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モネの快楽~快眠

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「散歩、日傘をさす女」は数パタンある。恐らくこれが美術の教科書で観たものだ。
もっと派手で煌びやかで、色彩がビビットなものがある。
ちなみに、その華やかバージョンの方は傘の柄が描かれていない。
もう、光と渦巻く色調と風を描くのに夢中で、そんな細かいモノなど描いてる場合じゃない、とばかりの勢いのある絵だ。
ただ、教科書にあったのは、こちらか、、、今では調べようもないが。

モネという巨人を書かないできたが、書くとなるとなかなか厄介である。
セザンヌのように考えさせるタイプの画家ではなく、寧ろ考えさせない画家であるか。
彼のある方向性を考えに考えて展開してしまった絵画がその後の前衛現代絵画でもある。
ひとつ観念的~思想的なネタが分かってしまうと、もう面白くないというものは多い。

モネは、考えてしまう前の状況で描こうとした。
題名はついているが、その「場」そのものを描いているとしか謂えないような絵である。
中心があるようで、なく、主題はあるとは謂え、それが切り離されてはいない。
一気呵成に捉えたもの~ことを描き切る。
結局、その「場」の本質を掴もうとするとき(勿論モネはそんなことは言っていないが)、説明的な配慮を完全に捨てる。
直覚したその事象の全体性を取り込もうとする運動そのものとなる。
そんなリアリティ~写実なのだ。
リアリティを現す際に傘の柄など結果的に必要なかったりする。(あくまでも結果的に)。
しかし、それを論理的に意図的操作で省略したりし始めると現代美術の頭でっかちになってしまい、面白くもなんともなくなってゆく。

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モノは場のエネルギーとして励起した姿である。
そのエネルギーそのものを鬩ぎ合いつつ描きとろうと愉しく格闘するモネ。
そこに概念的な説明の枝葉をくっつけていってしまうと、だんだんエネルギーが失せモノそのものの姿~運動が形骸化してゆく。
まさにプラトンのいうイデアに対する影みたいな絵になっている。
そう残像みたいに虚ろなものになるだろう。
それに比べてモネの鮮やかさときたら、、、。

われわれが絵を描いていると、描くうちにどんどんそちらの方向に向かって行ってしまう。
まるでエントロピーの法則みたいに。
そして観念的に略してみたり止めてみたりすると、とてもわざとらしく心地悪い。
やはりモネみたいに快活に活き活きと(ネゲントロピーそのものに)描ければとっても気持ちよいはず。
彼は、ずっと目が観えなくて手術か何かで急に眼の見えた人になりたい、みたいなことも言っていた。
赤ん坊にとっての外界みたいな光の渦を生々しく体験してみたい。
やはり、はじまり、、、これが重要なのである。
何故か?(われわれはすべからく生と死に昏く、その間は言語的な概念に縛られ続ける)。
われわれは気が付いたらこのように見えてしまっていたのだ。
まさに、ことばの獲得に同期するように、、、。
そうなると、もう知ってしまった以前に遡行は原理的に不可能となる。
しかしモネは例外的な芸術的な鍛錬と意思でセザンヌが言ったように「目そのもの」になってしまった(ようだ)。
それをもって天才と呼ぶのだろう。
では、われわれがその状態を獲得するには、と考えたとき、技能的には遠く及ばずとも、科学的な認識によりその世界に近づくことは可能であると思う。
やはり量子物理学的世界観は全てのベースとして要請されるしかない。

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これまでわたしの抱いてきた彼について、いや彼を巡る印象~感想である。
わたしもモネの一ファンであることは間違いない。
それにわたしは、あまり論理で突き進むだけの現代美術には関心が寄せられなかった分、モネの快感がまだ瑞々しいまま残っている。

ただわたしの個人的な趣味で、モローバルテュスボッチョーニが大好きトリオなのではあるが(笑、、、。
それは仕方ない。
モネは見る度に、いいなあ~っと、ただ快楽に浸れる画家である。
初期の頃の硬質な感じの絵からして好きだ。


何だかわたしは(も)、印象派が好きなんだと今更ながら自覚するのだった(爆。
今夜はじっくりモネ画集を眺めて寝よう。
ラベル(モーリス・ラヴェル)の「水の戯れ」でもかけて。そうだその後に、「マ・メール・ロワ」と「亡き王女のためのパヴァーヌ」を繋げて、、、ZZZ(笑。

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色々あった日だ

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今日は大安であった。

早朝、公園でゆっくり読書し、昼過ぎに女子美に行ってみたらアートミュージアムで何かやっていることを知る。
寄ったらすぐに帰るつもりが、中国の山水画家の絵の展示であった。
わたしの守備範囲外であったため、サラっと眺めそのままホントに久しぶりに学食に行くことにした。
5年ぶりくらいか、、、。
ここの学食はとっても広い。
以前、二日連続で仕事で来たことがあった。
もう随分昔に思える。

ここのところ駅蕎麦も含め、蕎麦に凝っている。
選択肢がただの蕎麦とキツネとタヌキだけだったので、タヌキにした。
アート系女子大生に混じり、一人蕎麦をすすった。
割と近くで外国の留学生?がカレーうどんを食べていた(流石にヨーロッパでは食べられないだろうしな~。)
(それがどうした?)
なかなか旨かった。
値段は学食だと普通安いものだが、特に安くも高くも感じない(わたしの大学の学食はメッチャ安かった(笑)。
ただ女子大だけあって?、量は少なめ。(わたしの後ろの学生は大盛を頼んでいたが、分かる)。

わたしが最近見つけ、朝しつこく通い始めた蕎麦屋は朝だけサービス価格になっていて天玉蕎麦がとってもリーズナブルに食べれれる。まあ、こちらはダンプの運転手の集まる男臭い環境であるが。いまのところここが一番気に入ってはいる。結構旨いし。

女子美に朝から来れない。それに朝から学食やっていたかどうか、、、今度確認しよう。
(わたしのところではやっていた)。


帰ってからビデオデッキの容量空け作業。
デッキ本体と外付けHDの二つでやり繰りしているが、かなり厳しくなってきていた。
観ないで消すのも心残りであるし、Blu-rayメディアに片っ端逃がした。
ほとんど映画だが、科学系のドキュメントもある。複数回観るかどうかは、自信ない。
だが、面白い部分が少しでもあるかも知れず、取り敢えずとっておこう。
が、時間はどうしてもかかる。
ここで何より注意したいのは、以前コピーしたものとダブらないことである。
すでに10タイトルくらいそれをやってしまっている(痛。
NHKは再放送が多い。同じ「いきものがかりライブ」を2回もコピーしたときは情けなかった(怒。

ついでに映画を一つ見るには見たが、これがまた酷いもので~途中からは早回し、日本映画は事前に評価をたくさん見て、そのうえで見るかどうか(直ぐ消すかを)判断することに決めた。
くれぐれも愚にもつかぬことに自分の貴重な時間を吸い取られないよう心がけよう。
ちなみに、今日コピーした「アウトレイジ」は楽しみだ、、、(カット版かな~)。


娘たちと昨日雨で出来なかったワークショップをすぐ近くの公園でやってみた。
周りの遊具が気になり、遊ぶ体制が強すぎて、事前の心構えを作ることが出来ず、ただ形だけやるにとどまった感が強い。
感想を聴くと、ちょっと不安だったという答えに、少し手応えは感じたが。
(もっと心細さを用意しないといけない。次回はそうしよう)。
後は、遊具で遊び、虫を発見して(と言っても木登りするカメムシの模様と木肌が同じなのを知って)驚き、駆けっこをしてから5時のサイレンで帰った。
不思議に、5時のサイレンが鳴ると、どの子も蜘蛛の子を散らしたようにいなくなる。
これがわたしが今日一番驚いたことか?


月齢8.9

ホントに久しぶりに月を娘たちと見た。
欠けてぼやけるあたりのクレーターがとりわけクッキリ観えて気持ち良い。
相変わらず表情豊かだ。
(いつも同じ面しか見せないとは言え)。
これが静かに遠ざかって行くというのは、、、感慨深い。

だが、月だけではない。
このままの速度で宇宙が膨張し続ければ、われわれの子孫は夜空に星なんて見ることすら出来なくなるはず。
今、この時代に生きているから宇宙についての様々な思いを巡らすことも可能だが。
漆黒の闇しかなければ、空を見上げることもなくなるだろう。



シスレーに触れて

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シスレーについては色々と語れる程、観て来た画家ではない。
確かに画商でも評論家でもあるまいに、多くの作品や資料にあたる機会もないものだ。

大概、他の画家についても、絵をたまたま数点~数十点観ることで、(心地よい美に浸って惹かれてしまうなどして)それがその画家のイメージとなってきた。
ひとつの絵のなかにその画家の強烈な個性や創造性が渦巻いており、そのエッセンスを感じ取れれば彼~彼女のイメージが自分の内に生成されてゆく。

、、、考えてみると印象派には「風景画」の傑作が多い。
かつてない風景画が沢山生まれていることに気付く、、、
みんなチューブ絵の具をもって外に出て、五感全解で自然の神秘に、言葉~伝統を捨てて向き合ったのだ。
そこから生まれる生の風景の輝きが感じられる。
(生チョコレートでも生ビールでも、なんでも、生のつく美味しさである)。

わたしのなかでシスレーは、数少ない作品からイメージが作られている。
彼の絵では幾つかの「風景画」しか知らない。
如何にも印象派という風景画だ。
とても穏やかで美しい。
はっきりと分かる流麗なタッチと優しく鮮やかな色彩が心地よい為、血圧もスッと落ち着く(笑。
でもそんな絵である。
それだけで充分。
これだけ心地よい風景というものは、滅多に観れないことに改めて気付く、、、。
見直してみてつくづくそう思う。

その風景を観て、他に何かを探す~探る必然性も感じない。
シスレーを研究したいなどという気持ちも微塵もないため、気に入った風景画がシスレーそのものである。
絵の画題など知らず、シスレーで総称している。
実際、シスレーは「印象派の風景画」を極めた人のようで、生涯の作品のほとんどが風景画であったという。
かのピサロも認めた画家である。
作風もしっかり安定しており(恐らく変化も然程せずに)達者な印象派の手法で、次々に風景画を描いていった。
安定というより、しなやかで安らぐという感じか、、、。
一種の焦慮の念や郷愁も覚える。
そこに無性に惹かれる。何だろうかこのときめき。
特に、水辺(河)のある空気の広がった風景が好きでたまらない。

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はじめの頃はとても裕福な家庭の息子であったため、絵が売れなくても何の不自由もなかったようだ。
シスレーの活躍した当時、印象派はまだ売れる段階にはなかった。

後に 普仏戦争と父親の破産のため困窮することになる。
後援者が現れ何とかやって行けたようだが、、、。


今日、画集で見直してみて改めてシスレーが気になって来た。
作品展があったら、何があっても行って、じっくりとタップリ時間を費やしてその世界に触れたい。

美術教室準備

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今日をいきなり第一回目とした。
まだ肝心の生徒さんは間に合わず、娘二人と開始しようと、、、しかし。
彼女らもやることがあるし、まだそのつもりになっていないということもあり、プレ教室としてワークショップをやることにした。
今日は宿題をしてからパーティのお買い物があり、わたしもついてゆくことになっている。
その後、外へ。できれば公園で、、、。
何?次女は先にお風呂に入ると、、、。
(ゲームを始める前に何とかしよう)。


ワークショップは何かというと、二人ペアとなり、片方が目を鉢巻きで隠し、もう一人が道案内をする。
極めてシンプルなもの。
手を繋ぎ、道の凹凸などはしっかり目隠し相手に教えて歩く。
ヨガのひとつの方法らしい。
これはわたしが大学時代に外部講師から教えてもらったもので、非常に面白かった経験がある。
何の授業でやったかは忘れたが。

目が見えない側は、「光と影の変化」や「風の向きや強さ」、耳に入って来る「音の方向や響き」、「地面の微妙な硬さ柔らかさの感触」などをいつになく敏感に感知~感得する。
そう、それが思いの外劇的変化だったりする。普段はオブラートで包まれたかのようにしか感じないことが。
鮮烈な刺激で感覚能力が上がったかのような印象を受ける。
いや実際あがっているはず。
日頃視覚~概念(悟性)に余りに頼り過ぎていることからくるぼんやりした感覚から抜け出る、かなり手軽で効果的な試みの一つと想える。
(その講師の方は有名な物理の先生だったらしいが、名前は失念した)。

モノの観察、モノに関わってゆくには、こちら側の感覚が研ぎ澄まされているに越したことはない。
(なるほど、物理はかつてないほどの微細でデリケートな観測を強いられている)。
少なくとも知覚の幅が(心理的にでも)広がっていれば、その分モノが瑞々しく捉えられることが期待できよう。


、、、と思って表に出ようとしたら、タイミングよく大雨がいきなり降って来た。
(逆シンクロニシティー、、、そんなものがあるか?)
どうやら、、、わたしが絵を描こう、絵の準備をしようとするとこれまでも何か決意を挫くことがあったが、、、
結局、長女の提案通り、来週の木曜日から開始することとなった(残。
考えてみれば、家族の中でやるより、生徒がいた方が背筋もしゃんとする。
親子だけでやるのは、恐らくピリッとしない。
他者がいることで教室らしくなるというもの。 


しかし愚図つく天気の続くこと、、、。

天体望遠鏡もず~っと覗けない、、、。







カメが落ち着く

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青いデカいタライに移り住んだカメであるが、漸く落ち着き、自分たちの住処という気持ちになったようだ。
動きもゆったりしてきて、餌をよく食べるようになった。
(以前、嵐の日に水槽ごとテラスに出しっぱなしで忘れていた時、かなりのストレスをためたのか、家に入れても随分激しくふたりで手足をばたつかせたり~顔を神経質に互いに突っつき合ったりしたことがあった)。
結構、環境に対しナイーブのようなので、こちらも一安心。

カメは大きくなるとペットショップの店員にも言われたが、その後も遊びに来た親戚にも心配そうな表情で「大きくなるけど、、、」と何度か念を押されてきた。
確かにみるみる大きくなっている今日この頃、、、(笑。

昨年6月に買った時は3センチ程であったが、今は16センチである。尻尾と頭(首か)を伸ばせばもっとか?
やはり初めに謂われたように30センチにはなりそうだ。
だとすると、新しく取り替えた青タライでなんとかなる。
二つの亀島を大きな亀島一つにでも置き換えれば、中で泳げない訳ではない。

顔つきは変わっていない。
人ならそれだけ成長すると顔も変わって来るが、ほぼ同じである。
長女のカメは少し大人しめの穏やかな顔で、次女のカメは結構、文句のあるようなきつめの表情をしている。

今もそれぞれの亀島に乗って首を伸ばして外界を窺っている。
好奇心があるのか、ただまっしぐらに歩きたいだけなのか、外に出すとひたすら速足で前方に進んでゆく。
かなり速い。
先ほど少しだけ、お散歩させたが、どうなのかこんな風に時折歩かせた方がよいのものか。
亀島に登る際に、しょっちゅうロッククライミングになっており、そこで筋力はつけている気はするが。

動きを観ていると、ホントに飽きないひとたちである。
癒される、、、。


今週の土曜は、次女のお茶会~ハロウィンパーティなのだそうで、そのなかにカメとも遊ぶコーナーがあるらしい。
学校のカメと家のカメが丁度同じくらいの大きさで、以前彼女らが押し寄せて来た時も、カメに馴染んでいた。
その時は、会の名称は「女子会」であった。
「お茶会」と「女子会」とどう違うのかは分からない。
メンバーも同じだし、、、。
お菓子やケーキや紅茶は同じように用意している。
恐らく遊ぶ内容が微妙に違うのだろう。
今度聞いてみたい。


