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長谷川等伯

長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した絵師である。
下級武士の子として生を受けるが幼い時に、染物業を営む長谷川家に養子に出される。

「松林図屏風」(国宝)
Hasegawa Tohaku002Hasegawa Tohaku001

ここまで圧倒的な絵というものを、観たことがない。
ただ、ことばを失うばかりだ。
何をか無理やり言ってみても虚しい。
やはりこうした屛風画では、一番拘ってしまう。
この絵は時の権力者の依頼で描いたものではない。
自分の為に描いたものだ。
画集で観るときでさえ、特別姿勢を正して観てしまう。
丁度この頃、自分の跡継ぎと決めていた息子が世を去っている。
狩野派にこれは描けないことだけは、確かだ。
水墨画と大和絵の高次の融合である。


戦国時代、絵師というのは、権力者の城の空間を埋めるための仕事をしたと言える。
狩野派一の天才とうたわれる狩野永徳は常に天下人の近くで権力に守られ制作に励んでいた。
一方、長谷川等伯は能登から独りやって来た無名の絵師(仏画師)である。
永徳の描いた絵を見て、等伯の野心に火が付いたことは有名。
等伯は一時、狩野派の下で絵を学んでいる。(学ぶと言っても部外者として手伝うといったレベルを超えられない)。

等伯は独立し堺の商人の勢いに乗った(金を蓄えた商人が等伯の絵を求めるようになった)ところもあり、利休とも交流が深かまり、重く見られるようになる。
そしてついに、大徳寺三玄院の襖絵を利休に任され成果を上げる。
ここから等伯の名声は鰻上りとなり、永徳は大いに焦ったという。
狩野派は既得権を守るために、等伯に対し様々な圧力と奸計を仕掛ける。
等伯はついに「仙洞御所対屋障壁画」の大きな仕事の依頼を受けるも、永徳の謀略によって阻まれるという事件も起きた。
しかし信長が死んでから、永徳の権威もこれまでのような力が続かず、等伯の勢いを止めることが出来なくなった。
永徳の急死により、狩野派は一時求心力を失う。
その時期、秀吉は息子の弔いのために、京都に菩提寺・祥雲寺(智積院)の建立を命じ、障壁画を等伯に任せた。
秀吉も大いに満足させた「楓図屏風」(楓図壁貼付)が等伯の地位と名声を絶大なものにする。


長谷川等伯の絵は、いずれも野心的であり、センスが極めて鋭い。

Hasegawa Tohaku003
「楓図屏風」(国宝)
Kano Eitoku001
「檜図屏風」(狩野永徳)
同時代の巨匠同士でよく引き合いに出される絵。
共に豪華絢爛な趣向であるが、デザイン的に観るとかなり違う。
構図、色彩の扱い(塗り重ね)等が、等伯の楓図は大胆で華麗で革新的だ。
これを見比べると、等伯に時代を超脱した魅力が活き活きと感じられ、やはり等伯となってしまうが、永徳には「洛中洛外図屏風」もある。
金箔貼りまくりの細密豪華絢爛の凄さもありだ。
あっちも見始めると面白くてやめられない、、、。

Hasegawa Tohaku004
「利休居士像」
利休ももとは、堺の商人であった。
等伯の力をいち早く見抜いた人である。
この肖像画、様式的に描く姿勢とは全く異なり、極めてリアルに洗練された手法で描かれている。
これを観れば、利休という人がじわ~っと分かって来る気がする。
非常に優れて写実的な肖像画に想える。

Hasegawa Tohaku006Hasegawa Tohaku005
「枯木猿猴図」
この猿は面白い。
とってもフサフサしていて柔らかそうで白くて丸いのだ。
3匹いて、等伯親子を表しているとも謂われる。
木の枝振りは実に枯れていて、猿との質感の違いを味わえるものだ。
彼は妻と才能豊かな息子を二人とも亡くしている。

絵では大成功し「下剋上の絵師」とまで称されるが、私生活では大切な肉親の死に見舞われた。
しかしそれを乗り越える精神~野心も只ならぬものがある。
雪舟を自分の権威イメージに巧みに取り込むイメージ戦略が功を奏し、大寺院からの依頼も増え続け、彼は単なる有名絵師に留まらず京都の有力者となっていった。
具体的には、雪舟から数えて自分が5代目にあたると標榜する系譜の作成~宣伝である。
雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯。
なかなか絵師がここまで考えることはないと思う。
藝術的才能と技量だけではない、マーケティング(ブランディング)能力の高さも尋常ではなかった。
(利休や堺との結びつきなどにしても)。
商才にも長けていたというべきか。



吉田 博

もう一人、版画を。わたしはこの画家については「光る海」(版画)から入っており、それ以前の画業や人となりなどについてはほとんど知らない。明治~大正~昭和を跨ぎ活躍した画家~版画家であり、時代を通しての第一人者であるが、然程知らないのだ。
だが、その版画が途轍もない魅力を湛えている為、一言だけ記しておきたい。

yoshida hiroshi001

ダイアナ妃がとても気に入り購入したという彼の「光る海」
執務室に飾っていたことは知られている。
日が傾く頃の瀬戸内海の静かで永遠を感じさせる柔らかな水面の光、、、。


画才を認められ吉田嘉三郎の養子となったことで吉田の姓を名乗る。
その当時は水彩画が基本で、油絵も描いていた。
若くして渡米し、デトロイトで作品を多数展示・発表するが、高い評価を得て受け容れられ、作品も売れる。

自然の幽玄な姿を写し取る緻密で重厚な作風は、東洋的とは謂えるが、伝統的描画ではなく欧米にも日本にも比べるものがないことからも話題を呼んだ。
その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCでも展覧会を開き名も知れ渡る。
そして題材を求め、欧州諸国、及びモロッコ、エジプトにも外遊し作品制作に励む。

版画に移行する前の水彩・油彩の吉田の絵は、只管重厚で哲学的な趣の深いもので、当時主流であった黒田清輝の軽やかで明るい「新派」からは「旧派」扱いを受け、日本においては孤立を余儀なくされていた。
アメリカ~ヨーロッパでは、かなり認められた存在であったにも拘らず、暫く本国日本では誰もが知る画家とは言えない位置にいた。

yoshida hiroshi004

尤も、アカデミックな場においては、水彩画の「ピラミッドの月夜」、「池の鯉」、「新月」、「峡谷」などや油彩の「精華」、「千古の雪」など非常に高い評価を博しているものも多い。文部省美術展覧会で文部省買い上げや無鑑査で出品する権利を得ており、審査員としての出品も果たしていた。


しかし新版画の版元、渡辺庄三郎に出会い彼の版画舗から木版画を出版し始めることにより、日本においても一般的に高い評価がつくようになる。
充分に画家としての高い地位についていた40歳からの挑戦であり、新境地の開拓でもあった。
彼が本格的に活躍が広く認められるのは版画に目覚め、何と彫りと刷りまで職人レベルの力をつけ独りで出版するようになってからと謂えよう。
版画の制作ペースも速く、忽ちボストンを拠点に、フィラデルフィア、デトロイトなどで何度も展覧会を開いている。
しかも独自の手法を幾つも開発し、一見版画には見えない版画作品の趣を得ることになる。
(海外の吉田 博の研究家はそれを「発明」と呼んでいる)。

yoshida hiroshi002

名作と呼び名も高い「剣岳の朝」
夏の夜明けの一瞬である。
印象派的な儚い美をしっかりとした版画の構築性で捉えている。
光と空気が優しく柔らかい。
その光と空気のリアリティの為か、臨場感が異様に高い。
「画家は自然と人間の間に立って、それを見ることのできない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。」
確かにわれわれもそこに溶け込むように風景を感じることが出来るのだ、、、。
こんな時間は、名画相手の絵画鑑賞であっても、それほど味わえるものではない。


彼はその題材を求め、日本でも諸外国においても山岳をモチーフとすることが多かった。
自身山登りが好きで、必ず頂上まで登ってしまい、山中に籠って描くことも多かったようだ。
その為、その視座によるパノラマ画面の雄大で清々しい風景も多い。
しかし、何処に行っても(外国に行っても)観光化が進み、それが悩みでもあったらしい。
人の知らない自然の美を伝えなければならないのだ。
山を描く版画家であれば、彼も当然「富士山」を描いている。
そこには、西洋画だけでなく明らかに葛飾北斎などの浮世絵の影響が感じとれる。
版画を学び取るに当り浮世絵の線や色彩、形体の単純化の研究が作画にとても有効に働いたと考えられる。
確実に水彩・油彩に見られない特異な表現~美が加わっている。
(何処を描いても人の知らない自然を魅せてしまうような、、、)。

yoshida hiroshi003

彼は山のほかに、山の谷間などを流れる渓流なども好んで描いている。
水の表現では彼の右に出る画家はいないとまで謂わしめるようになるが、確かに水~多様な速度の水流は圧巻であり、飛び抜けた動勢と質感である。
水の湧き出て流れ、砕け落ちる「音」まで聴こえてくる。
まさに自然の美を純粋に伝えるレヴェルに到達している、と感じられる。


それを可能にする方法として、まず秀でたデッサン力は言うまでもないが、掘りの輪郭線の強弱・太さの微妙な調節、線も光に対する色で刷り分けるなどを細やかな手間を惜しまない。
しかし一番大きな効果は、画面に深い陰影を埋め込むための「ネズミ版」を執拗に重ねて刷ることで、版画であることに気付かないような深い奥行きのある画面が生成されることとなる。
この「ネズミ版」を30回以上重ね刷ることが彼の作品では普通であった。
欧州歴訪を終え、自身の版画スタジオから「アメリカ・シリーズ」、「ヨーロッパ・シリーズ」を出版する。
この彼の版画の光景は、欧米とか日本とか関係なく、、、光と風の創る、未知の永遠の瞬間に想える。


水彩や油彩の頃と比べると、作風に重厚さは基調として保たれてはいるが、優しさ~穏やかさや柔らか味が加わっていることが分かる。
ここが、恐らくダイアナ妃を強く惹きつけたところであろう。
斯く言うわたしも、そうなのだ(笑。
一度目を向けたら、なかなか離れられない画面である。


歌川国芳

受ける!そして愉しい。

kuniyoshi004.jpg
「相馬の古内裏」
平将門の娘、滝夜叉姫が呼び出した巨大骸骨が目を引く。

国芳と謂えば、猫好きで奇想天外な絵を描き反骨精神に富む浮世絵画家というイメージで、この絵や動物を擬人化した絵や人体でアンチンボルトをやったような絵が頭に浮かぶが、他にも凄い絵がたくさんあった。
端から浮世絵の枠を飛び越えている。
というより、枠などない。
しかし、技量は確かでちゃっかり西洋画も研究していて、明暗法や遠近法を取り入れた絵~版画で人を強く惹きつける。
一筋縄ではいかない。
骸骨もかなり正確なデッサン~観察を元にしている。

ただ変わったことをやって、人目を惹き有名になろうとした絵師ではない。
そもそも、変わったことをやるにはそれを見出す発想力と具現化する技術と技法の蓄積がなければ新たな形にならない。
敏感なアンテナも立っていなければなるまい。

単に奇想版画家などではないのだ。
ただ、描きたくなったものをきっと臆面もなく描いたのだ。
しかもとても反骨精神に富み、お上に対してもレトリックを駆使して対抗した、庶民の気持ちを代弁する爽快な絵もある。
(その為、何度も呼び出され尋問を受けたりしたことがある。水野忠邦のころである)。

kuniyoshi001.jpg
「見かけは怖いが、とんだいい人だ」

しかし奇想だ。
何を想ってこんな面白いことをするのかが理解できなかったりする。
流石の南伸坊さんもこの真似はできないのでは、、、。
しかし暇な人たちが何処かの横丁に集まってやってみたかも知れぬではないか。
恐らくやってみて酷い目にあった酔狂な人はいたはず。
勿論、目で追って楽しむものであり、実際にやるのは邪道であるが。
ナンセンスとユーモアの何であるかを、こんな形で示す粋な人。

kuniyoshi002.jpgkuniyoshi006.jpgkuniyoshi010.jpg

この手の絵はきっと江戸庶民に受けたはず。
受ければ何パタンもやって見たくもなる。
サービス精神も旺盛なのだ。
ちなみに最後の物は、「猫の当字 なまず」である。
猫大好きで有能なデザイナーでもある国芳の真骨頂であろう。
この文字は本当に普遍性のある楽しさと可愛さに充ち満ちている。

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「甲越勇将伝、、、諸角豊後守昌清」
ウイリアム・ブレイクかと一瞬思うような斬新な絵である。
ドラゴンボールも真っ青。
この時空を超越したかの如くの作画であるが、彼には東京スカイツリーを描いたのではないかという疑惑を持たれている風景画さえあるのだから、さして突飛には思えない。
それはともかく、詩的でアーティスティックなカッコよさは、今でも充分通用する。
(フィギュアスケートなどでも、、、)。

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「西塔鬼若丸」
彼は武者絵が得意で、それをひとつの売り物としており、絶大な支持を得ていた。
特に弁慶は多い。
ここでは、何と巨大な鯉と取っ組み合いをしている。
ストーリー性にも富み、力が入る。
ここがヒットに繋がる。

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「禽獣図会 大鵬 海老」
極め付けである。
巨大海老と伝説の巨鳥の闘い。
アメリカ映画の鮫vs.鰐の類よりずっと面白い。
日本の怪獣映画がこの影響を受けていないはずはない!
(果たしてこれを凌ぐ怪獣対決ものがあるか、、、)。

kuniyoshi005.jpg

わたしが一番好きな国芳の絵である。
「宮本武蔵の鯨退治」である。
この大パノラマ感覚。
ワクワクする劇画感覚。
白い夥しい水玉模様が、泡なのか皮膚の模様なのか、、、デザイン的に素敵でたまらない。
女子なら、「かわいい~っ」と言ってみたいではないか、、、?


何であってもどれも面白くて愉しい。
この絵が版画であることが嬉しい。
一部の金持ちや権力者が独占するものではなく、誰もが手にして見ることが出来る版画~複製藝術であることで、民衆が元気になる。
これが一番大きい。


*他にも面白いものがわんさかあるので、近いうちに続編をやりたい気もする。



スノーデン

Snowden003.jpg
Snowden
2016年
アメリカ

オリバー・ストーン監督
キーラン・フィッツジェラルド、オリバー・ストーン脚本
ルーク・ハーディング『スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実』、アナトリー・クチェレナ『Time of the Octopus』原作

ジョセフ・ゴードン=レヴィット、、、エドワード・スノーデン
シャイリーン・ウッドリー、、、リンゼイ・ミルズ(スノーデンの恋人、カメラマン)
メリッサ・レオ、、、ローラ・ポイトラス(ドキュメンタリー映画作家)
ザカリー・クイント、、、グレン・グリーンウォルド(ジャーナリスト)
トム・ウィルキンソン、、、イーウェン・マカスキル(『ガーディアン』のジャーナリスト)
ニコラス・ケイジ、、、ハンク・フォレスター(元米国諜報機関職員、スノーデンの理解者)
ベン・シュネッツァー、、、ガブリエル・ソル(NSAの同僚)
レイキース・リー・スタンフィールド、、、パトリック・ヘインズ(NSAの同僚)
リス・エヴァンス、、、コービン・オブライアン(CIA教官)


実話である。
「シチズンフォー  スノーデンの暴露」のドキュメンタリーフィルムが強烈であった。
自分は、テロから人々の命を守るという使命感で仕事をしていたが、自分が守っていたのは、政府の覇権だけだったことに気付いた男の行動を追ったもの。
彼はローラ・ポイトラスの力を借りて『ガーディアン』から世界に向けて告発を行う。

何より驚いたのが酒もドラッグもやらないコンピュータが心の友のスノーデン氏とジョセフ・ゴードン=レヴィットがそっくりなこと。
これもドキュメンタリー的臨場感のうちで観る事が出来た。
恋人と和む様子もかなりたっぷり描かれていたのが、先のドキュメンタリーとは、かなり異なるところ。
映画は回想が入るからこのシーンや実際にCIAやNSAで働いていた時の様子~体験も生々しく差し挟まれる。
それらの秘密に守られた機関の恐怖で支配しようとする内情も肌に伝わって来る。
権力欲に取り憑かれ他者を利用することしか考えていない人間(同僚)の多いこともグロテスクに窺える。
恋人リンゼイのリベラルな思想?に彼が傾いてゆくのも無理もない。
ストレスのせいもあり、彼は癲癇の発作にも悩まされるようになる。

電子レンジに携帯を入れて電波をカットするところはハッとした。それで電波を遮断するのだ。
毛布を被ってノートのパスワードを保護するところもそれらしく如何にもと思った。
ハンク・フォレスターの仕事場で彼と暗号機やコンピュータの話をするところはオタクぽく面白い。
セキュリティーの強さを掻い潜って、ルービックキューブにマイクロSDカードを潜めてデータを持ち出すところはドキドキした。
(ある意味、癲癇の持病が上手く隠れ蓑~病気で早帰り~データ持ち出しに加担した)。
しかし、データの盗み出し自体は、実際あんな素人臭いものではないはず。
あのような普通のコピーが効くとは思えない。(恐らく本当はどうやったかは、人には漏らせないはず)。

