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鈴木春信

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最も高名な浮世絵師のひとりである。
錦絵という色彩溢れる浮世絵版画を実質作った絵師だ。
江戸の風俗から詩情豊かなカラフルな絵をメディアとして普及した。
当世風の美男美女を古典~歴史ものの一場面に見立て、それをとてもお洒落な構図で鮮やかに(悲惨な史実であっても)パロディとも謂える絵物語として再現する(再構築する)。
この思想~史実を抜き取った装飾的デザインが当世風としてお洒落なのだ。

更に、店の看板娘として話題の美女を刷って広め、江戸庶民を夢中にさせた。
今で謂えばブロマイドかグラビアアイドルポスターに当たるか。
その為、さらに彼女らは有名に身近に感じられ、人気も鰻上りとなる。
勿論、彼女らの務めるお店は、彼女ら目当ての客が連日押し寄せ大繁盛の嬉しい悲鳴。
春信は、錦絵というメディアで遺憾なく影響力を振るう。
特に”お仙”と”お藤”はトップアイドルであったようだ。

美人画は確かに定型の範疇であるが、春信の美人は確かに美しい。
(絵師によっては同時代でも定型の美人をそのまま描いており、あまり面白味のない女性像となっているものもある)。

その他では、、、
金持ちが「絵暦」(カレンダー)を発注してくる。
依頼主独自の凝りに凝ったものだ。
太陰暦の当時、一見文字も数字も無いような絵柄の内に、読み取ることを要求する文字・数字を巧妙に仕込む。
その年によって、大の月(30日)と小の月(29日)が違った。
「小」と「大」と「数字」をそれと分からぬように絵の中に埋め込み、それを読み取らせる。
色とデザイン~模様がより精緻に巧妙さを極めてゆく。
とても懐柔で読み取れないものも出てくる(笑。
好事家たちの金に糸目をつけない要求から錦絵は技術的にもメディアとしても大発展する。

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また自ら愛する江戸を和歌の世界に見立てその風俗を描く。
われわれのよく知っている百人一首の詩が、江戸庶民の市井の光景に添えられ暖かく愛らしく再現される。
ユーモアとウェットに富んでいる。
とても身近で詩的で馴染みやすい絵だ。
「見立絵」として、当世風の絵柄から、古典・故事の特定のシーンを同時に思い浮かべる(ダブルイメージを得る)ものも多数刷っている。
例えば何気ない男女の絵に、男の方に矢を持たせ、女の着物に合戦場を想わせる模様を配するなどしてそれが平家物を連想させるものとなっていたり、、、しかし男の矢先には恋文が結ばれているなど、極めてお洒落で当世風な恋愛物となっている。
絵を読むことで楽しさも倍増する。
歴史的な渋い話や悲劇をポップで煌びやかな物語絵にしてしまう。
(それにしても江戸庶民は歴史に詳しい前提でもある。皆それ相応の知識人であったのか)。

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究極的には、絵で音を表現する。
「夜の雨」を茶釜のお湯の沸く絵で雨音を感覚的に知らしめるところまで極まる。
驚いたのは、輪郭のない幼子の絵などもあるのだ。
体の柔らかな質感まで表現している。
単に表現が巧みというより詩的感性が湛えられているのを感じる。
和歌の入った絵は勿論、それ以外の絵にも全てそれが窺えるものだ。

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それから面白いのが、男女が時にほとんど同じような姿で描かれている。
ユニセックスな容姿なのだ。
これは寧ろ未来的な感覚させ抱かせる、、、。








サイン

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Signs
1995年
M・ナイト・シャマラン監督・製作・脚本

メル・ギブソン 、、、グラハム・ヘス(元牧師)
ホアキン・フェニックス 、、、メリル・ヘス(元野球選手、グラハムの弟)
ロリー・カルキン 、、、モーガン・ヘス(病弱の息子)
アビゲイル・ブレスリン 、、、ボー・へス(霊感のある娘)
M・ナイト・シャマラン 、、、レイ・ラディ(グラハムの妻をひき殺した男)
チェリー・ジョーンズ 、、、キャロライン・パスキ(警察官)
パトリシア・カレンバー 、、、コリーン・ヘス(グラハムの妻)


小品である。かなり地味な趣にまとめている。
「シックス・センス」の監督である。
巨大なミステリー・サークルが主人公のトウモロコシ畑に突然現れた。
そのトウモロコシ畑に、何者かが侵入した気配があり痕跡も窺える、、、。
家庭にひたひたと緊迫感が浸透してゆく。
キャストの熱の入ったストイックな演技がそれを高める。
(ストーリー・プロットの弱さをキャストが演技で支えていた)。
異星人が襲ってくるといっても「インディペンデンス・デイ」のような超巨大宇宙船相手に、即物的で物量に任せた軍隊でただ無謀に突撃~みたいな単純なものではなく、一軒の家のひと家族に焦点を合わせた、こじんまりと小さく絞った作りには好感は持てる。
宇宙人の情報もTVやラジオで伝えられるのをハラハラしながら受け取るのみ。
現場にドカドカ車を飛ばして駆け付けたりして大騒ぎもしない、控えめで真面目な家族の姿が描かれてゆく。
武器だってこれと言ってない。包丁とバッドくらいか、、、。
何でも、煩くどでかければよいというものではない。

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TV放送にがぶり付になっていたメリルがニュース番組で不意にエイリアンが道を過るのを見てしまい飛び上がって驚愕する場面は良い。これが下手な役者であったらここから失笑をかって以降グダグダになってしまうだろう。
ここはホアキン・フェニックスの実力で持ちこたえる。

しかし品性の悪そうな宇宙人だこと。
如何にも悪です。と、言っているようなものだ。
しかも普通に街を横切っている。
大胆不敵である。というよりも宇宙人自体危険認識ないのか?
水で簡単にのされてしまう身をどう思っているのか、不思議、、、。


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エイリアンが微妙にちらつき、精神的に追い詰められ、三人で宇宙人に思考を読まれないためにアルミのヘルメットを被るところは、微笑ましく見えようが笑えない。
真面目な演技に説得力を感じてしまうのだ。
(メル・ギブソンとホアキン・フェニックスの気迫の演技にひたすら押されてゆく感じだ)。

家の中から釘を打ち付け襲撃を防ごうというところは「鳥」を想わせるが、鳥ならその有効性は期待できるが(それでもボコボコ嘴で突いてきた)、相手は外宇宙から飛来したエイリアンである。その防御で太刀打ち出来るか、グラハムの案通り湖の畔に逃げた方がよかったのでは、、、。
しかし子供たちはママと暮らしたお家から離れたくないときた。
これでは、お父さんも無理強いが効かなくなる。

弟のメリルもホントにこれで大丈夫なのか兄さん、、、と不安顔になるが、観ているこちらも同感だ。
しかし兄としてはレイの貯蔵庫で一度エイリアンに対峙している経験上、これでも何とかなると踏んでいたようだ。
案の定、なかなか入ってこれない(笑。
しかも疲れて寝ている間に、ラジオから円盤は皆立ち去って行ったというニュースがしきりに叫ばれていた。
折角侵略にはるばるやって来たのに宇宙人はそうそう引き上げてゆく。
(そもそもホントに侵略だったのか、、、?)
兄曰く、「きっと弱点を攻撃されたんだ。」
弱点はすでに彼はレイから聞き出していた。
きっと誰かが水をかけたらそれが効いたのだろう。

ミステリーサークルは水辺からは決まって離れたところにあった。
それを目印に彼らは集まっているように見える。
これを看過したのはレイであった。
彼はそれを伝える為にグラハムを電話で呼んでいたのだ。


最後に一安心と思った矢先に、エイリアンがテレビパネルに映った瞬間は、秀逸であった。
まだいたのだ!部屋のその方向に向き直るグラハムとメリル。
緊張がピンと走るが、そのエイリアン実物を間近に観ると何か間が抜けている。
アホなコソ泥といった風情で知的生物としての威厳の欠片もない。
体の弱ったモーガンを人質にとるも結局、メリルのフルスイングバッドで滅多打ちにされ、倒れたところ上からボーの置いたコップの水を被り退治される。これはコメディか?いやメル・ギブソンとホアキン・フェニックスの表情からそんな要素は微塵も感じられない。

しかし宇宙人、ショボい。余りにショボすぎる。
そのエイリアンはレイの倉庫に生け捕りにされていた個体で、グラハムにも指を二本切断され負傷者扱いで退却する円盤にも乗せてもらえなかった者だ。ちょっと哀れである。グラハムからも甘く見られている。
彼らは海以外にも地球に水が溢れていることは、接近する以前からよく知っていたはずなのだが、命に係わる割には、その防備が足りなすぎないか。防水スーツすら着ている訳ではない。空気中の水蒸気(気温と湿度の関係)をどうみているのか?
裸でヒョコヒョコ歩いてる場合か?ゲリラ豪雨でも来たらどうするのか?気圧はどうなんだ。大丈夫なのか、って別に心配することではないが。
星間航行(移動)して来た知的生命体とは思えぬ、間抜けぶりである。
異星人の造形及び動作の点、設定から謂っても、その工夫の無さ加減はSF?映画史上ワースト3にはしっかり入ると思う。

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この宇宙人襲撃騒ぎは、家族の関係修復と団結の為の試練ともなり、彼らにとって役立った。
このくらいのチョイ悪宇宙人効果なら悪い事ばかりでもなさそうだ。
とは言え、TV・ラジオによると都心部では死者も出たとのこと。
田舎と都市とでは騒ぎ加減がかなり違ったのだ。
しかしそれは彼らには窺い知れない事。
目の前を見て、自分たちのやるべき事を地に足を付けてしっかりやる。
エイリアンの実情をしっかり見極め、適当な対処で無事切り抜ける。
地道で堅実で素朴な生活こそが大切なのだ。
こういう視点から描く映画も良い。


キャストの熱演に好感を抱く映画であった。


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ブレードランナー2049

Blade Runner 2049 001

Blade Runner 2049
2017年
アメリカ

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
ハンス・ジマー、ベンジャミン・ウォルフィッシュ音楽
ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン脚本
ロジャー・ディーキンス撮影

ライアン・ゴズリング 、、、K/ジョン(ブレードランナー)
ハリソン・フォード 、、、リック・デッカード(元ブレードランナー)
アナ・デ・アルマス 、、、ジョイ(ウォレス社製のホログラフィーの恋人)
シルヴィア・フークス 、、、ラヴ(ウォレスの懐刀、ウォレスからは天使と呼ばれるレプリカント)
マッケンジー・デイヴィス 、、、マリエッティ(フレイザの配下のレジスタンス)
ロビン・ライト 、、、ジョシ警部補(マダム)
レニー・ジェームズ 、、、アナ・ステリン博士(記憶の制作者)
ジャレッド・レト 、、、ネアンデル・ウォレス(発明家、新世代レプリカント開発者、ウォレス社社長)
デイヴ・バウティスタ、、、サッパー・モートン(旧型レプリカント)
ヒアム・アッバス 、、、フレイザ(レプリカントのレジスタンス指導者)


『ブレードランナー』35年ぶりの続編。
前作を正統に引き継ぐ完全な続編となっていた。
圧倒的なスケールと稠密なディテールの芸術的映像美。
演出として説得力ある音。(ヴァンゲリスのサウンドの継承もなされている)。
キャストも全員強烈な個性と色濃い存在感を湛えている。
特にジョイという新鮮でミステリアスかつ魅惑的な存在には驚かされた。
アナ・デ・アルマスは要チェックである。
一方クールで最強のレプリカント、マッケンジー・デイヴィスは『鑑定士と顔のない依頼人』の美しいヒロインである。
更にレイチェルが当時の姿そのもので出てくる。これアーカイブから引っ張って来たものか。まさにVFXの勝利である。
どこかプリス(前作のレプリカント)を彷彿させるマリエッティことマッケンジー・デイヴィスのスーパーモデル級の存在感も目を引く。「オデッセイ」でNASAの衛星制御エンジニアを演じていた。

そして、引退したデッカードにも逢える。75歳を迎えいまだアクションも熟し若々しい。
ある意味、驚異である。
ライアン・ゴズリングとハリソン・フォードの共演はとても重厚でしなやかであった。
ライアンの物語の展開と共に深みを増す人格表現も秀逸である。
超大作(超重量級)の風格充分の続編であることに間違いない。


Kは、旧型レプリカントを解任するブレードランナーであり新世代レプリカントである。
高性能(高機能)ホログラフィージョイという恋人もいる。
kにエミッターをアップグレードさ物質化し自由に彼と外に出られるようにもなる。
(魂を得たホログラフィとも謂える存在と化す)。
2036年、新型レプリカントがウォレスにより開発される。人に従順で寿命に制限をなくしたタイプである。
彼はレプリカントの反乱により潰れたタイレル社の資産を引き継ぐ。
レプリカントは相変わらず過酷な環境下での労働の為に生産されていた。

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kは自分がレプリカントでありブレードランナーという事から、ジョシ警部補(マダム)に絶対服従して働いていた。
サッパー(惑星から脱出したレプリカント)を解任(殺害)したときに、彼は大きな木の根元に箱が埋まっていることを発見する。
その箱には帝王切開した女性レプリカントの骨が綺麗に収められ(葬られ)ていた。
それを知ったkの上司ジョシ警部補は、レプリカントが生殖能力を持つことによる世界~秩序の大混乱を危惧し、すぐにその隠された子供を探し出し殺すことを命じる。
だが彼は「生まれたもの」は魂を持つはずだと、引き受けることに躊躇する。
レプリカントがもはや「にんげんもどき」ではなく、人と同格の生命体の地位を占める事への脅威からジョシはkに任務遂行を急かす。
どうやら死ぬ前にサッパーの言った「お前は奇跡を見たことがない」という事が大いなる意味を持ってくる。
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2022年ブラックアウト(大停電)を経験し過去のデータは紙データ以外は吹き飛んでいた。
しかしデータ収集マニアであるウォレスの元にブラックアウト以前の復旧されたデータが僅かに残っており、kはそこに例の骨の正体を探り当てる。(骨のシリアルナンバーから)。
そしてその女性レプリカントをよく知る、元ブレードランナーのデッカードを探す。

ウォレスはレプリカントに生殖能力が備わる事で社の生産性が上がる期待をかけて開発していたが未だに成功を見ていない。
彼もデッカードに、その子供の居場所と仲間の存在について聴き出そうとしていた。

レプリカントの子供を探す闘いを通して、人間とレプリカントの存在そのものに焦点が当てられてゆく。
kは、例の骨の埋まっていた木の根元に掘られた数字「61021」が自分の少年時代に隠した木馬の足の裏の数字と一致していたことに驚く。それは誕生日であった。その符合に戸惑いつつも、実際に自分の少年時代の記憶が生きられたものであることを感得する。
それは感情を伴ったものであり本物の生きられた記憶であることが記憶制作者であるアナ・ステリン博士によって確証される。
(しかしその時アナの流した涙には、深い意味があり後程kもそれに気づく)。
kは自分がデッカードとその恋人のレプリカントのレイチェルとの間に生まれた子供ではないかと訝っていた。
自分も「生まれた存在」なのだ。もはやレプリカントという枠を超えた「存在」としての戸惑いと不安に苦悩する。
そう実存としての苦悩であると同時に希望でもあった、、、。
この間のkに対するジョイの支えはとても大きい。kにジョンという名も付け、名前をそう呼んで励ます。
kにとって完全にこころの拠り所となっていたことは間違いない。
愛らしくも直向きな人格を彼女も有していることがよく分かる。
ここまでくると何を持って存在の序列を付けようというのか。
人間、レプリカント、はたまたホログラフィーであるにせよ、、、
(しかしAIの発達がここまで進むだろうか、、、身体を持つに及んで魂も生じたと謂えるか)。
ジョイはkに深手を負わせたラヴによってエミッターごと踏みつぶされ儚くも消滅する。
ラブはジョシも殺害する。邪魔なものはいとも容易く葬り去る。

また、デッカードはレイチェルとの生殖能力を試すためのレプリカントであり、タイレル社社長の思惑で作られたものであることをウォレスから明かされる。
そう謂われれば、前作を想い受けべても全く符合するところだ。(実に納得できる部分だ)。
自分が人間であることを疑わなかったデッカードの落胆と虚無感が伝わる。
前作でもデッカードがレプリカントではないかという噂はファンの間で取りざたされていたが、、、ついに真相が明るみに出てしまった。

