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GOMA28

Author:GOMA28
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博士の異常な愛情

「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」
(意味もなく長いような気はするが、、、ここまでが題名である。)
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Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb
1964年
アメリカ、イギリス

スタンリー・キューブリック監督・製作
スタンリー・キューブリック、ピーター・ジョージ、テリー・サザーン脚本
ピーター・ジョージ『破滅への二時間』原作

ピーター・セラーズ、、、ストレンジラヴ博士(大統領科学顧問)
        、、、ライオネル・マンドレイク大佐(イギリス空軍大佐で派遣将校)
        、、、マーキン・マフリー大統領(アメリカ合衆国大統領)
スターリング・ヘイドン、、、ジャック・D・リッパー准将(戦略空軍司令官、極端な反共主義)
ジョージ・C・スコット、、、バック・タージドソン将軍(反共主義、自民族優越主義)
スリム・ピケンズ、、、T・J・コング少佐(B-52のパイロット)

「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「シャイニング」「アイズ ワイド シャット」、、、「ロリータ」は今度書かないと、、、。スタンリー・キューブリックだ。
わたしとしては、やはり2001ではあるが、、、。
これはこれで、、、コメディでモノクロの手強い作品だ(笑。
何と言っても、「東京オリンピック」の年の作品ではないか、、、それが過去の済んだことにも思えない、、、。
理由がよく分からないのだが、何故かピーター・セラーズが一人三役やっている(謎。
勿論、熟れた絶妙な演技であるが、敢えてそんなことしなくても、熟練俳優はいっぱいいるのだし、、、。


米空軍のマンドレーク大佐にリッパ―将軍から1本の電話が来る。
R作戦を発令だと。

R作戦は、ソ連の基地に対して核兵器による総攻撃を行うものであり、アメリカ本土が攻撃を受けていることを前提とする。
リッパ―将軍は軍にいる全ての人間からラジオを取り上げることを命令するが、マンドレーク大佐はラジオを聞いて、アメリカ本土に日常の時が平穏に流れていることを確認する。

核爆弾を積んだ戦闘機(B52)は暗号通信しか受け取れず、彼らを引き戻せる暗号はリッパ―将軍しか知らない。
執拗にマンドレーク大佐は、リッパ―将軍に水爆を搭載した戦闘機を戻すように説得するが、極端な反共主義者である彼は全く聞き容れない。これは単なる先制攻撃に他ならない。しかも核による壊滅的な打撃を加えるものだ。
病的な共産主義嫌悪であり、正気の域を逸脱していることは言うまでもない。
飲料水のなかに共産主義者がフッ素を入れていると真面目に主張している。
「ソ連」ということばの幻想にとり憑かれているのだ。
(リッパ―将軍は何故か捕虜になりそうな事態を前に自殺してしまう)。

DrStrangelove003.jpg

キューバ危機の状況に重なる。米ソ冷戦の最中、一触即発の時期である。
両国とも核兵器を製造しまくっていたことからも、ひとつ間違えればこの映画のような展開も無いとはいえなかった。
今現在隣で、核開発と大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験している国もあって、何を考えているかは兎も角、かなり危険な情勢にはある。当時からソ連はしっかりICBMを飛ばす技術は備えていたが。
何が危ないって、特に隣などその技術的な面と体制(人)的な面からの誤作動が一番心配なのだ。その不安定さから。
少なくともこの映画の登場人物(国家首脳陣)ではいつ何をやらかすか分かったもんじゃない。
映画を観ていれば笑っていられるが、、、また、そうなった後の首脳陣による構想が飛んでもないのだ。
ああっ東京オリンピックも近いし、嫌な予感。狂気は反復し、回帰する、、、。

勿論、この映画は「映画はフィクションであり、現実には起こりえない」と断ってから始まる。
(そう断っても忽ちそのコントでこの世界に引きずり込むよ、という自信の表れみたいにも思える)。
何にしても、誤作動は何処にでも発生するし、何処の国でも安定動作など望むべくもない。
(元々、国という幻想がそうしたものなのだ)。


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核爆弾に、またがりながら落下するコング少佐は、まさに使命感と犠牲的精神をもつカウボーイである。
やはり西部劇の国だ。
トップシークレットのマニュアル見ながら、事の次第を理解するB52搭乗員と言うのも覚束ない。
この隣にはプレイボーイ誌が置いてあるし。
まあ、それを言ったら全てコミカルなネタみたいなもので詰まっている。

ギリギリのところで回避暗号を解いたマンドレイク大佐が、大統領に公衆電話でそれを伝える。
(専用電話は線が切られているのだ)。
途中で小銭が無くなりコカ・コーラの自動販売機を銃で壊し小銭補充する。
その甲斐あり、4機は撃墜され残りは帰路に向かったと思ったのだが、実は撃墜は3機でコング少佐の1機は、損傷を受けたために燃料漏れに通信機器が壊れ不通となりつつも果敢に任務遂行のため飛び続けていたのである。
結局、その忠実で勇猛な働きにより目的地点の爆撃に成功する。
と同時に、ソ連の「皆殺し装置」が自動作動し、米ソどころか人類全体は風前の灯状態となる。
その装置の炸裂により、地上はその後100年は放射能で地獄化する。

DrStrangelove004.jpg

かなり終盤に登場する大統領顧問科学者こそストレンジラヴという凄い名前の博士である。
もうコミカルなコテコテの演技で、帰化していても元ナチス党員であることが一目瞭然である。
自説を論じていて興奮するとハイルヒトラー!の敬礼を思わずしてしまうし、大統領を総督と呼び間違える。話し方も尋常ではなく挙動不審である。
そして肝心な説そのものが選民思想である。
コンピュータに条件を入力し選ばれた価値ある人間のみ地下で生活させるのだと。
男1に対し女10で20年後には現在の状態に復帰できるなど、、、無茶苦茶な構想を饒舌に説く。
それを聞いて一夫一婦制はどうなるんだ、とかコントにもならない質問も出る始末、、、。

結局、この映画まともな人は大統領とライオネル・マンドレイク大佐くらいのもので、ホットラインでつながったソ連の閣僚会議議長(書記長か)も電話に出ても酔っぱらってどうやらまともな話が出来ないようだし、おまけにヒステリーを起こす始末。
ソ連大使は、こんな人類全体の存亡がかかっている会議中にも関わらずスパイ活動をしている(笑。
一緒に最高機密の地下会議室に同席していること自体、尋常ではないのだが。
後は飛んでもないジンゴイストである。

水爆に乗っかって投下されたカウボーイなどこれらの人々からみれば清々しい愛国主義者である。
しかしその時の絵は印象的であった、、、。


『また会いましょう』(ヴェラ・リン)の甘やかでほのぼのする歌がかかる中、地上の世界は壊滅して行く、、、。


怪談

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1965年
小林正樹 監督
水木洋子 脚本
小泉八雲 原作
武満徹 音楽
戸田重昌 美術


小泉八雲(ラフカディオハーン)原作の怪談を4話オムニバスで。
どれにも惹き込まれる魅力に満ちている。

長さが全く気にならない。
演劇的(舞台劇的)な形式も見事な臨場感を生んでいる。全てがセットだという。
スモッグとシャワー、風、着色された水、照明、、、。どれもアーティフィシャルでゾクゾクする。
「能」の要素~演出が非常に効いていて、原色~極彩色の鮮やかさ、、、やはり美術が良い。
そして何より武満徹の音楽が絵以上に饒舌に場面を語る。これだけの雄弁な映画音楽を味わったことがない。
古典芸能的VFXである。大変な力作だ。
そして演技の質~キャストの豪華さ(わたしは、彼らは知っていたがこんなに若い姿は初めて見た)。

ロケやCGでは到底味わえない抽象美の世界がこってり堪能できる。
「怪談」というが、人間の性や本質における怖さであって、お化け屋敷的に脅かされる怖さ~ショックではない。


「黒髪」
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新珠三千代、、、妻
渡辺美佐子、、、第二の妻
三国連太郎、、、武士

愛情の本質が描かれる。
想いは時とともに益々濃厚に重くなって行くが、、、
それと同時に、物質は徐々に一方向に滅んでゆく。
肉体は脆いものである。
どんなに美しかった~今も胸の内に美しく光輝いている、姿~身体も朽ち果てる運命なのだ。
屋敷も床が抜け壁が壊れ、何一つ確かなものなどない。

このトマスピンチョンの「エントロピー」よりも説得力ある物語にはその映像~VFX共々圧倒された。
想いに反比例して崩れてゆく事態の象徴美である。
美しい映像だ。

新珠三千代の薄幸の美女のヴィジョンは圧巻である。
滅びの美をこれだけ演じられる~絵になる女優が今いるだろうか、、、
耽美的、、、ウットリする。


「雪女」
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仲代達矢、、、巳之吉
岸惠子、、、お雪(雪女)
望月優子、、、巳之吉の母

中空に巨大な禍々しい目玉が浮かんでいるのが何ともシンボリック。
監視しているのか。
雪女の秘密が漏れないかどうかと、、、。
(という事は少なくとも雪女の属する高度な種族がわれわれの上空、いや俯瞰的位置に存在することを暗に示すものだ)。
日本古典SFでもあるか。

その下で、何とも純朴で人の好い巳之吉の立ち振る舞い。
お雪も恐らくそんな巳之吉を心底好いていたのだ。
でなければ、3人も子供も出来まい。
子供が出来ても、お雪はいつまで経っても歳をとらず若くて美しいのだ。しかも気立ても良いさぞ自慢の妻であろう。
だが、こともあろうに、絶対に他言するなと釘を刺した「当人」に、10年前の雪山での秘密をペラペラ喋ってしまうのだから、元も子もない。このおっちょこちょいが。
これで終わりよと元の世界に雪女となって戻って行く彼女。
彼女の世界の戒律の重さはきっと絶対的なのだ。
普通、これだけ仲の好い夫婦なら(ハリウッド映画ならきっと)追手~目玉を逃れて逃げましょとかなるだろうに、、、。

もう「お雪」から「雪女」への変身にただ茫然と佇み言葉もなく見るともなく見つめるだけの巳之吉も侘しいが、、、
彼女の侘しさも計り知れまい。
「子供を大切にしてください、、、」
雪女が漆黒の雪嵐のなかに消え去った後、彼女の為に丹精込めて拵えた草履をそっと外に置く巳之吉の姿には思わずこみ上げるものがあった。
この一回性は限りなく切ない。
余りに呆気ない。
しかしこれが宇宙の原理なのかも知れないという気がして来る、、、。


「耳無し芳一」
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中村賀津雄、、、耳無芳一
丹波哲郎、、、甲冑の武士
志村喬、、、住職
林与一、、、源義経
村松英子、、、建礼門院
田中邦衛、、、矢作(寺男)

身体中にお経を書くシーン、そして書き込まれた姿はまさに圧巻であった。
さぞ大変だったと思う。
そして甲冑の武将が芳一を呼びに来たとき、中空に耳だけが浮かんで見えてしまう。
芳一は耳を引き千切られてしまい、住職たちは迂闊だったと悔やむ。芳一だってここがまだなんですけど、くらい言っても良かろうに。これだけやってもらって、申し訳なくて言えなかったのか。

後に、その話がもとで「耳無し芳一」として大ブレイク。
大名から法外な報酬を貰って琵琶を弾いてゆき大金持ちになったということ。

前半の舞台劇そのものといった感じの壇ノ浦の合戦も実に面白かった。
「能」を見る感覚に近い。
平家物語の弾き語りが得意である芳一の演奏もタップリ披露される。
この物語はストーリーの巧みさだけでなく、そういった芸能場面が多く見応えは充分である。
日本の映画は、もっとこのような伝統芸能的な形式を意識すべきではないか、、、。
ハリウッドの力業のVFXに流され過ぎに想える。
想像力の刺激がなく、感覚刺激に慣れ頼り過ぎている。お陰で観た後、何も残らない。


「茶碗の中」
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中村翫右衛門、、、関内(中川佐渡守家臣)
滝沢修、、、作者/ナレーター
杉村春子、、、おかみさん
中村鴈治郎、、、出版元

そりゃ、茶碗の中に頻りに誰かの顔が映って見えれば発狂する。
しかし、こんな感じの不安は誰もがふと抱える可能性はある。
そんな気配に悩まされることは、あるかも知れない。
(不安神経症で片付けられない実存的不安)。
そう思えてくる。
不条理劇でもある。

人~他者の魂を飲んだものはこういうことになるという。
そう、人の顔が茶碗の中に映ったときは、飲まない方がよさそうだ、、、。
周りを見ても誰もいないとかいうレベルでなく、もし誰かの顔が映ったときは、やはり医者に急ぐしかあるまい。
自分が恐らく他者に乗り移られる間際なのか。
アイデンティティの危機であることは間違いない。


この映画が古くなることは、ないと思われる。





猿の惑星

PLANET OF THE APES

PLANET OF THE APES
1968年
アメリカ

ピエール・ブール原作
フランクリン・J・シャフナー監督
マイケル・ウィルソン、ロッド・サーリング脚本
ジョン・チェンバース特殊メイク
ジェリー・ゴールドスミス音楽


チャールトン・ヘストン 、、、ジョージ・テイラー(宇宙飛行士、船長)
キム・ハンター 、、、ジーラ(チンパンジーの生物学者)
ロディ・マクドウォール 、、、コーネリアス(チンパンジーの考古学者、ジョーラの婚約者)
リンダ・ハリソン 、、、ノヴァ(人類の末裔、テイラーの恋人)
モーリス・エヴァンス 、、、ザイアス(オラウータンの科学者、最高権威)
ジェームズ・ホイットモア 、、、議長

この作品が、3作観た範囲では、もっとも重厚で良く出来た作品であった。


よく科学番組などで、原始地球についての解説とともに、よくこんな場所が地上にあるな、と実に感慨深い思いに浸ることがあるが、この映画のロケ地はその意味でも凄い。
序盤はただひたすらロケーションに圧倒されるばかりで、誰でも地球に向かっての帰路についているとは言え、あんな湖に墜落して飛んでもない岩山と砂漠を延々と見渡しながら寄る辺なく彷徨えば、まさかここが地球だなんて思いもすまい。
重力と大気組成や気温がやけに地球環境に近いぞとは思ってもヴィジュアル的には、まずない環境である。
機内時間は1972年であったが、地球時間は2673年となっているので無理もない。
準光速航行での宇宙探査任務であった。
無事帰ったところで、地球人同胞は何世代も経ており、まだいるかどうかも分かりはしない、、、。


チャールトン・ヘストンとリンダ・ハリソン以外は特殊メイクで素顔は(分かる人以外は)分からないだろう。

PLANET OF THE APES001

途轍もない過酷な生命を拒絶する環境が広がっていたが、あてもなく彷徨ううちに滝とそれを囲む緑に出合い、何と原始状態のヒトの群れが潜んでいるのだった。
言葉を持たず文明もない状態で生きているのが分かる。
そして驚くべきことに、馬を操り揃いのユニフォームを着て武器を持った猿が突如押し寄せ、ヒトを狩っていくのだ。
猿は皆、流暢な英語を喋っていた。

テイラーは4人で宇宙を飛び立って来たが、一人は生命維持装置の故障で死亡し、降り立ったこの惑星で、一人は猿に撃ち殺され見本の剥製として展示され、もう一人の隊員は脳を調べる外科手術により廃人となってしまった。
テイラーは他のヒトとともに檻に入れられ、外に出されるときには首輪と紐で引きずりまわされる。
ヒトは殺されるか生体実験や研究の為に使用されていたのだ。
かつては家畜として飼えるか試されたが、それに向かない事が分かり今や害獣として最下層の動物に見なされていた。

そんななかで、オラウータンから見ると下のランクに見なされているチンパンジーのジーラ博士は、猿は人間から進化したという仮説を持っており、それを証明したいと願っていた。(猿社会にも階級関係は厳然と存在している様子だ)。
この言葉が話せ文字も書け思考が出来るテイラーは、彼女にとって特別な存在となる。
婚約者のコーネリアスも保身的な性格ながら、研究者として「禁断地帯」に古代の高度な文明がヒトの骨と共に眠っていることを発掘調査を通し解明しており、真実を見極め成果を公にしたいという真っ当な意志を持つ。
だが、ザイアスは聖典に反する冒とく罪であるとして、それを認めない。

事の次第が明瞭になるまでは、ジーラたちもテイラーを下等動物扱いしていた。
ノヴァはジーラに研究の為にテイラーに宛がわれた雌であった。
しかし、テイラーは本気で言葉も持たぬ彼女に恋をしてしまう。

PLANET OF THE APES004

全ては人類を極度に恐れる科学界の最高権威ザイアスの思惑~指金によるものであった。
彼は人間を可能な限り猿社会から遠ざけようとしていた。
ヒトに対する嫌悪の情や差別的な思想というよりも、猿社会においても随一の人類を知る彼であるが故の采配でもあった。
彼は、人類が遠い過去に今の猿より遥かに進んだ文明を持っていたが自ら滅ぼし合い、現在の末裔を残すのみとなったことをよく知っていた。
であるから、文明のテクノロジーの発達もあるところで押し留めていたようである。

ザイラスはテイラーの存在を恐れ、虚勢と脳を切除して研究しようとしていたが、冒涜罪だけでなく反逆罪にも問われる身となったジーラ&コーネリアスカップルは彼を逃がし、一緒に「禁断地帯」の洞窟内でその決め手となる古代テクノロジーの一端を確認する。
そこへやって来たザイアスは人類が高度な文明の元、滅んだことをよく知っており、自分たちの種族が同じ轍を踏まないように防衛している本音を打ち明ける。
テイラーが人類は猿より優れた文明を持っていた優位性をザイアスに主張すると、では何故優れた文明を持った人類が滅びたのか、と聞き返す。

PLANET OF THE APES003


そして協力者でもあったジーラ&コーネリアスカップルとも別れ、テイラーはノヴァと二人で馬に乗り「禁断地帯」から更に遠くへ、海沿いに進んでゆく。もはや猿たちは(ザイアス以外は)誰も行ったことのない地である。
ザイアスは彼らは運命を目の当たりにするだろう、と騙って彼らを解き放ったのだが、、、。

やがて二人が誰をも近寄せなかった場所に行き着くと、巨大な影が彼らを待ち受けていた。
見上げると、そこには胸まで埋まった自由の女神が無残な姿で取り残されていたのだ。
やってしまったのだ。
2000年前に何があったのか、それは具に語られないが、この惨状を見て愕然とし絶望に打ちひしがれ叫ぶテイラーであった。
不滅の衝撃的エンディングである。

このシーンは色褪せない。

PLANET OF THE APES002



M★A★S★H マッシュ

M★A★S★H

M*A*S*H
1970年
アメリカ

ロバート・アルトマン監督
リング・ランドナーJr.脚本
リチャード・フッカー原作
ジョニーマンデル主題歌”Suicide is Painless”

