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騎士団長殺しを買う

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とある書店で、今なら(この今ならに弱い)○カード10倍とあったため、早く買わなければと思っていた村上春樹の「騎士団長殺し」を1部2部共に買った。
しかし、レシートと一緒にもらったのは、次回の書籍購入でポイントが10倍になるカードであった(爆!

つくづくわたしらしい、と笑ってしまった。
こういうトリックに面白いように引っかかるのだ。
(ちっとも、面白くないが)
もう当分、わたしに本を買う予定はない。
(読んでない本が山ほど貯まっているからだ)。
娘には怖い話の本を、この前買ってあげたばかりだ。
(なかなか文学作品には向かわない、、、。これが目下、悩みの種その4くらいに位置する)。

このカードは無駄になるだろう。
だが、未練がましく、マグネットで取り敢えず留めてある。
「旋回する物語 そして変装する言葉」
「渇望する幻想 そして反転する眺望」
魅惑的。ウズウズする、、、。
いつから読むか?

わたしは村上春樹を読み始めると、途中でやめられなくなる。
「1Q84」のときもそうだった、、、もうあれから7年も経つのか、、、。
その間、本らしい本を読んでこなかったことに愕然とする。
大学時代に読んだ本の記憶に頼ってきていることに改めて唖然とする。
いや、その前に体力的に落ちている。
徹夜で読めない、、、。

とは言え、この辺で思いっきり面白いものを読みたい。
そんな気分なのだ。
であるため、どこか全く日を空けて、朝から読み始めたいと思う。
このところ、健康上の問題もあり、夜はすぐ寝てしまう。
起きてると自分では思っていながら寝ていたりする。
(いや待て、寝ていると思っていながら起きていることもあったか、、、いやこれはない。あってはならない)。

ハッと飛び起きたら、椅子に座って眠っていたことに気づく。
時計を見たら2時を回っていた。
パソコンに向かってネットを見て回っていたのを9時半頃までは、知っている(笑。
かなり疲れが溜まっているのだ。

単に、これまで生きてきた疲れであり、これといって何をかやった疲れではない。
こうした疲れはひたすらよく眠ることが一番良いことは分かっているが、、、
それに加え、やはり強烈な刺激である。
それも美しく、意識を思い切り拡張する類のものが薬となる。

美を求めて、、、昨日観た映画もそれであった気がする。
何故か今日いろいろあり過ぎたせいか、かなり前のことのようにも思えるのだが、、、
それこそが、時間の本質でもある。いや属性というべきか、、、。

そうだ、思い出した。
どこかで、、、
本を読む時間を作らなければならないのだ。
(忘れている場合ではない)。


「騎士団長殺し」
久しぶりの村上春樹。
ただ、楽しみである。



龍の歯医者

ryuu.jpg
前編:天狗虫編  後編:殺戮虫編
どちらも45分程度(TVアニメーション映画とでもいうのか)

鶴巻和哉監督
2017年

声優
清水富美加、、、野ノ子
岡本 信彦、、、ベルナール
林原 めぐみ、、、柴名
山寺 宏一、、、悟堂


すこぶる思い切った設定で、リアリティがしっかりあるアニメーションである。
龍が二次対戦中に契約によって日本軍側に加勢していたのか。
これはその龍の背に乗って、龍の歯の健康を守る歯医者さんたちの壮絶な活躍ぶりと言うか、、、。
生と死とその運命を巡るドラマでもある。
よくこの短い尺にこれだけ壮大で幾つものドラマの絡みを流し込んだものだと感心した。


龍との契約を彼らは結び歯医者となる。
最初のテストの時、自分の「今際の際」が予め決められている事を認めないと歯医者として龍の歯から出てこれない。
歯に吸収されてしまう。
野ノ子は戦乱で命を落とし龍の歯から黄泉がえったベルナールを後輩として龍の歯科医の仕事に励む。

これもひとつパラダイムの問題となるが、野ノ子らは生きることを完全に定められた範囲にとどめている極端な運命論者である。
ベルナールが何故そんなものを無視してもっと生きようとしないのかと絶叫すると、そりゃ沢山美味しいもの長く食べ続けることができれば嬉しいけど、長く生きることがいいの?と怪訝な顔で返す野ノ子。
彼女は最初から自分が死ぬときの光景を見て知っている。
ベルナールは君が死ぬところなんて見たくはない!という。
すると、「ヒトは皆、死ぬのよ。」「そんなことは知ってる。」
生というものに対する概念が異なるのではない。
ベルナールにとってはアプリオリな純粋な「生」という概念自体が野ノ子たちのパラダイムには存在しないだけなのだ。
ここの距離は埋まらない。

彼女が驚く程、勇敢で命知らずの行動がとれるのも、死に際(今際の際)を知っているためとも言えよう。
今(この場面で)は、絶対死なないことが分かっているからだ。
そこが彼女の自由度を極限的に高めている。
そして恐らくその光景に出逢えば、観念して大人しく死を迎えるのだろう。

しかし激烈な痛みによる観念の飛躍は起こる。
柴名の場合である。
彼女は12年前の天狗虫との壮絶な闘いのなかで愛する人を失う。
その余りに認め難い体験に、身体レベルで彼女はパラダイムを打ち破った。
だから柴名は、龍と歯医者を完全に対象化する視座を得たのだ。
そして自らが何者でもないことに気づく。
それでもなお、突き上げてくる一際強い想いに従う意志をもった。
結果が自らが、愛する人を奪った虫になるという「投企」に出たのだ。
その答えは出ないままに終わる。

野ノ子に自分のために生きろと説き続けてきたベルナールが、野ノ子たちを救うために(再び)命を落とす。
殺意を吸収してエネルギーを増大させる殺戮虫を利用して自らの身を犠牲にして彼女らの敵を倒すのだ。
彼女らの知らぬところで。誰にも気づかれず。
確かに自身を犠牲にするというのも生きる自由であり同時に死ぬ自由である。
ベルナールにあり野々子にはない「実存」である。


龍の歯が生死の出入り口のように描かれているのは、荒唐無稽な独創であった。
しかしその独創世界が極普通の生活~仕事の光景に思えてしまう自然な感情の流れ、ディテールまでの描き様なのだ。
ちっとも不思議や違和感が感じられなかった。
歯の掃除だけならまだしも、その歯に死んだ者が吸い込まれたり、そこからヒトが黄泉がえったりしてくるのだ。
メタフィジカルな身体性を夢想的に体現している。ここに出てくる人々は皆そうだ。
そして、その吸引力は凄い。

天狗虫の動きは、どう見てもエヴァンゲリオンの使徒であった。
殺意だけに反応し殺戮する虫というのは、とても機械的で説得力がある。
それにいち早く気づくベルナールの慧眼は素晴らしい。
その後の行動も、、、。


清水富美加の声優としての才能も充分に発揮されていた。
雰囲気まで、アニメのキャラと似ている。
正直言って、辞めてしまうのはとても勿体無い、と思う。
まあ、この世界も若い実力者が次から次へと現れるし、人材に困ることはなかろうが。


ryuu002.jpg

またもや赤色矮星!

TRAPPIST-1.png

まだ、ほとんど情報が伝わってきてはいないが、、、(わたしが知らないだけか?)
NASAの発表があったそうな。
TRAPPIST-1という赤色矮性の周りに7つも地球型惑星(系外惑星)が存在すると。
つまり岩石惑星で大きさもほぼ同等、ということは重力も近いか。
そのいずれにも水のある可能性が高いという。
その上、3つの惑星は、地表に水を湛えているらしい。
(地中になら太陽系の惑星・衛星に幾つもある)。

水瓶座の方向約39光年(9兆4600億km)という、これまでからすると、非常に近いところに見つけた訳だ。
(しかし水瓶座の方向というのが今の時代に象徴的である。アクエリアスの時代になって、、、)。

また、何よりロマンチックなのは、それぞれの惑星間距離が近いため、ひとつの惑星に着陸すると、月より大きな天体が6つも空に拝めるということらしい。(しかし近いといっても40光年である、、、星間移動の技術革新は前提となる)。
尚、赤色矮星はわれわれの太陽より表面温度は随分低いが、遥かに長生きする。
惑星がうんと近くを回っていようと、それほど熱くはならない可能性が高い。
ただしどれもが非常に近い軌道にいれば、朝夕ロックはかかっていて、地球に対する月みたいに、同じ面を向けて周回することにはなろう。しかし大気と水があれば循環が起こる。

まだ、情報はこれから明かされててゆくのだろうが、いよいよ「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」の出番となろう。
2018年打ち上げである!
それによって、随分多くの事実、というか実態が判明するはずだ。
まずは、大気成分の解析、地表や水も分析ができるはずである。

この恒星は、ともかく非常に長い寿命(数十兆年)がある。
ということは、進化に充分な時間がかけられる。
ハビタブルゾーンに3つも惑星が入っているというのも、かなり科学者たちの期待増であろう。

地球が生命の住めない環境になるまでに、ヒトが生きていたなら移動可能であれば、重要な候補地が見つかったということであろうか。その星から平和に地球の滅亡を眺められることになろうか。
その前に人類は完全に絶滅しているかも知れない。
だが、人類の跡を継いだ生物がいれば(ロボットかもしれないが)それが住める場所になるだろうか。

とは言え、その星が環境が整ったところであれば、先住民がいる可能性も高く、われわれが侵略者ともなり得る。
地球人の侵略に対抗する正義の異星人(その星のnative)という構図になりそうだが。
そんなこと、今から心配しても仕方ない(笑。

ともあれNASAの科学者は、生命のいる星があるかどうか、からいつそれを発見できるかという段階になった、という。
深夜TV(ユアタイムの市川さんの薀蓄も含めた)短いニュースコーナーで見た範囲であるため、何とも言えないが、今後の動向に注目したい。
「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」の稼働によって大きく動くと思われる。


何というか、、、宇宙探査が生命探査と同義となってゆきそうな様相である。

アメリカン・ビューティー

American Beauty

American Beauty
1999年
アメリカ

サム・メンデス監督
トーマス・ニューマン音楽
アラン・ボール脚本


ケヴィン・スペイシー、、、レスター・バーナム(広告代理店~辞めてハンバーガーショップ店員)
アネット・ベニング、、、キャロライン・バーナム(レスターの妻、不動産業を営むキャリアウーマン)
ソーラ・バーチ、、、ジェーン・バーナム(レスターの娘、女子高生)
ミーナ・スヴァーリ、、、アンジェラ・ヘイズ(ジェーンの同級生)
クリス・クーパー、、、フランク・フィッツ大佐
ウェス・ベントリー、、、リッキー・フィッツ(大佐の息子)

「薔薇」、、、胸の詰まる息苦しい作品であった。間違いなく傑作ではあるが。
感情の昇まりに必ず薔薇が舞う。
レスターが娘の同級生アンジェラに一目惚れした時、、、
薔薇の花弁が舞い、丹念に妻が庭に育て、レスターの妄想の中、アンジェラが薔薇のバスタブに浸かる、、、そして頭を撃たれて死んだレスターの血も薔薇に負けずに赤い。


「美の溢れる世界で怒りは長続きしない。美しいものがあり過ぎると、それに圧倒されボクのハートは風船のように破裂しかける。そういう時は体の緊張を解く。するとその気持ちは、、、雨のように胸の中を流れ、感謝の念だけが後に残る。ボクの取るに足らぬ人生への感謝の念が、、、」
ビートルズの”Because”でエンディングへ、、、。
”Because”まさにぴったりであった。

1999年の作品とは思わなかった。
とは言え、何年度の作品かと言われても答えようのない普遍性を感じる。
この映画が湛える人間存在が根源的に抱え込む外界との不和~違和の揺れが生々しく実感できるからだ。
わたしにとって今現在の現実~問題である。

まずリッキー・フィッツの存在感が秀逸なのだ。
周囲の凡庸な連中からサイコ男のように扱われているが。
(実際、薬の売人もしているが)。
硬質でセンシティブですべてを透過する視線が鋭い。
それは不気味な存在感を醸すとは言え、常にそういうものだ。

しかし、この映画全体が実にセンシティブであり、ヒリツク感性で交錯している。
誰もがどうしようもなく~ディスコミュニケーションにあり~ズレていてそのズレ(誤解)が致命的なものであったりする。
常に家族同士であっても世間のなかにおいても緊張を強いられている。
これは世界中の何処へ行っても同じことだろう。
勿論、アメリカの特殊事情ではないし、家庭崩壊の問題や価値観の相違から起こる顛末を見せる映画でもない。
常に孤独でズレ~誤解と取り繕いの内に生きる人間の物語であり、それがどんな契機であろうと自分の生を取り戻そうとする人間の物語である。

リッキーのあの真っ白い整然とした部屋と自分の撮ったお気に入りのビデオ、、、
「宙を舞う白い袋、、、」
「遊びをねだる子供のように、それはボクにまとわりついた。15分の間。その日ボクは知った。全てのものの背後には、生命と慈愛の力があって、何も恐れることはないのだと。」
「それを忘れないために撮影した。」
彼は執拗にジェーンを撮影する。
ジェーンに、風に翻弄されながらも何か確かなものを掴もうとしていることを彼は察知したのか。
American Beauty002

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レスター・バーナムのもうやーめた。というのは、実に分かる。やめることで、新たに始められるというもの、、、。
虚栄心の強い妻に疎まれ、娘には恥ずかしいと馬鹿にされ、勤続14年の会社からは「自己評価」を迫られリストラ対象になり、これで自分と他者~外界との関係を見直す、又は一度リセットして考え直そうとするのは、至って自然であろう。
そんな矢先にアンジェラという息を吞む存在が現れる。
自分の美に過剰な自信を持つ少女であったが、実はナイーブさを押し隠していた孤独な少女でもあった。
彼女は彼の虚を突くトリガーであったか。ある意味それでタガが外れたといえる。単純に筋トレを始める(笑。
更に、娘と同年齢のリッキーの毅然とした生き様にも影響を受ける。(一気に、若返る(爆)。
リッキーに誘われてマリファナもやり始める。自分の気持ちを率直にぶちまけ活き活きしてくる。
そんな自分に漸く生きる力が芽生えてきたときに、誤解から撃ち殺される。
そういうものか。丁度家族の写真を幸せそうに眺めて自分のなかに眠ていた愛情を噛み締めていた時に、、、。

American Beauty003


しかし彼は真に幸せそうな死に顔をしており、リッキーも彼を笑顔で優しく見つめる。(ビデオでなく)。
死に際しての、レスターの内なる声、、、。
「美の溢れる世界で怒りは長続きしない。美しいものがあり過ぎると、それに圧倒されボクのハートは風船のように破裂しかける。そういう時は体の緊張を解く。するとその気持ちは、、、雨のように胸の中を流れ、感謝の念だけが後に残る。ボクの取るに足らぬ人生への感謝の念が、、、」
この独白がリッキーの撮った風に舞う白い袋のビデオを背景に語られる。
とても爽やかで素敵な環境ビデオにも思える部分で、音楽もとてもマッチしていた。

そうなのだ。忘れてはいけない肝心なこと。
われわれは、この世の美しさをこそ見出して生きてゆく者なのだ、、、。
レスターのように!枠を打ち壊し、無様であろうが、なんであろうが。
そう、彼の妻も、娘のジェーンも盟友リッキーも、アンジェラもきっと彼を見習いそうするはずだ。