終盤レジスタンスに囚われたkが、指導者フレイザから孤児院に預けられたデッカードとレイチェルの子供は女の子であったことを知らされる(デッカードは子供を追跡から守る為に孤児院に入れていた)。
彼女は出産に立ち会い、レイチェルは彼女の腕の中で産後の合併症により息を引き取ったのだった。
データ上は、女の子は死亡し男の子が疾走したとなっていたのだが。
kはフレイザからレプリカントの子供と生殖能力について、ウォレスに知られないためにもデッカードを抹殺するよう指示される。
しかし、捕らえられて護送中のデッカードを深手を負いながらも何とか助け出し、アナ・ステリン博士の元に連れてゆく。
kはそこで雪の階段の上に横たわり、生々しい記憶が自分のものではなかったことを振り返りつつ意識が遠のいてゆくのを感じる。
デッカードはそこで娘と思しきアナと初めて出逢う、、、。

kがデッカードを救ったのは、前作でロイが彼を救ったのと同様の気持ちからだろうか。

「お前たち人間には信じられぬものをおれは見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ、、、
そういう思い出もやがて消える。時がくれば涙のように雨のように。その時がきた、、、」(ロイ:「ブレードランナー」)
いやでも想い出してしまう、、、。
(デッカードは二度も彼らに救われている)。

この続編が観たい。

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この映画、ライアン・ゴズリングとハリソン・フォードの共演も頗る強力であるが、女性キャストの厚みが尋常ではなかった。
皆、ヒロインを張れるような面子であった。
キャストだけでも相当な金がかかっていることが窺える。
明らかに次を期待させる内容であり終わり方であったが、、、。
今度は人類対レプリカントとの全面戦争となるか。


(次作を引き継ぐ監督などいるだろうか、、、それが心配である)。



女子美の文化祭に行く

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3人で女子美の文化祭に行った。
1時頃に到着したのだが、ほぼずっと雨の中であった。

いつもの3人なのだが(笑、今日はほとんど2-1の個別行動となる。
美術大学であるから、展示室に創作コーナーがあったり、参加者が創作するための部屋が設えてあり、そこで二人も描き出すともうペースも異なり、ひとりはじっくり描き進め、片方は手っ取り早く済ませて次に行きたがる。
わたしは、あっちに行ったりこっちを見に戻ったり、である。
何とか油絵と日本画の展示はまわることが出来た。
「自画像」が目立った。「自画像」はどうしても描く事になる。
そういうものだと思う。
他は、、、忘れてしまった(笑。
娘の引率で手一杯となる。

広いし結構歩き、喉も乾く。お腹も空く。
でも飲みたいジュースも冷たいのと暖かいのと好みは別れ、屋台のおやつも好みは別。
それぞれ行ったり来たり、何かのテーマパークに連れてきて遊ばせているような気分だ。
ほとんど変わらない。休日の娘サービスか?

ようやく3人で一緒に、ガラス工芸展示館に向かっていると、お姉さんからチラシを受け取る。
「ケルベロス」、、、!
舞台劇である。演劇サークルの発表だ。
冥府の入り口を守護する番犬であるが、どう扱われているのか、、、。

ガラス展はそそくさと周り、時間に遅れないように演劇公演の館に急ぐ。
ガラス工芸は”gravity”という作品がちょっと面白かったが、題名は忘れたが記憶を象徴的に表しているオブジェ作品もこころに残った、、、。
全体に作品数は多いが割と似ている気はする。
(他の展示もそうだが、全体に表現の幅は広くはない。突拍子もない作品は観られなかった)。
1号館~10号館まであり、1階から4階まで展示や発表がある。
ソーシャル‐ダンスやマンドリンも取り敢えず見た~聴いた。
ヒップホップ?ダンスは健気で面白かった、、、。
コスプレや仮装も見た。もっと派手にやっても良かったと思うが。


そして、演劇サークルの「ケルベロス」を娘たちだけで観ることになる。

---あなた、あたしを通して一体だれを観てるの---

というキャッチコピー?にわたしも興味惹かれたのだが。
あちこち周って、その場所に辿り着いたのは、10分前。もう会場の席は埋まっていた。
諦めかけたが、担当のお姉さんが、二席折り畳み椅子を出してくれたのだ。
長女も見る気満々である。
小学生に分かりますかね、と尋ねると「楽しめると思います」と返され、二人を頼んでわたしは外へ。
他の展示をその間、観て周ることにした。
1:15の舞台であるという。退屈でもしたら心配だ。
一抹の不安を抱きつつも、片っ端展示を観て周った。
後で見せたいところだけピックアップして周る。
時間を気にしながら、染物以外の展示は観たように思う。

十分前に演劇公演こ館に戻り、ジャスミン茶を飲んで待っていると、、、
とっても面白かったと二人がうきうきして出て来た。
どういう話だった、と聞くがよく分からない。
でもとても笑えたという。とっても楽しかったそうだ。
(演劇サークルのお姉さんたちに礼を言いたいくらいだ)。
しかし、、、果たして、どういう内容だったのか、、、
次女の方が説明は上手いので聞いてみたが、断片的シーンだけで、さっぱり分からなかった。
「去年マリエンバートで」を説明しろと言われているようなものなのか、、、?)
現時点でも、謎のままである。
「演劇を楽しめれば立派な文化人だ」などと訳の分からぬ事を言って褒め、残り少ない時間をわたしが予め実踏しておいた、お勧めの展示鑑賞に向かった。

陶芸、工芸の展示を周った。
動物の表現を面白がっていた。頭が小さく体が物凄くデカい猫とか、装飾模様のあるクジラとか、、、。
だが作品より今日周ったどの作品コーナーにも、作者オリジナルの名刺が置いてあり、二人とも名刺アートにかなり惹かれたようだ。
それぞれがとても個性的で可愛らしく、彼女らは途中から名刺集めに専念し始めていた。
カード集めは何ともこころときめく物がある。わたしも取り敢えず貰って歩いた(笑。
アニメ展示館では、テイクフリーのアニメブックを貰いちょっとした時間に夢中で観ていた。
イラスト描きは家でも自主的にしているが、丁度その延長線上にあり興味深いに違いない。

最後によく演劇を楽しみましたということで、綿飴を食べさせて帰路につく。
綿飴なんてまず、お祭り以外に食べない。
確かにお祭りだった。
(今日予定されていた星を見る会が中止になってしまい残念であったが、これが代わりとなったはず)。

非日常を楽しんだ。
しかしわたしはほとんど絵を観た気がしない、、、何故だか(爆。

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外で読書~ウイーン幻想派

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「嬰児虐殺」ダド

日中はとても日差しが強い。
気温もまだ寒いというほどではない。
そんな時には外で読書が一番。
ということで、まずは今何かと話題となっている「重力」関係の本を幾つか持ち出しみてみた。
やはり興味は尽きないが、細かい字を追うのが億劫になる、、、。

同時に持ち出した画集を眺めはじめた。
でかい画集を外で観るのは初めての経験である。
でも、はまった。こういうのも面白い。(おすすめ!)
画集のページが温まるほどの日差しで驚く。

ゆっくり堪能する。
主にウイーン幻想派の絵だ。
ダド、レームデン、タンギー、ブラウアーたちの絵を観た。


精妙な原風景をそこに観た。
恐らく無音である。(他の画家もそうだ。夢のように)。
ここで、わたしが一番好きな画家がレームデンだ。
冷たい雪原の死のイメージがとても分かる気がする。
雪の白さと鋭く引き裂かれた雲との痙攣してヒリツク不安な美である。
わたしも何処かで観たような、そんな気持ちが呼び覚まされる。
雪原も亀裂が入り大きくズレた地層も切れ切れに広がり伸びる雲も全て危うく不安という他ない。
この画家に常にみられる鋭く繊細に伸びる描線が引き攣った神経を刺激してやまない。
琴線に触れるというのとはまた違う。
とても痛々しい神経~生理感覚に共振するのだ。
特に彼の作品では、「戦車戦」である。とてもヒリツク。
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ブラウアーは、フッターにも通じる鮮やかで強烈な原色が目を引く。
特にビビッドな赤と青。
「赤い花弁」、「天に上る凧」、「海辺の空高く」など、燃えるような色彩(ビビッドな原色)が宙に浮かび上昇してゆくものが多い。
色が活き活きとして輪郭させも浸食して打ち震え広がりながら、何処までも上昇する。
地面も黄金色に鈍く輝いている。
この過剰さを前に、その世界に入り込むことは、全く人類の生存不可能な星に生身で降り立つくらい厳しさがあるが、モニタ越しに眺めるとしても違和感がある。
だが、その違和感に魅了されている。
非常に危ない感覚に誘われてゆく。
薬物的~麻酔的な、、、。
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タンギーには、ずっと前から惹かれるものがあり、特に広大な海の干上がった後の砂底に残された名状しがたいオブジェたちの恐ろしい異物感、、、その見てはならない物を見てしまった、出来れば目を隠したい衝動を覚えるそのオブジェ群は、どうにも未だに見慣れることが出来ない。
そこには異様に永い時間が潜んでいる。
それを確かめる不安と畏怖と好奇心、、、。

つまり今も惹かれ続けている。
隠れてヒッソリ小箱の蓋を開けて観るような感覚である。
時折、想い出したように確かめたくなる、そんなオブジェ群だ。
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ダドには「大きな青い磯」という記憶に残る絵がある。
寒色~青主体で、海の水の完全に干からびた海底に同様に干からびた人や胎児のような物体が露呈している光景だ。
タンギーのように抽象的なオブジェにまで研磨されてはおらず、かつての姿~原型を残している。
その分、残酷で生々しさは残存するのだが、観ること自体に抵抗を感じない。
タンギーと比べて、時間の浸透がまだ浅い分、超然とした異物感~即物性は薄い。
鉱物のもつ抽象性には、至っていないのだ。
その分、観易い。タンギーより意識レベルで観られる絵だ。
だが子供のころ観てから今でもずっと覚えている。
やはりダドの絵も原風景に繋がっていたのだ。
そこをもっと降りてゆくとタンギーの世界に遭遇する、、、。

上昇するものと下降するもの。
どちらにせよ足場は覚束ない。
と謂うより宙吊り感覚である。
そこは闇ではなく研ぎ澄まされた青空であることが多い。
とても冴えて覚めた場所。
しかも乾ききって光を滲ませ。
幻想はそういうところにこそある。


幻想画の持つ象徴の浸透力、その秘められた物語性。
そこには観る者に原風景を感得させる確かな物質性がある。

メッセージ

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Arrival
2016年
アメリカ

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
テッド・チャン「あなたの人生の物語」原作
エリック・ハイセラー脚本
ブラッドフォード・ヤング撮影
ルイ・モラン視覚効果監修
ヨハン・ヨハンソン音楽

エイミー・アダムス 、、、ルイーズ・バンクス(言語学者)
ジェレミー・レナー 、、、イアン・ドネリー(物理学者)
フォレスト・ウィテカー 、、、ウェバー大佐(アメリカ軍大佐)
マイケル・スタールバーグ 、、、ハルペーン
マーク・オブライエン 、、、マークス大尉
ツィ・マー 、、、シャン上将(中国軍)

新たな言語(体系)を身に付け、そのことばで思考するようになれば、確かに意思の疎通が可能になるだけでなくその相手の世界観も自ずと受容出来るようになるはずだ。夢も驚くべき変容がみられるかも知れない。

突如現れたその相手は、非線形の時間観念を生きる「他者」であった。
彼らはわれわれにとっての未来を既に知る者であった。
それは正確な言い方ではなく、全てを同時に知る者たちと謂うべきか。
われわれのような言語体系をもち、線形的な事象認識~表象の内に生きる者にとって、それを生きるとは、、、先に待っているものが分かっていてもそれを受け容れて生きることを意味するだろう。

言語学者ルイーズ・バンクスは、「彼ら」とのコンタクトを経て、自身の未来の記憶を鮮明に想起するようになる。
フラッシュバック或いは夢のなかで。
独身の1人暮らしの身でありながら、彼女の娘との暮らし、娘の哀しい運命についても克明に思い出す、、、。
最初は、ただの幻想~悪夢と思っていたが、彼らとのコミュニケーションを探るうちに彼女の意識も変性してゆく。
そして、その記憶は彼女自身のものであることに気付く。

彼らの言語は、手から霧状に発する墨のような物質で空間に丸い輪を描く。
前後という観念の無い(地球人とは明らかに異なる)ことをルイーズは悟る。
その輪のパタンは様々であるが、多くは日本の書のような閉じていない丸でもある。
(空海の円を想わせるような)。
線も墨の濃淡に似ている。
それは非常に直接的で効率的な観念の視覚化と受け取れるものだ。
彼らは姿と音は感知できるが、その巨大な姿でありながら地上すれすれの空中に静止し、地球に対し物理的影響を全く与えないようにしていた。

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「彼ら」は、12か国に同時に現れ~”Arrival”到着し、そこに留まり続けている。
ルイーズは、彼らと人類の間に立ち、意思の疎通を図る。
到着し滞在する理由、その目的を何とか聞き出そう、未知の言語を探ろうと始めた研究心を刺激する試みであったが。
すぐに人類の命運のかかった途轍もなく大きな仕事となっていた。

結局、「武器=道具」を与える為に地球に来たのだと彼女は聞き出す。
それは、人類への贈り物であると。
彼らはワザと世界各地12に分けた情報のピースを一つに組み上げないと解けないメッセージを発信したのだ。
(情報を共有させること~真に協調させることこそが彼らのギフトであった)。
だがそれを地球に対する攻撃と受け取った中国が彼らに宣戦布告する。
彼らが世界を分断して相互に戦わせて滅ぼすように仕向けていると受け取ったのだ。
その強大な力に靡く(そういう趨勢なのだ)ロシア他4か国もそれに倣う。
のっぴきならない状況に陥ったときに、ルイーズの脳裏にシャン上将からパーティーで礼を謂われるイメージを見る。
そしてすぐその意味に気付き、ネットワークを切られている中国に国際電話をする。
和平後に国の協調が図られたこと祝する席でシャンから耳打ちされた内容を改めて彼に伝えるのだった。
攻撃はギリギリのところで避けられ、情報は共有され世界は繋がる。

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彼らのブランクーシの彫刻のような船体を「ヘプタポッド」と名付ける。
ルイーズと物理学者のイアン・ドネリーと面会を重ねる「相手」は取り敢えず、アボットとコステロと名付けられた。
名付けない事には思考も話も進まない。

ちなみに、予定通りに結ばれるルイーズとイアンとの娘は円環を意味するハンナ(Hannah)と名付けられる。
これはルイーズの「先に待っているものが分かっていても受け容れる。全ての瞬間を大切に生きる」ことの決意を表す。
「始まりと終わりなど存在しない」

彼女は娘からも大きなヒントを夢想の中で受け取っている。
ノンゼロサムゲーム(positive-sum game)の理論である。
ここでは情報をこちらから進んで渡すことで全ての情報を共有(相手の情報も獲得)しようとする策である。
各国は自らの国にいる訪問者の情報を完全に秘匿していた。
戦争の前段階である。
この危機を彼女の非線形時間観念が救った。

そして彼女は娘の悲劇を予め知りながらも運命の全てを受け容れる。
この精神は、先のことが分かればそれを回避しようという線形時間観念からすでに解かれた認識によるものだ。
(タイムリープものSFによくあるパタンから外れた)。
すでに「彼ら」の認識に近いものであろう。

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映像と音楽が素晴らしい融合をみせる。
VFXは極めて自然で荘厳であった。
エイリアンはこれまでSFに観たどれにも似ていない。
独創的なフィギュアである。
そしてその世界観も。
「ブレードランナー」「コンタクト」「第9地区」「インタステラー」に並ぶマスターピースである。

この映画の監督は要チェックだ。
「プリズナーズ」も際立った映画であった。

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ドゥニ・ヴィルヌーヴ。
明日(10/27)公開の「ブレードランナー2049」の監督である!
・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしも月曜日に観に行く。




ホワイトアウト

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Whiteout
2010年

ドミニク・セナ監督
グレッグ・ルッカ原作

ケイト・ベッキンセイル 、、、キャリー・ステッコ(女性捜査官)
ガブリエル・マクト 、、、ロバート・プライス(国連捜査員)
コロンバス・ショート 、、、デルフィ(操縦士)
トム・スケリット 、、、ドクター・ジョン・フューリー(医師)
アレックス・オローリン 、、、ラッセル・ヘーデン