取り敢えず、カメも落ち着き一安心。
餌が残り少なくなってきたので、次女と一緒に買いに行こう。




セザンヌ

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セザンヌを観る度に頭を過るのは、「達人」ということばである。
彼の絵には、余白がそのまんまのこされているものがある。
余白と言っても背景とかではない。
人物の頭部や体~衣服である。
然も余白があってしっかり凄みのある絵となっている。

もしかしたら未完なのかも知れないし、もうこれ以上手を入れる必要なし、と謂って筆を置いた絵かも知れない。
だが、その絵の存在感は途轍もないものだ。
こんな芸当の出来る画家はそれ程いない。
日本の文人画などにはよくあるパタン~思想ではあるが、、、西洋の油絵である。
(絵に対する基本的な構えや画材そのものが根本的に違う)。
まずアングルに出来るはずはない(笑。
(あくまでも素描~エスキースとかは別として)。
アングルに限らず西洋画は偏執狂的充填の世界である。
ゴーギャンのように金がなくなってちょっとばかり絵に余白が残ったという例もあるにはあるが。

どこかセザンヌは孤絶している。
孤高の人である。
全ては円筒と円錐と球で構成されている、という彼の絵画論のなかの言葉があり、とても印象的というか学生時代にびっくりした概念がある。
先輩と絵の何処の部分が球で円筒で円錐か絵を探ってみたことがあった。
そうしているうちに、ちょっとそういう単純なパズル~構成を越えたものだという感じがとてもしてきて徒労感を強くしたことがある。

セザンヌのもっともセザンヌらしい絵の存在感は、そのタッチからくると思う。
アングルにタッチはない。(タッチは絶対残さない)。
タッチは厳禁という画家は結構多い。
(アングルは子供の頃は、ダリとともに凄い上手い画家として尊敬していたが、セザンヌに触れてのっぺりしたビニール製品の制作者のような感覚しか持てなくなった)。

やはりこのタッチが達人なのだと思う。
またタッチを積極的に造形そのものに反映させるひとは、そのタッチがそれぞれ個性的で異なる。
画家~身体性が違うのだから当然のことだが、それに見入るととても面白く示唆的だ。
ゴッホなど一つの絵でそれを実に繊細に使い分けている。
非常に多彩で変幻自在な使い方だ。

それに比べるとセザンヌのタッチは見て分かるゴッホのようなシステマチックで知的なタッチとはまた違う。
物凄く確信に満ちた豪放なタッチであることは間違いないのだが、余白も含めて何であろう?
天才の意匠であるか。

そういってしまえばそれまでである。
ただ、事象を日常的な概念~名称で見てしまうと、例えば大事な個性を示す顔だけはしっかり塗って体から離れた部分についてはその重要性が薄れるなどの塗り分け、が無意識的に起きてしまうだろうが、セザンヌの「全ては円筒と円錐と球による」という観念に沿って描くと、何処が有意味な中心とかいう分け隔ては少なくともなくなる。
全ては全く異なる形成力のもとで生成される。
これはひとつ、とても肝心なところだと思う。

ともかくこれ程、絵を観る快感の味わえる画家もいない。
恐らく、今流行りの何でもコンピュータで解析する流れで、この円筒と円錐と球による絵の構成とか、タッチの法則などを観てみても、何かが分かるとは思えない。
凄く潜在した造形への必然性を感じる。
全く違う文法で形成されたものがたまたまわれわれの知っている世界に重なっているような危うさと快感がある。

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絵画教室始動、、、

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依頼があり、絵を教えることとなった。
と言っても、これまでも教えて来たのだが(笑、自宅で教えるのは初めてである。
家では、ちょっとした塾を学生時代にしていたくらいである。
ホントに久しぶりだ。

自分も描き始めたら間違いなく、のめり込んでしまう。
それで描かないでいたのだが、、、。
日々どうにもならないルーチンで占められ(雑事と育児であるが)、ブログの時間もほとんど取れないでこれまできた。
そこに映画を観るとやりくりが、かなりキツイ(爆。
勿論、観たくて観るのならよいが(早く観たいのが「ブレードランナー2049」だが)、時折何故だか嫌々ながら見てしまったという後味の悪い映画がある。
自分で見ておいてその時間の空費に物凄く腹が立つ。


少し「時間」を考え直したい。
その一日のなかのどこかに「絵」を入れたくなったのだ。

育児との絡みではあるが、最近娘たちも暇さえあれば「ゼルダ伝説」(ゲーム)に次いで絵を好き勝手に描いている。
本当は、これくらいピアノを自主的に練習してくれたら有難いのだが、そちらはなかなかやらない(テコ入れがそろそろ必要だ)。
その流れをうまく編成し、彼女らも絵の教室に入れてやっていこうと思う。
育児とわたしの創作も合流した濃密な時間が生まれればかなり良い。
(どれだけ良いかはやってみなければ分からないとは言え)。

丁度、長女が今回の夏休みの課題で描いたクレヨン画が入選したので、展示会に行くことになっている。
前回の入賞の時は授賞式に保護者一名だけの同伴であり、わたしは行けなかったのだが、今回は入選なのでお気楽に家族で作品展に赴ける。
少し表現が繊細過ぎた感があり印象を弱くしてはいたが、次女の作品の出来も今度ばかりは良かった。
ミニトマトのリズムがかなり愉しく美味しそうな絵であったのだ。だが、丁寧な絵作りに気を取られ過ぎたなと思う。
もう一つは題だ。長女は「ひきうすのたいけん」であり、伝統文化推奨に乗った感があった(笑。
だが、次女は「ミニトマト」である。余りに押しが弱かった。勿論表現が強くもっと豊かであれば目にも留ったはずだが。
かなり次女は残念がっていて絵に拘りを持ってきている。
長女はもともと豪放(日常ではひどく神経質)なところがあり、そのまま進めていったら面白そうだ。

娘と生徒さんと一緒に絵をわたしも描くことにしよう。
(これまでも描こうと思った時はあったが、そんな日に限って面倒な雑事が入ったり娘を病院に連れて行くことになったりしていたものだ)。
教えるのと創作はほとんど同じ次元で物を観ることになる。
教室にしてしまえば、今度はやるしかない。
丁度良い機会と謂える。


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ちなみに長女が今、一番描きたいのはロバらしい。
成る程、移動教室も必要か、、、。


花のお江戸の無責任

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1964年
山本嘉次郎 監督・脚本
田波靖男 脚本
萩原哲晶、宮川泰 音楽

植木等 、、、古屋助六
谷啓 、、、白井村の権八
ハナ肇 、、、播隋院長兵衛
草笛光子 、、、女房おぎん
団令子 、、、揚巻
池内淳子 、、、小柴
藤山陽子 、、、お菊


今朝、デッキに入っていたので、観た。多分、今回のBSプログラムでは最後の「無責任シリーズ」か。
もう少し観たいところだが、、、
すでに「ニッポン無責任時代」「ニッポン無責任野郎」「日本一のホラ吹き男」という快作を立て続けに放送してくれている。
これでも大サービスだと思う。
そしてとうとう江戸時代にまで来たか、と思ったら、、、(正直、題名を観て面白そうと謂うより、流石に不安になったが)。
余りに自然にあっけらかんとボーリングやっているので、よもやと思ってしまった。
江戸時代のボーリングについて、うっかり調べてしまった、、、もしかして伝わっていたかとか(爆。
そんな調子で、今回もテンポ良く歯切れ良く展開してゆく。

日本の侠客の元祖といわれる「幡随院長兵衛」を知っていればより入りやすいとかいう作品ではなく、わたしのようにそれを知らなくとも何という事はなく楽しめる。
なんせ、彼の一家に拾われた古屋助六たちがボーリング場の用心棒を命じられたりしているのだ(笑。
(史実~芝居には忠実に、長兵衛が若い者の揉め事を口実に旗本奴の頭領に呼び出され、殺されるのを覚悟で独り乗り込む流れなどは引用されている。ただし、この映画では、殺されずに町奴の頭領を引退するだけだ)。

のっけから「助六殿、どうしても(父上の)仇討に行かぬのですか?」(母)に対して、「でもねえ~背中の傷だけでは条件が悪いですよ~」(助六)と渋っていたのに、どうやらその敵がお江戸にいることが分かると、にわかに「こんなことでもなければ江戸なんてなかなか行かれないからな~」と満面の笑顔、母から貰った大金を懐に入れて「それでは母上、父の敵を花のお江戸でぶわ~っとはらしましょう!」ときた。
もう最初から飛ばし放題。

謂うまでもなく江戸ではもうハチャメチャである。
吉原での豪遊ぶりは凄まじい(笑。
ともかく、今回の植木は金を湯水みたいに使いまくる。
その都度、文無しになるが必ずどうにかなる。
ここが羨ましい。
相棒の権八は花魁の小柴を見受けするために助六に寄り添い金を掠めてけちけち貯めていく。

ここでの谷啓はこれまで見たなかでは一番面白い。
特に、親分が旗本奴の頭領の奸計によって殺されたかのかどうか女将さんをはじめ組の者たちが皆で気をもんでいる最中に、自分の財布の事で悩んでいたり、助六は吉原に戻っていたりの無責任・無関心ぶりにはホントに笑える。
まさに無責任名コンビだ。

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女優陣も花魁姿でなかなか堂に入っている。
「無責任シリーズ」では、一番華々しい上に、植木が侠客の世界に入ってしまったことから、やたらと調子のよい啖呵を切る。
これが小気味よい。このお江戸ならでは、というところだ。この時代の話法が随所に活かされている。
そして勿論、例の歌である。
またこれが良いタイミングでミュージカル調に入って来る。
曲調はいつも通り。キャッチーで粒ぞろいだ。
また、ここでも植木は女性~花魁にモテモテである。
花魁、揚巻のお陰で仇討ち相手も特定出来、その手下もろとも歌舞伎調に余りにあっさりと倒してゆく。
もうちょっと殺陣をやってもよかろうにとは思ったが、助六の圧勝である。

最後は吉原全員から拍手喝采でご機嫌この上ないお調子男である。
そして、仇をうったのだし、国に帰るのかと思いきや、何と播隋院長兵衛引退の跡を継ぎ組の親分におさまってしまう無責任ぶり(笑。
しかも一目惚れの吉原一の花魁、揚巻とも夫婦になる。
さらに権八もめでたく同郷の花魁(No.2の)、小柴と結ばれる。

華々しい大団円である。
というかドンちゃか騒ぎで終わる。

こうでなくちゃ、という感じか、、、。


日本映画は小津、溝口、岩井、、、あとは作品によってだが、、、確かに「シン・ゴジラ」「寄生獣」などよいものは幾つもあり、本シリーズなども特に異色で傑出したものだと思う。
しかし、それ以外の映画となると、高品質のアニメーション映画以外ではキツイものやピンとこないものがとても多い。
何故だろう?、、、やはり洋画の方に走りたくなる。






ゴーギャン

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”D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”

後期印象派の激しい(または光学的に計算しつくされた)タッチと短く素早いまたは点描の配色による作風に対し、ゴーギャンの作品は、非常に確信を持った輪郭内の平面塗り(塗り絵)で構成されている。
ある意味、印象派の都会の煌びやかなカフェの光景に対する挑戦にも思えるところだ。
この手法はブルターニュから自覚的な方法となり身体化されてきた。

そしてタヒチに渡り、そこでゴーギャンは独創を完成に導く。
その地で彼は最期を迎えることとなるが、苦難の連続であった。
経済的にも貧窮の極みで病気でも医者にもかかれない上、絵の具・カンバスにも事欠く状況であった。
更に追い打ちをかけたのが妻の元に残して来た娘アリーヌが亡くなったという知らせを受ける。
彼の精神は破綻をきたす間際まで追い詰められ死をはっきり意識するが、死ぬ前に全てを注ぎ込んだ作品を残そうとする。
とても複雑な構図の絵だが、右から左へと読むことになる。
青い偶像は度々彼の絵に登場する。ゴーギャンにははっきり見えるヴィジョンのように。

『われわれはどこから来たのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへ行くのか』

われわれにとっての永遠の問いであろう、、、。
そして藝術にとっての、、、。
(哲学でも物理学でも問われているが、勿論答えは出てはいない。宗教では最初からそれぞれの宗派で決まっているようだが)。
この絵の右端の老婆の近傍にいる白い鳥は、ことばの無力を示しているという。

この生涯をかけた大作を完成させた後に、彼は自殺を試みる。
、、、それは未遂に終わった。


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『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』

証券仲介会社を辞めてパリを去り、家族を捨て画家として生きる決心を固めた。
彼はルーアンを経て、ブルターニュにまでやって来る。
そこには、死者の国の扉もある森や巨石や泉や妖精や天使の織りなす物語が藝術的関係を促す力に充ちていた。
お金の蓄えはすぐに底をついたようだが、生活費を抑えられる環境でもあり、ゴーギャンの噂を聞きつけ若い芸術家も集ってきたという。(絵はまだ売れないが、新しい絵を描く画家として玄人筋では話題のヒトであったらしい)。

天使とレスリングをするヤコブの幻影で有名な絵であるが、異なる世界を一つの場所に同居させることに成功した画期的な絵かも知れない。
構図的には、茶色の大きく弧を描く木がふたつの場を繋げている。
こちらから闘いを眺めて。いる女性たちは、ブルターニュの伝統(ケルトの文化)を継承した衣装~白いコアフという帽子を付けている。

この時期にゴーギャンらしさ~形の単純化と色彩の独創性、そして平らな塗り方(べた塗とは違う)と神話的な物語性を支える構図・構成がはっきり見て取れるようになる。

同時期の「黄色いキリスト」もかつてない磔刑の図となった。
外界に対して余りに開かれた、伸びをしているかのようなのどかな磔刑のキリストはゴーギャンにそっくりである。
その下にはやはりコアフを被った普通の女性たちが日常の時間を過ごしている。
きっとブルターニュとは、そうした場所であるのだ。
そしてゴーギャンはその手紙などから充分に察することが出来るが、自分の画家としての才能を確信する。


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『ルー・カーセルの雪景色』

わたしは、この時期のゴーギャンが好きで、見惚れてしまう。
生まれ故郷(地元)のパリ時代の初期の絵は、伝統的手法のなかにゴーギャンの身体性が窺える。
これからゴーギャンになる前の繊細な震えが感知される絵だ。

証券仲介会社でかなりの高給取りで裕福に暮らしていたらしい。
この時期、結婚もしてその後5人の子供にも恵まれる。

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『木製のジョッキと金属製の水差しのある静物』

こんな最初期の絵もとても味わい深い。
飾っておきたい絵だ。
風合いがとても心地よく、またこれをゴーギャンが描いていたということでより感慨深いものとなる。


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『パラウ・アピ』

タヒチらしい=ゴーギャンらしい絵である。
彼は常に、土地~場所の力から創造性を得ていた。
その場の励起を身体化していた。
そこから原始的で素朴な美が創出されたのだ。

この構図で何点ものバリエーションが描かれている。
量感~Massiveと、単純化された色面が心地よく美しい。
海を示す僅かなさざ波の表現が素晴らしい。

波の表情はこのあたりの絵から、ほとんど柔らかい抽象的パタンとなる。
それも大変神秘的で美しい。


彼は、世間が認める以前に「自分が偉大な画家である」ことをはっきりと自覚していた画家であった。
それは正しかった。


女が眠る時

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WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING
2016年

