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今年も何とか終わる

StrawberryMoon001.jpg
今夜はさいごにイチゴを食べた。
それで眠ることにする。

深く眠って良い夢を観ようと思う。

一年間の疲れを癒したい。

そして良い目覚めを、、、。

やるべきことは、まだまだあるし、やりたいこともたくさんある。

明日の朝は、目覚めに本を読みたい。

今年は終盤に1か月以上お休みしたが、来年はどうなることか、、、
一言は、毎日書いてゆきたいとは思う。
一日の内に何かしら想うところはあるものだ。


いろいろ有難いメッセージやコメント(電話含む)をよせて戴いた方には感謝したい。
なかにはそうでない、意味不明のもの~礼儀知らずの排泄物もあったが、わたしの文章の内容には微塵も掠るところの無いものであったため、そのままスルーであった(反応しようのないものであった(笑)。
途中休み休みでも1560記事以上書いていれば、一つ二つ不純物が確率的に入り込んできても可笑しくない。
(FC2サービス当局にスパムメール扱いにして削除してもらったので痕跡はないが4日ほど残してはおいた)。


来年は何より、健康に暮らすことを目標にしたい。
やはりウォーキングかな。


それではお世話になった方にはお礼を申し上げます。
よいお年を。

面白さとは

buggy.jpg

長女と一緒に作っていたロボットが出来上がった。
キャタピラで前後左右軽快に走行し、ロボットアームでモノを掴んで、任意の場所に持って行ける。
それだけでもう大喜びである。結構大変だったにも関わらず、「面白かった」を連発していた。

やはり自分で作ったものというのは格別である。
協力して作る経験も格別である。
ただしコントロールには、コツがいるため、これから意のままに操る練習は必要となる。
それも含めた過程において、言語だけによる一方的な指示や小遣いやモノを介した安直な関りより、身体的(無意識的)共感や喜びはあると思う。

今度は独りで作ってみる、と言っていたが、それはまだちょっと、、、それ相応のを選んで好きにやらせてみよう、、、。

この間、二台のパソコンの筐体にシールを貼りまくってデコを愉しんでいた次女と来年初めから、わたしが作りかけて1年半放置していたラジコンのスポーツバギーの作製を再開することにした。
これもなかなか骨は折れるが、今回のロボットから見ればずっとお決まりの工程であるから予想外のトラブルには見舞われないで進むはずだ。

兎も角、一緒に作業は続けたい。
(少なくとも一緒に買い物より得るものは大きい、、、買い物は安易すぎるし、逆効果の場合もあり得る)。
そして面白かったという経験をまずは、積ませたい。


それからついでに、、、。
昨日の「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)で昔の友人から電話があったので、いや正確に言えば要件のついでであるが(笑、、もうひとつとても面白い「もし、、、書いたら」があるので、調子に乗ってご紹介。
(あまりやってはまずいので、これっきり、である)。
昨日の続編、、、。

             包装批評宣言

 カップ焼きそばを作るのにはある種の「不自由さ」が付きまとう。それは五分強、調理に従事しなければならないという不自由さで、しかし、調理の実作業じたいは極めて簡易であるという、逆説的で名付けがたい不自由さだ。

 麺を解体させ、乾燥という物語から生なましい食べ物へ回帰させるには、まず、お湯を入れなければならない。だが、お湯を入れてから待たなければならない「五分」という時間。これは一見、自由な時間に思えるが、しかし、「五分後には必ず戻ってこなくてはならない」という不自由さが、ここにはある。この錯覚され、倒錯した自由さは、同時にひどく凡庸な不自由さでもある。

 この不自由さを規定しているのは「作り方」というある種の「制度」であり、それは「装置」とも「物語」とも言い換えられ、このあらかじめパッケージに刷り込まれ、内在化された「作り方」は、無意識的にわれわれの行動を制御し、今まさに生まれようとしする意識を縛り付ける。

 言葉たちによる無意識的な束縛を避けるためには、言葉の「意味」を崩壊させ、脱説話的に「記号」を「記号」として受け取るのを拒否し、「物」を「物」として見ることを、自らに要請せねばならない。

 われわれは、十九世紀的な「物語」から逃れるために、わずかな意味の裂け目から、「カップ焼きそば」という七つの文字のつらなりを解放し、生なましい本来のカップ焼きそば、「物」としてのカップ焼きそばに回帰していかねばならない。


蓮實重彦氏の(思想文体の)簡潔な教科書的な解説的文であり、勿論、パロディであるがリスペクトを感じさせるものだと思った。
全て冗談で書いているのは分かるが、読んでいるうちに自分もここに載っていないひとのものを書いてみたい気にさせる、そんな面白さがここにはある。

そんな噺を昔の友人と電話でした(笑。


面白い物とは、悉く刺激に充ちている。
そう、何かこちらの身を運ばせる~無意識を揺り動かす~ものでなければ面白くない。






今年を振り返って

Susan Sontag

いろいろと新たに面白いものが発見できた年ではあった。
そのうちのひとつばかり、ご紹介。

ともかく、面白い!

           反カップ焼きそば

カップ焼きそばとは、麺であり湯切りである。これがカップ焼きそばの体験の一番初めの形であったにちがいない。

カップ焼きそばとはソースでありかやくである。これがカップ焼きそばの理論のいちばん初めの形、日清の研究者たちの理論であった。

このとき、たちまちカップ焼きそばの作り方という問題が生じてきた。なぜならソースとかやくという本質ということ自体がすでに、湯切りが先という問いをつきつけているからだ。


「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)菊池良・神田桂一著
から、哲学者(作家)スーザン・ソンタグが、もし、、、書いたらのページである。
こんな調子で100人の「文体」でやられると、何回もお気に入りの作家(思想家)のページを見ては、にんまりして暇つぶしも後悔しないものとなる(笑。
スーザン・ソンタグの本も読み返したくなる。

日向ぼっこしながら見るのに最適であった。

これは、今年の象徴的な出逢いのひとつに数えられる。
また来年も面白い出逢いがあれば、ちゃんと前髪をつかまえたい。



枠を超える

complex system

ここのところ度々出演してもらっているS君であるが、もうひとつの彼のエピソードを絡めて、話したい。
彼は大変泳ぎが上手い。
上手と言っても日本泳法である。
わたしはS君が普通の平泳ぎやクロールなどをやっているのは見たことない。
恐らくそんなのは、お手の物だろう。
「この泳ぎは足で扇子を挟むんです」などと実しやかに話して植木等みたいな感じで人を食った泳ぎを披露していた、、、。


彼の開成高校時代の夏の合宿(所謂臨海学校)ではいつも海岸から向こう岸まで数キロに及ぶ遠泳がある。
泳ぎがいまひとつ達者でない者やスタミナが切れて途中で溺れそうになる者は途中で続出する。
その中から、ボートで見守る教員に対し助けを求める生徒も出てくる。もう必死なのだ。
そんな時、教員は鬼のように突き放し、安易にリタイヤはさせない。助けたらそれまでである。
「先生僕死にます」に対し「死ね!」と返されたり(笑。
勿論、十分な安全管理と精神的なケア~配慮の上になされた指導であるにせよ、その生徒の極限状況はもう限界越えでもあろう。実際、ブクブク溺れてから海面にまた浮上し、何とか最後まで泳ぎ切る。
そして、全員泳ぎ切って終わる。

ここでは、何かを得るというより、枠を打ち破る~再生体験と謂える。
これはある意味凄いし、興味深い。

充分な指導理念と安全管理としっかりした精神的ケアなしにやると、どこかのヨットスクール(または例の新新興宗教の教団)になってしまうが、この身体的限界~枠を超える可能性に賭けた指導は、非常に貴重だ。
人間、道徳の授業などで有難い講和などをぼんやり聞いて何かが変わるなどということは、確率的にほとんど期待できない。
それで認識の枠組みが変わる~身体性が改変されるようならこんなに手軽なものはない。
(また、それほどのテーマ~内容で語られているかどうか、もある。ことばの本質力の問題として)。
勿論、自分が抱えている問題に、噺のなかの単語や文節、文脈が絶妙に絡んで劇的反応を起こし、一気に冗長性が破られ相転換に及ぶなんてこともあるとは思う。
それが世の中~複雑系であるところでもあるし、、、。


精神的な問題を扱う書籍をみると、優れたものの多くが「からだに訴えるワークショップ」を取り込んでいる。
運動、訓練、作業など、それが暴力になってしまっては元も子もないが、その人間の限界を破る目的で適切にプログラムされたものであればこの上なく有効に作用するはずだ。
そのためには、有能な指導者~監督が付き添うにこしたことはない。それがないと大変危険な場合もある。
スポーツ選手が道を究める姿は、様々なメディアを通して顕著に窺えるが、、、。大概名コーチと一心同体みたいに取り組んでいるものだ。

所謂、瞑想にしてもそうである。
カルロス・カスタネダが麻薬を使い意識の拡張を図る実験を積み重ねる間、ヤキインディアンの薬物調合の専門家ドンファンがぴったりと付き添い、コントロールを細やかにして万全なサポートをしいていた。
(アンリ・ミショーやアレイスター・クロウリーは実際どのようなプロセスで実験していたか、、、そのうち調べてみたい)。
新新興宗教の吸引力もその辺の(教祖のカリスマ性を含む)魅力からくるところは大きいと思われる。
どのようなかたちでも指導者はいるに越したことはない。

つまりその対象の枠を明確に洞察できる、外部の観察者の存在である。
これが親であれば申し分ないのだが、多くの場合、親はその立場にいない(資質を持たない)。
それが不幸である。
またそれが連鎖し反復してゆく。
ここを切断する他者~指導者の出現にある意味、人間の運命はかかってくるようにも思う。

それがどのような場におけるどのようなヒトであっても。

ロボットは作ることに意味がある

robt002.jpg

ロボット作りはギヤボックス以外のところで少しばかり進めてはいたが、いつもはちょっとしたことに直ぐに腹を立てたりする娘がここでは指示に従い、失敗して注意されてもしっかりこらえて頑張っている。
これはとても良い忍耐力を養うプラクティスとなるかも知れない。
継続的に取り入れよう。
しかしわたしが自分のことは、ほとんど何もできない(笑。


