プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
必ずパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。


*当サイトはリンクフリーです。

PICKUP
レッド・ファミリー
キューブ CUBE
ドント・ハングアップ
キャット・ピープル
パラサイト 半地下の家族 -2
パラサイト 半地下の家族 -1
ヘンリー・ムーア~彫刻に見る普遍性
911爆破の証拠―専門家は語る 前
9/11:爆破の証拠 - 専門家は語る 後
アポロ 11
シャチ~優しい殺し屋~
ハイヒール
お嬢さん
とうもろこしの島
セールスマン
トラピスト1に寄せて
「労働疎外より人間疎外」によせて
カッシーニ グランドフィナーレ
カッシーニ グランドフィナーレⅡ
シチズンフォー  スノーデンの暴露
スノーデン
レヴェナント: 蘇えりし者
透明な身体性
森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ
ヴィデオドローム2 ~イスラム国 ~アノニマス
見えない重力を描く Ⅱ
美の翳りに寄せて
写真についてーⅡ
午前零時の奇蹟(シュル・レアリスム覚醒の時間)
パーフェクト・デイ ~ルーリード ~ローリー・アンダーソン ~スーザン・ボイル
未来派の画家~ウンベルト・ボッチョーニ
Balthus ~ バルテュス展行ってまいりました。
「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ  ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ
大昔のスケッチ(詩画集のための試作)
すでに世界は終わっていたのか ~ ヒエロニムス・ボスその1
スヌーズレン002
情報リテラシー  ~華氏911 ~不都合な真実
南伸坊「歴史上の本人」
プラトーン
アリータ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

デイ・アフター・トゥモロー

The Day After Tomorrow

The Day After Tomorrow
2004年
アメリカ

ローランド・エメリッヒ監督・脚本・原案・製作

デニス・クエイド 、、、ジャック・ホール
ジェイク・ギレンホール 、、、サム・ホール
イアン・ホルム 、、、ラプソン教授
エミー・ロッサム 、、、ローラ
ジェイ・O・サンダース 、、、フランク
セーラ・ウォード 、、、、ルーシー
アージェイ・スミス 、、、ブライアン

「近い将来」

「13F」「インデペンデンス・デイ」の監督である。しかし、「ハリウッド・ゴジラ」の監督でもあった、、、(苦。
13Fは傑作であったと思う。

「バンテージ・ポイント」のデニス・クエイドと「遠い空の向こうに」のジェイク・ギレンホールが父子を演じる。
どちらも良い役者でそれらの作品も強く印象に残っている。特に「遠い空~」、、、フォン・ブラウンをヒーローとして目を輝かせる少年の物語には泣けた。

しかし、わたしは余り映画好きではない為、途中で少しでも抵抗を感じてしまうと、止めてしまう。
映画を見ること自体に苦痛を覚えることが多い。
だがこの映画については、壮大な雪、氷、風ばかりの「氷河期」の世界であるため、何故か気持ちよく見ることが出来てしまった。
地球環境、資源、経済、政治問題をセットに組んだ上で、親子・隣人愛を描いた作品である。
だが、何をおいてもわたしは「氷河期」という一種の恍惚が好きなのだ。
それだけで、この映画の空気と白銀に馴染み、気に入ってしまった。
(わたしは、学生時代「氷河期」をテーマに戯曲をひとつ作った。探せば出てくる、、、(笑)。

VFXは今見ても見事であり、シーンによっては、エポック・メイキングなものもある。
例えば、巨大なタンカーが音一つなく、ビルの立ち並ぶ市街地に旧約聖書の『創世記』的な出現をする。
この時の人々の畏怖の念に表情を強ばらせ無言でその巨大なモニュメントを見つめるシーンは印象的だ。
そう、氷河期こそ全てが白く埋もれてしまうかと想うと、有り得ないものが忽然と出現するのだ。
恐らくここで、この事態の宗教性がもっと顕になってもよかった、、、。
自由の女神についた氷の形(氷柱)も見事であった。
ひたすら荒涼として残酷で美しい光景がいっぱいに広がっていた。
これだけで酔えるものだ。


前半、地球の気象の激変を鋭く見抜いた気象学者ジャック・ホールのアメリカ政府との孤独な闘いが描かれる。
その変化の原因はともかく、引き起こされた事態は全世界的に途轍もなく危機的なものである。
世界の首脳たちにもそれを力説するが、政治家は尽く目先の経済問題しか念頭にないため彼を黙殺しようとする。
その後、彼を理解するラプソン教授が数少ない彼の支えとなってゆく。
だが、次第に地球環境が彼の力説した通りの状況に近づき、政府も彼の提唱した気象モデルを頼り、方針を固める。
大統領もジャック・ホールの説を受け入れ、対策を講じ命令を下す。
アメリカ北部の人間は外には一切出ず、室内で火を焚き寒気の収まるまで篭る。
南部の人間はメキシコに難民として受け入れてもらう。(今米政府はそんなことは想像だにしていまいが、いつそんなことが起きるかなんてわからない)。
しかし、大統領一行はニューヨークで吹雪に囚われ全員死亡してしまう。

後半は、ジャックに対しもっとも反対し敵意を抱いていた副大統領が大統領として指揮を執る。
だがすでに彼はこの壊滅状況を前に傲慢さを打ち砕かれ、認識を改めこころを入れ替えている。
ジャックは、この時点では私人として息子のためだけに生きる父として行動してゆく。
息子に必ず迎えにゆくと約束をしていたのだ。
すでに公人としてやるべきことは終えていた。

息子のサム・ホールとその仲間の高校生たちは極低温下のニューヨークにまだ足止めとなっている。
ここで果敢に彼らは生き延びようと闘い続けていた。
傷から感染した肺結核を起こしたローラを助けるため、巨大なロシア船から薬を探しにゆくが、始めの頃、動物園から逃げた狼がそこにやってきていたのだ。
危機を乗り越えながら耐え忍んで待っていると、図書館まで大変な労苦と犠牲をはらいつつやってきた父親とついに再会が叶う。
ニューヨークにまだ人が生きているという情報が緊急本部にもたらされヘリがやってくる。
上空から見下ろす彼らの目に、ビルの屋上に登り沢山の人たちが救助を待っている様子が捉えられる。
人類の希望の光が射してくる。