そして、、、”Because”
この世界は回っているから、ボクのこころも乱される。
風が強いからボクの考えも乱されるんだ。
愛は古くて同時に新しく、愛はすべてで愛とは君のこと。
空が青いからボクは泣くんだ。
何故って、空が青いから、、、




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インターンシップ ~ Google本社が楽しめる

The Internship

The Internship
2013年
アメリカ

ショーン・レヴィ監督
ヴィンス・ヴォーン原作・脚本・製作
Googleのインターンシップに参加したら、、、というお話。

ヴィンス・ヴォーン、、、ビリー・マクマホン(中年の元営業マン)
オーウェン・ウィルソン、、、ニック・キャンベル(中年の元営業マン)
ローズ・バーン、、、ダナ・シムズ(Googleの女性社員)
アーシフ・マンドヴィ、、、ミスター・ロジャー・チェティ(インターンシップのマネージャー)
ジョシュ・ブレナー、、、ライル・スポルディング(主人公のチームのサポート社員)
 若きインターンの面々、、、
マックス・ミンゲラ、、、グレアム・ホートリー(ライバルチームのエリート)
ディラン・オブライエン、、、スチュアート・トゥオンブリー(主人公のチームのインターン)
ティヤ・シルカー、、、ネーハ・パテル(主人公のチームのインターン)
トビット・ラファエル、、、ヨーヨー・サントス(主人公のチームのインターン)


ビリーとニックが、Google社の前でいきなりプリウスをベースにした自動運転車を観てたまげるところからもう面白かった。
テンポの良いコメディである。
わたしが特にGoogle社で気に入った所、、、。
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お昼寝カプセル、、、アルタードステイツの要素も


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階段でもエスカレータでもエレベーターでもない、滑り台、、、何度でも滑って遊びそう


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全て無料の食べ放題のカフェテリア、、、こっこんなに有難いものがあるか


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ミーティングルームのひとつ、、、森の小人になれそう、、、たくさん種類があって選べる


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ウォーターラウンジ、、、しょっちゅう眠ってばかりいそうな


これまで腕時計を売りまくってきた営業マンのビリーとニックのふたりであったがスマホの普及により、腕時計の需要が減り、会社は突然倒産。
さてこれからどうするか、ということになったが、何故かアナログ人間なのに”Google”を目指すことに。
モニタを通した面接で、ともかく強いインパクトだけは面接官に与えて選考に残りはするが、選考委員のひとりライル氏のおかげで何とか、インターシップを受けられる身となる。
確かに”Google”は多様性を重んじ、型にはまらぬ人材を求めている様だが。
ITに対応できるかどうか、その辺から心配な人たちではある、、、。
ニックがまず初めに驚愕したのが、何でも無料で食べ放題なことである。
それだけで幸せそうなのだが、大丈夫なのか。

IT関係はさっぱりなのに、ITネイティブの若き秀才たちと一緒にインターシップとなるのだが、、、
社員選考はチームを組み、難問をクリアして優勝したメンバーが対象となる。
ビリーとニックは、あぶれてしまった若者とチームを組むことに。
基本、有力そうな者と組み、他力本願でゆく~便乗する姿勢であった。

実際、誰と組もうがその知識と思考様式のズレ様は、途轍もない。
特に、すぐにコードを書き出す彼らとの差は歴然としている。
しかし、年の功はやはり捨てがたい。
更に長年営業職で培った喋りで人を乗せる技術は生半可ではない。
訳のわからぬ譬えとかで、人を煙に巻き、知らぬうちに納得させてしまう。

このコミュニケーション能力は魅力的で面白い。
またそれを実行するに、ネット上ではいくらバーチャル化しても、どうしても限界はある。
モニタを通したリアルタイムのやり取りでは充分な身体性がない。
実際に遇って話すことで彼らふたりなら、絶大な効果が生み出せる。
何と役職に就いているダナともビリーは親密な仲になってしまう(インターンの立場で)大したものだ。
ふたりともかなり勉強も頑張り、一進一退のチームの争いとなる。
最後の難問で、まだGoogle上に広告を出していない店を見つけ出し広告をとってくるものに、彼らはギリギリで間に合う。
ここで前回のテストでしくじったニックがフルに腕前を見せる。
一店だけだったが、その店は個人経営だが、非常に素材と製法と地元に拘った隠れた人気店であった。

ずっと彼らに厳しかったチェティが、それを評して言う。
「この店には、大規模なフランチャイズになる可能性がある。君たちはチームとして人とつながった。そして人と情報をつなげた。それこそわたしたちの仕事だ。君たちには夢見る勇気がある。驚くほどのハンディがあるにもかかわらず、あきらめなかった。」
「Googleへようこそ!」
となる。

結局、ITデジタル秀才とアナログの叩き上げの喋りのプロとの協力関係~チームワークがバッチリとれ、卓越したGoogle精神~”グーグリネス”を示したことで、彼らのチームが優勝する。
(みんなの拍手喝采。悔しがる自己中の意地悪エリートのグレアムというお決まりパタン)。


笑わせながら、軽快にもってゆく正統的なコメディであった。
楽しい映画である。(Google社内も実に楽しそう)。




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マンハッタン

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Manhattan
1979年
アメリカ

ウディ・アレン監督・脚本
昨日の映画がやたら面白かったので、またAmazonprimeで観られるものをチョイスしてみた(笑。
これ便利で、お得感有り。もっとタイトルが増えるとよいのだけど、、、。
もう実際、DVD(Blu-ray Disc)置く場所がないのだ、、、こんな形で全て観られれば言うことなし。
わたしは、こういった映画のジャケットデザインとかには拘りは全くない。勿論、ソースを集める気もない。
音楽のジャケットには、やたらと拘り、できれば、LPの紙ジャケットが欲しい派だ。
こちらは死に物狂いで一時集めまくったものだが、、、。


ウディ・アレン、、、アイザック(TV作家)
ダイアン・キートン、、、メリー(エールの愛人、一時アイザックの愛人)
マイケル・マーフィー、、、エール(アイザックの友人の教師)
マリエル・ヘミングウェイ、、、トレーシー(アイザックの17歳の彼女)
メリル・ストリープ、、、ジル(アイザックの元妻、アイザックとの離婚に至る暴露本を執筆)


ジョージ・ガーシュウィンの曲が気が付くと鳴っている、、、。
ここでもマンハッタンの風景の撮影は素晴らしい。
ナレーションがやたら小煩いが、それらしい導入であろう。
ウディ・アレンというひとは、街~場所を上手く語る人である。
その場所に溶け込んだ人々の存在の脆さ、危うさをユーモアとペーソスをもって劇画調(笑、に表す。


何というか、大人は17歳のトレーシーだけか、、、最後に18歳になるが(笑。
一番落ち着いていて、真っ直ぐで誤魔化しがない。
後の登場人物は、もう滅茶苦茶である。
身勝手極まりない形で人を振り回し自分も誤魔化し、それを正当化するために廻りくどい屁理屈をつける。
浅薄で攻撃的な批判を常に他者に向けつつ自己を優位に置こうとする。
美味しいところだけを欲して逆ギレして自己保身に回る。
それらが非常に劇画化されて描かれ彼らに苦笑しつつも、自分にも逃げの姿勢を確認したり、、、(爆。

17歳のトレーシーを殊更に子供扱いするが、アイザック、メリー、エールの大人たちはすべて、大人げない。
思いっきり情けない。
特に恋愛関係が、自分に都合のよいリベラルさのみを追い求めてゆく。
傍目に見れば、くっつくはなれるの全くどうでもよい話(いちいち書く気にもならないもの)ばかりである。
しかし、そのどうでもよい内容が、彼らの日常を悩ます大問題なのだ。

瑣末な屁理屈ばかりで取り繕い、結局自分がどこを目指しているかも分からない。

そして誰からも見放され、結局自分が捨てたトレーシーこそがもっとも大切な存在だと気づくアイザック。
彼は彼女にロンドンで演劇の勉強をすることを勧め、そのなかで新たな恋愛をする大切さも説いていた。
あくまで、一時の恋愛の思い出として、彼女を軽んじさっさと別れることにしていたのだ。
その彼女が、彼に言われた通りに単身ロンドンに立つ矢先に駆け込んできて、「行くな!」(爆である。
「ここにいてくれ。行く必要はない」って、それはない。もう行く手はずは全て整え、向こうの住居もさがしてあるのだ。
そしてまた弁解めいた屁理屈を延々と述べ、「行ってしまったら君は恋愛をして変わってしまうだろ」って、ここまでくると見苦しくてただ情けない。
マンハッタンで恋愛ゲームに勤しむ彼らは、皆こんな精神の持ち主なのか、、、まあ、かなりグロテスクな風刺であろう。

そこで、もう愛想尽かして、わたし行くわ!、、、と颯爽と彼女は出てゆくかと思いきや、、、。
「あなたは少し人を信じるべきよ、、、」(穏やかな微笑みで諭す)。
彼女が聖女に見えた(爆。
トレーシーだけがよくできた人であった。しっかり周りに惑わされずに成長している。
ここに出てくる誰にもない、優しさと寛容をひとり備えている。
アイザックの我に返る、、、いや違う、懲りていないか、、、その微妙な表情。
ということで、トレーシーの存在が他の彼らの無明ぶりをよく照らしていた。


マリエル・ヘミングウェイ、トレーシーの役にまさに打って付けの女優であった。
アメリカにはなかなかいないタイプの女優ではないか、、、フランス女優みたいな、、、。
彼女である意味支えられている映画である。
ウディ・アレンは自分の書いたものだ。誰より自覚して演じているのは確か。
ちょっと達者すぎて鼻につくが、、、。
ダイアン・キートンの知的で神経質で我儘な演技が高邁な女性の雰囲気をよく表していた。
メリル・ストリープという大女優がここでは、無表情に氷のような女性を淡々と演じていて面白かった。


わたしとしては、圧倒的に「ミッドナイト・イン・パリ」のような御伽噺の方が楽しい。
「おいしい生活」も好きだが。
これは、マリエル・ヘミングウェイ以外に魅力という面では、、、厳しい。

ミッドナイト・イン・パリ

Midnight in Paris001

Midnight in Paris
2011年
アメリカ(撮影:パリ・製作スペイン)

ウディ・アレン監督・脚本


オーウェン・ウィルソン、、、ギル・ペンダー(小説家を狙っている脚本家)
レイチェル・マクアダムス、、、イネス(ギルの婚約者)
マリオン・コティヤール、、、アドリアナ(ガートルード・スタインのサロンのミューズ)
レア・セドゥ、、、ガブリエル(現在のパリの売り子)
マイケル・シーン、、、ポール・ベイツ(イネスの友達、浮気相手)


パリの魅力に憑りつかれパリに住むことも考えている、脚本家を脱して小説家を狙うギルとマリブに住むと譲らない婚約者のイネスがアメリカからパリにやってくる。イネスの両親のパリ旅行(父親の仕事も兼ねた)に便乗して来たのだ。
ここから物語は始まる。

ギルが夜のパリをほど酔い加減で歩いていると、12時を回ったあたりでクラシックカーに呼び止められる。
誘われるままに乗ってゆくと、そこは何とジャン・コクトーのパーティであった。
コール・ポーター、F・スコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダに出逢う。
そして次のパーティ会場には、アーネスト・ヘミングウェイがいて、暫し彼と文学論めいた話もできた。
彼にぜひ自分の小説を読んでほしいと懇願すると、わたしはライバルの本は読まない、だがガートルード・スタインを紹介すると、、、!?

キツネにつままれたようなあまりの夢物語を体験して自分でも心配になる。
翌朝、イネスにそのことを話すと脳腫瘍を疑われる。
(自分も脳腫瘍を疑う)。

何故かイネスの旧知の友人ポール夫妻と現地でタイミングよく出逢っていた。
そして4人でギルの行きたくもない名所観光を幾つもするはめになる。
至る所で鼻持ちならないポールの知識人ぶった蘊蓄を聞かされ辟易するギル。
しかし、ギルはその歴史上の出来事を実際目の当たりにして来たものもあり、ポールの話に嘘が多いことを知る。

ガートルード・スタインに実際に遇うであろう次の夜、ギルは婚約者のイネスを誘ってクラシックカーの迎えを待つが、彼女はギルに愛想を尽かし普通のタクシーで帰ってしまう。
ここでもうこのふたりは終わったな、とわたしは想う。
その直後、12時を知らせる鐘が鳴り、クラシックカーが思った通りに迎えに来た。
確かその時はT・Sエリオットが乗っていたはず。
どういう巡回車だ?


何と言っても楽しい。面白い。タイムスリップ御伽噺。そしてパリが常に美しい。
特に夜だが。
その上、、、
コール・ポーター、ゼルダ・フィッツジェラルド、F・スコット・フィッツジェラルド、ジョセフィン・ベーカー、アーネスト・ヘミングウェイ、ガートルード・スタイン、パブロ・ピカソ、マン・レイ、ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ、T・S・エリオット、アンリ・マティス、、、、
さらにもっと時代を遡り、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ポール・ゴーギャン、エドガー・ドガ、、、まで出てくる。
しかも、皆そっくりさんで(爆、、、極上のエンターテイメントだ。もう少しそれぞれに話を突っ込んでしてもらいたかった。
30分尺を伸ばして、それぞれの話や議論がもっと聞きたかった。

わたしが見たところ、マン・レイが凄く感じが出ていた。ルイス・ブニュエルもいかにもそれっぽく、ロートレックも品があってよかった。(ブニュエルに映画ねたを耳打ちしていたが、あれはやり過ぎだろう。反則だ)。
スコット・フィッツジェラルドもあんな粋な感じだろうな、、、と思ったが、ヘミングウェイはセリフを頑張っていたがちょっと違う感じ。ガートルード・スタインはもう少し詩人風な人がよかったかも。サルバドール・ダリはコメディアンか?であった、、、。ピカソはちょっと個性が弱い。ゴーギャンは鋭さがない(一番それらしくない)。
とは言え、そういった芸を見るだけでも楽しいこと。次は誰が出てくるかとワクワクであった。


現在のパリの朝、昼、晩も美しいが、ガートルード・スタインのサロンに大芸術家が集っていた1920年代のパリもまた更に風情があって、美しい夜景であった。
そして所謂、前衛芸術のもっとも華やかで香しい時期であったのでは、、、。
そこで恋におちたアドリアナとギルは、迎えに来たかのような馬車に乗って、1890年代ベル・エポック時代にまでやってくる。
これにはふたりも仰天して感動するばかり、、、。
もう途方もない。
夢が叶うというレベルではなく奇跡体験である。
しかし、1920年代に拘るギルに対しアドリアナが今来たその時代をいたく気に入ってしまい、彼女はそこに留まると言う。
そこで、ふたりは分かれることになる。

ギルは1920年代に強く惹かれ、そこで輝くアドリアナに恋をしたが、彼女は自分の時代に不満を抱いていた。
ベル・エポックの人々はというと、ルネサンス期を称え憧れていた。
そういうものなのだ。
誰もが「黄金時代」という幻想に憧れる。
「現在って不満なものなんだ。それが人生だから」という認識を得たギルは現在に生きる決心をする。