何と今日はその長女が配線をモーターに繋ぐとき、ちょっと頼りなさげの端子をモーターから引きちぎってしまった。
しっかり配線(銅線)を繋ごうとして絡めた銅線ごと端子も回してしまったらしい。
まだ脆弱な部品を扱うことに慣れておらず、力加減も分からないのだ(笑。
やっちまったという顔をしているので、いい勉強になった、とだけ告げた。

それで、この処置には、半田付けで対応することにした。
それ以外に思いつかないし。
半田セットのボックスを部屋の片隅からやおら取り出し、道具の準備とセットをした。
娘は喜んだ。
部屋そのものがもうお道具箱といった感じだからだ。
そういうのが好きなのだ。わたしも好きだ。
だから昔の秋葉原にはワクワクした。
神保町の古本屋をいくつか物色してからそのまま歩いて秋葉原の怪しげなパソコンパーツショップにはしご、というのがお決まりのコースであった。
懐かしい。
そんな空気感に近いものがある(笑。

わたしは半田付けは得意ではない。いつも半田を大量にくっつけすぎるのだ。
しかももう十年以上やったこともない、、、。
今回もおっかなびっくりやってみたが、コードはついて電流も流れモーターは作動はしたが、半田は付け過ぎた(苦。
娘は単純に喜んでいる。
もう線はモーターに付かないのかとオロオロしていたところだ。

それにしても細かい作業が続くだけでなく、プラスチックの板をカッターで切り取る作業もあり、やはり推奨年齢以上でないとこれはきつかろうと思う。
しかし彼女は初めてなので、模型とはこういうものなのだと思っている。
それでよい。

明日、予定ではメーカーから欠品の部品が届く手はずである。
作業の息も合ってきた。
娘もかなり真っ当な助手振りを発揮している(爆。
部品が揃えば、ギアボックスにモーターをセッティングして一気に仕上げに持って行くつもりだ。
外回り、アーム、シャーシー関係はチビチビ作っておいたので。


それと、、、
次女をここのところ少しほっぽらかしていたので、一緒に買い物に出かけた。
ロボット作りの間、UBUNTUで遊ばせようとしていたのだが、、、
(最近、このパソコンの出番が少なくなっている)。
今ひとつ彼女はUBUNTUノートにはなじめないらしい。
インターフェイスの問題なのかどうか。
ゲームはかなり入れておいたが(次女はゲーマーの為)、やはりWin上でゲームをしたがる。
それは当分、仕方ない。
UBUNTUでしか出来ないソフトを入れておこうか、、、。

買い物では、しこたまシールを買わされた。
女子会で使いたいそうだ。
そう、そちらで遊べるのならその方が良い。
もともと次女はそちらに触手が向いている。
長女もわたしとだが、彼女にしては難易度の高い模型を作ることで、その作業を通して関りにも抑制と忍耐が見えてきた。
結局、ヒト対ヒトなのである。
その関係性を如何にノーマルに保てるかである。
困難な作業の共有~協働というのは、やはり良いと思われる、、、。







サンタさんが来た!

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長女はリアルにサンタさんを信じていた!

20日ごろから次女は、ボクは(欅坂の平手さんの素振りに影響されてか)クッキーの詰め合わせとかよりゲームソフトだからね。
などと斜に構えてそれとなくプレゼントを要求していたのだが、こちらは内心NGを出していた。
かたや長女はサンタが今年も家に来るのかどうか、「スポンジボブ」のTVなど観ながら、かなり気をもんでいる様子だった。
大きな靴下を用意して、一昨日だったかサンタは世界で何人いるの?とか、靴下を吊るす場所を探しながら、サンタは大体身長何センチくらいなの?等と切羽詰まって聞いていた、、、。

そしてクリスマスの日に、靴下に入らないので、玄関にクッキーの詰め合わせの外見はかなりお洒落なクリスマスパッケージの緑・赤の袋が置かれているのを観ると、、、次女は「ぼのぼの」のシマリスのような笑みを浮かべた顔で、長女はパッと目を輝かせて、、、
「今度はゲームにしてね」(次女)、「サンタさん来た!」(長女)である。

かなり成長過程に差が出たというか、個性の差だろうか?
いや、長女も来年には気づいている~現実に目を向けている~はずだが、超越的なモノに夢を託したいという気持ちがさらに強いのだとは思う。

それはわたしも似たようなものだ。
この現実に重ねて、全く超越した他の次元を感得したい。
そもそも、わたしが毎日、植物を気遣って日光や土や水や肥料のことを調整したり、同様にカメの世話をしたり、しているのも、無意識的に、異なる存在の系に触れたい為に行っているところは大きいと感じる。

他の何かを求めている。
その意味での他者を。
無限のパタンを夢想する。
光の中に、、、。
かつていた光の中にだ。
われわれは減速して重み~個性を得たものたちだ。
(いや重みを得て減速したのか、、、)

何かを思い出すために同じことを繰り返しているのかも知れない。
毎日とは、そういうことか、、、。
そうして反復する。
様々なバリエーションを取り込み複雑化しつつ、、、。
畑(極小の)まで耕しているのだ(爆。
反復しながら回帰する。


この現実が平板で固着し、枯渇してゆけばゆく程、われわれは分裂病的に内閉して逝く。
少なくともわれわれが真に健康に生きるためにも、、、
多様性はしっかりと、どういう形でも、保証されなければならない。
存在の本質は多様性であることからも。

クリスマスプレゼント

MurataRobot.jpg
クリスマスプレゼントはお菓子・ケーキ類ならもう幾つも買ったが、おもちゃ的なモノは今年は買わないことにしていた。
モノが増えて困るというのもある。
ただし、出来合いのもので少し遊んでそれでおしまいというのではない、発展性や創発性の期待できるものなら、モノも可とした。

次女はゲームソフトと言うが、すでに充分ゲームに溺れているので、それは却下した。が小遣いで買うと言い張る為、取り敢えず自分で買える範囲ならそれも良しとした。
そこで3人で近くのおもちゃ屋に買い物に行くことになった。


大変鄙びた趣きのある近所のおもちゃ屋で、長女にはリモコンロボット工作キットを買った。
学校で電池と豆電球を使った理科実験をしてから、電気で作動するものに興味を持ち始めたらしい。
彼女はモーターで動くものが欲しいと言うので、プーリーやギアボックスによる動きの分かり易いキットをプレゼントにすることにした。
モーターが三つ入ったロボットハンドで物がつかめるキャタピラ走行するタイプである。大丈夫か、、、。
形の上では、ブルトーザーに似ていて可愛げはあまりない。

次女はお目当てのゲームソフトが見つからず、スクイーズをいくつか買ってご満悦。
(随分違うが、なんでこっちに横滑りしたのか不明)。
たしかに触り心地の良いパンだ(笑。
やたらフカフカ・フニャフニャしている。ずっと触ってぼうっとしてしまうところなど、あのプチプチに近いものがある。
長女と真逆のモノを選んだ分けだ。(これから長女は神経を集中して取り組まねばならないが、次女はずっとこれでボーっとしてるつもりか、、、)。

また場所を取るが仕方ない。
おもちゃ屋併設のゲームセンターでかなり時間をとったが、家に帰って食事をしてからロボット作りとなる。

このロボットが予想以上に複雑で細かい。
わたしは横から設計図を説明しながらサポートするが、時折手を出してしまう。
だが、指の細い彼女の方が手際よく配線を通したりまとめたり出来るのに驚く(自分が思いの外まごつくことも含め)。
長女にとって初めての複雑な作業となるが、電気配線の理解にもなるし良い勉強となる。

しかし三分の一程度作り進めて、躓く。
肝心なギアが一種類足りないことが判明する。
一生懸命探したが、完全に無いことが分かった。
わたしの長いプラモデル人生?で、初めての欠品に出逢う(困。
長女がいよいよ乗って来て夢中に取り組み始めたところだ。
水を差すようで、困惑したが仕方ない。
明日メーカーに連絡して、パーツが届き次第、作成を再開することとなる。


だがどうもそのままスムーズに寝るのが難しい為、わたしが高校生の頃(古、友達の誕生日等に作ってプレゼントに使っていたコテコテに色塗りした軽自動車のプラモで、未だ自宅に残っているものを6,7台物置から出して来て見せた。
良い作品は皆プレゼントしているので、残っているものはそれなりのもので、経年劣化からフロントガラスやミラーがいつの間にか外れているのもあった。だがそれを可愛いと喜んで、作業の中断も忘れ笑顔で遊び出したので、こちらとしてはホッとした。

ただし彼女が喜んだのは、それらがわたしの作り物であったことかららしい。
その対象そのものと謂うより、作り物であることにおける面白味に共鳴するところがあったようだ。
直前まで対象年齢以上のキットに取り組んでいたこともあり、作られたモノに対する感受性が敏感になっていたかも知れない。

何にしても一緒にモノ作りする経験は良いものだ、と思われる。

明日は次女に何かやらせないと、、、。




余剰次元

butterfly.jpg

昨日、掘り起こしていた畑から、幼虫が見つかった、、、カナブンか。
カブトムシより二回りは小さい。
他の幼虫もいた。
また埋めた。
このあいまいな地に。


幼虫~イモムシが蛹となり蝶に変態したとき、もうそれには幼虫時代の記憶など残っていない。
蝶として生きる~身体性を持つことに支障が出るからだ。

われわれのこの身体はまさに3次元+時間にピッタリの生存形式であろう。
だが、そのことが余剰次元の経験を原理的に不可能とする。
数学的にその構造と存在可能性を導き出せても。

われわれにとって、知る・認識するとは、身体諸共の知的再構築~新たに身体化を起こす=変態することでもある。
この身体そのものを解体(ブラックホールに落下するように)して、異なる身体性を構成することは不可避であると思われる。
それでなければ知が生きることと離反してしまう。
本来的にその矛盾が大きな軋轢や抗争を生んできてはいないか。
この世界に内包出来ない~生きることの不可能な言葉は本質的に、異なる世界~次元で発せられなければ有効ではない。
どうやら重力があるべき次元にどのように絡んでいるのか分かっていないことに似て。

完全な解体と再構成、いや再生(宗教的には復活)は、この世界内~地平においては不可能である。
同一時空~同じ場に新旧ふたりの自分は物理的に存在できない。見えない。


死と生がまさにこれに相当すると謂えるだろう。
幼虫から成虫への変態は、幼虫としての死であり、同時に成虫の(もはや彼・彼女にとり何の連続性もない)誕生に他ならない。
自分の誕生と自分の死は誰も認識できない。その中間を何もかも忘れた自分として生きて逝く。

死者たちはいったいどこに行ったのか?
思いの外小さくない、次元にコンパクトにまとめられて存在しているのか。
死者たちはどこにいるのか?