大統領の自戒の念を込めた声明文がTVから世界に向けて流される。
ここには強がりは一切なく、協調と感謝が述べられている。
(特に途上国に対して。何といってもメキシコにおいた臨時政府からの放送である)。
そして、化石燃料使用についての反省も。実はこの人、副大統領時に京都議定書の調印を拒否している。
エネルギー問題と環境問題に関して、同時に発展途上国に対する政策も含めこのように考え始めなければならない、今の時代そのものであろう。


この時、空気があんなにすっきり澄み渡っているのを初めて見た。
と人工衛星の飛行士が言っていたが、きっとそうだろう。
凍結した後とは、そんなものである。
ひたすら美しいはずだ。
(少し気象が戻るのが早すぎるのだが)。

感性で観る映画である。

続きを読む

最高の人生のはじめ方

The Magic of Belle Isle001

The Magic of Belle Isle
2012年
アメリカ

ロブ・ライナー監督・製作
ガイ・トーマス脚本
ドラマ映画

モーガン・フリーマン、、、モンテ・ワイルドホーン(筆を折った西部劇作家、車椅子生活)
ヴァージニア・マドセン、、、シャーロッテ・オニール(離婚調停中の母)
エマ・ファーマン、、、フィネガン・オニール(シャーロッテの次女、作家を目指す)
アシュ・クリスチャン、、、カール(障害を持つ少年)

同監督の「最高の人生の見つけ方」と似過ぎていて、混乱する。
ということは、「スタンド・バイ・ミー」の監督ではないか、、、いやが上にも期待は高まる!

しかし「ベル島の魔法」なのだし、、、。この邦題、大ヒット作「最高の人生の見つけ方」に肖っちゃおうという魂胆か?
もう少し何とかしてもらいたい。同一シリーズと勘違いされる恐れもある。
(関係ないが「新しい人生のはじめかた」というダスティン・ホフマンの映画もありこんがらがる。こちらはLast Chance Harveyである。実物買いならともかく、忙しなくウェブ上でポチッと買うときなど間違えないか心配である)。

お隣同士で知り合い、そこから展開し双方の再生を果たしてゆく話である。
隣といってもどちらも避暑地での期間限定の湖畔にある別荘住まいである。
モンテの方は最愛の妻を亡くしてからというもの、もうタイプライターも見たくない、人とも関わりたくない、酒に溺れていたい心境である。事故で足を失ってから支えてくれていた妻がいない今、物語の主人公も封印してしまっていた。
一方お隣の母と三人娘の家庭は、夫との離婚調停中でストレスが渦巻いている感じであるか。
離婚が決まればそこが実家となる可能性もあるようだ。

The Magic of Belle Isle002
小ネタの多い映画である。
この犬がキャビンの持ち主から預かったリンゴである。(ここに前にいた他の犬は、ジョン、ジョージ、ポールだったという)。
モンテはそれが気に食わない。スポットと改名する。
スーパーのレジに最後に客が反射的に買うだろうと思って置いておくサラミが気に食わない。
レジの店員にひまわりの種を置けと要求する。
結構気難しい男ではある。

しかし、隣の次女フィネガンは勘が鋭く、モンテに何をか感じ取り、彼が移ってきた初日から興味深々である。
そして彼が小説家であることを知るとすぐに彼の代表作「ジューバルの冒険」を買いに行くなど行動も早い。
彼女はお話の作り方を小遣いを叩いて教えてもらおうとする。
(本当は西部劇より宇宙人の話のほうが好き、というのはわたしも一緒でとても共感した(笑)。

「想像力こそが人類最大の力である」と彼の力説するところ、J・G・バラードと一緒で全く賛成である。
その想像力の使い方の方法をフィネガンに教授してゆく。
二人のやりとりはかなり面白い。
話の持って行き方が、如何にもモーガン・フリーマンという感じであり感心する(脚本であるか(笑)。
想像力による創作のもって行き方はさり気ないが重要なところである。
またフィネガンがなかなかの娘であり、これはモンテにとっても楽しみだったはず。
(別れの日に、「君が本当のわたしの娘だったら、、、」という件では、こちらも思わずグッと来てしまった)。


やはり一番大きい役割を果たしているのが、フィネガンであり彼女の刺激で、モンテの犬に対して、シャーロッテに対して、カールに対しての姿勢がとてもしなやかに解れたものになってゆく。
それは彼の創作意欲の再燃にも繋がってゆく気配もある。

そう、モンテとフィネガンとの想像力を介した繋がりが彼と隣の家、というよりシャーロッテとの愛情を芽生えさせたといえようか。
大きな起伏もドラマチックな要素もないが、われわれの日常に接合した世界が活き活きと展開されている。
そこが最も魅力的なところだ。
われわれと隔絶されたファンタジーではない。
想像力はわれわれのものだ。
われわれも魅惑的な女性(シャーロッテ)の弾くベートーベンに一発でこころ惹かれるようなことはいくらでもある。

カール君との関係も面白い。
モンテの右腕として変身して行動した日々は、確実に彼の生きた経験となるはずである。
そしてこれらとの関わりが何よりモンテに活力を与えてゆく。
最初の頃の頑迷なじいさんの雰囲気は終わりの方には全くない。
フィネガンが自分で物語を作り始め、末娘にねずみとゾウの話を作ってあげるうちに、当然自らも変化してくるものだ。
それに応えるように毎晩、シャーロッテはベートーベンを隣から優しく奏でてくれた。
この奥ゆかしさ、、、。


避暑を終えて彼は帰ってゆくが、ひょっこりまた戻ってくる。
全く使えなかったe-mailで近況を知らせてきたのだ。
小説の版権を映画業界に売り、家を買って転居してきたと。
するともう先のキャビンに犬といるではないか、、、。
フィネガンがそれに気づき、真っ先に彼に飛びついてゆく。
すでに彼はフィネガンにとっては人生の師(お父さん)であり、シャーロッテにとってはもはや最愛の人でもあった。

The Magic of Belle Isle003

何にしてもモーガン・フリーマンはもう絶対的な存在である。
この映画も、フリーマンそのものだ。

犬が何でスポットと名付けられたのか、わたしには分からなかった。
分かる人、教えて欲しい。

続きを読む

ドノバン珊瑚礁

DONOVANS REEF

DONOVAN'S REEF
1963年
アメリカ

ジョン・フォード監督・製作

ジョン・ウェイン 、、、マイケル・ドノバン(アメリカ海軍の退役軍人、酒場の主人)
リー・マーヴィン 、、、ギルフーリー(アメリカ海軍の退役軍人)
エリザベス・アレン 、、、アメリア・デダム(ボストン社交界の女王)
ジャック・ウォーデン 、、、ウィリアム・デダム(アメリアの父、医者)
ドロシー・ラムーア 、、、ラ・フルール(ギルフーリーの恋人)
ジャクリーヌ・マドーフ、、、レラーニ(ウィリアム・デダムの長女)