いきなりソ連の輸送機が南極上空で発砲事件により墜落するところから始まる。

南極観測所“アムンゼン・スコット基地”を拠点にした、外はそれはもう残酷な寒さと吹雪の凄まじい美しすぎる白のグラデーションの何処までも広がる極地でのドラマである。
(雪原というとわたしは「遊星からの物体X」を連想してしまうが、これは心理的なサスペンスである)。
基地内にせよ雪上車や飛行機に乗っていようが、この雪原と吹雪のなかでは、孤独に封じ込まれ自らに向かい合う閉塞空間ともなってしまう、、、。(人によって差はあるにせよ)。
恐らく誰もが精神的に少なからず追い詰められてゆく。
主人公のキャリー捜査官は自らを追い詰めるようにこの最果ての地に志願してやって来た。
時折、激しいフラッシュバックや悪夢に悩まされる。
(かつて相棒の麻薬捜査官に裏切られ彼を殺してしまった経験がずっと後をひいている。トラウマである)。

しかし、南極発の殺人事件が勃発するまでは、実に単調で平坦な事務処理生活に埋没していた。
それが起きたのが、任務を終え帰国する3日前という運の悪さである。
事件が尋常なものではなく捜査が長引けば、次の要員が来るまで基地に更に6か月残ることになる。
これでは精神的に参ってしまう。
だが、この事件は予想を裏切るミステリアスで残虐で無情なものであった。

映像にはキャリーのその時々の心理状態を雄弁に表す表情が感じられる。
極地の環境、その変わりやすい気象が上手くそこに活かされていた。
だがわたしにもっとも残ったのは、下手なスプラッターホラーなどよりずっと痛怖い、殺傷~傷、切断、縫合、、、などの映像だ。
こういうのはホントに苦手。(「遊星からの物体X」とは別の意味で)。

特にケイト・ベッキンセイル(キャリー捜査官)の薬指と小指が凍傷の悪化から壊疽が酷くなり切断という場面、、、。
これはキツイ。
それ以外にも、真っ白の雪煙に、暗闇と極低温の猛吹雪という過酷さのなか、姿の見えて来ない何者かの殺気と血なまぐささで、不安と孤独と恐怖を高める。
冷たい暴風のなかロープに命綱をロックしながら進むキャリー捜査官がひたすら痛々しい。
1時間40分身をよじらせながら観てしまう映画も余りない。

殺人事件は、冒頭のソ連輸送機事故に繋がってゆく。
キャリーとも面識のある南極調査隊の隊員たちが自分の仕事から外れて、この50年前に墜落した飛行機(遺体がぐちゃぐちゃでそのまま遺棄されている)に積まれたお宝に目が眩んだ結果引き起こされた事件であった。
キャリー捜査官は、マイアミでも信用していた相棒が金に目が眩んだお陰で裏切られたが、この地でも尊敬していた先生ドクター・ジョン・フューリーが金に目が眩んで彼女を裏切る。とことん金運の悪い人だ?
当初、核関係の武器輸送(軍事関連)を睨んだが、ソ連の輸送部隊は実はとても純度の高いダイヤモンドの原石を発見・掘り出していたのだ。
調査隊の関係者みんなが欲に目が眩み殺人事件にまで及んでしまった。
そして基地の危機管理意識はほとんどなく、チーフからして乏しいことが分かる。
全てを結果的にキャリー独りに任せてハイさよならであった。(それはないな)。
ちょっと不自然な国連捜査官が最後まで味方であったことは幸いであったが。
しかしほとんど捜査はしていなかった(頭は使っていない)のは確かである。
キャリーが遺体の縫合痕を自分の指の手術後と比べてみて、ドクターが犯人だと分かるところは何とも言えないが。
殺人者が現れそれに対抗する形で物語は進んでゆき、基本向こうから起きる流れに対応してゆくうちに犯人に行き着いた感じではある。


そして事件の動機は金である。
これは、最初から最後まで欲得関係で進展していた。
思いの外、物語を展開する背景がその位である為、深みや厚みに欠けるが、南極とケイト・ベッキンセイルで充分に見せるものにはなっていた。

わたしとしては痛い映像が残って後味は良くない。
遺体の腹部に例のダイヤモンドを隠して輸送しようというのだ。
それをメスで切り開き確認するキャリー。
ともかく、痛い。
指を失くしたケイト・ベッキンセイルが気の毒。
6か月後も元気そうであったのでホッとして観終わったが、、、。

「レタッチ」で初めて観てから随分経つが、こんな大人になっていたのだ、、、と感慨深い(笑。


(外気-60℃で果たして皮膚を露出して大丈夫だろうか。普通に会話が可能であろうか。ちょっと不思議であった)。




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インデペンデンス・デイ: リサージェンス

Independence Day Resurgence

Independence Day: Resurgence
2016年
アメリカ

ローランド・エメリッヒ監督

リアム・ヘムズワース 、、、ジェイク・モリソン(月面基地の輸送機の操縦士、パトリシアの婚約者)
ジェフ・ゴールドブラム 、、、デイビッド・レヴィンソン(地球防衛司令部の部長)
ビル・プルマン 、、、ホイットモア元大統領(元合衆国大統領)
マイカ・モンロー 、、、パトリシア・ホイットモア(大統領補佐官、ホイットモア元大統領の娘)
トラヴィス・トープ 、、、チャーリー・ミラー(ジェイクの相棒の操縦士)
ウィリアム・フィクトナー 、、、アダムズ将軍(大統領を含む主要閣僚が全員殉職後、大統領として指揮を執る)
シャルロット・ゲンズブール 、、、キャサリン・マルソー(フランス人精神科医)
ジャド・ハーシュ 、、、ジュリアス・レヴィンソン(デイヴィッドの父)
ジェシー・アッシャー 、、、ディラン・ヒラー(前作活躍のスティーヴン・ヒラーの息子、レガシー飛行部隊の隊長)
ブレント・スパイナー 、、、ブラキッシュ・オーキン博士(昏睡状態から覚醒したエリア51の研究チーフ)
ヴィヴィカ・A・フォックス 、、、ジャスミン・ヒラー(ディランの実母、医者)
アンジェラベイビー 、、、レイン・ラオ(操縦士、月面基地司令官のジャンの姪)


これから世界~地球は、アメリカと中国のリーダーシップの元でやってゆくようだ。
分かる気もするが(スポンサー的にも(笑)、、、。
ドラマ的にはスカスカだが、映像の迫力と展開は濃密で力業でどんどん引っ張る。
20年ぶりの続編。(メン・イン・ブラック3も初作から15年後であった)。
前作『インディペンデンス・デイ』の事は観た後、ほとんどすぐ忘れたため、何とも言えない。
ウィル・スミスが出ていた。ジェフ・ゴールドブラムとビル・プルマンは今回も出演し良い味を出している。
もしかしてここではビル・プルマンが一番カッコよい役であったかも。

シャルロット・ゲンズブールが健在なのは、ファンとして嬉しい。
ジェフ・ゴールドブラムは、若い頃よりも、今の方が独特の渋みが出てきて良い。

Independence Day Resurgence004
ヒロインのマイカ・モンローは、「フィフス・ウェイブ」にも出ていたが、SFアクションモノがフィットしそうな人だ。
カイトボーディング選手でもあるそうな。
タフさと繊細な雰囲気が同居していてよい感じ。
彼女演じるパトリシアがかなり中心となって流れていたが、もっと活躍させてもよい。
完全な主役にすべき。その方が締まる。

Independence Day Resurgence002
アンジェラベイビーという中国人女優が出ていたが、初めて見た。
他にも中国人俳優はかなりの人数出演しており、そういう時代~趨勢となってきたようだ。
彼女について言えば、ミュータント的な雰囲気がありSFものに向いていると思う。
(とは謂え、この映画は大掛かりなSFの仕掛け~出で立ちを借りた、ドタバタアクションものであるが)。
物語上、中心になってフルに活躍すべき、ジェイクとディランは今一つ、インパクトはなかった。
最後まで印象が薄い。お陰で全体が、少し散漫にもなっている。

アメリカと世界が一丸となって戦おう、など大統領が何度も世界に向けて熱弁ふるう、体育会系が世界をまとめるようになってしまったらしい。
嫌なまとまり方だ。
敵の猛攻を主人公たちが、テレビゲーム的運動神経でかわしてゆくところなど、余りにもご都合主義が露骨である。
(第一次世界大戦か?)。
ホイットモア元大統領の英雄的な死なども今一つ軽く見えてしまう。
ブラキッシュ・オーキン博士たちのコミカルな要素が結構面白い流れを作っていたが、そこをもっと噺全体に活かしていっても良かったか。
テレパシーで凶暴なエイリアン(女王か)と繋がっている主要人物たちなども、頭痛で顔を歪めるだけでなく、もう少しプロットに深みを与えるアクション~展開でもうひと捻りでも加えると面白いのではないか。

”球体”というのも何とも言えない。
物質的肉体を脱し、意識を球体マシンにアップロードしているエイリアンらしい。
地球にまたも襲い掛かった、他の惑星の核からエネルギーを抜き出しその星を滅ぼしてゆくエイリアンに対し、レジスタンス勢力を結成しているという。つまり、地球人にとっての味方となるか。
これまで地球人は、先の侵略エイリアンとの闘いから得たテクノロジーで戦闘力を拡充してきたが、これからは球体エイリアンの叡智を借り、深宇宙に飛び立ちエイリアンをこちらから迎え撃つ流れとなりそうだ。
(しかし、彼ら~球体も自らの星を彼らに滅ぼされている。地球人は何とか防衛に成功した。彼らがどれ程、信頼に値するか。単に闘いに巻き込まれるだけのことかも知れぬではないか)。
どんどん他者の叡智や技術を取り込んで自らのものにしようという姿勢は正しいとは思うが。
果たして宇宙に飛び出してまで戦うメリットがあるのか、、、。疲弊するだけではないか?
この流れだとその道は不可避みたいだ。
世界~人類はこの外敵とアメリカ・中国のタッグによって一つにまとまったようであるし。

Independence Day Resurgence003

大変単純だが重量級のCG満載の映画であった。
爆発がやたらと多い。
迫力はあり感覚的には面白いとも謂える。
しかしVFXはともかくとして、あの女王を見た限り、文明の高度に発達した生物という形体とは考えにくい。
あれでは巨大怪獣が暴れ狂っていただけである。
どれも頭の好さそうなエイリアンには到底見えないのだが。
(そういえばやること~戦略も余り頭は良くない。大丈夫か?あの球体にしても)
敵としての(味方であっても)説得力とリアリティに乏しい。
よいキャストを使っているのだが、如何せんコンセプトが安易すぎた。
CGだけに頼り過ぎた。


続編をはっきり示唆して終わる。
いよいよスターウォーズか、、、。
それとどのように差別化を図るのか。
期待より心配の方が大きい。


これの続編はどうでもよい。
早く「ブレードランナー2049」観たい(笑。

幻想の対象化へ

Anton Lehmden001

実際の作業には時間がかかるが、ゆっくり着実に前のめりに進めてゆきたい。
自動的に増殖するイメージの消費と相克、そのさなかでの現実の虚構化。
これはあらゆる場において留まることを知らない。

幻想=表象として思考する反復の限界と、その鏡像関係の閉塞に関して。
その欲望を投影する自明性を不透明にすること。
自己疎外のメカニズムを晒す。

無意識的で根源的な思考及び想像力の場にゾンデを垂らす。
様々な幻想の相互浸透する波間の~両義性の中へと。
だが実際、そこが生きた現実~時間ではあるのだ。

幻想を意図的・創造的に描く画家たちは、極めてそれに自覚的だ。
幻想を対象化するための強靭であり極めて脆弱な身体性に全てを委ねる。
その目覚めの時の喪失感から遡り、無時間の世界の定着を図る仕草は、、、

余りに完璧で理路整然とした果敢無い夢の断章の捕獲にも想える。



外は雨

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外は大雨の音が間断なく続く。
台風の為の市の避難勧告メールが3度もけたたましく鳴った。
内容を見るとまあ、物々しい事。

わたしのいる場所は、山もないし、全くの平地で窪みもなく水も溜まらない、河もない、、、
と思ったとき、高校時代の同じような大雨台風の時の事を不意に思い出した。



それは当時、学校でいつも一緒に行動していて、帰りも飲み食いするなと注意を受けていながら、毎日学校のすぐ隣の店で必ず飲み食いして帰った友達のことだ。

彼は体が丈夫な気さくな頑張り屋さんで、ちょっとしたことでは動じないタイプである。
勉強もよくやっていたが、お父さんの影響でアウトドアの活動一般に強く、火おこしやテント張り、飯盒炊爨など得意であった。
ある日、滅多に使わない近くの有名なローカル線(わたしの住む地区を真ん中にして三角形~三辺に鉄道が敷かれているがその中で飛び切りローカルな線)に乗っていた時、その線路の間近の土手の斜面で彼がヤマトイモ(彼の後日談)を一生懸命掘っていたのを見た。そのイモは根深くて掘るのが大変なのだとか、、、。

かなりのインパクトであった!
わたしにとって彼は一目置く人間となった。
(それまでもキャンプなどで、彼の偉大さをひしひしと感じることはあったのだが)。

彼は帰りは途中まで自転車で一緒に帰るが、わたしはすぐに家に着く距離のため途中で分かれ、彼は延々と走って坂を二つくらい上り下りした先にある緑の茂る地区に住んでいた。
わたしと言えば、小・中より高校は近い場所にあり、しかもその近さでは自転車通学は認められていないのだが、抜け抜けと自転車通学を取り付けていた。規則にはことごとく抜け穴がある、、、(チョイ悪。
登校後に忘れ物に気付いても自転車で余裕で取って来ることが可能であった。
同級生に2時間半かけて学校に来る子がいて、彼ら(彼女ら)は実にしっかりしていた。
これは堕落するわと我ながら思ったものだ。

ある日、真面目で健康そのものの親友である彼が無断欠席したことがあった。
誰も気にしなかったが、わたしも珍しいとは言え不思議に然程気にもならなかった。
どうしたのかその晩に電話でもしただろうか、、、覚えていないが。
一日開けて、彼は登校して来た。
明るく挨拶を交わしたところで、誰かが、お前昨日どうしたんだと聞くと、みんな注目した。
(やはりわたしはその理由を事前に聞いていたような気がする、、、)。

日頃水枯れでほとんど水の流れのない河が彼の住む地区にあることだけは、誰もがうっすら知ってはいた。
その河が大雨で増水して氾濫(彼の言による)したのだ。
(確か早めに家に帰され夕方から晩あたりに豪雨が降り、あくる朝はもう下火で普通に登校というパタンであったような)。
彼は自転車だけでなく家に帰ると原付も乗りまわしていた。
そのバイクごと水に押し流されて次の日学校に来れなかったのだという。


彼はそれを耳にした周りから大爆笑の渦に取り巻かれた。
わたしも涙を流して腹を抱えて本気で笑い転げた。
(知っていても改めて面白さに火が付くことは多い)。
日頃、慎ましやかで凛とした知的な女子生徒(ある意味マドンナ)も大笑いしているではないか。
何がそんなに可笑しかったのかは、謎である。
ただ、あの時は笑いが爆発して止まらなかったのだ。
笑いだけがその場に存在していた、と言ってもよい。
そういえば、日頃あまり笑いがなかったようにも思う、、、。
そのお茶目な非現実性が連鎖的に、ある無意識的なスイッチを押してしまったのではないか、、、。


彼もその時ほどみんなから笑いが取れたことはあるまい。
あれからもう随分経ち、何処でどうしているかは知らぬが、彼の事である。
しっかり堅実に生きていることは疑う余地がない。


相変わらず雨音は一定の激しいリズムを刻んでいる。
明日あたりは、きっとあの河も増水していることだろう。



ロボット作り

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今日は、長女の助手として、木製ロボット制作に勤しむ(笑。
パソコン設定と外出先の携帯と家のプリンタを繋いで、という依頼に応えてから一休み、カルピスソーダを飲んでいたら彼女が「もしかしたら明日学校があるかも知れない」と言って宿題の相談に来た。
明日学校がなければ、ボヤ~っと遣るのを持ち越すつもりだったか?