わたしは知的異星人からのメッセージより死者からのメッセージが聴きたい。
どれだけ有効なものか。


畑仕事

tomato001.jpg


今日は娘と「サマーウォーズ」を観た他は外でずっと畑仕事に勤しんだ。
枯れながらも、柵や高い木に纏わりついているとトマトの木などを取り去り、土を耕し直して、土の活性剤とたい肥を桑で馴染ませた。
懸命に耕したためか、土がフワフワになって気持ち良い。
このまま放って置いて、春にでもまた何か植えるつもり。
娘はトマトがよいという。
確かにトマトが丁度良い。ミニトマトにするつもり。
広さから言ってもこちらの栽培スキルから言ってもベストチョイスだ。
なるべく世話をせずに収穫だけしたいのだ(笑。
初期設定となる株を取り囲む枠と支える高い棒をしっかり準備しておこう。

実はある公園から2年ほど前~花壇ではなく~通路の端の土手にポカっと咲いていた綺麗な花を一株摘んできて家に植えたのだが、それがいま徒に横暴に増殖している。しかし、そのときの花はまだ一度も見たことがない。
花だけが一向に咲かないのだ。
今日、その植物の根がグイグイ伸び広がり、畑をかなり浸食してきていることを耕している時に知って驚いた。
増えた6株ほどを抜き取り長く横に蔓延る丈夫な根っこをブチブチと切断して、庭の他の場所に植えてみた。
つくかどうかは分からぬが、非常に不気味な植物だ。
そこからまた暴れ出すかも知れない。
異種~異生物に対する不安を掻き立てる、SF映画みたいだ(爆。
その白い花がやたらとアーティフィシャルで繊細な造形であったため強く惹かれたのだが、葉っぱだけだとやたらと強靭な生命力しか感じとれない、、、。
そのうち図鑑で調べようと思いながらずっと放置して来たのだが、、、花が観れぬのでは、ただ怖い存在としか言えない。

もうどんな花であったかも思い出せない、、、。
すると、そんな風なことが、幾つかあったような気がしてきて落ち着かなくなる。


漸く冬休み

moonbow.jpg

子供たちが冬休みとなった。
今夜から少しだらけてのんびり過ごせる。
相変わらず長女は朝が弱く、次女は文字が小さいが、取り敢えず学習意欲は上向いてきた。
これで姉妹で喧嘩せず、ちゃんと起きてちゃんと大きい字を書いてくれれば、少しは楽になる。

今日はわたしも気が抜けて?映画を3本観てしまった。
そのどれもが面白かった。
深い詩情で魅せるもの、軽妙でエスプリの効いたもの、畳みかける構成とスリリングな展開で見せるもの、、、。

やはり良いものは良いし、下らんものは下らん。


最近、メッセージは、ここのメッセージ機能、ツイッター、フェイスブック経由で来ることが多かったのだが、電話(勿論、番号知っている友人だが)からくることも、、、。
考えてみれば電話で長く話すのは、学生時代以来の事だ。
最近は、ほとんどメール、SNSで完結している。
ホントに手短な簡潔なやり取りだ。
電話で話すのは、新鮮な経験であった。
間や戸惑いや驚きやノイズ、逸脱、聞き間違い(笑、などあって面白い重層的なコミュニケーションが発生する。
こういうのも時々良いな、とつくづく感じた。
そう、考えるというより感じることが多い。

S君の仕事については本人から賛辞が送られてきたので、まずは安心した。
人の事を書くのは途中から思わぬプレッシャーを覚えるようになったことは確かだ。
残りの絵と各作品についての形式的な資料も整えたものを元にそのうちまとめたい。


いろいろ今年もあったが、やはり子育てが圧倒的に大変であった。
それにはITもかなり活用した。
お陰で子供も随分パソコンに馴染んだ。というより馴染んでしまった。
もう勝手に好きな事をいろいろとやっている。
子供はテクノロジーと打ち解けるのが思いのほか早い。

しかしこれから先は、マンパワー(他者)を投入してゆきたい。
まずは、お友達である。
いやでも関係性の多くが今後お友達に移行してゆくだろうが、そこにこそ面白い世界への多様な接続が見えてくる。
わたしもそこに賭けたい。
(よく考えてみれば、パソコンはそれ程のものではないし)。


来年度への徹底した自己解放に向け、今年度中に充分な基盤を作っておきたい。



S君の仕事-断片補遺

Skun.jpg

別の機会に、としておいた、S君の武勇伝?など幾つか、、、。

これはO君からまず聞かされた件である。
砂漠の群像などの洋画で有名な国領恒郎氏(日展審査員・日本芸術院会員)とS君はある期間とても親しい関係にあるとわれわれには映っていた。
国領氏がS君の作品に興味を示し、よく観ていたことは知っている。
或る時、氏がS君から気に入った作品を一枚借りたそうだ。
一流作家から認められればそれは嬉しい(まず悪い気はしまい)。
だが貸したはよいが、暫く手元に作品がないことを淋しがっていた。
彼にとって作品は、自分の息子のようなものである。それはよく分かる。
(わたしは大事にしてくれる人なら結構気前よくあげてきたものだ、、、今考えると惜しいものもある)。

O君が遊びに行った時もなかなか作品が戻らずブランクの壁面を淋しがっていたそうだ。
それはわたしも本人が漏らすのを聞いていた。
(恐らく彼は隙間自体を好まない体質に思える)。
しかし、暫く後に行ったとき、作品がそこにしっかり収まって~戻っている。
「よかった、戻って来たんだ」というO君に対し「いや、また同じもの描きました」と平然と返すS君がそこにいた。
O君は絶句した。わたしもそれを聞くなり絶句した。同じように(爆。

ちょっと描けない。それは勿論、最初から30枚同じ踊り子の絵を描くといった目的(目的が絵の外部にある場合)で、仕事で売り絵を描くケースは知っているが、普通一点ものとして描いた場合、絵はその制作過程(試行錯誤による生成過程)から考えても同じものは描けない。
つまりその一回性の時間そのもの~精神運動の物質化現象なのだ。
再度時間を繰り返す(生き直す)ことの不可能性に等しい。

無理にやるには思想的に信条的にどうこうではなく、生理的に(身体性において)極めてきつく不自然なことになる。
だが、S君はさらりとそれをやってのけてしまう。
通常なら、コピーしようと思って、描き出しても進むにつれて異化されてゆく。
最終的には異なる絵となる。
勿論、S君のように見たところ寸分違わぬ(恐らくそうであろう)絵となっても、異なる絵であることは相違ない。
微細な部分は違うだろうし、時間性において完全に異なる場にある。
当然そうなのだが、われわれが描けば見た目にも(構図・内容・筆致・色彩等)自然に変質する。
もしかしたら、ここがS君の制作行為の本質的な部分なのかも知れない。

壊れたジオラマを元通りに戻す~直す行為。
もう一つ同じジオラマを造る行為。
この身体性~身振りに近いことかも知れない。
または伝統工芸の作家にも通じるところも感じられる。
ただ売り絵作家とは方向性が最初からはっきり異なるものだ。

恐らく彼にとっては通常の「コピー」という言葉はそぐわない、もっと神聖な呪術的でもある再生の儀式なのだ。
ただ淡々と息子を蘇らせているところが、如何にもS君なのだ。
「コピー」ということばや逆に「藝術」(自然科学も含)などという思想に妙な思い入れや拘りを一切持たない場所にいる。
ことばから解放されていて自由~自在である為に出来ることは、きっと多いし多様なのだ。

外の枠など端からどうでもよく、彼はそれと対決することもなく自分のすべきことのみしている。
ここがある意味、羨ましい体質であり資質である。
わたしはどうしてもいちいち対決の場をもってしまう。そういう体質なのだろう。


その後、作品が戻ったのかどうかは、一度も話したこともない。
また、作品を再生するケースがあったかどうかも聞いていない。
ただ、それはほとんど彼にとっては、どうということもない通常の制作過程の内のようだ。


今回は一つだけになってしまった。
またこの場は設けたい。面白い噺は他にもある為、、、。



無意識について思うこと

StrawberryMoon002.jpg

法と謂っても、いつもは自然学的法にしか興味をもたないわたしだが、今日は電話で高校時代の法律の専門家で自身事務所を出している友人と話をして、随分スッキリした。
そちらの方面からの対策が充分に可能であることも分かり勉強になった。
わたしにとっては馴染みのない異質の知である。ちょっと貴重だ(笑。

抽斗が幾つもあるに越したことはない。
鬱陶しい障害物は悉く叩き潰さなければならないゆえ(笑。
現実のある層においての必要知というものは、ある。


さて、今日は池田理代子氏の「オルフェウスの窓」を読み~観始めた。
その9巻(集英社文庫)に渡るボリュームにまず圧倒された。
正直、眩暈がする。
例の「エカテリーナ二世」の物語も実に緻密で緊張の途切れないドラマチックな出来栄えに魅了されたが、これも先行き大いに翻弄されそうである。
しかし池田氏の本は観た後で随分、勉強になっている。
エカテリーナ二世大帝の生涯を通して随分ロマノフ朝について情報を得られたと同時に母子関係の根源的な問題~母の無意識についても考えを深めるきっかけにもなった。
また、大人の恋についても、男女の受け取り方の差異についても、その識域下のやりとりなど(特にポチョムキンとの、、、)成程と感慨深いところがあった。