アミリア・ディダムは、大叔母の死にともない「アミリア・ディダム汽船会社」を引き継ぐことになる。
だが、父ディダム医師が多額の株を保有している為、父に会い会社経営権を認めてもらう交渉をしに南太平洋の孤島ハレアコロハにやって来た。
彼女も至って高慢であるが、受け入れる島の白人(原住民はいたって大人しい)たちがみな粗暴で礼儀がなくまた彼女の相続金を我が物にしようという腹に一物ある者もいる。
彼女の登場によって巻き起こるドタバタコメディである。

ウィリアム・デダムは戦後島に住み着き、島民になくてはならない医者となっており、ボストンには戻ることはなかったのだ。
しかも現地人~王女マヌラーニと結婚して3人の子供もいた。
だが、アメリアがやって来るということで、急遽子供は酒場”ドノバン珊瑚礁”を経営しているマイケル・ドノバンの子供として紹介する運びになってしまう。人種偏見丸出しの大人の都合に、長女レラーニは戸惑いを隠せない。
ただ、周囲の粗暴で無神経な人間とは異なり、彼女は取り敢えずそれを受け入れ静観する。
レラーニだけが大人で高貴な雰囲気をもっていた。(その他の有象無象がともかく粗暴なのだ)。

特に、マイケル・ドノバンとギルフーリー、その他の海軍の連中が酒を呑んでは喧嘩ばかりしている。
実に衝動的で横暴で自己本位な西洋人丸出しで、何をやっているのか分からない。
ピアノや家具などをやたらとぶち壊す。酒瓶を投げまくる。
ドリフのコントでももっと抑制が効いていた。
どういう脚本なのか、、、といってもこういう脚本なのだろう、と呆れるばかり。
ただの無意味で粗暴なだけのドタバタをたくさん見せられるが、面白いという類のものではない。
人種差別観も極めて無防備に無邪気に表出されている。
アメリカ人はこれを見て腹を抱えて笑ったりしているのだろうか?
今のアメリカ政権にも重なって見えてくるのが不気味でもある。


ここで終始問題なのは、ヒーローとヒロインに人としての魅力が全くないことである。
粗野で筋肉だけしかない何か別の生き物であろう。
であるため、感情移入して観る通常のアメリカンシネマの見方が出来ない。
強いて言えば、レラーニであろうが、脇役すぎる。
ウィリアム・デダムが父として、冷静な医者としてもう少し出てくるかと思ったが、ほとんど個性は発揮しない。

アメリカ映画のもっとも嫌な部分が詰まった映画であった。
これが迫力とか豪快とか男臭さ、元気なじゃじゃ馬娘などといって評価されているのであれば、もう世も末である。

DONOVANS REEF002


ここで結ばれるヒーローとヒロインが、どちらもつまらないキャラである為、彼らがどうなったなどに関心もない。
最初から最後の丸見えな映画ではあったが、予定通りに終わっていった。
あまり多くを語る気にさせない萎える映画である。
酷く稚拙な作りに思う。
ジョン・フォードだから何かあるかと、見てしまったがそれに費やした時間が惜しいばかりだ。
ジョン・ウェインという俳優も、どうにも好きになれない。

少なくともわたしには、全く合わない映画であった。


シャイン

Shine.jpg

Shine
1996年
オーストラリア

スコット・ヒックス監督・原案
ジャン・サーディ脚本
デヴィッド・ハーシュフェルダー音楽

ジェフリー・ラッシュ、、、デイヴィッド・ヘルフゴット(精神を病む天才ピアニスト)
ノア・テイラー、、、デイヴィッド・ヘルフゴット(青年期)
アーミン・ミューラー=スタール、、、ピーター・ヘルフゴット(父)
リン・レッドグレイヴ、、、ギリアン(妻)


またしてもジェフリー・ラッシュ!泣ける。
実在のピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットを演じるがこれが鬼気迫る。
ひたすら、凄い。

彼が出ていて凄くないものはないが、これは特に、、、極めつけだ。
実際に弾いているようにしか見えない。
(ジェフリー・ラッシュ自身ピアノは弾ける人だが)。
流れている流麗な音はデイヴィッド・ヘルフゴット当人の弾くものだという、、、。
これまた凄く迫るものがある。


旋律同士が挑み合い、激しいカデンツァ、、、難曲中の難曲と言われるラフマニノフ『ピアノ協奏曲第3番』に拘るデイヴィッド。
父が彼に何より弾かせたがった作曲家であった。
彼がこの曲に拘るのも父に認めてもらいたかったことが大きい。
専門家たちは少年のうちは、まずモーツァルトから始めさせたいというが父はラフマニノフなのだ。

デイヴィッドは音楽家の夢を絶たれた過去を持つ父からピアノ~音楽の厳格な教育を受けて育ってきた。
彼はめきめき才能を発揮し、数々のコンクールで注目を浴びるようになる。
当然のごとく、専門家筋からの更なる教育の必要性や留学などの誘いが舞い込んでくる。

だが、父親は頑固にそれらを拒否する。
自分の溺愛する息子を手放せないのだ。
他人の手に渡すことは断固として許さない。行きたいとせがむ息子に暴力まで振るう。
その為、アメリカ留学費用を協力して集めてくれた周囲の人々や滞在先の家族の善意も踏みにじり、彼を家に閉じ込めてしまう。
自閉的で独善的な人、、、少なくとも子離れの出来ない父であったようだ。

どれほどの度合いであるかは分からぬが、これが精神に及ぼす影響は小さいとは思えない。
父ピーターは同じ年頃の異性との接触も尽く排除していたように映る。
しかし、年配のロシア女流作家との交流を経て、彼は自分の道を歩くことを決意するに至る。
父に激しく叱責され勘当されて、彼ははじめて独りで行動し、イギリスの王立音楽院に特待生入学する。