現在に戻り、ギルはイネスと別れる。
ガートルード・スタインが彼の小説から読み込んだ通り、彼女はポールと浮気をしていた。
しかし、それ以上に、彼はパリに恋い焦がれていた。
彼は現在のパリに住むことをはっきり選ぶ。


夜の雨の中(彼はとりわけ、雨のパリが好みであった)、橋を渡っていると、顔見知りのガブリエルに出逢う。
彼は彼女の店でコール・ポーターのアルバムを買っていたのだ。
ガブリエルもそのことを覚えていた。
帰宅ついでにコーヒーでも、ともちかけふたりで肩を並べて歩いてゆく。
その後のふたりの関係を暗示させて、、、エンドロールへ。
何やら最後までファンタジーであった、、、。


ともかく、パリが、深夜のパリが夢を誘って美しいことこの上なかった。
彼に言わせると、パリの夜景は宇宙一美しいとのこと。
分かる気がする、、、。
そしてクラシックカーが夜の12時に迎えに来るなんて、、、ゾクゾクするではないか!
(彼はもう行かないと思うが)。
久々にウキウキして、何かこそばゆい映画であった。


ジョーズ

Jaws.jpg
この形はもう定番となった。なにものかに襲われる「ヒト」だけに焦点を当てる。
(この映画で始まったはずだ)。

Jaws
1975年
アメリカ

スティーヴン・スピルバーグ監督
ピーター・ベンチリー原作・脚本
ジョセフ・アルヴズ・Jr.美術
ジョン・ウィリアムズ音楽


ロイ・シャイダー、、、マーティン・ブロディ(警察署長)
ロバート・ショウ、、、クイント(元)海軍の船乗り
リチャード・ドレイファス、、、マット・フーパー(海洋生物学者)
ロレイン・ゲイリー、、、エレン・ブロディ(マーティンの妻)
マーレイ・ハミルトン、、、ボーン市長


アミティというアメリカ東海岸にある町では夏に砂浜~海岸に遊びに来る海水浴客を当てにしていた。
マーティン署長は最初の女性犠牲者が出た後、いち早く海岸を遊泳禁止にして注意を呼びかけようとするが、市長がそれを認めない。その町が一年でもっとも観光収入の得られる場であるからだ。
市長は、風評を恐れ、サメの存在を認めず隠ぺいを図る。
このパターンもしっかりその後のパニック映画に踏襲されてゆく。
バーン市長は、サメに人が襲われて死ぬのを眼前に確認し、はじめて渋々サメの退治を認め対策に入る。


実体を見せずに、事態を想像させ恐怖を倍増させる。
前提として装置をしっかり仕込んで置き、そこに行くまでの期待と不安をストーリー上充分に煽っておく。
そして巧みに一体感に引き込む。
その要素は、水に戯れる~水泳である。
この心地よさは誰もがよく知っている(誰もが羊水の中にいた記憶を持つ)。

一度その文脈~リズムに引き込めば、分かっていても、というより分かっているからこそ、自ら入り込むことになる。
とても上手く感じたところに、ワンカット風に撮られたマーティンが水浴を楽しむ客を鋭い目つきで観察する場面がある。
その署長の眼前~視線を浜辺を行き来する人々が断続的にワイプするのだ。
それで尚更彼の心中にある、姿を見せぬ水面下の敵に対する恐怖と署長としての責任感を際立たせてゆく演出である。
こういったところが随所に散りばめられ、淡々と物語はクライマックスへと運ばれてゆく。

沖合にいる船という孤立感の演出もよい。そしてセリフも、、、。
巨大ホウジロザメが忽然と現れた時、、、マーティンの発する「舟が小さい!」これ以上の恐怖に圧倒され絶望するひとことはない。
勿論、余りに有名な音楽と効果音、、、。
(音楽はこの映画から独り歩きして、その手の登場シーンで何度繰り返し使われてきたか)。

体長8メートル、体重3トンというサメの臨場感とリアリティを出すため、人とサメの大きさの比を調整する演出も充分に出来ていた。
ヒトの人形や模型のサメが動きの文脈の中でリアルに使われていて、絵に破れ目もない。
(静止したシーンカットなどを見ると少しばかり興ざめしてしまう)。
ここでも執拗に樽が使われ、その浮き沈みと移動の速度で、水面下の巨大サメの動向を恐怖と共に暗示させる極めつけの演出が冴える。
特に水中の檻を本物のサメに壊させるシーンなど難しかったに違いない。
(サメとすれば、餌にありつければよいので、そこまでのサービスをするつもりは、通常ない)。

しかし、人工サメをこのように縦横に滑らせるには、遠浅の海岸が必要であり、「島」選びも大変であったはず。
処女作「激突!」が海へと場面が変わったものともとれるが、実際の撮影における困難は素人にも想像できる。
場所が海であり、相手が生き物のサメである。
美術の頑張りは、その後のクリエイターに大きな励みとなったはずだ。
実際あれだけ巨大なものをよくつくったものである。
(この辺は)日本の特撮にも通じるところがある)。


この映画、脚本もよいが、何と言っても美術と演出の勝利であろう。(音楽もだが)。
無論、キャストも実に厚みある演技であった。
最後の最後まで彼ら3人の個性の激しいぶつかり合いが究極の場のリアリティを高めていた。
後のない恐怖を前にした各々の個性が見事に晒されていた。
そしてエンディングのカタストロフである。

スティーヴン・スピルバーグの初期2作は何れも非常に挑戦的な名作であり、監督として素晴らしい滑り出しであると思われる。


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ジャッカルの日

The Day of the Jackal001

The Day of the Jackal
1973年
アメリカ

フレッド・ジンネマン監督
フレデリック・フォーサイス原作


エドワード・フォックス、、、ジャッカル
マイケル・ロンズデール、、、クロード・ルベル警視
デルフィーヌ・セイリグ、、、モンペリエ男爵夫人


シャルル・ド・ゴール大統領暗殺を企てる武装組織「秘密軍事組織(OAS)」が雇ったプロの暗殺者「ジャッカル」とクロード・ルベル警視との情報を巡る鬼気迫る闘いのドラマである。

まずアルジェリア戦争に端を発する。
これはフランスのアルジェリア支配に対する、アルジェリアの独立運動というような一枚岩的な闘争ではなく、アルジェリア内での親仏・対仏の紛争、ヨーロッパからの入植者と先住民間の民族対立、パリ政府と軍部との内紛も絡む複雑な対立構造を抱えたフランスにおけるパリ中央政府の奮闘の物語とも言える。
特に軍のエリートを中心に構成されたものがOASと言えようか。
彼らの活動を支えた意識は、愛国心である。アルジェリアは「フランス固有の国土」である!と、、、。
(最近、似たような言葉をあちこちで聞くが、、、)。

戦争などによるフランス経済の疲弊もあり、ドゴールは、アルジェリアの民族的独立を認める決定を下す。
それに怒ったOASのテロ活動が相次いだ。
しかし当局もスパイを組織に潜入させ、動きを未然に防ぎ情報を持ち出し、組織の弱体化を進めてきた。
OASも顔が知れ渡り、内通者が後を絶たない状況下で、何とかドゴール暗殺を成功させるため、国外から優れた暗殺者を金で雇うことに決めた。
彼らが雇ったのは、コードネーム”ジャッカル”というイギリスから呼び寄せた男であった。
射撃の腕前が特に優れ、これまでにも要人暗殺に関わってきたという。
彼は、OAS首脳の依頼をサラッと受けるが、法外な報酬も要求してきた。

見るからに緻密な計算の働く冷酷非道な雰囲気を秘めた男だ。
(ちょっと、アランドロンのサムライを想わせるニヒルさもある)。

The Day of the Jackal002
ここで、特注で作らせる銃器がクールである。
そのスマートで精巧な造り。
それを渡され手際よく組み立てるジャッカル。
これには、ちょっと恍惚とする部分がある。
わたしも手に取って組み立ててみたい、、、。
スイカを撃ってみたい、、、という誘惑に駆られるものだ。

The Day of the Jackal003
更に、車が白いアルファ・ロメオ(ツーシーター、オープン)である。
それに乗ってフランスに渡ってくる。
趣味も良い。
そして、車が警察に割れている、という情報で、素早く森の中でボディを青くスプレーで塗り替えるところも、なかなかウキウキする。
わたしは、この手のメカ物に弱いのだが、この特製の銃とアルファ・ロメオの走りっぷりに魅了された。

この映画、リズムがよい。静謐でタイトなテンポが緊迫感をいや増しに増してゆく。

フランスでもっとも優秀な捜査官であり、全権を託されたクロード・ルベル警視ともっとも優れた暗殺者のジャッカルとの、情報を辿り推理を働かせ機転を利かせて行動のタイミングを取るといった息詰まるゲームのような一騎打ちの様相を呈する。
このクロード・ルベル警視は老獪で鋭く、的確な判断が冴え渡り、各国にもつネットワークが厚い。
どのような情報もたちどころに集められる力が彼のアドバンテージだ。
しかし、極秘捜査であることから、どうしてもジャッカルの後手に回るもどかしさに悩む。

だが、彼が上手く利用してきたモンペリエ男爵夫人を殺害したところから、彼を殺人犯として完全公開で捜索することが叶う。
ここで、一気に捜査が加速しジャッカルが追い詰められるかと思ったが、思いの他ジャッカルは手強かった。
彼は偽造書類や偽造メカだけではない。次々に異なるパスポートを造り違う人間に変わってゆくのだが、、、。
変装の名人であった。

ひとは、見た目に弱い。
まさか片足の老いた障害者が、ドゴール演説式典を横切ったからといって、身分証明書の提示で何気なく通してしまう。
先入観で深追いしない。
この怪しさに気づくのは、クロード・ルベル警視であった。
(スチール製の杖であろう。その仕込みにこそ注意を払わねばなるまい)。
その怪しい男を通した警官とともにその向かった先に急ぐ。

彼はあまり走るタイプには見えないが、この時だけは疾走し、ホテルの最上階、小窓の僅かに開いた部屋を目指し駆け上がる。
かなり息は切れている。無理もない。歳だし太ってもいる(ギクッ。
そこでドアを銃弾でこじ開けるが、ジャッカルはその直前一発撃っていた。だがドゴールが偶然挨拶したため弾が逸れた。
そして後一発を改造銃にこめる矢先であった。
警視にとっては実にラッキーなタイミングであり、ジャッカルは最後の最後につきから見放されたのだ。
最初に来た警官は別の銃で仕留めたが、警視の銃で撃ち殺される。


次々に他者にスリ替わりながら暗殺を続けてきたジャッカルであったが、イギリスの本籍と思われたものも他人のものであった。
結局、彼がイギリス人であるかどうかもはっきりしない、何者か皆目検討のつかないままに、葬られた。
何者でも無い者として、、、

彼をひとり見送ったのは、クロード・ルベル警視であった。
恐らく彼にとって人生最大の強敵であったはず。



フィラデルフィア・エクスペリメント

The Philadelphia Experiment001

The Philadelphia Experiment
1984年
アメリカ

スチュアート・ラフィル監督
ジョン・カーペンター製作総指揮

「フィラデルフィア計画」*をモチーフにしている。

マイケル・パレ、、、デビッド・ハーデッグ
ナンシー・アレン、、、アリソン・ヘイズ
ボビー・ディ・シッコ、、、ジム・パーカー
エリック・クリスマス、、、ジェームズ・ロングストリート博士

*「フィラデルフィア計画」とは、アメリカ海軍のステルス実験であり、高周波・高電圧を発生させる変圧器を使って、レーダー感知の要因となる船体が帯びる磁気を消滅させ敵のレーダーからそれを不可視にするという計画。
ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上で、船員の乗った状態で駆逐艦「エルドリッジ」に対して実際に行われた、、、。
磁場発生装置テスラコイル(ニコラ・テスラによって考案された)で強力な磁場を発生させる実験であったが、確かにレーダーから船影は消えたが、海上に浮かんでいた船体そのものまで眩く発光して消えてしまった。
船体は乗組員とともに、瞬間移動して2,500km以上も離れたノーフォークに飛んでしまう。
その後、元の場所に戻りはするが、、、

ヒトの体が突然燃え上がった、衣服だけが船体に焼き付けられた、甲板に体が溶け込んだ、発火した計器から火が移り、火だるまになった、突然凍り付いた(冷凍化)、半身だけ透明になった、壁の中に吸い込まれたなどの目を覆う悲惨な現象が起きていた、、、!行方不明・死亡者16人、発狂者6人という結果であった。
この実験は軍によって極秘裡に行われ、その結果~事実は隠蔽された、、、?ということである。
今日までひとつの伝説として語り継がれている。


ここでは1943年、フィラデルフィア港上の駆逐艦エルドリッジで、装置を作動させた水兵のふたりデビッドとジムが船上から姿を消し、1984年のネバダ州の砂漠にタイムスリップしてしまうことから展開するドラマである。
その地で時を隔てて運命的に出逢うデヴィッドとアリソンとの恋愛ドラマの要素が大きいか。

いきなり訳も分からず1943年から1984年に飛ばされてきたデビッドとジムにとって、この時代は斬新で奇妙に映る。
やはりこの差は、細々した日常生活に浸透したテクノロジーにおいて感じられるものだろう。
そんな感触を自分の身に置き換えて、想像してみるのも面白い。
しかし、同時に1984年を新しがる彼らに対する違和感も必然的に生じる。
特に、アリソン(ナンシー・アレン)のあのヘアスタイルなのだ。
どうにもこうにも、、、。1984年は、われわれにとっては相当な昔である。

ジムは、体が赤く発光して消えてしまう。
デヴィッドも手が時折、発光し痛みが走るようだが。
散々、軍に追い回され逃げ惑う立場に立たされたデヴィッドたちであった。
彼らが転送されたそこがたまたま、二度目の実験場であったからだろう。
(ここでもまた、実験の証拠隠滅か、、、)
そして若い頃の姿しか知らないジムの奥さんのところ(故郷サンタ・ポーラ)に現状を確かめにゆく。
すると、つい昨日まで自分同様若々しくともに船に乗っていたジムが、その年相応の老人として現れる。
元の時代に彼は戻り、実験の現実を説明するが誰にも理解しては貰えず、偏屈な老人となっていた。
いまやデヴィッドだけが、そのままの歳で未来の時間に存在するのだった。

これは、一度封印された実験を41年ぶりにまた、ロングストリート博士が砂漠のゴーストタウンで行ってしまったからなのだ。
前回の実験がまだ続いている状態にある(まだ装置が作動中であったのだ)ところに、新たな実験との大きな磁気作用が働き、、、
時空の穴が生じ(映画によると)、そこから君は落ちてきたのだと説明を受ける。
そしてただならぬ異常気象をも生み、地球レベルで危機が訪れているということであった、、、。


デヴィッドを何とか捉えたロングストリート博士は、彼に時空の歪みの只中に再度入り、船に戻って装置を止めて欲しいと頼む。
地球を救うにはそれ以外の方法はないと。
そういうことで、折角仲良くなったアリソンと、別れを惜しみ、彼は時空の歪みに飛び込んでゆく。
そこで、装置のスイッチを切るというより、装置自体を叩き壊して、任務を完了する。


最後はその砂漠の砂煙の中から無事にデヴィッドが、若い姿のまま帰還し、アリソンに迎えられる、という何の変哲もない終わり方であった。

う~ん。
美術効果が全体的に今2であった、、、。
演出も冴えない。伏線で何やら生きてくるのかと思ったシーンがそのまま立ち消えて、何だったのかというものや、、、。
登場人物も誰も影が薄く魅力を感じない、と言うより本自体に内容がサッパリない。
これは、致命的ではないか、、、自分で書いていて、今はっきりと気づいた。

1982年にもうすでに「ブレードランナー」が公開されていたではないか、、、。
そこから見て、かなり厳しい出来具合としか言えない。
「ブレードランナー」と比べるものではないとは言え、作品の世界観が余りに薄い。


恐ろしくつまらない、とまでは言えないが、ほどほどにつまらぬ映画であった。

激突!