Snowden002.jpg

このスノーデンというひと、飛び抜けて出来る人であったことが分かる。
最初のCIAの適性試験で担当都市のインフラ稼働シュミレーションを5時間で仕上げるところをを38分でやってしまう。
当初から目をかけられていた優秀な存在だ。
ここはドキュメンタリーでは伝えられずに、映画で強調すべきところであったか。

当然、他の関係者たちの人物像もしっかり描かれる。
かつて優秀な頭脳を買われNSAで活躍していたハンク・フォレスターのアウトロー振りは面白く、恋人と同じくスノーデンに影響を与えてゆく。「情報は、軍需産業が潤う管理体制の為に使われ、業者に税金が流れるようにもっていかれる、、、」など、ここでそんなこと言っていいのか、みたいなことをスノーデンにどんどん漏らしてゆく。左遷された者の強みか。

裏も表も心得ている悪友ガブリエル・ソルの情報からもスノーデンは覚醒し始める。
ガブリエルがスノーデンを「白雪姫」と呼んでいたが、スノーデンは技術的には天才であったが、それ~自分の仕事や作成したプログラムが、何にどう使われているのかについては、驚くほど無知であった。ガブリエルから初めてプリズムのことも教えられる。
スノーデンという人は、恐らく誰よりもピュアな状態でCIAやNSAの内部・中枢で働き始めてしまった人なのかも知れない。

コービン・オブライアン教官の視点、気持ちも理解できる。「君を下らない石油戦争などに巻き込みたくはない。」
これから備えなければならないのは、ロシア、中国、イランのサイバー攻撃だ。君の優れた頭脳はそこで使う、と。
テロは短期的な脅威に過ぎないから、そんなところで使いたくないということだ。
(20年後にはイラクは見捨てられ誰も目を向けない、となる、、、)。
いろいろそちらの方でも興味深い含蓄のある話が出てきて考えさせられる。いちいち拾わないが、、、。


回想とホテルでの取材の情景がシャープにクロスして展開してゆく。
XKEYSCOREを開けるところなど、ちょっとドキドキしてしまう。
何でも検索出来てしまう検索インターフェイスだ。(プリズム収集データ)。
またそのインターフェイス操作がとても丁寧に映される。
まるでソフトの使用法ヴィデオみたいに得意になってガブリエルがスノーデンにやってみせる(笑。
こんなものを見ていたのか、と改めて愕然とする。
(Googleと違い、公開していない世界中の人の全ての情報の検索が出来てしまうのだ!)
そしてイギリス諜報局開発の、パソコンが電源オフであっても作動させ、Webカメラを通して映像を取り込むなど、一般人に対しそんなことが許されるのか、というレベルまで行き着いていることが分かる。

空恐ろしかったのは、彼が日本出張で(スノーデンは日本語にも明るい)日本の通信情報も全て検索可能なものにし(つまり通信システムを乗っ取り)、物的なインフラも全て(送電、病院、ダムなどを)コントロール下においてしまった。
日本が同盟国でなくなれば、ネットワーク~ライフラインが直ちに閉じられてしまうような工作には愕然とする。
それは、今でもそのままなのか?恐らくそうなのだろう。どうにかしてもらいたい。
(日本がアメリカに逆らえないのも分かる)。
それは他の国に対しても同様であるという。
そして要人の追跡調査と場合によっては失脚させるための情報操作など。
結局テロは口実で、経済的・社会的な支配が目的であった。

彼の告発は直接的には、アメリカ国民の電子情報を全て盗み見て管理していたNSAに対するものであったが、勿論それに留まらない普遍性を帯びる。
一言で謂えば、「個」に対する人権の問題である。

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香港のホテルの一室での取材フィルムを撮る4人の緊張状況については、「シチズンフォー  スノーデンの暴露」の方でもかなり味わったが、こちらはよりドラマ仕立てであり、ローラ・ポイトラスの人柄も伝わって来る。
スパイ活動法違反で告訴され、ウィキリークスの助けなどを借りて出国(香港からロシア)するところなど、やはり冷や冷やする。
ロシアに滞在できる期間をもう超えたはずだが、これから先彼はどうするのか。
恋人が現地で合流できたことは、ほっとするも、、、。


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萬鉄五郎

yorozu005.jpg『裸体美人』(萬) nobe kuroda『野辺』(黒田)
芸大入学時(主席入学)には、師である黒田 清輝の作風を強く意識した、フランス外光派(印象派の亜流)風の作品を描いていた萬であったが、卒業制作では師の「野辺」からは程遠い「裸体美人」にまで進展している。
彼のモットーは、「未だかつて出来なかったことを、なし遂げんとする」ことである。
この芸大卒業制作は、19人中16番であったそうだ。
萬は卒業式をボイコットする。

確かに野獣派的で挑発的な作品である。
(マチスっぽい)。
完全に、黒田的裸婦像の「美」の約束事の外にある「裸体」であろう。
その即物性は何と言うか、プリミティブで太々しい生命力を発散している。
ゴーギャンのタヒチでの現地の女性像に近い迫力を感じるものだ。
ありきたりな美はすでに捨て去っていることは、はっきり分かる。
ラファエル・コラン(黒田の師)の絵などをこんな時に見ると到底、萬が満足できるはずはないと思う。
萬の野心丸出しの絵という感じだ。
「雲のある自画像」

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彼は自分を見つめ常に自分の殻を破って創造を続けた芸術家であると考えられるが、自分を見つめるという意味でも、自画像が多い。レンブラントもその意味での自画像が多いが。
自分をモチーフにすれば、その作画の変遷も分かり易い。
そう、萬の場合は、自画像が実験結果という感じで、残って行く。
これと、赤と緑の補色関係の二つの雲が頭上に浮かぶ自画像が有名である。
この雲と彼との関係はとても緊迫した関係にあることは分かるが、恐らく内面を象徴する形態・色彩であろうが、何故かわたしには漫画チックに見えてしまった。
ギャグマンガに転用される危うさをも秘めている。

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「赤い目の自画像」
新しく「原始時代を始める」と宣言したころの絵である。
萬は故郷の土沢に戻り、ひたすら作画の実験に没頭していた。
純粋な自分だけの作画を「土沢」で極めようとしたのだ。
赤土と神楽の面に象徴される故郷の地で、それこそのたうち回って新しい絵を探っている。
(こののたうち回って新たな独自表現をものにしようという姿勢は小林秀雄の姿にも重なる)。

そうした結果、この自画像は、更に変容する。
顔は神楽の面にも通じる呪術的な形に変容し、敢えて共振する絵を探せばピカソのアビニョンの娘たちに見いだせる「顔」である。
彼はピカソは知っていても、その作品は知らない状況にあったという。
彼が試行錯誤の果てに、独りで独自に行き着いた表現法であった。
「それ」はもうヒトではなく鬼の頭部と見紛うほどの異様な形態を獲得している。

yorozu004.jpg

「土沢風景」から「丘の道」に至っては、赤褐色に数種類の緑色以外にはほとんど色はなく、形はもう地形を感じさせないほどに抽象化されてゆく。
ダイナミックな色の動きによる構成に近い。
この赤は謂うまでもなく、故郷の土の「赤」~「丹の色」であり、一種の土着性(アニミズム)が彼独自の表現を強調している。

yorozu006.jpg

「もたれて立つ人」
そして極め付けである。
キュービズムの見事な作品だ。
マルセル・デュシャンかと思うほどの絵であり、やはり彼も形体のとる運動(力学的な形態)に注目している。
同時性と謂ってよいか、彼が独自に創造した成果であろう。


晩年は、肺結核を患い、茅ケ崎に療養を兼ねて移り住む。
この時期から「南画」にも取り組み、墨で自分の境地を風景になぞる様に小気味よく描いている。
とても病人とは思えない、活き活きとした楽し気な筆である。
南画はリズムが肝要と言い、そこで試したリズムをまた油絵に活かしてゆく。
最後は、「宝珠をもつ人」を描き始めるが、未完のまま終わった。
16歳の娘の病の快癒を祈る絵であったと言われるが、甲斐なく娘は他界し、彼自身も翌年41歳で娘と同じ病で病死する。


ここのところ夭逝する天才画家を取り上げ過ぎた感がある。
画家は一方で、非常に長生きする人も少なくない。
そういうヒトも取り上げたいものだ。

松本 竣介

MatsumotoShunsuke001.png
音のない世界の音楽が聴こえる。
静寂の中に、ミニマル・ミュージックの理知的な調べが続いていた。
恐らく。

彼は13で聴覚を失い、16で画家を志し、36歳で夭逝。
「天に続く道を行く」と決意し、そのままずっとブレることがなかった。
余計な雑音が入らないことも、内部の純化と熟成に寄与したはず。

彼は耳のせいで徴兵を免れる。
そして街を歩く。

何処に行くか。
行くところなどない。
決まった場所を観測するように描き続ける。
「Y市の橋」であり「ニコライ堂」であり、、、。

何と言うか、戦争中はそこの定点観測に明け暮れていたのではないか。
巷には「戦争画」が溢れかえっていた。

そのなかで異彩を放つ彼の絵は、極めて静謐で知的に見える。
それも張り詰めた強靭な静謐さに湛えられている。
何処かクレーの絵に似た、この世離れした佇まいも感じられる。


その要因は、ひとつに黒い輪郭線である。(現実に「黒」や「輪郭線」はない)。
この線が絵によっては、抽象的な自立した「黒い線」として画面に重なる、別次元の生成として調和して息づく。
そしてもう一つが、塗り重ねである。
透明色の重層的な塗り重ねは、バルテュスも好んでおこなっているが、松本もかなりの時間の畳み込みを画面に施している。
重厚な絵の具の層が、内部で光の乱反射を招き、宝石のように煌めく光を内包する。
(以前、バルテュス展でそれを確認したとき、身震いがしたことを覚えている)。
それからもう一点あげれば、徹底した風景の編集作業であろう。
松本はスケッチ(クロッキー)した最初の題材を、アトリエにおける油絵の下絵の段階で、各要素を組み換え、入れ替え、改変し、自分にとってあるべき風景に再構成する。
この操作によって命名された一般的な場所が、イデアとしての風景に思えてくる。
彼の絵が非常に理知的~詩的に見える所以でもあろう。

「今、沈黙することは賢い。、、、一切の芸術家としての表現行為は、作者の腹の底まで浸み込んだ肉体化されたもののみに限り、それ以外は表現不可能。」
全くその通りだ。
彼の手記にあるマニフェストは、別に反戦とかそういった政治的なイデオロギーとは無関係なものだ。
自分の意志=身体性に抗う何かを創作するなんて、そもそも不可能だ!という至極真っ当なことを述べているに過ぎない。
藤田嗣治が戦争画を描いたのは、心底、自分も祖国の人々を守るため一兵卒として戦いたいと願った為の必然であり、そこには死力を尽くし自己犠牲の精神で戦うしかなかったヒトの壮絶な姿が明確に捉えられている。(戦意高揚などという愚劣でワザとらしいものでは決してなく、本当の写実である)。それは崇高な内的必然から生まれた藝術に他ならない。
その点で、松本も藤田も自身の身体性において、全く妥協や矛盾はなかった。
松本の「立てる像」の孤高の壮絶さ、これはある意味、彼の戦争画であろう。

MatsumotoShunsuke002.png

この時期において糾弾されるべき者は、ただ政府の圧力で描きたくない戦争画をいやいや描いた画家たちである。
自分の「腹の底まで浸み込んだ肉体化されたもの」を蔑ろにして、違うものを描いた画家たちこそ画家としても人間としても糾弾されるべきである。(しかし、そういう連中は戦後、自分の責任を逃れようと藤田一人にそれを押し付けようと迫った)。
松本も、戦争画を描くのなら、戦後も継続して描くべきだ。と語っていた。そこに芸術性があるのなら描く意味はある、といったことを、、、。
実際、戦後も戦争画を描き続けた画家はいる。戦争と捕虜体験を描き続けた「シベリヤ・シリーズ」の香月泰男など。


松本 竣介は絵だけでなく、文筆も精力的にしており、言語感覚も鋭く瑞々しい。
彼は家族を疎開させても独り自分は空襲の激しい東京に最後まで残り、終戦を見届けた。
従軍しなかった自分の責任と考えてのことだろうか。
彼は実際に空襲の最中にも外で絵を描いていたという。

戦後の絵には、赤が目立ち、焼け溶け落ちた鉄骨の黒い線が彼の内心に共振しているかのような画面が現れる。
彼は、その下に眠る人々の魂に哀悼の意を表しながらも、一切の夾雑物の焼き払われた光景の圧倒的な美しさに驚嘆を隠さなかった。




浦上玉堂

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凍雲篩雪図(とううんしせつず)は川端康成が自ら手に入れ傍らに飾り鑑賞していた作品であり、国宝である。
粉雪の舞う凍てついた幽玄の山水の景色。
よく見ると大胆で奔放な筆さばきのなかに非常に細やかな木の枝が丹念に描き込まれている。
更にこの深く独特な陰影のある雪山の風景に朱が散らばって打たれているではないか、、、。
麓の庵では文人が独り書を読み耽っている。
きっと玉堂自身の姿であろう。

神韻縹渺たる名画と謂えるものか。
川端が、この画をいつも傍らに眺めつつ執筆に臨んでいた姿が思い浮かぶ。
この境地に自らを置き、彼も玉堂の庵に座し、筆を走らせていたのではなかろうかと、、、。


この作者、浦上玉堂は隠遁生活で想うがままの創作を愉しんでいたという。
酒を呑んでは友と琴詩書画に興じ、それらが全て響き合うなか、自ずと作品が生まれ出てきた。
想うがままに琴(七絃琴)を奏で詩を吟じ絵筆を振るう。
その奔放さは晩年においてある~揺ぎ無い境地に達する。
(ほぼ抽象に近い異世界の図となる。それはかなりシュールだ)。
ブルーノタウトは、彼を東洋のゴッホと評している。
(しかし彼には微塵も悲痛さは見られない)。

隠遁者とは、何とも響きのよい、、、。
彼は庵を結び隠遁生活を文字通り送った文人画家であるようだ。
備中鴨方藩大目付という上級藩士であったが、学問、詩文、七絃琴、画に耽っていたため、左遷されたらしい。
そんな時、ひたすら山々の自然に気持ちが囚われて行く。ここではない人の世を脱した何処か果てに強く惹かれて行く、、、。
この感覚、分かる人と分からぬ人とに、はっきり分かれるはず。
いろいろめんどくさくなったので脱藩して、諸国漫遊の旅に出る。
50歳からの第二の人生である。(当時の50である。かなり思い切った決意でもあろう)。
息子2人も連れて行くのだから、きっと息子たちも風流だったのだ。
(趣味を解せぬ息子だったら連れてゆくわけがない)。
3人で山の奥深く、雲の下に棚引く森に囲まれた庵を目指す。
(これもユートピア思想か?)

しかし、50で藩の要職にありながら息子二人を連れて脱藩するからには、先の生活の見込みもしっかりあってのことであろう。
やはり価値観の合う友が訪ねてきて、月明りの下で酒を酌み交わし琴を奏で詩を朗じ筆を振るい画を描く。
そのような事情になったようだ。
勿論、しょっちゅうそれでは、隠遁の意味はない。たまにであろうが、いずれにせよ完全な孤絶ではなかった。
彼の作品を伝える解放されたネットワークは保たれており、交通はかなり頻繁にあったようだ。
それでなければ喰っては行けまい。

彼ら父子は江戸、会津、金沢、熊本、長崎、を巡り最後に京都に落ち着いたという。
当時とすれば、伊能忠敬ではあるまいし、凄まじい旅である。
しかしそこには、諸国を巡った情報も知りたいと友が集まって来るものなのだ。
息子、春琴の絵には(二人の息子も絵を描いた)「平安第一楼会集図」があり、数人の友と酒を交わし琴を奏で絵筆を振るう情景が描き込まれている。所謂、「雅会」というものか。これが所々で開かれていた様子が窺える。
(わたしも、そういう会に是非、参加したいものだ!)