ロボット作りが遅れて宿題で持ち帰ったというのだ。
一番の得意分野ではないか、、、家でも自主的にやっているものだろうに。
頭と胸と腕まで上半身は作ったはよいが、その後のイメージが沸かないと言う。
持ってきた材料をみたが、これと言って変わった事が出来る余地もない。
所謂、小さな木っ端ばかりである。
結構、厳しい。

「第9地区」のエイリアンを想い出し、腹はうんと痩せていてもよい(羨ましい)という考えで同意し、ウエストのうんとくびれたロボットを計画した。
脚はノコギリで同じ長さを切らせたはずだが、ノコギリの加減もありかなり片方が斜めに切れてしまった。
その傾斜部分をやすり掛けさせたのだが、長さが異なってしまう。
脚の長さは足の厚さで調整することになる。
味のあるロボットになるだろう。

厚みの違う足で長さが同じになり、胴体に接着する。
どんぐりの実が幾つもあるので、それを両目と頭につけるアンテナにも3つほど接着した。
脚とアンテナがかなり長い上半身だけマッチョなロボットが出来た。
チャームポイントは長いアンテナである。

この作品は、生徒全員の屋外の作品展に出品するものらしい。
時期から謂って、雨は大丈夫であろうか、、、。
搬入~展示~搬出と先生方には大変な行事となろう。

今日は朝の洗濯物のやり繰り(笑、から鉢植え植物の移動に始まり、かなりの仕事量であった。
ただ休みの日は、食事はゆっくり出来ることが救いである。
どこかでゆっくり出来ないと、、、娘たちはこれからが色々やることも増えてきて大変だろうな、、、。
他人事とは言え(爆。


結構面白可笑しいロボットになったので写真に撮った。
作品展から戻ったらアップしたい(笑。



パソコン戻る~速い

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結局、パソコン本体のハードエラーということで、取り換えとなって今日の昼過ぎに届く。
すぐさま箱から取り出し、ネットにつなぎプリンタに繋ぎ、必要なソフトを軒並みインストールし、但しくれぐれも使う頻度の少ないものはインストールしないようにして(ここが肝心。あれば便利かな、とかいうソフトは入れない。必ず使うもののみにする)、使用準備を整える。

4時前に全て済み、外付け光学ドライブでBlu-rayの映画を観る。
ちょっと迷ったが、ジャッキー・チェン主演のもの、二つばかり、、、。
問題なく観切った(笑。

面白かったが、映画の感想は書くほどのものではない。
ただ面白かった、ではどうにも、、、。

何故、外付かと言えば、DVDの読み書きの光学ドライブしか付いていないのだ。
家にドライブがあったのでUSB接続でこの先もやっていくつもり。
メーカーによっては、ハイエンドでさえもBlu-rayドライブは付けないところが幾つかある。
(それどころか、光学ドライブを付けない薄っぺらいタイプがどんどん増えている)。
そういう流行(Macから広まった)であり、メーカーのポリシーでもあるのだ。

それはともかく、とてもキビキビ動いて気持ち良い。
体感速度が速い。
それに越したことはない。
データ上速いことになっているが、ちっともそう感じないモデルもあったりする。
これは思いの外、速い。
このスペック、8Gメモリで240GのSSDで、Core i 5であると、DVDドライブとは言え新品は安いところでも11万円代はしてしまう。
オフィス互換ソフトも付いており、普通に文章書いたり、表を作るのには困らない。
コスパは凄く良いと思える。一番、好感を抱くのは速さだ。


筐体の程よい使用感(笑、を隠すために娘たちが持っている可愛らしいシールを貼ってみた。
シールが貼られているノートパソコンを見て以前、勿体ないと思ったことがあったが、これには丁度良い。
子供にもわたしにも充分使えるペイントソフトもインストールした。(GIMPの他に、お絵かき専用のものを子供が欲しがっていたため)。
音楽編集ソフト、エディター、リネーマー、画像比較ソフト、勿論Blu-ray再生・書き込みソフト等々は入れた。
しかし余計なものは入れない。
所謂、SSDをシステム、HDDをデータという構成ではなく、SSDのみなので、必要最小限で行かなくてはならない。

ともかく、キビキビ動くのでかなりの満足感はある。
ソフトは少なめが良い。
データは基本的に外付けHDDに入れてしまうので、本体は大きいものは必要ない。
今企業のノートなど、本体には一切データをしまう事が出来ないものになっている。
これで盗まれたり壊れても問題はない。
でも全てクラウドというのも何とも、、、仕事用ならそれまでか。
自分のパソコンであったら、これはHDDにこそしっかりとっておきたいという愛着あるものが自ずと出来るものだ。
昔3Dで制作した「鉄人28号」や絵本用のクロッキーは、外付にも内蔵にもしっかりとってある。


ともかく、今度の新しい(中古)パソコンは、結構使える予感がする。
娘たちのものが主になるだろうが、、、
沢山お気に入りデータを作ってしまいそうだ(笑。




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マルセル・デュシャン

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画家、彫刻家、チェスプレイヤーである。
絵画(油絵)を1912年以降、放棄してからは、チェスに没頭していたようだ。
ダダの芸術家たちとの接触、一時はその中心的位置(ニューヨーク・ダダ)にいたが、シュールレアリストとのコラボも経てゆく彼は、そのいずれのグループにも所属はしなかった。常に違和を唱えていた。
何らかの組織に帰属することは徹底して拒んでいる。
そして彼はヨーロッパ(フランス)に見切りをつけアメリカに飛んでいる。

但し、ダダイストであるフランシス・ピカビアには多大な影響を受けたようだ。
『人間機械論』のピカビアである。(わたしは彼の「機械の時期」が大好きだ)。
ピカビアの追求した機械の美しさはデュシャンに色濃く受け継がれていると見られる。
『チョコレート磨砕器』、『回転ガラス板』、『地上稀なる絵画』等に特に色濃く反映されていると思う。
勿論、『大ガラス』を忘れてはならない、、、。

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『階段を下りる裸体』(No.2)が未来派やキュビズムの画家たちにすら理解されなかった。
これ以降、彼は絵画制作から急速に遠ざかる。
「裸体は階段を降りない」という批判はこの絵画に対する批判たり得るか?馬鹿げている。
「題名だけでも変えろ」などという忠告も受けデュシャンは呆れかえった。
ここには他のどんな絵画よりも「運動」が優れて捉えられている。
未来派やキュビズムの最高の成果とも受け取れるものだが。

クールベ以降の絵画は「網膜的になった」という批評を美術界に放って以降、彼の作品は油絵からコンセプチュアルアートと呼べるものへと移行する。
単なる「網膜的な愉しみ」に終始している藝術を終わらせる彼の企てであろう。
レディ・メイド、匿名芸術、複製芸術、死後の芸術、インスタレーション、、、
などの様々な方法論によって「観念芸術」を試み、意欲作を作成する。
チェスにも通じる「思考の愉しみ」の為の芸術か。
レディ・メイドをはじめそれ等に対し彼は明確な定義をはぐらかすような言葉「私は何もしていない」などと騙っていた。
特にレディ・メイドは、既製品をそのまま、叉は手を加え(修正し)て自分のサインすることで出来上がりとするオブジェ作品である。
この衝撃は実際、大きかった。
実質、ここからコンセプチュアルアートが始まっている。

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絵具や支持体を使わぬ作者の手もほとんど介さぬ作品群である。
もっとも『大ガラス』はガラスを支持体にはして何年もかけて(確か8年くらい)入念に制作されている。
ガラスの間に埃などを挟んだりしていた。
無論他にも、油彩、ガラス、鉛の箔、ヒューズ線も挟んでいる。

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ローズ・セラヴィ名義で作品発表、、、自身の「性」と「宗教」の移行でもある。男ー>女、カトリックー>ユダヤ教となる。
女装もしている。何処となく南伸坊さんを思い浮かべる。森村 泰昌氏のそれとは違う。
作家自身も変身~作品化するのだ。
『ローゼ・セラヴィ、何故くしゃみをしない』(鳥篭に角砂糖型の大理石と温度計とイカの甲が詰められている。見るからにクシャミしたくなる。しかもたいそう重そうだ)、『ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット』(リゴーの香水瓶のラベルを自作のものに付け替えている、、、こういうのやってみたい)。この辺はローズ・セラヴィ名義である。

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彼の作品は、その題名が重要な役割を果たしている。
少なくとも作品を読む糸口には違いない。題名が作品の一部とも謂えるものもある。

『階段を降りる裸体 No.2』キュビスム更に未来派の手法を用いて描かれている。「屋根瓦工場の爆発」と揶揄されるが本作でデュシャンの名が知れ渡る。
『泉』逆さまにした男子用小便器に「リチャード・マット」と署名した作品。レディ・メイドの傑作。アルフレッド・スティーグリッツによる写真が残されている。尚「泉」は誤訳で「噴水」であるという説があるが、わたしもそちらに賛成である。
『彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも』(『大ガラス』)運搬中にガラスに罅が幾つも入ってしまったことを彼は喜んだという。これは、本当に大作というオーラを感じる。結局、未完ということになった。
『遺作』「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」は彫刻であり、インスタレーションである。木の扉の穴から中を覗くと、見事に仕掛けられた白日夢(と、よく謂われているが)の世界が広がっている。
視覚のシステム~問題を様々な形で批評して来たその最後の作品と謂えるか。

『自転車の車輪』、『ビン掛け』の両作品は妹によってごみと間違えられたか処分され、現存しているのはその再現作である。
『折れた腕の前に』レディメイドの最初の作品。
『秘められたる音に』レディメイドの初期の作品。
『L.H.O.O.Q.』モナリザに髭を付けた作品。
『グリーンボックス』メモ集。断片的な解説?箱に収められている。ちょっとドキドキする。箱に入れておく意味は小さくない。
『トランクの中の箱』限定300個制作。
『髭を剃られたL.H.O.O.Q.』モナリザの複製画に自分のサインを施した作品。複製品のまんまでもある。
『ホワイト・ボックス』メモ集。科学的なもの(4次元に関する)。箱に収められている。これもドキドキする。
『贈り物』アイロンに釘が一列に接着されたもの。
等々、、、。

題名がやはり示唆的で意味深い。
その作品鑑賞に分かちがたく結びついている。
更に『グリーン~ホワイト・ボックス』など、作品制作の設計図~全体的なコンセプトも併せて用意された。
中西夏之の作品も設計図?を元に後世の人が制作できるようなものとなっていたが。

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『大ガラス』上部の「花嫁」の領域と下部の「独身者」の領域に分けられるこの作品は観ていて飽きない。
わたしにとって、とても不思議な作品だ。
複雑さがこれほど美しい造形を生むのはとても衝撃的で新鮮で不安でもある。
マルセル・デュシャンというとやはりこの作品が真っ先に頭に浮かぶ。
この作品の謂わば解説のようなものが『グリーンボックス』である。
読むと彼の思考プロセスとコンセプトが浮かぶと同時に更に謎が深まる類のものだ。
それもデュシャンの仕掛けのひとつであろう。
アンドレ・ブルトンに高く評価された作品でもある。

この作品については、またの機会に触れてみたい。余りに絶妙過ぎて、深入りする気はないが(爆。

夜のしじま

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今夜は、昨夜に続き、佐治晴夫博士の例のエッセイで、はじめて知った詩人の詩を読んで眠るつもり、、、


そう、昨夜書くのを忘れたのだが、「考えることを省略する方向に向かっているこの社会は、恐ろしいですね。」
とあった。
考えなくても流されていけば何とかなるという風潮に対しての結びである。


自分にとって自明であること。
いや、意識が対象化すらしない事柄。
それらがかなり肝心な(実に不安定な)下部構造~基盤であったりする。

人の身体は何故、このような形体をとっているのか、、、。
佐治先生の本では、、、
1.太陽と地球との距離が1億5000万㎞だったこと。
2.地球の大きさが、直径1万mだったこと。
3.地球の重さが6の24乗㎏だったこと。
この3つから、いまあるこの形でなければならなかったことが物理学的に導かれることがさらっと記されていた。
パラダイム(思考の枠)について考える以前に、こんな疑問と解明があって然るべき。
(この辺から思考し想像してゆくSF映画が作られないといけない)。


更に、自分とは何かと考える前に、「自分で自分の顔を見ることは、一生ない、、、」という現実~生理を受け止めておく必要があった。
謂うに及ばず、「写真や鏡で見る自分の顔。」しか観ることは叶わない。
それは、左右反対であったり、極小の点~銀粒子や光点や編み目の集合体であったりする。
自分の顔を自分で観ることは一生ない。(この顔から目を引き離せない身体性の特性)。
純粋に関係性から思考と想像によって考えるしかない必然の大元なのかも知れない。
つまり「あなたは、あなたでないものからあなたになっている、、」事実の重さである。
自意識と哲学の生じる間~場であろう。

ほんとうにさらっとした、優しいエッセイであるが、汲出そうとすれば底知れないものが浮かび上がりそうだ。
自己解体の契機ともなる刺激に充ちている。
(この本には彼のお得意な数式や計算、グラフなどは一切ない)。


ここで初めて読んだ詩人の「しずかにしてね」(こわせたまみ)

しずかにしてね

しずかにしてね
ふうりんさん
ならないでね
いま
あかちゃんがねんねしました

しずかにしてね
カーテンさん
ゆれないでね
いま
あかちゃんがねんねしてます


今宵はいつになく外が静まっている、、、。
鳥は寝静まり物音ひとつしない。
こんななか、、、

(重力波はしっかり人の耳に聴こえる。その音はTVで流されていた。これ程録画しておいてよかったと思ったことはない)。


お休みなさい、、、、。


好きなことをやる

gravitational wave

理論物理学者で理学博士の佐治晴夫氏の最近の本を読んでいたら、その文脈で大変納得出来るところであった。
(「ぼくたちは今日も宇宙を旅している」PHP出版)

「好きなことをやる。特に、芸術。」
「自然体で、、力を抜いて、ポジティブに楽しく。
自分の気持ちに無理をさせない。」
という箇所が特にこころに残った(笑。

勿論、本全体が魅惑的で示唆的なセンテンスで一杯なのだが、今日はこれが一番ひっかかった。
この本は先生の必ず数式の一杯出てくる他の書とは異なり、優しい詩集のような雰囲気のエッセイである。
(絵本でさえ数式だらけである。それが魅力のひとつではあるが)。
何でも身近な自然現象から138億光年先の宇宙の事件まで全て数学で語ってしまう人だが、その間の言葉も面白くて、そのコンテクストで妙に光って引っかかり気になる言葉があったりする。

最近、わたし自身、運動不足から体調が気になっていることもあってか?
体重増加は問題である。(以前は細すぎてひとから心配されてきたのだが、、、その頃が懐かしい(爆)。
そして「好きなことをやる」ことが、元気で長生きの秘訣と結ばれる。
全く道理であるが、こういう方から謂われると深く納得してしまうものだ。
親から謂われても何も感じないだろうし、第一そんなことは言われた試しもない。
真逆なことはしょっちゅう言われてきたものだが。

やはり覚醒と自覚の問題である。
それ以外に、ない。

ぼくたちは今日も宇宙を旅している、のである。

中性子星の合体による重力波の初観測に成功 のニュースで天体好きは色めきだっている。
これまで4回はブラックホール合体の重力波検出であった。
しかし今回は重力波望遠鏡だけでなく、電磁波観測でもその現場をピンポイントで確認した。
(「マルチメッセンジャー天文学」と謂うそうだが)。
光で捉えたのは初めてである。
美であるとしか謂えない。
未来派の画家たちであったらそれをどう消化~昇華するだろうか。
そこなのだ。
われわれがこのような素晴らしい成果がありながら、日常ルーチンの中に埋没してただ線状的生活を送っているだけだとしたら、何と勿体ない事か、、、。

自分なりに引き付けた(自分の生活史に関連付けた)形に接続~生成してみるドキドキ感はもってゆきたいものだ。
恐らく絵はその方法のひとつだろう。
作曲の好きな人は、音楽づくりに、、、。
詩も勿論、、、リルケなんてまさにそれ。
日本でも沢山いるが、その極北は、稲垣足穂かも知れない。
あの「一千一秒物語」
あの書物は、宇宙のゆらぎや素粒子の振る舞いの文学における実験の香りがする。
それはきっと重金属の生成の時に発するものだ。

何と今回の発見で、鉄よりも重い金やプラチナ、レアアースなどの、重元素の誕生シーンもとらえられたという。
Advanced LIGO(アメリカ)とAdvanced Virgo(ヨーロッパ)の共同観測でこれが中性子星の合体であることを知り、世界中の電磁波観測チームに連絡をしたらしい。(スバルとか、、、)
それで可視光やガンマ線、X線や赤外線、、、による観測も可能となった。
(やたらと出来過ぎの劇的な画像が一杯目に付くが、、、確かに劇的なシーンには違いない)。