Duel002.jpg

見過ごしていた昔の名作を、ピックアップして見てゆきたい。
スピルバーグ監督のデビュー作である。

Duel
1971年
アメリカ

スティーヴン・スピルバーグ監督
リチャード・マシスン原作・脚本

デニス・ウィーバー、、、デイヴィッド・マン(セールスマン)


怪物トレーラータンクローリーの不条理な猛追に命からがら逃げ惑うセールスマンの話。
幻想か現実か、その境界線上で不安と恐怖のうちに次第に追い詰められてゆく人間の姿を炙り出している。
トレーラータンクローリーひとつで、ここまで押し切ったところが名作の所以であろう。
見応え充分であった。


セールスマンのデイヴィッドは商談でカリフォルニアに車で遠出する。
クライスラーの「プリムス・ヴァリアント」である。その時代を感じさせるいい車だ。
その途上、たまたま追い抜いた直後から大型トレーラータンクローリーが不気味な怪物となって何処までも彼を執拗に追いかけてくる。フロントグリルにはいろいろな州のナンバープレートが飾られていることが更に気味を悪くする。
トレーラーの運転手は腕とブーツは確かめられたが、顔はフロントグラスにも映らない。
タンクローリーにたとえ人は乗っているにせよ、その窓は車自身の凶暴で虚ろな目でしかなかった。
まさにタンクローリー自らの意思で動いているとしか感じられなくなる。
無機的な暴力の塊~エイリアンと言えよう。

ちょいと内向的な主人公が、タンクローリーは本当に自分を狙っているのか、ただの自分の思い過ごしに過ぎないのではないかと自問自答する場面が続くところなどリアリティを感じる。
本人はなるべくなら、自分の思い過ごしということで、やり過ごしたかった、、、。
実際、そういうものだと思う。特に彼としては厄介なことには巻き込まれたくない。

とは言え同時にその事態が、われわれには気弱で周囲にも邪険にされている神経質な彼の脅迫的な幻覚にも想えてくるところがあり、微妙に話をスリリングにさせる。
ガソリンスタンドから妻にかける電話でもそれが窺えるものだ。
(しかし、本当にそういった類の幻覚であるなら、ハンドルなど握ったら非常に危険な人物である)。

途中で入ったドライブインに当のトレーラータンクローリーが乗り付けられているのを見つけた。
そこで、ドライバーに直接話をつけようという賢明な策に出たのはよいが、勝手な判断で相手を決めて突っかかり痛い目に合う。
普通、客に対して、「あのトレーラータンクローリーの運転手さんはどなたですか?」とまず聞いてみないか?
「誰だ?あいつか?それとも、あいつか?こいつか?」とひとりでパニックになっていてどうなる?
聴きもしないで、一方的に犯人扱いされたら相手も怒る。
この辺がかなり自閉的で妄想的な人格であることを匂わせてもいる。

だが、ドライブインに入ろうが、道をまこうがタンクローリーは戻ってきて実際に彼(彼の車)に危害を加えようとする。
巨大な図体の割に、スピードも速い。またそのカメラワークから迫力が半端ではない。
それこそぶつけられたらたちまちペシャンコにされてしまう、重量とパワーである。
そして実際、列車が通過中の踏切に彼の車を押し込もうとしたり、警察に通報しようとしている電話ボックスごと跳ね飛ばそうとしたことから、タンクローリーの殺意はもはや明白であった。
それでも通りかかった人は誰も当てにならず、彼を助けるどころか避けたり非難して去ってゆく。
(彼はどうもコミュニケーションが上手くいかず、直ぐに齟齬を生じてしまうタイプでもあるようだ)。
彼は孤立無援のなかで何とか、自力で狂気のタンクローリーを振り切るしかなくなる。


彼も単純に逃げるだけでなく、策を考えねばならない。
相手が大きく重量があることを逆手に取り、登り坂の続く峠の道を選んで逃走する。
だが、暫くすると自分の車が激しく白煙を吐きはじめ、著しく出力が落ちてゆくのだ。
以前から、ラジエーターホースの劣化を注意されていたにも関わらずそのまま放ってきたツケがよりによってこんな時に回ってきたのだ。
その日に入ったガソリンスタンドでも、それを指摘されたのに、取り合わなかったことを後悔する。

いよいよデイヴィッドも腹を決め、最後の手段に訴える。
オーバーヒートして息絶え絶えの車を背後から迫ってくるタンクローリーに向け直し鞄をアクセルに固定して走らせたのだ。
正面衝突でぶつかる直前、間一髪のタイミングでデイヴィッドは車外に転げ出る。

プリムス・ヴァリアントと巨大タンクローリーは衝突して互いに火を噴き、タンクローリーに引きずられ2台もろとも崖の下に落ちてゆく。
その際の、タンクローリーの音がまさに断末魔の怪獣の声そのものであった。

デイヴィッドは時計を見ながらの商談に向かう最中であったにも関わらず、ずっとそこの場に座り続け、すでに夕日が落ちようとしていた。
どんな想いに耽っているのだろうか、、、。いや、さぞかし想うことがたくさんあるはずだ。
腰が上げられなくなっているのは、よく分かる気がする。


タンクローリーの運転手はついに一度も顔を見せることはなかった。


この次に来るのが「ジョーズ」というわけか、、、。
なるほど。


Duel001.jpg





ジョン・ウェットンに捧ぐ 土曜日の本

John Wetton001

ジョン・ウェットンが2017年1月31日に亡くなった。
癌であった。
何とも言えない虚脱感に襲われ、それを記事に書こうなどという気持ちは微塵もなかった。
わたしにとってジョン・ウェットンは、キング・クリムゾンがもっともそれらしかった第2期を支える柱である。
彼の死によって、確実にひとつの時代がプッツリと終わった。

カール・パーマーはここのところ、連続して追悼の意を発表し続ける立場である、、、。
(このあまりに重い連続追悼を彼はどう捉えているのだろう、、、彼もさすがにキツかろう)。
キース・エマーソン、、、グレッグ・レイク、、、ジョン・ウェットン、、、考えてみると恐るべき才能の消滅だ。
(彼らは、まさに才能と技量のみで生きていたことを確認する。変な付加価値は必要としない)。
今日、何気なく、エイジアのファースト(1982年)を聴いて、楽観的でポップな気分に浸ったためか、少しだけジョンのことを書いてみたくなった。

わたしは、あまりクリムゾン以外の彼に興味はなく(ファンの風上にもおけないが)他の音源はあまり聴いていない。
だが、彼のインパクトがわたしにとって絶大であることは間違いない。
クリムゾン二期が余りに絶対なのだ。

かのロバート・フリップをして「彼はわたしのヒーローである」と言わしめた男である。
それにしてもどのような文脈でこれをフリップが言ったのか、さっぱり覚えてはいない。
何にしてもロバート・フリップに尊敬されるようなヒトはまず、そうはいまい。


クリムゾン以外でわたしが彼を聴いたものは、ないわけではない。
だが、やはり創造の水準が異なりすぎる。
有り得ない強度~微分的な演奏によって生成と解体の間を行き来するクリムゾンの世界は驚異であり別格なのである。
他のアーティストのものは、いくら緻密に複雑に構成されていたとしても程よい計算のレベルに想える。

とは言え、彼の参加した優れたユニットを強いてあげれば、UKか。
確かに、ありえない程の布陣であった。

ジョン・ウェットン 、、、vocal/bass guitar/moog pedal bass
ビル・ブラッフォード、、、 drums/percussion
エディ・ジョブソン、、、 organ/CP-80/CS-80/minimoog/electric violin/backing vocal
アラン・ホールズワース、、、 guitar/backing vocal

スーパーグループであり、この強烈な個性から持つはずはないと思った。
勿論、出た瞬間に購入した(笑。
直ぐに空中分解すると思っていたし、、、。

最初から分かっていたとは言え、予想を上回る凄まじい演奏であるが、尺の長くてテンションのやたらと高い曲にリスナーはついて行けなくなる。そのため、セールスは伸びなかった。それがわたしにも予感できた。
フリーキーなハイテクジャズロックより更に凄いものであったが、時代は違うものを求めていた。
斯く言うわたしも、その芸術性の高い造り込まれたサウンドに引込まれはしたが、彼らメンバーの名前で聴いていたふしはある。
極めて高い水準で作られたコンテンポラリーミュージックであったが、この方向性は直ぐに途絶える。


それからジョン・ウェットンが音楽ファンの誰にも広く認知された商業的にも大成功を果たしたエイジア。
売れ線は一切聞かないつもりのわたしも、さすがにこのグループのファーストは聴いた。

ジェフ・ダウンズ 、、、 Keyboard (元バグルス、イエス)
ジョン・ウェットン 、、、 vocal/bass guitar/moog pedal bass (元キング・クリムゾン、UK)
スティーヴ・ハウ 、、、 guitar (元イエス)
カール・パーマー 、、、 drums/percussion (元ELP)

ジェフ・ダウンズの役割(主導権)が大きい印象があり、エイジアはやたらとポップであった。
正直、戸惑った。バグルスを重厚にスケールアップさせたようなサウンドに思えた。
ジョン・ウェットンのボーカルは美しく、ベースも相変わらずアグレッシブであり、作曲にも携わっているのだが、、、
UKにまだ残っていた作家性や芸術家気質は抑えられているようであった。
彼の新しいポップで爽やかで明るい局面を覗いた気分であった。
とてもある意味キャッチーで短いポップチューンでアルバムは構成されていた。
どれもシングルカットでヒットを狙えそうなものばかり。
確実に、アルバム一面で一曲(ともかく長く複雑な曲構造)というプログレ時代からの脱却であり、それを求めるヒトがこのサウンドを待っていたのだ。時代に迎え入れられたに違いない。

しかしどこかわたしには寂しい感触が残った。
それまでの深淵から響いてくる知的な翳りに染まったジョン・ウェットン節は影を潜めてしまう。
例えば、在り来りな曲を書くことでみんなから辟易されていたユーライア・ヒープに短期間在籍した時も、彼の書いた曲だけ飛び抜けて重厚で美しく変幻するメロディーをもち、際立っていた。当然アルバム全体のリズムが格段にレベルアップしていることも素人にも明白であった。ジョン・ウェットンが少しでも絡んだユニットは確実にそれまでにない荘厳な響きを纏ってきた。
彼のベース、魅惑的なボーカルも他にないものだが、わたしは彼のもっとも特筆すべき才能は作曲にあると思う。

しかし、彼はこの「エイジア」の方向性がとても気に入っていたようだ。
あくまでもエイジアの活動を主体にして、他にも色々なプロジェクトに参加はしていた。
ジェフ・ダウンズとの曲作り、も含めこのふたりがグループの中心であることは、明白である。

ここでは、ソロでいくらでも目立てるヒトが、皆抑制を効かせて、短くタイトなポップチューンをまとめることに専心している。
とは言え元々ポップ路線のバンドでは、こんなアレンジとダイナミックな演奏など、まず無理であることが分かる。
超絶技巧のミュージシャンが、ソロプレイを封印してポップな曲作りに専念した結果のカラフル(複雑)で前向き(そうまさにそれだ)なサウンドを提供している、と言える。
しかしこのグループもぶつかり合いは激しく、メンバーも安定せず、ついに主要メンバーのジョン・ウェットンも永久に抜けてしまった。
それでも元イエスのメンバーの補充で(わたしはその人を知らない)今後もグループは続行するそうである。
しかし、ジェフ・ダウンズの受けた喪失感はやはりとても大きいようだ。

「彼の作曲はこの世のものとは思えなかったし、彼のメロディとハーモニーも現実のものと思えなかった。彼は文字通り『特別な人』だったんだよ。」


これまで二期のクリムゾン(太陽と戦慄、暗黒の世界、レッド)を定期的に聴いていたのだが、、、。
そうしないと、感覚が麻痺してしまう。
このギリギリの神秘的ですらある創造のパフォーマンスの一角が欠けてしまった事実~空虚は思いの他大きい。
暫くは聴けそうもない。
ボーカルである分、尚更響く。

一期のクリムゾンのボーカルは、グレッグ・レイクである。
エピタフが更に現実味を帯びている今日、、、。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


でも、「土曜日の本」は、聴きたくなった、、、。
この曲と「堕天使」。
改めて、、、。

John Wetton002

戸嶋 靖昌 ~ リアリズムとは何か

Toshima Yasumasa004

1934年 – 2006年7月20日

戸嶋 靖昌というひとは、徹底してリアリズムを追求したひとであると思う。


リアリズムとは、何か?
リアリズムとは、いやリアルとは時空を超える出現である。

それは現れるべき場所に自ずと現れる。
はっきりそれと分かる本質である。
彼の絵を見てそれを知った。

Toshima Yasumasa003

「肉体は朽ち果てるものであって、本質的には存在していない。腐ってゆく過程こそが肉体なのだ。だから愛情がなければそれを見つめることはできない。」


このことばなのだ。
わたしは、自分の恐れを自覚した。自分の分裂的内向を。
肉体的時間性を超える「ことば」を追求している当人が、肉体~現象に足をとられていてよいのか、、、。
腐ってゆく過程を観ることのできる眼差しこそが、愛情なのだ。
無に帰してゆくその場所(存在)に畳み込まれて晶結していたすべての時間が振りほどけてゆく、、、
それを真正面から見据えることこそ。
「コッポラの胡蝶の夢」のドミニク・マテイは、研究を最後の最後に愛情のために断念したように見えて、元々研究も愛情においても中途半端で自らのうちでも引き裂かれていた。彼は真に対象に対して身を晒していない。その結果の必然的な挫折に過ぎなかった。

それがよく分かる戸嶋 靖昌の絵であり、ことばだ。


形を忠実に模する絵は散々見てきているし、わたしも無自覚にやってきた。
「それは偽りの魂を描いてしまう危うさがある。」(偽りの愛でもあろう)。
それは、彼の絵を見れば瞭然である。
「本質そのもの~魂」とは何か。
そのことばを形象化すると、この絵以外のものにはならない。
それだけ明白なのだ。


腐ってゆく過程を腐りゆく生命の哀しみを、生命が消えてゆく瞬間を、凝視する。
戸嶋 靖昌によれば、それこそが愛情なのであり、それによってはじめて「対象が持つ全ての時間~思想」が絵として立ち現れる。

だから彼は人体に拘った。
「人体そのものの描写は、19世紀でモチーフとしては終わっている。しかし何故、取り組んでいるかと言えば、人体のなかに生きるものに共通する力があったからだ。」