ウェイン・ワン 監督
ハビエル・マリアス原作

ビートたけし、、、佐原
西島秀俊、、、清水健二(作家)
忽那汐里、、、美樹(佐原と共に暮らす美少女)
小山田サユリ、、、清水綾(健二の妻、編集者)
リリー・フランキー、、、居酒屋店主
新井浩文、、、石原(刑事)


何と謂うか、、、作家である清水健二の妄想(夢)が現実と入り混じって進行する映画である、、、
時折侵入して来る剃刀と血の生臭い妄想などが、現実の世界と上手く繋がれてゆきミステリアスな雰囲気が醸し出されてゆくのだが、それがなければこれはほとんど何もなかった休日のホテルに缶詰め状態になった作家の悶々とした一週間に過ぎない。
やけに雨天が多く、リリカルさの微塵もない鬱陶しい空気感の充満するなか、ストレスも高まるだろう。
しかし後にこの滞在での体験がもとで3作目の小説が生まれたようだ。
その妄想を駆り立てたのが、ふとプールサイドで出逢った歳の差カップルである。

しかし、佐原を虜にし、健二を幻惑し、怪しい(登場人物全てが怪しいが)居酒屋店主もずっと拘り続ける魔性の美少女美樹(忽那汐里)と、かなり大胆に肢体を見せて頑張っている妻の清水綾(小山田サユリ)両者共に、ほとんど魅了されない~納得できないため、筋書きでその方向で乗せようとしているのは分かるが、どうにも噺に入り込めず、共感が出来ないまま最後までいってしまった、、、。

この物語は、設定上たまたま出逢ったうら若い女性が飛び抜けて神秘的で魅惑的(蠱惑的か)であったことから始まる。
しかしあの娘に対する清水健二の尋常ではない惹き込まれ様に、、、どうにも共振しかねるのだ。
親子以上に歳の離れたペアがプールサイドにいようと、そんなこと大きなお世話であり、それにいちいち干渉してしてきて付き纏う等、完全な犯罪行為以外の何ものでもない。何処の馬の骨だ、この戯けが!というところだが。
それでもこころを奪われ引寄せられるような相手というならそれ相応のモノでないと、、、。
(他に女優はいなかったのか、、、?映像の撮り方・魅せ方の問題も大きい)。

それだけではなく、ビートたけし、西島秀俊、リリー・フランキー、新井浩文の個性派芸達者の誰もが持ち味が上手く発揮されていないし、引き出されていない。みんながみんな不完全燃焼に終わっていて、活き活きしていない。
まあこの中では、こんなリリー・フランキーもありかな、、、とは思ったが。
西島秀俊はNHKの朝ドラで宮崎あおいと共演していた頃から見ると随分キツイ、、、別にそれと比べる必然性などないとは言え。
どうも、西島が一番のミスキャストに思えてくる。またその役がリリー・フランキーの方が合っている気がする。
だが、それでは少々怪しすぎるか?
それらの点で、とっても座り心地のよくない鑑賞となった。

プールサイドは、水と光の作用もあり殊の外、物も女性も魅惑的に見える場のはずだが、そんな感じは微塵もしなかった。
つまり、キャストと撮影・編集、それから脚本・演出に問題がある。
別に現実と妄想だけでなく時間系も錯綜して渦巻く映画などかなりあるが、グッと引き込まれる作品だって少なくない、、、。
だが、これについては厳しい。

WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING001

出てくる人々がみな芸術家肌のようだが、いまひとつ深まりも広がりも香りも感じられない。
佐原の「美樹を10年もずっとビデオに撮り続けている。」
然も「常に上書きで」というところなど、現代(前衛)ビデオアーティストか!とも一瞬思って少し前のめりになったが、、、。
後で、良いものはみな保管してあるって、、、違うじゃん!?普通のお父さんか?である。

あの娘の感情的?な行動もいまひとつ脈絡に生きてこない。
セリフによる説明など当然ない方がよいが、動きのコンテクスト上の流れに唐突で無軌道なだけで終わっている。
彼女のこれまでの成育歴が独特なものであったという背景は充分匂わせており、恐らく彼女は新しい自己編成の為、まず解放されたい一心の身悶えであったか、、、とも思えるが、何か物足りない。

この娘が殺されたのか失踪したのかどうしているのか、分からないのはそれでよいと思うが、こちらもさしてそんなことはどうでも良いところなのだ。
そう言えば、あれほど娘に取り憑かれた清水健二も特に血眼になって探すようなこともしない。
妻も作家と浮気をしたのかどうか、定かではない。
佐原がその娘の不在にどう関与しているのかも実のところ分からない。

ただ、それらを知りたいとか想像してみる気が起きないのだ。
それを味わいたくてもう一度観てみようという気も当然、ない。

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そんな映画だ。

リップヴァンウィンクルの花嫁

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2016年
岩井俊二 原作・監督・脚本

黒木華、、、皆川 七海
綾野剛、、、安室 行舛
Cocco、、、里中 真白
原日出子、、、鶴岡 カヤ子
地曵豪、、、鶴岡 鉄也
和田聰宏、、、高嶋 優人
佐生有語、、、滑
金田明夫、、、皆川 博徳
毬谷友子、、、皆川 晴海
夏目ナナ、、、恒吉 冴子
りりィ、、、里中 珠代

岩井俊二らしく、ここでは何度もバッハの“G線上のアリア”、“主よ、人の望みの喜びよ”が流れる。
それがとっても繊細でリリカルな情景に合っていた。
3時間であったが妙な重みがない為、長くは感じなかった。

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まず最初からして皆川 七海は、SNSで知り合った相手とすぐに恋人同士になり、結婚する。
同時に、声が小さい為に教員が続けられなくなる。
SNSでは、文字のやり取りだが、現実は声のやり取りである。

極めて希薄な身体性によるコミュニケーションによって、日常が流れてゆく。
だから、確信や信念めいたもの、信じあうとかいった関係性も希薄で脆弱だ。

皆川 七海 は知的だが、芯がなく(わたしもない)、主体性に乏しく優柔不断で全てに受け身で生きている。
しかも、引きこもりの生徒相手にSNSで勉強を教員退職後も教え続けるなど、生真面目な性格であるから巻き込まれやすいことこの上ない。
そこへ、何とも如何わしい(怪し過ぎる)安室が蛇のように絡んで来る。名前がなんせ「アムロユキマス」、、、冗談か?
更に、もうどれ程の闇を抱え持ってしまったのか、という人格の里中 真白が現れる。
強烈な個性の彼らに七海は翻弄され巻き込まれてゆく。
確かに彼らにとって皆川 七海 はよいカモである(となる)。

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日頃からNSN、ネット情報に依存して生きていると、実生活における生の情報の抱える厚み~裏側に対する感覚に疎くなる。
そういった意味で世間知らずな(人の事は謂えないが)七海 は、癖の強い狡猾な安室にはいいように騙され続ける。
その裏を取ることをしないため(そうした習慣がないため)実に簡単に翻弄され疑うこともしない。
ちょっと疑問を抱き質問を向けても、契約ですからそこの部分はお答えできません、などと謂われるとすぐに引いてしまう。
(振り込め詐欺やネット商材等にひっかかり易いタイプだ)。
離婚に持ち込まれる流れなど、完全に受け身であれよあれよという間に飛んでもないドツボに嵌っていた分けだ。
ここでは、一方的に安室を信じてこれに乗ってしまった結果である。
だが、単にはめられたかと謂えば、夫のマザコン度とその母の悪辣さも知って早々に見切りをつける機会でもあった。
(しかし、それも自分で確かめたかと言えば、安室の誘導の上でのことだ。結局、七海は全て安室の仕掛けたフィルターを通してものを観ている)。

現実は、度合いの差はあれ、実に不確かであり、本当だと信じていたことが、全くの嘘であり、何が本当なのか定かでなくなる、そんな場面に遭遇することは少なくない。勿論、立場~言語によって見え方も全く異なって来る。
基本的に現実という幻想は、落とし穴ばかりである。
特に如何わしさ100%といった感の安室みたいな男に目を付けられ流され始めると、全てが「不思議状態」(七海)であろう。
里中 真白の底なしの闇にも、引き込まれたら七海などひとたまりもない。
まさに文字通りいくところまで行ってしまう。
だが、七海の徹底した無垢さ加減が、彼ら安室・真白の策謀や闇をある意味、凌駕してしまう流れでもあった。

ふたりとも、それには呆れていた。
真白は彼女の人の好い一途さに。
安室は、想定通り真白と七海が一緒に死んだと思い込んでいたため、普通に目覚めたときのその狼狽え様には笑える。
(安室のキャラは実に傑出していた)。

そして七海は、ちゃんと着地点を見出している。
声もしっかり出るようになって多少、逞しさが感じられるようになった。
これはきっと真白との生活と別れ、更にその母との出会いが齎したものが大きい。
そして最後まで彼女にとっては謎の「何でも屋さん」安室の不可思議さも結果的には彼女を救っていた。

印象深いのは、代理(疑似)親族のバイトで知り合った疑似家族のメンバーが、真白の葬儀に親族として自主的に参加していたことだ。
そうなのだ。
現実における関係性の希薄さが、あらぬ場所で少しばかり質量を帯びた結びつきを生む。


もう一度、ゆっくり見直したい映画であった。
キャストは、誰も素晴らしい。
特に綾野剛の如何わしさ、黒木華の生真面目な流され易さ(よく分かる)、Coccoの狂気とすれすれの闇の演技は素晴らしかった。
りりィも凄かった、としか言いようがない。



カメの家騒動

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カメの水槽の底硝子に亀裂が走った。
気付いたのは、二日前。
直ぐに替りのモノをアマゾンに注文した。
硝子はやはりキツイ。どうしても割れ易い素材なのだ。
重くて、ぶつからないよう扱いにも注意を払いながらの水の取り換えも大変で、ずっと難儀であった。
やはり割れが入ったか、、、。

下を覆うプラスチックの枠が頑丈で、水漏れは当分ないようだが、いざ漏れたらそれまでである。
早いうちに取り換えた方が無難であろう。
そこで今度は青いタライにした。(選択肢の範囲では、青しかなかった)。
よくあるタライだ。四角いもの。
最大の利点は、底に栓が付いていて水換えが楽な事。それに割れない。これも肝心なところ。
大きさはどれも今より大きい為、一番小さいタイプにした。それでもひと回り大きい。
(大きいものだと、大の大人が水浴びに悠々使えるとのこと)。

60L、80L、120Lの三種類から60Lを選んだ。
今日届いたものを見ると縦横は良いが、やはり深すぎる。
そのためカメたちにかなり圧迫感や閉塞感を与えないか、、、。
実際彼らを入れてみると、ずっと手足をバタバタしている。落ち着かない。
やはり環境の変化~悪化か?、、、に戸惑っているのが分かる。
カメはかなりしっかり目で見て生活していることは確か。
(とは言え、目が良いとは思えないが)。

これまでは透明で外が覗えたのに、気味の悪い青く高い絶壁しかない。
実際、彼らにとってどんな感じなのだろうか、、、。
ただ、餌を食べない。
ここ3食程だが、(ほとんど)食べようとしない。


基本的に慣れさせるしかないのだが、、、。
娘のアイデアで餌の時だけ、水替え時に臨時で入れていた今や狭くなった水槽に移動させて食べさせようということにしてみたが、ヒーターを入れると場所もなく、手狭感が半端ではない。餌にも食いつかない。
そこで少し大きめの洗い桶に移して様子を見たら、得意の相手の甲羅の上に乗っかる方法でいとも簡単に脱出して悠々と部屋を闊歩しているではないか。それは高さが浅すぎたのだ。
餌より何より、自由に開放的な空間を満喫したいのか、、、。
好奇心が旺盛なのか何なのか兎も角、真っ直ぐ何処までも歩いてゆきたがる。
前向きで後先考えない人々ではある。
(その為、外で脱出するとよく車に轢かれる)。

どうなのか、タライでも見通しは悪くても、そこそこの広さは確保されている。
水中からは確かに周囲が観えないが、亀島に登って首を伸ばせば外は覗える。
こちらとも顔は逢う。
やはりそのまま、底の深い青タライで様子を見て行こうということになった。
娘が言うには、硝子の面に映る自分の顔や姿と遊ぶのが楽しそうだったよ、と言う。
どうなんだろうか?

兎も角、様子を見ることにする。


ゴッホ

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「アルルの跳ね橋」は他に5点あるが、青と黄色の関係がビビットで美しく構図も絶妙なこれが一番好きだ。

他の絵はこれ程、色もタッチも突き抜けてはいない。
こんなにこの世離れして、明るくない。

復元された橋を観て、つくづくこの絵の絶妙な凄さが分かる。
この度外れた色彩(光)の明るさ、、、。


NHKの「日曜美術館」(別にNHKに好意はない)をぼんやり見ていて、ゴッホについてわたしも感じるところを幾つか書いておきたくなった。
ひとが話しているのを聞くと刺激を受ける。
特に日本では、ゴッホ、ルノアール、モネについては、一過言持っている人は多いと思う。
この3人の展覧会などに集まる人の数からしてそうである。
セザンヌもそうかも知れないが、多少とっつきにくいところはあるはず。
ゴーギャンにしてもそうだ。
どちらかと言えば、ルソーなどが好きだという人の方が多いか、、、どうか?

