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GOMA28

Author:GOMA28
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マラソンマン

Marathon Man002

Marathon Man
1976年
アメリカ

ジョン・シュレシンジャー監督
ウィリアム・ゴールドマン原作・脚本

ダスティン・ホフマン、、、トーマス・バビントン・"ベーブ"・レヴィ
ローレンス・オリヴィエ、、、クリスティアン・ゼル博士
ロイ・シャイダー、、、ヘンリー・"ドク"・レヴィ
マルト・ケラー、、、エルザ・オペル
ウィリアム・ディヴェイン、、、ジェニウェイ

わたしのお気に入り映画の「真夜中のカーボーイ」の監督の作品である。
ウィリアム・ゴールドマンは「明日に向かって撃て」の原作者でもある。

ローレンス・オリヴィエのクリスティアン・ゼル博士は、ヨゼフ・メンゲルそのものか?
本当にこういう人なんだろうと思える役作り。
流石である。
「安全か?」というのは、わたしが直接銀行、宝石店に出向いても大丈夫か、ということか、、、?
確かに彼は、国際指名手配されている当人である。
そりゃ、聞いてもしょうがないわね。代役が死んでしまっていては。
収容所時代の彼を見知っている老人で、頭がまだはっきりしている人に出逢ってしまえば気づかれるだろうし、、、。
変装を念入りにしてみてはどうか?
そのままでは悪魔の殺人鬼だし。その印象はこころに深く焼き付いているはず。
街で出逢った老女があれは、ゼルよ!白い悪魔よ!と取り乱し叫ぶところは、よかった。
ここをもう少し大きなシーンにすればより印象深い作品になったような。
あの仕込みナイフで人を殺すところや、たくさんのダイヤに眺めいっての狂気の笑いなど、まさにサイコである。
(しかしローレンス・オリヴィエもよくこんな役を思い切って引き受けたものだ)。

ベーブの歯の拷問は、もう見るに耐えない痛い場面であった。
わたしのもっとも苦手な分野だ。
個人的に歯医者で苦労しているため、、、(痛。

ゼル博士の兄が、アウシュビッツのユダヤ人から命と引き換えに巻き上げたダイヤの運び屋と管理(鍵持ち)をしていたというが、そんな人物があんなじいさんの挑発に容易に乗って自動車事故まで引き起こすか?
仕事柄、如何なる時も冷静沈着であることを要求されるものだと、思うのだが、、、ちょっとおつむが弱すぎないか?
あれ自体、何らかの罠であったのか、、、例えばジェニウェイあたりがブツを横取りしようと企んだ、、、。
しかし、その後の動きが特になかった。

政府諜報機関員のベーブの兄ドクは、何度も命を狙われるが、特に夜に知り合いの女性に声をかけるも、彼女は気づかずそのまま漆黒の闇に消え、その方向から忽然とサッカーボールが転がってくるところなど、非常に不気味で神秘的な演出であった。
こういった上手さが随所に見られる。
音楽もなかなかよく、シーンに溶け込んでいた。

実弾に見せかけた空砲や刺せば引っ込むナイフなどの扱い等も面白かったナイフについては子供の頃それで随分遊んだが。
殺されたはずの敵が生きていたこと、味方とばかり思っていたジェニウェイがもっとも悪辣な奴だと知った時のベーブの絶望はよく伝わった。

エルサがドクから送られたスパイであるというのは、ちょっと納得しがたいものであった。
ベーブの方からかなり厚かましく強引に迫って付き合うようになった訳であるし、不自然さは感じる。
流石に兄はその仕事柄、彼女は怪しいということにすぐ気づくが。
エルザ自身の心情(また、その変化)の描写がいまひとつ薄い。

ゼルはドクにナチ戦犯の情報を垂れ込む見返りに、アウシュビッツ時代に巻き上げたダイヤを彼を経由してせしめていたらしいが、どうやらドクが余りに大きく出過ぎたため、ゼルは危機感を持って殺したようだ。
やはり兄が不慮の事故で死んで、運び屋に対する疑心暗鬼も増したと言えるか。
ドクも独自にゼルの知らない場での取引をしていたようだし、横領を疑っていた。
とは言え、息絶える直前の兄と接触したことで、何か聞き出したはずと、あれ程に拷問をされてはたまったものではない。
はっきり言って、ダスティン・ホフマンやられっぱなしではないか、、、。
それから気になったのは、ドクもベイブも命を狙われているのは明白なのに、異様に呑気で自衛手段を具体的に講じない。
これがとても不思議で、ベイブなど今夜、ゼルの手下が襲ってくると言われていたのに、その夜バスタブでぼんやり湯に漬かっているではないか、、、わたしなら銃器を幾つも部屋に装備して、入ってきたら蜂の巣にする準備をしていると思うのだが。

最後に、ゼルの前で彼の鞄からベイブがダイヤを排水処理上の水にブチまけるところは、カタストロフィを充分感じるものである。
ダイヤを飲め、と言われたらわたしなら飲めるだけ飲んで逃げるが、ゼルの場合プライドが許さなかったのか。
最後は鞄を拾おうと階段から落ち、自分の必殺仕込みナイフで自分の胸を突いて死ぬ。
自業自得そのものであった。あ~Sir Laurence Kerr Olivier、、、


ベイブはそもそも歴史上における弾圧に関する研究をしている大学院生であったはず。
戦犯として自殺に及んだ父親の潔白を晴らしたいというある種のトラウマを抱えていたようだが。
マラソンを趣味としているにしても、「マラソンマン」という映画の題はどういう意図でつけたのかどうも理解し難い。
ジェニウェイたち追手から逃げる時に確かに役に立ったが、時折出るアベベ選手へのオマージュみたいなものとどう關係してるのか、さしたる意味もないのか、、、ともかく題が意味不明、であった。


登場人物の熱演の割に特に惹かれるところはなかった。

Marathon Man001


シチズンフォー  スノーデンの暴露

Snowden.jpg

Citizenfour
2014年
アメリカ・ドイツ

ローラ・ポイトラス監督・製作・脚本・撮影


エドワード・スノーデン、、、本人(ブーズ・アレン社アナリスト、SE、ハワイNSA勤務、CAIアドバイザー、ソリューション・コンサルタント、通信情報システム管理者)
グレン・グリーンウォルド、、、本人(ジャーナリスト)
ローラ・ポイトラス、、、本人(監督)


監督自身、イラク戦争やグアンタナモ収容所についてのドキュメンタリーを製作したことにより、政府からの監視や妨害を受けてきた人である。しかし、今回の映画製作のスケールは途轍もないスケールになった。

彼女の元へ暗号メールを送りつけてきた人物こそ、、、
コードネーム:シチズンフォー
元CIA職員エドワード・スノーデンであった
彼の世界中を揺るがす大暴露が始まる。
われわれは監視が前提のネットであったことを知る。

随分前に彼のことではUFO絡みの軽い記事をしたためた。
(そう言えば、当時興味本位であることないこと彼に絡めて面白可笑しい記事が一杯出回っていたものだ)。
洒落みたいなことを言っていて良いのか、、、と身を正される非常に重い内容であった。
と、同時に改めてわれわれが如何に「情報」というものを捉え、扱い、それに向き合ってゆくか課題を突きつける内容である。

問題はプリズムによる、政府の市民の個人情報傍受管理システムの拡張にとどまらない。
(プリズムでフェイスブック、スカイプ、ユーチューブ、ヤフー、ホットメールの情報は全て盗まれている)。
アメリカの国家安全保障局(NSA)だけでなく、各国政府もそれぞれ深く関与している全世界的な動きである。
ドローン攻撃の基地はドイツにあった、、、等。
世界的に巨大なIT企業にも皆、バックドアを設けさせてその情報収集に加担させているという。
NSAはそれらの大会社のサーバーに自由に直接アクセスできるのだ。
これでは、もう止めどなく個人データは権力側に収集され市民は圧倒的不利に立たされざる負えない。

いよいよ完全管理社会が現実化してゆく。「1984」(ジョージ・オーウェル)の描く社会の到来か、、、。
「政府によるプライバシーの喪失!」である。
しかも抜け抜けと、9.11を口実に、国防の為と嘯く「愛国者法」が制定され政府に広範な権限が与えられてしまう。
無差別な情報収集に更に加速が加わる。(テロを正当化の理由に使われては犠牲者たちも浮かばれまい)。
実際の収集はテロとは関係ない国家間の競争に関するものばかりという、、、経済、主に金融関係か、、、。
調べてみると企業や財務関係の情報こそがターゲットになっているらしい。
また、情報そのもののゲットだけではなくその発信者の追跡も大きな目的のひとつでもある。
われわれは、オンラインでしていること全てを収集されているのだ。
使用した検索キーワード、訪問ウェブサイト、、、。何と口座の自動引き落としまで操作対象になるようだ。
スノーデン氏の話では、セレクター機能により、特定の個人のやり取りの過程の全データが手に入り、全ての人間関係とその個人の足取りが掴めてしまうようだ。
この対象とされている人間は120万人をのぼるという。

それらの行為を全て「国防」の名~ことばの元に誤魔化し強行している。
しかもこういったNSAのような機関を監視する独立機関は存在しない。
その為やりたい放題である。これでは完全に支配~被支配関係の成立ではないか。
情報を握る者と握られグウのネも出ない者。
実際、告発者であるスノーデン氏の立場(NSA通信情報システム管理者)であれば、トップシークレットにアクセス権限があり、その階層で、どうにでも出来ることを意味する。

この極悪非道の暴挙は絶対に阻止しなければならない。
映画内でも警告されているようにプライバシーの侵害はそのまま自由の喪失に向かう。
個人の自立もなにもあったものではない。
その萎縮効果は北朝鮮を見れば火を見るより明らかだ。
ヒトは内面から虐殺されている。
「個人」という「主体」がこの世から消失して逝くのだ。

マイナンバー制、通信傍受法改正、秘密保護法、、、日本でも遅ればせながら先進国アメリカにいつものように追従してゆく。
安倍政権を打倒したとしてもこの方向性(依存性)というより傀儡体質、、、が変わるとは思えない。
というより、このドキュメンタリー映画では日本のことは全く語られていなかったが、きっとクソ情けない片棒を担がされていることは間違いない。ここではイギリスがそうであったが、よく分かる。ブッシュ政権時のトニー・ブレアなどまさにそうだった、、、「有志同盟」だとか。
「華氏911」みたいなのをまた、マイケル・フランシス・ムーアみたいな人がやらかすのも良いかも知れない。
この危機をより広く知らしめる意味でも。

フィルムの最初の方では、スノーデン氏は、個人としての自由が侵されることに敢然と立ち向かう意思表明をする。
そしてジャーナリスト、グレン・グリーンウォルや監督のローラ・ポイトラスとメディアに顔を出すタイミングなども相談する。
確かに出ておいた方が、安全だ。
余裕をもった力強い表情で気さくに重要機密に関する事柄を語っていたスノーデン氏であったが、2013年6月12日アメリカ政府から告訴され香港に引渡し請求が出されてから以降、次第にグレン・グリーンウォル(ガーディアン誌)ら勇敢なジャーナリスト達も含め権力の圧力、身の危険が感じられてくるようになる。
わたしが潰されてもヒュドラの法則で次の7人が立ち上がる、と毅然とした態度でいたスノーデン氏の表情から明らかに余裕が消えてゆく。

彼は香港ではその身が危なくなり人権派弁護士とともに国連経由でロシアに運ばれる。
この時、ウィキリークスのジュリアン・アサンジ氏も彼の政治亡命を手助けする。
しかしスノーデン氏は空港ロビーで40日間の足止めを食らう。アメリカ政府が旅券を抹消したからだ。
(オバマも狡猾である)。
結局、政治亡命としてロシアから1年間の滞在許可が出されたが、いよいよその後が問題となってきた。
アメリカもトランプとなり、引き渡される危険性も高まっている。
今後、目は離せない。



「スノーデン」という映画も封切りとなり、6月頃にはメディアとしても販売される見込み。
こちらもぜひ観なければ。
この怒りは、断じて鎮めてはならない。






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天国の日々

Days of Heaven002

Days of Heaven
1978年
アメリカ

テレンス・マリック監督・脚本
ネストール・アルメンドロス、ハスケル・ウェクスラー撮影
エンニオ・モリコーネ音楽

リチャード・ギア、、、ビル(流れ者の雇われ労働者、アビーの偽の兄)
ブルック・アダムス、、、アビー(流れ者の雇われ労働者、ビルの偽の妹)
サム・シェパード、、、チャック(農場主)
リンダ・マンズ、、、リンダ(語り部でもある少女、ビルの本当の妹)


テキサスの農場を舞台にした雇われた労働者と農場主との関係を軸においた映画。
広い農場の自然の姿がただもう圧倒的に迫る。

この映画は、まずカメラ・撮影であろう。
照明装置を最小限に抑えた「マジック・アワー」と呼ばれる夕暮れどきの20分間位を利用して多くの場面を撮っているという。
自然光とロウソクだという。
日中の撮影では常に逆光で撮ったらしい。
凡そハリウッドらしくない。

この光景は、わたしにとっても癒やしとなった。
何かに似ていると思ったら、わたしがトイレに飾っているアンドリュー・ワイエスの絵の世界でもあった(笑。
ただ牧歌的ではない、自然の悪意もたっぷり含んだ神秘的な癒し~リアリティである。
無数のイナゴが空を埋めて飛んでゆく景色もまた、悪魔的残酷さに充ちていた。
そして炎である。
メラメラと夜の麦畑を焼き払う獰猛なオレンジの炎の波。

ビルとアビーは恋人なのに兄弟と偽って流れ歩く。
その方が「渡りやすい」ということで。
ビルはたびたび暴力事件を起こしている。
彼は農場の雇われ労働者として働いているとき、たまたま薬を盗みに行ったとき、農場主が後余命一年と医者に宣告されているのを聞いてしまう。
チャックがアビーに惹かれているのをよいことに、彼女とビルを結婚させて、ゆくゆくは農場を自分のものとしようと企んでいた。
式までは上手く運び、他の労働者たちは草刈や麦の収穫の季節労働が終了すると集団で移動してゆくが、彼らは嫁の兄妹ということもあり、屋敷に留まることになる。これまでの生活を一変する贅沢な暮らしだ。
労働のない、一日中良い服を着て、酒を呑み狩りをし川べりで遊びテラスでのんびり過ごす、所謂金持ちの暮らしを満喫する。
これが「天国の日々」であろうか、、、。旧約聖書にもあったが、、、。確かに聖書を感じさせる映像であることは間違いない。

Days of Heaven003

しかしビルにとって、チャックがすぐに死ぬと思っていたにも関わらず彼の体調は悪化せず、なかなか死なないのが誤算であった。
農場主のチャックは、僕大な財産はもっていてもビルの睨んだ通り、死を待つだけの生活に耐えてきた天涯孤独の身であった。
だが大概ヒトは、希望を見出すと元気になるものだ。
それからはチャックに合わせた現状維持の生活が彼らに続いてゆく。
広大に広がる農場と悠久を感じる日の出から日の入り、、、。
これが彼らに永遠の時間性を感じさせる。
或る晩、ビルは夜中にアビーを外に連れ出し、逢引をする。

翌朝上手く誤魔化し、問題は起きなかったが、その後の偽兄妹の行動にビルは疑惑の目を向け始める。
古くからの使用人は、チャックに彼らがペテン師であることを進言するが、この時点では彼はそれを聞き入れなかった。
刺激に飢えていた頃、飛行機に乗って芸人がやってきた。飛行機で芸をやって渡っているのだ。
(これが何とも面白い。アメリカの広さを想わせるシーンである)。
空気を読んでビルは、彼らの飛行機に乗ってそこを去る。
これで終わりにしておけば全てまるく治まった。

だが、アビーの事が忘れられなかったのか、ビルはバイクでまたやって来てしまい、チャックに見られてはマズイ場面を目撃される。チャックの内心を物語るように風に激しく回転する風見鶏。
逆上したチャックの夜の害虫のイナゴを追い払う場面でのビルへの憎悪の向け方。
その怒りのごとく炎は燃え移り燃え盛り、麦畑を焼き尽くしてしまう。
そして翌朝、ビルがバイクの修理をしていたところにチャックが現れる。
ビルに襲いかかるも、逆に刺殺されてしまう。

ビルとアビーはチャックの車を盗み逃走する。
途中、車と船を交換し、水辺の林に隠れるがチャックの使用人と警察が彼の居場所を突き止めるまでの時間は早かった。
追い詰められるビルは川で警官に撃たれてあっけなく死ぬ。

アビーはリンダを施設に預けて去ってゆくが、リンダは窓から友達と抜け出して線路沿いをあてもなく歩いてゆく。
リンダはほとんど語り部に徹していた感があるが、最後に上手く物語を引き取っている。