Toshima Yasumasa001


何というべきか、それは(ミケランジェロの)彫刻と見紛う強度をもつ絵である。
実際彼は彫刻を学んでいる。
そのことは技法(方法)的に小さくない。
そして彼の尊敬するベラスケスの絵とスペイン・グラナダの生活に密接し人々に染み込んだキリスト教に浸る25年。
彼のモデルは、ほとんど酒場で知り合ったアル中の男だったり、近所の世話になったご婦人などであった。
「ミゲール(アル中の男性モデル)は、奥底に無類のエレガンスをもっている。彼は無だから、全てでもある。」

Toshima Yasumasa002


彼は生前、作品をほとんど手放さなかったという。

今は、半蔵門にある「戸嶋靖昌記念館」*でそのほぼ全貌を観ることができるようだ。

                                 *要予約。03-3511-8162


秘密基地

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長女が近頃、しきりに「秘密基地」が欲しいという。
自分だけが鍵を掛けて出入り出来る場所がどうしても欲しいのだそうだ。
自分の部屋ではダメなのだ。
謂わば、秘密の活動拠点が必要となっているらしい。

しかし、その構築に関してわたしに相談してくるのだから、余り秘密に拘っているようでもない。
どうやら、場所~位置は知られていても、自分以外の人間の出入りが自分ひとりの裁量で決定できる空間が欲しいようなのである。
具体的には、鍵の掛かる部屋らしくない部屋なのだ。

聞くだけでワクワクするではないか、、、。
わたしも子供時代そういうのが欲しかった。
わたしの場合、近くの空き地の鉄骨の捨ててあるような場所を友達と一緒に基地と見立てて遊んだことはある。
だが、基地と呼ぶには程遠かった。
充分、象徴性はあって、ある意味役目は果たしてはいたのだが、、、。
その当時、庭で作った「かまくら」の方がそれらしかったのを今でも覚えている。
(今でも秘密基地的な空間は欲しい。それは所謂「部屋」ではないのだ)。
ニトリのCMで確かあった、、、大人向け「ニトリでつくる憧れの秘密基地」というの(笑。
そこでのコンセプトはあくまでも個人の嗜好に特化した包み込むような空間という感じであったが、、、。


長女との密談では、わたしの提案で、書庫の2階を利用することに傾いた(まだ決定ではない)。
それを話しながら、彼女は眠くなって寝てしまった、、、。
これから継続審議である。

さて、どうするか、であるが、どうもこうも、場所など何処にもないのだ(笑。
どの部屋もただの普通の空間以外に使えそうもないことは明らかであるし、階段下倉庫やウォークインクローゼットなど、もう隙間もない。押入れもダメ。とくればもうそこしかなかった。

わたしが昔、描いていたかなりの数の絵のカンバスを整理すれば場所は空くのだ。
ただ、そこに登る階段を大分前にわたしが外してしまっており、いまや忍者でなければ上に登れないようになっている。
今回長女のおねだりは、その問題に、改めて直面する機会となった。

適当な梯子があれば、上り下りは彼女がうまくやることだろう。
彼女はジャングルジム系が得意で、高いところに登るのも好きだ。
高いところがからきしダメな次女との階級闘争が明らかにかかっているこの基地問題は、この点でも合意が得られると思われる。

朝起きたら、その線で改めて確認してみよう。
まさか、起きたら何のことやら忘れてたなどということはあるまいな、、、と少し心配なのだが。

「秘密基地」は「廃墟」とはまた異なる、妙に濃密に畳み込まれた自分だけの息苦しさすら覚える魅惑的な記憶に向けて開かれている。その記憶内容は、しかし「まっさら」である。秘密基地なんて実際にはなかった(ないのだ)から、、、。
だが、本当に作ってみたいという思いはある。

そうしたらどうであろうか、、、?


そういえば、少し前、女子美の学生が公園に作って置いた鳥小屋を拡大したような木の小屋をとても気に入って遊んでいたのを思い出した。
あれは、休憩室でもただの遊具でも廃墟でもない、秘密基地に違いなかった、、、。





北ホテル

HOTEL DU NORD001

HOTEL DU NORD
1949年
フランス

マルセル・カルネ監督・脚本
「天井桟敷の人々」には圧倒された。それからみるとこじんまりとした感はあるが、味わい深い作品である。


ジャン=ピエール・オーモン 、、、ピエール(売れない画家)
アナベラ、、、ルネ(孤児の寄る辺ない娘)
ルイ・ジューヴェ 、、、エドモンド(謎の男)
アルレッティ、、、レイモンド(エドモンドの情婦)

HOTEL DU NORD003


パリのサン・マルタン運河のほとりに建つ北ホテルが舞台。
小さな庶民のためのホテルである。水門が近くにあり、街並みにしても古くてパリのひとつの姿を垣間見せている。
丁度、ホテルの主人夫婦が娘の初聖体を祝うパーティで賑わっていた時だ。
16号室の客ピエールと恋人ルネが心中を図った。生きることに疲れ死に魅せられたカップルである。
ルネは相手の男に撃たれたが、その音を聞きつけドアを破って駆け付けたエドモンによって病院に素早く搬送される。
エドモンは何故かピエールを警察には突き出さず、逃がしてしまう。
ルネは急所は外れていたためか、回復は思いのほか早かった。
ピエールは、結局死ねず警察に自首する。
そこから物語は、ルネを中心にまわり始める。

行くあてのないルネは北ホテルでメイドとして働くことになり、その美しさから周りの注目を浴びることになる。
下町の人々は彼女を人情深く受け入れてゆく。ちょっかいを出す男もいるが彼女は全く見向きもしない。
彼女に想いを寄せていた謎めいた影ある男エドモンは情婦のレイモンドと縁を切る。
刑務所のピエールは死なずに逃げた自分を恥じ、面会に来たルネに対しこころを閉ざす。

エドモンは、ロベールという本名をルネだけに明かす。
彼女に自分のアイデンティティを晒す。そのことで、彼女はエドモンにこころを許す。
面会で頑なに別れ話を持ちかけるピエールにルネはもう成すすべもない。
再び絶望して路頭に迷うルネはエドモンとどこか異国で生活することに決める。
二人は急速に接近し、結ばれたかに見えた。
昔の悪友に命を狙われているエドモンにとっても、ピエールを吹っ切ろうとするルネにとってもそれが一つの決断の選択でもあったのだ。
船に2人して乗りこむが、やはりルネはピエールへの未練が断ち切れない。エドモンもそれを見て悟る。

ルネは一人船を出て、北ホテルに舞い戻る。
時はパリ祭のたけなわ、そのダンスの後で、出所が決まったピエールと落ち合うことになっていた。
船から立ち戻ったばかりのルネの説得でふたりは、今度こそやり直すことにしていたのだ。
エドモンがその祭りに取って返してきて、彼女に改めてお別れを告げる。
ルネもエドモンと一緒に国を出ようとした決意には嘘はなかったことを告白する。

ルネはエドモンにホテルの部屋には近づかないように警告する。
彼に振られたレイモンドが彼を追っていた男に待ち伏せさせていたからだ。
しかしあえてエドモンは、その男の待つ部屋に行き、自ら彼にピストルを投げて渡す。
ピストルの音は、祭りの爆竹の音と思われ誰にも気づかれなかった、、、。


HOTEL DU NORD002

エドモンは、雰囲気としては「サムライ」のアランドロンに似た虚無的なダンディズムを貫いていた。
わたしとしては、そのまま透明感あふれる清楚なルネと彼が結ばれてもよいなと思っていたが、、、。
ピエールと一緒に本当にこの先やってゆけるのか、不安要素は拭えない。
あまりに脆弱なロマンティストであり、現実感が薄そうな優男なのだ。
ホテルの主人が別れ際、また自殺なんかするなよ、とルネに冗談交じりに言っていたが、、、

絵の作り(カット)からしてロマンチックである。
王道のメロドラマを観たという感触だ。
たまには、こういうのもよい。


ゲームの規則

RULES OF THE GAME001

LA REGLE DU JEU      RULES OF THE GAME
1939年
フランス

ジャンルノワール監督・脚本

マルセル・ダリオ 、、、ロバート
ジャン・ルノワール、、、オクターブ
ノラ・グレゴール、、、クリスティーン
ローラン・トゥータン、、、アンドレ
ポーレット・デュボスト、、、リゼッタ
ミラ・パレリ 、、、ジェヌビエーブ
オデット・タラザク 、、、シャーロット
ジュリアン・カレット、、、マルソー


第二次大戦開戦前夜の上流階級の恋愛ゲームのバカ騒ぎが描かれている。
映画に出てくる見事なオートマタのように全体が豪華で虚しいからくり人形の群像劇に想えてくる。
ピストルがよく撃ち鳴らされる映画であるが、特に狩りのシーンが殺伐とした彼らの日常を象徴していた。
森で動物たちが木の棒で駆り出されてゆき、銃を持った狙撃者たちが一斉に撃つ。
すると、地面に獲物がボトボトと落ちてくる。うさぎや鹿も倒れる。
アッケラカンと淡々と次々に撃つ。落ちる。倒れる。
そして文句を言ったり疲労を覚えたりしながら屋敷に戻ってゆく。
狩りが終わったら、仮装パーティーだ。
絶え間ないお喋り、喧騒の続くパーティー。
娯楽の時空は途切れることがない。
終わることの出来ない自動演奏ピアノ。
様々な出し物と狂態。
退廃的ということばが無理なくあう。

そこでは女性も男性も婚姻に関係なく恋愛対象を別に求める。
これはブーシュやフラゴナールの絵にもよく表れているフランスの伝統か。
そして、小間使いや下僕の動きが絡む。
パーティー会場の退廃秩序をさらにかき混ぜてゆく。
森番の男が嫉妬に狂い相手を追い回して銃を撃ちまくる。
悲鳴と怒号と混乱。

屋敷の内外の混沌の度合いが高まってゆく。
エントロピーが無闇に増大する。

そこでフランスらしく、オシャレにケープが物語の最後を締めくくるアイテムとなる。
自分の妻のブーケを被った屋敷のご婦人を闇のなかで妻本人と勘違いし浮気相手共々撃ち殺そうとする森番。
そのケープが標的となるが、中身は別人であることにいつまでも気づかない。
そしてその浮気相手に狙いを定めたときそれは別人であった。
葛藤の結果、選手交代して勢いよく(運悪く)飛び出た男である。
(とは言え最初から、森番とはなんの利害関係もないペアであったのだが)。
盲目に蒙昧に暴走した男が、銃で撃つ根拠もない相手をターゲットロックしていた。


これは単に無秩序さがいつも以上に増しただけ、その結末に過ぎない。
そもそも、ゲームの規則とは何か?
社交界の暗黙の規則にしっかり則ったゲームをそれでも誰もが行っている、のだ。
(ただの無秩序に見えてそうでもない線~微妙な規則が通っている)。
殺された飛行士アンドレも誤って殺してしまった森番もそのゲームの規則を無神経に逸脱してしまった。
そのために働いた力学の結果といえよう。
(もう少しだけ正確に言えば、アンドレは自分勝手な規則を無理やり持ち込んでしまったこと。森番は嫉妬からくる殺意に歯止めが効かない単なる殺人という逸脱になろう)。

そして、屋敷の主の計らいで悲劇的な「事故」として括られる。
「皆様、お騒がせいたしました。お風邪を召さぬよう、どうぞお入りください。」
で終わる。

第二次大戦開戦前夜にもうたどり着くところまで、たどり着いていた部分~面を受け取った。
勿論、時代を超えた普遍性もある。
これは物語のひとつに過ぎないが、登場人物や話そのものにしっかりリアリティが感じられるものだ。
また形式上、ドタバタコメディの元祖でもあろう。
軽妙なタッチで、恋愛ゲームに興じる人々の欲望と葛藤が虚しくオシャレに描かれている。


ジャン・ルノワールが他の役者より、芸達者で驚いた。
彼が一番、影が濃かった。
(役者で立派にやってゆけるひとである)。


写生を巡って 円山応挙

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少し前(かなり前だったか?)、「日曜美術館」で、「円山応挙」を見た。
そのことが、頭に残っていて、忘れないうちに肝心なことだけ書いておこうと思う。
「写生」に関して、である。

私のことであるから、番組からかなり離れた話題も結構入ってくるはず。
(というより、ほとんど番組はとっかかりとしているだけで、関係ない話になると思うが)。


彼は最初は、狩野派の様式美に学んだ人であり、番組では独学で絵を学んだと言っていたが、何故そういうことにしたのか、、、。
応挙は狩野派を批判的に乗り越えたリアリズム画家であると思う。
そのために、型に嵌めずに自由に素質を伸ばせということを敢えて強調していたのだろう。

応挙のまず言うには、「対象を観察し形を写すことを極めれば、自然とその生き生きした生命感を表現できる」(番組より)という大変真っ当なことが述べられているが、、、
彼の徹底した写生の実践は、ただ見たままを描きなさいと言っている訳ではない。
見ること自体、言語作用である。
誰もがことばによって外界の光の渦を有機化~分節化した結果の表象として環界を捉えている。

彼の重要な教えは、「現実の世界に意識を向け、物事の道理を把握してゆけば、万物を描くことができる」(同番組)にこそあろう。
ここで謂う「道理」である。意識的に世界を見つめ直すために「道理」で観てゆく姿勢である。
物理的に事象を捉えれば、どのようなものも、自然に在るがごとくに描ける、と。
まさにレオナルド・ダ・ヴィンチと同様の視線である。
「写生の極意は野の人や山の人をつかまえては聞くことにしていた。」(本朝画人傳 村松梢風著)というところにも窺える。
つまり実際に、そのもの~現象や生き物など身近によく知っている人に確認すれば、様式的に描いているオカシナところを指摘してもらい自分の目で冷静に再度よく観察しなおすことができる、ということを意味する。
「馬は草を食べるときは目を庇って閉じるのだと諭された」(本朝画人傳)ことなど、その動物の習性を正しく捉えることで、より真に迫った自然な絵を描くことができるはずだ。
彼の謂う「対象を観察し形を写すことを極める」というのは、「道理」~客観的な自然観察(物理的な)によって可能となることである。
それによりはじめて、それまで受動的、習慣的に身につけてしまっていた先入観から抜け出せることを意味する。
(様式的な絵を脱することが可能となる)。
言語の対消滅の結果である。
真に対象に迫るには、先入観や常識を解体し、それに代わる新たな知(物理的な見方)の獲得が不可避なのだ。
そのへんのことは、全く番組では触れられていないが。
応挙は、相当な教養人であったはずだ。

そのひとつに子供時代奉公に出されたという高級玩具店で受け持った「眼鏡絵」作りの遠近法的捉え方、3次元的描写(後の松の枝の描写などに見る)に大きく寄与していると考えられる。レンズも墨で巧みに描き分けられた光と影の表現に役立ったのではないか。
これら若い頃の経験は、応挙の科学的(光学的)な絵画の研究~アプローチに役立っているはずである。
デルフトの画家フェルメールもまさにレンズ~カメラオブスキュラから多くのヒラメキと知識を得ていた。
また、絵画という2次元性の表現を(積極的に)徹底させるため、鏡で対象を映して平面化し、それを写し取るという大変合理的で理にかなった方法を編み出したのも、この時期身につけた思考法が効いているのではないか、、、。そこでブレのない像を発見し、命毛1本で描いたかのような細密でダイナミックな猫線も獲得する。


