
クリスマスジオラマのひとつ。このような工芸品(照明絡繰り付き模型)という感触が、実は絵画作品にも染み渡っている。
改めて(笑、S君の絵を観るとすぐに連想してしまうのが、アンリ・ルソー(様式化した森~動植物など)やポール・デルヴォー(汽車や少女などのモチーフにおいて)であるが、それらとの比較・分析めいたことは、端からするつもりはなかった。
彼の作品のなかの、この僅かな点数と何をか語るには些か準備の足りないところでそれをするのは危うい事である。
しかしあくまでプレ作品お披露目の機会~位置から、少しばかり作品特性を浮き彫りにして確認しておきたい。
余りに周辺的なお喋りに傾き過ぎた感もあるため、、、。
まずルソーとの類似点については、特にこれと謂ってあれこれ挙げ連ねる必要はあるまい。
その動植物の描写の様式性と装飾性がとても人工的でエキゾチックに仕上がっていること、細部への拘り(これはS君の方がずっと上であるが)について殊更強調するまでもない。質感に血縁関係を感じるところは確かに認められる。
それよりも、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。
デルヴォーの場合、決まって始発駅から発車する汽車が描かれており、何処か別の街(世界)に旅立つことだけは予想できる。
S君の汽車は、ニュートリノのようにある方向からやって来ては、通過して行くことが多く、相互作用がほとんど感じられない。
(高速で爆走して横断するキリコの機関車に寧ろ近い)。
しかし宇宙線のように頻繁にやって来る。
情報は受けているのだ。ただ、それをどのような形で返しているかと謂えば、これらの絵の次元としてであろう。
その絵は、とても俯瞰的であり、最初期作品の「夏の午後 partⅠ」(
S君の仕事-Ⅰ)の双眼鏡で景色~テニスウェアの女性を覗き込む紳士の視座に近いものと謂えるか。
この模型を上から眺めるような俯瞰的視座。
われわれも彼~S君となることを要請されている、、、?
再度、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。
これを考えてみるとき、ほとんど「絵の中に入る」ように観てしまっていることを思い出す。
例えデルヴォーの「部屋」が遠近法的にどれだけ歪んでいようが、われわれはその部屋に入っている。
(絵の中の裸婦も頭が天井にぶつかることなどちっとも恐れていない)。
作者~超越的視座も意識などせずに味わっている。
しかし、S君の絵はその視座があからさまな俯瞰でなくとも、微妙にわれわれを宙吊りにしてしまう。
わたしの足場が揺らぐというより足場ということが意識に引っかかるのは、ひょっとしてわたし個人の問題である可能性もある。
(大概、自然界の出来事も相互的な嵌入によっている)。
だがそれらの作品の側には、やはり特異な閉鎖性がその形式においてみられるようだ。
またもしかして、その次元は実は何処かで自発的に破れているのか。
S君の絵の世界の少女やシルクハットの紳士や妖精は、果たしてトロッコや汽車に乗ってわれわれの世界いやわれわれの入って行ける世界に現れることもあるのだろうか、、、。


ポール・デルヴォー「夜の汽車」や「森の中の駅」はS君の絵を日常的高さから見直した絵とも謂える。
S君の絵との違いは所謂、視座のみであろう。(勿論、テーマや描画法の違いはあっても形式的には)。
日常的な普通の身長からものを観る、通常感じる環界の身体感覚である。
わたしもこれらを見るとき、それとなく絵の中に入っていることに気づく。
登場する女性(少女)のポーズや仕草も控えめで、何かを訴えたり仄めかすことは少ない。
その上、S君の場合、後ろ姿が圧倒的に多い。
デルヴォーの女性も造形的に顔に表情がないのだが。
S君の少女は、文脈的に形式的に表情が隠蔽されていた。
「距離」と「高さ」がポイントである。
後ろ姿でももっと近ければ、何かが感知されることもあろうか。
S君の作品はどれも工芸品~模型の手触りに近い。
その表現世界の中に入りその意味~文脈を楽しむというより、それそのものをそのものとして味わう、そんな接し方で絵と関係することをわたしは選んでいた、、、。

光の反映においては、最も美しい絵だ。
ここでも虫取り網を持った少年をうしろから少女が観ている。
その全体像を観る神の目であるわれわれ。
電車は次に向けて直ぐに出発するだろう。

色合いと形体はビビットである。
最初の頃と比べると目の覚めるようだ。
ベタっという感じが全くない。
手前左にいる少女が汽車のなかの誰かに手を振っているらしい。
いや、その先の川で水遊び~魚とりをしている少年たちに手を振っていた。
それとも三輪軽トラックから降りて田んぼ仕事をしているお父さん?に対して何か呼び掛けているのか?
珍しく感情表現(ドラマ性)を感じる場面が挿入されている。
登場人物たちにいよいよ様々な動きとコミュニケーションの芽が生まれてきたか。
とは言え、異様に絵そのものは静謐(無音)なのだ。

箱庭的な風景である。秋のさっぱりした光景にも見える。
かなり日常的な視座から少女がバスのやって来るのを停留所で待っているところだ。
その向こう側ではお約束の電車が通過して行く。
ただ、画面左側を占める木々が妙に小振りだ。形態から謂って大きな成長した木にも思えるのだが異様に小さい。
しかし形から草花とは受け取れない。そこが箱庭的でジオラマっぽい。

家の駅近くの米軍基地の住宅をふと連想する。
少女の眼前の曲がってゆく路は何処まで続くのだろうか?
(この路には魅了される)。
上呂を持って境界に立ち止まる少女には既視感を充分持つが、手にアイテムを持っていることが、絵画世界を饒舌にする。
ドラマ性と生気が揺らぎ立つ。
だが、一歩踏み込めずに彼女は立ち尽くす。

ここでは兄妹の間に明らかに会話が成立している。
きっとS君のお子さん二人だと思われる。
「祝」というメッセージのディズニーランド的アトラクションの乗り物を想わせる電車が普通の夜の商店街にやって来た。
この絵は恐らく子供さんへの何かのお祝いのプレゼント用に描かれたのでは、、、。
こんな絵を貰ったらそれは嬉しい。
(実際、小さな絵である。3号くらいか)。

面白い構図である。
画面上部、水平に鉄橋を走るのは貨物列車の先頭部か?
黄緑の車体であり、下に道を挟んで広がる畑も同じ黄緑である。
左下には黄色いランドセルの少女が何かを見やっている。
植物の上にとまっている白い鳥か。
空や雲や遠方の建造物も含め黄色がポイントである。
そうした時間の記憶がわたしにもある。

また、三輪軽トラックであり、何と少女が荷台に乗っている。
ちょっと映画風ではないか、、、。
電車が凄い森(林?)のなかを走って行く。
お父さん?の運転する姿も垣間見える。
牛が二頭草を食んでいる牧歌的と言いたいところだが、やはり電車が怪しすぎる。
この一見何気なさそうな光景は、かなり魔術的(で呪術的)な気配を孕んでいる。

実に美しい寒色の色調である。
正直、これには驚いた。
このパタン化した白樺?の木は実家の近傍に茂っていたものか。
色彩と色調、色の響き合いがとても心地よい。
全体の調和も申し分ない。
少女が左下の構図から、木に寄りかかりながら横に振り向き牛たちの様子を窺っている。
少女の秘めた想いが漸く感じ取れそうな気がしてくる。
地上に降り立った気分である。
静謐でこころ安らぐ絵である。
繋がってきた、、、。
明日は感動の最終回(爆。