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バニシングin60″

Gone in 60 Seconds

Gone in 60 Seconds
1974年
アメリカ

H・B・ハリッキー監督・製作・脚本

黄色の1973年型フォード・マスタング、、、エレノア(この車のコードネーム)
H・B・ハリッキー、、、メインドリアン・ペイス(保険会社の属託調査員、車窃盗団のボス)
マリオン・ブシア、、、パンプキン
ジェリー・ドージラーダ、、、ユージーン

”LOCK YOUR CAR IT MAY BE GONE IN 60 SECONDS”
というネオンが劇中に流れる。
鍵をかけないと60秒で車が盗まれるよ、、、という警告だが、実際にここに出てくる車窃盗団は、鮮やかに60秒以内で高級車を事も無げに盗んでゆく。これ程簡単に、、、?と思えるものだ。
彼らは盗む予定の車種にそれぞれ女性の名前(コードネーム)をつけて盗んでゆく。


この映画は恐らく、途中で諦めず何があろうと最後まで頑張り通せば必ず願いが叶うという教育的意味をもったものであろう。
まさしく「ゲッタウェイ」の最後と同等の爽快感である。
こちらは最後の最後で、逃走の果てにボロボロになったエレノアをガソリンスタンドで他の女性のピカピカのものと差し替えてしまう。洗車して出てきた見るも無残な黄色の1973年型フォード・マスタングを自分の車だと思って気絶する女性は気の毒に、、、。
警察を40分以上のカーチェイスの果てに振り切たところで、希のエレノアを運よく見つけてすり替える。そして、さっさと仕事~盗みを完了させてしまう。
クールなギャングだ。
こんなギャングになってみたいと一度は思ったことはないか?、、、わたしは、特にないが、、、(笑。
エンドクレジットの際、H・B・ハリッキーの「夢を叶えてくれてありがとうという」、、、と出てくるところ、この主演監督がもっともやりたかったことなのだと分かる。
(子供の頃からの夢だったりして)。

ファッションスタイルが、如何にも70年代中盤のアメリカ(南カリフォルニア)という感じで、、、暑苦しい。
カーチェイスも大排気量の如何にもガソリン垂れ流し的な車同士の粗削りで武骨でダイナミックなものである。
この年代のアメ車好きには堪らないものだろうが。
ある意味、とっても物質主義で、贅沢で、素朴な時代である。
(劇中、凡そ100台の車がスクラップとなって逝く、、、)。


ペイスは盗難保険に入った車しか盗まない。
保険未加入で盗まれたらそれまでである。
ポリシーがある。
ある日、クライアントから、希少な高級車ばかり頼まれる。
40台の車を次々に盗んでゆくが、一台トランクから大量の麻薬(ヘロイン)が発見される。
グループの一人がそれを売りさばき金にしようと提案するも、ボスのベイスは車ごとそれを燃やしてしまう。
それに腹を立てたその部下が警察に密告してしまい、ベイスは盗みに入るところを待ち伏せされることに、、、。
それからが、この映画の見せ所!
勿論、CGなど皆無、本物の事故としか見えないところもあり、ほんとにフィジカルな作りを久しぶりに見る思い。
マスタングのタフさ加減も十分にアピールされており、フォードの宣伝にも一役買ったか(笑?

このH・B・ハリッキーという人、元カースタントマンであったということから、存分に40分以上の尺を取って、延々とドライビングテクニックを思う存分披露する。
まさにそのための映画である。
いくら窮地に立たされ、追い詰められても、発砲されても、怯まない。
必ずその包囲網の抜け道を見つけ出し、突破してしまう。
張り詰めたカーチェイスは続くのだが、、、
途中、6回くらい不意に寝た(笑。
直ぐに起きるが、、、
いくら凄いといっても、車の追いかけっこである。
別にそれが飛行機であっても、40分の間には、途中コックリコックリくるものだ(爆。

画面の中で激しい動きがあっても、その感覚刺激がエモーショナルなものに共振し連動していかないと、余りに長時間だと単調に感じてきて睡魔を呼び込んでしまう。
実際、わたしは映画の途中でよく寝るが、カーチェイスの時などが多い。
「激突!」みたいなものになると目を凝らして観ているのだが、あれは明らかにこのタイプのものとは異なる。
巨大トラックがピッタリついてくるのだが、その意図が皆目分からない不可解極まりない追跡だからだ。
こちらは、追ってくるというより捕まえに来る理由ははっきりしている。
その逃走に対する逮捕の明白な関係における複雑な運動があるのみだ。
追いつ追われつのゲーム的な楽しさはあるが、こういった動きは自分がコントローラーでも握って参加しているのでもなければ、凡そ他人のやっているゲームを横で観ている感覚に陥るだろう。

面白いことは面白いし、スリリングであることも確かだが、それ以上ではない。
ただ、最後に「黄色の1973年型フォード・マスタング」(このエレノアがなかなか手に入らなかったのだ)が、警察を見事振り切った先で、まさにこれというドンピシャの車を手に入れるのである。
この件については、純粋に感動した。
決してこれは、ご都合主義とかの類ではない。
人生には、こういう奇跡の場は、必ずあるものなのだ。

やはり、決して諦めず頑張り続ける人には、このような恩寵がやってくるのだ!
そう思わざるを得ない結末である。
この爽快感はこの映画を最後にとても印象深いものに昇華させている。


盗んだ名車の数々を収めたガレージで、思わずニンマリする主人公の顔からも、この人車が好きで好きで堪らないのだろうな、というのは充分伝わってきた。
車好きで、70年代アメ車に拘りのある人なら、文句なくお勧め映画だ。
片っ端、ぶっ壊れてはゆくが、、、(爆。

Gone in 60 Seconds002

賢く生きる恋のレシピ

SMART PEOPLE

SMART PEOPLE
2008年
アメリカ

ノーム・ムーロ監督
マーク・ポワリエ脚本

デニス・クエイド 、、、ローレンス(大学教授、著作家)
サラ・ジェシカ・パーカー 、、、ジャネット(医者、ローレンスのかつての教え子)
トーマス・ヘイデン・チャーチ 、、、チャック(ローレンスの義弟、放埓で宿無し)
エレン・ペイジ 、、、ヴァネッサ(ローレンスの娘、非常に学業優秀)
アシュトン・ホームズ 、、、ジェームズ(ヴァネッサの大学生の兄、詩が雑誌に載る)


別にエレン・ペイジ繋がりで観る義理もないのだが(笑。
ここではどれくらい変わるのか観てみた。(やたら知的で理屈っぽい皮肉屋の役である)
「インセプション」の彼女がやはり一番、らしく思える。
それにしても捻って凝った邦題だ。
こういうイメージでこのコンテンツを売ろうというのか、、、レシピ?何となくトレンディーでお洒落な感じにしたかったのか?
「エデンより彼方に」、「バンテージ・ポイント」「デイ・アフター・トゥモロー」のデニス・クエイドであるが、ここでも難しい役柄を熟している。

この映画も、チョッとした演出で見せる映画だ。
観終わったばかりで、印象に残るところは、知的で偏屈で他人の行いに厳しいローレンスが放埓な義弟チャックと買い物中に、カートに足を掛けて乗って滑ってるところだ。
この時点で、生き方をとても嫌っていたチャックに親しみすら抱いており、彼を容認していることが分かる。
(物語の最初で、息子ジェームズがカートに乗ったことを叱っていた)。
ローレンスがジャネットとの恋愛を経て、他者を受け容れる余地をもったことを知らせる何気ない行為だ。

わたしの苦手な(場合によってはホラーよりキツイ)ラブコメに入る映画であろうが、癖のある役者の捻った演技でかなり渋くみせて行く。
そう、キラキラしたりワイワイキャーキャーするところのない、ある意味地味に進行する映画だ。
軽くも重くもなく、明るくも暗くもない。
しかし誰もが何かに囚われていて、不自由でいる。
チャックがもっとも吹っ切れてはいるが。
自分の枠を突き壊せないでイライラを抱えて過ごしている。
これは、他者に対する感覚の麻痺と裏表の関係でもある。
その息苦しいリアリティが基調をなす。

インテリのヴァネッサは、父を上回る知的な偏屈娘で、それによって身動きが取れない。
ただのガリ勉だけならまだしも、共和党青年部とかに入っていて同年齢の友達など排除している。
兄ジェームズも親に反抗的で、黙々と部屋で詩を書いている。
兄妹で食事中に嫌みを言い合い喧嘩をする。
教授である父ローレンスは偏屈さから学生に思いっきり嫌われている。(亡き妻への拘りも大きい)。
そんな彼が変わって行くきっかけが、偏屈が原因で怪我をして入院した病院であった。
彼は素敵な女医ジャネットと恋に落ちる。
彼女はかつての自分の教え子であった。

しかし、ジャネット相手に自分の研究テーマばかりを得々と話し続け、彼女に全く話すタイミングを与えない。
この自己中振りに彼女は呆れかえって一度は完全に彼を拒絶する。
当たり前だ。
彼はもしかしたら初めて自己対象化して狼狽える。
放埓な生活で行き場のない義弟も家に居候で住み着き、いよいよ家庭は混乱する。

だが、当初は単なるお抱え運転手もまともに出来ないお荷物の義弟チャックであったが、彼が謂わばトリックスター的な役回りで家族をしっかり対面させてゆく。じわじわと、家族が相手を受け容れる態勢を取り始める。
チャックという異質の要素~触媒により、しっかり自分に向き合い前向きになって行く。
こう書いてしまうとそれまでだが、その関りがワザとらしい嫌みな感じがなく、微妙で自然な感じである為、何となく納得出来る緩やかな展開となる。

ローレンスは自分の著作名を「ポストモダニズムと認識論の代償」として売り出そうとしていたが、どの出版社も見向きもしなかった。しかしヴァネッサのアイデアで、「この本を読むな」という題にしたら、すぐさまオファーが舞い込み出版の流れとなる。
大手出版社のその社長曰く、この人を食った題と内容は物議を醸し売れること間違いない、と。
その印税でヴァネッサは、合格を内緒にしていたスタンフォード大学に無事行けることに、、、。
ローレンスとジャネットもチャックの後押しで和解に漕ぎつける。


特別、感動的な映画ではないが、しっかりした作りの映画である。
音楽のセンスもなかなかのものだった。

女子美の美術展に行く

torunka.jpg

女子美術大学同窓会設立100周年記念~
「青のかけ橋 佐野ぬい賞受賞作家展」
に、先週長女と公園で遊んだ帰りに行った。


>物質がもつ”spontanéité”
>この”自発性”抜きに藝術が語れないというのもまた
>見過ごされがちな事実ではないかと・・・。

>藝術の領域で
>表現者の意図が、そのままにくまなく表出されることの方がむしろ稀で
>創造とは
>作品上に配置されたる物質
>その物質側の運動(偶然性)と、切っても切れない関係性にありましょう。
>よって、両者の統合の上に構築されたるもの

   ~エストリルのクリスマスローズより

まさに上記の通りに、作家の「意図」とその物質特有の「自発性」のせめぎ合いにのなかで生成された油絵であり銅版画であった。
基本的にこれ以外に余計な言葉は付け加えたくはない。
(作品展については以上)。


一般的に謂って、何をか作品を作るという行為にあって(テーマは100%自分で決めるという場合特に)、ほとんど誰もがこの泡立つ「せめぎ合い」を経験し、ドキドキわくわくしながら、頃合いを見極める作業をしているはず。
精神のゾンデを深みに降ろし、手探りで、創造のタイミングを狙う。
その微細なコントロールの正しさは、内的必然として感知される。
能動的に半ば自然に任せることで、創造の運河化がすでに起きている。
ものを形作る厳粛な喜び~法悦の瞬間、瞬間、瞬間。
(恐らくミケランジェロは、それは宗教性~至高体験にまで達していたはず)。

ジョン・ケージの提唱していたチャンス・オペレーションにも近い。
こちらの意思と向こうからやってくるものとの、飛躍的な融合だ。
精神と物質との高次のコミュニケーションとも謂えるか。
恐らくそうなのだ。
われわれは真に一体化することを希んでいるのだ。

生と死を超えて。


藝術に触れるとは、この現象~事件を時空をおいて認知することなのかも知れない。
遠方の星を観測するように。




007 スペクター

Spectre.jpeg

Spectre
2015年
イギリス

サム・メンデス監督
ジョン・ローガン脚本

ダニエル・クレイグ、、、ジェームズ・ボンド
クリストフ・ヴァルツ、、、フランツ・オーベルハウザー / エルンスト・スタヴロ・ブロフェルド(スペクターのボス、ボンドの義兄)
レア・セドゥ、、、マドレーヌ・スワン(精神科医、スペクター幹部の娘)
ベン・ウィショー、、、Q(天才ハッカー)
レイフ・ファインズ、、、M(007セクションのボス)
ナオミ・ハリス、、、ミス・マネーペニー(Mの部下)
アンドリュー・スコット、、、C(新国家保安センターの新しいトップ、エルンストの手下)
デビッド・バウティスタ、、、ミスター・ヒンクス(エルンスト配下の不死身の殺し屋)


レア・セドゥ繋がりで観てみた。
彼女に関しては「マリー・アントワネットに別れを告げて」の方が遥かにしっくり来ていた。
だがそんなことに拘る余地なく、007のアクションは凄い。
普段、こういうのを見慣れていない身としては、強烈である。いや、痛い。
ちなみにわたしは007は、若かりしショーン・コネリーがやっていたものを観たかどうかが、はっきり記憶はない。
ロジャー・ムーアになってから、一度見たか、、、。定かではない、、、そんなものだ(爆。
わりと最近、「ジョニー・イングリッシュの気休めの報酬」は観たが、これを鑑賞する上での手助けになるとは、思えない。

お~っと、いきなりかかった主題歌は、厳しかった。
やっぱり観るのやめようと決意した時にどうやら終わった、、、。
危機一髪である!
勘弁してほしい。
なんちゅう曲かけるの?!客が離れる!

アストンマーティン・DB10はやたらとかっこよく、何であのくらいで川に沈めてしまうのか、、、勿体ない。
もっと色々と走らせて使ってもよいではないか。特殊機能ももっと見たいし。
あの程度のカーチェイスだけでは、どうにも不完全燃焼であった。
それにしてもあんな車に乗ってみたい!子供が見たなら(大人が見てもだが)、やっぱりそこに憧れるだろう。

何やら所属組織の存続の危機に晒されているボンドであるが、そんなことそっちのけで、謹慎処分受けても関係なくやらなければならぬことがあるらしい。わたしには何のことやら分からない。恐らくダニエル・クレイグ007をずっと観てこなければ、分からぬことなのか、、、?(この映画を観た範囲で言えば、前のを観てみたい気もするにはする)。

敵はスペクターという、世界中の情報を全て掌握できる組織のようだ。
情報操作で世界中を思いのままにしようという組織らしい。(どうしたって情報は力なのだ)。
新国家保安センターの新しいトップCも、どうやらスペクターの手下らしい。
国家中枢に深く入り込んでいる巨大組織ということか。

アル・カポネも驚くような仰々しくも恐ろし気な(スモークが焚かれているような)会議が開かれていて、そこにボンドも見物に参加する。
ここで驚くのは、周りは皆強面の幹部ばかりの集まった場所だと思うのだが、いくら強いとはいえボンド独りで乗り込み、まんまと生きて帰れるというのは、どうしたものか、、、勿論、序盤でボンドが殉職してしまったら、そういう感じの題に替えなければなるまいが、、、。
ボンドは、基本単身できっとどこにでも乗り込み不死身の活躍をするのだ。
ボンドが次々に色々なところに飛ぶのだが、どういう理由で飛んでいるのかは、今ひとつ把握出来なかった。
そこに飛ぶことになった訳がよく掴めなかったのだが、ボヤっと観ていたせいであろうか?
展開はすこぶる早い。

それにしても、最初の圧倒的なメキシコ「死者の日」の祭りでのホテルの爆破と人々の賑わう広場上空でのヘリのなかでのバトルは飛んでもなかった。あれは、実際に群衆の上でやっているように見えたため、調べてみたらCGではないそうだ。
007のプライドであろうか。
そんじょそこらのアクションサスペンス映画とは格が違うぞ、というところであろう。
しかもピチッとしたスーツ姿でやるのである。流石である。よくあれだけ動いてお尻が破けないものだ、、、。
しまった。ジョニー・イングリッシュが侵入してきている!(ウイルス感染か?)
一生懸命、手強いジョニーを脳裏から追い出し、、、。

Spectre003.jpg


砂漠の地図上何もないようなところに、エルンストの築く巨大施設があり、そこにボンドと協力者のマドレーヌがロールスロイスで招かれて行く。
ここでも、彼らが着いたところでハチの巣にすればそれまでなのに、何故かエルンスト側は、丁重に出迎える。
(状況は多勢に無勢なんてモノじゃない)。
そして施設内の見学も解説付きでしてくれる。
007の出自とマドレーヌの死んだ父親のことまで含めて丁寧な話だ。
きっと自慢したいのだ。ジェームズは、自分にとって義理の弟でもある。兄弟とはそういうものだ。
自分がこれだけ情報を握っており、その情報で何でもできるぞ、ということを。
しかも世界中の人間に対して、、、。

そして大変凝った処刑に入る。
エルンストの美学の問題か。
細いドリルを頭に通すのである。
ここがわたしにとって、一番きつかった。見た目、痛そうなんてモノじゃないのだが、、、。
ボンドの超人さが実感出来る、いや出来ないところである。
あ~って叫ぶくらいで、頭に穴を開けられても耐えてしまう。
どういう頭なのだ、、、。「ハンニバル」で既視感も少しはあるとは言え、平気なのか?
筋肉で出来た脳味噌なのだろう。

そしてQに貰った腕時計をマドレーヌがエルンストに向けて滑らせると、爆発を起こし、機材も吹き飛び、腕と足枷が外れ二人は脱出。揃いも揃って、エルンスト親分の周りを固めていた部下はどうしたのか。
何のために立っていたのか、この役立たずめ!とエルンストの代わりに怒鳴ってやりたい連中だ。
そして、後を追って(遅い!)二人に対し何人もの男たちが発砲するが、勿論掠りもせず、ボンドの銃弾は百発百中である。
これは定石である。その基地は大爆破である。ふたりはヘリで最終決戦へ。

Cによって推し進められた情報網統合案「ナイン・アイズ」(各国の機密情報を掌握統括するプログラム)稼働をQが幾重にもしかれたプロテクションを破り、阻止に成功する。
こういった大きなIT犯罪では、天才で万能なメンバーの存在は不可欠である。
Qもその意味では絵に描いたようなクールな天才で見事に仕事を果たした。

最後は、エルンストがヘリで逃げるところをボンドが撃ち落とし、逮捕で終わる。
ボンドとマドレーヌはアストンマーティン・DB5に乗りこみ、にっこりとハピーエンド。
戦いはヘリで始まりヘリで終わる。
飛行機で車を止めるアクションも余りにアクロバティックで決まりすぎていたが、随所にハラハラドキドキのアクションが盛り込まれていて、お腹いっぱいの映画であった。




*わたしもアストンマーティン・DB5の方がよい。アストンマーティンのスポーツタイプはかなり操りにくいことをスポーツカー雑誌で読んだことがあるが、本当のところは知らない(笑。
だが、わたしはスポーツカーに乗れるなら、ポルシェ~ランボルギーニがよい。
関係ないが(爆。