1億3000万光年の距離にある出来事である。

今夜の夢に出そうだ。


中古パソコンを買ってはみたが、、、

yamanasi.png

娘に実は今から4年半くらい前に宮沢賢治のCD絵本を見せたいばかりにXPノートを二つ買い与えた。
この頃すでにWin7がリリースされている時期であるが、エミュレーションソフトのバーチャルPCをXP上で動かすしかなかったのだろう(もうはっきり覚えていないが)。絵本ソフトの起動環境がWinSEまでであり、確か7上ではそのエミュレーションソフトは使えなかったはず。7でも他に手はあったかも知れぬが、XPまでで作動するアプリケーションが結構たまっていて、その環境を残しておきたい理由もあった。

キッド・ピクスや学習ソフトなどを(遊び感覚であるが)やらせながら(学習の為として買った名目上)、何よりも古い「幻灯機」を見せるような感覚で「やまなし」などを絵本風にバーチャルPC(エミュレーションソフト)上で見せていた。
わたしがまず観たかったのであるが。
残念ながら今聞くと娘たちはもう覚えていない、、、。

もうここのところ見る余裕もない毎日を送っているが、改めてじっくり観てみたいものだ。
特に「やまなし」はたまらない。
言葉にならない「遊星的郷愁」に染まる。
切ない気持ちにすらなっている。
これについては、姉妹ブログの”夏にもってこいのお宝紹介!1点 ”やまなし”画本宮沢賢治CDROM”にあるので、詳しくはそちらを参照の程を。
ただし、夏もよいがどちらかと謂えば、冬の方が合っていると思う、、、これからである。
ただ単に、夏に観たとき感動したくらいのはなしではないだろうか(当時どう思ったものか忘れたが)。

だが、そのノートいよいよ普通に使うのが厳しくなってきた。
最近はキッド・ピクスではないお絵かきソフトを使いたがるし、もうネット接続も出来ないOSである。
パソコンの動きも遅くなっている。
アニメ映画の鑑賞には使っていたが、、、
それもだんだん遠のいて来た。
しかしそろそろ、文章入力をやらせたい。
パソコン上でのお絵かきもしっかりやらせたい。
ということで、一台だけ宮沢賢治・絵本鑑賞用に残して片方を処分し、4年くらい前に出たCore i 5の第三世代プロセッサーにサムソン製SSD240GBに8GBメモリのノートの中古を買った。
以前娘たちに買ったパソコンよりスペックは上である。

いま家で主に使っているのがCore i 7のSkylake-HQ世代の4コア(8スレッド)のもので、SSD(システム)とHD(データ)の組み合わせでメモリは16GBのもの二台で全てやり繰りしている(主にBlu-rayの映画もそれらで観ている)。
片方にはNVIDIAのGeForceのグラボがついているが、(3D)ゲームはやらないのでちょっと無駄である。もう片方はタッチパネル操作が出来るが、わたしはタッチパネルが好きではないため、ここにも無駄がある。
いろいろコスパと使い勝手も考え、大胆に使うことも考慮に入れると数年前のミドル級パソコンでも普通に動けば、スペック的には問題ないということで、今回初の中古パソコンの導入に踏み切った。


しかし、しかしである、、、。
箱を開けて、ノートを取り出すとやはり使用感が少なからず、ある。
中古なのだからそれについては文句は言えない(やはり、、、)。
起動すると軽快にとても速く起動した(SSDだし)。
好感を持つ。
インストールされたソフトを一覧から確認すると、見た感じは余計なソフトはないようだ。
(ただしユーティリティなどここに見えないソフトはいくつもある)。
とりあえずは安心した。

だが、システム情報を見てびっくり。
メモリが4GBなのだ!
メモリは作業にとても影響大である。それより商品仕様が異なるのだ。まずそこが問題であろう。
ずさんな店なのか、たまたまのミスか、それともそういう店なのか、、、不安になった。

すぐにショップ・サポセンにメール連絡。
一日待ったが連絡なし。
あくる朝電話をすると、取り敢えずの謝罪はあれど、メモリスロット実際開けて確認してだと。
システム情報に出ない~物理的に認識しないモノが実際入っていたりでもしたらそれこそ問題であろうに。
実際開けてメモリを取り出し、ルーペで文字を確認すると2つのスロットに2GBがそれぞれ一枚ずつ、合計4GB(笑、であった。
笑ってる場合じゃない。
メールでお詫びの内容が届き、4GB×2を送ります。2GB×2は送り返してください、とあった。
パソコン自体を送り返す気でいたが、その方がこっちも楽かということで承諾。
手元に2GBメモリがあっても邪魔なだけだから、送料もたないので送り返すことはやぶさかではないが、それもメンドクサイ。
実際余計な時間をどうしても取られる。こちらはそんなに暇ではないのだ。

1日待つと、、、イライラしたが(本日)メモリが届いた。
電源外しバッテリー外し、やけにデカい裏面カバーを外し(メモリだけでなくHDに一緒にアクセスできるようにもなっている。大まかな作りだ)素早くメモリを交換した。もうノートだけで30台くらいやって来たし(ディスクトップ・タワーの方がずっと内部へのアクセス経験は多いとは言え)たかがメモリ交換である。そして、また電源を入れて立ち上げてみたところ、、、何と?
「メモリがreadになることはできませんでした」という不思議な呪文~アラートが出て、その先なんにも出来なくなってしまった。
初めて見たメッセージである、、、。
メモリの挿し方の問題かと思い、何度か抜いては挿しを繰り返したが全く事態は変わらない。

大概、特定のソフトとの関係というが、まだソフトのインストールも何もやっていない。
かつてわたしは、メモリエラーに悩んだ経験があり、メモリを送って貰う時、入念なチェックをお願いした。
(DVD鑑賞中に決まって途中で落ちる症状で、メモリ交換によってたちどころに不具合が消えたケース)。
今回は恐らくメモリ自体の物理的問題と謂うよりパソコン本体・ソフトの問題だと考えられる。
ユーパック封筒に入れる前に前の4GBに戻してみても、同じ症状が発動しているのだ。
そして、先ほどのメッセージを見るとその上部にNPSpeed.exe‐アプリケーション エラーとあった。
これはどうやらNECノート固有のシステム管理ソフトが何かをしているようだ。
NECも大昔に二台くらい使っていた記憶があるが、特に使い易かったり難かったり、トラブルの記憶もないのだが、、、。

パソコン自体が実質動かない~機能しないためそれを調べることが出来ず、サポートメールをしたがもう時間外である。
その結果は明日以降、、、。
かなり使っているパソコンでそのエラーが出た場合、問題を切り分けるには、最近やったことを想い出して行けば突き当たるようだが、(多くはインストールしたソフトが邪魔をしている。その関係が白であればメモリの物理的な問題となるか)。


わたしは、サポセン待ち(爆。
今日のところは以上。
明日は娘たちの社会見学で朝が早いため、わたしもお休みなさい(笑。





野の花~夜のひととき

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そろそろ娘にも弾かせたい遊佐未森の楽譜(表紙)

長女が最近、寝る前に読んでいる本が、(漸く自分で漢字も読めるようになったこともあり)「夢旅行」(ジナ・リュック・ポーケ)である。以前、読み聞かせをしてあげてからオウム返しみたいに読ませていた絵本だ(笑。
今は自分だけで何とか読める。

テーマが何かあるというものではない。
所謂、「おはなし」である。
(この「おはなし」を寝かしつけるとき、即興で作って話そうとかつて何度か試みたが思いの外、難儀なのだ。何でもないようなおはなしはかえって難しいものかも知れない)。

少し前まで寓話の王様みたいなイソップ物語の教訓にちょっと暑苦しさを覚え始めてきたこともあり、少しは教育的な含みは感じるが、情景を思い描くことに重点を置いている「絵本」でもあるこの本にしている。
特に彼女のお気に入りという訳でもないが、どことなく優し気でとっつき易いようだ。
ただし絵は面白い個性だが、そのエキゾチックさが、さほど親しめる類のものでもない。(日本人には恐らく)。

今日そのなかの「幸福の山」を読んだ。

草木のもえる幸福の山の周りに、道路が増えてくる。
そこをとても速く車が走って来るようになる。
次第に人々は忙しなくなってゆき、考えることもしなくなる。
機械が幸福の山のすぐ麓まで寄って来る。
山の管理人の庭師が、沢山の花の種を蒔き、花の力でまた道を覆っていってしまう。

また花を眺めながら人々がゆっくり考えごとに耽ったりできるように、、、。

特にどちらがどうという決めつけなどない。
ただ、人が草花を眺めて夢想に耽る時間は作りたいという想いはちょっと伝わる。
機械の速度は人を夢想や考える時間から遠ざけてしまう面は確かにある。


最近、庭のポーチュラカが少し離れた玄関の菊を植えた鉢にポツリと咲いていた。
それを見て面白がっていたのだが、風か鳥に種が運ばれたのだろうかと、話題にしていたところであったが、種から花が咲くことの面白さ~その神秘を実感している今日この頃だ。


夜ベッドに入るときは決まって「遊佐未森」を聴いている。
7枚くらいのアルバムからわたしが選曲したCDをかけているのだが、一番最後に入れた「野の花」が一番のお気に入りらしい。
わたしも大好きなチューンであるが。
その曲が流れるまで、聴いていることは50%くらいのようだ。
どれも儚げな草花の薫る自然のなかでの情景に充ちた曲ばかりだ。
途中の心地よい曲で不覚にも眠ってしまう事も多い(笑。


風吹けば君を想うよ 
いつでも
早過ぎる季節の丘に
生まれた花びら
差し出した僕の指先に
顔そむけて
吹きつける砂に散りそうな
薄紅色

時はいつも伝えきれない
想いだけを残して
春風が吹き始めるね もうすぐ
丘の上みんな目覚めて
寂しくないよね
空っぽの花瓶が窓辺で
影のばして
変わってく陽射しの角度を
眺めてる

                  、、、、 「野の花」(遊佐未森)

今夜は二人で、最終曲まで聴いていた。

先程、起き上がって来てこれを書いてまたすぐ眠る予定、、、。



犬神家の一族

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1976年
市川崑 監督
横溝正史 原作
小杉太一郎 箏曲「双輪」作曲

石坂浩二 、、、金田一耕助
島田陽子 、、、野々宮珠世
高峰三枝子 、、、犬神松子
三条美紀 、、、犬神竹子
草笛光子 、、、犬神梅子
あおい輝彦 、、、犬神佐清/青沼静馬
地井武男 、、、犬神佐武
坂口良子 、、、那須ホテルの女中・はる
小沢栄太郎 、、、古館恭三弁護士
加藤武 、、、橘警察署長
大滝秀治 、、、大山神官
寺田稔 、、、猿蔵
岸田今日子 、、、琴の師匠
三国連太郎 、、、神佐兵衛
川口晶 、、、犬神小夜子
川口恒 、、、犬神佐智
金田龍之介 、、、犬神寅之助
小林昭二 、、、犬神幸吉


今日は画家の噺でもと、思っていたらタイムリーにこれがBSで入っていた。
「犬神家の一族」は、”無責任シリーズ”と共に、観たいと思っていた映画であったので丁度よかった。
石坂浩二主演による”金田一耕助シリーズ”の第1弾となる。
(無責任シリーズに一族シリーズともに大ヒットした)。
お釜帽とトランクと絣の単衣の着物と羽織によれよれの袴で、ぼさぼさ頭と飄々としたスタイルは最初から確立されていたようだ。
(フケ症はちょっとやり過ぎかなとも思う)。
「わたしが全部作ったの。何が一番美味しかった?」(はる)と聞かれて普通に「生卵」と答えるところなどよい。
そして何より若い。走る姿も軽快だ。
(ちなみに、中原中也がお釜帽を好んで被っていたみたいだ、、、写真を見ても)。

他のキャストも豪華な顔ぶれである。
所謂、オールスターキャストというものか。三国連太郎があまりに勿体ない使われ方であったが。
島田陽子や坂口良子は実に瑞々しい煌めきがある。
特に最初の頃、犯人と疑われるなかでの野々宮珠世(島田)の毅然として凛とした姿は美しい。
身の危険もありながら湖の真ん中に単身ボートで出て行き、昼寝をしている余裕も素敵だ。
恐らくこの頃が一番女優としても良い時期だったのでは、、、。
女中・はる(坂口)もとても初々しく金田一に協力を惜しまない気さくで一途な姿に好感をもつ。
ただの女中にしては出番も多く金田一との掛け合いなどで映画のよいアクセントになっている。

そして何より「マスク姿の佐清」と「水面から突き出た足」である。
これは当時、色々な場面で使われたようだ。単なる真似やパロディで。
かなりのインパクトがあったことは想像がつく。
怖くて不気味で面白い。
受けるはずだ。(プールで真似した人が多かったらしい)。

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あくまでも金田一耕助は、探偵であり刑事ではない。
人を捕まえたり裁くことには興味はない。
捕まえるのは、ここでは「よし分かった。奴が犯人だ。」とすぐに早合点する橘警察署長であり、誠に頼りない。
単純で粗暴で暴力的である体制~世間の象徴的存在でもあろう。
ここで、風来坊(アウトサイダー)の彼が見事な推理で風穴を空け、颯爽とというよりそそくさと帰って行く。
(依頼者からのお金の受け取りシーンを丁寧に描くところも面白い)。

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基本、金田一耕助は人受けがよく、知り合う女性からは誰からも好感を持たれ、この物語で強面の猿蔵にも好かれてしまう。
母性本能を刺激するというか、どことなく頼りなげで人懐っこく、誰をも和ませる身体性がある。
そんなパーソナリティであるから、彼にはあなただけには喋りますがと、気を許してペラペラ大事なことまで語ってしまう。
あの口の堅い(自分で謂っている)大山神官でさえ、そうである。
彼が優秀な探偵であるのは、この辺がベースになっているところは大きい。
勿論、事件の謎解きや殺人のトリックを明かすことを無上の喜びとしている結果ではあるが。
(一族の相関関係図をとても丁寧に筆で書いている姿が全てを表している)。


ちなみに、わたしは犬神家の一連の殺人事件の犯人は皆目見当がつかなかった。
犯人が分かった後でも今一つ、実感はなかった。
そこまでやるか?という違和感は残った(爆。
ただ最後に野々宮珠世がしきりに犬神佐清に疑いの目を向けていたのは、彼の事を愛していたからだという事はよく分かった。
そこは成る程、と納得した(笑。


一度見ておいて損はない映画だと思う。
わたしとしては、島田陽子と坂口良子を発見した作品であった。


トイ・ストーリー

Toy Story002

Toy Story
1995年
アメリカ

ジョン・ラセター監督
ランディ・ニューマン音楽

ウッディ(カウボーイ人形)、、、声:唐沢寿明(確かに顔が似ている)。
バズ・ライトイヤー(スペースレンジャー人形)、、、声:所ジョージ
アンディー(ウッディやバズたちオモチャの持ち主の少年)
シド・フィリップス(オモチャを虐める悪ガキ)


もうこれが出てから20年以上経つとは、、、。
風邪をひいている娘と一緒に観たが、未だに古さは感じない。
(娘はモンスターズインクを見たがったが強引にこちらにした。あれはもう何度観たか知れない)。

しかし、、、流石は”Pixar”(Pixar Animation Studios)だ。
iPhoneといいiTunesといい、このPixarといい、スティーブ・ジョブスの慧眼による。
やはり彼の偉大な功績である。


普段、彼らは「おもちゃのルール」に従い、人間が来ればただのオモチャとなり、人気がなくなると生きた魂を持つ存在となる。
(この姿、はっきり言って今のAIロボットなどより1000年進んでいる、、、それ以上か)。
子供時代の一時期、そんな妄想に耽った経験は誰にもあるだろう。
オモチャは子供にとって不気味な何者かでもある。
特に人形は神秘(呪術)的な力もあり、持ち主との心の結びつきは強い。


さてここは、カウボーイ人形のウッディとスペースレンジャー人形のバズの出逢いから友情の芽生えまでのスリリングな物語の展開となる。人間はあくまでも脇であり、彼ら二人を主体とした噺である。
バズがアンディ一家にやって来るまでは、ウッディがオモチャ仲間のまとめ役で、信頼も篤かった。
しかもウッディは持ち主のアンディの寵愛を一心に受けていてその事が彼の誇りとなっていた。
だが、流行の最先端で機能も盛りだくさんの新入りのバズがアンディのお気に入りとなってしまいウッディは穏やかではない。
ウッディは背中の紐を引くと、「銃を捨てろ、手ぇあげな」くらいのものである。(数パタンあるが)。
そして何と言ってもカウボーイである。
バズの方は、アクションボタンでレーザービームを照射したり、翼が開いたり、ヘルメットが開閉したり、、、「無限の彼方へ さあ行くぞ!」(その他いろいろ)である。
ウッディは味があるが古さは隠せない木製の人形。バズはクールな最新のアクション人形である。
ウッディはバズに何かと突っかかる。
お互いに反目し合う。