更に応挙の凄いところ、、、。
n-1の描き方である。
素人っぽい画家ほど只管重厚に描き重ねてゆくものだ。
(日本画家にもよくいる、金箔を隙間にベタベタ鬱陶しく貼るものとか、、、)

彼は、描かないことで、描き込むより饒舌にそれを示す~描くことをあらゆるところで試して成功させている。
「自分であらたに形を捉え直さなければ絵画とはならない」のである。
ここである。ここではじめて応挙の絵画となってゆく。創造となる。
「龍門図」の鯉が滝を登ってゆく中央の図など、シュールレアリズムの絵画と変わらない。
鯉が勢いよく抜け登る水の部分を紙の地とすることで、まさに生き生きとした自然の流水となっている。
如何に描き残すかで、「向こう側からの造形化」が発動する。
(これが現代の美術にもなかなか見いだしにくいものである)。
国宝「雪松図屏風」などは、その極みであり、描かれないことで、感じさせるものの極地を見せられる。
描き残されて反転し実体の重みすらひしひしと感じる松の枝にかかった積雪。
それは周りの空気とその気温をも生んでいるではないか!
ここまで、その生成を意識的に徹底させたのは、少なくとも日本では応挙がはじめてであると思われる。


書き始めたらきりがなくなりそうなので、この辺に、、、。

日本の画家について書いたのは、久しぶりであった。
その辺もこれから、改めて見てゆきたい。とても面白い鑑賞にもなるし。



あん

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2015年
日本/フランス/ドイツ

河瀬直美監督・脚本
ドリアン助川原作


樹木希林 、、、徳江(あん作りの名人、元ライ病患者)
永瀬正敏 、、、千太郎(小さなどら焼き屋の雇われ店長)
内田伽羅(樹木の孫) 、、、ワカナ(中学生)
市原悦子 、、、佳子(徳江の親友)
浅田美代子 、、、「どら春」のオーナー
水野美紀 、、、ワカナの母(放任、保護能力ない)


「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。
 ・・・だとすれば、何かになれなくても、
 私達には生きる意味があるのよ。」
徳江さんの言葉である。
充分に見て、聞いてきたか、、、それなら、やり残したことはない。
徳江さんも隔離された施設の窓から、ずっと長い間自然の様々な美と移ろいに遊んできたのだろう。
達観した眼差しといつも絶やさぬ優しい微笑みがそれを爽やかに語っていた。


川べり、桜並木の傍らにある小さなどら焼きの店、「どら春」
そこの店長千太郎。
常連のキャピキャピした女子高生(中生?)トリオ。
放任の母親と暮らす高校進学も危うい、周りから浮いた雰囲気の中学生少女ワカナ。
「どら春」のアルバイト募集に応募してきた徳江。
世間の人間代表という感じの店のオーナー。
後半に重要な役どころで顔を出す徳江の親友の佳子。

基本主要登場人物は限られている。

店の常連で失敗したどら焼きを渡す間柄でもあり時折、大衆食堂でも出逢う千太郎とワカナ。
そのふたりは、どちらも似ている。
人に怪我を結果的に負わせて服役し借金で身動きできない男と家にもどこにも身の置き場のない少女。
漂うように、ルーチンを何とかこなしているが、帰属する場所があやふやで本当に覚束無い。
自らの意思でそこにいるというわけではない居心地の悪さ、、、。
そこに、徳江さんが突然やって来る。

彼女は、「どら春」のバイトに雇って欲しいと店長に懇願する。
彼女の持参した「あん」の美味しさに驚いた彼は「あん」の担当をお願いする。
エプロン、キャップを付けた徳江さんが光のなかに輝く。とても綺麗であった。
あずきに話しかけ会話するように「あん」に向き合い、たっぷりと時間をかけて炊いてゆく。
その手間と愛情のかけ方を初めて経験した店長の千太郎。
「どら春」はかつてないほどの盛況をみせるが、それも束の間、徳江さんがライ病患者であったことが世間に知れ渡り、、、。
店から客は遠ざかる。

徳江さんは勿論、その成り行きの全てを知っている。
店長の「徳江さん、きょうはもう、このへんで」
このことばで、徳江さんは、「じゃあ」と別れを告げる。
これっきりの。

千太郎は、世間の非情さを実感するが、それより徳江さんを守れなかった自分の不甲斐なさに沈む。
ワカナは図書館でライ病について調べる。その歴史的実態を知る。
そこで調べた書籍のなかに次の一節を見つける、、、「わたしたちも陽のあたる世界で生きたい。」

ワカナは千太郎を連れて徳江さんの施設を訪問する。
千太郎一人では行けない。彼は自ら動けるほどしなやかなこころも器用さももたないタイプの人だ。
そこにいた徳江さんは短期間で驚く程、老けて衰弱している様子であった。
店で活き活きとあんを作ってお客に対応していた輝きがかき消えていた。(何と恐るべき女優か!)

そこでまた、彼女の親友の佳子からも甘もののご馳走を頂く。
「店長さん、お世話になりました。楽しかったわ。」
千太郎は、すべての想いが去来し、感極まる。
「店長さん、美味しいときは笑うんですよ。」


そして店はもう機能しないかたちにオーナーに打ち崩され、項垂れる千太郎を「ずっとさがしましたよ」とワカナが再び徳江さんのところへと誘う。
しかし、すでに彼女は3日前に亡くなっていた。
残されたカセットに、徹夜で前の晩に母が縫ってくれたワンピースを入所時に燃やされてしまったこと、授かったこどもを産むことが許されなかったこと、その子が生きていればちょうど店長くらいの歳であったこと、施設の散策でたまたま店長を見たとき自分が若い時にこの施設を一生出れないことを悟った時の目をしていて、いてもたってもいられなかったことが告げられていた。
千太郎も服役中に母を失っていた。

そして佳子から、お墓をもつことができないわたしたちは友達が死ぬと庭に木を1本植えることを教えられる。
徳江さんは、彼女の大好きなソメイヨシノであった。


「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。
 ・・・だとすれば、何かになれなくても、
 私達には生きる意味があるのよ。」


ただ、濃密に深く生きること。




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生命力

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あくまでも「生命力」とは、ではない。
そこを説くのではなく、「生命力」の恍惚を再認したいだけである。
昨日のマルキの映画でつくづく感じるところが、「生命力」であった。

その過剰とも言える「生命力」が危なっかしくも非常な魅力を感じる。
われわれがあれほどの迸る生命力を発揮し得るか?
単に幽閉され迫害を受けた事に対する反発や、予め備えている反骨精神と強靭な肉体(彼の場合は更に放逸な性エネルギー)だけで、あれほどの「表現欲」が生じようか?単なる破壊活動や殺人に向かっていてもおかしくはない。
マルキにとっては、何よりことば~物語が殊更に身体的~性的欲求・欲望を充たすものであったのだ。
そこへあらゆる欲望を抑圧から解き放つ純粋な表現欲を彼が真摯に認めた結果であろう。
彼にとり、あの「表現欲」こそが「生命力」そのものなのだ。

われわれは、自らの意思で閉じ篭もり、それを封じ込め枯渇させている。
ときに宗教的(道徳的)な美徳で合理化し。
(後にそれをアンドレ・ブルトンは痛烈に批判した)。
自ら囚われ人となり、その枠内で物事に悩んで抜けられないあのエッシャーの版画の男のように。
その枠をもっとも原初的で本源的なエネルギーをもって内奥から打ち壊してしまうことば~物語の力に彼の小説は満ちていた。
だから人々はそれ~焚書を(秘薬のように)隠し持って読んだ。
(恐らく論理をもってしなくとも、人々を解放し得る唯一の方法であったかも知れない。そう言ってしまうと宗教はどうなんだという声が聞こえるが、仏教の「南無妙法蓮華経」はこれに近い過激さを感じる。キリスト教についてはすでに書いている)。

表現は他者あってのものである。
創造はその新しさを他者が認めるところにある。
彼は生粋の作家~芸術家であった。
彼もまた他者を何よりも必要とした。読者がいることが彼をワクワクさせた。
次作をみんなが待ってるわと言われれば、書かないわけにはいかない。
どんな障害があろうとも書かないではいられないのだ。
神父は書くことで自らの「毒」を対象化し、精神が清められると期待していたが、マルキは日記を書いているつもりなど微塵もなかった。
彼は端から開放系に属する。隠し事もまるでない。
(物語の後半からは、布一枚身につけていない(爆!)
それ以前に、自分が毒に犯されているなどとこれっぽっちも思っていない。
言うまでもなく(宗教の)阿片に毒されているのは、お前たちだ、となる。
確信は絶対的なものであった。
彼の強さの根拠である。

彼こそ健全であった。
その激烈な生命力こそが証である。真理である。
旺盛な表現欲は生=性そのものの発露であったのだ。
そしてその対象である読者~他者とは、マドレーヌであった。
ストイック(プラトニック)な彼女への愛が底知れぬ「生命力」=「表現欲」の源であった。
恐らく、、、。


まず、なんといっても生命力を枯れさせてはならない。
それを強く再認識する作品になっていた。


クイルズ

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Quills
2000年
アメリカ

フィリップ・カウフマン監督・製作
ダグ・ライト脚本

ジェフリー・ラッシュ、、、マルキ・ド・サド
ケイト・ウィンスレット、、、マドレーヌ
ホアキン・フェニックス、、、クルミエ神父
マイケル・ケイン、、、コラール博士
ビリー・ホワイトロー、、、ルセール夫人
アメリア・ワーナー、、、シモーヌ

書くことへの凄まじい執念だ。
みんなマルキ・ド・サドに自分の信念を試されている。
これは痛快だ!

この激越したリビドー、大したものである。
そして笑える。
この笑いのセンスにも命がけだ。
ちょっと痛ましいが。
マルキ・ド・サドの天才を認めたのはマドレーヌだけか、、、?
いや、みんなが恐れているのだ。だから彼を排除する。だがその本源力から彼に惹きつけられる。

書こうとする意欲は勿論であるが、彼の生命力が只ならぬものだ。
性と生はほぼ同等の根深さと本質力がある。
でなければ、フロイトが精神を分析するにあたり性を俎板に乗せはしない。
であるから、ここの部分が病むと精神に障害や異常を来す。
それは生命力と創造力の源であろう。

言葉にすれば抑えた感情が行動をとる、、、クルミエ神父ギリギリの至言だ。神父の限界だ。
ここでも自分の恐れを知ることが試される。認めることが試される。(昨日見た映画と全く繋がる)。
神の名(美徳の観念)をもって自分の感情~生命力を抑圧する。
性の抑圧はとりもなおさず生の抑圧ともなり、、、。
人の持つ本源的な力~感情・感性・創造力・思考力は瘦せ細る。

サドの戦いは凄まじいものであるが、性に本源的に纏わるユーモアが物語をとても軽妙にし重くし過ぎない。
そう、性とユーモアは非常に近い。
共に原始的(本能的)な生きる力となり形骸化した枠を解体する力となる。
同じ精神病院にいる患者たちとの舞台劇を通しての交わりなど極めて下品な祝祭=ハレの場である。
それを如何わしそうな表情をこしらえながらも、楽しんでいる偽善的で欺瞞に満ちた観客たち。
この時代の抑圧された庶民が如何に生命力を高める「異なる物語」を求めていたかが分かる。
言うまでもなくキリスト教教会勢力=制度に対する反逆に他ならない。(それと意識せずとも)。
この意味でサドは閉塞空間を打破するシュールレアリストである。

このサドの生命力は人々を無力化して支配しようという勢力にとって危険なものでしかなかった。
であるから、彼はほぼ一生に渡り、バスティーユ、ヴァンセンヌ、シャラントンに幽閉され続けた。
確かに支配者にとってもっとも危険な存在だ。
彼の書物を読んだ者たちが次々に自分を解放して自分を生きるために出て行ってしまう(爆!
コラール博士の若妻シモーヌも自らを見出し、若い燕と駆け落ちしてしまう。
コラール博士怒り絶頂で、その憤懣のありったけをサドにぶつける。
しかし、彼はへこたれない(笑。
迫害されても物語をあらゆる方法を見つけて書いてきた彼だが、もう書く手段を全て奪われたかと思うと、、、
彼は大声で牢獄から叫んで、マドレーヌまで(患者たちの)伝言で口述筆記させる。
これはもう笑うしかない。どんなコントより面白い。

「親愛なる読者よ。かくも不道徳な物語を聞かせよう。覚悟なされよ。」
シビレル(笑。
この時代に、大した男だ、というより破格な存在だ。
しかし神の造形、その美は認めている。
人々の神の権威の利用に徹底的に背く。
宗教や道徳を断じて受けつけない。不屈の闘志で拒む!(わたしも当然!)

物語の火から本当の火事になる話のくだりがうまい!(興奮しすぎた患者が実際に火をつける)。
しかし実際にマドレーヌまで殺されてしまう。
生きた言葉の危うさである。
まさに「患者が水の上を歩こうとして溺れたら、神~聖書のせいか?」
物語としてよくできている。
舞台劇の映画化というのがよくわかる流れであった。
音楽の絡みもよい。


キャストはだれも言うことなし!
ケイト・ウィンスレットが特に魅力的であったが、アメリア・ワーナーの小悪魔ぶりもなかなかのものであった。
ホアキン・フェニックスの繊細にギリギリのところまで葛藤しついにその壁を突き破る神父は鬼気迫る名演である。
これほど凄い役者であったか、、、リバー・フェニックスの弟はやはりただ者ではなかった。
ジェフリー・ラッシュの懐の深さというか、役者魂には、、、ただ恐れ入る。
とは言え、「やさしい本泥棒」「鑑定士と顔のない依頼人」の彼の方が好きではあるが、、、
これは余りに凄すぎた。




ブラック・スネーク・モーン

Black Snake Moan

Black Snake Moan
2007年
アメリカ

クレイグ・ブリュワー 監督・脚本

スコット・ボマー 音楽
アメリア・ヴィンセント撮影

サミュエル・L・ジャクソン、、、ラザラス(ブルースギタリスト)
クリスティーナ・リッチ、、、レイ (義父による性的虐待からトラウマを抱える女性)
ジャスティン・ティンバーレイク、、、ロニー(レイの恋人、重度の不安神経症)

わたしは、ブルースに疎い。
しかし全編に流れるブルースは、とても物語に厚みと渋みを加えていた。
何故か無性にクリームを聴きたくなった。(ロックによるブルースの解釈のもっともすぐれた成果である。わたしはそちらに馴染んできた)。
カメラワークも凝っていて、斬新に感じた。

「黒へびのうめき」
まさに闇~無意識から襲い掛かってくるものの呻き。
それに常に脅かされ苦しめられる者たちの希望まで描かれている。
(前途多難ではあるが、雄々しく彼らは一歩を踏み出してゆく)。

自分たちの恐れを認める。
ここである。
「私、いいものをなぜかダメにしちゃうの」とレイは言う。
そうなのだ。
こころに深い傷を宿している者の魔の反復に怯えるナイーブな言葉。
虐待を受けて育った者のトラウマ、そして深い絶望や慢性的な病に対し如何に立ち向かうか、その姿を描いてゆく。
暗闇からいつも衝動的に飛び出てくる魔物を根絶することは、難しい。
しかし、絶望に喘ぐ者、病やトラウマに深く囚われた者同士の理解と助け合いがあれば道は開ける。
やはり、お互いに解り合える者が必要なのだ!
この映画のテーマとなっているのが、自分の魂を救うにはまず、彼女を救わなければならない、、、である。