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配色とタッチが極めて独創的でしかも高度に融合している。
これだけ思い切ったことをしていて破れ目が感じられない~とても自然に見える。
ここが凄い。
少しでも真似をすると気がつくが、高校時代になど一度はこんな描き方をしてみたいと思ってやってみると、こうは明るくクリアに落ち着かないことが分かる。
油絵である。アクリル画ではない。
乾かない為にどうしても分厚いタッチで絵の具を置いてゆくにも混ざって来てしまい、色が濁る。

特殊なメディウムを使ったという話も聞かない。
どう見ても乾かしながら悠長に描いた感じはないため、逆に凄い高速で筆を運んだか?(それでも混ざるものは混ざる)
沢山の筆とパレットの扱いにも気を使い、混色・混濁を避ける絶妙な方法を編み出していたのか。
タッチ、筆致の使い分けがともかく尋常ではないのだ。細心の注意を払って確信をもって引いている(又は置いている)。
水墨画家の筆運びに近いのか、、、。

所謂、情熱とか狂気とか炎で描けるような生易しい絵ではない。
一気呵成に描いているように見えるとしても、研ぎ澄まされた方法と技巧で描いている。
大変冷静に。知的に。と言っても間違っても概念的にではない。それを打ち崩して、独自の観念=技法で。
機械的に描いている。または身体的に。


オランダ時代の、真黒で冷たい生々しいずっしり重い絵。
パリに出て来て、その煌びやかな光と色彩の奔流に呑まれ、あたふたしながら影にも色彩を試みて行く頃。
そしてアルルで、ここはまるで日本だとか謂いながら、見事に明るい色彩と流動するタッチでゴッホの絵としか形容出来ない絵を産む。
しかし、それからの生涯は決して長くはない。惜しい。
(絵は一枚しか売れなかったが、その存在に気付く人も出てきてはいた)。
もう少し、長く生きていれば、境遇はガラッと変わっていた可能性が高い。

だが実際に日本に来てがっかりしなくてよかったかも。
少なくとも湿度である。日本で油絵を描いたら、乾きが悪くて調子が狂うはずである。
そう考えると、逆に日本の浮世絵の優れた抽象性(平面化と単純化と色彩・配色の妙)の認識に役立つ。
日本画はやはり版画だ。版画に向いている。(水墨画は別として、、、これは滲み、濃淡、掠れの世界である)。


でも日本に来れば、そこで絶対に「富士山」は描いていたはずだ。
(番組のゲストに呼ばれた人も謂っていたが)。

それは、当然絵画史に残る傑作になっていたはずである。


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「星月夜」
中学生時代、ずっと部屋に飾っていた思い出深い絵である。
(画集の付録が、これとルノアールの「花を持つ少女」であった)。



カッシーニ・グランドフィナーレ Ⅱ

Cassini Huygens001

Cassini Huygens

今朝気付くと、余りに美しくも哀しく愛おしい映像~カッシーニ・グランドフィナーレが入っていた。
NHKの「コズミック・フロントNEXT」、、、この番組では、これまでのなかで一番良かった、、、。
本当に涙なくして、到底観れるものではなかった、、、。


結局、人工衛星で居続けることは許されなかった。
土星初めての人工衛星カッシーニ。
全くトラブルなくミッションをことごとく遂行し続けてきた。
1997年に打ち上げられ、7年かけて土星の周回軌道に乗り、2017年9月15日(11:55:46)消滅するまで、、、
45万枚もの写真、635Gに及ぶデータを地球に送ってくれた。1時間半かけて。(高速で70分かかる距離なのだ)。
木星~タイタン~エンケラドス~土星、、、そのほかの衛星、ミマス、イアペトゥス、、、。
-180℃のタイタンに日本列島より大きな湖もあった。その数100以上。
液体の正体はメタンであった。タイタンの水は液状メタンなのだ。

タイタンには傾きがあり季節の変化があり、メタンの雲とその循環があった。1.5気圧。
それは、生命が生まれる前の地球の姿にそっくりだという。

Cassini Huygens002

すでに太陽系外に去ってしまった先輩探査機ボイジャーの残した宿題をカッシーニは次々に解いていった。
大きな発見ばかりであった。
カッシーニの探査によって判明する事実は送られたデータの今後の解析によって更に明らかにされてゆくだろう。
その中には驚くべき事実がまだたくさんあるかも知れない。

カッシーニには、ヨーロッパ(ESA)で開発された6つの観測機器の装備されたホイヘンスが搭載され、直接タイタンの地上に耐熱シールドと3段階パラシュートにより軟着陸して、地表写真と風を切る音も送って来た。
接近した地表の姿は、地中海のコートダジュールに酷似していたようだ、、、。
石は氷、砂は有機物の粒であった。
ホイヘンスの収集したデータはカッシーニのその後の観測に役立てられる。

Cassini Huygens003


地球を離れて20年、、、わたしは、これまでに、、、

土星の30万キロにも伸び渦巻く巨大な嵐を観た。
土星の輪の正体にもギリギリまで迫った。
輪と土星本体との間を22回、タイタンとのスイングバイでダイブした。
そこが”Big Empty”であることを身をもって知った。

タイタンとはずいぶん長い付き合いとなった。彼女とのスイングバイはわたしのメインエンジンの代わりでもあった。
タイタンにメタンの広大な海と秒速1mでゆっくり注ぐ1㎝の大粒な雨とそれを集めて流れる河と、、、。
窒素とメタンが宇宙線に晒され高分子有機物となって積り生まれた砂丘に疾風が鋭い直線を抉ってゆくのを観た。

エンケラドスの極地点で漆黒の宇宙空間に丈高く噴射し続ける塩水の蒸気も観た。

そして土星軌道上から遥か彼方に煌めく故郷の地球を観た。
それは小さなラピスラズリの光点のひとつであった、、、。

わたしは惑星間の諸地球を観て周った。


いつしかブレードランナーのロイ・バティーの最期の言葉~回想にも重なって逝く、、、。



タイタン、エンケラドスに生命体の発生(存在)可能性が高い為、それらの衛星に影響を与えることを危惧したNASAは土星大気圏に突入して燃え尽きることをカッシーニ最後のミッションとした、、、。
使命のひとつである地球外生命体の探査を全うし、その成果の為に自らの消滅を選ばざる負えなかったのだ。
生命の探求とはこれ程デリケートなものなのだ。無菌状態で組み立てられ発射されたにも関わらず万が一、細菌が付着していたら関与する環境にある生命系への影響が生じる可能性がある。
しかし実際はどの星も外部からの隕石や宇宙線(太陽風)の影響は多大なものとしてあるのだが、、。
地球人の影響~痕跡は残したくなかったのだ。
(確かに、これまでにも征服に来た民族の運んだウイルスにより相手国が壊滅した例もあった)。



土星に突入の為のタイタンの重力を使った最期のスイングバイをNASAでは「さよならのキッス」と呼んだ。
確かに、13年間にも及ぶ付き合いである。



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サクラサク

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2014年
田中光敏 監督
さだまさし 原作

緒形直人、、、大崎俊介
南果歩、、、大崎昭子
矢野聖人、、、大崎大介
美山加恋、、、大崎咲子
藤竜也、、、大崎俊太郎


さだまさしの曲聴くなら、ボブ・ディランを聴いた方がいいなあ。

BSに入っていたので、思わず見てしまった。
朝のルーチンをしながらであるが(かなり朝は忙しいのだ)。


家族というものは、そもそもこういうものだ、がまずあってそこに向かうよう予定調和的に流されてゆくが、、、
どうなのだろう。
これが本来の家族です、みたいな像をこれまた花見桜みたいな場面で見せられたら、こっちは一体どういう顔してみればよいのか、、、である。
いや、単に見なければよいだけなのだが。

結局最後までズルズルと見て、ついに桜満開の(イメージ~幻想を共有して)木の下でみんながまとまって幸せそうに手を繋ぎ寄り添う姿には、気持ち悪さが残った。
家族とは、そもそもどういうものなのか、どういう制度なのか、、、。
そしてあるべき家族の姿というものが、これなのか、、、。
いやそんなものがあるのか?

少なくともあるべき姿なんてないし、出来得ない。
皆が心ひとつに何かに向かうなんてことが、果たして起こり得るか?
祖父~親~子供の世代が同質の幻想を尊重し合ったり、認め支え合ったり、理解・容認できたりするものか?
大概、歪み捻じれた権力関係で枠が維持されているだけであろう。
子供が幼い時分は親がよいように権力を行使するが、子供が自覚し自らの生に目覚めれば、従属から解かれ独自の価値意識を発動する。ことば~価値の通じない関には、権力関係しか生じ得ない。
ディスコミュニケーション生成は家族を根源とし指数関数的膨張の一途を辿る。


ちょっと戻る。
ここでは、祖父の認知症の悪化が発端となり、何とか上辺だけでも共同体として維持してきた家族があからさまな危機に陥る。
身勝手な構成員が取り敢えず眠りに集まってくるくらいの枠に思えていたが、案外この祖父を中心に回っていたことも分かる。
この人の好い老人の覚醒を願い、家族みんなで力を合わせて彼の記憶を呼び覚ます場所を探しに行く。
確かに記憶は場所に他ならない。
この為の旅には説得力はある。

しかし登場人物たちに現実味~共感が全くない。
この祖父、妙に品が良すぎて、記憶がない時はこれまた妙によく出来た人である。
さらに、あそこまでよくできた息子(孫)がいるか?
娘(その妹)も素直過ぎる。
妻がすねているが、家庭を全て任された上に、かつて浮気をされ、子供の事で相談しかけても夫は会社一番で、耳も貸さない。
最近は義父の介護まで重く覆いかぶさってくる。
これではますます気が滅入り窒息してしまう。せめてガーデニングに逃げて少しでも解放されたい。
ここにはかなり根深い時間的シコリが残っているなと思っていたのだが、、、
妻が、あなたが何を相談しても聞く耳を持たなかった、子供たちの為に父親参観やらなにやらの行事にも行ってくれなかった。
祖父が代わりに参加していた、、、などと涙ながらに打ち明けると、直ぐに謝罪して、仲直りしてしまったのには、危うく椅子から転げ落ちそうになった。暴力的な単純さにも程がある。

何ともペラペラな家族像である。何なんだこれ?!

わたしは親が何かに出て来たことなど全くないが、家族という物自体をあるべきイメージに沿って何とか再構成したい等と願ったこともない。
親とは何においても接点など微塵もなかった為、家族などという枠自体がそもそも煩わしいものであった。


が、しかし人は胎外胎生期も長くあり、その個体としての脆弱さからしてこの制度は、その程度の差は激しいにせよ無いわけにはゆくまい。認知症になるかどうかはともかく、老いの身体性においても同様である。
幼年期と老年期はともに人生におけるトワイライトゾーンである。
この神秘的でもある時間帯に偶然家族の構成員としてそれに関われることは、本来面白い事であろう。
DNAの内部情報系より、生後吸収する大脳新皮質に蓄えられる外部情報系~文化情報の方が大きいのが人間の最も大きな特徴だ。
どちらも記憶を授ける、記憶を呼び覚ます、情報のもっとも際どいやりとりの場である。
わたしはそのフラジャイルな瞬間~場に自然にしかし慎重に触れることは、人としての生活においてとても貴重なものだと思う。
まさに想像的で創造的な関係を実験する場でもある。

基本、家族は家族であるが為、危機に瀕しているのが常態であると思う。
もう凄まじい記憶のどよめきと渦の中を周っている。
このダイナミックで禍々しい共同体~家族という制度とどう折り合いをつけ、切り込むかだと思う。



今日はBSは「羅生門」をやっていた。
もう見て感想も一言書いたから観ないで消すが。
黒沢映画では一番好きなものだ。(嫌いなものの方が多いが)。


内田裕也氏の言うように、フォークはダメだ。
わたしも、ロックが良い。



謎の自動販売機

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今日も歩いて公園に行き、あちこち新しくなった花壇などを見て回りゆっくりしてから帰ることにしたが、同じ道を帰るのは面白味がない。
そこで違う道を周ることにした。
車の激しくない道に逸れる形で、脇道を選ぶようにして歩いてゆく、、、。

思いの外、自動車や巨大なトラック、ジープなどが沢山置かれている場所が多いことに気付いた。
しかし得体の知れない機器や部品や鉄骨類の集積場所はもうない。
昔はそこここにあった。写真にも撮ったものだ(銀粒子)。
最近、米軍基地近辺にも、とんと足を運んでいないので、不思議で怪しい建造物にもお目にかかっていない。
(遥か昔のことだ)。
畑も減った。肥料の匂いも最近はしたことがない。
ちょっと風景に物足りなさを覚え始めていたころ、、、。

青春真っただ中風の男女の高校生カップルがキャーキャーと自転車に乗って、前方の路地を左に入って消えた。
その角の入り口に何やらかなり大きな箱状のモノが置いてある。
初めて差し掛かった路でもある。
とても興味をひいた。

彼らが入っていったと思う所まで来ると、かなり広い自動車の部品(パーツ)売り場が奥行きを取っていた。
しかし今風のショップ、ではなく昔の販売店と謂った感じのところだ。看板がやけに小さい。
そして例の大きな箱は、その入り口脇の自動販売機だったのだ。
チョッと見ない無骨な箱の販売機で、箱入りの煎餅を何種類も売っている様だった。その隣は、観たこともないしかし遠い昔に駄菓子屋で売られていたようなお菓子が何箱もサンプル表示されていた~味が想像つかない。
(最近デパートの一角で見られる如何にもといったノスタルジックな駄菓子屋に置いてあるようなものかどうか分からぬが)。
そしてその脇~とば口に先ほどの男女の自転車が置かれていて、奥に通路が真直ぐに伸び、見たこともない妙にトキメク自動販売機群が並んでいるのだった。
その通路の真ん中へんで、若いカップルが自販機を興味津々の様子で具に確認している。

どうやらジャニーズ風の男子がこの場所を乃木坂風女子に教えたらしく、彼女はいちいち珍しがって喜んでいる。
(ここを紹介した男子は得意気な表情である。これで株を上げたぞという感じだ)。
それほどの物なのかと訝り、わたしも一つ一つ見ていくのだが、、、これが見事に荒唐無稽なのだ(笑。
まず機械そのものからして、古めかしく酷く危なっかしい。
妙にデカく角ばっていて生めかしくペカペカしている。
(何だか安っぽい塗料で塗られた感じもして)。

まずラーメンの自販機。隣にはウドンの自販機。蕎麦の自販機。使ったカップ・どんぶりを返すトレーに残ったスープ等を捨てる水場、冷水・温水器、水道の蛇口、コップ、爪楊枝まで置いてあるスペース、、、屋外にである。それに続き、原色のきつい不思議な駄菓子の自販機、おお、あのシガレット・ココアとミントもある、、、麩菓子や裂きイカみたいなものも、、、そして古い形のガラス瓶に入ったジュース類、その中にはわたしがほぼ毎日飲んでいるドクター・ペッパーもあった。(ちなみに長女も飲んでる)。
その隣には、箱に入った得体の知れない小ぶりな何種類ものパンの自販機、次は調理パンと菓子パンの自販機、缶入りではあるが、おでん、焼き鳥、筑前煮、甘酒、スープ、ラーメン~豚骨・醤油・味噌、ポタージュ、、、(普通の缶ジュース・コーヒーはない)の自販機、さらに続いて、おにぎり、焼きそば、フライポテト、、、の自販機(スパゲティや唐揚げもあったか?、、、)、ホントに食べても大丈夫なのかという気もするのだが、使用後のプラスチックどんぶりがかなり重ねられているところから見て、保健衛生上の問題はこれまでに出ていないように思える。(何かあればきっとニュースにでもなろう?)。味はチャレンジするしかなかろうが、、、。
割とありがちなカップ麺の自販機もあった。

おっと、「機械が大変古い為、品が出て来なかったら、こちらに連絡」と電話番号が走り書きしてあるではないか(爆。
人間の関与と連絡も取れるということで、ちょっと、気楽になった。肉筆なのも気に入った(笑。
実はSFによくある打ち捨てられた文明の跡のような雰囲気もそこはかとなく漂っていたのだが、、、。

そしてアクセサリー、しかしこれは、ディスプレー部分に空きが多く、もしかして何者かに幾つか抜き取られたものか?、、、少し心細くなる自販機もやはりあった、だがわたしにとって極め付きは、その隣のフィギュア自販機である。
全く知らない正体不明のモビルスーツ?が6体も並んでいるのだ!
外箱からすると中身はちょっとキツそう。
どうやら日本のフィギュアとは思えない大雑把な出来具合を想わせる(笑。
(実際日本製ではない感じがする。この自販機がもっとも危なそうに思えてくる)。
500円なので一体だけ買って行こうかと、少し悩む。

家でフィギュア全盛期に100体くらい並んでいたころの光景が思い浮ぶ、、、。
もう随分処分して減らしてきているし、ここでまた増やす分けにもいかない。
(鉄人のみ残して後は処分を考えている今日この頃。ちょっと精度が怪しいし、買うのはやめた)。


一台ずつ自販機をiPhoneで撮って娘に見せようかとも思ったが、例の二人がいるのでやめた。
女の子の方がしきりに「いい匂い、いい匂い」と燥いでいる。
若いカップルは、どうやら珍しい食べ物に触手が動いているようだった。きっとスープ系だ。もしやラーメンか?
それはチャレンジャーだ!
(当然、奢るのは男子だろうな)。
帰ることにしたわたしが傍らを通り過ぎるときに乃木坂女子が「ねっ。面白いでしょ。」という同意をキラキラする目で求めて来た。
取り敢えず「確かに」という表情を返したつもりでいたが、実際は無表情で通り過ぎただけだと思う。