Toy Story

ただ一つバズにも困った問題があった。
バズは自分が子供のオモチャではなく、本当のスペースレンジャーだと信じ込んでいたのだ。
ウッディがいくら言っても信じない。
成り切っていると、かなりの事が平然と出来てしまう事も分かる。
(空から落ちていても飛んでいるようにカッコつけて舞い降りてきたり、、、ある意味、真理かも知れない)。
ウッディが妬んで絡んできても超然とした態度で跳ね返し、物語通り銀河の平和を守るヒーローの志で行動をとっていた。
だが、アクシデントで窓から落ち、彼はオモチャを残酷な遊びで壊しているシドにウッディ諸共、捕られる。
シドの家のテレビで偶然、自分のCMを見る事で自分が最近売りだし中のオモチャのひとつだという事実を知り、意気消沈してしまう。(オモチャの自己認識の違いとは面白い点を突いたものだ)。
もうそれまでの勢いも何も無い。

ウッディの方は仲間のオモチャたちからは、妬みからワザとバズを窓から突き落とした悪者扱いされ「オモチャ殺し」とまで言われる始末。
ウッディもバズをシドの家から救おうとして二人とも捕まってしまい危機に陥る。
シドは強力なロケットをバズに取り付け空高く飛ばすつもりであった。
何とか助かろうと手を尽くすが、アクシデントもあり追い詰められる。
ウッディがかつての仲間たちに助けを請うも、人望を失っており協力を得られない。

シドの手から逃れ、引っ越しするアンディー一家の車に何とか戻る為に、ウッディとバズは力を合わせ奮闘する。
シドにグロテスクに改造されたオモチャの人形たちもウッディに快く協力してくれ、はじめて「オモチャのルール」を破りシドを懲らしめることに成功する。
シドはすっかりオモチャに怯え、もう残酷な悪戯は出来そうもない。
それはそうだ。相手が物ではなかったのだ。(かなりの外傷経験に違いない)。

後はスリリングでスピード感あるアクションの連続である。
この映画、取り残される、置いてけぼり、のシーンが幾つもあり、小さな人形が(車で走り去る等の)ご主人のところに如何に追いつくか~戻るかという心細いシチュエーションで惹きつける。
この関係性を上手くプロットに利用している。
特に子供には感覚的に共感するところは小さくないと思う。
よく駅やデパート、広場などで、親と不意に距離が出来てしまった事に気づいた瞬間、泣き叫ぶ子供を見たりするが、そんな潜在する記憶~思い出を擽るはずだ。

最後は散々な追跡レースの末、シドにくっつけられたロケットでバズとウッディが豪快に空を飛び仲良くアンディの車のサンルーフから座席の箱にすっぽり収まるという荒唐無稽でアクロバティックなハッピーエンドである。
それまでの展開から言っても、この流れは充分あり得る(笑。

試練を通してウッディはバズと親友になり信用も回復。
ただ面白い。こういう映画もたまには観ないと、、、。

Toy Story003

PLANET OF THE APES/猿の惑星

Planet of the Apes007

Planet of the Apes
2001年
アメリカ

ティム・バートン監督


マーク・ウォールバーグ 、、、レオ・デイヴィッドソン大尉
ティム・ロス 、、、セード(猿の将軍)
ヘレナ・ボナム・カーター 、、、アリ(人間の理解者の猿)
マイケル・クラーク・ダンカン 、、、アター
エステラ・ウォーレン 、、、デイナ
ポール・ジアマッティ 、、、リンボー
ケイリー=ヒロユキ・タガワ 、、、クラル
デヴィッド・ワーナー 、、、サンダー


是非続編が見たくなるような傑作であった。
オリジナルよりも面白かったかも。
『猿の惑星』のリ・イマジネーション作という位置づけのようだ。
確かにリメイクではない。
一から考え、作り直されている。
最後のショッキングさはオリジナルに引けをとらない。
ただしオリジナルはそのモニュメンタルな廃墟に絶望するがあくまでも距離を持った思想的な絶望となる。
だがこちらはもう思想どころではない現実の切羽詰まったパニック~絶望である。実際驚愕して唖然として思考停止状態であるはず。

最初からスリリングで惹きつける。
何とお猿が宇宙飛行士かい?
しかし彼はトラブルに遭遇し操縦不能でパニックとなる。
あわやと思うが、それはシュミレーション訓練であった。
もう掴みはOK。

土星間際での大型宇宙船において、猿も動員しての深宇宙の探査を進めている場面であった。
そんな矢先に船にも影響を与えている強力な電磁場を発見する。
その正体を探る為、例の猿がポッドに乗り込み磁場めがけて飛び込んでゆくも消息が途絶える。
強力な磁場からは、発せられてきた過去の電波が跳ね返されていた。
何とその断片の中にはその宇宙船の船長の緊急事態を必死に告げる画像もあった、、、。
不穏な空気のなか、レオは自分の手塩にかけて育て訓練して来た猿を自らポッドに乗って磁場に向かい救いに行く。

Planet of the Apes008

ポッドは翻弄され制御を失い、あらぬ星に不時着~着水する。
湖の中からレオは何とか岸にたどり着くと、地球に酷似した環境のその星には、地球と変わらぬ人と猿が棲んでいた。
ある意味、これは驚きではないか。ただし、人と猿の立場は完全に逆転している。
人は猿の支配下で奴隷として何とか生きながらえている有様であった。
しかしオリジナル同様に、テクノロジーは(敢えて)発達させていない。人間の轍を踏まぬためか?
その潜在的な脅威もあってか人に対する攻撃欲は酷く、レオも勿論囚われ過酷な目に逢ってゆく。

かなり強い野生を残した逆上し易い知性をもった猿たちである。
その猿メーキャップは、これまでに見た猿のなかでも際立って悪賢い威厳も備えた顔であり、個々の猿の内面~思想の個人差も見て取れるほどに雄弁な表情を持つ。この人格ではなく猿格の表現の多様さと深さは凄い。
どこか仏像の表情の描き分けにも通じるところを感じた。

人は虐待の限りを受けて虐げられており、猿はその実質的に支配的位置にいるセード将軍が彼らの超自我を神話なども利用して統率していた。特に人に対する憎しみの感情~意思のコントロールである。

Planet of the Apes005

しかし、セードの思いを寄せる権力者の娘アリは、その知性の高さから彼らの規範的な感覚から逸脱している。
彼女は人の知性の可能性に注目し、彼らに対し親和的な意思を持つ。セードには強く反撥している。
アリは自分の立場より自らの思想に忠実に生き、レオに深入りしてゆく。
同じくレオに思いを寄せる人間の娘のデイナと共にレオを支えることになる。

オリジナルと同様に、神話で忌諱されている場所にレオ達一行は踏み込んでゆく。
わたしたちの起源の謎がある場所よ。
勿論、それを現実に信じている訳ではないの。起源の物語によって猿たちの無意識を集合させまとめているだけの噺なの。
というところだろうが、そこで飛んでもない事実が判明してしまう。
ここからがこの映画の真骨頂だ。
何とその遺跡は、レオの乗っていた母船の墜落した姿であった。
エネルギーのまだ残る船体の操作系統を立ち上げ過去の航行記録を調べて一同驚く。
優秀な知性を持つ猿が反目し他の猿を煽り、乗組員を襲わせこの星にやってきたのだった。
セード将軍はそのボス猿の血をひき、先祖から人に対する敵意を叩き込まれてきた存在であったのだ。
猿と人の文字通りの起源の場所であった。道理で地球人と猿がその姿でこの地にもいた分けだ。

レオの事を聞き及んで集結して来た人と猿の軍隊との総力戦を迎える事となる。
到底人の勝ち目はない。
母船のエネルギーを利用し脅しをかけても、圧倒的な体力と腕力の差は如何ともし難いものだ。
絶体絶命の状況に陥るが、丁度そのタイミングで磁場に巻き込まれたあの猿がポッドに乗って彼らの群れのなかに光芒を放ち見事に着陸を果たす。「お前俺より着陸上手いな」(レオ)。
皆、跪いてそれを拝む。
神話通りの奇跡が起きたというのだ。

レオはその猿を迎え、猿たちにその事実を説く。
そして将軍以外の猿は、人との和解の道を選ぶ。
だが、セードは決してこれを受け容れることはしなかった。
散々抵抗するが、防弾ガラスの中に閉じ込められ意気消沈する。

Planet of the Apes006

レオは優しく賢いアリや美しいデイナに引き留められるも、もう彼の気持ちは地球に帰るモード100%になっていた。
彼はこの地に新しい世を切り開いた伝説の男となって、皆に惜しまれ地球に向けて発つ。

宇宙船を迎える管制塔の指示は、耳慣れたものであった。ただ制御の効かぬポッドは、ワシントンD.C.のリンカーン記念堂前に胴体着陸となった。
やっとのことで地球に戻れた彼は、すぐに記念堂へと入って行く、、、。

リンカーン像を目の当たりにして、全くレオと同時にわたしも仰天した!
(こんなことは映画を観てきてほとんどない。大概こちら観客は知っていることを主人公が知るのを見て感慨に耽るのだが)
まさか、セードが猿の解放者としてリンカーンの位置に祭られていようとは、、、
しかもこの世界を一瞬にして知ることのできる象徴的な場所にピンポイントで不時着するなんて、ついているのかいないのか、、、
ともかく劇的である。(ここは植木等映画的な強引さである)。

つまり、強力な磁気嵐の中でそれぞれが異なる時間系に乗ってしまったのだ。
面白い事に、最初に磁気嵐に突っ込んだ猿は、その後に発ったレオにかなり遅れてそこに到着し、レオを捜索するうちに猿たちの反乱で磁場に巻き込まれた宇宙艇が実は彼らの中で一番最初にその地に墜落している。
どうやら入った順番と逆に時間的にそこから吐き出される構造をもっているらしい。
であるため、一番最後に磁気嵐に入ったと思われるセードがレオより数世紀早く地球に到着して猿の支配する世界を樹立していたのだ。(例の猿からセードは母船に幾つもあるポッドの操作法を聞き出していたはずだ)。

時間のダイナミズムの波打つ作品であり、天晴だ(笑。

Planet of the Apes009

と言っても、これ程ショッキングな終わり方というのもなかなかあるまい。
猿たちに逮捕されたレオは心底、アリやデイナのいる~しかも猿たちと和解した~星に留まっていればよかったと思ったことだろう。磁気嵐を抜けた後、地球を捉え、峠の我が家気分で着陸したはずである。まさか、、、。
究極のやっちまった、、、である(爆。

いや彼の胸中、察するに余り有る。
流石はティムバートン。座布団三枚。いや脚本家にか、、、。
(ここでハッピーエンドでは、確かにちょっと物足りない。とは言え、これではいくら何でも、、、)。

この続編も観てみたいものだ。もう役者は総入れ替えとなろうが、主人公が充分タフな男であったし、あの地獄からの帰還、、、何処へ帰還かはともかく、何かもうひと暴れしてもらいたい。
20年ぶりの続編、期待したい。

大冒険

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1965年
古澤憲吾 監督
田波靖男、笠原良三 脚本
円谷英二 特撮監督

植木等 、、、植松唯人
谷啓 、、、谷井啓介
ハナ肇 、、、花井部長刑事
団令子 、、、谷井悦子
越路吹雪 、、、森垣久美子
犬塚弘 、、、乾刑事
石橋エータロー 、、、市橋刑事
桜井センリ 、、、加倉井編集長
安田伸 、、、石崎
アンドリュウ・ヒューズ 、、、ヒットラー(陰謀団の黒幕)
森繁久彌 、、、総理大臣
ザ・ピーナッツ 、、、クラブの歌手
佐々木孝丸 、、、警視総監
高田稔 、、、大蔵大臣
二瓶正也 、、、黒服の男
伊藤久哉 、、、日本艦隊将校
柳永二郎 、、、日銀総裁


「クレージー・キャッツ結成10周年記念映画」という位置づけであった。
かなり力の入った(金を使った)特撮映画である。

のっけから、ウルトラQ~怪奇大作戦を彷彿させるタッチの映像だ。
TVから各国の偽造紙幣の緊急ニュースの模様が流れ緊張感をもって始まる。
ここに植木がどう絡んで来るのかと、いつも通りの期待感で観始めるも、、、植木自身は雰囲気は同じだが、話はちょっと違う。
総理大臣により召集された偽造紙幣で経済撹乱を企てる国際陰謀集団に対する会議がもたれ、警察特捜本部による秘密裡の捜査が行われる。しかし実際の捜査官は勘頼りの花井部長刑事他クレイジーの乾、市橋刑事。
花井も植木と同じくらい間の抜けたところで歌を唄い出すいい加減さ。
円谷特撮がどんな風にこれに絡み展開するのかが見ものなのだが、主にそれは後半、特に終盤に炸裂した。
(ザ・ピーナツがステージに現れ歌う時にはなにやら「モスラ」を連想してしまったが、特撮が頭にあるからか)。

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今回は雑誌記者として活躍する植木である。サラリーマン復活(笑。
大法螺も忘れてはいない。
アパートの隣の部屋には友人の発明家である谷井啓介とその美しい妹の悦子が住んでいる。
彼女はまるで気がないが、彼は最初から彼女と結婚するつもりでいるところは無責任シリーズと同じである。
端から(部屋の中から)元体操選手である植松唯人の身のこなしが披露されるが、植木の身体能力がなかなかのものだと分かり、感心する(笑。
緑の上下スーツが何気なくルパン三世を想わせる。(余計な事考えすぎか?しかしルーツ的な存在かも知れない、、、)。

総天然色複写機を谷井啓介に発明させ、それの特許を取って大儲けするつもりであったが、そのテストですでに出回り始めた偽壱萬円札をコピーしてしまったために、警察と偽札製造陰謀団両者から狙われる羽目となる。
おまけに悦子を陰謀団に誘拐され東京から神戸までの壮絶な追いつ追われつの大混戦となる。
最後にヒトラーが出てきて、経済撹乱に乗じて自分の帝国を再び打ち立てようという魂胆を明かす。
潜水艦と孤島の要塞基地など円谷ワールドに植木・谷・団のトリオが入り込んでくることがちょっと場違い的な面白さだ。
日本支部の幹部の越路吹雪が終始クールである。
如何にも手作り感たっぷりなジュールベルヌ的な要塞内部とそこでの闘いも何だか間が抜けてズレている。
いちいち敵のテクノロジーを見て感心する植木・谷の様子も可笑しい。

アクションは全編にわたり相当ハードなものであった。
何度も車や電車に轢かれそうになり、銃弾の間をくぐり、馬に乗ったりして逃げまくる。
植木は、ほぼ走りどおしだ。
特に、橋やビルの屋上、断崖絶壁などから落ちそうになり、何とかつかまる命からがらのシーンも多い。
それでも不屈の根性で、「今度のしごきはきつかった~。さあ歌でも唄うか~」というが、いつもの無責任のお調子には受け取れない。この明るさ無理がある。汗だらけだ(爆。
思わず最後にお疲れさんと言いたくなるほどのものだった。
(谷啓と団令子もハイヒールでその運動量はかなり凄い)。
ストーリーは所謂サスペンスアクションもので、植木等がいくら面白く持っていこうが結構シリアスである。
(ご都合主義の展開や拍子抜けする歌が入ろうが)。
何しろ、植松~植木が悦子の兄の啓介に向かって少しは責任を感じろなどと諫めているのだ。
まんざらブラックジョークでもない。いつになく真面目だ。

砲撃を受けたヒトラーたちは、これが見えぬかと威嚇したうえで、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、中国等に向け本当にミサイルを同時に放つ。(今の北朝鮮は大丈夫か?!)
しかし、事前に谷井啓介がミサイル制御装置を弄っていたために、発射されたミサイルは自分の島に着弾してしまう。
という何とも言えない(冴えない)オチである。
これには拍子抜けしたが、丁度よい結末でもあった。
その後はすぐに植松唯人と谷井悦子の結婚式のパーティ場面に転換。
その出し物がクレイジーキャッツ結成10周年記念コンサートとなる、、、。

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もう充分観た気がする。
愉しいとか解放されるというのとはまた異なる感覚だ。
元々腹を抱えて笑う類のものではないが、爽快感というのでもない。
力作で面白くまとめており、豪華なスタッフによるものであったが、、、

