこちなくシビアでリアリティもある青春ラブストーリーに発展してゆく。
手話というコミュニケーション方法による伝達のちょっとした勢いから付き合いが始まる。
そう、この物語はそのコミュニケーションのズレがよく意識されている。

硝子の自殺を何とか阻止し自分が重傷を負って入院するが、学園復帰と共に、わだかまりは解けないままだが、友人が無事に帰って来た将也を温かく迎え容れ、周囲に対する親和性を感じつつ終わるのは定石であっても、エンディングはこうあって欲しい。

何か正しい解決や解消などあるわけもなく、ただ外界に対するイメージが少しでも心地よいものになること。
和解(理解)ではなくても受け容れる心の広がりが感じられること。
彼らがそのようなイメージに解放されつつある場が学園祭というのが何とも言えぬが、各校に散らばったかつてのクラスメイトの集合場所としては妥当であろう。

テーマからも、爽快ではないが、共感は出来る丁寧に作られたアニメーションであった。

始まりと終わりの物語へ

blue sky
4日間やらないでいたが、、、

BLOGやFacebook、Twitterをやっていると、ただひたすら流すという方向に乗るだけとなる。
このWeb上においては、ホストレス環境で、パッケージ化もない。
あるのはひたすら(毎日の)更新のみ。

しかも妙な(気色悪い)直接性にヒリツクこともある。
ひと同士の邂逅とは明らかに違う。
身体性がない。
抽象的でエンドレスな(しかも始まりもない)流れ。
その流れがどこまでも巨大で均一化して見えてくる。
しかもその背景が(こういったシステムの特性上からか)、不気味な背景が時折、意識される。

それはGoogleとかプリズムとかいうものではなく、(事実Googleはある意味すでに神格化されているが)何か無意識的な不安が立ち上がる感覚だ。
実体ではなく何かの転倒した意識~言葉からくるものであろうが。

所謂、本であればこんなことはない。
絵であっても音楽であっても映画であっても、、、
ファイナルカットはある。
「作品」であれば。
または、リアルな実生活上であるならば。



しかし、この始まりと終わりのない恐怖。
更に、こんなことを強いられる苦痛を生活~生そのものにも感じる今日この頃。



雪でLinkを作る

Link.jpg

何と謂うか、腰の痛い一日であった。
午前中に、雪が庭に溜まっているのでリンク(ゼルダ伝説主人公)でも作ろう?と何故か思い立ち胸像を作ってみた。
娘たちに見せたいという心理は強い。

シャベルがあるのだが、移植ごてでチビチビ綺麗な雪を選び、粘土の量を押し付けるようにはいかないがどうにか形にしてゆく。
雪は摘まみ難いし付けるのも容易ではない。
冷たいがでも素手でやる。スムーズに行かない細かい作業になるからだ。

そして何とか昼前に仕上がった。
出来た、ホッとしたというところで、昼食をとり始めると、母が散歩に出かけた。
(わたしはちょっと遅いお昼となっていた)。
休憩をゆっくりとり、彫像を娘たちに見せる前に写真に撮っておこうと外に出て、ショック!
それは見事に倒れて粉砕していたのだ(悲。
もう跡かたなく、粉々に、、、やはり、雪だ。


確かにある程度縦に長い造形ではあったが、そんなに短時間で簡単にバランスが保てなくなるようなものではない。
怪しいのは、言わずもがな、、、母親である。
散歩がてら買い物をして手荷物を持って帰宅していた。
袋で引っかけて倒すが気付かないというコテコテのコントのような光景が目に浮かぶ。
本人にそれとなく確認したが、きっと溶けて倒れたのだろうという。
キッパリ諦め、気持ちをリセットし午後にまた作ることにした。

しかし時間もない。娘も程なく帰って来る。
やめてただの雪だるまにしようかと思ったが、リンクの頭像にした。
やはり、リンクに拘る。
しかし改めて頭像にするならちょっとアレンジしたい。いや異化したい。
塑像と言えば、無心で作って仏像の雰囲気を纏わせたものにしたいのだ。
そしてしげしげ観させる(笑。

気持ちの安らぐものにしたいのだ。
やり直しの良い機会となる。
先のモノは単に似せて作ろうとしただけのモノだった。
とは言え、今度のモノがメッセージ性を含んだ(加えた)ものという訳ではない。
元のモノよりもメッセージ性を差し引いたモノにしようと思う。


結果、ちょっと仏像っぽい感じのリンクになったか。
リンクでも何でもないが、何かを思い起こさせて、リンクにも見えるという感じならよしとする。
写真は娘も入ってしまっているので割愛するが、それとなく見に来てくれた人もいた。
(知らないヒトとも話をした)。
明日一杯リンクの方は、持てばよいと思う。


ほぼ一日、寒い屋外で屈みこんで仕事をしていたため、腰が痛い。
入浴後の今もまだ違和感が残る。
良く寝よう。
一日中、雪だるま遊びに興じてしまったのだから仕方ないが。







荷物が届かない

yuki002.jpg

ライフラインは殊の外脆弱である。
通常、頼めば明くる日に届く荷物も、二日経っても届く気配がない。
雪は大昔から降っていた。
しかし雪になると交通は途切れる。
学校はすぐに登校時間を繰り下げる。

荷物の届くのが一日、二日遅れようがべつに大したことではない。
しかし自然の僅かな偏差でかくも大きな影響が出る事自体、生活(下部)基盤は余り変わって来た気はしない。
そのもっともはっきりした露呈は地震災害である。
これが原子炉と絡むと解決困難な事態に運ぶ。
今のところ、予知が出来るか、またはその精度の問題に留まっている状況だ。

このレベルにおける文明~テクノロジーの進展はその規模からしても困難をかなり含むようだ。
しかしこのような唐突な様態「変化」と「自然」の実感は貴重な亀裂を意識に齎す。
ここに何らかの鋭いゾンデを垂らすことが出来れば、とも想うが、、、。
わたしの場合、恍惚とした一種の眠気が優しく覆ってくるのだ。
これは何らかの罠かも知れぬとも感じながら。


届かぬ荷物を待ちながら、外をぼんやりうち眺めていると、雪かきをしている人が何人もいた。
スコップの音とその間をチェーンを巻いてゆるゆる横断する車。どちらの金属音もこんな日にしか響いてこない。
轍が丁度良い歩道になっていた。
自転車で走り去る強者もいる。
わたしの高校の頃は、毎年このくらいは降っており、自転車で朝しこたま転倒しながらも登校していたことを想い出す。

その当時は、冬は雪が積もるのは当たり前であったため、誰も雪かきなどしていなかったと思う。
学校も朝からあった。
子供心に雪に寝そべりたいという気持ちが深くから湧いてきたことを想いうかべる。
今のわたしも白銀の世界のままがよい。
荷物は当分着かなくてよいから、分厚い白銀世界にくるまれていたい。


