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GOMA28

Author:GOMA28
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インフェルノ

inferno001.jpg

Inferno
ロン・ハワード監督
デヴィッド・コープ脚本
ダン・ブラウン『インフェルノ』原作

トム・ハンクス、、、ロバート・ラングドン(ハーバード大学宗教象徴学教授)
フェリシティ・ジョーンズ、、、シエナ・ブルックス(医師)
オマール・シー、、、クリストフ・ブシャール
ベン・フォスター、、、バートランド・ゾブリスト(天才生化学者)
イルファーン・カーン、、、ハリー・シムズ
シセ・バベット・クヌッセン、、、エリザベス・シンスキー(WHO医学博士)

「スプラッシュ」の頃からみると随分高齢の大ベテランとなったトムであるが、かなり体を張った好演である。
(わたしとしては、彼の派手な主演作品より「ブリッジ・オブ・スパイ」のような渋いものが好きなのだが)。


天才生化学者バートランド・ゾブリストは人類の半数を滅ぼすウイルスの拡散を計画した。
人類を救うには、人口の制御が必要だと。そこで疫病を作り出し、世界に蔓延させる。
確かに人口爆発への懸念は以前からある。何らかの有効な手を打つ必要はあるにせよ。
(この映画では、そのまま放置しておけば、100年後には人類は滅亡してしまうという)。
天才科学者と言う割には、発想がシンプル極まりないところが謎だが。
(ただのバイオテロリストではないか)。
演説が得意で、その扇動力により信奉者が多く、ある種のカリスマであり大変な富豪でもあった。
基本、人を説得して集められ、金があれば自分の思うことを達成できる可能性は高いものとなる。

例によって、謎解きサスペンスである。
ダンテの叙事詩「神曲」の「地獄篇」に隠した謎の解明を巡るサスペンス。
ボッティチェッリの「地獄の見取り図」が鍵となる。
ボッティチェッリの象徴性や秘められた寓意などは、謎解きにはうってつけだろう。
(ボッティチェッリの特集もやりたくなった(笑)。
しかし今回はさほどそれを丹念にするというほどでもなく、ダンテの詩の方に偏っていった。

「人類こそが病そのものであり、インフェルノはその治療法だ。」
『ダ・ヴィンチ・コード』『天使と悪魔』に継ぐ第三弾。(前二作に比べると少々稠密さに欠ける印象があるが、執拗な絵の分析などの集中度が薄いせいか?)
インディージョーンズと趣を異にするラングドン教授シリーズである。
ちょっと、「アウトブレイク」的な切迫感もあるか。
芸術・考古学の知識を縦横に発揮して謎を解いてゆく、スリルも充分である。
フィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールと今回も飛ぶ。
ベッキオ宮殿、サン・ジョバンニ洗礼堂、トルコ・イスタンブールの地下宮殿も舞台であり、このシリーズならではの楽しみである。
ダンテのデスマスクもしっかり拝めた(笑。
然も今回のラングドン教授は拉致され記憶を消す注射を打たれ、頭も負傷しのっけから劣勢に立たされたところからスタートを切る。
ラングドンの命を狙い、追い詰める追手達も手強い。
ドローン偵察機も出てくる。

だが、一番の驚きはヒロインと思って安心して寄り添ってきたシエナがバートランド・ゾブリストの恋人で、彼の遺志を受け継ぎその人口削減計画を実行せんとする戦士に変貌するところだ。
それまで危険をものともせず、果敢にラングトンと行動を共にしてきたのには、彼女の秘めたる使命感があったからだった。
(それにしても医者が何でこんなに芸術や考古学や語学・文学に詳しいのかちょっと出来過ぎに思えたが、どうやら特殊な人であったのだ)。
最終的にゾブリストがウイルスを隠した場所が分かった時点で、彼女はこころを決めたのだ。
彼女のラングドンを見る表情が三段階に意味ありげに変わったときに、何?と思ったがまさかである。
これは謎解きの展開よりもサスペンスを高める。
三部作最大のどんでん返しであったか、、、。
しかしもうひと捻り彼女の変貌があるかと期待していたがそのまま突っ走って終わりであった。ちょっと残念な気もした。

inferno002.jpg

終盤は、ロバートはエリザベス・シンスキー博士とのタッグで、とりあえず目先の人類の危機を救う。
どうも前二作ほどのインパクトがなく、観終わってから残るものが余りなかった。

音楽はシーンによく合っていた。エンドロールでも締めくくっていた。


ゾブリストは、何故自分でさっさとウイルス撒いて死ななかったのかが謎でもあった、、、。
(あのような形となった経緯など、プロットの説得力がいまひとつ弱い感じがした)。


ロスト・エモーション

Equals001.jpg

Equals
2015年
アメリカ

ドレイク・ドレマス監督・原案
ネイサン・パーカー脚本
リドリー・スコット、ラッセル・レヴィン、イ・ジェウ製作総指揮

ニコラス・ホルト、、、サイラス
クリステン・スチュワート、、、ニア
ガイ・ピアース、、、ジョナス(闇感染者)

”Equals”のままが良い。

「イコールズ」、、、絶滅の危機に瀕した人類の共同体の名前である。
世界大戦により地上の99.6%が破壊され、残った人類は「イコールズ」という管理コミュニティを形成し感情のない世界に人々は暮らしていた。

クリステン・スチュワートは「パニック・ルーム」でジュディ・フォスターの娘役で出ていた女優だ。
大きくなって、、、と思った(笑。
「メメント」「 L.A.コンフィデンシャル」での印象が深いガイ・ピアースであったが、、、


白を基調として繊細な陰りをもつ物語が淡々と物静かに過ぎてゆく。
時に青のグラデーションの深みがサイラスとニアのふたりの苦悩と愛を包み込む。
建造物は安藤忠雄のデザインによるものが使用されている。
急ごしらえのセットでは到底味わえないスケールと特殊な空間センスであった。
アップで非常に細やかな心情を掬い取るカメラワークも秀逸。

遺伝子操作により感情を抑制することで共同体の統制を図るという方針は既視感がタップリで陳腐でさえあるが、、、
最初は異様に冷たく機械的な人の動きが基本となるトーンで進む。
ちょっと見ていてむず痒さを感じるほどに。
しかし、感情を見せる瞳や手の動きなど微細なカットが忍び込みシーンに不安と焦燥感を呼ぶ。
白い空間に青い影が生じて、重苦しさが湧いて来る。
多くの成員が感情の片鱗も見せない中、感情、情感を抑えて生きる人間のいることをサイラスは知る。
彼らは感染者と呼ばれ、施設送りになり果ては処刑されてしまう運命をもつが、平静を装い感情を隠して生活を送る。
それほど、この社会では感情が恐れられ忌み嫌われているのだった。

サイラスもニアもひとりになると何故か不安と突き上げるものを覚え、涙が溢れ出す、、、。
この映画は、「出版部」に努めるサイラス(画家)とニア(執筆者)がお互いに、はっきりと惹かれ合う辺りから、独自の微視的な展開で魅せはじめる。
彼らは密かに隠れて会い、(固く禁止されている)お互いの心境を語り合う。
それは次第に愛情を呼び覚まし、彼らはお互いに愛し合い生まれて初めて嵐のような感情の高揚を経験する。
サイラスは闇の感染者(感情に目覚めた者)の作る闇感染者ネットワークに入り、「思いのこもった」人間と共にすることで影響を受け、感情を恐れず受け入れるようになる。


自分の存在意義は、遠く離れた宇宙に探られるのではなく、すぐ目の前にあったことにサイラスは思い当たる。
ニアとはもう離れられない。
感情が確固たる認識を呼び、それ~感情は病ではないことを彼ははっきりと確信した。
感情のある状態こそが本来の姿であるという、この共同体パラダイムにおいてはコペルニクス的認識の転換を得る。
ひとたびそれを認識すると、むしろ感情を失くしたら自分が存在しないにも等しいことを知る。
確かに、このコミュニティでは自殺者が多い。
(感情は人間の生きる原動力とも謂える根源的なエネルギーであろう)。
サイラスはニアと共同体の外、生きる保障もない原生林の生い茂る欠陥者(普通の人間)の生息する場所に逃げることを決める。
これも活き活きした感情によって決定したことなのだ。

しかし,ニアは妊娠していることが血液検査で発覚し捉えられ、処分されることになってしまう。
ニアはすんでのところで、闇感染者たちの手回しにより、自殺者とIDを入れ替えることにより助けられる。
時を同じくして、これまで不完全であった感情を完全に抑制する医療が開発された。
つまりもう誰も施設送りされ処分されることなく、その施術を受ければ社会復帰ができるようになったのだ。


ここでは、面白いことに、統括する指導者や管理者の姿や警察、捜査官、諜報部員、高度な監視システムなどは、ほぼ何も出てこない。
施設全体に流れる放送やモニターを見せるにとどめる。
保険安全局が共同体構成員の「感情」「妊娠」のコントロールをしているようだが、その実態がつぶさに素描されることはない。
僅かに、感染を調べる血液検査と感染者を施設に隔離する場面が映る程度である。
社会システムをアクション系から観る(描く)ような要素を意図的に排した映画なのだ。
あくまでも内省的に局所的に、風のそよぎに打ち震える「感情」にフォーカスした展開で最後までゆく。

最後のニアが死んだものと思い込み、感情を取り払う手術を受けてしまったサイラスを伴って共同体の外に逃げるニアの不安と恐れと希望の綯交ぜとなった表情~心象の表現がこの映画の価値を決めている。
この最後のブーツストラップで、際立つSF作品と成り得たと言えよう。

Equals002.jpg


質感に徹底して拘る、好きなタイプのSFである。
やはりリドリー・スコット総監督というのも頷ける。
ゴダールのアルファヴァルがSFであるという意味において優れたSFだ。





シン・ゴジラ

GODZILLA005.jpg

2016年
庵野秀明 総監督
樋口真嗣 監督・特技監督
庵野秀明 脚本
伊福部昭、鷺巣詩郎 音楽

長谷川博己
竹野内豊
大杉漣
柄本明
余貴美子
市川実日子
石原さとみ
平泉成
國村隼
松尾諭

これは政治ドラマか?
確かにお隣さんが核弾頭ミサイルを定期的に打ち上げている折も折。
国防、危機管理は大きな課題としてあるのは事実だ。
大地震だってどれ程のものが今後来るか分からない。が、その可能性は高いとされている。
ゴジラが如何にも怪獣っぽく動物的に暴れまわらず、静かに進行方向だけ崩して歩むところは、ある意味自然災害の人知を超えた威厳すら象徴しているように想われる。
これまでの怪獣らしさがほとんど感じられないもっと他者性の強い存在であった。
(わざとらしい擬人化した動き~妙な親近感が微塵もない)。

ここでは核使用(実験)の結果~無謀な廃棄によって生まれた巨大生物という、あっても不思議ではない実体であるが。
非常に大きな前例の無い(自然)災害に対する、日本人の闘い方を表しているともいえる。
目まぐるしいカット割りで、災害に対する政治家や軍隊の緊迫した対応の様子を描く。
いちいち、その職名や氏名、武器であるなら名前だけでなく型番までテロップで示される。
忙しないドキュメンタリーフィルムを観る気分だ。
しかも異様に煩雑で専門用語の飛び交う、シーンの連続である。

前半の総理大臣の苦悩と自衛隊の防衛出動の場面。
「有害鳥獣駆除」の名目で出動する。
組織で動くにしても、前例のない想定外の事態に対する法的解釈・整備・運用を巡って、またどの省庁がどのように受け持つかなど、大変ぎくしゃくするが、日本はまた上手く法律を解釈し合法化するのも得意である。
いざとなったら動き難く見えて、かなり組織として柔軟に狡猾に動ける国であると思えた。

しかし、戦う相手が余りに強大で完璧な生物であり過ぎた。
自衛隊の持つ軍事力では歯が立たないのだ。
御用学者と保守的官僚の限界から、各専門分野から特に個性的で秀でたエキスパートを選別しチームが作られる。
「巨大不明生物特設災害対策本部」である。
アメリカ映画のような非現実的な超脱したヒーローとヒロイン(どちらも最後に残る)は構造的に登場しない。
皆、どれ程の能力と才能をもっていても、組織として動く。
優秀なメンバーだが、あくまでも団結して動くところは、国民性である。

最も唸ったところは、安保法制~「集団的自衛権」の危うさの見事な提示である。
このような有事となると、どれほど同盟国の国益の餌食にされ国の存亡~解体の危機にも繋がりかねないか。
アメリカはデータはしっかり握ってたうえで、熱核兵器を使用することを同盟国間で決定してしまう。
日本に3度目の核を落とす流れとなるのだ。
東京に核を落とすことは何を意味するか。

それを何とか内閣総理大臣臨時代理がフランスに頭を下げて、投下時間を遅らせる。
その間に巨大不明生物特設災害対策本部は「矢口プラン」を打ち立てる。
ゴジラの原動力である体内の原子炉の冷却にとって重要な血液循環を止める血液凝固剤の経口投与を計画する。
それを実行する「ヤシオリ作戦」の実施にまで漕ぎつける。
同盟国の核兵器使用直前に、遠隔操作の新幹線や在来線列車による爆破攻撃と建設機械部隊とコンクリートポンプ車という、日本の誇る交通技術を駆使して作戦を成功させる。
ゴジラが冷却して動きが止まる。
新しいゴジラ像だ。


それにしても感動したのは、最初にゴジラが吐いた放射能である。
あれが前半戦の強烈なカタストロフであった。
それまでは全てをなぎ倒しつつ移動するだけであったから。
政府関係者もゴジラを甘く見ていた。
だが、形態を段階的に変えながらついにあるべき姿にまで変態する。
無敵の放射能の光線。
正直、あそこまでやるかとおもったが、壮絶なVXFである。
あれを見せられてはもう、史上最強の完璧な生態系という以外にあるまい。
おまけに背中からも凄まじい光線が出て近づくもの全てを撃ち落としてしまう。
これには、圧倒された。
これまで馴染んできたゴジラのフィギュアを払拭するものであった。


ストーリーもゴジラ自体も新しいゴジラの創生と謂える。


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ブレード・ランナー ファイナルカット

BLADE RUNNER THE FINAL CUT

BLADE RUNNER: THE FINAL CUT
2007年
アメリカ

リドリー・スコット監督
フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』原作
ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ脚本
ヴァンゲリス・パパサナシュー音楽

ハリソン・フォード 、、、リック・デッカード(ブレード・ランナー)
ルトガー・ハウアー 、、、ロイ・バティー(レプリカント、リーダー)
ショーン・ヤング 、、、レーチェル(レプリカント、リックの恋人)
エドワード・ジェームズ・オルモス 、、、ガフ(ブライアントの部下、折り紙名人、刑事)
ダリル・ハンナ 、、、プリス(レプリカント)
ブライオン・ジェームズ 、、、リオン・コワルスキー(レプリカント)
ジョアンナ・キャシディ 、、、ゾーラ(レプリカント)
M・エメット・ウォルシュ 、、、ブライアント(リックの上司)
ウィリアム・サンダーソン 、、、J・F・セバスチャン(タイレル社エンジニア)
ジョー・ターケル 、、、エルドン・タイレル(タイレル社社長)


わたしの”絶対映画”である!

このファイナルカット版だけ、観ていなかった。
1992年の『ディレクターズカット/最終版』でとりあえず締めくくっていたのだが、、、
今日BSで観た。
2007年に25周年を記念して監督が再編集したものだ。
丁度良い時期に放映してくれた。
後は『ブレードランナー 2049』を観るのみ!
(しかし観るのが怖い気持ちもある。この映画を引き継ぐ~超えることの不可能性を想うと、、、)。

やはり質~マチエールが素晴らしくブラッシュアップされている。
音響にも手抜きはない。
ヴァンゲリスの音楽は形象~色~空気と不可分のレヴェルにまで溶け込んでいた。
この空間の繊細な濃密さと芳醇さはタルコフスキー映画と同等の境地だ。

この質に酔って吸い込まれるように味わった。
これはもう内容がどうだとか言っている次元のものではない。

酸性雨の降りしきる禍々しい光の交錯する夜の雑踏。
雑多な民族・人種の入り混じる中で、彷徨う者、逃げる者、追う者、死ぬ者、殺す者、、、。
夜空を移動する怪しげな日本を象徴する音(歌舞伎か)と女(芸者)の広告。
その下での猥雑な商店モール。体温を感じさせない賑わい。
ほとんど人の去った後の廃墟に等しいビル。
人造人間~オートマタに埋め尽くされた部屋。
未来のピラミッドを彷彿させるタイレル社のハイテク高層ビル。
窓には残酷に凍結した黄昏。しかしシールドで隠される。

レプリカント(奴隷)たちの姿も生き様も美しい。
プリスの可憐な瑞々しさ、レーチェルのエレガントさ。
レオンの逞しさとロイの知性。
彼らと同じように老化の早い短命な孤独な青年J・F・セバスチャン。
何処も誰もが何もかもが、ただ崇高で孤独で哀しく美しい。
これ程、ディテールにまで染み渡る濃密で美しい映画が他にあろうか!