全ては風景に過ぎなかった。
その風景に酔った。

Days of Heaven




ヒンデンブルグ 第三帝国の陰謀

Hindenburg.jpg

Hindenburg
2013年(日本公開)
ドイツ

フィリップ・カデルバッハ監督

マキシミリアン・ジモニシェック、、、マーテン・クルーガー(ツェッペリン社設計技師)
ローレン・リー・スミス、、、ジェニファー・ヴァンザント(米国の石油会社の社長令嬢)
ステイシー・キーチ、、、エドワード・ヴァンザント(ジェニファーの父、米国の石油会社社長)
グレタ・スカッキ、、、ヘレン・ヴァンザント( ジェニファーの母)
ヒンネルク・シェーネマン、、、 ヒンネルク・シェーネマン(マーテンの親友、ヒンデンブルク号乗員)
ハイナー・ラウターバッハ、、、フーゴー・エッケナー(ツェッペリン社会長)
ウルリッヒ・ヌーテン、、、エルンスト・レーマン(ツェッペリン社社長)


ドイツの開戦への序曲としてヒンデンブルグ爆破が仕組まれていたという話である。
一企業家のヘリウムの輸出解禁の為の奔走は、その裏にナチスの策謀が深く絡んでいた。
しかし、ヒンデンブルグといえば、第三帝国の力の象徴とも言うべきものである。
こういう使い道をヒトラーは考えたのだろうか、、、確かに宣伝効果は抜群ではあるが。


列車や車、船、飛行機それから潜水艦、ファンタジックな気球、個性的な宇宙船はよくあるが、飛行船である。
ヒンデンブルグ、、、レッド・ツェッペリンのあの飛行船である。
船室は優雅な一流ホテルといった感だ。それも眺めは極めて美しい空のホテルだ。
そこで謂わば、グランドホテル形式の人生模様も描かれる。
アルゼンチンを目指すユダヤの親子やブロードウェイ芸人の男などの亡命だ。
またこの優雅な旅の裏側でかなりのハードボイルドバイオレンスも繰り広げられる。

ともかく客としてみれば安全性さえ問題なければ、誰もが乗りたいものだろう。
ヒンデンブルグのスケール感は圧倒的である。鉤十字は充分に不気味だが。


マーテンの危ういグライダーから始まる。音楽が全編によく馴染んでいる。
鳥の突撃で羽根がやられ森の湖面に着水する。
そこにたまたまサイクリングでやってきていたご令嬢のジェニファーに助けられる。
ここで、マーテンは彼女にこころを奪われる。

その後のアメリカ大使館でのディナーで、ふたりは顔を合わせる。
もう運命のヒトであろう。
しかし彼女には婚約者がいた。
この辺の展開の既視感は半端なものではない。
彼と彼女の障害を乗り越えた波乱の恋の行方はこの時点で、もう見当はついてしまう。

彼女の母は自社が不燃性のヘリウムを首尾よく輸入に漕ぎ着け、それをツェッペリン社に販売できれば飛行船業界の未来は明るいという意のスピーチを披露する。(ヴァンザント家も倒産の危機から脱せられる)。
そしてすかさず、社長が倒れた電報が入り、母娘はヒンデンブルグで直ぐに帰ることに、、、。
ドラマ自体の見通しもここで充分にたってしまう。
後は流れの確認が残るのみ。

何とも浮揚ガスが水素で飛び続けるというのは、安全対策がとられていたとしても充分に恐ろしい。
ファラデー・ゲージ(雷であっても電気が外皮に誘導されること)で安全だというが。
わたしは絶対に乗りたくない(笑。

しかし、ここで社長が妻と娘を下船させるようにツェッペリン社会長に訴えたのは、何も水素が怖いためではなかった。
(すでに10往復のアメリカ~ドイツ間の旅を安全に成し遂げている)。
そこには、爆弾が仕掛けてあったのだ。爆破が最初から目的であったのだ。
ツェッペリン社社長も搭乗しているが、彼はゲシュタポでもあった。
(エドワード・ヴァンザントの秘書もゲシュタポである)。
後半になるといたるところにゲシュタポが配属されていることが分かる。

お客も搭乗員もナチスの計略のための全くの捨て駒である。
しかしマーテンとジェニファーたちは開戦準備の機密文書を手に入れ、単に水素爆発すれば民意が傾き、ヘリウム輸出禁止措置が解かれることを狙っているだけではなく、ドイツ空軍機を遠方に飛ばすための燃料添加剤であるテトラエチル鉛を手に入れることが目的で、ヘリウムは口実に過ぎないことを、突き止める。
それにより戦闘機の飛行距離は飛躍的に伸び開戦準備が整う。(北朝鮮を思い浮かべる)。

マーテンは彼を襲ってきたジャニファーの婚約者を殺してしまい、ゲシュタポに捉えられ機内でリンチに合うが、婚約者こそがダイナマイトを葉巻に忍ばせて用意した張本人(すでに死んでいるため代役に替わっているが)であることが分かり解放される。そのすぐ後で、ジェニファーとのラブシーンが呑気に行われるが、セットされた爆弾の在り処もまだ分からず、酷い怪我を負わされた後なのにもうピンピンして呑気なことこの上ない、、、。
ここが余りに不自然な流れである。(もしかしてすごく長いTVドラマを無理に短縮して劇場映画に編集したための皺寄せがかなりありそうである)。


爆弾は船外に装填されており、、ヘレンに指示された高所恐怖症の工作員(代役)によるものであった。
(そう、母もグルであり父はそれを指示しており、会長も知っていることだった。つまりみんなである。だが、ナチス~ヒトラーレベルまでの策謀は知らない)。
工作員は天候によるアメリカ到着時間の遅れによる爆破時間再設定のため、いやいやはしごを登っている途中で後を追跡してきたマーテンと揉み合い足を踏み外しあえなく落下してしまう。
独自でマーテンが探した結果、爆弾は何と船外に仕掛けられていた。

そしてあまりに有名な大惨事が起こる。ここの特撮は凄い。非常に力が入っている。
漏れた水素と嵐の時にフレームに帯電した電気(Stエルモア現象)で一気に爆発が起きたのだ。
この爆風は強烈であった。次々に火炎放射で吹き飛ばされる人々。
多くの人が犠牲となるが、主人公ふたりは何とか助かる。特にマーテンは不死身のスーパーマンである。
これを目の当たりにした、エドワードは記者会見で洗いざらい喋ろうとするが、怪我を負って病院に運ばれたと思ったジェニファーはゲシュタポに身柄を確保されてしまったのだ。
彼は真実を語れず、用意された原稿を読むだけに終わる。

マーテンが機密文書を人質に囚われているジェニファーと交換する賭けに出る。
機密文書はシガレットケースの中で、ヒンデンブルグ爆発時に灰になってしまっていた。外側は何でもないのに。
だがその場を回収するべくエドワードはゲシュタポの手先を撃ち殺し自らも死んでしまう。

逃れおおせたマーテンとジェニファーは無事結ばれ、彼女の故郷でともに暮らすことにするハッピーエンド調なのだが、大戦はすぐ後に控えており、この先の厳しいふたりの運命を予感させながら終わる。


ご都合主義と主人公のスーパーマン振りが如何にも元がTV映画という感じであった。
しかもやはり、かなりの尺を削った編集であったようだ。
これでは無理がでるはず。

郵便配達は二度ベルを鳴らす 1946

The Postman Always Rings Twice002

The Postman Always Rings Twice
1946年
アメリカ

ジェームズ・M・ケイン原作
テイ・ガーネット監督

ラナ・ターナー、、、コーラ・スミス
ジョン・ガーフィールド 、、、フランク
セシル・ケラウェイ、、、ニック(コーラの夫)
ヒューム・クローニン、、、アーサー・キーツ(弁護人)
レオン・エイムズ、、、カイル(地方検事)

風来坊と美しい人妻との恋である。
アメリカ版フーテンの寅さんか?
とは到底言えない、きな臭いものである。

1942年版のルキノ・ヴィスコンティのものを昔見た気がするも、まるで内容は覚えていない。
他に、ボブ・ラフェルソン 監督のジェシカ・ラング物。もうひとつあるはずだが、知らない。
やはり4回も映画化されているということは、原作がよくできた有名なものだからであろう。

今回、このバージョンを観てみて、とてもよく出来ているなと思った。
しかし、あえて他の3作もしっかり観てみたいとは思わなかった。
これでよし、、、という感じ(笑。

「アメリカでは郵便配達はいつも玄関のベルを二度鳴らすしきたりに なっている。つまり来客ではないという便法である。それに郵便配達は 長年の知識でどこの何番地の誰が住んでいるかをちゃんと知っているから、 居留守を使うわけにはいかない。二度目のベルは決定的な報を意味する。 それと同じようにこの小説では事件が必ず二度起こる。パパキダス殺しは 二度目で成功する。法廷の争いも二度ある。自動車事故も二度、フランクも 一度去ってまた帰る。そしていつも二度目の事件が決定打となるのである。」

原作本からのものだ。
この映画でも全くそのとおり、全て2度起きる。構造はほぼ一緒のようだ。パパキダスはこの映画ではニックである。

何といってもラナ・ターナーが美しかったが、いきなりシュールな出で立ちで現れたときは、ポカンとした。
「ジキル博士とハイド氏」のときよりも幅のある演技をしている)。
直ぐに1946年度作品であることを再確認した。
官能的ではなく、純粋な美しさを(意図的に)強調しているように見受けられる。
The Postman Always Rings Twice001
フランクにとっていきなり運命のファム・ファタールとなった瞬間だ。
彼女の白いドレスが目立つ。無垢の悪意とでも象徴しようとするものか、、、。つまり運命的である。
この時、口紅を転がしてフランクに拾わせるが、自動車事故で最後にまた(2度目に)彼女のてから口紅がこぼれ落ちてゆく。


一口に言えば愛憎劇である。(しかし演出的に余り重厚さや重苦しさはない)。
まずヒトは現状に満足は出来ない過剰な観念の動物である。
ここでは、フランクは一所には落ち着けず常に流れ歩く。
コーラは、経済的に安定してはいても、刺激に乏しく退屈な毎日に不満を抱えている。
そのふたりが出逢い、観念的な飛躍に向かってしまった。
殺人など、彼らおのおのでは、到底できないものだが、あのように「ふたり」を巡る「関係」が忽然と磁場を生じさせてしまうのだ。
(愛)欲が絡んで短絡的に夫ニックを殺す計画を実行したときから泥沼にはまり、、、戻れない運命へと引き釣り込まれてゆく。
周囲にだけでなくふたりの間にも疑心暗鬼が生じて話は拗れる。(元々不安で不安定なふたりである)。

そして2度目にある意味、ケリがつく。
利権絡む裁判上の取引。
一度目の裁判では、フランクは無罪、コーラは過失致死で執行猶予つきで、この先上手く話が運んでゆくはずはないと観ていると、案の定ゆすりたかりが出てくる。
しかし、ニックにあのタイミングで保険金をかけたのが誰かは明かされない。
(丁度その頃あいをみて、彼らの車を尾行して来たカイルが妙だ)。
もうひとつ彼らを利用するかたちで絡んでいる者がいるのか。
映画では単にそれを仄めかす程度である。

ニックのお人好しさも異常なくらいで、わたしはずっと彼が何か企んではいまいかと怪しんでいたら、二度目の事故であっけなく死んでしまった。(ヒッチコックなら彼にかなり捻りの効いた役柄を負わせないか?)

夜の海のシーンだけはこの時間流から抜けた解放感と神秘性が漂う。
最初に出逢ったばかりの二人だけの瑞々しい海水浴。(ここで何故ニックが二人だけで行かせたのかは不明)。
最後の泥沼から這い出てふたりのやはり夜の海水浴での遠泳と帰還の爽やかさ。
これはまさに死と再生の儀式以外の何ものでもない。
(彼らにとっては、全てをチャラにして出直す絶好の機会となった)。

この先希望の光が見えてきた時の不慮の事故。
彼らにしてみれば運命的な悲劇と言える。
これもニックの遺産を独占するためのフランクの事故に見せかけたコーラの殺害と報道された。
だが最終的に生き残ったフランクがコーラ殺しではなくニックの殺害で死刑となることで、彼は解放される。
コーラはわかってくれている。あの世で一緒になれると。
やけに晴れ晴れとした表情でそれを語る。


かなり哀れで自分勝手の究極であるが、話自体テンポよく見易いものであった。






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ダージリン急行

The Darjeeling Limited

The Darjeeling Limited
2007年
アメリカ

ウェス・アンダーソン監督・脚本・製作


オーウェン・ウィルソン 、、、フランシス・ホイットマン(長男)
エイドリアン・ブロディ 、、、ピーター・ホイットマン(次男)
ジェイソン・シュワルツマン 、、、ジャック・ホイットマン(三男)
アンジェリカ・ヒューストン 、、、パトリシア・ホイットマン(母)
アマラ・カラン 、、、リタ(客室乗務員)
カミーラ・ラザフォード 、、、アリス(ピーターの妻)
ウォレス・ウォロダースキー 、、、ブレンダン(フランシスのアシスタント)
ナタリー・ポートマン 、、、ジャックの(分かれた)彼女
ビル・マーレイ、、、ビジネスマン


カラフルである。
「グランド・ブダペスト・ホテル」程ではないが。

短編「ホテル・シュヴァリエ」が最初にある。
ミニ「グランド・ブダペスト・ホテル」みたいな感じのカラフルな短編。
凄いショートのナタリー・ポートマンとジャックのホテルの一室での逢引?よく分からない。
別れかけたふたりがまた遭ったという形の様だ。
ナタリー・ポートマンが何故か体のあちこちにアザがある。
最後にふたりで巴里の街並みをホテルのバルコニーから眺める。
これが13分位の話で、本編(part2)の最後に彼の書いた小説のエンディングとして兄弟たちに読まれる形となる。

このジャックがいつも裸足なのが気になった。
ビル・マーレイが猛スピードでタクシーに乗って駅に駆けつけるがダージリン急行は発車してしまい、後を走って追うが追いつけない。
同時に追って乗り込んだのが、ピーターである。
ジャックは既に乗っていて、最後にフランシスが乗ってくる。
3人兄弟が揃い彼らの珍道中が始まるというもの。
長男は協定を結ぶのが癖らしい。何かと采配を振るう。
みんな実に個性が違う。毒蛇など向こう見ずに買って車内に逃がしてしまう次男。女性好きで奔放な3男。

そして長男はこの旅はわれわれにとって重要なスピリチャアルな旅だという。
「スピリチャアル」である目論見を隠しているつもりなのだ。

随分、一緒に話してから、その顔の怪我はどうした?と聞くのも面白い。
面白いところばかりだが、、、。兄弟の齟齬そして秘密、自分勝手がいたるところに見られるがそんなものだろう。
ダージリン急行~列車に乗っての噺が進んでゆく。
列車は、やはりまだ映画にとっては特別な進行空間として充分に機能する。
スーツケースを持って走って乗り込む場面がとても印象深い。バスも車にしてもスーツケースの積み替え、が起きる。
当然、彼らの拘りこころに抱えているモノの象徴でもあろう。

ジャックがパリで書いた「ルフトヴァッフェ修理工場」という短編をピーターが感動で涙して読んでるところなども面白い。
ナタリー・ポートマンがジャックのカバンに忍ばせた「ヴォルテール 6番」を彼は兄弟に言われたままに割ってしまう。
フランシスの思惑は、母に会いにいくというもの。
父の葬儀に出なかった母に会っておきたかったらしい。
しかし、彼らは素行が悪く(兄弟喧嘩が原因で)ダージリン急行から途中で降ろされてしまう。

この地で少年たちの水遊びの事故に出くわし、彼らを救助しに果敢に飛び込むが、1人は助けられなかった。
3人は少年の葬儀にも立ち会う。
父親の葬儀のシーンの回想が挿入される。
「ルフトヴァッフェ修理工場」に事故死した父親の車が修理に出せれており、葬儀前に彼らはそこに立ち寄る。
その赤いポルシェのトランクに、スーツケースが入ってる。
トランクの運搬、積み下ろしが丁寧~厳かに描かれる。明らかにそれに象徴的意味を覚える。

葬儀の後、彼らは飛行機に搭乗せず、母に逢いに行く。
3人は結構、団結してくる(笑。
そこでひと晩話すと母は翌朝消えていた。
そして3人は孔雀の羽の儀式を行う。
(これが凄くやりたかったみたいだ)。

それまで、とても大事に運ばれていた全てのトランクを投げ捨てて最初のように列車に走って乗り込むところが何故かとても爽やかだった。
母からも父からも解放された感がある。
正確に言えば、「喪失感」から3人揃って解かれる。
そんな自立を覚えるすっきりしたエンディングである。


「月の光」や「亡き女王のためのパヴァーヌ」なども微かに流れるが、キンクスも久しぶりに聞いた(笑。
音楽がとても豊富で場面にも合っていた。



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ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬

Johnny English Reborn

Johnny English Reborn
2011年
イギリス

オリヴァー・パーカー監督
ハーミッシュ・マッコール脚本

ローワン・アトキンソン 、、、ジョニー・イングリッシュ
ジリアン・アンダーソン 、、、MI7局長 パメラ・ソーントン(別名ペガサス)
ドミニク・ウェスト 、、、サイモン・アンブローズ(エージェント1号)
ロザムンド・パイク 、、、MI7行動心理学者 ケイト・サマー
ダニエル・カルーヤ 、、、タッカー諜報員

