プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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朝の出来事

shiho001.jpg

朝、登校班で待っている間に次女が道路に落ちていた花弁と葉で顔を作って遊んでいた。
なるほど、子供は知らぬ間に何かをして楽しんでいる。
「かたち」で遊んでいることは多い。
よく観ると、花弁の表面を少し擦って(圧してか?)色素を滲み出させている。
リボンの強いピンク色に当たるところだが、そこが彼女の工夫の部分か?
後は、片方だけ見えている眉毛が顔として定着させている。無意識にやったのか。
実はここがポイントであろう。
(リボンは別物~装飾であり、顔の対称的でまとまりの緩さを眉毛がしめている。口と相似的な形の動きも面白い)。

公園に行くと、よく平らな土の上や砂地を素早く探し、木の枝で引っ掻き画を描いていたりする。
考えてみると面白い。
「かたち」とは何なのか。
かたちを作ろうとウズウズしてしまう気持ちとは何なのか?
(恐らくモノとの間の呼応関係が生じるのだ。そういう引力が互いに働く)。

今朝のものは構成による絵作りだ。
僅かな隙間の瞬間の。

足元にあった自然の美しさにふと気付き、それを手に取って何気なく観ることからそれは始まる。
本当に狭い範囲に、形、大きさ、色、素材の異なる要素がばら撒かれているのだ。
塀の傍等にそれらはよく集まっているが、そのバリエーションはちょっと凄い。
今の時期特有のものでもあろうが、貴重な贈り物にも感じられる。
風~気流の悪戯、もしかしたら鳥や虫も絡んでいるかも知れない。
偶然の集まりにしては意外に綺麗で、ちょっと驚く。
これも自然の摂理の一端なのかという趣を感じる。


後で聴くと、毎朝やっていたとのこと。
朝、集合場所でみんなが集まるまでのほんの一時である。
今日たまたま水筒を忘れていたので、届けに行ってはじめて気付いた。
いつも素材は異なり小石を使うこともあるらしい。
かなり手馴れてきて手早い作業になっている様だ。
毎回、何らかの絵はポツリと、ひとつ出来ているという。
直ぐに消えてなくなるフラジャイルな形を残して毎朝、登校していたのだ。
まさに不思議な鳥の消息みたいに、、、。
ちょっぴり香しい。


これから毎朝、観に行くことにした(笑。
早朝というのも気持ちよいし。
子供は何処かで必ず何かやっている生き物なのかも、、、。

だがさて、一方長女の方は、学校自体行きたくない人であり、朝の集まりの時間などまだほとんど頭は眠っている様だ。
恐らく環界に対して感覚が起きていないし、何も考えていない。
単に朝が弱いのか、、、確かに朝の苦手なことはよく分かる。
学校に着いてランドセルを降ろしたあたりで、はじめて目が覚めるらしい(笑。

身体リズムと(固有)時間がそれぞれ違うのだ。
人が違うのだから当然だが。
次女はやたらと早起きだし。


明日は教室初めで、「おもちゃカボチャ」を描こうと思う。
夕方であるから、少し疲れていても、頭ははっきりしているはず。
クロッキーは4,5枚やって、絵の具の使い方を確認して、はじめるつもり。

何だか面白くなってきたが、その前に雑事が幾つも重なってしまった。
実際どれくらい出来るものやら(笑。
なかなか計画通りには進まぬこともある。
今日の「お月見」は、寒いし月は隠れているということで、お団子とミカン(月の代用)で食べるだけ食べた(笑。




ロートレック

Lautrec001.jpg

どの絵も闊達な筆さばきで気持ち良いし小気味よい。
何と迷いのないスピード感溢れる絵か。
絵の上手さでいったら、これ程上手い画家もそうはいないだろう。
画家は皆、上手い人揃いだが、その中でも抜きん出ている。
と、絵を観ていて、つくづく思える。