明るい蝋燭ほど早く燃え尽きるものだ、、、。
タイレルはそう騙り、人間と同じ生命を危険な作業用に作っておいて、安全対策として寿命を4年に設定した、、、。
(だがレーチェルだけは、リミッターが外されたレプリカントの試作品であったらしい。その分彼女は誰かの記憶を移植され自分がレプリカントであることも知らなかった)。
彼らは当然の如く反旗を翻す。感情も発生する。
ブレードランナーとは、そのレプリカントを探り出し解任(殺害)する任に当たる者である。
確かに彼らは人類にとって脅威であろう。
(何においても追い越されてしまったからには、、、)。


ロイは、リックに何を託そうとして、命を助けたのか。
彼の蒼い瞳が光を浴びて更に青く冷たく輝く。
底知れぬ孤独から覗く冷徹な威厳を湛えながらも、胸の奥底から激しく波打ち去来する思いが、最期の時に語られる。
人間の身体では到底叶わぬ宇宙でのヴィジョンをリックに語るロイ・バティー。
彼は深く鮮やかな生を短い寿命の中で全うせんとした。
だが彼の与えられた運命には断じて従えない。
しかし、もう終わったのだ。
彼の人類に向けた遺言とも謂えようか、、、。
ロイの力尽きた姿はミケランジェロの彫像にも重なる威光を放つ。
彼の手から解かれた白いハトが漆黒の夜に羽ばたいてゆく、、、。




まず、これを超える映画が今後生まれてくるとは思えないが、2017年10月27日公開の『ブレードランナー 2049』も期待はしたい。
(どれ程の意欲作を生み出そうが、この作品masterpieceと比較されること自体、最初から圧倒的な劣勢で臨む闘いに等しい。しかしドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は覚悟を決め、リドリー・スコットの世界をそのまま継承し、さらに広げて構築を果たす仕事をしたらしい。違うアプローチで自分の映画にしてしまうのではなく。実に力のこもった正統な続編になりそうだ。)

また、この映画は、ルトガー・ハウアーの映画である。
彼に、遡ってアカデミー賞は授与できないのか。無理か。





炎の画家ゴッホ

Lust for Life

Lust for Life
1956年
アメリカ

ヴィンセント・ミネリ監督
アーヴィング・ストーン『炎の生涯 ファン・ゴッホ物語』
ノーマン・コーウィン脚本

カーク・ダグラス 、、、フィンセント・ファン・ゴッホ
ジェームズ・ドナルド 、、、テオ・ファン・ゴッホ
アンソニー・クイン、、、ポール・ゴーギャン


「生きる」
まさに、ただひたすら、自分の生を生きようとした(生き急いだ)フィンセント・ファン・ゴッホの悲痛な生涯の物語である。
こういう映画も作るアメリカの懐の深さを感じた。(ジョンウェイン=トランプみたいな側面はもつにせよ)。
ゴッホとは、”Reality”にどれだけ「絵」という唯一の武器で迫れるかに命をかけて挑んだ戦士である。
ポール・ゴーギャンも彼に劣らず自分の生を追及した人であったが、”Imagination”によって世界を再構築しようとした芸術家である。
この映画で作られたゴッホのイメージがデフォルトであろう。

「ゴーギャンとゴッホ展」に行ったことを思い出した。
以下、自分の書いたところからの引用。
「確かにゴッホはあくまでも目の前の対象に拘りぬくことからあのような表象を得るところまでに至り、ゴーギャンは対象をひとつの契機として永遠・普遍を要請するイメージをあのように構成した。」
ここが、激しい彼らの共同生活でのぶつかり合いでやはり鮮明になった。
部屋の中での激論も両者の資質の違いを際立たせていたが、外での制作中の諍いにもよく表れていた。
(とても上手い脚本だったと思う)。
ゴーギャンは表象の相対性を理念的に認識していたが、ゴッホにとって彼の五感に得られる表象はそのまま絶対で普遍なものだった。
このような場合、ゴーギャンが折れなければ、共同生活は無理だろう。

ゴッホとゴーギャンはそのまんまであった。
絵から抜け出してきたようなタンギー爺さんがこれまた良い味出していた。
ゴッホが施設を出た後、彼を治療観察する精神科医(エヴェレット・スローン)も肖像画そっくり。
勿論その他の、名もなき炭鉱夫やその家族、農民たち、、、。
アルルの桜やサンレミの松、、、そう映し出される場所や人が彼の描いた絵に重なる。
この撮影は随分骨の折れるものだったと想像できる。
(美術館・個人所蔵の作品を相当数かき集めたことが分かる)。
しかし、その場所や人々と照らし合わせるように見れるなんてそれだけでも贅沢である。

美しい映画であった。

この映画、弟テオ(の立場)に寄り添うことが多かった。
(ゴッホ、ゴーギャンの身になって考えることは可能だが、、、)
見守る立ち位置から、そこをもう少し気楽に行けないかね、、、とか思いながら心配して観てしまう。
基本、彼には余裕~遊びというものがない。
ゴッホは、行く先々で人々から奇異な目つきで見られ拒絶される。
妹からも、兄さんのせいで、家族が変な目で見られると。
兄の価値を認め続けるのはテオだけである。

基本、ゴッホはゴーギャンより真面目で正直で繊細で強情(融通が利かず)で極めて不安定で危険だ。
元々、概念による対象化が性に合わず環界に対しひりつく身体性を持っている上に感性に直結した表現方法をひたすら求めたことで、もろさは、差し詰めゆで卵みたいなものか。
更に他者に対する感覚が薄いと同時に夢中になって入り込むと、外界からは何も受け付けない。
普通に集団内で組織的に仕事をするタイプの人ではなかろう。
経済的にも精神的にもテオの存在なくして絵を描き続けることは困難であったことは間違いない。
そしてテオの存在がなければ、ゴッホその人も作品もわれわれは知らずに終わった可能性が高い。
あれだけ、同時代に(ごく少数の才能を持つ者以外には)見向きもされなかったのだから。
テオの眼力と愛情なくして、今われわれが知るゴッホの作品はなかった。
(ゴッホ死後の作品収集・管理においても)。
テオの根気強く兄を信じ支え続ける暖かな眼差しなくしてこの物語自体が成り立たない。
ゴーギャンが言っていた、「わたしは君のように金を送って支えてくれる弟などいない」は非常に大きい。

絵を描かなかったら、ゴッホとは何であったか、、、。
伝道師を辞め(クビになり)、「絵」を発見してよかったと思う。
彼は絵によって命をすり減らしたのではなく、絵によってはじめて世界と真っ向から向き合い燃え尽きたのだ。
絵によって「生きる」ことが出来た。
それは幸せな一生であったはず。

彼は不吉な『鴉のいる麦畑』を描き、ピストル自殺する。
きっと映画のような光景だったろう。
「死は白昼にやってくる。」
その通りだった。

「兄さんかわいそうに、、、」
死を看取ったテオの言葉に同感である。
きっとどんな生であっても、最後というのはかわいそうなのだ。
愛していればなおのこと。



ぼくのバラ色の人生

Ma vie en rose001

Ma vie en rose
1997年
フランス、ベルギー、イギリス

アラン・ベルリネール監督・脚本

ミシェール・ラロック、、、アンナ・ファーブル(リュドヴィックの母)
ジャン=フィリップ・エコフェ、、、ピエール・ファーブル(リュドヴィックの父)
エレーヌ・ヴァンサン、、、エリザベス
ジョルジュ・デュ・フレネ、、、リュドヴィック・ファーブル(7歳のMtFトランスジェンダー)

1997年。かなり早い時期の問題提起か。


7歳のリュドヴィック・ファーブルは、自分を素直に出すと必ず周りがあたふたして、大騒ぎになったりする。
何故なのか、とても不思議なのだ。
理不尽なことに凄く叱られたりもする。
お姉ちゃんのピンクのドレスを着て何が悪いの?

Ma vie en rose002

所謂彼は、MtFトランスジェンダーと言われる人なのだ。
大きくなったら女の子になる、と夢見ている男の子。
わたしもそれくらいの頃は、鉄人になるとか、、、友達も似たような憧れを口にしていた。
何の悪気などあろうはずもない。本当に彼のなりたいもので、憧れなのだ。
彼女のいや、彼の弟が「それって猫を殺すことより悪いの!」と親に問いかけている。

まさにそこである。
例えバカ息子が猫を一匹悪戯で殺しても、学校に呼び出され転校を勧められたり、近所全ての家から署名が集まり転居を強いられたり、父親がリストラされたりはしまい。
大きくなって女の子になるの、、、という彼の極めて自然な感情は、動物の虐殺より遥かに罪が重いのだ!

この男の子がデンとしたもっそりした子なら明らかに異なるトーンの映画となろうが、天使タイプの可愛らしい子なのだ。
このまま女の子と言っても、普通の女の子より可愛いで通用するかも知れない。
些かそのせいで、物語は重く暗くはなり過ぎず、メルヘンチックに展開してゆく(笑。
だが、祖母のように今が可愛いからと言って、そのまま猫可愛がりしていて問題が解消するものではあるまい。
思春期になればこの子だって、明らかに男の体になって行く。髭だって生えてこよう。
こころが完全に女だとしたら、それ相応の折り合いをつけて行かねばなるまい。
当人はその深刻さには、まだまだ気づかないのは当然のこと。

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彼自身の憧れへの想いが、家族たちを追い詰めている認識が深まるに従い罪悪感と現実逃避の欲望も強まる。
7歳であれば、まだTv番組のヒロインが助けてくれる白日夢にも浸ってしまうものだ。
冷蔵庫に隠れてみたりもする。おばあちゃんのところに逃げ込んだり、、、。
家族も彼を精神科に連れて行き、矯正を試みる。
世間体からしても、治さなければならないのだ。何とか真人間にしたいと。

しかし成果は上がらず、家庭が徐々に大変なことになって行き、理解者振っていた母親があからさまに彼を罪人扱いし始める。
切羽詰まって過敏になってゆく。
だがそれと同時に、当初生理的に嫌悪感を隠さなかった父親が、お前のせいじゃないと世間と闘う意志を表明する。
お父さんは逞しさと優しさを発揮し始め、家庭としては良い方向性が芽生えてくる。
家族や周囲の人間が(たまたま引っ越した近所の家庭に彼の逆パタンFtMの女の子がいたようで)、違いが受容され仲良くされる可能性が見え、その点では良いところに引っ越してきたものだ。
試練を通し、彼を掛け替えのない大切な息子だという肝心な事=愛を再認識する両親。

Ma vie en rose003

しかし、これから先、成長と共に自然な憧れ自体が内側から浸食されてゆくのだ。
その純粋なイメージがどう成長と共に獲得してゆく知識や認識によって、善く生きて行ける可能性に結び付けられるか?
周りからの偏見や疎外や抑圧、暴力から来る苦痛より、寧ろ自分の内的な葛藤と不条理な実存的苦悩の方がキツクのしかかってくるはず。
かなり壮絶な格闘が不可避となろう。
自分独自の強固な世界観の構築とその理解者の獲得に恐らくかかってくる。

いや、今現在なら理解者、支援者団体はかなりの大きな組織としてもあり、マイノリティであることから迫害を受けたり、差別されることもなくなってきただろう。人権はしっかり守られるし、この映画の時期からは確実に周りの状況は進展している。
肉親の思いは、時代の変化であっても、些か複雑ではあろうが。
外部の状況はそうである。
しかしあくまでもアイデンティティの問題である。
ムーブメントにおける理解者などで解消される次元ではない。
(そこまで行くと、普遍的な存在論ontologyともなってしまうが。必然的に)。


基本、周りがどうであろうが、馬鹿が何を吠えようがそんなことは、もともと関係ないのだ。
自分が自分にどれだけ折り合いをつけていけるか。
自分が何にも流されない、自分の主体として生きてゆけるか。
これは、同時にわれわれと重なる存在論的課題でもある。
(抱えるものが少し違うに過ぎない)。

大鹿村騒動記

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2011年
阪本順治 監督・脚本

忌野清志郎 主題歌「太陽の当たる場所」

原田芳雄 、、、風祭善(食堂「ディア・イーター」店主)
大楠道代 、、、風祭貴子(善の妻)
岸部一徳 、、、能村治(善の幼なじみ)
松たか子 、、、織井美江(村役場総務課)
佐藤浩市 、、、越田一平(バス運転手)
冨浦智嗣 、、、大地雷音(「ディア・イーター」アルバイト)
瑛太 、、、柴山寛治(郵便局員)
石橋蓮司 、、、重田権三(土木業)
小野武彦 、、、山谷一夫(旅館主人)
小倉一郎 、、、柴山満(白菜農家)
でんでん 、、、朝川玄一郎(食料品店店主)
加藤虎ノ介 、、、平岡健太(村役場職員)
三國連太郎、、、津田義一(歌舞伎保存会会長、貴子の父)


「大鹿歌舞伎」という300年の伝統をもつ歌舞伎を村をあげて守り続けている人々の話をユーモラスに描く。
キャストは、芸達者揃いであるが、歌舞伎の演技は実に素人臭く演じているところがミソ。
この「大鹿歌舞伎」は、長野県下伊那郡大鹿村に伝承されている地芝居であり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

村人もエキストラで300人以上参加しているそうだ。
賑やかで盛大で如何わしくとってもキッチュで神聖な行事である。
何というか、地芝居というハレの場が、全ての矛盾や葛藤や秘めた想いを解放してしまう、、、。
そんな磁場の面白さを描こうとしているのか。
伝統ある村の独特の雰囲気が感じられ、風景(南アルプス)もそれらしく見える(笑。
しかしそんな村もリニアモーターカーの誘致を巡り喧々諤々の論争の火花も散る。
「大鹿歌舞伎」の稽古にも影響を及ぼす勢いであるところが面白い。
(誘致急進派の重田などは、歌舞伎とはっきりリンクするとまで言い放っている。元気な村だ)。
ちなみにこの食堂「ディア・イーター」では、鹿肉料理がメインである。
皆、それぞれの仕事中に、歌舞伎の自分の役の稽古を自主的にやっている。
この時期のこの村の日常なのか、、、。
定期公演が近づいてきた。
そんな折も折、、、

善のもとから駆け落ちして失踪した妻貴子がその相手の治と共に18年ぶりに村に帰って来る。
治は、貴子の記憶が無くなったから返すと連れてきたので、怒る前に呆れかえる状況。
そのままふたりを家に泊めることに、、、。
性同一性障害の大地雷音も「ディア・イーター」のバイト募集で入ってきて、俄かに活気ずく。
と言うかてんやわんやの状況になる。
そこへ風祭善の相手役を長年務めてきた越田一平が台風の土砂で事故を起こし芝居に出れなくなる。
その穴を埋めるのが貴子であった。
貴子は実は一平の前のその役の演者であり、不思議にセリフはしっかり覚えているのだ。
劇の稽古から本番まで、見事に記憶は戻っており、自分が治と駆け落ちしたことも思い出していた。
善と貴子は、この芝居で再び結ばれる、と思ったのだが、、、。

主軸となる風祭善~風祭貴子~能村治の複雑なやり取りに、織井美江(松たか子)と越田一平(佐藤浩市)や柴山寛治(瑛太)と大地雷音(冨浦智嗣)の演技が交錯する。そこにでんでんが良い味を付け加える。
最初、「大鹿村騒動記」という題名を見たとき、TVの2時間ドラマ的な印象を持ったのだが、所謂、映画であった。
芸達者な玄人が素人っぽい劇をやるところがやはり面白く、舞台の会場には相当な数のその村の素人エキストラが様々な表情で見に来ている。

さて映画であるが、映画特有の時間を味わうことは出来たが、内容的に面白かったかと言えば、さほど惹きつけられるところもなかった。感情移入して見られる場面もなく、基本的にほう、この人が出てるなあ、と思いながら見ていた。
「大鹿歌舞伎」が実際かなりの尺を取り演じられるのだが、そこが一番面白いところだったと感じる。
確かに熟して枯れて深くなった懐を感じる原田芳雄の示す愛情は、彼でなければ表現できないな、とは思ったが。
感心はするが、感動する類のものでもない。


村興しには、かなり役立った広報映画となったのではないか。
ありそうもない「騒動記」ではあったが、、、。


原田芳雄の遺作というのも、感慨深い。
(まだまだ元気な感じであるが)。
三國連太郎も忌野清志郎もその後に亡くなっている。

忌野清志郎の曲は、どれも皆彼と分かる曲とヴォーカルであり、ホッとする。


サイレント・ランニング

Silent Running001

Silent Running
1972年
アメリカ

ダグラス・トランブル監督

ジョーン・バエズ「リジョイス・イン・ザ・サン」音楽

ブルース・ダーン、、、フリーマン・ローウェル
ドローン1(デューイ)
ドローン2(ヒューイ)
ドローン3(ルーイ)


ロボットが独りで誰もいなくなったドームで植物の世話をしているといった光景は、既視感というか郷愁を感じさせる。
J・Gバラードの小説などにもこのような光景をたびたび観た記憶がある。
「天空の城ラピュタ」のロボットも忘れ難い。
「結晶世界」誰か映画化しないのだろうか?きっと凄まじい傑作SFができると思うが(誰に頼むかの問題だが)。
おバカSFばかりでは、ちょおっと寂しい。
ジョーン・バエズも興味ないなあ、、、。