そこで教授に天才を見出され、特別にレッスンを受ける。
しかし挑む曲が常にラフマニノフなのだ。
こころは父の願いに繋がったままだ。(無意識的にかどうなのか、、、ある意味難曲は不利でもある)。
そのときの教授とのやり取りが笑えるようで、実は笑えない。
「第三番は大曲だ。正気の沙汰じゃない」(教授)
「では正気でなければいいんですね?」(デヴィッド)

この後、彼はコンサートで見事ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第3番』を弾きこなしたところで倒れ、父のもとに帰ってくるが父はもはや彼を受け入れなかった。
父はしかし彼の演奏をラジオで聴き涙していたのだが、、、。
デイヴィッドは精神に異常をきたしてしまう。
その後、言動に問題が見られるとのことで、彼は精神病院に入院させられてしまった。
そこでは、ピアノは体に悪いため弾くなと指導されていた。
しかしひょんなことからデヴィッドがピアノが弾けることが分かり、外に預けられることになる。
かつてデヴィッドのファンであった人だ。
しかしそこも奇行の為、ピアノに鍵をかけられてしまう等、居ることが出来なくなる。

あるとき外出し、バーで『くまんばちの飛行』をピアノで弾いてみせた時に多くの客から絶賛され、またピアノを聴衆の前で弾く喜びを久々に味わう。
これは彼にとり、やはり良いことであったのだ。いや、最善の方法ではないか!
ちょうどその頃彼に理解を示す婦人ギリアンと結婚し、彼女の支えの元、コンサート会場にカムバックすることになる。
文字通り、輝きを取り戻したということだ。
それ以降、思う存分ピアノをステージで弾く生活が続いたようである。
ある意味、こういった形での復帰というものは困難を極めるものだと想うが、自分を活かし認めてくれる愛する伴侶の力は大きいと思わざるを得ない。


ジェフリー・ラッシュは映画の中で、見事に弾きまくっていて驚きの連続であったが、父のピーターが具体的に音楽を教える場面があっても良かったのではないか。
これには物足りなさを覚えた。あれだけ他人の教育を拒んだ人である。
青年期のノア・テイラーも大変良い味を出していた。
成長期の次第に音楽に、いやラフマニノフにのめり込んでゆく過程が説得力もって伝わって来る。
とても揺れ動きにも共感を覚える。


だが何といってもジェフリー・ラッシュの圧倒的な演技力により、この映画は素晴らしい作品となっているといえよう。
と同時に、デイヴィッド・ヘルフゴットというピアニストへの興味も沸く。
実際に彼の弾く曲が聴けるのだ。

美味しい映画である。





バンテージ・ポイント

Vantage Point001

Vantage Point
2008年
アメリカ

ピート・トラヴィス監督
バリー・レヴィ脚本

デニス・クエイド、、、トーマス・バーンズ(シークレットサービス)
ウィリアム・ハート、、、ヘンリー・アシュトン(アメリカ大統領)
マシュー・フォックス、、、ケント・テイラー(バーンズの同僚)
フォレスト・ウィテカー 、、、ハワード・ルイス(アメリカ人旅行者)
エドガー・ラミレス、、、ハビエル(元特殊部隊員)
シガニー・ウィーバー、、、レックス・ブルックス(テレビ局の女性プロデューサー)
サイード・タグマウイ、、、ベンワル・スワレス(テロ実行グループリーダー)
エドゥアルド・ノリエガ、、、エンリケ(地元サラマンカ警察の警官)
ブルース・マッギル、、、フィル・マカルー(大統領の側近)

「有利な見地」

黒澤明の『羅生門』みたいにそれぞれの登場人物の視点でこの事件が描かれてゆく形式。

スペイン・サラマンカでのテロ撲滅を誓う国際サミット開催の公衆の前での演説を狙った大統領狙撃事件を巡る物語。
西洋とアラブ諸国との歴史的合意をみる歴史的意味からも世界が注目している。
その為、テロを成功させれば、その影響も大きく、どちらにとっても正念場となる。
昨年大統領の盾となり彼の命を救ったシークレットサービスのトーマス・バーンズが休職から戻り、最初の任務がこのサミットでの大統領の警護であった。
いきなりの大仕事である。

この映画、8人の人物の事件となる23分前からの行動がそれぞれ追われてゆく。
(一人毎に時間が23分前に巻き戻される形式を採る)。
その人間の目線ではなく、その人間を追ったカメラ目線だ。
一つの一連の光景が遺す謎を次の光景が答えを明かす機能を担い、、、
最後にそれらの光景が全て一つの事件の真相へと繋がるものとなってゆく。
(つまり、ひとつの行動の光景の影になっていた部分を他の人間の行動の光景が照らし出し、、、という構成なのだ)。

○レックス・ブルックスを中心とするテレビ局スタッフ側から
○シークレット・サービス、トーマス・バーンズ側から
○地元サラマンカの刑事、エンリケ側から
○旅行者、ハワード・ルイス側から
○米大統領、ヘンリー・アシュトン側から
○ハビエルを中心としたテロリスト側から、そのまま事件の顛末へ流れ込む、、、。

テロの現状を「アメリカの外交政策にも責任の一端がある」などアナウンサーに言わしめたり、熾烈な情報戦とは言えそれに従うしかない大統領本人の受身の立場を見せたり、テロのプラカードに「ドルの為の流血はごめんだ」の文字があり、これがドルの攻防戦でもあることなど、反テロ陣営に対する批判的な面も匂わせていた。
スワレスが携帯のガジェットで一連の操作を綿密な計画の元、正確に行っているのも極めて今日的だ。
またそのような組織の非常さもよく表していた。
ハビエルのように弟を人質に取られテロ活動を強いられ、最後に兄弟とも殺害されるケースも。

事件の実際の詳細に迫るのも尽くヴィデオの確認による。
(ヴィデオの今日的役割は次第に大きくなることも分かる)。
ただし、ヴィデオは後手に回った側の後追いの確認となるが、、、。
しかしベテランであるバーンズのように正確に見れば、解決は早い。
このような大行事の番組を仕切るTVニュースのプロジューサーの裏での仕事振りも分かるものであった。

