ミケランジェロ

『サン・ピエトロのピエタ』
まず、ミケランジェロは彫刻家である。
表現技術の革新と解剖学的に人体構造を捉え美の手掛かりにする研究に余念はなかった。
これはライヴァルであるレオナルド・ダ・ヴィンチにも引けを取らない。
きっと彼も古代ギリシャ・ローマの彫刻に驚き憧れたひとりであったはず。
その「生命力」に惹かれ、キリスト教(カトリック)に囚われない「人間」に対する純粋な洞察を深める契機になったと思われる。
同時代の「ピエタ像」の死後硬直した棒のような体をしたキリストと内面の感じられないマリア。
そのぎこちない姿。
聖書の教義を理念的に伝えることのみに作られた、制作姿勢そのものの硬直した物ばかりであったなか、、、この作品の突出した超然たる美は圧倒的な輝きを放つ。
神聖な哀しみを具現化した至高の作品であろう。
「モナ・リザ」とともに、、、
完成した美とはまさにこれか、、、という。

『ダヴィデ像』
まだ、ミケランジェロ20代で、血気盛んな時期でもある。
ちょうど、フィレンツェからメディチ家が追放されるが、その後権力を握った藝術否定論者のサヴォナローラが処刑され、フィレンツェ共和国にピエロ・ソデリーニのもと芸術が「フィレンツェの自主性を表す象徴」として復活する。
ミケランジェロはヴェッキオ宮殿に面したシニョリーア広場に設置する「ダヴィデ像」制作を依頼された。
カッラーラの採石場から採掘した一つの大理石を掘り進み3年をかけて完成する。
これからゴリアテを倒しに行く一糸纏わぬ逞しい筋肉質のダヴィデである。
闘いの前、全身に緊張感漲る、凛々しい表情の青年だ。
ドナテッロやヴェロッキオのダヴィデは少年であり、闘いの後の剣を携え足元にゴリアテの頭部が置かれた(定型)ものだ。
この聖書からの設定の独自化が話題を呼び、その有無を言わさぬ圧倒的な造形で、ミケランジェロの名は不動のものとなる。
最初のマニフェストとも呼べる作品であろう。
これ程、力強い彫像があろうか、、、。教理に従う異論など吹き飛ばす創造力・才能の勝利であり、人間に対する洞察が深められてゆく。

『システィーナ礼拝堂天井画』(大洪水から)
『創世記』に取材した9つの場面により成り立つ。
光と闇の分離
太陽、月、植物の創造
大地と水の分離
アダムの創造
エヴァの創造
原罪と楽園追放
ノアの燔祭
大洪水
ノアの泥酔
そもそも彫刻家に礼拝堂の天井画を依頼するとは、、、。
一番驚いたのはミケランジェロ当人であったはず。
ユリウス2世には、お気に入りのフレスコ画家ラファエロもいた。
尚更、なんでまた、、、と思ったはずだが、きっとチャレンジ精神旺盛なのだ(研究熱心でもあるし)。
しかし、天井画である。非常に過酷な仕事であったことは想像に難くない。
やはり尋常ではない構想の結果描かれた場面ばかりだ。
どういう構図なのかと戸惑うようなものやダイナミックで極めてクリエイティビティを感じさせるものまで、、、。
特に「大洪水」など箱舟は遥か先に浮かんでいるのが分かるくらい、ノアもいるにはいるが、忙しそうにしているだけである。
主題は寧ろ、危機に瀕して何とか逃げ延びたい生きたい、と子供を抱いてもがいている一般の人々である。
宗教家達はそこをどう見たのだろうか?

祭壇壁のフレスコ画の『最後の審判』もミケランジェロ以外の誰からも生まれないものである。
誰もが裸で身分も地位も分からない。ただの「人間」である。特別な者はひとりもいない。
非常に力強いキリストと傍にはマリアが立ち、地獄へ逝くもの天国に逝くものを選り分けている。
背景には美しいラピスラズリ~この上ない美しい青が広がり、誰もが特に悲しんでも喜んでもいない(当惑してはいても)。
誰にも等しく光が当てられているのだ。
当時の宗教家達はこれを観てどう判断したのか?少なくとも他の、しっかり教義に従い描いた画家達の「最後の審判」とは全く違う絵ではないか、、、。
だが、これも人類史上最も優れた「最後の審判」と彼らから評価された。
この有無を言わせぬ力こそ、ミケランジェロの技量と人間に対する洞察力によるものだろう。

『ロンダニーニのピエタ』
わたしは現実や日常において泣くようなことはまずないが、芸術作品を観て感極まる経験は何度もある。
この「ロンダニーニのピエタ」には、一度ならず極まった。
初期にして藝術作品として完成された『サン・ピエトロのピエタ』から60年を経て、ついにここまで来てしまう。
未完成という形をとってはいるが、これ以上進むものではないだろう。遺作とは言え中断には見えない。
余計な「表現」が剝ぎ取られていった結果の最終形体なのだ。
日本の高僧が彫った石仏みたいだ。現代アートにも通じ凌駕している。
最早、完成の遥か先にいってしまった。時空を超えて人間の本質がそのままここにある。
そうとしか感じられない。
右腕が打ち捨てられているところから、きっとキリストはもっと前のめりの姿勢でマリアが後ろから覆いかぶさる構図だったのかもしれない。しかし、ほぼ直立しようとする(瞬間的)姿勢をとったのだ。
その刹那がこんな永遠の美として凍結しようとは。
偉大な哀しみ。
何故、ミケランジェロは敢えて、右腕を残したのか。