その彼女とは、ひどく殴られ道に転がっていた若い女性レイである。
彼女を拾ったやはりこころに傷を負った男ラザラスが、自分の損得を顧みず宗教的な精神性をもって彼女の力になろうとする。
クリスチャンであることと、この姿勢はそのまま繋がらないと思う。
これはあくまでもラザラス固有の心性~直覚した使命感による。
そして当然、音楽本来の力である。
ラザラスが懸命に彼女に尽くし手だてを講じようとも、やはりもっとも大きな薬となってゆくのは彼の音楽だ。
これは、わたしも身をもって経験してる。
音楽がなかったら、自分がどうなっていたか分からない。
(キング・クリムゾン~プロコル・ハルム、、、ジョイ・ディビジョン~ニュー・オーダーである)。

やり方は、まずは彼女を衝動的性的発作の際の対象をシャットするための頑丈な鎖で繋ぐという方法であった。
これには繋がれた方は激高するが、やがて彼流の療法に慣れてくる。
傷薬を塗ってもらい、彼の育てた野菜をたっぷり食べ、上品なドレスを買ってもらって身に着け、彼のブルースを聴いて過ごす。
彼女もある朝、自分で曲を作ってみる。彼がそれにギターで合わせて歌う。
相互理解と親和的関係がしっかりと築かれてゆく。
彼女は母親とその関係はついに結べなかった。彼女の幼いころの過酷極まりない生を母親は全く認めなかった。
彼は弟に妻を奪われてしまっていた。妻は全く彼に理解と愛情をもたなかった。
そんなもの同士であるからこそ、理解しあえる水準がある。
自暴自棄のこころを昇華させる場所も生じた。

彼女の恋人ロニーも重度の不安神経症に苦しんでいた。
お互いに支え合い彼ら二人は結婚し、別の街へと旅立つが、ロニーにもレイにもまだまだ時間は必要であった。
ロニーは、車の運転中に騒音に耐えられなくなり、道端に車を止めて必死に堪える。
彼女も発作的性衝動が過るが、ラザラスから結婚式でもらった美しい鎖のアクセサリーを腰に締め発作を抑える。
彼女は自作の歌をロニーに聴かせて落ち着かせる、、、。
二人とも相手を理解し合い、快方に向かってゆくことを暗示させつつエンドロールへ、、、。

この映画、、、「私、いいものをなぜかダメにしちゃうの」にせよ、音楽の取り込みにせよ、よく分かっている。

中途半端な映画ではない。
無論、キャストの演技も半端ではない。
クリスティーナ・リッチにここまでやらせるか、、、とは思ったが。
スリーピー・フォローの彼女が懐かしい、、、それを言うならアダムス・ファミリーか?「アフターライフ」も忘れ難い)。
文字通りの体当たり演技であったが、彼女の瑞々しい感性を感じた。
サミュエル・L・ジャクソンは、わたしの知る限り、彼の他の映画より渋く魅力的であったし、歌も上手いことが分かった。
ミュージシャンのジャスティン・ティンバーレイクが全く歌わず、ジャクソンが歌いまくり、最後はクリスティーナ・リッチに優しく歌ってもらうという役柄、演出が面白い。本当の玄人は一小節も歌わない(笑。
また、牧師とリンカーン少年がとても良い味を醸していた。

しっかりできたよい映画である。



ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅

Nebraska 001

Nebraska
2013年
アメリカ

アレクサンダー・ペイン監督
ボブ・ネルソン脚本
マーク・オートン音楽


ブルース・ダーン、、、ウディ・グラント(100万ドルを当てたと思っている老人)
ウィル・フォーテ、、、デヴィッド・グラント(ウディの次男、AV機器店主)
ジューン・スキッブ、、、ケイト・グラント(ウディの妻)
ボブ・オデンカーク、、、ロス・グラント(ウディの長男、ニュース・キャスター)
ステイシー・キーチ、、、エド・ピグラム(ウディと自動車整備会社を共同経営していた男)


何とも言えない広漠としたハイウェイとそこに流れる音楽はピッタリ合っていた。
ふたつの心をつなぐ旅にはとても思えなかったが。
次男が只管、大苦労しただけの映像にしか思えなかった。
「老い」の問題もひとつのテーマに感じる。
そう、誰でも老いるのだ、、、。
その老いた父と家族(特に次男)の関わりの問題も分ち難い。
話に特別なものは何もなく、何処にでも起きうる日常の光景であるが、、、。

しかしキツイ映画であった。
感情移入は全く無理。
確かに大人になってから、父親とどこかのタイミングで一度じっくり語り合っておきたいという気持ちは理解できる。
好むと好まざるとに関わらず、この親の遺伝子を受け継ぎ、知らずこの親の言葉を喋っている部分は間違いなくあるのだ。
父親と語ることで、自分が逆照射されるところは、確実にある。
思わぬ内省の契機にもなったりする。
だから、もう先の短い父に一回はしっかり関わっておきたいという拘りは分かる。

しかし、すでに父親は現実界から異なる幻想界に移行している。
老いが、身体の衰えだけのレベルならまだしも、精神(思考)からも弾力性を奪っていた。
母は、相変わらず頑固で、、、とか言ってはいるが、頑固~頑なで意地っ張りとかいうレベルではない。
いくら説明して引きとめようとしても父は懸賞金の引き換えに行くんだと受け入れられない状況に来ている。
本来は、はじめから詐欺と分かっている100万ドル当選の受取などに行かせるべきではないのだが、次男としてはお父さんとの旅をここで経験しておきたかったのだ。
老後の外界からの刺激の乏しさは急速に心身の衰えを増す。(ちょっとした冒険も良い刺激ではないか、、、)。

きっと今のうちに父にやりたいようにやらせて、少しでも彼を理解しておきたかった。
父も子供に対する愛情は内奥にはもっているが、もうそれを何かであらわしようもない。
その気持ちが何やらその詐欺ダイレクトメールに固執する形になって現れているのだろうが、、、。
懸賞金、コンプレッサー、新品のトラック、、、これらへの拘りが彼を生かしているとも言えた。
(この人生最後における滑稽さはペーソスに満ちてはいる)。
この距離感と歯がゆさと愛おしさ、、、息子から歩み寄る以外にない関係だろう。


この息子の苦労するところは、父がその詐欺の手紙を心底信じ切っていることだ。
そして父子の遠距離の車の旅の途中で、父は出逢う昔の仲間や親戚に自分が100万ドル当たったことを口にしてしまう。
すると、日本同様あちらでも次々に昔、金を工面してやった借りを返してもらおうとか、、、根も葉もない言いがかりで金をむしり取ろうとする輩が群がってくる。(有名な芸能人が死ぬときに、初めて現れる親戚とかが沢山いるという)。

息子は父を庇いつつ、何とか彼を最後の受取場所まで連れてゆく。
そうしないことには、どうにも終わらないからだ。
そして、その場で当選してないと告げられ、やっと父も引き下がる。

「いい風景も見られたことだし、、、」と息子。
帰りに息子は自分の車と父が欲しがっていたトラックを交換し、これを父名義にする。
更に父がかつての仲間に40年前に貸したっきり返されていないコンプレッサーを買ってプレゼントする。
なんと良い息子か。
それにしても、この父親は何なのか、、、。
息子が何か清々しい表情になって満足気なので良しとするが、、、この息子でなければやってられないところだろう。

単なるアルツハイマーか?
恐らくそうであろう。
どう見てもそうだ。
豊かな情感の揺れが見当たらない。


わたしも娘たちにとって、単なるアルツハイマーにならないよう心がけたい。
そう思わされる映画ではあった。
こころが通いあうタイミングはすでに逸していたか、そういう対象の父親とは思えなかった。


とても殺伐としているのはよいが、敢えて観て確認する程の意味もない映画であった。

冬さがし

snow man

ちょっとでも雪が降ると必ずどこかの隅っこに作ってある。これは近くの公園に、、、。
冬~雪へのオマージュなのか。


今日は娘たちと、「冬さがし」をした。恐らく学校の「生活」の授業にでもやったのではないかと思う。
雪も降ったことだし、、、彼女らのスイッチが入ってしまった(笑。
これだけ寒いんだから冬だよ、と言っても、そういうことではない。
形を探すということである。
「冬」の形を、、、。
朝から冬さがしで、われわれは家の庭からその周り、近くの公園まで道端を探って廻った。
日光は強いが風は冷たい。


家、庭周りでは、霜柱、ポリバケツの底に溜まった水が凍っていたり、、、だがそこに枯葉が絡みちょっと乙であった。
それから、草花が白く凍りついていたり、小さな葉っぱには水滴と見紛う氷の水晶がチョコっと乗っていたり、、、
普段は見れないキラキラした光景が楽しめた。
狭い裏庭にはわたしは滅多に行かないのだが、彼女らは度々探検しているらしく、木や花の場所をよく知っていた。
霜柱をザクザク踏むのも靴裏の感触が楽しめ、普段できない体験である。
だが、その程度であれば綺麗で面白かったね、くらいで終わっていたのだが、、、われわれ探検隊は、エッジにおいて驚愕の造形に出逢う!

次女がこれこれ!と言ってわれわれを呼んだところ、、、

場所は家の塀とアスファルト路面の間~縁である。
土が吹き溜まった結果できた謂わば結界みたいな細い場所である。
そこに生成された圧倒的な自然の表情であった。

先だって、女子美に展示された、地面に生じた罅割れそのものの作品があったが、その定型(基礎形)を非常に高スペックなコンピュータでパタンを複雑化した後、更に魅惑的に絶妙な崩しを施し、氷点下の気温と水分を加え、神秘的に仕上げたという感のある罅割れに、われわれ親子はただ魅了された。

形には生気が欲しい。はじめから力を感じない表面の克明ななぞりではなく。
受け側と力を及ぼす側との、その地と図との間のせめぎ合いの強度~微分方程式が欲しい。
この前展示会で見たのは、質を感じない余りにスタティックな~形骸化した、ものであった。


混沌のなかに刃に似た鋭さが目立ち、自然の覇権への闘士すら感じる。小さな場所でのある闘い。
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ディテールへ、、、それは残酷な爪か牙か。
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激しい闘いの反復。これまで何度繰り返されてきたのか、、、。
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境界~エッジを前にそれらは留まる。ある法則に従い。記憶に留める。
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思い切っていつもの公園にそのまま行った。
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いつもとは、別世界であった。
(僅かばかりの雪で、、、)雪とは何か、、、?
                           *写真は全て長女。


ふたりは、帰りに美味しいハンバーグ専門店に行く相談をしている、、、。
冬さがしは、最後に高くついた(苦。


ロスト・ボディ

El cuerpo001

El cuerpo
2012年
スペイン

オリオル・パウロ監督・脚本


ホセ・コロナド 、、、ハイメ警部(事故で妻を亡くした敏腕警部、、、)
ウーゴ・シルバ 、、、アレックス(大学教授・マイカの会社の社員)
ベレン・ルエダ 、、、マイカ(資産家・大事業家)
アウラ・ガリード 、、、カルラ(アレックスの学生・恋人、、、)


まさにサスペンス映画の手本のような見事な作りであった。
最後まで誰が犯人なのか分からず惹きつけられっぱなし。
十分に伏線は張られてはいたのだが、、、まさかね、というその人であった。

やはりサスペンス映画としては、ここまで練り上げないと。
大概のものは、途中で犯人が分かってしまいながらも具体的にどう展開してゆくかを楽しむモードとなるが、これは違った。
ずっと、ハラハラしっぱなしであった。

これまでに観たサスペンス映画では、恐らくNo.1である。
脚本・演出ともにレベルは極めて高いが、それを演じるキャストが巧みで濃い。
濃く肉付けされている個性の上に強烈な情念が迸る。
皆、存在感は半端ではない。

死体安置所から一体の女の屍体(マイカ)が消える。
その女を毒殺した夫(アレックス)は、全て首尾よく行ったと思っていたのだが、屍体が消えたことから飛んでもない事態に追い込まれてゆく。
果たして、そのマイカは本当に死んだのか、、、それとも生きていてアレックスとその愛人カルラに復讐を果たそうとしているのか、、、。
それとも、、、。
である。
ハイメ警部はその事件の真相を暴くことができるのかー。


ベレン・ルエダ演じるマイカは空恐ろしい程の迫力があり、確かにウーゴ・シルバ演じる優男のアレックスなど軽く手玉にとるのは分かる。そして殺しても死なないようなしたたかな女であろう。
如何にも彼女なら周到で緻密な策略を立てアレックスたちを陥れてもおかしくない。
誰もその威厳と迫力から、彼女が後ろで糸を引いていることは、ひしひしと感じ入ることだろう。
自分がいまや死んでいる事をフルに利用したゲーム感覚の復讐を楽しむ魔女、、、。

アレックスはある意味、あれだけの男である。それがそのままに流れてゆく。
マイカとのからかわれやられっぱなしのやり取り、カルラを愛するもいまひとつ踏ん切れない付き合いなどプライドはあるが自己保身が強く自己中心的な男振りがよく演じられている。特にマイカを異常に恐れて自分の全てを調べ上げ見抜いているかのような彼女の存在を強迫的に巨大に膨れ上がらせている。

カルラは、幼気な女子大生で、一途にアレックスを愛し、危険をも顧みず彼に尽くしてゆく。
アレックスは、警察の目を盗み彼女に細かく指示や支援を頼むが、次第に彼女の身に危険が及ぶことを恐れて、必死に警察に彼女の保護を訴え、自分の犯した罪もとうとう自白する。この段にきては、わたしもカルラに襲いかかるマイカの魔の手をアレックスと同様に恐れて彼女のことがとても心配で心細くなった。

ハイメ警部は、マイカを財産目当てで毒薬を巧みに使った痕跡の残らない方法で証拠を隠滅したかどでアレックスを真犯人としてあげようとする。そこには、10年前自動車事故で死んだ妻の思いを未だに断ち切らない自分と、死んだばかりの妻をもう過去の出来事として冷静に処理しているこの男に対する怒りが渦巻いていることが見て取れる。ここの部分が最後の最後に真相となって溢れ出し事態を覆ってゆく。ここはホントに見事。


最後に手錠をかけられたアレックスの護送中に、屍体が見つかる。
その屍体の正体が現わになって、世紀の大どんでん返しが始まる。
これには、正直絶句した!
ここからの稠密な畳み掛け、明かされた驚愕の真実。
この真実を聞かされなければ、何故こういう展開を辿ったのか、知ることはできない。
とは言え、伏線はちゃんと張られているのだ。
これは、どエライ傑作である。


TVで見た後、直ぐにソフトを注文した。
TVでは、20分程カットされていたが、これだけ緻密に濃密に作られた映画である。
1秒のカットでも損なわれるものがあろう世界だ。
勿体無い。
例えば、「時を駆ける少女」でも、あの古道具屋の柱時計や人形の目が動くシーンが瑣末な部分としてカットされたのかも知らないが、あの僅かな映像が物語の雰囲気を思いの他大きく支配していたことを知る。そういうシーンを失った映画はとても浅薄なものになる。