そう人間は自分の知識~意識より寧ろ、無意識~身体性に向けての洞察こそが肝要である。
ヒトラーという装置について考えてみても、彼が「我が闘争」の中で繰り広げた時の政権や政治家の腐敗、経済的な苦境に於ける人々の在り様についての明晰な構造分析と自身が芸術家(画家~建築家)志望でありながら政治に向かわざるを得なくなる次第はとても説得力溢れる記述で理解できたが、どうしても優勢民俗思想が文脈に対し超越的印象で異様に引っかかっていた。
これまでの経験を素地にした出来事~苦境から論理的に進められた文脈を唐突に破り、ゲルマン民族は人類にとってプロメテウス的存在であった、といった言説が度々激情的に突き上げて来るのをもって見当がついた。
これはアーリア神話として何時しか形成された、アーリア人を絶対的優位に置いた、彼らとセム人との間の集団無意識的な根深い相克の流れであるようだ。
つまりはゲルマンとユダヤの間の全ヨーロッパ的な憎悪の結果がターミネーターとしてのヒトラーに手渡された形。
彼にその流れが行き着くまでに、その憎悪の流れは現にイギリスをはじめヨーロッパ諸国に広がり行き渡っていた。
科学的にも(科学の体裁で)ダーウィンやその甥の学者によって優生思想が民衆の無意識にまで染み渡っていたのだ。
だからヒトラーたちが何度かクーデターを企て失敗して彼が独房に入れられても、実に異例の短期間で釈放され更に過激な政治運動に邁進できている。
「我が闘争」の執筆も(ルドルフ・ヘスによる口実筆記だが)、独房に捕えられていた6か月間に行われたとは言え、ホテルのスウィート並みの部屋での暮らしぶりであったらしい。ヨーロッパ(アーリア)の無意識がヒトラーを応援していたことは間違いない。

そして場所(時空)に関係なく、恐ろしいものは母親の無意識である。
これが子供を破壊する。
エカテリーナ二世の息子であるパーヴェル1世が何故愚帝で名高いピュートル3世の人格模倣をしてしまったのかもその結果として捉えられると思う。
当代随一の読書家で知性の高い、しかも進歩的で啓蒙主義思想も軒並み取り込み、息子パーヴェルにもその教養を与えていた彼女が、実際の政治においては封建的君主制を断固貫き、ポーランド分割を他の国の皇帝よりも強行に行っていた。更に晩年には焚書政策にまで手を染める。これではダブルバインドの極みである。心ある忠臣もかなり離れたようだ。
これは単なる知識は知識、行為~言動は別物とかいう生易しいものではない。
パーヴェル自身、造詣豊かなエカテリーナ二世とオーストリアの名門貴族でこれまた知性教養申し分ない男性との間の子であり環境次第で大きく異なった運命を辿る可能性はあったはずだ。
彼は形だけの父であるピュートル3世同様クーデターで暗殺されている。
とは言え、パーヴェル1世のような単純な反動形成より遥かに孫のアレクサンドル1世への影響が根深い。
(勿論、何度か立憲君主制への動きが生じ、皇帝を傀儡化する狙いも見えたが、ロマノフ朝に引き戻されてしまうそのロシア全体にかかった呪縛も国民全体の無意識と受け取れるものだ。プロシア~ドイツの血が入りホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝となっても呪縛はさらに続く。エカテリーナ二世大帝はドイツ人である)。


何を読んでも観ても、まず無意識~構造がポイントに感じられる。




どうにもならないこと

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どうにもならないことはある。
それはほおっておくしかない。
時間が解決するかどうかは分からないが、どうにもならないことはしかたない。

自分の本来的にすべきこと、したいことを、何十倍、何百倍してゆくだけだ。
自分の感覚と考えにそって進む。
それ以外に何もすることはない。
反省すべきことも方向を変えることも微塵もない。

今現在やるべきことをただするだけ。
それが自然。

掃除の毎日

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今日もアクロバティックな体制をピクピク我慢しつつ日頃手の及ばない場所の掃除・片付け・整理をした。
しかし、ほとんど処分は出来なかった。
昨日は多少なりとも、モノを減らせたのだが、今日は置く場所を変えたくらいで終わった。
そのせいか、いまほとつスッキリ感が持てない。
場所を移動しすぎて何処に置いたか、思い出せないモノもすでに出てきている、、、。

もしかしたら、今日の片付けは、片付け専門家(本を出しているような人)からみると、なってないと一喝されそうだ。
重々承知なのだが、どうにも捨てられないものがある。
わたしの場合、それが多すぎるのだろうが、どうにも捨てられないのだ、、、。

今日は結局、掃除機かけて、雑巾がけして、置く場所を分散したという感じか。
見かけ上は、前よりスッキリして見えるから、取り敢えずよしとしたい。
今日やるはずだった、キッチン周りは、知人に一斉に送る為の料理でずっと占拠され、掃除どころでなかった。
そのため一番煩雑で雑然としているパソコン部屋の掃除となった。

ただの掃除にならず整理・整頓するつもりで、設定も変え始めたりしているうちにそちらの方でエスカレートしてゆく。
しかし、カーテン代えもする時期で、取り外しがこの部屋はちょっと大変であったりして、体を使った(爆。
昨日より、柔軟効果があったかも知れない。

サーバーの電源を節電の為落としていたら、起動しなくなったので、新たに無線ルーターに外付けHDをくっつけてNASにした。
全部起動すると14台になるので、NASがあるに越したことはない。
とは言え、別に家に14台置いておく必然性はない。色々お試しの出来るところは良いが、面倒も多い。
2,3台で済ましていれば、特に余計な事は考える必要もないし、NASも無くても不便ではない。
Win10には、デフォルトのOneDriveで容易にフォルダ共有できるし、それでほとんど足りてしまうところもある。

わたしがモノが多くなるのは、多くなるべくしてそうなっているに過ぎない。
分かってはいるが、「わかっちゃいるけどやめられない」なのだ。
植木先生の至言である。


今後もモノが減ることはないだろう。
しかし、先日お邪魔したS君の家もわたしのところとおっつかっつであった。
何か安心したものである。


大掃除 第一弾

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今日は丸一日、二階の掃除であった。
不要なものも見つかり、幾分かさっぱり出来た。
この時期の掃除となると、カーテン周り(窓含む)、高いところ、重いものをずらして掃除が大きい。
後は、キッチン関係がポイントとなろうか。

普段はやらないところまでやる。
埃の溜まり具合に感心する。(「塵も積もれば山となる」諺を思い浮かべている、、、。)
ついでにモノが片付くところは良いが、かなり疲労混迷する。
やはり普段使わない筋肉を使い、かなりアクロバティックな姿勢で頑張ることが要請されるからだ。

もしかしたら筋肉痛になるかもしれないが、体に結構よさそうな気はする。
ストレッチ的な意味で。
からだも少しばかり解れる気分だ。
これは大事。

こんな機会を上手く利用したい。
汚れや塵・埃を取り除き、要らなく感じたものを処分して減らす。
スペースが少しでもできると、何か清々しい気分になるではないか。
そう、モノが減ったのに得した気分になるのだ。

時折、こんなに早く捨てるのなら始めから買わなければどれだけ経済的であったろう、と思うことはある。
勿体ないという未練の気持ちもあるが、それを敢えてスパッと捨てるところに快感がある。
蕩尽だ。バタイユだ。
貯めて貯めて一気にぶち壊し捨て去る。戦争がその最たるものであろうが。

それほど派手ではない(壊滅的ではない)が、袋詰めや紐で縛っている時は、何か精神の解放も覚える。
坂口安吾も戦時中、そんな感覚を持ったらしい。分かる気がする。
これまでのモノの配列が変われば、環境~習慣~感覚~考えにも変質は起きよう。
新鮮な気分に浸りたい、と端的にも謂えるか。

つま先立ちしたり、腰を落として踏ん張ったり、階段を何度も何度も上ったり下りたり、、、
「運動」をして体が火照ってきた後で、いよいよ楽しみが待っている。
最後に入る風呂が格別なのだ。
ホッとして癒され、ただひたすら気持ちよい。

モノを清めて片付けることで、心身共にスッキリした。
掃除とは、そういうものだろう。
明日は一階。
キッチン周りで苦労しそう。

女子会

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次女が恒例の女子会を開いた。
最初は仲良し7人組が来ていたが、塾が忙しくなる子が増え、最近は3,4人くらいになった。
今日は直前に都合が付かなくなった子がいて、来る子は3人となった。
娘と5人でこじんまりやることになったが、これが丁度良い。

今日はわたしがサンタになり(爆、買ってきたピザ(フレッシュモッツアレラのマルゲリータ)二枚と娘の大好きな「子供の飲み物」(スパーリング・赤)その他4本ばかり出しておいた。その瓶に記されたコピーが「こどもだってカンパ~イ」である。今からそういうの好きなのだ、、、。後は彼女らが好きなように食べる。喋る。その盛り上がり様が丁度良さそう。
すぐにわたしはサンタを脱ぎ捨て、自室に籠ろうとした折、そのお友達のひとりのおかあさんが土産を持参してご丁寧にご挨拶にみえた。サンタのまま応対したが、大変真面目なお母さんなのか表情ひとつ崩すことがなかった。
きっと笑ったら失礼にあたると思われたのだろう。
(笑うしかない格好であったにせよ)。
有難く頂戴して片方のプリンは彼女らにデザートに出すことにした。

9人構成になると(この時期は)全体として滑らかに盛り上がる以前に、混乱に近い様相を呈し始める。
もう、途中であちこち家のなかを分けもなく飛び回りだすのだ。
驚いたことに進入禁止となっていたわたしのパソコン部屋にも入り込んで来るではないか。
輪ゴムを取りに、、、(爆。
ただ中を観てみたかったのかい。