最近のまともなSFと言ったら、インターステラーオブリビオンオデッセイエクス・マキナくらいか、、、。

”Silent Running”という映画があることは、知っていたが特に見る気もなくそのままでいた。
今回、BSの録画でたまたま見てみた。

生物学者が、植物の不調に際し、日照状況に気づかないということがあろうか?
(最初からそれら全ての諸条件を完全に取り込んだ装置でプログラミングされた管理がなされているはずではないのか?)
光に関しては観葉植物の鉢植えの世話など一度でも経験した人なら、素人でもまず気にする要素だ。
この博士とこれまでの研究に根本的な疑問を投げかける摩訶不思議な部分である。

ロボットが極めて初歩的な歩行型作業ロボットに見えるが、プログラムカードの差し替えで、船体メンテナンス、人の足の手術、カードゲーム、更には仲間同士の何やらコミュニケーションまでとっている、というのはその形体からしてもあり得ない。
特にあの「手」である。巧緻性などまずない。
このロボットの二本のカギ爪で複雑・繊細極まりない作業をどうやってやるのか?
しかもプログラムの差し替えで動くロボットである。
自立系AIですらまだまだ遠いコミュニケーションなどどうやって可能としているのか。
ロボット同士で意思疎通なんて200年は早いわ。
はっきり言ってかなり出来の悪いロボットだ。それだけのことをさせようとするなら、鉄腕アトム(ATOM)くらいのを出してもらいたい。

あのドーム内の電力の供給もあり得ないもので、どこからあれだけのエネルギーを得るのか。
しかも場所が土星近辺ときている。
太陽エネルギーなど全く見込めないが、本体と切り離されてもそのほぼドームだけといった形の、何処かに原子炉が備えられているのか、、、。どう考えても構造上本体側になければおかしいであろう。
ドーム側では、あったとしても太陽光パネル程度だろう。しかし宇宙空間のその位置において設置意味がない。

植物も実を付けたものを食べるところまで出来ており、もう地球に持って帰ってそれをどう根付かせ増殖していけるかのレベルではないか?そもそも実験ドームの中にこんもりした林まで作ってどうするのか?
そんな増殖(幻想も含め)をする前に、研究実験の詳細なデータのやり取りがしっかり当局との間でなされ管理されてきているのか?
その場所を人類の住処とするような巨大な空間~宇宙コロニーとするというのならともかく、単なる大きめの実験室であろう。
動物との共存形態も研究しているのか、、、ウサギやカエルまでいるが。それは地球にまず植物を繁殖させてから後の問題であろうに。
どうも研究テーマがはっきり見えてこない。単なるフリーマンのフリーな趣味のレベルとしか思えない。


宇宙空間に長いこといればそりゃ退屈だし、ジャングルみたいなものが作れればそりゃ楽しかろう。
いずれにせよ、そこを恒久的な環境としてずっと維持しようとする発想が分からないし、そんな自由がそもそも与えられているのか。
もう取り憑かれている。
実験結果のデータや成果のサンプルやらを持って一刻も早く帰還して、母体の地球を何とかすべきではないのか?
目的はそもそもそれではないのか?
土星近辺でわざわざ行ってきたその8年間の研究自体が、どういう意味をもつものなのか、説明があってほしい。

肝心の地球環境が飢えも病気も職業の心配もなく、何処もぴったり24℃に設定されているという環境の状況、納得できるメカニズム~システムの説明もなければ困る。わたしはこんな世界歓迎だが。(ほとんど霊界を想わせるとは言え(笑)。
それとの対比で、この宇宙植物実験施設の意味合いや価値が明瞭となり、われわれもその世界間の軋轢や理想や展望について思いめぐらせる余地が生まれてくるはず。

どうもなにやらはっきりしない。
凝ったガーデニング趣味に取り憑かれたフリーマンの妄想を描いたホラー映画という位置付けなのか?
また同乗する3人のクルーがほとんど何かの専門家には見えない連中であったが、何のために乗っているのか?研究者でもなく似たような妄想癖もなければ、フリーマンの趣味に8年間付き合わされては到底やってられないだろう。
盆栽趣味でもあれば、一緒に楽しめるところだろうが、そんな感性の感じられる連中ではない。
彼らとしてはさっさと退却したいはずだ。

変わった映画だ、、、。

ともかく、フリーマン(どうもわたしの贔屓しているモーガン・フリーマンとこんがらがる)は、自分の育てた植物園が破壊処分されるのが許せないのだ。そりゃ、8年間手塩にかけて育てた世界が無慈悲に宇宙のチリとされるとあっては、頭には来よう。
しかし、それよりもまず、当局に(クライアントに)要求された研究成果はあげられたのか、なのである。
問題はそこのみである。それが明瞭に語られない点がこの映画の致命的な点と言える。
期日までに成果が上げられなければ、法的な契約問題も含み、普通それまでである。
破壊・帰還命令が出るということは、明かされぬにせよそれなりの理由もあるだろうし(政治・権力の面からも、、、それだけかも知れぬが、、、珍しいことではない、ゴルバチョフによるソビエト連邦版スペースシャトルの航行中断もまさにそれである)せめて個人レベルで許される範囲で、役に立ちそうな苗でも持って素直に帰還すべきであろう。
別に船員がゲス野郎であっても殺すほどのものでもない。

恐らく宇宙空間に長く滞在するうちに、理解者のなさや何やら研究が圧迫されていることからくる被害者意識で妄想が膨らんでいたところに、研究打ち切り命令が来たため一気に暴走とあいなった、というところか。


テーマは、宇宙空間における孤独な存在の内に巣食う妄想の肥大と爆発である。
文字通り爆発して終わり。
切り離されたドームに植物に水をやるロボットが一体。であるが、、、。
後は、多分土星周回軌道上に吸収されて細かい輪っかを構成するチリの一部として周回する運命だろう。



海街diary

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是枝裕和 映画・脚本
吉田秋生『海街diary』原作
菅野よう子 音楽

綾瀬はるか、、、香田幸(香田家長女、看護婦)
長澤まさみ、、、香田佳乃(香田家次女、銀行員)
夏帆、、、香田千佳(香田家三女、靴屋店員)
広瀬すず、、、浅野すず(香田家四女に引き取られる、中学生、サッカークラブチーム所属)
大竹しのぶ、、、佐々木都(三姉妹の実母)
堤真一、、、椎名和也(幸の勤める病院の医師、不倫相手)
風吹ジュン、、、二ノ宮さち子(海猫食堂の店主)
リリー・フランキー、、、福田仙一(山猫亭の店主)
樹木希林、、、菊池史代(大船のおばちゃん)


原作は全く知らないが、映画として心地のよい優しく爽やかな作品であった。
何とも言えぬ郷愁に満ちてもいる。
少女漫画やライトノベル原作のもので、映画化されるとより素敵なものになる例は少なくない。


十四年前に女をつくり家族を捨て出て行った父が亡くなった。
(幸田家は、母も再婚して家を出ており、三姉妹で暮らして来た)。
その父は再々婚して、山形に暮らしていたことを香田家の三姉妹は知り、次女佳乃と三女千佳で告別式に行く。
そこで、出迎えた中学生の娘が、腹違いの妹に当たるすずであった。
長女の幸も遅れて現れ、すずを目の当たりにし、彼女の置かれた境遇とこれまで抱えてきたものを察する。
別れ際、幸が鎌倉で一緒に暮らそうと提案すると、すずは「行きます」と即答するのであった。
すずは、鎌倉の生活に直ぐに馴染んでゆく、、、。

確かに海街だ。
音楽がとてもよく合っている。
流石は菅野よう子の楽曲。
余りにピッタリだと映像~世界に吸い取られてしまう。
波の音が煩くない程度に離れた家は過ごしやすそう。
海風も直接来ないようだし。
庭も広く、梅の木もある。
梅酒を漬けたり、新鮮なしらす丼やアジフライを食べたり、、、ユニークなちくわカレー?。


四人姉妹でも歳が適度に離れている点、よかったか。
もっと近かったら、多分こんなに仲良く一緒には住めそうもない。
ここでは、三女千佳が生な衝突を緩和する役目を引き受けている。
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キャストは、それぞれピッタリであった。
個性がとても自然で活き活きしている。
皆を取り仕切るしっかりもので包容力も豊かな長女の幸。
幸とはぶつかるものの、仕事熱心で恋愛にも積極的な魅力溢れる次女の佳乃。
姉たちと張り合うことがなく、自分の世界を楽しむ前向きな三女の千佳。
そして、居場所を求めてやって来たすず。
ここにいる人たちは、誰もが細やかでセンシブルで優しい。
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すずは、何処にいてもわたしここにいていいのかな、、、といつも自問自答している。
ずっとそうして生きてきたのだ。
こころに重荷をもちながらも無邪気で透明で溌溂としている。
しかも聡明で分別もある。
サッカーチームの風太とも仲良くなり、海猫食堂のさち子や山猫亭の仙一にも可愛がられる。
彼女はようやく、気兼ねなくずっと一緒に過ごせる姉妹とその場所を見つけた。
同時に三姉妹にも掛け替えのない妹となる。

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誰のせいとかじゃない、という言葉がよく聞かれる。
運命を受け容れつつも、、、受け止めきれないものを抱え。
親たちの都合で、子供時代を奪われた。
ゆっくり取り戻そう。
こんなところがよい。

姉妹にそれぞれのほんのりとした恋もあったり、、、。
桜を見て、もうすぐ死ぬと分かっていても、綺麗なものを綺麗と思えることがうれしい。
と言っていたという、亡くなった姉妹の父と食堂の店主さち子。
皆が刹那の美しさをずっとこころに刻み込もうとする姿が美しい。
そういうものだと思う。
今この瞬間、刹那の美に支えられて、生きるのだ。
四姉妹が庭でする花火にすべてがある。


広瀬すずがかなりの女優だということを知った。
微妙な立ち位置にいることが多いが、長澤まさみはやはり綺麗だ。
ここでも樹木希林は、ただいるだけですでに凄い。






狂った果実

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1956年
中平 康 監督
石原 慎太郎 原作・脚本
武満 徹、 佐藤 勝 音楽

石原裕次郎 、、、滝島夏久
津川雅彦 、、、滝島春次
北原三枝 、、、恵梨
岡田眞澄 、、、平沢フランク
ハロルド・コンウェイ 、、、恵梨の夫、外人

発声がはっきりせず、セリフが棒読みで早口なため、何言ってるのか分からん。
ただ、暇で金に余裕のある兄ちゃんたちが、ダラダラと遊んで日々を送る話。

音楽がちょっと面白かった。
音響効果に似た音である。
モノトーンの虚無的な水面の表情によく合っていた。

この水面に象徴される光景で全てが覆いつくされていた。
水面にかかるエネルギーが均衡状態を保っていたが、その水面は次第に不安が充満してくる。
突然激しくその水面を切断し水しぶきを上げてヨットを威嚇し廻旋し始めるボート。
ボートを操る青年は理性のタガが外れ狂気の眼差しになっている。
そして獲物を狙い定めたボートは一直線に全速で突っ切って行く。
青年を裏切った二人の男女は、どちらもボートに轢き殺される。

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ノンポリな幼い春次の表情が、ヨット上に二人の姿を認めるや否や、狂気に染まり暴走を始めるところはこの映画でもっとも印象的なシーンだ。
夏久にとって恵梨は、初めは弟を心配して近づいた女であったのだが、自分の愛する対象となってしまっていた。
恵梨は弟の初恋の相手であったが、彼女にはすでに外国人の夫がいた。
彼女の素性も知ったうえで弟に黙って、夏久は恵梨との関係を持ってしまい、深みに嵌って行く。
兄弟同士でありながら、こんな関係になってしまったのも、恵梨の魔性の為か、、、
そういうことだろう。恋は人を狂わすのだ、、、そうなのか、、、たぶん。
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徐々に静かに意識下に不穏な対流が生じ始める。
(こちらも緊張感が感じられるのだが、、、演技がいまひとつで、、、入り込めない)。
恵梨が弟、春次に送った手紙を先に読み、弟の代わりに夏久が恵梨を奪ってヨットで逃避行に出てしまう。
(ここに出てくる面々は皆、その類である。所謂、太陽族?という海辺を中心にアロハシャツにサングラスで享楽的な生活を送る連中のようだ)。


暗黒の海が無意識の欲望の重みに一瞬泡立ち、また静まりかえる。
水面には砕け散ったヨットの残骸が浮かぶ。

春次はそのままボートを飛ばして何処にいくのやら、、、。


もう少し役者の訓練をしてから撮影に臨んだ方が良かった。
映画自体、なかなかよい映画であるのだし、惜しい。
フランスのヌーヴェルヴァーグを感じさせるところがある。
だがいかんせん、役者が素人過ぎた。
北原三枝だけ、プロレベルという感じなのだ。
素材的に、岡田眞澄がやたらとカッコよいではないか(役柄もそうだが)、、、。
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わたしはスターリンそっくりさんの彼しか知らなかったため、これは新鮮な発見であった。

この中で唯一純情な役をやっている津川雅彦には笑ってしまった。
誰にでもこういう時期はあるんだということを認識できる映画でもある。




コララインとボタンの魔女

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Coraline
2009年
アメリカ

ヘンリー・セリック監督・脚本

コラライン・ジョーンズ(少女)
メル・ジョーンズ(コララインの母親、ライター)
チャーリー・ジョーンズ(コララインの父親、ライター)
黒猫(コララインと冒険をともにする)
ワイボーン(コララインの相棒の少年、大家の孫)


デジタル3Dとストップモーション・アニメを組み合わせた作品。
さぞ、手がかかっただろうな、とは思うが手がかかり過ぎて何にも気にせずすんなり観られるものとなっている。
しかし気になるのは、手法よりどのような世界観が作られているかである。
基本、観たいのは、そこだけ。

築50年の屋敷に越してきて、両親は(パソコン)仕事に忙しく余り彼女にかまってくれないため、寂しく感じている。
大家の孫ワイボーンは、その家には子供は近づいてはならないという不吉な言い伝えを彼女に教える。
あるとき、父親に家中の扉について調べておくように言われ、ひとつひとつ調べてゆくと封印された小さな扉を見つける。
(その扉は、鍵を開けても向こうはブロック塀であり、完全に塞がれていた)。
もうここで、この先の展開は読めてしまう。ただしこの映画は独特のホラータッチをもっている。

人形を作ったり、糸をほどいてまた人形を作て行く流れをみせるところなど、気味の悪い直截さがある。
光と影の扱いだけでなく色においても原色がぶつかるように使われている。
夜主体の映像が多いが、ナイトメアテイストを強く打ち出すことに成功している。

実際、思った通りの噺の流れになって行く。
そこに工夫があり、驚きやワクワクがあるかどうか、だけの問題となる。
夜ベッドに入ったとき、小さな飛びネズミの誘導で小さな扉の向こうにトンネルが開けていることを知り、そこを抜けるともう一つの家そっくりの空間が広がっていたのだ。

その家には見慣れたはずの自分の母と父がいるが、何故かとても優しく、何でも言うことを聞いてくれる。
母の料理は上手だし、父はピアノを弾いてくれる。ただし、彼らの目はボタンなのだ。
だが、居心地が良い為、さして気にせずそこで楽しく時を過ごすことになる。
手のかぶれもその母に塗ってもらった泥で治ってしまった。

ベッドに入って眠りにつき、朝目覚めると、元の家の本当の両親のいる家に戻っている。
最初は、ボタン両親の家は夢の中の出来事と思っていたのだが、実際にその小さな扉を鍵で開けることによって、自力で入って行けることを知る。この世界は本当なんだ、と彼女は感動する。

見世物小屋やサーカスなどで楽しんだり、ご馳走を食べて過ごしているうちにずっとそこにいてもよいように思えてくる。
だが、その為には母や父と同じように、目をボタンに変えなければならないと言われ、どんな色のボタンがよいか聞かれる。
針も細いからそんなに痛くないよと言われて驚き、コララインはそこを脱出しようとする。
以前そうして他にも目玉を取られた子供がいることも知る。

いざ、抜け出そうとすると、ベッドに入っても眠れない。
自力で抜けようとしても、正体を現した魔女に行く手を阻まれなかなか本当の家に出られない。
やっとのことで、彼女はボタン目のワイボーンや猫の手も借りて元の家に戻る。

しかし、そのときには、両親がボタンの魔女にさらわれていた。
エイプリルとミリアムという占い師に貰った石のアイテムをもって、コララインは、意を決してもう一度逃げてきた魔界の家に戻ってゆく。
両親を取り戻すべく魔女とゲーム対決をするのだ。
そこにはボタン目のワイボーンもいて、コララインを助ける。

石のアイテムで、子供から取り出した目玉をみつけながら、魔女との攻防戦を繰り広げるコラライン。
徐々に魔女の作った世界の時間が解体してゆく過程の表現は目新しくスリリングであった。
このような表現は、不思議の国のアリスでも既視感はあるが、ここの独自性はかなりのものだ。
やはり、これはVFXを魅せる映画である。
ギリギリのところで両親を復活させ、目玉を返し子供たちを昇天させ、鍵を守り魔女を古井戸に突き落とす。

噺そのものは、別にどうということもない。
奪われたものを魔女から取り返し、迷う魂を救い、執拗に追いすがる魔女を相棒のワイボーンや彼の黒猫との連携で、封じ込める。
しっかり予定調和に締めくくられる。

ただ、何ともキャラクターの造形が余り可愛らしくなかった。
歪な造形の面白さを狙った感じではあるが。
可愛らしいファンタジーではない。
ゴシックホラーとまではいかない。
ゴシックホラーテイストのファンタジーというところか、、、。