Spectre002.jpg




ザ・インターネット

The Net001

The Net
1995年
アメリカ

アーウィン・ウィンクラー監督。製作
ジョン・ブランカート、マイケル・フェリス脚本


サンドラ・ブロック、、、アンジェラ・ベネット(コンピュータ・アナリスト)
ジェレミー・ノーサム、、、ジャック・デブリン(テロ組織のエージェント)
デニス・ミラー、、、アラン・チャンピオン(馴染みの精神科医)


題がシンプルで不気味だ。
邦題は「ジ」ではなく「ザ・インターネット」である。
「カウボーイ」が「カーボーイ」だったりするので、ありなのだろう、、、(笑。


誰のカヴァーか知らないが、プロコル・ハルムの「青い影」が流れる。
唐突に送られたフロッピーディスクを開けると、、、。
ブラウズされた画面の右下に表れるΠ(パイ)マーク。
それをクリックした途端、政府の機密情報にアクセス出来てしまう、、、。
これは政府を転覆させ自分たちの理想とする社会に作り替えようという陰謀を持つテロ組織のものであった。
どういう拍子に漏れてしまったのかはともかく、アンジェラのお得意先の仕事仲間がそれを手にしてしまい最も頼りとなる彼女に縋ってきたのだ。(彼女は、デバックにおいて天才と仲間内から評価されている)。
そのディスクを預かってしまったことから、彼女の運命が激変する。

今はもうない、わたしはドライブともどもまだ持っている、フロッピーが大活躍する。
いいなあ、、、。これだけでウキウキしてしまう。
しかしこの時期で、ネット上から生活の全てを監視されている事態を綿密に描いているのは、かなりのものだと思う。
ヴィム・ヴェンダースの「エンド・オブ・ヴァイオレンス」(1997)、トニー・スコットの「エネミー・オブ・アメリカ」(1998)よりも早い。
IT世界は日進月歩の進化速度がある為、相当に早い認識と言えようか。
確かにこのような世界はその時期、ほぼ出来上がってはいたのだが、、、。
「個人情報保護法」などが全面施行されたことからしても、危機は認識されてはいるが、急速な個人データの活用範囲の拡張に保護が追い付けるものかどうか、、、。

アンジェラは在宅勤務なのでご近所にもクライアントにも、数少ない仕事仲間にも、ほとんど顔を知る人がいない。
引き籠りつつ仕事をしている。趣味のサイトでのチャット仲間も、お互いに匿名性を第一に楽しむ間柄だ。
ピザさえ海外サーバー経由で身元を隠して注文するか?やりすぎ感はあるが、その行為~習慣が自分の首を絞めることに繋がる。
このように独りで生きている人はやはりIDデータを書き換えられたらお仕舞いか?
マイナンバー制はこんなところで、危なくないか。
サーバー上のデータを失ったところで、現実の個も喪失する。

ここで恐ろしいのは、そのフロッピーデータの存在に気付いた人間が悉く殺されてゆくことだ。
それだけの大組織なのである。
そもそもことの発端は、国防次官の自殺からであった。彼はエイズと診断されそれを苦に死んだのだが、実際はその組織によるデータの改竄であった。
データを送り直接彼女にコンタクトを図って事の重大性を伝えようとした仕事仲間はセスナ機をコンピュータの誤作動により墜落させられ命を落とす。
彼女もバカンスに行った先で恋に落ちた相手が、その組織のエージェント、ジャック・デブリンであった。
この男にはとことん、しつこく追跡され、データと命を狙われ続ける。寸でのところで機転を利かせ命からがら逃亡を図るが、このしんどさがほぼ全編を貫く。
彼女がいよいよ追い詰められ現実に面識のある精神科医を訪ねるが、入院した際に病名を書き換えられ、彼にとって劇薬となる薬を点滴され彼もまた絶命する。
チャット仲間も彼女の救援のため会う約束をしたが、現れたのはまた例のエージェントであった、、、。


大企業・銀行、政府関係、FBIが採用しているセキュリティーシステム「ゲート・キーパー」そのものが、その団体の開発したプログラムなのだ。
これでは、政府転覆は火を見るよりも明らか、、、。中枢がどのようにも書き換えられてしまうではないか。
アンジェラの言うようにトロイの木馬の働き。
彼女も銀行口座を凍結され、自分の家と車も失い、犯罪を犯し手配中の女のデータに書き替えられている。
つまり、名前も書き換えられてしまう。
突然、自分を自分と認めるものがなくなり、自分が所有していたはずのものが全て奪われている。
しかも自分に完全に成り済ました”アンジェラ・ベネット”が存在しているのだ。
自分は何者でもなくなり、犯罪者のIDで特定されている。
この辺は、カフカ的な世界でもある。情報化社会は、その方向性は確実にもつはずだ。
コンピュータによる照合を誰もが信じる。実際に彼女との面識が以前になければ当然である。
これは、もう彼女にとって、実存的発狂レベルである。

この手法はかなり見てきたもので、物語的には既視感はタップリなのだが、恐らくこの映画が走りなのではなかろうか、、、。
今でも鑑賞に耐えるし、まさに現在の問題である。
演出に不自然な点(IPアドレスにあるべき数字でないもの)があったりはしたが、それには目をつぶるとして、興味深くスリル充分な作品に仕上がっていたと思う。
「バグのないプログラムはない」なんて、しっかり今現在でも通用する認識である。
(それによってデバッグの仕事にありつける訳だ)。
収集しておいたウイルスを敵のプログラムに感染させた時の表現など漫画チックで面白かった。
当時としてはパソコンを活用して出来るサスペンスを充分実現したと思う。

結局、コピーの遅いフロッピーにハラハラしながら、追撃をギリギリでかわし、敵の出方の一歩先を読み、出し抜く。
このアンジェラという人、プログラミング技術は、現実的な駆け引きにもしっかり応用出来ている。
組織の存在をIPアドレスから探り、その黒幕が例のセキュリティーソフト開発会社の社長である証拠データをコピーし、直後に以前自分が回収しておいたウイルスの入ったディスクに差し替えてセットしておくのだ。
そこに現れたエージェントと成り済ましアンジェラ。

このセキュリティシステムを崩壊させた手口にはこちらもニンマリした。
あの相手の慌てようは可笑しかった。自分で実行したんだから何とも頓馬でどうにもならない。
先入観を利用した彼女が一枚上手であった。やり返したぞ、という彼女の表情が印象的であった。

よく出来たサスペンス映画であったと思う。
サンドラ・ブロックが本当にプログラミングの手練れに見えた。


最後もまた「青い影」が流れていた。

JUNO/ジュノ

Juno001.jpg

Juno
2007年
アメリカ、カナダ

ジェイソン・ライトマン監督
ディアブロ・コーディ脚本


エレン・ペイジ、、、ジュノ(16歳の女子高生)
マイケル・セラ、、、ポーリー(ジュノの彼氏)
ジェニファー・ガーナー、、、ヴァネッサ(養母)
ジェイソン・ベイトマン、、、マーク(養父)
オリヴィア・サールビー、、、リア(ジュノの親友)
J・K・シモンズ、、、マック(ジュノの父)
アリソン・ジャネイ、、、ブレンダ(ジュノの継母

エレン・ペイジって、あの「インセプション」に出ていた優秀な女子大生ではないか。
ここでは、軽~い、ねーちゃんである。随分役柄で変わるものだ、と今更ながら思う。
だが、そうでもない。捻くれたロックが好きな結構素直で直向きで、よい感じ?の娘であった。

Juno002.jpg

ドタバタ青春コメディだったらどうしよう、という不安をもちつつクレジットタイトルのアートワークに惹かれて見始めた。
テンポがキビキビしていて、スーッともっていかれる(笑。
主人公は、ゼウスの奥様の名前”JUNO”と父親に名付けられた女の子だ、、、。

笑えるのは「性的に活発な女の子」である。
流石にジュノもやめてよと言っていたが、同学年の訳の分からぬ男子学生との間に子供を儲けてしまったのだから、言われて当然か。ハンバーガーの携帯カバーで電話している娘である。
冒頭から言葉はクールだが、仕草から焦りまくっているのは分かる。(上手い演技)。
それを聞いた親友のリアも「それって激ヤバじゃん。」である。それはそうだが。
堕胎せず、産むと聞いて二度びっくり。しかしそのすぐ後から里親探しを雑誌とかではじめ、ペット欄の隣によさそうな里親をすぐに探し出す。これいいじゃんのノリで。

その報告を受けた父も継母も、激怒もせずあっさり現実を受け入れ、娘が堕胎せず産んで里親に渡すという案にも賛成する。
パパもその養父母に会ってみようか、、、。
自由な国だと感心する。

皆軽い。天然。だが演出はやたらと凝る。
妊娠をポーリーに知らせるとき、彼と使ったソファをわざわざ彼の家の玄関に置いてパイプを咥えてどっかと座り分かる?と聞く。
起きてるんだか眠てるんだか分からないような男子にそういう謎かけは意味はないとは思うが、こういうところは拘る娘だ。
そして極めつけは、この若きお父さん「君がしたいようにすればいいさ」だと、、、。
もはや天然レヴェルではない。人が好いとか悪いではなく、言うべきことが分かっていない。
後ほど分かってくるが、この男子もジュノのことは、好きなのだ。だが、接し方が分からない、ということだ。

この反応がジュノが出産に挑む大きな原因とはなっているはず。
しかし殊更(わざと)生まれてくる子をモノ扱いするところも軽妙さを出すためか、、、。
この脚本、エレン・ペイジで演じることにより、全く嫌みのない如何にもこの年代の典型的な女の子となって救われている気もする。


もし日本であれば、16歳で妊娠となると、過ちとして扱われることも多く、早速堕胎か、産むとなると大ごととなる。
学校にこの娘みたいに友達には受け入れられ明るく登校する(明るいジョークでからかわれはするが)のはまず無理で、他の生徒の陰険で興味本位な目~態度に晒され虐められるのは確実だろう。いやその前に休学となろう。
大きなお腹で一緒に授業は難しくなるはず。ジュノは平気でやってるが。

そしてジュノのように、最初は割り切っていても、文字通りお腹を痛めて産む訳である。
次第に母性に目覚め(この言い方嫌いだが)、契約で書類まで取り交わしてあっても、里親に渡したくないとかの、すったもんだが容易に思い浮かぶ。日本の昼メロであれば、猶更。
ドロドロとどんどん重くなる。
大体、相手の男(男子)がほとんど責任とろうとする気配もない(笑。
チョットは気にかけてはいそうだが、、、その母親など何とも思っていない。
これは異様だ。だが、向こうではそれが普通なのか、、、?
日本であれば、この相手男子とその家族同士でも、かなりの悶着が生じて当たり前である。

その上に、、、こともあろうに、養父母が離婚ときた!
どうやら旦那さん(養父)の方が、子供を貰うことに踏ん切りがつかないのだ。
まだやりたいことがある、と、、、。夢があるのだと、、、。

これには流石のジュノもショックを受ける。
彼らが絵に描いたような完璧な夫婦に見え、子供を託すことにしたのだ。
チョッと考えるが、ヴァネッサさえその気ならば、息子(男の子であった)を託したい意を伝える。
ヴァネッサはこころの底から子供が欲しいので勿論、受け取るが、シングルマザーではないか、、、。
大変な道は控えている。
しかし、ちっとも重くならない。軽快に事はトントン拍子に運ぶ。

この異様なカラッとした明るさと軽さ、無頓着さには何か清々しさも感じられる。
脚本的にもうあっけらかんとして、前に進みましょうといったコンセプトなのである。
また恐らくエレン・ペイジのキャラと演技力の効果も大きい。


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結局、ジュノはその赤ちゃんの父親高校生に愛を告白し、この先とりあえず付き合ってゆくみたいだ。
そもそも二人の関係は、ギター~バンド仲間なのであった。
ロックの結ぶ仲であったのだ。しかし、それは儚いことを学習している。
この男子がETより異星人ぽいので、終始不思議な感触を感じつつ見ていたが。
この彼は養父の予定だったマークに相似形だ。両者ともにギターに夢をかけ、将来的に不安を漂わせている。
理想的なカップルと思っていた里親が、結局男親が夢(ギターミュージシャン)を追い求め崩壊する。
これを彼女は自分たちにも引き付け感じ取るところは決して小さくない。
ジュノは、その崩壊を知って初めて真面目に泣いた。

話は単に軽快に絶妙な演出で畳みかけるだけではなく、恋愛の不毛にまで言及している。
そして今回の最初は軽はずみな行為に始まった妊娠・出産劇も一種の自立へのステップと言えるか、、、。
そうだと思う。等身大のステップだ。
端から自分たちも愛を全うできるとは限らないことを知っている。(自分もヴァネッサになる可能性もある)。
高校生の今、自分に出来る事を精一杯やろうということにした。
(のだと勝手に思ってしまったが、、、)

面白い作品である。
だが、苦手分野だ(爆。

運動会~お昼のお弁当

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前日大雨であったため、今日は中止かと密かに期待していた娘たちであったが、あえなく天気は晴れ予定通り実施とあいなったものだ。
だが、いざ運動会があるとなると、すんなり早々出て行った。
最近、朝出渋ることがあったりして、心配の種は多いが、朝はしっかり食べ、午前の種目が終わりお腹がすいたのか、お昼もちゃんと食べた。

というより二人とも凄く食べた。長女がから揚げをこんなに食べたのは初めて見た。
二人で競争して食べた。(運動会とはいえ、大食い競争ではない)。
雰囲気的に食欲が出るのか、、、とりあえず安心した。(最近、長女は食が細いのだ)。
ただ、二人とも前回二位だったから、今回頑張ると言っていた徒競走は、まことにそろって残念な結果に終わった(爆。


風は気持ちよく、時折かかる雲でヒンヤリ涼しくなる。
午後の集団表現種目は、長女は先頭でわたしの見守る真ん前であったため、よく見れたが、次女はついにどこにいるか分からず仕舞いであった(残。
午前の徒競走の後の二人三脚は、二人ともどこで走ったのか全く分からなかったし、、、。

運動会は、だんだん娘が見つけにくくなる。
ソックスに一工夫(白のロングで上にストライプ)したのだが、何と二人とも踝上のあたりまで降ろしていたのだ。
暑いと言って、、、。
それを上げていても、多分見えなかったと思う。
幼稚園の時にはまずそんな苦労は味わわなかった。
何処にいても一目で分かる範囲~スケールであったものだ。
懐かしい。


彼女らと接したのは、お昼の時だけ、、、お弁当を一緒に食べるときだけ。当たり前だが。
お昼を一緒に食べるのなら、ピクニックの方が気楽かな、、、ということで聞いてみると是非行きたいということなので、日を決めて行くことにした。
こういうお昼はよく食べる。
周りでたくさんのお昼のお弁当を楽しむ家族が、島宇宙(銀河)のように集まってきていた。
(知らないうちに)

長女は二人三脚の時、紐が途中で何度も外れて大変だったそうだ。
わたしは、その場面すら気づかなかった。
後で、赤組の他のペアに文句を言われたそうで、もう帰りたいとか言ってシートに入ってきたのだが、、、。
何と言うか、シートの中で足を伸ばし、冷やした麦茶を飲み、何種類もおかずをつまみ海苔巻きを頬張ってゆくうちに、モヤモヤしていたものが、いつしかスーッと消えてゆくのが表情を見て分かる。
食べたものが、鬱陶しく気分を塞ぐ物質と対消滅を起こすのだ。
家族と一枚のシートに座り、お重を囲んで食べる場とは、そんな大きく静かな物質反応が起きている。
やはりこれって、思いの他大切な場所~時空なのだ。


それにしてもよく食べ、とうとう完食してしまった。
どうせ食べきれないと思い、おやつなど考えもしなかったのだが、おやつが欲しくなり、別のお宅のエリア~シートに行き、そこのお友達に挨拶しそのついでで、お菓子を貰って食べていた。
銀河間の貿易?とは言わないか。
(物乞いか~!)
何軒も周り、違う種類のお菓子を幾つもゲットしてるではないか、、、。
そのまま家のシートに戻って来るなよ、と言いたくなるが、、、(苦。


今年から、校庭に場所取りは一切せず、娘の競技を見るときだけ、見易いと思ったところに移動し、それ以外は家に帰るか体育館で寝そべって待つことにした。体育館での場所取りが肝心であるが、それだけで後は何もしない。お弁当も体育館でゆったり摂ることにした。砂風も立たず過ごしやすい。


夜は近くのレストランでまた盛大に食べた(笑。
よく食べた一日である。
(そのレストランは、サラダバーとドリンクバーが特に充実しているので、彼女らのお気に入りなのだ)。


マリー・アントワネットに別れを告げて

Les Adieux à la reine001

Les Adieux à la reine
2012年
フランス・スペイン

ブノワ・ジャコ監督・脚本
シャンタル・トマ『王妃に別れをつげて』原作

レア・セドゥ、、、 シドニー・ラボルド(王妃の朗読係、刺繍が得意)
ダイアン・クルーガー、、、マリー・アントワネット(フランス王妃)
ヴィルジニー・ルドワイヤン、、、ポリニャック夫人(王妃の同性の愛人)
グザヴィエ・ボーヴォワ、、、ルイ16世
ノエミ・ルボフスキー、、、カンパン夫人(王妃の身の回りの世話係)
ミシェル・ロバン、、、ジャコブ=ニコラ・モロー(王室の記録係)


「そしてわたしは誰でもない女になった、、、」

誰でもなくなることにより、目になる。観察者となる。
丁度、宮廷内でのモロー氏のように。

きっとこの後、シドニー(でも何でもない女)は、フランス革命時の市民や貴族の様子を冷めた目で観察するだろう。
生きている間は。
(ものごとを、特にアントワネットを、鋭く見つめる彼女の眼差しが強く印象に残る、、、そう眼差しの女だ)。

自分の立場~階級を絶対視していた彼らは、斬首刑リストを見て卒倒する。
民を人としては見てこなかった。
とりあえず、パンでも与えておけば済むと高を括っていた。
しかし、パンも手に入らなくなれば、力が発動し、不意に逆襲される。
彼らにこの必然など頭の片隅にもなかったことであろう。
フランス王朝が永遠不滅であると本当に信じていたのか、、、?