カーチェイスもかなりのレベルのものである。
一番信頼のおけると思っていた同僚のテイラーがテロ陣営であったのも、この戦いの根深さ永遠性を感じる。
情報戦から言えばテロ組織の方が一枚上手であった。
結局、全てが絶妙に絡み、偶然の要素も大きく入り事故によってバーンズによる大統領救出が成功する。
これで二回立て続けに彼は大統領を救う。
テロとの戦いの終結の為のサミットをどのように活かすかの双方の思惑の戦いでもある。
側近の推す強いアメリカを誇示する報復活動を行えばテロリストに屈することになる。
「報復体制を解け。こころを強く持ち、当初の目的をこそ達成しなければならない。」
大統領が意外にもかなりの人格者であった為、助かって後味が良かった。


全体に実によく練られた構成であった。

これは、よくできた映画と言える。

長女の質問

batoukin002.jpg
「長女の質問」からはじまる話である。
憧れの馬頭琴 そして”フォーミー”の続き)。

馬頭琴の演奏後何か質問やお写真撮りたい方など、いらっしゃいますかという担当者からの言葉があると、すかさず長女が手を挙げた。
まるで、学校の授業参観気分だ、、、。
おおっ、と思って何を聞くのかと見守ると、すたすた演奏者の真ん前に進み、馬の頭はそのまま使わないのか何でそんなに小さいのか、もっと大きいと思う、というものであった、、、?
楽器が気になっていたのだ。

少なくとも彼女がわたしに話したなかで、楽器を作る際に馬の頭をそのまま使ったというくだりはなかったが、はっきりどの部分にどの器官を当てたという話もなかったはず。
しかし頭は馬のからだから生まれた楽器であるシンボルとして付いている装飾と普通は捉える。
彼女もそういった認識だと思いこんでいたのだが、、、。

まさにその楽器はスーホにとり、また彼に感情移入して物語を読んで来た者にとって、白馬の生まれ変わりであろう。
その馬頭の部分はその象徴的で肝心な部分であるには違いない。
ちょっと面食らって、その対応を窺っていると、馬の頭は最初は大きかったのだけど、だんだん小さくなり形も変わって今のようなものになりました、という答えであった。
何とも差し支えない答え(笑。

そこが気になったのか、と思い後で本人に音楽はどうだったと聞くと、とても良かったと。また聴きたいとも答えていた。
だが、気になったのは馬の頭だったのだ。

馬の頭がそのまま付いているか、実物大の大きさであったら、これは重くてでかくて扱いにくい楽器になるはずだ。
馬の体の各器官全てを使って作ったとは書かれてはいなかったようだが、馬の頭も木彫ではなく、そのものを利用するしか無いと考えていたのか?しかし、やはりそこに少し違和感を感じ確認を改めてして気持ちを整理したかったのか?

恐らく木の部分というのが、違うのでは無いか?という所から来ているのだと思う。
白馬が自分の体で作ってと願ったのだから、全てをそれ〜馬の体で作ってあげないと、、、。
これなら、わたしにも分かる気がする。
実際、彼はその時はどうやって作ったのか?
木彫の技能を持っていたとか、そのような特別な木材が用意されていたとも思えない。
きっと物語上、全部馬で作ったのだろう。そうしたら、最愛の馬の頭も使ったはずだ、と。
(共鳴箱の部分はさすがに木でないと厳しいであろうが、、、実際は上質な白樺の木だそうだが)。
血生臭い想像すれば、グロテスクな感じもするが、実際そうした話である。

その辺の想像力は、映画にも絵画にも表れるもので、プリミティブなもの〜根源的なものはみなグロテスクでもある。
そうした暗い美を湛えている。(ペラペラな綺麗事~美ではない)。
そういう部分を考えさせる言い伝えでは無いはずだが、自ずと考えさせるものは、どんな伝承や民族譚、昔話にもある。

本当にその対象を愛しているのなら、その屍体も最愛のただ美しいだけのものなのだ。
「戸嶋 靖昌 ~ リアリズムとは何か」で戸嶋の語るように。



憧れの馬頭琴 そして”フォーミー”

batoukin001.jpg

馬頭琴の話は、学校の国語の題材で採り上げられていたもの「スーホの白い馬」で、長女がその話に感動し、その楽器の演奏を聴いてみたいということで今回の運び〜泊まり掛けのモンゴル体験になった(笑。
コンサートだけなら東京界隈であるのだが、モンゴル気分を味わいたいとの事。
どちらがメインかどうもはっきりはしない。
馬頭琴はともかく聴くとして、ゲルのお泊まり、後は食事と、衣装を着た撮影くらいか、、、わたしは風邪で出掛けるのも辛いものだったが。
毎年、那須高原は初夏には必ず訪れていた頃もあったので、懐かしさからお伴した。

その馬頭琴という楽器の由来であるが、、、
スーホという男の子が拾った白馬を逞しく美しい馬に育てあげる。
その立派な馬で彼は王様の主催する競馬大会で優勝する。
褒美としてお姫様と結婚できるはずであったのだが、何と馬は奪われ彼も手ひどく痛めつけられてしまったという。
馬は王様の自慢の名馬として囚われの身となっていた。
しかしある日、隙を見て白馬は王様の所からスーホの元に逃げ帰えろうとする。
その途中で追っ手の放つ沢山の弓に射られ、スーホの元には戻るも明くる朝、息絶えてしまう。
嘆き悲しむスーホであったが、ある夜の夢にその白馬が現れ、どうかわたしの尻尾や毛や骨で楽器を作ってください、と彼に頼むのだった。
スーホは目覚めて直ぐにその馬から楽器を作り、人々にその音色を聴かせると、みなが疲れも忘れ、こころを深く揺り動かされたという。

馬頭琴という楽器はこうして生まれたそうだ。
(、、、ここまで全て長女談、物凄く短縮(笑)。


その楽器の演奏をホールで聴いた。
日本で活躍中のモンゴル人の演奏家ムングン氏によるものだ。
2つに分かれた太く白い弦は、片方が馬の尻尾の毛が130本、もう一方が100本縒り合わされたものだという。
それを同じく馬の尻尾の毛180本で作られた弓で弾く擦弦楽器だ。
棹の先端が馬の頭部の形をしたところが何より特徴的であり、モンゴル語で「馬の楽器」の所以である。
鼓弓に似た感じのものだが、とても艶やかで力強い音色が出る。
躍動感に溢れ同時に、情感あるリリカルな楽曲が楽しめた。
この2玄でよくここまでの表現の幅を出せると感心するものだ。
しかし、ここで、更に驚くべき音楽体験をする。