日光がいつもより一際強く眩しい。
積もった雪でそこらじゅうが輝いている。
煌めき輝きに包まれている。
こんな時があってよい。
窓を思いっきり開け放った。

snow.jpg

雪が夜空を真空に置き換える。
声を文字を吸い取って行く。
クラシックがやたらと聴きたくなり。
聴いていくうちに感情だけが溢れ出す。

ヘンデルに取り分け揺さぶられる。
意味も価値もない、驚くべき音にそれは迫ってきた。
わたしは身体だけになっている。
殊の外ひりつく。

雪が音もなく激しく降って積り、たちどころに世界を隠蔽して凍結していた。
そこで魂が丸裸になる。
妙に明るくて明日が見えない。
昨日とも切り離された。


ただめくるめく不透明な白に覆われる。

もうしばらく、この寄る辺ない不安の温度に耐え続けたい。


できれば、世界がもう戻ってこないことを願い、、、。

カメの冬眠を巡り

kame03.jpg

家のカメは今度の4月でやっと2歳である。
誕生月は店で教えてもらっているが、誕生日は不明である。
そのため、4月の最初の日曜日にケーキで祝うことにはしている(笑。
今度は、公園に連れて行って思いっきり歩かせよう、などと長女が提案したが即座にみんなで却下した。
あの速さで二匹が違う方向へ走り出したらたちまち迷子で、恐らく見つかるまい。
放送もかからない、と次女が念を押していた。


カメは冬眠する。
家の銭亀も冬眠する水棲カメのひとつだ。
子亀は冬眠は難しいという話を聞いているので、うちのはまだ子亀というより幼亀でもあり、当分の間冬眠はスルーするつもりだが。
観ていても到底冬眠するどころではない。
多動みたいにひっきりなしに動いている。
餌を断って、うんちを出し切り、綺麗な水で水温5度ピッタリに保ち、甲羅の高さ位に水を張っておくと、砂(ミズゴケ)の中に自ら潜り込み冬を越すという。春になると何となく起きてくるらしい。
しかし失敗する場合もあり、冬眠が永眠に繋がってしまう。
大きくなったカメでもそれは起こり得ると。
野生のカメでも冬眠に失敗することはみられるという。

それを聞くと、リスキーなことはしたくない。
以前テレビで何とかという女優(名前を忘れた)が、毎日のカメの水取り換えがめんどくさいのよね~、冬は冬眠するからいいけど、などと言っていたが、水の取り替えくらいがメンドクサイ家で、冬場の冬眠中の環境管理(準備期間も含め)がしっかりできているのだろうか?しかし実際冬眠できてしまっているのか?
水温が何かの手違いで0℃まで低下してしまうと、カメは間違いなく永眠してしまうそうだ。
何かの拍子にコンセントが外れたなんてことがあったら、一巻の終わりとなる。


ウェブ上で冬眠中の管理を以前観ていたら、時折砂から掘り起こして脚を突っつき反応があるか調べて、また埋めるなどという記事もあった。いちいち眠っている時に体を突っつかれても迷惑な話に思える。カメも悪夢を見ないか?
水温だけでなく、準備期間中にしっかり腸内のうんちが出し切れていることも肝心なようだ。
もし残っていると、そこから細菌が増殖して眠っているうちに死に至るという。
しかしレントゲンで調べる訳にも行くまい。ホントに出きっているかどうか、これは絶食期間から推し図るくらいだろう。


冬眠中ずっと気をもんでいるよりも、普通に餌やりをしながら水の取り換えをしている方がずっと気楽で実際に楽である。
家は水温管理と日光については心配ない場所に置いているし。
同じく掲示板のアドヴァイザーの話だと、冬眠中カメを観察して(やはり掘り起こすのか?)もし具合が悪そうならすぐに温度を元に戻し通常の生活に戻しましょうとあったが、カメの寝顔を見てこれは具合悪そうな顔だと判断できる自信がまだわたしにはないため、当分は普通に冬だろうがいつも通りの生活を送らせるしかない。
あの生意気そうな表情がちょっと違う感じになるのだろうか?
想像しにくい(笑。
きっとどこか体全体の感じ、雰囲気が違って見えるのかも知れない、、、。
ちょと神秘的だが、生き死にに関わるのでは大変である。

奥が深い。
やはり余程見慣れて彼らのことを熟知しておかなければなるまい。
娘たちは、今度は猫がいいなどと言っているがとんでもない。
カメの餌すらまともにあげられないのに、他の動物どころではない。
(ほとんどの世話を全てわたしひとりでしている現状だ。猫が来たらまたわたしが引き受けることになる)。
ペットが我が家に増えることなど当分、ない。


まずは、みんなでカメに馴染みたい(爆。





4時起き

blue sky

昨日、疲れて(ブログも書かず)早く床に入ったら、今朝4時に目が覚め、何をするでもなく日頃手を付けないところまで家事をやっていた。
今考えると普通にブログ書いて寝ればそれでよかった気がする。
夕方の5時くらいで、もうかなり眠いのだ、、、。

早朝から普通に溜まったゴミに加え、もう使いそうもない玩具をかき集めてゴミ出しをし、朝食後、普通に洗濯物干しとカメの水取り換え、掃除機かけをしてから極小畑を長女と耕し小麦粉状にフワフワにし(笑、風呂掃除をして、上履きをこれまた長女と一緒に洗って干した。
ちなみに、次女は朝から遊びに出かけており不在である。家事は何もしない女だ(爆。
(お昼も生意気に外でとるという。バーバや親戚と落ち合って。かなり親離れしてきている)。
これから先の休日の使い方。
考えていかないと、、、。

われわれ~長女とわたしはお昼は簡単にオムライスで済ませ、気になっていたことをひとつ何とかすることにした。
物干し台撤去と共に庭に物干し竿が2本即物的に転がっているのだ。
草木の間に銀色のスチール製の異物が光って横たわっているのが結構異様であった。
もうすでに他に一本庭隅に大分以前から一本置いてある(これはできるだけ見えない陰に(笑)。
最近余った二本は、どちらもまだ十分に使える物なので、一本だけでも利用しようという事になった。
午後一番、下からわたしが、二階ベランダから長女が受け取る形で、竿渡しを行うことにした。
上のベランダには竿が一本しかなかったので、多少便利さも増すか、どうか。

今日は何と言っても、この物干し竿リレーが、一番大きいイヴェントとなった(笑。ほんの一瞬の出来事であったが。
ちょっと前まで、重い物などほとんど持たせていなかった娘にいきなりデカい重々しい物を持たせてみたのだ。
わたしも躊躇したが上から長女が柵越しに手を伸ばしているのにスッと応えて手渡すことになった。
空は真っ青だった。
彼女はそれをしっかり掴み、ニコッと笑うので、そのまま急いで庭から玄関へ二階へと駆け上がり、長女の後ろ姿を認めると、思いの外余裕でいるではないか。
すぐに竿を受け取り、無事に二本目を上に渡した。
別に竿が二本になったところで、どうというものではないのだが(笑。

彼女は流石に下から手渡されたときは、緊張したそうだが、手に取るとどうしようもなく重たいという程ではなく、持ちこたえたという。
余裕どころでは実際なかったようだが、やはり頼もしいものだった。
少し前までは、こんなことを手伝わせるなんて思いもよらない。
それが自然に頼めるようになっていた。
知らないうちに育っているのだ。
長女も次女も、共に、、、。


