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GOMA28

Author:GOMA28
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ワイルド・アパッチ

ULZANAS RAID

ULZANA'S RAID
1972年
アメリカ

ロバート・アルドリッチ監督
アラン・シャープ脚本

バート・ランカスター 、、、マッキントッシュ、
ブルース・デイヴィソン 、、、デ・ビュイン少尉
リチャード・ジャッケル 、、、軍曹
ロイド・ボックナー、、、 ゲイツ大尉
ホルヘ・リューク、、、ケ・ニ・タイ
ホアキン・マルティネス 、、、ウルザナ

「ワイルド・アパッチ」という邦題は全く、おかしい。
作品を貶めている。
”ULZANA'S RAID”でいくべき。


何といってもバート・ランカスターに始まりバート・ランカスターに終わった。
そしてホルヘ・リュークのケ・ニ・タイがパラダイムの縁にいて大きな役割を担う。
ブルース・デイヴィソンもデ・ビュイン少尉という実に頼りない若いリーダー像を好演した。

アパッチが開拓民を惨殺するのは、力を得る為だという。
居留区に押し込められている間に彼らはアパッチ族としての精気を失ってきていた。
ウルザナの指揮で集団でそこを出奔し、白人達への復讐も込めて極めて緻密に組織化された獣のように行動に出たのだ。
女でも子供でもなく、男を惨殺することで多くの力が得られる。
ケ・ニ・タイの騙るには、昔から行ってきた当たり前の行為であるという。
強大な力を得る為、多くの男を殺す必要がある。
非常にプリミティブで強烈な思想だ。野蛮である。
しかし双眼鏡を駆使し、奪った騎兵隊のラッパの活用、空馬を走らせ背後に回って撹乱したり、殺した馬の血で水場を汚し、行く先々で惨たらしく殺した死体を晒しものにして敵の感情を動揺させ指揮を乱す等、実に巧妙な作戦を行使してくる。
しかし策を複雑に弄する者に対しては、その裏をかくことも可能となる。
(ここがマッキントッシュとその腹心ともいえるケ・ニ・タイの出番だ。というよりその為にスカウトされている)。

残忍極まりない知能指数の高い獣相手の戦いとなる。
ちなみにマッキントッシュに言わせればアパッチは戦いなど興味はなく、単に殺すことだけ、であるという。
つまり白人のゲームを受け入れ参加する気はないということだ。全くその通りであろう。
殺し合い~支配・被支配関係に汚いもキレイもなく、自分たちの価値観~正義を絶対化してものを見て評価しているだけである。
相手の価値観など全く顧みないモノが一方的に批評し憎んだりしているだけだ。
討伐隊は、あくまでも若き指揮官デ・ビュイン少尉の指揮の下、動いてゆく。

デ・ビュイン少尉はマッキントッシュに何故、先住民の女性と暮らしているのか、と尋ねる。
マッキントッシュは、まず先入観や憎しみを忘れ、純粋にものを見ることだと返す。
そうしないと間違うと。

最後にウルザナを追い詰める作戦において、最初にアパッチの待ち伏せる谷に切り込んでゆく謂わば先発隊をデ・ビュイン少尉は全滅させてしまう。間に合わなかったのだ。
まだ辛うじて息のあるマッキントッシュに、「もし、、、」と悔恨の胸の内を話そうとしたとき、全ての結果をそのまま受け入れろと諭される。
マッキントッシュとデ・ビュイン少尉の最も大きな隔たりは、経験豊富で知恵を蓄積していることと経験や知識に乏しいことの差ではなく(と言っても人生経験から自然に学ぶ知恵は小さくはないが)認識枠への囚われの度合いであろう。(マッキントッシュは規律や道徳に全く従わない、と幹部が苦々しい思いを吐露していた)。
しかし、若いデ・ビュイン少尉はその若さと牧師の息子というところからくる価値意識は、マッキントッシュ以外の白人隊員の一様な軍隊意識より柔軟性は見られる。
であるから、彼はマッキントッシュに最後まで一目を置き、敬意の念を抱いていた。

そして同じアパッチでありながら、白人騎兵隊にサインして活躍するケ・ニ・タイは基本的にマッキントッシュに帰依している。
他の白人は基本的に何とも思っていない。
ある意味、彼がもっとも討伐隊で役に立っている。
アパッチ族特有の能力、馬の糞の状況から通った時間を推定したり、馬のヒズメの跡からそれが空馬かどうかを判定する等々を活かし、そして何よりアパッチの思想と心理を理解しているため、現状を推察し有効な作戦に寄与できるのだ。

まさか、最後に彼がウルザナを銃殺するとは思わなかった。
そしてもはや助からない体であることを知り、そこに置き去りにしてもらうことを選択したマッキントッシュの手を握り別れを告げる。
ケ・ニ・タイの立ち位置がとても魅力的であった。

他にも軍曹も含め、キャストがとても濃密であった。
何というか、骨太のずっしりした物語である。
印象があと後まで尾を引く、、、。


昼顔

Belle de jour002

Belle de jour
1967年
フランス・イタリア

ルイス・ブニュエル監督・脚本

カトリーヌ・ドヌーヴ、、、セヴリーヌ(ピエールの妻)
ジャン・ソレル、、、ピエール(夫、医師)
ピエール・クレマンティ、、、マルセル(若いチンピラ)
ミッシェル・ピコリ、、、マッソン(女好きの夫の友人)


「欲望のあいまいな対象」「自由の幻想」「ブルジョワジーの密かな愉しみ」「小間使の日記」など観てきたが、これは美しいがとても普通に観ることができた。頭を捻る部分がない。感覚は捻るが(笑。


カトリーヌ・ドヌーヴ繋がりで、、、。
馬車の鈴の音で始まる導入部。
現実とは真逆なサディスティックな性的夢想である。

所々で、「反撥」に似た幻想が見られるが、これは一種の妄想であり、白昼夢である。
現実が異様に克明に描かれ、ささくれ立って立ち現れている映像ではない。
「反撥」は優れてシュール・レアリスティカルな作品であったが、こちらでは現実と妄想が織り成す心象が印象的に描かれる。

非常に自制心があり理性的で優しい夫をもつ、放逸な性衝動に身を任せてゆく若妻がじっくりと描かれる。
カトリーヌ・ドヌーヴが最初から最後までひたすら克明に描写される点では、「反撥」と同じであるが。
夢に見るサディスティックな性愛の欲望を現実に解き放つとどのようなドラマが生まれるか、、、。

セヴリーヌは、夫の女好きな友人マッソンから聞いた高級売春宿に自ら足を運び内緒で務めることにする。
「売春は最も古くからある職業だよ。知っているかい?」彼女にとって少しばかり後押しとなっただろうか。
夢にも現れる欲望を補償する半ば無意識で意図的な行為であろう。
女主には、彼女の上品で貞淑な雰囲気が気に入られ直ぐに雇われる。
2時から5時までの契約できまり。
その働く時間帯から名前は「昼顔」となる。
娼館の女主のセンスはなかなかのものである。
客相手の百戦錬磨という感じで、話のもって行き方もうまい。

そこにやって来る客も飛んでもない性癖のある客がいて面白いことは面白いのだが。
日本人はどう見ても日本人ではない。
この時代でも、あんなイメージなのか?しかも支払いに「芸者カード?」を出して、断られ現金を出すという、、、。
笑えない変な設定だ。日本(人)のイメージがまだ随分デタラメで稚拙である。
著名な産婦人科医もかなりどぎついマゾヒストの客であり、各自に合わせた作法を心得ている必要があることを彼女は知る。
そして屍体愛好家の公爵家に呼ばれ屍体に扮することまで経験する。
彼女はその高級売春宿の稼ぎ頭にまでなっていた。

このドラマで強烈なスパイスを効かせているのが、銀の差し歯と仕込みステッキが凶暴さを際立てるマルセルである。
短絡的に人殺しをする衝動的で激情型の人間である。
単に危ないだけである。
しかし、セヴリーヌと相思相愛の仲になってしまう。
彼には夫にない粗野で粗暴なむき出しのエネルギーがある。
そういうところに惹かれたのか。
しかし、彼女は夫への愛は別の次元のものとしてしっかり持っているという。
だが、よりによってマッソンに娼婦の仕事を知られてしまい、きっと最後に罰せられると、罪悪感に苛まれる。
(これは絶対に誰かにバレるものだ。単に時間の問題だろう)。

彼女は娼館を止めるが、それに腹を立てたマルセルが彼女の高級な自宅に押しかけてくる。
経済的に恵まれていて、立派な夫もいる事を知る。
彼はセヴリーヌを独占したい為、夫を邪魔だとして銃殺を企てる。
自宅前で待ち伏せしたマルセルにピエールは撃たれる(確か3発)。
ピエールはそこから車で逃走を図るが、ポリスに撃たれ死ぬ。
直ぐに病院に運ばれたピエールは一命を取り留める。
彼女が予感していた罰は自分自身ではなく夫に下ってしまった。

最後、車椅子で口がきけず身体の自由の効かない夫に対し、始めて深い愛情を感じるセヴリーヌであった。
マッソンにより彼女の娼婦として働いた一件も夫に伝えられていた。
彼女の幻想で、最初と同じように馬車の鈴の音が響く、、、。
何故かとても安堵感を与える光景だ。

Belle de jour

反撥

Repulsion001.png

Repulsion
1965年
イギリス

ロマン・ポランスキー監督・脚本

「水の中のナイフ」「ローズマリーの赤ちゃん」「袋小路」どれもとても印象深い。
「袋小路」では特にフランソワーズ・ドルレアックの美しさが際立っていた。
凄い姉妹がいたものであるとつくづく思う。
もっとも姉の方は美人薄命であったが、、、。

雰囲気的には「ブラック・スワン」に近いものを感じた。向こうがこれに近いのだが。
デヴィッド・リンチに通じるものは勿論、濃い。

カトリーヌ・ドヌーヴ、、、キャロル・ルドゥー (美容院で働く)
イアン・ヘンドリー、、、マイケル(姉の妻子持ちの恋人)
ジョン・フレイザー、、、コリン(キャロルに一方的に言い寄る男)
イヴォンヌ・フルノー、、、ヘレン・ルドゥー (姉)


この狂気のディテールの描きこみは、まさにシュールレアリスムだ。
心的状況を克明にリアルに描写することで、異様な時空の歪みが出てくる。
カメラワークも秀逸だ。遠近法を加速させた扉から扉への視線とか、、、最初の目の接写などまるでこちらがブニュエル?
最後のとても意味ありげな(意味を持たせているが)キャロルの子供のころの写真のアップ、、、。
演出が饒舌。コンセントを入れずにアイロンがけしているところなど、、、細やかな狂気の描写。

まずキャロルの潔癖性が発端の症状として始まる。
彼女は姉の家に住んでいるが、姉の不倫の恋人がそこに寝泊まりしていることに対する嫌悪感が募っていた。
病理的には何とも言えないものだが、奔放な姉と愛人の恋愛関係が現実に彼女に引き起こした影響は小さくはない。
リビドーの強烈な突き上げと性に対する(その対象~男の醸す生理的な)嫌悪が綯交ぜになり、それを内面化して内向してゆく。
無表情にしきりに無意識に鼻をこする。
無気力と無感覚が彼女を支配してゆく。

美容院で客に怪我を負わせて、外に出られなくなるにつれ、症状は重くなる。
アパートの室内は荒れて行き、ジャガイモからは芽が出て、(ウサギの)肉料理はテーブルに放置されたまま腐臭を放ってゆく。
この引き籠りと無秩序ぶりは相当重度になっているが、姉は恋人と旅行に出て行ってしまっている。
独りで放置されると症状の悪化はおそらく加速するだろう。

カトリーヌ・ドヌーヴの端正で硬質な美が狂気を孕むと、かなり不気味で怖い光景を生む。
冷ややかで無垢な感触が、悍ましさを増幅する。
連動して歪む時空がその相貌を顕にしてゆく。
部屋のスイッチを切ったかと思えば、壁に大きな亀裂が走る。
不安な足取りを多くの手が絡めとろうとする。
時計の音の異様な響き。
突然、現れ彼女に乱暴する男の幻影。

情緒を完全に失った真っ白な顔。
彼女に熱い思いを寄せるコリンがその情熱を滾らせ部屋にやって来た時の人形のような冷えた対応。
こちらを窺っていた向かいの老婆が部屋の扉を閉めると同時に、彼の頭を鈍器で滅多打ちにして殺す。
無表情で屍を引きずりバスタブに沈める。

部屋を内側から釘で打ち付け閉ざす。
外に出て逃げないのだ!そんな選択肢は彼女には最早存在しない。
内側に尚も深く閉じ籠ろうとする。
この心的な状況こそ恐ろしい。

突然ブザーが鳴り響き、家主が扉をこじ開けて入ってくる。
彼は家賃が収められていないことに激怒し乗り込んで来たのだった。
しかしキャロルがすんなり家賃を手渡すと、今度は彼女に言い寄ってくる。
仲良くなれたら部屋代はタダだと言って抱き着いて来たところを剃刀で首を切りつけ、その後は滅多切りにして殺す。
ソファの向こう側に遺体は落ちる。

荒れ放題の電話線も切断されたアパートに姉と不倫相手が旅行から帰って来る。
ベッドの下から全く生気を失ったキャロルが発見される。
しかし姉の愛人に抱きかかえられてゆく姿は妙に怪しい笑みと言い、これからどう変貌してゆくのかまた不安をわれわれに植え付けるものだ。


これもロマン・ポランスキーの、ただものではない作品であった。



カッシーニ グランドフィナーレ

Cassini Grand Finale001

NASA(アメリカ航空宇宙局)とESA(欧州宇宙機関)の共同開発によって1997年に打上げられた土星探査機カッシーニ
当時、34億米ドルを使って送り出された。(これ以降、かけられる費用はどんどん減ってゆく)。
太陽電池ではなく原子力電池で運航、作動。(太陽光が僅かなため)。
ついに燃料もなくなり、いよいよ最期のミッションに入る。
時折、気になりNASAのHPを覗いていたものだが、、、。
まりのるうにいの絵でもお馴染みの土星である。
稲垣足穂の短編ではヒトでもある。
(輪っかをバーの入口に置いておいたら誰かに盗まれたとか、、、)。
ここでは、その土星専門機カッシーニ(パイオニアやボイジャーは通りすがりの探査)の噺を少しばかり、、、。

Cassini001.png
金星→金星→地球→木星の順に重力フライバイして土星に到達。
これが使える条件(並び)が600年に一度のチャンスであったという。
その後、搭載していた惑星探査機ホイヘンス・プローブをタイタンに着陸させ大気の組成・風速・気温・気圧の観測を行った。
カッシーニ=ホイヘンスのやったこと、、、。

○ホイヘンスプローブのタイタンへの着陸。
衛星エンケラドゥスの氷の噴煙の吹き上げを観測。
○土星のリングが30以上あり、自転速度もそれぞれ異なる活発で動的なものであることを発見。
○今もリングのなかから衛星が形成されている。現在62個の衛星が発見されている。
○タイタンが地球の他に唯一降雨があり、川、湖、海を持つことを発見。
○ただし、タイタンのメタンは生物由来ではないことも確認。
○2010-2011年の土星の北側で起きた大規模な嵐を調査。
○土星からの電波パターンは、土星内部の回転には拘束性がないことを確認。
○リングの垂直構造~捻じれ(外側の2本のリング)を明らかにする画像を初めて取得。
○環と環の隙間に存在し環の崩壊を防ぐ役割の衛星ダフニス(他4つ)の発見。
○衛星イアペトゥス表面で30カ所もの巨大な地滑り跡を発見。(大きさ比で表面地形の高低差が最も激しい)。
○土星両極の巨大なハリケーンを発見。
○北極の6角形の様子をカラー撮影。ジェット気流下の風に押されることで幾何学模様が形成され崩れないことが解明される。
Cassini Grand Finale003
環の間の衛星。
HEXAGON.jpg
ヘキサゴン。(モノクロ)
Cassini Grand Finale002
天然色の環。AとBリング。

そして、「グランド・フィナーレ」
土星本体と環との間へ飛び込み、通り過ぎる軌道を22回繰り返す!
さぞや荘厳なヴィジョン~「末期の目」であろう。

これまでに、2004年に土星に到着してから127回、衛星「タイタン」をフライバイし探査してきた。
4/22に最期のフライバイを行い、4/26から「グランド・フィナーレ」に入った。

この間、磁気と重力の精巧なマッピングと上層大気の接写を行う。
土星最近傍からカッシーニが見るはずの景色を夢に見たい。
9/15に土星大気圏に突入し流星のように燃え尽き、13年にわたる土星探査を終了する、、、。


今ほとんど宇宙の探査といえば、地球外生命の探査とも言える状況となっているが、、、。
例えば、タイタンの低温の炭化水素の湖に生命の可能性を探るとすれば、地球とは異なる化学の系を必要とすることになる。
生命の系という観点から見れば、太陽系に独立した起源を持つ2例目の生命が存在する探査を意味しよう。

Cassini-Huygens.jpg

知りすぎていた男

The Man Who Knew Too Much

The Man Who Knew Too Much
1956年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督
主題歌「Que Será, Será」ジェイ・リビングストン作曲、レイ・エバンズ作詞、ドリス・デイ歌