この映画、視点がとても良い。
シドニー・ラボルドという王妃の朗読係が宮殿内から自分の目で確かめられる範囲の世界を描いている。
謂わば宮中の中での平民~労働者の日常である。
厨房の女たちや衛兵、衣装係、王妃専用小間使い、侍従たちに老公爵、酒とスィーツとダンスに明け暮れる司教、役者崩れの船頭、、、多くの者でごった返す地味で薄暗い空間。
豪華絢爛な広間で華麗なダンスを繰り広げるような場所は一切出てこない。
ついでに蜂起・戦闘シーンなどの派手な場面も一切ない。
宮廷内の光景も彼女の見ることの出来る範囲であるため、自分の質素な部屋など思いの他、殺風景で全体に薄暗く、場所によってはかなり薄汚い。(衛生面で、見ていてかなり心配になる環境だ)。
蝋燭を手にして歩き回るその回廊(混雑していてどんな廊下か判然としない)は出口のない悪夢の迷路を想わせる。

近くを流れる運河の不潔さ、ドブネズミも浮かんでくる。
彼女の部屋で唯一不釣り合いに豪華なものは、目覚まし時計であり、王妃の部屋に朗読に行く時間を守るため貸し与えられた物である。

革命前夜まで、宮中の人間はパリの民衆の生活の状況や彼らの蜂起についてもほとんど把握していなかったというのも驚きであった。
貴族たちは、それぞれ気のままに盗める宝飾類をあらゆるところから剥ぎ取り、オロオロと夜逃げのように汚い服に変装をして宮殿から立ち去って行く。
その救いがたい俗物振り。


マリー・アントワネットのイメージ~設定もかなり違った。
ヴィジェ=ルブランによる肖像画から言っても、もう少し豊かさと気品あふれる女優がやるべき。俗っぽい王妃であったが、寧ろそこを表すつもりであったか、、、。そんな感じである。
Marie Antoinette001
ちなみに「パンがなければ、ケーキ(お菓子)を食べればよい」という発言は彼女を妬む者の中傷であることは、はっきり判明しておりパリ民衆だけでなく貴族たちから作られた虚像が、かなり醜く膨らんでいたようだ。(例のお菓子の噂の元は、あることないこと刺激的に書くルソーから広まったという話もある、、、)彼女は寧ろ、意味のない贅沢な慣例を廃止していった側であった。それで反感を買っていたところがある。
彼女は母親としては実にしっかりとした子育てをしており、子供に贅沢をさせず情操教育に力を入れ、そこで切り詰めたお金を寄付に回していた事実も確認されている。
大衆の熱狂とは恐ろしいものだ。盲目的な暴力の波は止まらない。


ここで描かれる宮廷の人間は、、、
皆既成の権力を絶対視し疑うことのない者たちで構成されている。
そして俗物振りとその醜態がどんどん露わになってゆく。
ここでは、マリーもその例外ではなく、ポリニャック夫人のことばかりにうつつをぬかしており、周囲は全く見えていない。
勿論、シドニー・ラボルドが自分に心酔していようがいまいが、知ったことではない。
気まぐれで、シドニーの蚊に刺された跡に高級ハーブ油を塗ってあげたり、貴方を見捨てないわとか言ってみたりはするが、単なる気まぐれレベルである。
シドニーにすれば、少しでも敬愛する王妃の傍にいたい。
朗読係になったのも、得意な刺繍係だと王妃の傍にはいれないという理由からだ。
しかしアントワネットにしてみれば本を読み聞かせてくれれば、それでよい。基本的に彼女を人扱いはしていない。
だから逃亡を図る際、民衆に憎まれ身の危険が心配されるポリニャック夫人の身代わりになれと事も無げに彼女に命令できる。
流石にこれには、シドニーも驚き深く傷つくが、毅然とその役を引き受ける。
代わりに本を読んで聞かせる立場からギロチンの身代わりになる決意を固めたのだ。
しかもアントワネットの恋の相手の、代わりに、、、!
(、、、マリー・アントワネットはかなりの悪役だ(苦)。

ここからが彼女シドニーの見せ場であるが、ポリニャックのグリーンのドレスを身に纏った姿の何とも凛とした佇まい。
美しさでは、もはや彼女のその姿に敵う者などどこにもいない、毅然とした圧倒的なオーラを放つ。
気品とはこういうものなのだ!
Les Adieux à la reine002


1789年7月14日から17日までの4日間の物語であり、特に騒乱場面もなく、淡々とリアルに綴られてゆくだけ。
シドニーの暗い宮殿内を走り回る息遣いばかりが印象に残る。
光と影の扱いが極めて絵画的で、どの場面も絵として切り取れるような画質となっていた。
柔らかな闇の深さが功を奏している。
当時の再現をかなり綿密に行ったという服装や立ち振る舞いなど、キメ細かい演出も絵の醸す自然さに充分寄与していた。

エンディングは特に素晴らしかった。
やはりフランス映画!という感じである。

シドニー(もはや何者でもない女)は、恐らく生き延びてこのベルサイユの断末魔から脱走劇の顛末を回想するに違いない。
もしかしたらこの物語がその前半にあたるか。


こんな時期ではなく、王朝安定期であったなら王妃の朗読係なんて、とっても魅惑的な仕事に想える。
わたしもルイ16世の朗読係、是非やりたい。この時代に生まれていたなら、、、。
(こんな良い仕事は、はっきり言って、ない!ベルサイユの蔵書を片っ端読めるではないか)。


レア・セドゥの存在がひたすら際立つ映画であった。

今度「美女と野獣」を娘たちと観に行くことになっている。CMだけですでに盛り上がっている(笑。


レッド・オクトーバーを追え!

The Hunt for Red October001
The Hunt for Red October
1990年
アメリカ

ジョン・マクティアナン監督
トム・クランシー原作
ラリー・ファーガスン、ドナルド・スチュワート脚本

ショーン・コネリー、、、マルコ・ラミウス大佐(ソ連ミサイル原潜艦長)
サム・ニール、、、ヴァシリー・ボロディン中佐(ソ連ミサイル原潜副長)
アレック・ボールドウィン、、、ジャック・ライアン(CIA情報分析官)
スコット・グレン、、、バート・マンキューソ中佐(米攻撃型原潜艦長)
コートニー・B・ヴァンス、、、ロナルド・ジョーンズ伍長(米攻撃型原潜ソナー士)
リチャード・ジョーダン、、、ジェフリー・ペルト(米国家安全保障担当大統領補佐官)
ジェームズ・アール・ジョーンズ、、、ジェームズ・グリーア中将(CIA副長官、海軍提督)

「十月革命」か、、、レッドオクトーバーというと。


ゴルバチョフ政権の前夜の話ということ。
米ソ両政府は、このような事実はなかったと言明しているが、実際どうであったのか、、、あったならはっきり否定する他なかろう。
そんな類の事実~国家機密だ。あってもおかしくは、ない。

この映画の肝は何と言っても、、、米ソの深い狭間におけるある男の恐るべき賭けである。
二つの冷戦状態にある超大国の片方からもう片方に向けて、相容れぬもの同士一方の岸からもう一方の岸に向けて、実存の投企~暗闇のジャンプをする。ここではその狭間である深海に音を潜めて、、、突っ切ろうとする。
ソ連としては当然、新兵器である磁力型水力推進装置(無音推進装置)を装備した原子力潜水艦による亡命となれば、軍事技術の流出を阻むため消去するしかない。
アメリカとしても、正体の分からぬ脅威に対し自国防衛のため撃沈の態勢を取る。
その「キャタピラー・ドライブ」を装備した最新鋭のソビエト原子力潜水艦はソナーにひっかからず、何処からでも突如現れて核弾頭を放てる恐るべき潜水艦なのだ。

亡命がどのような真意と意図によるかどうかなどはともかく、この大胆で想像を絶する越境行為そのものの不条理さが、実に人間的なものに思える。
部下たちの命も巻き添えにした行動に、確かな橋渡しも特殊なコネも密約も取引も事前にない、、。
ただ、妻の一周忌に、飛んだのだ、いや飛び込んだのだ。
普通なら自殺行為であろう。
だが、マルコ・ラミウス大佐はアメリカ側のレセプターに全てを賭けた。
(この場合、受け入れ側の存在は絶対的な重みをもつ)。

その受け入れ側のレセプターが、ジャック・ライアンCIA情報分析官であった。
軍事演習と称しソビエト側の主力潜水艦が全てひとつの地点に向けて航路を取り始める。
不穏な非常態勢がとられてゆく。
それらと、一度だけ会議で会ったことのある軍人として崇拝されているとは言え、ラミウスの印象からジャックは、彼の大西洋の対岸に向かう動きを、亡命と断じる。

これも恐るべき勘である。このCIA情報分析官が米ソ両陣営から撃沈されようとしている厄介な潜水艦(艦長)が亡命を望んでいるという事情を可能性を超えて信じ、その線で迷わず体をはり、救援に賭ける。
マルコ・ラミウス大佐とジャック・ライアンCIA情報分析官は、傍受されるあらゆるネットワークを超えて繋がったのだ。
これが何よりも肝要な部分である。
後はラミウスの百戦錬磨の戦術の問題だ。
アメリカが静観している以上は、襲い来るであろうソ連の潜水艦との対戦のみとなる。

この映画のもう一つの特徴は、秀でたスペシャリスト揃いであることだ。

超人的で凄かったのは、ロナルド・ジョーンズ伍長の聴覚である。
音楽好きで、音に大変敏感な彼の耳は何の音でもすぐに聴き分けてしまう。
コンピューターの分析でマグマの音と判断されたものが、レッドオクトーバーのものだと割り出すのだ。
彼の能力のお陰でソ連側を出し抜き、先に米攻撃型原潜ダラスが無音潜水艦を捕捉し得たことは、アメリカ側とラミウス大佐側にとって幸いであった。大きな功労者であるが、やや出来すぎにも思える。
レッドオクトーバーの写真は撮ったが、訳のわからぬ扉が二つある構造に注目し、それがアメリカ軍がかつて開発に失敗した「キャタピラー・ドライブ」の噴射口だとすぐに割り出してしまうタイラーというエンジニアも凄いとしか言えない。
ジェフリー・ペルト米国家安全保障担当大統領補佐官も非常に狡猾でクレバーな政治家である。
行方不明になっていた精神に異常をきたした船長率いるレッドオクトーバーがアメリカ沿岸に向け核弾頭を撃ち込むつもりだ、などとゴルバチョフ以前の状況のソ連の大使から言われると、これは裏があると当然推察できるが。
そこでジャック・ライアンを選んで現地に送り込み、その真相解明とレッドオクトーバー(ソ連の技術)の獲得に賭けるのは大した手腕だ。
この物語、感覚や信念の研ぎ澄まされた超人的な人がちゃんと生かされ仕事をする(笑。


生の迫力では「眼下の敵」には譲るが、魚雷をギリギリのところで交わすシーンなどの生き詰まる描写は素晴らしい。
カリスマ船長のラミウス大佐の計算・戦術が見事に当たりまくる。
しかし彼の敵は外部だけではない。彼の最新鋭の艇の中にスパイとしてKGB工作員が紛れ込んでいるのだ。

だがそこに米攻撃型原潜ダラスに乗り込み、艦長マンキューソ中佐を説得したライアンがやってくる。
彼を乗せたアメリカ救援艇がレッドオクトーバーに接続して(実にタイミングよく)アメリカ・ソ連連合でソ連の潜水艦の魚雷攻撃を逃れる。同時に船内でKGB工作員の船体爆破の阻止に向け銃撃戦も展開する。ソ連側もこの潜水艦は何としてもアメリカの手に渡す訳にはいかない。ここはかなり見せるが、何と銃を握ったことがあるのかどうかという感じのジャック・ライアン分析官が爆破工作員を撃ち殺す。
潜水艦内というのに情け容赦ない激しい銃撃戦で、とても真面目でアメリカ行きを楽しみにしていたボロディン中佐が殉職する。

この艦長の優れた右腕ヴァシリー・ボロディン中佐がサム・ニールであるため、船内で密かに破壊工作をするKGBの人間が実は彼ではないかとずうっと冷や冷やしていた。サム・ニールでなければ、ボロディン中佐の艦長への忠誠心を疑わないのだが、、、。
彼はどの映画でも暴走の怖い人で、しほらしく収まるとは信じ難かった。「月のひつじ」は例外的に穏やかな紳士であったが。「ジュラシック・パーク」の博士もよい方であったが、、、。
結局、実直な悲劇の人で終わってしまったのは、新鮮だった。
(「オーメン/最後の闘争」、「透明人間」「ピアノ・レッスン」、何と言っても「イベント・ホライゾン」である、、、この人のイメージは)。


ソ連側は常にロシア語で喋り続けて欲しかった。
その辺はしっかり統一した方がリアリティが保てる。

何れにせよ、濃厚なアメリカ側からの視点で作られており「眼下の敵」のような中立性は見られない。
しかしアメリカ賛美であっても、それはそれで面白い。
CIA情報分析官が007まがいの(それほどスマートではないが)大きく職務範囲を逸脱する活躍をするこういったパタンもこの後よく出てくるものだ。(その走りだろうか?)
彼の分析を超えた信念の力で解決が図られてゆく流れであった。
アメリカ(ペルト)はレッドオクトーバーを魚雷で撃破したことをソ連大使に伝える。
亡命は成功し最後はライアンの故郷の川にレッドオクトーバーをそっと沈めて隠す。アメリカ大勝利、、、。


そしてやはりショーン・コネリーの醸す雰囲気で重厚な映画という仕上がりになっていた。
「アンタッチャブル」の方が良かったが、この映画で見せる威厳ある姿もかなりのものである。
そしてこんなスケールではないが、普段わたしたちもこんな投企に賭けていることは確かだ。
徹頭徹尾、計画的に進めようとしてもそんなものは先が見えている。
暗闇でのジャンプまたは飛び込みを肝心なところでやってきていたのではないか、、、。

おおそう言えば「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」が冒険の魅力をお間抜けに楽しく伝えていたが、ちょっと近いものを感じてしまった。

この映画、彼の存在で名作化している感はある。


眼下の敵

The Enemy Below001

The Enemy Below
1957年
アメリカ・西ドイツ

ディック・パウエル監督
ウェンデル・メイズ脚本

ロバート・ミッチャム、、、マレル艦長(アメリカ軍)
クルト・ユルゲンス、、、シュトルベルク艦長(ドイツ軍)
ラッセル・コリンズ、、、軍医(アメリカ軍)
セオドア・ビケル、、、ハイニ先任士官(ドイツ軍)
デイヴィッド・ヘディスン、、、ウェア副長(アメリカ軍)

アメリカ戦艦とドイツ潜水艇Uボートとの一騎打ちである。
以前、「戦闘機対戦車」というのを、観たことがあるが、遥かに緻密な戦いであった。
(向こうの映画は戦略においては大雑把な魅力であった(笑)。

どちらの船長も個性は違うがカリスマ性のある深みのある人格で、船員に頼りにされ慕われている。
話はどんどん広げってゆく映画の対極で、ただ海の上と下でソナーを頼りにした頭脳戦を繰り広げるのみ。
極めて限定したシチュエーションの逃げ場のない場で、双方ともに神経を擦り減らし精神の参る戦いを強いられる。
相手の次の手を読みながら、それを出し抜き先手を打ち、欺き合う。
そして呼び寄せた千載一遇のチャンスにここぞとばかりに魚雷・爆雷で仕留める。それをギリギリのところで交わそうとする。
お互いに死力を尽くす中、相手を好敵手と認めるに至り、最後に双方ともに戦死者を出し自分の船を失うが、ハイニ先任士官の葬儀を救援に来たアメリカ戦艦の上でとり行う。
その戦時における特異な場で、彼らはお互いに顔を合わせることになり人命を巡って友人同様の関係となる。
(それまでは海上と水中にあって、ソナーで相手を探り合うだけの関係であった)。
船長同士で甲板で海を眺めながらことば少なく煙草を吸う。

「君のせいでまた生きながらえることになった。」
「もう縄は投げない。」
「いや、また投げるよ。」

会話は、こんな流れであった。
ただ、軍医が「希望」を何度も口にし強調していた。


戦争は極力、敵の顔~人間など確認したくない。
マレル艦長も相手の艦長が只者でないことを悟るが、どんな人物かなんて知りたくもない、と言う。
殺し合う同士で、余計なことを知ってどうする、、、。
しかし互いの船が潰れ、両者脱出する際に、最後まで瀕死の船員を救出しようとしているシュトルベルク艦長の姿~人間を観て思わずマレル艦長はロープを投げた。
いずれの船長も先に船員を逃がし、自分が最後の一人となって残っている。
しかし、シュトルベルク艦長はユーボートの自爆装置を起動させていた。
一刻を争う事態に、両陣営の船員たちが二人の船長を我先に救いに駆け付ける。

そしてギリギリのところで皆、助かる。
小さなアメリカ駆逐艦の救命ボートに、溢れんばかりに米独の生き残った兵士が乗り込んでいる。
(背後で潜水艦の爆発が何度も起こり、戦艦もろとも焼け崩れて沈む)。
ポカンとした顔をした乗組員たちが善も悪も敵も味方もなく、小さな存在として海を漂う。
生が炎を背景に清々しく際立つ特異な戦場の情景だ。
そこに希望を見出したい軍医に共感する。


CGによるVFXのない時代。
実際にアメリカ海軍の全面協力による駆逐艦の出向と本物の魚雷の発射の迫力は圧倒的であった。


The Enemy Below002
The Enemy Below003




家族ゲーム

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1983年

森田芳光監督・脚本

松田優作、、、吉本 勝(家庭教師)
宮川一朗太、、、沼田 茂之(中三の高校受験を控えた少年)
伊丹十三、、、沼田 孝助(茂之の父)
由紀さおり、、、沼田 千賀子(茂之の母)
辻田順一、、、沼田 慎一(茂之の兄)
戸川純、、、近所の奥さん
阿木燿子、、、吉本の恋人


吉本の飲み物の飲み干し方が面白かった。
わたしも飲み物は何でも直ぐに飲み干してしまうので、そこに自ずと注視してしまった。
要するにチビチビ飲めないのだ。共感を覚える(笑。
酒だろうが、お茶やジュース、みそ汁もみんな同じように一気にゴクゴク飲んでしまうはずだ。
生理的な感覚の演技がとても細かく独特。
主演が松田優作であることでこの映画の質感が決まっていると思う。
(そして宮川一朗太と伊丹十三がそれをしっかり不気味に固めている)。

全て横並びなのだ。この映画、なんでも横並びである。
だから顔を見て話そうとすると、異常に近いのだ(笑。
肩が擦れ合い自由な身動きが如何にも取り難そう。この身体感覚、特異に思えるのだが、、、。
そもそも何でこの家は、こんな「最後の晩餐スタイル」をとっているのか?
たまたま縦に細長いテーブルを買ってしまったからだろうか?謎である。
しかし、家具によって人の基本的生活習慣~体癖~性格~内面及び感覚が改変・形成されてしまうことは確かだ。
ウイリアム・モリスの「アーツ&クラフツ」運動はそれを意図的に積極的に繰りこんでデザインを進めていったものだし。

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であるから、沼田家に相談に来た近所の奥さん(戸川純)は、その位置(空間)感覚に耐えられず、椅子をお尻に抱えながら千賀子の正面に座りなおした。わたしもきっと、この家に招かれたらそうするだろう。
面と向かえば、適度な距離感~空間感覚つまりはアイデンティティを保持して相手の表情~目を窺うことが出来る。
距離空間とは、そのまま自我空間という深さを形成し、わたしの足場となる。
わたしとして初めてことばを発する個人となることが出来る。
肩を擦り合わせ顔を見る距離のない、つまりは相手の肉体~物質性は感じても内面~思考の分からない関係は、とても不気味なことばだけを振り撒き続ける。それぞれが相手に届かぬ独り言を喋り、伝えた気になってゆく。

また近所の奥さんの相談事が深刻で面白い。
もう先が見えている義父が死んだら、エレベーターに棺桶入れる広さがないのにどうやって下に降ろすのか、という悩みなのだ。
やはり階段を降ろしてゆくのだろうか。かなりの高層団地の上の方の階であったが、、、。
心配になるのは分かる。死を気にするモノこそ実存なのだ。
(彼女が泣きながら心配しているのは単なる屍体の処分の問題に過ぎないか?)
死~実存は、何にせよその取り巻く場所~環境から零れ出ているのだ。
高層核家族団地には、端から死は想定されていない。
千賀子はそれに対し団地の世話役に相談すると対応するが、それ以外に彼女に何が言えよう。
このタイミングで傍では茂之という剥き出しの思春期の不気味さを立ち昇らせる息子が、何故かパンツ一つで母親に早く布団敷いてよと愚図っている。
のっぴきならない生活の更新・反復はどうにも死(のことば)には触れ得ないし届かない。