それは人間業とは思えないフォーミーという驚異のボーカリゼーションであった。
何とも形容し難い音世界である。
ひとつ間違えると、超人隠し芸みたいな部門で話題になってしまいそうな危うさを秘めている。
同時に異なる音を2種類発する特殊な発声法によるもので、説明は聞いたが今一つメカニズムについては、イメージ的にも掴み難かった。
シンセサイザーでも余り聴かない非常にハイパーな電子的音響世界である。
何かの描写や叙情表現を超えている還元不可能な音なのだ。
聴衆もみんな呆気にとられて口を開けて、観ていた。
そう、何処からその音が出てくるのか、だた観入ってしまうのだ。
正直ビックリした。ロバート・ワイアットのボーカリゼーションに浸ってばかりはいられない。
彼のボーカルが普通に思えた。


朝食では肉とサラダがモンゴルものだそうで、それ以外は普通のホテルの洋食バイキングであった。
ミネストローネは美味しかった。アイスクリームは推しである。わたしはパンとジュースだけいただく。
後は、もう1つの楽しみでもあった衣装を着ての写真撮影である。
こういう事は彼女らは好きだ。何処へ行っても全種類の組み合わせを試してしまう。もう途中からついて行けなくなる。任せる。
帰りにここでしか買えないと宣伝する温泉饅頭やチーズケーキを買う。
お土産分以外は、電車内で彼女らが食べてしまった(笑。


20170403190318013.jpg

到着当日の前日譚。(上の本文は当日の夜から2日目である)。
昨日アップしたものは削除。高熱の為か締まりのないグダグダ文を書いていた。

栃木の黒磯にあるモンゴリア・ビレッジ・デンゲルという施設に泊まり掛けで来た。長女のリクエストである。
馬頭琴の話を本で読んでから、モンゴルはマイブームなのだ。
宿泊する部屋は一戸ずつ独立したテント〜ゲルであった事にちょっと新鮮な驚き。遊牧民族である。扉は低く小さい。中は、テレビで観たことのあるモンゴル調にアレンジされた中央にテーブルと椅子があり周りを微妙な色彩と模様に彩されたやはり如何にもモンゴル調のベッドに取り囲まれた赤基調の円形空間であった。モンゴルテイストの日本人に使いやすくセットされた部屋という感じか。天井の天窓風の丸い明かり取り部分が天気の良い日は取り外しが効くという。小物入れの蓋みたいだ。勿論、テレビ、冷蔵庫、エアコン、電話はある。
IMG_5384.jpgIMG_5378.jpg

彼女らは直ぐにモンゴル温泉?に出向くが、わたしは風邪が思わしくなく、温泉は諦め部屋で寝そべっていた。
外はにわかに冷たい雨が降り始めていた。
雨音が香ばしく立って聞こえる。よい音だが、はっきり響く。夜中もこれだと眠れるか?
外には、、、出たくない。体にこたえそうだ。
夜の料理は、モンゴルに関係ない、プレート焼肉料理であった(笑。普通。


参考までに、近々開かれる馬頭琴コンサート、、、ここでもし”フォーミー”も体験できたら、、、

「アサル国際馬頭琴アンサンブルコンサート」
2017年5月20日(土)18:30会場19:00開演
国分寺市立いずみホール

問い合わせ:090-4703-4824


英国王のスピーチ

The Kings Speech

The King's Speech
2010年
イギリス

トム・フーパー監督 ミュージカル版「レ・ミゼラブル」の監督だ。近いうちにこれについても書きたい。
デヴィッド・サイドラー脚本

使われたベートーベンの交響曲7番やピアノ協奏曲5番は、演出という点で完璧なシチュエーションで使われていた。

コリン・ファース、、、ジョージ6世
ジェフリー・ラッシュ、、、ライオネル・ローグ (植民地出身の平民の言語療法士)
ヘレナ・ボナム=カーター、、、エリザベス妃
ガイ・ピアース、、、エドワード8世

ともかくキャストが良い。
コリン・ファース(イングリッシュ・ペイシェント裏切りのサーカスリピーテッド、、、等々)も良いが、何といってもジェフリー・ラッシュである。「クイルズ」「 やさしい本泥棒」「鑑定士と顔のない依頼人」と圧倒的な存在感を見せつけられ、今回もまた、である。
ヘレナ・ボナム=カーター(シンデレラダークシャドウアリス・イン・ワンダーランド)にガイ・ピアース( アイアンマン3 メメント L.A.コンフィデンシャルプロメテウス、、、)と、、、芸達者揃い。特殊メイク(バートンもの)でない真面目?でノーブルなヘレナの演技もしっかり観れた(笑。

エリザベス女王の父に当たる人である。
女王はとてもご長寿であるが、ジョージ6世は52歳で亡くなっている。
途轍もなく苦労した人だということだけは、この映画を見て身に滲みて分かるが、その内実など想像もできない。

吃音に悩まされ、本来王を継ぐはずの兄の身勝手に振り回され、ひたひたと迫る第二次世界大戦を前にして即位となる。(それにしてもエドワード8世は人として許される範囲を越えている)
そして戦争スピーチが国王としての実質デビューとなった。
これ程の重責に耐えられる人がこの世にいるだろうか、と問いたい程の困難極まりない役回りを、吃音を克服しつつ切り抜けるのだ。
王室に生まれなければまだ逃げ道はあっただろうに、この人には何処にも逃げる場所がなかった。
第三者にこの重圧と苦悩の内など分かろうはずもない。
(しかし誰もがお互いの苦悩など原理的に知りえないものだ。何故なら遡行すればその源泉は無意識層にまで達しているため)。

またこの戦争の張本人でもある敵国のヒトラーが天才的な演説家であった。
その圧倒的な力とカリスマ性に比べて、ますます自分の吃音~表出力に悩み苦しんだはずである。

ローグが彼に聴く。
いつから吃音になったのか?生まれつき吃音の者はいない。
5,6歳からだと教えられている。
その頃の生育環境を問いただすと、精神的または肉体的な矯正と虐待とも言える経験を潜ってきていることが分かる。
また意識に上ってこない深い外傷経験も経ている可能性はある。
制限も躾も厳しく、子供時代に誰もがやってみたいこと、プラモデル作りなど我慢しなければならなかった。
(楽しそうに今になって、ローグの家で彼の子供の作りかけのプラモ作りをする姿は、ある意味不憫である)。
だが、人というものは、そういうものだ。
これは自分を振り返ってみても同然のこと。
多くの不条理な暴力の記憶が津波となって今でも激しく打ち寄せてくる。
しかも自分自身も判然とせず、未確認の因子に悩まされることも多い。絡みつくヘドロか?
誰もが度合いの問題で今現在を生きていると考えられる。