ジェームズ・ステュアート、、、ベン・マッケンナ(医師)
ドリス・デイ、、、ジョー・マッケンナ(元ミュージカル歌手、妻)
クリストファー・オルセン、、、ハンク・マッケンナ(息子)
バーナード・マイルズ、、、エドワード・ドレイトン(イギリス人、暗殺組織員)
ブレンダ・デ・バンシー、、、ルーシー・ドレイトン(イギリス人、暗殺組織員)
ダニエル・ジェラン、、、ルイ・ベルナール(フランス人捜査官)


ピーター・ローレの怪演に魅せられる「暗殺者の家」のリメイク版である。やはりここでもオーケストラのシンバルを合図にターゲットを狙撃するタイミングを女性の絶叫が外す。
そこまでのオーケストラの演奏の高揚と見守る女性の不安と焦燥の作る関係の緊張が極まるところは、この映画の最大の見所であろう。
どちらもその舞台はロイヤル・アルバート・ホールである。
ただし、今回の演奏会場の尺の長さはかなりのもので、充分にこちらを焦らしそわそわさせる上では、オリジナルより練り込まれている。
(ここで暗殺が行われることが、こちらにはっきり明示されていなければ、音楽の昂まりとジョーの不安の増大とスナイパーの機を狙う呼吸が純粋に交わり、よりスリリングな感覚を味わえたと思うが)。

どちらが面白かっただろうか、、、と思い返すと、ピーター・ローレが出ていることもあるが「暗殺者の家」の方が好きではある。
こちらでは、そのローレに対抗する演者はドリス・デイか。(タイプと役どころは全く違うが、質的に)。

ヒッチコック監督が1934年にイギリス時代に「暗殺者の家」を撮ってから22年後の作品である。
しかも自身の作品のリメイクということもあって、とても熟れていることは感じられた。
「ケセラセラ」が、この映画の曲であることは初めて知った。(曲に全く興味がないためか)。


フランス領モロッコという舞台がまずまずエキゾチックであった。
砂漠の雰囲気は良い。もっと風景や風俗の物語への絡みがあってもよいと思った。
某国首相暗殺計画の黒幕は駐英大使だったというのも国レヴェルの政治的陰謀であるが、ヒッチコックの場合、軽みがあって重苦しくならない。それが道具立てのひとつであり主題でない分尚更。
ドリス・デイの演技がまた実に普通な感じで、ジェームズ・ステュアートと作るリラックスした空気感が素敵であった。
それもあり、不審な人物や不穏な空気を察知してからの緊張感の高まり、息子を誘拐されてからの悲痛に耐える姿の説得力もあった。

明朗快活で感覚も鋭いジョーにとっては、何故か周囲の視線が気になる。元歌手であったことも敏感になる原因ではあろうが。
夫はバスで会ったばかりの男ベルナールに上手く誘導され素性をたっぷり知られてしまう。何故か馴れ馴れしく直ぐに食事の約束までさせられる。だが、見知らぬ男が間違って部屋に顔を見せたとたん、彼はそそくさと約束を反故にして帰ってしまう。
かと思えば、同じアラビアンレストランに女性連れで現れ、何やら彼らを見つめ相談をしている。
となると、空気は随分と不穏になる。

ジョーは充分に尋常でない事態を感じているが、旦那の方はベルナールの無礼に対し怒ってはいるが、まだかなり呑気に構えている。ジョーとのうまい対比で、場に緊張感が生じて行く。
前半のこれから何かあるぞ、と言う雰囲気はそれらによって膨らむ。

そんな時に、ドレイトン夫妻を名乗るカップルがまた強引に彼らに割り込み、食事を共にしジョーのかつての活躍などについて話を盛り上げ始める。
ベルナールはマークする相手を間違っていたのだ。マークすべきは相手のドレイトンであった。
マッケナもこのドレイトンらを怪しまず(とりわけベンが無防備である)、マラケシュの市場で2家族でお祭り見物している時に、現地人に変装したベルナールがナイフで刺される。
マッケナ夫妻に縋るようにして、生き絶える。その時のダイイングメッセージが、イギリスで計画されている要人暗殺の情報であった。ベルナールは暗殺団を探るフランス人潜入捜査員であった。
彼の言い残した「アンブローズ・チャペル」がキーワードとなる。
完全にここでベンも巻き込まれた事を知るが、もう後の祭りである。
警察で事情聴取されるが、電話で息子ハンクが誘拐された事を知る。気を許していたドレイトン達が一味であったのだ。

早速イギリスに飛ぶ。「アンブローズ・チャペル」へ。
子供が人質で向こうには治外法権もある。警察にも頼れず、夫婦で切り抜けるしかない。
「アンブローズ・チャペル」が教会であることを知り、そこを訪ねるとドレイトン達がいた。
教会の神父をやっている。
息子はそこに拉致されていたが、助け出すことは出来ず連れ去られる。
向かうはロイヤル・アルバート・ホールである、、、。

結局、首相はジョーのお陰で掠り傷で救われる。
最後の大使館のディナーで、ジョーの「ケセラセラ」のピアノ弾き語りにハンクが口笛で応えるといっても、あの環境で双方の音が通るとは到底思えないのだが、、、。
いくつかちょっと、、、と感じるところはある。

確かに前作よりは、まとまっているが、面白味もいまひとつ。
「暗殺者の家」はピーター・ローレの存在自体~魅力が反則ではあるが(笑。


ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド

Cassini Grand Finale001

今日は映画は一本観るには見たし、カッシーニの”グランド・フィナーレ”(涙!に関しても実はひとつ書いてはみたのだが、わが家で初めてのゲーム機を導入し、そちらに夢中になってしまった(笑。


任天堂のスウィッチにソフト「ゼルダの伝説~」を差し込んで、取り敢えず慣れない仕草でやってみた。
わたしが何故これを導入したかというと、このゲーム機とソフト「ゼルダの伝説~」を”スヌーズレン”として捉えたからである!
これは、娘と「乃木坂46」の番組を見ていた時のCMで確信した。
いよいよわたしもゲームというものをやってみる時が来たのかも、、、という啓示とまでは言わないが胸のザワつきを感じたのだ。
娘達がいつも、iPadを目に近づけ何時間もオタクアニメを見ていることが気になっていた事もあり、異なる方向に目を向かせたいというお試しでもあった。(そのせいか、次女は視力が落ちている)。

であるから、わたし用ではなく、娘用である。
が、わたしも興味はかなりあるし、愉しみたい。
そうなのだ。
わたしはここのところ、、、どれくらいであろうか、、、愉しんだ記憶がない!
これは、恐るべきことであるが、本当なのだ。

しかし、定価より高いものを買うのは久しぶりであった。
定価は確か29800円のはずだが、ウェブ上ではプラス10000円が相場である。
わたしは、その中では一番安いところを見つけ、プラス7000円で購入した。
待っていても仕方がない。欲しい時が買い時なのだ。
とは言え、割高感は拭えない。
ひところのポテチ騒動を思い出すではないか。


テレビでゆったり三人分プレイヤー登録して、始めることにした。
セッティングは極めて簡単で、あっという間にできてしまった。
このパッケージには、取説がない。Apple製品みたいだ。良いことだと思う。
スティーブ・ジョブスの精神は広く定着してきた。全てのソフトマシーンは直感的な身体連動しなければ。

まず、わたしが手始めにお試しプレイをしてみたが、直感的に出来るところと、身体感覚的に慣れを必要とする部分があった。
ゲームをやり慣れているひとなら恐らく引っかかりないところかと思うが、キャラクターの前後左右を体感感覚的に操るのに、どうも違和感~慣れの必要があった。
わたしは、適当なところで終わり、次女~長女にプレイさせてみたが、はっきり言って彼女ら(小3)の方が遥かに上手い。
直ぐにガジェットに馴染んでしまい、どんどん使いこなしてゆくのには、ちょっと驚いた。
途中で止める際の、セーブの仕方にちょっと戸惑うが、問題はない。

パソコンについてもそうであったが、彼女らの感覚にとってそれらのマシンはほとんど違和感ない身体的延長のようだ。
次女にPower Mac9600の「縁日ソフト」(大昔の極めて素朴な2次元無料ソフト)と比べてどちらが面白かった?と聞くと。
笑いながら、こっちと答えたが、9600の方もまたやるよと言っていた。
わたしが思うに、どちらも捨てがたい、価値のある”スヌーズレン”で有り得る。
恍惚の時間を過ごせる点において、、、。
癒しの時間となるはず。
他にはわたしにとって、「亀」と遊ぶことと、「多肉植物」を弄ることくらいか、、、。


「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」
今後の、愉しい遊びの展開を、機会をみてまたご報告したい。


今日観た、「知りすぎていた男」と「カッシーニ~グランド・フィナーレへ」は後日、、、。

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末期の目

Michelangelo Pieta003

>美は緊張のなかにこそ
>拡張され
>鮮烈に受容される


かつてアンドレ・ブルトンは「美は痙攣的である」と述べていた。
まさにそれを想わせる。

緊張。のなかにこそ。拡張され鮮烈に受容される
これはアルタードステイツとも謂えよう。

わたしも「ことば失う」体験として、いまでも記憶に残るものがある。
音楽であるが、、、。
気がついたら鳴っていたものだ。
たちどころにアルタードステイツの状態に入っていた。

その体験は、不安と恍惚に全身の神経がざわめき立つものであった。
ゆったりした全能感と一体感とともに際どくスリリングな極彩色の想いに揺蕩う。
しかしいつまでもその状態には耐え切れない。
頭を巡らしその曲名~ことばを思い出す。
すると嘘のように眼前を七色に輝き煌く波模様を見せていた大河が消え失せてしまう。
色を失った現実が後に残骸となって残る。

そんな体験がこれまでに幾度かあった。
少なくともロックで2回、クラシックでも2回はあった。
しかし、かなり若い頃のことである。

つい先ごろ、亡くなったアラン・ホールズワースの名状しがたい複雑で柔らかな浮遊感をもったギターの音色にそれがあった(事後的に)。
その時は、何の誰の音か全く判別(命名)できず、とても危うい精神状態で身を任せた。
受容体としての自分という枠ギリギリまで薄くなったところでの感受は、その感動もあり得ないレベルに拡張していたことは確かである。
(それにしてもまた、天才と呼ばれる音楽家・演奏家が世を去ってしまった。ここのところ本当に相次ぐ)。
*フランクザッパがもっとも評価していた音楽家であり革命的なギタリストであった。

彼の曲をユーチューブでも聴き直してみたが、自身のソロアルバムより寧ろ他のアーティスト(グループ)のなかでのアンサンブルに、一際彼らしい、言葉の追いつかない美を垣間見た。
まるで人と違う誰にも似ていない奏法とフレーズも特徴である。
そのサウンドは、どこまでも上昇し昇華し溶け入ってゆく、、、。(とくにソフト・マシーン、ゴングがよかった)。
老いてからも円熟味が全てをカヴァーしていた。

それに近い以降の音楽体験は、わたしの日々更新する世界観の造形の方向性を、決定つけたことは確実であった。


そして、、、
今に舞い戻ると、、、。
音楽は余り聴かなくなっており、絵画や小説にもほとんど触れているとは言えない。


>掛軸や、彫刻
>其処に息衝く陽光、幽光。

川端康成の生活環境は、国宝級の調度品で設えられていたと、、、!。

>美とは、日々の生活に根付いてこその
>美なのかもしれません。


全くその通りで、わたしは日々、美が足りないという念を慢性的に持って生きている。
と言うよりそんな病にある。
「美」が足りないのだ。
もっと「美」を!これはまさに「もっと光を!」である。
人間存在は過剰を求める原理をもつが、過剰と欠如は表裏一体で欲動の発現を促す。

国宝級の調度品まで欲しいとは言わぬが、、、。
(鉄人の稀少フィギュアなら持っているが(笑)。
最近、何やら感動から遠のいた場所にいる。
受容体としてのこちらの問題~劣化が次第に大きくなっていることに気づく。
今現在のわたしの抱える最大の課題だ。

美に向かう欲動はとりもなおさず生命力~志向力を源泉とする。
きっかけは、亀の水槽で屈折して投影する虹であっても良い。
それを受け取る生命力の瑞々しさ(鮮度)が、いよいよ問題となってきているように感じる、、、。


死を意識した瑞々しく鋭利な眼と、ただ死に漸近的に近づく身体性にある衰えた眼とでは、、、。
何とか成らぬものか、、、。



          (全て引用は「エストリルのクリスマスローズ」より)


仮面ライダードライブ、シンデレラゲーム、心霊写真部リブート、女子高

これらを立て続けに観る。日曜日の話、、、。
無茶をした(爆。
死にそう(笑。

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「仮面ライダードライブ」は、長女とアマゾンプライムビデオで。
「シンデレラゲーム」と「心霊写真部リブート」は次女とTSU○AYAで借りて、、、。
怖いものが好きでたまらないのだ。そのうち普通にホラーを見出すはず。困った。
「女子高」は彼女らがピアノ練習している間にひとりで観た。

「仮面ライダードライブ」は、わたしも日曜朝8時から見たことが数回ある。
仮面ライダーなのにバイクに乗らずにスポーツカーを乗り回すのが新鮮であった。
しかしライダーキックを相変わらずやっており、ほっとした。
キックをやらなくなったら、もう何を信じて良いのやらとなってしまう。
バッタぽくなくなり、バイクも捨て、キックを決め技にしなかったらどこが仮面ライダーなのだ。
映画のため、やはりドライブ~主人公が中心にCG的にスケールアップした物語にまとめている。
メカの表現はかなり凝っていて面白かった。
今かなりの注目度の高い女優、だーりお(内田理央)さんが出ているが、とても生真面目な熱血警察官を好演している。
警視庁幹部の柳沢慎吾をやり込めるところは見所の一つか?
それに乗って上司の片岡鶴太郎が柳沢に釘を刺す。
ここは理想的な部下と上司の関係ではないか、、、と感心した。
ここで内田が意見した責任を自分がしっかり引き取ってそれを意味のあるものにしている。
なかなかこの立ち位置に身を置く上司はいない。

話はほとんど未来から来た息子を騙るロイミュードと主役のしんのすけの戦いである。(念のためクレヨンしんちゃんではない)。
今の時代のロイミュードなど一瞬しか出ない。
であるからやはり今人気上昇中の馬場ふみかなどセリフは一言であった、、、。
勿体無いが仕方ない。短い時間でまとめなければならない。
この「仮面ライダー」でわたしが魅力を覚えるキャラはチェイサーであった。
しかしキャラ設定が複雑でしっかり毎週観ている必要があるのだ(ちゃんとキャラの素性を知るには)。
ちなみに、わたしが仮面ライダーシリーズで(とは言え最近はほとんど見ることもないのだが)もっとも魅力を感じたキャラは、「仮面ライダーオーズ」のアンクである。役者の力量が凄かった。二役をやっていたが、この役者にはもっと色々と出てきてもらいたい。
三浦涼介という役者だ。『るろうに剣心 京都大火編』でもかなりの存在感を見せていた。
オーズでマドンナ役をやっていたのが高田里穂であり、、、次の「女子高」の実質主役である。

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何というか、女子高生の権力関係~イジメのけじめを卒業7年目の同窓会でつけてやろうじゃないか、、、という感じの物語である。
クラスメイトの「自殺」が元で廃校となった学校のクラス同窓会をその当時の教室で行うため、ダンス部の女子7人が夜集まってくる。実際、いそうな人達である。まだ、学校の電気は灯るのだ、、、。
集まると同時に早速険悪になる女子も出る。その直後教室の電気が消され、高田里穂が何者かに拳銃で殺される。
騒然となり、悲鳴が飛び交う。
今警察官となっている女子がその場を仕切り、残った者たちを他の部屋に移動させ、容疑者として拘束する。
その場で、誰彼ともなく高校生当時の思い出が彼女らから語られてゆく。
ちなみに、「自殺」したとされる女子は高田里穂の唯一こころを許した親友であった。

だが、6人それぞれの視座から個人的な世界を映し出すのではなく、どのエピソードも誰の目でもないカメラの目~超越的視座である。
特定の誰かの世界がそれぞれ綴られ、それが次々に死角をパズルのように埋めてゆき真相に到達するというタイプのものではない。
「バンテージ・ポイント」がそうであったが。

この思い出の中で大活躍なのが高田里穂であり、この濃いキャラだけはあまり現実的ではない。
その他の人々は如何にもという感じである。
しかし、いつまでも鑑識が来た様子もなく、彼女らの取り調べの警官も来ない。
ただ、その婦人警官ひとりで対応するばかりである。
オマケに推理したり仮説を立てたり、証拠物件のアクセサリーを自分で持っていたり、、、。
電気は点いているし、何か不自然だなと思って見ていたら、やはりどんでん返しが。
峯岸みなみが高田里穂は殺されたのではなく、親友を自殺に追いやった罪悪感から自殺をして見せて、それはわたしたち全員の罪でもあることを思い知らせようとしてやったことだと仮説を立てる。それを聴いて皆が納得する。
だがその話のなかで、高田里穂と死んだ親友のふたりの間でしか知らないアクセサリーの話が出てくる。
そこに隣室から高田里穂が現れる。
この会自体が婦人警官と高田里穂が犯人確認のため(高田の親友は実は殺されたという確証を得るため)、最初から結託して仕組んだ芝居であったのだ。
(ただこうなるとは、最初から想定内である。高田里穂が最初に殺されること自体がもっとも不自然であるから)。

最後に、不自然な筋・設定の運びの理由が分かるが、さっさと拘束を解かれて帰ってゆく彼女たちも変だなとは思わないのが少しふしぎであった。まあ考えるより早くその場を離れたい意識が勝るのは分かる、、、。
最後に残された峯岸みなみが下手人と判定され、彼女は自首するのか、高田里穂にその場で撃ち殺されるのか、婦人警官がそれを阻止して収めるのか、、、というところでエンドロールとなっていた。
女子のドロドロはよく描かれていた。
だが、敢えてわざわざドロドロ~ホラーを見たいとも思わない。