もう一本の竿はいらないので、元々ある竿の隣まで持って行き、視界から消した。
この先、何かの機会に廃棄することになるだろう。

今日は夕刻から実に眠くて困った。
昨夜は無理せずやって行こうという趣旨で、書かずに寝てみたのだが、、、
無理にブログを休むと調子が狂う(笑。
やはりいつも通りにやってゆこう、と思う。


ドルチェ~Dolce

Dolce.jpg

すでに二週続いて木曜日にブログを休んでいる。
定休日にしたつもりはないが、確かに木は忙しく、疲労も溜まり混迷も極める。
ブログなど手を付ける暇もなかった(毎日休みなく書いていた時期も木は余裕はなかった)。
家族と大喧嘩するのも木が多い。人に言う事ではないが(爆。

やはり一か月休んでから、ブログを書くテンションが明らかに変わった。
レイドバックした。
以前はブログを書くためにいちいち映画を観たりしていた。
当ればそれはそれでよい機会であるが、ハズレだと悲惨な想いになる。
自分に合う合わないではなく、明らかにつまらないものは、つまらない。

しかしいくらつまらなくても、SFは観てしまう(笑。
そういう体質なのだ。
勿論、詩的で神学的なものにも強く惹かれる。
だが、現実の上なぞり的な現状確認レベルの噺はつまらない。
わざわざ作って観てどうするのか。

今日は休んで寝ようと思ったが、ビール呑みながら少しだけ書いてみることにした。

娘が自分のピアノがどのように弾けているのか確認するための実に簡単な録音システムを用意した。
単にピアノ脇にレコーダーとパソコンをセットしただけのものだ。
すぐに弾いた後確かめられるようにした。

フルートでつくづく思ったものだが、ブレスを基本にしてリズムがしっかりとれていないと、思いの外ヨレヨレな演奏で恥ずかしい思いになることがある(吹いている時にはそれ程気づいていない)。
ピアノもまずはリズムができていないと聴けたものではない。
次女はせっかちな性格がそのまま出てしまう。
自分の対象化のひとつのツールともしたい。

長女の楽譜に”Dolce”が付いていた。
わたしはDolceが好きだ。
レストランで料理のコースの終わりにDolce~デザートが出されるとホッとする。
やさしさ~甘さ~柔らかさ、、、最後にとっても癒される。

そんな風に弾くようにという指示である。
もう勢いよく叩きまくっている。
風情がない(笑。
取り敢えず間違いなく弾くぞと言うところであり、まずはそこなのだが、やはり気持ちは最初からもちたい、、、。

わたしも日々を”Dolce”でいきたい。
木曜日は特に、、、(爆。



物語作り

horror.gif

次女が物語作りに凝り始めた。
「ホラー」好きなので、その線である(笑。
パソコンに入力し、音声合成ソフトを通し、読み上げさせるのが面白くて仕方ないみたいだ。
ノート(紙)にこっそり物語を書き進め、何処かで意を決して友達に見せる(何らかの形で発表する)、とかではなく、その都度パソコンに読み上げさせ、大笑いしているのだから、、、どういう創作なのか、何ともよく分からない。
しかもホラーのはずだが、そんなに可笑しいのか?
自分たちが親しんで来た例の音声で読んでくれるのが嬉しいらしい。
(お気に入りの声優さんに自分の書いたものを読み上げてもらっているような、「こそばゆさ」は感じているのは分かる)。

いつも、iPad(今は取り上げている)で見ていた合成音声によるギャグ的な「ゲーム解説」ものみたいな感じで自分も作ってみたくなったのか。
しかし内容はあくまでホラーで、、、。
いまは分節の「間」の取り方を工夫している。
確かに怖さを演出するには、「間」と話す速度が大切だ。
他にも要素として抑揚(イントネーション)などあるが、一本調子がこのソフトの特徴でもあるから、そこは変えられない。

ゲームもスウィッチでやる「ゼルダ伝説」以外、パソコンゲームは全て「泣かせるホラー」系のRPG(role-playing game)ばかりだ。
いつもホラーゲームをやっては、感動した、と言っている。
それをこの面白ソフトをもって「騙り」でやろうとしているらしい。
どんなものになるのか。
いまのところ、全く怖いなんてものではない。
取り敢えず文章にはなっているが、まさに小3女子の噂話だ(爆。

そのうち、女子会で発表するかも、という。
わたしとしては、それを動機付けとして、ローマ字(入力)と文章表現の練習に役立てられれば、文句はない。
その発表の時にはわたしも混じって聴いてみたい。
爆笑が起きる可能性もある(わたしは笑わぬように気を付けたいが)。

そんな感じで横道に逸れているのもよいが、今日はピアノはふたりとも上がらない。
それはそうだ。練習していない、、、。
本業をしっかりやった上で、いろいろやってもらいたい。
とは言え、人間余所見や道草や回り道が好きな生き物である。わたしもそうだ。文句は言えない(爆。

しかし長女に頼まれて、譜を入力して聴かせてみたのだが、案外それで安心させてしまったものか?
譜は苦労して何とか自力で読みとる過程が大切であろう、という教育的不安は感じていたが、聴きながら読むのも悪くはないと思うが、、、どうであろうか。
それよりパソコンで遊ぶ可能性の方に(特に次女は)注目したか?
それはそれで構わないが。

技能を身に付けるには、極めてアナログ的で継続的な練習~我慢と努力は欠かせないものである。
(自分がこういうことを書くとは思わなかったが)。
その為の愉しい支援ツールとしては、これからも上手く役立てたい。


しかしパソコンのアプリケーションがあることで、何をやりたいという意欲が生まれ、その逆ではない。
ちょうど、手紙というものが発明され、それを書くという欲望~習慣が生まれたのと同様に。
起源はたちどころに隠蔽され倒錯する。
あたかもそれを欲したからそれが(手段として)生まれたかのような物語が成立する。
国家がまさにそれだ。


さて、作りかけのモノを全て保存して眠ろう。

花を植えまくる

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これまでわたしは、サボテン・多肉ならそれ用の培養土、観葉植物一般ならその土、バラならそれ用、ランならその土という感じでお任せ土を使ってきた。
しかし、農業の研究をしている叔父のところで読んだ本の影響で、それはやめた。
かと言って専門的なところに走る気も余裕もない。
ただ、土は無菌の(衛生的な)赤玉土(小粒)に鹿沼土(硬いもの)、そこへパーミキュライトと腐葉土(葉っぱのみで作ったもの)を適度(わたしの場合、丁度良い色合)に混ぜて、植え込む。挿し木の場合は、100%鹿沼土にする。
観葉植物も100%鹿沼土でもよいらしい。
酸性が強いため、それを好まぬ植物には向かないと言われているが、日本の植物なら問題ない。
日本は元々雨は酸性である。

海外から取り寄せた花であれば、調べる必要はあろう。
なんでもラン科の植物(対称性を破る生物のひとつ)も鹿沼土のみでスクスク育てている「鹿沼土専門家」もいるそうだ。
基本的に、ほとんどの植物は赤玉(弱酸性)などと一緒に使っていって問題ないはず。

わたしこれまで、根腐れでかなりサボテンや観葉植物を失ってきた。
サボテンなどポーカーフェイスであるため、死んでいても活きてるような顔をしているから気付かないでいたこともある。
或る夜、疾風に乗って鉢の上をシルクハットの如くサボテンが滑るようにすっ飛んでいったときは、言葉を失った。
根が腐って、それがそのまま本体全体に及んでいたのだ。
とっても軽そうであった。外皮だけだったのだ(拝。
余りに呆気ないお別れであった。
そのころは、ひどく忙しくほとんど何もしてやれなかった。