「玉堂琴士集」等の出版もしている。その内容からは到達した境地が心地よく描かれている。
「世俗から日々遠ざかり、真の世界に日々近づいている。心は長閑でヒッソリとしている。諍いも偽りも消え去った。」
「山々の重なりは全て絵の世界そのままだし、滝が響く音は琴の調べのようだ。遠い昔からのこの妙なる境地。とても人に騙れるものではない。」
よって、琴詩書画に表すしかなかったのだ。極めて自然に。

また、「庵にて、些か忙しい。花が開き花が落ちる。ただその事に気も漫ろなのだ。」
そして、「まばらな林のなかを風は淋しく吹き過ぎる。こころのほかにはなにもない。こころだけが存在するのだ。」
まさに、こころが自然に同化したかのような心境は、そのまま琴の調べと化し、画の筆~タッチとなっていった。
彼の特徴である擦筆(所謂、鉛筆状に形を作ったドローイング用具も紙、革、フェルトの素材によって素描を擦り付け滲ませる効果を生むがそれと同様)による筆を強く擦り付けたタッチである。

ちなみに玉堂の琴の指さばきは、「古怪」というテクニックであるという。
フレーズの先がうかがい知れない唐突な動きを秘めたものらしい。
まさに擦筆同様、自然の理に通じる融通無碍なあり方そのものか。
無為自然~ありのままにを過激に徹底した結果~成果であろう。


これらの在り方が全て人に(彼を知る親しい友人を通して世に)知らされていた分けである。
であるからあちこちの山奥の庵に隠遁?していても、彼の名が歴史に燦然と輝いているのだ。
この微妙で絶妙なネットワークがわたしにとっては最も興味深い。
(このネットワーク~関わり合い、とても気になる)。



速水御舟

日本画には空間がない。
というより空気がない、と謂えるか。
速水御舟はそこに初めて?かどうか分からぬが、はっきりと空間~空気を導入した画家である。
彼は日本画家であるが、岸田劉生の影響を大きく受けたという。

Hayami Gyoshu001
炎の螺旋運動を細密に描かれた明るい蛾がさらに演出しているが、この炎を取り巻く~包み込む闇が、多くの西洋画家ならば、無造作に平塗してしまいそうなところ、彼はそこにこそ全力を投入しているかに見える。
闇の芳醇な蜜のような風合いである。
この暖かみと明るみを秘めた闇は何であろう。
こんな闇は少なくとも西洋画に観たことない。
(西洋画では背景は単なる主題を際立たせる為の背景に過ぎない。特にルネサンス)。
また、この螺旋構造の炎の運動も日本画には見られなかったダイナミズムであり、自然観察の科学的な視座が感じられる。
関東大震災時のスケッチから生まれたとも謂われる。
まるでレオナルド・ダビンチである。
稀に見る怪しくも鋭い逸品。
「炎舞」

Hayami Gyoshu002
明暗の異なる数種類の群青と緑青さらに焼き群青を膠で溶いたものを皿に合わせて筆で掬い取りながら描いた逸品。
油絵具と異なり岩絵の具(日本画絵の具)は、混ざらない為、この筆の掬い加減のコントロールで遠景から近景までの面を絶妙に描き分けて行く。
この青は風景画における極致ではないか。
青で描かれた風景画で、かつてこれ程碧の広がりと碧の明暗の深い美しい絵があっただろうか。
とても日本を感じさせるしっとりとした風景であるが、もっと原風景的な深い郷愁も感じさせる。
いつまで観ても惹きつけられる風景だ。
芳醇な碧の空間である。
「洛北修学院村」
(速水御舟の作品では、わたしの一番好きな絵である。初期作品ではあるが)。

Hayami Gyoshu004
写実の極みの細密画である。
背景は描かれない。
ただ皿の影を落とすのみであり、何処にあるのか分からない「鍋島の皿に柘榴」だ。
かつて岩絵の具で、ここまで写実を企てた画家がいただろうか。
いずれにせよ、速水御舟は様式を嫌った画家である。
絵の具や手法を自分の世界の構築に利用・活用するにせよ、すでに出来上がっている様式で描くなど飛んでもないといった画家であろう。
常にZERO地点から、自分の感覚とこれまでに獲得してきた技術と技法の全てを動員して新たな表現に突き進む姿勢が明確に窺える。
その細密さは、他のディテールを極めつくした藝術家に劣らず、神秘性をも醸している。
「藝術は常により深く進展して行かねばならない。だからその中道に出来た型は、どんどん破壊して行かねばならない。」
彼の基本姿勢であろう。
鍋島の皿に乗った柘榴が確かに存在している。
絹本に様式的に描かれた日本画とは全く質の違う空間を感じさせることは謂うまでもない。

Hayami Gyoshu003
これは古木で有名な椿であり、現在は二代目となっているらしい。(御舟の描いた椿はもうない)。
「撒きつぶし」の技法で描かれ、背景の金箔の箔足や金泥による筆跡の全く見られない、金の粉を細心の注意をもって均等に撒く大変骨の折れる作業によっている。箔を貼るより10倍の金の分量を要するという。
しかしこれにより、多くの日本画に見られる平らな金の、のっぺりとした背景ではなく、全く次元の異なる光の空間というものが現出した。
琳派に戻り、その手法を消化したうえで、独自の屏風絵表現へと昇めている。
「名樹散椿」である。
同様の「撒きつぶし」による力作に「翠苔緑芝」がある。
そこでは紫陽花である。


彼について驚くべきことは、一作ごとに大きく作風が異なることである。
これはピカソにも比べられるところだ。
常に自分の確立した型を破壊して次に進む姿勢は、まさに同じであろう。
「絵画修行の道程に於いて私が一番恐れることは型が出来ると云うことである。」


惜しむらくは、彼が40歳で夭逝していることだ。
そこだけがピカソと大きく異なるところだ。



藤田嗣治

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西洋絵画、特に印象派の絵など色は関係性に置いての色である。
関係でその色として見せている。

藤田は乳白色そのものを見せている。
色そのもの手触り~質を発明している。
そこが全く異なる。

肌そのものを描こうとした画家がそれまでにいただろうか?
その柔らかさ滑らかさ、押せばへこむような肌そのものである。


藤田嗣治のことはさほど知らないが、黒田 清輝に西洋画を学んだこと、例の乳白色と猫とキキとおかっぱ頭にロイド眼鏡などについては気にとめてはいた。
しかし彼の波乱万丈な生涯については、無関心であった。
何よりも乳白色の印象が余りに強かったのだ。

パリで藤田は研究の末、独自の乳白色の発明と「日本」を強く打ち出した面相筆による輪郭線の妙により時代の寵児となった。
特にキキの絵をはじめ裸婦像が妖艶で美しく印象深い。
ピカソとの親交は有名であるが、彼ならではの具象画をずっと貫き、エコール・ド・パリにおいて絶賛される。
その結果、フランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章も贈られた。
しかし、本国日本での反応は冷ややかと謂うより悪意に充ちており、「軽薄才子」はまだよい方で、彼は単なる宣伝屋であり、日本画の模倣で受けているだけの国賊であるという身も蓋もない中傷まで飛び交う。
パリの社交界で人生を楽しんでいる雰囲気が気にくわない人間が多かったのかも知れない。
(実際に成功を収め裕福になっていたが、作品数も8000点を数えていたという。勤勉さの結果でもあろう)。

藤田はメキシコに旅立ち、革命的壁画に触れ、民衆の支持を得たいと願うようになる。
当時メキシコと言えばリベロやシケイロスたちの社会主義壁画の大きなうねりのうちにあり、彼もその社会主義的洗礼を受けた面もあっただろうか。
これは世界恐慌と二次大戦への流れに際して、もはや富裕層による絵の買い上げが全く期待できなくなった事と表裏でもある。
彼は日本に帰国し民衆向けの大作~壁画に挑む。
「秋田の行事」などの大変横に長い大作~意欲作を手掛ける。
しかもかなりの短時間で仕上げその成果を誇っていた。

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そして戦時(二次大戦)にあたって日本の為に一兵卒として(従軍して)戦争記録画に全力を注ぐ。
「アッツ島玉砕」の凄まじい主題性。見る人誰もが手を合わせたという話は有名である。
この時、彼は日本に受け入れられたと真に実感したかも知れない。
ここには乳白色など一切見られず、赤茶色が主調である。
皮肉にも、パリ時代の作風からは想像も出来ないダイナミックな構図のまとまりも見せる。
文字通りの壮絶な力作であろう。
(しかし間違っても戦意高揚に加担するような絵ではない、、、)。

だが戦後、彼は日本で戦争責任を厳しく問われることになる。
仲間の画家たちからも非難を浴び、その責任を負うことを迫られる。
「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」
彼の偽らざる心境であった。

酷く落胆した彼はパリに戻るが、そこもすでに彼の若かりし頃のパリではなかった。
マスコミからは「亡霊」扱いされる。
パリに戻ってからのカフェで物思いに耽る女性の寂寞感漂う絵は象徴的である。
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彼は、パリ近郊エソンヌにアトリエ兼住居を構え、人との交わりを避けて暮らす。
たまに会うのは学校帰りの子供たちくらいであったという。
藤田の描く子どもの顔は特徴的であり、皆同じような顔をしている。
(彼は生涯5回結婚しているが子供はない)。
彼は70歳を前にフランスに帰化し、カトリックの洗礼を受ける。
”Léonard Foujita”レオナール・フジタという名になった。


最晩年、終の住処として礼拝堂を創る。
1966年ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂である。
彼はその設計図から内壁のフレスコ画まですべてを独りで制作した。
その完成の後に亡くなる。


彼は生前、境遇についても自身の絵画制作についても多くは語らなかったが、フランスで絵の修復の際の剥離片から乳白色の秘密は明かされている。
硫酸バリウムをキャンバスの下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていたようだ。
さらに「和光堂のシッカロール」が下層に使用されていることまで判明し、それによる墨の定着や運筆のし易すくなる効果が指摘されている。


「FOUJITA」という映画が日・仏合作で2015年に発表されている。
まだ観ていないが、オダギリジョーが藤田嗣治である。
フランス語での映画であろうか。
どんなものか機会があれば観てみたいが、、、。
(彼の生涯とあれば、切り口が難しいだろうな。そんな気がして、複雑な思いだ)。

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こうなるらしい。



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娘のピアノ発表会

「徐々に外へ」

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娘のピアノ発表会であった。

ここのところ学校にしろ何にしろ行くのが嫌で、引き籠りがちの長女であるが、案の定ピアノ発表会行かない、と昨日から言い出し大変な泥沼となる。
今回は外の人に助けを借りて気持ちをスッキリ変えさせようという作戦を立てた。
家族では、あまりに近すぎることが限界となる事も多い。
そこで信頼する方に声掛けのお助けをお願いする。
先方は快諾してくださった。

電話で暫く話して貰うと「うん行く」と言い出して、気持ちが前向きになった。
その上、お友達にもなってもらう。
今後の展望も開けた。
今日はそのままの流れで年に一度着るドレス姿で出かける。(とはいえ昨年と同じドレスは嫌だということからふたりとも違うドレスにした)。

念のため40分早く会場に入ったが、特に問題もなく暇つぶしをして気持ちをそこで徐々に慣らすことはできた。
うちが間違いなく一番目の会場(受付前フロア)入りである。
暫くすると演奏者(とその家族)がぞろぞろと集まって来て、俄かに賑やかなフロアとなりあちこちで写真撮影が始まる。
娘も空いているころにしっかり撮っておいた。

何しろ演奏会場にはカメラは一切持ち込み禁である。
その代わり、われわれは業者の録ったブルーレイビデオとやはり違う業者の撮った写真を買わなければならない。
注文フォーマットも全く別なのだ。それが煩わしい。些細な事かも知れぬが、、、。
特にデータで買うと倍の値段なのだ、、、何でだ?
おまけに花は中には持ち込めない。
この方向性はどうやらスタンダードとなったようだ。
(確かにその方がスッキリはする)。


静かにわれわれは会場の所定の席についてゆく。
そして暗く静まったところで、演奏会が暫しの沈黙の後、始まった、、、。
プログラム9番,10番がうちの娘である。
考えてみれば、丁度良い順番かも知れない。
待たされ過ぎないし、こころの準備も整う。

可愛らしい演奏者が椅子にちょこっと乗って演奏してゆく。
曲も短く可憐である。だから進み具合も早い。
そして、椅子も高さが下げられ、ペダルも使用される番に変わる。
いつの間にか、次女~長女の番となっているではないか、、、。

こちらはすでに緊張の高まった後のちょっとした脱力状態に入っている。
自分が何かやるときとは明らかに違う何とも言えない気持ちのズレである。
そしていつの間にかその時になっている。(こういう時はいつもそうだ。夢をみるときのような感覚を覚え)。

だが2人とも生き生きと弾いているのには、驚いた。
(別に何か他の姿をイメージした分けではない)。
家での様子を見ているこちらとしては、とても自然に弾いているではないか!という驚きである。
彼女らがいつもすんなり練習に入る事などまずないのだ。
2人とも、家でやる練習よりずっと入り込んで曲を弾いていた。
音符を間違えないでかろうじて弾くと言うより、緩急、強弱を意識して愉しく弾いていたように思う。
普段まずない曲想を感じて聴くことが出来た。

まるで映画のどんでん返しを観た思いだ(笑。
よく良い方に裏切られる映画というのがあるが、それに近かった。
兎も角、一安心。
(わたしが一番ホッとしたかも知れない)。

最後の方の高校生?(もしくは中学生か?)たちの難曲を弾きこなす姿にも圧倒された。
帰りの車でも凄い凄いを連発していた。

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やはり発表会というのは、良い。
何であっても、外に出ることが必要だ。
そこでの自身の体験は勿論。
外の人に声をかけていただく。
外の人がどれだけ凄い練習をしてその成果をあげているか。
やはり出てみなければ分からない。
その刺激がまた一歩出てゆく意欲にも繋がる。


ちなみに、最後の女子の演奏は、長女がファンである「いくちゃん」(生田絵梨花)の得意なショパンものであった。
「革命のエチュード」鬼気迫るものであった。


長谷川潔

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「時 静物画」彼の至高の作品、到達点か、、、。


暑いので画集や写真集を午前中見ていたら、長谷川潔の版画の画集に見入ってしまった。

彼は27歳でパリに渡り、60年間フランスで創作をし続け日本には戻らなかった版画家である。
フランス政府からレジオン・ドヌール勲章やフランス文化勲章などを受章している。
日本人では、葛飾北斎、藤田嗣治、長谷川潔の三人がフランス造幣局から肖像メダルが発行された。
ヒトラーの台頭によりパリからの脱出を余儀なくされたが、疎開先の南仏レ・ボウで創作を続ける。


彼は日本で版画を始めた当初、木版画家からスタートしたが、文芸雑誌の表紙にはすでに大胆で簡潔な構図の非凡な作品が見て取れる。
そして友人の詩人、堀口大学の実家で見た「達磨図」の何よりも美しい黒の地から白で削り出された線描の鋭さと厳しさに強い感動と感銘を受け、その後の彼の作品創造の際の基準~基調となる。
その後パリに立ち、当時廃れていた「メゾチント」を華麗に復活させる。
初めは交差する線を残したまるで布地に形体を削り出したかのような独自なマチエールの銅版画を作って行く。
このオリジナリティにパリは瞠目し彼は多くの称賛を得る。

また、レースの編み物を上手く銅板上に設置し、絶妙の圧で見事に版画との組み合わせに成功を収めている。
つまり、メゾチントによる版画作品とレースの編み物模様が連続性をもって調和した作品として生み出されているのだ。
このプレス機、ローラー部分が木で出来ており、薄い厚紙を抜き差しして圧を変化させるものである。
しかも何とゴッホが使っていたものなのだ(驚。
ここでもう一回、その繊細極まりない至芸に人々は驚き、称賛の声をあげている。


だが、それに満足せず彼ならではの「黒の美しさ」の際立つメゾチントの制作に突き進む。
恐らくここからが彼の真骨頂と言える。
わたしが最も好きな彼の作品もこれから以降に作られたものばかりだ。
はっきり言って人間業を超えた到達点である。

メゾチントは銅板にベルソーで細かい目を穿ち、全面を凹凸で埋めてしまう。
この時点でローラーでインクを塗りプレスすれば、真黒な色面が刷り上がることとなる。
そのインクが入り込む細やかな凹凸の下地面をバニーシャとスクレーパーで繊細にこそぎ取り、無限のグレーの諧調~グラデーションを作り出して形体~図にしてゆく。
長谷川のメゾチントの特徴は非常に鋭いフィギュアではあるが、何よりそれを際立たせる黒の美しさにある。
これは絶対的なものであろう。間違いなく彼はこの「黒」をとても大切にしている。
初期の手業が分かるクロスステッチ風の背景ではなく、澄み切った漆黒とも謂うべき黒の世界にくっきりと写実を極めた形がシンプルに浮かぶ。

不本意ながらパリから南仏レ・ボウに疎開した長谷川であったが、そこで描かれた風景の素描も版画さながらの静謐で鋭い写実あった。

彼は写生をしている際に、啓示を受けたが如くの経験をする。
楡の木に「ボンジュール」と声を掛けたら彼も長谷川に「ボンジュール」と返してきたという。
「万物は人も楡の木も同じなのだ。すべてのモノは、理によって作り出され、理によって生きている!」
という恐らく雷に打たれたかのような認識を得た。

彼にとりそれを写し取ることは、写実を極めることと同義なのであった。

写実から入って写実へ出る、と謂えるか。
それにより、写実以上の何かが~神聖な何かが、静謐な漆黒の内に浮かび上がる。
優れた写実家、例えばフランツカフカの写実が神秘的でシュールな世界を表してしまうように、世界は只ならぬ実相を開示してしまう。
彼にとっての写実は次の言葉に如実に現れている。
「この地球上の無数の存在のなかから、たまたまある一つのものが特別なものとなって自分に話しかける。自分はその言葉の真実を出来るだけ確かに聴き取ろうとする。、、、それを描き彫りつつ何時しか自分は草となり木となり胡蝶となる、、、」

技術だけでなく、この境地に至る精神の流れに感動する。
確かにこの頃の作品には初期の頃は見えていた手業が見えない。
宇宙の秩序と調和そのものが表出されている。
神業である。


彼はメゾチント以外の銅版画にも素晴らしい成果を残している。
「森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ」



アルフォンス・ミュシャ

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ついに今回の展示会には行けなかったが、、、。
チェコ国外で「スラブ叙事詩」が展示公開されることは、世界で初めてのことだという。
(それを知っていれば、無理にでも~這ってでも観に行ったか、、、)。