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しかし次女は無類の怖いもの好きである。
仕方なく、心霊写真部リブートというのを観た。
ここには、仮面ライダーのひとつ前の時間帯にやっている戦隊もの「ゴーバスターズ」のヒロインで名を馳せた小宮有紗が出てくる。最近は映画で文芸ものまで広く活躍している。
この心霊写真部というのがなかなか脱力しているのか真面目なのかよく分からぬ高校生の部活なのだ。
こういう部活があっても、まず入らないなとは思った。
彼らの忍び込む廃墟の設定はまずまずであった。

ただ部長がどうにも微妙で真面目そうでいて如何わしく、この人を観察した方が面白いのでは、と思うのだが。
人形とかそこで死んで無縁仏となっていた霊のメッセージとか、、、実に使い古された種であり、都市伝説でももう出ては来ない類の噺であった。それに蘊蓄を垂れる部長がどう見てもウザイ(女子から見ると恐らく)。
そして後半、霊がその力を発動すると、主人公の女子以外の部員の皆が倒れブルブル痙攣しているのだ(爆。
その間、主人公の女子がビデオを確認してそのポイントを探り当て、解決することで皆ブルブルから解かれる。
これを吹き出したり笑ったりしては、まずいことを次女の横顔をみながら確認するのだ。
小宮さんは忽然と現れ、心霊写真部なぞに親切にいちいち危険の警告などをしに来てくれる謎の存在である。
後を追うと、さっと消えたりするところから、幽霊である可能性は高い。

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同じく戦隊もののヒロインで活躍していた山谷花純主演ものは更に微妙で荒唐無稽な設定である。
落ち目のアイドルが無人島みたいな場所に集められ、そこでカード探しをして、集めたカードで競い合い負けたら首に嵌められた首輪の毒針?に刺されて死ぬ。負けたところで首輪が点滅し始め自らの運命を悟るのだ。
最後に生き残った、たったひとりのアイドルは手厚くサポートされ成功が保証されることになっている。

一か八かで出したカードの優劣で決まるもの(原理的にはジャンケンに等しい)。
それでも山谷花純はずっと勝ち続ける。
当然である。それ以外の運びはあり得ない。
精神的に持たなくなるアイドルも勿論出てくるが、タフな子だが性格がモロに現れる子も次々に粛清されてゆく。
一体、誰が主催しているのかは最後まで謎のままである。
大体、何でこんなことをするのか、主催者側以外誰も知らないし、調べる余裕もない。
ただ、そのゲームは首輪もあり降りようがないため、続けるのみである。
このような極端で単純な設定にすると実に脚本も演出も楽であろう。

そして残るのは、山谷さんとなるが最後の相手は失踪していたはずの姉となり、唖然とする。
彼女は、最後に彼女の姉に勝って優勝するのだった。
それまでの不条理に耐えて生き抜いて来たのだが、全てが終わり安堵したのか、、、
苦渋の表情が消え、「今のお気持ちは?」のインタビューに可憐な笑顔を見せる。
良いエンディングであった。なかなかのホラーとなった。
これからどんどん出てきて欲しい女優である。

思い切り極端で単純な設定により押し切るおばけ屋敷的な映画もひとつではあろう。
ハンガーゲームもこの類である。


トイレのピエタ

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2015年
松永大司:監督・脚本
手塚治虫:原案

野田洋次郎、、、園田宏(末期ガンの青年)
杉咲花、、、宮田真衣(女子高生)
リリー・フランキー、、、横田亨(園田と同じ病院に入院している患者、友人)
市川紗椰、、、尾崎さつき(新進画家、園田の元彼女)
大竹しのぶ、、、園田智恵(母)
岩松了、、、園田一男 (父)
宮沢りえ、、、橋本敬子(園田と同じ病院の親しい少年の母)


十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの聖母子像をピエタと呼ぶ。
サン・ピエトロ大聖堂に展示されているミケランジェロの作品がもっとも知られている。
「何故死んだ我が子をこんなに穏やかに優しい目で見つめられるのでしょうね」(橋本敬子)
息子は手術の甲斐無く死んでしまう。病院の友達には退院したと伝えられる。
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手塚治虫が亡くなる前の日記の最後のページに書いていた作品の構想を元に製作された作品だという。
「浄化と昇天」
トイレにミケランジェロさながらのピエタ像を描ききって、胃癌で息絶える若者の物語だ。
(手塚治虫も胃癌であった)。

前半は冗長気味にだらだら怠惰な雰囲気で話が流れてゆく。
飄々としたリリー・フランキーによるところが大きい(笑。
重いものを抱えた掴みどころの無い役が上手い人だ。
杉咲花はやはり目力があって若手実力派という感じであった。
真衣が金魚とプールで泳ぐところは、なかなか絵として気持ち良い。
(本人も気持ち良さそうであった)。しかしプロット的に今ひとつ意味が分からないところではある、、、。
Pietà003
彼女も日々、母親の愛には恵まれず、認知症の祖母のケアで息詰まっている。
ひょんなタイミングで園田宏の余命(3ヶ月)を知らされ、腐れ縁となった。
彼女は相手の余命がどうだなど、全く遠慮しない。
ただ、お互いに引き合うものがあるのだ。
「あんたなんか自分で生きることも死ぬこともできないじゃん!」
結構、正統できつい指摘を度々してくる。
感情がストレートに出るタイプ。
しかしそれに対して「そんなのわかってるよ!」と叫んで返す園田。
確かにそれ以外に何を答えられよう?

大学時代の彼女で今は絵描きとして賞にも輝き成功している尾崎さつきが彼らと対比する存在として現れる。
自分のやるべきことに一途で全く嫌味はないが、晴れ舞台を突き進んでゆく彼女はもう彼の世界の住人ではなかった。
ここで演じる市川紗椰嬢は、実際の彼女に近い気がする。
もう少し彼女の演技を見たかった。

元々自らをビルに張り付いた虫だという園田宏の覇気のなさは自然で良い。
しかし画家を諦めて高層ビルの窓拭きアルバイトというのも何か面白い。
これまで塗ってきた絵の具、全ての線や色を自ら拭き取っているみたいで。
決別したいと思ったらやってみたくなるバイトかも知れない。
しかし園田は作業中に突然倒れ医者に運び込まれて検査を受けると胃癌であった。

最初は副作用に悩まされながら抗癌剤治療を入院して続ける。
隣ベッドの怪しいオヤジ横田亨とも何故かウマが合う。
白血病の少年と心を通わせたり、その少年の死に際し、母親から少年の絵を頼まれる。
しかし絵を捨てた彼は彼女の懇願を退けるのだ。
その後、転移もみられ、医者に最後の日々の暮らし方を尋ねられた。
彼は退院して余生を自分のアパートで過ごすことにする。
実家には少しばかり顔は出すが、そこに戻る気はない。
これは、分かる。わたしがその立場でも絶対に実家に戻ることはあり得ない。

Pietà001
しかし間近に死を突きつけられたとは謂え、何がどう変わる訳ではなかろう。
恐らく何も変わらない。
何をか認識を得たり、見えてきたりするものではない。
体調が変わる(悪化する)としても。
(いや、余りにも体調の変化や苦痛~激痛が描かれていなかった気はする)。

真衣と横田の存在は大きい。
彼らは園田の生に火を灯したことは確かである。
絵を描く気になったのだ。
(わたしは、まだまだ、ならない(笑)。
天井向いて一心不乱に描くとところなど、まさにミケランジェロである。

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横田のヴィデオにおさまりつつ、、、
「僕、いま生きてますよ」
このセリフで締まった!


絶命した園田を抱く構図の絵~聖母は紛れもなく真衣であった。

何でも最後は肝心である。


”RADWIMPS”というグループの音はまだ一度も聴いたことがない。
であるから、野田洋次郎というギター&ヴォーカルという人も初めて見た。
素人臭さが良い意味で生きていた。市川嬢と共に。

めし

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1951年
成瀬巳喜男:監督
林芙美子:未完の絶筆『めし』原作
脚本:田中澄江
監修:川端康成

上原謙、、、岡本初之輔
原節子、、、岡本三千代
島崎雪子、、、岡本里子
杉葉子、、、村田光子
風見章子、、、富安せい子
杉村春子、、、村田まつ
小林桂樹、、、村田信三

東京・大阪の戦後復興期の街の風景が何ともリリカルである。
どこの国の風景だろうか、、、と見入ってしまう無国籍な抽象性であった。
「くいだおれ」も不思議で感慨深い。

小津映画で完成された原節子のイメージとはまた異なる彼女の姿が見られるが、憂いに充ちた横顔がギリシャの彫像のようで美しかった。
こういう原節子も味わい深い。
小津作品での原節子のことをよく書いてきたが、「青い山脈」、「安城家の舞踏会」の原節子がもっとも生き生きしていて魅力が感じられる。どちらも小津映画ではない、、、。勿論、「東京物語」の彼女は素晴らしいの一言だが、あれは作品の出来具合の良さで、誰もが神々しく輝いている。
この映画もまた彼女の異なる魅力が引き出されていると思う。

聖女ではなく、生活に疲れ猫に孤独を紛らわす市井の主婦を演じる。
「所帯疲れよ」と自ら突き放したように騙る原節子である。これは新境地か。

前半はひたすら彼女が倦怠感と疲労の漂う表情で、イライラとしながら家事に追われている。
「まるで女中よ」と、夫の転勤で大阪に居ることにも不満があるようだ。
周囲からは何の苦労もない幸せな夫婦と思われている。
当人もそれに対し真っ向から否定するような素振りは一切見せない。
だが陰鬱な疲労感が日々鬱積してゆく、、、。

仕事を持って故郷の東京で働きたい。そう思うようになるが、そこへ里子が転がり込む。
彼女は親が設定した縁談が気に食わず家出してきたのだ。
所謂戦後の現代っ子であろうか。
この時期の映画にはしばしばこういう思い切り自由な女性が現れる。
その後の彼女の、大阪での羽の伸ばし方が尋常でなく、遊びほうけて周囲も呆れるばかり。
三千代も彼女に対して不満を抱きつつ、自分の影とも言えるその存在への関心は保ち続ける。

さんざん自由に振る舞い迷惑をかけていた里子が実家に帰るに乗じて、三千代も一緒に東京の実家に帰ることを決断する。
実際に東京で仕事を見つけて張りのある生活をするつもりなのだ。
しかし、実家で父親に叱られた里子が今度は三千代の実家にまたもや転がり込む。
これには三千代も驚きまた呆れる。
そこで里子は勝手で我儘な生活ぶりを繰り広げようとする。
だがその姿に三千代は逆に、日々の生活の反復の価値に気づかされ思わず笑ってしまう。
冒頭で林芙美子の文章を原節子のナレーションで騙る部分に重なる。
これが基本コンセプトなのだ。

ここでも列車の移動するなかでの想念と思考の推移が描かれる。
最後の夫と共に大阪に戻ってゆく列車内での自覚と認識が告げられる。
生活の川に泳ぎ疲れて漂いしかも戦って、今は居眠りしている夫の平凡な横顔を見ながら、この人に寄り添って生きることが自分の本当の幸せなのだ、、、と微笑みを漏らしつつ悟る。
諦観を超えた生きる価値を見出すくだり、、、如何にも帰りの列車の中が似合う。


しかし元に戻れば反復する日常が待っている。
われわれに出来るのは、如何にこの反復を更新して行けるかだ。
日々新たに、、、向き合ってゆくか。
この先も毎日、「めし」を食べてゆくわけだ。
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砂漠の流れ者

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The Ballad of Cable Hogue
1970年
アメリカ

サム・ペキンパー監督・製作
ジョン・クロフォード、エドマンド・ペニー脚本

ジェイソン・ロバーズ、、、ケーブル・ホーグ(砂金掘りの流れ者、駅馬車中継駅の主)
ステラ・スティーヴンス、、、ヒルディ(娼婦)
デビッド・ワーナー、、、ジョシュア(似非牧師)
ストローザー・マーティン、、、ボウエン(砂金掘りの小悪党)
L・Q・ジョーンズ、、、タガート (砂金掘りの小悪党)


久しぶりのサム・ペキンパー監督の作品。
「ゲッタウェイ」「ワイルド・バンチ」「ガルシアの首」「 戦争のはらわた」、「わらの犬」、、、などとても印象を深く残す作品ばかりであるが、わたしにとってはとくに「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の演出・脚本も強烈なインパクトを残す。
わたしの一番のお気に入りは「ゲッタウェイ」であるのだが。
これも何とも言えない印象を残す作品となった。

初っ端から歌がたくさん唱われて、何か長閑な雰囲気の映画である。
最初の歌が流れたときは、これってミュージカル調の映画なのか?と思って見るのを躊躇したが、サム・ペキンパー監督のものである。
そのまま観る事にした。
いきなり主人公であるケーブル・ホーグが砂漠で仲間2人に身ぐるみ剥がれ、放置されてしまったところから始まる。
彼は水のないところで独り半死半生の苦闘を演じ、神にすがり神を呪いつつ諦めかけた時に水を掘り当てる。
そこからその場所を登記しインチキ牧師とともに小屋を建て、駅馬車の中継駅を経営する。
娼婦のヒルディとも恋仲となって、安定した幸せと言ってよい日々が過ぎてゆく。
しかし彼は、もうすんでのところで命を落としかけた仲間の裏切りに対する復讐心は失ってはいなかった、、、。

スローモーションや派手な撃ち合いなどは一切ない。
お洒落なタイトルバックは「ワイルド・バンチ」に準じていたが。
主人公が腰抜けと呼ばれているのだ。
実際のところ、腰抜けでも何でもない、心優しく商才ある堅実な男だが。
やはり変わった主人公ではある。

見終わってから、これも西部劇であったのだ、と気づいた。
もう車が走り出した西部劇時代の末期か?
砂漠で裸一貫、一花咲かせた男の奇妙な何とも悲哀のある人生が描かれ、象徴的な締めくくりで終わる作品である。
この監督のいつもの作風とは異なるとはえ、大変味わい深い魅了される作品であったが、何よりもケーブル・ホーグという男に惹かれてゆくのだ。
砂漠に留まり続けたところが良い。
わたしは、ここでこの男に強く共感し、より映画にのめり込んだ。
(ちょいと儲けたところでいそいそと街に移り住んだとしたら実に詰まらぬ男である)。

そして砂漠の地においてケーブルとヒルディとジョシュアの朴訥で細やかな話が織り成される。
ここは面白く、綺麗である。
ケーブルは善人でも悪人でもなく、ケチでもあるが優しく大らかでもある。
よく映画で描かれる、はっきりした主人公でないところに好感が持てる。
とてもユニークな普通の男なのだ。
(実際そうしたものであろうし、その方が馴染める)。

そして最後、自分が長年砂漠で待ち続けた敵の二人に自分の経営する駅で出逢う。
一人は射殺し、もうひとりはお情けで許し自分の後継者とする。
ここの攻防は派手さはないが、相手に姿を見せぬ上下(高低)の地形での毒蛇を使った作戦などでかなり楽しめた。
何れにせよケーブルはこころに誓っていた復讐は成し遂げたのだ。
ひとつの大きな目的を達してしまった。
そこへサンフランシスコで富豪となったヒルディが最新の車にお抱え運転手の運転でやって来る。
彼女にニューオリンズに一緒に行きましょうと誘われ彼は二つ返事で同意する。
ここで、彼を支えていた「復讐」と「砂漠」から彼は解かれてしまう。

運転手のサイドブレーキかけ忘れによる、交通事故死というこの時代としては突飛な事故死に見えるが、とても必然的で悲哀に満ちた死に思える。
その実、彼は周りが大丈夫というのにもうすでに自分の死を確信し、ジョシュアに生きてるうちに弔辞を詠ませるのだ。
ジョシュアの詩人としての資質が窺える、美しいスピーチである。
このシーンが一番こころに残った。
最後はもう本当に死んで葬式の場面に移っている、、、。

「戦い愛した砂が今、彼を覆い、、、永遠に留まることのない魂の流れの中に入る、、、彼にはある面では神のお姿に似たものがある、、、この砂漠で生きて死んでいったことを考えても、、、彼は並みの人間ではない。」

牧師の言葉を聴きながらひとりまたひとりと姿を消してゆくところが本当に物悲しくも美しい。




阪急電車 片道15分の奇跡

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2011年

三宅喜重監督
有川浩原作
岡田惠和脚本

中谷美紀 
戸田恵梨香 
宮本信子 
南果歩
芦田愛菜
有村架純

かなり凄いキャストだ!
特に中谷美紀さんは、「砂の果実」以降、女優としてもミュージシャンとしても随筆家としてもファンである。
その「砂の果実」のPVにおける彼女の美しさは絶大なもので、当時地球上の生物のなかで最も美しい存在であると確信したものだ。
そして最近、高偏差値進学中学に合格して女優業再開となった、芦田愛菜の原点みたいな姿も見られる。
この前見たTVでは、相当に美しく洗練されたちょっと歳以上に感じられる女の子になっていてびっくりした。
だいぶ以前であるが、尊敬する女優は、と聞かれて中谷美紀と答えていたのは覚えている。
そのとき、この子は大したものだ、とつくづく思ったことで今も記憶に残っている。(感動があると記憶は長期に残るものだ。海馬~短期記憶・メモリーから大脳辺縁系~長期記憶・ハードディスクへと)