しかし、そうではなく、ホントに何もしなければまだよかったのかも知れない。
水と肥料を時折、与えていたのだ。(風通しと日光の問題はなかったとは思うが)。
水と肥料の分量と与える頻度がもとで根腐れが起きた可能性が高かった。

だが、叔父の書籍によると、一概にそうも言えないようなのだ。
出来合いの培養土を使うと最初の内は水はけと保水性もよいように窺えるが、暫くすると急速に固くなる。
これは体験上、よく分かる。
水はけが悪くなるだけでなく、悪い菌も繁殖する。
その辺が、根に悪影響を及ぼす。
頻繁に植え替えをすればよいかも知れぬが、それはなかなか出来ないし、その作業で根を痛める場合もある。
結局、菌のいない硬質の赤玉や鹿沼土を使用して自作することが好ましいようだ。

植物による比率も本には詳しく載ってはいるが、わたしは自己流でやっている(やりはじめた)。
色的に丁度良いところで、植えている(笑。
最後に土の表面には隈なく鹿沼土を覆いかぶせる。
水の湿り具合がよく分かるし、清潔感があるため(実際清潔で、虫も避けるみたいだ。粒の形状からも)。
更に、鹿沼土に場合、多少水をやりすぎても適度にはけ、菌もない為、根腐れは起こし難いという。

見た感じそのように思える。
暫く、この線で面倒をみてゆきたい。


今日はピアノのリズムがいよいよ難しいと言ってきた長女の為、MuseScore(UNIX系のフィナーレに近いソフト)に写譜してパソコンで聴かせた。実際に自分で弾きながらなんとか掴んだ方が勉強になるかとも思ったが、、、聴いてもそのまま弾くのが難儀そうであった(笑。
そんなことをしているうちに、読書もままならず、今日は終わりだ。
自分の過去に描いた気に入った絵をここのところ毎日探しているが見つからない、、、。
そんな感じで、、、一日が短くてほとんど何もしないままに終わっている実感がある。
だがホントに短くなったみたいだ。
その上今日は、午前中を歯医者で潰したのが痛かった(文字通り痛かった)。


学生時代は結構、長かった。
今思うと確かに、いろいろ出来たものだ。
そういうものかも知れない。

ゲーム機移動

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いつの間にか育児ブログと化しているこのブログ(笑。
今日ゲーム機をわたしの目の届く場所にあるディスクトップパソコンのパネルに繋いだ。
つまり、居間(ほぼプレールーム化している)のテレビからゲーム機を切り離し、少しストイックな環境にゲームを接続し直そうとした。宿題と分離しない背中合わせの環境だ。
パソコンはHDMIから DVI-Dに代え、スウィッチを優先して接続することにした。

スウィッチはHDMIのみだし、変換などメンドクサイ(出来るかどうかも調べる必要がある)。
ただちょっと驚いたのは、次女がノートにも同じ形状のコネクタがあるのを知っていて、自分がよくやるゲームの入ったノートにも繋げると、何とか自分の領地内にひき込もうとしたことだ。
確かにHDMI端子はどれにも(最近のノートには)ついているが、生憎ノートは会議プレゼンなどで利用する大型ディスプレイへの出力専用である。この端子を知っていただけ、意外であったが。
日々、彼女らにはちょっとだけ驚きと違和を感じる。

結局、わたしの管理下で(これまでは居間でおやつ食べながら適当にやっていた)宿題を自分の机でしっかりやってから、ゲームを30分だけすることとなった。
これで一件落着とまではいかないが、ダラダラやったり、ナガラでやることは防ぐ流れとなる。
宿題はあっけなく終わり、すぐさまゲームとなる(笑。
わたしも彼女らのゲームの手さばきを繁々眺める機会となった。
よくまあ、ここまで身体化したものだ。
わたしの目線を気にしながら自分のテクを披露したり、わざと派手で変化に富んだ面白い場面に迂回して見せたりしていることが分かる。得意になっている(爆。
ゲームもより面白くなれば、それはそれでよい、、、特に何かを期待はしない。


噺はいつものように飛ぶ、、、
今日は日中やたらと水(ストレート)で、モノを清めたくなった。
古い虫かごや水槽など片っ端から水で洗いまくった。
昼間は陽が強い為、干せばすぐに乾く。

本も読み直している。
マルクス関係のモノ。
「価値形態論」

すべてはことばの問題だ。
関係~差異(の戯れ)によって成立する価値。
しかしその起源はすぐに隠蔽されそれ自体で成り立ったように(価値の内在化として)倒錯する。
超越論~形而上学的システムが自明化する。

無意識にもっと迫る必要から、「価値形態論」というテクストが気にかかる。

本質に足を掬われてはならない。
寧ろ移動が肝心だと思われる。
真理をつかみ取るとかいうのではなく、テクストとして読む~関わる、という行為。


”エストリルのクリスマスローズ”のマルクス論を(テクストとして)拝読し、わたしの場所に繋がった部分とも思える。
考えてみれば、読むという行為はテクスト(叉は断片)として読む以外の関わり方があるだろうか、、、。



スケートに行く

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我が家にとって、第四の公園がある。
そこは普段は宇宙科学研究所に行った帰りにちょっと寄るくらいのところで、メインに訪れることはない。
わたしにとって少し殺伐とした印象があるからだ。
木でできた大きな遊具がいくつかあり、子供は無心に遊ぶが基本的にそれだけである。

噴水を眺めながら芝生に寝っ転がれるところはなく、樹木の間を零れる日差しに擽られながら延々と歩けるわけでもなく、、、
花々や動物もこれといっていない(野生のそれが少しばかりみられはするが)。
だから憩えないのだ。

しかしそこにはスケート場とプールがある。
プールは家にもっと近い、第二の公園(スポーツ公園)にしっかりしたものがある。が、スケートはそこでしかできない。
贔屓の本田真凜の影響か、ともかく滑りたくなったのだそうだ。

久々に行くと、駐車場には停められず、臨時駐車場まで、満車に近い状況に驚く。
知らなかったが物々しい消防隊の行事の日であり、いつにない人数が押し寄せ一斉にビデオ撮りをしているのだ。
最後は、君が代で締める。終わると人々の大移動が始まり、しばらくの間、その周辺の交通が帰りの車で麻痺していた。


スケートリンクは程よい混み方である。
最初は手すりの掃除をしていた二人も、30分後には中央に滑り出していた。
こどもは何にしても慣れるのが早い。勘も戻って来たか。

中央のコーンに囲まれた輪の中では、ジュニア選手と思しき少女たちがフォームチェックや時折スピンなどを優雅に見せていた。
流石に、助走距離のない中でループはやらないが、動きはシャープでキレが光る。
ちょっと時間をとり全面使って、彼女らのダブルトーループくらいは見せてもらいたい気がした。

わたしは新しい靴の靴ズレで踵が痛くて今日はスケートどころではないのだ。
しかしスケート場で見守るには些か軽装過ぎた。
だんだん観覧席の寒さに居た堪れなくなる、、、。