ほとんど展示作品は観ている。画集等で。
大学入学時に知った画家である。
計算され洗練を極めた装飾と輪郭線に囲まれたモデルの女性そのものの美しさも際立ったポスター。
最初はそのアールヌーボーのセンスの良い美しい作品群に惹かれ、絵ハガキ等を集めたものだ。
それから崇高なスラブ叙事詩の絵画で俄然、特別な画家となった。
その闇から見つめる目に釘付けとなる白光した祈りそのものといった巨大な画布。

最後はナチスに迫害を受けて亡くなった愛国者でもある。
ドイツ語が公用語とされた、チェコの画家でありパリで大成功を手にした後、50歳で「残りの人生をひたすら我が民族に捧げるという誓い」を立てプラハに戻り、20作の「スラブ叙事詩」を創作した。
絵のモデルは全て彼の周囲に住む一般市民に自ら頼んでポーズをとってもらい描いたものという。

プラハ出身でドイツ語で作品を執筆した作家にフランツ・カフカがいる。
わたしのもっとも好きな作家であるが、その意味でもミュシャに興味をもった。

以前TVの「日曜美術館」を途中から見た時に、宮本亜門が「スラブ叙事詩」を前に、「この絵は復讐とかそういった気持ちを起こさせない絵だ」といったことを語っていた、と思う。
チェコ・スラヴ民族の伝承および歴史を題材とし、太古の時代から1918年のチェコ独立までを描いた連作である。
テンペラによるものだ。
まさに血みどろの惨劇、といった復讐心~敵意高揚させるような絵では、全くない。
そんなレヴェルの絵ではなく、もはや神話のような連作なのだ。
ひとが沢山殺されていても血は一滴も描かれていない。
白い布に包まれ横たわり、夜であってもその地は白光しているではないか、、、。
そして赤ん坊を腕に抱いた表情を失った母の闇の奥からこちらを真っ直ぐに射貫く開け放たれた瞳に気づくともう目を逸らすことは出来ない。
ここには偉人も英雄もいない。
皆、ひとりひとりのスラブ人がいるだけである。
(無論、何かの予兆のように急襲してくる他民族が悪魔のように描かれているが)。

よく、パリ時代のポスター画とプラハ時代のスラブ叙事詩を比べ、まるで別人の作品と評されることが多い。
だが、棺桶で眠る強烈な個性の女優サラベルナールの一連の作品の精神性は後期の作品に連続している。
(彼はサラベルナールのポスターで時代の寵児となった)。
彼女の横顔の毅然とした凛々しい表情と独自の観察から精緻なパタンを抽出した様式美は、同じ視力によっており、その制作姿勢は。後期にそのまま受け継がれている。
どちらも入念な素描から入っている点において。
敢えて言えば違いはポスターであることを際立たせるあの強調・単純化を図る美しい輪郭線の有無か。


故郷のスラヴ人 — トゥラン人の鞭とゴート族の剣の間で
ルヤナ島のスヴァントヴィト祭 — 神々が戦う時、救いは芸術にある
大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入 — 母国語で神をたたえよ
ブルガリア皇帝シメオン — スラヴ文学の明けの明星
ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世 — スラヴ王朝の統一
セルビア皇帝ドゥシャンの東ローマ帝国皇帝即位[35] — スラヴの法典
クロムェジーシュのヤン・ミリーチ — 尼僧院に生まれ変わった娼家
ベトレーム礼拝堂で説教するヤン・フス — 真実は勝利する
クジーシュキでの集会 — プロテスタントの信仰
グリュンワルトの戦闘の後 — 北スラヴ人の団結
ヴィトーコフの戦闘の後 — 神は権力でなく真理を伝える
ヴォドナャニのペトル・ヘルチッキー — 悪に悪をもって応えるな
フス教徒の国王ボジェブラディのイジー — 条約は尊重すべし
クロアチアの司令官ズリンスキーによるシゲットの防衛 — キリスト教世界の盾
イヴァンチッチェでの聖書の印刷 — 神は我らに言葉を与え給うた
ヤン・アモス・コメンスキー — 希望の灯
聖山アトス — オーソドクス教会のヴァチカン
スラヴの菩提樹の下で誓いを立てる若者たち — スラヴ民族の目覚め
ロシアの農奴解放の日 — 自由な労働は国家の基盤である
スラヴの歴史の神格化 — 人類のためのスラヴ民族

画題を見ただけでも圧倒される。
本物を観ていないことが残念ではあるが、、、。
尋常ではない労作であることは充分に感じる。

この作品完成後、ナチスが台頭する。
ミュシャ存命中に全作品が展示されたのは1928年の一度きりという。
それ以降、作品もミュシャも不当な評価を受け、管理も最適な状態ではなかったと言える。

2012年にプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿に展示され現在に至っている。

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今回は、本当に稀な機会であった。
それは間違いなかった(涙。


ブリューゲル Ⅱ

ブリューゲルは時折気になって見たくなる画家である。以前、一度書いているが「ブリューゲルとは何者か?」
巷で彼のことが囁かれるとまた気になってくる。

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どこから俯瞰しているのか。
このアイレベルが微妙である。
やはり「神」なのか、、、。
非常に大きな世界~建造物~思想が描かれているが、縦横それぞれ約60cm×75cmのこじんまりしたサイズの絵である。


建築物としては構造上成立不可能であるとしても、絵であれば成立する。
それを説得力たっぷりに雄弁に示したのがこの「バベル」か。
ことばで創られた「バベル」はことばが崩された時点でもう立ち行かなくなる運命であった。
永遠に放棄された異次元に通じるハイパーな器の妙。
(ガウディはいつかは完成するが、この塔はわれわれの次元では構造が成り立たない)。

である為、内部の異次元空間に強く魅せられる絵でもある。
ディテールがひたすら細やかに描きつくされているというだけでなく、窓は全て異なる形状であり、夥しい人は誰もがそれぞれのドラマの中を活き活きと生きている。
その微細な描写と動きが秘めたる闇の生活空間にわれわれを誘う。
外の歪んだ円筒状の壁面には通路~廊下がある。
内部にもきっと幾つもの回廊があるのだ。
確かめる方法のない内部の神秘的で魔術的な魅力。
「内部」という夢想の楽しみに膨れた構造物とも謂えるか。

そこでは、きっとわれわれの世界では語られない秘密の話が囁かれている。

生前のことばが何一つ残っていない画家というのも、考えてみれば凄い。
これだけの画家のことばが、何処にもひとつも記録されていないのだ。
ますますブリューゲルを取り巻く秘密の霧が深まる。
いや、極めて晴れやかでシンプルな事態なのかも知れない。


「子供の遊戯」などを観ると、ことば以上の饒舌さが存分に窺える。
敢えてことばなど残す必要もなかった。
この絵には中心などなく、ただ様々なディテールが空間を埋め尽くすように息づいている。
ある意味、バベルを平らに幾何学的に変換した姿か。
これもあるし、あれもある。その面白さを優劣付けずにひたすら拾い上げてゆく楽しさで一杯だ。
実は内部もそれを超越的に窺う神もいなかった。
そのような教育的~宗教的な視座はなかった、、、。

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ルネサンス的な主題性から救われている。
そこが何より大きい。
彼にとっての絵画制作がそもそも「子供の遊戯」であったか。
だから面白くて興味の尽きない絵画であるのだ。

彼の作品は明らかに寓意性の見て取れるものが特に後期に見られるようになるが、観念的な説明のない博物画的な作品に大きな魅力を感じる。
ただ面白い。
「面白くっても大丈夫」(南伸坊氏)なのである。



なお、この記事は、今開催されているブリューゲル展とは何の関係もない。
まだわたしは会場には足を運んではいない。
暑くて外に出ると溶けてしまう。
アイスクリームを食べながら画集などを眺めて、思いめぐらしているだけである(笑。


キューティーハニー CUTIE HONEY TEARS

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2016年
ヒグチリョウ、AT監督
永井豪原作
西内まりや 主題歌”BELIEVE”

西内まりや、、、如月瞳(キューティハニー)
石田ニコル、、、ジル
三浦貴大、、、早見青児(ジャーナリスト)
高岡奏輔、、、浦木一仁(レジスタンスのリーダー)


レンタルで観てみた。
わたしは、「キューティーハニー」に特別な思い入れはない為、原作とここが違うとかハニーはこうでなければならないという見方は特にない。
TVでやっているその時期、「キューティーハニー」や「デビルマン」などそれほど見てこなかったせいもある。
だから拘りはない。この時期観ていた「怪獣もの」には、大いに拘りはあるが、、、。

観たところ全体を通して、非常にチャチである。
ペラッペラであるのは、脚本・演出だけでなくキャストの問題でもある。
監督が一番の問題であろうが。
西内=石田以外は全て取り代えたい。
どうもそぐわない相手役やベテラン過ぎて他のイメージがこびり付いている脇役とか、気になった。
西内=石田は、この物語のうちでは、とても様になっていたが、他の人々は皆しっくりこない。
特にジャーナリストの彼は終始、鬱陶しかった。
今大流行の菅田将暉がやるとよかったかも、、、。

それから拘りではないのだが、「ハニーフラッシュ!」という掛け声?がひとつもなかったのは異様であった。
ゴジラが鳴かないのと同じくらい、、、ではなかろうか。
「キューティーハニー」を観ているのをうっかりすると忘れそうだ。
またコスチュームであるが、ボディーラインピッタリのものがそれであると自然に思うものだが、なぜかダブッとした折角の体形が生きない変なスーツを着ていたりしていた。
これだけは、原作云々ではないが、主人公の魅力を引き出せない演出だ。
西内イメージにそもそも合わないではないか。

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パーティーに潜入してファッション・ショーめいた流れでドレスを何度も替えるシーンがあるが、物語全体にそれがくまなくあった方が良い。
話自体を単に、「綺麗で可愛く楽しい」ものにし、コミカルでアクションも適度に入った展開で行けば、西内=石田を主軸にかなりのエンターテイメント・ムービーに仕上がったように思う。
妙な世界観しかもハリボテ風のものを敷くより、奇想天外のハチャメチャ・コメディーに徹すれば、チャチな書割風VFXも丁度良い効果となる。

西内=石田ラインは充分に綺麗で、彼女らに関するVFXは丁寧で上手く出来ていたと思う。
後は、原作ファンの抱く不満であるが、実写には宿命的に、文句やいちゃもんのつくことは避けられまい。
誰が主演をやろうと、原作に対する頑固な妄想が膨らんでおり、それを修正するのは不可能であるはず。
「違う」というファンをも引き込み楽しませてしまうストーリーや演出をもっと練る必要がある。
何だか妙にシリアスものにしたいという線がとてもチャチな結果を生んでいる。

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冷酷非道の設定のジルがもっと派手に暴れてもよかったかと思うが。
もっと彼女の凄さを見せつけるとか。
如月ハニーとの決戦もややVFX効果に頼り過ぎた部分は感じた。
結果的に大人しい印象が残る。
特にファッションについては、もっと派手でよかったはず。


それから西内という人であるが、とても真面目な性格に思えるが、何と言うか一生懸命さ、意気込みが直接伝わり過ぎてしまう。
宮崎あおいみたいな貫禄はまだまだ無理であろうが、それを見せないしなやかさを身につけてゆくことが大切に思える。
石田ニコルにとっては、感情のない無敵のサイボーグというのは、モデルとしてもやり易かったのではなかろうか。
ともかく随所で決めていればそれだけで様になってしまう。
しかし、この二人は良かった。

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恐らく「キューティーハニー」の実写としてではなく、他の名前のアクションコメディであれば、どうであろうか?
やはり脚本と演出が詰まらない。
ただ単に楽しく弾けたものが良い。
それはそれでかなり難しいものとなろうが、その方向性で作った方がこの二人も活きると思う。
あくまでも相手役は菅田将暉で。

主題歌”BELIEVE”も物語のエンディングに合っていた。
あの何だか元素固定装置というガジェットが最後にアクティブになっていたが、あそこからハニーが再生されるのか、、、。
ハニーが再生されればジルもされた方がよかろう。
続編はないだろうが、もし出来るのなら、二人以外のキャストは皆代えてもらいたい。
西内=石田はよく頑張っていた。


アルチンボルド

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ルネサンスの圧倒的な絵画の後を引き継ぐ藝術というものは、大変困難なものになる。
マニエリスム~バロックの藝術と括ってみても、明確にそのスタイルがあるわけではない。

ルネサンス終焉の後、可能な造形方法とは?
そんななかで、唯一無比の孤高の藝術を完成させたのが、アンチンボルトか。


彼に対して抱く想いは、「遊び心とユーモア」、「網羅と編集」、「絶妙と調和」、、、という感じ。

一目で不可思議な、ちょっと居心地は悪いが目が離せなくなる魅力に捉えられる。
やりすぎではあるが、破綻はしない。
グロテスクにならずに、芳醇さに充ちる。

特に「春」の「匂い立つ爛漫さ」は彼の真骨頂ではないか。
わたしは、どれも好きだが本当に見れば見るほど豊かな世界に引き込まれ飽きることがない。

世界の全てを取り込んでやろう。
それを編集した成果を誰もが瞠目する方法で開示してやろう。
ということで、このような作品が制作されたのか。
恐らくそうであろう。

その欲望と興味・好奇心と発想は、時の世界最大の権力者ハプスブルク家にピッタリと結び付く。
宮廷画家としてフェルディナント1世~マクシミリアン2世~ルドルフ2世に仕え、高く評価され貴族の称号も与えられたアルチンボルド。
彼の尽きることのない制作への意欲と素材はハプスブルク家から幾らでも調達することが出来きた。そして、皇帝としても自らの権威を世界に向け知らしめ印象つけるには彼の絵が最適のメディアとして機能した。
権力の象徴は、ものの収集力でもある。
アルチンボルドの絵に使用された「地」における哺乳類や「水」で60種類も集められた魚類や両生類などは、当時のウイーンで庶民が目にすることなど到底出来ないものである。(勿論、ウイーンに限らず、一所で観られるものではない)。
まず、人々はその個々の構成部分に目を見張り、その構成する全体の調和と異様な美に酔いしれたはずである。
しかも彼の絵は、距離を楽しんで観ることが出来る。距離によって味わいが異なる。

春夏秋冬で、世界の移り変わり、反復と回帰の様相を巧みに描き、四台元素で、世界の本質をあらゆるものをそこに投入して描き、更に人間の4つの気質を「火」(情熱)、「水」(粘着質)、「気」(陽気)、「地」(メランコリー)に分けてその表情~内面も巧みに表現している。「気」は「春」にもつながり、「地」は「秋」にもつながる。
彼は自らの発明した方法により、世界と人間の全てを網羅し編集している。
この凄まじい欲望は、そのままハプスブルク家の権力闘争になくてはならない絶大な効果を齎した。
アルチンボルドが最高・最強の宮廷画家であった所以である。
(これ程、時の権力に矛盾せずに活き活きと茶目っ気たっぷりに才能を発揮できた芸術家は幸せである)。

わたしが一通り観た後に強く惹かれたのは「地」そして「水」である。
花の複雑で斬新な配置はまだ平面性のもとで技術的にいって人間業の範疇に思えるが~勿論センスは尋常ではないにしても~「地」などの荒唐無稽な動物の「組み込み作業」に至っては飛んでもない力業~魔術を感じざるを得ない。
ここには技術的~方法的な飛躍が感じられる。
ここまでやるかという情熱と探求心とともに。
改めて、異常なディテールの描き込みである。
例えば「水」に組み込まれた動物の「目」がどれも強く鮮き鮮きと描かれている。
この部分・個性の主張と際立ち~多様性が、全体としてひとつの調和~肖像にまとめられているところこそ、画家の真意でもあるかも知れない、、、。

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中西夏之展に行く

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「4ツの始まり-2001」
この静謐のうちに何か本質的な事件が起きている、、、
そんな何かを思い巡らせる絵だ。
この絵の前にいるととても心地良かった。
娘とまた観に来たいと感じられる絵である。


女子美アートミュージアムにて。~8/4(金)まで。

「私は願う 太陽に向かって種子を播きたいと」
~に向かって種子を播くのだ、、、。

不可能性に向けて、何らかのクリエイティブな芽を、、、確かに植物の蕾を感じさせる結束点の拡がりが観られる。
「絵はもともと平面ではなく円筒であり、我々はその内部にあってドラマの連続の渦巻きの中で動き回っている。」

「4ツの始まり-2001」は、シリーズ作品でもあるようで、その「円筒」の断面の図ととれるものか。
確かに生命体のどこかの束構造の断面や細胞の分裂にも窺えるし、何らかの(マクロの)物理事象にも感じられる。
抽象作品が、自然現象の何かに似てくることは多い。
そう、似てくる。

インスタレーション作品「カーボランダム・ホワイトランダム(1975)」の作成風景のヴィデオも流れていた。
砂そして重さ~秤の繊細な扱い方が印象的であった。
所謂、砂絵の「時間性」を取り出すインスタレーションか。
(何故か電車内を背中に丸い鏡をくっつけた人がゆるゆる歩み去って行く映像も同時に流れている)。
車内で描いたものか、「走行列車内」というドローイングがかなりの数、展示されていた。
電車の速度で~その揺れのさなか絵を描くと、こんな図象に至るのかも知れない。
その拡大コピー版も展示されていた。(絵はサイズでもその内容を変えることがある)。
何処か~あらぬ場所の地図~地形を想わせるものでもある。
もともと電車~列車は時間に関しても過激な認識を生んできた場であった。