この辺でいいかな、と思う、、、。


無責任清水港

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1966年
坪島孝 監督
小国英雄 脚本
萩原哲晶、宮川泰 音楽


植木等 、、、追分の三五郎(いかさまお調子男)
谷啓 、、、森の石松
ハナ肇 、、、清水次郎長
団令子 、、、お蝶(次郎長の女房)
浜美枝 、、、お雪(お蝶の妹)
平田昭彦 、、、大政
田崎潤、、、横山隼人(凄腕用心棒)
石橋エータロー、、、清次(仇討ちの弟~何故か女形)
安田伸、、、新助(仇討ちの兄)
加藤春哉、、、亀吉(次郎長の子分)
高橋紀子、、、お美代(小料理屋の娘、石松の恋人)


また、BSのNHKで無責任シリーズが入って来た。
それはとてもよいことだが、なにぶんNHKは短いスパンで同じ映画を繰り返しやり過ぎる。
観る暇がなくメディアに逃がしておいてそのうち観ようなどと思っていると、うっかり同じものを何度もコピーしかねない。
過去の名作はまだまだ沢山あるのだし、そこは何とかお願いしたいものだ。

いやまてよ、「無責任清水港」の前に「大冒険」が入っていた。
わが円谷英二の特撮が絡んだ映画のはず。これは明日観よう。
「無責任シリーズ」というより、「クレイジーキャッツシリーズ」という位置づけでの放送か?
このシリーズ放送はこのまま続けて欲しい。ちょっと嬉しいではないか。

さて、今回も植木等は苦境に立つとカラカラ(いや、はっはっはと)笑ういつもの調子で突っ走る(笑。
まあ、苦境と言っても彼にとっては屁でもないところだろうが、普通の人間にとってはやはり苦境か。
物事の捉え方が人とはひとつ異なるところは強調されて描かれてはいる。
しかしいい加減に見えて非常に確固たる信念はもっており、お調子者であるがその調子を維持する技能を備えている。
そして理解とか共感とかいうレベルでなく無理やり周りの人間を自分のペースに巻き込んでしまう。
周囲は訳が分からぬまま、乗せられて行ってしまう。
訳が分かって受容しているのとはちょっと違う。ここが凄いところだ。
(エイリアン~他者であるのにホイホイと誰をも乗せて行ってしまう、、、これが植木等のパーソナリティの真骨頂か)。

無責任とは言っても彼自身も、結局ノリで人情に篤い正義漢になってしまっている。
だんだんそうなってしまうのだ。ちょっと人間的に悩み戸惑うようなそぶりも見せて、、、。

ただし超然として飄々とした部分は、いかさまや縄抜けなどの特殊技能により保証される。
それがあることで正義感溢れる薄っぺらいヒーローにはならずにちょっとズレ出てゆく。
今回の彼の魅力はその辺に発するところは大きい。
そして相変わらず厚かましく迫まられた美女~お雪は、最後は彼に追いすがってゆくではないか、、、。
いつものパタンとは言え(笑。
究極のお調子者健在である。
谷啓~石松も思いを寄せていた「お美代ちゃん」もちゃんと彼の元にやって来る。
(この谷啓の「お美代ちゃん!」という語り口が何とも味がある。ガチョ~ンくらいある)。
究極の予定調和だ。


谷啓の役者ぶりはここでも際立つ。植木とのアウンの名コンビが確立している。
ハナ肇は人の好い親分さんが実によく似合う(それにしてもこれほど人の好い人相があろうか)。
団令子が女将さん役だと安心して観ていられる。
平田昭彦は如何にも大政で安心感タップリ。
飛んでもなく腕の立つ田崎潤演じる浪人があっけなく石橋エータローの構えているだけの刀に刺されて死ぬのもこの劇ならではのコミカルさだ。それにしても顔を三船に異様に似せているところが面白かった。
歌はいつも程入ってこなかったが、お約束は果たされていると謂えよう。


植木等の役としては随分丸くなっており然程無責任さはないが、世渡り上手というレベルを超えたお調子モノぶりは健在である。

明日は「大冒険」を観ることにする。



フラクチャー ~ Frakctured

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Nuovo Metal(ヌーヴォメタル)時代の曲を最近また聴き始めた。

わたしがクリムゾンでもっとものめり込んだインプロビゼーション期『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』の黄金期から『ディシプリン』のニューウェイブ期(まるでトーキングヘッズみたい~ポリリズムのせいだ~と揶揄されたが”Discipline”は秀逸)からまた重量感たっぷり(ダブルトリオ編成)のヘビーでソリッドなメタルサウンドを信条としたヌーヴォメタル期(2000)に至る。


無論、『クリムゾンキングの宮殿』、『ポセイドンのめざめ』、『リザード』、そして余りに精緻で儚く美しい『アイランズ』、、、音源は悪いがクリムゾンが創造的ライブアーティストであることを立証した『アースバウンド』までのクリムゾン初期が、、、この後に続くミュージシャンや世界中の聴衆の世界観(人格形成)に多大な影響を与えたことは言うに及ばない。

この後にフリップがメンバーを完全に入れ替え(もっともアルバムを作るたびにそのアルバム制作用のメンバーを編成してきているのだが)全く異なる音楽アプローチを始める。
それが二期のインプロビゼーション期である。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)、”Starless And Bible Black”(暗黒の世界)、”Red”(レッド)であり、バーカッションの壮絶な強度、ライブによる即興の神憑り的な創造(まさかアルバムの大半がステージライブのテイクとは知らなかった)、フリップのディストーション・ギターのリフのカッコよさ(笑、ジョンウェットンのヴォーカルの説得力、、、。
基本的には軸のメンバーが不思議に変わっていない。フリップ・ウェットン・ブラフォードである。
ここにデビッド・クロスとジェイミー・ミューアがいたが、クロスは太陽と戦慄と暗黒の世界のみ。
ミューアは太陽と戦慄を録ってから仏教の修行に旅立ってしまう。

通常ライブはそのアーティストがどのくらいアルバムに近い演奏が出来るかの確認レベルのものになることが多い。
しかし、クリムゾンの場合、ほとんどライブの方がスタジオ録音を凌駕したものとなる。
驚愕の音の破壊と創造~生成の場となる。
それをもっともはっきり示しているのが、この時期のライブ音源だ。
そしてそれをかなりの割合でとりこんだ3枚のアルバムであり、その他のライブアルバムであるがどれも遜色がない。
(アムステルダムライブ等々)
レッドをもってこの期にやるべきことを終え、フリップの鶴の一声で解散。『USA』ライブが出ている。バイオリンのパートはクロスのものが削られエディー・ジョプソンの演奏に差し替えられはした(元々彼はクラシックから抜け切れず線が細かった)。

その後、ニューウェイブ期と取り敢えず付けたがディシプリン・クリムゾンとも呼ばれる。
『ディシプリン』、『ビート』、『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』である。
かえってクリムゾン名義にしなかった方がこの優れた3枚のアルバムが正当に評価された気はする。
しかしキングクリムゾンのもっとも魅力的な音色を奏でていた管楽器もバイオリンもピアノ~メロトロンも封印されてしまう。
この楽器編成からして根本的コンセプトの違いは明瞭だ。
ヴォーカルチューンも残るが詩は意味を失い単なる単語の羅列となる。
(それまでは詩人ピート・シンフィールド~リチャード・パーマー・ジェームスが詩を提供していた)
抒情性や哲学的文学性は排除されたビートサウンド改革である。
3枚でスッキリこの期は終焉し、2期のサウンドをオリジナルとして似て非なるものに生まれ還らせる実験が始まる。

スティック(特殊なベース)を使ったヌーヴォメタル期では、ダブルトリオ(ドラム2、ベース2、ギター2の編成)となる。
インプロビゼーション期の驚異の傑作”Fracture”(突破口)がヌーヴォメタル期には”Frakctured”と化している。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)も”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ・Ⅳ”として生まれ変わって行く。
全て隙の無いスコアと化し、サウンドが分厚く充填し尽され平板化したこと。 
超絶技巧化し、フリップでさえ練習で音を上げる程のものになる。
(自分で作っておいて)。
情け容赦ない厳格な暴力的ニヒリスティックなサウンドである。
『ヴルーム』、『スラック』、『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』となる。最後に『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。
わたしは最終作はそのなかの数曲しか聴いていない。

当初は空間的な広がり~解放が感じられない、音が一気に流し込まれた煮えたぎる鉄みたいな圧迫感に息苦しかったのだが、、、
これは系を乗り換えた音であると感じられるようになった。
”The ConstruKction of Light”を聴いてからはっきりそう思った。
これは”エイリアン”~他者の(聴く)音だと。
特に”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ”の前半部分のサウンドである。
最初聴いたときに強烈にゾクゾクしたが、まさにそこなのである。
変身の誘いか、、、?(まさかリアル・カフカの「変身」)

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マスターピースである”In The Court Of The Crimson King”(クリムゾンキングの宮殿)をその文脈の中で聴くことは今でも充分に可能だ。
深淵な世界を構築した楽曲でありアルバムであるが、そのメロトロンの煽るドラマ性に(その表現形態に)少し距離を覚える。
音楽が古いというのではない。”Epitaph”はまさに今日の、、、いや永遠の課題とも言えよう。
表現の上での壮大に構築されたドラマ性に感覚的についてゆけなくなったところが少なくないのだ。
(その意味でとても映画を観るのが辛くなっている)。

ただ今でも、2期~インプロビゼーション期の音に時折触れると瑞々しく胸に込み上げるものがある。
特に”トリオ”、”偉大なる詐欺師”、”フラクチャー”などには何度聴いても深く感動し、”土曜日の本”や”堕落天使”には涙腺まで緩んできてしまう、、、。
だが、どうやら曲を聴いて感動してばかりいられない、自分がそんな状況でもあるのだ。
寧ろ、外骨格の昆虫のように反応して行動しなければならない事態~日常にいる。


今のわたしにとっては、ヌーヴォメタルのエイリアンとして動く必然性がある。



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デトロイトでのパニック

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”Panic In Detroit”

「アラジンセイン」(1973)はわたしの大好きなアルバムだが、なかでも「デトロイトでのパニック」がたまらない。
どの曲も狂気に染まった緊張極まる曲揃いだが、そのなかでもこれは針が振り切れている!
(マイク・ガーソンのピアノがキレまくっている)。

チェ・ゲバラにそっくりな男に出逢って書いた曲なのか、、、。
「普段は目立たぬ男だが人知れず隠れ家に銃を隠し持っていた」、、、から始まる。
歌詞世界もゾクゾクするスリリングなものだが、サウンドが凶暴に美しく捻じれて歪み圧巻である。
何とも「間」が良い。
畳み込むサウンドのなかの真空の場に狂気のリズムとスキャットが雪崩れ込む。
そう、ミックロンソンのギターリフも。

これぞロックである。
身体の生き還りには必須のサウンドとなる。
自己の解体~再編成・再組織化には、この爆音洪水を浴びる必要がある。


このアルバム、ボウイの初期のコズミックドライブのかかったものやダイヤモンドドッグズのような近未来SF的なロマンや浮遊感は一切ない。
極めて加速した街の光景の浮かぶ、現在の地上を横断する破壊力あるリズムであり戦慄すべき旋律だ。
そして、この時期のボウイの「アメリカ」への拘り。
彼の(曲の)変身は彼の場所の変遷に重なる。
「Low」はベルリンとなる。
カフカ的に「アメリカ」を彷徨い疾走中のもっとも突出した曲が”Panic In Detroit”


時に、音楽は日常のあらゆるリアルな経験~体験を凌駕し激烈な高揚その垂直的な認識を齎す。
「彼はわたしに家でおとなしくしていた方がよいと言っていた、、、」
それで充分なのだ。
音楽が全てを加速度的に革新してしまう。

映画も音楽でその厚みと質が確定する。
岩井俊二の「リリーシュシュのすべて」をはじめ彼の映画全て音楽の位置づけは極めて大きい。
「ブレードランナー」の”Vangelis”も同等であろう。
あの映画を想いうかべるとき決まってあの荒涼として哀愁を帯びたサウンドが流れる。
「ザ・ミスト」の”Dead Can Dance”もあの終曲「セラフィム(熾天使)の主」で映画が完璧に完結する。

これは挙げ始めたらキリがない。話がこれだけになってしまう(笑。


アラジンセインはマイク・ガーソンの煌びやかで分裂症気味なピアノが基調を作っているが、特にアグレッシブなジャズ的アレンジの効いた”Time”と美しく儚げな”Lady Grinning Soul”で際立つ。
これらも詩がすこぶる良い、、、。
このアルバムの隠れたテーマは「時間」である。
”Lady Grinning Soul”、、、香りを纏った刹那の永遠性を歌った曲でこれ程の名曲があろうか
更にロック以外の何ものでもない”Watch That Man”をかなり反復して聴いていたが、やはり”Panic In Detroit”で再生!である(爆。


”Panic In Detroit”

疾走するカオスが増幅し突き抜ける。
違う時間と系にノリコムにはこんなサウンドがよい!
ボウイもきっとそうして来た。
無数の場所~時空に無数のわたしがいるのだ。
家でおとなしくしていてもよい。
(例え籠っていようが、、、)。
そのためのRockである。


ただ気持ち良い、、、



黄昏時

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「君の名は。」にも出て来た「誰そ彼」の時である。
誰ですかあなたは、、、君の名は、、、か。

~黄昏時、、、

黄昏時の小町通を歩いているうちに空から赤みが消え失せて行く。
まだ行く当てがあったわれわれは、急いで江ノ電に乗ったが、空はすぐに藍色に落ちてしまう。
江之島を禍時のなか、ただひたすら歩いた。
何処へ向かうでもなく、誰もが道に沿って歩き続ける。
時折、止まって橋の欄干から漆黒の外を覗き込んでも、やはりあてもなく進むしかない路を進んで逝くしかない
そんな時に呑まれる。

娘に声を掛けられ、帰路についた。
電車に乗るまでずっと手を繋いで歩いた。

昨日のことだ。
おかげで、、、
今日も一日中、微睡状態でいた。
覚醒しないまま、また夜を迎えた。

昨夜の余波で虚脱感というか充満した感覚~眩暈が続き、時間が流れなかった。
ずっと黄昏時にいたようだ。


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~黄昏時、、、

朝でも昼でも夜でもない宙吊りの場所である。
あらゆる枠が溶け規範めいたものは何もない。
無論、善も悪もない。

ただ昏い海辺で電車を待っている感覚。
ポール・デルヴォーに出てくるマネキンのような裸婦と骸骨が蒼い闇に沢山潜んでいて、耳を傾けると何やら話し込んでいる。
だがそれは上空にいる無数の鳥たちの鳴き声であった。
俄かに界隈が騒めき立つ。


それもいつしか潮騒に引き取られてゆく、、、。

3連休の終わり。
何やら淋しい。


江ノ電の旅

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今日は時間感覚ががズレ放題ズレつつ行動するパタンとなった。
どうもわたしは人と一緒に行動するのが苦手だ。
そもそも歩くペースからして合わない。
わたしはかなり歩く速度が速いのだ。
意識してそうしているのではなく、わたしとしては自然な固有リズムなのだ。
つまり個性~わたしの身体性である。
だから旅は一人旅でないとキツイ。

家族と江ノ電の旅をしたことで、生理的な感覚のズレでかなりのストレスを被った。
観念的なものなら処理できても感覚的なものは無理だ。
だから、目的地に着いて、ただボ~ッと座っていたり、波際の線~境界上で只管戯れたりは、恍惚とした時間となる。
海辺だけ。
救われた。
しかし心底、救われた。
「鎌倉高校前」


友人の実家が「鎌倉高校前」にあったため、学生時代は度々江ノ電でお邪魔した。
あの頃は、電車がホームを発つと、うち広がる海岸にただ独り残された気分に浸れたものだが、今は普通のホームになっていてがっかりした。本当に暫く振りで様子がかなり変わっていた。
高台を登って行き、白樺並木の先に彼の家があった。
友人は大学卒業まで、一度もそこの浜辺に降りたったことのない人であり、自分の部屋の窓から臨む、砂浜の広がる海の絵などを精緻な点描画で描いては部屋中を飾っていた。
まるでレーモン・ルーセルみたいな絵描きである。
(その場に行って描くようなことは絶対しないが、壁を隔てたところ~距離からその気配を察して描くのが趣味なのだ)。

海岸に向かう途上、丁度地区の祭りのようで、日焼けしたもう映画でしか見れないような男臭い初老の漢たちが祭りの出で立ちで準備を進めているところであった。
正直、映画の任侠ものに出てくる俳優よりも漢臭い面々が揃っていた。
スケッチブックをもっていたら描きたくなるくらいである。
そしてマフラー改造のバイクの群れに改造車、そしてクラシックなオープンカー、、、
鎌倉らしい。