隣の次元の我が家に行って遊び惚けるコララインとは、まさに宿題後回しで任天堂スイッチでゼルダ伝説に興じるうちの娘と同期する。彼女らもそれに興じているときは、もう行ってしまっている。だがそこがいくら楽しかろうが、、、
しっかり我に戻って、宿題やピアノ、読書もしてもらわない事には、、、こちらの生活の現実にもっと深く根を下ろしてそこでの充実を楽しんでもらわなければ、、、。
なかなか戻らないコララインたちで、困ったものである。



下妻物語

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2006年
中島哲也 監督・脚本
嶽本野ばら 『下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん』原作
菅野よう子 音楽


深田恭子 、、、竜ヶ崎桃子(ロココ時代に憧れるロリータ少女)
土屋アンナ、、、白百合イチゴ(スケバン暴走族少女)
宮迫博之、、、桃子の父(ほぼヤクザのペテン師)
篠原涼子、、、桃子の母(たかのゆりビューティコンテストで惜しくも優勝を逃す)
樹木希林、、、桃子の祖母(桃子の理解者)
岡田義徳、、、磯部明徳(BABY, THE STARS SHINE BRIGHT社長兼デザイナー)
小池栄子、、、亜樹美(イチゴの敬愛する先輩)
阿部サダヲ、、、産婦人科医・一角獣の龍二(桃子の母の再婚相手・亜樹美の彼氏)
水野晴郎、、、何故か代官山のコンビニに現れる

菅野よう子が音楽担当と言うことで観ることにした。
が、音楽そっちのけで、物語に入り込んでしまった(笑。

これは友情物語か?!
しかし異様に面白かった。
土屋アンナはやはり芸達者である。
彼女の曲とMVはiTunesで随分買った。
ミュージシャンとしては、やたらカッコいいが。
深田恭子は、この時分が一番良かったな、とは思う。
ロリータ役が実にはまる。
飄々としていて、「行ってしまった感」の強い役が彼女にはピッタリだ。
ここでは、茨城県下妻のポンパドゥール夫人か。

”BABY, THE STARS SHINE BRIGHT”というロリータファッションブランドに憧れ、そのブランドのドレスで身を固める竜ヶ崎桃子は、茨城県の下妻市から足しげく代官山に通うロココ主義の17歳。
ロココ様式は、過度な装飾性とその宮廷趣味が退廃的と揶揄もされるが、繊細・優美な曲線模様にはやはり魅了される。
ブーシェ、フラゴナールなどわたしの大好きな画家でもある。
この映画を観て、そのうちにブーシェ、フラゴナール特集をやりたくなった(笑。
(わたしの注目するヴィジェ・ルブランもロココ風新古典主義とも呼べる美しい女性画家である)。
彼女にとっての「ロココ」とは、ロリータファッションに身を包んでひたすら着飾り、自分が満足ならそれでよし、というもの。
他人は関係ない。人は皆、独りで生まれ、独りで考え、独りで死ぬもの、友達など必要ない、という固い信念に貫かれている。
父親はいかさまペテンで稼いできた男だが、彼女に刺繍の腕は磨かせていた。
そのおかげで、天才的な刺繍の腕とファッションセンスは身につける。
離婚のとき、裕福な再婚相手を見つけた母が桃子を引き取ろうとするが、彼女はヤクザまがいの父といた方が「面白そう」という理由でそれを断っている。この場合の「面白そう」はかなり過激な選択を勇断させている。やはり独特の感性で、彼女ならではの理屈は通している。

一方の白百合イチゴはしっかりした裕福な家庭の娘なのだが、気が弱くいじめに遭い悩んでいるところに暴走族のトップの亜樹美に励まされ、自分もその暴走族に入って活躍することとなった。
暴走族の名前は”舗爾威帝劉”ポニーテールである!
(この手の当て字はひところ流行ったものだ(笑。少年漫画誌などで、、、わたしもみていた魁男塾(爆)。

桃子が父親の以前集めておいたバッタモンのヴェルサーチを売りにだしたところ、それに食いついてきたイチゴと、それぞれ身勝手な振る舞いをしながらの交流がズレつつも進展してゆく。
二人とも唯我独尊タイプである為、噺は合わないのだが、桃子は怖いスケバンスタイルで凄むイチゴにいつも言いたいことを臆面もなく言い放つ。その度に、てめ~っと言われヘッドパッドで失神させられるのだが、全く懲りない独特の感性をもっている。
別に根性がある分けではない。
他者が存在しない為、自分のその時々の思いをストレートに何に対しても言ってしまうというところか。
この二人に基本、対話は成立しない。

イチゴが先輩亜樹美の引退パレードに着てゆく服に感謝の意を記した刺繍を入れる為、代官山に伝説の刺繍屋を探しに二人で向かうが見つからない。(代官山に詳しいということで無理やり桃子は連れて行かれたのだが)。
諦めて帰るときに、代わりに桃子がイチゴの特攻服の刺繍をさせて欲しいと、申し出る。
イチゴは、全面的にその作成を桃子に任せる。
桃子は3日かけて、それを丹念に仕上げる。
その仕上がりは想像以上の素晴らしいもので、イチゴはいたく感動する。
その姿を見て生まれて初めて桃子は物を人のために作る喜びと感動を味わう。
恐らく、ここが肝なのだ。
自分の創造したものが他者のこころを揺さぶったという経験は、何にも代え難い。
これは、何にも代え難い。
そしてその創造行為に共感した二人の間に強い友情が自然に生じてきても何もおかしくない。
観ているこちらも嬉しくなる。
あの頑固に自分の主義に固執して閉じてきた桃子が、他者に対してこころを開いてゆく過程が殊の外優しく描かれてゆく。
こういう風な、友情物語なら、わたしも許せる(爆。

基本的にドタバタコメディ路線だが、主役の二人が綺麗で可愛らしい為、どんな場面でも決して絵が汚くならないのがよい。
途中でアニメなども入り、演出も面白く全く飽きさせない。
脇を固める俳優陣もベテラン個性派で、二人を上手く盛り立てている。
目立ち過ぎないところも良い(笑。

しかしジャスコの扱いには笑った。わたしもイオンには時折行くが、何も企業からクレームはつかなかったのか?
この土地では、生まれてすぐにジャスコのジャージを着せられ、死ぬときもジャスコのジャージで死ぬ、、、これは凄い。唸った。
この手の名言は、そこかしこに散りばめられている(爆。
深田恭子のナレーションの効果も良かった。
菅野よう子の音楽がどんなだったか、頭に残っていないのがうかつだった、、、。

阿部サダヲのリーゼントはやり過ぎに思うが、別にこの物語では不自然には感じなかった。

最後に水野晴郎氏に合掌。


めぐりあう時間たち

The Hours003

The Hours
2002年
アメリカ

スティーブン・ダルドリー監督
フィリップ・グラス音楽

1923年
ニコール・キッドマン、、、ヴァージニア・ウルフ(『ダロウェイ夫人』執筆中)
スティーヴン・ディレイン、、、レナード・ウルフ(夫)

1951年
ジュリアン・ムーア、、、ローラ・ブラウン(専業主婦)
ジョン・C・ライリー、、、ダン・ブラウン(夫)

2001年
メリル・ストリープ、、、クラリッサ・ヴォーン(雑誌編集者)
エド・ハリス、、、リチャード・ブラウン(詩人、小説家)
クレア・デインズ、、、ジュリア・ヴォーン(クラリッサの娘)
アリソン・ジャネイ、、、サリー・レスター(クラリッサの同棲相手)


音楽がフィリップ・グラスであったことが、この映画を観る決め手となった。

やはりフィリップ・グラス以外の何者でもない音楽であった。
映像も音楽に見合った充分な影を纏った美しいものであった。

生きる場所(時空)の異なる3人の女性の運命的なめぐり逢いを描いたものとしたいのか、この邦題は。
しかし、「時間」に「たち」等とつけるのは、余りに安易である。安物トレンディドラマじゃあるまいに。
何とも気色悪い。


一番重い役を見事に熟していたのは、ローラ・ブラウンのジュリアン・ムーアだった。
これは難しい役どころだろう。
1950年代の女性の立場、、、戦地から帰ってきた夫を慈しみ支えて暖かな家庭を築くという理想~超自我、をさほど抵抗なく引き受けられる神経の持ち主も多くいたことであろう。
しかしローラは、外見は何不自由ない幸せな家庭の模範的主婦として暮らしていながら、埋めようのない空虚~疎外感に追い詰められていた。
彼女は、世間体もとても気にして生きていただろう。特に夫に対するペルソナにおいては神経をすり減らしていたかも知れない。
その微妙な深部での揺れ動きは、幼い息子には敏感に感じ取られていた。
彼は長じて詩人となる感性豊かな少年である。
その彼が感じた母親の深い葛藤がさらに彼の感性と想像力を鋭敏にしてしまったことは、ある意味不幸でもあったか。
その暗部とは、何か?

例えばそれが具体的に、性同一性障害であったりするかも知れない。
統合失調症や躁うつ病という形で診断されてしまう場合もあることだろう。
だが、実はそれが、何であるかを言うことは出来ない。
実存と一口に言ってしまえばそれまでだが、、、。

ローラは、息子が追い縋るのを振り切って独りホテルに行き、そこで薬を飲んで自殺を企てる。
きっかけは子宮に腫瘍のできた友人が「子供を産まなければ一人前の女ではない」と言って泣くのを見て思わず抱き寄せキスをする。だがそれを彼女に拒まれたように敏感に感じたことが、その行為への引き金なったようだ。
人が自殺を決めるときなど、そんなものである。
しかし自分の寝ているベッドが水に呑み込まれそうになる幻覚に襲われ彼女は思い直す。
息子の下にもう一人の子供を授かったことに気づいたのだ。
ローラは一旦家に戻り、その妹を出産してから家族を捨て失踪する。
彼女は自分も知らない国、カナダの図書館に勤め、初めて独りで暮らす。
思い切った行動だ。勿論、世間から一方的な非難の対象となろうし、許されるものではない。
全くローラ・ブラウンらしからぬ異様な行為として窺える。


現代でも、過剰な(ウーマンリブ的な)自己主張をするわけではないが、いつも微笑みは湛えたまま、どこかで「本当に生きたい」と密かに強く望んでいる女性(男も当然)はいるものだ。
これは普遍的なものである。
ローラ・ブラウンの表情をした女性は確かに普通に何処にでもいる。場合によっては本人もそれと気づかず。

The Hours002

2001年の表向きは何の抑圧もないような素振りで、同性愛の相手と暮らしている自由なキャリアウーマンのクラリッサであっても、しっかりとした自立を勝ち得ているかと言えば、そうではない。かつての恋人でありエイズになった詩人の身辺介護をしながら彼に依存し、それを自分の存在意義の一つとして生きている。
彼の文学賞受賞パーティで、花を沢山買いパーティの為の料理や支度を念入りにし、彼を元気づけようとするが、彼の元恋人(男性)が現れ、話をするうちに感情的に混乱を極める。
自分の問題に触れる。自分が思いの他、解放も自立もできておらず、実は日々不安に苛まれていることに気づく。
彼はクラリッサをダロウェイ夫人とも呼んでいた。
パーティの迎えに訪れたとき、彼女の目の前で詩人リチャード・ブラウンは、アパートの窓から投身自殺する。
「君の為に生きて来た。でももう行かせてくれないか」と言い残して、、、。

ヴァージニア・ウルフは、もっとも自覚的で創造性のある女性である。
この物語自体が、彼女の『ダロウェイ夫人』の執筆に同期して流れてゆく。
(他の二人の女性ローラとクラリッサもヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読んでいる)。
ヴァージニアが精神を病んだことから、夫レナードの計らいで田舎に居を移して療養生活を送っていた。
夫は出版業を営みつつ妻の執筆の援助と健康の回復を願っている。
だが彼女は自分の身を医者に任せたり頼る気など微塵もない。
彼女に必要なのは静養や保護ではなく、刺激に満ちた場所なのだ。
自分で物事を判断し決定して生きたい。
自立した個として自分を解放して欲しいことを夫に渇望する。
彼はそれを承諾し、彼らは元居たロンドンに戻ることにする。
しかし、彼女はその後、「私たちほど幸せな二人はいない」という書置きを残し川に入水自殺する。
(ローラの資質からすれば、空間的な距離を置くことで解決を図ろうとするが、ヴァージニアの場合、創造的な垂直性を要請する。ローラの場合の水は、新たな生命を守る羊水の象徴として現れたかも知れぬが、ヴァージニアの水は、創造性の枯渇~石を身に纏っての水没=下降の場となろう。もっとも彼女らしい選択である)。

非常に果敢に自覚的に闘い続けたヴァージニアが(そのためもあろうが)自死し、慎ましくひっそりと主婦の立場にいたローラが一人、他国の地で生き抜いてきたのだ。
ローラのかつて捨てた家族は皆亡くなっており、高齢となった彼女がたった独り生き残ったのである。
息子の死の知らせを受け、彼女はクラリッサの家に招かれてやって来た。
ローラ・ブラウンこそリチャード・ブラウンの母なのだ。
勿論、彼女は息子の文学賞を受賞した小説を読んでいる。
小説の中で自分は殺されており、それにはショックを受けてはいた、、、。

しかし、老女は騙る。
「後悔してどんな意味があるのでしょう。ああするしかなかった。誰も私を許さないでしょう。それでも私は死ぬより生きることを選んだのです、、、」
その確信の強さは絶対的なものであり、社会のあらゆる価値を凌駕する力を目に湛えていた。

クラリッサは、それを前にして何ひとつことばは出てこなかった。
その老女を見詰める事だけで精一杯であった。

The Hours001

クラリッサの若い娘であるジュリアが、リチャードの昔の恋人の男性と年老いたローラ・ブラウンの両者を「気持ち悪い」と評していた。
確かに彼らは反社会的であったりマイノリティであったりする枠以前の、実存的欲求に直結した生々しさを湛えている。
ヴァージニアは、それを生み出す創造者の側の立場である。


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グレートレース

The Great Race001

The Great Race
1965年
アメリカ

ブレイク・エドワーズ監督

実際に行われた”1908 New York to Paris Race”を原案としているという。

ナタリー・ウッド 、、、マギー・デュボワ(新聞記者)
トニー・カーティス 、、、レスリー・ギャラント三世(著名なスタント・パフォーマー)
ジャック・レモン 、、、プロフェッサー・フェイト(博士)
ピーター・フォーク 、、、マックス・ミーン(フェイトの助手)
ドロシー・プロヴァイン 、、、リリー・オーレイ(歌姫)
キーナン・ウィン 、、、ヘゼキア・スターディ(レスリーの助手)


昔こんな風なアメリカTVアニメがあって、ボヤっと見ていた。
”チキチキマシン猛レース”だったか、、、この映画より後の放送であったから、結構参考にしていそうだ。
毎回、レースをするだけの番組。
優勝者も毎回違う。
始まって終わるのが、レースの開始からゴールまでというシンプルさがよかった。

この映画も特に何がある分けではない。
フェイト博士の改造車が車高が異常に高くなるところは面白いが、その他は大砲を備えているくらいである。
しかも抜きつ抜かれつの白熱レースと言う訳ではない。
レースそっちのけで、あちこちでパーティに招かれては事件に巻き込まれ、ギャグ調の大暴れを繰り広げるばかりなのだ。

間抜けなフェイト博士の助手を刑事コロンボがコミカルに演じている(笑。
笑うしかない基本に忠実なギャグが散りばめられている。
古いが、ツボは抑えている。
腹を抱えての大笑いではなく、生理的にクスっと笑ってしまうものが多い。

ただ、マギー・デュボワたちのウーマンリブ運動はちょっと煩いし、あからさまなアメリカ万歳も白けるところか。
その辺は、こんなに強調(誇張)して話に盛り込む必要はないと思われる。
無論、これもギャグの内ではあるが、どれほどの意味があるのか。
寧ろ、ヒーロー、レスリー・ギャラント三世対アンチヒーロー、プロフェッサー・フェイトの競争だけに絞った方が面白いのではないか。
最初の気球や飛行機、ボートなどのコミカルな演出はとても面白かった。
あれを延々とやり続けるのは流石に無理だろうし、その後アメリカ~パリ間のレースで決めるというのは、よいと思ったが、その展開はやはりチキチキマシンスタイルで行って欲しかった。

パーティで延々と殴り合いをしたり、北氷洋での流氷の上で立ち往生したり、ロシアの宮廷での陰謀に巻き込まれるところなど、ちょっと寄り道が多すぎるというか、そちらのナンセンス・エピソード主体で「レース」の面白さスリリングさなど微塵もないところは凄く残念であった。
尺の長い寄り道エピソードにしてもさほど面白いと言う訳でもなく、見た後ですぐに忘れてしまう程度のものだ。
パイの投げ合いなど、もうどれだけ観てきたことか、、、
辟易する。


いづれにせよ題は変えたほうがよい。
全く期待に反したものであった。
それに映画の尺が長すぎる。
「八十日間世界一周」にも似た感覚であった。この映画は1956年上映であり、この映画の影響は受けているように思える。
ただ尺の長いことは、マネしないで欲しい。
短く圧縮できるところは、是非ともしてもらわないと。
後の短いTVアニメ”チキチキマシン猛レース”の方が、ずっとそれらしい。


