長谷川等伯
長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した絵師である。
下級武士の子として生を受けるが幼い時に、染物業を営む長谷川家に養子に出される。
「松林図屏風」(国宝)


ここまで圧倒的な絵というものを、観たことがない。
ただ、ことばを失うばかりだ。
何をか無理やり言ってみても虚しい。
やはりこうした屛風画では、一番拘ってしまう。
この絵は時の権力者の依頼で描いたものではない。
自分の為に描いたものだ。
画集で観るときでさえ、特別姿勢を正して観てしまう。
丁度この頃、自分の跡継ぎと決めていた息子が世を去っている。
狩野派にこれは描けないことだけは、確かだ。
水墨画と大和絵の高次の融合である。
戦国時代、絵師というのは、権力者の城の空間を埋めるための仕事をしたと言える。
狩野派一の天才とうたわれる狩野永徳は常に天下人の近くで権力に守られ制作に励んでいた。
一方、長谷川等伯は能登から独りやって来た無名の絵師(仏画師)である。
永徳の描いた絵を見て、等伯の野心に火が付いたことは有名。
等伯は一時、狩野派の下で絵を学んでいる。(学ぶと言っても部外者として手伝うといったレベルを超えられない)。
等伯は独立し堺の商人の勢いに乗った(金を蓄えた商人が等伯の絵を求めるようになった)ところもあり、利休とも交流が深かまり、重く見られるようになる。
そしてついに、大徳寺三玄院の襖絵を利休に任され成果を上げる。
ここから等伯の名声は鰻上りとなり、永徳は大いに焦ったという。
狩野派は既得権を守るために、等伯に対し様々な圧力と奸計を仕掛ける。
等伯はついに「仙洞御所対屋障壁画」の大きな仕事の依頼を受けるも、永徳の謀略によって阻まれるという事件も起きた。
しかし信長が死んでから、永徳の権威もこれまでのような力が続かず、等伯の勢いを止めることが出来なくなった。
永徳の急死により、狩野派は一時求心力を失う。
その時期、秀吉は息子の弔いのために、京都に菩提寺・祥雲寺(智積院)の建立を命じ、障壁画を等伯に任せた。
秀吉も大いに満足させた「楓図屏風」(楓図壁貼付)が等伯の地位と名声を絶大なものにする。
長谷川等伯の絵は、いずれも野心的であり、センスが極めて鋭い。

「楓図屏風」(国宝)

「檜図屏風」(狩野永徳)
同時代の巨匠同士でよく引き合いに出される絵。
共に豪華絢爛な趣向であるが、デザイン的に観るとかなり違う。
構図、色彩の扱い(塗り重ね)等が、等伯の楓図は大胆で華麗で革新的だ。
これを見比べると、等伯に時代を超脱した魅力が活き活きと感じられ、やはり等伯となってしまうが、永徳には「洛中洛外図屏風」もある。
金箔貼りまくりの細密豪華絢爛の凄さもありだ。
あっちも見始めると面白くてやめられない、、、。

「利休居士像」
利休ももとは、堺の商人であった。
等伯の力をいち早く見抜いた人である。
この肖像画、様式的に描く姿勢とは全く異なり、極めてリアルに洗練された手法で描かれている。
これを観れば、利休という人がじわ~っと分かって来る気がする。
非常に優れて写実的な肖像画に想える。


「枯木猿猴図」
この猿は面白い。
とってもフサフサしていて柔らかそうで白くて丸いのだ。
3匹いて、等伯親子を表しているとも謂われる。
木の枝振りは実に枯れていて、猿との質感の違いを味わえるものだ。
彼は妻と才能豊かな息子を二人とも亡くしている。
絵では大成功し「下剋上の絵師」とまで称されるが、私生活では大切な肉親の死に見舞われた。
しかしそれを乗り越える精神~野心も只ならぬものがある。
雪舟を自分の権威イメージに巧みに取り込むイメージ戦略が功を奏し、大寺院からの依頼も増え続け、彼は単なる有名絵師に留まらず京都の有力者となっていった。
具体的には、雪舟から数えて自分が5代目にあたると標榜する系譜の作成~宣伝である。
雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯。
なかなか絵師がここまで考えることはないと思う。
藝術的才能と技量だけではない、マーケティング(ブランディング)能力の高さも尋常ではなかった。
(利休や堺との結びつきなどにしても)。
商才にも長けていたというべきか。
下級武士の子として生を受けるが幼い時に、染物業を営む長谷川家に養子に出される。
「松林図屏風」(国宝)