この一角だけ日本ではない気がした。
少なくとも、時間がズレている。
きっと寄り道したからだ。
確かに最近はこんなものも売っているのかという自販機を目にすることは多い。
しかし、見るからにハイテクの近未来的なこじゃれた自販機である。

実際ここで見たモノは大阪あたりならありそうな気はする。
(あそこらへんは、タクシーからして日本ではないし)。

丁度トイレに行きたくなったとき、そこを少し進めば家の先祖の霊園があることが分かった。
これは実際に娘たちを連れて来易い。
トイレに行ったついでに墓参りも出来た。



日本一のホラ吹き男

horafuki.jpeg
1964年

古澤憲吾 監督
笠原良三 脚本


植木等、、、初等(はじめ ひとし)/初等之助(先祖)
浜美枝、、、南部可那子(増益電気のアイドル社員)
草笛光子、、、清水花江(高級バーのマダム)
曽我廼家明蝶、、、増田益左衛門(増益電気社長)
山茶花究、、、大野総務部長
三井弘次、、、古井資料係社員
中真千子、、、山田富子(資料係)
谷啓、、、井川(研究所研究員)
安田伸、、、宮本(初等の大学の同窓生)
桜井センリ、、、社長の運転手
江川宇礼雄、、、西條社長(丸々電気社長)


様々なオリンピックの種目の競技練習風景から始まるが、違和感は充分ある、、、。
今ならジャニーズ事務所の若いタレントなどが選手で出てくるのだろうが、ここではおじさんポイ選手ばかりだ(笑。
そして何と植木等が三段跳び日本代表選手として見事な飛翔を、、、といったところで彼らしいズッコケ、、、。

何となくニヤニヤしながら緊張感の欠片もなく観始める。
そして「東京五輪音頭」がいきなり始まった(笑。
(ここでもミュージカル調に唱や踊りはいきなり始まる)。
もうすぐまた五輪だが、これを超える曲が出るか?
こんなナンセンスな歌は出て来ないだろうな~。
変な真面目な曲など出て来ないでほしい。聞きたくもないし。
そう言えば、、、三波春夫の「東京五輪音頭」というのもあった、、、。
でも、三波春夫なら『世界の国からこんにちは』(万国博覧会音頭)の方がキャッチーで耳に残っている。
あんなふうな曲がよいな~。ナンセンスであっけらかんとしていて、どうでもよくって。

他にも主題曲の「ホラ吹き節」や「馬鹿は死んでも直らない」とか「空の青さは僕のため」に「ガタガタ言うなよ(私はウソを申しません)」等々今回もC調の植木節は健在。でも無責任~の方が面白いかな、、、でもよくこれだけシリーズでたくさん作曲したと思う。


やはり脚本家が「日本無責任~」から代わっているが、こちらはダーティーな所はなく、ただひたすらがむしゃらに頑張るモーレツサラリーマンだ。
豪快に高笑いして、傍若無人で押しの強いキャラ設定は同じであるが。
必ず一度は、クビだ~クビ!と謂われるが落ち着いてかわし、次の一手がしっかり控えてる。
ちゃんと後がある。
でもちょっとこれだけでは限界あるな~。
ブラックさがほとんどない。
(あの目の前に転がって来たボールを、瞬時にあさっての方位にすっ飛ばしてしまう生理が失せている)。

初等(またこれだ)は、三段跳びの有力な日本代表選手であったが、アキレス腱を切り競技者生活を断念。
故郷に帰って暫く休むも、出土した先祖の古文書を読んで一念発起。
三段跳び形式でサラリーマンとして出世するぞ~っである。
こういったやる気が今の世では湧きようがないのが現実だ。
(ぼんやりと視界を覆う虚無感と閉塞感のなかを皆が佇んでいる状況だ)。
しかし様相は無責任男からはかなり変わっている。

機転の利く、やたらとポジティブな「出来る男」ではないか、、、。
無責任男からは随分距離がある。
ホラは吹くが、有言実行である。策略は練るが、詐欺や横領など非道なことはしない(爆。
先祖もホラを吹いても、剣術の腕は剣豪レベルではないか、、、。
わたしはてっきり姑息な手を使って相手を陥れて倒し、1万石をせしめたのかと思っていたが、正々堂々と勝ち取っている。
確かにいらんことはペラペラ喋るが、それに呑まれるようでは相手も大したことはない。
「ホラ」は謂わば自らを奮い立たせ鼓舞する呪文のようなものである。
しかも引き寄せの効果も充分に期待できることを実証している。
何だ、、、人生の達人ではないか、、、そういうことか。

典型的な口八丁手八丁男である。
電気業界最大手の増益電気でホップ、ステップ、ジャンプの要領で出世し、アイドル社員の南部可那子のハートも射止める。
全てトントン拍子で進むところが小気味よい。
植木等はこうでなければ、という感じに行くが、最後に特に驚かされる結末はなかった。
終始、植木等カラーで、お任せで乗せられていればそのまま行き着くべきところに運ばれてくる。

無責任男の植木からは脱皮してしまっているが。
(やっぱりダーティさに関して製作側からの意向とか入ったのだろうか?ちょっと残念)。


相変わらず面白いが、入り込めない距離感はどうにもならない。
しかし全く頭を使わず安心してニヤニヤ観ていればよい映画はとても貴重だ。
最近、映画を観るのが実は苦痛でならない。
押しつけがましさから気が重くなり途中で退場したりしている。
鬱陶しさがまるでないところが好ましい。


由利徹の出番が少なすぎた。
(どうしても期待してしまうのだ、、、あの味に。このシリーズもうひとつの個性ではないか?)




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フェルメール

De Schilderkunst

今日は久しぶりに真夏のように晴れて暑かったため、独りで公園に行った。
娘も家族もほっぽらかして。
いつも車で行く距離の場所だが、今日は往復徒歩にした。
単に歩きたかったのだが、流石に暑い。生き帰りの長い道のりで尋常ではない強度の日光に焼かれた。
科学関係の本を二冊持って行って読んだはよいが、、、。
日陰のデッキで風通しも良く気持ちはよかったのだが、かなり蚊にも刺された(痒。

帰ってから、暑さにやられたのか、昔のディスクを引っ張り出して片っ端確認を始める。
その時面白いものを見つけた。
フェルメールの特集なのだが、ちょっと変わったものなのだ。


NHKの「日曜美術館」でかなり昔やっていた森村 泰昌氏のセルフポートレートによる「画家のアトリエ」の再現を通してフェルメールに迫ろうという試みである。
以前から森村氏の面白いアプローチ~方法だと感じていたのだが、最終的に見事な「画家のアトリエ」が出来上がった。
コンピュータによる空間と各要素の3D解析や衣装・小物の素材を厳密に調査したうえで調達し完璧な再現を期すため、たくさんのスタッフを動員して制作されていることを知った。大変な作業である。
南伸坊氏がやったらどうなるだろうか、とそっちの方も、勝手に想像して笑ってしまった(爆。
(実はそちらの方も観てみたかった)。

「画家のアトリエ」は、ダヴィンチが生涯「モナリザ」を手元に置いておいたのと同様、フェルメールの手放す事のなかった、ただ一つの絵であったそうだ。

森村 泰昌氏の再現によって、「画家のアトリエ」が完璧な遠近法によって描かれていることが判明したが、その消失点の置き方が絶妙な所に置いてあるため、何度観ても心地よい空間が実現されていることが確認された。
(この消失点をどこに置いて遠近法的整序をなすかは、絵にとって大変難しく肝心なところである。特に狭い部屋においては)。

更に何よりカメラオブスキュラで実際覗いた画面をTVで幾度もその焦点移動も含め見せてくれたことは、とても大きい。
わたしも実際に黒布を被って観てみたくなった、とても魅惑的な機器である。
(フェルメールがカメラオブスキュラをこの上なく効果的に絵画制作に利用して来たことは余りに有名)。
わたしも覗いてみると、こういう風に見えるのか、、、と確認できた。
何と謂うか普通に見るより、「生な見え」なのだ。
そのすりガラスに映る光景が、、、。
何か郷愁を誘うし、焦点とボケの空間がしっかりあってよりリアルで新鮮に思えた。

しかし、その番組での掘り出し物はそれくらいであった。
アシスタントが、かの「はな」さんの時期であることも嬉しかったし、懐かしい。

実際、フェルメールの絵は凄まじくリアルである。
だが、驚くべきことは、細密な部分は細密だが、ラフな部分はかなりラフなタッチで思い切って筆が走っており、ぼやかした部分もちゃんとある。
光の点なども効果的に打たれていることも見て取れる。
そこからくる質感は、顕微鏡的な超細密画など寄せ付けないリアルさなのだ。
表象以前の物の本質美とでもいうような美しい光景である。(カント的な意味合いではない)。

これはカメラオブスキュラを当時の他の画家の単に構図の決定などに利用していたやり方とは全く違う、物の見え方の本質に迫る研究手段として用いていた賜物であろう。
眼球は常に微動し続けており、観ることは必然的に編集的遅延を帯びる。
つまりわれわれは、言語的に有機的な分節化を経てパンフォーカス的な光景を表象として世界認識している。
だから、同時期の高名な写実画家たちは、皆隅から隅まで超細密な描写で画布を埋めきっていく方向性をとる。

だがそれらはどれも言語的に整序された絵に過ぎない。
観た人はよくこんなに根気よく丁寧に細かく正確に描きましたね~と感心はするが、そこに心地よい真の美をどれ程感じるか、、、
疑問である。
昨日の蠣崎 波響などは、見事な手仕事~細密な筆さばきを政治的手段~価値としており、細密さがリアルな表現に繋がるものではないが、大方当時のオランダ画家の超絶技巧もその範囲であるろう。

フェルメールの絵は、謂わばカメラの目であり、言葉による遅延が起きる少し前、それこそ宇宙物理の謂うインフレーション後のほんの僅かな時間~10のマイナス10乗後、、、あたりの消息を捉えた光景なのだ。
ちょっと例えが強引か?
光学的な記憶を遍く脳が言語的処理をして全てに焦点を合わせた画像を見せる前のカメラオブスキュラで覗いためくるめくドキドキする光景を魅せたのだ。
瞬間への郷愁が絵となって成立している。
画家はただ、レンズの目となって、、、。


そう、森村 泰昌氏が最後に「フェルメールは自己主張していない」と評していたが、謂い得て妙である。
流石だ。


蠣崎 波響(かきざき はきょう)

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「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)
夷酋列像を構成する12枚の絵である。

アイヌの酋長を描いた『夷酋列像』が有名であるが、とても特異な絵であることは確か。

顕微鏡で描いたかのような細密描写。
描いた目的が、「藩を救うため」であること。(自分の名誉や利益の為ではない)。
画力はずば抜けているが、絵師ではなく武士。しかも松前藩家老にまでなっている。
アイヌの指導者12人を描いた絵であるが、実際に波響が直接逢ったのは、7人だけ。
異様なまでに描写にリアリティを追及しているのに、ほぼ皆同じ顔でその当人自体~IDに重きを置いたものではないことが分かる。しかもポーズも左右反転で装飾~衣装を変えて済ませてあるなど、バリエーション・フォーマット化されている。
ロシアコートを着ている指導者は、西洋画の陰影法を使うなど画法の使い分けをしている。
その時期まで(少なくとも日本)には、現れたことのない大変芝居がかった大袈裟で絢爛な肖像画である。

ともかく趣向が凝らしてあり面白く、興味が尽きない、、、。

それにしても画業と政治の両立とは、、、個人として相当しんどくはないか?

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「イトコイ」

まず目に飛び込んで来るのは鮮烈な赤であるが、これで直ぐに異民族の姿であることが察知できる。
日本の肖像画~風俗画でこのようなビビッドな赤は使われない。
そして、12人の誰にも言えるが、服飾品も含めとても豪華で派手でありポーズもフォーマットされてはいても特徴的な動勢がある。
まるで現代のヒーローキャラの絵カードみたいに見えるではないか。
恐らく普遍的に興味関心を刺激する絵であると思われる。
1980年フランスのブザンソン美術考古学博物館で11点が発見されたという。美術館の学芸員も何故ここに渡って来たのか分からないそうだ。

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「ションコ」

個々のアイヌの首長のみならず、民族全体にも敬意を表して描かれていることは明白である。
それはまた日本国内(諸国の藩、江戸幕府、天皇)に対しても、蝦夷地において松前藩が安定した治世を行っていることのアピールでもあった。
「クナシリ・メナシの戦い」で、治世を危ぶまれた松前藩が、アイヌと日本全土に対して講じた策であった。
闘いの際、藩とアイヌとの間を取り持ち、和平に協力した酋長の絵で構成されたものである。
「絵」というものが最大限に政治的に役立った例でもあろう。
その絵を描いたのが、後に家老として藩を導く蠣崎 波響である。
それ以降、彼は剣の代わりに絵で何度も藩を救ってゆく。外交・財政両面において。

「夷酋列像」は九州の藩にまで話題となって広がり、幾つもの藩で模写がなされた。
アイヌとはどのような民族なのか、噺でしか耳にしていない人々の好奇心を掻き立てるものでもあっただろう。
彼はこの絵を携え京に赴き、光格天皇の天覧にも供され、いたく感心した天皇が、一晩彼を宮中に泊めたという。

後に江戸幕府から蝦夷地が直轄地とされた為、陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、藩の規模を縮小されるが、ここでも絵で財政難を切り抜け、その利益で得た金を使い再び松前に藩を戻すことに成功する。
ここまで「絵」が有効に使えるものか、、、。

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「釈迦涅槃図」

波響はかの円山応挙と親交を結び、俄然絵の主題が増し表現の幅も広がりを見せる。
京や江戸で他に著名な画家、文人とも多数親交を持つ社交的な人でもあったらしい。政治家でもあるから当然か、、、。
彼は風景画や風俗画、美人画まで描くようになる。
そのなかで、びっくりしたのは応挙のあのシュルレアリスティカルな滝登りの鯉の図そっくりの絵を描いていることだ。
ある意味、如何に応挙に心酔し技術を更に吸収し高めたところを示すものか。
毎日彼は絵を描いては神社に奉納していたそうである。
絵で救われてきたという実感からか、宗教性も覚えるところだ。
全ては絵であった。唯一無二の武士~政治家であったかも。

結核を患いながらも絵筆を手放すことなく描いた最後の作「釈迦涅槃図」が彼の集大成の代表作となる。


政治(政策)と絵画~藝術(制作)をこれだけ密接に絡めて、いや同じ地平においてクリエイティブな創作を続けた蠣崎 波響も万能のヒトのひとりかも知れない、、、。



ミケランジェロ

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『サン・ピエトロのピエタ』

まず、ミケランジェロは彫刻家である。
表現技術の革新と解剖学的に人体構造を捉え美の手掛かりにする研究に余念はなかった。
これはライヴァルであるレオナルド・ダ・ヴィンチにも引けを取らない。
きっと彼も古代ギリシャ・ローマの彫刻に驚き憧れたひとりであったはず。
その「生命力」に惹かれ、キリスト教(カトリック)に囚われない「人間」に対する純粋な洞察を深める契機になったと思われる。

同時代の「ピエタ像」の死後硬直した棒のような体をしたキリストと内面の感じられないマリア。
そのぎこちない姿。
聖書の教義を理念的に伝えることのみに作られた、制作姿勢そのものの硬直した物ばかりであったなか、、、この作品の突出した超然たる美は圧倒的な輝きを放つ。
神聖な哀しみを具現化した至高の作品であろう。