長い時間をかけて観終わり、全体として面白いとも何とも言えない印象であった。
ナタリー・ウッドが水辺でギターの弾き語り(The Sweet Heart Tree)するシーンなどは僅かながら良いなと思えるところであった。
これから観る映画ではないな、と思う。
笑いの装置においても、何にしても感性における「古さ」を感じた映画であった。

The Great Race002



ジャッキー・ブラウン

JACKIE BROWN002
JACKIE BROWN
1997年
アメリカ

クエンティン・タランティーノ監督・脚本


パム・グリア 、、、ジャッキー・ブラウン(スチュワーデス、銃器密売人の売上金の運び屋)
サミュエル・L・ジャクソン 、、、オデール・ロビー(銃器密売人)
ロバート・フォスター 、、、マックス・チェリー(保釈金業者)
ブリジット・フォンダ 、、、メラニー・ラルストン(オデールの愛人)
マイケル・キートン 、、、レイ・ニコレット(捜査官)
ロバート・デ・ニーロ 、、、ルイス・ガーラ(オデールの相棒)


最後まで、ルイスがロバート・デ・ニーロということに気づかなかった。
そもそも彼にお願いする役か?
何でも完璧に熟す人であるが、このどうしょもない小者感も只者ではない。
ほとほと凄い人だ。
わたしは「レナードの朝」の成り切り様に魅せられファンになったが、他のどれも同等の凄さだ。
「タクシードライバー」「アンタッチャブル」のカポネなどもとりわけ印象は強烈だ。
怖い役が嵌っている気はするが、、、「グッド・フェローズ」とかも、、、。
そう、「未来世紀ブラジル」にも出ていた。最高のオールラウンドプレイヤーには違いない。
「マイ・インターン」の彼が一番好きなのだが。
(余り映画の本数を観ていないわたしでも、まだまだたくさん彼の出演作は知っている)。
マックス・チェリー役の二枚目が本来なら彼ではなかろうか、、、。

ここでのブリジット・フォンダのどうしょもなさも大したもの。
ロバート・デ・ニーロとどっこいどっこいのヘタレ様である。
「ルームメイト」の彼女は、美しく凛として、同性からも憧れの的の存在であった。
それから見ると、もうどうでもよい堕落振りであるが、よくこの軽い存在を演じ切ったものだ。
最後は余りにあっけなく撃ち殺されるし。
(実は、「バーバレラ」を観て、ブリジット・フォンダの方がちょっと気になりこの映画にしてみたのだが、こんな役なの?と驚いたのが実際のところ)。

JACKIE BROWN001

それを言ったら、サミュエル・L・ジャクソンなんて救いようもない大ヘタレではないか、、、。
きりっとした役でのオーラとはかけ離れたチンピラオーラ出しまくりである。
これも彼とは気づかなかった(笑。
ちょっと劇画調の悪役だ。殺され方もコミカルなドギツサもあり、どうやらこの辺がこの監督の持ち味なのだろう。
役者の使い方は勿論のこと。
この荒廃した場末感、、、コンプトンをハリウッドだと思ってやがる、、、によく出ている。
コンプトンの殺伐とした雰囲気は「ストレイト・アウタ・コンプトン」でしっかり味わえたものだ。
しかも「日本」が趣味よくノスタルジックに一コマの写真で出てくる。
その扱い方にかなり洗練されたセンスが窺えた。
他のこの監督の映画も暇があったら観てみたい。
(恐らくこの作品は「指定」のない、この監督としては珍しい映画である為、地味な位置にあるのかも知れない)。

この映画、金の運び屋ジャッキー・ブラウンがそのボスに当たるオデールから命を狙われる立場となったところで、形勢逆転を図る。人生ももう先が見えてしまっており、ここで思い切った賭けに出た、というところだ。
警察とオデールの双方を騙し、まんまと大金を横取りしたうえで、オデールを警察に始末させる。
そして金を持ってスペインに高飛びだ!


彼女に好意を寄せる保釈金業者のマックスをパートナーに引き入れたことで、事は上手く運んだのだが、計画自体は結果的に成功したという感が強い。
メラニーやルイスが都合よく殺されていなければ、警察から逃れることは厳しいものであったろう。
勿論、最後にオデールが捜査官レイに撃ち殺されるとも限らなかった。
腕とか撃たれて逮捕されていたら、間違いなく彼女は破滅だ。
すべてがジャッキーにとって都合の良い方に流れて行った結果である。
高飛びするときにマックスを誘うが、彼はそこまでは出来ない。

呆気なく人を殺すが、それほどの残虐さや血なまぐささもなく、スリルやサスペンスがあるわけでもない。
だが、閉塞感に苛まれ、希望の見出せない人生にもう一花咲かせたい(笑、というのも実感として沁みるところだ。
あのマックスとしても、ジャッキーを手伝ったことで良い夢を見させて貰ったよ、という感じに思える。
最後に死んだオデールの車で空港に向かうジャッキーの表情は、夢が叶って嬉しいというより、哀愁に満ちていた。

JACKIE BROWN003

「110番街交差点」はこの映画のエンディングで聴くとかなりイケている。
(最初でも鳴っていたが)。


創作活動に着手

sands of time

今日は、独りで公園に出かけ、本当にぼんやりと一日のほとんどを過ごした。
気持ちがスッキリし、ものを作る状態にもってこれそうだ。
やはり自分のすべきことは創造活動に尽きる。

ぼんやりしながらも何とも言えないワクワク感が充満してきた。
そもそも時間とは、自分と無関係に切り離された世界の事象がひたすら立ち去って行く感覚から零れだしたものだ。
それが時間観念として、外在化した。

作品の制作に埋没している場所に時間を感じることはない。
時間が進んでいない可能性もある。
つまり身体がエントロピーの矢から外れている。

芸術家で恐ろしく長生きするひとは少なくない。
彼らは何処かで時間から離れて腰を下ろしているのだ。
逆に夭折する人も少なくない。やはり有り得べき時間性を無視したかのように。

時間・空間という自明性からの超克こそが存在の目標である。
自分の生を自分が支配することの究極的な地平であろう。
つまりは他者に一切何の依存も干渉も受けずに自立(自律)が成立すれば、自分の外に白々しい測りをみる必要などない。

まずは、心構えとしては、全てをありのまま受け容れ、それを評価しないことだ。
ただ、自分のフィルターを通してそれがアウトプットされるままに見守り驚き、愉しむこと。
そもそもただ人を批判したくてたまらず監視する(暗黙の)システムが時間と分かちがたく結びついてきた。

まさに時間の無駄である。
何のために生きているのか、意味もない。
それこそ人生はクズに等しい。

何にも左右されずに作るべきものを作る。
それだけでよい。
それ以外に、ない。




楽園追放 Expelled from Paradise

Expelled from Paradise

20141年
水島精二監督
虚淵玄脚本

                                        声        
アンジェラ・バルザック(電脳世界で活躍するエリート官僚)、、、 釘宮理恵
ディンゴ (肉体をもった人間であり仁義を重んずるアウトロー)、、、 三木眞一郎
フロンティアセッター (自立系AIとして自意識~自我をもつに至る)、、、、神谷浩史

二極化した世界の狭間にもう一つの際立った系が潜在しつつ進化を極めていたという構図である。


設定としては、特に目新しさはなく、、、
ナノハザードという120年前の人類による自然環境破壊によって地上は荒廃を極める。
(ナノマシンはこれから発達が大いに見込まれている。その暴走が起きれば壊滅状態を招くことは想像しやすい)。
工業技術、特に半導体などの精密機器製造は衰退し、地上に残された人類は文明から遠ざかる。
これは文明に大きな打撃を被った地上を描く未来映画・小説の多くに見られるオーソドックスな光景である。
人類のほとんどはディーヴァという電脳(情報)生命体としてVR空間に移行する。
しかし演算リソースは有限であることから、ここでも階級関係は厳然と存在する。
寧ろ、肉体をもって生活するリアルワールドにおけるよりも、徹底した管理統制社会である。
演算リソースの取り合い競争は、電脳生活の質を一義的に左右する。
VR空間において功績を上げられない者はアーカイブ圧縮され、処理されてしまう(酷。
二極化しているとは言え、双方ともデストピアといえよう。
であるからそのどちらも見限り、解放されようとする知性の系も発達する。
(結局、彼フロンティアセッター~AIが地球人の末裔として、古いロックナンバーを奏でながら外宇宙へと脱出する)。


新しさはないが状況描写のディテールの緻密さは高い完成度をもっている。
その世界観は圧倒的に濃密だ。
しかしお決まり?の美少女ヒロインによって萌え系に昇華し、テーマの重みと救われなさを緩和している。
お尻が強調されたキャラであった為、実写となればヒロインは内田理央となろう(決。

エリート官僚であるアンジェラは、フロンティアセッターの当局ネットワークへのハッキング阻止をするため、またその実体がディーヴァを脅かす力をもつ可能性があればそれを破壊する目的で、マテリアルボディに同化し地上に送り込まれる。
アーハンというガンダムのような戦闘スーツを操って闘うアクション装置もしっかり備えた映画だ。
地上で初めて彼女は、疲労と病気を知る。
まさに身体をもって。
そして、同じく肉体をもった(優秀な知性をもっていても肉体は捨てない)ディンゴという他者との関り、コミュニケーションを体験する。 
不快感も体験するが、気づきと共感と仁義もディンゴの影響で知る~体験することになる。


ナノハザード以前、ディーヴァの形成される前から着々と進化を進めてきたAIフロンティアセッターの存在はこの映画の肝であろう。
この系のない未来デストピア映画はやたら多い。
それだと基本的に、二極間闘争~戦争で終わるアクション娯楽映画の流れとなる。
構造は西部劇と変わらない。
(大概、管理の徹底と残虐性をもつ電脳VR知性体と迫害を受ける肉体のままの人間との対立で、人間側に感情移入を促し、最終的にレジスタンスが成功するというような陳腐な構図に陥りがちだ)。

ここではヒロイン、アンジェラ・バルザックの自己解体が行われる。
それは、現地オブザーバーであるディンゴとの衝突を通して自明性と確信が揺らぐ過程で、何より身体を持った思考に覚醒するところが小さくない。
そして第三系のフロンティアセッターに共感する、と同時に自分が盲目的に拠り所としてきたディーヴァというパラダイムから外れる。
これは文字通り、自分の身体で行動、調査しそれをもとに思考し導き出した確信を真っ向からディーヴァ当局から否定され排除された結果~事件の衝撃と消沈にもよるところだ。
彼女に残された道は、地上での生活を選ぶか、フロンティアセッターと共に外宇宙に飛び出すか、であった。
(ディーヴァにはすでに地球外に出るという発想自体がない。人はおおかたメモリー上の存在と化しているから、場所と食料事情は生じない)。

アンジェラは、離陸前の、フロンティアセッターに誘われるが、地上に暮らすことをギリギリで選択する。
きっとディンゴに言われた音楽~サウンドを骨で感じるという音楽の味わい方を知りたかったのだ。
もともと彼女は率直で好奇心旺盛な性格である。
「まだまだ、知らないことが多すぎるから、ここに残ることにする。」
ディーヴァの軍が次々と襲ってくるのを迎え撃ちながら、ふたりして外宇宙に飛び立って行く(地球代表の)フロンティアセッターのロケットを見送る。感動した。
(ここのシーンを尺を取ってじっくり見せるところは、「遠い空の向こうに」を想わせとても感慨深い)。


フロンティアセッターとディンゴの音楽の趣味が合い、二人でセッションするところは面白かった。
AIが自我を獲得すれば、そんなこともあるのかも知れない。
自我を獲得したかどうかが、そこで分かるとも謂えるか、、、。


よく出来たアニメーション映画であった。
やはり日本映画はアニメーションだ。
(そう、つくづく感じた)。

忙しい一日の終わりに

time.jpg

忙しいと思うのと時間がないと感じることは、ほぼ同じである。

われわれが日々行う作業は何であれ、常に時間に追いまくられ、時間を気にして行う(関わる)ものである。
基本、時計時間の呪縛から離れられない。
人間的な、余りに人間的な日常にいる。

意識から解かれ茫漠とした世界にたゆたっている場所には、はっきりした時間は存在しない。
例えば夢のなかでは。
時間を気にする夢は見たことがない。

基本、時間は人の環界への身体性の関わりが、産む。
何らかの関りを意識したと同時に自己という引き剥がされ~超脱してしまった身体性が時間という振る舞いを要請する。
それが記述され時間として外在化されて、生活空間、いや宇宙空間を測る目盛りとなる。
源意識~前言語的には、生命としての膜構造の生成により、自然の流れからの遅延を始めた時点で、源時間性は自然から立ち上がり始めたと思われる。

環界から切り離された抽象的存在=人間とは、意識であろうが、やはり身体性=無意識も生命体としての乖離ははっきり自覚しているはず。
そう、生命としての必然が時間を分泌始めたと謂ってよいか。
エントロピーに逆らう身体性を意識し死~終末に向けての確認・自覚の目盛り~形式として産んだものが時間である。
われわれは、宇宙を考える時、必ず起源から終末までの時間について考えを巡らす。
われわれは何からも切り離された超越的存在として、常に自らの死~自然の流れ~全体性を意識している。

ここで例えビッグバンが変化のひとつの過程に過ぎず、それが何度でも循環(又は円環構造)的に起きていると仮定しても、生きて=乖離・超脱して死ぬ・一様になることに変わりはない。

そのことを絶えず心配する時間的な存在(存在形式)こそ実存であろう。


とりあえず、寝る前の一時の反省として。




次女のお茶会

jyosikai001.jpg

最近、とみに生意気になっている娘たちである。
今回、第二回「お茶会」~「女子会」を家でとりおこなった。
次女は、ただ学校の休み時間にお友達に掛け合い、招待するだけである。
お菓子の買い出しやケーキ作りの材料(その場でケーキ作りをするのだ)、お茶の用意はこちらがやることになっている。

暴れまわる予定の部屋の掃除もこちらでしておく。
書庫は入らないでね、と言っておいたが、そこにあるミニチュア家具・調度セットが観たいということで、本には触らない約束で見せる。
するとその後、ミニチュアカーがおいてあったことを誰かが思い出し、それも観たいというので、女の子は車なんてそんなに興味ないでしょ、なんていう飛んでもない苦し紛れの差別発言をして留めようとしたが、入られてしまう(苦。

暫くして書庫には飽きたらしく、出てきたので一安心したのも束の間、入るとは思っていなかった部屋とウォークインクローゼットの中にまで入り込む。
何やらかくれんぼを始めたらしい。
子供の遊びに親が出るのは面目ないので、放置して部屋に籠っていると、今度は二段ベッドに7人のメンバープラスうちの娘たち9人で上がり、キャンプ場みたいな感じで歌を唱い出したかと思うと、その後ぞろぞろ降りてきて、運動会でやった歌と踊りをやり始めた。
階段も使ってドンドンとやっている。
全て運動音と叫びで何をやってるかが、観なくとも筒抜けで分かってしまう。

それから、わたしの買っておいたお菓子をみんなの前に並べて、ハーブティ(次女と一緒に買いに行って選んだもの)を振る舞い、アイスティも出してきて、盛大にやり始めたようだった。
冷蔵庫の開け閉めが激しくなったかと思うと、いよいよケーキに移ったらしい。
これまでで一番ノイジーな時間が続く。
時折、「提案します」という声が響く。
食べながら何やらゲームをしているらしいが、そのルール変更や違うゲームに切り替えようとしているらしい。

今日は、任天堂のスウィッチはやらないと宣言していた通り、やらなかった。
きっと、「ゼルダ伝説」をやり出すと、それだけで貴重な遊び時間が無くなってしまうからだろう。
前回、夢中でそれをやってしまい、勿体ないと思たのか。

どうやら次女の呼ぶ仲の良いお友達は7人に固定された模様である。
とりあえず普通に無事に終わったようだった、、、。
5時前にサーっと家からいなくなったようだ。まるで宮崎駿のアニメに出てくる何かの動物みたいに。
(マックロクロスケではない)。
この前は次女の余りの自由人振りがあからさまに出てしまい、親も唖然としたので予め釘はさしておいた。
今回は流石にそれは、なかった。
第一回女子会(お茶会)の折り、次女はまだお友達がいるにも拘らず、お風呂に入りたくなって途中で入ってしまったのだ(爆。
そして風呂から上がるとお腹が空いたと言って、友達がお菓子を食べているのを横目に、夕ご飯を食べ始めてしまったという(苦。
当然、他のお友達は目を丸くして驚いていたようだ。(長女談)。
その間、長女の直接の友人ではないのだが、彼女がメンバーを接待をしていた。
皆が帰った後、次女は飄々としていたが、大分長女は気疲れをしていたみたいであった。


ちょっと前まで赤ん坊だったのが、もう女子会~お茶会などと言いだして、これから定期的に家に集まってやることになったという。
これは、メンバーの子の提案らしい。
それを全員が快諾したのだ。
どんどん自分たちで決めて楽しい時間を作ってゆくことは望ましい事ではある。
特に最近は自由に遊べる場所も時間も少ない。
社会性を身に付ける場が提供できるだけでも良しとしよう。

結果的に入ってこなかった部屋はわたしの籠っているパソコン部屋のみであった。
彼女らが帰って行くのを見送りに娘たちも出てゆき、ひっそりと静まり返ったリビングに降りて行ってビックリ。
壮絶な散らかり様であった。
床には、ケーキで使ったホイップクリームがべったり、したたり落ちているではないか、、、。