そして流石に宮本信子さんの演技は素敵だ。
人間あのように歳を取れれば申し分ないと思う。
あのようなおばあちゃんであれば、是非ひとこと教訓なり叱咤激励なり思い出噺なり聞かせて頂きたくなるものである。
だがそのためには、相当な叡智がなければならない。単なる知識や経験ではない。
急にはああいったおばあちゃんに誰もがなれるものではない。
あの電車内で注意されたおばちゃん軍団のような人々では到底無理である。

南果歩さんのお母さんはとても良い感じだ。
PTA関係で凄まじくとんでもない不良おばちゃん軍団と行動を共にしなければならなくなった悲哀がとてもよく出ていた。
宝塚あたりのそれは、わたしはかつて二子玉川で見てきた。
実際、そういうものである。毎日のようにフレンチやイタリアンの高級レストランでおいしいランチを食べてるのは本当だ。
それが耐えられないのはよく分かるし、関係を断つと後が怖い。
家族が理解者であることは救われるが、ちょっと不自然な感じもあるにはあったが。
気弱で回りを気にする善良な主婦が十分に演じられていた。

そして今をときめく有村架純である。
「ビリギャル」面白かったが、ここでも伸るか反るかの受験生役で、こういうのが合っているのだろう。
この年頃の女優は女子高の怪談物に出ているケースが目につくが。
「女子ーズ」での活躍も面白かった。ニュートラルな女の子役でこの人の右に出る者はいないと思う。
直向きで可憐な役がピッタリだ。

戸田恵梨香はやはり上手いし自然である。
演じている感がない。
芸達者だ。
しかし、DVを受けても、というより受けることで、離れられなくなる一種の病的な心理規制も発現してしまうのか、、、見ていてそう感じられた。この物語のように外部の支援者に間に入ってもらうことがベストに思える。

それから、お宅学生のカップルである。
この二人がどうみても、もっとも幸せカップルであろう。
自分の趣味の道を素直に無理なく進んでゆくことが、結局は一番ベストな結果を生むのだ。
自分に嘘をつき、無理に外に合わせるだけ時間を単に空費し、時に取り返しのつかないところに追いやられる。
自然な形で自分たちにもっとも合う相手を見つけるのが最高だ。


このローカル線、、、。
ありふれた光景に見えてかなり異化された時空である。
登場人物たちは、孤独を電車の中で噛みしめることで、解放へと繋がってゆく。
そこにとても重要な触媒としてのおばあちゃんが介在する。(如何にも賢そうな孫の芦田愛菜と一緒に)。
おばあちゃんのちょっとしたお節介が、よい波紋となって他の登場人物たちに染み渡ってゆく。
中谷美紀や戸田恵梨香が癒され自分に向き合い、救われたことで、彼女らも他の人を癒し救ってゆく。
お宅カップルも救われたに違いない。
連鎖が優しく広がる。

これなのだ。
ローカル線であることも重要なファクターだが。
通常、このおばあちゃんのような、優しく賢いお節介というのはない。
誰もが自分の硬い殻の中に籠っている。人に構うなんてもっての外と思っている。
あっても大概目つきの悪い、批判や攻撃だ。単なる他罰主義丸出しの自己中心的な憤りだ。
でなければ、無自覚なコンプレックスの投影で人にとり憑いてくる輩もいる。
迷惑以外の何ものでもないし、人を更に孤独に孤立させる関係性しか生じない。
(こんな関係を深める光景がほとんどだ)。


しかし、ここでは、、、。
宮本信子と芦田愛菜のおばあちゃんと孫娘から広がる浄化と癒しの空間が電車という形で現出されている。
(これが街角や店などでは、効力を発揮しない。あくまでローカル電車という場所であることが重要である)。



PUSH 光と闇の能力者

PUSH 002

PUSH
2009年
アメリカ

ポール・マクギガン監督

クリス・エヴァンス 、、、ニック・ガント(ムーバー・念動力者)
ダコタ・ファニング 、、、キャシー・ホームズ(ウォッチャー・未来予知力者)
カミーラ・ベル 、、、キラ・ハドソン(プッシャー・記憶操作能力者)
クリフ・カーティス 、、、フック・ウォーターズ(シフター・物体の外観を変える能力者)
ジャイモン・フンスー 、、、ヘンリー・カーバー(ディヴィジョンのエージェント、プッシャー)
ニール・ジャクソン、、、ヴィクター・ブダリン(ディヴィジョンのエージェント、ヘンリーの右腕、ムーバー)
リー・シャオルー、、、ポップ・ガール(ウォッチャー、香港暗黒街のボスを父に持つ)


わたしは、こじんまりとした(小さくまとまった)作品は結構、好きな方だ。
だが、そういう作品ほどきっちりと締まったものでないと話にならない。

小粒な超能力者たちがざわざわ動いて結局何をしたのか分からない映画。
(昨日の超能力はそれなりに分かり、その人間の実存も充分に共感できたが、これは人がまるで木偶人形である)。
舞台は香港。
秘密組織ディヴィジョンから逃亡して潜伏している超能力者と、ディヴィジョンから送り込まれたエージェントに、香港暗黒街の組織の超能力者たちの、三つ巴の戦いである、ようだ。
ただ、何で戦ってるのか、彼らにどういう動機があるのか、金なら何で儲かるのか、よく分からなかった(笑。
そう、話自体さっぱり掴めずただ見ていただけなのだ、、、。

ダコタ・ファニングはそこそこ際立ち頑張ってはいるが、ナタリー・ポートマンみたいな圧倒的な存在感からは遠い。
妙に大人びていて生意気で頼りになるが危なっかしい少女というステレオタイプの役柄だ。
「レオン」は作品自体素晴らしかったし、、、やはり出演作は大きい)。
というより、今はもうこういった少女役は無理な年齢になっている。
正統派の美人女優として今後、伸びてゆく人であろうが。

PUSH 003
サイキックとは言え、ちゃんと能力発揮してるのは、ヴィクターくらいではないか?
彼はかなり派手だし。こういうもんだろうと思える。
だが、主人公他、誰もほとんどパッとしない。
主人公がもっともパッとしないのだが。
魅力がない。
キラというキャラ設定も情けないほど薄い。
キャシーだけは、このなかでは厚みを覚えるが、妙なポップアートみたいなのを描いてばかりで、今一つ深まらないし、広がりを欠く。全て原案・脚本・監督のせいであるが。
(こういうレヴェルの作品はスキップするべきなのだが、うっかりみてしまったため取り合えず備忘録と相成った)。

キャラが充分に動かせず、能力も有効な展開に繋がるという訳でもない。
(特にキラの場合)。
同じ種類のパワーでも個人差はあるようだが、実用レヴェルに達しているのは、ほとんどいない。
これを逆にうまく連合させてストーリーに練り上げれば、結構スリリングで面白味のあるものとなったのでは。
ひとりくらいミスタービーンみたいな人も加え、、、。
そうしたら、ぐっと入っていけるかも知れない。

それからナチス時代に研究・開発された超能力軍事兵器だそうだが、何でもヒトラー~ナチをブラックボックスにしてしまう安易さは勘弁してくれというところ、、、。ディヴィジョンという組織がそれを引き継ぐって、確かにそういった地下~秘密組織に対する憧れは誰もがもつところだが、安直である。
まあ、物語全体において安易であるが。
ウォッチャーなどを下手に設定してしまうと、プロット的に首を絞めることにもなる。
相当脚本を練る必要があるはず。


全体に、何を見せたいのかが、いまひとつ分からず中途半端感が最後まで続いた。

結局、何であったのか、、、?
余りのインパクトのなさに、もう見た内容も思い出せない。
いや、この記憶は消そう。
(記憶を消して身を守る場面があったが)。

ニックは中国の醬油を注射して大丈夫なのか、、、。
そんなところが気になってしまう。


PUSH 001
あ~あ、出る作品、選ばなけりゃ、、、と言っているようにも見える。



デッド・ゾーン

The Dead Zone002

The Dead Zone
1983年

デヴィッド・クローネンバーグ監督
スティーヴン・キング小説『デッド・ゾーン』原作

クリストファー・ウォーケン、、、ジョニー(元高校教師、家庭教師)
ブルック・アダムス、、、サラ(ジョニーの元フィアンセ)
マーティン・シーン、、、スティルソン(危険な政治家)
ハーバート・ロム、、、ウイザック(ジョニーの主治医)
トム・スケリット、、、バナーマン(保安官)

デヴィッド・クローネンバーグは、「ヴィデオドローム」「ザ・フライ」「 イースタン・プロミス」などの圧倒的な存在感のあるものが目立つが、この作品の隙のない丁寧で繊細な出来には、とくに好感を抱く。

美しい映画であった。
デヴィッド・クローネンバーグ監督はスティーヴン・キングの小説の世界観を余すところなく表現できていると思う。
いや更に透徹した世界に達していはいないか、、、。
クリストファー・ウォーケンの演技がそれを充分に体現し表出していた。

ヴィジョンの絶対的な説得力は様々なところで生きる。
多くは芸術の領域で発揮されることは多い。
以前、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンに関して採り上げたことはあるが、少なからず画家や小説家にも見受けられることは事実である。

フィアンセと共に幸せな日常を育んでいたジョニーにとり、ある夜の突然の交通事故により、彼も尋常でないヴィジョンを得ることとなる。
しかしその能力は、5年間の昏睡による時間の喪失、それは同時にかけがいのない恋人の喪失でもあり、ベッドから起き上がっても杖なしには歩けない足の不自由が残る、、、その代償として得られたものである。


確かに彼のような内的~潜在的コミュニケーション能力は、「心的現象論」を論じる吉本隆明氏もその存在を認めている。
所謂、世間的にいう超能力だ。
ひとつの源言語的能力で、胎内にいた時期の極めて初期に形成され得る能力のひとつとして捉えられている。

特にジョニーのように、それが強力で卓越したものであると、世間の好奇の目からは逃れられない。
芸術などに昇華・表現したものであれば、その領域での評価を呼ぶだろうが、彼の場合、日常に密着している。
彼は警察にも協力し犯人逮捕に貢献するが逆恨みを受け、銃で撃たれたりもする目に遭う。
面白おかしくメディアで採り上げられたり、犬を探してくれ的な手紙が山ほど届いたり、ただ彼を追い詰め悩ます事にしかならない。
しかも能力は次第に強まってくると同時に体力は衰弱して来る。
主治医には病院の管理下での生活を勧められるが、彼は今でも充分に管理下に置かれていることを告げる。
彼にとってはそれは忌まわしい能力でしかない。

連続殺人犯の警官の母親が息子のことを知っていた事実や主治医のウイザックが少年時代、ヒトラーに戦火のなか母親とはぐれたままになっていた深層の記憶と、その母親が遠くでまだ生きていることの透視は、さもあろうかと分かる。
彼らの意識のなか、記憶の底を探れば見えてくるだろう。
家庭教師を任され親しくなった少年が近未来に湖の事故に遭うことの予見は高度さは増していると思われるが、感情的な繋がりがそれを可能にしたとは受け取れる。だが手を触れたばかりの看護婦の自宅が今家事である事は、かなりの超能力と言えよう。
そして、連続殺人犯に殺された少女の遺体に触れてその犯人を特定した~顔を観た能力は、もうモノ~屍体から想念?を得るレヴェルである。少し他のケースから見て飛躍は感じられる部分ではある、、、。
そして、彼のかつての恋人サラが積極的に応援運動をしている政治家スティルソンの手を握った時に、彼が将来大統領となり、国の有事に躊躇いもなく核ミサイルを発射させることをはっきりと見てしまう。
強烈なヴィジョンである。
彼はさすがに、ウイザックに「ヒトラーがあのように台頭することが分かっていたら事前に彼を殺すか?」と問う。
すると彼は、「わたしは人々の命を救うのが仕事だ。勿論、彼を何があっても殺す。」と答える。

ジョニーは選挙演説の会場に銃をもって潜む。
結局、サラがスティルソンの間近におり、彼女の子供を盾として身を守った為に、彼が銃殺されることになる。
しかし、その一部始終はマスコミのカメラに収められ、駆け寄って彼を問い詰めてきたスティルソンが自滅して自殺するヴィジョンをジョニーは得る。
サラがどうして、、、?と困惑と驚きをもって彼を抱き上げるなか、彼は安堵して絶命する。
自分が死んでしまえば原理的に意味のないことではあるが、そのヴィジョンを観てしまえば、阻止できるのは自分であると思うだろう。わたしもほぼ同じ行動に出てしまうかも知れない。
世界を救うためとかいう大儀や自己犠牲の意識ではなく、そのヴィジョンの絶対性に突き動かされて、不可避的にとった行動であると思われる。
彼にとってきっとヴィジョンは、現実より強烈なリアリティを湛えたものであったはずだ。

最期に彼は、自分の能力を「今は神の恵みだと思っている」と恩寵として捉えて死んでいる。
The Dead Zone001

ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー

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ELLES
2011年
フランス・ポーランド・ドイツ

マルゴスカ・シュモウスカ監督・脚本

ジュリエット・ビノシュ、、、アンヌ(ELLES雑誌記者)
ジョアンナ・クーリグ、、、アリツィア(女子大生)
アナイス・ドゥムースティエ、、、シャルロット(女子大生)
ルイ=ド・ドゥ・ランクザン、、、夫

ジュリエット・ビノシュ主演でなければまず観ない。
邦題が悪すぎる。
”ELLES”である。彼女ら~ELLES(雑誌名)で良かろうに、、、。
題が作品の品格を落としている。


クラシック音楽~最初の頃のは思い出せないがワグナー、マーラー、ベートーベンなどを基調としている。
が、そこに、、、あのシャンソン、、、何であったっけ、、、が介入してくる。
インテリア、服、ドレス、調度、色調などが彼女の生活の質を綺麗に表しているが、、、
冷蔵庫のドアにいちいち引っかかる。(何かが必ず邪魔してドアが閉まらないのだ)。
ここに綻び、不協和音が現れてくる。
そういうものだ。
一見整然としているように見えて、、、
エントロピーが静かに増大してくる。


熟年夫婦となると子供を介して繋がっている部分が大きい。
もうお互い同士の関係の瑞々しい更新は困難となってきている。
これはある意味、人間における普遍的で深刻な問題なのだ。
しかし、肝心の子供は親の預かり知れない何者かとなっている。
価値観が理解不能になっている。(長男の大学生の部屋にはチェ・ゲバラのポスターが飾ってあった)。
(ついでに次男の小学生は、流行りのゲームばかりしている)。
コミュニケーション自体も不全に陥っていることは明白だ。
特に大学生の長男は相当に生意気で親を馬鹿にしている。

”ELLES”の雑誌記者であるアンヌは、女子大生の援助交際の記事を書くために、見た目もごく普通の可愛らしい女子大生に取材を持ち込む。彼女らのネット上の広告を見てインタビューをするのだ。
最初は壁を作る彼女らであったが、アンヌの彼女らに対する先入観(偏見)が薄らぎ、一緒にパスタを食べたりお酒を飲んだり、シャンソン(クラシックではない)で踊ってみたりしているうちに、彼女らも心を開き質問に全て答え、赤裸々な話をしてゆく。
明らかにアンヌに好意を示し、自分の本当の名前も明かす。
夫がアンヌの今取り組んでいる仕事を、娼婦の取材と蔑視していることに彼女は大きな意識の落差を覚える。
更に、長男が学校をサボり薬をやったことに対して、夫は妻が家庭を向いていないと批判する。
「わたしたちの責任じゃないの?」というアンヌに取り合わず、上司を呼ぶ今夜のディナーの食事や振る舞いばかりを気にしている。

実際女子大生のふたりは、経済的な必要性、バイトでは勉強する時間すらなくなってしまうため始めたのだが、時間とお金の余裕で、人間として女性としても明るく力強く暮らしていることを知る。
ほとんどネガティブな感情は持っていない。それ以前の生活の方が遥かに辛く惨めであったのだ。
確かにこころが全てを受け入れているわけではない。
社会的にも知人にも秘密の仕事で余裕を持てているのだ。
しかし、少なくとも女性として扱われ、逞しく生活を営んでいることにアンヌは動揺し、自分の置かれた現状が逆照射されることとなる。
特に「女性」としてである。
ここでの性的な描写が女性監督のためか、感情的な流れも含め、かなりリアルに受け取れる。


夫が招待した上司たちとのディナーを囲むと彼女には彼らが皆、取材を続けているふたりの女子大生の客でもあることを想像する。確かに買うものたち~需要があるために成り立つ構造なのだ。
彼女はそれまでの日常に、自分の深層の欲望に自覚的になっている。
ディナーの場が耐え切れず席を突然離れ、外気に当たりにゆく。
もうどうでも良いわ、、、とか漏らしていた、、、。


翌朝、綺麗な食卓を親子で囲む朝食の光景が流れる。
食事はみんなで仲良くとらねばならない。
それぞれがこころは離れていても、食事を共にとることが家族を取り敢えず繋ぎ留める。
そんな静かで明るい映像が続き、エンドロールへ、、、。



アンタッチャブル

The Untouchables001

The Untouchables
1987年
アメリカ

ブライアン・デ・パルマ監督
エリオット・ネス の自伝を原作とする実録映画
デヴィッド・マメット脚本
エンニオ・モリコーネ音楽

ケビン・コスナー、、、エリオット・ネス(財務省捜査官)
ショーン・コネリー、、、ジム・マローン(シカゴ市警警官)
アンディ・ガルシア、、、ジョージ・ストーン(射撃の名手、若手警官)
チャールズ・マーティン・スミス、、、オスカー・ウォーレス(財務省簿記係)
ロバート・デ・ニーロ、、、アル・カポネ
ビリー・ドラゴ、、、フランク・ニッティ(アル・カポネ腹心の殺し屋)