今回は良い感じで集団でまとまって移動しつつ愉しんでいた。
落ち着いていた(爆。
入ってはいけないことになっているわたしの部屋とウォークイン・クローゼットには入らなかった。
(それが当たり前だが)。
とてもお利巧なので、一度わたしの部屋でパソコンのタブレットでマンガでも描いたらと言って遊ばせようとしたがチョイと弄るくらいで下に「ゼルダ伝説」をやりに行った。
パソコンお絵かきでも、わたしのタブレットでペン描きを始めるとかなり時間を食ってしまう。
ふたりはすでにそれを知っているので、深入りさせなかったようだ。
これは凝ってしまう。ホントに一日使うはめにもなるくらい。
とは言え、ゼルダをやってもきりがないことになる。
それに集団で遊ぶ為に集まって、個々にゲームは余りに淋しい。
(対戦スポーツゲームなら別だが、、、わたしもその導入を考えたが、今一のモノが多い)。

すぐに(いつもと違い)ゲームも切り上げ、ピアノをそれぞれ弾き合ったり、談笑を始めているようだった。
階段途中で話している時、「好きな人」がどうとか、いろいろ喋っている。
それの主体がどうやら次女の声だ。
もう友達としか喋らない話題が沢山出来ている様だった。
「好きな人ね~、、、」
そういうものかと思う。

これまでは、一緒に並んで歩いていたのに、近くのピザを買いに行くときにわたしの前や後ろを歩いていた。
長女はまだわたしと手を繋いで平気で歩くのだが、、、。
姉妹(双子)でこうも違う。うちは特に違うのだが。
ただ二人とも自我が芽生えて来ていることは確かで、、、気難しくなっている。
重々しくなっている。
言葉に過剰に反応する。わたしも言葉に拘るが。彼女らの場所でやはり言葉に拘る。

今日来た子も性格はそれぞれ全く違う。
その印象が何故かやたらと鮮烈に映った。
当たり前だが、それで世界が豊かになるのだ。


初期の粒子が光の速度のまま飛んでいたなら、宇宙は出来なかった。
質量を得て減速したため、様々な物質化が起きることに繋がった。
多様性が生まれることで世界が生じた。
多様性が事象の本質である。









S君の仕事-Ⅴ

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他にもいろいろ、、、今回はこういう形でしか撮れないものも多く(例の溢れ出すキノコの絵のように、、、)、全体像はこの後、またの機会に。

最初期(初期)の点描の厳格さを守り続けてきた頃と異なり、自在な筆致を駆使するようになるにつれて(ゴッホも実に多彩な筆致を編み出して使い分けていた)、色彩が際立って瑞々しく鮮やかに活き活きしたものになり、同時に絵画世界の輪郭がこちら~観る側の身体性に溶け込んできたように感じられる。
この観るというインターフェイスに筆致はとても解放的な装置として作動したのだ。
現に昨日から今日、ここに載せた絵は、無意識的に共振できる波動に充ちている。
郷愁と焦慮の念と共に、自分の身体性の何処かに埋もれた記憶を呼び醒ます。
過剰に説明的でカタログ(図録)的な俯瞰と距離感、それによる硬直したシンメトリックなフレーミングによる画像群が、この世界~わたしの意識の縁に連続し奥行きをもつ無理のない目線の内の表象と化していた、、、。

そして固有の質量を持ってきた。
つまり多様性が活き活きと感じられる。


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緑の匂い立つ画像である。やって来る電車も緑。光がとても優しく、本当の光らしい。
俯瞰してるが、たまたま出逢った世界の切り取りである。
緑の木々の向こうから顔を出してくる電車はどことなく青虫を想わせる。もしかしたらかつて木々の内に見出した葉っぱの上を歩く青虫とのダブルイメージになっているのかも知れない。微視的・記憶上のイメージが様々な絵の要素と絡み融合している可能性は高い。
右側をカーブしてゆくトロッコが可愛い。しかしどちらに向けて走っているのか、又は止まっているのか分からない微妙なバランスを保っている。しかし電車との何らかの対応(力学的)関係はあるように想える。
この絵がわたしを引き込むのは、何より光と影である。
光がとても柔らかく繊細な煌きに充ちている分、影の癒しの効力も高い。
影が補色になって、とても居心地が良い。


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画面全体が夕焼けの過飽和状態である。
黄昏時ではあっても奇妙に明る過ぎる一時(一瞬)の光景~記憶に違いない。
明らかに汽車が汽車以上の何かである。
黄色い光がこれだけの分量の郷愁と神秘を呼ぶものか。
透明の黄色を幾層にも分厚く塗ったものであろう。
タップリ過ぎる光がとてもしっくり馴染む絵だ。
わたしも、この光景の中にいたことが一度ならずあることに気づく。


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スカイツリーお出ましである。
飛行船も飛んでいる。(わたしも飛行船はよく絵に描いた)。
思い出深い電車特急「こだま」(151系)も走って行く。やって来たというより行くぞという方向性を感じる構図だ。
そう、スカイツリーを軸(ほぼ中心)に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「こだま」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブを持つ。
これらは異なる時間流の輻射と受け取れるものだ。
更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。
スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。
無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる(笑。


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初期の絵に一見、内容~要素が似ているが、空間の奥行きと空間自体の質的厚さがとても濃厚である。
そして要素の置かれ方も奥行きを作ってゆく。
立体感と色彩の息遣いも初期の絵とは別物である。
わたしは、当初どの年代でも彼は同じ世界を描いているため、時系列の重要性はないということを述べた。
半分はそうなのだが、半分は違う。
テーマは同じであっても、その世界は徐々に自発的に破れ、外に解放されてゆくのだ。
創作とは、制作の反復とは、そういうものであるのかも知れない。


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東京タワーである。
これはまさに懐古的な、また回顧的な意匠である。
今の時点で、昔やってきた絵をもう一回描いてみたいという気持ちか?
多くの要素を予めセットして、スイッチを入れた途端に起きた騒ぎ。
奥行きだけでなく電車やバスや飛行機や風船や傘のカップルたちが一斉に走り出し宙を舞うダイナミズムとちょっとキッチュな面白さ、、、。ひとことで言えば、趣味の世界。
どうしてもこういうのをやりたいヒトなのだ。
やはり時系列は余り関係ないな。
しかし絵は生命感があり気持ちよい。明らかに描画手法は繋がっている。


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プレ・ラファエル派の絵だと謂っても信用する人は多いと思う。(電車があるのは変だが)。
新しい光と色彩と筆致を得たうえでの点描もフルに活かした制作だ。
かなりの力作である。
池には鰐もいる。
電車はやけにリアルで、上に観られた郷愁に染め上げられた車両ではなくすっきり洗い流された姿を見せている。
そして何と言っても植物の描き方の多様性であろう。
海と沖に輝く光はもうお手のものか、、、。
しかし一番異なるのは、いつもの後ろ姿の少女ではなく、横向きの座ってもたれかかり夢想に耽る妙齢の女性である。
わたしがプレ・ラファエル派と言ったのもそれが大きな理由となる。
左上部の木陰が少し彩度が高すぎる感じはするが、精緻で繊細でありながら全体構造がしっかりした調和のとれた絵である。


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江ノ島である。
S君にとって江ノ島は楽しいところなのだ。
楽しいから、それを詰め込みたい。
先程の乗り物ラッシュではないが、ともかく好きなものが色々入って来るのだ。
ある意味、シンプルでナイーブな絵であるが、シンプル(省略)して単純化を図る方向性とは逆である。
様々なモノを収集し増殖する絵でもある。また作者でもある。

最初期にこんなテーマの絵があったが、もう構図は遥かに複雑になり、色彩も筆致も自在性はずっと増している。
ただ、技量が増したと言うより、解放され表現が深まり広くなったのだと思う。

しかしヒトは変わらない。
やはりS君なのだ。
彼は不変の人である。


今回の特集は取り敢えずこの辺で、、、。

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S君の仕事-Ⅳ

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クリスマスジオラマのひとつ。このような工芸品(照明絡繰り付き模型)という感触が、実は絵画作品にも染み渡っている。


改めて(笑、S君の絵を観るとすぐに連想してしまうのが、アンリ・ルソー(様式化した森~動植物など)やポール・デルヴォー(汽車や少女などのモチーフにおいて)であるが、それらとの比較・分析めいたことは、端からするつもりはなかった。
彼の作品のなかの、この僅かな点数と何をか語るには些か準備の足りないところでそれをするのは危うい事である。
しかしあくまでプレ作品お披露目の機会~位置から、少しばかり作品特性を浮き彫りにして確認しておきたい。
余りに周辺的なお喋りに傾き過ぎた感もあるため、、、。


まずルソーとの類似点については、特にこれと謂ってあれこれ挙げ連ねる必要はあるまい。
その動植物の描写の様式性と装飾性がとても人工的でエキゾチックに仕上がっていること、細部への拘り(これはS君の方がずっと上であるが)について殊更強調するまでもない。質感に血縁関係を感じるところは確かに認められる。

それよりも、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。

デルヴォーの場合、決まって始発駅から発車する汽車が描かれており、何処か別の街(世界)に旅立つことだけは予想できる。
S君の汽車は、ニュートリノのようにある方向からやって来ては、通過して行くことが多く、相互作用がほとんど感じられない。
(高速で爆走して横断するキリコの機関車に寧ろ近い)。
しかし宇宙線のように頻繁にやって来る。
情報は受けているのだ。ただ、それをどのような形で返しているかと謂えば、これらの絵の次元としてであろう。
その絵は、とても俯瞰的であり、最初期作品の「夏の午後 partⅠ」(S君の仕事-Ⅰ)の双眼鏡で景色~テニスウェアの女性を覗き込む紳士の視座に近いものと謂えるか。
この模型を上から眺めるような俯瞰的視座。
われわれも彼~S君となることを要請されている、、、?