全ての登場人物の人格を匂わす(おどろおどろしい)光と影の効果が際立つ。
吉本などレンブラントの絵に出てくる深遠な、というよりとても怪しげな詐欺師に見える。
その隣に座っているのが茂之(宮川一朗太)である。実に怪しく不穏な絵に落ち着く。
この宮川一朗太が、中三の生々しい気色悪さをこれまたよく醸していた。
性と生の生々しさはあっても、死への収束を感じない突然プツンとスイッチの切れる人形感をも充満させて。

これを最も明瞭に体現する人物が千賀子であろう。
このツルツルの存在感はまさにOFFのスイッチでそのまま眠りこけるものだ。
すでに息子二人は、まだ夕方なのに隣の部屋で眠っている。
ヘリコプターがいつになく爆音を鳴らして飛んでいる。旋回でもしているのか、、、。
あらゆる行き場のない宙を舞うことばの片々を吹き散らすかのように、、、。

わたしの住む地区にも巨大なゴキブリのような軍用ヘリが爆音鳴らしてよく飛んでくる。
その意味で、既視感いや既聴感を感じるシーンでもある。
この上空に浮遊感を誘う俯瞰的位置感覚は何か。
監視・管理の不気味な暗示である。互いの目と死から切断された個~ことばが眠ったまま引き取られる先であろう。
もはや彼らに棺桶は不要だ。


ミュージシャンの戸川純のファンであったわたしは、久しぶりに彼女の姿を見ることが出来、得した気分になった。
如何にも神経質で悩みの多い、ピッタリの役柄に思えた。(飛び抜けた芸術性は、見せないが、、、団地の一主婦役である)。
そして何より松田優作の圧倒的な厚みのある存在感である。
沼田家の最後の晩餐を無茶苦茶に壊し無秩序状態にして、彼は帰って行く。
この終盤から異様に彼らの食事のナイフ・フォークや食べ音が際立ってくる。
ことばがノイズに解消されてゆくようにエントロピーが増大してゆく。
それは最後のヘリに繋がる。

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ファニーガール

Funny Girl001

Funny Girl
1968年
アメリカ

ウィリアム・ワイラー監督
ウォルター・シャーフ音楽
喜劇女優ファニー・ブライスの自伝的ミュージカル

バーブラ・ストライサンド、、、ファニー・ブライス
オマー・シャリフ、、、ニック・アーンスティン
アン・フランシス、、、ジョージア
ウォルター・ピジョン、、、フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア


昨日の”ドリームガールズ”が黒人音楽(ソウル/R&B)によるミュージカルであったが、これはいつも観るミュージカルであった。
しかし、思ったほど歌がないミュージカルに思えた。
バーブラ・ストライサンド、もっと歌ってもよいのに、、、。

オマー・シャリフは「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバコ」の方が良かったな。
ギャンブラーとは、イメージが違うな、、、。
顔がとっても真面目で誠実そうだから余計に危なさは増すが。

バーブラ・ストライサンドは勿論、名前と顔は昔から知っているが、そのパフォーマンスには馴染みがない。
彼女の文化圏には入ったことがなかったからだ。
歌もチャーミングで上手く、容貌は美人ではないことを売りにしているが、華があり個性的で綺麗である。
充分スターとして人気を集めるオーラを放っている。
謂わば、ファニー・ブライスの自伝的ミュージカルというが、バーブラ・ストライサンドその人自身のためのミュージカルに想える。
観ている間は、彼女の成功譚をそのまま楽しんでいる以外のものではなかったから。
わたしがファニー・ブライスという人を知らないことも大きいであろうが、、、。
まさに主演とは、こういうものを言うのだという姿であった。

わたしは、パンに混ざったベーグルよ。
最初から自覚的に”それ”で売ろうとしていたのは、確かだと思う。
そして何の疑いもなく自分はスターとなることを確信している。
(ここが周りの美女たちとの輝き具合の差である)。
わたしの才能が怖いのね、というのも本心からだ。
ジョークに見せかけ本心を言っている。絶対に言い出したことは、曲げない。
自分が歌う曲は自分で選ぶ、と新人なのにジークフェルド座長に臆せず言う。
また、それが客にも大うけするのだ。(笑いもとれる)。
とても自分の分かっている人である。
(自分がどうすれば最高のパフォーマンスを叩き出せるのかよく知っている)。

バーブラが自分のために自分で書いたような脚本だ。
そういうセリフが随分ある。
そしてトントン拍子に彼女は出世する(笑。
ビッグになり、彼女のことを知らない人はいないほどだ。
簡単すぎて苦労が足りないわ。
好き勝手やってきたから後から苦労するよ。
なんて、あっけらかんとした呑気なやり取りもある。
確かに彼女、巡業公演中に劇団をほったらかして、彼氏のところに飛んで行ったりしてやりたい放題である。
不思議に他の美人な踊り子たちは、彼女を心配したり庇ったりで、ファニーに反目したり攻撃したりする娘もいない。
しかし、彼女は本業ではなく、恋愛で苦労する。

ニック・アーンスティンは誰よりも早く彼女の才能と魅力を発見した人であり、彼女の初恋の人でもあったが、、、。
最初はそっけなくしていた彼女も彼の魅力に惹かれ、熱烈に愛するようになる。
そして結婚し大豪邸に住み、女の子も生まれ幸せの絶頂を迎えるが。
夫は石油に手を出し、散財する。その後はツキに見放されついに借金を重ねる身となる。
彼は何時しか彼女を競争相手として見て、自分も大きなヤマを当て同じくらいビッグになろうとしていた。
「君に追いつきたかった」と明かされて複雑な胸中を見せるファニー。

いっそのこと主夫でもよかろうに、、、。
それは無理か。
プライドの塊みたいな男である。
最後は焦りから騙されたのだろうが罪を犯し、有罪の判決を受け1年半お務めをして出所してくる。
ここでファニーはお互いのため別れる決心をする。
そのこころを舞台で切々と歌いあげ、エンドロールへ。


かなり長く感じる映画であった。
うんと時間経過を圧縮してリズムよく飛ばしているのにどうも長い。
つくりから言って大作なのだが、感情的に共感する面もなく、ほ~っと観て終わった(笑。


勿論、わたしにとって(おそらくオマー・シャリフにとっても)「アラビアのロレンス」、「ドクトル・ジバコ」の方が圧倒的に良かった。
バーブラ・ストライサンドの才能は認めるにしても、、、。




更新 Ⅱ

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何か更新する際は、時間をしっかり確保し、ゆとりをもって慌てずに行いたい。
忙しく集中できないときは次の日に回した方が、早道だったりして、、、。


1.しっかり完全シャットダウン

今更、書くまでもないが、とりあえず、、、。前回急いでいて書かなかっとこともあり、、、。

1)オンオフ~Shift押しながら再起動~PCの電源を切る。
2)設定~更新とセキュリティ~回復~今すぐ再起動する~PCの電源を切る。

どちらかのパタンで、切れるが1)の方が手軽か。
「Shift押しながら再起動」で覚えてしまえば、とっても楽である。
これはかなり肝心で、管理者権限でとか、うまくインストール(アンインストール)が効かないなどという際に、一度完全終了してから試すと上手くゆく。
(実は、iTunesを初期化後に再インストールする際に、すんなり行かず完全終了かけた後に右クリック管理者権限でインストールではじめてインストールが可能であった。)完全シャットダウンは、何かあったらとりあえずやってみる価値はある。


2.OSの再インストール

わたしは、クリーンな初期化をして暫しスッキリした気分を味わうも、メーカーバンドルソフトのブルーレイ再生及び書き込みソフトの関係もあり、パソコンのDドライブ(パーティション)経由でメーカー独自初期設定をし直すべく、サポートボタンから再度初期化を図ったのだった。
勿論、終了ではなく完全シャットダウンの後である。
時間は一定時間どうしてもかかるが、すんなり買った時を思い出すディスクトップとなっていた。
(あ~あ、またこれかよ、、、というものだが何故か懐かしくもある、、、使わないもの盛沢山)。
しかしクリアすべきメンドクサイ問題がひとつ立ちふさがっていた(笑。
わたしのノートは工場出荷時に戻すとWin8.1になってしまうのだ(爆。
まだ8.1の時に買ったパソコンだからあたり目のことだが、やはり愕然とする。
その後、10が出たところで直ぐにアップグレードして使っていた。
当然、そちらで馴染んでいるため、更に少しでも長くOSを使うため10に戻そうと思ったが、ここで気づいた。

10への無料アップグレード期間はすでに終わっているではないか(驚!!
一瞬、クラっとした。
最近わたしは情報弱者なもので、そういう方向にアンテナが伸びていないのだ。
だが、ちょいと調べてみると、一度アップグレードしたことのある端末であれば、戻せると理解できる文面であった。
早速、マイクロソフト・アンサーディスクに☎である。
最近は、どこのサポートも一律によい対応である。昔はとんでもない対応もあったものだが、、、。

初期化しても残っている以前の更新時のkeyか向こうで持っているlogでそれは直ぐに判明するはずだ。
早速、ダウンロードできるページのURLを教わり、そこから時間をかけてダウンロード。
これが結構時間がかかるため、途中で何かあったらまた連絡してくださいといったところで、受付番号を出されてサポートとは、さよならとなる。また何かあったらその番号言ってということだが、データーさえ貰えばこっちのもんである。

ファイルはISOファイルでダウンロードされる。
実行かDVDに書き込むかという選択では、迷わず書き込みにする。
また何かあったとき面倒は御免だ。
(マウントしてそのままインストールできますよとは言われたがメディアで分離して持っていた方が心強い)。
コピー後DVDからセットアップ~アップデートのインストール。
更新プログラムのチェックをしないにすれば早く終わるとはサポートの人に言われたが、後からWinアップデートからするのは忘れそうだし、同時にした方がスムーズに進むと推奨の文面もあったので、更新ファイルを見つけインストールしながら進めることとなった。時間はかなりかかるも、クルクル矢印が回っている間に、通院して薬も貰えたので、特に時間を潰した感覚はない。ついでに血液検査と尿検査もしてきてしまったではないか、、、。(別に時間を有効にと言う話にはなっていないと思うが、、、)。

ということで、エヴァノートとドロップボックスとリネーマー、エディターあたりをインストールすれば、使い始められることになった。
わたしの場合は、”mitaka”も。星はいつでも見たい。
おお、アンチウイルスソフトは大切だ。
これから少しずつ余計なメーカー・ユーティリティーを外し、極力増やさないようにしてゆきたい。
最近は全くハードな仕事はしていないため、画像・動画編集関係のソフトは、頃合いをみてからにしよう。


リナックス関係については、また後日にでも、、、。





ドリームガールズ

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Dreamgirls
2006年
アメリカ

ビル・コンドン監督・脚本
トム・アイン原作・作詞
ヘンリー・クリーガー、、、音楽


ビヨンセ・ノウルズ、、、ディーナ・ジョーンズ(シュープリームスのダイアナ・ロス役)
ジェイミー・フォックス、、、カーティス・テイラー・ジュニア(レインボー・レコードの創設者、つまりモータウンの創始者役)
エディ・マーフィ、、、ジェームス“サンダー”アーリー(花形ソウル/R&Bシンガー)
ジェニファー・ハドソン、、、エフィ・ホワイト(シュープリームスのフローレンス・バラード役)
アニカ・ノニ・ローズ、、、ローレル・ロビンソン(シュープリームスのメアリー・ウィルソン役)
シャロン・リール、、、ミシェル・モリス(シュープリームスのシンディ・バードソング役)
キース・ロビンソン、、、C.C.ホワイト(ソウル/R&Bシンガー、ソングライター)
(メアリー・ウィルソンの自伝もベストセラーだということ)


ミュージカルならではの、、、乗せられて感動!
特に幾つかの山場でのエモーショナルな持って行き方!実にソウルフルである。
ただし、今一つ名曲が欲しい。
確かに曲もよくできていて、歌唱力(声量)は大迫力なのだが、、、静かに聴かせる名曲もあったらよかったな、、、。
黒人3人娘(厳密には4人娘)「ザ・ドリームズ」デビューから解散までのミュージカル映画である。

ビヨンセのダイアナ・ロスメイクはなかなかのもの。
やはりビヨンセの美しさは飛び抜けている。
特に前半の素人臭さ丸出しの頃の演技は可憐である。発声もわざと抑えて歌っているところが、それはそれでよい。
ポップスにおいては、その声で充分にやって行ける。
終盤、自分の本当にやりたいことに目覚めソロになる決意を抱き本気でソウルフルに歌っているところもよいのだが、抑えたポップ歌唱スタイルがとても気に入ってしまった(笑。
あのまま映画で、「クレオパトラ」やったら、凄かったろうに、、、。惜しい。

プロヂューサーが中古車ディーラーで、中古車売り払って彼女らのレコードを放送局に掛けさせたというのは先見の目があるし面白い。
特に黒人音楽の特徴である強いメッセージ性を薄めて、広く白人にも受けるポップ性を高めていったプロジュースは素晴らしい。
デトロイトの黒人向けの小さなレコード会社から急成長したことはよく分かる。
これまでの黒人が成しえなかったことを実現しようという野心がありありと窺えるものだ。
前半の彼の手腕は当っていると思うが、エフィ・ホワイト切り捨て後(クビ)から徐々に厳しくなってくる。
クビを言う前に既に新メンバーミシェルがいるのに、エフィは大ショックを受ける。
彼女は同棲していたカーティスを心から愛し、すでにこの時子供がお腹にいた。
カーティスは決断そのものは当りであるが、やり方が基本的に冷徹で、ひとを目的のためモノ=駒扱いである。

ダイアナ・ロス達のシュープリームスの大成功、その後ソロでの更なる成功は、丁度ビヨンセのディスティニー・チャイルドの成功と彼女のソロになってからの爆発的成功にも重なる。(この辺は共感しながら演じていたか?)
しかし、ここでは歌唱力(声域)はダイアナ・ロス以上であったフローレンス・バラードの悲劇との対比で描かれる。
確かにエフィ(フローレンス)のエゴイストで自信過剰振りはグループや関係者に大きな迷惑はかけるが。
彼女の思いのたけに対する救いがなさ過ぎた、、、。
その後の人生の明暗のコントラストは余りに深い。
ディーナ・ジョーンズ(ダイアナ・ロス=ビヨンセ)の華々しいサクセスストーリーの影の部分をエフィ(フローレンス)が占める。
勿論、マネージメント、経営の面でのカーティスの問題も充分に影を帯びているが。
それらが織りなす関係がミュージカルに重みと痛みを与えている。

エディ・マーフィはここでも充分に面白かった。
軽みを全半しっかり彼が担ってくれたが、特にスポットに当たらなくなった後半から、話はかなり重くなってしまった。
ザ・ドリームズの余りの躍進の影でその他一人のアーティストになっていた(笑。

最後の、エフィも混ざったザ・ドリームズ解散コンサートで、カーティスは客席の彼女の娘の存在に気づき唖然として佇む。
分かれた頃と丁度歳の合う娘が、母の最初で最後の晴れ舞台を涙で見ている。
ドラマチックである。わたしもかなり沁みた。
ただ、やたらとソウルフルに歌うエフィにちょっと食傷気味にもなるが。
かえってディーナ・ジョーンズの前半の抑えた歌唱がとても新鮮でよかった(笑。

充分エモーショナルで惹きつけるミュージカルであるが、ビヨンセ・ノウルズの演技の幅がよく味わえる作品でもあった。
ジェニファー・ハドソンの歌唱力は凄いと思うが、パワーで押しまくるのはきつい感じもする。
ソウルだからそちらが正しいのかも知れぬが、、、。


更新

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今、我が家の流行はスリム化である(笑。
出来る限り小さくして、使わないものを処分する。


1.iPhoneの更新

つい先ごろ(1週間前)、ようやくiPhoneを7に更新した。
スリム化を図り、64Gから32Gに落とし、バックアップからすんなりiTunesでこれまでのように再現できずにちょっと戸惑ったがApplestoreをタップしてこれまで買った(ダウンロードした)多数のアプリから必要なものだけインストールした。
かなりコンパクトに収まった。

いままでは、ともかく何でも更に大きく、多くで、来てしまっていたのだ。
でも6plusの画面の大きさは、表示スピードとバッテリーを犠牲にしていた。
謂わば機能性を蔑ろにして無駄な大きさを確保していた。
結果、丁度良く収まるポケットがなく、これまでの歴代iPhoneの中で唯一、落としてパネルに罅を入れてしまった。
それからは、そのガジェットに対する愛着も失せてしまったものだ。
バッグに入れると取り出すのに面倒だし、、、女性用のハンドバッグならよいかも知れぬが、、、羨ましく思った。


2..パソコンOS初期化

古くなってOS自体もうそろそろネットにも繋げなくなるVISTAのノートをリナックス系OSでつかうことにした。
ついでにメインで使っているマシンも初期化した。

しかし、現在大失敗状態なのだ。
OSの初期化を何を思ったか、通常のマイクロソフトの初期化でしてしまったのだ。
設定~更新とセキュリティ~回復から、、、
ずっと長いこと特に初期化もせず(システムに影響を与えるほどの大仕事など一切せず)、やってきたためか、初期化の何たるか忘れていたところもある。
かつて画像処理にばかり注力していたころは、少し変調が見られると、即初期化をしていた。まさにその時の気分だ。
だが、その当時は、特にMacもWinもメーカー特有のアプリケーションを付属させていなかったため、初期化(修復用)ブートCDから簡単に初期化できていたし、問題も一切なかった。
今回、とてもウザく思っていたメーカーのユーティリティたちをを亡き者にしたいという無意識も働き、ついうっかり全面的な普通のショップパソコン並みにしてしまった。直後はスッキリしていて気持ち良かったのだが、、、。
そう、初期化用ブートCDがついてこないのは、ちょっと困るのだ。特にメーカー特有のお飾り付きOSで、しかもブルーレイの再生及び書き込みソフトバンドルものである場合、OSのクリーンインストールではどうにもならないではないか。
しかもテンキーもデフォルトでは使えない状態であった。
直ぐに完全に電源を落とすことが必要となった。(これ、「完全に電源を落とす」が肝心なポイントのひとつである)。
うっかりしていた。

このノートには、サポートボタンというのがあって、シャットダウン後に押せばリカバリーメニューが現れるということで、やってみたが、通常のシャットダウンではなく完全に電源を切る方であったかと後で思いあたった。
これについては、明日改めて確認してみたい。
普通のシャットダウンでは、サポートボタンを押しても、ただいつも通り起動するだけであり、それで余計にうざっと来たのであった。
しまった。である。
ともかく、無意識にやりすぎた、、、。

それにこれから先が大変である。
データだけ選別してバックアップしているが、アプリケーション、ユーティリティの移行(設定含み)などは全く考えていないでやった。
盛りだくさん環境にうんざりしたので、必要性を感じたときにはじめて一つずつ入れていくことにしたのだ。
いずれにせよ、これまで通りに使えるようになるまで、少々かかりそうだ(苦。