「モナ・リザ」とともに、、、
完成した美とはまさにこれか、、、という。

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『ダヴィデ像』

まだ、ミケランジェロ20代で、血気盛んな時期でもある。
ちょうど、フィレンツェからメディチ家が追放されるが、その後権力を握った藝術否定論者のサヴォナローラが処刑され、フィレンツェ共和国にピエロ・ソデリーニのもと芸術が「フィレンツェの自主性を表す象徴」として復活する。
ミケランジェロはヴェッキオ宮殿に面したシニョリーア広場に設置する「ダヴィデ像」制作を依頼された。
カッラーラの採石場から採掘した一つの大理石を掘り進み3年をかけて完成する。

これからゴリアテを倒しに行く一糸纏わぬ逞しい筋肉質のダヴィデである。
闘いの前、全身に緊張感漲る、凛々しい表情の青年だ。
ドナテッロやヴェロッキオのダヴィデは少年であり、闘いの後の剣を携え足元にゴリアテの頭部が置かれた(定型)ものだ。
この聖書からの設定の独自化が話題を呼び、その有無を言わさぬ圧倒的な造形で、ミケランジェロの名は不動のものとなる。
最初のマニフェストとも呼べる作品であろう。
これ程、力強い彫像があろうか、、、。教理に従う異論など吹き飛ばす創造力・才能の勝利であり、人間に対する洞察が深められてゆく。

Deluge.jpg

『システィーナ礼拝堂天井画』(大洪水から)
『創世記』に取材した9つの場面により成り立つ。

光と闇の分離
太陽、月、植物の創造
大地と水の分離
アダムの創造
エヴァの創造
原罪と楽園追放
ノアの燔祭
大洪水
ノアの泥酔

そもそも彫刻家に礼拝堂の天井画を依頼するとは、、、。
一番驚いたのはミケランジェロ当人であったはず。
ユリウス2世には、お気に入りのフレスコ画家ラファエロもいた。
尚更、なんでまた、、、と思ったはずだが、きっとチャレンジ精神旺盛なのだ(研究熱心でもあるし)。
しかし、天井画である。非常に過酷な仕事であったことは想像に難くない。
やはり尋常ではない構想の結果描かれた場面ばかりだ。
どういう構図なのかと戸惑うようなものやダイナミックで極めてクリエイティビティを感じさせるものまで、、、。
特に「大洪水」など箱舟は遥か先に浮かんでいるのが分かるくらい、ノアもいるにはいるが、忙しそうにしているだけである。
主題は寧ろ、危機に瀕して何とか逃げ延びたい生きたい、と子供を抱いてもがいている一般の人々である。
宗教家達はそこをどう見たのだろうか?

Last Judgement


祭壇壁のフレスコ画の『最後の審判』もミケランジェロ以外の誰からも生まれないものである。
誰もが裸で身分も地位も分からない。ただの「人間」である。特別な者はひとりもいない。
非常に力強いキリストと傍にはマリアが立ち、地獄へ逝くもの天国に逝くものを選り分けている。
背景には美しいラピスラズリ~この上ない美しい青が広がり、誰もが特に悲しんでも喜んでもいない(当惑してはいても)。
誰にも等しく光が当てられているのだ。

当時の宗教家達はこれを観てどう判断したのか?少なくとも他の、しっかり教義に従い描いた画家達の「最後の審判」とは全く違う絵ではないか、、、。
だが、これも人類史上最も優れた「最後の審判」と彼らから評価された。
この有無を言わせぬ力こそ、ミケランジェロの技量と人間に対する洞察力によるものだろう。

Pietà002

『ロンダニーニのピエタ』

わたしは現実や日常において泣くようなことはまずないが、芸術作品を観て感極まる経験は何度もある。
この「ロンダニーニのピエタ」には、一度ならず極まった。

初期にして藝術作品として完成された『サン・ピエトロのピエタ』から60年を経て、ついにここまで来てしまう。
未完成という形をとってはいるが、これ以上進むものではないだろう。遺作とは言え中断には見えない。
余計な「表現」が剝ぎ取られていった結果の最終形体なのだ。
日本の高僧が彫った石仏みたいだ。現代アートにも通じ凌駕している。
最早、完成の遥か先にいってしまった。時空を超えて人間の本質がそのままここにある。
そうとしか感じられない。

右腕が打ち捨てられているところから、きっとキリストはもっと前のめりの姿勢でマリアが後ろから覆いかぶさる構図だったのかもしれない。しかし、ほぼ直立しようとする(瞬間的)姿勢をとったのだ。
その刹那がこんな永遠の美として凍結しようとは。
偉大な哀しみ。


何故、ミケランジェロは敢えて、右腕を残したのか。



地図にない場所

アーススキャナーというNHK番組(ここのところ連続)が録画されていたためディスクに移してそれを見ていたら、半分ほどで切れた。丁度、その頃デッキが一杯になって途中で録画出来なくなっていたのだ。
これは、ちょっと惜しい。だから、わたしが観たのは、マココの水上集落と、シーランド公国の途中まで(トホホ、である。

makoko.jpg

上空から見た映像ではしっかり猥雑な風景が映っているのに、地図では真っ白という地帯がナイジェリアの「マココ」という場所だ。
ナイジェリアのラゴスの普通の商店街を歩いていて、道路脇の狭い路地を入ってゆくと急に小さな船着き場があり、そこから岸を離れるとすぐに海上集落へと迷い込む形となる。

水に囲まれて(包まれて)住むというのは、どんな感覚なのだろう。
ゲストに呼ばれた、ボビーオロゴンもここの事は知らなかったそうだ。
いちいちびっくりしていた(笑。彼は彼らから魚を買うだけの立場のヨルバ族ということ。
(しかし、ボビーの話し方、独特の話術は癖になる面白さがある)。

水上に夥しい手作り家屋が柱で組まれて建っており、その間を縫うように沢山の荷物の積まれた小舟が走る。
家には子供たちが燥いでいたり、活き活きした生活臭が漂っている。舟の荷を見ると、それぞれ異なり興味が尽きない。
謂わば、生活に必要な衣食関係のモノは全てその移動マーケットで賄えるようになっているようだ。
何と砂土で埋め立てられた学校まである。小さな校庭が微笑ましい。
総勢で10万人がいるという。
凄い広がりだ。

漁に出る父子、水に潜って泳いで遊ぶ幼い子供たち。
家族の結びつきも親密で一見、楽園的な光景にも見える。
だが、そこにいる住民たちは選択の余地なく、そこに暮らしているのだった。
彼らは漁師であり、魚を採って暮らす以外に術がない。

ナイジェリアのベニスとか司会者は言っていたが、水は濁っていて汚い。上下水道などのインフラなどあるはずもなく、衛生状態は悪い。医療関係も如何にも厳しそうだ。電気も内陸から住民が個々に電線を引いてきている状況である。
ここに住むエグン族は漁労民族で、昔から先祖代々ずっと魚の採れる水域を見つけるとその近辺に移住し漁師として生活を続けて来た。
フランス・イギリスの占領下に入ってから後、その海上に住むこと自体が違法となっている。
過去に政府側から一方的な強制撤去が強行され、建物を壊され住民が放り出されたことがあったという。
それで子供たちを病気でかなり失ったそうだ。

彼らが他の形で漁業が出来るようにする工夫とか、雇用の創出をするなどが同時に図られないと、単に元に戻るだけである。
逞しくまた水上集落は更に膨らみ続けているようだ。


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北海の南端、イギリス南東部のサフォーク州の10km沖合いに浮かぶ放棄された構造物を領土と主張するシーランド公国である。
かつて海軍の海上要塞で対ドイツ軍のレーダーや高射砲を備えた物騒な海上の建築物であった。
それに住み着いた人々の国で現在187人の国民を抱えているという。
国旗もある。
何とも実に趣味的で大人の秘密基地そのものだ。
見張りも随時独りたてているという(笑。


場所と建造物的にはワクワクするが、国となっていては余り行く気もしない。
法もあり、面倒な人間(上下)関係があれば、陸地から船で40分の謂わば孤絶した海の中に閉ざされた場所である。
わたしは普通の陸地の国家にいた方が気楽でよい、とかまず思った。
しかし、デッキから海と月を眺めてワインなど飲んでみたら、それは不満など薄れてしまうかも、、、。

塩で老朽化(確かに70年経過)しているが、北海の強い風を利用した風力発電や頻繁に降る雨水を濾過した水回りなどは、しっかり設備が整えられていた。地下7階くらいあり、高級ホテル並みのベッドルームもあって、大人の仲間と暮らす趣味の共同生活にはよさそうであったが、何と一番下の方には礼拝堂、首脳陣の会議室、その下には刑務所まであった。
多分ジョークであろうが。

今のシーランド公の父に当たるパディ・ロイ・ベーツという人が、放送法違反で訴えられた「海賊ラジオ」の拠点として占拠したのが発端であったが、イギリス政府が何とかそこを立ち退かせようと裁判に持ち込んだ。しかしその場所がイギリス領海外であったためにイギリス司法の管轄外ということになり決着した。
切手やコイン(メダルか)や金で買える伯爵の爵位(証明書)などを発行(販売)して財源を確保する等なかなかぬかりはない。
現在、世界中から国民となるための問い合わせが相次いでいるという。
世界情勢からみれば、頷けるものである。
(但し、人口から謂ってもうギリギリだと思うが)。


ただの大人の趣味の遊びではなくなっているのかも。
(最初から切実な行為であったことは分かる)。
個人があらゆるものから自由になるための場所として確保されたのだ。
問い合わせをして来る人々にとっても最後の砦的な場所なのかも知れない。


地図にない(認められていない)地帯、というロマンチックでアナーキーな場所であるが、実際に住むとなれば、どうなのだろうか。
インフラも含めて、不自由を感じ出したら厳しい現実の方が頭を擡げるように思われる。

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写実の彼方へ

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普段、外界と自分との関わり~知ること、が希薄で脆弱に思えることがある。
この景色は良い、と思ってiPhoneでスナップを撮って終わりにしていたりする、、、。
撮った写真をじっくり眺め入るならならまだしも、撮って安心して観た気になってしまっている。
そんな形で事象のほとんどを素通りしていることが多い。
(一日がつまらなく感じたなら、それは間違いない)。

昨日に続き、NHK(NHKの回し者ではない)の日曜美術館で写実絵画~高橋由一と岸田劉生から後の流れについての特集を観た。
さらっと流しているが、取り上げられた作品や作家のことばには圧倒された。(パソコンの液晶を通してでも)。

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最近、やはり同番組で観た「アンドリュー・ワイエス」もそうだが、、、
写実絵画(の優れたもの)は、ほとんどが普通の記録写真を超えた質と情報量を湛えている。

写実~リアルとは、そもそも何か。写実画の作用とは何か。
物から入って行くが、突き詰めてゆくと、見えないものが徐々に~次々に明かされ五感に訴え掛けて来る。

確かにこの世には、形しかない。
その形体を単に希薄な記号のように認知して暮らしていては、当然こちらまで希薄で硬直した存在になってしまう。
その積み重ねの中で暮らしていても、何にも辿り着けない。
意味も価値もとても浅薄なものと化す。
焦燥と不安と閉塞ばかり募って、ことばからは重みが剥奪される。

生活の過程に垂直性がないのだ。


まず自分にとって「現実」とは何なのか。
その問いが、写実の動機となる。
自分の目で見て、色々なものを感じる。
現実に対峙する。

3年間、同じ場所~浅間山に通い詰め、日々刻々と変わる画像を追いかけ、季節による変遷を画布の上に更新し続ける。
そして木の年輪のように分厚い、質量をもった絵が生成された。
水野 暁氏の「The Volcano-大地と距離について/浅間山-」である。
写真などでは感じることの出来ない奥深い「運動」がそこに体感できる。

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作家は直接自然に対峙し共振して、われわれに強靭な描写力で訴える。
体験をもっともリアルに濃密な時間をもって行うのは作家であるが、鑑賞者であるわれわれも
その絵を通して探ることになる。
大地の蠢き、律動を。畳みこまれた時間を。その結晶を。
そして初めて見る山の表情を、目の当たりにする。

写実絵画の力である。
(確かにへたな抽象画では到底体感できない。ましてや理解など)。

水野 暁氏によると、、、
「絵になるかどうか、ではなく、何を掴むかだ」という。
写実絵画(この内の優れた作品)は、確実に何処かの地層に物理的に到達している。
(寧ろ知層の表面を撫でているだけなのは抽象画に多い)。

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事象を深く感じ味わいたい。
そうした「写実」だ。



北大路魯山人

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NHKの日曜美術館で樹木希林の解説で「北大路魯山人」をやっていた。
「北大路魯山人」が樹木希林のナヴィで語られると、北大路魯山人というより樹木希林の人生が浮かび上がってきた面白いものだった。
どちらも、凄い人である。
このTVで語られた内容の範囲のみで何か書いておきたい。

出て来てのっけから、わたしは本物なんかに興味はないとくる。
流石だ。
最初から突き放して来て、司会者ふたりをドギマギさせていた(笑。

偽物でも面白い。
そう、それそのものよりも、あてがわれた美というものがあるのだ。あつらえられた美である。
これをそのまま日常でも実践しているところで彼女と魯山人は重なる。
謂わば、「用の美」として。
そのエピソードがやたら面白く、終わりの方で紹介したい。


魯山人も「焼きもの知らず」と評されながら、罅や書き損じなどの所謂「失敗」をチャンスとして利用し、彼独特の美学を追求している。
「当意即妙よ」と樹木希林の述べるまさにそれであろう。
計画や作為をもたない、刻々と生じる事態を謂わば編集する作業と謂えるか。
ジョン・ケージのチャンス・オペレーションにも通じる。

「創造には破れ目がなければつまらないわよ」
確かにわたしも陶芸で、焼いた後で罅の入った部分に新たに粘土を流し込み、二度焼きしたものの焼き上がりに、見蕩れたことがある。最初から計画してとても出来る代物ではないのだ。

「不揃いの美に気迫が籠っている」
とても熱気もあり、破天荒な独自の形体の追及をしていることが感じられる。

彼は北大路という社家に生まれながら、里子に出され、学校にもろくに通えず転々として育ったという。
印刷と看板の仕事で生計を立てていたが、ある時料亭で出された器に衝撃を受け、仕事を辞め陶芸家を目指す。
だが、生来の型に嵌められるのを嫌う性格から、特定の師を持たず、独学で陶芸を学び研究して行く。

パトロンが出来、赤坂に料亭を出し、料理を引き立てる器~脇の小さなもの~の追及が始まる。
それは「美食」の追及であり「用の美」を極めんとする創作活動であった。
如何に優れた脇役を創るかということであり、樹木希林が溜息交じりに独白するには、「近頃主役やる子はいくらでもいるんだけど、力量のある脇を張れる子がとっても少ないのよね~」ということである。まさに彼女こそ超ド級の脇役であるが、確かに主役は脇にしっかり固められてはじめて輝く。これはわたしも多少映画を観始めて痛感することだ。
料理~主役との構成美の追及である。

更に使ってこそモノは活きる。
確かにしまっておいては、何のためのものか分からないし、意味もない。
またそれを使うことで、美意識が磨かれる。
又はその当人の美意識が試される場ともなるだろう。
魯山人は、客であろうが、一切妥協しなかった。
であるから、予約に遅れてくる客など、言語道断となる。
客や料亭スタッフとも激しくぶつかったようだ。
その為、オーナーに自分の店から解雇されてしまう。

そういうことは充分に想定される。
彼は美意識を日常の隅々にまで徹底して張り巡らせた。
厳格な美意識のもと妥協を許さない姿勢が周囲との軋轢を生む。
これは必然でもある。
自分が非常に可愛がっていた彫刻家のイサム・ノグチを暫く家に住まわせたが、洗濯物を干したかどで大激怒したことは、有名である。
彼は風呂場も全て自分で造っていた。
彼の価値観にそぐわぬものは、同居不可能であり、彼は孤絶した。
「彼の美意識に拮抗し共感できる客はいなかったでしょうね~」
「伝わる人には伝わるし、伝わらない人には決して伝わらないのよ。伝えて変わるもんじゃないのよ」
「わたしも若いころ老人役をやったけど、何も変える必要なんてないと気づいたの。バーさんになったって、欲張りで見栄っ張りの人は絶対に変わらないし、そのままで良いのよ。年齢設定なんてすることないの」
全く激しく同感である!