中西夏之という芸術家、、、これまで名前を知っていた程度であり、これと言って語れる準備はない。
わたしの好きな作家~画家~評論家の赤瀬川原平氏らと「ハイレッド・センター」を結成していた人だ。
そのスケールと独自性の全貌は計り知れぬが、漸くその一端に触れることが出来た。
ちなみにハイレッド・センターとは、高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之の「高・赤・中」である(笑。
銀座の街頭でイヴェントを繰り広げていた、、、。
充分に怪しく過激な感じは伝わってくる。
体験してみたかった、、、。

暗黒舞踏関係の舞台美術・装置も手掛け、土方巽とも交流があった。
更に笠井叡や山海塾!とも仕事をしていたという。
それらの流れから、瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家や詩人たちとの親交が深かったようだ。
手掛けた舞台美術に『バラ色ダンス〜澁澤さんの家の方へ』や『土方巽と日本人—肉体の叛乱』がある。
やはり活動の非常に過激な前衛振りが感じられる。


そして女子美術大学客員教授でもあった。
お陰で展示会場が家に近く、創造活動の一端を垣間見る機会を得たものだ(嬉。
(暑い中、何でも都心に行かなければならないというのは、正直キツイのだ)。

何と言うか、絵画で何かを表現する以前に、「絵画」の在り方自体を問う制作でもある。
優れた「前衛」藝術の基本~宿命とも思える。
しかし枠組みを問いてそれを壊すだけでなく、新たな創造を産もうとする。

「太陽に向かって種子を播きたい」
ずっと引っかかることばである、、、。


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生前の制作風景。作成中の姿は貴重であり、わたしが一番観たいシーンのひとつ。
(この写真は展示会場にはない)。


なお、11月に女子美において、中西夏之の仕事~作品の詳しい図録が販売されるという情報を得た。
その時分に大学HPに情報が掲載されるらしい。
(受付の学生に聞いた話)

16ブロック

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16 Blocks
2006年
アメリカ

リチャード・ドナー監督
リチャード・ウェンク脚本

ブルース・ウィリス 、、、ジャック・モーズリー(NY市警刑事)
モス・デフ 、、、エディ・バンカー(証人)
デヴィッド・モース 、、、フランク・ニュージェント(NY市警悪徳刑事)
ジェナ・スターン 、、、ダイアン・モーズリー(ジャックの妹,救命救急士)
ブレンダ・プレスリー、、、マクドナルド地方検事補
ケイシー・サンダー 、、、グルーバー分署長

ブルース・ウィリスのぶっきらぼうで淡々としたなかに、内面の動き~感情の変化を雄弁に語る演技は流石である。
彼の表情をずっと追いながら観てきたようにも思える。
好対照のモス・デフもお調子者でお喋りだが前向きな心優しい若者で、コントラストのはっきりした名コンビ振りであった。
ここでのほとんどどんでん返しとも謂える終盤~エンディングは、本当にこころが晴れやかになった。
エディの言葉を借りれば、運命を良い兆候と捉えかえし、「人は生まれ変われる」と確信することだ。
そうすれば、それはきっとその通りになる。


夜勤明けで帰宅しようとするところで、呼び止められる、というのも運が悪い。
(悪い兆候だ)。
渋々引き受けた仕事は、16ブロック先の裁判所まで証人を送り届けるというもの。
1.6kmなら酒を吞みながらでも大丈夫だろう、と高を括っていたら、とんでもなかった。
距離の問題ではなかった。
そこには壮絶な修羅場が待っていたのだ。
しかし、護送される証人エディは、運命と思えることを「良い兆候」と判断し何でも前向きに捉える。
冤罪含め人生の半分ムショ暮らしだが、将来ケーキ店を開くことが夢の黒人男性である。
しかも10時の証言を済ませた後、12時にとても大切な用も控えているという。(何やら希望に満ちた様子)。
片や自暴自棄の足の悪いアル中の白人刑事。

どうやらこのうらぶれたジャック刑事、何やら後悔~罪悪感めいたものを抱えている様子。
酒を買いに少し目を離した隙に、エディが何者かに襲われ、その暴漢をジャックは撃ち殺す。
知り合いの酒場に逃げ込み、警察の応援を呼ぶと、ことの次第が見えて来た。

ジャックはその証人が、警察内部の汚職を立証するために呼ばれた男であることを知る。
そして、汚職に手を染めた警官たちがエディを裁判所に着くまでに始末しようとしていたのだ。
事の重大さと危うさを悟るジャックであったが、悪徳警官に加担するか、正義をとるかという場面で、彼は何よりもエディの命を救おうとした。

エディを銃殺しようとした警官の脚を撃ち抜き、二人は逃避行する。
だが、どう逃げても執拗に追いすがる警官たち。
頼みの綱のマクドナルド地方検事補に助けを要請するが、彼女の配下が情報を悪徳刑事に流してしまう。
どれ程の規模で汚職が蔓延っていたのか。
グルーバー分署長までもがその一味であった。
こうなると、、午前10時の大陪審に間に合わせることが至難の業に思えてくる。
(しかし、流れやどうしようもない窮地の描き方など文句無しではあるが、既視感は否めない。こういうパタンは結構よく見る)。

散々に追い詰められた果てにバスに乗り込み逃走を図るが、結局万事休すとなる場面からが、この映画の本領だ。
ジャックはエディを他の客の服と交換させ、乗客と共に上手く脱出させ、ヴォイスレコーダーに遺言まで入れる。
だが、エディはジャックのことが心配になりバスに戻ってきてしまう。
これで計画は水の泡となったかに見えた。周りは特殊部隊が取り囲んでいるなか、タイヤを撃ち抜かれたバスで逃走し、狭い路地に入り込み、二人はアパートに逃げ込む。
だが、エディは被弾し負傷していた。
ジャックは、救命救急隊員の妹を呼び、エディを任せ彼の代わりに自分が証言をすることを選ぶ。

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実は、彼もその汚職にかつて手を染めたことのある刑事であり、エディに洗いざらい告白し、良いケーキ屋になれと励まして覚悟を決めて去る。
ジャックは相棒であったフランクと裁判所の地下で対峙し、かつての汚職について口論する。
彼はそのまま丸腰で法廷に向かい、その途上で特殊部隊に足止めされる。
追ってきた刑事に射殺されかけるが、特殊部隊の判断で間一髪のところを免れる。
その時ポケットから落ちたヴォイスレコーダーから、先ほどの地下でのやり取りが、彼に呼ばれたマクドナルドの目前で生々しく再生された。
彼女に証言の条件を聞かれ、彼はエディの犯罪歴の抹消を訴え受理される。


エディがそれまで何度も主張してきた、、、
「人生やり直せる。」

ふたりともその通りになる。
2年後刑期を終え、ジャックは誕生日にエディからケーキを受け取る。
”EDDIE & JACK's GOOD SIGN BAKERY”というケーキ屋を開店したことが手紙と写真で知らされる。
ジャックのこれまでに見せたことのない嬉しそうな顔、、、。
(食べるところまでは、ないが美味しいはずだ)。

恐らく今まで観た映画の中でも、もっともホッコリできるエンディングである。
この終盤観たさに、また観てしまいそうな映画だ。
それほど魅力的な締めくくりである。
とても気持ち良い。(精神衛生上良い)。

こういう映画が必要な時がある。


ハンコック

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Hancock
2008年
アメリカ

ピーター・バーグ監督
ヴィンセント・ノー、ヴィンス・ギリガン脚本
アキヴァ・ゴールズマン、マイケル・マン、ウィル・スミス、ジェームズ・ラシター製作

ウィル・スミス、、、ジョン・ハンコック
シャーリーズ・セロン、、、メアリー・エンブリー(レイの妻)
ジェイソン・ベイトマン、、、レイ・エンブリー(広告代理店プランナー)
ジェイ・ヘッド、、、アーロン・エンブリー(息子)


メアリーってシャーリーズ・セロンでは、主人公をプロジュースする人の単なる妻では、大物過ぎる、、、。
それだけで何かあるとは思ったが、まさかこれでは、「イーオン・フラックス」より何倍も凄いではないか!
ここまでやるとは思いもよらなかった。
しかし全てを知った後に、普通に関われる夫レイの器の大きさにも感心する。
メアリーはホントによい夫をみつけたものだ。
「いい人よ」と言っていたが稀にみるいい人かも、、、。


これまでハンコックは80年前(映画で「フランケンシュタイン」を見た後)から、「たった独り」で超人的身体能力を持て余して過ごして来た。
その力を人命救助に使うも、その際に周りの建造物などは歯止めが利かず皆メチャクチャにしてしまう。
(その手のヒーローものでは周りは破壊し放題が、アニメなどにかなりある)。
物的損害は人の命を助けたとはいえ、かなりのものであった。
おまけに愛想は悪く、人との関係など取り繕うとする意志など全くない。
であるから人からは大方嫌われる。
本人はやはり面白くなく酒浸りで過ごす。
そんな悪循環であった。
ロサンゼルスで警察の手に負えない凶悪犯罪の解決?をずっとしてきたが、市長にはお前なんかニューヨークへ行っちまえとか罵られる(笑。
死ねない存在で生き難いというのは、究極的孤独であり悲痛であろう。
豪快なスーパーヒーローものかと思いきや、かなりシリアスであるが、ウィル・スミスであることから重くはならない。


広告の仕事に行き詰っているレイの車が踏切の真ん中で立ち往生となりパニックになったところ、ハンコックがぶっきらぼうに助けるが、そのやり方が粗暴すぎ、いつも通りに周りから文句ばかり浴びせられる。
しかしレイは命を助けられたお礼に、彼が人から好かれるスーパーヒーローになるようにプロジュースしたいと申し出る。
ハンコックに対する人々が抱くイメージの作り変えである。
それからというもの、レイの言う通りにムショにも入り、少しずつ人当たりの基本を学ぶ。
必ず警察には”グッドジョブ”と声をかけるとか、、、(笑。
するとレイの言う通り、手に負えない凶悪犯罪の勃発で、その解決に手を貸してくれという市長からの悲痛の依頼が彼のもとに届く。

レイの言うとおりに飛んで来て着地の際に道路を壊さず、犯人逮捕にあたり建造物も極力壊さず注意し、ひとに対し愛想良くグッドジョブを連発してその場を収めると、すかさず周りの人々から拍手喝采が湧き起こり、本当のスーパーヒーローとして祭り上げられる。
それからというもの、彼は街中の人気者となる。実に単純な変貌であるが、結構そんなものであろう。

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前半はただ普通に面白いと思って観てきたが、後半彼がレイの奥さんメアリーに何かを感じ取り接近した際に、それは突如起こる。
この急展開にはひたすら、ぶっ飛ぶ!
シャーリーズ・セロンを地味な美人妻で終わらせるはずはない、とはずっと感じてはいたが、これはまさかと複雑な思いでその後の展開に付き合うこととなる。
メアリーはハンコック以上の超人パワーをほしいままに炸裂させるハンコックと同じ種族であったのだ!
空を目にもとまらぬ速さで飛びまくる。
ハンコック相手にバトルを展開する。これには半ばこちらは置いてきぼり状態になる。
何なんだ、、、という感じであるが、凄い力技の展開の為、それに任せるだけである。
(それ以外に見ようが無いではないか、、、)。
そしてふたりは引き合う運命を持っているが、接近によって力や身体能力は人並みに落ちてしまうのだ。

ジョン・ハンコックとメアリー・エンブリーは不老不死で気の遠くなるほど長い年月を生き続けてきた存在であるという。
今はもう、その種族の者は皆死んでしまい、彼ら二人だけが残った。
ペアでいると普通の人間同様の脆弱な存在であり、離れて過ごすほどに強大な身体能力と腕力を発揮する原理なのだ。
つまり彼らにとり、一緒にいて滅ぶか、離れて暮らし永遠に生きるかという選択となろう。
メアリーの判断で、ジョンが暴漢に襲われ記憶喪失となったことをきっかけに、80年前から別々に暮らすことになっていた。

又もや拳銃を持った強盗にハンコックは対峙するが、どんな銃弾もこれまで跳ね返して来た彼が、一発の被弾で重傷を負い病院に担ぎ込まれる。そこにすぐに駆け付けたメアリーも銃で撃たれ瀕死の状態となる。
ハンコックは、死にそうな体に鞭を打ってベッドから出て、レイの助けも借りその場から出来る限り遠ざかろうとする。
遠くへ離れれば離れるほど、ハンコックとメアリーの体は回復し、やがて超人的な力が漲り復活するのだった。


数日後、エンブリー一家が夜、楽しそうに3人で歩いていると、ハンコックから電話がくる。
月を見上げるとそこには、レイが仕事で進めて来た慈善活動「オールハート」のシンボルマークがあった。
頑張れよというメッセージであろうか、、、。
最後までやることが粗暴で無神経この上ないが、ウィル・スミスのやった事なら仕方ないという感じにはなる、、、か?


キャストが芸達者である為、グイグイと力技で見せられた感もある。
製作者側の思惑もかなりありそうな気もするが、シンプルに観て愉しめる映画である。



コンスタンティン

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Constantine
2005年
アメリカ・ドイツ

フランシス・ローレンス監督
ジェイミー・デラノ、ガース・エニス”Hellblazer”原作
ケヴィン・ブロドビン、フランク・A・カペロ脚本

キアヌ・リーブス、、、ジョン・コンスタンティン(エクソシスト)
レイチェル・ワイズ、、、アンジェラ・ドッドソン(刑事、霊感が強い)、イザベル・ドッドソン(アンジェラの双子の妹、霊視者)
シャイア・ラブーフ、、、チャズ・クレイマー(コンスタンティンの若き助手)
ジャイモン・ハンスゥ、、、パパ・ミッドナイト(元エクソシスト、現在会員制クラブのオーナー)
マックス・ベイカー、、、ビーマン(コンスタンティンの協力者、武器調達)
プルイット・テイラー・ヴィンス、、、ヘネシー神父(コンスタンティンの協力者、霊能者)
ギャヴィン・ロスデイル、、、バルサザール(悪魔側のハーフブリード)
ティルダ・スウィントン、、、ガブリエル(天使側のハーフブリード)
ピーター・ストーメア、、、ルシファー”サタン”


この映画どうなるのだろう、、、と思って見ていたら結局、土壇場で大きな見せ場があり、そういうことか~で終わった。


主人公が末期の肺癌なのだが、煙草を吸いまくっているキアヌ・リーブス余命一年、如何にもといううらぶれた風情である。
キリスト教では、自殺~彼の場合は自殺未遂なのだが、もうそれで地獄行きは決定なのか、、、。
(地獄とか天国に全く興味ないわたしにとってはピンとこないが、それを信じている文化圏においては深刻な事だろう)。
コンスタンティンは、ハーフブリード(人としてこの世に住んでいる天使又は悪魔)が見えたり、地獄も実際に?見てきている。
その地獄の光景の凄まじさから、何とか点数稼ぎで天国行きを勝ち取りたい為、悪事を働くハーフブリードを地獄に追いやる慈善活動~エクソシストをしている。
だが、それを天使のハーフブリード、ガブリエルは全く評価しない。
(このガブリエル、男か女かよく分からないような中性的魅力があり、実にマッチしている)。
自殺未遂と15歳から煙草を一日30本吸って肺癌になった事実とエクソシストも天国に行きたい為にやっているだけだから、、、、すでに地獄行きは決定だと取り合わない。


そんな折、何やらこの人間世界に徒ならぬ状況が生じる。
天国~人間界~地獄は本来、相互の「行き来」は禁じられており、ハーフブリードも人に対し直接働きかけることは出来ないはずであったが、その均衡が大きく崩されていく不穏な気配が霊能者たちには感じられるのだ。
そしてついにサタンの息子がこの人間界を牛耳ろうと、親父に内緒でやって来るということが判明する、、、。
これを古い異端の経典から解読する如何にもスペシャリストという風貌のビーマンも凄い。

その前兆が様々なかたちで起こりはじめ、いよいよという感じでテンションが高まってゆく。
しかし、所謂アクションサスペンスものではなくオカルトである。
展開は急であるが、シーンそのものは寧ろ緊張感漂う静謐な様相である。

エヴァンゲリオンにも出てきたロンギヌスの槍であるが、やはり物々しく重そうだ。
さて何に使ったか、、、ガブリエルがアンジェラのお腹を刺そうとしたくらい、、、さほど印象に残らなかったのはちょっと残念。
その他にコンスタンティンの武器としてビーマンが調達した聖水や聖なるショットガン、純金のメリケンサック、、、これらは聖なる素材で作られ聖なる言葉も刻まれていて威力は圧倒的である。ドラゴンの息という純金の火炎放射器もあった(こんなレアアイテム何処から集めたものか?)兎も角、これらを使い敵を撃退してゆく大変攻撃的なエクソシストでもある。

いよいよロンギヌスの槍を偶然見つけた男が操られそれを持って霊感の強いアンジェラのもとにやって来る。
彼を通してサタンの息子が彼女にとり憑こうと画策していたのだ。
コンスタンティンは元同業者パパ・ミッドナイトの協力を仰ぎ、長年死刑執行に使われた「椅子」を借りてその経緯を知る。
そして、アンジェラの命とイザベルの魂を地獄から救い天国に送る為、掟を破り地獄から来た悪魔やハーフブリードたちに戦いを挑む。
この辺になるともう他者の為というより無我の境地でひたすら人を救う為に闘う状況となっている。
しかも、協力者のヘネシー神父やビーマンが彼ら悪魔に殺され、若いが頼りになる助手のチャズもこともあろうにガブリエルに殺される。
ガブリエルは何とこの人間世界を悪魔の支配下に置き、人に試練を与えようとしていたのだ。
つまり彼女は、サタンの息子の協力者であった。
コンスタンティンはサタンにそのことを伝え息子を地獄に戻らせる。