3.OSのチェンジ

もう、ネットにも繋げるのが不安なVISTAノートをリナックスで動かす気になった。
以前、MacをMacOSとLinux(レッドハット系)とBeOSのトリプルブートにして切り替えつつ動かしていた。
大分前のことで、MacのOSがまだ、8~9代のころである。Xの出る前、というよりXではそんな遊びは出来ない。
その頃の楽しさを思い出して、Ubuntuを入れてみようかと思ったのだが、上記の失敗もあり慎重になっている。
ISOイメージをダウンロードしてCDに書き込み、CDからクリーンインストールするか、仮想ハードディスクを作り仮想OSとしてまず様子を見ようか、、、つまりベースOSをとりあえず残しておくか、、、このノートはアプリケーション環境は何も移してはいないのだ。
ろくなものは入っていないと思っていてもあまりに無意識に使っていて、あることを忘れているソフト、またそういうものに限ってその製品にバンドルされた特別なソフトであったりもする。*2でのように。
しかしもうVISTA主体では動かせないのと、Ubuntuなら仮想環境でも問題なく動くのではないかと思うので、とりあえずやってみようかと思う。
GUIが気に入ったら全面的に切り替えたい。


きょうは、娘の遊びの付き合いと、女子美で作品鑑賞、それに「これ」という大忙しで、今書いているのもサードノートであまり設定やインストールをしていない、乃木坂宣伝のマウスノートから書いている。(だが、うちで一番高い処理速度と良いグラボを持ってはいる)。今後もこのパソコンには、極力余計なものは入れないようにして使ってゆきたい。

ザ・コア

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The Core
2003年
アメリカ

ジョン・アミエル監督

アーロン・エッカート 、、、ジョシュ・キーズ博士
ヒラリー・スワンク 、、、レベッカ“ベック”チャイルズ少佐
デルロイ・リンドー 、、、エドワード“ブラズ”ブラズルトン博士
スタンリー・トゥッチ 、、、コンラッド・ジムスキー博士
チェッキー・カリョ     、、、サージ・レベック博士
リチャード・ジェンキンス 、、、トーマス・パーセル将軍
アルフレ・ウッダード 、、、スティックリー
ブルース・グリーンウッド 、、、ロバート・アイバーソン船長
DJクオールズ 、、、“ラット”/セオドア・D・フィンチ(天才クラッカー)


ヴァージル号なかなか良い!
ジュールベルヌのファンタジーからすると、重いのだが面白い。
地底探検である!
これは、宇宙探検より難しいところがある。
いまのところ、地底について分かっていることは少ない。
データーの乏しい中で、かなりのチャレンジである。

まず、地球の核の回転の停止により磁場が消失し、太陽風に曝されることで人類が滅亡する。あってもおかしくない。
(太陽風による影響やトラブルは日常茶飯事だし、酷いときには実際に変圧器が焼き切れ送電が止まり大停電が起きたりしている)。
宇宙線も直接降り注ぐようになれば生命はすぐに死に絶える。
焼かれる前に、最悪の場合(大規模に起きれば)太陽風(太陽嵐)で大気が吹き飛ばされるだろう。

小規模に徐々に来るとすれば、
飛行機、人工衛星が被害を被る。(人工衛星や宇宙ステーションは基本的に地球内に位置している。厳密に宇宙とは言えない)。
勿論、深刻な健康被害を含め。
今回は、人工地震発生装置ディスティニーの実験?によりコアを止めるほどの影響を与えたというが、例えば地磁気の逆転が起きる際にもかなりの変動が想定される。
今現在、地磁気が著しく弱まっていて、逆転が起きる予兆ではないかと言われている。この変動期に核のダイナモ構造が壊れ、停止することもあり得るとすれば、、、。(暫くそういう話題があったがその後どうなっているか)。何が原因でそれが起きるか分からない。この映画のように。実際に外核がどのような様相を呈しているか分からないのだ。核自体も冷えてきて内外の回転差も逆転する可能性もあり、全てが内核化してしまう恐れもある。そうなれば第二の火星だ、、、。地球も真っ赤な星になってしまうかも。
これはあくまでも(最悪の)極論であるが。

地球は地殻、マントル、核からなっており、内核は鉄とニッケルによる固体、外核は流体でそれが地磁気を発生させている。
地表から2900kmのところから外核となる。
ちなみに内核(月くらいの大きさ)はほぼ太陽と同じくらいの温度である。
今回はその流体で構成される外核にアクセスする大冒険である?

そこにはかなりの疎密が存在し、空洞もあり巨大な水晶宮がそこにあったり、巨大なダイヤモンドが行く手を阻んだりするという。
こういう光景はただ楽しい。ちょっと嬉しくなるところ。ここで金に目の眩むクルーも出てもよいかと思ったが、、、。
ジュールベルヌならその先に、地底人や地底都市も出してくるだろうが、地底の怪物などもいてよい。
しかしこの映画はわりと大人しい。
その分、何故かひとりまたひとりと選抜された優秀なクルーが死んでゆく。
ある意味、それが見どころなのかと思えてくる。
そうだとすると、もはやベルヌではない。

折角地底にまで来て、面白い想像界が垣間見られるかと思いきや、重苦しい人間ドラマ見せられてもなあ~という気はする。
それはほかの映画でもうんざりするほどやってるし、、、。
それぞれ人間はよく描かれていたと思うが、ちょっとあっさり死に過ぎていたというか、あのパタンだとみんな死んでもよかった気はする。
ただ、全員無事に帰って来ても充分に物語は成り立つと思うのだが、どうしてもそっちの方で重々しく悲劇的に見せたかったのだろうか、、、。
そうすることで、物語が凡庸になった気はする。
全員帰還するか全滅するかの方がすっきりしてよい。
主人公の男女ふたりが助かるという物語の結末の既視感にはわれわれ地球人は聊か食傷気味なのだ(爆。

でも、地底に出て行った事~ストーリーは、頑張ったと思う。
しかしもう少し内核の光景を見せて欲しかった。
創作としてのディテールを追及してもらいたかったのだ。
このような地底物はなかったと思う。
着眼点、特に地中にアクセスしなければならないと、決断に至るまでの説得力はあった。

その後の天才博士~エンジニアであるブラズ独り?によって建造された地底船?や岩石を一瞬にして溶かしてしまうレイザー砲。
更によく分からなかったが、気圧が高まることで強まる船体の剛性というその新素材の開発が知らぬところで完成されていたというのも凄い。これは軍の最高機密で進行していたプロジェクトなのか?確かに地震発生機ディスティニーもそうであったが。
少なくとも地底船開発における新(革命的)技術は、一般生活にも充分に応用・活用できる素晴らしいものではないか。勿体ない。
あの2500℃までしか耐えられない防護服でブラズが5000℃の環境に入って作業する姿はちょっとどうかと思った。
(普通一瞬にして死ぬしかないであろう。眼鏡にヒビ入れている場合ではない)。
せめて4900℃まで耐える服にしてもらわないと現実感に乏しすぎる。


何れにせよ宇宙に飛んで好き勝手な冒険したり、侵略者に襲われてみたりするばかりでは、もうもたない。
実際、宇宙に飛んでゆけば何でも許される。何でも使える。どうにでもなる。
ブラックホールやワームホールやホワイトホールやダークマター、ダークエネルギー、反物質、時空の歪み、、、ワープ等々。
ダークマター、ダークエネルギーはまだ扱われていないか?
地底でひとつやってみようとというプロジェクトはよいと思った。
しかしそれが窮地に追いやられた人間の葛藤や苦悩、強さそして使命感、自己犠牲、勇気を表現するというだけでは片側の面白さに留まる。わざわざ地底探検でやらなくともよかろう。うんとビジネスライクにやっても問題ないはず。
自然界に対する驚愕や畏敬の念や究極の美への陶酔や超然とした認識や至高体験、アルタードステイツ、、、限界を超えた内面を探求した冒険でもあったはずである。それ相応の光景~心象風景が欲しい。
これが神学的になればタルコフスキーである。(スタニスワフ・レムはそれを嫌ったが)。

コンラッド・ジムスキー博士が登場人物の中でもっとも、馴染める普通のリアリティあるキャラに感じた。
揺れ動きや気持ちの流れが理解できる憎めない人である。
天才クラッカーの少年は、いそうで実際いそうもない(笑キャラであったが、ちょっと魅力的であった。
オタクを極めた人間は、やはり味わいがあって面白い。(個性的で良い演技だと思う)。
最後はクジラが超音波でエネルギー切れで水底に沈むふたりの船の所在を教えてくれるというのも、かなりのものである。
“ラット”がいなければ、そのまま見殺しとなってはいたが。ここが彼の最大の出番であった。
クジラは地球の生物代表として地球そのものを救ってくれた彼らに対する感謝の念を示したのだろうか、、、
確かにクジラなら分かるはずだ、、、。

結構、奥の深い映画であった気がする。


わたしは、この映画好きか嫌いかと問われれば、好きである(笑。









大いなる男たち

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THE UNDEFEATED
1969年
アメリカ

アンドリュー・V・マクラグレン監督
ジェームズ・リー・バレット脚本

ジョン・ウェイン、、、ジョン・ヘンリー・トーマス大佐(北軍)
ロック・ハドソン、、、ジェームズ・ラングドン大佐(南軍)
ベン・ジョンソン、、、ショート・グラブ(トーマスの部下)
アントニオ・アギラー、、、ロハス将軍(メキシコ革命派)
ロマン・ガブリエル、、、ブルー・ボーイ(トーマスの養子、チェロキー)
リー・メリウェザー、、、マーガレット・ラングドン(ラングドン大佐の妻)
メリッサ・ニューマン、、、シャーロット・ラングドン(ラングドン大佐の娘)
マリアン・マッカーゴ、、、アン(ラングドン大佐の兄の未亡人)

「大いなる男たち」って、、、まずDVDを手に取って見ようとは思わない邦題だ。
かなり恥ずかしい。
最初から気持ちが萎える。TVに入っていたから、そしてジョン・ウェインアレルギーがなくなればそれもよいと思って、観てみた。
結果、逆であったが、踏ん切りがついた一作である(爆。


これ程、紋切り型の使い古しの既視感で塗り固められたイメージしかない映画も珍しい。
一言で謂えば、退廃映画である。脚本・演出面から言っても。
この聊か気色の悪い人間ドラマを見せつけられては、馬が何頭並んで疾走しようが、そこだけでこの作品を買う気になどなれない。
(昨日は牛の爆走であったが、、、彼らは走るだけの出演でもともと牛馬に罪はない)。
自然の~野生の動物なダイナミックな生態や群れの迫力が見たいのならBBCのドキュメンタリーフィルムを観ればよい。
幾らでも凄いものがある。
これだけの数の馬(映画では3000頭)を走らせた手間に感動する為にわざわざこんな映画を見るほどこちらも暇ではない。

実は、ジョン・ウェインやジョン・フォード系監督の作品を見直したい(肯定的に共感できるところなど探したい)気持ちもあり、その手の映画を機会もあり幾つか見てきたのだが(TVで丁度やっていたし)、もう限界これでおさらばしたいものだ。
最も見たくない監督・主演俳優リスト入りと相成った(残。

この全てが予定調和に運び、どのシーンも一体どこからこんな鄙びたネタ拾ってきたかという如何にもという感覚の上なぞり。
頃合いをみてそれらを徐々に小出しに繋ぎ合わせてゆく。
はい、ここ等辺で男同士の友情を育む乱闘を入れましょう、とか尺を決めて配置する。
まるで、昔のドリフのコントを見る思いだ。(あっちの方がずっと楽しいが)。
まあ、そのワザとらしい乱闘部分が最も不快なところだ。
おちゃらけだが既視感たっぷりのお決まり芝居で嫌味がある。
サム・ペキンパーの対極に位置する。
真面目にやれと言いたい。
普通、あれだけ殴り合えば死人が何人か出てもおかしくはない。
勿論、あの部分をバイオレンスで行けという訳ではない。
確かにリアリティなどそっちのけの映画であるのは分かっているが、コメディとして作っているのでもない。
そこなのだ。

恐らく敵同士戦ってきた男たちが、終戦とともに反目しながらも友情に目覚め、相手の窮地を救い互いの信頼を育んでゆくといった気持ち悪い友情物語を真面目に作っているのだ。
南北戦争が終結した後なら、もう大義も何もない。
馬を売る相手など、金さえ入れば誰でもよい。
合衆国だろうがメキシコの皇帝だろうが、どうでもよい。
勿論、合衆国からのエージェントは明らかにそれによって私腹を肥やそうとするのが見え見えであった。
金を約束通り払うというメキシコ皇帝側に寝返る。
要するに、もうトーマスたちは大義は捨てている。個人主義(個人の価値観)で生きる。それはよい。
ここに野蛮な盗賊が介入し元北軍が、どこかで巻き返しを狙いたい南軍を盗賊の襲撃から助ける。
戦争後の空白期(虚無的なところ)に、友情という価値を彼らは新たに見出す。
更にファレス大統領を擁する革命軍に騙され捕虜にされた南軍を、自分たちの集めた馬をロハス将軍に差し出し又も救い出す。
これでは南軍が負けるはずだよと分かるが(笑。
そしてトーマス大佐たち元北軍の面々は、自己犠牲(転がり込むはずの大金を失う)を払い、かつての敵を最後まで助ける充足感に浸る。
一方南軍は、メキシコに入り巻き返す事は諦め、故郷に帰り新たな生活を始めることにする。
もう敵対はしないという決意であろう。
マッチョな友情~隣人愛の物語とも謂えるか、、、。
そう、余りに「物語」なのである。
分かり切った「物語」をどこかで突き破る、または充溢する強度が端からない。


何というかこの基本的な構図は、映画の作り~脚本、キャスト次第ではもっと何とかなったのでは、、、という気がする。
ロック・ハドソンはあまり、このマッチョで粗暴な雰囲気に染まっておらず良かったが、それ以上の何かでもなかった。
知的な怠惰だけを感じるマッチョ映画であった。



チザム

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Chisum
1970年
アメリカ

アンドリュー・V・マクラグレン監督
アンドリュー・J・フェナディ脚本・製作

ジョン・ウェイン、、、ジョン・チザム(大牧場主)
フォレスト・タッカー、、、ローレンス・マーフィー(マーフィー商会経営者)
パトリック・ノウルズ、、、ヘンリー・タンストール(法を遵守する地主、ビリーの恩人)
ジェフリー・デュエル、、、ビリー・ザ・キッド(銃の名手)
パメラ・マクマイラー、、、サリー・チザム(チザムの姪)
グレン・コーベット、、、パット・ギャレット(チザムの部下)
アンドリュー・プライン、、、アレクサンダー・マクスウィーン(弁護士)
クリストファー・ジョージ、、、ダン・ノディーン(賞金稼ぎ)
ブルース・キャボット、、、ブレイディ保安官(マーフィーの手下)


ジョン・チザムのテーマソングがいきなり流れ、彼の功績が絵本のような絵で示され、実在の人物であることを知る。
南北戦争後のニューメキシコが舞台。
ペコス川周辺の広大な土地を開拓し所有する大牧場主チザムの生き様を中心に当時を描く。
牧畜で成功を収め巨万の富を蓄えた人物だ。
彼は確固たる信念を持ち、法を遵守し思いやりもあり先住民への敬意も忘れない。
公有地の先買権を独占的に持ってはいるが、民衆にそれを開放している。
貧しい農民やメキシコ人に対し特に気をかけている為、地域住民から深く慕われている。
だがそこへ入り込んできた手段を選ばない新興資本家マーフィー商会が金の力で知事や軍隊、保安官を意のままに動かし、新興資本家たちで地域を侵食してゆこうとする。彼はチェスのゲーム感覚で勢力拡大を進める。手下を使い牛泥棒などもさせているのだからもはや戦略的資本家と言うより無法者であろう。
(しかしある意味市民社会~資本主義が徹底してゆくアメリカの必然的な流れでもあり、この勢いを食い止めることは出来ないものである)。

マーフィーの度重なる強引な手法や策謀や果ては殺人にも及ぶやりかたに、不正を訴えに知事のところに丸腰で一人向かったタンストールは旅の途上で牛泥棒の汚名を着せられ保安官助手に射殺される。それは先に撃ってきた相手に対する正当防衛であると。
自分に文字の読み書きと聖書の世界を教えてくれた恩人が謀殺されたことに憤り、ビリー・ザ・キッドは復讐を誓う。
法で裁いて絞首刑にしようと捕らえた保安官助手たちをキッドは保安官もろとも射殺し、マーフィーたちを殲滅しようと向かってゆく。
ここでは、チザムの他にビリー・ザ・キッドとパット・ギャレットという西部の伝説の英雄もしっかり活躍している。
とは言え、キッドに対しギャレットは堅実で大人である分少し印象は弱い。
キッドは謂わば正義の無法者といった存在となる契機がビビットに描かれてゆく。
彼の暴走により、事態は加速する。

ここから一気に(不可避的に)チザム陣営対マーフィー陣営の直接対決に進展してゆく。
(それまでは、タンストールの説くあくまでも法的に解決をする方針にチザムらは従っていたが)。
キッドたちの協力者であるマクスウィーン夫妻も巻き込んだ、双方の壮絶な撃ち合いとなるが、隙を見て逃げ出したマクスウィーンの妻がチザムに助けを求める。
ここからは、西部劇の醍醐味か、マーフィーたちはバリケードを作り、チザムたちを川に回り道をさせ一斉に狙い撃ちする策を講じる。
だが、チザムはそれを鋭く見抜き、バリケードを突き破って一直線に攻め落とす戦法に出た。

牛の大群でバリケードを破り敵を押し詰めるところは、圧巻としか言えない。
やはりチザムは、牛が武器である。(何と10万頭の牛を飼っていたらしい)。
非常にダイナミックな中央突破で、これでは敵も形無しだ。
チザムの加勢で圧勝に終わるも、途中で話し合いによる和解に持ち込もうとしたアレクサンダー・マクスウィーンは射殺されてしまった。
タンストールと同様に民主的に解決を図ろうとすると尽く殺されてしまう構図である。
日々聖書を読みその教えに浸かっていたビリー・ザ・キッドであったが、銃で物事を解決する方向性に走り、逃げたノディーンを追いそのまま街を出てゆく。
いみじくもパット・ギャレットが彼に言った、お前に染み付いた死臭を消すには忍耐とよい友人が必要だという言葉の重みが染み染み感じられた。

ギャレットがチザムとキッドの違いをサリーに優しく言って聞かせるところで、チザムの器が改めて語られる。
彼は復讐ではなく、正義を実現しようとしたんだ、、、というところは、とても忍耐が必要で肝心なところだ。


フィクションを通し、実在の人物の生き様が活き活きと描かれていた。
ここでのジョン・ウェインも良かった。

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どことなくトイストーリーを思い浮かべるのだが、、、。

リバティバランスを射った男

The Man Who Shot Liberty Valance001

The Man Who Shot Liberty Valance
1962年
アメリカ

ジョン・フォード監督・製作
ジェームズ・ワーナー・ベラ、ウィリス・ゴールドベック脚本

ジョン・ウェイン、、、トム・ドニファン(早撃ちガンマン)
ジェームズ・ステュアート、、、ランス・ストッダート(弁護士~上院議員)
ヴェラ・マイルズ、、、ハリー・ストッダート(ランスの妻)
リー・マーヴィン、、、リバティ・バランス(無法者)
エドモンド・オブライエ、、、ダットン・ピーボディ(新聞社編集長)
アンディ・ディヴァイン、、、リンク・アップルヤード(腰抜け保安官)
ケン・マレー、、、ウィロビー医師
ウディ・ストロード、、、ポンペイ(トムの使用人)


ランス・ストッダート上院議員が妻ハリーと共に、西部の町シンボーンに戻ってきたところから始まる。
今ではその名を知る人も僅かとなってしまったトム・ドニファンの葬儀に駆けつけて来たところであった。
その男こそ「リバティバランスを射った男」である。
今やアメリカ全土でも著名人であるランス・ストッダートを取材する新聞社に応えて語る追憶の物語である。