ニンマリしたり、呆れて苦笑したり、反射的に笑ってしまったりの映画であった。
いろいろな笑いを誘発される。
爆笑とかはないが、リズムよくほどほどに笑えるものだ。
ネタはよく練られていた。
ツボもよく押さえられている。


なに分あからさまに007をなぞっており、渋くシリアスに迫るようなところが見られミスタービーンよりも幅があり面白い。
ロザムンド・パイクはボンドガールもやっていたから、余計に笑える。
だいたい、007自体が大真面目のギャグである。
シリアスなスパイ映画を一度見てしまうと、どれ程荒唐無稽なエンターテイメントか実感できる。
ここでも負けじと、かなり追い詰められスリルを感じさせるところが幾つもある。

それはそうと、スパイパロディ映画では、オースティン・パワーズがあり、これと双璧をなすと思うが、、、。
下ネタの多すぎなあちらに対し、こちらはそれに頼らないギャグを炸裂させていて、より 手が込んでいる。
(向こうはゲストにバート・バカラックとか呼んだりしているが)

この話の設定は、、、と言ってもどうというほどのものでもないが、一度ヘマを仕出かし、サーの称号をはく奪されて干され、チベットで5年ばかり精神的な修行していたジョニー・イングリッシュがMI7に呼び戻され、英中の首脳会談で要人の警護を任されるという、まあ何でもよい感じのものである。(その辺はどうでもよい)。

何と言ってもこの映画、かなりの予算をかけていることが分かる。
ヘリコプター、ロールスロイス、ハイテク車椅子、スパイガジェット、、、。
特にヘリで、ゴルフ場の並木をスパスパ切ってゆくところは、どうやって撮ったのか、TVで観たのでメイキングなど知らないが、CGでなければ、これは大変な撮影だ。救急車の屋根に停まるのは、流石にないだろうとは思うが。
あのような声で命令通りに動くロールスロイスファントムというのもまたすごい。
9000CCのV16でチェーンアップしており、武器もレーザー光線など、半端ではない。
もっと活躍させてもよかったのではないか、、、壊すわけにはいかないが。

そして白眉は、超高速車椅子であろう。
ハイテクというより、オートマタ感覚があり、面白い中にも伝統的な品がある。
よくできた車椅子だと関心はするが、斬新さは感じない。
そう、全体を通してみると、よく練られ丁寧な作りであるが、新しさや意外さはないのだ。
ローワン・アトキンソンの演技はもう円熟の域で、横綱相撲である。
伝統芸的味わいも感じられた。

そして、007を意識したような仕草に、カッコよさを見つけた。
(これはミスタービーンには微塵も感じられなかった部分である)。
他のキャストも、とても真面目にやっていて、ローワンがしっかり際立っていた。
特に、タッカー諜報員(ダニエル・カルーヤ)という、素直で優秀だがちょっと弱腰な相棒が絶妙な絡みを見せていた。
このコンビでこの映画を成功させているといっても、言い過ぎではない。


とても堅実な出来と言えようか。
爆笑はできないが面白い映画である。


グランド・ブダペスト・ホテル

The Grand Budapest Hotel

The Grand Budapest Hotel
2014年
イギリス・ドイツ

ウェス・アンダーソン監督・原案・脚本・製作
アレクサンドル・デスプラ音楽
シュテファン・ツヴァイク(オーストリア)の小説にインスパイアされる


レイフ・ファインズ 、、、ムッシュ・グスタヴ・H(名コンシェルジュ)
F・マーレイ・エイブラハム 、、、ミスター・ゼロ・ムスタファ(グスタフの後継ぎ、現ホテルオーナー)
エドワード・ノートン 、、、ヘンケルス
マチュー・アマルリック 、、、セルジュ・X
シアーシャ・ローナン 、、、アガサ(ゼロの妻)
エイドリアン・ブロディ 、、、ドミトリー
ウィレム・デフォー 、、、ジョプリング
レア・セドゥ 、、、クロチルド
ジェフ・ゴールドブラム 、、、代理人コヴァックス
ジェイソン・シュワルツマン 、、、ムッシュ・ジャン
ジュード・ロウ 、、、若き日の作家
トム・ウィルキンソン 、、、作家
ビル・マーレイ 、、、ムッシュ・アイヴァン
オーウェン・ウィルソン 、、、ムッシュ・チャック
トニー・レヴォロリ 、、、若き日のゼロ


豪華キャスト。
注目のシアーシャ・ローナンやチョイ役でレア・セドゥを使っている。
贅沢である。

若き日のゼロと名コンシェルジュのグスタヴふたり(今風に謂えば相棒か)の珍道中いや奮闘劇である。


独特の映像美を愉しむ映画
何かをこの映画を通して知るというのではなく、映画自体を心地よく味わう為の作品である。
謂わば映画の快楽を知る映画と言えよう。
その点ではティムバートンを思い浮かべるところ。
ピンクや赤の目立つとてもお洒落でとてもアーティフィシャルな模型的世界が展開される。
現代と30年代、60年代の時間軸に分けて描いており、30年代は画面フォーマットがほぼ四角である。
こんな演出も心憎い。

ここでも伝統的な映画と同様、汽車が重要な場面で、主人公たちを運んで行く。
大切な話はそこでなされ、その進行が運命をも左右する。
雪の中、途中で彼らの行く手を止める者は、文化を破壊するファシストである。
主人公は、2度目の強制停車時に撃ち殺されてしまう。

ズブロフカ共和国という架空の国が舞台。
オーストリア・ハンガリー的な匂いがする映画だ。
丁度、カフカが小説を密かに認めていた時代に重なる。

じわじわと迫り来るファシズムの恐怖は描いているが、どこをとってもコミカルで軽快でスピーディな展開だ。
そして甘味な「絵」である。
脱獄シーンがこれ程、軽やかであっさりしたものは見た事ない。
逃避行中のコンシェルジュ同士のネットワークなども、とてもコミカルで面白い。
暗殺者に追われるロープーウエイやソリのシーンも、スリルとか臨場感・緊張感とは異なる独特の雰囲気と距離感を覚えた。
思い返せば殺害シーンがかなりあったにも関わらず、とても愉しい。

グスタヴは余りに有能なコンシェルジュのため、彼に心酔する大富豪に遺産を残されてしまい壮絶な遺産相続に巻き込まれる。
逆恨みの富豪の息子の陰謀にはめられ遺言を実行する弁護士他重要人物も次々に殺害されてゆく始末。
彼も何と富豪殺害の冤罪を着せられ逮捕、投獄される身となる。
だが獄中でも何故かコンシェルジュ風の役目をやりながら、獄中の人々にも慕われ首尾よく脱獄出来る。
逃走のため迎えに来たゼロが香水を忘れたことで激怒してみたり、お洒落なのか間が抜けているのか分からぬ部分もある。

その後もふたりで殺し屋に追われる、、、。
グスタヴはそのコンシェルジュとしての人望が余程篤かったのか、危ない目に逢いながらも人々のネットワークで逃げおおせてゆく。
ドタバタの群像劇なのだか、品が良く何かと綺麗なのだ。
相続した名画の裏に破棄された遺言のコピーが隠されていた事を知り、それによって彼は名誉を挽回し、文章通りに莫大な財産とヨーロッパ随一の名門グランド・ブダペスト・ホテルも自分の所有物となる。
文字通りの大金持ちとなり、ゼロはその後継人と決まる。
しかしファシズムの台頭と戦争突入により、グスタヴの国が消滅するに及んで、彼も消えゆく運命にあった。


何といっても、レイフ・ファインズとトニー・レヴォロリの息のあったコミカルだが気品ある掛け合いが愉しかった。
それが映画自体の軽快なテンポに見事に結びついている。
そして隅々まで行き届いたアーティフィシャルな絵作りである。


本当の意味で、ここちよく見易い映画であった。

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多肉を整える

taniku.jpg


多肉植物を暫く放って置いたら、かなりの乱れが生じていた。
デタラメさが増大していた。
しかし、これは死に向かう無秩序ではなく、生への無意識の造形である。
かなり無慈悲に暴れまくっていた(笑。
廃墟に通じる感覚もある。

棚に収まりきらない拡張も見られ、枝ぶりを整理した。
盆栽みたいである。
基本は同じだと思う。
「整いました。」
TVで以前よく聞いたな、、、最近見ないが。


花殻や枯葉を全てどけていたら、虫喰われや病気も見つかった。
(乾燥しすぎていてもこのような事が起きる。風通しもビニルで保温していたためよくなかった)。
やはり株分けして増やしてしまったため、棚奥の余り目立たない鉢に異常があった。
昨年、大きな鉢で寄せ植えしてかなりの見栄えとなっていたものが、突然全滅したときは驚き唖然としたものだ。
常に何かが潜在的に進行している。
微分的に変化している。
そして忽然と相転換。

こちらも怠惰が過ぎた。


暴れていても、植物である。
われわれとは時間性が異なる。
声ももたないため、動勢を感じにくい。
ほとんどいつも、彼らは「静物」として確認される。
植物は「静物画」としていつも制作される。(食虫植物のように瞬時の動きを見せるものはあっても)。
また静物画として描かれた生きた動物の絵は見たことない(剥製は物である)。

やはり、植物とは生きられる時空が異なるのだ。
そんなことをふと想うが、実はこれは大変なことかも知れない。


彼らと意思疎通が出来たら、恐るべきことに迫れるのかも知れない。
分厚い「サボテンが喋った」と言う本を持っていたが、今はもう内容は思い出せない。


水をやる時期であるからたっぷりあげた。
肥料も少し。
周りのビニルの覆いを外した。
2階の窓辺でいつも確認しながら育てているものより、環境的には良くない。
外は冬の間は過酷であった。
寒気と強風である。
それに加えて密封。これは気にして風は入れるようにしていたが。
ほとんど、何かを共感し合うような間柄ではなかった事は確かだ。

亀にかまけていたし。
これからは、多肉にもっと濃密な共振時間を割こう。


彼らを眺めてボウっとしているだけで、確かに清められる感覚があるのだから。





理由なき反抗

Rebel Without a Cause

Rebel Without a Cause
1955年
アメリカ

ニコラス・レイ原作・監督

ジェームズ・ディーン 、、、ジム・スターク
ナタリー・ウッド 、、、ジュディ
サル・ミネオ 、、、ジョン・クロフォード(プラトン)
ジム・バッカス 、、、フランク・スターク(ジムの父)
アン・ドラン 、、、キャロル・スターク(ジムの母)
コーリイ・アレン 、、、バズ・グンダーソン(悪ガキのボス)
エドワード・プラット、、、レイ・フレミック(少年課刑事)


子供とは永遠に孤独なものである。

本質的に子供時代というのは、居場所は無い。

プラトンのように経済的にいくら満たされていたとしても、いつもたった独りである。
彼らはひりつく孤独が蓄積させるフラストレーションを暴力や危険なスリルを求める肝試し(チキンレース)で晴らす生活に身を任す。
折角、ジムとこころを通わせはじめたバズもその危険なゲームで命を落としてしまう。
孤独な仲間との共同体の暗黙のルールのうちで、やらないわけにはいかないのだ。
悪仲間と連み、奔放に生きているように見えて実はチームの掟にがんじがらめで、自由など微塵もない。
(学校のルールが鬱陶しいと、暴走族に入ったら余計に厳しい上下関係の規則に縛られるのと同様に)


ジム・スタークは父親の父権が弱く彼の理想の規範とはならない。ジムはプライドが高く、腰抜けと呼ばれると自分を見失うほどだ。
ジュディの父親は冷たく感じられ権威的で愛情が感じられない。
プラトンの父はずっと不在である。
ジムは好意を示してくれる刑事のレイにもすがるが、彼は忙しく肝心の時にはつかまらない。

3人は強く父を求めていた。
しっかり支えてくれる優しい父親像を求めていた。
そこで、プラネタリウム通りの空き屋状態の邸宅に3人で侵入し、一緒に住もうとする。
彼らは思う存分燥ぎまわり、頑ななこころを素直に解放することが出来た。
恐らく彼らに取り初めてのこころ安らぐ環境であったかも知れない。

ジムとジュディは恋人であり、同時に夫婦の立場であり、プラトンは彼らの息子(特にジムの息子)であった。
3人は理想的な疑似家族をそこで一時、形成した。

しかし、プラトンが一時心地よさから安心して眠ってしまった隙にジムとジュディは邸宅内の探検に行ってしまう。
そう、親というものは、必ず子供を置いて行ってしまうものなのだ。
仕事でなくとも、愛情がない訳ではなくとも、、、何故か置いていってしまうものなのだ。

プラトンが安らかな眠りから覚めると、周りには過酷極まりない現実があった。
ジムを探しに来た3人の悪童が、笑みを浮かべて彼を取り囲んでいるではないか。
(タチが悪いのは往々にしてチームのNo.2であることが多い)。
またもや悪夢が覆い被さって来た。
執拗にジムたちを標的化しバズというリーダー不在のチームの維持に躍起であるかのよう。
(直接的にはバズの仇討という名目であろうが)。

そしてプラトンにとって、、、何故、ジムはいないのか?自分を置き去りにして逃げたのか?
不安と恐怖に激しく動揺して逃げ回るプラトン。
彼の脆弱な自我は過剰反応と過剰な防衛行動を引き起こす。
ジャケットに忍ばせてきたピストルを衝動的に持ち撃ちまくるのだ。

彼らの一人を撃って怪我をさせてしまったことでプラトンの神経は余計に追い詰められてゆく。
警察も駆けつけてくる。
サーチライトが一斉に彼らを照らす。
神経を余計に高ぶらせる。
ジムが必死にとりなそうとするが、最愛の存在にまたもや裏切られたという感覚はなかなか回復しない。
というより、自分の殻を破ってから、初めての他者への信頼感が根底から揺らいでしまったのだ。
一人にするんじゃなかった、、、とジムは反省するが、誰が悪いというよりタイミングが悪かった。
(しつこいゴロツキが悪いのだが)。

そして取り乱して警察に銃口を向けたところで、彼は銃殺されてしまう。
(アメリカらしい。警察の前に出るときは、必ず頭の後ろに手を組まなければならないのだ)。

プラトンが何よりこころから欲していた父親~家族は、うたかたの夢と消えた。
ジムの父は彼の意思を理解し、私も強くなりともに立ち向かっていこうと抱き合う。
ジムは犠牲を払いつつ彼女と彼の「家族」を現実に獲得するに至った。


家族とはそれ程必要なものなのか、、、。
父息子関係とはそれ程重要なものなのか、、、。
私自身それらへの依存(期待)は無く育ってきたので、余りこの映画に実感を持ってなかった。
この父息子関係はハリウッドの十八番のようなのだが、これはアメリカの無意識でもあるのか、、、。

それからひとつ疑問なのだが、ジュディはバズの彼女であったはずなのだが、彼が断崖に落ちて死んだ直後からほとんど悲嘆に暮れる暇もなくジムと親しくなっていて驚いたのだが、そう感じたのはわたしだけか?
勿論、2人とも出遭った時から意識し合ってはいたが、ちょっとこのタイミングでの接近はあんまりな気がするが、、、。

アメリカンな感じのする映画であった。
しかし、ジェームズ・ディーンの存在感は圧倒的であった。
細やかな演技も素晴らしい。
プラトンも独特な役どころをよくおさえていたと思う。



裏切りのサーカス

Tinker Tailor Soldier Spy

Tinker Tailor Soldier Spy
2011年
イギリス・フランス・ドイツ

トーマス・アルフレッドソン監督
ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974)原作
ブリジット・オコナー、ピーター・ストローハン脚本

ゲイリー・オールドマン、、、ジョージ・スマイリー(事件解決後のSIS現リーダー、コントロールの右腕)
コリン・ファース、、、ビル・ヘイドン(SIS幹部)
トム・ハーディ、、、リッキー・ター(SIS工作員、スカルプハンター)
ジョン・ハート、、、コントロール(SIS元リーダー)
トビー・ジョーンズ、、、パーシー・アレリン(コントロール亡き後のリーダー)
マーク・ストロング、、、ジム・プリドー(SIS工作員、帰国後フランス語講師)
ベネディクト・カンバーバッチ、、、ピーター・ギラム(SIS中堅幹部、ジョージと組んでモグラを探る)
キーラン・ハインズ、、、ロイ・ブランド(SIS幹部)
スヴェトラーナ・コドチェンコワ、、、イリーナ(ソ連情報部、リッキーと接触)
デヴィッド・デンシック、、、トビー・エスタヘイス(SIS幹部)
コンスタンチン・ハベンスキー、、、アレクセイ・ポリヤコフ(ロンドン・ソビエト大使館文化担当官、ソ連情報部員)
ロジャー・ロイド=パック、、、メンデル(ロンドン警視庁公安部の警部、ジョージと組んでモグラを探る)


何とこの作品もジョン・ル・カレ原作のスパイを巡る映画である。
わたしの贔屓のゲイリー・オールドマン主演であり、モチベーションは上がるのだが。
如何せんスパイもの(007みたいな痛快娯楽映画とは異なるもの)でシリアスかつ重厚なものは難しい。
特に忘れっぽいわたしにとって、次々に色々な名前が出てくると誰が誰だったか分からなくなる。
胸に名札でも着けていて欲しくなる。
更にこの映画は、説明的なものを極力排している正しい作り方だが、そのため聞き漏らすと分からなくなる。
(ふらっと眠ることも出来ない、、、当たり前だが)。