Lautrec002.jpg

ポスターになると、もう水を得た魚みたいに伸びやかでしなやかな線が決まりまくる。
本人も描いていて楽しくてしょうがないだろう。
その楽しさがリズミカルな旋律に乗って伝わって来る。
この快感がたまらない。

Lautrec005.jpg

それに平気で厚紙~ボール紙にグワッシュなどでガンガンと描いている。
恐らく手近にあったもので描いていたりするのだろう。
中にはツギハギで、打ち付けた釘の頭まではっきり出っ張っている板に、伸び伸び達者で奔放な絵を見事に描きつけている。
これは日本の伝統的な美学の用の美にも通じる精神か?
文人画にも通じる域のものである。
粋だ。

なかなか普通、そんな素材に絵を描けるものではない。というより描こうとさえまず思わないものだ。
そこにおいても何か飛び抜けた感覚と理念をもっていることが窺える。
ともかく、何だろうが描いてしまうのだ(爆。

Lautrec006.jpg

由緒正しい貴族の生まれであったが、幼い頃の事故から下半身の障害を得たロートレックは、爛熟した文化の中心というか坩堝のようなムーランルージュ~キャバレーの奥深くへと、踊り子や娼婦の私生活の内にまで入り込んでゆく。
まるで空気のような存在として彼女らを活き活きと描いている。
そこに自分の住処を移し、究極の自在観を得たのだ。
(出自・身分に囚われ普通の脚でスタスタ歩くことより遥かに自在で伸びやかな生を手に入れたのだ)。

この辺で、彼は恰も目の存在となり、何でも自在に描け、何処にでも何にでも描ける極意を身につけた感がある。
彼のしなやかさはこういう場から生まれているのだ。
きっと。

Lautrec003.jpg
ユトリロのお母さん、シュザンヌ・ヴァラドンも描いている。
彼女もとても優れた画家であり、ユトリロのお師匠でもあった。
確か酒も彼女から習っている。
ロートレックも大酒呑みだ。それで体を壊している。

ちなみにシュザンヌはその美貌からルノアールのモデルなどもかなりしていた。
あの有名な「ブージヴァルのダンス」とか、、、。
マルチな活躍ぶりである。

ユトリロはパリを外から寒々しく孤独に描いた人だが、ロートレックはパリの中身、その深奥の熱気溢れる渦を捉えた画家だろう。
どちらも優れてリアルであるが。

Lautrec004.jpg

ゴッホとは結構、意見も合い仲も良かったらしい。
芸術家は自分の感性と内的な価値意識が絶対的なものとしてある。
(世間や外的な基準・規範など端から知った事じゃない人たちでもあり)
そうそう仲良くなれるものではない。
案外、名コンビに思えるが、、、。
しかし、アルル行きを進言したのはロートレックそのひとであった。
そこに行けば精神的に落ち着くのではないかという配慮からだろう。

ゴッホは、ゴーギャンと共同生活をアルルでして、ああなったが、ロートレックと娼婦の館に住めばもっとヒトが丸くなり?大画家になるまで生きていられたような、、、。
でも晩年の狂気の傑作~糸杉に比べられる作品がここで描けるかどうか、、、狂気があれを描かせたとしたのなら、無理か、、、。だが、違う形の傑作が生まれた可能性も高い。創造の根っこはちょっとしたことで変わるものではないし。

それに、ふたりとももう少し長生き出来たかも、、、。
ユトリロ36歳、ゴッホ37歳没である。
これでは余りに早すぎる。


清々しい日々、、、

omocha002.jpg

いよいよ気候も過ごしやすくなってきた。
日差しは強いが風は心地よいし、気温も丁度良い。

お隣さんから大きなオレンジ色のカボチャを頂いた。
絵のモチーフに良いので教室に使うことにした。
この時期、お花屋さんには「おもちゃカボチャ」が出回る。
それも幾つか買っておこう。
大小の色とりどりで形も不揃いのモノを合わせてモチーフにする。
そう思って、ちょっと近所を何軒か周ってみたが、、、まだ出回るという程ではなかった。
明日また、店探しをしないと、、、。