砂浜に降りると、もう靴と靴下は自然に脱ぎ去っていた。
そこを革靴なんかで歩くことは出来ない。
(とは言え、ハイヒールで歩いている女性がいたが、、、勿体ない)。

海の風、海の匂い、潮騒、、、。
もう身を任せるしかない。
周囲の様相は変化したところはあっても、海や砂浜はそうは変わらない。
時間の流れが全く異なる。

娘たちにとって初めての海辺の世界は、時間は進むのではなく、ただ反復するのみであった、、、。
それは、わたしにとっても同様である。
ひと時、波と戯れた後、彼女らは細かく色とりどりの貝殻集めを始めた。
長女はついでに流木まで拾ってくる。
わたしも一緒になって夢中で拾った。


今日は、5つの駅で降りる予定であった為、そうも長く居れないこともあり、バッグを置いておく大きな流木に戻ると、そこに座って読書していたサーファーの男性が、娘たちに貝殻をたくさん分けてくれた。
ちょっと探してもわれわれでは採れない貝殻である。さらに親切に江之島近辺で大きな貝殻や蟹の見つかるスポットを詳しく教えてくれた。大変優しい目であり、ここ暫く忘れていた感触であった。
そうだ、こういう人との関わりがあったということを想い出したものだ。
他にも道端やレストランで、とても気さくに親切に観光アドバイスをしてくれた。
その目つきの優しいこと、、、。久しぶりにホッとする気分を味わった。

最近は特に、虚ろな自己を抱えこみ、コンプレックスや充たされない無意識的な欲望やその代替となる攻撃欲求を無自覚に外部の他者に投影して、その対象としてロックした相手を貶めよう、みんなで叩こうという行為~身振りが巷に目立つ。
スケープゴートを野良犬のようないじけた目つきで探し出し、対象を叩いて全能感に浸ろうとするものだ。
そんな、自分が謂れのない暴力を盲目的に振るっていることにまるで無自覚な輩は増えている。
歪んだコンプレックスからではなく正義感からやっていると信じ込んでいるからだ。

自分の行為や言動がまさにその人間が何であるかをそのまま呈していることにも気づかない。
(誰がどのような人間かなど、分かるはずなどなく、全ては原理的にその誰かに関する自分の思い込みに過ぎないことが、まるで理解できていない)。
ちゃんと見る人が見れば、どれほどアホで愚かなことかが分かるのだが。
それは自己対象化能力の決定的欠如からきている。
決まってその手の輩は、外部基準~世間にばかり気を取られていて、志も内省もない。

そのへんのことがリフレクトして返って来た(笑。
あの海辺にいれば、むやみな攻撃欲や人を貶めようなどという謂れのない欲望など抱く余地は生じようもないか、、、。
そんな気がした。


これが日本海側の北の海であったら、厳しく哲学的な様相を呈するかも知れないが。
それはまたそれで良いと思う。

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その後は、七里ヶ浜、長谷寺~高徳院の大仏や小町通りなどお決まりコースを愉しんだが、日の暮れと共に続きはまた今度という事になった。江之島水族館や稲村ケ崎の夕日は夜になってしまい、お預けとあいなった。美味しいと噂のパンケーキのお店も行ってみたらもう売り切れで店じまいであった。

また今度行くことになる、、、(笑。



キングコング 髑髏島の巨神

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Kong: Skull Island
2017年
アメリカ

ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督


トム・ヒドルストン 、、、ジェームズ・コンラッド(元SAS大尉)
サミュエル・L・ジャクソン 、、、プレストン・パッカード(大佐、米国陸軍第三強襲ヘリコプター部隊スカイデビルズ司令官)
ブリー・ラーソン 、、、メイソン・ウィーバー(戦場カメラマン)
ジョン・C・ライリー、、、ハンク・マーロウ(中尉、第二次世界大戦中に島に不時着)
ジョン・グッドマン 、、、ビル・ランダ(地質学者、モナーク所属)
ジン・ティエン 、、、サン(生物学者、モナーク所属)
コーリー・ホーキンズ、、、ヒューストン・ブルックス(地質学者、ランダの助手、モナーク所属)
マーク・エヴァン・ジャクソン、、、スティーブ・ギヴソン(ランドサット衛星データ収集担当調査員)

何でもモンスターバースというワーナーブラザーズの企画で進められているシリーズの今回は第二弾であり、一弾目はあの『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014年)であった。あの作品も実に格調高い傑作であったが、今作は力強さが途轍もない。


髑髏島にヘリ着陸と共にブラックサバスがかかる。
ワクワクする。
漸く任務から解かれ国に帰ろうとしたところへパッカード大佐に声が掛かかり再びスカイデビルズは戦地に赴く。
隊員たちもこれ程の地獄に連れて行かれるとは思いもよらない、というところからの展開となる。
いつもながらビル・ランダのような首謀者たち数人だけが行く目的を知っていて、周りの隊員たちが飛んでもない事態に巻き込まれる冒険パタンは一緒だ。
だが、そこに説得力がある。
この物語はシンプルで裂け目がない。

島には空洞の地下や湖の中や樹木の上から途轍もない怪物が狙っている。
この状況では、ちょっと気を許したとたんに怪獣に食われてしまう。
コングも徹底してハードボイルドな怪物である。
この突き放した魅力がリアリティを生む。

そう、コングと怪獣たちのリアリティは極まった。
これ以上のVFXは想像できない。
本当に力強い映画である。
隙が全く無い。
ストーリーもベトナム戦争と米ソ冷戦も絡めながらの人間ドラマもしっかり描き込まれている。
パッカード大佐の暴走は白黒つかぬまま犠牲者だけを大量に出した戦争へのストレスが大いに関わっているようだ。
コングに対して、全ての矛盾の象徴のように自分の無意識的な負のイメージの総体を投影している。
それに対して膨らむ忠実な部下たちの戸惑い。
コングの本当の姿と役割を認識するコンラッド=ウィーバー=マーロウ達の葛藤。
(コングを倒せばスカル・クローラーが繁殖し大変な事態となる)。
勿論、コング対巨大トカゲの怪獣スカル・クローラーとの死闘は凄まじい。
相手の強さは半端ではなく、最後までハラハラする。
そのバトルは最大の見せ場である。『キング・コング2005』のナオミワッツを守りながらの死闘も凄かったが。

Kong Skull Island002

役者はみな芸達者である。
ジェームズ・コンラッドのGACKTの吹き替えがかなりきまっていた。
パッカード大佐とコングとの睨み合いなど迫力の一瞬であった。
(しかしサミュエル・L・ジャクソン歳とったなあ~)
髑髏島の原住民の描写も異質さと自然さが上手く表れていた。
ネイティブには南洋というより日本人に近い感触がある。

取り敢えず、ここでもコングは戦場カメラマンのウィーバーを助ける。
基本的に島の侵略者ではなく、自分に対し好感を持っていることを察知しての事か。
そのうえで女性であることも大事な要素か、、、この辺はよく分からないが、なかなか素っ気なく男前のコングであった(爆。

最期30年ぶりに生還して妻と成人した息子初めて逢う家庭用ビデオのシーンは感動ものであった。
特務研究機関モナークにコンラッドとウィーバーが呼ばれると、そこにはブルックスとサンがおり、「実はこの地球を影で支配している生命が他にもいる」ことを彼らに仄めかすのだった。
そして、はっきりとこの続編となる次作の内容が暗示されて終わる。

Kong Skull Island001


なんでも今度は、ゴジラがまたこのシリーズで出てくるようだ。
ゴジラVSコングも控えているらしい、、、。
何処までやるのか?
やはりアメリカ~ハリウッドでまともにやるとこれだけのものが出来るのだ。
こういう映画を観て愉しみたい。
(日本映画でここまでの質は到底望めまい。アニメは別として)。


ガメラはかなり頑張っていたのだが、本当に終了してしまったのか。
ちょっと寂しい、、、。

アンリ・マチス

Matisse001.jpg
「マティス 夫人像」

夜遅くになって、アンリ・マチスの絵を眺めはじめた。これはほぼライブに近い(笑。今11時。

原色を多用した絵で、ブラマンクやドランらと共にフォービズム(野獣派)の画家と呼ばれる。
(しかしブラマンクの波打ち渦巻くようなタッチの激しさに比べマチスは構成的な色彩の方に目が向く)。
確かに野獣派と言われるだけあって、強烈な緑に赤の補色の使い方などの配色・色彩構成が際立つ。
最初に「マティス 夫人像」を小5の時に観て、その印象が脳裏に沁み込んでいる。
マチスと聞くとその夫人像がまず目に浮かぶ。
何しろ顔の真ん中に緑の線が引かれていて、新鮮で特異ではあるが破綻のない見事に肖像画となっていることに驚いたものだ。
これは色を塗るではなく、色で絵を描く際の典型的な参考作ともなる為、娘たちにも見せておきたい。
寧ろ大人になって見せるより子供の時期に魅せた方がよさそうな気がする。

日本の画家では萬鉄五郎が近い感性(理念)をもっているように思える。
だが、そういった激しい表現はそう多くはなく、寧ろ涼しく静謐な旋律の聴こえてくるような絵が目立つ。


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「ピアノのレッスン」

モンドリアンもそうだが、この単純な面の色構成は絶妙としか言いようがない。
いつまでも見ていたい心地よさだ。部屋に飾れば静かな涼やかな風がそよいでくるに違いない、、、。
モンドリアンの絵をコンピュータを使って、様々な考え得る色面構成を試してみた結果、画家の選んだ色以外に絵となるものがなかった(最高の色構成であった)という実験結果があったが、丁度、この「ピアノのレッスン」も同様だ。
恐らくこれ以外の色構成は望めないはず。
どの色もその面積も位置も変えようがない形で構成・存在する。

どうみても修練を重ねた色彩家が計算し尽くしたうえで、瑞々しい感性のもとに描き込んだと感じられる。
マチスの身体性そのものからの表出と謂えよう。
やはり自らがやるべきことをやり続けてきて発酵~熟成した成果というものか。
芸術家に限らず、ヒトはこうであらねばと唸らせる。
(最近特に虚しい生き方をしている輩をよく目にするにつけ、つくづくそう思う)。


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「王の悲哀」

これは色彩の魔術師である彼の真骨頂を発揮したコラージュ作品。
たしかに貼り絵で彼の持ち味というか資質がストレートに実感できる。
確かに色彩の魔術師だ。
こうは上手くいかなくても、これをやり始めたら面白くて夢中になってしまうだろう。
今度、教室でもやってみたい。
勿論その都度、思い付きでやる訳にはいかない。カリキュラム的な流れは必要だ。
だが、色塗り、筆使いと共にこちらをやっていかないと色彩感覚を磨かず色だけ漫然と塗らせていても意味はない。

色紙を用意しておこう。
今度はわたしも一緒にやってみることにする。
というか、わたしがやりたいのだ(笑。

この絵は、大学時代に部屋に飾っていたものだが、いつの間にかなくなっていた。
額入りではなく、ポスターをピンで留めておいただけなので強風が入った際にでも何処かに飛び去ったか。
それはそれで趣き深い、、、。

教室の一回目

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(本当のセットの写真は、もっとおもちゃカボチャを足したものを来週((笑)。

頂いた大きなオレンジカボチャ3個。
これがひょうたん型でなかなかボリューム的にも凄い。
それに加え、わたしが花屋で一つだけ調達できた、おもちゃカボチャの4つで構成して、、、
(色々な形を期待して行ったのだがワンパタンしかなかったのだ。270円。昔は100円で買えたのに、、、)。

クロッキーを5回やった。
一回3分。
線~輪郭線だけで描く。
消しゴムは一切使わない。
iPhoneのストップウオッチで「はじめ」、「はい、そこまで」などとやると、かなり面白がっていた(笑。

ただ、そのまま描かせると、小さめになることが多い。
クロッキー帳のページ一杯に描かせるようにする。長女はそれで直ぐに大きく調整したが、、、。
次女のように何でも小さく描きがちなケースには、予め薄く絵をおさめる大きさの丸(楕円形)を描いてガイドラインとする。
するとほぼその大きさで描けるようになった。
(思ったよりあっさり、、、)。

描いた中から一つ選んで、色を塗らせた。
今回は、少し水を多めのポスターカラーで。
これまではリキテックスで描かせることが多かったが、アクリルだと後始末が大変である。
薄い紙に描くことから、透明水彩も考えたが、コスパと使い勝手を取り、これにした。
充分これでイケる。

透明水彩は、色の扱いに慣れてきて、知識も実地で身につけてからでないと、思うようには描けない。
グワッシュにするならポスターカラーでよい。グワッシュは高いし。
一回目としては、そこそこ手応えはあった。
筆使いは沢山描いていくことがまず肝心だろう。
ちなみに、わたしは描くどころでは、なかった(苦。
もう少し波に乗ってから描き始めようと思う。


生徒は来るべき子がまだ、来れる状況ではない為、来週からとなる。
だから今日は、うちの娘二人とである。
最初だからそれなりに真剣にやってはいたが、家族であると次第にだらけてくる可能性は高い。
やはりそこに他人が入ることでピリッとしてくるものだ。
来週から来てくれれば丁度良いか、、、。



ユトリロ

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私生児で10代からアル中になり、少年時代は大変苦労したという。
入院したり警察に拘束されたり学校にも馴染めずで、不安定でかなり荒れた生活をしていた。
健康状態も悪化したり小康状態になったりの繰り返しであったらしい。
母親も手をこまねいて人任せになり、祖母に預けることも多かったようである。
しかし祖母が元々アル中で、ユトリロ少年にも酒を呑ませていた影響が大きかったと謂われる。

要するに生育環境が悪かった。
人はそれを選べないのが、決定的なところである。
この初期の受け身の状況については、どうにもならない。
では、それを変える~脱するには、もうカントの説くように自らがそれを選んだと捉え返し、自らの主体として生きなおすしかない。

ユトリロ7歳の時の母シュザンヌ・ヴァラドンによるデッサンはよく彼の特徴を湛えている。
晩年のユトリロの写真にも残る面影が窺える。
鼻つきがまさに彼である。
どういう対象として描いたのだろう。
この頃は彼女も画家として成功している時期だ。

結局、彼女が息子のアル中療法として彼に絵の手ほどきするようになった。
だが、師匠の言うことを素直に聴いて画業に励むというより、独自の画法を編み出して描いてゆく。
かの有名な白い絵だ。
何と絵の具に漆喰を混ぜている。

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はじめは、描くこと自体嫌々ながらであったらしい、、、想像はつくが。
母とは異なる作風であるが、彼も高い評価を得るまでにそう時間はかからなかった。
それに従い、とても平穏な日常生活も手に入れてゆく。
絵を自ら描いてゆくうちに、生命力の核に触れていったのだと思う。
自我とか主体よりもっと深いところに、図らずも降り立ったのではないか?
それが確信を生み、強固なものにしてゆく。身体も落ち着く。
外的なシステム~法に全く左右されない内的な基準~価値の獲得により、、、。
大概、優れた芸術家はその域に達している。
(世間の目や流行りや、才能などという外部の尺度などは端から意識にないが)。

自分のやるべきことをひたすら、やる。
創造行為とはそうしたものである。

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ユトリロは、ひたすら街を描く。彼にとって絵を描くとは、街~街頭を描くことであった。
彼もまた、パリに色々な国や地域から集まって来てモンパルナスやモンマルトルの街や風俗や人々を、ボヘミアンな生活を送りながら描き続けた所謂、エコール・ド・パリの画家に数えられるが(その中でも特に有名な画家であるが)、彼にとってはパリは生まれ故郷であり自分の元々住んでいる街頭を描いているだけである。

それがとても寒々としている。
人は時折、街路や階段に見つかるが、本当に他者であり、何か繋がりの感じられる温もりの表情はその姿にない。
だが、白い建物や路(石畳)は構図と共にとても堅牢である。
白の堅牢なマチエールが更にその建造物の内と外を厳しく隔てているようだ。
ユトリロは勿論、外にいる。
ロートレックは中にいる(笑。(レオナール・フジタもいた)。

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最初に見た絵がこれだったか、、、。
とても孤独な絵だ。
孤独というものをじっくりと感じさせる。
だが、寂しいとか悲惨なものでは全くない。
確信的な孤独である為、力強い。
強度のある孤独である。


観ているうちにこちらにも力が漲ってくる(笑。
いや、本当に、、、。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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