まずは、ジム・プリドーがコントロールに呼び出される。
ハンガリーのブタペストで、ハンガリーの亡命しようとしている将軍に接触して、サーカス(SIS:イギリス秘密情報部)の幹部内のモグラ(二重スパイ)の情報を聞き出すことを命ぜられる。
サーカスの内部情報がソ連側に筒抜けとなっている疑いが高く、モグラの炙り出しが急務となっていたのだ。

この映画は、終始モグラ探しのこれもまた、ひたひたと静謐の内に進展してゆく映画である。
ちなみに、ジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)は、拳銃を一度だけ握りはするが引き金は引かずに終わる。
ジョージは、物静かで感情を抑え理知的な行動をただひたすらとるのみ、である。
それでいてこれ程魅せるのは、ゲイリー・オールドマンの魅力もあるが、原作・脚本の妙であろうし、実際の情報戦自体こういったものなのであろう。

そしてこの映画の緊張感の途切れることがないのは、冒頭のシーンが効いている。
ジム・プリドーがエージェントと待つカフェの周囲の人間全てがハンガリー情報部の人間であったのだ。
これをある瞬間、悟った彼の内心とは如何程のものか!
彼は突然、茫然自失という感じで歩みだすが、バーテンに後ろから撃たれてしまう、、、。
(この後、救護され命は助かるが拷問に次ぐ拷問である)。
この不始末の責任を取り、コントロールとジョージ・スマイリーは一旦職を退く。

冷戦時に作られたSF映画の、実は身の回りのヒトは皆エイリアンであったという恐怖の原体験はこのような現実から来ているのかも知れない。

策謀、裏切りのショックと不安が常に付き纏う。
それが常態となってゆく。
精神が擦り切れてしまう。
これを「寒い国から帰ってきたスパイ」のアレックスの上司が心配していたが、ここでも当然同様である。

本格的な話は、、、コントロールが謎の死を遂げるところから始まってゆく。
彼は死ぬ前にサーカスの幹部の誰かが、モグラであると言遺していた。
そのモグラ炙り出しの役が、かつてコントロールの右腕であり今は部外者で動きやすいジョージに回ってきた。
ここから先をいちいち述べても長くなるばかりである。
(大変面白い展開であることは間違いないが、もう疲れた(笑)。


結局、ジョージら3人のチームが、「ウィッチクラフト作戦」~「ソ連側の情報提供者を匿い情報を聞き出す作戦」を隠れ蓑にして、ビル・ヘイドンがカーラ(ソ連情報部幹部)と手を組み西の(イギリスの)情報を流していたことを突き止めるまで、密やかに稠密にそしてスリリングに展開されてゆく。
ちなみにビル・ヘイドンは、ジム・プリドーに射殺される。
他の幹部はまんまとビルに乗せられていたのだ。そのためアメリカからの信頼もなくしている始末であった。
幹部は全て任を解かれ、新たなチーフの椅子にジョージが座る。



ただ、二重三重の裏切りを仕掛けながらもしてやられている彼らではあったが「われわれは第三次世界大戦を前線で阻んできたのだ」という真摯なことばは本心からきたものかも知れない。

しかし、かつてジョージが一度だけカーラに西側への転向をひと晩かけて説得する際に言った言葉に遥かに説得力を覚える。
ーーーどちらの体制であれ、たいした価値はないと認める潮時だろうーーー
全く何を言っても取り合わなかったカーラがこの言葉だけには反応したらしい。

分かる。



寒い国から帰ってきたスパイ

The Spy Who Came in from the Cold001

The Spy Who Came in from the Cold
1965年
イギリス

マーティン・リット監督
ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963)原作

リチャード・バートン、、、アレックス・リーマス(イギリス諜報部員)
クレア・ブルーム 、、、ナン・ペリー(図書館勤めの共産党員)
オスカー・ウェルナー、、、フィードラー(東ドイツ、ムントの配下のNo.2の諜報部員)
ペーター・ヴァン・アイク、、、 ムント(イギリス、東ドイツの二重スパイ)
ルパート・デイヴィス、、、ジョージ・スマイリー(アレックスの親友のイギリス諜報部員)


「検問所」という境界は日本にはない。
とてもこの世離れした場所と言える。

ずっと待ちわびていた同僚のスパイが最後の「検問所空間」で、目の前で撃ち殺されてしまう。
そこは、物理的には地球の上なのだが、人間にとっては何処にも属さない場所なのだ。

そんな「境界」を巡る話だ。
「東西」、「社会主義と資本主義」などといってもどちらが、どちらということもない。
ほとんど似たようなものである。
主任の謂うように、どちらも冷酷非情さにおいては変わり無い。
ただ、厳然と「境界」だけがある。
命を賭けた越境行為があるだけ。

情報戦というより、そのゲームをより高度に複雑に維持し続けるためのゲームに白熱しているようだ。
ゲームのためのゲーム。
裏をかいたり、偽情報を見破ったりまことしやかに流したり、スパイを釣ってみたり、本当の情報を奪い取ったり、、、。
(勿論、今では更に巧妙な詐欺や裏切りやなりすましがウェブ上では行われているが)。
それが現実の場で、静かに淡々と行われてゆく。
間違っても派手なドンパチはやらない。
というより、やっては拙いのだ。絶対人の目に触れてはならない。
ここでもその失敗が尾を引いていた。

スパイは難しい役どころを引き受けて相手の懐に飛び込む。
アレックスの場合、もう役を干されて酒に逃げ、いつでも寝返りそうな元諜報部の取りまとめ役というもの。
(実際に東ドイツ諜報部にいるムントによって配下の工作員全てを彼は失っている)。
相手側としては、是非手に入れたい人材ではあろう。

痛い目に会いつつも首尾よく運んだかに見えたが、、、。
その後二転する。
目的はナチの党員で現在東ドイツの諜報部の権力者となっているムントをその配下の切れ者フィードラー の不満を利用して失脚させようというものであった。
しかし、その尋問の場にナンが呼ばれ、真の目的はムントの立場を守るために彼の画策に気づいたフィードラーを葬るものであったことが分かる。(ムントが二重スパイであることを突止めてしまったフィードラーをこそ葬るためのものであった)。
全てムント、弁護士側に情報~手の内は伝わっていた。

そしてこともあろうに拘留から彼らを解き、車と脱出経路を提供したのが何とムントであった。
ここで彼が完全にイギリス側スパイであることが判明する。
(ということはかつて彼の情報によって粛清されたアレックスの配下の工作員は単なる捨駒以外の何ものでもなかった)。
そして取引による脱出劇で、アレックスとナンは壁までたどり着くが、命の保証をされていたはずの恋人のナンは境界を渡ることが許されていなかった。
アレックスは、境界を跨ぎはするが、そこで一瞬スパイであることを忘れる。
呆然としながら撃ち殺されて下に落ちたナンの方に彼も降りてしまった、、、。


最後にアレックスも壁という境界で戸惑い撃ち殺される。

この映画は「境界」での「死」に始まり「境界」での「死」で終わる。
国家が幻想であることを思い知らされる映画であった。

古さなどは微塵も感じさせない作品である。


ブローニュの森の貴婦人たち

ORPHEE.jpg

LES DAMES DU BOIS DE BOULOGNE
1944年
フランス

ロベール・ブレッソン監督・脚本
ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』原作
ジャン・コクトー台詞

ポール・ベルナール 、、、ジャン
マリア・カザレス 、、、エレーヌ
エリナ・ラブルデット、、、アニエス
リュシエンヌ・ボゲール、、、アニエスの母

最初に男女の胸の内の探り合いから始まった。
女は心にもないことを男に言う。
「もうあなたに対して心が冷えてしまったの。」
試すつもりで、偽りの「告白」をしたのだが、男の方もそれにピタリと同意してきた。
全く女にとっては想定外であった。
女は逆上して、男に「復讐」を誓う。

かつての知人であり、今破産して身を持ち崩し「踊り子」となっていた女性を、その実態を明かさず近づける。
「踊り子」はそのまま「娼婦」でもあった時代か?
女エレーヌは、男ジャンに彼女アニエスを、かつて裕福であったが没落した家庭の純粋無垢な女性として紹介する。
たちどころに彼女の虜になったジャンがエレーヌに恋の仲介を頼む。
ある意味、思惑通りに運んだとは言え、こうも容易く靡くとはエレーヌにとっては不愉快である。
エレーヌは、こうなってしまってもジャンにはまだ未練たっぷりでいた。

嫉妬と復讐心から、散々ふたりの関係に割り込んで苦しめてゆく。
無理に遭わせては、双方を遠ざけるのだ。
ジャンは焦らされ軽率に行動を起こし、アニエスは自分の過去を握るエレーヌの身勝手な横暴さに怒りと恐れを抱く。
ジャンには逢うことを何かと引き伸ばし妨害し、アニエスには、生活の支援をする名目でいいように操り、昔のことをばらすような脅しをちらつかせる。
結局、こころはふたりとも強く引き合いながらも、エレーヌによって引き裂かれるようになる。
この非常に冷酷で残忍な役がマリア・カザレスにはピッタリである。
究極のクール・ビューティである(笑。

エレーヌに運命を翻弄されることを嫌うアニエスは、先にジャンに自らの過去の有様を手紙に書き渡すが、彼はそれを受け取らなかった。
そのままふたりは結婚の運びとなるが、エレーヌは周囲にアニエスの以前の行いを吹聴する姿勢をはっきり示す。
その前に、ジャンにはじめて、ここぞとばかりに勝ち誇ってアニエスの過去を暴露する。
ジャンは取り乱し、エレーヌはウエディングドレスを着たまま心臓発作で倒れてしまう。
(今の感覚ではピンと来ないが、昔は「踊り子」が命取りであったのだろう)。

しかし、今にも死にそうな息絶え絶えのアニエスの真実の愛の「告白」を聴き、ジャンも愛を語り、生涯をともに暮らそうと誓う。

女性の、偽りの告白から真実の告白までを辿る映画であったか。
策に溺れた復讐の鬼が、最後に勝利したと勝ち誇った時に、真実の愛を芽生えさせてしまった、、、。


流れもよくとても見易い映画であった。
話もリアリティがあり、説得力があった。
マリア・カザレスは言わずもがな、エリナ・ラブルデットの瑞々しい魅力も印象的であった。
ポール・ベルナールの軽薄で鈍重なパーソナリティから最後の目覚めへの流れが、単純によかった。
というより、こちらとして安心するものだ。
(こうでなくちゃ、、、である)。



オリエント急行殺人事件

Murder on the Orient Express001

Murder on the Orient Express
1974年
イギリス

シドニー・ルメット監督
アガサ・クリスティ原作

アルバート・フィニー、、、エルキュール・ポアロ(名探偵、ベルギー人)
アンソニー・パーキンス、、、ヘクター・マックイーン(ラチェットの秘書・通訳、アメリカ人)
ジョン・ギールグッド、、、エドワード・ベドウズ(ラチェットの執事、イギリス人)
ショーン・コネリー、、、アーバスノット大佐(イギリス軍人)
ヴァネッサ・レッドグレイヴ、、、メアリー・デベナム(イギリス人教師)
ウェンディ・ヒラー、、、ナタリア・ドラゴミノフ公爵夫人(ロシア貴婦人)
レイチェル・ロバーツ、、、ヒルデガルド・シュミット(ドラゴミノフ公爵夫人のメイド、ドイツ人)
イングリッド・バーグマン、、、グレタ・オルソン(スウェーデン人宣教師)
リチャード・ウィドマーク、、、ラチェット・ロバーツ(裕福なアメリカ人実業家)
マイケル・ヨーク、、、ルドルフ・アンドレニイ伯爵(ハンガリー外交官)
ジャクリーン・ビセット、、、エレナ・アンドレニイ伯爵夫人
ローレン・バコール、、、ハリエット・ベリンダ・ハッバード夫人(アメリカ人)
コリン・ブレイクリー、、、サイラス・“ディック”・ハードマン(ピンカートン探偵社の探偵)
デニス・クイリー、、、ジーノ・フォスカレッリ(自動車販売業、イタリア人)
ジャン=ピエール・カッセル、、、ピエール・ミシェル車掌(フランス人)
ジョージ・クールリス、、、コンスタンティン医師(ギリシャ人)


「ナイル殺人事件」を前に観たが、そちらの方がわくわくしたのだが、、、。
アガサクリスティ原作としてみれば「情婦」の出来は格別だと思う。
それから過去の名作としてここのところ何本か見ているルネ・クレールの「そして誰もいなくなった」も忘れられない。

ともかくこの作品、役者が多い(笑。名だたる役者揃い、、、。
映画ファンには堪らないか、、、?

わたしは、イングリッド・バーグマンに全く気付かなかった、、、(爆
大した役作りと演技力だ。それに感心する。
「サイコ」のアンソニー・パーキンスが出ていれば、そりゃ何か起こりそうな気はしてくる。顔を見ているだけで不安になる(笑。
「ブルジョワジーの密かな愉しみ」のジャン=ピエール・カッセルが地味で実直な車掌に扮していた。
ここでは血気盛んな男を演じているがショーン・コネリーも枯れてきてからまた渋い味を遺憾無く発揮してくる。
そう言えば、ジャクリーン・ビセットが出るような映画は見てないな~と思った。
これからは、見てみよう。
とても高貴な美しさを発散していた。役所は、バークマンと正反対である。


わたしは、あまりこの名探偵エルキュール・ポアロに馴染めないのだが、、、。
それは生理的レベルのものである。
慣れれば面白い人なのかも知れないが。
どうも役を作りすぎている感じがする。

それにしても各役柄上の国も本当に多国籍である。
列車という交通機関に乗っているのだから、こうでなくてはならないが、この場合、西ヨーロッパと東ヨーロッパ・アジアを結ぶ列車の中である。
西欧人にとり異文化圏である「オリエント」へ向かう列車として、また東欧やアジアの上流階層の人々にとっては彼らと西ヨーロッパの貴重な交通手段であり、社交的な空間であった。

観客はあたかも彼らと同じ「オリエント急行」の乗客に加わる。
(列車映画とはその初期からずっと、その疑似体験感(臨場感ではない)こそが醍醐味であった)。
そしてポアロたちとともに観客も殺人事件の謎解き(又は嫌疑をかけられる)メンバーのひとりとなってゆくのだ。
と、いいたいところなのだが。
しかしそうした動き感覚がほとんど見られない。
脚本というより演出レベルか、、、。どうなのか、、、やはりセリフか?

全編がポアロの事情聴取ばかりで、終わりの35分くらいかけてのお馴染みの登場人物一同を一室に集めての謎解き解説。
回想とお喋りばっかり、説明し通しである、、、。
勿論、それだけでも映画は幾らでも成立はするが、、、その回想~イメージと噺がいまひとつ共振に欠け面白みが薄い。
悲劇的で悪辣な犯罪が元になっているのは分かるが、その悲劇性に身体性が伴わない。


確かに12人全員の犯行という件で、それぞれ犯行に至る深い思いが吐露されたあたりでは、共感できる流れは生じるが。
もしかして列車が大雪で止まっていたために、流れが悪かったのか?
そんな気がしてきた、、、。


最後の豪華キャストのワインのひとりずつの乾杯など、恐らくそこだけで感激する映画ファンもいることと想像するが、映画に疎いわたしとしては、あまりその辺のシーンに思い込みがない。
(短時間であったが途中で数回眠った、、、)。





ピアニスト

La Pianiste

La Pianiste
2001年
フランス

ミヒャエル・ハネケ監督・脚本

エルフリーデ・イェリネク原作


イザベル・ユペール、、、エリカ (音楽大学ピアノ科教授)
ブノワ・マジメル、、、ワルター(工学部そ学生、ピアノの才能にも恵まれる)


ーーーわたしには感情がないの。覚えておいて。ーーー

無感覚な表情。極度の内面化を感じさせる。
ある日、エリカの防御壁を壊すように強引に飛び込んでくる若い才能と自信に満ちた男子学生ワルターが現れる。
徐々に彼女の動揺が彼女を外に向かわせようとする。お化粧も服にも気遣うようになり、、、。
しかしワルターとの関わりが深まるに及び、親和的な親密性に自然に流れ込んでゆくわけではない。
彼女の母親との長年にわたり培ってきた特殊性が彼女に自分の感性・感情との生で直接的なアクセスを許さない。

固着した関係性から身悶えして抜け出ようとした決意の時。
まずは、彼女は不器用に自分の特異性を高らかに宣言しておく必要があった。
それからというもの、、、とてもシンドい自我の防衛と解体の幾重もの儀式が繰り広げられる。
それは、無様にえげつなく、消耗して擦り切れ果てて、、、深く傷ついてゆく過程を辿る。

ワルターが彼女に言い放つ、、、「狂っている」とは何か?
「病気だ」、、、も同じだが。
それは当人にとって自分でもよく分からないそんな「次元」の身体性における問題なのだ。