ドナルド・サザーランド 、、、ホークアイ・ピアス(腕の立つ外科医)
エリオット・グールド 、、、トラッパー・ジョン・マッキンタイア(腕の立つ外科医)
トム・スケリット 、、、デューク・フォレスト(腕の立つ外科医)
ロバート・デュヴァル 、、、フランク・バーンズ少佐(保守的な腕のない外科医)
サリー・ケラーマン 、、、“ホットリップス”・オフーラハン(新任の女性将校)
ジョー・アン・フラッグ 、、、マリア・ディッシュ・シュナイダー婦長
ゲイリー・バーゴフ 、、、“レーダー”オライリー伍長
ロジャー・ボーウェン 、、、ヘンリー・ブレーク大佐(M*A*S*Hの長)
ルネ・オーベルジョノワ 、、、“デイゴ・レッド”神父
ジョン・シャック 、、、“ペインレス”・ウォルドスキー大尉
カール・ゴットリーブ 、、、“アグリー・ジョン”・ブラック大尉
G・ウッド 、、、チャーリー・ハモンド准将


ドナルド・サザーランド若い!あの髭も無い。
でもドナルド・サザーランドは最初からこんな風に変わった人を演じていたのだ、、、。
(変わったと謂うより素直なのだろうが)。

Mobile Army Surgical Hospital(移動米軍外科病院)
70年代のサイケデリックな雰囲気の映画であった。
映像的に飛んでいるような描写は皆無であるが、内容的には充分飛んでいる。
テンポも生理的に故意にずらしてゆくような感じで進む。

腕は良いが箍の外れたホークアイとデューク、トラッパーの外科医3人が朝鮮戦争時の移動米軍外科病院で自由に暴れまくる。
もう病院そのものが狂気の巣窟の如く、酒を呑んで賭けのポーカーをして不倫もして騒然としている。
毎日、次々に重症患者が運び込まれて来てその手術に明け暮れていては、普通にしていては精神的にもたないものか、、、。
それで何でも面白くしてやろう、というところか?
勿論、神父をはじめ聖書に深く縋る者もいる。
しかし例の彼らは、手術中でさえ冗談ばかり飛ばしてる。

日本にも行って手術をして芸者遊びをしてゴルフも楽しむ。
(負傷したお偉い議員の子供の手術の為に、小倉市に出張する)。
日本にはそもそもゴルフをして遊びたいために行ったのだが。
シーンの切れ目に必ずタイミングよく「ラジオ東京」の時代感溢れる日本語の歌が流れる。
そしてどういう訳か銅鑼が鳴る(爆。
これがとても緩く、脱力感満点である。
(日本はとってもキッチュ感漂うエキゾチックな東洋として描かれている)。
映画上映の予定も敷地のスピーカーからよく流れるが、こんな時に映画も見ていたのか?
ともかく、余裕を感じる。特にホークアイの口笛(笑。

オフーラハン女性将校が赴任してくるが、例の3人の軍紀を無視した破天荒な行動振りに怒り、気の合うフランク・バーンズ少佐と結託し、上層部に告発状を提出したりするも、そんなことで何かが変わるわけではない。
相変わらず3人はやりたい放題で、オフーラハンとバーンズの情事をマイクを仕掛け病院中に流し、彼女に“ホットリップス”というあだ名まで進呈する。翌朝には隊にいる全員の軍医・兵士が彼女をあだ名で普通に呼んでいる。
(あだ名がそんな風に広まるのは、わたしも職場で何度も経験した(笑)。
もともと、死人が出る度に若い助手のせいにしているバーンズが気にくわなかったホークアイは、この時とばかり彼をからかう。
バーンズはついに激怒してホークアイに殴りかかるが、思うつぼであり大袈裟に騒がれ、バーンズは国に送り返されることに。

ウォルドスキー大尉が急に自分は隠れホモだとカミングアウトし、自殺するとみんなに明かしたときは、「最後の晩餐」(ダヴィンチの)スタイルで厳かに食事をしてお別れの儀式をする。このワザとらしいキッチュさはたまらない。
その時、”スーサイドイズペインレス”のあっけらかんとした曲をバラード風に歌う。この曲は最初にも流れるが。
毒だと渡された薬を飲んで彼は棺の中に横たわるが、ただの睡眠薬でありそのままベッドに運び込まれ、美人のマリア・ディッシュ・シュナイダー婦長をそこに送り込んでおく。(婦長は嫌々ではあるが)。
それで、翌朝ウォルドスキー大尉は何事もなかったかのように、スッキリ仕事に出てゆく、、、。
、、、全編そんな流れだ(笑。


傷病兵は次々に運び込まれるが、現場にはふざけた医者がいるだけである。
ここをまとめるヘンリー・ブレーク大佐のとぼけ振り~その器も、ちょうどピッタリな気がする。

何故か最後は尺をタップリとったフットボールの試合である。
5000ドルを掛けた試合で、ハモンド准将の提案で始まる。
戦時中かと思えるほど綺麗なコートとユニホームに隊の女性によるチアガール(この頃にはすっかり“ホットリップス”・オフーラハンもこの共同体に染まって弾けている)まで揃い派手に試合は行われる。
前半は実力に勝る准将のチームが圧倒するが、調子に乗って掛け金を二倍にさせたところで後半ホークアイチームの隠し玉の元プロ選手を投入し、ずるい手も使ってギリギリのところで勝利を得る。


何と謂うか浮かれっぱなしのお祭り騒ぎの現場である。
最後、ホークアイが帰国の命令が届いたときの彼の哀しい表情が印象に残る。
国に戻ってからは、こんなハチャメチャは到底出来まい。

異色の戦争映画?だ。



猿の惑星:新世紀

Dawn of the Planet of the Apes001

Dawn of the Planet of the Apes
2015年
アメリカ

マット・リーヴス監督
リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー脚本

アンディ・サーキス(モーションアクター)、、、シーザー(Apes指導者)
トビー・ケベル(モーションアクター)、、、コパ(シーザーを裏切る)
ニック・サーストン(モーションアクター)、、、ブルーアイズ (シーザーの息子)
テリー・ノタリー(モーションアクター)、、、ロケット(シーザーの忠実な部下)
カリン・コノヴァル(モーションアクター)、、、モーリス (シーザーの親友の賢いオラウータン)
ジェイソン・クラーク、、、マルコム(ドレイファスと共同体を維持している男)
ゲイリー・オールドマン、、、ドレイファス(サンフランシスコの生き残りの人間のリーダー)
ケリー・ラッセル、、、エリー(マルコムの妻、医者)
コディ・スミット=マクフィー、、、アレキサンダー(マルコムの息子)


やはり前作の終了時、パイロットが飛行機に搭乗直前鼻血を滴らせていたが、その後ALZ113ウイルス(猿インフルエンザ)の地球規模の感染により人類は人口を大幅に減らし、その上内紛も勃発し、文明は衰退していた。
この辺はよくある未来デストピアの廃墟の光景である。

シーザーが育ての親、ウィル・ロッドマンと別れ10年が経過していた。
ALZ113ウイルスに対する抗体を持った一部の人類が生き残ったが、今彼らは電気を求めていた。
猿と異なり、人類は電気がないとまともに生きられない。通信も出来ず、外部の生存者を探すことも出来なくなる。
利用可能なダムを探し、電気の安定した送電・供給を確保しようとやってきたところが、シーザー率いる猿たちの共同体のある場所であった。

シーザーの指導は配下の猿たちに行き届いており、手話と音声言語による充実した言語体系を整備し、高度なコミュニケーションを可能にしていた。
更に掟を設け「エイプ(猿)はエイプを殺さない」の下、組織的な協調行動をとり平和な世界を維持していた。
そこに突然侵入して来た人間が猿と出合い頭に恐れの余り、リーダー格のロケットの息子を銃で撃ってしまう。
この一件により、両者間の一触即発の緊張関係が始まる。

まず人間たちが驚き脅威を覚える場面が秀逸である。
「エイプは争いを望まない。二度と近づくな」と馬を乗りこなし言語を話す威厳をもった猿が相互不可侵を人間たちに宣言しに来たのだ。
夥しい数の手下を率いてやって来た光景に、人々は声も出ない、、、。
人間側はただ圧倒される。
彼らは摩天楼(とその麓のショッピングモール)を本拠地としていた。

何と謂っても、このような事態となると、過去の外傷経験が激しく疼く。
トラウマは潜在しつつもきっかけがあれば、いつでも爆発的攻撃力を誘発する。
製薬会社ジェネシス社の実験動物として酷い虐待を受けて来たコパがそうであった。
シーザーをこころから慕っていたが、その分彼が憎き人間に対し寛大であることがどうにも許せない。
そして自分をかつて救ってくれた存在がもう自分と共感出来ないような疎遠な関係になってしまったという絶望感が彼を暴走させる。

しかし、ここまでやるか、である。
ブルータスか?
コパは何と人間から略奪した銃で夜シーザーを狙撃し、家に火を放ち、その銃をこれ見よがしに息子のブルーアイズに示して人間がシーザーを暗殺し火までかけたと見せかけ、「シーザーの敵を討て!」と猿たちを扇動し、人間の住む砦に大挙して襲い掛かる。
恐怖政治で猿たちを統制し、シーザーの思想を守る猿たちは昔からのリーダー格のモーリス やロケットさえも檻に入れてしまう。
従う若い猿たちもその残虐なやり方について行けず、尻込みしたところで見せしめに処刑されてしまう。
もはや「エイプ(猿)はエイプを殺さない」は完全に無効となり、コパの恐怖の圧制になす術もない。

双方とも火器を使いまくった迫力の激戦や、コパとマルコム一家の救護で一命をとりとめたシーザーとの一対一の死闘は息を呑むものであった。
猿の身体能力は半端なものではない。(「キングコング」で味わってはいるが、それを上回るスリリングな動きである)。

やはり猿の共同体における第一世代は基本的に人間の虐待を受けて育ってきており、コパのような存在に煽られると歯止めの利かない攻撃衝動に駆られるものが多い。
シーザーのように幼年期において人間から手厚く育てられた経験を持つものは、個々の存在を見る目がある。
またモーリスのような賢者やロケットのようにシーザーを心底尊敬しているものは、どうあってもシーザーへの信頼を裏切らない。
悲惨な経験をもつコパの壊れようは、シーザーをもってしても図りかねるものであった。
余りに酷い虐待は、大きな波紋を将来的に齎す。
これは、真理であろう。

マルコム一家に助けられた重傷を負ったシーザーが運ばれることを望んだ場所が何とかつてウィルと住んでいた屋敷であった。
今は廃墟と化しているその家でシーザーは弾丸摘出手術を受け、ウィルとの幼少時のビデオを観て想いに耽る。
手術道具を街に取りに行ったときに偶然出くわしたシーザーの息子ブルーアイズもそこに呼び寄せ、父は意志を息子に伝える。
コパを止めること。
絶対的な信頼を彼に寄せている配下の猿たちもそこに駆け付け、決着に向かう。

シーザーがしみじみ語ることが印象深い。
われわれは人間などより優れていると信じていたが、同じだった、、、。
知能が高まると思惑は多様化し複雑さを増すものだ。
そしてどの民族も他民族より自分たちが優れていると思っているはずだが。
彼は自己解体を果たす。

そして更に貫禄を増したシーザーはコパを葬り、猿たちを再び制圧し以前のように統制する。
だが、ドレイファスが通信で呼び寄せた軍隊がすぐ近くまで迫って来ていた。
マルコムは今のうちに逃げることを訴えるが、シーザーは始まった戦争に決着をつける覚悟を決める。
”War was already started”

次回に続く一話が製作されることが分かる、、、。


凄まじいVFXであった。


猿の惑星:創世記

Rise of the Planet of the Apes001

Rise of the Planet of the Apes
『PLANET OF THE APES/猿の惑星』のリブート編。
2011年
アメリカ

ルパート・ワイアット監督
アマンダ・シルヴァー、リック・ジャッファー脚本・製作

アンディ・サーキス(モーションアクター)、、、シーザー(知能の高い猿)
ジェームズ・フランコ、、、ウィル・ロッドマン(製薬会社の研究者)
フリーダ・ピントー、、、キャロライン・アランハ(獣医、ウィルの恋人)
ジョン・リスゴー、、、チャールズ・ロッドマン(ジェームスの父、アルツハイマー)
テリー・ノタリー(モーションアクター)、、、ロケット(シーザーの忠実な部下)
カリン・コノヴァル(モーションアクター)、、、モーリス (シーザーの親友の賢いオラウータン)


モーションキャプチャーにより、猿らしくも異常に高知能な威厳ある生き物が誕生している。
知能が高いと見た目の風格も違う。
アンディ・サーキスは過去に「キング・コング」も演じている。
実に巧みな動作~所作だ。(熟練している)。


製薬会社ジェネシス社で、研究者ウィルの開発したアルツハイマー遺伝子治療薬ALZ112をサルで試し研究を進めていたところ、ブライトアイズという雌猿が驚異的な高い知能を示す。
しかしあるときその猿は凶暴化して暴れた為、射殺される。
彼女のお腹には子供がいて、それを守る上での防衛行動であった。
その子がシーザーであり、母を上回る能力を発揮し、後の猿社会の指導者となる。
シーザーは、ロッドマン家で生まれたときから家族の一員として大切に伸び伸びと育てられた。
知能は見る見る高まり、細やかな感情を伝える手話も習得してゆき、道具も巧みに使い分けている。

とても印象的であったのは、シーザーが車で森にピクニックに連れて行かれ、犬連れの家族に出くわし「あれ猿?!」と叫ばれ犬に吠え付かれる経験をした場面だ。ヒトの中で自然に過ごしてきた自分が、まるでペットと同格に扱われて愕然とする。
すぐさま、ウィルに彼は自分はペットなのかと聞きただす。
ウィルは勿論、違うと否定し、彼を帰りに自分の研究所(製薬会社ジェネシス社)に連れて行き、そこで誕生したことや死んだ母の事、自分が父親代わりであることなど出自について伝える。
彼はなおも、自分は何者なのかと問い、鋭い目つきで車窓からその研究所を打ち眺める。

Rise of the Planet of the Apes005

何者なのかと聞かれて、答えられる人間もほとんどいまい。
そこからドタバタコメディも一本作れる(「私がクマにキレた理由」、、、)
ゴーギャンはタヒチでひたすら創作に打ち込む。その他、古代ギリシャからこれまで、様々、、、。
ヒトの歴史は、それを何とか解明したいという歴史でもあった。
シーザーの知能はもう並みの人間はとうに超えていたからそんな疑問を抱いてもおかしくない。

シーザーを賢くしたALZ112はアルツハイマーのウィルの父チャールズに見事な効果を齎し、彼も人生を取り戻したかに見えた。
しかしその喜びも束の間、再び病が薬効を追い越してしまい、認知症が進んでゆくこととなった。
ウィルは更に強力な新薬ALZ113を開発する。(彼は研究所の中心的研究者であった)。
人体にはまだ未知数の薬であり、慎重な臨床試験を進めている矢先、ウィルの同僚がその薬のガスを誤って吸い込んでしまう。
アルツハイマーの症状が進んで悪化したチャールズが、隣に住むパイロットの乗る車に誤って乗り込み車を衝突させ壊してしまう。
チャールズに激しく詰め寄るその隣人の姿に危機を感じたシーザーは、彼に飛び掛かり過剰な反応をしてしまう。
その一件により、霊長類保護施設に送還されることになってしまった。

Rise of the Planet of the Apes003

施設の環境は最悪であり、家に帰りたいと懇願するがどうにもならない。
ウィルも何度も足を運び金を渡し引き取ろうとするが、彼らはシーザーを手放さない。
ここで彼は自分が猿であることと猿には戻れないことを同時に認識する。
そして人間に対する強い憎しみを募らせてゆく。
シーザーは管理人と猿両者から虐待を受けるが、高い知能をもって猿たちを自分の配下につけることに成功する。
ゴリラのバックやオランウータンのモーリスを仲間につけ、ボスのロケットを攻略する作戦が功を奏したのだ。

ついに施設の管理側が折れて(金によって)ウィルにシーザーを受け渡すことになったが、その時はもう既にシーザーは家には戻らぬ決心を固めていた。(人間界から離れる決意である)。あれ程家に帰りたがっていたのに、ウィルの申し出を断る。
彼は猿たちを組織し、人間から彼らを解放し独立を企てていた。
(ヒトの歴史にも同等の闘争があったものだが、同様にいま彼らによって展開される)。
だが、一般の猿たちの知能程度が低過ぎ、配下に置いたとはいえ現状では戦力にはならない。
そこでシーザーは、すでにロックの番号を記憶している為、ヒッソリ施設を夜間に抜け出てウィルの家に行き冷蔵庫からALZ113を盗み出す。(ウィルが父に対してその薬ALZ112を投与していることは見てよく知っていた)。
彼は仲間の檻の前でALZ113を振りまく。

翌朝には、彼ら全員の目つきと仕草が一変していた。
一致団結した猿が一丸となって行動に出る。
シーザーがこの時、「ノー」とはっきりことばを放つ。
それが反撃の狼煙に響く。
一行は施設を破壊し、管理人に復讐を果たし、猿を研究実験に使っているジェネシス社に向かい一斉に襲い掛かる。
そこに閉じ込められていた猿も解放し、かつてウィルと行ったミュアウッズの森に群れで向かう。
もう行くところまで行くだけだ。

Rise of the Planet of the Apes004

ゴールデンゲートブリッジで大暴れして警察や騎馬隊を撃破してしまう。
この映画最大のアクションの見せ場である。
猿たちが見事にシーザーの下で組織化され、警察の裏をかき猿の身体能力をフルに活かした攻防が繰り広げられる。
シーザーの凛々しさは、騎馬隊から奪った馬に颯爽と乗って戦うところでもう頂点に達する。
大変な指揮官だ。
優勢に闘いを進め、次々に警察を撃破してゆく様は爽快という他ない。
ついに機関銃掃射するヘリまで叩き落し決着をつける。

一方、ALZ113を浴びて体調を壊していた同僚は、何とか薬の危険性をウィルに伝えようと家に赴くが、合うことが出来ず話しかけて来た隣人のパイロットの前で激しくせき込む。その時血の飛沫を彼にかけてしまう。
その後、その同僚の死体が自宅で発見される。
ALZ113は人体にとっては、致死性ウイルスであることが明らかに示唆される、、、。

ウィルとは、お別れである。
生きる世界が異なるのだ。
「家に帰ろう」というウィルに対し、「シーザー、うち、ここ」とはっきりことばで返す。
ふたりは同等の挨拶を交わし、お互いの世界に戻ってゆく。


Rise of the Planet of the Apes002

この映画のエンディング程、続編を期待させるものはない。
見事に伏線が導火線の如く伸び最後にパンデミックを予感させて終わる。
これで次を観ないで済ませられようか、、、。

直ぐに注文である(笑。
「猿の惑星:新世紀」


エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事

The Age of Innocence001

The Age of Innocence
1993年
アメリカ

マーティン・スコセッシ監督・脚本
イーディス・ウォートン原作

ダニエル・デイ=ルイス、、、ニューランド・アーチャー(名家アーチャー家の家長、弁護士)
ミシェル・ファイファー、、、エレン・オレンスカ(伯爵夫人、名門ミンゴット家出身)
ウィノナ・ライダー、、、、、、メイ・ウェランド(エレンの従妹、ニューランドの婚約者~妻)
ジェラルディン・チャップリン、、、ミセス・ウェランド(メイの母、エレンの叔母)
マイケル・ガフ、、、ヘンリー・ヴァン・デル・ライデン(ニューヨーク社交界の長老)
スチュアート・ウィルソン、、、ジュリアス・ボーフォート(出自の怪しい事業家)
ミリアム・マーゴリーズ、、、ミセス・ミンゴット(ミンゴット家の女家長、エレンとメイの祖母)
リチャード・E・グラント、、、ラリー・レファッツ(ニューヨーク社交界の影の仕切り屋、嫌われ者)
メアリー・ベス・ハート、、、レジーナ・ボーフォート(ジュリアスの妻、名門タウンゼント家出身)
アレック・マッコーワン、、、シラトン・ジャクソン(ニューヨーク社交界のゴシップ通)