こういうところに必ずいるテク自慢の上級者がたどたどしい動作の客の間をアクロバティックな滑りで縫って行く。
確かに上手いがスレスレにかわされた初級者は時折かなりバランスを崩している。
それからサッカーのスライディングみたいな勢いでところかまわず転ぶ子供。

以前、長女はそれにぶつかり足にかなりの怪我を負った。
そのため暫くスケートはやらなかった経緯がある。
今日は周りを注意しながら滑るように促しておいた。

ついに寒くて耐えられず、席を立ちあちこち探して見て周ったが適当な場所が見つからない。
そこで仕方なく、わたしは臨時駐車場の車に戻どることにした。
車の中が一番暖かくて居心地が良い。時折、リンクを見に行く(笑。

その後、休息をとりながら3時間彼女らは滑り続けた。
中ほどを転びもせず滑れるようになったようだ。
指導員にも手ほどきを受けたという。

かなり疲れたはずだが、帰る前にやはり遊具で遊ぶ。
そしてようやく車に乗る。
「スケート上手になった?」「うん」以外に答えはなかろう(笑。


実際、この時期はやればやっただけのものが残る。
手応えはある。
歳をとってからではこうはいかない、、、

この次はわたしも滑ることにした。





公園で遊ぶ

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陽が燦燦と降り注いでいるので、公園に車で行った。
娘ふたりと三人で。外の陽の元に出さない事には、ゲームばかりしている。

しかし長女はまだ宿題を終えていないため、帰りは早めという事にする。
道はいつもより空いており、駐車場も余裕があった。

何故だろう。
普通の土曜日なのだが、、、。


最近、乗っていなかったポニーに久しぶりに乗りたいという。
いつも行列なのに、今日は空いていてすぐに乗れる。

楽しかった?と聞くととても良かったらしい。
馬がとても可愛かったそうだ。

自分にとって馬がいつの間にか、可愛いという存在になっていたようだ。
新しい感覚でポニー体験ができたみたいだ。


これまであった雑貨屋とラーメン屋がなくなっていた。
替りにケータリングのカレーとクレープの販売車が店の前に停まっていた。

両方で食べた。かなりの客で賑わっていた。
なかなか美味しかった。(「淡路島カレー」はまた食べようという事になった)。

空になった店の閉まった扉には「オーナー募集」という貼り紙があった。
次はどんな店が入って来るのか、、、客は正直である。そこを認識していれば集客は見込める環境だろう。

最初は大繁盛でも、何故か次第に味=質とサービスの低下をはっきり感じるようになる。
新商品の投入というような企画性も見られないうち、誰もが弁当持参(コンビニ含む)で来るようになっている。

何よりも新鮮な刺激を与えるものに人は惹かれると思う。
驚きまで行かないにしても、ハッとするところに自然に足は向く。

活気がなくなり黄昏た雰囲気の建物に、爽快で晴れやかな気分を求めて公園まで来て、あえて入る気はしない。
そう考えると、ケータリング形式でさっと来てはさっと去る感じは、公園では特にフィットするのでは。

公園の魅力は空であり木々や花々であり空気であり、木漏れ日の路にある。
飲食は二義的なものであり(それを目的に来る場合は大概お弁当だ)、環界に対しオープンである方が利用しやすい。

ベンチに座って食べてみてそう感じた。
日差しは強いが解放的な所は、思いの外気持ちよかった。


かくれんぼをして遊具で遊んで帰る、ほぼいつも通りである。まさにこれをしに来る。
ただ、いちいちうるさくなってきた。歩いて遊ぶだけではない。

理屈をこねるのだ。反論したがる(笑。
一体誰に似たのかと思ってしまう事もある。


宿題が残っている人が一人いるので、まだ日のあるうちに帰路につく。
やはりいつもの混み具合ではなかった。射す陽は強いが、寒かったからだろうか、、、。

ストレスフリー

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ストレスフリーな生活を送ることにした。 何であっても。
まだ、、薬はどっさり飲みながらの休養中であることに変わりない。
これまでブログも毎日更新しようという意識~拘りの元でやって来た部分もある。
これからは、昨日みたいに忙しいからやめておこう、という選択もありにした。

確かに、生活、家事、こどもの面で大変忙しく、「絵」でも迷いがある。
まだ、病休~仕事を辞めてからの新しい生活のスタートは切れていない。
何を置いても、まずは体調である。
そんな折、ポカポカ陽気の散歩が格別であること。

そして全ての障害は隅々まで取り除く。
きれいさっぱり片付けること。
最近、ゴミ出しがとても気持ちよくて癖になる(笑。
そして植物の世話である。カメもやっているが。

生き物に注意深くしなやかに接する。
恐らくこれが健康の秘訣になる気がする。
夢想の時間である。
陽の光の中で。

普通に生活を送りながら瞑想しているような状態に保つこと。
ストレスという言葉を忘れる。
どうでもよいことを片っ端から忘れる。
陽の温かさを吸収すること。

まだ外気は寒いにしても。





いつも通りの日~"just a perfect day"

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流石に笑ったが、お昼に帰って来てから、明日の予定書いてくるの忘れたと、普通に言う長女。
どうするの?と聞くとまた学校に見に行くといって、予定帳を手にとる。
でも学校は一般用の玄関以外はもう閉まっているはずだよ確認すると、うんそこから入るからいいよと返す。
じゃ、行っておいでと言うと、一応一緒に行ってと来たものだ。

わたしも甘いなと思いつつ、また長女と手を繋いで下校後の学校に向かう。
忘れ物をして、これまで何度ガランとした放課後の学校に一緒にくっついて行ったものか、、、。
だが今日は時間的に早かったせいもあり、すぐに道端で長女の同級生三人と出会う。
彼らに名前を呼ばれた長女がそれに応える調子で、タイミングよく明日の持ち物と宿題を聞き出すことに成功した(笑。

しかしよくちゃんと覚えているものだと感心する。
手帳に書いても、いちいちそんなことを頭で覚えているものかと。
わたしは、メモしたらきっと頭には残さないだろうな(笑。
三人ともすすんで丁寧に教えてくれるではないか、、、時間的にも労力の上からも助かった。

われわれ親子はその要件を澄ますと、お礼を言ってサッと踵を返した(笑。
帰りの道すがら、最近潰れたヘアサロンの跡地が整地されているのを眺めて「おもちゃ屋になればいいなあ」と長女が呟く。
確かにおもちゃ屋が出来たらわたしも嬉しい。
兎も角、もうコンビニと歯医者はいくらなんでもできないよね、という予想ではふたりは一致した。

わたしとしては、現実的に以前あって重宝したホームセンターが欲しい。
ちょっとサンダルはいて駆け付けられる距離にホームセンターがあると便利で助かるのだが。
だが、おもちゃ屋は夢だなあ、、、。本当はおもちゃ屋ができるくらいであって欲しい。
一つの街に、おもちゃ屋がひとつないなんて本来とても寂しい事ではなかろうか、、、。