生理的・身体的な自分の制御不能で麻痺した反応に操られ、その及ぼす結果に生々しく半ば後ろめたく驚く。
特異な性癖。まさに癖である以上、意識コントロールの対象にない。
後で気が付くレベルの無意識的な行為だ。しかもそれは治したりするものではなく、当人もそう思ってはいない。

客観的にその現象から遡行すれば、主因は特定できる。
(その悍ましくも歪んだ関係性の中に神の目を持って入り込んでくる勇者でもいれば、俯瞰可能であろうが)。
しかし、いまさらそれが分かったところで、どうするつもりもなく、一体どうなるものであろうか、、、。
漆黒の依存関係ももはやそれが本質であるかのように関係化~身体化してしまっている。
(マゾヒスティックであり支配的でもある捻れた性的発露が見られる)。

言い換えれば「制度」と「初期」の問題であり、「人間」であり「女」であることから来る「宿命」でもある。
勿論、そこに人によって度合いの差がはっきり存在する。

エリカは、実に不自由ながら、制度と初期の問題を棚上げしたまま、死ぬまでやっていくつもりであったかも知れない。
男に何の気兼ねなく無表情でポルノショップに行くなどして、生身の関係とは隔絶した世界で生きながらえてゆく。
感性と感情を「縛り付けられた」まま過干渉の母親による性的な抑圧(オシャレ、交際の禁止)のうえでの「身を捧げた」音楽教育を受けて育った彼女。実際は、エリカこそが母親の欲望に身を捧げて人生を空費してしまった生贄にほかならない。
音楽大学のピアノ科教授としてその道での尊敬は受けており、彼女目当てで入学して来る学生もいる。
優秀な学生の個人レッスンも行っている。
ワルターもそのひとりだった。
しかし、生~性の充足感など微塵も期待できない母娘の生活が永遠に続く。
(無駄な買い物も許されず寄り道せずにタクシーでの帰宅を強要されて来た)。
ある意味空恐ろしい程に引き裂かれた自己だ。


しかし理性しかないという彼女が音楽を教える時の楽譜解釈は極めてエモーショナルでもある。
また音楽がどのようにエリカに作用して来たのか。
少なくとも音楽~芸術がなかったら、彼女は完全にとっくの昔に精神崩壊していたはず。

最後にエリカは全ての要求を引き下げ、無防備なかたちでワルターと交わる。
彼女は、恐らくはじめて「愛してる」とは言う。
だがどうにも快楽を享受できない。
彼は一方的な行為に呆れて帰ってゆく。
「先生、このことは、内緒にしておこう。ぼくは男だが、きみは女だ。」
彼にとってエリカとのここまでのシンドい恋愛沙汰は何であったのか、、、そしてエリカにとっても、、、。
これは結局、拷問の一種であったか?
この絶望は、彼女に最大級の痛手を負わせ、母親に覆いかぶさり「愛してる」という言葉に転嫁され、ベッドの上で激しく嗚咽する。


次の日の演奏会にワルターは「先生演奏楽しみにしてます。」と屈託のない笑みを浮かべて友達と会場に駆け込んできた。
何も引きずってはいない。

エリカはバッグに忍ばせてきたナイフで自分の胸を突き刺す。
その時の表情は、、、フランシス・ベーコンの顔のない苦悶の表情~掴みどころのないフィギュアであった。
(バスタブでの自傷行為からして暗示的ではあったが、、、母親はそれを生理と勘違いしている。そういう母親なのだ)。
血が溢れ出る。
彼女は平然と演奏会場を後に、街に出てゆく、、、。

例によって、コンサートホール前の長回し。


ミヒャエル・ハネケ監督、面白い監督だ。
だが、余り観たくはない。
毒には毒をという感じの挑発的映画だ。
(中途半端な薬より、出来の良い毒のほうが効用はある)。



イザベル・ユペール恐るべし。
フランスの女優の凄さを思い知る映画でもあった。
(フランスには、この手の凄い女優が何人もいる。)


La Pianiste002


アンナ・カレーニナ ~ キーラ・ナイトレイ

Anna Karenina004

Anna Karenina
2012年
イギリス

ジョー・ライト監督
トルストイ原作

キーラ・ナイトレイ、、、アンナ・カレーニナ
ジュード・ロウ、、、アレクセイ・カレーニン伯爵
アーロン・テイラー=ジョンソン、、、アレクセイ・ヴロンスキー伯爵
ケリー・マクドナルド、、、ダーリャ・オブロンスカヤ公爵夫人
マシュー・マクファディン、、、ステパン・オブロンスキー公爵
ドーナル・グリーソン、、、コンスタンティン・リョーヴィン
アリシア・ヴィキャンデル、、、エカテリーナ・シチェルバツカヤ

1948年版を見たが、今回の絢舞踏会の爛豪華さには参った。登場人物たちが人形のような装飾的な輝きに満ちている。
「舞踏会」そのものが楽しめる「絵」であった。
美術・衣装の勝利か?
田園~農業の草刈の光景も大変美的に撮られていた。
この映画、ただひたすら美しく絵作りしましょうというコンセプトに受け取れた。
中国の宮廷ものにも同様な質感があるが、ゼンマイを巻かれた間だけ優雅に踊り恋をするカラクリ人形界にも見える。
明らかにそんな演出だ。
ある意味、アンナたちの世界と、コンスタンティンの世界の対比を描く物語でもあるが、双方とも幻想的なまでに華美である。

構成そのものが華麗な舞台劇を観る思いである。
精巧極まりない模型(箱庭)を観るようでもあった。
それを特に際立たせる手法として、瞬時に舞台に切り替わったりするところには、何度もハッとさせられる。

映画(特に初期の映画に)につきものの列車が幾度となく挿入される。
感情の高まりの演出のイメージとしても現れる。
かなり大きく精巧な列車のジオラマでアンナの息子が遊んでいたが、その模型も随所で走っている。

肝心の愛憎劇としての部分であるが、、、生憎、わたしにはほとんどピンと来なかった。
アレクセイの感情を抑えた気品ある対応には、感心したが、アンナ他の恋愛感情の放出には感情移入は不可能であった。
ただ、客観的に眺めてはいたが、そうなのか、、、という感じで終わった。
一体何を苦しむ必要があったのか、、、?自己破滅型の人々なのか、、、貴族には時折そういうタイプは見受けられる。
何故ここまで転がってゆくのか、、、どういう顔で見ていたらよいのか、、、あれよあれよである。

普通に、美しいと感じる相手にはそう素直に思えば良いが、それを現実の恋愛対象に出来るかどうかは、最初からはっきりしている。
アンナは聖人と呼ばれる国家的に尊敬される夫と最愛の息子までいる。
その関係を破壊して周囲を滅茶苦茶にしてまで、果たして一目惚れのヴロンスキーに一途になるものだろうか、、、。
(愛情ではなくそれは単なる欲望であって、それをコントロールするのが知性の役目ではないか?)
おかげで、エカテリーナは将来の悲劇からは救われた形となったが。
(この話ではエカテリーナがもっとも良い道に進んだ気がする)。
1948年版もこんな感じであっただろうか、、、少なくともここまで白々しさはなかったはずだ。

Anna Karenina007



自分自身と周囲に追い詰められ列車に身を投げるアンナ。
これはかなり始めの頃から、象徴的に繰り返し暗示されてきた結末ではあった。
社交界(貴族の世界)の美徳と退廃のシステムからほんの一時逃れ、、、
緑の草原で読書しながら子供達の遊び回るのを、重荷から解かれたアレクセイが穏やかな視線で眺めていたのが印象的である。

わたしも、こんなシーンが理想だ。



隠された記憶

Caché

Caché
2005年
フランス

ミヒャエル・ハネケ監督・脚本

ダニエル・オートゥイユ、、、ジョルジュ・ローラン(テレビキャスター)
ジュリエット・ビノシュ、、、アンヌ・ローラン(出版社勤務、ジョルジュの妻)
モーリス・ベニシュ、、、マジッド (アルジェリア人、ジョルジュの幼馴染)
ワリッド・アフキ、、、マジッドの息子
レスター・マクドンスキ、、、ピエロ(ジョルジュとアンヌの息子)


首を切られ血しぶきを上げる鶏の絵から、ジョルジュは思い出す。
こんなふうに、何かの表象から、閉じ込められていた記憶が鮮明に蘇るなんてことがあるかも知れない。
特に5,6歳頃の記憶は、その人間にとって非常に重要だ。
知らずにそのヒトの精神の基調を形造っている。

そして極めて残酷な事件が勃発したにも関わらずそれは透明化してしまっている。
それが、あるとき唐突に現実に不穏な形で重なってくる。

ここでは、自分の家を長撮りされたビデオと、血を噴き出した人~鶏などの絵である。

明らかに強い悪意あるメッセージを発しているが、それが何を謂わんとしているのか、、、
何かの糾弾なのか、要求なのか、ただの精神的苦痛を与えるだけの嫌がらせなのか?

それが誰から発せられたのかは、車窓ビデオから撮された映像からジョルジュには見当がつく。
「やましさ」とともに深くこころの底に潜めた記憶。
自己正当化しつつ認めるしかない苦い記憶に浮かび上がる相手の姿である。

6歳のジョルジュは、使用人のアルジェリア人夫妻の、彼と同年齢の子が好きになれない。
アルジェリア独立運動のデモでその使用人夫婦は亡くなってしまう。
孤児となったその少年は、ジョルジュの家庭の養子に引き取られ育てられることになった。
しかし、ジョルジュは何度もその子マジッド を不利な立場に追いやる嘘を両親に告げ口する。
彼に鶏の首を撥ねさせ、血みどろになったマジッド を、自分を脅かそうとしてしたと告げ口をしたことで、彼は強制的に施設に送られてしまう。

それ以来、彼の件は誰の記憶からも消えてゆく。

しかし、途切れたにみえて潜在する記憶~想いが唐突に現実の文脈を食い破ってくる。
それはあたかもテロのように。(すでにフランスで二度もあったが、、、原因はフランスにこそある)。
マジッドは、人気TV番組のキャスターの顔に見覚えがあった。
彼はそれを見て不意に不快な気分に襲われ、吐き気を催し彼が誰であるかを悟る。

優雅で豊かな暮らしをする彼とは正反対の貧しい集合住宅に息子と身を寄せて暮らすマジッド。
よく、ここが分かったな。懐かしい。
彼の住居を突き止めたジョルジュは、彼に詰め寄る。
わたしに何の恨みがある?君らの苦しみなど、わたしには関係ない。
何故、わたしの家族を脅かすのか!
だがマジッドは、ビデオも血飛沫を上げる絵も全く知らないと断言する。
何が目当てだ、、、何が欲しい、金か?
そんなもの何もいらない。

しかし、その後もまた、備え付けたビデオで録画されただけの(編集無しの)ビデオが、彼の家だけでなく、彼の仕事場など周囲にも配送される。
(妻がそれを見てマジッドは嘘などついていないと判断するが、ジョルジュは、マジッドの異常性ばかりを声高に主張する)。

妻アンヌの浮気に抗議して友人宅に無断外泊した息子ピエロの誘拐嫌疑もジョルジュによって彼らにかけられる。
彼ら父子は一晩、警察に拘留されるが、次の日にピエロは友人の親に車で送られてくる。


後日、ジョルジュはマジッドに家に呼び出され、目前でナイフで首を切りマジッドは自殺を果たす。
この血の海のシーンは、もう記憶の彼方に追いやることは出来まい。
と、言わんばかりである。

マジッドの息子がジョルジュのテレビ局にやって来て、彼に問いただす。
わたしの父はあなたに教育を受ける機会を奪われた。でもわたしを独りで育て上げた。
あなたに「やましさ」はないのか、、、。
ジョルジュは如何にもフランス人的な身勝手な言い逃れでその場を逃れ去る。
(ヒエラルキーは個人レベルで、民族、国家レベルで存在するが、それは一種の「やましさ」の上に辛うじて成り立つ)。


エンディングで、そのマジッドの息子とピエロが仲良く語り合っているハイスクールの門?のシーンが暫く流れて消える。
長回しの多い映画である。


誰がビデオを撮り、絵を描いて送りつけたのかは全く明かされない。
話の方も犯人探しには関係なく進んでゆく。(警察も関心を持たない)。

何というか、極めて「内面化」を誘う内容であった。
告白を迫られる、まさに西洋的(キリスト教的)な制度性を強く感じる映画である。
確かにジョルジュは原罪的な罪は犯した。
だが、それが改めてかれを酷く(二重に)苛む禍と化してゆくのが見えている、、、。
彼自身の無意識と息子の関係から。


すでに取り返しがつかないが、、、。
マジッドに教育を受けさせてやるべきであった。
少なくともその場で得たものが、彼の催した吐き気を異なる次元に昇華させていた可能性は高い。
自殺(他殺)の形をとらない復讐~創造である。




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美女と野獣 ジャン・コクトー

La Belle et la Bête

La Belle et la Bête
1946年
フランス

ジャンコクトー監督・脚本
J・L・ド・ボーモン 「美女と野獣」原作
ジョルジュ・オーリック音楽


ジャン・マレー、、、野獣 / 王子 / アヴナン(兄の友達)
ジョゼット・デイ —、、、ベル(末娘の美女)
ミラ・パレリ —、、、フェリシエ(エルの姉)
ナーヌ・ジェルモン —、、、アデレード(エルの姉)
ミシェル・オークレール 、、、ルドビック(ベルの兄)
マルセル・アンドレ 、、、ベルの父親


リメイクも良かったが、こちらを見ると圧倒される。

無邪気な世界の物語のはじまりはじまりといった感であるが、、、
ある意味、ベルは無邪気であり、話もシンプルではある。
しかしジャン・コクトーならではの驚くべきシュールで美しく格調高い映像も極まる。

まず、夜道に失意の父親が野獣の城に迷い込む。(難破を逃れた貿易船を確認しに行ったがすでに債権者に押さえられていた)。
そこで、娘のベルが欲しがっていた薔薇の花を一輪盗む。
城の主である野獣は、大事に育てている薔薇を盗むならば死をもって償えと迫る。
(花盗人の命をもらおう、とは粋な野獣である)。
父の替りに野獣の差し向けた白馬に乗って、ベルは時間(時空)を横断し野獣の待つ城にゆく。
娘のベルは薔薇の身代わりで野獣の城に囚われの身となったのだ。

その城ではレリーフ・調度品が全て生きているかのように目を開けて見ている。
(これは呪いで物に変えられてしまった召使であったか、、、)。
見えない手もあるようだ。城全体が、、、城主の野獣もまた、やはり何かの力に囚われている。

これに限らずジャンコクトーの空間はいつも捻れている。それは時間性にも現れる。


その眼差しを私に向けるな。
(わたしにはその眼差しが耐えられない)。
野獣はそれから毎晩7時には「わたしの妻になっておくれ」とベルに願う。
ベルははっきり拒否する。
その醜さからだと、、、。
(ただし野獣は普通、人より美しいのではないか、、、稲垣足穂はそう言っていたが、実際見るとそうであろう)。
しかし、彼女はその野獣の真摯な人間性には惹かれてゆく。

暫く野獣と暮らす(彼は7時の食事にしか現れず暇を持て余す)ベルであるが、魔法の鏡で見た家に残してきた父のことが心配で堪らず一時帰宅させてもらう。
野獣の城が夜でも、父の待つ街は朝だという。
鏡、金の鍵、馬、右手にする手袋、薔薇、、、を彼女は野獣から譲り受け取る。
一週間後にまた戻ってくる信頼の証として野獣はそれらのアイテムを渡したのだ。
約束を守らないとわたしは絶望して死ぬと。

彼女は右手に手袋を嵌めると一瞬にして父親のベッドの部屋の壁から現れる。
(渡された品々はみなドラえもんグッズの先駆的代物であった)。
このVFXは今現在のものに比べても質的に素晴らしい。
芸術的な抽象性が高い。
(オルフェの鏡と同様、艶かしくもあり、本物らしさとはまた次元の異なる物理を感じる)。
それを言うなら、野獣のメイクもかなりのレベルだ。もう少しライオンみたいに綺麗にしてやっても良いかとは思うが。
音楽、効果音も絶妙に合っていた。

ベルは彼女を心配する父に言う。
彼は、もうひとりの自分と闘っている。
その目を見るととてももの悲しい。
彼は不思議な力に従っている、、、と彼女は見抜いている。

ベルの家は裕福であったが、父の貿易船が遭難し、ルドビックの放蕩のせいもあり、破産していた。
意地の悪い姉ふたりに兄とアヴナンたちは、ベルを上手く利用し、野獣の財宝を横取りしようと企てる。
白馬に勝手に乗り、まんまと城までやってきて財宝を盗み、野獣を退治しようとしていた。

ベルもまた、魔法の鏡で野獣が苦しみ死にそうな姿を見て、直ぐに手袋をはめ城に戻り野獣を介抱する。
アヴナンはルドビック同様自堕落な生活を送る男であったが、ベルに求婚した間柄ではあった。
だが、ここでは狡猾な男でしかなくなっていた。
その狡猾さが仇となり、財宝を守る彫像(女神ディアーナ)に矢で射抜かれ野獣の姿で絶命する。(ベルから盗んだ黄金の鍵を敢えて使わなかった)。