1870年代のアメリカ上流社会が舞台であるが、これほど窮屈で退屈ではわたしなら3日で何処か他の国に脱出しているはず。
こんな形式ばったやりとりと、悪い噂噺や牽制し合いのパーティ続きでは息も詰まる。
自由主義的な教育を受けて育ったヒロインのエレンもイギリスで結婚したが、、、。
伯爵がとんでもない人物のようで、ニューヨークに離婚を前提で戻って来ている。
だが上流階級独特の保守的な環境ではゴシップの格好の餌にされ、自由で進歩的な思想を持つエレンにとっては、甚だ居心地が悪い。
単に噂を流して楽しむだけでなく、彼女の帰りを快く思わぬレファッツなどが権力によって他の皆が歓迎パーティを欠席するように仕向けたりの嫌がらせをして来る。
幸いニューランドが、誰からも慕われる実力者であるヘンリー・ヴァン・デル・ライデンに力添えを頼み、彼に歓迎会を開いてもらうことで彼女の名誉が保たれる。
しかしメンドクサイ世界ではある。

ニューランドのアーチャー家は名家であるが、彼は保守的な慣習には馴染めない。
表立って批判はしないが、快く思ってはおらず内心引き裂かれている。
その為、伯爵夫人のエレンとは大変感覚的にも知的にも惹き合う。
婚約者のメイは、伝統的な生き方に何の疑問も感じない女性だが、その健気で直向きな性格と美しさにニューランドは恋していたのだが、、、。
エレンのように本質的な部分で共感してしまう存在が現れてしまった為に、この後大きく揺れ動いてゆく。

ニューランドとエレンは幼馴染であり子供時分に遊んだだけで、適齢期には彼女はヨーロッパに留学しており、その対象から外れていたのだ。
エレンがいないとなると、社交界で際立つ珠玉の華と言えばメイ・ウェランドとなる。
お互いに惹かれ合い相思相愛関係であるのだが、、、彼らはすぐに結婚とはならない。
形式ばった両名家としては婚約してから1~2年はお付き合い期間を置き、その後初めて盛大なパーティで仰々しく発表という手順を踏まなければならないのだ。
これがニューランドには、気にくわない。だが、その伝統に染まって全く疑問もないメイにとっては何故そんなに彼が急かすのか分からない。
しかしメイは、感受性が異常に鋭く、彼女に嘘は通用しない。また、純朴な素振りを見せていて、かなりの事を感知・把握してしまっている。これにニューランドが気付くのは、大分遅れてからだ。

タイミングさえ合っていれば、ニューランドとエレンこそが、その教養と価値観や感覚的にもカップルに相応しいのは明らかだ。
二人とも藝術的素養も深い。
ミセス・ミンゴットも「あなたたちがお似合いだわ」と鋭く見抜くように。
(冗談で言いながらはっきり残念がっている)。

このニューヨーク社交界では、ヘンリー・ヴァン・デル・ライデンのような絶対的な信頼を得ている人格者やミセス・ミンゴットのように誰からも一目を置かれている(「皇太后」扱いされている)シンボリックな存在は、大きい。
彼らがいるお陰で、不当で無思慮で無責任な政治的圧力に潰されずに済む。
もし彼らが無能であったらそれに太刀打ちできない。
というより徹底した暴力が加えられることになろう。
わたしの近傍でもそういった状況があるが、統率者的な存在が皆無であることでかえって最悪の状況には振り切れないでいる。
それでよいと思う(笑。どうでもよい。

そして中盤からの泥沼状態である。

The Age of Innocence002

いよいよ堰を破ったようにニューランドとエレンの感情が横溢する。
もう全てを捨てて現実のない国に行こうとまでニューランドは口走る。
パラレルワールドにでも行ってしまいそうな凄い勢いだ。
エレンはメイの為にも、身を引こうとするが、ニューランドが突っ走ろうとする。
そしてニューランドの胸の内に、何とも恋愛の純粋で究極的な~自然で動物的な感情が発動して疼く。
「メイが死ねばわたしは自由になる。人は若くして死ぬこともある」と彼女の髪を撫でながら本気で考える。
わたしはこの先がかなり心配になってしまう。
主人公3人にはとても感情移入している為、この先「アンナ・カレーニナ」状況になってしまわないかハラハラして来るのだ。
動物(生物)としてのヴァーチャル~潜勢力がいつアクチャルに突出しないか、こういった制度~超自我が覆いかぶさる時勢では、とても危うい。

結局、メイに子供が出来たことが分かり、エレンはヨーロッパに戻り、ニューランドとメイはふたりの子供~兄妹を成人させるまでに幸せな家庭を築く。
メイは先に旅立ち、独り身となった父を息子が海外事業で出張の際、誘う。
そこで初めて息子がエレンの事を知っていることが分かる。
というより海外留学時にすでにエレンにはお世話になっていたのだ。
何故なら、メイが他界する間際に息子独りを呼び、お父さんが私の為に最愛の人と別れてくれたのよ、と告げていたのだ。
息子は父をもう一度、その最愛の人に逢わせようとして彼を連れて来たのだった。

もう初老の身となったニューランドは、エレンの住むアパルトメントを暫く臨んでいたかと思うと、何も言わず去って行く。
何かの賭けを彼はしたみたいだった。
以前にも「船が灯台の前を通り過ぎるまでに、彼女がこちらを振り向いたら、声を掛けよう」と決め彼女を見守ったが、、、
ついに振り向かなかったので、声は掛けなかったことがあった。
きっと窓辺に彼女が顔を出したら入って行こうと決めていたのだろう。
窓が召使に閉められたので、やめたのだ。


全編を通して絵がひたすら美しい。特に夕日に黄昏た風景。
勿論、ウィノナ・ライダーの瑞々しさ。
衣装・テーブルウェア・調度品・絵、、、装飾美術も充実である。


映画である。そう思った。


やっと雨が上がり

darkmoon.jpg

まだ月は見えない。
3日ほど前が新月であった。
まだまだ待ってから見たい。
その前に、夜空が澄んで晴れ渡っていないと、、、。

20日間くらい雨が降り続き、強風も酷かった為、家庭菜園が瀕死の状態になってしまった。
ダメになったものが幾つもある。
毎日勢いよく採れていたトマトも激減した。
農業を本職でやろうとすればさぞや大変だろうなと感じる。

我が家がほったらかし過ぎるのだが。

そう、ほったらかしもそろそろ危なくなってきた。
長女がまだ宿題をやっていないのだ。
いよいよ一家総動員で宿題に取り掛からなければならない事態となりつつある。
ともかく、手を付けるまでが大変なのだ。

また、一つの事をやりだすと、そればかりに熱中して他のものへの移行が出来ない。
適度な切り替えが難しいのだ。
スイッチが入ってしまうと、寝なさいと言っても寝ないでいつまでもやっている。
(娘の事を謂っているようで、自分にも重なって来る)。

考えてみれば、わたしも徹夜で絵を描いていた。
どうしても踏ん切りがつかぬのだ。
拘りが強いとか、頑固とかしつこいとかいう自我レベルの問題ではなく、、、
それは描くと同時に紙面に生成されるシステムに半ば憑依されている感覚なのだ。

シュルレアリスムかと謂われれば、半分そう、と謂える。
何かを解体してやろうとか新たな造形を創造したいという政治的意図は微塵もない。
しかし、自分の意識には囚われずその時に現れた論理に身を委ねている。
結構スリリングな、そんな行為なのだ。

それはとっても面白い。
ヒトの本質である、眩暈を好む行為のひとつとも謂えよう。
貞子を見てみたいのとも基本似ている。
ドキドキしたいのだ。
ワクワクの快感なのだ。

自分の枠の中でだけやることなら、もっと理性的に規則正しく抑制して熟すことも出来ようが、、、
(もう寝よう、明日が大変とか)
ある程度、飛んでいる為、そんな気にならない。
この半分、規則や帰属や日常や自分とかなど、どうでもよいという感覚がとても身体を軽やかにする。
醒めた目で(事後的に)客観的に観たら、創造のプロセスを愉しむとか謂えそうだが。
そんなものだろうか。
そこには固有の時間があり、重力がない。


しかし反面、やるべきことはやらなくてはならない。
夏休みは必ず終わるのだ。
いつもの時間流に着地しなければならない。
土日の次にはまた学校(仕事)~人間の時間が始まる。

ただその反復運動に垂直性を与えてゆかなければ。
それがこれからの課題である。


moon06.jpg



ザ・ドア 交差する世界

Die Tür002

Die Tür
2009年
ドイツ

アノ・サオル監督
ヤン・ベルガー脚本
アキフ・ピリンチ原作『Die Damalstür』

マッツ・ミケルセン、、、ダヴィッド・アンデルナッハ(有名画家)
ジェシカ・シュヴァルツ、、、マヤ・アンデルナッハ(妻)
ヴァレリア・アイゼンバルト、、、レオニー・アンデルナッハ (娘)
トーマス・ティーメ、、、シギー(ダヴィッドの隣人)
ティム・ザイフィ、、、マックス(ダヴィッドの親友)
ハイケ・マカチュ、、、ジア(ダヴィッドの隣人で愛人、ミュージシャン)


よく出来た映画で、びっくりした。
神学的な意味での罪というものを匂わせる作品であった。
ただ、愛する一人娘が自宅プールで溺れ死んでしまうのだが、どれだけ深いプールを庭に作っているのか?
ドイツのプールはみんなあんなに深いのか?サメが出てきそうなオッカナイプールである。
それにも正直びっくりした。

パラレルワールドを究極の救済(死を超える場)として縋るヒトたちの在り方を見応え充分に描いていた。
この時期(2006年)は、まだかなりファンタジックな次元で捉えられていたであろうパラレルワールドであるが、いまや理論物理学の重鎮ともいえるような学者たちが、パラレルワールドを考えないと辻褄が合わないと唱え、それぞれの理論を提唱している。
(この噺が主体ではないのでやめるが、、、面白いものだ)。
ビッグバン時に無数の泡宇宙が形成されたという理論は特に有名。
ただし、他の宇宙の観測自体が原理的に不可能であるため、理論上でしか説明はつかないものとしてある。
(別の時空にあるために相互作用がない。しかも物理原理が全く異なる世界が想定されている)。
しかし、ごく最近ではその多元宇宙が量子レベルで影響を与え合っているという理論も出ている。
ともかく目の離せない勢いのある分野?であることは確かである。

この映画のように、人の身の丈レベルでの「ドア」という形で行き来が可能であれば、これは飛んでもない事件である。
当たり前だが、、、。
この事実が大きく広がらないうちに、それを知る者は結託して秘密を守り抜こうとするだろう。
誰もがその5年間遅れたそっくり世界で、掛け替えのない恩寵を受けているのだ。

Die Tür004

ダヴィッドは自分が近所のジアと浮気中に、娘レオニーを自宅プールで溺死させてしまう。
彼女が事故でプールに落ちたとき彼は、助けられなかったのだ。
蝶を取ろうと娘に持ち掛けられたとき、彼はぞんざいにそれを断って娘を独りにしてしまった。
これ程の後悔、慚愧の念に堪えないことがあろうか。
父親としては、どんなことをしてでも償いたいし、娘を取り戻せるなら何でもやるはず。

ある時、途方に暮れて冬空のもと放浪してるときに、蝶に誘われ偶然トンネルを見つける。
そこを抜けると季節は変わり、まだレオニーは生きている時空に出ていたのであった。
その街並みの光景を見ると、何と丁度これから自分が浮気現場に向かう途上ではないか、、、。
彼は、自宅にまっしぐらに走り(ダンプにぶつかりながらも)直ぐにプールに飛び込み、溺れたばかりの彼女を救いあげる。
それはもう、あり得ないほどの感激の一瞬、である!
ただ、これで目的達成で終わるものではなかった。
この後の人間ドラマである。

その時期にすでに夫婦関係はかなり悪化していたが、娘を大事にする彼を見て、妻は次第に彼を許す気分になってゆくが、肝心の娘は彼に抵抗を示し、遠ざける。
(ちなみに、5年後の元の世界では、娘の死をもってふたりは離婚している)。
娘の為だけにその世界に来たのに肝心の娘はとってもよそよそしく本当のパパではない、あなた誰?とくる。やはり5年後のパパだと明らかに違和感を感じるのだ。

ダヴィッドは娘をプールから救って家にいるうちに自宅に戻って来た5年前のダヴィッドに見つけられ不審者と間違えられる。
もみ合ううちに、若いダヴィッドを誤って殺してしまう。
そこに本来いるはずのない自分が自分を殺してしまい、そのまま入れ替わることにしたのだ。
それしかあるまい。
これからは娘を大事に育て、家族を大切にしてゆくために彼は最善を尽くす。

Die Tür001

しかし娘の目は鋭く、彼に不審の念を向ける。
彼女は、溺れかけた日のことを垣間見ており、彼がパパに何かしたと確信していた。
ダヴィッドは、前のパパは、レオニーをしっかり守ることが出来なかったから遠くに行った。合わせる顔もないのだ。今のパパの方が良い人なのだ、と説明する。
だが彼の誕生パーティの折、友人のマックスがレオニーの描いている絵をもとに、庭に埋めた若いダヴィッドの屍を見つけてしまう。
マックスが取り乱し、マヤにそれを告げようとするところ、彼を突然現れた隣人シギーが殺害する。
シギーもこの世界に流れてきて人生のすべてをやり直し、競馬で大儲けして暮らす男であった。

何とこの世界には、パラレルワールドからやって来た人間が少なからずおり、その利権を守るためにも、彼らの秘密を暴露しようとする人間を次々に消していたのだ。
シギーは、この(5年前の)世界を守る為なら手段を選ばない。何しろ彼は元の世界では犯罪者であったのだ。
一度、ダヴィッドはマヤとレオニーを連れて自分の元の世界に逃げようとするが彼に捕まり引き戻される。
シギーは、何としてもこの世界での自分(とその権限)を守り抜きたいのだ。
そして街に出くわした人間は目くばせし合い、彼らが実は同じ道を辿って来た人々であることがわかる。
まるで「ボディ・スナッチャー」の不気味さだ。

Die Tür003

そして何と5年後のマヤまでレオニー逢いたさにやって来てしまう。
そうなると、若いマヤ(ことの次第をよく理解していない彼女)を殺害して、この世界で親子3人で暮らすことを強制されることになる。この世界の安定のためである。
ダヴィッドにとり、これまた大変な選択だ。同じ妻である。殺せるはずもない。
マヤ同士が路上で出くわし驚愕し合う。
そして彼女たちも理解する。

ここからエンディングに向け些か力業となるが、スリリングな脱出劇となる。
これがとても侘しいこととなるのだが、ようやく前の父より自分を好いてくれるようになっていた娘を若いマヤに託し、彼は囮となって、シギーたち移住者の追撃を食い止める役を担う。
その隙にすでに場所は一度連れてこられて知っている道を通り、母娘はあちらに逃げ込む。
パンクしたダヴィッドの車のボンネットに張り付いたシギーごとそのトンネルの入り口に激しく激突し、「ドア」そのものが埋もれて壊れてしまう。
こちらに残ったのは、結局5年後のダヴィッドとマヤのふたりであり、娘はもう一人のマヤと閉ざされた向こうの世界に行ってしまった。

これをどう受け止めればよいか。
ダヴィッドとマヤにはすでにそこにいる理由もないが、ふたりで新たにやり直すことは出来るかも知れない。
(ふたりとも力なくプールサイドに座ってしまい動く気力もない)。
娘は母と別世界で生きていると実感をもって想像することは可能である。
それだけでも救いであるか。
それとも一緒に過ごせないのなら単なる死別と等価ではないか、と考えるであろうか。

やはり罪はどうあがいても、なくなりはしないというものか、、、。





イヴ・サンローラン

Yves Saint Laurent

Yves Saint Laurent
2014年
フランス

ジャリル・レスペール監督


ピエール・ニネ、、、イヴ・サン=ローラン
ギヨーム・ガリエンヌ、、、ピエール・ベルジェ(イヴの無二の親友、恋人)
シャルロット・ルボン、、、ヴィクトワール・ドゥトルロウ(モデル、前期の親友)
マリアンヌ・バスレール、、、ルシエンヌ・サン=ローラン(イヴの母)
ニコライ・キンスキー、、、カール・ラガーフェルド(シャネルのデザイナー)
ローラ・スメット、、、ルル・ド・ラ・ファレーズ(モデル)
マリー・ド・ヴィルパン、、、ベティ・カトルー(モデル、後期の親友)


昨日、イヴ・タンギーを想い出したところで、イヴ繋がりでイヴ・サンローランにした(爆。
夏の暑い中、冷たいジュースばかり飲んでいて、ばて気味の体には応える重さであった。
この映画の重さは一種独特である。

ふたりで集めた美術収集品を独りで観るのが辛い、ということから長年イヴを支え続けたピエール・ベルジェがコレクションを競売に出すところから始まる。
この出だしからして重い。
「収集は人生を映す」、、、まさにそうだ!
ピエール・ベルジェにとってイヴとの今生の別れは、その収集品との別れでもあったか。

Yves Saint Laurent03

非常に二枚目である(実物も)が、同性愛者である。
この重さがわたし的には、あった。
見た目は(特に若い時分は)神学生みたいであるが。
ピエール・ベルジェとイヴ・サン=ローランの関係も生々しい依存と協力の関係であり、悲痛なぶつかり合いも多かったことが分かる。
後半の享楽的で楽天的な感じの描写も、とても身を切るような痛々しさを覚える。
ドラッグとアルコールに加え、ヘビースモーカーでもあったような、、、。


若くして(21歳で)、クリスチャン・ディオールのメゾンを引き継ぎ、維持・発展に導きフランスを救ったとまで評される。
その最初のコレクションを見た審美眼の鋭い雑誌の仕事をしていたピエール・ベルジェは、その天才に一発で惹かれる。
ピエール自身、彼にとっての藝術~美術の枠を広げる電撃的な機会となったのだ。
移ろい易くも永続的なる美”モード”を追求するふたりの日々の闘いの始まりである。
それはイヴの死ぬまでひたすら長く続く。

イヴは程なく戦争に召集され、軍隊で精神的苦痛を味わって鬱病となり、薬とアルコールが手放せない状態になる。
そのせいもあり、クリスチャン・ディオールを実質クビとなり、イヴにとっては自身のメゾン~クチュールハウスを作り、創作をする以外に道はなくなる。

イヴ・サンローランという会社設立に際しての資金集めに始まり、企業経営、顧客探し、イベント企画、プレス発表、オートクチュールの発表時のマネージメント、ステージを裏方として仕切るなど、デザインそのもの以外のすべての仕事をピエールが請け負った。
ランウエイの奥からいつも見守り続けるピエールの姿は、彼の献身的な役割を象徴的に示していると謂えるか。