その夜~。

ピアノがふたりとも(長女は二つ同時に)上がったため、iPadを短時間でよいから見せてくれと交渉に来た。
何でゲームで時間を取っているのに、iPadも見るのか聞くと、ゲームの攻略法をiPadで探して研究してるのだという。
そう言えば、あのコンピュータ合成の一本調子の音声による変な騙りはそれだったのか(ちょっとアキラ先輩に似ている)。
あの延々と続く妙な騙りを聴きながらニヤニヤしているのは、それなのか。

学校の学習でそれくらい熱心に取り組めば、かなりの秀才だぞ、これは間違いなく。
というと、こちらでも結構頭使ってるんだよね、というような返答である。
確かに素早く慎重な問題解決をその都度迫られるゲームだとは思うが、、、迂闊に動くと死ぬし。わたしも初めに死んでいる(爆。
頭のトレーニングになっているとかといえば、そういう部分はあるだろう。

わたしの歳になると、かえって手指による精確で迅速な操作は、衰え防止に役立つように思える。
度々彼女らからこのゲームやってみて、とは勧められるのだが、やってる暇がない(最初勧めたのはわたしだが(爆)。
それにあの習熟度をみると、アクロバティックな芸のような感じすら受け、今更やる気にならない。
是非、ピアノもそうなって欲しいものだ、ホントに。


iPad交渉は明日、正式に行うことにして、今夜は寝ることにする。
次女とスポーツバギーを作ることは、そろそろ始めたい。
寝るのが遅くならない程度に。
公園で出来上がったら飛ばすことにする。

さて、本読んでからドローイングして、わたしも眠ることにしよう。


n-1の試み

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3学期が始まったかと思うと、明日はピアノだ。
もう毎回、一つずつ上がれるような簡単な曲ではなくなっているが、一応、落ちるなよとは言っておく。
こちらとしては、2回で一つ上がれればよいという心積りではあるが。
しかし、この休み中のダラケぶりでは明日は危ない、、、。

ピアノを新しくしたのに、何故こんなにシラケているのか。
練習の楽しさより辛さが勝るようではそれまでである。
どうも尋常ではない。
何かを変えなくてはならない。

明日の学校の持ち物でも見つからないものが出て来て、大騒ぎである。
勿論、わたしが見つけて渡すと、それどこにあったの?である。
もうそろそろわたしも体力的限界で、面倒見切れない(笑、いやホントに。
いろいろ工夫はしてはみるが、すぐに散らかして不明にしてしまう。

エントロピーは確かに増大する。
物の管理は難しいものか、、、(わたしもよく置き忘れはするが、、、)。


娘は、主体として余りに脆弱なため、それが出来ない点が大きい。
多くのルーチンを(ルーチンであるべきことを)人に依頼している部分が多すぎるのだ。
依頼していることにまだ気付かない。
実際の事柄にしても精神的にも。
それで押さえるところをことごとくやり過ごしてしまう。
その上でアイテムへの依存性が大きすぎる。


実際に、ゲームをやってiPadで何やらずっと見呆けた後で、色々探し物をはじめたりするから夜更かしにもなる。
次の日の目覚めにも影響大である。
親として取り敢えず、iPadは使用禁止とした。
この怠惰な受動性と依存性はマズイ。

何でも使い方の問題である。
しかしそれが制御できない。
一種の麻薬である為、依存性も極めて高い。

依存は精神にとってよくない。
自律にとっても自立にしても。
依存はきっと無意識~身体性を蝕む。
もっとも怖い。
精神を蝕む。


浄化である。
「それ」なしで暮らす。
n-1をすべてに、、、。
今年は、それをテーマにしようか、と思う。

わたし自身にとっても。



明日から学校

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制度としての時間を意識する生活となるが、時間を忘れる愉しい事が少しでも多ければ良い。
気が付いたらもう帰りの時間だった、、、なんて感じで過ごせれば、言うことない。
まだかなあ、とずっと思いながら過ぎる時間の長い事。

まあ、最初の取っ掛かりだけの問題ならば、その流れに乗せればよいだけである。
前日早く寝かせようとしたが、なかなか寝ない。
ダラダラ、伸び伸び過ごしてしまったこれまでの日々より若干、早く寝た。

明日、早めに起こすだけである。
そこにかける。
フリーズしなければ、帰りまで普通に暮らしてくるものだ。

学校という集合場所に集まれればそれでよい。
暫くは、それを習慣化し、そのなかで自分のことばを見出してゆく。
制度を受け容れつつ創発性を発揮してゆく過程である。

兎も角、人間、朝が大事だ。
(夜の準備なしにそれは無理だが)。
朝の出だしが肝心であることは間違いない。

後は何とかなるものなのだ。
わたしの実感からして。
勿論、すんなりは無理だとしても。


さて、わたしも眠ろう。
朝の再生にむけて。
朝は確かに気持ちはよいのだ。


O君とバイクと「ひげまんじゅう」

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O君が久しぶりに、猫の縫ぐるみを沢山もって尋ねて来てくれた。
巨大な猫ひとつ。小さな猫5つ。
バイクでの訪問である。
こんなに大きな猫をよく持ってきてくれたものだ。
何と謂うか、大きい猫は、抱いて寝るにはちょっと大きすぎるくらいのサイズだ。
O君は大の猫好きである。
わたしもそうだ。大学の頃までは、常に猫と同居していた。O君は今も途切れなく同居している。

猫たちの名前(総称)は、「ひげまんじゅう」という。(株)アミューズ)
そのひげまんじゅうとは、「くちのまわりのふくふくしたひげの生えているところ」を指すらしい。
それがかれらのかわいらしさを象徴する部分で、呼び名にもなっているようだ。
個々の名前は、またそれぞれあって、「みーさま」、「黒豆」、「ふくにゃん」、「あんこ」、「まるこ」とかついている。
それぞれ顔つき~目つきが異なり、随分表情も個性的だ。
猫の特徴が可愛く抽出され柔らかく造形されている。

リンゴもいただく。
子供がアップルパイが好きだから助かる。
よくこれだけ沢山のモノをバイクで持ってこれたと感心する。

世間話をしながら七草粥と梅干、キムチ、キンピラなど極めて普通の家庭料理を振舞う。
O君が来て30分くらい経ってから娘たちが温泉から帰り、床に並んだ猫たちを見てすぐに飛びついた。
当然の如く、どちらが大きい方をもらうかで、二人の間で真剣な取引が始まった。
どうにか話が付くまでO君はそれを面白そうに見ていた。
二人とも縫ぐるみは大好きで、長女など5,6体の人形からその時々の気分で選んだものといつも一緒に寝ている。
恐らくその大きいのとも寝るのだろう。
布団に入ればよいが。

驚いたのは、それらの猫は全て彼がゲームセンターのUFOキャッチャーで獲得したものだという。
うちの娘も近頃いっちょ前にゲームセンターでお小遣いで遊ぶようになったが、何も獲得できずあっという間に終わってしまう。
ゲーマーの次女は凄いと言って、尊敬の眼でO君を見ていた(笑。
その後ふたりは、直ぐに「ゼルダ伝説」を始める。
もうゲーム中心の世界になっている気がして来る。
わたしだけがゲームをしていないような気もする、、、。