再度、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。
これを考えてみるとき、ほとんど「絵の中に入る」ように観てしまっていることを思い出す。
例えデルヴォーの「部屋」が遠近法的にどれだけ歪んでいようが、われわれはその部屋に入っている。
(絵の中の裸婦も頭が天井にぶつかることなどちっとも恐れていない)。
作者~超越的視座も意識などせずに味わっている。

しかし、S君の絵はその視座があからさまな俯瞰でなくとも、微妙にわれわれを宙吊りにしてしまう。
わたしの足場が揺らぐというより足場ということが意識に引っかかるのは、ひょっとしてわたし個人の問題である可能性もある。
(大概、自然界の出来事も相互的な嵌入によっている)。
だがそれらの作品の側には、やはり特異な閉鎖性がその形式においてみられるようだ。
またもしかして、その次元は実は何処かで自発的に破れているのか。

S君の絵の世界の少女やシルクハットの紳士や妖精は、果たしてトロッコや汽車に乗ってわれわれの世界いやわれわれの入って行ける世界に現れることもあるのだろうか、、、。


Paul Delvaux005
Paul Delvaux006

ポール・デルヴォー「夜の汽車」や「森の中の駅」はS君の絵を日常的高さから見直した絵とも謂える。
S君の絵との違いは所謂、視座のみであろう。(勿論、テーマや描画法の違いはあっても形式的には)。
日常的な普通の身長からものを観る、通常感じる環界の身体感覚である。
わたしもこれらを見るとき、それとなく絵の中に入っていることに気づく。

登場する女性(少女)のポーズや仕草も控えめで、何かを訴えたり仄めかすことは少ない。
その上、S君の場合、後ろ姿が圧倒的に多い。
デルヴォーの女性も造形的に顔に表情がないのだが。
S君の少女は、文脈的に形式的に表情が隠蔽されていた。
「距離」と「高さ」がポイントである。
後ろ姿でももっと近ければ、何かが感知されることもあろうか。


S君の作品はどれも工芸品~模型の手触りに近い。
その表現世界の中に入りその意味~文脈を楽しむというより、それそのものをそのものとして味わう、そんな接し方で絵と関係することをわたしは選んでいた、、、。


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光の反映においては、最も美しい絵だ。
ここでも虫取り網を持った少年をうしろから少女が観ている。
その全体像を観る神の目であるわれわれ。
電車は次に向けて直ぐに出発するだろう。


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色合いと形体はビビットである。
最初の頃と比べると目の覚めるようだ。
ベタっという感じが全くない。
手前左にいる少女が汽車のなかの誰かに手を振っているらしい。
いや、その先の川で水遊び~魚とりをしている少年たちに手を振っていた。
それとも三輪軽トラックから降りて田んぼ仕事をしているお父さん?に対して何か呼び掛けているのか?
珍しく感情表現(ドラマ性)を感じる場面が挿入されている。
登場人物たちにいよいよ様々な動きとコミュニケーションの芽が生まれてきたか。
とは言え、異様に絵そのものは静謐(無音)なのだ。


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箱庭的な風景である。秋のさっぱりした光景にも見える。
かなり日常的な視座から少女がバスのやって来るのを停留所で待っているところだ。
その向こう側ではお約束の電車が通過して行く。
ただ、画面左側を占める木々が妙に小振りだ。形態から謂って大きな成長した木にも思えるのだが異様に小さい。
しかし形から草花とは受け取れない。そこが箱庭的でジオラマっぽい。


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家の駅近くの米軍基地の住宅をふと連想する。
少女の眼前の曲がってゆく路は何処まで続くのだろうか?
(この路には魅了される)。
上呂を持って境界に立ち止まる少女には既視感を充分持つが、手にアイテムを持っていることが、絵画世界を饒舌にする。
ドラマ性と生気が揺らぎ立つ。
だが、一歩踏み込めずに彼女は立ち尽くす。


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ここでは兄妹の間に明らかに会話が成立している。
きっとS君のお子さん二人だと思われる。
「祝」というメッセージのディズニーランド的アトラクションの乗り物を想わせる電車が普通の夜の商店街にやって来た。
この絵は恐らく子供さんへの何かのお祝いのプレゼント用に描かれたのでは、、、。
こんな絵を貰ったらそれは嬉しい。
(実際、小さな絵である。3号くらいか)。


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面白い構図である。
画面上部、水平に鉄橋を走るのは貨物列車の先頭部か?
黄緑の車体であり、下に道を挟んで広がる畑も同じ黄緑である。
左下には黄色いランドセルの少女が何かを見やっている。
植物の上にとまっている白い鳥か。
空や雲や遠方の建造物も含め黄色がポイントである。
そうした時間の記憶がわたしにもある。


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また、三輪軽トラックであり、何と少女が荷台に乗っている。
ちょっと映画風ではないか、、、。
電車が凄い森(林?)のなかを走って行く。
お父さん?の運転する姿も垣間見える。
牛が二頭草を食んでいる牧歌的と言いたいところだが、やはり電車が怪しすぎる。
この一見何気なさそうな光景は、かなり魔術的(で呪術的)な気配を孕んでいる。


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実に美しい寒色の色調である。
正直、これには驚いた。
このパタン化した白樺?の木は実家の近傍に茂っていたものか。
色彩と色調、色の響き合いがとても心地よい。
全体の調和も申し分ない。
少女が左下の構図から、木に寄りかかりながら横に振り向き牛たちの様子を窺っている。
少女の秘めた想いが漸く感じ取れそうな気がしてくる。
地上に降り立った気分である。
静謐でこころ安らぐ絵である。

繋がってきた、、、。


明日は感動の最終回(爆。



S君の仕事-Ⅲ

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2Dから3Dへ、、、。今となっては珍しいトリックではないが、かなり昔から置かれている。
キノコが余りに自然に溢れ出ていた。

キャンバスの形式とサイズを記していないことを、わたしも気にしていたのだが、大体がFであり、真四角のSもあるにはあるが、長細い(長方形の)PやMはさほどなかったと思う。大きさも3号くらいから10号あたりが多く。20号などは大きい方だ。最も大きいのでもF30くらいであったと思う。兎も角、小さめの絵が多いということはお伝えしておかなければなるまい。
正確に画像に題と形式・大きさを記すべきであるが、それは正式な画集やS君回顧展などでしっかりできればと思う。
子どものお守りついででは、そこまで行き届かなかった。

細筆(面相筆)でひたすら細かい点描で描くことから、大画面タイプの絵ではない。
太い平筆で豪快なタッチで塗る絵の対極で、点を置くことで生成される絵である。
ちなみに、われわれ共通の友人O君(バイオリニスト、作曲家)は、前者の代表ブラマンクが好きだ(笑。
わたしも時折、凄く観たくなる画家だ。だが、わたしもO君もS君の絵を観に窺う。
われわれは、それぞれが面白いというだけでなく、多様性そのものを楽しんでいるところが大きい、と思う。
お喋りも楽しんではいるが(笑。


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この絵は昨日の作品の二番目あたりに来るべき絵で、教育出版の音楽の教科書(小2)の裏表紙に載せられていた絵だ。
もう随分古い。(H.7年印刷、8年度配布の教科書)。
しかし彼の絵はテーマ(本質)は不変である為、年代(順)が何らかの意味をなすこともないので、わたしもほとんど雰囲気で並べている。
正確な順番は本人にしっかり確認しなければ分からない。
だが、彼にとっても大した意味は持っていないはず。


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  *わたしの同時期の音楽の教科書(小4)に掲載されたものは、「続きを読む」にて、、、。

確か7回だか描き直したそうな。わたしも一度部分的に描き直している(挿げ替えている)が。
その世界に関する拘りのぶつかりから(描いているうちに仕事を越えて自分の作品となってしまう人は少なくないことから)、もつれることもあるし、文字や写真を入れる部分に絵を描いてしまい、それをどかしてくれという単純な要請になかなか添えずにだらだら描き直しが続いている場合もある。

S君も拘りはやたらと強く、絶対に自分の主張は曲げない人であるから、どういう形の描き直しであったか、、、
(以前、新左翼系学生活動家から三里塚の絵を描いてくれと頼まれ、大激怒していたことを思い出す。わたしも怒るはずだが、あそこまで怒るかという感じだった。基本、意に添わぬことは一切やらない人だ)。
わたしは、仕事の場合は全面的に向こうの依頼を呑んでしまうので、ただ要請に近づけるだけの問題でその点ではお気楽である。
この絵、非常に練られた構図であり単純化も精緻になされて洗練度が実に高い。
もう力作と言うべきであろう。
恐らく普通に描いてゆく場合、S君が描き直しをするとは思えない。
(まるまる自作のコピーは平気でするが(爆。そのエピソードは別の機会に、、、)。
その分、ここでの描き直しは明らかに作品の充実度と完成度においては良い形に反映したと思われる。
特にダイナミックにまとまった構図と細部の統一感と調和である。 
良い意味で、頑張った感じがする。


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教科書画のエスキースか最初のイメージスケッチ的な絵にも見えるが、ここに時系列で繋がっているのかどうかも定かではない。恐らくもう少し以前の作品であるとは思うが。
シンメトリックで動きのある安定した装飾的な作品だ。
好きなものは、しっかり描き入れている。
その点でも安心の一作だ。


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横浜の風景のファンタジックに変性したものか?
夜景であるが彼の場合、朝であろうが昼だろうが夜景であっても、それは単なる光力の差、色光の違いに過ぎない。
全て(モノによってはガラスケース内の)ジオラマを照らす特定の光源である。
S君のなかのイメージなのか?
寧ろインターフェイスなのだろう。
彼と環界の間に生成される薄い煌びやかな街なのだ。


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この岩壁。
タリバンに破壊された仏像みたいな像もいるこの岩壁こそトロッコの絵に端を発するあの地形からやって来たものだ。
マジンガーZみたいな神聖な石像も間近の森に寝ている。
ただ安定が悪く、たまたま寝かされているのかも知れない、、、時折そうしたフィギュアもあるものだ。
ここでは広い森と例の岩壁もそうだが、手前左空間を占める光の三原色を体現したような妖精が何よりポイントだ。
ほんのり甘やかな生命感も漂ってくる。
そう、無時間模型の平面世界から生命の息吹が立ち昇る気配がある。