Yves Saint Laurent02

いくら才能に溢れ、デザイン以外には何もできないとまで嘯くイヴであっても、常に斬新なアイデアを出し続けることは至難の業であった。(引退時に、地獄の日々であったとイヴは語る)。
少し低迷する時期が続くが、モンドリアンに着想を得て発表したモードで再浮上する。
このころのライバルは、カール・ラガーフェルドやピエール・カルダンか。
イヴは、カールの恋人とも恋仲になったりする。過剰なドラッグやアルコール摂取の線での浮気であろうか、、、ともかく自己破滅的に走りつつも、コレクション時には「デザインを終わらせねば」と身を削って創作に明け暮れる。この際に支えるのが常にピエール・ベルジェとなる、、、。そんな過酷な関係だ。
(この時期の著名なデザイナーは同性愛者が多く、堂々と公表までしている人が多い)。
この映画で見る限り、他の同性愛者は妙に力強い。特にカール。
しかし、イヴはいつも青息吐息で、コレクション発表時に力を振り絞りなんとか完成に漕ぎつけるという状況だ。
天才と呼ばれ帝王と讃えられ、富も名誉も得たが、彼の内心はどのようなものであったか想像する気にもなれない。

「欝に苦しまないのは一年のうち2日だけだった」とピエール・ベルジェが終盤で述懐するように、春・秋のコレクションで人々の喝采を浴びる日だけ解放されるというのは、何とも辛い。
軍隊の体験がトリガーとなったのだろうが、もともと非常に内向的で繊細な人であったようだ。
(芸術家には少なくないタイプであるが)。

常に完全を期し、成功を勝ち得ていく度にプレッシャーは重層されていったのだと思う。
しかし恐らく彼のその身体性があってこそ、天才的創造が生まれたのだ。
苦痛は、彼にとっては属性のようなものだった。
孤独もしかり。

それは創造者の宿命とも謂えるものかも知れない、、、。



キャストが優れていた分、説得力があって重くて、ばて気味の体にはキツイ。
明日は軽めの、、、エンターテイメント映画でも観たい(笑。








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ロスト・バケーション

The Shallows001

The Shallows
2016年
アメリカ

ジャウマ・コレット=セラ監督
アンソニー・ジャスウィンスキー脚本

ブレイク・ライブリー、、、ナンシー(医大生)
サメ
カモメ


「浅瀬」と言った方が何やら意味深げで秘められた禍々しい何かを想像させる。
(イブ・タンギーの絵のような)。
とんだバケーションになってしまったのも事実だが、結果的に悟りも開けたみたいだし、、、。

ワンシチュエーションによる究極のサバイバルである。
満潮までは持つ小さな岩礁に独り取り残され繰り広げられる、「場所と時間の限られた」生死を掛けた闘い~ゲームなのだ。
サメの回遊の習性を観察し、海に入っていられる時間を割り出す。
傷との闘い(波乗りの最中にサメに噛みつかれ重症を負う)もある。勿論、恐怖と不安との葛藤。
ビーチまで精々200m位なのに、人気が少ないことが災いして、救援が呼べないもどかしさ。
(実際、たまたま人が浜にいて、手を振って叫んでも何のことだか理解できないという絶望的な孤立感)。
この様々な過酷な条件のもと精神をすり減らしつつ、最後まで諦めずに果敢にサメと対決する女子医大生なのである。

何より、痛い。とっても痛い。傷を自分でありあわせの針と糸?ピアスとネックレスのチェーンで縫合するのだ!
ああっ血が溢れ出る、その激痛!、、、わたしのもっとも苦手なタイプの噺~シーンではないか、、、。
圧迫包帯をスーツの袖をブレスレットを歯代わりにして割いて作る。
流石は医大生というか女の子というべきか、、、女子は強いというところか?!
その上に、触れるととても痛いサンゴやサメさえ避ける毒を持ったクラゲの群れ、、、。
もう、痛いこと続きで、その度に目を逸らす。
彼女もその痛さに、海中で絶叫するのだが、水の中で叫ぶとどうなるのだろう?
そのまま継続して泳いでいるどころではないはずだが、、、。

サメの造形~質感や動きはリアルで申し分ない。
カメラワークも至れ尽くせり。
ナンシーの視点から、彼女の近傍から、水中から様々な角度で、上空からの俯瞰、そして美しい秘密のリゾート ビーチでの華麗なサーフィンフィルムとしても充分に魅せる。
ビーチまでの森の様子も木々からの木漏れ日の道など、まさにバケーションの導入としてこの上ないシチュエーションではないか。
そして凄いビーチが眼前に開け渡る。それだけ観れば誰でも行きたくなるような圧倒する美しいビーチに違いない。
亡き母から教えてもらったビーチに日頃の勉強疲れを癒しに来たという設定か。
さらに進路で迷っており、医学部辞めようかなとか思っているところ。
確かにそんなときは、人気のない美しい海岸で波乗りして頭をクールダウンさせれば、何かがつかめよう。
そう想うところだ。
だが自然はそう甘くはなかった、、、というところか。経験を通して学べということか、、、にしても代償は余りにも痛かった。

The Shallows002

ただ、サメの口の大きさと噛まれた太ももの歯形がどうも合わない気がする。
噛む力も、ブイの鉄骨をへし折ったり、酔っぱらったオヤジさんの胴体を引き千切る破壊力からすると、何と謂うか傷が、、、とても痛そうなのだが、、、浅すぎる気もする。まあ、その時は弱く噛んだのかも知れないが。いや牙が触れ割かれたのか、、、今一つよく分からなかったところだ、、、そうか!余りに痛そうだったので、わたしが目を逸らしていたのだ。
(どうだろう?)

このサメのしつこさは尋常ではなく、クジラを仕留めてその死体も浮かべており、サーファーの若者ふたりと酔っぱらいを襲い、少なくとも満腹のはずなのだが、執拗にナンシーの周囲を回遊し続けるというのも、どういうものか。
サメの習性上こんなものなのか、、、?ナンシーには特別の感情を持っているのか?
確かに憎々しい表情を浮かべて急襲して来るが、考えてみればサメ(ホオジロザメ)はみなそんな顔だ。

The Shallows003


そして自然界のタイムリミットを迎え、水没する岩礁からサメの攻撃をかわして如何に逃げるか、という場面であるが、まさかというスーパーマン的な(米軍特殊部隊所属のエリートみたいな)身のかわし方と、車はすぐには止まれない的なサメの動きで闘いの決着はつく!

彼女はこの闘いを通して生きることへの執念と医者として命を救うことの大切さを悟る。
(これを悟らせるための亡き母からのバケーションビーチのプレゼントだとしたら、プロセスにおける学びは余りに痛い)。
一年後、妹と父親と、何でまた同じビーチで波乗り出来るのか不思議でならないのだが、、、。
外傷経験も逞しく乗り越えたのだ。
ただ太ももには、歯形の傷跡がしっかり残っていた。(やっぱり噛まれていたのだ)。


しかし何でアメリカ映画には、サメパニック映画が多いのか、、、。
アメリカ人にとって、サメとは何なのか?
タコではだめなのか?(タコ対サメは観たことあるが)。
日本には、オオダコスダールがいる!
(それがどうしたと言われそうだが、、、)。


これまでわたしが観たサメ映画では抜きん出てよく出来ていた。
(安っぽさが全くない力作であり、主演というかほぼ独り芝居であったブレイク・ライブリーの好演も痛々しいが、光った)。
あのカモメは、動物事務所に所属する俳優なのであろうか?
助演者になっていたが、、、。


スリ

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Pickpocket
1959年
フランス

ロベール・ブレッソン監督・脚本

ピエール・レマリ 、、、ジャック(ミシェルの親友)
マルタン・ラ・サール 、、、ミシェル(スリ)
マリカ・グリーン 、、、ジャンヌ(ミシェルの恋人となる)
ピエール・エテックス 、、、ミシェルの共犯者


ロベール・ブレッソンもかつて写真を撮っていたそうだ。
ブレッソンと謂えばアンリ・カルティエ・ブレッソン~決定的瞬間であるが、こちらのブレッソン映画もかなり写真的な映画である。
そう、「シネマトグラフ」と呼ばなくては、ならない。
「役者」ではなく「モデル」であった。
プロの役者は一切使わず、それ一本限りの素人を使うことで、芝居(演劇)掛かった演技を締め出し、感情表現を抑えた独特なストイックな絵作りをしている。何と謂うか、不純物を嫌った監督なのだろう。


この作品のジャンヌ役のマリカ・グリーンはそのまま映画界に留まった。
ドミニク・サンダも同じパタンである。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは、その後女優としてだけでなく監督にもなり、ゴダールとも結婚している。

学生時代、文字通り大枚叩いて写真集を買っていた(爆。
この監督のブレッソンも写真集があるかどうか家で調べたが、アンリ・カルティエ~しかなかった(残。
しかしこの人の写真も見てみたくなる映画である。

カメラワークも時折かかる音楽も良い。
スリの指裁き?の華麗な技が鮮やかに追われている。
特に途中から3人で組んでスリを連携で行うところなど、その機械状のスムーズさに感心してしまう。
そう、動きの連続性に恍惚となる面はある。
しかし、第三者には通常これはまず見れない~経験不能ものであり、映画だから超越的に動作の流れをわれわれも確認することが出来る。
スリというものの本人にとっての醍醐味がリアルに分かる気がするところだ。
(貧困とかの理由などに関係なく、一度その快感を身に覚えてしまうと依存症的になってしまうのだ)。
それを志す人にもかなり参考になったのではないか?大丈夫か、とも思うが(笑。
フランス映画にはよくスリの場面が出てくるが、文化的に根付いている面もあるのだろうか。

この映画でミシェルの言うような「特別な権限を持つ者がいる」という特権意識を彼ももっているのか?
彼はわざわざ警部に、その手の話を幾度となく向けたり、スリの犯罪者の本を彼に貸そうとまでしている。
つまり、隠れて悪いことをするという意識ではなく、、、スリという行為自体、被害者本人に見つからずに金品を抜き取る技~仕事ではあるが、、、その仕事自体の正統性を主張する権利のある人間がいるのだ、という意識を持っているようなのだ。
要するに、職業スリを堂々とやるという、、、それとも単に自分と警察を誤魔化す為のはったりか。
良識ある親友ジャックが何度も堅気の仕事を探すように忠告するが、ミシェルは無視し続ける。
しかしどうであろう。
非常に行為に当たって虚無的で痙攣的なのだ。
堅気の仕事という選択もこころの片隅には常にある感じは匂う。

その間、ジャック、ミシェル、ジャンヌの奇妙な関係は続く。
ジャンヌはミシェルの病気の母の面倒まで診てくれていて、どういう立ち位置なのかよく分からないのだが、ミシェルの事はずっと好きでいるようだ。ジャックはそんなジャンヌのこころは見通していたが、ミシェルはそれに全く気付かない~ジャックがジャンヌのことを好きなのだろうと思っている~スリのことしか頭になく暇さえあれば指の訓練や技の練習に明け暮れている。そんなミシェルをずっと心配している友というのもかなり奇特な人である。

Pickpocket02.jpg


2年ほど、イタリア~イギリスへ渡り身を隠していたが、古巣に帰る。
ジャンヌはシングルマザーとなっていて子供がいた。
そんな折、子供の面倒は自分が見てやるとまで言ったはよいが、真っ当な仕事に就く気にはなれない。

だが犯罪にはどうしても最期が来る。
ミシェルはおとり捜査にまんまと引っかかり、競馬場で警官の財布を抜き取ろうとして手錠を掛けられる。
留置所にジャンヌがやって来る日が続く。
暫くジャンヌが来ない日があり、とても不安になりソワソワする。
そして、高熱を出した子供の看病で来れなかったと手紙が届いたときに胸が高鳴るのを覚える。

彼女への愛を確認する。ここでか?だが、そうしたものなのだ。
そこに「辿り着くのに奇妙な回り道をした」とミシェルは述懐する。

Pickpocket03.jpg


これほど手先が器用なのだから、これからはマジシャンなど目指してもよいのではないか、と思ったが(笑。

「サムライ」という映画があったが、この映画も「スリ」にしたらよかった気がする。
音的にシュールでとても合っていると思う。(しかし日本はスリの本場ではないから、日本語にする必然性はないはず)。



とうもろこしの島

SIMINDIS KUNDZULI001

SIMINDIS KUNDZULI
2014年
ジョージア/ドイツ/フランス/チェコ/カザフスタン/ハンガリー

ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督
ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オヴァシュヴィリ、ルロフ・ジャン・ミンボー脚本

エレメール・ラガリイ撮影
ヨシフ・バルダナシュヴィリ音楽

イリアス・サルマン 、、、老人
マリアム・ブトゥリシュヴィリ 、、、少女
イラクリ・サムシア 、、、ジョージア兵
タメル・レヴェント 、、、アブハジア士官


凄いものを観てしまった。
こんな剥き出しの生活は今の日本の現状からは想像もつかない。
セリフもほとんどない、自然の物音の中に銃声が響くくらい。
何とも言えない淡々とした緊張が続く中、、、
ヒトの生活の元型的光景を見せられるばかりであった。

祖父と戦禍で両親を失った孫娘の生活である。
混じり気のない自然とヒトとの絶妙なバランスの内の絵はまた取り立てて美しい。
音楽もそこに見事に溶け込んでいた。
美しい朝日と共に目覚め夕日が沈むころに寝屋につく。
季節の移り変わりも鮮やかである。
(孫娘の服装からも分かる)。


それが、中洲での生活なのだ。
農民は誰の土地でもない中洲に自分の農地を見出す(しかないのか?)
独りの老人が小舟を漕いで中洲に降り立つ。
上流(コーカサス山脈)から運ばれた土の堆積して出来た中洲はとりわけ肥沃なのだ。
彼は初めに中洲の土を念入りに(口に入れるまでして)確かめ、選定する。
(わたしにとって、非常に新鮮で衝撃的なものであった)。

はじめは本当に小さな心もとない面積であるが、そこに木材を何度も運びバラックを建て終わるころには、中洲はかなり広がっていることに、ちょっとびっくりする。
その広がった土地を耕し、トウモロコシの種を蒔いてゆく。
まだ十代半ばに見える孫娘も祖父に従い黙々と一生懸命手伝う。
そう、彼は孫娘を途中からそこに連れてきたのだ(実家はちゃんと陸地にある。時折物を中洲まで運び入れたりしている)。

SIMINDIS KUNDZULI003

しかしこんな心もとない、「生活」があるだろうか。
しかも戦争中なのだ。
ジョージアと、ジョージアからの独立を目指すアブハジアの軍事衝突の最中。

鳥の鳴き声、水の波音に混じり、河川の両岸からは両軍の銃声が響き渡る。
時折、それぞれの軍の警備艇が脇を通り過ぎてゆく。(よく鉢合せにならないなと、ハラハラする)。
そのどちらとも挨拶を交わす祖父。
緊張の走る一瞬だ。わざわざ立ち寄りワインを呑んでゆく兵士もいる。
丁度その時、その兵士たちの敵の傷ついたジョージア兵を匿っているところでもあった。
彼は高く茂ったトウモロコシ畑に身を隠して息を殺している。
(ちなみに祖父と孫娘もアブハジア人であるが、傷ついた人間を見殺しには出来ない)。

自然の脅威に晒されつつ人間界からも寄る辺ない身である彼ら。
(であるから基本的に人に対する差別は、なかった)。
そこには祖父と孫娘が身を寄せ合い送る生活があるだけなのだ。
自然と両軍による戦争の狭間で、、、まさに抽象的な間に彼らは存在する。
しかし、トウモロコシは立派に育ちしっかり収穫出来ていた。
これも自然の摂理の成せる業であろう。
祖父は何とか孫を学校が終わるまでは育てて見届けたいと願う。

SIMINDIS KUNDZULI002

しかし、うら若き娘にとって、助けた兵士は一人のまだ若い男性であった。
彼女は普段決して祖父に対して見せない笑顔と素振りを彼に対して見せて燥ぐ。
この姿に祖父は厳しい目を向け、危惧する。
ことばが通じないため、無言の表情で彼は若者を中洲から追いやってしまう。
(と言うより兵士が察して去って行ったというべきか)。

だがそれと引き換えのようにやって来た暴風雨。
集中豪雨だ。
忽ち中洲は浸食を受け、水量の増した河に呑み込まれバラックは根元から揺らぐ。
小舟に何とか孫娘と収穫したトウモロコシなどを目一杯積み込み、岸に向け押し出し逃がす。
祖父はバラックの柱を懸命に支えるが甲斐なく全て潰れ濁流に流されてしまう。


ある晴れた日、何処からか小舟に乗って独りの男が出来たばかりの小さな中洲にやって来る。
その男も中洲の土をあちこち掘り返し吟味する。
地中からあの孫娘が飾っていた縫ぐるみの人形(親からもらった想いでの人形か?)が、引っ張り出される。

この反復(そして差異)こそ自然であり人間の姿~真理である。


神話を覗いたような気分になった。
絶大な重さを感じる。

凄いものを観てしまった。





国吉 康雄

Kuniyoshi DailyNews
デイリーニュース

以前から好きなアメリカの日本人画家である。
とっても身近な親しみやすさを覚えたからである。
じっくり眺めると、大変わたしの体質に馴染む絵であることを確信した。


彼の画集を観ていたら、作品制作に使った物か、彼の撮った写真が沢山載っていた。
油彩作品も好きだが、写真もとても日常的だが対象~人物との絶妙な距離感が面白く、興味を惹かれたものだ。

彼はアメリカが好きであったと思う。
移民として入国し、厳しい肉体労働と差別に会いながらも画家を目指すが、その意欲を受け止めてくれる学校(アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク)が存在し、そこで才能を伸ばせば、しっかり評価を得られるのだ。(後にその学校の教授となり学生たちから慕われる)。
この民主主義と自由は、彼はとても大事なものと思い、守らねばならぬと感じたはずだ。

この30年代は失業者も多く経済的にアメリカは大変な時代であった。
仕事を日本人が奪う、と日本人排斥運動も起こった時期である。
それでも彼は画家として、彼ならではの非常に洗練されたモダニズム絵画を生み出す。
アメリカに住む日本人であったからこそ、アメリカモダニズムを代表する画家と成り得たのかも知れない。
ヨーロッパ絵画と日本の伝統的絵画のエッセンスは息づいているが、その両者とははっきり距離を持つ独自の創意である。
特に色彩がグレーの目立つものから鮮やかなパステルカラーを使った物まであるにせよ、どれにも哀愁や虚無感が宿っており、いぶし銀の深みに惹き込まれる。

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誰かが私のポスターを破った

異国の地ではやはり新聞に載る評価などには極めて過敏となるだろう。
国吉はユーモアのセンスがよく、弁舌も優れ社交的でもあったようだ。
アメリカ国内での作品の評価は高まり、ニューヨーク近代美術館から現代アメリカ絵画を代表する1人に選出される。

父の病気で一時帰国した彼は、祖国での個展を代表作を引っ提げ行う。
アメリカでの成功により前評判は非常に高かったが、絵画はほとんど売れず作品は受け入れられなかった事が分かる。
しかも軍国主義に沸く日本国内での権力の横暴に呆れ果て、帰属意識を喪失する。

自分はアメリカにしか住めない、そう自覚したときに41年の真珠湾攻撃である。
もうひとつの~今やたったひとつの母国から敵国民として厳しい視線を投げかけられる。
国吉はアメリカの民主主義を信じていたため、求めに従い「戦争画」~プロパガンダを描く。