ローグがいみじくも言っている。
「彼は自分自身の影に怯えている。」
彼が歌に乗じて喋ったり、咄嗟に怒って怒鳴る言葉には何の滞りもないのだ。
改まり話そうと意識した瞬間に、必ず詰まる。
ローグは徹底して彼流の治療を試みる。
それは全く対等の関係で築かれるものであり、自分をドクターとは呼ばずにライオネルと呼べと遠慮もなく告げ、ジョージについても陛下、又はサーと呼んでくれといっても、バーティと呼ばせろと、あくまでも親しい名前で呼び合うことを要求する。
これはかなりの頑固者だ。最初からジョージは抵抗感を募らせる。

ローグが彼に対して、施した治療過程はほとんど見られなかったが、身体的に訴えかける療法に重きを置いたものだと思う。
怒りなど、その境にある表出行為をはじめ、そのあたりを上手く意識的な表出へと向けていったはずだ。
ローグが、オーストラリア移民で医師免許も持たないアウトサイダーであったことも、きっと幸いしたと思われる。
また、御用医者が沢山いたであろうに、そのような存在を探し当てた妻のエリザベス妃の功績は大きい。
ここでは崩れそうな場面で、彼女は夫を暖かくさりげなく支えている。

ドイツに対する宣戦布告のメッセージを読む場面は最大の見せ場であるが、ここでのベートーベンの音楽の使い方が最高である。
彼らの友情の絶対的な信頼のもと、それは厳かに始まった。
その間ずっと息を殺して緊張して聴き入る妻と娘たちの気持ちは、本当に共感できるものである。
そのかいあって、9分に及ぶ大演説も成功裡に終わった。

"W"でつっかえたな、というローグの指摘に、わたしだと分かるようにわざと間違えた、と返す余裕をもっていた。
彼ジョージ6世は、確実に自信を得たことが分かる。
その姿には威厳が感じられる。
(この変化、役者が上手い。彼の吃音の演技の間の取り方も絶妙に変化してゆく)。


最後にローグがはじめてバーティではなく「陛下」と呼んだのは、もはや彼が自分の患者ではないという意味を示す。
そして、ジョージとしては、ふたりの娘に絶賛されたのが、何よりほっとしたのでは、、、。
ジョージ6世は、ライオネル・ローグに功績を讃えてロイヤル・ヴィクトリア勲章を授けた。
これ以降の戦争スピーチ全てにローグは立ち会うことになる。
ここからまた、ふたりの真の友情が始まるのだ。
厳しい大戦のなか、、、。
ジョージ6世は、抵抗運動のシンボルとなっていく。


キャストが良く音楽がマッチすると、見応えは大変増すものである。
特に間の取り方の至芸を、楽しむ映画でもあった。

The Kings Speech002






カールじいさんと空飛ぶ家

Up.jpg

Up
2009年
アメリカ

ピート・ドクター、ボブ・ピーターソン監督
ボブ・ピーターソン、ロニー・デル・カルメン脚本
マイケル・ジアッキーノ音楽

ピクサースタジオ

カール・フレドリクセン(78歳の冒険好きなおじいさん)
エリー(カールの妻)
ラッセル・キム(ボーイスカウトの肥満少年)
ダグ(犬語翻訳機をつけたはぐれ犬)
チャールズ・F・マンツ(野心的な冒険家)

ただの”Up”とは、知らなかった(笑。
邦題の方が分かりやすいし、親しめる。
また風邪をひいた娘を病院に連れて行ったら、待合室でこの映画が流れていた。
途中だけ観て帰ったので、初めから終わりまで見直してみた。


3Dバリバリの見事なアニメーション。
冒頭の幼いカールが同年齢のエリーと出逢ってから、長い年月を仲良く過ごし、エリーに先立たれるまでの独立した短編映画とも言えるパートはひたすら綺麗であった。
思い出は、ある意味どんどん美化され、執着にもなってしまい身を重くしてしまうかも知れない、、、。
カールじいさんは鬱屈した日々を送る中、ひょんなことから暴力事件を起こしてしまい、老人ホーム送りが決定される。
そんな時に、かつての冒険家魂が発動したのかどうか、、、風船で家ごと宙に舞たち街から~日常世界から脱出してしまうのだ、、、。

奇想天外な設定や荒唐無稽なアイデアは良いのだが、カールじいさんが元気すぎるのはいささか気になった。
もっと、知恵や仕掛け(テクノロジー)に頼るなどして、年相応な動きの方がもっとハラハラして面白いはず。
腕力や足腰が強すぎる。(時折、腰痛を気にはするが、、、)。

しょうもない、形だけのボーイスカウトのラッセル坊やであるが、典型的な主人公の足をいたるところで引っ張りまくる子役である。
大概、子供やオリーブ(「ポパイ」に出てくる)タイプの女性が、主人公をピンチに陥れる役柄として映画によく用意されるが、今回もまさにそれであった。
じいさんは、その為に自分の目的や最後の夢もそっちのけで振り回される。
彼は南米にあるという「パラダイス・フォール」に亡き妻との約束を果たすため向かっていた。

しかし頑固なじいさんであるが、その割にラッセルのことをどこまでも自ら進んで親身に面倒をみてしまうのだ。
さらにラッセルのが勝手にペットにした鳥や犬のためにも危険を冒す。
これ程のお人好しだったか、、、。

しかし、自分の娘のことを想うと、、、子供はみんなこのようなもの~役割を担っていることに気づく。
そうだ、最初の頃、工事現場の人に対するあのような対し方しかできない意固地なじいさんがあのような人になったのは、ラッセルや鳥や犬のおかげなのだ、、、。彼らとの無茶で無謀な冒険によって変われたのだ。
ずっと憧れていた冒険家チャールズ・F・マンツと出逢い喜んだのも束の間、意に反して彼の追撃を受け激しい闘いをラッセルたちを守るために繰り広げ、やっとのことで彼を撃退する。

これでカールは過去の大きな幻想からすっきり解かれてゆく。
このファンタジーはその再生の儀式とも言えるものだ。
最後に彼は、あんなに大切にしていたエリーとの思い出の品々や家も手放してしまったが、本当に晴れやかな笑顔でいっぱいであった。
エリーとの想いを改めて胸に、新たな出発~冒険が始まるのだ。