それと同時に、ベルの愛の眼差しによってアヴナンそっくりの王子として彼は蘇る。
まるで入れ替わったかのように。
森の精の呪いから解けたのだった。(森の精は結構恐ろしいのだ)。


全てが済んだウルトラマンのように、夜空に彼女は王子に抱かれ飛んでいった、、、。
その王国で、父はともに暮らせるが、ふたりの意地の悪い姉は、彼女のドレスの裾持ちとして仕えることになるそうだ。

めでたしめでたし、、、。

La Belle et la Bête 002


自由を我等に

À nous la liberté

À nous la liberté
1931年
フランス

ルネ・クレール監督・脚本
ジョルジュ・オーリック音楽

レイモンド・コルディ、、、ルイ(元脱獄犯蓄音機会社社長)
アンリ・マルシャン、、、エミール(ルイの親友)
ロラ・フランス、、、ジャンヌ(ルイの会社の社員)
ポール・オリヴィエ、、、ジャンヌの伯父

チャップリンの『モダン・タイムス』への影響ははっきり分かる。
「そして誰もいなくなった」(1945)のルネ・クレール監督の「巴里の屋根の下」(1930)の一年後の作品。
形式的には「巴里の屋根の下」に近いセリフのごく少ない、無声映画タッチの作りである。
ミュージカル調に歌が頻繁に入る。


流れが実に面白い。終始ドタバタのご都合主義の展開である。
刑務所内の作業風景が表れる。
馬の仕上げの部分を、おのおので作っているようである。そこそこ面白そうなものではあるが、、、。
(そこで脱走に必要な道具を調達するのは、常套手段か)。

ある晩、ルイとエミールのふたりが刑務所の脱走を決行するが、ルイだけ成功する。
ルイが刑務所の塀を乗り越え飛び降りたら自転車に接触して、その自転車を奪って逃げたら、自転車競争で優勝を飾ってしまった。
これは強運などというものではない。
お笑いである。
ここで誰もが、感動すら覚えるはずだ。
こんなアホなことあるはずもないが、それが当然の如く、ルイは露天商から蓄音機の大会社社長となってしまう。

エミールは出所するが野原で寝転がっていた為再度拘束され、自殺を図るが鉄骨が外れて逃げ出すことに成功する。
ふたりともありえない形で娑婆に出るが、エミールはいきなりある女性に一目惚れする。
(ルイは金でエミールは女性=愛か、、、)
その女性について行った先が、何とルイが経営する蓄音機会社であった、、、。
もうめちゃくちゃな流れである。

エミールもその工場で勤めることになるが、作業形態はオートメーションで、やることは刑務所内の作業と何ら変わり無い、というよりもっと単純繰り返し作業であった。部品を台に一つずつ取り付けてゆくだけの流れ作業である。
どうやらエミールに務まる仕事ではないようだ。確かに気が遠くなるものだ。
(チャプリンも注目するはず)。
それより、そこで働く彼女のことばかりが気になる。

そんなおり、偶然多くの取り巻きに囲まれた社長に出逢う。
(ヒゲを蓄えさしずめ、トゥールーズ=ロートレックみたいな顔である)。
ふたりは直ぐに相手を認識するが、ルイはエミールを警戒する。
ルイはエミールを疎ましく思い金を掴ませ追い出そうとするが、ふたりで話しているうちに、昔の友情を思い出す。

しかしエミールを招いた晩餐会で下品な真似をし、ルイの奥さんは愛人と邸宅を出てしまう。
窮屈で形に拘る世界に嫌気もさし、妻も単に重荷であったのか、出て行かれてルイは喜んでいる。
(ある意味、社交界の反感を買うか?)
この後、彼らは次第に追い詰められてゆく。
エミールと彼の見染めたジャンヌをルイは仲介しようとするが、すでに彼女には恋人がいた。
エミールはいたく落胆する。
ルイのところに昔の刑務所仲間が金をせしめようと脅しにやって来る。
彼らを一度は追い払うが、彼らが警察に密告して、ふたは結局、悪党と警察の両方に追われる立場となる。

ルイが蓄音機新工場操業スピーチを終えた後逃げようとしている時に、悪党のひとりがルイから盗んだ鞄から疾風に乗って札が次々に舞ってくる。その式典に列席した紳士たちがみんなでそれを取り合い走り回って大混乱となる。
それを尻目に、ふたりは警察と悪党を巻いて逃げる。


ルイの発明した全自動蓄音機組立機のおかげで、従業員は皆、歌を唱って釣りやパーティをして遊び惚けていたが、通常はリストラである。ここのところが荒唐無稽で面白い。


最終的にふたり揃ってあてのない旅路につく。
まさに「自由」を得たという気持ちか、、、。
少なくとも、「愛」と「金」の幻影からは解かれ、「自由」を謳歌している表情はふたりに見て取れる。

塀の外で真面目に働けば、自由が手に入るという規範~幻想に対する皮肉にはなっているが、、、。
窮屈さから抜ければ自由になるかどうか、、、である。


詩人の血

LE SANG DUN POETE THE BLOOD OF A POET001

LE SANG D'UN POETE/THE BLOOD OF A POET
1930年
フランス

ジャンコクトー監督・脚本・編集
ド・ノアイユ伯爵製作
(芸術と貴族の結びつき)

エンリケ・リベロ(詩人)
エリザベス・リー・ミラー(彫像、ミューズ)


この16年後に次作「美女と野獣」が製作される。

途中3回眠ったが、夢の中でもシームレスに見ていたので問題ない。
ひとことで謂えば、いつサルバドール・ダリが飛び込んできても可笑しくない映画だ。
つまり詩的で私的な作品。
コクトーの想い~原型的記憶に触れられそうな。


ダルジュロスがここでも出てきて雪玉をぶつける。
同じシーンだ。
これを20年後の「恐るべき子供たち」まで温めてゆくのか。
ジャン・コクトーにとって、この雪玉投げはどのような意味~価値をもつのか?
余程、拘りのある特別で大切な個人的イメージなのだろう。
そんな気が無理なくしてくる。

掌の中の口のイメージはかなりの尺を取った。
自分の描いていたビーナス像の口が掌に乗り移ったのだ。
この組み合わせは比較的思いつきやすい造形だ。口の部分は、身体の他の位置にも比較的移しやすい。
おまけに空気を吸いたいと言って窓も開けさせる。
口を自分の体のあちこちに暫く押し付けたりした後に、実際の彫像の顔に戻すと、彼女は喋りだす。
「ミギー」はここから着想を得たか?
手のひらの中の口は、メディアとしては、ここが発祥どろうか?

「怪我をした手」に驚いて逃げてゆく男。これは一般民衆の象徴か?
「詩人の傷」と続くところから、もう充分察せられる。
しかし詩的な想像力はここからしか湧いてこないだろう。

鏡の中に入れと彫像に促されて詩人は入ってゆく。
まさに、プールにドボンである。工夫は感じるが。
これは、21年後の「オルフェ」で見事なまでに艶かく瑞々しい鏡への浸透シーンへと結実する。
鏡に入るシーンは、絶対いつかリベンジを果たそうと練りに練った計画を進めていたことだろう。
撮影・編集技術のみならず、、、。しかしそれらしく見せるという現在の3DCG的な観念は微塵もないことも分かる。
ただ表現の深度として、このプールからオルフェの鏡までは、隔世の感は否めない。
コクトーの執念を感じさせる。

3Dの面取り像を想わせる頭像の影をゆるゆる回しながらの構成シーンはとても絵として面白い。
特に何をか示唆しようというものでもなかろうが。
全てのシーンを絵としてシュルレアリスティカルに構成するとても優れた要素~アイテムだ。

そして鏡の向こうに落ちてゆく姿は、まるでブラックホールに落ちてゆくモノのように見える。
光の波長が極限にまで延びてゆき、ゆっくり事象の地平に張り付いて見えるような。
そこで彼は実際、オルフェの原型の歩行移動を図っている。
その特異な運動イメージが凡そ仕上がっているのを確認できる。
疾風と重力の強い作用を受けた「オルフェ・ウォーキング」である。
そして随時リバースも加わる。

ブラックホールの中には、幾つものホワイトホールとしての噴出口が存在し、それは重くて熱いホテルの部屋の鍵穴さながらであった。
彼は詩人の目でそれらの穴を一つずつ覗いてゆく。
声も聴く。
きっとドアを開ければ別次元の宇宙が創造されるはず。
驚く程、芳醇な原型イメージである。
特に少女の空中遊泳の特訓には強度を感じた。
これらの鍵穴からまた無数の宇宙が開闢しそうな予感に震える。

破壊、水、ピストル自殺、血、カード(エース)、、、繰り返されるイメージ。
しかし、詩人であるがゆえ、飽きる。
部屋に帰還し、ハンマーを手に取り彫像を叩き壊す(笑。
何故か自分が彫像になっている、、、。
そして雪玉のシーン。
死んだ少年の間近でかつて彫像であった女性~ミューズ?とポーカーをしている。
面白いところは、詩人が死んだ少年の胸からハートのエースを取り出して勝負に臨むが、黒い天使が現れカードを取り戻し、少年を天に連れていってしまう、、、。
これによって、詩人は女に破れ、またピストル自殺をする。

目的を果たして女~ミューズは彫像の姿に戻る。
詩人というものは常に負けるものなのかも知れない。


「不死のものは退屈によって死ぬ。」
だろうな、、、と思う。
かなり真に迫った詩人の苦闘を極めて詩的に描いている。

LE SANG DUN POETE THE BLOOD OF A POET002


ボディ・スナッチャー/恐怖の街

Invasion of the Body Snatchers

Invasion of the Body Snatchers
1956年
アメリカ

ドン・シーゲル監督
サム・ペキンパー、ダニエル・メインウェアリング脚本


ケヴィン・マッカーシー、、、マイルズ・ベネル(医師)
ダナ・ウィンター、、、ベッキー・ドリスコル(マイルズのかつての恋人)


1973年の「突破口」は実に稠密に練り上げられた面白い映画で印象に残っている。

この映画もディテールまでよく工夫が凝らされていることに気付く。
救いのなさでは、1978年にリメイクされた「SFボディ・スナッチャーズ」の方が、強いが。

話は医者であるマイルズ・ベネルの驚愕の(荒唐無稽にしか受け取られない)独白の形で最初から最後まで進められる。

少年ジミーが恐怖にいたたまれず、走って逃げだすところから始まる。

その街では、一見集団ヒステリーとも受け取れる(主に医者からすると)人々の症状が診られるようになった。
自分の夫は成りすまし~偽物だ、、、など、家族の変質に不安にかられる人が大勢出てくる。
更にマイルズの病人が皆、急に治癒してゆく。病院がガラガラになってしまった。
不可思議で不安な空気がたちこめる。


エイリアンのアイディアが非常によい。
下手なエイリアンを出されるより、「目や鼻はあるが特徴がない。死体ではない。だが指紋もない。」
誰でもない。しかし夫にそっくり。というものなのだ。
これは名状しがたいフィギュアとしか言えない。
現代美術で言えば、フランシス・ベーコンの絵に近い。
不安と恐怖を絶対に拭いきれない何かである。

更にカメラ・演出の妙に、感心することしきり。
(効果音、音響などは、如何にもという感じが強く、少し笑えたが)。
エイリアンが今まさに目覚めんとしているところをその背景から驚愕の目で認める女性を同時に枠の中にみせる臨場感、、、。
高い窓から俯瞰する、早朝の広場のいつもと同じように見えて、実は発狂して凍てついた光景の長回し、、、。
終盤のふたりの逃避行で、ベッキーが清らかな歌を耳にし希望を抱くが、実際にマイルズが見に行くと鞘を孵化させる工場であった絶望的な有様。歌声はラジオからであった。この辺の最後の希望をへし折る演出はなかなかのもの。
そしてキスをした後、ベッキーの表情が洗い流され虚ろな顔となっており、マイルズの恐怖の顔との双方のアップの対照。
ベッキーはキスのあたりで一瞬図らずも疲れと睡眠不足から眠ってしまったのだ。
わたしも実感としてよく分かる。パソコンに向かっている最中にフッと眠ってしまうこと、、、(笑。
それから、、、ふたりが逃げる際に、無気力さを装って歩くところはかなりドキドキする。
この印象的なシーンは、SFボディ・スナッチャーズにも受け継がれていた。
ここにダンプに轢かれそうな犬が出てきて思わずベッキーが叫び声をあげてしまうことで、疲労を早める逃走がはじまる。
他いくつも、演出・カメラには感心する、、、。


窮地に立ったマイルズとベッキーに彼らは真実を明かすのだった。
彼らは宇宙から降って来た種子であり、ひとが眠っている間に記憶を吸収して入れ替わってしまう種族だそうだ。
植物の鞘の形状で持ち運ばれ、トラックなどで輸送されアメリカ全土(イコール世界中か)に行き渡る。

彼らは確信をもって「愛、欲望、野心、信念などない方がシンプルに生きられる」といったようなことを語る。
確かにシンプルかも知れぬが、面白くも可笑しくもなかろうに。
ベッキーは叫ぶ「愛のない世界になんて生きてゆけない!」

何にしても、眠ったところでおしまい、というのは最も辛いゲームであろう。
これには勝ち目がない。

ベッキーの「魂は死んでしまった」。
もはや完全な他者である。
(いくら造形的に生き写しであっても、やはり人は内面を観ているのだ)。
もう独りとなったマイルズは夜のハイウェイに逃れ、走ってくる車に助けを求める。
最初に見たジミー少年となって彼は狂ったようにハイウェイで人類の危機を叫ぶ。
しかしどの車も彼を泥酔者くらいに思って走り去ってゆく。

そうしてどうにか辿り着いた地の病院で冒頭からの話をし終えたというものである。
当然の如く聞いた誰もが信じようとしない。
だがそこに、トラックの横転事故のドライバーが運ばれてきた。
何やら妙な積み荷の中から助け出されたという。
その荷が巨大な鞘のようなものであったという報告がなされる。
「そのトラックはどこから来た?」「サンタミラです!」
マイルズの話を聞いていた警官が直ぐに表情を強張らせ緊急配備の指令を出す。

「SFボディ・スナッチャーズ」より希望のあるエンディングである。
マイルズとしては、ベッキーを失っており、もう夢も希望もないかも知れぬが、、、。


Invasion of the Body Snatchers002


ファイナル・デスティネーション

また息抜きにただ見ていれば良いと思える映画を。
以前、見る前に家族によって消されていた宿命の?映画がまたロードショーで入っていたので、見てみた(笑。
Final Destination

Final Destination
2000年
アメリカ

ジェームズ・ウォン監督


デヴォン・サワ、、、アレックス・ブラウニング(死の兆候を幻視する高校生)
アリ・ラーター、、、クレア・リバース(直感鋭い女子高生)
トニー・トッド、、、ウィリアム・ブラッドワース(葬儀屋)
カー・スミス、、、カーター・ホートン(粗暴な高校生)

アリ・ラーターはバイオハザードでも活躍している。

「最終目的地」シリーズ第一弾目である。

監督は違うが、2の”デッドコースター”と手法・内容は似たものに思えた。
勿論、シリーズものなのだから、製作者からそのように要請されているはずだ。
寧ろその基本フォーマットをここで作ったと言えるか。
つまり、死神ピタゴラスイッチの確立である。
その後複雑さを増して、、、興行収入の高い、人気シリーズを維持する。


主人公アレックスが、修学旅行で自分たちが搭乗する飛行機の凄まじい爆発事故の予知ヴィジョンを目の当たりにしてしまう。
彼が機内で叫び暴れたため、アレックスとそれに関わった他5人と引率教師1人は、強制的に降ろされ、その通りに起きた事故に巻き込まれずに済む。
だが、死のシナリオは出来上がっており、助かったと思った6人は次々と死に追いやられる。
その死に方も、物体の動きの連動により致命傷を与えられるという手の込んだもの(ゲーム性の濃い)。
(ただし、この第一作目ではその連動はそれ程、手の込んだものではなく、ピタゴラ初級編とでも言いたいものである)。

ジョン・デンバーが死の象徴いや予兆の歌手として何度も音楽がかけられるのも面白い。
(彼も飛行機事故で死んでいる)。

ずっとシリーズに出てくる、超越的な位置に立つ葬儀屋ウィリアムとは何者なのか。
やけに死(死神)について詳しいし、物語からも半ば超脱している。

ホラーというと、何やらジェイソンに代表される殺戮鬼が、たまたま生贄になる人物を、ジワジワとまたは唐突に襲い無残な殺し方をする。その殺しまでの過程は、こちら観客には超越的に俯瞰できる特等席が多く用意されている。
後はどんな殺され方をするのか、が興味の対象となる。
しかしこのシリーズは、われわれもほとんど、主人公および彼らと同じ身体的目線でリアルタイムで辿ってゆくしかない。
しかも、何者かによって殺されるのではなく、「死」そのものに意図も分からず呑み込まれてしまうのだ。
殺す主体がいてそれによって死ぬのではなく、定められた「死」の運命が発動されるのだけなのだ。
明確な対象の無い分、回避が酷く困難となる。
基本的に主体(主格)がなく、運動(述語)のみがあるのだから。
だが、見かけ~心情的には死という「存在」として、何やら実体化を帯びてくる。
彼らにとって擬人化してゆく。わたしはそのため、「死神」という呼び名を取り敢えず使ってみた。
しかしどうあっても、やはり掴みどころのない、全く救われようのない事態であることに変わりない。