実質、ここで究極的に寄る辺なき身となる。
引き裂かれる。
緊張感と不安と虚無が同居する。

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ひっくり返したテーブルとマスク

とても自分に正直な人である為か”Upside Down Table and Mask”であることを率直に表している。
混乱を苦悶をそのまま表すところがよい。
分かり易い人なのだろう。
そこが良い。

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ミスターエース

彼にしてはとても色が多く鮮やかだが、もっとも虚無的な絵である。
一見有能で頼りがいがある様に見えて、権力において非常に残忍な立ち位置にいる男である。
普段は、ピエロとして親しまれている存在かも知れない。
これくらい冷たい目が描ける~知っている人なのだ。

戦後、国吉は美術家組合(artist equity association)を作りその会長として精力的に活動する。
これはニューヨークを美術の一つの中心地に引き上げる役割を担うものであったが、非情な赤狩りの標的にもなる。
彼は反共主義政策におけるブラックリストに入れられていたのだ。
その勢力を上手くかわしつつも、圧力に悩まされた。

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果物を盗む子供

わたしが一番好きな絵である。
勿論、象徴的な意味がバナナと桃、子供との関係にあることは分かるが(ジャップが黄色い白人と呼ばれていて、少年はまだ建国して程ない若い国アメリカであり、桃は国吉の出身岡山の特産でもある)、それを想わなくても単に造形的に愉しい。
絵として見飽きないのだ。

純粋に絵の魅力でじっくり時間を過ごせる画家である。



私がクマにキレた理由

The Nanny Diaries

The Nanny Diaries
2007年
アメリカ

シャリ・スプリンガー・バーマン、 ロバート・プルチーニ監督・脚本

スカーレット・ヨハンソン、、、アニー・ブラドック(ベビーシッター)
ローラ・リニー、、、ミセスX(アニーの雇い主)
ニコラス・アート、、、グレイヤー(X家の少年)
アリシア・キーズ、、、リネット(アニーの友達)
クリス・エヴァンス、、、ハーバード・ホッティ(アニーの彼氏)
ドナ・マーフィー、、、ジュディ・ブラドック(アニーの母)
ポール・ジアマッティ、、、ミスターX


アニー・ブラドックは、大学で人類学を専攻していた女子。
新卒で就活するも、面接試験で自分が見えなくなった。
わたしは、一体何がしたいのか、、、わたしとは何か、、、。
ビルの赤い傘マークが、外れアニーのもとに舞い降りてきて、彼女はそれを手に取り空に舞い上がる。
かなり重症だ。

そこで、舞い込んで来た上流階級の住み込みのベビーシッターの仕事に就く。
他人の家庭を人類学的に考察することと、自分を知る意味からもこの経験は有効であろうという考えもあり。
また、女手一つで育ててくれた母の手前、取り敢えずどこかに就職を決めておきたかったみたいだ。

しかし、その上流階級、何と利己的で見栄っ張りで我儘で無礼な連中か。
まさかこれが典型ではないだろうが、こんな感じの家庭もあるのだろうか。
金持ちの誰もがこれでは、アメリカは到底もたないだろう。良識ある知識人も勿論多いはずだが。
面白かったのは、アニーが幾つもの家庭から依頼を受けているとき、「うちは給料が高いわよ」という真っ当なものの他に、「わたしの家はトランプタワーなのよ」と自慢している奥さんがいた。
これにはちょっと笑えるが、、、やはり結構危なそう。
(結局そういう結果が出たし、こんな家庭がグロテスクに単純化した極端な例でもなさそう気もしてくる)。

ただ、その誇張された歪みぶりも、思いつきそうなもので、特段に驚きのシーンとかはなかった。
アニーは大変な激務を熟すことになるが、次第に腕白な息子グレイヤーに情が移ってゆく。
同じマンションに住むハーバードの男子にも恋をする。
(アニーの直向きさに彼が惚れたようだ)。

反撥を持ちながらも仕事と割り切って無理で傲慢な要求に従ってゆくが、当の雇い主の惨めさが分かって来て、その不幸に同情するようになる。
彼らは金と地位があっても、現状を維持するための取り繕いと取り憑かれた欲望に従うだけの生活に無自覚なのだ。
そしてもっとも厳しいのは、愛情が家庭に全く通っていないことである(夫婦及び親子に)。
その意味では、家はすでに機能不全であり子供を育てる環境成り得ていない。
と言うより、これでは子供の行く末が危ない。

ここが一番の問題として描かれており、この点については現代社会の縮図でもあり普遍性を持ち得ている。
基本的に特異な家庭ではない。
夫は仕事と言って家を顧みずおまけに浮気にうつつを抜かし、妻は社交パーティや見栄を気にした慈善パーティ、セミナー、豪華な食事会にばかり参加していて、子供に対しては教育プログラムをベビーシッターを通して押し付け、自分は何にも関わらない。
ただ子供がどの学校に行くことになるかだけには異常な関心を持つ。

彼女自身もその場に深く入り込んでゆくとともに、この悲惨で荒涼とした子供の生活環境はどうにかしてあげたいという気持ちが強くなる。
しかし、その矢先、ミセスXが監視用カメラで、アニーが子供に食べさせないように注意していたオーガニック素材ではないものを瓶から直接食べさせていたことやフランス語やその他の細かい勉強を疎かにしていたことが発覚して、クビになってしまう。
グレイヤーとアニーがこころを通わせていたのは、まさに妙なルールに縛られずに互いがしっかり向き合って関係を築いていたからなのだが。
彼女も以前からそのカメラの事が気になっており、最後にクマの縫ぐるみに仕込んで置かれていたカメラを探し当ててしまう。
前から期間限定で経験してみようと思って始めた仕事であるが、ここで撤退するのは彼女にとって中途半端で不全感は否めない。
そこで、逆にクマの目向かって、ミセスXに敢然と立ち向かう。(恐らく初めて切れる。カメラ越しだし謂い易いこともあるか)。
思いのたけをぶちまけ、グレイヤーに対する押しつけと放任による彼の孤独の現状としっかり向き合う愛情の必要性を切々と説く。

そのビデオを観て、ミセスXは内省し我に返り~正気となり、夫と離婚してグレイヤーと共に時間を過ごす選択をする。
(一度も仕事をしたことのない奥さんがこの先どうやって生活をしてゆくのかは不安であるが。慰謝料と養育費は押さえているにしても)。
アニー・ブラドックは自分はどういう人間ですか、という面接に対し、どのように答える人になったのだろうか、、、。
少なくとも自己肯定的な逞しさは身についたはずである。
状況を体当たりで捉え、自分なりに感情を込めたアウトプットも出来たし、、、。
グレイヤーとハーバード・ホッティにこころから愛されたことも、とても大きい。

そういうものであろう。






くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ

Ernest et Celestine002

Ernest et Celestine
2012
フランス

バンジャマン・レネール、ステファン・オビエ、バンサン・パタール監督
ガブリエル・バンサン(ベルギー)原作

アーネスト、、、クマのおじさん
セレスティーヌ、、、ネズミの少女


絵本を元にした映画であり、その質感を大切にして映像に再現していることが分かる。
動きはジブリの古畑アニメを彷彿させる。


ネズミ世界、クマ世界、それぞれの世界からのはみ出し者同士が接点をもつ。
お互い自分の世界が居心地悪い彼らが親しくなるのに時間はいらなかった。

ネズミ社会では、クマは意地が悪くネズミを食べてしまう怖い存在だと教え込まれている。
おまけにセレスティーヌは孤児でクマの前歯を集める仕事を強制されているが、彼女はスケッチばかりしていて邪魔者扱いされている。
クマにとってネズミは地下に住む生き物であり、本来自分たちとは別世界のものたちである。
しかもアーネストは両親から裁判官になることを望まれていた。
しかし彼のなりたいのは、音楽家か詩人であり、一文無しの腹ペコクマなのだ。

アーネストがたまたまごみ箱をあさっていると、中にネズミが眠っており食べてしまおうかと思ったが、彼女がお菓子屋さんを紹介してくれたことで、その地下倉庫で思う存分甘いお菓子を食べることが出来た。
そのお礼としてアーネストは、そのネズミ、セレスティーヌの歯の収集に手を貸す。
アーネストは沢山の歯を袋に詰め、ネズミのいる地下世界まで運んだところで眠くなり、そのまま眠ってしまう。
(クマのアーネストがすぐに眠ってしまうところなどありそうで面白い)。
ここで、彼らは一緒にいるところを見つかり、盗みと互いの境界を侵犯したことで、共犯者としてネズミ・クマ双方から追われる身となる。
と同時に彼らはとても仲良くなる。ずっと一緒に暮らしたいと思うような絆が芽生える。

Ernest et Celestine001

クマのアーネストは音楽、ネズミのセレスティーヌは絵が得意である。
特に、「アーネスト、見せてあげる、これが冬の絵」とセレスティーヌが絵を描くのに合わせて、「音楽をつけるとしたらこんな感じかな」とアーネストが音楽を付ける。このハーモニーは絶品と謂えよう。
大変良質な環境ビデオ(ブライアン・イーノの創るような)の趣があった。
クマにとって冬の世界は、未知の世界である。
それを覗いた感動をふたりで音と画像により表現しようなんて素敵な関係ではないか。

Ernest et Celestine003

クマとネズミとのはっきり分かれた棲み分け上下社会という他にも、シニカルな面はしっかり押さえている。
夫がお菓子屋でたくさんのお菓子を子供たちに売りつけ、その真向かいで妻が経営する歯を悪くしたものに入れ歯を売りつける店で大儲けする夫婦が描かれ、彼らは絶対に息子だけには甘いものは食べさせない。
これは典型的な小市民像であり、市場社会の縮図である。
アーネストとセレスティーヌは、そのどちらからも商品を掠め取る。
こうした搾取と完結性を崩すひとつの象徴的で無意識的な彼らの行為か。

クマ裁判長とネズミ裁判長の両界において絶対的な権力を持つ者がどちらも、裁判中に起きた火災から裁こうとしていたアーネストとセレスティーヌによって救い出される。
皆、周りの提灯持ちは、我先に逃げてしまった。
そして下で起きた火災は上にも及ぶのだ。自然~物理的災害は境界などお構いなく容赦なく浸食する。
(核戦争のメタファーにも感じ取れる)。


アニメ全体は、とても柔らかで清々しい水彩タッチで、優しく流れてゆく。

最後は、どちらも無罪放免となり、穏やかで和やかなふたりの生活が描かれる。
これまでのふたりの辿った物語を絵本にするのだ。

恐らく、この噺のように(笑。
おしゃれである。流石フランスアニメだ。





ダウンタウン物語

Bugsy Malone002

Bugsy Malone
1976年
イギリス

アラン・パーカー監督・脚本

ポール・ウィリアムス、ロジャー・ケラウェイ音楽


スコット・バイオ、、、バグジー・マロン(ボクシング・プロモーター、一文無し)
ジョン・カッシージ、、、ファット・サム(ギャングのボス、キャバレー経営者)
マーティン・レブ、、、ダンディー・ダン(サムと対立するギャングのボス)
ジョディ・フォスター、、、タルーラ(サムの情婦)
フローリー・ダガー、、、ブラウジー(マロンの恋人、ハリウッドを目指す歌手)
デクスター・フレッチャー、、、ベビーフェイス(新入りギャング)


ジョディ・フォスターまさに、「栴檀は双葉より芳し」である。

とても思い切った設定で、まず一回やったら真似はもうしない方がよいだろう、、、。
禁酒法時代のアメリカギャング映画を「子供だけのキャスト」で撮った映画。
でも、ジョディ・フォスターって子供か?
子供の年齢には違いないだろうが、子供には見えない。
大人でもない。

そう、ジョディはジョディでしかなかった!
恐るべし、、、。
やはり普通の人間ではなかった。
(今若手で、これほどの存在感を示す女優はいるか、、、ダコタ・ファニングか?確かに両者ともに天才である)。

足漕ぎクラシックカーもともかく愉しい。
これもたまらない。
出てくるたびに嬉しくなる。
子供時代にこんな豪華な足漕ぎギャングカーに乗ってみたかった。
いや、今でも乗ってみたいではないか。

さらにミュージカルであるが、どの曲もとても出来が良い。粒揃いなのだ。シングルカットで行けそうなものばかり。
時折、ミュージカルなのに曲がショボく(特に「ムーランルージュ」)、観ているのが苦痛になるものがあるが、この作品はとっても音楽~歌が良かった。

但し、残念なのは歌が吹き替えなのである(苦。
子供声でよいから、(下手でもよいから、、、演技も上手くはないのだし)本人の歌で聴きたかった。
とーくに、タルーラ♪~である。あの曲はジョディの肉声で聴きたかった!
ここが吹き替えでがっかりした。この映画で一番がっかりしたところだ。
もう、がっかりした。

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度々出てくるクラシックカーも、ジョディ・フォスターもとても素晴らしい。
ただ欲を言えば、もう少し彼女の出番を多くしてもらいたかった。
というより、この映画ジョディとこの珍妙な足漕ぎ自動車が出てこなければ、少し厳しいかも。
勿論、楽曲も良いのだけれど、他の子どもさんとの差があり過ぎなのが観ているうちにしみじみ分かって来る。
ファット・サムのジョン・カッシージ君も体形~ルックス的にも個性があり上手いかも知れないが、、、。
二枚目役のバグジー・マロンも敵のボス役のダンディー・ダンも、確かにイケメンだが今一つ影が薄い。

いや、普通なら彼らはかなり達者な子役なのだ。
(ヒロインのブラウジーは正直キツイが)。
タルーラ~ジョディ・フォスターで皆、ぼんやり霞んでしまったのだ、、、。
これは仕方ないが。
本当なのだ。

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パイ投げは、向こうの映画では定番なのか。
このようなパロディ・コミカル映画では、どうしても実弾とはいかずパイとなる。
しかし手でパイを投げるとなれば、簡単に敵に避けられてしまう。
ファット・サムの店でわざわざその実証をボス直々にしている(爆。

それで、新型銃が登場し威力を発揮する。
パイを発射する銃を大量に手に入れ優勢に立つダンディー・ダンのファミリー。
こちらはファット・サムのところと違い統制もとれている。(部下がボスを尊敬している(笑)。
この新兵器で一時、ファット・サム一派はコテンパンにやられ追い詰められる。
それで組の者ではないバグジー・マロンに助けを求める。
バグジー・マロンは一文無しなので、金を積まれれば直ぐに乗る。

ファット・サムは店ごと最早、壊滅かといったところで、マロンの機転でその銃の略奪に成功し、最後は五分五分の激戦に持ち込み訳の分からぬ状況になる。
よくある無茶苦茶なパイ投げシーンに雪崩れ込む。
「グレートレース」で辟易したパイ投げであるが、よっぽどこれが好きなのだ。
パーティでちょっと羽目を外しても、ギャング同士の闘いでも、何でもともかくパイを投げたい。
そして全てがうやむやとなり~エントロピー最大~でついに双方ともに痴呆状態となって終結を迎える。
お互いに手を取りニコニコしているのだ。
こういうエンディングなんだ、、、。

他のアイデアは出なかったか、、、これがもっとも分かり易く受け容れられる形であるか。
、、、文化なのだ。

全体の話としては面白い。
ファット・サムの酒の密造工場がダンディー・ダン達に見事に潰されたり、真っ当な商売の野菜倉庫までも破壊される。
この徹底したダンの思惑通りの進撃振り、というかサム一派のやられ振りの展開が傑作である。
それに子役でこれくらいオヤジの悲哀に迫れる(理解する)ジョン・カッシージもその個性共々特筆ものかも知れない。
(こういう役に限定すれば)。
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いや、やはり、ジョディ・フォスターの魅力に尽きる映画であった。
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レオナルド・ダ・ヴィンチ

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河に渦巻く水流から運動を抽出し、戦争(フィレンツェとミラノ間)の戦闘場面~その人馬一体となった力の鬩ぎ合いに応用するという抽象性がレオナルドであろうか。きっとそこに何らかの自然学的原理を見出していたのだ。
その乱戦時の人の四肢の激しい筋肉運動や微細な表情を描き切る為、毎夜病院の死体安置所に赴き死体解剖にも臨んだ。
精緻で医学的に正確なデッサンが残っている。(わたしもレオナルド素描集を良く眺めたが驚愕である)。
極めて実証的で論理的である。
そして内面を、解剖学的に調べ上げたその動きの構造的描写で饒舌に表す。
これは最終的にあの「最後の晩餐」に結実するものか。

表面的には別の現象~事象に映るもの、微妙で饒舌な表情~表層、をその構造から描き起こすこと。
この次元から物事を捉えようという本質力に拘る画家は、少なくとも同時代ではミケランジェロ以外にはいなかった。
その後もここまで徹底した芸術家はほとんどいない。スケール的にも、、、。

レオナルドにとっては、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学それぞれを研究しそれらの成果を挙げようなどという意識・意図は全くなかった。
そもそも「学」それ自体が細分化していない。
単に事象の本源、原理を探ろうとした過程であり、結果であっただろう。
一言で謂えば「自然学」か。

ちなみに、ルネサンス時(イタリアルネサンス)にレオナルドをはじめ天才が多く輩出したとも謂われるが、ある意味今日の英才教育が良い形で実践されていたように思える。
この頃は、まだ「子供」は発明されていなかったこともあり、年少時に工房に見習いに出された後は、制限なく才能に任せて伸びる者はどこまでも自由に伸びたはずだ。レオナルドみたいに天井知らずで。

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「アンギアーリの戦い」はルーベンスの模写でそれがどれほど途轍もないものであるか、時代を超えたものであるかが分かる。
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そして素描と未完成が目立つ。発見と創造と技法の探求において。
しばしば技法の実験開発に失敗したことも、完成作品数の少なさの原因ともなっている。
壁画が絵の具の定着の不具合で壊滅的な損傷を食らったりすると、もう契約の面から謂ってもアウトとなろう。
完成よりも常に新たな発明に挑んでいた天才であることから、そんな事態も避け得なかった。
そもそも彼にとって、完成などあっただろうか。
「モナリザ」は終生身辺から手放さなかったという。

油彩作品は少ないが、素描はかなり多く残っている。
思考の跡を辿る見方が彼の場合、適しているのかも知れない。


普段出して観ること自体に気後れして、棚に仕舞いっぱなしでいたが、、、
とっても重い素描集をこの愚図ついた天気に部屋に出してきて観るのも良いものだ。


やはり魅入ってしまう、、、。

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この続きは、また近いうちに、、、。

キング・コング 2005

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King Kong
2005年

アメリカ
1933年「キング・コング」のリメイク
ピーター・ジャクソン監督・脚本
メリアン・C・クーパー、エドガー・ウォレス原作

ナオミ・ワッツ、、、アン・ダロウ(舞台女優)
ジャック・ブラック、、、カール・デナム(映画監督)
エイドリアン・ブロディ、、、ジャック・ドリスコル(脚本家)
トーマス・クレッチマン、、、イングルホーン船長
ジェイミー・ベル、、、ジミー(ベンチャー号の少年船員)
エヴァン・パーク、、、ベン・ヘイズ(ベンチャー号一等航海士、ジミーの親代わり)
カイル・チャンドラー、、、ブルース・バクスター(映画主演俳優)


舞台は地図上にはない謎の島「スカル島」と1930年代の不況に喘ぐアメリカである。

正直これ程凄いVFXの映画だと思わなかった。
凄まじいというレベル。どうやって作ったのだろうという映像が一杯であった。
「ジェラシックワールド」など遠く霞んでしまう。
特に、アンとコングの関係に違和感がなく、コングの微細な表情の変化には驚く。
「美しい」という「ことば」がアンとコングとの間(ジェスチャー)で伝わり合うところはとても素敵だ。
二人を包む島の夕日とエンパイアステートビル頂上の朝日は格別に、いや異様に美しい。

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コングは高台でトワイライトゾーンに浸るのを好む詩人なのだ。
黄昏時は、誰も可もなくその存在は単独者となる。
単独者同士の邂逅である。
一切のイデオロギーもパラダイムもない、ただ薄明の光に照らされるだけの関係。
そこは下界のとは関わりのない至福の場なのだ。最初のアンの務める舞台の歌のように。
純粋に等価な魂同士の触れ合い。

これ程美しい映画が他にどれだけあるか、、、。


ナオミ・ワッツが本当に頑張っていた。
これ程、観ながらよく頑張ってるな~っと労いたくなる女優はいなかった。
そぞかしタフでハードな撮影であったはず。

それから何といっても、出てくる恐竜が非常に即物的な迫力で迫って来る。
もう、文字通りの肉弾戦なのだ。
ブロントサウルスのぶつかりこすれ合いながらの大きな群れでの激走。
特にデナム達はカメラやフィルム、三脚などの機材を持って逃げる。
まさに恐竜の足の合間を縫って逃げる人間、、、。
合間で人間を食おうとちょっかい出すユタラプトル?小型肉食獣たちの小賢しい動き。
これらの動きが非常に速い速度で絡みあう。
所々で、踏みつぶされたり、放り投げられたり、食われたり、撃ち殺したりのアクセントが入る。
ともかく迫力の流れ~リズムだ!