今では「マイインターン」で優しさと包容力一杯の役などを好演しているロバート・デ・ニーロの鬼気迫るアル・カポネである。
ビリー・ドラゴの殺し屋は妖気さえ漂わせていた。もう紙一重である。
ショーン・コネリーは味わい深い役をしっかりこなしている。この映画の中核を成していることは間違いない。
アンディ・ガルシアは瑞々しくシャープでスマートであった。
チャールズ・マーティン・スミスの個性はこの物語に幅を持たせていて、過度の緊張を和らげる存在でもあった。簿記係なのに銃撃戦でも予想外の活躍なのがちょっとコメディ調でもあった。
ケビン・コスナーはこの役にピッタリであった。正義に拘り名誉も気にし揺れ動く主人公の繊細なこころの動きをうまくなぞっている。

丁度「ゴッドファーザー」の裏側の話だ。

禁酒法時代の話である。
酒が作れず売ることも呑む事もできなければ、世は荒れるだろう。
当然、それにつけ込む人間は出てくる。
呑みたい人間は金を出す。(ポテチが食べられないくらいで、ネット上で大金が動くのだ(笑)。
酒の密造とカナダからの密輸で大儲けする組織が出来る。
アル・カポネがその最大勢力のボスであった。

法はあくまで法であり、彼がチーム「アンタッチャブルズ」によって、逮捕されてすぐ後に禁酒法はなくなり、何時でも好きなだけ酒が呑める事になる、、、。
法とは法である。法以外の何ものでもない。

ただ、この物語の発端にあるのは、ギャングの酒の売り込みを拒絶した店主の店を爆破したことによる10歳の少女の巻き添えの爆死である。
この深い悲しみから市民に対する暴力の阻止のためエリオット・ネスたちが立ち上がったと言えよう。
しかし、捜査は難航を極める。
権力の深みにまでアル・カポネの金の力が浸透していたのだ。
勿論、警察の中に内通者がかなりおり、エリオット・ネスの最初のガサ入れは見事失敗する。
失態は大々的にメディアに乗って物笑いの種にされ、権威の失墜も含め、人身のマインドをもコントロールしてしまう。
昨日の、コルレオーネの勢力も政治家や警察やメディアを抱え込むことで強大化していた。
その構造は同じである。

この映画では、暴力~銃に対しては暴力~銃で叩き潰すという基本姿勢である。
シカゴ流なのだ。後半に至るまで、これをグイグイとジム・マローンが引っ張る。
かなり血なまぐさい。
壮絶である。
人物がよく描かれている分、「アンタッチャブルズ」のうち二人が死んでしまうのは、こちらの胸も痛くなった。
そして撮り方である。
緊張を如何に保つか、生理的に心理的に微細に尺の長さを調整していることは明らかだ。
脚本的~流れにも焦らすような効果を取り込んでこちらを緊張の内で揺り動かそうとしている。

また、その道具立てと場所だ。
クラシックカー(1930年代)や騎馬隊(車ではないのか)が贅沢に出てくる。
ちょっと小屋も含めて西部劇を連想してしまう、、、。
そして「階段」での「乳母車」越しの銃撃戦である。
度々上下の高さを使った攻防が巧みに描かれていた。
ここが非常に緊張を高めるところで、主に神経を極限的に使い、決断を下す場面となる。

冒頭での少女の爆死から事実上の最後の決着を着けるところも子供絡みである。
かなりの危うさであるが、ジョージ・ストーンの射撃の腕に託された。
母親としてはその事態に不安と恐怖でたまったものではないが、、、。
(爆死した少女の母親がエリオットに犯罪組織の撲滅の懇願に来ていたことの対比でもある)。


全体を通し音楽は実に演出効果を上手く務めていた。全体をスムーズに流す作用がよく効いていた。

今日はマフィアに戦いを挑む法の側の物語であったが、これ以降の暴力、汚職について改善はみられたのだろうか。
(確かに改善された部分はあると思われるが、、、寧ろ裏切り者は許さないというアルの姿勢の徹底化が進んだようにはっきり思えるところである。その極端な例がプリズム!ある意味、全世界的に透明化したマフィアに覆われたような恐ろしい世の中となったものだ)。


ゴッド ファーザー

The Godfather001

The Godfather
1972年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督
マリオ・プーゾ『ゴッドファーザー』原作
マリオ・プーゾ、フランシス・フォード・コッポラ脚本
ニーノ・ロータ音楽


マーロン・ブランド、、、ドン・ヴィトー・コルレオーネ(コルレオーネ家の家長)
アル・パチーノ、、、マイケル・“マイク”・コルレオーネ(コルレオーネの三男)
ジェームズ・カーン、、、サンティノ・“ソニー”・コルレオーネ(コルレオーネの長男)
ロバート・デュヴァル、、、トム・ヘイゲン(コルレオーネ家の相談役)
ダイアン・キートン、、、ケイ・アダムス・コルレオーネ(マイケルの妻)
リチャード・カステラーノ、、、ピーター・クレメンザ(コルレオーネ家の古参幹部)
ジョン・カザール、、、フレデリコ・“フレド”・コルレオーネ(コルレオーネの次男)


設定だけでなく重みが「カラマーゾフの兄弟」にも似ている。
実は、「ゴッド ファーザー」をアマゾンプライムで初めて見た、、、。
わたしは、マフィアのドンパチがあまり好きではなく、これも敬遠していたのだが、フランシス・フォード・コッポラなので観てみたのだが、、、。
これは別格の作品である。

マーロン・ブランド、本当に重厚で燻し銀の演技である。
ニューヨーク・マフィアの頂点に立つ男の孤独と人間愛が深い味わいで表出されていた。
家族を大切にし麻薬を嫌っているところも、はっきりけじめのある人格である。
彼の出る場面はまるで、レンブラントの絵を観る想いだ(あの内面を抉る自画像群)。
(恐らくコッポラ監督もそこを狙っているのでは、、、)。
ここに本意ではないが、父を尊敬するマイクが結局、二代目を継ぐ過程が鮮やかに描きこまれる。
アル・パチーノの最初の青臭さから最後の覚悟を決めた精悍な面構えになるまでの変化の演技も素晴らしい。
周りの強面衆も実に渋くて滲みる。
一人一人の陰影が深くバロック絵画を想わせる絵とニーノ・ロータの音楽がこの映画を別格のものにしている。
これは、見始めたら3時間はあっという間であった。

緻密な構成には呆気にとられる。
精緻な工芸品に似た感触がある。
ドンがオレンジを買いに独りで出て行ったところを待ち伏せた対抗勢力の銃弾に倒れる。
奇跡的に回復するが最期はオレンジの農園の中で孫の防虫剤の銃に撃たれながら絶命する。
葬儀屋の娘が乱暴され顔を潰され報復を頼まれるドンであったが、その男に敵の銃弾に蜂の巣にされたソニーの遺体の修復を頼む。
パン屋の結婚を助けるとドンの入院する病院を守ることにそのパン屋が協力することに、、、。
そう言えばその婚約者はイタリアに行くことを止められうまくいく。
マイクは敵対勢力のボスとそれに協力する警部を射殺しイタリアに飛ぶ。
この視点で見ると、そんな対応関係でぎっしり稠密に練り上げられた映像であったのだ。
何気なく観てしまったのだが。

対比するモジュールで網目のように構成されている作品であることに気づく、、、。
これは飛んでもない美学によるアプローチで作られた特殊な映画のようだ。
一回観ただけでは、その全貌など掴めないことが分かるということだけは確認できた。

内容的に観ても、裏社会に生きること自分のファミリーが特殊であることに大いに抵抗をもっていたマイクがあのように変貌を遂げてゆくことに何とも言えない悲哀を覚えつつも非常に共感してしまうのだ。
(長男は直情的で粗暴で単純なため組織を任せられる器とは言えない。次男は気が弱く軽くあしらわれてしまうとてもマフィアの務まる性格ではない。やはり大学出の軍隊で表彰を受けた沈着冷静な自分が引き受けるしかない、、、と父の入院する病院を独りで守ったときに決意を固めたはずだ)。
そして最期まで威厳と包容力を保つドンの姿。
彼の死去で確実に何か大きなものが画面から喪失する。
マイクの変貌がここに極まる。
この辺の体感感覚が通常の映画とは異なるのだ。


The Godfather002
洗礼を受ける男の子として乳児であるがソフィア・コッポラがここでも出演している。
特に笑えるシーンではなかった。というよりその存在が緊張の最高度に高まる場面の演出になっていた。
赤ん坊が洗礼を教会で受けているときに、敵対するマフィアのボスたちを次々に虐殺してゆくこの生と死の極まり。
これほどフラジャイルで緊迫する生と死のドラマを見たことがない。
いやこれこそが洗礼なのか!そうなのだ。全ての魔を振り払う、、、。
無意識とは言え役者として彼女の最高の演技であったはず。(それ以降を見れば皮肉にも間違いなく、、、)。


それでも恋するバルセロナ

Vicky Cristina Barcelona001

Vicky Cristina Barcelona
2008年
アメリカ・スペイン

ウディ・アレン監督・脚本

ハビエル・バルデム、、、フアン・アントニオ
レベッカ・ホール、、、ヴィッキー
ペネロペ・クルス、、、マリア・エレーナ
スカーレット・ヨハンソン、、、クリスティーナ


スペインの太陽とガウディの建築があれば、こういう気分になるものだろう。
それは正しい。
「成就しない恋愛こそロマンチックだ」とは実にめでたい。
きっとこの気候と景色がよいのだ。

展開は小気味よい。
ちょうど良い時期にナレーションが入り、歌が入ってくる。
この辺のウディ・アレンのセンスは好きだ。
「ミッドナイト・イン・パリ」もこのセンスが光っていた。ただジョークは向こうの方が上で、もっと面白かったが。

ともかく、重くしないでオシャレに運ぶ。
扱っている恋愛沙汰自体はそれこそ、かなりシンドくてドロドロしたものだが。
アメリカの一般的な結婚生活~価値観にはウンザリというところはよくにじみ出ている。
(彼らの場合、アメリカのセレブであるが)。
ただ、こちらに来れば何かが変わり、自分にピッタリのもの~生活スタイルが見つかるかというと、、、
そうもいかない。
(アメリカを離れてここで経験したことは、意味はあったが、やはり強烈すぎたか?)
Vicky Cristina Barcelona003


そもそもふたりは安定~確信(発見)を求めてきたのか?
そうではない。
だいたい、自分探しの旅だなんて、、、探し当てた先の自分などという幻想は存在し得ない。
元々ないもの探すこと自体が甘ちょろい。というよりその身振り自体が甘い。
ただの気晴らしのレベルに過ぎない。

マリア・エレーナがクリスティーナに対して吐いていたことば「あなたは慢性的な欲求不満よ!」
その通りで、どうあっても、人は今に充足できない。
恵まれてるとか幸せとか関係なく、今在るところのものからはみ出ていくのが存在形式として必然なのだ。
現状を解体して~破壊して違うものを構築し続ける。
この構築し続ける運動こそが生であり性であろう。
そこに自分とか何とかは関係しない。
ひたすら運動する~生きるという事実があるだけだ。
ガウディの建築そのものである。
Vicky Cristina Barcelona002

本来、人間には中心がなく、永遠に日々のディテールを記述しながら未完の長編を構築し続けてゆくしかないのだ。
それがガウディであり、カフカが鋭利に示した世界なのだ。

フアン・アントニオとマリア・エレーナの関係はもっとも創造的で破壊的な、ある意味理想的な方向性をもったものであるが、安定とは無縁でひとつ間違えれば死に直結してしまう。
それに中途半端に憧れるクリスティーナとヴィッキーは、その事態を垣間見て経験はするが、やはり観光客としてアメリカに戻ってゆく。
特にヴィッキーは、最後のフアン・アントニオとマリア・エレーナの拳銃沙汰で外傷経験をもってはいないか。
これで懲りてしまうと、行く前より典型的なアメリカ(セレブ)型に収まってしまう。
大概はそのパタンではなかろうか、、、。

今の生活を、諦観で染めない、、、そこに尽きる。


わたしにとってここに出てくる人物など誰も皆、基本的にどうでもよく、この群像劇を見ていて感じたことが以上のことである。


ランブルフィッシュ

Rumble Fish001

Rumble Fish
1983年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督
S・E・ヒントン原作
スチュワート・コープランド音楽 言わずと知れた”ポリス”のドラマーである。

マット・ディロン、、、ラスティ・ジェームズ
ミッキー・ローク、、、モーターサイクルボーイ(兄)
ダイアン・レイン、、、パティ(彼女、、、元か)
デニス・ホッパー、、、父
ニコラス・ケイジ、、、スモーキー(ラスティを裏切る)
ヴィンセント・スパーノ、、、スティーヴ(ラスティの親友)
トム・ウェイツ、、、ベニー(カフェバー店主)

とても贅沢なキャストだ。
トム・ウェイツは、俳優としてもかなりのキャリアを積み重ねていることを改めて知った。
ミュージシャンで俳優をやっている人は確かにいるが、、、どちらも極めている。


荒涼とした夜の迷路をあてどなく彷徨うモーターサイクルボーイとラスティ・ジェームズ。
そうここは完全な迷路だ。
この不安と不穏の響き渡る夜の街で、頼りとしている背が、ふっと兄の姿が視界から消えるときの寄る辺なさ、、、すごく共振した。
いみじくも彼らの父が呑んだくれてラスティ・ジェームズに言ったことがとても実感できる。
「鋭い知覚認知を持っているからといってそれは異常ではない。ただ間違った時代に間違った場所で生を受けてしまったんだ。彼は自分が何も望むことがないのに気づいてしまったんだ、、、。」
Rumble Fish002


道理で、カフカの小説をあからさまに原作とした映画より遥かにカフカ的であった。
また、シュールレアリスムに通底する。
だから街のディテールは冴え渡っているではないか!
タルコフスキーの詩情も感じる。
感触は「去年マリエンバートで」に近かった。
アメリカ映画界は時折、飛んでもない作品を生み出す。
フランシス・フォード・コッポラは、と言うべきか、、、。
確かに「コッポラ胡蝶の夢」も圧巻であったが。

闘魚だけが美しい赤と青であった。
モーターサイクルボーイにはそう見えていたのだ。
他の表象は音量を絞った白黒テレビに過ぎなくとも。
だからその魚だけは海に繋がった川に解放したかったのか、、、。
(自由は幻想に過ぎなくともせめて、外に向けて解き放ちたかったのだ)。
「お前はおれのバイクで川に沿って走り海に出てくれ。」
これが兄の遺言であることを無邪気なラスティ・ジェームズも悟る。
しかし何故、こうなってしまうのかは分からない。だが彼は涙ぐみつつ覚悟は決めている。
確か兄は、カリフォルニアに行っていたのに、海には出れずに足止めを食っていたという。
海を目指したのに海に出られなかった闘魚なのだ。

何も意味がない。
意味~色のない音も微かな世界~表象にモーターサイクルボーイは生きていた。
しかし、それで生に対する感覚が研ぎ澄まされることもある。
喧嘩~スリルに逃げていたが結局何も見い出せなかった。
ほとんどの連中は、楽しんでさえいなかった。
誰もが兄貴を慕ってついてゆく、と言っても彼は答える。
「人を率いるなら行く先が必要だ」と。(「ハーメルンの笛吹き男」に例えて話をする)。
しかしその答え~行く先はない。
(そのままだと、みんな海に落ちることになる。その為、スモーキーはラスティを裏切った)。
カフカの主人公たちも、とりあえずの行く先は名目上あるにはあるが、常に途上での細々した出来事に不可避的に関わり迷路に深く囚われ死んでゆくのだ。

モーターサイクルボーイにとっても、ただ外へ出る以外に道がない。
しかし、彼も今1歩の所で何かに阻まれる。
それは母に遭ったことか。
兄は諦観漂う飄々とした表情で還ってくる。

「おれは5歳で子供をやめた。」
「おれはいつ子供をやめられるかな。」
「一生ない。」
兄と弟の対話である。
弟は単純で無邪気だが、この兄の孤独は計り知れないものがある。
あの不気味なほどの穏やかで繊細な語り口、というより感情を捨てたような表情と語りは、もう街に戻ってきたときからすでに最期を見据えていた。


弟は兄に託され、、、何も分からないまま、ただバイクを走らせる。
海に、、、夜明けに向けて、、、

Rumble Fish003

ラスティ・ジェームズはカモメの鳴く明け方の海にバイクで降り立つ。


音楽がとてもマッチしていた。
エンドロールの音楽もよかったがこれは、ポリスである(笑。
コッポラが兄に捧げている作品である。
分かる気がする、、、。

続きを読む

ペネロピ

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Penelope
2006年
アメリカ

マーク・パランスキー監督

クリスティナ・リッチ 、、、ペネロピ
ジェームズ・マカヴォイ 、、、マックス
キャサリン・オハラ 、、、ジェシカ・ウィルハーン(母)
ピーター・ディンクレイジ 、、、レモン(記者)
リチャード・E・グラント 、、、フランクリン・ウィルハーン(父)
サイモン・ウッズ 、、、エドワード・ヴァンダーマン Jr.