とは言え生きる事全部、ゲームと言えばゲームだ。
とてもエモーショナルなゲームを生きている。
-ハンデで始めたゲームかも知れなかった。

昔の友人と話していると、やはり記憶も呼び覚まされる。
S君の「絵」の噺と共に、その周辺を巡って、、、。

何とO君の会社でS君の絵が25枚くらいデジタルデータ化されているという。
つまりすでに画集になる品質にあるという事だ。
主要作品の四分の一ほど済んでいるというのは、いよいよだな、、、と思った。

しかし、どう出るか(展開するか)はあくまでS君の気持ち次第である。
周りがとやかくいう問題ではない。
わたしは、純粋なアートとして紹介されていけばよいな、と願っている。

O君は、大きいのをまたひとつ持ってくるね、と言い昏い闇の中をバイクで帰っていった。
O君が無類のバイク好きであることをはっきり想い出した。
大学の頃から、よく乗り回していたものだ。
うちの父もバイクを14台乗り継いだバイク好きであったが、バイクは速度をダイレクトに感じることが出来るもっとも身近なアイテムかも知れない。
存在速度を上げる恍惚感。
これはヒトにとって本質的な(郷愁に染まる)快楽のひとつだろう。






濃密な無音

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うちの娘たちは温泉が大好きで、今日はお台場にある温泉に朝早くから出掛けて行った。
その帰りに温泉からそう遠くない義兄の家に泊まる。
夜はそれで実質わたしの他は誰も家にはいない。
明日も、夜まで帰ってこない。

人の声がしない夜を過ごす。
暖房の音が微かにするだけ。
朝と違い、鳥の音も聴こえない。
夏ならかなり遅くまでセミの鳴き声が響くものだが、、、。

濃密に充満する無音が圧迫する。
やはり、自分の目の届く範囲に彼女らが息づいていることで安心できるものがある。
たまにはこの空虚感もよいが。
伸び伸び出来るかと言えば、そうとも謂えない。

今日は昼間から、コズミックネクストの「第九惑星」と映画の録画で入っていた「蠢動」、「ゴッドファーザーⅡ」といつもの「ぼのぼの」を見ていたらもう日が落ちていた。(第九惑星に惹かれる)。
ここのところ一日があっという間に終わっている印象なのだが、今日はそれが特に顕著であった。
周囲に異なる時間の流れがないと、殊更単調な意識流を生きる羽目になるようだ。

学校がまた始まると、例の切れ切れの時間が重層してくる。
これもじっくり沈潜して何かに取り組むことは難しくなる。
明日は誰もいない我が家に、友人が顔を見せに来てくれる日だが、其れを機に新しいルーチンを自らに課したい。
絵と読書、、、それから、、、効率的な運動である。




アミーボを買いに

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昨日は疲労からほとんど何もできなかった(疲。ブログもアップしてない。

今日は午前からamiiboというのを娘たちと買いに出掛けた。
(それはお年玉で買うという約束で)。
スウィッチのゲームに登場する「キャラクターにちなんだアイテムや能力をゲット」するための装置で、形はそのキャラのフィギュアである。
しかも自分の育てたキャラクター情報をそこに書き込んでゆき、自分だけの amiiboになるという。
使い進めるうちにきっと愛着も増してゆくはず。買っても良いな、とは思ったが。

今一つよく分からなかったが、彼女らがネットで調べた amiiboがしっかりデパートのおもちゃ屋に並んでいる。
成る程、見た目はゲームのキャラクターフィギュアだ。よく調べたものだ。わたしが知らなかっただけか、、、。
世の中、知らないことは実に多い。そして若い世代はともかく見つけるのが早い。
しかし一軒目には、欲しい人気 amiiboは売り切れており、少しローカルな二軒目のデパートに行くと、狙っていたものが残っていた(笑。
早速、長女は「ゼルダ姫」、次女は「馬に乗ったリンク」(主人公)を選んだ。
本当にこれがゲーム上で作動して世界を広げてゆくのか、、、ちょっと心配もあった。

ついでに彼女らのショルダーバッグもバッグ屋さん?で購入。~いつもコアラちゃんバッグを手に持って行動しているのが心配で~こちらはわたしが払うという事でわたしの使っているものより高いものを二つそろえた。(ただし次女のモノは長女のより一回りサイズが小さい。その方が可愛くてよいそうだ。ともかく拘る(苦)。
更にタイ焼と晩の料理の食材も買って、急いで帰路につく(勿論、アイテムを早くやってみたいからだ)。
帰るやいなやすぐに二人はamiiboを取り出して普通にゲームを始める。
凄い。コントローラーにフィギュアを乗せる(Rスティックボタンにタッチする)と、ゲームのコンテクストに合った新たなアイテムがポロリと現れ、それを使って手際よく敵を倒していくではないか、、、。
もう両手のコントローラー捌きは自由自在に意のままに操っており、ピアノもその調子でやってもらいたいとつくづく思うが、、、。
当然の如くamiiboは作動して、娘たちはよりゼルダに埋没してゆくのであった、、、。

上手い商売だ。
こうした広げ方(繋げ方)があるのだ。
これまでの複合メディア商戦でやっているのとは異なる深化だ。
単にあれもこれもの薄い拡がりではなく、そのゲームをこうした形のアイテムの連結で更新してゆこうという。


ちなみにわたしは、本家に行ったときに叔父が購読していた「現代農業」を棚から勝手に取って読んでみて、とても刺激を受けその中で紹介されていた「鹿沼土」の活用法を真似しようと思った。
娘と同じでわたしもすぐに影響を受ける方だ。
面白さから言えば、鶏の効果的な活かし方(これはやたらに面白い)やビニールハウスのコスパの好い一元管理システムの紹介であったが、これらはわたしの世界に地続きではない。しかし観葉植物の鹿沼土での育成法は直接役立つノウハウであった。
晩の食材と共にその土も買ってきた(笑。

本もついでに借りてくればよかったと思っている。
とても面白い情報が詰まっているのだ。
やはりどの分野でも専門雑誌は面白い。その道に拘り抜いた達人や研究者の見解はまず噺としてもとても興味深いものだ。
その上、役に立つ。この雑誌は何巻か、この次叔父から借りようと思っている。


やはり、ふと得た情報で世界は拡がる。
お金は掛かるが、面白い事に使う分には悔いはない。
そういうものだ。


”NewOrder”を聴きながら

blue sky

田舎に集まりヘトヘト~

運転だけで本当に疲れる。
とは言え、本家は「サマーウォーズ」みたいな格式高い厳格で威圧的な構図はなく、とてもフランクな緩い関係である。
勿論、どんな場にも権力構造は生じてくるが、二人で会話すれば自然に生じてくるレベルである。
殊更、威張る人はいない。
跡継ぎの叔父はとても気さくで、もの静かな温厚な人である。
何となく中心に座る人は出てくるが、それが別に気になる程とは言えない。
会話の中心を強引に作る人がいないのだ。だから押しつけもない。
ただ、人が美味しそうにビールを呑むと、呑めない立場がひたすら口惜しくなる。
その分、御馳走をたらふくいただいた。
満腹で、何の文句もない(爆。