この曖昧さがこのゲーム感覚の殺戮のリアリティを強固なものに逆にしている。
原因の探りようのなさ、意味の不明、不条理性において「死」という概念は絶対的な場所にいる。
ここではさしあたり、リストアップされた人間(九死に一生を得たと思いきや実は死ぬ運命にある)という範囲・設定での、生き残りを賭けたデッドレースという形で展開するとは言え、何故、そんな律儀な死の順番や連鎖があるように見えるのか、、、そのへんからして皆目、分かってはいない。「死」とは絶対なのだ。世界の縁である。

特異なクリーチャーやサイコ、悪魔を捏造する手間がない上、その成り立ち、由来や殺戮の意味の説明も不要で、死に方さえ面白くすればよい。
そこで、このシリーズでは、連鎖の順番の割り出し、予兆と回避、(日常的な)物の連動による殺害方法のシステムを工夫することに注力することになる。
それだけで物語の骨格は概ね出来てしまうだろう。
後は、登場人物の肉付け程度か、、、。

アイデアを更新し、マンネリを回避すれば、シリーズは寅さんに負けないくらい続けられるのでは。
NHKのピタゴラスイッチもずっと続いている。

頑張れ「ファイナル・デスティネーション」!(爆。





双頭の鷲

L AIGLE A DEUX TETES001

L' AIGLE A DEUX TETES
1947年
フランス

ジャン・コクトー原作・監督・脚本

エドウィジュ・フィエール、、、(女王)
ジャン・マレー、、、スタニスラス(無政府主義者)

冒頭で「これは史実ではなく虚構であり、観客は現実と虚構とを混同無きよう。」とわざわざことわっている。
オーストリア皇后エリザベートに着想を得て作った戯曲を元にしているというが。
観客は、その虚構に酔いたいがために映画を見るのだが、何故敢えてそれを、ことわるのか、、、。
非常にノーブルな主人公ふたりの演じるこのファンタジーを見ているうちに史実と思えてきてしまうからだろうか。
しかし、それはそれで観客に任せれば良いことである。
コクトーの自信の現れであるか。


婚礼の日にクランツの城へ赴く途上、愛する王を暗殺された女王は、10年後の舞踏会の晩、王に生き写しの暗殺者(無政府主義者)に邂逅する。
というより相手が窓から転がり込んで来るのだが、、、最初は彼女の問いかけに彼は一切何も応えない。
彼はアヅラエルというペンネームで女王を誹謗中傷する詩を秘密出版物に掲載していた人物でもあった。
しかしその実、彼女への漠然とした叶わぬ(届かぬ)愛も胸に秘めていた。
初対面で、ふたりは恋愛感情を抱いている。それに贖おうとは内心しているが、、、。

女王は国民の信頼を得て国を治めていたが、亡き王の母君の大公爵夫人の権力が強く、また富豪やそれと結びついた(正確には手先の)警察が力を振るっていた。
女王は刺客を匿うが、書斎の隠し部屋から彼女を訪問した警視総監フェーン伯爵の言動を具に見て事の次第を知る。
自分は利用されていた。
スタニスラス(女王は彼の名を詩集から知っていた)と女王は本心で語り合い始める。

(何より)詩人である。彼は女王の朗読係に任ぜられる。
その時の「ロミオとジュリエット」の朗読が極めて音楽的で美しい。
(わたしもあんな朗読係が欲しい、、、と心底思った)。

最初はベールを被り、気丈でミステリアスな女王という雰囲気であったが、顔を見せてから非常に美しさが際立ってくる。
特に出で立ちが余りにスマートである。また鞭で調度を叩いたりする仕草などにびっくりする(笑。
後ろ姿には、フリードリヒの描く貴婦人の孤絶した凛々しい美を湛える。
(そう、常に死と隣り合わせで生きている研ぎ澄まされた気品だ)。

だが、体操と称してブランコしているところなど愛らしい。
まさに魅惑の女王以外の何者でもない。
しかし、彼女を亡き者にせんとする権力が厳然とあった。(王家は実質ほとんど実権はない)。
スタニスラスはやがてはっきり気づく。
彼を操っていた勢力こそが帝国主義であり、彼女は自分同様のアナキストであると。
彼女の所作は、アナキストの颯爽としたものだ。
(かつてハーバード・リード卿が「わたしはアナキストである」と公言していたことをふと思い出す、、、実にカッコ良い)。

もう彼らは、片方が死んだら、もう片方も生きてはいられない、、、という世界である。
女王の背中を刺すスタニスラス。
彼の目から溢れる涙、、、。
ここで至上の愛を確認しあう。
もはや一心同体~双頭の鷲である。

高い城での、重厚なエロスとタナトスの大舞台であった。

L AIGLE A DEUX TETES002
飛び切り際立った主演ふたりの映画である。


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恐るべき子供たち

Les Enfants Terribles003

Les Enfants Terribles
1950年

フランス

ジャン=ピエール・メルヴィル監督・脚本
ジャン・コクトー原作・脚本


ニコール・ステファーヌ、、、エリザベート(ポールの姉、モデル)
エドゥアール・デルミ、、、ポール(心臓を病む弟)
ルネ・コジマ、、、ダルジュロス/アガータ(瓜二つの悪ガキ/エリザベートのモデル仲間)
ジャック・ベルナール、、、ジェラール(ポールの親友)

ジャン・コクトー原作(更に監督・脚本)の映画で、わたしは「オルフェ」が好きなのだが、これは苦手である。
どこが苦手かといえば、もうエリザベートである。
女性の魔性であるといえばそれまでだが、わたしはもっとも受け入れがたい対象である。
もっといえば、一番嫌いなタイプの女だ!(笑。

映画芸術を堪能(分析とか)するとか、どうとか言う前に、この女の存在自体がいらいらさせて集中して見れない。
こういう女と一緒に居れば誰だって心身を病み死んでしまうだろう。
(それとも無意識的な共犯関係にあると言えるか?いや、ポールの本当に愛していたのは、ダルジュロスである。やはり姉は邪魔~近親憎悪の対象である。だが離れられない相互依存関係も強固にある)。

この本は、姉弟愛というより姉の弟に対する近親愛と弟の同性愛が基本となっている。
姉の愛情表現は、姉弟であることから、ひたすら激しく罵る攻撃の形をとる。
そうしながらふたりは極めて深く離れがたく運命的に繋がってゆくのだった、、、。


終始、エリザベートはけたたましく怒鳴り威張り散らしていた。
自己中などという生易しいものではなく、ヒステリーでもあり、近親相姦的な独占欲に満ち満ちている。
姉弟のこの関係はサド・マゾとかにも似た、感覚的麻痺状態も見受けられる。
究極の姉弟愛とか文学的に美化できる代物だろうか?
少なくともわたしの趣味ではない。

「オルフェ」には大変魅了されたものだが、これはどうにも頂けない。
姉と弟の罵り合うばかりのこの狂態に生理的に息が詰まってくるだけなのだが、、、
(ちょっと、うちの娘の喧嘩に重なるところがある)。
これは彼らの不可避的に置かれた閉塞空間によるところが大きい。
彼ら自身にとっても、それを見るわれわれの視覚~精神にとっても、この空間は禍々しく作用する。
その閉塞性は、単に空間的に閉ざされているだけではなく時間も止めてしまいふたりの異様な引力の濃密さを増してゆく。

早くに学校を辞めることは、体系や関係性から学ぶ知が身に付かないことを意味する。
時間性(歴史)と変化から閉ざされてしまうだろう。
他者のいない独学は悪い意味での奇形的な知性・趣向と感覚・感性を育ててしまう可能性が高い。
その思春期の姉と弟ふたりの濃密な時空がただ堆積するばかり。
(コレクションにもその一端が窺える。眠るときに身の回りに集める物にしても)。
恐るべき子供ができてもおかしくはない。
(勿論、必ずそうなるというものではないが)。
この場合、結果を遡行すれば、そこにそれ相応の原因が認められる。
(しかし逆は必ずしも成り立たない。柄谷行人がかつていったように)。

その場に、ポールの親友であるジェラールと姉の同僚のアガータが加わるにしても。
そのアガータはかつてのポールの畏友ダルジュロス(札付きの悪ではあるが)に瓜二つであり。
ポールは会った時から彼女が脳裏から離れず、やがて激しい恋心となって彼を苦しめる。
かつてダルジュロスに彼は強く惹かれていたのだ。
アガータの方もポールに恋してしまう。
ジェラールはエリザベートを只管思い続ける。
エリザベートはしかしポールと一心同体で彼を他人に渡す気など微塵もない。
何とエリザベートは、ユダヤ系アメリカ人のミカエルと唐突に結婚してしまう。
(ジェラールは当然落胆するが、ポールに姉離れを意識させる)。
しかし夫は直ぐに自動車事故で死に、大邸宅と財産が彼女に残る。
彼らはその18部屋ある邸宅に住む。

Les Enfants Terribles002

ポールとアガータの双方の気持ちを知ったエリザベートの奸計で無理やりアガータとジェラールは結び付けられ、ポールは日に日に衰えてゆく。夢遊病も再発し深刻な状態となってゆく。
新婚旅行先でジェラールがダルジュロスに偶然出遭って、ポールがコレクションをしている「毒」を持ち帰った。
ポールは、それを呑み自殺を図る。
彼が死ぬ前に、アガータにこころの内を全て伝える。
彼女はエリザベートに完全に騙されていたことを知る。

しかし最期のエリザベートの開き直りは、芸術的ですらあった。
全ての自分の行いを完全肯定して「悪」を全面的に引き受ける。
これを悲劇と言えば、そうだろうか。
エリザベートの倒れたところは、まるで舞台である。
途轍もない空疎な劇を4人で演じていたように思えた。

最期のシーンには、いくら予定調和的であり、見通しがはっきり付いているにせよ、劇的なインパクトが確かに感じられた。
終わりよければ全てよしか、、、?

荘厳に鳴り響くひたすらドラマチックなバロック音楽は、少し過剰だがよい演出になっていた。


Les Enfants Terribles001

巴里の屋根の下

古典名作を見てみるシリーズとして、「巴里の屋根の下」を。
Sous les toits de Paris001
カメラワークがまさに巴里の屋根の下である。

Sous les toits de Paris
1930年
フランス

ルネ・クレール監督・脚本
ラウール・モレッティ主題曲

アルベール・プレジャン、、、アルベール(楽譜売り)
ポーラ・イレリ、、、ポーラ(魅惑する女性)
エドモン・T・グレヴィル、、、ルイ(アルベールの親友)


ルネ・クレールの15年後の作品、「そして誰もいなくなった」は、圧倒的なストーリー、プロットの巧みな面白さに感心したものだが、、、
この作品は全く異なる質感を放つ。

古き巴里の街並み。路地。夜景。石畳の通り。カフェ。アパルトメントのひと部屋。列車の汽笛。
軟らかい光のトーン。影の階調。全てがセットらしい。ちょっと、抽象的な幾何学を感じるものだ。
ラウール・モレッティによるシャンソンが流れ続ける。
最初と最後の(特に最後の)シャンソンは染みる。それはまた、屋根から屋根の俯瞰でもある。

舞台劇を見るような感覚である。古き巴里という舞台。
サイレント映画の雰囲気も演出に効果的に使われている。
そこにミュージカル的要素も。セリフはとても少ない。
アルベールが歌いまくる。歌の楽譜売りという仕事も如何にも巴里で粋なものだ。

そしてスリさえも芳醇な文化のひとつに思えてきてしまう。
ナイフを光らせた喧嘩にしても、、、夜の石畳を自転車で走るポリスも、、、。
別に個々の人物たちの文化水準~知性や教養が高いとかどうとかではなく、、、
結局、巴里の街が詩的で芳醇な場所なのだ。

何処も詩的な絵である。
全編、粋である。
ポーラはミューズか、、、小悪魔か、、、ルーマニア出身というのも特別な意味をもつか。
男たちは彼女に惑わされる。そういうものなのだ、、、。

実にフランスらしい。
またこの時期のファッションがよい。
特に女性のこの帽子?でよいのか、、、このファッションが好きである。
Sous les toits de Paris002
タマラ・ド・レンピッカの写真や絵で見て、妙に未来派的だと感心していたものだ。

写真といえば、アッジェの写真でも見た記憶に残るパリの光景である。
間違っても、ウディ・アレンの映画のパリの絵ではない。
ことばを出来る限り削って、汽車などの環境音を効果的に使用し、音~トーキーにおいて極めて自覚的に実験的なアプローチを図っていることが分かる。ウディ・アレンの対極にも思える。
言葉がやたらと消費されている現在、このような自覚を持って映画制作をしている人がどれだけいるだろうか、と思った。


アルベールはポーラに恋心を寄せ、彼女も応じていたかに思えたが、彼が盗みのとばっちりで投獄されていた間に、親友のルイと良い仲になってしまっていた。
アルベールは彼女を諦めて、また元の生活に戻る。
歌とともに。

やはり最後の歌が良い。
この映画のように、日々も反復する。

Sous les toits de Paris003

世界侵略 ロサンゼルス決戦

息抜きにアクション映画を見た。
Battle Los Angeles

Battle: Los Angeles
2011年
アメリカ

ジョナサン・リーベスマン監督
クリストファー・バートリニー脚本

アーロン・エッカート、、、マイケル・ナンツ二等軍曹
ラモン・ロドリゲス、、、ウィリアム・マルチネス少尉
コリー・ハードリクト、、、ジェイソン・ロケット伍長
ミシェル・ロドリゲス、、、エレナ・サントス技能軍曹

こういったアクション映画では顔馴染みのミシェル・ロドリゲスが出演。
バイオハザード、アバター、ワイルド・スピードなどで存在感たっぷりな個性を魅せる。

突然異星人が侵略してきて、いきなり凄まじいとは言え、地上の通常兵器スケールの対戦が巻き起こる。
中盤から侵略者の姿や兵器、宇宙船が顕になるが、それまではどこかの別の強国との戦争にも想えるものだ。
前半姿を見せない攻撃というのも、演出上うまい。姿なき敵はなかなか全貌を見せない。
しかし徐々に実態が見えて来る。そして対個体的には、全く歯の立たない相手でもないことを確認する。
残虐で強靭な他者であるが、太陽系外からやって来た割には、歩兵による肉弾戦や空中戦にしても地味である。
確かにエイリアン側の方が優勢で地球の軍(アメリカ海兵隊)は押されっぱなしではあるが、、、。
別に地球人のスケールレベルに合わせなくともよかろうに。自分たちもかなりの犠牲を出しているのに。
もう少し効率的な手立てを講じないのか。

世界中の主要都市に隕石のように襲いかかって来たようだが、映画で見せているのは、ロサンジェルスにおける攻防である。
引退を考えている主人公ナンツ二等軍曹は、最後の勤めということで海兵隊第2大隊エコー中隊第1小隊に配属される。
彼らに与えられた任務は激戦区サンタモニカの警察署に残っている民間人の救出という困難なものであった。
その一帯は、3時間後には空爆に曝される場所であり、救出のタイムリミットもある。

だが、何人もの海兵隊員を失いつつも、民間人を保護しバスで爆撃場所を離れるが、時間を過ぎても爆撃がない。
自力でどうにか前線基地にたどり着くも、そこはすでに壊滅していた。
敵の強大さを実感する主人公たち一行。
途中で合流した空軍の生き残りのエレナの情報から異星人の指令センターが存在することが分かり、それを破壊することで圧倒的不利な戦況を変えることも可能であることを知る。彼女はそれの位置を探る任務に就いていた。
敵の戦闘機は全て無人コントロール機であり、軍の無線を探知して素早く攻撃してくるシステムである。
彼らは民間人(幼いこども含む)を伴いつつ、捨て身の敵の中央指令センター破壊に向かう。
次々に隊員が犠牲になってゆき、輪を掛けて凄まじい戦いが繰り広げられてゆく。

ナンツ二等軍曹を中心にしたエイリアンに立ち向かう小隊の戦いだけにフォーカスしたアクション映画である。
規模を一点に狭めてそこでの息詰まる激戦を描き抜くという手法は見事に成功している。
従来の文法に従った安定したカメラ・演出による作りであるが、ただ激戦シーンにのみ絞り込んでいるため余計なノイズが入らずブレない。
こちらとしては、只管主人公に寄り添いハラハラしながら観ていれば良い。
ただし人物像が濃くなった隊員が任務を果たした矢先に敵に倒されたりすため、感情的にも目が離せなくなる。
誰が次にやられるか、分からぬ切羽詰まった状況になる。
終盤の文字通り捨て身のアクションの連続はかなりの緊張感で迫る。
部下が次々に命を落としてゆく隊長の苦悩と宿命も同時に描かれる。

最後は敵の指令母船をレーザーで誘導したミサイルで打ち壊し一気に戦況を逆転し、基地に戻ったばかりで敵を追い詰めるべくまた戦地に赴いてゆくところで終わる。彼らのハイな身体状態にこちらも一体化する。