そして最後にサタンと対峙するコンスタンティンのとった劇的な決着は、彼自身の二度目の自殺であった。
しかしこの行為は、人類を救う為の自己犠牲となり、彼は輝く光のもと、天国に召されんとする。
サタンとしては、そこは許すまじと、懸命にコンスタンティンを取り押さえ、天に行かせてたまるかお前は生きよと両胸に腕を差し込み、末期癌を治してしまう、、、。

堕天使ルシファー=サタンが何とも言えないアルカポネみたいなキャラで出てくるのも面白い。
ある意味、コンスタンティンの命の恩人となる。
末期の肺癌を治せるのは、サタン以外にはいなかったわけである。
コンスタンティンは完全に自分のことは諦めており、サタンの最期に何か望みはあるかの問いに、イザベルの魂の救済を願う。
身を捨てたところに生が与えられたという結末である。
これは感慨深い。宗教の本質的なところかも知れない。

無事アンジェラと生還して、最後の最後にずっと煙草をチェーンスモーカーみたいに吸っていたコンスタンティンがガムを取り出して噛む。
助かった命を大切にしようというこころ変わりが受け取れる。
禁煙である(笑。


なかなかストイックで惹きつけられる、味わい深いエクソシスト映画であった。

ばしゃ馬さんとビッグマウス

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2013年
吉田恵輔 監督・脚本

麻生久美子 、、、馬淵みち代
安田章大 、、、天童義美
岡田義徳 、、、松尾健志
山田真歩 、、、、マツモトキヨコ
清水優 、、、、亀田大輔
岸田恵里子
岸田里奈

シナリオライターを目指す人たちの話のようである。
毎回コンクールに出す作品が常に落選している馬淵みち代に何故か若い青年が近づき、ズケズケと結構真っ当なことを言う。
一方彼女は、分かってもいないくせに生意気を言うなと蹴散らす。これも当然だろう。
結局、青年も自信作がコンクールの一次も通らず、反省してしまい彼女になびく。


昨日の話は、カーデザイナーが一念発起して、宇宙に飛び立つ夢を叶えるというものであった。
試験をパスしてロケットで飛び立つ、というところで完結する。
それはそれでよいと思う。

今回の話は、創作の話だ。
ちょっと分けが違う。
一体脚本家とは、かなり幅のある職種なのだろうか?
わたしが観て感動する映画などは、まさに脚本の素晴らしさから来るものであることが多く、脚本が出来ていなければ絵だけで到底どうにかなるものではない。
その脚本は藝術~文学レヴェルのものであろう。

しかし、ここで扱われている脚本家~シナリオライターとは、一種の言葉の仕立て屋か?
文章の目的、ジャンル、文体、読者層などの条件を入力すれば、多種多様なフォーマットと膨大なデータベースを頼りに小説を自動生成するAIも早晩現れるようであるし、そうなればどっちみち廃業となる職種か。
(すでにAI小説家~マシンは星新一のショートショートの文学賞には入選しているそうだし)。
実家の温泉旅館の若女将になった方が遥かにクリエイティブに思えるし、やりがいもあるのでは?

最初にニーズありきで作る流行商業作家であろうとしても、定石~パタンの組み合わせのみで構成して作品を仕上げるのは無理だろう。
人が書く以上、その人間の志向性・個性・経験・癖・無意識・譲れぬ価値意識など不可避的に滲み出てきて作用してくるであろうし、作るという作業に身を委ねている人は、まず最初に根源的にそれらの要素に突き上げられて作るしかない為に作っているはず。
つまり「夢」とか「才能」などというものは、その当人の創造過程には全く関係ない要素である。
強いて言えば、書くこと自体がすでに夢であり、才能などで書いている人はいまい。
創造過程に入り込んだら、それ自体の生成プロセスに内属してしまう。
(才能など外部的に事後的に他者が観てとる恣意的尺度であり、当人の必然には何のかかわりもない)。
だれもが書くしかないから書いているのだ。
深い孤独の内に。


内的必然性に従いめくるめく恍惚の創造時間に生成された作品は、その高揚感から他者の共感を得たいという極自然な感情も沸き起こるものだ。
そんな時に客観的な目~審査結果を確認したり、賞を狙おうとする気持ちも分かる。
フィードバックするものは大きく、他者の共感やそれによる自己承認は、より確信を深め意欲にも繋がる。
しかし書くこととは、本来的に絶対的に、自分の為だけに書いているのだ。
その創造の出来具合の尺度など自分の内以外の一体どこにあるというのか?!

この主人公たちにとっての創作とか夢とは、何なのか?
馬淵みち代がしきりに言っている、時流に合わせるとか分かり易いとか、どのジャンルで行くとか何とか、、、受けるかどうかを売れっ子監督に尋ねたり、自分に才能あるかどうか確かめようとするのは、一体どういう姿勢~立ち位置なのか?
スポーツの世界ならまだ分かる。バレーボールのサーブがより上手く打てるようになるにはどうすればよいか、コーチのアドバイスを聞き練習に打ち込んで結果を出す。
これはスポコンドラマか?

「ただ書くこと」の重みが全くない。

この主人公たちに才能が全くないことは、はっきり見て取れるが、それより問題なのは、創造行為そのものへの冒涜であろう。
最後に自分を曝け出して書いて、それが通らなければ足を洗うだと?!
これまで何をどう書こうが、不可避的に自分を晒してこなかったというのか?
その自覚さえ~感覚さえなくてこれまで長いこと、何年だったか、10年以上だと思ったが、書き続けてきたという、、、。
、、、呆れたものだ。

さっさと実家に帰って正解。
お見送りの青年も餃子一本に絞った方がよい。




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宇宙兄弟

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2012年

森義隆 監督
小山宙哉 原作

小栗旬 、、、南波六太
岡田将生 、、、南波日々人
麻生久美子 、、、伊東せりか(宇宙飛行士選抜試験受験生)
濱田岳 、、、古谷やすし(宇宙飛行士選抜試験受験生)
新井浩文 、、、溝口大和(宇宙飛行士選抜試験受験生)
井上芳雄 、、、真壁ケンジ(宇宙飛行士選抜試験受験生)
森下愛子 、、、南波・母
益岡徹 、、、南波・父
堀内敬子 、、、権田原さくら(JAXA職員)
中野澪 、、、南波六太 ムッタ(少年時代)
中島凱斗 、、、南波日々人 ヒビト(少年時代)
吹越満 、、、鶴見徹太郎(JAXA職員)
塩見三省 、、、福田直人(宇宙飛行士選抜試験受験生)
堤真一 、、、星加正(JAXA職員)
バズ・オルドリン(アポロ11号乗組員)、、、謎の老人

まさか、、、とは思うが前日の「兄弟」繋がりで観てみただけの話である(爆。

アメリカ人で、この人は何者?と思っていたら、終盤彼の座った椅子の背もたれに”Buzz Aldrin”と書いてあるではないか!
しっかり役者を熟している、、、。
せりふもタップリある。間の取り方も素晴らしい。
これに一番、感激した!
彼こそ、人類で二番目に月に降り立った男である。
(本当は一人目も二人目もない。パイロットより先に船長のアームストロングがさっさと先に降りただけのことだ。二人一緒と考えてよい)。

「遠い空の向こうに」に軍配はあがるが、こちらも「閉鎖環境試験」などの面白い場面がある。
しかもバズ・オルドリンも出ている。
このへんで見る価値は、あるものとなっている。


月面に行くことをどこの国もやめてしまっているが、それはよいことだ。
単に経費が掛かり過ぎるというだけでなく、行って何するのだ?
(これを語り出すと長くなりそうなので割愛(笑)。
ただ月を領有、分割するのは、やめてもらいたい。

映画に戻り、、、幼いころにUFOを見たというのが宇宙に憧れる原体験らしいが、そういうものは誰にもあると思う。
よい(恵まれた)原体験だろう。
子どもの頃の外傷経験が一生響くこと(人)だってある。
しかしこの映画では、宇宙への憧れは、月に移住するための宇宙開発計画に向かう。
主人公たちは、その計画に何らかの意味や価値を見出している訳ではなく、単に宇宙に飛び出したいという冒険心~野心を満たすというものらしい。

この物語では探索車を呑気に運転しているときに大きなクレーターに落っこちるという事故を起こしている。
この調子では100年経っても何も進むまい。
月面マップはもうしっかりと出来上がっており、何処に何があるかなど分かった状態で乗るのが前提である。
これほど能天気で間抜けなドライブをすること自体まずあり得ない。

兎も角、主人公が二人とも軽過ぎる。
月だから重力も軽いなんて言っている場合ではない。

この映画は、夢を諦めなければ、きっと実現できるとかいうメッセージを届けようというものではないと思われる。
実際に夢にしがみつき精一杯頑張っても、試験に落ちる人は、この映画でもいるのだ。
筆記試験と面接が通って選抜された優秀な最終選考者でも何度も落ちている。
福田直人さんのような人格者でも、3回目の試験も落ちているではないか。
でも、実際現実はそういうものである。そういうことは、誰もが実体験上知っている。
では、何でその試験に遅ればせとは言え、六太は一発で受かったのか、、、。
主人公だから受からなければお話にはならないとしても、物語を観た範囲でこの人がそんなに贔屓される人なのかという違和感を覚える。芸風が軽い。先に受かって月に飛んでいる日々人もやけに軽い。

別に染谷将太がやれば重厚になるとかいう演技上のものではなく、話自体がスポコンに等しく、宇宙に飛んでやるぜ!兄ちゃんも早く来いよ!よっしゃ、おれも行くぜい~!というだけの動機しか見えてこない。
子供時代に遊んだ宇宙クイズとJAXAの子供向け「宇宙学校」に通っていたくらいのところから一直線である。
弟が月で遭難した知らせを聞いて、青空に薄くかかる三日月に向かって悲痛に、遠くて助けに行けない!と叫ぶところは、確かに身につまされる。
兄弟愛は葛藤を含めてよく描かれているが、宇宙への憧れ、興味・関心とその知識が、思想的な深まりを得ていない。

つまり宇宙(宇宙事業)そのものに対する彼らの考えは全く示されず(その暗示もなく)、ただ難しい試験に受かってロケットに乗る夢を叶えたという主人公の成功譚をドラマチックに描いてみた、という感じだ。
「閉鎖環境試験」はなかなか孤独や葛藤や共感などの人間模様の描写には生きていた。

確かにアポロ11号の飛行士はヒーローそのものとして世界中から脚光を浴びたが、それだけではない。
いや、それだけであったのだろうか?
バズ・オルドリンに与えられたせりふからは、何とも言えない。
一つのロケットを飛ばすにあたり、そこに籠められる関係者や見守る人々の情熱とかを淡々と説いていたに過ぎない。

パイロットはきっとこれで務まるのだろう。
伊東せりかのような目的をもっている人も出ているが。
この人は搭乗員として参加する人だ。六太と共に試験にも受かっていたし。

特に文句をつける映画ではないが、どうも薄い。いや、軽い。


国際児童画展2017‐Ⅱ

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総務大臣賞
「大好きな年老いた象」
日本 10歳 女子

近くで見上げた象が本当に大きくて驚いたという。
子どもならきっとそうだと思う。
わたしも、遠足で見た象の大きさは印象に残っている。
カバも大きいが大概水に半分は遣っていて、長い鼻もない。
象は大きいが動きも多様で、派手さがカバよりもある。時々鳴くし。
(可愛さに関しては観る者の趣味であるから何とも言えないが)。
この絵でも鼻や大きな耳かと思うと、意外にも目立つのが赤い口なのだ。(カバほど口は普段目立たないが)。
そして目が前面についている。
体の色も黄土色であり、ちょっと人が混じっている。
しかも「年老いた」特別な存在でもある。
この絵はそこがポイントだ。

象は大きな何者かなのだ。
「大好きな」という馴染みのあるものというよりも。
ちょっとハッとする他者~畏敬を感じてしまう影、、、。
見上げた瞬間の不安も感じさせる。

動物つながりで、、、


独立行政法人 国際交流基金理事長賞
「かめとの遊び」
日本 7歳 女子

うちの長女。
確か題は、最初「かめとわたし」とかにしていた気がするが、、、。(もしかしたら向こうで変わったか?)
描いている間、わたしはずっと傍らで見ていた。(その時は暇であった)。
彼女自身がスマホのカメラで撮ったカメを元に、指で甲羅をつついたらカメがそれに気づき、、、ちょっと止まり、さてどうしようかと思っている場面を描いている、そうだ。
丁度、前方に(鑑賞者に向け)歩いてきたカメのハテと思って少し捻じれた顔がこちらと正対し、カメの目がこちらの目とピタリと合う構図である。カメは紙面をはみ出す一歩手前で立ち止まっている。

カメの背後にいる長女の顔は画面上半分に不透明水彩で平面的に描かれているが、その下の面にカメはまずクレヨン(クレパスではない)で描き込まれ、その上から水彩絵の具がかけられ、乾いたところで、またクレヨンの強いタッチで塗り重ねられる。
この時、初期にかなりディテールまでクレヨンで描き込んだ形体が、いったん水彩絵の具で乱れ覆われてしまったため、再度クレヨンで折角捉えた形を描き起こそうと思ったのだろう。しかしそこは白紙に描くようにはままならず、結果的に色面に厚みのあるマチエールと動勢と量感を呼び込むことになった。
そこが「感覚的な鮮度を失うことなく作品に反映されて」(遠藤彰子先生)いると受け容れられたのなら、彼女のちょっとした思考錯誤は、やった甲斐があったと謂えるか。

わたしとしては、カメがうちのカメにそっくりだったので、気に入っている(笑。


もうひとつ動物で、、、
同賞
「犬と猫とねずみ」
ブルガリア共和国
8歳 女子

びっくりしたのだが、、、。
8歳で極めてデフォルメされた抽象的な動物が活き活きと描かれているのだ。
構図も自由である。
スクラッチなどの技法もフルに画面全体のリズム構成に生かされている。
8歳にしてかなりの手練れである。
恐らく絵の先生について勉強して来ているように思われる。
(又は特別に芸術的な環境下にいるのか)。
特別な教育を受けていない場合、欧米型一般的なメディアから自然に取り込まれるイメージは類型化している。
文化的な差異は勿論あるが、同系の馴染みのあるフィギュアに落ち着く。
その意味での均質化は何処であってもかなり感じるものだ。

しかし、この絵の各動物の形体~フィギュア、色彩とその分割法、技法(スクラッチ)の使い道は、普通ではない。
空間~構図的にも平面的で抽象的であるが、特有の空気が張り詰めている。
8歳という年齢の微妙さ、、、とても気になるところだ。
われわれとは異なる知的生命体が見た光景にも想える。

無論、まだスタイルが確立しているわけではないが、将来どういう絵描きになるのだろう。
そういう次元の子だ。


何分、掲載されている写真が小さい為、よく分からない部分が多い。
人数制限の為、長女に同行出来なかったのだが、14個所だか回るようなので、一度何処かで観てみようかと思う。


間宮兄弟

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2004年
森田芳光監督・脚本
江國香織原作

佐々木蔵之介、、、間宮明信(ビール会社の商品開発部社員)
塚地武雅(ドランクドラゴン)、、、間宮徹信(小学校の校務員)
常盤貴子、、、葛原依子(徹信の勤める小学校の教師)
沢尻エリカ、、、本間直美(ビデオ屋アルバイト店員)
北川景子、、、本間夕美(直美の妹)
佐藤隆太、、、浩太(直美の恋人)
高島政伸、、、大垣賢太(明信の先輩社員)
戸田菜穂、、、大垣さおり(大垣賢太の妻)
岩崎ひろみ、、、安西美代子(大垣の浮気相手)
中島みゆき、、、間宮順子(兄弟の母)


これまで原作のある映画を幾つも観てきたが、原作を読んでから観たというものは、ほとんどない。
この映画もそうである。
しかしこの映画など特に読む必要性は感じない。
強い関心を引く類のものではないし、引っかかる部分や気になる疑問も特にない。
キャストもよく、独特な世界観が充分に表現されていた。
これ一本観れば足りると思う。

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兄弟と母が異様な間柄で面白い。
中島みゆきが母役というのにまず驚く。(だが驚く場面はここくらいである)。
兎も角、現実感はないが、噺として面白いのだ。
(実際、こういう家族もいる可能性はあろうが)。
兄がいつもビール。弟がいつもコーヒー牛乳ではあるが、、、
基本的に感性も感覚も趣味もほとんど同じで、精神年齢も同じくらい。

チヨコレイト・パイナツプルというのを街中で堂々とやって帰ったり、お風呂に一緒に楽しそうに浸かっていたり、床を並べてお話しながら眠ったり、毎日何ということもない反省会を開いたり、紙飛行機を一緒に夜飛ばして遊んだり、、、。お母さんやおばあちゃんからお小遣いをもらったり(設定で二人とも30を越えている)。一緒にレンタルビデオで映画を観るにしても、いつも一緒に同じタイトルを何本も観るのだ。
気になる「彼女」の話も兄弟で仲良くする。特に人妻、大垣さおりへの一目惚れなど、結構積極的で一方的で厚かましい。
兄弟で慎ましくノンビリ暮らしているというだけでもないのだ。
だが、きっぱりと徹信はフラれる。
あの場合、当然の成り行きだろう。