随分と前に観たことがある映画であった。
印象に残っていたのは、まさに「リバティバランスを射った男」のシーンであった。
拳銃は素人のジェームズ・ステュアートが無法者のリー・マーヴィン向けて発砲するときにピッタリ合わせてジョン・ウェインが物陰からリー・マーヴィンを撃ち殺すところだ。
当時、わたしはどうしたって発砲の僅かな時間差があるはずだから、その銃声から少なくとも当事者ランス(ジェームス)は違和感をもつのでは、と思ったが、そのままで進展してしまう。
後で大事な局面で、トム・ドニファン本人が、ランスにその場面の真実を明かして殺人の重荷から彼を解いてくれる。
そこは、とても感慨深かったものである。


トイ・ストーリーのウッディにどこか似ているジョン・ウェイン。時折操り人形を想わせるところがある。(特に顔)。
出てきたときは何か苦手だな~と思っていたのだが、ランスの影武者をして、自分の力で切り抜けたな、と一言行って去ってゆく姿には痺れた。漢の中の漢だ(爆。そのあたりから彼の方に感情移入して観るようになった。
役によってはかなり抵抗を感じるものもあるが、この映画のジョン・ウェインは素敵だ。
「ドノバン珊瑚礁」では、ジョン・ウェインとリー・マーヴィン共演であったが、わたしにとっての印象は両方とも最悪であった)。
しかし、相手がどんな人間であろうと、人を殺すということの重みがズッシリ描かれているものであった。
トム・ドニファンは結局その後の人生を棒に振ることになったではないか、、、。
ここは大きい。他の西部劇でここまで追求されたものがあっただろうか?
ジョン・フォード監督のものでも他にはないと思う。
あの行為は愛する女性の為だけのものであろうか、、、ランス・ストッダートへの共感なしには出来ないことに思える。

「サイコ」でジャネット・リーの妹であった、ヴェラ・マイルズの強く優しい芯の通った女性も魅力的である。
読み書きをランスから習おうとした時の健気さには、胸を打たれるものがある。
ふたりの男の間で揺れ動く女の気持ちをよく表していた。
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大変な頑固者のランス・ストッダートは最後までバランスに法の裁きを受けさせようと頑張るが、言論の自由を死守しようとするダットン・ピーボディが襲撃を受け瀕死の重傷を負ったことから、銃でバランスに対抗しようする。
とてもアメリカ的に思えたが、実際にあの状況にいたら、誰かがランスにならざる負えなかったか?
如何にも彼は「アメリカの良心」の代表として描かれているように思える。
武力に訴えることをもっとも嫌った彼がそれを行ったことに、人は動かされる。
法による民主化路線も進む。
編集長ダットンも弁舌で熱烈に彼を応援するが、彼のこころを救い、前に進ませたのはトムであった。
トムから、彼が結婚相手と決めていたハリーも託される。


何枚ステーキを食えば気が済むのか(しかもツケで)という感じのリンクも面白い味を出していた。
しかしこれほど臆病で保安官が務まるものか、、、?
と言うよりどういう経緯で保安官となったのかそれが不思議である。
リバティ・バランスに怯えまくり、彼が死んだら急に威勢が良くなったのは何とも分かりやすい男だ。

トムのサポートに余念がなく、肝心な時に銃を向けているポンピーも重要な役柄であった。
常に時に応じた自分の仕事をしっかりしている人間である。

だが何と言っても、リバティ・バランスである。
これほど如何にも悪そうで、そのまま悪な男っているだろうか。
部下の一人が止めないと完全に死ぬまでムチウチしてしまう病的な悪だ。
(あの部下は実はこの男に付いて歩き、重要な役目を担っていた感がある)。
しっかり法がしかれる前(それは鉄道が敷かれる前でもある)は、こんな暗黒時代が続いていたのだろうか。
「最前線物語」の軍曹は、重厚で渋くて不死身だが、ここでは見事に撃ち殺される。
実際にこのような暴力のまかり通る時代を終わらせるには、ランスの導いた法による統治を推し進めるしかない。
The Man Who Shot Liberty Valance002

この物語、人間が大変深く豊かに描き込まれている。
その上、ストーリー自体が素晴らしい。
異色の優れた西部劇だと思われる。

全編を通す追憶の美しさと哀愁が、これほど見事に描かれた映像は、なかなかないのでは、、、。
とりわけトム・ドニファンの育てていた(廃屋となった彼の家に育っていた)カクタス・ローズが愛らしくも哀しい。


わたしとしては、ジョンフォード監督映画では一番好きなものだ。



殺したいほど愛されて

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UNFAITHFULLY YOURS
1984年
アメリカ

ハワード・ジーフ監督
プレストン・スタージェス原案

プレストン・スタージェス監督の「殺人幻想曲」(1948)のリメイクということ。
この映画は観ていない。

「殺したいほど愛されて」という邦題、もう少しナスターシャ・キンスキー側から描かれていれば、とてもピタリな題だと思う。

ダドリー・ムーア 、、、クロード・イーストマン(世界的指揮者)
ナスターシャ・キンスキー、、、ダニエラ・イーストマン(イタリア女優、クロードの妻)
アーマンド・アサンテ 、、、マクシミリアン(プレイボーイの若手バイオリニスト)
アルバート・ブルックス 、、、ノーマン(クロードのエージェント)
キャシー・イエーツ 、、、カーラ(ノーマンの妻)
リチャード・リバティーニ、、、 ジュゼッペ(イーストマン家の料理、世話役)
リチャード・B・シャル、、、ジェス(私立探偵)


ジャズピアニストで作曲家でバイオリンも上手い、ダドリー・ムーアのドタバタ・ラブコメディである。
指揮者役は様になる。
ピアノ伴奏も軽くこなしている場面もあったが、自然で如何にも決まっていた。
彼とマクシミリアンとの”モンティのチャルダッシュ”のバイオリン同士の演奏バトルはちょっと、鬼気迫るものがあった。
バイオリン格闘技か!
やはり楽器を弾かせたら迫力あるひとだ。ダドリー・ムーア!
それ以外はひたすらコミカルだが。
そしてそれがほとんどであった(苦。

UNFAITHFULLY YOURS002

妻が自分より20以上歳下で、絶世の美女、しかも周りにはプレーボーイのイケメンが目に付くとあっては、落ち着いて演奏旅行にも行けない世界的指揮者クロード、、、。
家を空ける間、妻を頼む~目をかけてくれと謂ったつもりが、使用人のジュゼッペは勘違いして妻の行動をヘッポコ私立探偵を頼み調査させてしまう。
しかし素行調査とはとても言えない、単にマンションホールに入って来る姿の備え付けVTR画像を調べただけ。
しかもノイズが尋常ではないというお粗末なものである。そこで探偵がクローズアップしたアーガイル模様の靴下。
指揮者と第一バイオリンの間柄のマクシミリアン愛用の靴下らしかった。まさか、とびっくりするクロード。
何故かマクシミリアンがクロードの家で寛いでいた時、絨毯に妻にプレゼントしたカボチャ型のブローチが落ちていた。
ヴィデオをもう少し後まで再生すれば、マクシミリアンの後にマンションに入ってきたのは、ダニエラではなくカーラであることが分かるのだが、探偵の実にいい加減な推測であり煽りである。
しかも、カーラもハロウィーンパーティに向け、同じカボチャ型のブローチを買って身に着けていたのだ。

ここで冷静にマクシミリアンの部屋を使った弁明を聞いておけば、そこで話は落着なのだが、クロードはもう意識~知覚が完全に妻の浮気の枠組みで作動している。それ以外の話~事実は受け付けない。更に元々嫉妬深い性格も災いしている。
アーガイル模様の靴下やカボチャ型のブローチだけで、日頃、引け目を感じているクロードの妄想は悪い方向に膨らむばかり、、、。
ついに嫉妬と怒りに狂い、妻殺しを決意する、、、?こういう方向性もあるのか、、、。
妄想で突っ走る人なのだ、、、芸術家にはいそうであるが。
コンサートで「チャイコフスキーのバイオリン協奏曲ニ長調作品35」のオーケストラ指揮をしながら、指揮の方は上の空で妻を殺害しその浮気相手と勝手に決めつけたマクシミリアンをその犯人に仕立て上げ、死刑にしてやろうという妄想に耽り、不気味な高笑いをする。
マクシミリアンは明らかにそれを見て不可解な顔をしている。
客は立ち上がって熱狂的に拍手を送っている。流石に名指揮者である。

それがクロードの計画~妄想としては、完全犯罪で高笑いなのだが、実際に実行に移すとなると、全く上手くゆかない。
マクシミリアンを眠らせるつもりで出した睡眠薬入りのコークは自分で飲んでしまうし、、、。
ミスタービーンか?と言いたくなる。
その後の手際については、ミスタービーンの方が数段上である。
何をひとつやるにしても、ズッコケぱなしで笑わせるが、これで完全犯罪など100年早い。
ひとりでドタバタしている間に、真相が分かると同時に悪事がばれクロードはダニエラにこっぴどく叱られる。

結局、マクシミリアンがイーストマン家を借りてカーラと浮気をしたことを、クロードがダニエラとの浮気と誤解したのだった。
とは言え、ひとの家を浮気場所に使うこと自体、誤解を生む可能性の大きい迷惑行為だ。
まして、この家の妻は、一際目を引く美貌の持ち主、夫は人一倍嫉妬深い男で、大変危険ではないか。
他でやれというところだ。
観終わってみれば、ダニエラ以外、みんなどうなってるんだというひとばかりであった。

最後は自分で飲んだ睡眠薬のおかげで呂律も回らない夫を美貌を誇る若き妻が背負って家に連れ帰るという、かなり痛い何とも言えないハッピーエンドのコメディ、であった。
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ダドリー・ムーアがピアノのプロとしての腕前を封印して、指揮者に専念していたが、ちょっとは、見事なピアノソロなど聴いてみたかった。(勿論、クラシックで、、、ジャズではなく)。
バイオリン演奏は聴けたのでそこは、得した気分であるが、、、(お相手は、吹替だろうな)。
ナスターシャ・キンスキーは確かに類を見ない美しさである。が、わたしは思わずあのお父さんの顔を思い浮かべてしまった(爆。
物凄い怪優(クラウス・キンスキー)であるが、何故かこの天下の美女に似ているのだ。

何故か似ている。
不思議だ、、、。



冷光

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>そして
>あとは、だいじょうぶ

>月の光が
>すべてを優しく包んでくれましょう。


今、次女からの子守歌のリクエストで、わたしがチョイスして作った遊佐未森コレクションをかけている。
もう眠っている様子だ。
彼女の曲に身を任せ微睡み漂ううちにわたしの身は月の冷光を感じている。
いつしか励起してゆく魂、、、。

ディテールが泡立つ。
とても小さな密かな世界で
キラキラと蛍が舞う。


>朔月に向かう日々
>満月に向かう日々

>満ちれば欠ける

>されど欠ければ
>また充ちゆく


反復と差異がこれ程に心地よい。
音楽というものはいつもこのように、、、微分的に。
呼吸とすべての流れを浄めようとするものなのだ。

音楽があれば、信じてゆける。
どこまでも。
眠りの奥底。
その向こう側にまた生まれたとしても。

決して熱を放たない
冷光を滲ませる月が灯る。
それを信じることが出来る。


そして
あとは、だいじょうぶ

月の光が
すべてを優しく包んでくれましょう。


       引用はすべて「エストリルのクリスマスローズ」より。

アフリカの女王

The African Queen001

The African Queen
1951年
アメリカ・イギリス

セシル・スコット・フォレスター原作
ジョン・ヒューストン監督・脚本


ハンフリー・ボガート、、、チャールズ・オルナット(アフリカの女王号船長)
キャサリン・ヘプバーン、、、ローズ・セイヤー(宣教師)

この辺で過去の傑作名画を観たくなってくるというものだ、、、(笑。


ドイツ領東アフリカの奥地で布教活動をしていたセイヤー兄妹であったが、第一次世界大戦が始まりいきなり村をドイツ兵に焼き打ちされてしまう。住民は皆兵士として働かされるべく連れ去られてしまった。
ローズの兄はそのショックでこころを病み死んでしまう。

チャールズに頼みローズは彼の古ぼけた小さな蒸気船「アフリカの女王号」に乗せてもらう。
何処に逃げるというものではなく(包囲されていて逃げ場もない為)、ローズの提案でドイツ軍に対する報復攻撃を仕掛けにゆくのだ。
ローズの案は、敵の戦艦を魚雷で沈めるというもの。
チャールズは最初は、ドイツ軍の砦が途中にあり、急流、激流、大瀑布が続き、最後に湖に出たところに砲艦ルイザ号が控えていることを訴えその無謀さを訴えるが、結局その計画を呑むことになる。
酸素ボンベと爆薬90㎏に弾包と釘と木片を使った手製の信管でチャールズは魚雷を作りあげてしまう。
ローズのチャールズを見る目も変わってくる。彼はかなり優秀なエンジニアであり手先も器用で信頼できる男だ。

ただその過酷な川を抜け湖まで達することが、どれだけの苦難の連続であったか。
これは今思い返すだけでも、しんどくなるものだ。
大変な急流を降りてチャールズはてっきりこれで、ローズは懲りて計画を撤回すると踏んでいたのだが、その体験をかえって面白がり、その先に進もうと譲らない。川をよく知るチャールズは、それに続く激流や大瀑布では到底船ももたず命が10あっても足りないことを言い聞かせる。だが、ローズは全く怯まない。
彼は川下りを辞め酒を呷り不貞腐れるが怒ったローズの無視に耐え兼ね、結局意を決する。

それからは、ドイツ軍砦で遥か上方から銃撃を受け船のボイラーが損傷する。
応急処置と、逆光で船が見定め難くなったところを何とか逃げ出し命拾いする。
ローズはここでも銃撃戦を面白がるような事を言い、事態を前向きに捉えひたすら進めてゆこうとする。
しかし窮地を脱したかに思えたときに、大瀑布である。
これにはふたりとも大いに肝を冷やすが、何とか船は持ちこたえ沈没からは免れる。
だが、異音に気付き船を水中から確認すると、スクリューの羽が一つ欠け軸も曲がってしまっていた。
これではまともな航行は不可能になる。
最早万事休すと諦めるチャールズに対し、ローズは船から羽と軸を取り外し、陸で熔接などにより直せばよいと、また提案する。
この具体的で実現可能な前向きな案に半ば呆れかえりながらも、その通り実行したら本当に直ってしまった。

チャールズのローズに対する姿勢も変わってくる。まさに大したものだという目つきだ。
知性と企画力と実行力である。船の舵取りもこの間にマスターしてしまった。これぞ理想的な女性管理職の姿であろう。
しかし折角大苦労して船を動かしたのに沼に迷い込んでしまうのだった。
この物語でもっとも絶望的な悪夢のシーンだ。
船を櫂で漕ぎ、水に入ってロープで引っ張り、どれだけ努力しても沼地獄を抜けられない。
蛭にたかられたりしているうちに、ついにチャールズは力尽きて倒れてしまう。
さすがに二人とも冗談も強がりの言葉も尽きてしまう。

とうとうふたりとも死を待つだけの状況に行きついたかという時に、にわかに大雨が降りだす。
朝ふたりが起きると増水したお陰で船は湖に浮かび出ているではないか、、、。
それを知ったふたりの安堵感と朝の光景の希望に輝く美しさには共感を覚えるに充分なものがある。

すると水平線から目標としてきたドイツ帝国砲艦ルイザ号が120ノットでやって来るではないか。
ふたりに元気が戻る。
船を葦の叢に隠し、信管をセットして「アフリカの女王号」に二機装備する。
船は有終の美を飾らせるため綺麗に磨き、イギリス国旗を高々と掲げる。
そしてルイザ号が120ノットで戻って来る時間を狙い「アフリカの女王号」にふたりで乗り込んで行く。
(その前に自分だけ行けばよいと散々やり合ってからの、あなた無しに生きる意味はないと、二人乗りに決定)。
だがここで、最大の挫折が二人を待っていた。
また突然の暴風雨により敵戦艦を目前にしての船の転覆である。
結局、ふたりはルイザ号に捉えられ、絞首刑と判決が下る。
だがその前に、チャールズが船長に自分たちの結婚式を挙げさせてくれと頼む。ローズはそれにいたく感動する。
ドイツ軍指揮官も神父の役を引き受けることとなり、絞首刑ロープの下で式が執り行われる。
そんな時に、まさにジョーズの如く転覆した「アフリカの女王号」がルイザ号向けてヒタヒタと近づいて来るではないか、、、。


実に面白い映画である。
戦争が舞台であるが、ふたりのスリリングでハードなアドベンチャーを通したラブストーリーであった。


当時アメリカは、強烈な赤狩りの時代でもあり、キャサリンも”言論自由の会”に名を連ねていた関係上、かなりの逆風に晒されていたことは想像に難くない。
この映画での前向きに立ち向かい現実を切り開いてゆこうとする凛々しいローズの姿は、彼女自身の生き方にピタリと重なっていると感じられた。

後から感動がやって来る。

アフタースクール

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2008年
内田けんじ監督・脚本

大泉洋、、、神野良太郎(中学校教師)
佐々木蔵之介、、、北沢雅之(探偵)
堺雅人、、、木村一樹(梶山商事の社員)
常盤貴子、、、美紀(片岡の情婦)
田畑智子、、、あゆみ(謎の女、神野の妹)
伊武雅刀、、、片岡義信(暴力団の親分)
北見敏之、、、大黒武(梶山商事社長)
山本圭、、、郷田昭一郎(警部)

キャストが上手い。
皆、芸達者でその芸と醸し出す雰囲気を見るだけでも愉しい。
母校の西森沢中学校で働く気さくな教師。テニス部顧問。あだ名は、モジャモジャの神野。
自身が経営する大人のおもちゃ屋に事務所を構える怪しい、やさぐれた探偵(上から来た仕事は何でもやる)北沢。
突然姿を消す、梶山商事に勤めるエリートサラリーマン。何を考えているのか分からない笑顔の木村。

脚本が、最後まで観てみると、笑ってしまうほど細かくミスリードを誘うものになっている。(ギリギリ嘘はついていないが)。
同時に、登場人物同士の騙し合いもそこに重なってくる。
きっとこういうものが好きで堪らないひとが愉しく脚本作りをしたとしか思えない。(趣味のレヴェルか?)
常識的で日常的な意識で見る範囲では完全に騙されてしまうだろう。こちらの思い込みを利用する狡いやり方だ。
見終わった後から想起する形でない限り、どう見ても身重の若妻(常盤)のいる木村一家のほのぼのとした朝で始まる物語にしか思えない。そこには、娘のそんな体を気遣う父親(山本圭)が泊まりに来ていてもおかしくはない。
「しっかりしてくれなくては困るよ」と言うのは、婿に厳しい父親かと思うだけだ。
中学時代に下駄箱で、美紀が木村にラブレターを渡す回想が映されるのだから、若夫婦と思うのが自然だろう。
本当に後半になって、あれらの光景に、ことごとく意味~内容の塗り替えが起こる。
その点では実に細かくよく練られた物語であるし、どんでん返しにも驚く。
そしてしんみりとエンディングにもちこむ。
とても上手い、と思う。

