トイレのピエタ
2015年
松永大司:監督・脚本
手塚治虫:原案
野田洋次郎、、、園田宏(末期ガンの青年)
杉咲花、、、宮田真衣(女子高生)
リリー・フランキー、、、横田亨(園田と同じ病院に入院している患者、友人)
市川紗椰、、、尾崎さつき(新進画家、園田の元彼女)
大竹しのぶ、、、園田智恵(母)
岩松了、、、園田一男 (父)
宮沢りえ、、、橋本敬子(園田と同じ病院の親しい少年の母)
十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの聖母子像をピエタと呼ぶ。
サン・ピエトロ大聖堂に展示されているミケランジェロの作品がもっとも知られている。
「何故死んだ我が子をこんなに穏やかに優しい目で見つめられるのでしょうね」(橋本敬子)
息子は手術の甲斐無く死んでしまう。病院の友達には退院したと伝えられる。
手塚治虫が亡くなる前の日記の最後のページに書いていた作品の構想を元に製作された作品だという。
「浄化と昇天」
トイレにミケランジェロさながらのピエタ像を描ききって、胃癌で息絶える若者の物語だ。
(手塚治虫も胃癌であった)。
前半は冗長気味にだらだら怠惰な雰囲気で話が流れてゆく。
飄々としたリリー・フランキーによるところが大きい(笑。
重いものを抱えた掴みどころの無い役が上手い人だ。
杉咲花はやはり目力があって若手実力派という感じであった。
真衣が金魚とプールで泳ぐところは、なかなか絵として気持ち良い。
(本人も気持ち良さそうであった)。しかしプロット的に今ひとつ意味が分からないところではある、、、。
彼女も日々、母親の愛には恵まれず、認知症の祖母のケアで息詰まっている。
ひょんなタイミングで園田宏の余命(3ヶ月)を知らされ、腐れ縁となった。
彼女は相手の余命がどうだなど、全く遠慮しない。
ただ、お互いに引き合うものがあるのだ。
「あんたなんか自分で生きることも死ぬこともできないじゃん!」
結構、正統できつい指摘を度々してくる。
感情がストレートに出るタイプ。
しかしそれに対して「そんなのわかってるよ!」と叫んで返す園田。
確かにそれ以外に何を答えられよう?
大学時代の彼女で今は絵描きとして賞にも輝き成功している尾崎さつきが彼らと対比する存在として現れる。
自分のやるべきことに一途で全く嫌味はないが、晴れ舞台を突き進んでゆく彼女はもう彼の世界の住人ではなかった。
ここで演じる市川紗椰嬢は、実際の彼女に近い気がする。
もう少し彼女の演技を見たかった。
元々自らをビルに張り付いた虫だという園田宏の覇気のなさは自然で良い。
しかし画家を諦めて高層ビルの窓拭きアルバイトというのも何か面白い。
これまで塗ってきた絵の具、全ての線や色を自ら拭き取っているみたいで。
決別したいと思ったらやってみたくなるバイトかも知れない。
しかし園田は作業中に突然倒れ医者に運び込まれて検査を受けると胃癌であった。
最初は副作用に悩まされながら抗癌剤治療を入院して続ける。
隣ベッドの怪しいオヤジ横田亨とも何故かウマが合う。
白血病の少年と心を通わせたり、その少年の死に際し、母親から少年の絵を頼まれる。
しかし絵を捨てた彼は彼女の懇願を退けるのだ。
その後、転移もみられ、医者に最後の日々の暮らし方を尋ねられた。
彼は退院して余生を自分のアパートで過ごすことにする。
実家には少しばかり顔は出すが、そこに戻る気はない。
これは、分かる。わたしがその立場でも絶対に実家に戻ることはあり得ない。
しかし間近に死を突きつけられたとは謂え、何がどう変わる訳ではなかろう。
恐らく何も変わらない。
何をか認識を得たり、見えてきたりするものではない。
体調が変わる(悪化する)としても。
(いや、余りにも体調の変化や苦痛~激痛が描かれていなかった気はする)。
真衣と横田の存在は大きい。
彼らは園田の生に火を灯したことは確かである。
絵を描く気になったのだ。
(わたしは、まだまだ、ならない(笑)。
天井向いて一心不乱に描くとところなど、まさにミケランジェロである。
横田のヴィデオにおさまりつつ、、、
「僕、いま生きてますよ」
このセリフで締まった!
絶命した園田を抱く構図の絵~聖母は紛れもなく真衣であった。
何でも最後は肝心である。
”RADWIMPS”というグループの音はまだ一度も聴いたことがない。
であるから、野田洋次郎というギター&ヴォーカルという人も初めて見た。
素人臭さが良い意味で生きていた。市川嬢と共に。