モネの快楽~快眠

「散歩、日傘をさす女」は数パタンある。恐らくこれが美術の教科書で観たものだ。
もっと派手で煌びやかで、色彩がビビットなものがある。
ちなみに、その華やかバージョンの方は傘の柄が描かれていない。
もう、光と渦巻く色調と風を描くのに夢中で、そんな細かいモノなど描いてる場合じゃない、とばかりの勢いのある絵だ。
ただ、教科書にあったのは、こちらか、、、今では調べようもないが。
モネという巨人を書かないできたが、書くとなるとなかなか厄介である。
セザンヌのように考えさせるタイプの画家ではなく、寧ろ考えさせない画家であるか。
彼のある方向性を考えに考えて展開してしまった絵画がその後の前衛現代絵画でもある。
ひとつ観念的~思想的なネタが分かってしまうと、もう面白くないというものは多い。
モネは、考えてしまう前の状況で描こうとした。
題名はついているが、その「場」そのものを描いているとしか謂えないような絵である。
中心があるようで、なく、主題はあるとは謂え、それが切り離されてはいない。
一気呵成に捉えたもの~ことを描き切る。
結局、その「場」の本質を掴もうとするとき(勿論モネはそんなことは言っていないが)、説明的な配慮を完全に捨てる。
直覚したその事象の全体性を取り込もうとする運動そのものとなる。
そんなリアリティ~写実なのだ。
リアリティを現す際に傘の柄など結果的に必要なかったりする。(あくまでも結果的に)。
しかし、それを論理的に意図的操作で省略したりし始めると現代美術の頭でっかちになってしまい、面白くもなんともなくなってゆく。

モノは場のエネルギーとして励起した姿である。
そのエネルギーそのものを鬩ぎ合いつつ描きとろうと愉しく格闘するモネ。
そこに概念的な説明の枝葉をくっつけていってしまうと、だんだんエネルギーが失せモノそのものの姿~運動が形骸化してゆく。
まさにプラトンのいうイデアに対する影みたいな絵になっている。
そう残像みたいに虚ろなものになるだろう。
それに比べてモネの鮮やかさときたら、、、。
われわれが絵を描いていると、描くうちにどんどんそちらの方向に向かって行ってしまう。
まるでエントロピーの法則みたいに。
そして観念的に略してみたり止めてみたりすると、とてもわざとらしく心地悪い。
やはりモネみたいに快活に活き活きと(ネゲントロピーそのものに)描ければとっても気持ちよいはず。
彼は、ずっと目が観えなくて手術か何かで急に眼の見えた人になりたい、みたいなことも言っていた。
赤ん坊にとっての外界みたいな光の渦を生々しく体験してみたい。
やはり、はじまり、、、これが重要なのである。
何故か?(われわれはすべからく生と死に昏く、その間は言語的な概念に縛られ続ける)。
われわれは気が付いたらこのように見えてしまっていたのだ。
まさに、ことばの獲得に同期するように、、、。
そうなると、もう知ってしまった以前に遡行は原理的に不可能となる。
しかしモネは例外的な芸術的な鍛錬と意思でセザンヌが言ったように「目そのもの」になってしまった(ようだ)。
それをもって天才と呼ぶのだろう。
では、われわれがその状態を獲得するには、と考えたとき、技能的には遠く及ばずとも、科学的な認識によりその世界に近づくことは可能であると思う。
やはり量子物理学的世界観は全てのベースとして要請されるしかない。

これまでわたしの抱いてきた彼について、いや彼を巡る印象~感想である。
わたしもモネの一ファンであることは間違いない。
それにわたしは、あまり論理で突き進むだけの現代美術には関心が寄せられなかった分、モネの快感がまだ瑞々しいまま残っている。
ただわたしの個人的な趣味で、モロー、バルテュス、ボッチョーニが大好きトリオなのではあるが(笑、、、。
それは仕方ない。
モネは見る度に、いいなあ~っと、ただ快楽に浸れる画家である。
初期の頃の硬質な感じの絵からして好きだ。
何だかわたしは(も)、印象派が好きなんだと今更ながら自覚するのだった(爆。
今夜はじっくりモネ画集を眺めて寝よう。
ラベル(モーリス・ラヴェル)の「水の戯れ」でもかけて。そうだその後に、「マ・メール・ロワ」と「亡き王女のためのパヴァーヌ」を繋げて、、、ZZZ(笑。