木村は突然、神野の車ポルシェ911を借りて失踪する。(この高級車が胡散臭さを漂わせる)。
その後、会社をさぼって謎の女とホテルでの密会が目撃される。普通に不倫かと思われるが、何やらきな臭い。
我々としては、木村が何やら秘密裏に良からぬことを企てているのか、と思ってしまう。
その後、神野は接触してきた北沢にヒッチコック調の巻き込まれスタイルで一緒に木村を探す流れとなる。
意外に感じたのは、神野が妹の写真に無反応であった北沢(偽名で島崎)が偽の同窓生と気づくも、その後も彼に付き合ってゆくところであったが、後でその理由は妹絡みで分かった。また、彼なりに北沢が持っている情報を確認したかったはず。
失踪した木村が普通に神野の部屋に戻っていて寛いで語り合うところから、これはかなり大掛かりな裏がある。ふたりで結託して会社と繋がっている暴力団の金でも奪う計画なのか、とも思ってしまう。
いよいよふたりとも普通の一般市民ではないことが分かり、中盤から特に構えて見ることを強いられる。
以降いちいち筋をなぞっても意味はないので、ここで止めるが、そこからの展開は鮮やかな手並である。
本当に僅かでも目は離せなくなる。離さないではなく離せないのだ。

こちらの視座に一番近いのは、北沢であろう。
結構、神野を軽く見て、自在に利用しているようで、実は彼に上手く騙されている。
余裕で細かい策を巡らし金をせしめようと頑張っていたが、木村・神野が警察に協力して動いていることには最後まで気付かなかった。完全に形勢逆転である。
暴力団員かと思われた周囲をかためていた強面衆が、皆警官だったというのも面白かった(笑えた。


神野が北沢に向かって言う。
「あんたみたいな生徒どのクラスにもいるんだよ。全部わかったような顔して勝手にひねくれて、この学校つまんねーだの何だの。……あのなぁ、学校なんてどうでもいいんだよ。お前がつまんないのは、お前のせいだ」
前半に、裏社会を散々見てきた北沢が神野に向けて言ったこと。
「お前みたいにずーっと教室で生きてるような奴に、人間の何がわかるんだよ?何にも知らないで、自分の都合のいいように世間見て、人間見て安心しやがって。お前みたいなやつ見てるとムカムカするんだよなぁ。早く卒業しろよ、中学校から」
に対するお返しである。

結局、愚直にまっとうに生きたもの勝ちということである。
自分の現状を人のせいにして、ずるをしていては、愉しく生きれない。悪循環に閉込められるだけだ。

わたしが最初、木村の若妻と思っていたあゆみは、片岡の情婦であり彼から逃げ出し警察に保護を求めていた身であった。いきなり雨の夜逃げ込んできたのは、木村と神野の乗るなかなかエンジンのかからぬ軽自動車であった。彼らはふたりとも彼女とすぐに分かり、その場から逃げ去る。あゆみは彼らふたりの初恋の相手でもあり、あゆみがかつて下駄箱で木村に手渡したラブレターは、神野宛で彼に渡すのを頼んだものであった。彼女は家の都合でそれを渡した直後に何処かに転校してしまったのだ。(それで神野は車をポルシェ911に買い替え、婚約指輪も同時にローンで購入したのだ、、、彼の思いの丈だ)。
彼女の出産した娘も片岡の子供である。木村の義父にしか思えなかった男は警視庁郷田警部であり、彼女の身の安全と、暴力団と梶山商事との癒着と金の流れを摘発する任務に当たっていた。あゆみの旧友ふたりも一生懸命警察の手先として見事な働きをしていたわけだ。「しっかりしてくれなくては困るよ」という郷田のことばが何であったかその時点で知る。
最後に神野はあゆみに「おれのうちに帰ろう」と誘う。恋が実った瞬間である。(その後の彼女が指輪をつけているシーンからも)。
一方、木村とホテルに謎の女性として何度も出入りし、肝の小さい大黒に疑いを持たせ動揺させて尻尾をつかもうと動いていたのは、神野の警察官である妹である。神野が北沢からふたりの不倫写真を見せられ動揺したのは、単に妹を心配してのことである。
だが、彼も妹が木村を好きなことは知っており、このふたりもこれを機に急接近する流れを見せて終わる。


内田けんじ監督は乃木坂46 「何度目の青空か?」(2014)も監督している。
このMV何度も観たが、この感性を心地よく擽るセンスは絶妙なものである。
それにわたし(と娘たち)の一番のご贔屓アイドル(ミュージシャン)生田絵梨香嬢がセンターの楽曲である。
とても愉しいものであった。


人狼ゲーム ラヴァーズ

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2017年
綾部真弥監督
川上亮原作・脚本

古畑星夏、、、高野蘭子
佐生雪、、、海老原一香
平田雄也、、、佐久間弘人
溝口恵、、、八木ひなた
前田航、、、基菅すばる


「人狼ゲーム」 シリーズ第五弾とのこと。
初めて観た。
ともかく、こういったパッケージのものはこれまで、意識にも引っかからなかったものだが、怖い映画見たいという娘たちのリクエストで、探すようにはなった。しかし、この映画のようにとても子供には見せられないものも少なくない。
あの古畑星夏が刃物でグサグサと同年齢の青年を刺殺してゆくのだ。
スプラッターなグロテスクさはないが、彼女がやるとショッキングである。
この手の映画が以外に多いことを知った。(まあ、パッケージを見ればラブコメかホラーサスペンスかは普通に見当つくが)。

”人狼ゲーム”というものは、アメリカ発祥のゲームで、「村人陣営」と「人狼陣営」に分かれて互いの生き残りをかけて会話で推理したり騙しあったりして争うゲームだそうだ。そのゲームをもとにした日本のホラー小説もあるという。全く知らなかった。
パソコンゲームとしてもあるのだろうか、、、だとすればそれをやったことのあるゲーマーが見れば、自分の攻略法に照らして見るときっと面白いことだろう。
はっきり言ってわたしには、作戦内容がどういうことなのか追えないところがあった。
今もよく分からない部分がありしっくりしない。
ゲーム内容に充分馴染んでおく方が見易くなり楽しめるはずだ。
「恋人」というペアがかなり大きなポイントでもあったと思う。(最後はそれが効いた)。

ちなみに、毎晩全員がホールに集まり、一人を指名(指差)して処刑する。
(カメラでそれが察知され首輪が絞まる)。
深夜になると、人狼が大きなナイフをもって襲撃する人間の部屋に行き一人を殺す。
翌朝、その死体を確認し、予言者や霊媒師の占い結果をみんなで聞くのだが、何故予言者や霊媒師がその情報を知るのか分からなかった。予言者や霊媒師もわざと嘘をついてかく乱しようとする。
昼間は、それぞれ好きな場所で、お互いの立場を探り合ったり、取り敢えず出来た仲間内で夜の指名相手を決めたりする。
最終的に、村人、人狼が同数になれば、人狼側の勝ちとなるが、そこに恋人が残っていれば、恋人の勝利で、残りは皆死ぬ。
(キューピッドは生き残る)。

荒唐無稽な設定で強引に始まる(その会場に拉致され目覚めたところから始まる)ところなど、以前観た「シンデレラゲーム」を思わせたが、こちらの方が殺し合いもストーリー自体も遥かに広がりとインパクトがあった。追い詰められる人間の心理描写が深くなされていたことも大きい。
しかし、何故か不自然にそんなところに集められ飛んでもない殺し合いのルールを古めかしいTV画面で説明された割に、みんな取り乱しパニックに陥らないなと思ったら、何と皆さん二度目(複数回)の経験者だという。ならばゲームのルールや戦略についてもかなりのものかと思うと、バラツキは感じるが、確かにそうであった。
みんなに指名されたところで、首輪(またしても)が絞められそのまま死ぬかと思っていたら、残りのメンバーでリミットの時間までに殺さねばならないことを知る、とかそれを避けるために自ら施設の外に出て自殺を図る(強制的に図らせる)ことにする、という追加による進展(動き)があることも物語に厚みを加えてゆく。

この物語の構造上、「人狼」と「恋人」、キューピッドそして「村人」は誰であるのかは、カメラの超越的目線でこちら鑑賞者には全て明かされているが(見易さを組み入れた演出構成であろうか)、ゲーム参加者は何も知らされず疑心暗鬼の中、人数を減らす作戦を立てながらそれを探ってゆくことになる。預言者、用心棒、霊媒師、については、こちらも分からない。
このゲームの主催者は彼らの役割を一方的に決め、その動き~殺し合いを監視カメラを通して観て賭けを楽しんでいる、という設定。
主催者の姿は、ゲーム参加者にも鑑賞者にも全く見えない(物語上存在するだけで実質いない)。

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わたしが見た限り、人狼側は結構、推理をして作戦を練っていたが、村人側は作戦も個々にばらばらで特に結束もなくあえなく崩されてオシマイというかんじであったが、、、。
そして、村人、人狼同数で人狼側の勝利であるが、恋人カップルも残っていた為、恋人の勝利ということから、残った村人と人狼の片割れの青年も処刑となる。

複雑な命懸けの駆け引きと、各自の思惑のズレとその変化が感情の大きな揺らぎとともに絡みうねり続けていたと言える。
特に最後の詰(ある意味、どんでん返し?)は、やはりねとは思ったが、決まった。
中盤まで、最後に3人で優勝賞金(1億円)山分けにもってゆくのかと思っていたのだが、あの流れとなった。
心を許していた余命儚い女の子(キューピッド)を処刑指名し自殺させ、義父が借金の為自分をこのゲームに生贄に出したことを知るに付け、古畑星夏のなかで、何かが壊れ、賭けを楽しんでいる主催者側への怒りも極限的に膨れたと言えよう。
確かに終盤となると古畑星夏は何やら思いつめ覚悟を決めたようにも、箍が外れたようにも見えたが。
凄いところで終わった。結果的に1億円を独り占めする形である。
最後に残った”恋人”の少女がこれからどうする?と屋上で安堵し晴れやかに聞いてきたと同時に、下に突き落として瞬時に殺すところなど、もはやサイコである。ある意味、壊れている。

キャストはどうやら毎回全員入れ替わっているようだが、「そちらに行きます。そこはどこですか」と古畑星夏が監視カメラに向かって強く呼びかけるところで終わるのだから、次だけは主演はそのまま彼女でいってもらいたい。
違うひとだったら完全に白けてしまう。
どうせ他の人間は全員死んでいるのだから、キャストは古畑さん以外は誰でも自由に選べるわけだし。
続編は彼女が主催者グループの席に招かれるところから始めて欲しい。
参加費1億円で彼女の義理の妹を生贄にゲーム開始、、、すると古畑さんは掛け側で目立たない立場となるか、、、妹が主役か?

若手俳優がともかく体当たりで精一杯頑張っている熱は充分伝わってくるものだ。
しかしちょっとセリフが五月蝿すぎるところが気になった。
絶叫しなくとも、憤りや絶望、恐怖が伝わる。これについては演出からの指示かも知れないが。
勿論、微妙で繊細な感情表現も見られ、かなり演技派の人々であることが分かってきた。
古畑星夏は、ティーンのファッション雑誌のカリスマモデルから、最近朝、夜の情報番組、TVドラマや映画でちょくちょく見かける。
他と混ざらないオーラがあり、どの子が誰なのかよく分からない似たような若手女優の中では、無二の凛とした存在感をしっかり放っている。切なく悲嘆に暮れている演技は良いが、基本的に穏やかで優しい役の方が個性と容貌にはあっているような、、、。でも目が冴えておりクールでニヒルな役ならかなり様になりそうだ(サイコではなく)。

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満月

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何かで観たが、、、読んだのか、、、忘れたが、満月の日に願い事はしない方が良いらしい。
願い事は新月の際にすると良く、満月の時はもう終わりにしたいこと、手放したいことを解放すれば良いらしい。
具体的には、それらの項目を紙に書き、破り捨てる。
これ、とっても感覚的にもしっくり来る。
思い出したのでやってみた。
みんなわたしの場合、人である。
さよなら~。

そして次のステージへ、、、。
この物謂、、、スピリチュアル系だ。
そうだその手の本で見たのだ、、、。
最近全く読んでいなかったから忘れていた。

捨てるものは、モノばかりでなく、関係も捨てなければならない!
大いに捨てたい。
何故か、スッキリした(爆。

そして何でもカラにして置くと良い気が入り込んでくる。
それは、とても分かる気がするものだ。
ずっと、何やら昔の物が詰め込まれたままの鞄など、何か悪霊が棲み込んでいるような気がしてくることがある。
財布とか鞄を一晩カラで寝かせておくのが良いとあったはず。
手元に本がないので、あと何が書いてあったか定かではないが、これはやってみて良いと思われる。

では、新月の時は、、、ついでに。
願い事に適しているのと、この日から何か新しい事を始めるのが良いらしい。


夜空を見上げ月の満ち欠けを確かめる行為は、、、
要するに、始めたり終えたり(解放したり)の「サイクル」を実感する契機だと思われる。
この「サイクル」の感覚こそが身体の健康にとって、肝心なのだ。

貯めたり、溜まってしまったり、空っぽにしたり、解放したり、、、。



エネミー・オブ・アメリカ

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Enemy of the State
1998年
アメリカ

トニー・スコット監督
デビット・マルコーニ脚本

ウィル・スミス、、、ロバート・クレイトン・ディーン(弁護士)
ジーン・ハックマン、、、ブリル / エドワード・ライル(元NSAエンジニア)
ジョン・ヴォイト、、、トーマス・ブライアン・レイノルズ(NSA行政官)
リサ・ボネット、、、レイチェル・F・バンクス(情報仲介者)
レジーナ・キング、、、カーラ・ディーン(ロバートの妻)
スチュアート・ウィルソン、、、サム・アルバート議員

かのリドリー・スコット監督の弟である。68歳で自殺してしまった。本当に惜しい、、、。
この映画遅まきながらやっと観たが、傑作という以外にない。しかし危険な映画でもあった。


偶然だが、この映画も昨日の映画同様、全く関係ない者同士を、ここでは秘密の「ビデオ」で結びつけてしまう。
全く内容が異なる危険なビデオであるが。「ビデオ」ということばで繋がってしまうのだ。
(片やプライバシー保護派の議員の暗殺現場ビデオ、片やマフィアの労働争議不正ビデオ)。
一気にカタルシスに追い込む手さばきに、思わず上手い!と膝を叩いた(笑。
情報~ことばの危うさが実によく出ていた。

勿論、骨格はスノーデンが全世界的に警告した、それである。
しかし、1998年である。
かなり早い時期での映画製作だと思う。
まだスノーデンは出てきていない。ヴィム・ヴェンダースの「エンド・オブ・ヴァイオレンス」が1年前に封切られていることから、このような認識・知見を得て、警告の必要性を感じていた人々はすでにいたのだ。
エシュロン~PRISMの脅威である。
まさかトニー・スコット監督もその件で狙われていたのか、、、
そうも思ってしまうほど、饒舌で説得力あるフィクションで実情を鮮やかに暴いて見せている。
漸く、この映画の描く現実に人々が危機感を抱き始める時代になってきた、と言えよう。

ITテクノロジーの演出がよく出来ていて真に迫るものだ。
特に人工衛星からのキビキビした画像送信や監視、追跡、本部内でのデータ照合と分析や盗聴など今見てもワクワクさせる。
どこにでもある監視カメラとも直結していると思うと、やはり気持ち悪い事この上ない。
しかしそこで働くNSA職員(工作員)の憎ったらしいこと、、、。
(スノーデン氏の離脱はそのへんもあったか、、、)。
クレイトン家をあそこまで滅茶苦茶にし、盗聴器と発信機を付けまくり、彼を社会的に抹殺し銀行口座を凍結し、最後は本当に殺しに来た。しかも彼から盗んだジューサーで作ったジュースを飲みながら彼を追い回し窮地に追い込んでゆく。
まあ、物語冒頭でプライバシーを大きく侵害するテロ防止法案に反対する下院議員を湖畔で暗殺しているくらいだ。
その湖の生態を記録しようと設置したカメラマンのビデオに偶然それがはっきり写っていて、そのデータを知らぬうちに預けられてしまったロバートがNSA(その首謀者トーマスたち)から追われることになる。
最初は何で追われるのか分からずに逃げているのだが、ブリルに逢うことで、事の真相を掴み事態の恐ろしさを把握する。

ウィル・スミスの主演でエンターテイメント性でも魅せる。
確かに外に漏れては大変な事になるデータであるが、それを持った一人を追うために大変な機材の利用と大掛かりな人員の導入がなされる。トーマスの権限がどれほどのモノなのか分からぬが、結局これが面白いところである。
スリリングなサスペンスとして多勢に無勢でしっかり成り立つ。
ただし、彼だから体を動かさなければ、ということからか、車相手にちょっと走り過ぎてはいないか?
ウサイン・ボルトでもなかろうに、車相手の前を逃げるあの自信を持った走りはなんだ。
ジャッキー・チェンでもあそこまで車とさしで走らない。もう少し狡い手を使う。
それから、弾みで始まった最後のマフィアとNSA職員(工作員)との至近距離での銃撃戦であるが、あの場にいてテーブルの下に入ってロバートだけ助かるというのも、ちょっとキツイシーンであった。
その場を上手く離れる身の護り方の方がしっくりこないか。
シュワルツネガーもののエンターテイメントとは明らかに違う路線であるし。

だが、それ以外で気になるところは、なかった。
(上記のシーンも別に違和感を感じるほどのものではない)。
ウィル・スミスとジーン・ハックマンのほとんど反りの合わない相棒のやり取りや動きは自然で味わい深い。
ジョン・ヴォイトの高官も昇進のために法案を何としても通したいという切羽詰まった様相がよく出ていた。


しかし改めて不気味である。
エシュロン~PRISMによる超巨大データーベースの存在である。
不気味である、、、。



ファミリー・プロット

Family Plot003

Family Plot
1976年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督
ヴィクター・カニング「階段」原作
アーネスト・レーマン脚本


ブルース・ダーン、、、ジョージ・ラムレイ(タクシー運転手、ブランチの彼氏)
バーバラ・ハリス、、、ブランチ・タイラー(インチキ霊能者)
ウィリアム・ディヴェイン、、、アーサー・アダムソン(宝石泥棒)
カレン・ブラック、、、フラン(アーサーの恋人、共犯者)
エド・ローター、、、ジョセフ・P・マロニー(アーサーの共犯者、ガソリンスタンドオーナー)
キャスリーン・ネスビット、、、ジュリア・レインバード(名門富豪の老婦人)
キャサリン・ヘルモンド、、、マロニー夫人
チャールズ・タイナー、、、ホイーラー


TV録画で観た。
ヒッチコック監督の遺作である。
円熟の極みである。


2組のカップルがそれぞれインチキな取引で儲けようと片や素人、片や玄人が悪巧みをするが、それが終盤ピッタリ絡み合うところは、分かっていながら流れと展開の妙を楽しむことが出来、この映画の肝となるところ。
アーサーたちは、身代金代わりにダイヤを要求するプロの誘拐犯で表向きは宝石商である。
一方、ブランチとジョージのイカサマコンビは、偽霊媒として金持ちに取り入り謝礼金を騙し取る素人詐欺カップルだ。
結局、偽霊能カップルが請け負った捜索対象であるジュリア・レインバード婦人のただひとりの財産を引き継ぐ甥とは、アーサー(偽名)なのだった!(これだけ犯罪でボロ儲けした上に多額の相続では、億万長者もよいところではないか、、、)。
2本の線が交わった後も勘違いでずっと進んでゆくサスペンスコメディである。
しかし、そこに行くまでのエピソード、シーンの面白さも群を抜いている。
面白くてユーモアたっぷりで目を離せない。
(カメラワークも俯瞰などの長回しが楽しませる)。
思い出すところの、その幾つか、、、。