更にティラノサウルス3頭相手にコングの激闘。
迫力ではこれがマックスかも知れない。
コングは最愛のアンを守っての闘いを余儀なくされる。
流石にティラノサウルスは他の恐竜などと比べ戦闘力は桁違いだ。
度々あの鰐より鋭い歯で噛みつかれるも怯まずにアンを庇いつつスリリングな攻防が続く。
最後はコング圧勝に終わるが、その地形と体術(運動能力)を目一杯利用したアクロバティックな動きそのものに感心した。
特に、アンを右手左手足で軽業的に受け止めて闘う姿は、まさにそれである。

それにしても、恐竜が絶滅せずに生存していたというだけでなく、多種多様な圧倒的に獰猛な動物がこれでもかと、次から次へうじゃうじゃ出てくる。
観ているこちらが絶望したいくらいである。
しかもみな巨大である。
正直、ここまでやるのか、と途方に暮れるくらいだ。
しかし、それでも焦点が崩れずしっかりアンとコングの関係が一本通り、そこにドリスコルの果敢な愛とデナムの強力な野心が絡んでくる。デナムの何にでも徹底してカメラを回す、映画至上主義の姿勢には、これはこれで共感できたが、カメラが壊れコングを見世物として持ち帰り金儲けだけの野望に変換したところで何だこれはである。この流れがなければ、コングがニューヨークには来なかったのであるが。
イングルホーン船長やジミーとヘイズ、バクスターの人物像も活き活きとくっきり描かれ物語は重厚に展開する。
スカル島原住民の他者性も充分に描かれていた。

最後は、余りにも有名な塔の頂上での飛行機との決戦だ。
コングはアンの身を庇い銃弾を浴びて落下し絶命する。


その直前の至福の場は、そう何処にでもあるものではない。
(しかし、実は非常に近くの小さな場に存在するものだと思う。)

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オディロン・ルドン

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生後2日目で里子に出されるとは、どういう意味をもつのか、、、。
そこはボルドー近郊のペイルルバードという不毛な荒涼とした田舎であったという。
家はボルドーの裕福な家庭であり、何らかの親の都合があったには違いない。

少なくとも親元に帰る11歳までは、漠然とした喪失感と寂莫感に宙吊りになって過ごしていただろう。
その分自然との接触は遥かに他の子どもより濃密で自由であったはずだ。
学校にも行っていなかったらしいから尚更。
ただ病弱で病気がちであったというから、野山を駆け回るような接近ではなかったと思われる。
(そうであれば、いやでも悪ガキ仲間とかができるはずだが)。

それは自然の光や色や音にめくるめく夢想を豊かに内面に蓄積することかも知れない。
非常に強い憧れを宿した、憧れと未来からやって来る郷愁と、、、
過剰な渦巻く夢想。
G・バシュラールのいうような物質的想像力に充ちてゆく。

自分にもほぼ同等の経験があるため実感できる。

11歳で帰って来て彼はどうだったのか?
深い落胆しかなかっただろう。
完全な孤独を知った事だろう。
分かり過ぎるくらい分かる。
そういうものだ。

自然~宇宙の大きさに高密度で膨らんだ憧れと郷愁は、すでに親のエゴや家族~共同体のファシズムのうちに変換・解消され収まることは出来ない。もはやインフレーションは止められない。
ここで更に彼は学校にまで行かされる。
こんな歳になって、突然学校に放り込まれるのである。
この強要にどうして耐えることが出来るか?
(しかもどの年齢で教育を受けさせ、学校制度に投げ入れるのが適当かなど教育学的にも何らこれまでまともな考察などない)。


彼のこころの拠り所は、音楽と絵画であったという。

わたしもこころの拠り所は、音楽と絵画であった。
それが絶大なものとしてあった。
そう絶大なのだ。
万能感と果てのない愛情を受けそこなった場合~これは永遠の幻想の類(特殊性と謂うより人であることからくるロマンに過ぎないか?)~人が本質的に持つ疎外観念か、または過剰さを求める本源的欲望であるか~何にしても、その代わりとなるものはこの他にない。なければ枯渇して死ぬようなモノであり、空気と同等のモノである。
(いや数学の天才ならひたすら数学をやるだろう。数学は特に10代が勝負だ)。

学校も美術学校も当然続かない。
それは、はっきりと彼の中に確信を生む。
「自分がいつもやって来たことの他の方法で藝術を生むことは出来ない」
ということだ。

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ルドンの夥しい眼差しの群れ。
大概、それらは特別な感情を持たぬ、一つ目であったり、、、。
そのほとんどは重力の影響を受けていない。
思考と夢の純粋な運動から生まれてくる。
起源:「おそらく花の中に最初の視覚~ヴィジョンが試みられた」
~わたしは、見えるものの法則を可能な限り見えないものの為に奉仕させたのだ~
これがルドンの生理であるだろう。
必然の流れだ。

緋色のように美しい黒。
全ての色彩があらん限り封じ込められてゆく黒。
ここから蛹が成虫に変態するように色彩が開闢~ビッグバンする。
これは絶対に徐々に変化するような事態ではなかった。
瞬時の相転換である。

木炭からパステルへ。
或る時、豊かな漆黒の夢想は、歓びの色彩に溢れ散った。
二度目の起源:インフレーションが起きたのだ。
色彩はパステルを経て、水彩や油彩によって更に加速して広がり深まる。

題材はギリシャ神話そして再び「花」へ。
見えないものを通って見えるものに色鮮やかに開花する。
物理原則を目の当たりにするみたいに。

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紙屋悦子の青春

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2006年
黒木和雄監督・脚本

原田知世、、、紙屋悦子
永瀬正敏、、、永与少尉(悦子の夫、「お父さん」)
松岡俊介、、、明石少尉(悦子の初恋の人、永与の親友で特攻隊で死ぬ)
本上まなみ、、、紙屋ふさ(安忠の妻、悦子の義理の姉)
小林薫、、、紙屋安忠(悦子の兄)

これも中身は縁談絡みの噺で、最初と最後そして中間に現在の老境にさしかかった悦子と「お父さん」のまったりした対話がある。
しかし現在の病院の屋上での騙りは二人による回想が主であり、何やら霞んだ雰囲気で、舞台袖での演技を想わせる。
一方、その当時(昭和20年)の二人がまだ結ばれる前(縁談~お見合い)の若い頃の場面は、素朴で初々しい漠然とした希望も感じられる。
縁談~お見合い噺もみな基本は対話であり、ことばの聞き間違えや緊張してガチガチなやり取りなど、ユーモラスなところもかなりあり、フッと笑える。
縁談~お見合い噺が暗い訳もなく、戦時中であろうが、特攻隊員として死を決意する者がいようが、日常の生活においては桜が咲いて桜が散り、耳を澄ますと海などないのに波の音が何処からか聴こえてきたりする、、、。
昼も夜も明るい。
そして静かだ。
ふさと安忠の口喧嘩の時すら静謐な雰囲気に包まれている。

そんな、昭和20年終戦間近の鹿児島であるが、ほとんど部屋か部屋から臨む庭先程度が舞台である。
あくまでも空間を、現在は病院の屋上の椅子に座って、当時は鹿児島の紙屋家の部屋に限って、悦子を中心に描く。
まさに舞台劇を見るような形式である。
このまま戯曲でもよい。

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基本、テーブル(卓袱台)で戦時中の配給で貰ったおかずを囲んでの質素な食事をとりながらの、方言による軽妙な魅力ある対話で構成される。
家族の場合は、それであり、永与少尉(と明石少尉)との場合は、静岡産のお茶とおはぎであったりする。
静岡のお茶はお客さん用の取って置きの御馳走であり、特に美味しそうである。
(役者がまた美味しそうに飲むこと、、、)。
さらに悦子とふさ、安忠の方言の騙り合いのリズムがとても心地よく綺麗で魅惑的である。

ここには一切、戦闘場面や爆撃を受けた悲惨な市街地などの映像は出てこない。
死を覚悟した人は出てくるが、死骸の類も全く見せない。
しかし、バックグラウンドにそれが逼迫しているという空気は漂っている。
明石少尉がある時、唐突にやって来て、特攻隊に志願したことを紙屋家の人に告げる。
ふさは、悦子と明石を二人きりにし、思いのたけを語らせようとするが、悦子は彼を見送らず、家の奥で慟哭する。
これだけで、充分である。

人物の数を最小限にして人物像を色濃く浮き立たせる。これには対話の妙が充分に効いている。
そして噺の焦点を絞りその流れのディテールをしっかり描く。
明石少尉の沖縄出征の報告時から後の悦子の心情には、本当に共感、共振してしまった。
静かな確かな説得力である。
永与少尉(今の「お父さん」)は、明石少尉に悦子を託された形であった。
(勿論、永与少尉は悦子に一目惚れして結ばれたのであるが)。
死んだ明石少尉の最期の手紙を永与少尉が悦子に渡すシーンは、もはや蛇足であるがダメ押しであり、戦争映画が戦場を描くばかりではないことが分かる。


これは、反戦映画成り得ていると思う。

黒い雨

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原子爆弾投下後に降る「黒い雨」である。
1989年

今村昌平 監督・脚本
井伏鱒二 原作
武満徹 音楽
川又昂 撮影

田中好子 、、、高丸矢須子(叔父の重松夫婦に育てられた20の女性)
北村和夫 、、、閑間重松(横川駅の列車内で被爆)
市原悦子 、、、閑間シゲ子(重松の妻、住宅内で被爆)
原ひさ子  、、、閑間キン(重松の母で矢須子の祖母、認知症)
三木のり平 、、、好太郎(残留放射能に二次被爆した重松の親友)
小沢昭一 、、、片山(残留放射能に二次被爆した重松の親友)
石田圭祐 、、、岡崎屋悠一(精神を病む元特攻隊員)
山田昌  、、、岡崎屋タツ(悠一の母)
常田富士男、、、老遍路


高丸矢須子は、瀬戸内海を渡る小舟の上で、黒い雨を浴びる。(爆心地からは離れていたが)。
物語は終始、矢須子の縁談を軸に進んでゆく。
この「縁談」から離れないところが良い。
ここが途切れてしまい、人々を俯瞰して見るような流れとなったらイデオロギー(集合知)で騙るような噺に脱してしまうかも知れなかった。
ともかく一個人の関心事、願い~身体性に寄り添う形で進まなければ、実感が遠のく。

映画であれば、どうしてもその時代考証や捉え方にズレはつきものであり、この原爆投下の時期というのは、大変微妙なところだ。少なからずこの場を体験している人から見れば、それぞれの立場からの異議が出てきてもおかしくない。
実際の死骸はあんなものではなかった、とか被爆した被害者の描き方とかその時分の農民の姿とか、人々全般の他者に対する姿勢や傾向など、、、。
当然出てくるそのような齟齬も、うんと絞った関係~ディテールの描写で身体性における共感を保つことはできる。
被爆者差別や病をもった者に対する偏見や根拠のない噂に流される世間の本質がそこにしっかり晒される。
全体を隈なく正確に描くという事自体に意味はない。断片に感性が充分に浸かることのできる描き方がなされていれば充分だ。

また武満の音楽が死の不安と生の欲望に対する大変微細なニュアンスを饒舌に表現していた。
武満の音楽はシーンと切り離せぬ純度にあった。


矢須子は母が出産後すぐに亡くなったため、叔父夫婦のもとで育てられる。
重松夫婦も彼女の事をとても大切に育てて来た。
年頃でもあり、嫁に出してあげたいと願うが、、、。
彼女が「黒い雨」をかつて浴びていたことから、良縁があっても必ず壊れてしまう。
先方は最終的に器量よりも健康を優先してくる。
と言うことより、「黒い雨」に当たったという事自体が負の価値であり、それを背負込むなんて世間的に謂って論外なのだ。
それこそ家に傷がつくとかいうレベルで。
重松夫婦は矢須子の日記をまとめて清書し、当時彼女が爆心地から離れた場所におり、被爆していない旨の書類を作成するも、正確を期した情報など全く役には立たない。悪い噂の方が人々の好みなのだ。

何でアメリカは広島に原爆を落としたのか?
それが分からないで死にたくないものだ、と言って片山は死ぬ。
まったくだ。

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広島がのうなってしまった、という感が充分に分かる瓦礫と無残な死体の横たわる(水に浮く)焼け野原を、重松夫婦と矢須子の3人で取り敢えず重松の勤務する工場に避難するために横切ってゆく。その途上、顔に酷い火傷のある老遍路に出会う。
彼が自分は防空壕を出た矢先にピカドンにやられたこと、妻は即死したが息子は足を倒れた柱に挟まれ動けないでいたため、懸命に助け出そうとしたが柱がびくとも動かず、やがて火が周って来て息子を置いて逃げてきたことを打ち明ける。
顔の傷は痛まないがこころが痛むと。
「とうちゃんたすけて~」(日本昔話の語り部が息子のことばを何度も何度も繰り返す、、、)
この場面は、可哀そうとかお気の毒にという同情といった感情に落ち着くものではなく、その場にいてしまった3人にとってはただ慄然とするしかなかった。早々に彼らはその場を立ち去る。その男は別れ際、矢須子に無表情に水を求める。
彼が水をがぶ飲みしているのを打ち眺める矢須子の表情は、名状し難い存在の生々しさ~恐怖に強張っていた。
こんな場面だけでももう充分である。事細かにあれやこれやを拾い描きつづる必要などあろうか。
(この息子が生きたまま、周って来た火に焼かれる場面は、「はだしのゲン」にもあった)。

元特攻隊員で、普段は小屋に籠って石像を彫っているが、エンジン音に反射してすかさず表に出て行き布団爆弾を車に仕掛けて止めてしまう矢須子の幼馴染も、帰還兵の悲痛な姿を表している。
ただ、この村(祖母の住む彼らの疎開先)の救われるところは、この男をみんなで守っているところである。
そして、普段は大人しく石像を彫り続けている男に、矢須子も惹かれてゆく。
家の身分には大きな差があるが、相思相愛である事を知った男の母が矢須子を嫁に貰いたいと重松に頼む。
当然、重松はその急な申し出に愕然とする。彼は良家との縁談以外考えていなかった。
しかもその男は精神に病を抱えている。だが彼がどんな人間であるかについての本質的洞察はしているのだ。
そして矢須子の自らの気持ちを大切にしてあげたいという妻シゲ子の進言に彼も同意する。
「わたしは悠一さんを尊敬しています。」
自分の目で相手を見て、考えられる人もしっかりいるのだ。

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「正義の戦争より、不正義の平和の方がまだマシ」重松の噛みしめる言葉が実に説得力がある。
お嫁にも行く間もなく矢須子がついに発症してしまったのだ。
悠一に抱きかかえられて行き絶え絶えの彼女は車で病院に運ばれてゆく、、、。
もうすでに矢須子の縁談で奔走してくれた好太郎も鯉の養殖仲間の片山も死んでおり、頼みの綱の妻のシゲ子も発症して死んでいる。
その上に、矢須子まで、である。

彼はあの山に綺麗な7色の虹が掛かれば、彼女の病は治る!と胸に念じる。


そういうものだと思う。


大魔神 三部作

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BSでやっていたので、とりあえず観てみた。3つとも。
監督がそれぞれ違うのに、話は完全にフォーマット化されていて、おんなじであった。
大魔神が現れるタイミングもきっちり同じであり、お姫様とか小童がお祈りして頼むと願いを聞いてくれる。
水戸黄門的な律義さで流れてゆく。

特撮はかなりよく出来ているが、魔人のスケール感がシーンによってかなりばらついていた。
身長は4.5mというのだが、明らかにそれより大きかったり、そのくらいだったりする。
一定に保つのは難しいことだ。
それから特徴として、何も話さないし吠えたりもしない。声自体出さない。
やはり口から何も発しないところが、神の威厳を保つうえで肝心なところなのだ。
(あの大きさで何やら声を出すと、ただの怪物となってしまう。ゴジラやガメラとの差別化を図らねばなるまい)。
ただその存在を大きな足音で知らしめる。
そして高くて頑丈な塀や石垣、岩などを怪力で崩してその姿を現す。
登場スタイルも皆同じ。

つまり2,3作目は1作目を基本フォーマットとして継承いたのか、或いは最初からシリーズはこの形でというものが決められていたのか。
チェコの映画『巨人ゴーレム』(1936)にインスパイヤされ日本の時代劇と融合させた形をとっている。
2作目は、「モーゼの十戒」からの引用か、湖が裂けて大魔神が移動して行く。
これ程の力があったのか、、、流石は神である。

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ちなみに誰もが知っている戦闘時に顔が変わるシーンであるが、魔人の山に祭られている平時は古墳祭祀の際に使われていたような埴輪顔だが、腕を顔の前で交差するとたちまち仏像(仏教化するのだ)における憤怒の形相の 明王みたいになる。
ここが大魔神の大魔神たるところだ、、、。

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必ず一度、魔人阿羅羯磨(あらかつま)を極悪非道な新たな領主が破壊を試みるが、かえって魔人を怒らせることになる。
当たり前だ。これでただで済むと思ってるのか!、、、である。
地震、地割れでまずは邪魔な子悪党を文字通り神罰で呑み込み、、、。
次々とお城や建物を壊し、なぎ倒し、砲撃を跳ね返して前進する。
後は何処までも悪い殿をのっしのっしと追い詰め、止めをさす。
「かみさま~」と圧政に苦しんできた村の衆や悪い殿に一族を滅ばされた姫や小童たちが拝んでおしまい。
魔人はその場で粒子化して崩れ、核部分が火の玉状となり飛び去って行く。
この青い火の玉が魔人の実体なのだ。


音楽が3作とも伊福部昭であることで特撮技術と相まってある種の格調の高さが生まれている。
噺自体は非常に単純な勧善懲悪の民話みたいなものである。
脚本と撮影も同じ人だ。これで作品に安定感というより、同じような話~絵となるわけだ。

領民に思いやりのある政をして慕われてきた領主~お殿様を悪辣で非道な侵入者(家臣)が悉く殺してしまい、自らがその地位を奪い統治してしまう。過酷な労働に駆り立てられ死にそうな目に遭う民が山の谷間のような秘密の場所に祀られている山の荒ぶる神に助けを求めに行く。だが、映画の終盤まではなかなか魔人は重い腰を上げない。誰がお祈りをささげて涙を流すか(自己犠牲的な仕草を見せるか)で、彼ははじめて動く。1,2作目は綺麗な姫の私の身を捧げますと言って流す涙。3作目は小童の拝んで雪に身を投げる姿、に呼応する。
(とは言え虐げられている村人が魔人に蹴散らされたり、村人の為に立ち上がった少年が自己犠牲的に川に流されても直ぐにドライに忘れ去られたり、可哀そうに思えるところはある)。

それから、何とも恐ろしいことに、全ての作品が1966年に製作されているのである。
映画によっては続編が10年以上後となるものなどいくらでもある。
これでは猶更同じようなものになるのでは、、、。それが狙いか。
でも、何でこんなに急いで続編を作ったのか?
一作目が結構ヒットしたのに気をよくしてそれにあやかろうとしたのか?