今日は娘の個人面談の日である。
わたしはあいにく自宅待機となった。
娘たちがその間に帰ってきてしまうからだ。
ひとり誰かが待っていなければならない。

バーバはリハビリでいないのだ。
一番元気に外にも頻繁に出掛ける。
電話もよくしていて、忙しいらしい。
用が沢山あることはよいことかも知れない。

どうやら、娘は漢字が苦手らしい。
確かにイソップを読んでいても、あまり読めない。
帰って来てから、娘のリクエストで宇宙関係の本を一緒に読んだ。
イソップより、乗った。
何と謂うか、興味・関心のある分野の本から読みそのものに馴染んでゆく方が、動機付けから言っても好ましいか。
結構、地球が太陽に呑み込まれる件で図を描きながらの白熱した噺となった(爆。
ただ、赤色巨星がカンでなかなか言えない。


明日は「中秋の名月」
満月少し手前であるが。
(満月は10/6だ)。
薄(すすき)と月見団子だけ用意しておこう。
薄は、稲穂の代替~間に合わせのようだ。この辺が日本文化の奥ゆかしい趣深いところ。
本当は、枝豆・里芋・栗などを盛り、御酒もあればよいが、そこまではやらないな、、、。
酒は準備しよう。久々に呑みたい(笑。勿論、少量だが、、、。


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今度の休日は、海辺を歩くことにした、、、。
先程の本を読んでいて、例え噺に出て来た海辺が何であるか知らなかったのだ。
それでは、例えのイメージすら沸かないではないか。
話がいちいちその辺でつかえて前に進み難いということより、まだ一度も海辺を味わっていなかったことはある意味深刻であり、その体験は急ぐことにした。

確かに、知らないはずだ。
彼女らが生まれてこのかた、海辺に行ってはいない、、、。
わたしも思い切り一緒に海辺の空気を吸って、潮騒と波飛沫に浸りたい。

昨日の公園

sun001.jpg

十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ、、、(徒然草)

この時期よく言われるのは『天高く馬肥ゆる秋』であるが(笑。
昨日は丸一日、家族で公園に行って過ごしたが、長雨の落ち着いた後の爽やかな空気が気持ちよかった。
十月桜も咲いているではないか。
そのせいか公園はかつてないほど混んでおり、5つある広い駐車場に停めきれないほど車が溢れていた。

等間隔に何処にも車がある。
面白い。
宇宙みたいだ。
星も結局、均一に分布している。
宇宙の等方性が謂われている。
そして中心はない。
ただ加速膨張してゆくだけ。
ちょっと眩暈がして、寂しくもなる。
星が将来は見えなくなるのだ。
幾世代後の噺だろう、、、。

考えてみれば中心も基準もないのは当然。
太陽系は秒速300Kmで(天の川)銀河の中心に対して回り、その銀河系もアンドロメダ銀河と謂わばペアを成す形で回っていて将来は激突する運命にあるらしい。それらを含む局部銀河群は、またさらにおとめ座超銀河団に含まれ、その超銀河団は大きな重力~グレート・アトラクターにひかれて移動してゆく、、、SFにもしばし登場するのだが、、、結局、動きなど何を取り敢えず基準に置くかにより説明可能となるだけで、静止基準などもともとないことから、もうただ凄まじい速度でピアノ曲線を描いているようなめくるめく感覚だ。よく地上に呑気に張り付いていられるものだ、と感心することもある。