魯山人は料亭を解かれた後、自分の工房に籠りひたすら創作を続けた。
自分の目指す美に拘り続けた人である。
「この世を少しでも美しいものにしたいと歩んだ」と魯山人は晩年を結んだ。
「家系のDNAもあるだろうけど、彼は美によって神の存在に近づこうとしたのでしょう」
司会者から「でも最後に分かってくれみたいな文を書かせてしまうなんて、可哀そうにも思いますね」と向けられると、「期待する方がおかしいわよ。孤独を受け容れてやっていくしかないでしょ」まるで彼女自身のこころの内を謂っているようだ。
自分に向けられ「わたしは何にも執着はない。自分のなかの綻びを繕いながら生きていると謂えるかな」

最後に彼女なら魯山人を理解出来たのではと向けられ「そうね。結婚した後、ずっと別居でやってけそうね」と少女みたいに笑っていた。
彼女の「用の美」というか、「当意即妙」振りも只者ではない。
秋篠宮 文仁親王と親王妃に拝謁する日に、ホテルで支度をし留袖を着ている時に帯締めがない事に気づいたそうだ。
普通なら、そこでパニックになりマネージャーに無理を言って用意させたり、少し前話題となった議員であれば秘書を怒鳴りつけて何とかさせるところであろう。しかし彼女は数学的な「合同」に囚われない。
彼女が冷静にしたことは、電気ポットのコードを抜いて帯締めにあつらえたことだ。
それで何食わぬ顔をして拝謁したそうだが、紀子妃は怪訝な顔をしてそこを屡々眺めていたそうだ(笑。

樹木希林ならきっと彼とも上手くやっていけると思われる。


これはどう見ても北大路魯山人を肴に樹木希林を語った番組であった(爆。






ニッポン無責任野郎

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1962年
古澤憲吾 監督
田波靖男、松木ひろし 脚本

主題歌『これが男の生きる道』、『ショボクレ人生』 青島幸男 作詞、萩原哲昌 作曲
宮川泰 音楽


植木等 、、、源均/平均
団令子 、、、丸山英子
ハナ肇 、、、長谷川武
草笛光子 、、、静子
谷啓 、、、中込晴夫
浦辺粂子 、、、、中込うめ
藤山陽子 、、、石沢厚子
由利徹 、、、宮前社長
犬塚弘 、、、王仁専務
人見明 、、、幕田常務
中北千枝子 、、、幕田由紀子
岡部正 、、、近藤
土屋詩朗 、、、板倉
世志凡太 、、、会津
中真千子 、、、芸者初太郎
中島そのみ 、、、マダム満江
桜井センリ 、、大原
安田伸 、、、小山
ジェリー伊藤 、、、ゲーリー


BSに昨日の「無責任時代」とともに入っていたので観た。
実に拾い物である。
テンポもよく、アナーキーでコミカルで痛快である。
それにしても、団令子はどうしても役名に「丸」をつけられるのだ。
確かに丸いが、そんなに拘るところでもなかろうに、、、昨日なんて「まん丸」である(爆。ちょっと酷い。

自由が丘には、ほとんど毎日通って(途中下車していた)時期もあったが、こんな風情の頃もあったんだと、感慨深い。
何と言うか、全てがこれから始まるぞ、といった潜熱を感じる。
そんなところに、改札で切符も渡さず(買っておらず)、ヒトの煙草を瞬時にせしめ、体当たりした男の会社をすかさず狙う、源均のお洒落なイントロから始まる。

その(株)明音楽器は、丁度次期社長の椅子を巡り、王仁専務と幕田常務が対立し両派に分かれて争っている最中であった。
そこに目をつけ、すかさず利用する均。
両者(両派閥)に目配せして、お世辞を言って手懐け、両方に上手い噺を持ち掛ける。

谷啓の堅物振りもハナ肇の翻弄され振りも鼻の下を伸ばしつつも独特な威厳を保つ由利徹も前作同様、しっかり決まっている。

前作では一番最後となったが、今回は始まって早々、英子(団玲子)との結婚を果たす。
無責任スタイルでグイグイ迫り、そのまま結構お似合い夫婦となって愉しく暮らしている。
銀行の通帳を一円で作り、会社の未収金の取り立て金を自分の口座に入れて、英子には200万預金があると見せかけ信用を得る。式では、出来るだけたくさんの人を(幕田常務 の愛人も)呼んでその会費にあて懐を潤す(ちなみに、昨日は香典泥棒であったが)。新婚旅行は遊園地で済ませるが、乗せるのがうまい均にまんまと乗せられ、英子もいつしかご満悦。
その調子で、何か事があってもスルリと切り抜ける。

特に、アパートが狭いと愚痴をこぼす英子の要望に応えて、自分が取り持った中込夫婦の嫁姑問題の解決の為、彼らに姑から離れて暮らす提案をし、自分のアパートを中込夫妻に貸す。引き換えに広い庭付き一戸建てにお手伝いさん(長谷川の母)付きで住まうことにする。英子もこれには大満足。厚子は前から二人でアパートに住みたがっていた。双方がウィンウィンということだ。更に中込邸の植木を根こそぎ引き抜き、駐車場にしてしまう。これで入った収入をおばあちゃんにも渡します、とそこまでやるかである。駐車場の車係も始めた母うめも元気が出て矍鑠としてきたことで前向きな性格となる。結果、中込夫婦とも和解する。
何という、、、。


だが、サックス奏者のゲーリーをステージからいきなり拾って来て、アメリカのスミス楽器の社長の弟にしたて、彼とはオクスフォード時代の学友だったとか訳の分からぬ出任せを言って信用させ(入社時に何も調べとらんのか?(怒)、自分が両社の提携の仲立ちをしましょうなどと持ち掛けるが、それを王仁専務も幕田常務も双方ともすっかり信用し、源均に気前よく賄賂を渡す。それは勿論、均のポケットに。
会社の接待費で派手に飲み食いして、それで集めた未収金500万は自分の口座に入れ、おまけに賄賂までせしめ、これは犯罪以外の何物でもない、が調べで分かってしまい、王仁専務、幕田常務双方からクビを言い渡されると、じゃあ退職金は2倍貰えるんですね、とくる。細かいことだが、500万で利子で大儲けみたいに言っていたが、凡そ現実味のない昔話である。
もっと細かいが、煙草を頻繁にポイ捨てしていたが、今やったら罰金ものである。
時代の違いを思い知らされるところだ、、、。

ここでもクビになると何の未練もなく、サッサと高笑いで出てゆく。
だが、宮前社長のぞっこんの芸者・初太郎の社長友達情報から、また新たなカモ~会社を探し出していた(笑。
何と言うか、、、。

均の強みは、周囲にいる綺麗どころと直ぐに打ち解け仲良くなってしまう性格だ。上司長谷川が好きな高級バーのマダム静子や王仁専務の恋人のマダム満江、、、などそして上手く長谷川と静子の仲をとりもち、堅物の中込と彼が思いを寄せる石沢厚子との
仲も取り持ってしまう。この辺の繋がりから広がるネットワークは結構大きい。
均は一年ほど、英子のもとを離れ独り出てゆくが、王仁専務も幕田常務も前社長・宮前から社長失格を宣告されており外部の資本「北海物産」に乗っ取られることとなった。
新社長が明音楽器に乗り込んで来た時、社長と共に秘書としてやって来た男が、何と源均であり、英子以下社員はビックリする。そして彼を雇った社長が、平均であった。


もうこちらも唖然である。


どうしてもこんな風なエンディングに持ち込みたいのだ(笑。


ルナティクス

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夜空に雲が垂れ込め、月が見えないことが多かった。
どうもじめついた日が続き、娘と外で遊ぶのも憚れる。
傘を差して歩くというなら、これまでもピアノや買い物の行き帰りにあるが、ただ散策と言うのは動機から言って設定が難しい。
雨の中の散歩に適した場所も今ひとつ。

それにしても雨が多すぎるのだ、、、。

どうせ雨が降るのなら、雨のしずくが月の光を反射したときに作られるという「月虹」(げっこう)を観たい。
いつか、、、絶妙な条件下で、運が良ければ、、、。
月にかかる虹を観てみたい。
死ぬほど美しいという月の虹~moonbow。

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写真で観ただけでもうっとりする。
「ゆらぎ」を光で観たらまさにこんな感じか。

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~moonbow


美しいものを観るには、やはりひとところにいては、物理的に観れないこともある。
これは確かで、NHKの「プラネットアース」など時折見ても、それは感じる。
しかしタイミングは難しい、、、。
そう遠くないうちに行こうと思っていた「九寨溝」はどうなっただろう。
あの翡翠のような「火花海」は、、、地震で決壊して水が流失してしまったことがニュースで伝えられたが。
これも水と光による究極の「ゆらぎ」の美である。

美は儚さと常に同居している。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


今日は、はっきり言って暑い。
朝、外に出しておいたカメを入れた予備の水槽の水が風呂より暑くなっていた。
カメが暴れているはずだ。

晴れの取り得は洗濯物がよく乾くことと、夜までそのままなら、月が観えること。

今日の月齢は22.4、、、下弦の月(月相21)、、、三日月に近づいてゆく。
これもよい。

ちなみに、上弦の月(月相7)は28日。


ニッポン無責任時代

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1962年
古澤憲吾 監督
田波靖男、松木ひろし 脚本
主題歌『無責任一代男』、『ハイそれまでョ』作詞 青島幸男、作曲 萩原哲晶

植木等 、、、平均(たいらひとし)
重山規子 、、、佐野愛子
ハナ肇 、、、氏家勇作
久慈あさみ 、、、氏家時子
団令子 、、、まん丸
峰健二 、、、、、、氏家孝作
清水元 、、、、、、大島良介
藤山陽子 、、、大島洋子
田崎潤 、、、黒田有人
谷啓 、、、谷田総務部長
安田伸 、、、安井
犬塚弘 、、、大塚
石橋エータロー 、、、佐倉
櫻井千里 、、、青木
松村達雄 、、、富山社長
由利徹 、、、石狩熊五郎
中島そのみ 、、、麻田京子


驚いたのは、本作がとても好評であった為、この「無責任シリーズ」ものが30本も量産されたという。
わたしは題名だけで4,5作しか知らなかった。
面白いことは確かだが、そこまで続くか、、、流石に眩暈がする(笑。

ひとえに植木等の存在であろう。
彼に(映画の彼に)影響を受けたひとも多かったはず。
所ジョージなど、彼の息子ではないか。

しかしこの作品、60年代だから出来たものだと思う。
現代、このような映画を作る元気と無分別さと身軽さは何処にもない。
高度成長期の何となく希望の明日があるという日常意識が素地になっていると思う。

超然としたダーティヒーローものである。
いや、C調ヒーローなのか。

世の偽善と欺瞞を軽ーく手玉に取って、間違っても正義の為などではなく、刹那的な遊びこころを満たす為だけに解体して横断して行く。平 均(たいら ひとし)という名前からして人を食っている。
大きな掛け声と高笑いとともに、やってることは、ほとんど詐欺であり、お調子者では済まされない内容である。
ただ充分にお調子者で鼻の利く男ではあるが。
その為に、ひょんなタイミングでポンっと出世して人を驚かせる(笑。

「出世、出世」と口癖のように言って「ゴマすり」してほらを吹きまくり、接待で会社の金を使いまくるが、真面目な社員より成果をあげてしまう。彼の破天荒振りを煙たがり、生理的に反感を抱いていた同僚も彼に次第に惹かれ始める。女性にももてる(このことが運も多分に引き寄せている)が、結局管理~体制側に「クビ!」と言われると全く拘りなく素っ気ない態度で去って行く。
爽快さとともにストイックな意志も感じられた。

つまり出世や金など念頭になく、女性にも時計時間にも縛られたくない。
それがひとことで言うと「無責任」なのか。
出家僧(高僧)の趣きすら感じてくる。宗教性のない賢者(詐欺師すれすれ)であるか。
この軽みが要である。
自らの囚われを捨て、チャンスにフッと身軽に乗る。


この噺~映画は、下品な嘲りや違いを差別し虐めを基調にして作る傾向の強い現代のお笑い~エンターテイメントとは根本的に異なる、軽さと明るさおおらかさがある。
ミュージカル調に入る歌などもあざとく面白く、笑えるのだが、、、現状との距離も感じて意識してしまう。


この「無責任」~今、これを主張する基盤~元気がひとの精神にも社会にもない。
わたしも、ついつい責任を感じ余計なことをしてしまう、、、。


由利徹の存在が微妙なゆらぎを生んでいた。






蘇る金狼

Resurrection of Golden Wolf
Resurrection of Golden Wolf

1979年
村川透 監督
永原秀一 脚本
大藪春彦 原作


松田優作、、、朝倉哲也(東和油脂 経理部 社員)
風吹ジュン、、、永井京子(小泉の愛人)
成田三樹夫、、、小泉(東和油脂 経理部長)
小池朝雄、、、金子(同社 経理次長)
草薙幸二郎、、、竹島(同社 専務)
岸田森、、、石井(興信所 所長)
佐藤慶、、、清水(東和油脂 社長)
千葉真一、、、桜井光彦(鈴本の甥)
真行寺君枝、、、清水絵里子(清水社長の末娘)
結城しのぶ、、、牧雪子(バー・ルナのマダムで桜井の愛人)
南原宏治、、、磯川(市会議員で県の公安委員)


BSで入っていた。これは松田優作の代表作のひとつではないか、、、。
観ておいて損はないと思い、観てみた。
若い。
皆、若い。

何と謂うか、「松田優作」という感じの映画であった。時代感も色濃くしっかりあった。
だが、松田優作だけみれば「ブラックレイン」の佐藤浩史の方が遥かに強度は高い。


松田優作が、マセラティ・メラク、BMW520、ランボルギーニ・カウンタックに乗っていた。
ホントに贅沢な役柄だ。
特に、最後にカウンタックに乗りながら勝利に酔ってニヒルな高笑い?をしていた。
交通法規完全無視で。ここまで命知らずの無法なやり方で勝ち取ってきた。
全てが上手くいき、いまや悪徳企業の重役にまで上り詰めたのだ。
そりゃ、高笑いもでるわな。わたしもカウンタック乗りたい!(爆。

どこを切ってもギャグであっても虚無的に淡々と進む。
彼は普段はコテコテの黒縁眼鏡のサラリーマンであるが、夜毎ボクシングジムでパンチを鍛える男。
かつらと眼鏡を取ればワイルドな孤高の、、、野心家であろうか、、、外道な事をやって野望を遂げる男である。
彼特有の美学が感じられるが、意味不明な部分も美学なのかどうかが分からなかったりする。
(子分を皆殺しにしておいて、親分とのヘロインの取引にご丁寧に代金を支払っている。そのまま薬だけ軽く強奪できる状況ではないか、何でだ、、、というような)。