(別にこの先、ここからどう変わるなどという線状性はないため、それを匂わせる書き方はすべきでないな(笑)。


明日に続く。


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S君の仕事-Ⅱ

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ジオラマ飾り棚の一部。

トロッコの絵から見られたように、彩度・明度が上がり、更に遠近によって出来るダイナミックな(動きの感じられる)構図(広がり)が設えられる。
そして稠密な構造物も現れる。
まるでバベルの塔のような。
人工的な光~光線が(過剰に)発せられる。
彼の作るジオラマのあちこちの部分に灯る光のように絵の中の様々な要素が地形が発光し始める。
ただし、そこには重力が感じられない。
夢の中のように(永遠の白昼夢か)。
そう、どれも精巧で軽い素材の(ミニチュアの)ジオラマの世界なのだ。
きっと、、、。

それから、これらの絵には題名が分かるようになっていなかったため、題を表記出来ない。
本人に聞いておけばよかったが、学生時代の友人の悪口に夢中になっていてそれどころではなかった。
果たして彼も題名を考えていたかどうか、分からない。
S君が暇な時に確認しておきたい。


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これは初期作のデザインの集大成的な感じである。
兎も角、それまでの場面と要素を全部取り込んでみたという。
この距離感も初期作の特徴である。うんと引いていて近くのものは描かない。
望遠鏡で覗いた構図か。

ここでひとつ締めくくりたかった、のだろうか。
そのままジオラマの完成予想図としてもよいだろう。


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恐らく筆致が変わって来たこともあるのだろうが、明らかに全体の精緻さの質が変化した。
牛が題材ということもあるが、点描による描写が柔らかさと厚みを獲得している。
牛がやけに美味しそうだが、食べてみたら甘い薄皮に包まれたこれまた飛び切り甘くて美味しい餡子が詰まっていることは間違いあるまい。
だが一口サイズで食べ易いはず。
モーレツに甘いお菓子が食べたくなる絵(逸品)である。


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ピグモンがいる。サイズから謂ってガラモンではない。
それがオウムやフクロウやトラのいるジャングルの端に所在なく佇んでいる。
川岸はカーペットで子供のゲームかジオラマセットの為にサッとリビングにでも敷かれたようだ。
彼らはただ素っ気なくその上に順番に並べられただけなのかも知れない。
強力な光源のスウィッチが入ったところで、それを仕掛けたのが暗がりにいるシルクハット?の紳士S君である。


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ジオラマ感バッチリな地形。少女の乗る汽車の形のミニトロッコを後ろから手押す少年。
もはや投影とか代理とかはどうでもよい。余りそうした関係(意味)性には重きは置いていないだろう。
これから二人はお城、或いは城塞の街に赴く。それしかコースはない。
スイッチを押せば行くべきところに着いて止まる模型なのだ(スタートに戻して何度でも始まる)。
脇にはグラスファイバーでLEDライトも灯りそうな滝と人魚(度々登場する脇役)も。
スヌーズレンの仕掛けにも似たメンタルヘルスの効能も感じられるのだが。
熱を発しない過剰照明を背景に、山のように高くそそり立つお城の周囲を飛び回り続けるドラゴン。
この反復と回帰の運動。
非常にベタな形体配置と仕掛けにも思えるが、それをズバッと描いてしまうところが彼の最大の強みでもあり、、、
郷愁とも切り離されたある種の(根源的な)淋しさを湛え続ける。


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このバベルの塔のような構造物(恐らく)は何か?
ただ、この塔以外にも水上都市があり、、、何と塔は水上へと突き出た建造物なのだ!
手前からそれに向けて静かに運行する船がある種の予感を誘う。
まさかノアの箱舟なんてことは、、、。いや他にも海賊船みたいな影もある。
錯綜する物語が、その光や光線や鳥たちの動きからも禍々しく漂い来る。
何でもありの模型世界が何か予言的な、黙示禄のような世界の感触を生む。
そんなことも起きる確率はあると思う。


明日に続く。

S君の仕事-Ⅰ

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S君の家に遊びに行った。
娘二人と。
S君と言えば、大学卒業まで江ノ電の「鎌倉高校前」から白樺の高台に登ったところの実家に住んでいたが、そこにいる間ただの一度も海岸に降りたことはなく、小窓から感じ取れる砂浜の様子を絵に描き続けていたそうだ。
わたしは、S君を「鎌倉高校前のレーモン・ルーセル」と勝手に呼びたい!

兎も角S君の絵を見せてもらいに行ったのだが、娘二人はS君の大学生のお嬢さんに遊んでもらいに行ったようなものである。
お姉さん遊ぼ、と謂ってずっと遊んでもらっていた。
よほど嬉しかったようで、いつまでも遊んでもらっていた。
ここで改めてお姉さんにお礼を言わなければならない。
ほぼ丸一日、ありがとうございます。
(何をしていたか後で聴くと3Fの屋根裏部屋の一室にお姉さんを閉じ込め、外から思いっきり怖い話をして怖がらせていたそうな、、、本当に根気のいるお相手をしてもらったもので、申し訳ない(苦)。
その間、わたしはS君と奥さん相手に積もり積もった話がたっぷりゆっくりできた。

とは言え、絵も観た(爆。
それが目的であったし。彼の絵が時折何故だか妙に気になるし、、、。
長女がS君の絵の感想を述べ、それに感慨深そうに彼が応えるやりとりも面白かった。
(次女はその間、動き回りながらだれかれ構わず喋りまくっていた、、、ちょっと心配、、、多動か)。
わたしは、ただひたすらかつて見た絵の写真を黙々と撮っていく。


今日から5日間に渡り、S君の作品の一部であるが、ご紹介したい。
3F屋根裏部屋の彼のアトリエ兼ギャラリーには額に入ったガラス越しの作品が多く、距離的に謂っても角度・照明からも撮り難い物が多かったが、今回ここに33点ばかり並べる作品だけでも、その世界は感得してもらえるのではなかろうかと思う。

ここで、特に彼に関して一般的に、例えばナイーブ画家として解説を加えながら作品を掲示しようなどとは思わない。
若干の感想めいたことは添えると思うが、なるべく余計な口出しはせず、あくまでも「友人の画家の絵」を紹介するに留めたい。

もううっかりナイーブ画家などと口を滑らしたが、どう見てもそういう感覚(視線)で観られてしまう絵ではあろう。
そうした目で見始めてしまうと、幼少年期の思い出と無意識的なトラウマや強い拘りや喪失観の印象は拭い難い。
本人もそういう話をしているので、仕方ないところではあるが(笑。

公園、遊園地、電車(乗り物)、部屋、境界、音楽、、、それらの要素による絵は、思い出の再構成=模型世界の定着として描かれたものに他あるまい。
そこでは時間は凍結しており、さらに空間は構図上あっても物質的な次元としては無い。
尋常ではない平面性~凝縮性を息苦しく受け取る。その意味でナイーブアートのようなアバウトな脱力感や空気感は窺えない。
その執拗な細密さと装飾性からも(彼の絵は基本的に点描であり、速乾性のリキテックスによる)。
自然の環界を感じるところはなく、何やら演出(装飾)的に極めて人工的に灯る照明の(それは白熱灯から蛍光灯、LEDに変化していくにせよ)「絵」にはある種の強い無意識的で意図的な意志=抽象を感じさせる。
実際そうなのだ。
リビドーが形象として象形文字のように凝縮して定着した雰囲気を感じさせる。

そして溢れる郷愁が彼を確信的に動かしていること~描く行為に不可避的に仕向けて(追いやって)いることは想像し易い。
実際、彼はこの絵にあるようなジオラマを、粘土やベニヤ(ペンキで着色)やプラスチックのオーナメントや豆電球、モーターなどで細密に幾つも作ってもいる。(子どものおもちゃにもしていたそうだ)。それはとても集中と根気を要する作業でもあろう。
愉しくて夢中になってやっているのではあろうが、やらずにもいられないのだ。きっとそういうものなのだ。
愉しい苦行かも知れない、、、。
(兎も角、この行為は、現代美術の枠に対する批判~自己解体の知的作業でありかつ普遍性を目指した「藝術行為」の対極にあるものだ。そういった意味では極私的~私小説的な絵であり自己充足的な行為と謂える。しかしその個人的で本当にあったか分からぬような秘密~記憶を垣間見るような一種の気恥ずかしさや恍惚さの方にわたしたちは共振する所が大きい。きっとまた暫くして彼のお宅に絵を観に行くはず。娘たちはお姉さんと遊ぶためかも知れぬが(爆)。

S君の止むにやまれぬ「仕事」の最初期からわりと最近までの幾つか(何とかデジタル化出来た範囲のモノ)をこれから並べてみたい。

感想(感慨)を述べ出すと、全くありきたりの解説めいたものに陥ってしまうのが分かるのでお喋りはなるべく少なめにする。


まずは、初めて人に絵を見せ始めた頃のS君の原型とも謂える最初期作品群。

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「公園」
この頃は、後に観られるビビッドさがなく、かなりくぐもった画面は、ちょっと呪術性をも感じさせるところである、、、。
紳士はS君。

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「Marine Land」
恐らくこの頃、夢中になっていた彼女が水着の娘である。
奥さんには内緒だ。

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「Wanderful Dance Time」
彼はジャズ大好き人間である。
それを聴きながら描いたみたいだ。

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「夏の午後 partⅠ」
勿論、覗き見しているのがS君である。
本人も自分の中の鉱脈~郷愁に染められた記憶を覗き込んでいるという行為を対象化~自覚している様であろうか。
描くことを意識し始めたという、、、。しかし遠いね、彼女、、、。

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「夏の午後 partⅡ」
実は、この絵で初めて彼の絵を面白いと感じた。
この境界から向こうを眺め見る行為と境界の壁に反映する木漏れ日がとてもよい瞬間を凍結している。
しかし向こう側の模型のようなサイズ不明なSLが余りに不愛想である。黒いブルドッグみたいに。
一体少女は何を気にしているのか、、、。

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「長者町の思い出」
ジオラマ趣味がしっかり窺える。
例の少女と似たような少年がいる。
二人とも視線に含みを持たせている。
少年がその先何処に向かうのかを少女が気にしているのは明白だ、、、(余計な事か)。

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「「放課後」
いつもながら、遠近法が面白い。
独特の俯瞰視座であるが微妙なバランスを保っている。
その微妙さが主題化している。

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「良平とトロッコ」
初期作品では一番わたしの好きな舞台のような絵。
背景の日の光は書割である。
この地形は、他の絵へと接続してゆく特徴的な壁面も観られる。
そうこのトロッコで繋がって行くのだ。トロッコの線路がとてもよい感じ(笑。


明日へ続く。










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ピアノ決まる!