「アダムス・ファミリー」、「スリーピー・ホロウ」「ブラック・スネーク・モーン」「アフターライフ」のクリスティナ・リッチがここでも魅惑的な女性を演じている。
この中では、「アフターライフ」が見応えが一番あったが、「アダムス・ファミリー」でのキレのある活躍も素敵であった。

Penelope005.jpg
クリスティナ・リッチが豚の鼻をもつ上流階級のご令嬢で主演。
何代か前のご先祖の過ち(因縁)から、魔法使いによる呪いがかけられ彼女の鼻は豚なのだ。
子孫の女の子にだけそれは現れる。それが彼女だった。
彼女にかけられた呪いは、彼女を愛するやはり名家出身の男性が現れることで、解かれるという。
その為彼女は人目に触れないように、母親によって邸宅のなかで密かに(死んだことにされ)育てられてきた。
英才教育を受け贅沢に育てられては来たが、限られた家の者たち以外に人間との接触はない生活に閉塞感は募る。
適齢期となり、いよいよ呪いを解くべく王子様との出逢い(お見合い)がセッティングされるのだが、すべてうまくいかない。
王子たちはみんな彼女の豚の鼻を見るやいなや、窓ガラスを突き破って逃げてしまうのだ。
彼女は、外の世界に出たい。自分をそのまま認めてくれる人に出逢い愛されたい。
という当然の望みをもつ。(当初は受身の姿勢である)。

さてそのような王子様が果たして現れるのか、、、?
という御伽噺の始まり、、、である。
このペネロピ嬢結構、ヤンチャな感じである。それも加味して考えれば自ずと先は読める。
話はどうなるのか、、、は最初から分かりきっているし、それでハラハラする類の映画ではない。
ただ予定調和に行き着くまでの流れを楽しむものであろう。

豚鼻を付けてはいても、クリスティナ・リッチである。
何も窓ガラスを突き破って逃げるほどの顔には見えないが、、、これでもかなり可愛い(マスクした美女の場合に似ている)。
母親は、これに対抗して窓ガラスを強化ガラスにする。どういう対応だ?
兎も角、相手が見つからず、呪いの解ける目処が立たない。

折角、彼女の内面に触れる感覚をもったマックス青年は、自分がそのような身分でないために身を引いてしまう。
彼は平民の出なのだ。それを機に彼女も自立への踏ん切りがつく。
結局、ペネロピは自分の力~自己肯定力で解決してしまう。
「鼻」を克服する。

意を決してこれまで出たことのなかった邸宅を独りで飛び出し、自分の力で何とか生活をしてみるのだ。
しかしお金は母親のクレジットカードで支払う(笑。
これは致し方ない。就職などしていないのだし。
彼女にとってはそれでもかなりの冒険である。
そしてひた隠しに隠していた素顔を自らレモンを通して公表してしまう。
彼女はそれで逆に世間の人気者になる。もう逃げ隠れする必要はない。
(それに肖ろうとするかつて彼女から逃げた御曹司などが逆に結婚を申し込んで来たりもする。勿論断る)。

彼女は「わたしは、今の自分が好き」とこころから思ったことで、呪いから解けてしまう。
案外、ほとんどの心的障害などは、この肯定感で快癒をみてしまうのではなかろうか。
実際にすっきり、鼻が美しい形に治っているのだ(笑。鼻というのはある意味、象徴的である。
周囲には戸惑う者もいるが、彼女はもう何であっても自分を信じて進んでゆく。
彼女の障害に依存して生きてきた母親だけは、生きる目的を失ったかのようにショックを受け混乱する。
親とは面倒なものだ。
マックスとは、もう何の問題もなく一緒になれる。

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御伽話風な設定が特に凝っており部屋など徹底していた。
ペネロピの服なども可愛かった。
女性が見れば詳しく分かるところだろう。
何れにせよ、ハッピーエンド調の映画であったし、恋人が現れ鼻も綺麗に治ることは予想がついているにしても、最後にそうなるとホッとするものだ(笑。精神的にだけでなく物理的に変化するところが御伽噺のスッキリしたところだ。

しかしわたしにとって、何とも微妙な映画である。
自分の不全感、蟠り、外傷経験、実際の肉体的障害などに対し正面から向き合い、それを解体し乗り越えてゆくポジティブでアクティブな姿勢と行動が大切であることは、その通りだ。
それを通して自分を認める境地に達することは、出来る。
確かに自己肯定(感)が何程、精神~身体に与える影響が大きいかは、つくづく思うところであり、今自分も自己肯定のための生活を推し進めているようなものである。
その為に障害となるものは完膚なきまでに叩き潰す所存である。
が、それはそれとして、このように理想的に収まりすぎるのも何とも、、、物足りないわけではないが。
こうならなくてもよかったかな、、、とは思うのだが。
だが、クリスティナ・リッチが豚の鼻のままでは、物語は終えられない。


正しいエンディングだと思う。
Penelope004.jpg

ブラック・レイン

Black Rain001

Black Rain
1989年
アメリカ

リドリー・スコット監督
クレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイス脚本

マイケル・ダグラス 、、、ニック・コンクリン(ニューヨーク市警刑事)
高倉健 、、、松本正博(府刑事)
アンディ・ガルシア 、、、チャーリー・ヴィンセント(ニックの相棒)
松田優作 、、、佐藤浩史(節操のない次世代ヤクザ)
ケイト・キャプショー 、、、ジョイス(高級クラブのホステス)
若山富三郎 、、、菅井(親分)
内田裕也 、、、梨田(佐藤の手下)
國村隼 、、、吉本(佐藤の手下)
安岡力也 、、、菅井の子分
神山繁 、、、大橋(府警刑事部長の警視)
小野みゆき 、、、みゆき(佐藤の手下)
島木譲二 、、、菅井の子分
ガッツ石松 、、、片山(佐藤の手下)


松田優作の遺作となった作品。
二日ばかり、詰まらぬ(間の抜けた)映画を見てしまったので、今日はリドリー・スコット監督に戻って、、、。
高倉健と若山富三郎が出ているし、、、内田裕也がやたらと若い(笑。
マイケル・ダグラスもアンディ・ガルシアも良い感じであった。
Black Rain003

かつて映画といえば機関車であったところが、ここではバイクである。
徹底してバイクで事態が展開、急変、加速する。
NYから来た野獣のようなタフな警官、ニック・コンクリン。そして真面目な組織人間である日本の警官、松本正博。
そこにニックの相棒、チャーリー・ヴィンセント。次世代ヤクザの佐藤浩史が絡む。そう親分、菅井の風格も凄い。
何故か型破りの刑事は、ほとんどが離婚していたりその調停中で、養育費の請求などをされているシチュエーションばかりなのが気になる。つまり私生活がボロボロなのだ。しかも汚職警官である。麻薬取引の犯人から押収した金を盗んでいた。
ニック曰く、NY自体が巨大なグレーの都市なんだ。それに対し、白か黒しかない、と応える松本。
そして、ここは一体どこなんだ、、、どうやらレンブラント光線で何処とも云えぬ抽象的な空間と化した「オオサカ」で、悪夢の闘いが繰り広げられる。
「偽札の原版」を巡って親分衆を敵に回し佐藤を旗頭としたヤクザ新興勢力との闘いにニックや松本が飛び込んでゆく。

ここは未だに黒い雨の降り注ぐ地のようだ。
Black Rain004
若山富三郎~菅井組長の記憶はB-29「エノラ・ゲイ」に直結している。
アメリカは黒い雨を降らせ、表に出てみると街は消えており、あとに自分たちの価値観を押し付けた。
日本の文化は破壊され、佐藤浩史のような者で溢れかえった。
奴はアメリカ人と同じで、信じるものは金だけだ。
仁義が廃れてしまった。
その復讐はしなければならない、、、。ドルの偽造。経済の混乱、、、
菅井親分の立ち位置である。
そのドルの原版を盗み、好き勝手にハワイを拠点として暴れまくりたいのが佐藤であった。
チャーリーの仇を打ちたいと懇願するニックに菅井は明日、杯を交わす事を教えショットガンを渡す。
そこには、ニックを心配したもはやフリーの身の松本も密かにやって来ていた。

Black Rain002
高倉健の幅の広さを感じる映画でもあった。
レイ・チャールズの『ファット・アイ・セイ』をピアノ伴奏でアンディ・ガルシアと歌ってしまうのだ。
それも如何にも真面目な刑事という感じでギクシャクしながらもなかなかイケてる、その辺の芸達者ぶりがグイグイ引き込んでゆくところだ。
チャーリーとの友情が生まれるが、その後佐藤に刀で切り殺されてしまう。
佐藤を俺たちで捕まえよう。
ニックと松本が結局、手を組む。
ニックは最初は、組織ばかりに拘っている松本を「スーツ組」と言って揶揄していたが、両者ともに協力せざるを得なくなりやがて互いに歩み寄るようになってゆく。
何であっても盗むことは、名誉に傷をつけることになる。自分にもチャーリーにもわたしにも、と諭す言葉にニックは悟る。
松本はニックたちと事件に深入りしすぎたため免職処分されてしまったため、もうニックとともに思う存分闘うしかなかった。
過酷な仕事と犠牲も出して、ニック・コンクリンも松本正博も共に器が広がっている。
Black Rain005
何といっても、この映画は、松田優作である。
と言うより、高倉健と松田優作の共演であろう。
しかし彼らが実際、会う場面はほとんどない。
ちょっと勿体無い。まさに稀有な機会であったのに、、、。
松田優作はこの頃すでに病状は悪化していて、演技もその分鬼気迫るものを感じさせた。
余りに壮絶な遺作である。(また、誠に惜しい)。
始まりと同様、バイクによる壮絶なチェイスがあり、最後の死闘となるが、わたしが大分以前見たものでは佐藤は尖った杭に胸を射抜かれ絶命していた。
だが、今出回っている正規版では、寸前に止め、ニックは殺さず復讐者ではなく、逮捕する刑事の立場をとる。
大塚から、ニック、松本両名とも感謝状を授与された。無事大手柄で復帰となる。

お辞儀をして飛行機に乗ろうとするニックに、握手を求めるマサ。
(どうもアメリカ人がマサと呼ぶと、トランプとSoftBankの孫氏を思い浮かべてしまう。しきりにマサ、マサといっていたものだ)。
ドルの原版をニックはどこのタイミングで手にしたのか分からなかったが、よくマサ(松本)に渡したものだ。
別れの時のプレゼントにワイシャツの下に入れておいたのだ。
ニックは最初の頃から見ると、随分変わったものだ。

そのときの両者の晴れやかな笑顔は印象的だ。
でも実際、真の友情とはこうしたものだと思う。

これは紛れもないリドリー・スコット監督の映画だ。


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ノートパソコンのキータッチ インターフェイスの恍惚

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以前、わたしは14台ほぼ同時に家でパソコンを稼働させていた時期がある。
サーバーも入れてだが、、、。
それぞれ役割が違うのだ。名前も違うが、、、。
ディスクトップのタワー型に独立して接続しているキーボードのキータッチはストロークが長く深い確実な入力感の恍惚を味わうことが出来る。構造はラバードームでキートップを支えるものでメンブレンと呼ばれるものだ。
一方ノートは、パンタグラフ方式のため、軽くて浅いキータッチである。キーの中心を叩かなくても垂直に力を伝える。
だが、わたしはこのノートのキータッチには、これはこれで良いと思うものと、どうにも心もとなくチープで悲しくなってしまうものがある。

実はパソコンに期待するものは仕事に合ったスペック等いろいろあるのだが、全般においてキータッチが思いのほか大きい。
昨日、修理からかえり、交換部品はメモリーであった。16GB(8GB×2)積んでいるが、これがいかれていたらしい。
まだ正常に動くかどうかはあす試してみるつもりだ。メモリー不具合は結構あることだ。
ブルーレイ映画2時間強のものをドライブがしっかり再生しきれれば、取り敢えず問題ないとする。
いつも再生が終わってからは、キーボードのフル活動という番になる。
戻ってきたノートのキータッチというのが、実にふにゃふにゃ感が強い。
タッチしてゆく感覚が心もとない。
それはそこで~パソコン上で書く事柄にも何となく現れてしまう。

パソコンというと、基本スペックを文字記号の上で調べて購入を決めてしまうことが多い。
あまり実際に店頭でキーを打った感触で決めて買ってくることは少ない。
だが家に持ってきて実際に使うときは、もうキーを打ちまくる以外にないのだ。
例え問題症状が治っていたとしても、チャッチイキーの感触にどことない情けなさを感じ続けるのだろう。
この文はそのパソコンから今打っているところ。

昨夜心配したルーター繋げは問題なく済んだ。
今後も軽めでも3Dの制作はせずに3Dを動かす程度のことは、やるはずだ。
いざ作るとなるとアプリケーションはグラボを選ぶ。
まず、DirectX系ではなくOpenGL系となるし、MAYAをやるならGforceでなくELZAを選ぶことになる。
そこまではやらない。わたしは寧ろ動画を滑らかに再生するための動画再生支援機能のあるグラボ(今は普通についている)が大切だ。今回のトラブルもノートでブルーレイのタイトルを見ている最中におっこちたのだ。そして再起動戻ったらまた最初、では一向に先に進まない。これは致命的でどうにもならない。初期化程度でなんとかなるものではなかった。
だが、そんなことを色々しながらもキーは打ち続けているのだ。
このキータッチはインターフェイスの基本中の基本要素である。
疎かにできないものだ。
今回、スペックだけでノートパソコンを選んでしまい、その部分が考慮に入れていなかった。


何かを決める~押すときのその意思に対する外界~対象の抵抗の心地よさ、、、
これが大切で基本である。


レタッチ/裸の微笑

UNCOVERED.jpg
DVDジャケット
UNCOVERED
1994年
アメリカ

ジム・マクブライド監督

ケイト・ベッキンセイル、、、ジュリア(美術修復師)
ジョン・ウッド、、、セザール(ジュリアの養父、ドンの弟)
シニード・キューザック 、、、メンチュ(画商)
ポージ・ベーハン 、、、ドミニク(チェスの達人)
ピーター・ウィングフィールド、、、 マックス(ローラの夫)
ヘレン・マックロリー、、、ローラ(ドン・マヌエルの姪)
マイケル・ガフ、、、ドン・マヌエル(城主、絵の持ち主)
アート・マリック、、、アルバロ(美術史教授、ジュリアの元恋人)


これまた酷い邦題である。
体調から言って、重い作品は体に悪そうなので、昨日のケイト繋がりで観てみることにした。
正確には二度目である。(以前観た印象はほとんど残っていない)。


話は、犯人は序盤から分かってしまうし、ハラハラドキドキ感も薄い。
そもそも何で人が殺されるのか自体に説得力がない。
(殺人をする上での切迫感と必然性がない)。
絵の謎についても今一つしっくりこないし、何故、誰が上塗りして文字を消したのかも不明だ。(セザールか?)
ともかく絵に謎が隠されていることは全く珍しいことではないし、フェルメールの時代の絵などは寓意が篭められていて絵は読まれるものでもあった。
だが、その絵の謎と、つまりここではドミニクが絵の中に描かれているチェスの動きを再現しながら「その当時」の人間関係と事件について解き明かしてゆき、それ自体は面白いのだが、何故それが今現在の彼らに結び付けられるのか?
これが突飛過ぎる。
設定に無理がある。

原作があるらしいが小説として成り立っているのか?
それともこの映画の問題か?

しかもジュリアの家のドアの前にわざわざ次の駒(次の犠牲者)を置いてゆくのはどういうつもりなのか?
犯人のセザールはジュリアを偏愛していて殺人も彼女に城と絵の財産を継がせるためだったはず。
わざわざ彼女を巻き込み不安がらせる必要があるのか?
(巻き込むのを企んだのがそもそもセザールである。絵は彼の所有に移っていたし、おそらくメンチュを通してジュリアに修復を依頼させたのだろう)。
彼女のためを思うになら、他に方法は幾らでもあったはずである。
やはり変だ。一種のサイコだ。自分の死期が迫っていることとこれは別問題だ。
その絵のチェスから当時の事件の真相を追わせ、それを強引に今の彼らの現状に当て嵌めさせる意味がそもそも掴めない。
セザールは結局、何をしたかったのか、、、


ケイト・ベッキンセイル21歳当時のフレッシュな容姿が見れるというファンにはありがたいフィルムとなろう。
透明感があり瑞々しく美しい。
今からは想像できないショートヘアで凛とした専門家の女の子というカッコよい役だ。
演技は上手いと思う。
ケイト・ベッキンセイルのPV的位置にあるものか、、、確かこれは劇場未公開の作品だ。
劇場で上演して人が集まるだろうか?