ただ、光が眩しい、、、。心地よい眩しさだ。
光速度が一定であることから、時間の伸び短みを見出したのはアインシュタインだが、(時間の進み方によって光が見かけ上、一定の速度に見えること、が正確か)空間~身体に固有の「時間」が流れているという認識は、われわれにもとても馴染む。
そちらの方が生活の実質・実感に適う。
公園で日向ぼっこして、芝生で草の匂いを嗅いで寝転がっている時に、時計時間などいちいち気にしていられない。
寝転んで見ている限り、この公園、遠近法で整序しきれない。
時間がヒトの数だけあるような空であり空気である。
ルネサンス以前の絵をみるような感覚だ。
それから、音が面白く響く。
小さな音でも気に障る音があるが、大きな音でも心地よく響く音もある。
そう、潮騒などはその例だろう。f/1揺らぎか、、、。
いつの事だったか思い出せないが、海など何処にもないところで、潮騒の音が聴こえて、音源を確かめる気にもなれずに転寝をしたことがあった。
音には、昔から不思議な想い出~体験がある。
そんなことをゆらゆらと改めて想い浮かべた、、、。
本当に少し眠ってしまった。


帰る頃には月が出ていた。
まだ空は青空である。
藤原定家の「明月記」には、牡牛座に突如現れた超新星爆発のことが書いてあり、月より明るく数か月間も輝き続け、昼でもそれは明るく見えたという。1054年7月4日のこと、、、。

贅沢な噺だ。


コロー

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絵心とかよく聞くが、コローの絵を観ていると、その絵心というものがじわっと実感できる。
その絵を描くことの恍惚感を想い、、、
脇に置いていつでも観ていたいという絵である。
「絵」なのだ。
それ以外の何ものでもない。
伝統的な手法の傑作はあるが、それを越えているところが感じられる。
そこが面白い。

コローから、印象派まであと一歩のところにあることはよく分かる。
影の部分がそれまでの画家の絵とは異なってきているからだ。
ただ明度と彩度を下げ黒を混ぜたりする(所謂、ヤニ色という定番処理)ではない。
影の部分にはそれ相応の色(色相)があることを発見している。

タッチも落ち着いていて静かだが、細やかなだけでなく大胆で確信的でもある。
必要最低限の単純な筆致と色で恐らく素早く仕事を仕上げたと感じられるものも少なくない。
ここでもやはり、省略したりぼかしたりすることで、その空気感も含めたリアリズムを追及している。
何でも細かく埋め尽くせば、リアルになるという考えは、もうここにはない。

都市の光景もモニュメンタルで一種の偉大さを証明する絵ハガキ的な構図ではなく、画家の感性で切り取った詩的で私的な風景が観られる。
場合によっては、その建造物が何であるのか分かりにくいものもある。(例えば「コロセウム、、、」)。
観光写真でこれが~とはっきり分かるそんな構図では、もはやない。
あくまでも画家がこの情景が美しいと感じたまさにその絵なのだ。
この点で、コローは印象派に繋がる資質をはっきりと示している。
丁度、現在われわれがとっても心惹かれたアングルの風景をスナップショットで切り取るような感じだ。
それは無名の風景になっている。とても新しさを覚える。

Corot002.jpg


如何せん、写真を撮っただけだと、それで安心してその風景を味わい尽くさないのが、大方のケースだ。
例え、簡単なスケッチでも自分で描いておくと、かなりイメージが脳裏に残る。
その印象を大切に、先ほど撮った写真も参照して家に帰って絵にするとかなり良いものが出来るかと。
本当はその場で粘ってずっと最後まで描ければい謂うこと無いが、実際はそうはいかないことが多い。

でも写真を元に何となく描き出すと、かなり危ないところに引きずられてゆく。
コローの世界~絵から遠い光景にどんどんなって行ってしまい焦る。
自分の「絵」~印象というものを最初にしっかり意識し、描き始めなければならない。
(描き始めが肝心である。それ以降はブレないよう、勢いを大切に進めることだと思う)。

コローを観ると、どうしても描くことそのものに気持ちが流れてゆく。
そう、描くことの恍惚を感じさせ誘惑する絵であろう。
もう少しで、印象派に繋がり爆発する前夜の密かにワクワクする絵ともいえる、、、。

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