適度なカースタントもあり、ちょっとコミカルな千葉真一がいて暗躍するが、割とあっけなく殺されたり、、、。
岸田森が訳の分からぬ壊れた興信所 所長なのだが、やってることは、ほとんど殺し屋である。
彼も派手に自意識過剰に殺される(幅広くいろんな役をやる人だ)。
色々出てくるが、次々に殺される。松田優作はかなり近距離を走って抜けるが被弾しないし掠りもしない。
風吹ジュンとの関係は、確かにありそうなリアリティを醸しているが、意外性とか新鮮味はこれと謂って、ない。
(松田優作に対して風吹ジュンが何というか平凡な感じで物足りない気がしたのも影響するか)。

物語自体は、ハードボイルドの定番路線で、基本フォーマットに沿ったかたちであろう。
特に目新しさや逸脱感や驚きを得たというものでもない。
所謂企業ヤクザ映画か。


だがひとつ、些細な部分であるが、松田優作が麻薬元締めの市会議員磯川に詰め寄った際、銃を構えた用心棒に背後から狙われたときに捏ねた理屈が面白い。
「ちんぴらめ、後ろをふり向いてみろ、ゆっくりとだぞ~」と磯川に謂われた後だ。

「いいかね、この距離からあの種類の銃をぶっぱなせば、弾は完全に俺のからだを貫通して、あんたに当たるんだよ。それにだ、おれのからだを貫通するときは 弾は炸裂しない。だからまだ助かる見込みはある。ところがあんたのからだにくいこむときは、弾のつぶれがひどいから、間違いなく即死だな」
「無知だねえ、弾ってのはねえ、一番抵抗の少ないところを抜ける性質があるんだ。俺がからだの向きをちょっと変えるだけで、あんたの心臓めがけて飛ばせることもできるんだよ」
「試してみるか?」 「撃ってみな、撃ってみなよ、おい!」
これを聞いて躊躇して怯んだ隙に形勢逆転である(笑。
これには感心した。
大分以前、この部分は松田優作のアドリブだとか話を聞いた覚えがある。
ホントかどうか分からないが、、、凄いと思った。
そんな部分がこの映画には幾つもありそうな気がする。
彼独自のシチュエーションが脈々と流れているのだ。身体性が感じられる。

「わかった、撃つな、撃つな、たのむ、お願いだ、殺さないで」
というチンピラに対し「ダメ、ダメ」、「家族はいるのか、こどもは」
「いるいる、い~っぱいいるんだ」
「死んだほうが幸せになれるよ」
と躊躇わず撃ち殺す。
このときの「ダメ、ダメ」がとても彼らしい。親がこどもを窘めるような目線の言い方なのだ(笑。
この「ダメ、ダメ」は癖になるかも。

Resurrection of Golden Wolf002

絶対に撃たれないハードボイルドヒーローであるが、愛人に腹を刺されて死ぬというのも、必然的な流れであった。
ただ、絶命するまでがかなりの尺を取る。
松田優作の独り芝居の独壇場である。
瀕死の身でありながら、絞め殺した風吹ジュンを抱きかかえ階下(ここは教会の廃墟か)に投げ捨て、そこにふたりで海外に高飛びするための搭乗券の一枚をハラハラと落とす。
その後、彼独りで飛行場に入るが、俯瞰するカメラ視線で、鞄をさげて何もなかったかの如くの足取りで歩を進めるも、急に体のバランスを崩し腕脚の制御を失い無残に潰れ倒れ込む様子が映される。
これだけで充分、巧みで饒舌な表現だ。

また力を振り絞りぎこちなく起き上がって歩く。
飛行機搭乗中に明らかに体調の異変を悟った客室乗務員から声を掛けられるが、顔面蒼白で意味不明の事を口走り(もしかしたら、これもアドリブか)シートの中で精気を完全に失った人形のように崩れて事切れる。


やはり「彼の映画」だとつくづく思う。



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ヤモリ出現!

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二ホンヤモリ現る。
決まって、いきなり鉢合わせと謂った出遭いとなる。
ビックリするが「守宮」または、「家守」であって、家の為になる縁起の良い生き物なのだ。
出逢った日は、「運が良い」とか言われてきたが、、、。
果たしてどうか?
娘たちもやって来て、キャーキャー騒ぐ。
昨夜、わたしは変な所で出逢ったのだ。

トイレにどうしていたのか(どうやって入ったのか)分からぬが、二階のトイレを開けた途端、チョロチョロと天井に駆け上がって行くのだ。
結構、大きかった。
わたしが感嘆の声をあげたので(悲鳴ではない(爆)、家族みんなが集まってきた(要するに暇なのだ)。
どうしたものかと思い、というのも上にヤモリがいては落ち着いて座っていられないので、小窓から外に出そうとしたがなかなか誘導には応じてくれない。
向こうにも都合というものがあるだろう。
かなりの、漸近的接近ともなった(笑。
そして暫くたつとスルスルと降りて、隙間に消えてしまった。
皆まちまちに好き勝手なことを言い始める。
長女は、明日宝くじを買えばとか、訳のわからぬことを勧めてくる。

思えば、これまでも、、、
朝雨戸を開けようとしたところ、雨戸とサッシの狭間のスリリングな空間で、ガラスに貼り付いていて目がばったり合うこともあったし、家の壁で見かけたかと思うと、スルッと脇に消えたこともある。
突然出逢うインパクトとふと脇に消えている消息の謎が、とてもこころを擽る。
決まって、確信に満ちた彼らの場所~隙間にサッと消えて行くのだ。
そこは、何処なのだ、、、。

隙間?ここでも見事に何処かに消えた。
とは言えトイレの何処かである。
屈んで確認するがそれらしいところも見えない。
絶妙な隙間がきっとあるのだ。
まさにそこが、、、余剰次元!
と謂って見たかっただけだが、、、好奇心が擽られロマンと不気味さが馨しい、、、トイレだが。
しかし、その隙間の広さが今物理学で言われている余剰次元の大きさに匹敵するではないか!

いよいよトイレの花子さんより面白い噺が出来そうではないか?
童話作家にチャレンジしてもらいたい!?


これは、そのうち落ち着いて考えてみることにして、今日はヤモリに絞りたい(笑。

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ヤモリは昆虫を(害虫と言われる虫も含め)結構ダイナミックに無造作に食べる。
毒性は持たないし、可愛らしいと言えばそうだが超然とした顔と体と動作の生き物の為、昔から(日本では)それなりに親しまれている。
だが、いざペットとして飼うとしたら、水分のあげ方~水そのものは呑まず、木の皮とかを湿らせておく~や昆虫も生きているものしか食べない、など手間がすごくかかる。生きてる昆虫を毎日あげるって難しくないか?カメの方がずっと楽だ。
何となく粋で素っ気ない隣人同士で、すれ違いつつ付き合うのが一番無難な気がする。

彼らは蛇と同じく脱皮する。
このたまらない異物感。
しかも目の部分も膜状に綺麗に剥離するのだ。
そのまんま元のフェイスが残る形となる。
(原型が崩れず残ったものはそれは見事なものだ)。
ヤモリファンやマニアには、垂涎のコレクションとなるのでは、、、。

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生理的な嫌悪を感じてしまう人には、もうほとんど害虫かエイリアンの一つであろうが。
ヤモリは、しっかり冬眠もする。
爬虫類だ。(好きな人は好きだ。ブロ友さんにもいる)。
チョット似ている(名前が特に似ている)イモリは、水気の多い井戸や池の近く、やはり民家近傍に住んでいる。
カエルの出るところにはよくいる。これは両生類だ。少し毒ももっている。


どうやらヤモリはもうトイレにはいないようで、玄関か何処かの塀に登って遊んでいるように思う。
夜行性だから、今頃アクティブにあちこち走り回り、猟に勤しんでいるのかも知れない。
しかし実際の所、何処でどうしているのやら、、、。

こんな変わった(別に変わってはいないか)~われわれも随分変わっているが~隣人がごくごく近傍に生活していて、時折われわれの世界にいる虫を食べるという作用も及ぼしている。
気を抜いている時に突然姿を見せて驚かせ、他者というものの存在を想い起こさせてくれる。
他の時間系というものも、、、。
若しくは、他のネットワーク。


ETはすぐ近くに、きっといつも、いる。



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プールの時間

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久しぶりの暑さから、水が恋しくなった次女に誘われスポーツ公園のプールに行く。
勿論、長女も一緒で、いざ泳ぎ出すと(まだ泳ぎなどと謂えるような代物ではないが)彼女の方が夢中になっていつまでも泳いでいる。
最初は25Mプールで泳いだが、広く少し冷たいところで泳ぎたいという次女の希望で、50Mプールに移る。
(こちらは、休憩時間にジャグジーでくつろげるのがよい)。
飛び込み台からは、選手と思しき人たちが板の反動から宙に舞い、捻りを利かせた飛び込みを順番にやっていた。
ただ、唖然とした顔で眺めるふたり、、、。

25Mから見ると流石に向こう岸は遠く、水は冷たかった。
プールという感覚は、こちらの方が瑞々しい。

明るさは25Mプールのブースより、こちらの50Mプールの空間の方が何故か暗めで、二か所と四人いる監視員の大学生?の顔が影のなかに霞んでよく見えない。時折その見えない表情からマイクで何か注意を与える。
声は響くが内容はよく掴めない。泳いでいれば尚更。


久しぶりに、水に入り(やはり風呂とは違う)泳いでみると、自分が如何に水から遠ざかっていたか分かって来る。
身体の馴染み具合~自然な浮きや四肢の動きの柔らかさが、ない。
強張りや異物感として自分~身体が感じられる。
水と身体の輪郭がぎこちない。
自分もかつて、水の中にいたことを想う。

長女のゴーグルが壊れてしまったため、わたしのゴーグルを着ける。
大人の黒縁ゴーグルをピンクの水着の娘が付けていると何か可笑しい。

平泳ぎやクロールでは、今ひとつどうも水が掴めなかったが、背泳ぎを緩くやってみたら、そのラッコスタイルが妙に心地よくなり、腕を使わずバタ足のみで天井を眺めて進んでゆくと、今日はこれでいいという感じがしてきて、安心感が沸いた。
すかさず、長女も面白がってマネをする。
彼女にとって初めての背泳ぎというか上を向いて浮かぶ経験となった。
そのころ、次女は疲れたのかプールサイドに座り込んでいた。
プールは彼女の希望できたので、もっと泳ぎ燥ぎまくるかと思っていたら、ちょっと不機嫌そうなので帰るか聞くともう帰ると、、、。
思うように泳げなかったのか、、、単に疲れただけではなさそうだった。
難しい。

だが、長女はもっと泳ぎたいと。
それは分かる。まだ超過料金を支払うまでもいっていない。
大概、乗ってくると基本料金で足りる時間では済まなくなるものだ。
仕方ないので、長女が後50Mを何回かに分けて泳ぎきるまで、次女はサウナで待つことにした。

ただ泳ぐという行為~身体運動は気持ちよい。
抵抗が減るほど心地よくなってくる。
無心になる。
内部の水が共鳴し始める。
イルカのご機嫌な泳ぎを回想する。
仄明るい胎内を想像する。
やはり水の中であることは、地上より圧倒的に楽であったはず。

次女は早々に陸に上がってしまったためその快楽が得られなかったようだ。
何か臍を曲げることがあったか、気が逸れてしまったか、それに疲れが被ったか、、、きっと余計なことを考えて~思ってしまったものか。
しかしこの重力下では純粋な思考など出来るはずもない。
夢という例外の時間を除いて。
身体が重みと化しているではないか。
重みは病でもある。

われわれは一体何を想って陸地に上がってきたのだ、、、、。


よりによって、この空間の中で重い頭を支えて直立二足歩行という肩の凝る(腰にもくる)アクロバティックな身体を自らのものとしてしまった。
浮力のない空間に出て来て、立ち上がるまでしたのは何故なのか。
脳が発達したことは結果論である。(いや初めからその企みがあってのことか?)
遠ざかる月に縋りつくように思わず立ち上がったのだ、という説も聞いたことがある。
(月は昔はとても巨大で今より遥かに早く回っていた。その影響は大きい)。


やはりプールという時間は、かつてを回想し郷愁に浸り、無心に戯れる場であろう。


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物質が光になろうとする努力

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録画に入っていたNHKの番組で、無のゆらぎ、インフレーション、ビッグバン、ヒッグス場(粒子)や自発的対称性の破れ、重力の兼ね合いからの余剰次元、それらと切り離せないダークマターの問題が取り上げられていた。どれもちょこっとずつ、更に膨らむ謎の方に話題が次々に並べられてゆくのだが、、、。
(結局番組としては、現在分からないことだらけという印象に引き釣り込まれてしまうが、本当にそうなのだろう)。
無のゆらぎのように、様々な想いが泡のように生じては消えた。
その断片を羅列する(TV番組とは関係ない連想が多い)。


噺を聞きながらつくづく思ったのは、物理は数学を方法~手段として使うため、何の抵抗もなくマイナス(負)の数や虚数を使えることで、思考~論理の組み立てにおいても実にアドバンテージは高いが、純粋な思考の展開、というより思考の及ばない先までも数式が表してしまうため、その解釈~解明によってその大発見に驚くといった過程がよく見受けられる。
(アインシュタインの一般相対性理論は謂うに及ばず)。

そのへんで、かなり哲学的、文学(詩)的感性の発動が要請されたりする余地もある。
いや、それどころか研究者の思想・信条も大いに関わって来る。
これは、ある意味不可避である。
われわれがことばで思考~観測している以上。

また、当初から哲学的な思考から着想を得ているケースもある。
湯川秀樹などを見てもそうだ。
「素領域」のヒント~インスピレーションは、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」(芭蕉)からきている。


物理(このTVでは、宇宙物理)における思考のスケールは途轍もなく広がり、不完全であっても、仮説どまりであってもそれ自体の明証性は高い。これがとても大きい。大きいとは言え、(宇宙~素粒子)物理学上の発見となると、理論上その粒子の存在を予言した際、ヒマラヤで雪男を発見するのとは訳が違い、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)の衝突実験とATLASとCMSなどの高精細な検出器によって、それの生成の証明をもって、発見となる。
生成されれば存在の発見となるのだ。

その物理的(多分にイメージのレヴェルではある)発見で誰もがワクワクできる。
何にしても刺激に充ちていることは確かだ。
ちなみに、TVで取り上げられていたヒッグス粒子の発見でノーベル賞を受けたのはヒッグス博士であるが、その発見に重大なヒントを提示し貢献をしたのは、南部陽一郎博士であったようだ。(後に「自発的対称性の破れ」でノーベル賞受賞しているからよいが)。



「無のゆらぎ」がまずあり(無のゆらぎなんて、何と詩的な)、突然それがインフレーションに繋がり、ビッグバンとなる。
光が光のままなら、何も生まずに宇宙も生成されなかっただろうが、ヒッグス場にとらわれ、質量が与えられ速度が落ちたために物質宇宙が誕生した。しかも奇跡的に平板な。これを支えるものがダークマターであるとされる。そして重力問題から余剰次元へ、、、。


光の状態から速度を奪われ重さが加えられたことでわれわれが生じるに至った、、、。

これ程、詩的な過程があろうか。

『人間原理』も含め、これに「神」を想わないわけにはいかない。
(わたしは特定の宗教への興味や信仰は無いし、「神」とは何かなど問う気も無いが、「神」は存在しないという断定は、知的怠慢であると思う)。


そして、われわれの想いは、きっと光であったときの郷愁に染められてゆく。
「物質が光になろうとする努力」(ノヴァーリス)にすべては収斂されてゆくのだ。



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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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