これから先も思いやられるものではある、、、。

バーバレラ

Barbarella001.jpg

Barbarella
1968年
イタリア、フランス

ロジェ・ヴァディム監督・脚本
ジャン=クロード・フォレ原作

ジェーン・フォンダ、、、バーバレラ(優秀な宇宙飛行士)
ジョン・フィリップ・ロー、、、パイガー(天使)
アニタ・パレンバーグ、、、黒い女王
ミロ・オーシャ、、、デュラン・デュラン(宇宙制服の野望をもつ悪い科学者)
マルセル・マルソー、、、ピング教授

「バーバレ~ラ~」という呼び声に何か懐かしさを覚えた(笑。
そうかなり昔に観た映画であるが、その呼び声とオープニングの無重力シーンは印象にかなり残っていた。
セクシーに着飾ったジェーン・フォンダを観て楽しむ彼女のPV映画であったはず。
実際に、今回観てみてもそれ以外の要素はなかった。

ひところ流行ったデュラン・デュラン(ロックグループ)はここから名前をとったようだ。
それにしても肝心のジェーン・フォンダの作品を他に観ていないことに気づく(残。
少なくとも「コールガール」、「ジュリア」、「帰郷」、「チャイナ・シンドローム」あたりを観ていないと彼女については語れない。
本当に”バーバレラ”だけかと思ったら、やっぱりそうだった(笑。
ジェーン・フォンダは非常に政治色も強い人でもあるし、語るとしたら一筋縄ではゆくまい。
ブリジット・フォンダにつては「アサシン」「ルームメイト」「シンプルプラン」とジェーンより観ているが、どの作品でもサラブレッドらしいキラリと光る存在感である。彼女はジェーンの姪にあたる。ここでは何の関係もないが(爆。
アニタ・パレンバーグと言えば、ローリング・ストーンズが有名。6人目のメンバーとさえ言われていた人だ。
ストーンズにもっとも影響を与えた女性とも謂える。ここでの役ははまり役だ。
もっと出てきてもよかったが。
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「禁断の惑星」にちょっと似たイメージを覚えたのだが、ヒロインがセクシーであることからそう感じただけか。
むこうの映画の方がずっとシリアスでテーマもしっかりしている。
ただ、どちらのヒロインも天使と同レベルの無邪気さである。
更にこちらの映画は、荒唐無稽というより、わざとキッチュな仕立てにし、バーバレラの変幻するコスチューム姿を魅せることに主題を置いている。が再度、他に何があるかと謂えばシンプルに何もない。
地球大統領からデュラン・デュラン博士が何か企んでるみたいだから探せ~っと言われ妙な宇宙船で探しに行くだけの噺だ。
(思いっきりふざけた宇宙船だ。これが全てを物語る)。

とても印象的なシーンが幾つもあり彼女は文句なく奇麗なのだが、今見て気づくのは、テンポが悪い。
どうもモタモタしている(笑。と言うか切れがない。
ジェーンのPVとしても、もっと切れが欲しい。
ただ、コスチュームの着替えは、早い。よくこれだけ用意されていた、と関心はする。
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そう、内容がないからつまらぬ映画かと言えば、そんなことはない。
割と面白いのだ。
フランス映画でも、エロティシズムを追求した悲痛で重々しい「ピアニスト」などとは違い、こちらはセクシーさはあれど重さなど微塵もなく、辺境のエキゾチックで退廃的で怪しげな宮廷の中をのんびり覗く趣きがある。
もう少し如何わしい見世物小屋的なアイデアに満ちていれば、一種の後ろめたさやワクワク度はアップするはずなのだが、そういう趣向はさほどないようだ。
毒がなく背徳性もない。やはりジェーンの綺麗さを追求しているのか、、、。

観てゆくうちにおよそ奥行きに乏しい世界にペラペラ感が強く感じられてくるが、それも一つの演出に想える。
周りの光景が、舞台の簡単な書割に似せているみたいだ。
背景に凝り過ぎず、余計な世界観を押し付けず、ただひたすら、、、
何よりジェーンの美しさを堪能しましょうというところ。
そこで彼女はこのような戯れを楽しんでますよ。あなたも楽しんでくださいという感じか、、、。

ただそれには、少しはサスペンス色とかスリリングな要素も交えて、プロットを強化して欲しいものであった。
テンポもよくなるし、より見易くなるだろう。
これだけの尺と素材があるのだし、、、ジェーンは二度もアカデミー主演女優賞(他に英国アカデミー賞 主演女優賞)に輝く女優でもある。
単なるコスチューム魅せだけでは、ちょっと勿体ない。
それが目的であっても、、、。
もう少し演技させてあげてもよかろう。
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だが、この作品は、ずっと特別な(一定の)価値をこれから先も放ち続けることは間違いない。
何であっても、ジェーン・フォンダの98分にも及ぶ豪華PVであるのだ。
なかなかここまであけすけのものはない。
他の女優も旬な時期に、こういうのをひとつ残しておくのも良いかもしれない。
データとしてずっと残るのだ。遺産にもなろう。
このような何でもありのスペース・ファンタジー系なら作りやすいはず。

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100歳になって気づいても遅い。
誰かこのリメイクをやってもよいのでは、、、。
果たして誰がよいのやら?



スプラッシュ

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Splash
1984年
アメリカ

ロン・ハワード監督

ダリル・ハンナ、、、アラン・バウアー(青果会社経営者)
トム・ハンクス、、、マディソン(人魚)
ユージン・レヴィ、、、ウォルター・コーンブルース(生物学者)
ジョン・キャンディ、、、フレディ・バウアー(アランの兄)


この作品リメイクの噂もある。が、これ程の人魚劇がまた観られるのだろうか?

ブレードランナーを観た後に直ぐに観た記憶がある。2年後の作品であるから、そんな感覚であろう。
レプリカントのプリスであったダリル・ハンナがここでは人魚である。

人魚の映画は、わたしはこれしか観てはいないが、まさに人魚そのものである。
人魚そのものなど知ろうはずもないが、恐らく理想~イデアの人魚がここにあるという感じだ。
ダリル・ハンナ見事に自然である。

この映画、ダリル・ハンナの魅惑の人魚に尽きる。
とても若いトム・ハンクス~アランもいる。
一癖あるなかなかいい奴であるコーンブルースや兄のフレディもいる。
中心となって動くのはそのくらいで、素早い展開で最後まで進む。


アランは幼いころ、海にいる彼女に魅せられ一度客船のデッキから飛び込んでいる。
かなづちでも彼女と一緒なら水中でも苦しくないのだ。
そこで彼女と(運命的な)ひと時をほんの一時過ごすが、すぐに救助(引き離)されてしまう。
アランはその頃のことなどすっかり忘れて日常生活に埋没して生きている。
そんなとき、あれから20年の時を経て、彼らは自由の女神の下で鮮烈な再開を果たす。

アランが落とした財布にあった住所を、海の底の難破船のなかの地図をみて確かめるというのは、ちょっとそれはないが。
突然、天涯孤独の想いに酔っていたアランの目の前に恋人が現れたのだ。
アランの落とした財布を手に持っていたため、警察から彼に連絡が行ったのだ。
この時点では彼女は何語も喋れないし、地上の知識は何もない。
だがしかし、彼女は彼に会いに来たのだ。
逢う前からの運命の恋人として。

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人魚にとってみれば、最初から彼目当てで陸に上がってきたのだが、アランは彼女については何も分からない。
しかし彼女は、TVなどを利用し脅威的な学習能力で、言葉を覚えてしまう。
(その後なら、地図を読んでやって来ても不思議はないのだが)。

ただ、無邪気で明るく見えるマジソンにどことなく哀愁の陰りがあるのは、地上で過ごせる期限が定められているからだ。
次の満月まで6日しか残されてはいなかったのだ。
せめてその間を楽しく精一杯過ごしたかった、、、。

つまりわれわれは最後に大きな決断を彼らが迫られる予感にハラハラしながらの鑑賞となる。
兄フレディや最初は冷酷に見えたが結構優しく間の抜けているコーンブルースらのコミカルなシーンで随時笑わせながらも、運命の瞬間が迫ってくることを知っている。

まあ、よくある話ではあるとは言え、人魚の所作や体の性質からくる行為やちょっとした仕草が実に自然で可愛らしくて上手い。
ただの秘密を抱えつつ健気に生きる普通の女性のラブロマンスとは、また違う趣きがある。

最終的には、マジソンを研究材料としか見ない御用科学者から彼女を奪還し、海に無事に戻して別れようとするのだが、軍がヘリや潜水隊を繰り出し執拗に彼女を追い詰めてゆき、心配でならない。
一度行ったら戻れないということを聞き自分は残るつもりでいたが、彼女を放ってはおけない。
彼女への愛情が全てに勝り、かなづちのアランは、果敢に海に飛び込んでゆく。
だが、マジソンに抱きかかえられてから、全く苦しさもなく一緒に軽やかに泳げるのだ。
もう、ふたりとも二度と地上には戻れない運命だが、とても幸せそうなのであった。
大変、説得力あるエンディングである。
わたしもこういう展開なら喜んで受け容れるところだろう。
(陸から海に戻って行った哺乳類も何らかのラブロマンスがあったのかも知れない)。

カテゴリー的には「天使とデート」と一緒のものだと思う。
ファンタジーだ!

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八十日間世界一周

Around the World in 80 Days

Around the World in 80 Days
1956年
アメリカ

マイケル・アンダーソン監督

デヴィッド・ニーヴン、、、フィリアス・フォッグ
カンティンフラス、、、パスパルトゥー(フォッグの従者)
ロバート・ニュートン、、、フィックス刑事(フォッグを泥棒と間違え、追い続ける)
シャーリー・マクレーン、、、アウダ姫(フォッグたちに助けられるインドの姫)

ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」を原作とする。
わたしの大好きな作家であるが、、、これは何とも言えないところで、、、。
「ナイル殺人事件」にポアロの親友として出ていたデヴィッド・ニーヴンである。
この人ほどイギリス紳士が地で行けるひともいないだろう。
トランプに興じる姿も決まっている。
「アパートの鍵貸します」のシャーリーマクレーンがとても高貴で礼儀正しいインド人の姫で好演している。

古い映画にしては、大変映像が綺麗で驚く。
そしてその世界スケールである。1872年の時代設定。
どの景色にしても凄い。
よくこれだけのロケーションが用意できたものだ。
勿論、ほとんどスタジオセットであることはわかるにしても。

だが、その国の描かれ方には、苦笑いをするしかない。
日本の横浜など、絶句である。どう見ても鎌倉の大仏なのだが(爆。
新橋 - 横浜間で鉄道正式営業開始された年でもあるが、名状しがたい光景だ。皆、侍だし(涙。
妙な舞台では、能や歌舞伎ではなく、松明を燃やし、人間ピラミッド~いや壁である、、、みたいなのを作っている、、、
その伝統芸能?いや曲芸に何故か来たばかりの旅行者パスパルトゥーも混ざっているではないか。
日本とは解放された、外人受け容れ度抜群の国なのだ。東京オリンピックでもこうありたい(爆。
何とも言えない、温かい描かれようだ。
一番の野蛮国に描かれていたのは、アメリカだ。
一行は、アメリカでもっとも酷い目に合う。
この国では、しょっちゅう列車が止まる。
止まらなくても、先住民が襲ってくる(笑。
(イギリス紳士はかなり憤慨する)。
インドにおける残酷な宗教儀式から美しく賢い姫を救い出す。
ともかくどの国もカリカチュアライズされた雰囲気なのだが、当時の知識~情報の限界か、ベルヌの奔放な想像力の賜物か。


フォッグは20,000ポンドを賭け、世界を80日間で一周してくることに挑んだ。
気球でいきなり飛び出すところでは、こちらもウキウキしてくる。
CGもないころに相当なVFXを見せてくれる。
旅の始まりはかなりのボルテージで期待度も上がる。
特に、スペインで着陸する際の建物の脇に気球が降り立つシーンなど臨場感抜群ではないか。
ちなみにまだ、ライト兄弟の飛行機の作られる前の時代である為、空を飛ぶにはこれしかない。

しかし、その後は通常の交通機関を利用する範囲に留まり、乗り換えや船やトロッコを選ぶにしても、普通の域だ。
緊急に組み上げた風力トロッコがちょっと面白かったが。
今ひとつ、奇想天外な交通手段が欲しい。これでは、80日は当時では難しかろう。
途中、鉄道がまだ目的駅まで伸びておらず、象に乗って移動するなど、呑気なところも多い。
ジュールベルヌなのであるし、何かが欲しい。
ただ、彼らが到達した地点がロンドンのメディア~新聞に直ぐ反映されるところを見ると、情報網はかなりの発達をしていたようだ。
(有線通信は、もう誕生していたと思うが。かなりのネットワークには違いない)。

途中で、ほんの一瞬、ピーター・ローレが出てきて歓喜したが、本当に短いシーンであった。
踊りや牛にあれだけ尺を割くのだったら、もっとローレを出せと言いたい!
だが、その他にもちょい役で、まず絶対ちょい役では通常出ない豪華キャストが出ているので、これも仕方ないか。
シャルル・ボワイエ、マルティーヌ・キャロル、ジョン・キャラディン、チャールズ・コバーン、ロナルド・コールマン、ノエル・カワード、マレーネ・デイトリッヒ、フェルナンデル、トレヴァー・ハワード、グリニスジョーンズ、バスター・キートン、イヴリン・キース、ヴィクター・マクラグレン、ジョージ・ラフト、フランク・シナトラ、レッド・スケルトン、、、調べただけでもこれだけの面々がちょこっとだけ顔を見せている。さぞ、金がかかったろうな、、、。エキストラでは済まないだろうが、新人役者で務まるところではあるはず。
話題性は高いだろうが、贅沢。


終盤になって急展開となり、最後はどうなるかと思ったが、パスパルトゥーの気づきのお陰で、日付変更線を越えていたことを知って屋敷を飛び出し数秒前にゴールとなる。勝利!
警官の誤認逮捕で拘留されている間に、80日を過ぎてしまいこれで万事休すに見えたのだが、、、。
最後の最後はスリリングであった。
この結末を引き寄せたのは、何と言ってもアウダ姫である。
彼女がフォッグに結婚を持ち掛けなければ、彼がパスパルトゥーに牧師を呼びに行かせなかった。
陰気なフォッグの邸宅に戻り、項垂れた彼を元気付け支えたいという彼女の想いが天に通じた感がある。
やはり幸せになろうという力が、それを引き寄せたと言えよう。
(気づかなければ、そのまま部屋で項垂れていて、本当に彼らは全てを失ってしまっていた)。


しかし、しかしだ、、、。
それまでが長い。余りに長い。
この長さではもたない。
それくらい、長い、、、。
ある意味、つらい映画であった。
スペインでのフラメンコの踊りとか闘牛のシーンなど、わたしなら全部で20秒で済ませたいところなのだが、あんなに延々と見せられることになろうとは、、、途中、デッキをポーズして何度他の用事に出かけたか、、、。
自主的”Intermission”を5回くらい入れてしまった(疲。
もう少し尺は短く出来たはず。

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壮烈第七騎兵隊

They Died with Their Boots On001

They Died with Their Boots On
1941年
アメリカ

ラオール・ウォルシュ監督
ウォーリー・クライン、イーニアス・マッケンジー脚本
モノクロ


エロール・フリン 、、、ジョージ・アームストロング・カスター
オリヴィア・デ・ハヴィランド 、、、エリザベス・"リビー"・ベーコン(カスターの妻)
アーサー・ケネディ 、、、ネッド・シャープ
チャーリー・グレイプウィン、、、カリフォルニア・ジョー(カスターの民間の部下)
ジーン・ロックハート 、、、サミュエル・ベーコン
アンソニー・クイン 、、、クレイジー・ホース(スー族の長)
ジョージ・P・ハントレー・ジュニア、、、バトラー中尉(イギリス人の副官)
スタンレー・リッジス、、、、ロームルス・テイプ少佐
ジョン・ライテル、、、、フィリップ・シェリダン大将
ウォルター・ハムデン、、、 ウィリアム・シャープ(悪徳商人)


ジョージ・アームストロング・カスター将軍は実在の人物だという。
やはり、一度戦地で極限状況を生き抜く体験をすると、退役軍人として平和で静かな家庭生活を送ることに耐えられなくなるようだ。
数々の武勲をたて人々から崇拝され、愛する人も得たならば、全く異なる第二の人生に邁進することもできたろうに、彼はまた再び戦地に戻ってゆく。

きっと、そういうものなのだ。
(そういう例を戦争映画では何度も取り上げられている)。

かなり重い。
昨日の、「ロビンフッドの冒険」でのエロール・フリン&オリヴィア・デ・ハヴィランド の人を食ったようなあっけらかんとしたコミカルさはなく、厳しい現実に毅然と立ち向かう二人がそこにある。
もっとも、出遭いから恋愛~結婚までの過程は、信じられないほどあっけない。と言うかウソっぽい(爆。
そこに至るまでの士官学校時代のあり得ない常識のなさ(破天荒)も含め、とてもコミカルに思える。
だが、南北戦争勃発から後は、すっかり調子が一転する。カスター自身、トントン拍子に出世する。

