フェルメール

今日は久しぶりに真夏のように晴れて暑かったため、独りで公園に行った。
娘も家族もほっぽらかして。
いつも車で行く距離の場所だが、今日は往復徒歩にした。
単に歩きたかったのだが、流石に暑い。生き帰りの長い道のりで尋常ではない強度の日光に焼かれた。
科学関係の本を二冊持って行って読んだはよいが、、、。
日陰のデッキで風通しも良く気持ちはよかったのだが、かなり蚊にも刺された(痒。
帰ってから、暑さにやられたのか、昔のディスクを引っ張り出して片っ端確認を始める。
その時面白いものを見つけた。
フェルメールの特集なのだが、ちょっと変わったものなのだ。
NHKの「日曜美術館」でかなり昔やっていた森村 泰昌氏のセルフポートレートによる「画家のアトリエ」の再現を通してフェルメールに迫ろうという試みである。
以前から森村氏の面白いアプローチ~方法だと感じていたのだが、最終的に見事な「画家のアトリエ」が出来上がった。
コンピュータによる空間と各要素の3D解析や衣装・小物の素材を厳密に調査したうえで調達し完璧な再現を期すため、たくさんのスタッフを動員して制作されていることを知った。大変な作業である。
南伸坊氏がやったらどうなるだろうか、とそっちの方も、勝手に想像して笑ってしまった(爆。
(実はそちらの方も観てみたかった)。
「画家のアトリエ」は、ダヴィンチが生涯「モナリザ」を手元に置いておいたのと同様、フェルメールの手放す事のなかった、ただ一つの絵であったそうだ。
森村 泰昌氏の再現によって、「画家のアトリエ」が完璧な遠近法によって描かれていることが判明したが、その消失点の置き方が絶妙な所に置いてあるため、何度観ても心地よい空間が実現されていることが確認された。
(この消失点をどこに置いて遠近法的整序をなすかは、絵にとって大変難しく肝心なところである。特に狭い部屋においては)。
更に何よりカメラオブスキュラで実際覗いた画面をTVで幾度もその焦点移動も含め見せてくれたことは、とても大きい。
わたしも実際に黒布を被って観てみたくなった、とても魅惑的な機器である。
(フェルメールがカメラオブスキュラをこの上なく効果的に絵画制作に利用して来たことは余りに有名)。
わたしも覗いてみると、こういう風に見えるのか、、、と確認できた。
何と謂うか普通に見るより、「生な見え」なのだ。
そのすりガラスに映る光景が、、、。
何か郷愁を誘うし、焦点とボケの空間がしっかりあってよりリアルで新鮮に思えた。
しかし、その番組での掘り出し物はそれくらいであった。
アシスタントが、かの「はな」さんの時期であることも嬉しかったし、懐かしい。
実際、フェルメールの絵は凄まじくリアルである。
だが、驚くべきことは、細密な部分は細密だが、ラフな部分はかなりラフなタッチで思い切って筆が走っており、ぼやかした部分もちゃんとある。
光の点なども効果的に打たれていることも見て取れる。
そこからくる質感は、顕微鏡的な超細密画など寄せ付けないリアルさなのだ。
表象以前の物の本質美とでもいうような美しい光景である。(カント的な意味合いではない)。
これはカメラオブスキュラを当時の他の画家の単に構図の決定などに利用していたやり方とは全く違う、物の見え方の本質に迫る研究手段として用いていた賜物であろう。
眼球は常に微動し続けており、観ることは必然的に編集的遅延を帯びる。
つまりわれわれは、言語的に有機的な分節化を経てパンフォーカス的な光景を表象として世界認識している。
だから、同時期の高名な写実画家たちは、皆隅から隅まで超細密な描写で画布を埋めきっていく方向性をとる。
だがそれらはどれも言語的に整序された絵に過ぎない。
観た人はよくこんなに根気よく丁寧に細かく正確に描きましたね~と感心はするが、そこに心地よい真の美をどれ程感じるか、、、
疑問である。
昨日の蠣崎 波響などは、見事な手仕事~細密な筆さばきを政治的手段~価値としており、細密さがリアルな表現に繋がるものではないが、大方当時のオランダ画家の超絶技巧もその範囲であるろう。
フェルメールの絵は、謂わばカメラの目であり、言葉による遅延が起きる少し前、それこそ宇宙物理の謂うインフレーション後のほんの僅かな時間~10のマイナス10乗後、、、あたりの消息を捉えた光景なのだ。
ちょっと例えが強引か?
光学的な記憶を遍く脳が言語的処理をして全てに焦点を合わせた画像を見せる前のカメラオブスキュラで覗いためくるめくドキドキする光景を魅せたのだ。
瞬間への郷愁が絵となって成立している。
画家はただ、レンズの目となって、、、。
そう、森村 泰昌氏が最後に「フェルメールは自己主張していない」と評していたが、謂い得て妙である。
流石だ。