ここまで圧倒的な絵というものを、観たことがない。
ただ、ことばを失うばかりだ。
何をか無理やり言ってみても虚しい。
やはりこうした屛風画では、一番拘ってしまう。
この絵は時の権力者の依頼で描いたものではない。
自分の為に描いたものだ。
画集で観るときでさえ、特別姿勢を正して観てしまう。
丁度この頃、自分の跡継ぎと決めていた息子が世を去っている。
狩野派にこれは描けないことだけは、確かだ。
水墨画と大和絵の高次の融合である。
戦国時代、絵師というのは、権力者の城の空間を埋めるための仕事をしたと言える。
狩野派一の天才とうたわれる狩野永徳は常に天下人の近くで権力に守られ制作に励んでいた。
一方、長谷川等伯は能登から独りやって来た無名の絵師(仏画師)である。
永徳の描いた絵を見て、等伯の野心に火が付いたことは有名。
等伯は一時、狩野派の下で絵を学んでいる。(学ぶと言っても部外者として手伝うといったレベルを超えられない)。
等伯は独立し堺の商人の勢いに乗った(金を蓄えた商人が等伯の絵を求めるようになった)ところもあり、利休とも交流が深かまり、重く見られるようになる。
そしてついに、大徳寺三玄院の襖絵を利休に任され成果を上げる。
ここから等伯の名声は鰻上りとなり、永徳は大いに焦ったという。
狩野派は既得権を守るために、等伯に対し様々な圧力と奸計を仕掛ける。
等伯はついに「仙洞御所対屋障壁画」の大きな仕事の依頼を受けるも、永徳の謀略によって阻まれるという事件も起きた。
しかし信長が死んでから、永徳の権威もこれまでのような力が続かず、等伯の勢いを止めることが出来なくなった。
永徳の急死により、狩野派は一時求心力を失う。
その時期、秀吉は息子の弔いのために、京都に菩提寺・祥雲寺(智積院)の建立を命じ、障壁画を等伯に任せた。
秀吉も大いに満足させた「楓図屏風」(楓図壁貼付)が等伯の地位と名声を絶大なものにする。
長谷川等伯の絵は、いずれも野心的であり、センスが極めて鋭い。

「楓図屏風」(国宝)

「檜図屏風」(狩野永徳)
同時代の巨匠同士でよく引き合いに出される絵。
共に豪華絢爛な趣向であるが、デザイン的に観るとかなり違う。
構図、色彩の扱い(塗り重ね)等が、等伯の楓図は大胆で華麗で革新的だ。
これを見比べると、等伯に時代を超脱した魅力が活き活きと感じられ、やはり等伯となってしまうが、永徳には「洛中洛外図屏風」もある。
金箔貼りまくりの細密豪華絢爛の凄さもありだ。
あっちも見始めると面白くてやめられない、、、。

「利休居士像」
利休ももとは、堺の商人であった。
等伯の力をいち早く見抜いた人である。
この肖像画、様式的に描く姿勢とは全く異なり、極めてリアルに洗練された手法で描かれている。
これを観れば、利休という人がじわ~っと分かって来る気がする。
非常に優れて写実的な肖像画に想える。


「枯木猿猴図」
この猿は面白い。
とってもフサフサしていて柔らかそうで白くて丸いのだ。
3匹いて、等伯親子を表しているとも謂われる。
木の枝振りは実に枯れていて、猿との質感の違いを味わえるものだ。
彼は妻と才能豊かな息子を二人とも亡くしている。
絵では大成功し「下剋上の絵師」とまで称されるが、私生活では大切な肉親の死に見舞われた。
しかしそれを乗り越える精神~野心も只ならぬものがある。
雪舟を自分の権威イメージに巧みに取り込むイメージ戦略が功を奏し、大寺院からの依頼も増え続け、彼は単なる有名絵師に留まらず京都の有力者となっていった。
具体的には、雪舟から数えて自分が5代目にあたると標榜する系譜の作成~宣伝である。
雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯。
なかなか絵師がここまで考えることはないと思う。
藝術的才能と技量だけではない、マーケティング(ブランディング)能力の高さも尋常ではなかった。
(利休や堺との結びつきなどにしても)。
商才にも長けていたというべきか。