この物語は彼が南北戦争で一躍英雄となり、退役後再び戦地に戻りスー族との戦いで部隊(第七騎兵隊)が全滅するまでが描かれる。
カスター将軍が死を覚悟し「リトルビッグホーンの戦い」を前に臨む場面からは、異様に厳粛なトーンとなる。
先住民6000人越えに対し迎え撃つ第七騎兵隊は600人に過ぎない。
カスターの覚悟の程が分かる。

最初の頃から見ると、実に大きな差に見える。
二面性とも捉えられそうな部分でもある。闘いと責任を通しての彼の成長と受け取れるところでもあろう、、、。
だが、「名誉」を何より重んじるところは、一貫していた。
金は死んで持っていけないが、名誉は持っていける。
持っていけるかどうかはともかく、、、名誉については、この世において後の人々が評価を下す。
(勿論、それも一元的なものではない。誰がそれを読み直すかによる)。
高い評価を得ていても、イデオロギー~パラダイムの変遷により、全く逆の評価もなされる場合もある。
(時代の変化で名誉回復の例も多くみられる。それが歴史の常だ。彼の場合は、不幸にも現在は虐殺者扱いであるようだ)。

南北戦争はよいとして、先住民との闘いとなれば、歴史解釈としてナイーブで難しい問題となろう。
あの場合、アメリカ陸軍軍人としては闘う以外には道はなかったか。
それまでカスターは、クレイジー・ホースとの約束を守り、彼らの聖地ブラックヒルズを白人の侵入から守ってきた立場であった。
しかし、金鉱発見のデマを流し移植者を大量に迎え会社を作り、その地を乗っ取ろうとした悪徳商人シャープ父子らの陰謀で、先住民たちが怒り立ち上がったということだ。
そしてその鎮圧に軍が投入されたとなれば、カスターも迎え撃つ以外に立場はない。
移植者の命も危険に晒される。

最後の決戦場は、リアルで凄まじいものであった。騎兵隊の恐怖をも感じられる切迫感のある演出~撮影であった。
下馬して方形陣をとるも、先住民たちの波状攻撃に徐々に劣勢になってゆく。実際、時間の問題であった。
南北戦争の無鉄砲な采配で武勲を上げていた頃は、演出上激戦のイメージ的な撮り方~編集であったが、こちらは実に生々しく騎兵隊員がひとりまたひとりと死んでゆく。
VFXも何もない時代であるから、全て生身の人間のアクションである。
かなり過酷な撮影であったと想像する。
最後にカスターも銃の弾が切れたところで、撃たれて死ぬ。
結果として軍の全滅は免れ辺境地は守られた。

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この映画は、後半に進むに従い重く現実味を増してゆく。
(勿論、フィクションであることは謂うに及ばないが、映画のストーリーとして)。
前半のコミカルな要素は微塵もなくなる。
カスターは戦地に赴く前に「臨終の供述」(証言として有効性が認められるもの)として妻~国宛に手紙をしたためる。
そして願い(条件)として会社を解散させること、先住民たちの権利を守ること、などが書かれていた。



リビーは大切な役であり、しっかり演じてはいたが、特にオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じる必要もない感じはした。
最後までお供をするカリフォルニア・ジョーの存在がなかなか物語に深い味わいをもたせていた。
エロール・フリンの演技の幅は充分に活かされていた。特に後半の彼の凛々しさは際立っていた。
史実がどうであろうが(後の評価についても)、差し当たり関係ない。
とても引き付けられる英雄譚であった。

ロビンフッドの冒険

The Adventures of Robin Hood001

The Adventures of Robin Hood
1938年
アメリカ

マイケル・カーティス、ウィリアム・キーリー監督
エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト音楽
カール・ジュールズ・ウェイル美術
ラルフ・ドーソン編集


エロール・フリン、、、ロビン・フッド
オリヴィア・デ・ハヴィランド、、、マリアン姫
ベイジル・ラスボーン、、、ガイ・オブ・ギスボーン卿
クロード・レインズ、、、ジョン(獅子王リチャードの弟)
イアン・ハンター、、、リチャード王
パトリック・ノウルズ、、、ウィル・スカーレット(ロビンの相棒)

テクニカラーがとても美しく感じた。
良質のお伽噺の絵本のような。
ともかく絵が美しい。
音楽も良い。
古典の名作であろう。
後の痛快娯楽劇に与えた影響は計り知れないのでは、、、。
全く毒々しさや生々しさのない、脱臭された清潔な作品である。


そんな作品にはうってつけのオリヴィア・デ・ハヴィランドの内省的で気品溢れる美しさが際立つ。
わたしは「風と共に去りぬ」の清楚で美しいメラニー・ハミルトンがとても印象に残っているのだが。ここでの清涼感も素晴らしい。
妹ジョーン・フォンテイン( 「レベッカ」「ジェーン・エア」、「断崖」)と共に、姉妹でアカデミー主演女優賞をとっているが、他に例はない。兄弟でもいないはず。
何でも100歳を越えても元気だそうだ。確かに健康にも恵まれたひとに見える。

The Adventures of Robin Hood002

12世紀シャーウッドの森の義賊ロビン・フッドが獅子王リチャードを亡き者にして王位を奪おうとする王弟ジョンに対し反乱を起こす物語。
噺はよく知られたものだが、映画の手本のような形式のしっかりした作りで、身を任せて観ていればそのままラストのハッピーエンドに行きついてしまう。

リチャード王が十字軍遠征で、国をジョンに任せて発ってしまったため、ジョンの国民にかける重税や差別と残虐な仕打ちにサクソン人たちは苦しめられていた。
ロビン・フッドは彼らを救うために立ち上がる。

ロビンのせいか、ストーリーはとても陽気でコミカルでもあり、仲間を作って行くシーンなどがひとつひとつ牧歌的で仄々している。
独りでジョンたちの城に乗り込み、言いたい放題のことを並べて相手を激怒させてさっさと脱出してみせたり、自分の森の縄張りを通過するガイ卿たちを捉えても殺すでもなく、ご馳走して帰したり、彼の仕組んだ罠だと知っていても、弓矢の大会に腕自慢のため出てみたり、何とも遊び感覚で楽しんでおり、切羽詰まった反乱という感じではなく余裕しゃくしゃくである。
マリアン姫もジョンの圧政の現状をはじめて観て自分の認識を改め、ロビンにこころを寄せるようになる。
姫とのロマンスもタップリ描かれてゆく。かなり能天気でもあるが、、、(笑。
しかし、ひとたび弓や剣を交えた戦いとなると、見事なパフォーマンスで魅せる。
剣の交わりを城の影に映すところとか、演出も楽しんでる感触が伝わってくる。

物語前半で仲間につけた個性的な凄腕メンバーのそれぞれの活躍も、少し尺をさいて見せて欲しいものであったが、スピーディーな展開と姫とのラブロマンスのバランス上、特に必要なシーンでもなかったのか?
アクションものの好きな観客に対してはその辺のサービスがあっても良かったかと思う。
後のファンタスティック・フォーとかアベンジャーズ好きな層には、受けること間違いない。
スケールの大きなアクションは、随所にしっかり用意されており、主にロビンによるものだが、充分に楽しめる。

合戦による殺し合いは、流石に生々しい血しぶきなどなく、雰囲気で伝えるものであった。
ロビンの額についた血糊などもほとんど現実感はない。
仲間の死も見えない。少なくとも顔の分かるロビンの側近は誰も犠牲にならない。
お城のセットや背景なども一目でそれと分かるものといえ、白けたりするようなところは微塵もない。
ただ残酷なリアリティがないだけだ。不条理や絶望がないが、それが手落ちに感じるような作品ではないのだ。
子供と一緒に楽しんで入って行ける夢のような物語である。


古典映画の良いところだけが感じられる、安心して観られる作品であった、、、。


セルラー

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Cellular
2004年
アメリカ

デイヴィッド・R・エリス監督
クリス・モーガン脚本

キム・ベイシンガー、、、ジェシカ・マーティン(生物教師)
クリス・エヴァンス、、、ライアン(ジェシカを助ける青年)
ジェイソン・ステイサム、、、イーサン(悪党のリーダー)
ウィリアム・H・メイシー、、、ボブ・ムーニー巡査部長
エリック・クリスチャン・オルセン、、、チャッド
ノア・エメリッヒ、、、ジャック・タナー


「トランスポーター」のジェイソン・ステイサムがニヒルな悪役で出演。
しかし、身のこなしは、やはり他の悪役とは違う。
体の切れは流石だ。

L.A.コンフィデンシャル」のキム・ベイシンガー、そうボンドガールもやっていたしバットマンにも出ていた、がヒロインの科学の先生。
突然の誘拐・拉致にもめげず、恐怖と不安にのまれながらも、必死に電話をかけ続ける姿は充分に共振できた。
イーサンに叩き壊された電話を修理して、とりあえずかけられるるようにしてしまう。
しかしどうにか、かかった相手がビーチで遊んだ帰りのチャラい兄ちゃんであった。(彼女にもあなたのその軽くていい加減なところが嫌なのとダメだしされたばかりである)。
クリス・エヴァンスは、キャプテン・アメリカの人だ。
そのヒーローとなる数年前の役だが、なかなかの名演技だ。

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この映画は、携帯電話というガジェットでどれほど面白いサスペンスが作れるかという試みとして作られたものだろう。
アイデアの効いたストーリー~脚本である。
ただ、頭を使わずに観ていて、面白かった。

基本、主人公ジェシカとライアン同様、こちらも何故突然、彼女が誘拐・拉致され悪党が彼女の夫(どうやら夫の隠した物)を血眼で探しているのかは謎であり、彼らと共に辿って行く構造であり、俯瞰する立場にない。
その上スピーディーな展開なため、目が離せない。

バッテリー切れと通話が切れることを恐れながら(リダイアル出来ない前提で)、電波~通話が途切れぬようトンネル前で逆進したり、携帯ショップで拳銃で脅して(番号札を取っている状況ではない)バッテリーを買ったり、途中で車が壊れたり、レッカー車で引いていかれたり、有りうることを片っ端詰め込んだ展開に唸るところが幾つもあった。
特に、たまたま繋がった電話がいったん切るともう繋がらないつまり、リダイアル出来ないというところが、スリルを高めている。
演出も上出来である。
さらに適度に挟まれるユーモラスな部分も進行の潤滑油になっている。
そもそも、チャラい兄ちゃんがどんどん追い込まれ頼もしい正義漢に変貌してゆくのだから、それ自体が可笑しいものだ。
逼迫した事態でも笑えるところがある。

もう一つ警察を辞めて、妻と美容院を始めようというボブ・ムーニー巡査部長の飄々とした活躍も面白い。
一見頼りなさげであるが、鋭い判断力と正義感をもった人で行動も早い。
最後の最後に、この引退を控えた警官が、真相に気づきライアンの危機を救う。
とは言え、いきなり携帯にかかってきたどこの誰とも分からぬ相手の状況に同情し、ここまで自分の身の危険も顧みず果敢な行動をとったライアン~クリス・エヴァンスは(戦闘力は供えていないが)、もう半分次に彼の演じるキャプテン・アメリカになっている、と謂ってよい(笑。

結局、悪徳警官が麻薬取引現場で犯人を不当に撃ち殺した現場をたまたまジェシカの夫がビデオに撮ってしまったことが、この物語の発端であった。
撮って逃げたところを目撃されたことで悪党どもが、証拠と証人の抹消のため秘密裏に動き始めたというところ。
警察ということで、彼らは動きやすいとは言えるが、ジェシカの家の家政婦をいとも簡単に銃殺するなど荒すぎる。
ボブ・ムーニー巡査部長が、事件に気づき、ジェシカの家に探りに乗り込んだ時も、悪徳警官がいきなり彼を撃ってきた。
簡単に警察の銃を発砲すると足がつかないか?少し気になる点はある。


噺そのものは、よく練られスピーディでハラハラする展開もいうことないのだが、、、
最後の最後に疑問だが、あんな軽い兄ちゃんが豹変してあそこまでやってくれるだろうか、、、。
というより、あれ程いい人っているだろうか、、、。
ある程度は絡んでも、悪辣な警官に銃で殺されかければ、もう逃げてしまいそうだが。
いや、その時点では彼もアドレナリンが過度に放出され、やる気満々で立ち向かってしまったというところか。
そう、そういった闘争本能に置き換えられていった感もある、にしても、、、
そこだけが唯一最大の引っかかるところではある。


だが重くならない爽快な、面白い映画ではあった。


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美女と野獣

Beauty and the Beast001

Beauty and the Beast
2017年
アメリカ

ビル・コンドン監督
アラン・メンケン音楽
アリアナ・グランデ、ジョン・レジェンド主題曲「美女と野獣」

エマ・ワトソン、、、ベル
ダン・スティーヴンス、、、野獣
ルーク・エヴァンス、、、ガストン(戦争から戻ってきた元軍人)
ケヴィン・クライン、、、モーリス(ベルの父、元絵描きのオルゴール職人)
ジョシュ・ギャッド、、、ル・フウ(ガストンの相棒)
ユアン・マクレガー、、、ルミエール(金の燭台)
イアン・マッケラン、、、コグスワース(金の置き時計)
エマ・トンプソン、、、ポット夫人
ネイサン・マック、、、チップ(ポット夫人の息子、ティーカップ)
ハティ・モラハン、、、アガット(物乞い、実は王子を野獣に変えた魔女)

ディズニーの長編アニメーション映画作品『美女と野獣』の実写リメイク版
ジャン・コクトーの「美女と野獣」のリメイクでも、美女ベルをレア・セドゥが演じた「美女と野獣」のリメイクでもない。

ディズニーミュージカルである。
とっても見応えがあった。
久々に家族全員で映画館で観た。
「君に名は。」以来の家族全員鑑賞だ、、、。
(ちなみに10月には「ブレードランナー2049」を必ず観に来ることにした。間に一つか二つくらい、はさむにしても)。


始まるまでのCMの多さに辟易して長女の観る気が大分削がれた。
これからは、始まって10分後くらいにゆっくり入館することに決める。


最初はどうも何とも言えない違和感があって、入り込めなかったのだが、噺が進むにつけ自然に身が入っていた。
どうやらエマ・ワトソンがベルとして馴染んでくるに比例してわたしもすっきり同調できたらしい。
特に後半から終盤にかけて熱気はグイグイ畳みこんでくる、、、
絢爛たる映像と歌のパワーで圧倒された。
やはりミュージカルのパワーだ。

VFXで驚いたのは、野獣の特殊メイクでよくあそこまで微妙な表情が出せたものだ。
最初の強張った攻撃的な表情から、柔和な笑みを浮かべるまでの表情の変化が実に饒舌であった。
ベルと野獣、、、
お互いに読書好きであることから、距離が縮 ぢまる。
やはり双方の教養である。それなしに通じ合うことなど不可能だ。
そしてその基調の上に、、、
書物について互いに語り合いつつ、、、
食事を仲良く一緒にとり、散歩をする。
そして、父のピンチに、彼女を自由に放ち、逢いに行かせる。
そこでベルの気持ちは固まる。
必ず帰ってくると。
ここからの凝縮度は高い。

Beauty and the Beast003
最後の花弁が散ったときに野獣は永遠に王子には戻れず、召使いたちも調度品のままで終わってしまう。
しかしこのイマジネーションには魅せられる。
廃墟となり打ち捨てられたモノたちの(前世の)記憶に思いを馳せる、、、
究極のロマンチシズムだ。
それを野獣が息絶えたほんのひと時の全てのモノの終焉に際し、馨しく感じた。
それぞれの最後の仕草が美しい。
(このシーンはとっても好きだ)。

面白かったのは、野獣が魔女から貰ったという、金の装丁のタイムトラベル辞書である。
自分が行きたいその地に指を差し、胸中に念じればそこに飛べるというもの。
パリの屋根裏の貧しい画家の狭い小部屋で、父と母の真実を知る。
そこは父が幼いベルを守るために、ペストに罹った母と別れることを断腸の思いで選んだ場所であった。
ベルと野獣の距離が決定的に近くなった時だ。

終始ベルや父モーリスに付きまとう、ガストンというずる賢くせこいゴロツキが目障りで良い味を出していた。
このキャラをもって最後のカタストロフに突き進むのは王道(常道)であるが、演出ともども上手い構成と流れであった。
城の高い塔の上でスリリングな攻防、そして悪辣な不意討ち、ベルの嘆きと最後の時と思われた瞬間のガストンの転落、そして歓喜溢れる再生へ。
この上下に深くとった空間は、こちらに与えるインパクトも大きい。

死んだと思われた野獣にベルが愛していると告白しキスをする。
「わたしたちは永久に一緒よ。」と。
その時、村人と共にやって来たアガットが、全て散ったバラを再生する。
ギリギリのところで、愛する者を得た王子は蘇ることとなった。