ラッセルや犬の友達もでき、これからの人生もなかなかなものであろう。
親が構ってくれない孤独なラッセルのメダル授与式に、カールが父に代わってエリーから子供の頃もらった缶バッチを付けてあげるところなど、素敵なおさめ方だ。
荒唐無稽な冒険譚と一本筋の通った絆のドラマが絡まって、見ることを飽きさせないファンタジー作品となっていた。

ファンタジーはその造形や色彩も肝心な要素となるが、もうそこは彼らピクサーの真骨頂である。
無数のカラフルな風船というのが笑わせて美しいし愉しい。
動物の活き活きした動きも、犬は言うぬ及ばず、鳥はちょっと滑稽で傑作であった。
南米にあるという「パラダイス・フォール」という伝説の滝の近辺の景観も凄い(笑。
エリーと一緒に行こうと約束していた滝であったが、結局その願いを叶えることになった。
最後にその滝の隣に家が着地していたではないか。エリーも喜んでいるはず。


何というか、3DCG技術以外では表現しにくい映像効果とストーリーが上手く絡み合った良い作品となっている。
こういった映画はもうピクサーの独壇場と言えるか。



風立ちぬ

アニメーションの名作を観たくなった。
やはり宮崎アニメにした(笑。
The Wind Rises

The Wind Rises
2013年

宮崎駿監督・原作・脚本
久石譲音楽
荒井由実「ひこうき雲」主題曲 懐かしい、、、


庵野秀明、、、堀越二郎
瀧本美織、、、里見菜穂子
西島秀俊、、、本庄
西村雅彦、、、黒川
スティーブン・アルパート、、、カストルプ
風間杜夫、、、里見
竹下景子、、、二郎の母
志田未来、、、堀越加代
國村隼、、、服部
大竹しのぶ、、、黒川の妻
野村萬斎、、、カプローニ

宮崎駿監督はこの作品を最後に実質的引退宣言を出す。(以降、長編には関わらない)。


零式艦上戦闘機(零戦)の設計者として有名な堀越 二郎をモデルとしているが、顔がそっくりである。
零戦とは美を追求して作られた高性能航空機だったのだ。
一機も戻らなかった儚さもよい、、、。

主役が何と斬新な声優か?と思って調べると庵野秀明だった。
宮崎監督、直々のご指名だったらしい。
う~ん~、だね、、、。
最後まで馴染めなかった(笑。
(声とか言い回しとか口調ではなく、流れが途切れるというか唐突感があって、気になってしまう)
勿論、わたしも「新世紀エヴァンゲリオン」ファンであることは、ことわっておきたい。


物語ではかなり技術的な検討や議論をし合うところもあり、ワクワクするところでもある。
また、地震や火災などの自然の描写が正確にディテールまで追われていた。
(地震の収まる間際の小石の共鳴するような動きなど、、、)
そこが音響も含め新鮮であった。
(怪獣の鳴き声のような地鳴りの音などとてもリアルであった)。

堀辰雄の『風立ちぬ』でも女性が絵を描いていた。
その引用でもあるのか、里見菜穂子も絵を描いている。
結核も堀辰雄同様、患っているし。(そう、このアニメーションは、ふたりの堀氏に対するオマージュである)。

ドラマもよく練られている。
面白いのは、二郎のイメージや夢~白日夢が日常と繋がって流れてゆくところだ。
彼は明晰な理論家であると同時に、夢見がちなロマンチストであることがよく分かる。
イタリアの飛行機技師カプローニとも普通に逢ったように対話をしている。(これは一つ間違うと危ない)。
こころは、常に「美しい飛行機を作りたい」、、、という夢に満ちている。

二郎の職場に女性からという届け物が来て、アパートに戻ると女性の客が待っているという。
その人かと思ったら、自分の妹が待っていたのだった。来る事になっていたのを忘れていた。(彼はいつも妹の来る日を忘れる)。
最初は後ろ向きで、見返ると見違えるくらい大人になった妹がいた、、、というのも洒落たところだ。

お目当ての女性には、風に飛ばされた二郎の帽子を彼女が受け止めた最初の出会いのように、今度も風で飛ばされるパラソルを二郎が受け止めたところで出会う。
常に二郎と菜穂子との間には風が吹いていた。

風に乗せて紙飛行機を飛ばす。
それを取り合って遊ぶ、束の間のスリリングで覚束なさ、、、が彼らの人生そのもののよう、、、。


非常に優秀で一途な性格の二郎は、革新的な技術を開発し、斬新なアイデアによるデザインの飛行機を設計してゆく。
軍部から出される条件は法外で過酷なものであったが、それを充分満足させる成果を打ち出す。
ついに零戦の誕生をみた。

しかし次郎は諸手を挙げて万歳をしている場合ではなかった。
二郎に心配させまいと振舞う菜穂子の結核は、すでにかなり進んでいたのだ。
彼も医者となった妹加代の忠告で、そのことは感じていた(なかば覚悟していた)。
重篤な症状を最後まで見せずに菜穂子は彼の前から姿を消す。


「風たちぬ、いざ生きめやも 」

「あなたは生きて、、、」と菜穂子の語るように、、、。

風がにわかにざわめきたつ、、、生きよう(生きることを試みなければ、、、)である。

堀越二郎にとっては、涙を流しながらも、汽車の中で設計を進め続けるしかない。
何かを創造する者のそれは宿命なのだ。
そして何よりそれを分かっている菜穂子は、残された少しでも多くの時間を次郎の側に寄り添い、綺麗なうちに消えることを選ぶ。

そして両者の心情を余りに深く理解している加代の張り裂けそうな悲しみと切なさ、、、
彼女は、もう戻ることはない覚悟で立ち去った菜穂子の後を追い号泣する。
これにはわたしも耐え切れない。

二郎も「ありがとう」と、、、風に向かって、、、逝ってしまった菜穂子に語りかける。
上司の里見も最初の、ただの効率主義の仕事人間でぶっきらぼうな性格から、とても暖かく包容力を示し彼らを見守る人になる。これは、彼本来の姿というより、ふたりと関わるうちに変わっていったものが大きいと思う。


どの登場人物にもリアリティと変化と厚みがあり、とても共感を寄せられる。
素敵なアニメーションであった。


検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

SF PickUp