何にしろ、もうほとんど脳裏には残っていない映画である。
何を見たか忘れぬうちに書いておこうと思ったのだが、書くほどのものは何もなかった。
かえって書くのに苦慮した(笑。


この手の作品はいつも借りてから、よかったら改めて購入していたのだが、いきなり持っていたことが、わたしにとって一番の謎である。



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朝から雨で桜が心もとない。
今は真っ暗で花びらも見えない。
冷たい。花冷えであろうか。風はふいているのか、、、

風邪を引き込みなかなか治れない。
時折、起きてはパソコンを打つ。
わたしにとってパソコンに向かうのがもっとも自然な姿勢なのだ。
外の雨も冷たさもさくらの花弁の舞い散り具合もわからない
キーを打つ不確かな音だけが夜気に、夜の明かりに、響く。

特に調子が悪くなく、やることもないときは、平均12時間はパソコンの前にいる。
以前は、パソコンは音~音楽を作ったり、3Dや動画を制作するためのツールとして使っていた。
だが最近は、ネットで調べ物をしたり、ブログを書いたりし、時折うたたねをする以外に使うことはなくなってきた。
だから、昔のようにハイエンドパソコンをなにも購入する必然性はなくなった。
特にわたしは3Dゲームはしない。グラボは外付けすることはない。
よく映画を見るため動画再生支援機能はあれば、とてもよい。

ブルーレイを見ている途中で落ちてしまっては、どうにもならない。
今日それで直しに出したノートが帰ってきた。
余りの疲労と睡魔のため、セットはできない。
特にルーターのパスワードを失念している。そこから先には進めまい、、、。
睡眠導入剤を30分前に飲んでいるため、視界も朦朧としてきた。
頭の方も理論的な向きには働かない。
さしずめ自動筆記みたいな感じになっている。
ダリの演出映画を見たためか、視界はやたらとシュールである。
色々なところが剥がれ捲れて見える。

ここでどんな筋書きを考えたにしても、思考力が一歩先にも届かない。
もうわたしの3分の2は眠っている。
真っ暗な雨の窓に外部の何かや音は全く透過しない。

恐らくわたしの神経機関に届かないのだ。
もうヒッチコックは何も見せてはくれない。
ならば、、、
ハンニバルと一緒にあのオペラを、会場の前の方の椅子で観たい。
おおこの曲だ、、、。
この曲だけは聞こえてくる、、、。

「堪能しましたか?」
「ええ、眠ってこのまま続きを聴きます。」
「では、おやすみなさい。」


リーガル・マインド 〜裏切りの法廷〜

The Trials of Cate McCall

The Trials of Cate McCall
2013年
アメリカ
ドラマ映画

リーガル・マインドは『柔軟、的確な判断』をいうが、原題は『ケイト・マッコールの試練(裁判)』というシンプルなものである。
邦題は内容を吟味した上での題であろう。言いえていると思う。

カレン・モンクリーフ監督・脚本

ケイト・ベッキンセイル、、、ケイト・マッコール(弁護士)
ニック・ノルティ、、、ブリッジズ(弁護士)
ジェームズ・クロムウェル、、、サンプター裁判長
マーク・ペルグリノ、、、ウェルチ刑事
アナ・アニシモーワ、、、レイシー(殺人犯)

ケイト・ベッキンセイルは「レタッチ」で見ていたが、もう女の子をもつ母親役であった。
随分大人になっていたが、確かにあちらは1994年のものだ。こちらはそれから19年後だ。あたりまえか。
明日辺り、「レタッチ」もう一度見直してみようか、、、。

それから「ホワイトアウト」なども、、、観始めて止めていた物がある。


さて、この話だが。
殺人事件で有罪判決(終身刑)を受けた女性レイシーの弁護を、アルコール依存症と闘う女性弁護士ケイト・マッコールが請け負うところから始まる。
彼女はアルコール依存症のため、幼い愛娘の親権すら失って自身が保護観察処分中なのだ。
しかも親権を勝ち取った元夫は、遠くに引っ越してしまう。
会うに会えないが、これまでも裁判、弁護の激務のためほとんど娘に会う時間がなかった。
(ある意味、自分の野心のためでもある)。
アルコール依存症もそのストレスから来ている。
悪循環である。キャリア・ウーマンにとって誰もが少なからず抱える深刻な悩みではないか、、、。

そんな身の上だが、彼女の信じる正義のためブレずに戦ってきた矜持が支えであった。
これまで多くを犠牲にして、敏腕弁護士として名を売ってきたのだ。
しかし、元夫や恩師の弁護士に言わせると、単に勝つことが目的であったり自己中心主義であると批評される。

今回引き受けたレイシーの弁護はすでに大変不利な状況で固められており難しい仕事になった。
しかし初めから事件を洗い直すことで警察・検察側の証拠や証言の捏造などが見つかり一つ一つ覆してゆく。
ケイトは苦戦するも逆転無罪を勝ち取る。
だが無罪放免となって喜んでいたレイシーの実態を知って驚愕する。
涙を流し、しおらしい表情で冤罪を訴えていた彼女とはまるで別人であった。

そして何よりレイシーは冤罪などではなく、彼女こそが真犯人であったのだ。
自分が確認した証拠に見落としがあったことに気づく。
軽蔑し反目していた相手と自分が同レヴェルであったことを思い知らされる。
検察・警官側の腹黒さにばかり目が向き、もっとも肝心な部分に洞察が行き届かず、先入観にも邪魔されていた。

全体の「風の向きは変えられないとしても、船の帆は調節できる」のだ。
かつての過ちを侘び、敵であった相手と和解し、味方のように振る舞い利用しようとする相手とは決別する。
ここで彼女は自己解体し、一回り大きく再編成する。
見守ってくれる良き恩師~アドヴァイザーがいたことも良かった。
本当の味方の言葉に耳を向けることが肝心である。

彼女は戻ってきたレイシーの弁護につくが、名誉の敗戦にもってゆく。
レイシー有罪の決定的物証を検察側に渡していた。
折角上手く無罪を勝ち取ったと思い有頂天でいた彼女は法定で激しく暴れて取り乱す。
彼女の本性を見た時である。

事の真実は大変見え難いし、観る者の立ち位置によって変わる。
これらの真偽を確かめそれらのピースをパズルとして組み合わせなければならない。
元々人の罪を測るなど人の目~能力でどれだけ可能なのか。
どれほど法を整備しても、人の施行することである。それが前提だ。
人を法に掛けて審判する人も等しく生身の生活を送っており、その現状はときに大変険しい生をいきているものだ。
しかし極めて高い見識の元、行われなければならない仕事であるしそれを要求されるはず。
実際はそうでもないようだが、、、。
今回の事件でもっとも成長できたのは、ほかならぬケイト・マッコールに思える。


これから先、彼女は娘に受け入れられるのか、、、。
すべて彼女自身にかかっているだろう。


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白い恐怖

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Spellbound
1945年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督

サルバドール・ダリが演出に関わっており、音響には「テルミン」も使われている。
夢が重要なファクターであれば、シュールな効果に期待は膨らむ。

イングリッド・バーグマン、、、コンスタンス・ピーターソン博士
グレゴリー・ペック、、、エドワァズ博士(新院長)、ジョン・バランタイン
レオ・G・キャロル、、、マーチソン(前院長)
マイケル・チェーホフ、、、ブルロフ(コンスタンスの指導教授)


『魅了された』

フロイドの精神分析(夢判断)の手法を武器に真相に迫るピーターソン博士を演じるイングリッド・バーグマンであるが、彼女の知性美のオーラ極まる映画である。

これが終戦の年に製作された映画とは、驚きである。
カメラアングルも面白い。牛乳を飲む当人目線でのカメラ~コップから白への繋がり、、、などちょっと笑えてしまう。
白そして縞の線の伏線がやがてスキー場のゲレンデへ、、、。
スキーを滑っている際の合成画面だけは、時代を感じさせ残念であった。
あそこのシーンだけは、ロングショットかクローズアップで上手く表現~演技して、中途半端な距離感は持たせないようにした方が良かったと思う。

噺は、精神病院の院長を長年勤めてきたマーチソン博士が更迭され、新たに著名な著書を幾つも出版しているジョン・バランタイン博士が院長の座に就く日から始まる。
非常な堅物で仲間内でも有名であったピーターソン博士であるが、彼を見るやいなや恋に落ちてしまう。
しかし、そのバランタイン博士は、白地に線の入ったものを見ると急に発作に襲われ取り乱してしまうのだ。
ピーターソン博士は更に、筆跡から彼が別人であることにも勘付いてしまう。
ここからスリリングなサスペンスドラマが展開してゆく。

ピーターソン博士は、ジョン・バランタインの強迫的罪悪感の分析を彼が途中で何度も投げ出し逃げようとするにもめげず、追いすがって徹底的に行う情熱的かつ理性的な女性である。患者側からすれば、真実など分からぬままで病気の奴隷となっていたほうが楽なことが多い。
「何故、自分自身から逃れようとするのか。」
「真の姿を知りたくないからだ。」
「ヒトは別の重い病気にかかってそれを忘れようとする。」
印象的なセリフが多い。(どれも無駄はなく細やかに伏線となってゆく)。

この場合、そのままにしておけば、彼は殺人犯とされてしまう。
彼女としては、分析を続け彼を治して、罪の意識から開放してあげたい。(さもないと一生そのトラウマからは逃れられない)。
警察も動いており、一刻を争う事態に追い込まれている。
ピーターソン博士は理論と感性・直感の両者を信じて一途に突き進む。
(バークマンはこういうブレない知的な役柄が実に似合う)。
分析だけでなく推理も冴えており、探偵みたいな感覚もあるし行動力も凄い。
(ジョンは恋人というより息子みたいに手を引っ張られ連れて歩かれている(笑)。

ただ、最初は高名な精神分析界の学者であるエドワァズ博士に惚れた部分は大きいと思うのだが、彼女はあくまでも正体の分からぬ場合によっては殺人犯かも知れぬその男に全く変わらぬ思いを寄せることができたのか?
「あなたは誰?」と問いを発したとき、想いが覚めるより研究者としての知的好奇心・探究心が発動した部分は大きいだろう。
そしてジョンが悪い男ではないと直覚していた。(所謂、女の勘だ)。
信じる力は大きい。やはり、ここか?
彼女は実際にジョンが記憶を喪失したときの状況を再現してその時を思い出させる療法に出た。
もしその時殺人をしていたら、かなり危険な事態ともなりかねない。
ジョン自身も自分が犯人であることを認め諦めようともしていた。

彼の場合は発作が起こると自らを失い危険な状態に陥る。
相当に根深い、幼年期のころの強いトラウマがあるのだ。
結局、彼の抵抗(防衛)をかわしながら分析を詰めるうちに、ジョンとエドワァズの関係は明らかになる。
エドワァズと一緒にゲレンデを滑っていたジョンは、彼の所属していた医療部隊が銃撃を受け火傷を負ったときのPTSDの治療をエドワァズから受けている患者であった。しかし雪のゲレンデで、エドワァズが崖から転落してゆく様子と子供の頃誤って事故で弟を死なせてしまったシーンとが重なって大きなショックとなり、彼はエドワァズ博士に同一化してしまったのだ。その際、自分自身の記憶は封印された。ただ、無意識的に意図的に弟を死なせた子供の頃からの記憶から逃れるためにエドワァズ殺しで埋め合わせようとしていたのだ。一種の合理化である。
彼女の分析のお陰で、彼はエドワァズには一切手をかけてはおらず、子供の頃に死んだ弟も事故であったことをシーンとしてありありと彼は思い出す。

分析終了。
彼と彼女は無実と確信したのだが、警察からその件は事故ではなく殺人だと告げられ、逮捕されてしまう。
死体には銃で撃たれた跡があったのだ。
この急展開に酷く落胆はするが、彼女ピーターソン博士は諦めなかった。
その後、彼女は院長がエドワァズ博士と旧知の仲であることを会話の中で知り、矛盾に気づく。
彼マーチソン博士は引き継ぎの際、ジョン・バランタインをエドワァズ博士として普通に迎え入れていたではないか!
おかしい。ここで彼女は確信し、マーチソンを問い詰める。
マーチソンは院長を更迭された恨みから後任のエドワァズ博士をスキー場で背後から射殺したのだ。

最後のピストルを構えられた時の冷静な理路整然とした彼女の説得はこれまた大したものだが、一番ハラハラさせられた。
マーチソンは彼女に向けた銃口を自分に向けるしかなくなる。

Spellbound002.jpg
目の描かれたカーテンを引き裂く。
ダリの絵が夢の世界の表象となる。
このシュールな夢シーンからは、ヒッチコック監督の実験的な映画に挑む野心を感じた。
ダリを起用とは贅沢だ。

無駄のない、締まった映画であった。

ハンニバル

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Hannibal
2001年
アメリカ

リドリー・スコット監督
トマス・ハリス原作

『羊たちの沈黙』の続編の位置にあるが、これだけで独立している。
寧ろ「羊たち、、、」とは別物として観たい。クラリス・スターリングがジュディ・フォスターではない。
リドリー・スコット監督によるひとつの映画として観てみた。

アンソニー・ホプキンス、、、ハンニバル・レクター
ジュリアン・ムーア、、、クラリス・スターリング(FBI特別捜査官)
ゲイリー・オールドマン、、、メイスン・ヴァージャー(ボルチモアの大富豪)
レイ・リオッタ、、、ポール・クレンドラー(司法省官)
ジャンカルロ・ジャンニーニ、、、レナルド・パッツィ主任捜査官

イタリアのフィレンツェに潜伏するレクターであったが、ちゃっかり途轍もない造詣を武器に由緒あるカッポー二図書館書士に収まろうとしている。
だがすぐに顔は割れてしまう。知る人ぞ知る有名人であるから。
おまけに懸賞金も旧友メイスン・ヴァージャーによってかけられた。
FBIのHPでも行方不明の凶悪犯として昇格され掲載されている。
しかしレクターはそれを余裕綽々に楽しんでいるのだ。
勿論、目立ちやがりだから話題にされると嬉しい。
レスターに負けじ劣らじのサイコ大富豪のヴァージャーも思い切り趣味で絡んでくる。
独自の凝りまくった方法でレクターを殺害して楽しもうとしている。
三つ巴か?

ゲイリー・オールドマンも「裏切りのサーカス」でダンディズムの極を行く役柄から、もう一方の極とも言えるここまでちょっとやりすぎの感はあるが。
元々、数々の大変癖の強いエキセントリックな役を頼まれてきた人である。
フィフス・エレメント」のジャン=バティスト・エマニュエル・ゾーグ、「レオン」のノーマン・スタンスフィールド、「ドラキュラ」のドラキュラ伯爵(ここではアンソニー・ホプキンスとも共演)、これから観る予定にも入っている「シド・アンド・ナンシー」のシド・ヴィシャス、、、そう言えば、ベートーベンもやっていた、、、。やはりとんでもない幅があるとは言え、常に常人から逸脱した特異な個性(才能)を演ずる運命の人と言ってよいようだ。
レクター曰く、ヴァージャーはかなり歪んでいるから想像を絶する方法を考えて来るはず、ってあんたに言われたくはないが。
どっちもどっちだ。
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そして長いこと観る気が起きなかったのは、クラリス・スターリングがジュディ・フォスターでなかったからだ。
わたしにとって『羊たちの沈黙』が余りに大きいものであった。
アンソニー・ホプキンスとジュディ・フォスターの構図が絶対的であったため、彼女がいないということは、少なくとも続編などと言える代物ではない。
確かにジュリアン・ムーアも頑張っているが、いまひとつ何かが薄い。
これだけの作品として観れば(「羊、、、」がなければ)、素晴らしい役作りで見事にスターリングを演じきっているとも言えるが。
ジュディ・フォスターとどうしても比べてしまうのだ。これは仕方ない。
悪いとは言わないが、雰囲気的にすんなり受け取れないものがあった。
しかし、この監督ならではの、そしてレクターの美意識にも絡めた「質感」が彼女を通して実現されていることは確かである。
「宙返りする鳩」の危うさと果敢さは充分感じられた。
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そして「グッド・フェローズ」でお馴染みのレイ・リオッタであるが、、、生の脳を食されてもね~。
悪い奴だから、食べられてもよいかも知らぬが、旨いのだろうか?
インディージョーンズでは猿の頭のシャーベッドが出ていたっけ。
昨日見た「コンテイジョン」のグウィネス・パルトローも脳炎の確認のため、頭皮をペロンと剥がれ脳みそを調べられていた。
どうも続くものだ、、、。
結局、飛行機の中でもハンニバルはそれを食していたようだ。
近くの席の男の子にもお裾分けしていた。「新しいものをお食べなさい、、、!」
(あの惨殺されたパッツィ捜査官の奥さんも食べられたのかどうか、分からなかったが、、、)

彼の切断した手はどうなったのか?
外科医みたいだから、何とかくっつけたか?
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エンドロールのオペラの曲" Vide cor Meum " はこの映画のために書き下ろされ演奏されている。
(バロックオペラにしては現代風に洗練されているな、、、と思ったらオリジナルオペラだった)。
とてもドラマチックで荘厳な素敵な楽曲だ。
歌詞はダンテの恋愛詩集「新生」から。
「愛の歓喜に目覚めた彼女は、おののきつつもうやうやしく、私の燃える心臓を食べてしまった」
ダンテのベアトリーチェへの想いを切々と綴ったもの、、、。
ここでは紛れもなくレクターのスターリングに対する想いにほかならない。
究極の愛か。
このオペラは中盤の野外オペラ場でも上演される。
レクターとパッツィ夫妻が出逢う場所だ。(レクターが調べて彼らに合わせたのだろうが)。
このオペラのシーンは短いが非常に印象に残る。(もっとそのシーンの尺を取って欲しかった。)
最後の深夜、クレンドラーの別荘にスターリングの保護~レクター逮捕に向かうパトカーの連なって走る様も異様に美しい。
映像と音楽が極めて美しく融合しているシーンが際立つ映画である。

リドリー・スコット監督の美学は徹底されていたと思う。

コンテイジョン

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Contagion
2011年
アメリカ

スティーブン・ソダーバーグ監督

マリオン・コティヤール 、、、ドクター・レオノーラ・オランテス
マット・デイモン 、、、ミッチ・エムホフ
ローレンス・フィッシュバーン 、、、エリス・チーヴァー博士
ジュード・ロウ 、、、アラン・クラムウィディ(記者)
グウィネス・パルトロー 、、、ベス・エムホフ(ミッチの娘)
ケイト・ウィンスレット 、、、ドクター・エリン・ミアーズ
ブライアン・クランストン 、、、ライル・ハガティ海軍少将
ジェニファー・イーリー 、、、ドクター・アリー・ヘクストール
サナ・レイサン 、、、オーブリー・チーヴァー(エリスの妻)