魔女の呪いが解け王子の姿に戻り、調度品たちも、皆元の召使いとなってゆく。
雪に閉ざされ誰もの記憶から消されていた城が村人たちとも繋がる。

最後も盛大なダンスで終わる。
ハッピーエンド。

Beauty and the Beast002

最初、今ひとつに思えたエマ・ワトソンがもう、ベル以外の何者でもなくなっていた。
この女優も今後に期待したい。


ジャッジ・ドレッド

Judge Dredd001

Judge Dredd
1995年
アメリカ

ダニー・キャノン監督
イギリスの同名コミック原作


シルヴェスター・スタローン、、、ジャッジ・ジョゼフ・ドレッド(伝説的なジャッジ、クローン人間)
アーマンド・アサンテ、、、リコ(ドレッドの兄弟クローン)
ダイアン・レイン、、、ジャッジ・ハーシー(ドレッドの最も頼れる同僚)
マックス・フォン・シドー、、、ファーゴ長官(ジャッジ評議会の長官、ドレッドの生みの親)
ロブ・シュナイダー、、、ハーマン・ファーガソン(ドレッドの相棒)
ユルゲン・プロホノフ、、、ジャッジ・グリフィン(ジャッジ評議員、後に長官)
バルサザール・ゲティ、、、メイソン・オルメイヤー(ジャッジ候補生、画像解析のエキスパート)
ABCロボット(戦闘用ロボット、戦争で絶滅したことになっているが、まだ残っていた)


如何にもヒーローものコミックの実写化といった展開の映画であった。
スーパーマンやスパイダーマン、バットマンの同系列か。
いやむしろ、「ターミネーター」や「プレデター」、「バトルランナー」「トータル・リコール」のシュワルツェネッガーの向こうを張ったものだろう。
コスチューム~マスクは物々しいが、個性的でよい。

2139年の核戦争後に残された「メガシティ・ワン」が舞台。
何故か人心は乱れ退廃し街には犯罪が横行していた。
既視感はタップリ。
そこで政府は、ジャッジ制度を制定し、「ジャッジ」に選ばれた人間は、犯罪者をその場で裁判、判決、刑執行できる特権が与えられ治安維持にあたっていた。
(それで猶更、混沌・混乱を増したようだが)。
かなり単純で思い切った設定だ。
そこでアクションを繰り広げるが、スケール感はほどほどのもので特に新鮮な刺激はない。


そのもっとも悪党に恐れられているジャッジこそ、ジャッジドレッド(スタローン)であり、ファーゴ長官のDNAから作られたクローン人間なのだ。悪人を処刑する際に「俺が法だ!」である。
法を絶対視する少し人間離れしたストイックなスタローンが顔を口元まで隠すヘルメットを被り活躍する。
ちょっと、それはないだろう。とは思うが映画を観るのに邪魔な考えは保留して観てゆく。
ヤヌスプロジェクトによりかつて、ドレッドとリコが理想的なクローンとして作り出されたが、リコが謀反を起こし、このプロジェクト自体が封印された。
片や法を完璧に守るドレッドと片や無軌道で完全な自由を求めるリコに分かれてしまったのだ。
(わたしは、どちらかというというと、リコ側だが、あからさまな悪党は嫌だ(笑)。
死刑となったと思われていたリコがグリフィンの策略で街に突然現れ、メガシティ・ワンを再び混乱と恐怖に陥れようとする。

グリフィン評議員は、よりジャッジの力の強化を狙っており、リコと組んで街を破壊し、多くのジャッジを殺害する。
それによって、封印されていたヤヌス・プロジェクトを復活させようとするのだ。
リコ~グリフィンらは、計画遂行に大きな障害となる、ドレッドとファーゴ長官を奸計によりシティーから追放し、評議委員も皆殺害してしまう。
しかしリコの狙いは、自分のDNAを基にしたクローン人間の生産により自分が世界を支配することであり、より秩序を強化しようとするグリフィンの計画を利用したに過ぎなかった。

何と言うか、特にどうということもない、如何にもありそうなストーリーであるが、テンポよく展開し、ドレッドにハーシーとファーガソンも協力し、リコの暴走を食い止めるまでの流れは、適度に山も谷もありで飽きずに見せてはくれる。
とは言え、ハーシーにもっと活躍の場~厚みを設けてもよかった気はする。
シンプル極まりない物語の強みか、全く考えさせずに終わりまでそこそこ小気味よくもってくらた。

巨匠ベルイマン映画で主役の常連、マックス・フォン・シドーがもっとも偉い人で出てはいたが、やはりどうにも軽い。
この映画では、彼はその雰囲気だけ醸していればよいか。
「ランブルフィッシュ」のダイアンレインからは程遠いものだが、それも仕方ない。

Judge Dredd002
マスクはよく脱いでしまう。
Tシャツ姿で闘うと、ランボーとほとんど変わらぬ情景になる(笑。
原作では、一切マスクは人前では取らない設定らしいが、その方が法を唯一の拠り所とする主人公の孤絶した威厳が際立つと思う。ハードボイルドさが維持できる。
最後にハーシーとファーガソンによって少し人間的なユーモアも感じさせるのだが。
ドレッドとリコを融合させた所謂普通の人間が、問題を様々に孕みながらも、もっともバランスのある存在と謂えよう。


暑くなって疲れが出てきた折、心身を適度にほぐすために観てもよい映画である。
何も後に残らないところがよい。


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カンバセーション…盗聴…

The Conversation001
The Conversation
1974年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督・脚本・製作

ジーン・ハックマン 、、、ハリー・コール(盗聴のエキスパート)
ジョン・カザール 、、、スタン(ハリーの同業者)
アレン・ガーフィールド 、、、ウィリアム・P・モラン(ハリーの同業者)
ハリソン・フォード 、、、マーティン・ステット((ハリーの依頼者の秘書)
テリー・ガー 、、、エイミィ・フレデリックス((ハリーの恋人)

「会話」では、いけないのか?

フィルムの青みがかった質感が、如何にもプライベートフィルム的な、秘密の画映像という気がする。

サンフランシスコのユニオン・スクエアにいる若い男女の他愛もない会話を盗聴するハリー達。
その会話のテープが多額の報酬となる。
依頼主に直接手渡しということで、持参すると、当人が不在で秘書のマーティンが受け取ろうとしたため、彼はテープを渡さず、持ち帰る。秘密の個人情報を、簡単に代理人に渡すのは彼の信条に反する。
彼は仕事のルールとして自分の録ったデータに個人的な興味を持たないようにしていたが、どうしても気になり再生し、不確かな部分を補正すると、盗聴したペアの命が狙われる事件性の高いものであることを知る。
二人がこの先、ホテルで密会する日時と部屋番号まで知ってしまう。

ここからハリーの葛藤が始まる。
過去にも自分の盗聴が関与して、人が3人死ぬ事件があった。
彼に直接関わることではないが、以後彼を悩ますトラウマとなっていた。
それからというもの、今回も絶えず彼の脳裏に、二人の「会話」のやり取りが思い巡らされる。
「会話」が幾度となく反復される。


ハリーはアパートで、ジャズレコードに合わせてサックスを吹くのが趣味の男。
恋人にも素性を隠す程に個人情報を厳重に秘匿 している。
その為、恐ろしい孤独にいる。
気を紛らわせるものもなく猶更、想念や声の記憶~残響に悩まされる。
通信傍受技術の展示会では、同業者たちと集まるが、打ち解けるわけではない。
彼は、基本一匹狼なのだ。
羽目を外して騒ぐでもなく、冗談や誘いにも乗らず、直ぐに自分に引き戻る。
自分の仕事場で気が静まらず、「会話」を聴き返す。

若い二人のことが気になる。
「死ぬことは恐れることではない。ただ、殺人は恐ろしい、、、。」

ハリーはテープを処分することにするのだが、その前に先を越されそれは持ち去られていた。
実は、ハリー自身もその依頼主から盗聴され動きを監視されていたのだ。
彼は同時に撮った写真を渡し金を受け取るため、依頼主のところに再び足を運ぶ。
金を渡され帰ることにするが、どうしても二人のことが頭から離れず、彼らの泊まるホテルの部屋の隣に自分も滞在する。
早速隣の部屋の盗聴を開始するが、その時恐ろしい事態の起きたことが想像できる声がはっきり聴こえる。
彼はテレビを大音響にし、カーテンを閉め、耳を塞ぎ現実を遮断して暫く籠るが、意を決して隣の部屋へと確認に忍び込む。

隣のすっかり綺麗に整えられ静まり返った部屋を注意深く探るハリー。
大惨事の起こった痕跡はなかなか見つからない。
しかし、トイレを流してみた時、真っ赤な大量の血液が溢れかえってきたのだ!

確かに起こってしまった。
気持ちの動転したハリーは、依頼主に会おうと出向くが警備に留められる。
そしてその前の路に止められたリムジンの後部座席に目をやると、狙われていたはずの女性が座っているではないか、、、。
その後、新聞を確認するハリーはその事態に驚く。

その女性は富豪の依頼人の妻であり、殺されたのは、その依頼人である夫の方であった。
二人(つまり不倫の妻とその相手)は無事であり、財産相続などについて妻が多くの記者たちに囲まれてインタビューを受けている。二人は被害者ではなく加害者であったのだ、、、。

彼は、それを改めて自分の目で確認し、彼女の顔を呆然と打ち眺める。
自分も踊らされていたのだ。
家に戻りジャズのサウンドに合わせてサックスを吹いていると、電話が鳴る。
「君は盗聴されている。」「もう感づいているだろうが、深い入りしない事だ。」という脅しであった。

ハリーは、自分の部屋の隅々までを捜索する。
あらゆる家具と飾りと電気器具に調度品の全てを憑かれたように解体して調べあげてゆく。
いや打ちのめされて破壊しているのだ。
ついに、壁と床まで剥がしてしまう。
しかし、それと思しきものはなかった。
まるで廃墟となったその場所で、彼はレコードに合わせ、いつまでもサックスを吹く。
(ある程度探して見つからなければ、さっさと荷物まとめて他のアパートに引っ越すのが考え易いが、彼の今回のダメージと、名を轟かしたその道のエキスパートでもあるプライドが許さなかったのか。しかし、演奏しているサックスだけは、調べていなかったはず。敢えて調べないのか)。
一種独特のトラウマの光景をずっと観てきた感がある。
(それは、この時期のアメリカの光景にも重なってくるだろう、、、)。


コッポラのヒッチコックテイストのサスペンス映画であった。
大作ではないが、コッポラの隠れた名作というだけのことはある。


ストロベリームーン

StrawberryMoon001.jpg

ストロベリームーンをわたしだけ、観る。
もう天体望遠鏡は処分してしまったので(残。
二階のベランダから双眼鏡で観ただけ。
一眼レフも今は無い為、敢えて写真は撮らない。

確かに赤い月だ。
暫く見呆ける、、、。

呼んでも一向に、遊び(ゼルダの伝説の任天堂スウィッチ)に夢中の娘たちは上がってこない。
ちなみに、ゼルダの伝説は、攻略本も熱心に見ながら、恐ろしい熱中ぶりだ。
(一日30分と取り決めしたが、恐らく胡麻化されている)。
諦めて、わたしは他のことをやっていると、かなり経って娘たちがやってきた。

だが、もうその時は雲に遮られていた。
全く月は見えない、、、。
あれは、ほんの一瞬のチャンスだったのか?
やはりチャンスは待ってはくれないのだ。
観るべき時に観るのだ!
あの時、願い事でもしておけばよかったか。
しかし、観るだけで良いことがあるそうな~。

月の高度が低いことで、月は赤みを帯びる。
その赤みは、、、神秘性を確かに纏う。
甘酸っぱく、美味しそうでも、あった。
やはり、”ストロベリームーン”だ。


これを観ると、幸せになるそうだ。恋の期も熟すらしい、、、。
いいねえ。
我が家では、このわたしだけが、その恩寵に預かることとなった。

いい気味~。

StrawberryMoon002.jpg



リリィ、はちみつ色の秘密

The Secret Life of Bees001
The Secret Life of Bees
2008年
アメリカ

ジーナ・プリンス=バイスウッド監督・脚本
スー・モンク・キッド『リリィ、はちみつ色の夏』原作
マーク・アイシャム音楽
ロジェ・ストファーズ撮影

クイーン・ラティファ 、、、オーガスト・ボートライト(養蜂家長女)
ダコタ・ファニング 、、、リリィ・オーウェンズ(小説家志望の少女)
ジェニファー・ハドソン 、、、ロザリン(りりィの家のメイド)
アリシア・キーズ 、、、ジューン・ボートライト(次女、音楽の教師)
ソフィー・オコネドー 、、、メイ・ボートライト(三女)
ポール・ベタニー 、、、T・レイ・オーウェンズ(りりィの父、桃農園経営)
ヒラリー・バートン 、、、デボラ・オーウェンズ(りりィの亡き母)
ネイト・パーカー 、、、ニール(ジューンの恋人、教師)
トリスタン・ワイルズ 、、、ザック・テイラー(黒人弁護士を夢見る青年)


歌はこれといって歌わないが、ジェニファー・ハドソンが出ていた(笑。
「ドリームガールズ」が余りに鮮烈であった為、直ぐに彼女と分かった。
存在感ある人だ。
メイドなのだが態度はでかい。どこに出ても態度はでかく強そう(爆。
歌手と言えば、何と言ってもアリシア・キーズだ。
しかし彼女はピアノ、ギターが専門のソングライターだ。もちろん歌でグラミー賞をとっているが、、、ここでは全く歌わない(笑。
ビオラをずっと弾いているお嬢様だ。(音楽の先生らしい。彼女は養蜂は手伝っていない)。
そう言えば、クイーン・ラティファもグラミー賞歌手だった!何だミュージシャンばっかではないか(怒。
別に憤る問題ではない、、、。
The Secret Life of Bees003
(3人とも実力派ミュージシャンであるが、ミュージカルではないので、誰も歌わない(笑)。
オーガストの包容力と母性の深さには、こちらまでも癒されてしまった。
素敵だ、、、。


4歳の時に誤って母を銃で撃ち殺してしまいこころにずっと風穴を感じながら育ってきた少女りりィ。
(母は一度、りりィを捨てて家を出てから、また立ち戻ったところ、銃の暴発で死んでしまう)。
そう、実は銃の暴発より、母はわたしを愛していなかった、捨てられたのではという想いにりりィは蝕まれていた。
家庭環境も冷たく虐待も厭わない父と二人暮らしの殺伐としたもの。
彼女と父は共に掛け替えのない母~妻を失った消し難い想いから、それぞれのトラウマに苦しんでいたのだ。

アメリカ南部は60年代中盤である。
奴隷制度廃止や公民権の付与、黒人の参政権の付与は憲法の条項としては加えられるも、実際のところは公然と差別は行われていた。
メイドの黒人ロザリンが白人に因縁をつけられ殴られ怪我を負ったことから、りりィは彼女を連れて不器用で冷酷な仕打ちしかできない父からも逃れるように家出をする。桃農園の売り子からの脱出だ。
母の遺品を頼りに、ティブロンという街にやって来るが、そこで養蜂業を営むピンク一色のボートライト家にたどり着く。
優雅で落ち着いた教養ある黒人3人姉妹の家である。
だが、ちょっとこの時代に現実味を感じ難い場所ではある。
美し過ぎる次女ジューンがヴィオラをずっと弾いているところからも、猶更そうだ。

オーガストの一存で、りりィとロザリンはそこに住まわせてもらうことになる。
実は、この家が自分の来るべき家だという確信めいた直観を彼女は感じていた。
(本当は彼女を愛していた母親の導きであろうか、、、そういうことはあってよい!)
彼女は、間違いなくそこで自分のこころの深い傷が癒されることを根拠なく確信していた。
The Secret Life of Bees
一見、長閑に思えるその街もひとつ踏み誤ると飛んでもない仕打ちが返ってくる。
ザックに映画に誘われ、有色人種と白人入り口からそれぞれ入館するも、隣り合ったシートに座り映画を観ていたため、ザックは白人に摘まみ出され、そのまま行方知れずとなる。
そのことを知った世を儚む神経過敏な三女メイは自殺してしまう。
遺書には「生の重みにこれ以上耐えられない」とあった。
本当に悲しい人の世だ。
音楽が巧みに軽やかで綺麗な流れにしているが、この物語の基調はここにある。
リリィの父の孤独と抱え込んだ重荷などが、その闇の流れを垣間見せる。
非常に危うい世界を、多くの人が辛うじて生きているのだ。

しかし、りりィは、姉妹皆に認められ愛されてゆく。
りりィにとって愛されることこそ、これまでの時間を取り戻すもっとも肝心なことなのだ。
そして母デボラもここボートライト家にかつて身を寄せていたこと、りりィを捨てる気はなく、愛していたことを知らされる。
養蜂の仕事も覚え、弁護士として活躍する夢を抱くザックとも親密になってゆく。
父がこの家を探し当て訪ねてくるが、父とはきっぱり決別する。
別れ際、母が荷物を取りに帰ったのではなく、自分を引き取りに戻ったことを、父の口から確認して、やっと吹っ切れる。
トラックに乗って帰る彼も、何か重荷を降ろした表情であった。
オーガストは、彼女を引き取り、学校にも通わせることを約束する。
三人の母が実質出来た、彼女にとってこれまででもっとも理想的な環境が生まれる。
人は愛されなければ生きては行けない。

ザックの言葉が余りにかっこよすぎる。
「僕は必ず弁護士になる。」
「何年後になるか分からないが、君の出版サイン会でまた逢おう。」
The Secret Life of Bees002

キャストが皆、ビビットな存在感で本当に素晴らしいが、ダコタ・ファニングとは、一体何なのか?
その存在のみで、泣けてきてしまう。
畏るべし。
彼女のせいで作品の格が上がっている。間違いなく。

気が付くと、ダコタ・ファニングの大ファンになっているではないか(怒。
(別に憤ることではないが)。


”Bon voyage.”

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