彼らは珍しい部類ではあるが、本間直美・夕美の美人姉妹も、似たような関係である。
とても明朗快活で綺麗な、普通の姉妹であるが、密着(依存)度は強く、間宮兄弟に通じるものは感じられる。
彼らは、一緒にホームパーティをするうちに打ち解けて行く。
そのなかで葛原依子先生は、微妙な立ち位置ではあるが。
そこで生まれる先生と直美とのにわか友人関係も面白い。
なかなかよい雰囲気のパーティではないか。
こんな集まりを招集できれば、楽しくやって行けるだろう。
流石に兄弟だけでは、(絵的にも)厳しいものがある。

兄、明信は直美にフラれるが、弟、徹信は最後に夕美から良い知らせでも来たか?
そんなところで終わる。


わたしはこの何がある分けでもないフワフワした物語は好きである。
この何にもなさが良い。
若い姉妹の率直な屈託のなさがまた心地よい風を呼び込む。
年齢の近い先生と人妻もつむじ風くらいの影響は及ぼしたか。
しかし、のんびり兄弟の時間は流れる。

こうした表現ものは、大袈裟で刺激の過剰なものが多い。
というより多すぎる。
この物語も不自然で不思議に思えるところは少なくないが、別にそうであってもどうでもよいと感じられるものだ。
それよりこの空気感である。
あのホームパーティには、一度くらいは混ざってみたい気がする。

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国際児童画展2017‐Ⅰ

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この展覧会にはわたしは行けなかったのだが、長女が図録を持ち帰ってくれたので、サラッと観てみた。
88か国から25000人ほどの規模で作品を集めたようだ。
審査員が遠藤彰子氏である。わたしの中学校の美術の教科書のお気に入り画のひとつが氏の絵であった。
「日常風景から作者が感じた喜びや感動といったものが、感覚的な鮮度を失うことなく作品に反映されており、私自身、作者が感じた胸の高鳴りと共鳴するかのような感覚を覚えました。また、創造というものの原点に触れることによって、自分の過去を追体験しているような感覚にもなり、遠い日に失ってしまったカケラの一部が、内面から呼び起こされるような不思議な感情が湧き上がりました。」
初期というものの持つ良い点であろう。
まさに初心を忘れるな、の最も説得力ある文章に思えた。
ちなみに、わたしが最も好きな娘の作品は次女が3歳の時に描いた鉛筆画で、今でも額に入れて保管している。
飛んでもない力強い筆跡のものだ。もう彼女らからはこんな面白い絵は出てこないと思うと寂しさは感じる。
この先、遡行的発想や技巧は難しいだろうな、、、。


バングラデシュ人民共和国の9歳の少年が「猫の家族」という絵で「大賞」を取っていた。
絵を描くのに3週間かかったが、描いているうちに元気になったという。
(長女は3時間で、いっぱいいっぱいであった)。
確かに絵を描いているときは、元気になることが多い。
何と言うか、描いていること自体、忘れている。
時間を忘れているのだから、疲労感もない。(そんな感じで長生きする人も少なくない)。
だが、寝る前にこれは凄いと思って眠りに落ちるが、明くる朝見ると惨めなほど落ち込むなんてことが何度あったか、、、。
(わたくし事であるが)。

これは木炭画である。
木炭による素描というより、想像がかった作品である。いや想像画だ。
木炭と消しゴムで描かれた透明感のあるモノトーン画だ。
デカい親猫を真ん中に、3分の1くらいの小さな子猫がその両脇に同じように座っている。
背景の民家と前景の草花がまとまり過ぎる構図を崩し、止まった猫3匹をリズミカルな画面に捕えている。
猫を見ながら描いたのではなく、日頃見ている猫を想起しながら描いたことが分かる猫だ。
猫と描くが似ていることをつくづく面白く感じた。

「おどる人形」という作品も大賞だが図録の表紙にもなっている。
アメリカ合衆国の7歳の少年の絵である。
正直、これは凄い。
こんなもの見たのか?と思ったが。
家の近くにある店の空気を入れると伸びて抜けるとストンとなる風船人形らしい。
そういえば見たことあるような気もする。
だが、この絵だ。
赤~ピンクの強烈な胴体の折れ曲がった人形が、青い空と駐車場、それからグレーと黄色の建物を背景としてこっちを向いて笑っているのだ。
もう一息、空気が入れば、ピンっと固く立って画面から一瞬にはみ出て行く力に充ちている。
両腕と頭部に緑~補色の毛も生えており、こちらを驚かせて楽しませる人形なのだ。
きっと店の人気者だろう。
その想いを素早く、豪快にシンプルに捕えた動勢~緊張感のある絵である。
これは良い絵だ。

外務大臣賞
「向こう側にはより良き世界がある」
スロベニア共和国11歳女子。
わたしは題名を見ずに、その絵を一瞬見た時、ビーチバレーを楽しんでいる人々かと思った。

だが極めて政治性~思想性の高い絵であった。
この年齢で世界に開かれた問題意識を持っている。
それを強いる情勢下に住むところから来る必然もあろう。
よく見れば、まさにそういう絵であった。
「、、、途切れないたくさんの難民の列が、わたしの国を含めたヨーロッパを通過してゆきました。それは昼も夜も、そして老人も子どもも、家族全員でした。いくつかの国は国境をフェンスで閉ざしました。わたしは、移民や難民の人たちの苦しみを忘れないために、彼らの姿をコラグラフで表現しました。」

コラグラフは、よく木版などに、紙などを貼り付けたりジェッソなどのアクリル系を塗ってマチエールを加え、プレスやバレンでこすりとる、凸版の版画である。基本はコラージュのように版木に様々な素材を貼り付けたり塗りつけたりして刷る版画を指すが、木版と併用する場合が多い。
この少女のものは、様々な異素材の(重層的な)貼り付けで複雑にモノトーンで作り込まれている。
これは、重い。フェンスが無慈悲に人々を分け隔てしている。
表情も腕の動きも緊張し強張っている。
そう、楽しさや安らぎからは遠い世界の一幕だ。
ビーチバレーではない。が、きっとわれわれの感覚で題名を見ないと、そう見てしまう絵でもある。
見ておくべき絵であった。

砂の器

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1974年

野村芳太郎監督
松本清張原作
橋本忍、山田洋次脚本
芥川也寸志、菅野光亮音楽

丹波哲郎、、、今西 栄太郎(警視庁捜査一課警部補)
森田健作、、、吉村 弘(西蒲田警察署刑事課巡査)
加藤剛、、、和賀 英良/本浦 秀夫(ピアニスト・作曲家)
緒形拳、、、三木 謙一(亀嵩駐在所巡査、和賀の育ての親)
加藤嘉、、、本浦 千代吉(秀夫の実の父)
春田和秀、、、少年期の本浦 秀夫
島田陽子、、、高木 理恵子(クラブ「ボヌール」ホステス、和賀の情婦)
山口果林、、、田所 佐知子(前大蔵大臣・田所重喜の令嬢、和賀の婚約者)


何と言っても、丹波哲郎である。彼の映画である。出張の旅で、詩も書くし風情もある。
彼にピッタリ寄り添う形でこちらも、自然にのめり込んで行く。
相棒の森田健作、若い!如何にも普通の青年という感じで好感持った。
彼の言うように、日本海の波は確かに濃密であった。(青春だあ~っとか言わないのでホッとした)。

今西(丹波)は、事件の僅かな手掛かりを見つけ、一つ一つ出張しながら聴き取り捜査を続けて行く。
鉄道を乗り継ぎ、ジープを走らせ目的地を巡る。
見る方は旅気分と今度、誰が出て来るかもワクワクで楽しめる。
何処のロケーションもよいが、わたしは、笠智衆に出逢えて得した気分になった。
渥美清の場末の映画館責任者も贅沢である。菅井きんもとても地味に登場してきた。
やはり遠方への聴き込み捜査は、こういった楽しみがある。

しかしここで、かなり最初の方から、偶然にホシにそれとなく絡んでいるというのがちょっと気になるところだ。
不自然とまではいわないが、、、ちょっと興ざめである。
ホステスとの接点は早すぎる気がした。(紙吹雪の事件との関連についても)。
捜査はなかなか粘り強く、言語研究家を訪ねて、東北と出雲の音韻の共通性から場所を詰めてゆくところなど、唸る。
今西警部補はやはり言語に拘る人のようだ。

今西の和賀 英良逮捕状請求前の会議室での事件総括シーンはやはりこの物語の要である。
和賀の舞台上での、ピアノ協奏曲「宿命」発表(準備含め)シーンとクロスさせてゆくコントラストが緊張感を高めてゆく。
三木 謙一が偶々立ち寄った映画館に飾ってあった写真の発見が事件の発端となったことから、、、一気にこの数奇な物語をドラマチックに語り尽くす。
それは徹底した調査の結果、、、資料~住民票や供述や聴き取りで得た説得力ある流れであった。
警察側の想像と和賀の回想がひとつに溶け込んだ父子の悲痛で孤独な先の見えない旅が切々と騙り伝えられてゆく。
そのバックで今現在の和賀の演奏する曲が流れる。
この音は、はっきり言って聞くに堪えない。大変邪魔である。
出来れば音楽ミュートでセリフと映像だけで見たい。

和賀 英良~本名本浦 秀夫は6歳で父千代吉のらい病のため、村にいられず放浪の旅に出る。
その旅は差別や迫害、衣食住に渡って想像を絶する過酷なものであった。
父の病の悪化した頃、新たに赴任した三木 謙一巡査に手厚く保護され、父は国の施設に入所する。
しかしそれは、秀夫と父との決別を意味した。
ここで秀夫は天涯孤独の身となる。
誰もその父の病気を理由に子供の引き取り手が無かったため、三木は自分の子供のように彼を大事に育てた。

この語りで一番興味を覚えた部分は、秀夫が三木巡査夫婦から深い情愛を掛けられ育てられたにも関わらず、或る夜家出して失踪してしまうところである。
父との決別をあれ程、子供として嘆いた秀夫が、三木と別れる際のある決意を感じさせる涙。ここには大きな飛躍がある。
これは人間的な情愛との永遠の決別も意味した。
全ての過去を消し去り、貪欲に生きなおそうという力を秘めた目である。(子役上手い!)
目指す(願う)ものは、もはや異なる願望~欲望であろう。
形振り構わぬ上昇志向で突き進んだ様子が窺える。
空襲で死んだ夫婦の戸籍を利用し自分の戸籍として創作する。
自分の出生、自分の初期に当たるもの全てを抹消して新たな名前の人間として生まれ変わる。
そして天分を活かした地位と名誉の獲得か。音楽家としての野望の実現か。
婚約者も権威の後ろ盾~ステータスに過ぎない。
愛人との間に出来た子供は捨て去りたい自分の過去そのものである。
三木も父もすでに捨て去った過去の象徴でしかなく、実際に会うべき者ではなかった。
それらは全て作品~藝術の中に昇華され定着されるべき想いなのだ。
(藝術の本来の目的はそれである。秀夫はだから作曲家を目指したのだ)。

偶然、音楽家として成功を収めている秀夫のことを知った三木が余命幾ばくもない実父に逢うことを強要したため、秀夫は三木を殺害した。その時の心境も場面も一切描かれない。
「彼は音楽の中でしか父とは逢えないんだ。」(今西)
もはや日常の現実の世界には生きてはいない。
今西も詩を書く人であり、その胸中共感できるのだ。

加藤剛の冷徹で独特な厭世観が、数奇な宿命を生きる孤独を際立たせていた。
共通の磁場に捕らわれたかのような、島田陽子の儚さは綺麗である。
流産での出血死のうえ、身元不明の行倒れとは、余りに哀れではないか。
やはり幸せとは無縁の強力な磁場であったようだ。
時として相手を追い詰めるしかない正義感と思いやりを示す人格を緒形拳は巧みに演じていた。
(しかし物事全てに真摯に向き合う姿勢はとても大切な姿である)。
加藤嘉の文学的な重く悲痛な演技は、確実に物語を重厚にしていた。
少年期の秀夫のかなり際どい表情がとても印象的であり、後に開花する資質が窺えるものだ。


音楽さえ無ければ、かなりの名作なのだが。
エンニオ・モリコーネにでも依頼したらよかったかも、、、。
まてよ、それでは地中海の哀愁になってしまう。日本海と言えば誰か?



天候~ファーストライト

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長女が絵画コンクールの賞状授与式から帰ってきて、みんなで何かやって家でもお祝いしようということになり、、、

花火をまずやろうとしたが、、、今日も昨日ほどではないが、、、やめようということに。
昨日、次女が花火をやりたいと言うのでやろうとしたが、風が強くてどうにも火がまともに点かない。
ほんの数本やっただけで、お預けとなった。
次女はかなり悔しがっていたが、仕方ない。
花火だけは室内ではできない(苦。
穏やかな夜を選び、続きをやることになった。

最近、長女は学校が好きではない。

元々今夜、天体望遠鏡で月を見ようと予定していたのだが生憎、雲が濃くて月が出ていない。
出るものが出ないと話にならない。
曇天では、星のひとつも見られない。
仕方ない。

わたしも学校は嫌いだった。
ただ、登校拒否という言葉がないため、行くしかなかっただけのことだ、、、。

彼女らは、天候に左右されない、任天堂スウィッチで結局遊ぶことになった。
少し前までは、顕微鏡で色々プレパラートを自分で作って観て楽しんでいたのだが、最近は圧倒的に任天堂の方が面白いようだ。
ゼルダ伝説をやって普段より少しご馳走を食べたらもう次女は眠いと、、、。
最近次女の寝る時間はどんどん早くなり、その分起きるのも5時ぴったりか更に早く目を覚ます。
これには、困っている。
起きると同時にガタガタ始めるからだ。
(勉強をするわけではない)。

反対に長女は眠らない~食べない、である。
長女のように遅くまで起きていると、朝起きるのは辛くなる一方。
全くチグハグな状況である。

彼女が起きている間に、外を2階のベランダから窺っていると、星が僅かばかり見える。
とりあえず、と思い望遠鏡と蚊取り線香をベランダに持ち出し、観てみることに。
星は強い月明りがない方が良く見えるものだ。
しかしロックは難しい。
何ぶん望遠鏡は、今日の昼間に届いた代物だ。
(わたしの使っていたものなど、とうの昔に処分されてしまっていた)。
これから使い方に馴染んでゆく物だ。

車で朝、娘をすぐ近くの学校に送って行くのも微妙なものである。
勿論、毎日ではないが。

何とかファーストライトをと思ってふと脇を見ると、何と雲間からはっきりと月が顔を出しているではないか。
まだまだ空模様はよくないが、もっともデカい天体が浮かんでいるのだ。
向きを変えて長女を呼んで、基本中の基本、月を見ることに、、、。
接眼レンズを取り換え、まずはほどほどの倍率で。
これはとっても見易く、長女も直ぐにレンズ内に月を捕捉~固定した。
クレーターまでしっかり見えると、やはりボヤっと普段観る月とは物理的に異なるものとなる。

「月でしょ。」

「月だね~」と初めて望遠鏡で月を観た長女が溜息を漏らす。
月を充分観たら、土星と木星も観てみようね、というと図鑑みたいに綺麗?と聞かれた。
恐らく、図解ほど克明には到底観れないはず。
ずっと、ボヤっとして小さく見えるよと言うと、暫く置いて、それもいいや、と返してきた。


そう、それもいいのだ。
それで行こう。



八つ墓村

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1977年

野村芳太郎監督
橋本忍脚本
横溝正史原作

渥美 清 、、、金田一耕助
萩原健一 、、、寺田辰弥
小川真由美 、、、森美也子
花沢徳衛 、、、磯川警部
山崎努 、、、多治見要蔵・久弥
山本陽子 、、、多治見春代(要蔵の娘)
市原悦子 、、、多治見小竹
山口仁奈子 、、、多治見小梅
中野良子 、、、井川鶴子(辰弥の母)
加藤嘉 、、、井川丑松
井川比佐志 、、、井川勘治
綿引洪 、、、矢島刑事
下絛アトム  、、、新井巡査
夏木勲 、、、尼子義孝
大滝秀治 、、、諏訪弁護士
藤岡琢也 、、、久野医師
下絛正巳 、、、工藤校長

結局、「龍のアギト」とは、あれだけのものであったのか?
最後に金田一耕助に、さらさらとなぞ解きをされてお仕舞いか?
やはり祟りだったのか、、、蝙蝠がバッサバッサ出てきてヒッチコック的な暗示であった。
(最初と最後に尼子の落ち武者8人が登場し、終わりでは笑っている。ついに恨みを晴らしたということか)。

渥美 清の穏やかな美声が一番印象に残った。


昨今のスプラッターホラーを数本観た経験があれば、ここでの惨殺シーンは、大人しく様式的にもみえる。
わたしは、ホラー映画愛好家ではない(寧ろホラーは大の苦手である)が、やはり年代を感じる。
発表当時は、かなりショッキングなシーンの連続に思われたことだろう。
感覚の慣れとは、恐ろしい。
当時、「祟りじゃ~」というフレーズと共に、深夜、多治見要蔵が頭に灯を点し刀と銃を構えて桜の木の下を狂気の形相で走って来る映画CM?はそれなりにインパクトは感じたが、怖いのそれではなかった気がする。
物々しさや閉ざされた土地の特異な怪しさと時間性は感じたと思うが。
今そのようないでたちの人が前方から走ってきても「ほうっ」と、思うくらいのものであろう。
勿論、切り殺されたり撃ち殺されては困るので、出遭いたくはない。
(いまは、普通のいでたちで突然、切りつけるというニュースを度々聞く。そちらの方が物騒だ)。