とっても軽い感じの頼りなさ気のジョージがタクシー運転手の本業をサボりつつ、かなりしっかり大富豪の名門レインバード家の跡取りの足取りを調べ上げてしまうところには、感心した。
エドワード・シューブリッジという名だが、養父母を殺害し今はアーサーと名乗り宝石商を営んでいたのだ。
このジョージ、危なっかしいが後半に行くにつれ頼り甲斐が増してくる。
同じような意味合いで、ブランチもすぐ殺されそうな危うさとケレン味タップリなパフォーマンスで、どうなるのかと思って見ていると最後の勝利者になってしまう。
他の映画であれば、結構早々に消されるタイプではなかろうか、、、。
この基本プロットからして、なかなかユニークなヒッチコック映画に思えた。

マロニーに車に細工され、ブレーキオイルが流れ出し急勾配の下り坂を猛スピードで降りてゆくところは、その後発表されたどのサスペンスものに比べても、勝るとも劣らぬスリリングなものだろう。
わたしは、これでもうこのカップルは終わりかと、、、真面目に不安になった。
(ヒッチコックは主役と思わせていたキャラを途中で呆気なく殺すパタンがあるし)。
だが、助手席のブランチのおフザケぶり~しつこい怖がり様がほとんどギャグのレヴェルなので、こりゃ助かると分かった。
(ローワン・アトキンソンをはじめ、ギャグとしつこさは切り離せない)。
だいたい助からないと話の方が進まないし。
ブランチは終始、コケティッシュなコメディアンであった。

ジョージとブランチを事故死に見せかけ始末に行ったマロニーがしくじって自ら崖から落ちて死んだが、その報告を恋人から知らされたアーサー・アダムソンのニンマリした笑顔と役立たずめえと言って自ら手を下す事を誓う表情は、実に意味深であった。
アーサーに代わって彼の育ての親を家ごと放火殺害してくれた男である。彼にとってマロニーという相棒の存在は重荷でもある。
消えてくれてホッとした安堵感と、インチキ霊能者カップルなら素人だし余裕だと構えたところか、、、。
兎も角、心理描写はきめ細かい。
シリアスな面が幾分、彼の他の作品より薄い感じはするが、人物描写がちょっとグロテスクかつ細やかで濃いため、噺の割にリアリティは強い。

終盤の緊張感タップリなシーンとしては、ジョージがアーサー宅に忍び込んでブランチを探すところはちょうど良い尺が割り振られ、アーサーが現れてからの更なる緊張感と展開が絶妙であった。考えてみれば、ヒッチコックにとっては、このタイプのサスペンスシーン(部屋に忍び込む・篭る・探る)は、まさに十八番と言えよう。過去の作品より小振りな感じはするが、無駄がなく洗練されている。

ギャグと言えば、アーサーの表情も多分にユーモラスでギャグ的であった。
ちょっと、イグアナのような爬虫類を想わせるものだ。ブランチ霊媒師の誇張した演技といい、何かとカリカチュアライズされていることが分かる。
何にせよ(話も演出も)よく熟れている。


最後には秘密の隠し部屋に素人カップルに騙されて、アーサー・フランカップルは閉じ込められ、警察に連絡されて終わりである。
このブロック壁の隠し部屋のスウィッチとか、よくできているというより、何故か可愛らしい子供の隠れ家的な感触であった。
一方、ジョージ・ブランチ組は、アーサーから睡眠薬を注射されて目覚めたばかりの朦朧としたブランチによって盗難ダイヤがシャンデリア内に隠されていることを突き止めてしまう。
でも最後にウインクしていたから、、、彼女はどこかでそれを知ったのか、、、ウインクはそれまでの流れから自然にでたものか。


途中でポップコーン(わたしの場合、ポテチであるが)を取りに行ってはならない映画である。
華々しさはないが、少しお茶目で遊び心タップリな名人芸を堪能した気分にはなれる。

Family Plot002


バス停留所

Bus Stop001

Bus Stop
1956年
アメリカ

ジョシュア・ローガン監督
ウィリアム・インジの舞台劇原作

マリリン・モンロー、、、シェリー(酒場の歌姫)
ドン・マレー、、、ボー・デッカー(カウボーイ)
アーサー・オコンネル、、、ヴァージル・ブレッシング(カウボーイの先輩)
ベティ・フィールド、、、グレース(ドライブインの女主)
アイリーン・ヘッカート、、、ヴェラ(シェリーの親友)
ロバート・ブレイ、、、カール(バスの運転手)
ホープ・ラング、、、エルマ(グレースの娘)


マリリン・モンローの出る映画は尽く、彼女の魅力で成り立っている。
多くの映画は、配役が変わってもそれなりに成立するものだ。
モンローの映画は彼女の存在が際立っているという次元ではなく。
モンローは映画に先立つ。
モンローの映画を観ているうちに、われわれはモンローを観ていたことに気づく。

映画を動かしてゆく装置として。
荒唐無稽な程、他者の見えない独りよがりで粗暴なカウボーイ、ボー・デッカー、と投げ縄。更にチェリー。
シェリーのエメラルドグリーンのサテンのスカーフと衣装。そして地図上の「ハリウッド」。夢の「歌姫」。
ボーの実質保護者であるヴァージルと彼のギター。歌。
ボーの暴挙を止めることができる腕力を持つカールと彼の雪で止まる長距離バス。
アリゾナでのロデオ大会(パレード含む)。
グレースの店と主のグレース、シェリーの話の聞き役のエルマ。
シェリーを保護し寄り添う親友のヴェラ。
モンタナ州の田舎。

果たしてモンタナの田舎で21まで牛や馬相手に牧場暮らしをしていると、このような若者が育つのだろうか、、、?
ボーという若者に1956年当時のアメリカンはシンパシーを抱きえたのだろうか?
社会性や協調性とかいう問題におさまらない、突出したパーソナリティに思えるのだが。
寧ろ自然や動物に深く接して生きてくれば相手を思いやる感性豊かな優しい性格・性向が育たないだろうか。
コメディ調に極度に誇張した人格であろうが、他者に対する感覚が欠落した内面性の感じられない外に対する暴力的な衝動・欲動のみで生きている粗野な男である。
シェリーに一方的に自己意識を投影し、彼女自身(存在)についての想像・配慮など全くなく、自分の欲望を単に彼女をもって晴らそうとするだけ。だから呼び名も自分が呼びやすい(彼女が嫌う)”チェリー”で押し通す。これが万事である。
得意技とばかり、投げ縄で彼女を拘束して、モンタナ行のバスに乗せてしまう。(まさに牛と一緒である)。
(わりと最近わたしはこれに似た古い知人に遭った。以前と変わらないどころか更に進行していた)。

一方、シェリーは自分で舞台照明を足で調整するような場末の酒場のステージで歌っている。
客と呑む酒も紅茶しか出されない。ヴァージルにウィスキーでないことを簡単に見破られてしまう。
勿論、歌も誰もまともに聴いてはいないし、支配人からもカス扱いだ。庇ってくれるのは親友のヴェラくらい。
その現実にいながら、ハリウッドの歌姫を夢見て少しづつ地図上で移動してゆく生活を送る。
だが、実際例えハリウッドに到着してもそれで上がりではなく、そこで才能が認められるかどうかの問題である。
勿論、残念ながらマリリン・モンローのようにスターの座を勝ち得ることは、シェリーには極めて困難であろう。
彼女は、認められたい成功をしたい、という不遇を覆そうとする欲求と同時に、自分を安らかに包み込んで欲しい、癒されたいという願いも強く抱いている。
エメラルドグリーンのサテンのスカーフと衣装から象徴的に受け取れるものだ。
しかしその想いを受け止められる相手は、現れない。

ふたりが似ている面は、お互いに正直者(嘘がつけない)というところか。
だが、ボーは他者としてシェリーを尊重し受容する器ではない。
本来なら、ここでアウトでジ・エンドである。

だが、彼には保護者ヴァージルと彼に力沿いしてくれるカールがいた。
グレースとエルマもよい潤滑油の働きをしてくれる。
彼らが教育者として彼に正面から立ちはだかる。
ヴァージルのギターは実際よい演出でもあった。
まだ21であったことも幸いしただろう。
後10も歳をとっていたならもう厳しいはずだが、まだこころが柔らかかったようだ。
学習の余地(ポテンシャル)も残っていた。
動物や自然から吸収しきれなかったものを、彼はシェリーから得たと言える。
それは取りも直さず、彼がその契機となる憧れを彼女に無意識に投影したことに始まる。
彼が最初バスに乗り込んだ頃には、その準備~心的な変化を始めていたとも言えよう。


まだまだ前途多難なはずだが、相手を受容する視座をもったことがふたりを結びつけた。


この極端な設定の本来なら(特にフェミニストから)批判も沸き起こりそうな突飛な噺を、モンローが何か柔らかく儚く感動的ですらある映画にしてしまった。
これは彼女という存在~身体性でしか実現出来ない技である。




イーオン・フラックス

Æon Flux001

Æon Flux
2005年
アメリカ

カリン・クサマ監督
フィル・ハイ、マット・マンフレディ脚本

シャーリーズ・セロン、、、イーオン・フラックス(反政府組織モニカンの女戦士)
マートン・チョーカシュ、、、トレヴァー・グッドチャイルド(ブレーニャ政府議長)
ジョニー・リー・ミラー、、、オーレン・グッドチャイルド(トレヴァーの弟)
ソフィー・オコネドー、、、シサンドラ(モニカンの女戦士、改造人間)
フランシス・マクドーマンド、、、ハンドラー(反政府組織モニカンの司令塔)
アメリア・ワーナー、、、ユナ・フラックス(イーオンの妹)
ピート・ポスルスウェイト、、、キーパー(飛行船レリカルのDNA管理者)

ちょっとキャットウーマンぽい感じでこちらも観てみたが、大変練り上げられたシリアスな作品であった。
見ごたえは充分である。
「一度きりの本物の人生を生きるために闘う」戦士の物語である。


2011年に致死性のウイルスにより人類の99パーセントが死滅という前提には、感覚的に違和感は持ってしまうが、舞台はそれから400年後の世界である。

ブレーニャという壁に囲まれた都市に生き残った人類は住んでいる。その外は汚染地域とされ隔絶されていた。
空には飛行船レリカルが浮かんでおり、都市に住む人間のDNAを上空で管理している。
一切発言の機会がないほど人々は管理されており、行方不明者が続出していた。
高度に発達した科学は徹底した管理に利用されている。

反政府組織モニカンの司令塔ハンドラーは口移しのカプセルを介し、脳内パルスによってイーオン・フラックスに統治者のグッドチャイルド家の転覆のための破壊活動を命じる。
強力な管理により必然的に生じるレジスタンス(モニカン)の一掃に政府は力を入れているのだ。
モニカンの監視施設の破壊任務では、その組織潜入から中枢システム破壊までの手並みが滞りなく鮮やかで、いかに彼女が優秀でクールな戦士であるかが分かる。
シャーリーズ・セロンの一連のシャープな動きで、彼女の凛々しさと美しさが一際冴える。
しかも柔軟性が尋常ではない。(クラシックバレイで鍛え抜かれたものだという。納得)。
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統治者の議長トレヴァーは、かつてウイルスから人類を救うワクチンを開発したが、その副作用で自然妊娠ができなくなってしまった。その為、人々には仮想妊娠にクローン技術を用いて、子供を自然に授かったと錯覚させていた。
人類は、クローンで再生されて生きながらえてきたのだ。
今現在のトレヴァーは、オリジナルから数えて7代目だという。
その間、不妊治療法の開発を代々使命として受け継いできた。

その戦いの最中、結婚したばかりのイーオンの妹ユナが、体制組織(警察)にモニカンとされ射殺される。
そして司令塔ハンドラーから、イーオンに今度は議長トレヴァーの暗殺を命じられる。
彼女にとっては妹の敵であった。

しかし決死の覚悟で潜入して徐々に明かされてゆくことは、、、。
(潜入するまでの同志シサンドラとのアクションはまるでゲーム画面を楽しむようなスリリングなものである。潜入後のアクションも勿論、ゲーム感覚で冴えている)。
しかし同時に自分の意識に妙に引っかかってくる記憶が鮮明になってきて、それが任務の遂行でケリのつく問題ではないことが分かってくる。

Æon Flux002
トレヴァーは、不妊治療の薬を研究の末、漸く開発に成功していた。
これで人類は自然に生まれ死ぬことが可能となるはずだったが、それを恐れた弟に研究データを処分されてしまった。
しかも彼は兄を殺害して自ら議長となり、自分が永遠にクローンで生き続けようとしていたのだ。
中枢組織でのクーデター計画が着々と進んでいたのである。
弟はどうやら現状をユートピアとして死守しようとしていたのだ。
更に驚くべきことは、殺された妹はコミュニティ内で初めての自然妊娠であったことが判明し、まさにその為に殺害されたのだった。
弟のクーデター組織は警察を使い、すでにその後に自然妊娠しはじめた母体を尽く殺害してきたのだった。
研究成果は潰されたが、自然が元の生殖~妊娠サイクルを取り戻す兆候をはっきり示し始めていたのだ。

イーオンは、妹のDNAで生まれたひとりの赤ん坊を探し出す。
すんでのところで、警察に爆殺される前に彼女と両親を救う。
この後はイーオンたちとオーレン陣営との激しい銃撃戦が繰り広げられてゆく。
ここの銃撃アクションも凄まじい。サムペキンパー並みの撃ちまくりである。
そしてシュワルツネガー並に、イーオンには銃弾は当たらないが、展開はなかなかドラマチックなのだ。

結局、弟たちを全員射殺し、彼女は最後の仕事と言い飛行船レリカルの爆破に向かう。
そのなかの老科学者キーパーこそ、かつてオリジナルトレヴァーの妻であったキャサリン(今のイーオン)のDNAを弟が始末するように命令したにも関わらず、残し続けたその人であった。
それが必ず人類にとって救いとなるはずだと思ったからだと言う。
彼の判断が正しかったのか、、、それまで400年以上待ったが。
トレヴァーとイーオンに引き継がれた記憶が鮮明に蘇る。
初代がデートの約束をした頃の記憶まで、、、。
こういう記憶は美しい。

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爆破されたレリカルが都市の壁をぶち破り墜落する。
人々は壁の外に希望を携え出てゆく。

「人は死ぬものよ。だから生きる意味がある。」
「亡霊みたいに生き続けるのはまっぴら!」


終始颯爽としたイーオン~シャーリーズ・セロンであった。
後味の良い作品である。


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キャットウーマン 

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Catwoman
2004年
アメリカ

ピトフ監督


ハル・ベリー、、、ペイシェンス・フィリップス(キャットウーマン、デザイナー)
ベンジャミン・ブラット、、、トム・ローン刑事
シャロン・ストーン、、、ローレル・ヘデア(ヘデア・ビューティー社社長夫人)
ランベール・ウィルソン、、、ジョージ・ヘデア(ヘデア・ビューティー社社長)
フランセス・コンロイ、、、オフィーリア・パワーズ(猫神話の研究家、教授)
アレックス・ボースタイン、、、サリー(ペイシェンスの同僚、親友)


ハル・ベリー繋がりで見るつもりもなかったのだが、昨日の「チョコレート」では、アカデミー主演女優賞を獲得した彼女が、その後のこの映画ではあのラズベリー賞を受賞している。しかも主演女優賞だけではなく、作品賞・監督賞・脚本賞まで総なめである。ある意味衝撃の注目作ではないか、、、?(彼女の受賞スピーチは、やんやの喝采だったらしい。転んでもタダでは起きない女優魂か?)
原作は所謂アメコミヒーローもののバットマンで、ザ・キャットという形でデビューしたそうだ。
(わたしはアクションものもアメコミも興味はない。が、ジャッキー・チェンなどのアクションはただ見ていて楽しいためそれを少し期待してしまった、、、)。
共にもうひとりの自分がいるヒーロー(ヒロイン)。
40年代から雑誌で活躍を始めるが、外見はコロコロ変わってきたという。
今回の衣装はファンからの賛否両論で、すんなり行かなかったらしい。
ただ、ここではバットマンとの接点など全くない独立・完結したキャット・ウーマンの話である。

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主人公ペイシェンス・フィリップスは、ポスター依頼を受けた会社の秘密を立ち聞きしてしまい一度殺されるが、エジプトの猫神”マオ・キャット”の力でキャット・ウーマンとして蘇る。
囚われの人生を送っていたが、新しい自分をまるごと受け入れることで自由を得た、、、
これからは、自分らしく逞しく生きるわ。
というもの。

知らぬ間に違う(攻撃的な)人格や猫になっていて、ふとそれに気づくあたりは面白い。
鞭を使い、とても敏捷に動く。猫の仕草の真似はするが特に動きの真似はしない。
確かにジャンプ力とか飛び降り(着地)の体勢作りなどはそれらしい。

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「ビューリン」という若返るが、恐ろしい副作用を持つクリームでボロ儲けを図ろうとするヘデア・ビューティー社の陰謀を潰すそうというキャット・ウーマンの活躍を描く。
賢そうな猫の活躍もなかなかのもの。
気紛れ猫をこれだけ動かすのは撮影も大変だっただろう、と思う。

だが全体として脚本が絞り込めていない。
この話はどう見てもシリアス路線で行くには無理がある。
元がとっても薄く単純な話であるし。
どっちつかずで進むより、ただひたすら派手で奇抜なアクションとスリルで押すべきだろう。
折角、猫をメインイメージに押し出しているのだし、その使い道をもっと豊かに工夫したらどうだろうか?
それほど強い主人公というわけでもないし物語上、展開に山が幾つもあるわけでもない。
もう少しコメディタッチで面白く筋を作ってみてもよかろうに。
(しかし間違っても最初のバスケのシーンのような気色悪いものは止めた方がよい。やはり製作陣にセンスがないことは充分に分かる)。

ローレル・ヘデア新社長との最後の戦いも、よく分からない。
相手は化粧クリームで面の皮が厚く(いや大理石のように固く)なっただけの中年女性である。
何であんなに尺を取って互角に争うことになるのか、、、普通の人ではないか、、、?
それともシャロン・ストーン(やはり石か)に威圧されたのか?
確かに怖いのだが。

こういうアクションものは、ガジェット類の充実も大切な要素であろう。
バイクがアン・ハサウェイのキャット・ウーマンのときの果たして曲がれるのかという凄まじいバイクではなく、普通の(高性能な)バイクであったのが、ちょっと残念。やはりその辺はオフィーリア・パワーズ女史から特別に託された飛んでもない(なんだこれは、という)バイクとかが欲しいところ。そればかりに拘る気はないが普通のバイクでなく、遊び心がもう少し欲しかった。
Catwoman006.jpg
ちなみにアン・ハサウェイのバイクCatwoman004.jpgCatwoman005.jpgやはり曲がり難そう。

実用性より目を楽しませる物が次々に飛び出てきては、何でこんな場面でそんなものをわざわざ使うの?と疑問を持たれながらも使って楽しませてくれるのもひとつ。
そんなサービス精神ももっと欲しい。
何れにせよ、基本コンセプトもアイデアも薄い。
粗雑。センスも感じない。


ラズベリー賞総なめにしただけのことはある作品であった。
納得である。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
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