シンプル極まりない稠密な作りだけあって、スリリングに昂揚する時間が過ごせた。
こういう映画もたまに見る分にはよいと思う。


Battle Los Angeles002

どん底

Les Bas Fonds

Les Bas-Fonds
1936年
フランス

ジャン・ルノワール監督
マクシム・ゴーリキーの同名の戯曲原作

ジャン・ギャバン、、、ペペル(コソ泥)
ルイ・ジューヴェ、、、男爵
シュジー・プリム、、、ワシリーサ(ナターシャの姉、コスチレフの妻)
ジュニー・アストル、、、ナターシャ(ワシリーサの妹、しかし孤児であった)
ウラジミール・ソコロフ、、、コスチレフ(安宿の主、故買者)
ルネ・ジェナン、、、ルカ

翌年のルノワール監督作品「大いなる幻影」にもジャン・ギャバンは中尉役で出ている。


「どん底」というが、そこは意外にカラッと明るい。
フランス風のロシアであろうか、、、。
(ジャン・ルノワール監督の個性から来るものとも思える)。
その安宿には、貧困と搾取と妄想と死が常に漂ってはいるが、、、。
人物に対するカメラワークが新鮮に感じられた。


ペペルと男爵は何故か親友となっている。
忍び込んだ先で意気投合というちょっと既視感もある設定(この映画が最初にしても)は感じるが。
片や文字通り泥棒、片や公金横領して賭博三昧という、両方とも立派な犯罪者であることには変わりない。
お互いに今の生活には区切りをつけようと思っていた矢先であった。
男爵は文字通りこの世ともおさらばするつもりでもいたのだが。

男爵は屋敷や家財を全て差し押さえられ職も解かれ、ペペルの安宿にやってくるが、草原で寝そべる生活にいたく感動する。
貧困が一義的には描かれていない。
「どん底」ではあるが、そこも住めば都的な面はある。
物事何においても両義性はある。
しかし、その安宿を誰もが本来自分がいるべき場所とは思っていないところでは、全員一致しているようだ。
そういうものだろう。
人間どこでどんな生活を営もうと、そこにピッタリ安住できるものではない。仮の宿なのだ。
何らかの過剰さによって、そこからはみ出ていってしまう。
(それにしてもあの過激なアコーディオン弾きは何者であろうか?まずロシアにはいまい(笑)。
そして何より、人生は服を着替えるようなものである、という男爵の達観、というか認識は流石である。
きっと、ペペルもこの清々しさにもっとも共感したのではないか。
(シュールレアリストたちも、シャツを取り換えるように考えを替えると言っていた。同じだ)。

ナターシャはいつもシンデレラのようにこき使われている。
ワシリーサに拾われた妹分である立場の弱さからであろう。
この物語は互いに惹かれ合っているペペルとナターシャを軸に動いている。
そこへ如何にもという太った役人が宿の監査をちらつかせて、器量良しで働き者のナターシャを嫁にしようと迫ってくる。
これはペペルを自分のものにしたいワシリーサにとって一石二鳥の好機である。
是非ともという勢いでコスチレフと共にナターシャを役人のもとへ生贄に差し出そうとする。
ペペルは早速、役人を懲らしめ、嫌がるナターシャを折檻したコスチレフを宿の住人みんなと殺してしまう。
ペペルは投獄されるが程なく出てきて、ナターシャに出迎えられる。この辺の流れも明るくカラッとしている。

この安宿を希望を胸に出て行くもの。出て行く先に絶望して首をくくるもの。取り合えず残るもの。そこで衰弱して死ぬもの。様々である。
しかし、やはりそこはフランス風(ルノアール流か)。
恋愛がもっとも大きな力を呼び、一歩を踏み出す希望の光となる。
冷たい言葉が首をくくらせもする(遺産をせしめ喜び勇んで出て行くワシリーサのような女もいる)。
ペペルとナターシャとは愛を成就させハッピーエンドである。
警官が横を通り過ぎても、もう動じない。
それはペペルの理想としていた生活であろう。
金はないが解放感で一杯のふたりの光景で終わる。


男爵の存在が妙に中途半端であった。
血の気が多く逞しいペペルと飄々として粋な男爵との間のやり取り~シーンがもう少し、観たかった。
ジャン・ギャバンとルイ・ジューヴェのコンビの絶妙な渋さがたまらない。
出逢いの場面を観て、「真夜中のカウボーイ」の原型か?と期待してしまったのだが、それは最初だけであった。
ルカの存在もこじんまりしていた。
  
ペペルとナターシャ中心の物語といえる。
このハッピーエンドは正しい。
思わずピクニックに出たくなる。



禁じられた遊び

古典に暫く戻ってみたい。
Jeux interdits

Jeux interdits
1952年
フランス

ルネ・クレマン監督・脚本
ナルシソ・イエペス音楽

ブリジット・フォッセー、、、ポーレット
ジョルジュ・プージュリー、、、ミシェル・ドレ
リュシアン・ユベール、、、ミシェルの父
ジュザンヌ・クールタル、、、ミシェルの母


ポーレットが両親を失ったことを実感するのは、ミッシェルから引き離され孤児院へと向かう最後の最後であった。
「ミッシェル」と講堂に響く声が自分とは何の関係もない他者に対するものであることに彼女は慄然とする。
ここで初めて自分が世界の真っただ中でたった一人であることに驚き、恐怖に怯える。
最後の「パパ、ママ」という声の意味と謂えるか。

それまで彼女は、自分の身に何が起きたのか認識していない。
周りの人のほぼ口真似で、両親が橋で死んだとは言っているが、それが何であるのか分かってはいなかった。
幼い女の子にとって、拾い主のドレ家の生活はそれ~喪失を認識するための体験の数々であったのかも知れない。
戦禍の匂う田園風景には、生と死は常に間近にあった。
ドレ家の人々は思慮は足りないが素朴で活き活き生活を営んでいる。
そのなかで、やらなければならないことがあった。

自分でも意識できない外傷経験を癒すための十字架集め。
十字架とは、ミッシェルに教えてもらった通り神様である。
それが幼い彼女には必要だった。
禁じられた秘密の祭壇作りをしなければならなかった。
自分の愛犬を失った悲しみを埋める行為が発端であったが、こころに失った大きなものを埋めてゆく終わりのない行為となってゆく。

妬み嫉みの自己中な大人の事情(神父も含む)を他所に、二人が行う作業こそがある意味、自然に沸いた宗教的な儀式であろう。
これこそ無意識の本物の墓であり、モニュメントでもある。

十字架の場所を教えたにも拘らず、ポーレットを厄介払いして捨てた大人に対する怒りで、ミッシェルは彼女と二人で作り上げた祭壇を破壊する。
これは、ポーレット同様、いや彼女より見えている(意識している)分、彼にとり極めて過酷な現実であった。
ミッシェルも決着をつけなければならなかった。
彼の禁じられた純愛もろとも、、、。


幼い二人の演技が鬼気迫るものであった。
どれだけこの世界観を理解して演じていたのか、、、。
このふたりの存在でこの映画は、永遠の名作として残るはずである。
余りにスタンダードなギターのアルペジオと共に。


「禁じられた遊び」は、大人のやる「戦争」であることもよく分かる。

迷子の警察音楽隊

The Bands Visit

The Band's Visit
2007年
イスラエル(イスラエル・フランス・アメリカ製作)

エラン・コリリン監督・脚本
ハビブ・シェハーデ・ハンナ音楽


サッソン・ガーベイ、、、トゥフィーク(隊長)
ロニ・エルカベッツ、、、ディナ(レストラン女店主)
サーレフ・バクリ、、、カーレド(隊員のひとり、バイオリン担当)
カリファ・ナトゥール、、、シモン

何と言っても音楽が良い。
通常わたしは、サントラに興味を抱くことはないのだが、ここの民族音楽には惹かれ聴いてみたくなった。
エジプトの古典音楽を聴きたくなった。
これが一番大きい。


エジプトのアレクサンドリア警察音楽隊の8人の隊員がイスラエルに招かれ空港に到着するが、何故か迎えが来ない。
一行はペタハ・ティクバにあるアラブ文化センターに行かねばならない。
そこで演奏をするのだ。

隊員のひとりが、大使館に助けてもらおうというが、隊長はこれまで通り、自力で行くと主張し、バスを探す。
カレードにそれを調べさせるが、ベイト・ティクバに間違えて着いてしまう。
迷子になり一行は途方に暮れる。
怒った隊長トゥフィークは、帰ったらカレードを首にすると伝える(笑。
最初からこれは、言語でズレ、引っかかるタイプの映画かな、、、とは思う。
(確かにそうだが、英語で結局思ったよりスムーズな流れで進行してゆく)。

着いた先は、もう引き返すバスもなく、ホテルもない寂れた街であった。
次の日の夕方が演奏の日なのだが、朝まではどうにも動こうにも動けない。
朝食も食べていない彼らは、結局レストランの女主に食事と一晩の宿舎のお世話になる。
不幸中の幸いというか、とても世話好きの太っ腹(外見は大変スマートな美人)の店主が、堅物で強情な(誇り高い)隊長を懐柔して3つのグループに分けて(自分の店と隣の奥さんの家とに)泊まらせるのだ。いい人だ。

イスラエルとアラブ諸国は緊張関係にあると認識しているので、エジプト(アラブのオピニオン・リーダーの立場の国)からイスラエルへというのは、ちょっと政治的な軋轢とかが入る映画だろうか、、、と少し身構えたが、始まってすぐその手の映画では無いことを悟る。(その手の映画であったら、直ぐに止めて別のを観る。うんざりなのだ)。
ここではどこにでもある市井の人のレベルでの触れ合いであり、政治などが入り込む隙間はない。
例え日本と韓国であっても基本的に変わるまい。いや、同じ日本人同士の初対面の関わりだってほぼこんなものだ。
一般人(生活者)レベルでの交流空間は、もうどこであっても似たようなものになっているはず。
気が合えば合うし、合わなければ、例え隣人同士だろうと全く合わないものだ。
ただし、宗教・文化・習慣上の齟齬は不可避的に表れる。これは仕方ない。
ムスリムであれば、一晩無理を言って泊めてもらった(隣の)家の奥さんの誕生日であろうと、ワインを勧められるまま飲む訳にもいくまい。「誕生日おめでとうございます。幸多かれとお祈りします。」が精々のところ、、、。隊員がワイングラスをウジウジ弄っているとそれは洗ってあるわよ!と奥さんに怒鳴られる。
これは仕方ない。とは言え隣の国でしょっちゅう戦争している間柄でその辺のこと知らないのかな、、、(戦争はまず徹底した情報収集が前提としてある。少しは一般にも隣国の情報は入っているだろうが)。後でオレンジジュースが代わりに置かれてあったのできっと誰かが気づいたのだろう。
音楽に関しても、国境は無いとは言え協奏曲を作りかけている隊員の演奏する曲には冷たい反応しか残らない。
しかし店の従業員との間では協奏曲に対する話は微妙に深まる。
そしてその家族と一緒に隊員たちも歌うなかで、取り合えずシコリは失せてゆく。

更に恋愛に関しても、国境は無い(笑。
カーレドとパピと若い女性の間のローラースケートのバー?でのやり取りは、まさにそういうものだろう。
プレイボーイのカーレド(エジプト人)の指示通りにパピ(奥手のイスラエル人)が連れの女性に接する。
結果、うまくゆく、、、笑える場面である。
この映画、随所にニンマリできるシーンが散りばめられていて単純に面白い。

しかし、隊長に明らかに自分に思いを寄せる綺麗な女主人に対し、(真面目な)彼は受け止めることを留まる。
自分の身の上話などは打ち解けて話し、共感と親和性は充分に持つに至ってはいるが。
その為か、夜はカーレドに身を任せてしまう。それを物音で目覚めた隊長が目撃するシーンが唯一、重酸っぱく切ない。


この物語は、そんな一晩の話である。

最後その女性と手を小さく振って別れる。それがこの隊長のぎりぎりの自己解放か、、、。
隊員全員が世話になった女性や従業員にとても良い顔で手を振っている、、、「この顔」の見える関係がホントの平和への一歩を築くのだと思えてくる。カーレドに対する隊長の眼差しもとても暖かいものに変化していて、この隊自体にも変化が生じていることが受け取れた。

非常によい映画であった。
「レニングラード・カウボーイ」よりよかった。
「パリ・テキサス」に近い味わいであった。

あの堅物隊長がヴォーカルで、生の謳歌みたいなのを思い入れたっぷりに感情込めて歌っている、、、その表情が全てを語っていた。最後の無事開催できた演奏会で閉じるところは、まさに正しいエンディングであろう。
この民族音楽は聴いてみなければ、、、。

パラレルワールド

Morgan Freeman

ドラえもんでもお馴染みである。
モーガン・フリーマンのナビゲートする科学特集番組でやっていた。
「パラレルワールド」
その番組をとっかかりとはするが、またほとんど違うことを書き出すことだろう、、、いつも通り(笑。

映画で過去に戻ったり未来に飛んだりという安易な物語がよく作られるが、パラレル・ワールドで一つ作ってみたらどうだろうか、、、と、思った。
最近の科学は、ミクロと広大なマクロの世界に別次元の世界の手がかりを見つけている。

今回も(以前も途中から見ているのだが、、、時間の話で)。
何人もの博士が出てきて、刺激的な話はしてくれている。


まず、無限である。
無限であることを前提にすると、統計学上、ありえないことが起こる可能性が生じてくる。
全てのパタンは反復する。微妙な差異を伴いながら。
となれば、無限の果てまで探しに行けば、どこかで自分と同じ存在が、自分とは異なる生を営んでいる可能性がある。
ウッディ・アレンではないが、人は生の現実に常に不全感を抱いている。
別のもっとましな生活をしている自分という幻想に憧れる。
しかし、ここではそれが理論上は存在し得るということだ。

それはまた、究極の何でもあり理論で、ドラえもんにぴったりでもある。
ご都合主義の映画にも持ってこいに思えるが。

一つ疑問なのは、観るということは何であるのか、、、。
その定義が分からない。
観察、測定により、一つの粒子が異なる場所に同時に存在している(確率的に)のを、ひとつに確定してしまう行為というが、、、。
そもそも観るということは何なのか。
このことが、保留されたまま話はどんどん進む。

測定前の全ての存在は消え去ったりしない。
それらは、それぞれ別の次元で現実化するという。
掴みどころのない飛躍に聞こえる。

量子力学的運動をわれわれのスケールの日常空間に無理やり当て嵌めようとしているようだ。
だから、自分の分身があちこちにいるような話になる。
それでもよいのだが、現実的展望はない。

ただ、観えないのと存在しないことは、別のことである、というのはその通りだと考えられる。
しかしだからといって別の存在が別の次元(世界)で生きていても、それは原理上知ることはできない。
一つの現実を選び取っても、まだ他の現実が消え去った分けではなく、別次元でそれは現実化されているという考え。
この認識には前提として、それら多次元の世界を包括的に(俯瞰して)観ることのできる超越的な立場の存在が措定されている。
彼らは単に帰納的に(論理的な推論から)それを述べていると言うにせよ。
宗教的な匂い~枠も感じる。

ともかく論旨の根拠は、どのような物体も複数の箇所に同時に存在できることを証明できれば成り立つと考えているのが分かる。
シュレディンガーこのかた、量子の振る舞い~観測の問題で、ミクロレベルでの認識(確率論的な位置と運動の関係)は周知のとおりであるが、物体レベルとなると、どう話を持ってゆくのか、、、。
番組では単に、わたしだって原子の集まりである以上、同じように他の世界に存在してもよいはず、というだけのもの、、、。
他の博士によって、絶対零度に近い低温下で、金属片を使った実験がなされていた。
そこでは、金属片そのものが量子的振る舞い~振動をしていたという。

そして、マクロ、、、大宇宙においては、まず反物質から話を始めている。
ビッグバンで生じた反物質の世界をパラレルワールドとして。
正直、インフレーション理論をもとにしたパラレルワールドについては、何を言いたいのか分からなかった。
ブレーンワールド~膜宇宙については、イメージがつきやすいものだった。
膜自体は相互作用はないパラレルだが、相互の重力を観測することはできる。
重力場が巨大になると、二つの膜が繋ぎとめられる。
その場所こそがブラックホールだと、、、。

ブラックホール内の物質はエネルギーは保存したまま、ホワイトホールとして噴出する。
その現象こそがビッグバンである。
つまり、ブラックホール~臍の緒を通ってパラレルワールドとわれわれの宇宙は繋がっている。
パラレルワールドからの情報(メッセージ)は、すでに伝えられている。
ガンマ線バーストがそれにあたると、、、。

ひとつの現実だけがあるのではない。
ヒトは一つの結果だけを認識するが、同時に異なる結果がどこかに存在する。
という科学的理論を作ろうとしている人たちがいる。
ということを、知った。
とても眠かった。時間が時間である。これからは録画して見たい。

死もこのような別世界への目覚めという科学的?な認識に移行してゆくのか、、、。
死の解明も物理学的に為されるのかも知れない。


「あなたはもうひとりのあなたの夢を生きているのかも知れない」
最後のモーガン・フリーマンのことばだけが、やけに沁みた。











”Bon voyage.”

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