「大魔神」(1作目)
1966年
安田公義監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎撮影

高田美和、、、花房小笹(一族を悪家老一派に滅ぼされた姫)
青山良彦 、、、花房忠文(姫の兄)
藤巻潤、、、猿丸小源太(忠文の懐刀)
五味龍太郎、、、大舘左馬之助(悪家老)

1518年(永正15年) 丹波にて

ここでは、民がどんな酷い目に遭っても動かぬ大魔神であったが、花房小笹(高田美和)が涙で頼むと、いうことを聞く。
噺と流れは、同じ。


「大魔神怒る」(2作目)
1966年
三隅研次監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎撮影

藤村志保、、、早百合(姫、十郎時貞の許婚)
本郷功次郎、、、千草十郎時貞(民に称えられる千草の領主)
上野山功一、、、名越勝茂(千草の分家、早百合の兄)
神田隆、、、御子柴弾正(隣国から攻め込んだ悪殿)

1532年(天文元年) 八雲 にて

ここでは、早百合が捨て身で涙を一滴流して頼むと、言うことを聞いてくれる。
噺と流れは、同じ。


「大魔神逆襲」(3作目)
1966年
森一生監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎、今井ひろし撮影

二宮秀樹、、、鶴吉
堀井晋次、、、大作
飯塚真英、、、金太
長友宗之、、、杉松
(どれも小童)

1543年(天文12年) 飛弾 にて

ここでは特に殿も姫も出てこない。
そこが1,2作目と異なる。
演技の下手な子役でもたせるのは、かなり大変。
(製作側も観る方も)。
やはり殿(直ぐに敵につかまり人質になる)と幼気な姫でやった方がすんなり観られるのだが。
噺と流れは基本的に同じ。

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3作目で初めて剣を抜いたと思う。
それまでは、ほとんどただ歩くだけで、悪の主をやっつけるときも自分の剣は使わなかった。


どれも初めて見た。
ゴジラ、ガメラは明らかな怪獣であるが、こちらは荒ぶる神であった。
取り敢えず3部作全部見てひとやれである。


恐らくもう二度と観ることはあるまい。


リング

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1998年
中田秀夫監督
高橋洋脚本
鈴木光司原作

松嶋菜々子 、、、浅川玲子(ジャーナリスト)
真田広之 、、、高山竜司(浅川の元夫、大学教授、霊能者)
中谷美紀 、、、高野舞(高山の教え子)
沼田曜一 、、、山村敬(志津子の親戚)
雅子 、、、山村志津子(千里眼の持ち主、貞子の母)
竹内結子 、、、大石智子(浅川の姪)
佐藤仁美 、、、雅美(智子の友人)

BSで入っていたので、久しぶりに観てみた。夏であるし。ほとんど忘れていた為、新鮮な気分で観ることが出来た。
不安や恐怖、不穏な空気感を演出で淡々と忍ばせて行くところが良い。
(クリーチャーやスプラッターシーンがこれでもかと出てくる西洋ホラーにない魅力である。わたしがホラーが苦手なのは怖いからではなく、ただスプラッター的刺激ばかりをエスカレートして行く傾向が苦手なのだ)。


観てから一週間で死ぬという個人差なく平等なきっちりとした設定。
ちゃんとその時にテレビ画面から這い出てくるサービスは、今日の時間に正確なビジネスモデルと重なる。
デジタルメディア時代にピッタリ則した呪いである。
しかし、貞子の呪いでなくとも、わたしもデジタルデータを扱う頻度はとても高いし、その作業(基本的にデータのコピー以外の何でもない)をしている事自体、モニタを介したデータのやり取りに呪われていると言える。
スマフォを手放せない人はしっかりメディアデータに呪縛されている。
それはわれわれを身体的に蝕む。ストレスの大部分はそれであろう。

この一週間以内にダビングして別の人に送れば命が助かるというのも、ひと頃流行った不幸の手紙などを思い起こさせる。
もっとも、こちらの方は、貞子自身の無念~怨念を人々に広く周知させようという目論見なのだろうが。
これをネットを使ったメールで広めるようになったら、恐ろしいことになる。(効率と手軽さからも)。
今であれば、貞子も当然そちらの手法に移行するはずだ。(ユーチューブも使ってくるだろう)。
恐らく、コピー配布もマルチ商法的(ねずみ講的)な広め方を強制してくるかも知れない。
そうなるともう爆発的増殖となる。
ネット上なら、特に言葉の意味的な作用はないようであるし、言語的な問題はなければ海外だってシームレスだ。
スーパーフラットだ。
内容的に言っても、かなり興味をそそるビデオである。ピコ太郎みたいに視聴する人は増えるはず。
きっとジャスティン・ビーバーも勧めてくるだろう?

ただ、コピー配布にも限界があり、滞ることでとどんどん死んでゆくことになる。
配布時に1人または2人でよいのに、物凄く多くのメールリストに一斉配布してしまう者が出てくると大変な混乱となる。
ネットやメールをたまたまやらない一部の人だけ助かるみたいな構図もできそう、、、。

わたしは何を心配しているのか?
ひとはモニタを介したデジタルデータのアウト&インプットに呪詛されている。
この手の厄介なトラブルも何らかの形で生じないとも限らない。
何かを拡散しようとすれば、極めて容易くなっている状況であることは確かなのだし。

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リングに戻る。
この怨念ビデオは、なかなかよく出来ている。
井戸の中から長い髪で顔の見えない白装束の少女が出てくる間など、見事だ。
そして極めつけはTV画面からシームレスに日常空間に出て来てしまうのである。
アッパレだと思う。
思わず膝を叩いてしまうではないか。

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しかし、何故彼女を前に、みんな裸足で外に逃げ出せないのか?!
部屋の中で、這って少しだけ逃げて恐ろしい顔で死んでしまうのか、、、。
やはり出てきた者が余りに珍しくて目を離せないのだ。
身の安全より、好奇心が勝るものなのだ。
そりゃそうだ。普通の番組では例えスーパーマンであろうと仮面ライダーであろうと、出てきちゃくれない。
一体どんな人なのかと、怖いながらもそのサービスと正体に触れてみなくては申し訳ないという律儀な思いに駆られるのだ。
(いや怖いけどそれで愉しみたいという眩暈感を味わいたいのだ。それは人間の本質である。でなければ誰がホラー映画などわざわざ観るか!)

確かにあの顔は怖い。
だが、なにもあんなに恐怖にひきつった顔で死ななくても、と思うのだがどうであろう?

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やはり怖いには怖い。
独りでいるときに急にTVが点いて、井戸の場面から吸い込まれるように見入ってしまい、そのままここまで来てしまうと心臓の悪い人はイチコロに違いない。
そうでなくとも、これを見たところで、みんな死ぬようだ。
どうやら怖いだけでなく、もっと心臓に打撃を加える何かがあるのだろう。

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わたしがやって竜司さんがしてなかったことは何なの?
と考え、コピーだと気づいたところで、浅川玲子の顔つきが変わる。
息子が深夜に起きて隣の部屋でビデオを観ていたときの玲子のショックは、本当によく分かる。
この映画でもっともショックを受けたところだ。

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そして、この映画で一番怖かったのは、浅川玲子が息子の命を救う為、自分の父親にコピービデオを見せようと決意した時の表情である。

貞子と同じくらい怖い目。

こうして貞子の怨念は広まり浸透してゆくのだ。
貞子は(ネット)ビジネス向きの人だ。


ミスター・ノーボディ

MY NAME IS NOBODY

MY NAME IS NOBODY
1975年
イタリア/フランス/西ドイツ/アメリカ

トニーノ・ヴァレリ監督
エルネスト・ガスタルディ脚本
エンニオ・モリコーネ音楽

ヘンリー・フォンダ 、、、ジャック・ボーレガード
テレンス・ヒル 、、、ノーボディ(名前を明かさない風来坊)
レオ・ゴードン 、、、レッド
ジェフリー・ルイス 、、、ワイルドバンチのリーダー
ジャン・マルタン 、、、サリヴァン

相変わらず、ボヤ~ッと過ごしているなか、観たい映画はない訳ではない。
ずっと”A”と”A2”が見たくて仕方がないのだが、まだ観る機会を得ていない。


「ミスター・ノーバディ」という映画が他にあり、ホントはそっちの方を観たかったのだが、こちらの「ミスター・ノーボディ」がデッキに入っていたので観てみることとなる。昨日の流れからすると近未来の死のなくなった管理社会を描いたという「ミスター・ノーバディ」観る方が自然なのだが仕方ない。

これはマカロニ・ウエスタンで、わたしはあまり観ない類の映画なのだが、観てみるとこれはこれで面白いものだ。
ただ、西部劇~マカロニ・ウエスタンに疎い為、この映画の面白さを充分に咀嚼できているかどうかは、分からない。
わたしも好きなサム・ペキンパーが序盤で話題になる。(彼の墓というのが映される(爆)。
ジャック・ボーレガードが最後に相対する相手というのが総勢150人の強者揃いの”ワイルドバンチ”「強盗団」とくる。
そうとう、サム・ペキンパーに対するオマージュは感じられるものだ。
「ワルキューレの騎行」が効果的に入ってくる。
音楽の方は流石だ。

ここでは、「ワイルドバンチ」みたいな壮絶な撃ち合いというのはなく、ただ飛び抜けて腕の良い主人公二人が一方的に撃つだけだ。
と言うより、ノーボディの方はほとんど人は撃たない。
余りに腕の差が大きい為かほとんどまともに相手せず、おちょくるくらいで、滅多に撃ち殺さないのだ。
ノーボディは少年時代からジャック・ボーレガードに憧れていて、もう老境に差し掛かった彼に花道を用意してあげたい気持ちらしい。
兎も角、序盤からジャック・ボーレガードにずっとつき纏う。
おれを倒して名をあげたいのなら抜け!と言われるが一向に抜かない。
何を考えているのか分からない感じでずっとジャック・ボーレガードの動向を追う。
いつも飄々としていて素頓狂で全く内面を悟られないニンマリした表情で行く先々に現れる。

ノーボディはジャック・ボーレガードについて今すぐ伝記が書けるくらい細かく調べ上げており、暗記もしている。
最期は、150人のワイルドバンチ(1500人以上のガンマンに相当する手練れ)を独りで迎え撃つというシナリオを彼の為に用意する。
それによってジャック・ボーレガードが永遠に歴史に残るようにしたいのだと。
ジャック・ボーレガード自身は特に歴史書に載りたいとも思っていない様子なのだが。

サム・ペキンパーの「ワイルド・バンチ」みたいな不穏な緊張感やハードボイルドな撃ち合いはなく、コメディ調で進んでゆく。
大道芸(お祭りか?)で、大きな人形が伸ばした腕を回して悪党を倒したり、鏡の部屋でからかって散々な目に合わせてみたり、、、それはそれでよいのだが。
何とも言えなかったのが、異常に長い尺でトイレにしゃがみこんでいる列車の車掌をノーボディがずっと見ているところだ。
普通、車掌が列車を離れているのを確認したところで、サッサと盗んで走らせないか?
ずっと眺めている理由が分からないし、その間車掌がしきりに顔の汗を拭うのがいつまで続くのだろうと居心地が悪くなってくる、、、。仕舞いに口笛を吹き始めそれに車掌も乗り出すと、突然ノーボディが消えている。列車が走り出す。車掌がトイレから出て大慌て。しかしトイレの時間の意味は分からない、、、。
何でもこの作品が、マカロニ・ウエスタンの最後の作品に当たるそうだ。
最後は趣き(含み)のあるコメディタッチのマカロニ・ウエスタンで幕を閉じたことになろう。
結構ためになる蘊蓄も述べられていた。

何処で撮影したのか、風景に圧倒される。
確かに西部劇は風景だ。
そして機関車。
ここでも機関車は最後の最後に大事な役目を果たす。

ジャック・ボーレガードが半ば意志に反してワイルド・バンチを迎え撃つことになる。
馬の鞍に忍ばせているダイナマイトを狙って正確に撃ってゆくものだから、次々に爆発が起き向こうは大惨事である。
そして頃合いの良いところでノーボディ運転の列車に乗っておさらばである。
最後はノーボディとのペテンの決闘をして死んだふりして現役引退、ヨーロッパに渡り余生を送ることとなる。
この後は、ノーボディがジャック・ボーレガードの後継者となって行くのは目に見えている。
有名になってしまったのだから、名前がなくとも付け狙われる。
しかし時代の流れもあり、早撃ちアウトローの存在自体危うくなってゆく。
やはり最後のウエスタンなのか、、、。


わたしにとっては、「暗黒街の弾痕」「怒りの葡萄」「荒野の決闘」などが印象に残るヘンリー・フォンダであるが、老境を迎えて眼鏡をかけないと視界が霞むなかで早撃ち名人として引き際を横槍を入れられながら模索するコメディというのも面白い話であった。
まあ、わたしとしては若かりし頃の「怒りの葡萄」の真摯な瑞々しさのインパクトが大きいのだが、良い感じの歳の取り方だと思う。


スローターハウス5

Slaughterhouse5 001

Slaughterhouse5

1972年
ジョージ・ロイ・ヒル監督

カート・ヴォネガット”Slaughterhouse-Five or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death”原作
スティーブン・ゲラー脚本

マイケル・サックス、、、ビリー・ビルグリム
ロン・リーブマン、、、ラザロ(ビリーを友の敵として復讐を誓っている)
ユージン・ロッシェ、、、ダービー(ビリーの庇護役のリーダー格の兵士、大学教授)
シャロン・ガンズ、、、バレンシア(ビリーの妻)
ヴァレリー・ペリン、、、モンタナ(映画女優、ビリーの恋人)


ゴールドベルク変奏曲(グレン・グールドによる)が何度も流れる。
とてもシーンに合っていて格調を与えていた。

「子供の十字軍」なるほど、、、。
「第5屠殺場」は、ドレスデン空襲の際に、ビリー・ビルグリム達の捕虜収容所として使われていた場所。
ついでに、「ドレスデン空襲」は誤爆であり犠牲者のほとんどは民間人であった(子供も多かった)という。
ここでも子供たちの死骸を山積みにして火をつけ火葬する場面がある。


”トラルファマドール星”というのが出てくるが、そこには姿は見せぬが時間を自在に移動できる存在がおり、主人公(など)ヒトもすきな時間に移動させてしまう。そんな設定で、ビリー・ビルグリムは目まぐるしく自分の辿った時間を行ったり来たりする。但しあくまでも「その時間」を生きるだけで、その時間流に対する超越的な存在=固有時でいることは出来ないため、その時空を対象として変容させることは出来ない。ただその時空になるだけ~経験するだけ(一回性のもとに)の話である。
であれば、普通線状的に時系列に沿って描いた映像をブツ切りにして、ランダムに並べ替えることで基本的に出来てしまいそうである。
しかしそうだとすると、一か所明らかに変なところがある。ビリー・ビルグリムが演説後にラザロに撃たれて死ぬことになっているということを演説の最中に民衆に向け話すのだ。そして実際に撃ち殺される。これはあり得ない。ルール違反だ。物語が形式的に壊れる。

彼ら?は主人公のところに(窓辺などに)青い星のような光で遠い夜空からやって来きたりする。
飛行機事故で脳に損傷を受けたビリー・ビルグリム自身が、何やら記憶を異常に鮮明に想起出来るような症状となったようにも窺えるが、映画女優のモンタナとトラルファマドール星で妻の死後に結ばれたりするところは、明らかに文脈から飛躍したシーンであるし、本人の憧れから生じた妄想も入ってきていると謂えるか。そのトラルファマドール星の見えない観衆の前に据えられたビリー・ビルグリムとモンタナのドーム形の部屋も如何にもチープな空想から出来た感じのセンスのない作りである。

何と言うか、それぞれのシーン(時空~記憶)の切り替えが、人込みで込み合っている集会から兵士の犇めき合う戦場に移行したり、廊下を歩く戦地の収容所から戦後の病院の廊下に移るなど、言語連想のようにシーン移行するところがかなり怪しい。
勿論、それぞれの場面、捕虜生活、結婚、息子の非行と反抗、妻の事故死、女優と結ばれ子供を授かる、息子の改心と軍隊入隊、出世、、、など様々なシーンが描かれるが、どれも主人公ビリー・ビルグリムが実際に体験した(知らされた)範囲に留まる。
であるから、ドラマチックで劇的な戦闘シーンやビリー・ビルグリムが防空壕に隠れていたときにどれだけの激しい空爆が続いていたのかなど、微塵も描かれない。広島以上の犠牲者を出したという壮絶な戦場は、防空壕を出た後の、子供たちの死骸の処理の場面だけで描写される。
それは仕方ない。彼は俯瞰的にそれを確認する視座は持たないのだ。何も見てはいなかった。いや、もっと謂えば、想い出せないのだ、、、。
周囲の人々の人物像はほとんど描かれない。
しいて言えば、自分が頼りにしていて親しかったダービーが、公正でしっかりしていて責任感の強い人として描かれていたくらいか。

感情的な起伏もなく、極めて淡々と物事が運ぶのも、ビリー・ビルグリムという人がそういうヒトだからだ。
出世して大金持ちの彼が妻の誕生日にキャデラックをプレゼントするが、その妻は彼が飛行機事故で収容された病院に半狂乱で車を事故でボロボロにしながら向かい、到着してから後に息を引き取る。
ここも、他の箇所と同じく狂態と混乱を引いて静かに捉えている。
妻はこの時点では死ぬが、それだけのことである。
きっとそういうことなのだ。