庭に出るとまた格別である。
空気の新鮮さと木々に触れる空間の響きに張りがある。
音が聴こえてもとてもくっきりして静かで澄んでいる。

空は真っ青で、畑があり(広がりという程ではない(笑)、小さな川を挟み、200mほど先に木の生い茂る山の中腹を自動車道が走っている。
わたしが小学校一年の時、本家の縁側でぼうっとしていると、その道を同じ年頃の少年少女が歩いてきてこちらを向いて話しかけてきたことがある。何を話したか忘れたが、彼らと話を交わした記憶ははっきりと(鮮明に)ある。
蒼い、本当に真っ青な空だった。その時も。

先程家に帰ってみると、娘たちは車の中で眠っていた。
お年玉でバブリーになり、お腹も一杯で、どんな夢を見ているのか、、、。
家の中に運び入れベッドに寝かすのも大変だ。
いつの間にか相当、重くなっている。


”NewOrder”を聴きながらこれを書いている。
記憶を立ち上がらせようとすると(無意識に触れようとすると)このサウンドが必要になる。
サウンドは常に場所を仮構するからだ。
身体という場所の強度を増す。

今夜はもう少し”NewOrder”を聴き込みたい。
"Get Ready"
これで行く。

NewOrder001.jpg

それでは、、、また明日にでも。


トッド・ラングレンを聴きながら

Todd Rundgren001

映画は午前中に「ワンダーウーマン」を途中まで観た(笑。
ここまでフォーマット化されていて、古いコードの上なぞりはどうにかならぬものか、、、?
特に男女の関係の既視感とわざとらしさに辟易する。
息詰まり、別のことをすることにした。

昼過ぎに長女と買い物がてらウォーキングをたっぷりした(実は店を探して彷徨った)後、iTunesにしこたま入れているトッド・ラングレンを聴きながらモノの整理をして過ごした。
「全能の人」なんて呼ばれる音楽家であるが、やはり音の魔術師であることに間違いない。
マルチプレイヤー(マイク・オールドフィールドに並ぶ)で有能なプロデューサーであるだけでなく、類稀なコンポーザーである。
更に特別なヴォーカリストだ。
一聴でとり憑かれてしまう魔力が、そのサウンドには秘められている。
忽ち体細胞の隅々にまで染み渡るのは、きっと、、、。
そこには、コード進行やサウンドの斬新さを越える(支える)思想的な強度が息づいているのだ。
(音の達人は他にニック・カーショウなど何人もいてその出来には確かに感心するが、トッドの煌きは感じない)。


心地よくて、、、結晶的な快楽感に浸れる、、、健康にきっと良い。
ときどき聴こう。

ざ~と聴いていて、いつもはあまりかけていなかった”Nearly Human”の"Fidelity"が如何にもトッドという感じのリリカルな美しさで手が止まり、暫し聞き惚れた。
(トリスタン・ツァラに近似的人間という詩があるが、あれはとても音楽的な詩であった、、、単に連想しただけだが)。
煌きという点では、”A Dream Goes On Forever”が頂点かも知れないが。
これも本当に良い。やはり非凡だ。
このアルバムは彼の作品のなかでは、地味なものに思えていたが、エッセンスは充分に行き渡っている。

”Healing”も久々に聴いて、癒された。マンマだが(笑。
代表作以外にも名作揃いであった。


さて、寝る前にとっても懐かしい”I Saw The Light”と”Hello it's Me”でも聴いてみたい。
今聴いても最高だろうな、、、。


では、おやすみなさい。





「貞子vs伽椰子」でモヤモヤして寝る(笑

sadako kayako

今日は来客があり3日には本家に集まる。
娘たちにとってはお年玉ラッシュで笑いが止まらない数日間となるか。
ふたりはピアノを聴かせたり、長女はリモコンでロボットを得意気に動かして見せ、次女は「ゼルダ伝説」のゲーム解説をゲーム会社の広報(営業か)部みたいに実演して見せ、満足気であった。
わたしも客人と談笑し、結構体が解れた。
笑う事は、やはり身体に良い。

それにしても今朝のデパート前行列には驚愕した。
駐車場も朝の段階で「満」である。
新年初売りとは、それほど良いものなのか、、、。
いつもより一時間、どこも早く店を開けているではないか。
わたしが子供の頃は、この辺の店は6日ごろまで閉まっていたものだ。

噺を戻し、宿題をふたりとも今日で終えたので、ご褒美に「怖い映画」が観たいというリクエストに応え、「貞子vs伽椰子」というのをみんなで観ることにした。
(それでわたしは実質、お年玉に代えようという魂胆であった)。
笑った後は、思い切り怖がるのも良いかも知れない(怖がれるものであるなら)。
昔、怪獣もので「~VS~」をよくやっていたものだが「おふざけ」が多く、シリアスなものはほとんどなかった。
「サンダVSガイラ」なんていうのもあったが、、、どういうのだったか忘れた。
最近では「エイリアンVSプレデター」が際立つ、、、これはなかなかの力作であった。迫力においてであるが。

どっちに転ぶか、、、ほとんど予想はついていたが、観てみた。

玉城ティナが霊感の強そうな繊細な少女役で良い雰囲気を作っていたこともあり、中盤まではいい感じで怖がらせてくれた。
だが、途中からどうも諸星大二郎の「妖怪ハンター」に出てくるような探偵霊媒師?のキャラが活かしきれない感じがあり、山本美月も今一つ吹っ切れない、、、怖さよりモヤモヤ感と?も次第に膨らみ、わたしが娘たちを怖がらせるため煽ってみせる必要まで生じてきた。
特にその妖怪ハンター氏の策が余りに大雑把すぎて、山本さんが心配するのも無理もない感じであったが、サラっと失敗し一気に壊滅状態に雪崩れ込んで終わる。最期の秘策というのもそれかよ、であって、山本さんの頼ってバカ観た感も伝わる感じさえした(爆。
(あの何でも見通せるような生意気な盲目少女も終盤はただ、キャーキャー叫んでるだけで、もう完敗である)。
特に煮え切らないのは、二人のヒロイン(山本さんと玉城さんではない方の)貞子と伽椰子の死闘がほとんど見られないところ。
もっとがぶり四つで怨念界きっての東西両横綱の対戦をまともにじっくりと観たいものであった。

結局、どうなったのかがはっきりしない。
融合したとか謂っていたが果たしてハイブリッドになったのか、貞子が一方的に勝ったのか、あの人たちは完全に終わりなのか、、、。圧倒的に怨念が人間理性を圧倒したところは分かるしそこは説得力あるが、エンターテイメントとして見ればやはり「貞子vs伽椰子」の闘いぶりが肝心なところではないのか、、、そこが弱すぎる。
このモヤモヤなエンディングは、続編に繋げる魂胆なのか、よく分からないままであった。

娘ふたりは、怖い~?(謎)に移行してきょとんとして、モヤモヤのまま寝る羽目となった。
もし続編があり、山本さんと玉城さんのその後、という感じで出てくるなら(出来ればそのパタンが良い)、これを観た以上、観るしかない感じである(笑。
長女も続きを観ると言っていたが、面白かったから(怖かったから)観たいというより、はっきりさせたいという気持ちからのようであった。わたしも見せてしまったしまった責任上、出たら見せるしかない。

今夜ベッドでどんな夢を見ていることやら、、、。


モヤモヤ映画を見てしまったので、明日は口直しにハリウッドの重量感あるスッキリ計算しつくされた映画~エンターテイメントを一本見せたい。






プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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