”SOLARIS”のスティーブン・ソダーバーグ監督である。

風邪をおして旅行に行った為に酷くこじらせてしまった。
今は亀の水替えくらいしか出来ない。
結構深刻である(苦。

それで体調に見合った?病気の映画を見ることにした。
「アウトブレイク」と同様のパンデミック状況に陥った世界が描かれてゆく。
しかしアウトブレイクのようなパニック・アクション映画の娯楽性は低く、非常に現実的であたかもドキュメンタリーフィルムに触れるような感覚の作品である。主人公もいない静かに進行する群像劇である。

淡々と患者の診療とワクチン作成に励むが、政府やマスコミの理解・協力が得られず苦闘する医師の姿は印象的である。
特に現場の医師である。ワクチンが出来ていないことからくる見通しのなさは、彼らにもっとも負担がかかる。
巷では利害関係や利己心、政治的駆け引きや扇動の絡む情報の混乱。それに乗じた破壊・略奪行為も行われてゆく。
強力な感染力と致死力をもった未知のウイルスというだけで人々に与える恐怖と不安は計り知れず、そこにつけこんで情報操作・誘導をして私服を肥やそうとする者たちも出てくる。
アラン・クラムウィディのように記者の立場からデマを故意にSNSで流して人々を操ろうとする者も現れる。
(最近、ジュード・ロウは憎らしい悪役ばかりだ)。
中にはベスの彼氏のように異様なほど呑気な若者もいたりする。

科学的検証ときめ細かいシュミレーションにより製作されている映画であることが分かる。

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ミッチ・エムホフも早々に妻と息子をこのウイルス感染で失うが、どうやら妻ベスが感染第一号であったようだ。
コウモリと豚の出逢いで生まれてしまったウイルスで、彼女はそれを最初に取り込み持ち込んでしまった。
コウモリの食べたバナナの残りカスが豚の餌に混じり、その豚を通して新種のウイルスが生まれ、その豚を処理したコックが手を洗う前に(エプロンで手を拭いた程度で)ベスが彼の手を握ってしまった。そこから彼女に接した人間が次々に発症してゆく。
この辺の香港(カジノか?)でのやり取りが店のビデオに写っているのだが、ここはやや鮮明すぎて説明的すぎる気もする。
実際の足取りはもう少し不透明であるかと思う。
マット・デイモンは残った一人娘を守りきろうと必死で行動する父を熱演する。
派手なアクションなど全く見せない(当たり前だが、、、彼が出ると場面が引き締まる)。

いずれにせよ、感染はもう無意識に機械状に爆発する。
せめて、手洗い嗽だけは意識的にしっかり習慣的に行わなければならない!
娘たちにもよく注意しよう、と思わせるに足る映画であった。

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エリン・ミアーズ医師は、エリス・チーヴァー博士に感染がもっとも拡大しているミネソタに送り込まれる。
そこで患者の隔離・収容の環境作りの段階から構築し、彼らの病状を調べ看護しつつ詳細なデータを収集して知らせてゆく。
政府筋からはいちいち文句をつけられ、ワクチン生成面も遅々として進まぬ状況のなか、患者の診察に追われるうちについに自分も感染してしまう。
そして死ぬまで隣のベッドの患者を気遣い息絶える。
独りで頑張りすぎる人も当然出てきてしまうが、こういった事態ではどうしてもそれが任せられる誰かに多くの負担を掛けてしまうもので、とても同情する。

アリー・ヘクストール医師は、有効と思われる抗体を自らの体に注射し実験台となってワクチンの完成を早める危険な賭けに出た。彼女にとってはもはや選択の余地はなかった。レベル3の実験室(公にはレベル4でないと許されない)で父親が自己犠牲の精神で個人的にワクチン作りを進めていたことも役にたった。
結果、ワクチンは完成する。副作用もみられない。
親子ともども大変な功労者である。
WHOやCDC(アトランタ疾病予防管理センター)等の機関も当然調査に動き出してはいるが、、、。

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こんな時に、矢面に立たされるエリス・チーヴァー博士の立場は、究極的に辛いものだ。
ある意味、ウイルスの致死力、感染力よりそれに対する歪んだ情報の爆発的波及の方が恐ろしいものにもなってゆく。
ただ現状を医師の立場から正直に伝えればよいという気楽な身分ではない。
しかもここに階級関係に火をつけるような勘ぐりを入れてくるマスコミや記者が必ずいる。
隠蔽や陰謀を持ち出す輩である。
上層部ではもう既にワクチンを独占しているとか、仲間だけは先に避難させたとか、ワクチンよりレンギョウの方が効くとか、メディアを通して人々に不信感を植え付け混乱に陥れ扇動しようとする。
エリスも妻に、正式発表前に感染地域を離れるように言ってしまったことで批難に晒される。
(妻が友達にそれを漏らしてしまったことで、バレたのだが。お喋りは禍の元である)。
エリン・ミアーズ医師を見殺しにしてしまったことが彼にとってはもっとも悔恨の情を残すところだろう。

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レオノーラ・オランテス医師のように、まず感染源を特定するため、発症患者の足取りに関するあらゆるデータを取り寄せ、有効な情報をつかみとろうとする役目が非常に重要となる。
彼女はそれをかなりの所まで突き詰めてゆくが、ある日その下で働くWHOから派遣された香港の男に拉致されてしまう。
その男の村は貧困な地域で、ワクチンが例え生産ラインに入ったとしても配布される優先順位は極めて低いという彼らの考えからお医者さんを人質にしてワクチンをまだ感染していない村人分しっかり確保しようというものだった。
彼女は納得はしないが、それなりに受け容れ彼らの村で子供たちの面倒を見て過ごす。
漸く交渉に応じた関係者が、要求されたワクチンを持参し彼女の身柄と交換する。
すぐ後で彼女は、こういう交渉は中国は受け付けないため、先に渡したワクチンは偽物だと知らされる。
レオノーラは血相を変え村人たちにそれを知らせに行く。

様々な動き、対応がきめ細かく描かれている分、実にリアリティが感じられる。


わたしとしては、やはり手洗い嗽である。
早く風邪を治したい。



レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード

Once Upon A Time In Mexico003

Once Upon A Time In Mexico
2003年
アメリカ

ロバート・ロドリゲス監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽

アントニオ・バンデラス 、、、エル・マリアッチ(伝説のギタリストガンマン)
サルマ・ハエック 、、、カロリーナ(エルの恋人)
ジョニー・デップ 、、、サンズ(CIA捜査官)
ミッキー・ローク 、、、ビリー(バリヨの部下)
ウィレム・デフォー、、、バリヨ(麻薬王)
ジェラルド・ヴィジル、、、マルケス将軍
ペドロ・アルメンダリス・Jr、、、大統領

メキシコというのと、ジョニー・デップが出ているということだけで見てみた。
ただし、アメリカ映画である。

恐らくこの監督の映画は初めてだと思う。メキシコ系アメリカ人らしい。
どうやらこれはシリーズ3篇の完結編であったようだ。
しかし、この一作で独立しているおり、前を知らなければ見ることが出来ない代物ではない。
とは言え、とても独特な世界観というか作風である。
それに慣れていないと戸惑う。
漫画チックというか、、、そう大変漫画の形式に近い。
アクションや銃撃戦の荒唐無稽で型にこだわり歌舞伎調なところなどまさに漫画である。
ともかく、主人公級キャストは撃たれようが死なないし、目玉をほじくり出されてもピンピンしている(いや、多少元気ないか?)

全体に細かいカットでスピード感を重視している。
ギターにマシンガンが内装されていたり、意味の分からぬ義手が出てきたり、、、しかしそうしたものを使わせるにジョニー・デップの右に出る役者はいまい、、、よくわからないが、ただ面白い。
この監督、編集までやってしまうところなど岩井俊二と同じで、使うガジェットなどからもオタク的匂いプンプンである。

アントニオ・バンデラスは最初気付かなかったのだが、あの「オートマタ」の主演俳優であったことを知りびっくり。
あんな渋い演技をしていた人がここではセクシーイケメンではないか。しかもカッコ付けてギター弾きまくり銃を撃ちまくり、、、。
そいえばジョニー・デップはプロもびっくりのギターの名手であった。ストーンズのキース・リチャーズが奴は俺より上手いと言っていたくらいだから本物だろう。彼はここでは腕前披露はしていなかったと思う。
ともかくアントニオ・バンデラスは、初めて見た俳優だと見終わるまで思っていた。

Once Upon A Time In Mexico002
これは、サム・ペキンパーへのオマージュなのか、撮っていてこうなっていたのかよく分からない、、、。
ともかく西部劇へのオマージュは充分感じられる。
タッチが西部劇風でもある。
でもあるのだが、いろいろ出てきすぎて訳が分からん。
CIAにFBIにクーデター組織にただの悪者~麻薬ギャングに民衆に、、、メキシコの政権を巡ってのかなりド派手な武力闘争であることは確かであろうが、そこに私怨も絡んでくる。
確か闘うギタリスト、エル・マリアッチは彼の妻カロリーナと娘を悪者クーデター将軍マルケスに殺されていたのだ。
彼にはその復讐の動機もある。

ただ悪者のメンバーのそれぞれの狙いと意図と動きがいまひとつ分からず、もっとも謎の男がサンズであった。
何なんだお前は?と聞きたいものである。
(それを言ったらほとんど誰もが何なのか分からない)。
たくさん出てきてもスケール感~広がりは無く、この監督のルールのもとで自動的に動く箱庭の中の人形世界にも見える。
(つまり極めて趣味的で自己充足的である)。


Once Upon A Time In Mexico001
何といってもこの人、サンズが一体何ものだったのか最後まで分からずじまいであった。
目玉を悪者に抉られたのにほぼ平気で銃を撃っているではないか。
人だろうか?などと聞いたらこの映画に出てくる連中はみなほとんど人ではない。
訳が分からないアクションの連続で畳み掛けてくるのだ。
見てるしかなくなる。

しかしただ見ていて面白いのが、このジョニー・デップである。
彼は見ていて飽きないから不思議である。
人気の理由はそこかも知れない。
表情、仕草だけで人を魅了してしまう。
一流の俳優はそういうものなのだろうが、彼の場合、それが際立っている。

ともかく、どんな映画であったのかもうすでに思い出せない上、ジョニーの役柄がどういうものだったのか分からずじまいなのだ。
この監督、目玉を抉りたい欲望を抱えているのか、そういうところはかなり気になった。
「おまえは殺すほどではないが、余計なものを見過ぎた。」
名台詞かも?


生理的についつい乗っかってしまう映画である。
痛快娯楽映画とはまた趣の異なる、どこかむず痒い箱庭映画か。
ジョニー・デップの独壇場に思えたが、主役はアントニオ・バンデラスであったことに気づく。
確かにカッコよいが、あの最後のシーンでのジョニー・デップに対抗できるはずもなく、、、

結局今、何を見ていたかは定かではない。が、ジョニー・デップの印象だけは強く残った。


ワールド・オブ・ライズ

Body of Lies001

Body of Lies
2008年
アメリカ

デヴィッド・イグネイシャス原作
リドリー・スコット監督・製作
ウィリアム・モナハン脚本

レオナルド・ディカプリオ、、、ロジャー・フェリス(CIAイスラム現地工作員)
ラッセル・クロウ、、、エド・ホフマン(CIA中東局主任)
マーク・ストロング、、、ハニ・サラーム (ヨルダン情報局GID局長)
ゴルシフテ・ファラハニ、、、アイシャ(病院勤務看護師)
アロン・アブトゥブール、、、アル・サリーム(テロリストの黒幕)

「嘘の実質」

昨日は環境・エネルギー、南北問題をベースに置いたもの、今日は現代のもうひとつの大きな問題であるテロに対する話である。
アメリカがイスラム世界に仕掛けた喧嘩に対する報復攻撃が基本となっているが、もうそれだけの問題ではない。
とてもリアルな雰囲気は伝わって来る。
対テロに対し実際に繰り広げられる嘘による騙し合い~情報戦に焦点が当てられている。
トム・クルーズ演じるスパイものとは大分違う(笑。

レオナルド・ディカプリオとラッセル・クロウの共演である。
しかも監督は我らがリドリー・スコット。
これで詰まらぬ映画になるはずもない。
「レヴェナント: 蘇えりし者」の鬼気迫る凄まじい演技には度肝を抜かれたが、この映画でもやはりディカプリオの芸は真に迫るものがある。
ラッセル・クロウは、同監督による「グラディエーター」の演技が目覚しいものと讃えられるが、わたしはむしろ「ビューティフル・マインド」のジョン・ナッシュ役の繊細で神経質な演技が好きなのだが、、、。

アメリカCIAのスパイ活動の指令主任と現地で活動する工作員を軸として展開するのだが、、、。
無人偵察機と携帯電話傍受などは、彼らのお手の物。当然、エシュロンによる情報収集は基本であろう。
だから指揮官は、アメリカ自宅で子供の世話をしながら、命懸けで今現在死闘を繰り広げている工作員に指令を出すこともできる。全ては抽象的な駒に過ぎない。

今回のラッセル・クロウ演じるエド・ホフマン主任は、偵察機の画面とネット上での情報収集をもとに指令を電話でロジャー・フェリスに出すだけのメタボエリートである。しかも現地でロジャーが伝手と信頼関係をじっくり築いた上で実行しようとしていた計画にふと沸いた自分のアイデアで余計な裏工作してぶち壊し、ロジャーの身の安全すら脅かしもする。
冷酷、非情な采配もふるい、そのせいでロジャーは頼みの綱のハニ・サラームの信頼も失う。
彼らはかなりの温度差のある厳しい上下関係でギクシャクしながら動いている。

エドが現地に関係ないものを食べたがるのも、恐らく自宅にいて何処の情報にもアクセスできる身体感覚が自然に要求するところか。寿司を無理やり食べたり。これでは当然太るし、この身体感覚は人格の軽視に自ずと繋がってゆくものだ。

何でも、ラッセル・クロウは事前にリドリー・スコット監督からの電話で、「20キロばかり太ってきてくれ」と頼まれたそうだ、、、。
ハリウッドスターも大変な仕事である。それに彼らしくない憎まれ役だ(笑。


Body of Lies003
ハニ・サラーム 役のダンディな俳優は誰かに似ている。今思い出せないのだが、、、。

ヨルダンで協力を要請する相手がハニ・サラーム であり、彼は上司のエド・ホフマンとは全くタイプの異なる人物である。
何しろ「決して嘘はつくな」と念を押すほっそりした紳士である。
ハイテク機器の駆使によって情報を掴むCIAとは異なり、こちらは恩を売って人を組織内部に潜伏させそこから情報を得たりかく乱したりする手法を取る。あくまで人間関係主体~諜報活動なのだ。だから嘘は命取りとなる。
ある意味、不確実ではあるが、危機的状況や肝心な時に機械より融通が効く。機械ははっきりポテンシャルに限界があり、ミスやトラブルで稼働停止してしまう。
この辺の信ずるところの立ち位置の違いからも、それに性格にしても大いに異なるようだ。
この二人の上司に挟まれて任務を完遂することは、誰にとっても極めて困難な業である。

タフなロジャー・フェリスでなければ務まらない仕事であろう。
それにしても寸でのところまで行った捜査で敵に捕まり、拷問を受けるところは見る方もシンドい。
結局、ギリギリのところで助けてくれたのがハニ・サラーム ではあった。
ハニはロジャーをサリーム逮捕の駒として利用はしたが、命を助けたのは恐らく彼がアラビア語に堪能で文化を尊重している姿勢からだと思う。エド・ホフマンであれば何であろうが単なる捨て駒として処理していただろうが。

Body of Lies002
アイシャ役の女優が異彩を放っていた。
追手の犬に噛まれたとき、破傷風のワクチンを注射してもらった女性に惹かれる。
まさに砂漠のオアシスだ。束の間のこころの平和を味わう。
彼の上司はこんなところ人間の棲む場所じゃない、と平気で言い放つが、ロジャーにとってのイスラムの魅力の象徴のような存在~女性かも知れない。
文字通りの看護師である。
(かつて稲垣足穂が女性とは看護婦である、と言っていた)。
ちなみにアメリカの敵国イラクの女性である。
ディカプリオには、常にこのような越境する役柄がついてまわるし、非常に合っている。
例えばジェフリー・ラッシュはそれがどんな役であろうと驚異的な憑依力で成りきってしまうが、ディカプリオの場合、彼ならではのイメージがあり、いつもそのイメージを強調するような役についている。

中盤から充分推測はつくが、ロジャーはCIA内での昇進や報酬を捨て、ヨルダンに留まることにする。
自分たちがこの嘘つきゲームで世界を危機から救っているという幻想~使命感にもう酔えなくなった。
一般人を手段として犠牲にする(正義の為には多少の犠牲はやむを得ない)生活も耐えられない。
「世界」を救うより恋人を救い、彼女との生活を大切にして生きたいのだ。
(拷問を受けたり裏切られたりすれば尚更そうなるだろう)。
まともな選択だと思う。
昨日の映画でも世界を救うために奮闘してきたジャック・ホール博士は、もっとも深刻な時点で息子の救出にこそ生命をかけて挑んでいった。

とてもよく分かる。


”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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