終始、感情的にほとんど揺れ動くことはなく、ユーモラスな感覚を覚えて観ていた。
それは、死がなんら決定的なものではないところからきている。
死の悲惨さも高揚も微塵もないのだ。
主人公が時間のあらゆる断片を行き来するとこを観てゆくうちに、時間に最初と最後があろうが、その中間を無限に行ったり来たり出来ることから、始まりと終わりのインパクトなど何もないことが感覚的に分かってしまう。
ここでも主人公は撃ち殺された後、すぐに別のシーンで愉しく過ごしている。

われわれより一次元上の、時間を点~瞬間ではなく、広がりとした世界に存在したらどのような認識を得られるのだろうか、、、。
何と謂うか究極の悲惨さ、そのどうしようもない動かしえない事実~結果があろうが、、、何だか宇宙の始まりと終焉を巡っての噺にも思えてくるではないか、、、誕生と死とを知らず、その間を無限反復すること自体に癒されて逝くのかも知れない。








青木繁

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「黄泉比良坂」

彼はギュスターブ・モローが大好きだったという。
なるほど、と思う。
通じるものがある。
神話を題材とする(ロマン派的)というだけでなく、一時期特に色彩の扱い方が近い気がする。
厭世的なところも似ている。まあ、世間など端から相手にしない芸術家は少なくないが、青木の場合、食ってゆく必要からなかなか大変であったようだ。
金銭面については、モローは全くお金に不自由する人ではなかった為、悠々と隠者生活が送れた。
この処女作の美しさには唸った。初めて観たとき、これが一番良いと思った。
黒田清輝の「白馬会」に出品し賞を得たというが、この絵はモローにも繋がる象徴性を湛えた神秘的な光を感じる絵である。
古事記(日本書紀も)を読み、日本人の根源に迫る絵を目指していたようだ。
これは、とても優れた方向性だと思うし、彼の描画スタイルにも合致していると思う。
そのまま行けば、東洋のギュスターブ・モローの誕生だ。

彼は早くから「天才」と呼ばれる。
自身もそう確信していることが良くわかる「自画像」を描いている。
「丹青(絵画)によって我男子たらん」と初心表明していた。
絵でアレキサンダーのような存在になる野心をもっていたようなのだ。

Aoki Shigeru002
「海の幸」

彼独自の作風であるし、代表作となるだけのモニュメンタルなインパクトがある。
とても勢いがあるダイナミックで的確なタッチだ。
画力が充分窺える。
恋人の白い顔がこちらを覗いている。
常にそういうものが気になり、その文脈の中に自分独自の意味~象徴を埋め込んでしまう人なのだ。
絵によっては、何気なく恋人の下に置いてきた息子まで出演している。
それは、気になるのは当然であろうが、主題的に関係ない作品に表出させてしまうのである。
自分の気持ち(無意識的なもの~要求)にとても率直なのだ。
(表現者の特徴であり、ある意味特権ではあるが、、、)。

この行列は、地元の漁師に謂わせれば、全くの想像の賜物であり、実際にこういう形で獲物を捕らえてから行列して歩くことはないという。祭りの形体から援用しているとみられるところはあるらしいが、元の形などはさしあたり、どうでもよい。
日本(人)の源流を漁師たちの姿を借りて青木のイメージで掬いだしたものと謂えよう。
わたしもこれには見入ってしまうが、漁師たちの表情がもはや、日常のヒトのものではないのだが、神話的な人物というような特別な存在(英雄や偉人)にも見えない、何かヒトの原型を観るような気分になる。
一口に言って、不思議な感じの拭えない絵なのだ。
パリで展示された際にも、鑑賞したパリジャンたちは、皆不思議がっていたようである。
だから注目され続け、代表作なのだろう。

Aoki Shigeru001
「わだつみのいろこの宮」

はっきり言って力作と一目で分かる絵である。
やる気を出して、充分に構想を練って準備して描いたなと恐らく誰が見ても分かってしまう絵であろう。
大変美しく隙の無い作画であるし、完成度がとても高いものだ。
ただ、丁寧なタッチで描き過ぎたきらいはあり、やや説明的な感もしなくはない。
もしかしたら、賞狙いの欲が過剰に働いたか。
「海の幸」みたいに描きたいもの~イメージを一気呵成に、奔放に定着した凄みは後退している。
綺麗な絵である。

当人の期待した称賛は得られず、大きな落胆を経験することになる。
しかし、自分がよく描けたという確信があれば、世間がどう見ようがそんなことはどうでも良いのではないか?
自分にとって(内的必然において)どうなのか、それがすべてではないのか。
勿論、大家となって名誉欲を充たし、金銭面でも安定を得る必要はあったかも知れないが。
であれば、一回くらいの挫折で落ち込んでいる暇はあるまい。
10回続けてトライしても大賞が取れなかったというなら分かるが、たかが一度思った賞が取れなかったくらいで大変な落ち込み様というのは、なんとも、、、。

非常な自信家であった分、打たれ弱いヒトであったようだ。

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「朝日」

恋人とその間に生まれた子供を残し、故郷に戻って生活を支える絵を描いていたが、その後、、、
九州各地を放浪し酒に溺れながら極貧のうちに唐津の海に最期に行き着く。
そこで、何故か「朝日」を描く。
写実のようで心象風景に他ならない異様に神秘的で幽玄な美しい海の光景である。
幻想の朝日であろう。
そこに見えない「朝日」を見ようとしたのだ、、、。
絶筆である。
28年の生涯を閉じる。


娘のお出かけ~北斎とルノアールも少し、、、

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7月31日からずっと、娘が海外旅行である。
15日にならなければ戻ってこない。
娘のいないうちに色々やろう、と思っていたのだが、いざ自分の空間にあの小うるさい娘たちがいないと、腑抜け状態になってしまう。計画を綿密に立てなかったから、とかいう問題ではなく、、、。
ボーっと一日が過ぎてしまうのだ。
活気がないとかいうものとは違う感覚である。
(うるさいのと活気とは違う)。
ただ、自分のなかに発動する何かがないのだ。

、、、わたしには、もともと中心がない。

おまけに、天気も悪く、月も出ない。
娘たちとはじめて、毎日収穫のあったトマト畑も、嵐でかなりの大打撃を食らってしまった。
昨日、結局3本木を始末した。

何だか蒸し暑いうえに、空虚な感じにとらわれるものである(爆。


今日は北斎やルノアールを観て過ごした。
北斎の技量の高さには、ひたすら驚愕するばかりである。
その上に発想の豊かさと自在さ、というか観察力とその構造の原理を掴みデザインに的確に活かせる能力の高さに驚く。
また、よく言われる茶目っ気である。
やはり、その通りだ。
富士山であれだけ遊べる人はいまい。思わず笑ってしまう。
そして夥しいバリエーションの獅子である。
もう、北斎その人である、としか言えない。獅子がそろばん弾いて小言まで言っている。
更に波頭の形体の妙。砕ける波がどんどん雄弁に迫力を増してゆく。
ついに波しぶきが鳥となって羽ばたき飛んでゆく様は、もうエッシャーである。
(勿論、エッシャーより早い)。
波の打ち寄せと引き潮の動きの雄弁で簡潔なこと、、、。
とても解き放たれた心地よい想像力を感じ、スーパーフラットな閉塞的な圧迫感が全くない。
そして波だけが時空の奥に向けて螺旋状に運動してゆく光景は、宇宙の創造そのものを肌身に感じるところまでゆく。
神秘的であり偉大さを感じるが、重々しさはない。

どんな描画法であろうが何が題材であろうが、何でも彼の独自の絵として完璧に迷いなく仕上げてしまう。
晩年の肉筆画の圧倒的な技量には、ただもう唸るだけであるが、とても心地よく絵の中に入って行ける。
ここがきっと肝心なところなのだ、とつくづく思った、、、。
ここまで神業となると、上手いとかどうとかではなく、ただ気楽に楽しめてしまう。
そういった、行くところまで行った「軽み」が感じられるものである。

Mlle Irene Cahen dAnvers

ルノアールは、断然初期が良い。1980年代は瑞々しさを保ちながらも熟れてきた作品が多く、とても好きだ。
1970年代の固さが感じられる絵にも惹かれる。
だが、わたしはこのあたりの初期の頃の絵しか見る気がしない、、、。
何といっても印象派である。
外に絵の具を持って(開発されたチューブ入り絵の具で)光と色を、特にルノアールは繊細なタッチで描いてゆく。
光と色は常に新たに発見され、カンバスに小気味よく定着される。
その息遣いさえも感じられるタッチの画面は、どれも気持ちよい。
この雨ばかり続き風もひどく鬱陶しい時に見るには最適な絵である。

ルノアールは、もともと陶磁器の絵付け職人から出発した人であるから、細やかなタッチと心地よい色遣いは特徴的である。
とても清々しく優しいハーモニーに充ちている。(何しろ陶磁器が気持ちよい模様でなかったら商品にならない)。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、「二人の姉妹~テラスにて」、「舟遊びをする人々の昼食」とか、風景の中の群像(人物)の絵は、いつまでも観ていられるとても心安らぐ愉しいものばかりである。
そんななかでも「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が特に好きだ。
こんな瑞々しく愛らしい少女像があるだろうか。
こういった少女像は、この頃のルノアールの独壇場だ。
他の画家の追従を許さない。

しかし、1990年以降のルノアールの絵にはついてゆけなくなる。
巨匠となってから後だ。(巨大な恐竜が身動きできなくなったかのような印象を受ける)。
特に「ピアノに寄る少女たち」(1992)が象徴的であるが、もう何と言うかひたすら感覚的に観るに耐えないものとなってゆく。
晩年の「浴女たち」が良いという人も勿論いるだろうが、わたしは生理的にダメである。
有名画家の描いた絵の中で(教科書にも載っていた絵で)もっとも嫌いな絵が「ピアノに寄る少女たち」であったが、それは今も変わらない。それから、ぶよぶよのセイウチのような晩年のニンフ群についても。

最も好きな絵の一つも彼の「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」なのだが、、、。
わたしにとってルノアールとはアンビバレンツな存在なのだ。

まあ、そういったものであることが普通なのかとも思う。

だが、西洋画家でも、ギュスターヴ・モロー、バルテュス(バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ)、ウンベルト・ボッチョーニ、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フランツ・マルクなどは、どの作品をとっても強烈に好きである(爆。


天候の悪い日は、自分の好きな絵でも観て、音楽を聴いて過ごすのが一番に想える。
(ただ、娘たちがいないうちに出来ることは少しでも進めておかなければならない)。



村上隆

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昨日に続いて現在活躍中のアーティスト。(画家というよりアーティストというのが馴染む)。
村上隆を実際に美術館に見に行った事はない。
横100m縦3mの作品を観たら、それはさぞ圧倒されるだろう。
メディアや雑誌で観た範囲の感想である。
恐らく実際に会場に足を運んでも変わらないと思うが、その作品世界に惹き込まれるというものではなく、表面に湛えられた強烈な迫力に押し返されるような経験となると思う。

彼は若くして海外(アメリカ)に渡る。
世に出ること~野心に燃えていたようだ。
何をすれば時流に乗れるだろう、と考えた末、日本のアニメを元に(その後は水墨画~浮世絵も引用し)、シルクスクリーンを中心に作品を展開していった。
特徴としては、何より奥行き~内界を排除した表面のみを強調したパワー溢れるものだ。
等身大フィギュアも作成している。当初から作品はよく売れたそうだ。

自身は「海外に対するアンチテーゼ」と騙っているが、寧ろ日本のアニメと江戸の絵師からの引用と西洋ポップアートの融合ではないか、という気がする。
さらに戦後日本を強く意識した制作を行っているという。
なるほど、戦後の日本のオモチャ産業はJHQやアメリカ本国への輸出を巡っての商品開発で、やはりアメリカ=日本のハイブリッドデザインが生まれる場であったはず。
彼の作品群はそれを更に純化した異常なほどポップな融合作なのではないか。

芸大の日本画出身で、アニメの手法を基本にして、ポップアート~ファインアート~水墨画(浮世絵)をシームレスに繋ごうという試みは、彼自身が提唱するスーパーフラットというムーブメントであろう。
確かに非常に平面的で、構成要素の輪郭内部に限りなく過剰な装飾形体~模様を充填してゆこうという作品だ。
(こんな巨大で細密な版画をよく刷ったものだなと、感心するばかりだ)。
個々の要素(羅漢など)に関しては、一体ずづコンピュータに取り込んで構成に及んだという。

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村上隆は、作品がとても高く売れる。
金が動く。非常に儲かっているアーティストだ。
フィギュアも作っており、パリで展示されたり、やはり高額で買い取られている。
(金持ちは結構いるものだ)。
流石にベルサイユ宮殿で展示される際には、反対者も出たらしい。
(しかし、ベルサイユ宮殿に展示され、そしてそれに反対する人たちがいる事自体、どれだけ有名かということである)。

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彼は『DB君』という真似されやすいキャラクターをもっている。
似ているキャラを発表している会社に対し著作権侵害で提訴して和解金(4000万円)も受け取っているが、子供とかが何となく描けば似てしまう類の顔のキャラである。
実際、フィギュアも一体5800万円で取引されたそうだが、食玩にも作品は転用されている。
確かにオモチャ・キャラクター商品でも十分に通用するモノだろう。

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肝心の大作についてだが、「500羅漢図」を美術誌紙面とTVで観た。
実際に会場に行ったとしても全貌を一度に観るのは不可能であり、部分的に観てゆくことになろう。

全長100mの凄まじく長く大きなシルクスクリーン作品であり、彼が原案を考え、それらを構成する絵は雇っているスタッフや学生アルバイトに任される。
実際の刷りは、非常に神経を使う体力・根気仕事であり、これは学生たちの担当になる。
村上は、基本チェックをして檄を飛ばす社長のような立場だ。
現場責任者も学生だったりする。
村上は外注であったり、工房~スタジオシステムで作品制作をしてきているのだ。
ルネサンス期だって多くはそうであった。(レオナルドはベロッキオ工房で師匠の絵の一部を描いていた、、、師匠より上手かったが)。
「500羅漢図」は、東日本大震災に衝撃を受けて、アートとして何ができるかを考えたところから、コンセプトが生まれたという。
安政の大震災の際に描かれた狩野一信による「500羅漢図」を下地に村上流の平面的極彩色の迫力画面に仕上がっている。
羅漢が光線を発しているところなど、歌川国芳にも通じるところを感じる。
(村上にとって光線を発する等、大したギミックではないが)。
そして羅漢に限らず、全ての要素が「怪物」たちなのである。龍やその他の想像上の怪獣で羅漢の他は埋め尽くされる。
勿論、羅漢の顔~表情も皆、怪物である。
少なくとも観て拝みたくなる厳粛な顔などは一切ない。
どう見たらよいのかよく分からない顔ばかりなのだ、、、。それが狙いなのだろうが、、、。
(何故か諸星大二郎の「インフェルノ」を扱った『生命の木』に登場する彼らの顔を想起した)。

また面白いのは、背景の(炎などの)連続性を故意に崩すことで、観る者にワザと引っかかりを持たせる工夫を凝らしているところだ。
炎に限らずドット模様も繋ぎ目でズレていたりする。しかし図の部分では綺麗に連続している。
これは確信犯である。

しかし、大いに目立つとはいえ、これがどういう作品なのか(何であるのか)、よく分からないのだ。
『DB君』とその変容キャラも含め。
文字通り商品としても接することのできる作品であるが、どう接するものなのかとても戸惑うモノなのだ。
とても微妙な境界上の作品群に想える。
(分析しようとか、そういう気にもさせない強靭な即物性は感じる)。




入江一子

絵を描くことがそのまま宇宙から滋養を貰うこと。
きっとそうなのだ。
われわれには不可視なその光が、いよいよ顕になる。
呆気にとられる「光そのもの」が射してくる、、、。
まさしく「光の画家」

しかし、それはDNAを破壊するような宇宙線ではない。
霊光とでも謂うべき優しい涼やかな光が風景を満たすのだ。
尋常ではない原色の眩い光景~パステルカラーである。
民族衣装も際立つ。
そう、純情無垢な美しさ~愛らしさで充ち広がるのだ。

irie001.jpg
「四姑娘山の青いケシ」

入江一子は、高齢で現役を元気に続けている画家の代表である。
1916年5月生まれであるから今、101歳。
新作を意欲的に制作し続けている。
何れも対象に対する究極の「賛歌」と謂えようか。一点の曇りも感じない絵だ。

彼女は50歳を越えてから、シルクロード36カ国を周っている。(それを聞いただけでもわたしは眩暈がする)。
42℃もある土地で何時間にもわたってスケッチをしたり、明かりのない暗がりで懐中電灯を頼りに敦煌の飛天を模写したり、蒼い芥子を観るために24時間馬に乗り、山頂に二泊して高山病に罹りながらも芥子を描いて帰ってきたり、ともかくその取材力が半端でなく凄い。普通なら過労で倒れるようなところ、彼女は絵を描くことによって、余計に元気になる。
恐らく、自然に同調して元気を貰っているのだ。
自然~宇宙の神秘との結束点になっているのだ。
植物のように。
ヒトとしての何かの器官が発達している(または、抑制されている)のかも知れない。

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「敦煌飛天」

彼女の天真爛漫な話し方からして、何かが違う。
これまで画業一筋、脇目も振らず一直線に生きて来た賜物か。猥雑物が一切ない。
彼女が「絵」そのものという感じしかしないのだ。
例えば青木繁のような天才画家であっても、絵は手段・方法のひとつと考えており、彼にとって自分の思想~世界観(神話)を表すことが何より問題である。それが文学であったかも知れず、選択の結果であった。
入江の場合、そのような絵との距離はなく、描くことは生の形式に埋まり込んだものだ。
絵を描くことが生きること~呼吸することと同義となっている。
6歳の時から絵が描きたくてたまらず描いてきており、その姿勢は100年、変わりない。
(彼女にはメアリー・カサットと違い、「女子美」という受け皿もしっかりあった。)
幼いころから食卓に出た食べ物も、まず絵に描いてから食べる。(これは今でもやっているかどうか、、、?)

irie003.jpg
「トルファン祭りの日」

そして毎日、好物の焼き肉を食べる。(魚は絵になるが、恐らく焼き肉は絵には描くまい)。
来客には自分の旅の話を楽しそうに聞かせる。
モロッコのバザールで空に浮いた原色の色鮮やかなパラソルの群れのこと。
大道芸人たちと楽器を打ち鳴らす音の響き、、、。
民族衣装の美しさ。
砂漠や日干し煉瓦に落ちる朝日と夕日の光の輝き。
そして、その民族が今、戦禍に見舞われ苦しめられていることにたいする同情。
入江の絵は文化遺産の記録にもなってしまった。(彼女流に抽象化された風景ではあるが)。
彼女がかつて描いた バーミヤンの石仏は、タリバンのによって破壊されてしまっている。
そんなところが多数ある。

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「バリ島.ガルンガンまつりの日」

光が完全に可視化している。
この光の下でのこの色彩なのだろう。
彼女には実際に、こう見えているのだ。
「デッサンは難行、苦行だが色を塗ると真実みが出てきて愉しいです。」

彼女は、何処にあっても目に留まるものを何でもスケッチする。
東京の路地であっても。
そこから「生命の美」そのものが生まれてくるようだ。


「絵がだんだん分かって来て、だんだん描けるようになるんです。」
この言葉には無限の重みがある。



”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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