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いきなりピアノが決まってしまった。
昨夜、近くの楽器店で決めた。(混んでいなければ車で15分のところ)。
かなりの部分、ノリもある~(笑。

娘の先生のピアノを長い事調律している音楽活動も広く行っている方の店で、今後の調律~メンテを考えるとそこが良いとふんだ。
周辺の小中高にもピアノを卸している店であり、音楽イベントも学校などで開いている地域に根差した店だ。
つまり店で決めた面も大きい。(販売だけでは、心もとない)。
使い続ける限り、電子ピアノでなければ、維持において調律は不可欠である。
そのことも含めると、信頼のおける近くのお店と関係を築いておく事は結構大事。

Yamahaの木目調の背の高い方のアップライトだ。
店に30台くらい置かれていた中でタッチが良く、最も低音から高音まで響きと深みがあって格調を感じる音の出るものにした。
お値段は、グランドの小さめのと同じくらいであるが、我が家ではグランドはその大きさから元々無理なので、それに表現力がある面で迫る物があれば良かった。(基本的には違うものではあるにせよ、、、そうキーの戻りの速さがグランドは凄い)。

何と言っても表現力、、、まさにそこである。
電子ピアノはどう弾こうがハイブリッドも含めサンプリングの音である。
基本的に音の強弱はあってもそれ以上のものではない。
それにタッチがどうしてもスイッチぽい。(ハイブリッドはアクション機能を持つ分、タッチにはアコースティックに近いものはあるが)。
考えてみれば、電子ピアノを選択肢に入れる必然性はないのだった(爆。

また、バイオリニストの友人が防音対策をどうするんだと言っていたが、もうかれこれ50年オヤジの代から、そんなこと考慮に入れたことないことに家族みんなで驚いた。
そうなのか、、、これからはそちらも考えに入れて行こうという事に取り敢えずは、なった。
(電子ピアノなら確かにヘッドフォンで弾けるが、深夜の練習ということも場合によってはあるのかなあ、、、娘に)。


だがやはり、触っただけでも電子とアコースティックは全然違う楽器だ。
先生がこちらを強く薦めたのは、よく分かる。
それに今回決めたものは、明るい木目調で、見た目も穏やかで端正なところがポイントであった。
家具としても充分に映える。
一週間後に来るのが楽しみである。
今、次女が一番楽しみにしている。
それで作曲をしたいのだと、、、?
わたしもワクワクでメトロノームはすでに準備して置いてある(笑。


それまでにボロいピアノを処分しておくことになる。
音の出ないキーがひとつあるのが心配なのだが、持って行ってくれるだろうか、、、。
頼んだ引き取り業者は海外輸出をしているところのようだ。
成る程、それで少しばかり値が付いたのか、、、。

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復帰第一弾(笑

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ブログを予定通り、一か月休み、その間やっていたこと、、、。
その一。
絵の教室準備。物を揃えた。300円で看板を作る。ちなみにプロに見積もり頼んだら1万円であった。見なかったことにした。
来る予定だった2人が駅から遠いと言い出す。
では、車で送り迎か?ホントか、、、?
歩いて来れる人も募集したい。老若男女問わず。受験勉強というのも面白い。引き受けたい。

その二。
自分の制作の準備をする。
幾つかエスキースをしてみた。
やはりコンセプチュアルアートとなる。
もう具象は基本、描かないことにする。

その三。
読書。
随分していない。
どっぷり文学に浸りたい、、、と思ったが科学関係の本が面白くそっちばかり手に取っているうちに文学出来なかった、、、。
これは、はっきりさぼりに当たる。
その他に読んだものでは、アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」はとても良かった。高校生の夏休みの課題図書に向いている。
ちなみに映画はほとんど見なかった。無理やり鼻つまんで観ていたところもあり、そこから解放されて気も楽であった。

その四。
ともかく、整理する。
いらない物を全般的に片付ける。
再利用できるものは、する。
売れるものがあったら売るとする。

その五。
家事全般。
子供の世話。
カメの世話。


以下、断片補遺。感想。

家の整理。主にIT関係のものが多かったが、最後の最後に50年使ってもう調律では追い付かなくなった亡き父親のピアノの買い替えが重い。
家じゅうで喧々諤々の、12月一杯かかりそうなイベントとなってしまう、、、。
精神科医の弟が家に昼食にやって来て、ピアノの音にびっくりして、こんな音で弾いているのか!?の一言から買い替えの噺が具体的となる。(それまではみんながその件をワザと回避して来た)。
パソコンや家電の整理はどんどんしたが、、、ピアノは重いし気も重かった、、、。
塾の先生やわたしの学生時代の友人(バイオリニストではあるが)、さらにフェイスブック友達でもあるアルバムを何枚も出しているピアニストの先生にも相談してみた、、、。わたしはYamahaのハイブリット・ピアノにも興味があったのでその辺も含めて、どんなものかも知りたかったこともあったが、、、かのブーニンも旧ソ連においてYamahaのクラビノーバで練習していたものだし、、、みんながみんな電子ピアノ系はお薦めではなかった。それでふんぎりがついた。娘のキータッチが気に食わんというのが一番の決め手であったが、何しろうちのピアノは娘の塾のお家練習以外では使われていないのだ。
それで結局、買うものは決まった。後は具体的にどれにするかの問題となる。が高い買い物であり慎重になる。

さらに古いピアノに加えてYamahaDX7とパールのフルート(総銀ではあるが)もついでだから下取りに出したいという気持ちも沸き、まとめてあちこち当ってみる。
だがどこも、もうこれらには値も付かないとあしらわれ、、、どうするか思案中となっている。
今使っているムラマツのフルートは何年物でも別格で値はつくが、もう37年昔のパールでクローズドキー物は、学生の初心者以外はまず欲しがらないとのこと(当時20万円チョッとだったようだ。ちなみにムラマツは20年前でおまけしてもらって55万円ほどだが、そちらは今も現役である)。銀は現在、値段は低いし仮にそのものだけを抽出するとなるとその加工費で儲けはなくなるんですよ~っと業者の噺である、、、。中古車も値段が付かなくなるラインはある。あれと同じか。
結局、古いものを売る、下取りに出すということは余程のビンテージ価値のあるもの以外は、タダで欲しい人にあげて喜ばれた方が気持ちよかろうとつくづく思う次第である。

考えてみれば、この一か月間この手の雑事ばかりで時間を費やしてきてしまった。
片付けと整理、しかしキレイに清々しくなったと謂うより、余計にゴチャゴチャしてきている状況。

つまり11月に読書や自分の制作のめどを立てる事にしていたが、持ち越し継続中なのだ、、、。寧ろ12月を迎え突発的な要素も加わり事態は、ますます混迷している。
そう、パソコンもディスクトップとノートそれぞれ1台ずつ再生の為、UNIX~UBUNTUにしてしまった。
しかしこれは良かった。
かなりヘタレたディスクトップとノートが新品のように蘇った。
はっきり言って、ピカピカの新品を二台購入した気がする。

インストールもノートは光学ドライブのないモバイルものであったためUSBフラッシュメモリから、ディスクトップはDVDメディアから実に簡単にクリーンインストール出来た。
ISOイメージをダウンロードしメディアに書き込み、インストールするパソコンのバイオスをそこからブートするように設定して起動しなおせば、後はほぼ自動である。再起動したUBUNTUのディスクトップは何かとても郷愁が感じられるシンプルで好感の持てるものである。動きはとてもきびきびしており、対応アプリケーションは流石に豊富で次々に入れたくなる魅力的なものばかりだ。
研究用ソフトが多いのも如何にもUNIXである。
勿論、WinやMacに移設されて使ったことのあるポピュラーなソフトも多い。
流石にUNIXの歴史とオープンソースである為の開発者層の厚さが感じられるところ。
ドライバも豊富なようで何を繋げても大概繋がるのだが、、、

、、、実は問題がひとつ。
家のプリンターに思うように繋がらないのだ。設定上はドライバが見つかり設定完了となるのだが、ちゃんと作動しない。
ネットワークプリンタにもUSB有線接続にも上手く繋がっていない。方法はあるはずだが、今のところ見つかっていない。
結局、現時点ではドロップボックスを介して他のパソコンから必要とあらば、データのプリントアウトをする形にしている。
ワークグループのネットワークも出来たのだが、システムのアップデート後に見えなくなった。
だが、特に今のところデータをやり取りしたり何やら作って出力する必要性がない為、不便は感じていない。

それからMacbookAirの調子が悪くなりApplesupportをアプリ上から入って受けたのだが、大変丁寧な対応に感動した。
流石は業界一のサポート体制である。
お陰でばっちり治って一番新しいOS”High Sierra”も入り、きびきび動いている。
嬉しい限りだ。その点で三台パソコンを新しく導入した感がある。
そこは得した気分だ。
IT面ではかなり良い月であったが、長女の学校嫌いとピアノ選定を巡り、かなりヘビーな日も続いている。


12月は人に逢う予定が続く。
かなり色々な人たちだが、みんなクリエイティブで品格ある人種なので、逢うのはとても楽しみである。
美術や音楽鑑賞も入って来る予定。
今のわたしには、作品鑑賞はちょっと気が重いが。







プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

*当サイトはリンクフリーです。

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