この物語は、表面的には森美也子が自分の事業の不振を補うため、村に伝わる尼子の祟りを巧みに利用し、多治見家の財産を横領しようと画策した犯罪であったとみられる。(家の財産の相続権を持つ者を一掃する目的)。
だが実は家系図を遡ると400年前に、尼子一族を謀殺した村の首謀者たちの末裔を、尼子の直系の子孫である美也子が全員殺して恨みを晴らす形になっていた、というドラマ~謎解き(金田一)である。
つまりは、何だと言いたいのか、、、。

鍾乳洞シーンは、面白かった。
地下世界独自の時間の流れる場所である。
そこには、気の触れた多治見要蔵のミイラが兜を着て眠っていたり、小竹・小梅の不気味な老婆姉妹が深夜にひっそり出入りしていたり、どこかで見た死体が見つかったり、、、秘め事が行われたりしている。
ありそうな秘密~類型が詰まっているのだ。
美也子が事件の真相に気づいた辰弥に、鬼神のような形相で追いすがって来るところは、古い伝承の怪奇譚を思わせる。
記憶の眠る場所であり、郷愁に彩られる。
しかし長く滞在するところではない。

辰弥も長い時間そこに身を隠していたために精神衰弱の状態になってしまった。
そこを美也子に付け込まれる。
もう少しで取り込まれるところだったが、春代の命と引き換えの行為(これもdying messageのひとつか)で目が醒める。
あの真犯人に気づいた時の辰弥の驚き様は良かった。
身につまされるところだ。


小川真由美の知的で妖艶な怪しさ、山本陽子の凛とした端正さ、中野良子の可憐な直向きさ、それぞれの女優が充分に活き活きと演じ切っていた。
双子の白髪の老婆は不気味な異様さの演出には寄与していたが、もう一つ名家の威厳を持たせるとしたら市原悦子ー樹木希林タッグにしてみたらどうか。
萩原健一のなかなかナイーブな演技は好感がもてた。
渥美 清が呑気そうな雰囲気のままで、もう少し前面に出てきても良かったように思う。
調べものと喋りだけでなく、もっと動きの活躍も見たい。

ちょっとしたドラマという感じの映画であった。

悪魔の手毬唄

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1977年

市川崑 監督
久里子亭 脚本
横溝正史 原作

石坂浩二 、、、金田一耕助
岸恵子 、、、青池リカ(亀の湯女主人)
若山富三郎 、、、磯川警部
仁科明子 、、、別所千恵(人気歌手)
北公次 、、、青池歌名雄(リカの長男)
永島暎子 、、、青池里子(リカの長女)
渡辺美佐子 、、、別所春江(千恵の母)
草笛光子 、、、由良敦子
頭師孝雄 、、、由良敏郎
高橋洋子 、、、由良泰子(歌名雄の恋人)
原ひさ子 、、、由良五百子
川口節子 、、、由良栄子
辰巳柳太郎 、、、仁礼嘉平
大羽五朗 、、、仁礼直太
潮哲也 、、、仁礼流次
加藤武 、、、立花捜査主任
中村伸郎 、、、多々良放庵
大滝秀治 、、、権堂医師
三木のり平 、、、野呂十兵衛


確かに日本映画であるが、特定の国~場所を超えた独特の質感と肌触りである。
古くからの因習に縛られた日本の邑でありながら何処か日本から浮遊している。
(ワイナリーなど、特に無国籍風であった)。
由良家と仁礼家の対立とか、狭い共同体からくる閉塞感は半端ではないが、そこをかつて横断した「性」が不気味で陰惨な芽を残したことで起きる芝居がかった連続殺人。
だが、それはとても静かに昼でも夜でもない黄昏時に起きる。

この薄明~トワイライトの世界の湿った情感に浸ると、、、。
観終わった後のずっしりした爽やかさがやってきた。
石坂浩二、岸恵子、若山富三郎の主演3人がこの独特の世界観を充分に表現していた。

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外の世界からやって来た探偵、金田一耕助と20年来邑に潜在して事件の真相を探り続ける磯川警部との合流により、伝承の息づく歪んだ時空「鬼首村」の時効となった殺人事件からまた新たな展開が産まれる。
禍々しい女性殺人が連鎖し、邑に再び悲劇が沸き起こるのだ。

この物語の特筆すべきところは、「恩田」という常に流れの底にいる詐欺師と呼ばれる男がどんな形であっても一度も姿を現さない事である。主役トリオに反転する形で常に中心にい続ける恩田が不在ということで物語の構造を作っている。
そして、その恩田の「性」による横断~圧倒する交通量と2つのペルソナの使い分けである。
この「性」は、恰も民俗学的な伝承か神話にあるような「性」の事件に思える。
その「性」の受け容れ方が様々であり、二つのペルソナが一つであったことの衝撃から最初の殺人が発生する。

23年前の殺人事件と新たな連続殺人の繋がりが徐々に見えてくる。
恩田の足取りを辿りつつ、数少ない情報~写真を追う金田一。
と言っても、割と序盤に犯人は察しがついてしまう。
「手毬唄」は、さほど重い関りはない。その歌に則って殺害現場を演出する必然性はなく、犯人の捜査目くらましか趣味のレヴェルである。
お婆ちゃんがそれを唄う為だけに、二度ばかり出てくるが、そのシーンだけが何故か浮いている。

活動弁士の職を得ていたリカの夫、青池源治郎(彼も一度も画面に登場しない)と恩田が何と同一人物であることが明かされる。
いよいよ弁士が時代の趨勢から消えてゆく運命であることを知り、源治郎は恩田として邑に戻り、詐欺と複数の女に自分の子供を作る生活を始める。
それを最初(23年前)に知ったのはリカであり、そこから事件が起きた~始まったのだ。
恩田に殺された源治郎というフィクションが暴かれる。
そして、殺人事件の真相を知ってしまった里子が母を止めるためか、千恵の身代わりとなり殺されてしまう。
(自ら愛娘を手にかけてしまった)。
彼女は夫と夫が他の女に産ませた娘たちが許せなかった。

一途なリカへの愛情から、彼女を忌まわしい過去の記憶から解き放ちたい一心で、金田一の助けを借りて真相を突き止めた結果が磯川にとり、究極の皮肉な事態を引き起こしてしまう。


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犯人探しとかどんでん返しのトリックを楽しむというより、女の情念や怨恨の深く湿った情景を味わう映画である。
音楽もとても情景に合った、美しい映画であった。

石坂浩二の飄々とした人間を探求する眼差しに支えられた捜査の姿勢。
若山富三郎の秘められた愛情に基づく執念の捜査の姿。
岸恵子の哀しい女の性と情念。
この三人の懐の深い演技だけで、この映画を重厚なものにしていた。
更に加藤武、大滝秀治、三木のり平の脇を固めるキャストの堅実でコミカルな演技。
仁科明子、北公次が凛として瑞々しい風を送り込み、そしてベテラン草笛光子が引き締めていた。
『モロッコ』の終盤がかなりの尺で見られた。
これを境に活動弁士が廃業に追い込まれる、象徴的な作品であったという。


これは、間違いなく小津や溝口の作品に引けを取らぬ名作だと思う。

デジャヴ

Déjà Vu

Déjà Vu
2006年
アメリカ

トニー・スコット監督
テリー・ロッシオ、ビル・マーシリイ脚本

デンゼル・ワシントン、、、ダグ・カーリン(ATF捜査官)
ポーラ・パットン 、、、クレア・クチヴァー(爆発の被害者)
ヴァル・キルマー、、、ポール・プライズワーラ(FBI捜査官)
ジム・カヴィーゼル、、、キャロル・オースタッド(テロの犯人)
アダム・ゴールドバーグ、、、アレクサンダー・デニー博士
エルデン・ヘンソン、、、ガナース(FBI科学エンジニア)
エリカ・アレキサンダー、、、シャンティ(FBI科学エンジニア)

これは力作なのは、よく分かる。
とても作り込まれた良い映画であった。
しかし、前半の「エネミー・オブ・アメリカ」的緊迫感溢れるタイトな展開から後半の度肝を抜く(色々な意味で)SF展開には流石に驚く。
前半後半で監督が異なる感じがするほど、、、。脚本家の問題だな。

これも明らかにひとつのラビット・ホールである。

要するに、時間を遡って起きてしまった大惨事を未然に防ぎたい。
そしてこちらはテクノロジーを使い、それを成し遂げてしまうのだ。
フェリーの爆破テロで500人以上が犠牲になる。
それに先駆けて事件に巻き込まれた女性の死体が海から上がる。
その女性は犯行に使われた爆薬を仕込んだ車の持ち主であった。
彼女を救いたい、という強い願いが奇跡を呼ぶ、、、という話である。


前半はアメリカの衛星監視システムの精度を上げればこれも可能かという現実的なレヴェルである。
(エシュロンやプリズムも空恐ろしい情報収集システム~データベースである。)
しかし、そのシステム“スノーホワイト”は、実は4日半前からの単なる全方位監視システムではなかった。
後半発覚する、偶然発見してしまった結果の、本当に過去に遡った現実の映像なのだというのには、やったなと思った(笑。
つまりタイムマシンである。時間を折り合わせて説明される例のやつである。
(3D全方位補正などいくら高性能大容量スパコンでも限度というものがある。エリアのカメラの数だけその映像を滑らかに補正生成するなんて、、、)。

最初は、ただ爆発物の鋭い分析ができるダグ・カーリン捜査官にFBI監視システムの4日半前からの街の監視ポイントのアドヴァイスをもらおうと、そのシステムに招き入れたのだが、、、その捜索場所を爆破で死んだように偽装されて殺された女性の自宅に彼は指定した。
ダグは暫くそのモニタを見ていくうちに不審な点を覚え、モニタに対し赤外線ポインタを照射する。
すると彼女はそれに気づくのだ。
その映像が生きた現実を映しており、そのマシンを通して影響を与えられることと、そのことを彼らがダグに隠していたことも知る。
(とは言え、生きた現実を映しているにしてもモニタはただの出力ツールである。時間を隔てた世界に物質~光子を転送するなら、そのための装置を通す他ないはずだが)。

それからはダグの猛烈な抗議もあって、過去を覗き込むだけでなく物質的な介入を果たし事件を未遂に持ち込もうという流れとなる。ここからダグは単なるゲストではなく、当初の捜査を大きく踏み出た仕事のイニシアチブをとってゆく。
事件を事前に知らせようと物質~手紙を過去に転送するも、それを受け取ったダグの同僚は犯人に殺されてしまう。
4日前の映像を特殊なゴーグルで見ながら、現在のハイウェイを車で飛ばすというのは、新しい。
ただし、危なっかしくて見ていられない。
スリルは充分である。
犯人の居場所を特定し、逮捕に至る。
しかし、過去を書き換えるには不十分過ぎた。基本的に何も変わらなかった。

終盤はもうつるべ落とし状態で話が加速する。
彼女の部屋のボードのメッセージ「彼女は救える」を見て(自分の)指紋が沢山検出されたことからも、彼女を実際に自分が救える可能性に賭ける。
結局無謀にも生身のダグを転送することになる。大きな電力を必要とするが、辛うじて成功した。
ダグはクレアが犯人に証拠隠滅の為殺害される直前に彼女を救出する。
彼女の部屋に行き犯人に撃たれた傷口の治療を行うが、まだ前途多難であることを知り彼女を同行させる。

最後は激しい撃ち合いの末、事件そのものが全く異なる結果となり、テロ犯はフェリー上で射殺され、テロを食い止めたダグは車ごと水中に突っ込み爆死する。そしてその時間流に存在する何も知らないダグが、海から命からがら浮上したクレアから事情を聴くことになる。
クレアは、それがどういうことか全てを知っている。
「前に遭ったことがあるわ。」「そう?」
勿論、それまで共に捜査し闘った仲間にとってもダグの存在も含め何もなかったことになる。
ダグが過去を変えたために、別バージョンの未来が生成されてしまった。

その結果、フェリーの乗客は助かり~事件は起こらず、事前に謀殺されたクレアも命を拾った。
ただし、彼女一人だけは、彼らを救ったダグのことを知っている。
いまのダグではないダグのことを。


この映画を観てしまうと、こんなこと実際にありそうな(あったかも知れない)気がしてくる。
大規模停電が起きた時は、疑ってみてもよい。



ヒプノティスト―催眠―

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Hypnotisören
2012年

スウェーデン

ラッセ・ハルストレム監督
ラーシュ・ケプレル『催眠』原作

ミカエル・パーシュブラント 、、、エリック・マリア・バルク(催眠医療精神科医)
レナ・オリン 、、、シモーヌ・バルク(妻、画家か?)
トビアス・ジリアクス 、、、ヨーナ警部(国家警察)
ヨナタン・ボークマン 、、、ヨセフ(生き残った長男)


この題を見て直ぐに連想したのは、”ヒプノシス”だった。
LPアルバム全盛時代、アルバムアートワークを音楽コンセプトに分かちがたく結びつけ、ジャケットを藝術レベルに押し上げたプロジェクト集団である。”イエス”、”ピンクフロイド”、”ルネサンス”、”ピーター・ガブリエル”のジャケットデザインは今でも印象に残っている。、、、急に気になったが関係ないので次の機会にでも、、、(笑。

それから、スウェーデンといえば、わたしの大好きな監督、イングマール・ベルイマン。
タルコフスキーより沢山作品を残してくれたことにも感謝したい。(タルコフスキーは作品が少なかったのがとても残念)。

直接関係ないことはこれくらいにして、、、


北欧旅行の好きな人とか、見ると思い入れのある景色が出てきて感慨深かったりするだろうか、、、。
暗くて寒そう。
氷の張った湖面は、怖い。
そんな印象を持った。
そう、家具、調度類も趣き深い。
いま、デパートで見る北欧インテリアはモダンなものばかりなので、ちょっと印象が違う。

わたしも催眠に関心ある為、観てみたのだが、、、。
結果、見事にかかってしまった!
わたしが。
途中、何度も眠りこけた。
この映画の出演人物たちも皆、少なからず眠そうな人ばかりであった。
いや、単にわたしが眠いだけか、、、
そこが定かではない。
そんな意識状態で、わたしも闘いながら鑑賞するのだった。
(これは、映画鑑賞の新機軸だ。重苦しいスリルだ)。

一家惨殺事件が起き、長男一人が助かる。
ヨーナ警部がエリックの催眠術で彼ヨセフの見たものを探り出そうとする。

手紙が出てきたが何の手紙であったかよく分からなかったが、ヨセフに姉がいることが判明。
その姉や過去のエリックの被験者にも接触するも、手掛かりはなかった。
バルク家に誰かが侵入し、奥さんのカンバスに勝手に警告文を書き、息子をさらってゆく。

妻シモーヌがやたらと夫を罵倒するが、その意味が掴みにくい。
彼女自身の問題か?
夫は単に睡眠障害で困っている人である。
睡眠導入剤を飲んでいる。
あっ、思い出した。2年前に浮気したと言っていた。それでか、、、。
息子の誘拐の捜索に来ていた事務的な警察にも当たり散らしていたが、その気持ちは分かる。
エリックは催眠療法でも事故を起こし、それを封印してきた経緯もあるという。
トラウマを抱えているのだ。夫婦関係もきつい。
その重苦しさが全体の景色の基調でもある。

実は犯人はヨセフであり、彼は養子であった。
実の母の命令でその一家を皆殺しにしたのである。何故だか分からない。
しかも捜査妨害の為、母はエリックの息子も誘拐していた。
かなり精神に異常を来たしていた彼女であったが、誘拐は手際よく出来たらしい。
この映画は犯人捜しのサスペンスではないようだが、何を描こうとしているのかははっきり掴めない。

犯人を追い詰めようというシーンで実に呑気な攻防戦となったのも、ちょっと眠かったからか、、、。
いや、ヨーナ警部は睡眠導入剤とか飲んでる人ではない。
飲んでいるのは、「一流の腕前、腕がよすぎると言われてるくらい」のエリックの方だ。
大事な時に飲んでしまって起きれなかったりする。
ヨーナ警部も拳銃ももたず、年配の女性独りにやたらと手こずる。
大丈夫かと言いたいが、わたしも人のことを言ってる場合ではない。
懸命にここは目を開けて耐える。

サンタの人形を見て大泣きする娘や意味ありげの看護婦や同僚婦人警官が子育て中で仕事どころではない様子やうどんを箸で食べていたりなど、全体の流れに回収されない棘が所々に残っているのは映画らしい。それらが伏線という形で全て束ねられてしまうドラマだとかえって窮屈でわざとらしい。
その点で、映画らしくてよかった。

ともかく、青く薄暗い北欧の空気に包まれ、見る側が催眠に落とされるという、映画である。
その間に、何かを暴かれたりしていたら、、、というサスペンス。
夏場のお昼寝にも最適か。
催眠についてもう少し詳しくその手ざわりが感じられたら良かった。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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