何れにせよ、民放でCMを入れるのは仕方ないとして、映像のカットは何とかならないものか、、、
時々かなりの名作がズタズタ状態で放映される。
時間枠に収めるため仕方ないとは言え、その映画体験でその作品が強く印象付けられてしまう。
(以前、1時間カットされていた映画があった。もうダイジェスト版レベルである)。

そこで観て、凄いと思ったものは、これは絶対買いであろう。
この映画こそはまさにそれだ。
先ほど注文したので、明日「完全版」でまた観てみる。






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AIは自然(偶然)に生まれる

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最近のAIの真しやかな成果~プレゼンは、はたしてどうなんだろう。
この前にもそれについて「楽観的なこと」を書いてはみた。
要するに、自立的AI基盤を作っておいて、後は彼ら(彼女ら)の自主的な学習に任せるという。
その反復を深めてゆけば、ついに感情~意識が芽生え新たな自立系が誕生するだろう、、、と。
新たな創造的な知性の系が立ち上がる、のでは、、、という希望的なお任せ、、、。

そう、、、、
結局、後は運に任せる!
の一言だ。

なんという神秘的(かつ楽観的)な賭けだろうか。

これまでのわれわれのモノ作りとは、完全に異なる全く新たなモノ作り、、、というより誕生の手助け、いや賭けとなろう。
少なくとも人類は、どれだけ複雑な難易度の高いものでも、何を作るかは明確でありその設計図は明晰に用意されたものをもって作ってきたはずである。

しかし意識は言うまでもなく、原理的に対象化できない。
われわれは目覚めとともに諸表象に一点の破れ目もなく取り巻かれている。
世界が世界であることに驚愕したヴィトゲンシュタインの謂うように。
視覚的表象から非視覚的表象まで全てが総動員して完全なる世界を生成する。
常にそうなのだ。これは確かに神秘であり驚愕に値することだ。
それらを立ち上らせる地平こそが意識であり、その裏側に回り込む超越的芸当など論理矛盾である。
そこは世界の縁である。

この辺の際で何かを作ろうとするのが芸術家であろうが、科学者はそうではない。
まるごとヒトと同じ構造のものを作りたいのだ。
構造化できないものを承知の上で。
分からないものをも、作ってみせたい。
その衝動は分からないでもないが。

われわれは絶対に対象化不可能な(難しいではなく原理的に不可能な)ものを作ろうとしている。
ある基礎を作り作動させて、複雑さが増してゆけば、、、と様子を見ようということだ。
冗長性からの相転換でポッコリ意識が生じると。

それが彼らのスタンダードな姿勢だ。
手堅いとはお世辞にも言えないスタンスだ。

「意識」をそもそもどう捉えているかにもよる。
それこそ哲学者の肝心要のテーマでもあった。
どうやら無意識も意識に作用する重要な力を持つ。
人間のようなロボットと言うなら、無論、無意識も匂わせていなければならない。
無意識的な痼を感じさせるロボットだ。
であれば、当然、夢も見る。
ある朝、ロボットが歩み寄ってきて、「わたしは昨夜、こんな夢を見ました」と話しかけるというのもありだろう。


もし仮にそれが創造的に成功し、そのまま進展すれば、驚く程の速度で人類には全く理解不能なレベルでAIが独自に働き始める可能性も当然高くなるはず。
しかし、現在の動きからは、うんと限られたレヴェルの運用に留まると思われる。
こちらがコントロール不能なブラックボックスはそうやすやすとはできるものではないし。
(勿論、出来るといいはるヒトはいるが)。




雪の日に

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雪が降って表は変に明るいのだ。
こんな寒い日に、わたしは自動車免許更新に出て行く、、、。
(ちょっと宮沢賢治が入ってきた、、、賢治殿申し訳ない(拝)。

行く予定を組んでおり、変更が効かなかった。
毎日、何かがあるためだ。

他の日にするにしても、見通しがつかない。
予定通り、よりによって雪の日に、寒々とした光景のなか、実際に充分寒い日に、警察署に向った。
みぞれでなくて、まだよかったが、、、。

不運は、これだけでは終わらない。
折角、前日に撮っておいた写真を切って持って行ったのに、切る目安のボールペンの輪郭線が少し見えたことがまずかったのか、「ちょっとこの白いところに黒っぽいモヤっとしたものが見えます。」
(メガネかけてるのに異常に目の良い警官だ。というより意地が悪いのか?)
撮り直しを窓口の婦人警官に命ぜられてしまった。
渋々、近くの警察署お抱えの印紙と写真を扱う事務所で新たに写真を撮り直して、警察に戻った。
その時に、婦人警官が写真を見てちょっとクスッと笑ったのが、やけに気になった。
撮り直した写真がわたしも強烈に気に食わないのだ。
(これは、風呂にゆっくり入ってのんびりするまで、横腹に引っかかり続ける)。

しかし一番、心配していたのが、視力テストである。
視力がこの5年間で随分、低下した。
メガネもその間に作り、日中の大半は、メガネ探しの旅に時間を浪費している始末。
(この件がもっとも悲惨といえば悲惨であろうが)。
ちなみに、その次がiPhone探しである。時折、それに車のキー探しが加わることもある!
一日のうちで、実のある時間はほんの僅かではないか、、、、(絶句。

途方に暮れる前に話を戻し、視力テストに怯えていたが、それは何故か簡単にパスし、問題なく講習のビデオ鑑賞となった。
シュールなビデオではあるが、交差点と物陰から飛び出るモノに気を付けよという注意喚起映像には違いない。
平常心と健康管理も肝要であるという、、、いちいち納得して見ている間に突然それは終了した。
思ったより早く終わったのは、ラッキーである。(ここで少し救われた気分になる)。
優良ドライバーであったため、30分で終わった。やはり安全第一主義は正しかったのだ、、、。
帰りも一段と寒かった。
自宅から警察署まで、普段なら歩いてもわけない距離なのだが、今日は異常に体に凍みた。

そして帰りに、本日もっとも寒い、凍りつく経験をする。
時折外観を鑑賞している、日に日に崩れが目立ってきている廃屋のある通りに差し掛かった。
いまや雪の降りは、家を出た時より増している。
普段、その廃屋には全く人気を感じたことがなかった。
今日も、勿論ガランドウだと思い、壊れたガラスのない扉の窓をそれとなく眺めた。

すると、もはや暖気を得る機能など持ち合わせていないに等しいその崩れかかった建物に、生々しく光るヒトの顔が浮いているではないか。その廃屋の内部が突然露わになった気がした。
驚きは感じず、ただ唖然としてその時空に見入った。
その壊れ解体寸前とも取れる扉の以前ガラスの嵌められていたであろう窓に、大きく見開いた無表情の両眼があり、頭部の全体までは窺えなかった。特に眼の次に内面を表す口元は隠れて見えなかったため、余計に内面を超脱した眼がただ異様に光っているだけだった。

生きているヒトに違いない、、、。
恐らく。
その建物の持ち主なのか。
恐らくそうだろう。
少し年老いた婦人に見えた。
暮らしていたのか、、、少なくともそれまでその場所に生活感を受けたことはない。
内部はもはや、彼岸の厚みに属していたのだ。

足はそそくさと家に向かっていた。
かなりの速度である。
自動的にそこを離れてゆくが、寒さからもう風呂のことしか考えられなくなっていた。
体は芯から冷えていた。


新免許は、暖かくなってから受け取りに行こう。



ギヴァアー  記憶を注ぐ者

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The Giver
2014年
アメリカ

フィリップ・ノイス監督

ロイス・ローリー『ザ・ギバー 記憶を伝える者』(児童文学)原作


ジェフ・ブリッジス(製作) 、、、ギヴァー(記憶の注入者)
メリル・ストリープ 、、、主席長老
ブレントン・スウェイツ 、、、ジョナス(レシーヴァー)
アレキサンダー・スカルスガルド 、、、父親
ケイティ・ホームズ 、、、母親
テイラー・スウィフト 、、、ローズマリー(ジョナスの前任者、ギヴァーの娘)
キャメロン・モナハン 、、、アッシャー(ジョナスの親友)
オデイア・ラッシュ 、、、フィオナ(ジョナスの恋人)
エマ・トレンブレイ 、、、リリー(ジョナスの妹)


The Giver002

彼は最初から違和感を持っていた。
感覚的に。
ここがまずは大切だ。
モノトーンの世界=完全管理(生から死まで)の世界に漠然とした欠落感を抱く。

この世からあらゆる色を消し去った。
なる程、平等な社会とはそういうものか、、、。
全ての違いを消し去るとは、色を奪うこと。音楽を奪うこと。まさにそういうことだ。
そして何より、言葉の管理。
殺人を解放と呼ぶ。管理のための言葉を全て合理化し正当化する。
形式ばった(形骸化した)言い回し。「謝罪を受け入れます。」が日常語か?
更に感情を薬でコントロールして抑える。

感情のあるために、人々は妬んだり憎んだり不平を募らせ疲弊する。
愛という熱情は、寧ろ争いを招く。選択の自由を人に与えてよいことはない。
コミュニティを管理する主席長老の言うとおりである。
それは美や愛や真理を求めはしても、様々なネガティブな欲望を呼び寄せもする。
どちらかといえば、後者の方が圧倒的に多い。

だが感情の芽生えは生気に満ちた色彩に湧いているではないか。
まずは、ここに立ち戻る必要がある。
その記憶を甦させるべきである。

恐らくこの映画にメッセージを求めるならそこだろう。
この感情の生まれて迸る表現にこそ力を込めていることがよく分かる。
この生命力の沸き立ちの表現にである。
この点においてわたしはこの作品を支持する。

人がそれぞれ大切にする価値観もここに息づく。
個性もそこに生まれる。

「同一化も必要だ」(ギヴァー)「でも色は欲しい。綺麗だから、、、。」(ジョナス)
そうなのだ。まさにそうなのだ。
ジョナスの観る世界に鮮やかな美しい色が仄めき出ている。
(先ず初めに愛しい人から、、、本人はそれとして気づいていなかったが)。
きっと、そういうものだろう、、、。

美を感じ認識を生む。
そして創造を。時に破壊を。
知ることと感じることは違う。
様々な記憶~情報を受け取り、喜びとともに痛みを感じる。


ギヴァーから記憶~感情が注がれる度に、レシーヴァーであるジョナスの内に徐々に色が沸き立ち広がる。
印象派の画家の絵のごとく、、、。
この美しい色を受け止める感情を友人とみんなと共有したい!

「ドローンからは何でも見えて刺激的だよ。」(アッシャー)
しかし広くたくさんものを眺めることと、パラダイムの外から大いなる感情を持って世界を観ることとは質的に全く異なる。

「エッジには木が1本あったように思う。」(フィオナ)
「他所」との縁にある木である。
彼女もこころのどこかで気づいていた。


毎日コミュニティの成員は薬を射って感情・感性を封じ込めてきたが、いまやジョナスは、、、
音楽の美しさを知る。色と音楽の結びつきを知る。
夢を観る。心の底から湧き出る愛を感じる。
それは、暖かくて心地よくて美しい、、、。

彼の奮闘のおかげで、それはコミュニティだれもが感じるものとなってゆくだろう。
混沌や欲望、争いも当然、巻き起こるのは覚悟の上で、、、。
しかし、感情=色彩の初期(発生)を記憶した経験は、何にも代え難いはずだ。
(ちょうど、印象派の画家の目に等しい)。


ジョナス一人ならともかく、赤ん坊といっしょに乾燥地と寒冷地を横断できるか、バイクで飛べるか、川のなかを潜水できるか。
(記憶の)境界線を超えると何故、みんなの記憶があのように戻されてゆくのか、、、
その映像は、とても感動的であったが。
無茶にしか見えないところと、説明不足の部分はあった。
だが、訴えるところは充分受け取れた。
メリル・ストリープ の出ている映画である。
それからまだ新人であろうオデイア・ラッシュの瑞々しい演技には惹かれた。今後に注目したい。


The Giver003

乱気流 タービュランス

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Turbulence
1997年
アメリカ

ロバート・バトラー監督


ローレン・ホリー、、、テリー・ハロラン(客室添乗員)
レイ・リオッタ、、、ライアン・ウィーバー(凶悪殺人犯)


何故か録画されていたので観てみた、、、。
この映画はレイ・リオッタのための映画であろう。
「グッド・フェローズ」でもバカ笑い(おべっか笑い)がとても印象的であったが、これはもう、、、
彼の独壇場であった。
初っ端に警官に逮捕され、その後の流れで本人が主人公に述懐するように、実は冤罪を着せられた良い人なのか、、、と思いきや想像を超える狂気のサイコ殺人犯の本性を剥き出したようにも見え、結局は捏造された証拠で自分は死刑になるところから来る自暴自棄なのか、、、着陸せず何処かで墜落したいみたいな、、、微妙に反転しつつ緊迫した線を貫いてゆく。
ここの綱渡り、、、文字通りこれは高度の異常に高い綱渡り映画であり、、、とてもハラハラさせられる。
しかしそのハラハラが、主人公テリー・ハロランのいい加減さからも大いに来ている。
どうやら少し気弱でお人好しとか、世話焼きというのではなく、集中力のない判断力不足の間の抜けた女性なのだ。
現在置かれた状況における行動の優先順位が付けられない人である。

わたしは、この主人公には、ある意味サイコのライアン・ウィーバーよりびっくりさせられた。
飛行中にも関わらず旅客機の機長は殺され副機長も自分で頭を打って死んでいる。
乗員乗客は拉致され、ライアン他ひとりの犯罪者を護送してきた警官は4人とも殺されている。
乱気流も確実に進路上に控えている、そんな危機的(いや、絶望的)状況下にあって、、、

誰も操縦する人間がおらず、ようやくわたしが管制塔からの指示に従い飛行機を無事に着陸させねばならないと決心した矢先に、ライアンに友達が怪我したから救急箱持って手当に来てくれと呼ばれて、再三担当刑事から全て嘘だから絶対に取り合うなと言われているにも関わらず、乱気流突入直前も分かったうえで、平気で操縦桿から離れて階下の客室まで箱を持って降りてゆくのだ。
この神経は異常だ。
彼女がその友達を頼りに(依存)してきたのは分かるが、そんなことをしている場合か、、、と思わずパソコンモニタに向かって叫んでしまった。わたしも乗せられやすい、、、。いいお客だ(爆。
友達はすでに殺されているし、これまでの流れからも少しは想像力を働かせるべきだ。
普通、この飛行機をコントロールできるのは今自分しかいないと悟り、乱気流に突入することも知らされていて、操縦室を平気で後にするなんて、まず有り得ない。管制塔からの機体のコントロールについての指示が出ている最中に、、、。

少なくとも、多少はライアンのいうことに信憑性を覚えて友達の怪我が気になったなら、操縦室のドアを一瞬開けて、救急箱を外に投げ出し、これで頼むわね、と任せればよい。自分が医者なら別だが救急箱があれば、どちらが診ても同じであろう。
だいたい、ライアンが何を企みどう出るか、極めてリスキーなのはもう十分に分かっていることだ。
飛行機が都市の上空から墜落すれば、乗客はおろか、飛んでもない数の死傷者の出ることは明白だ。
客室乗務員としての自覚がない。

結局、テリーは、ライアンに散々おちょくられ、言いくるめられ騙されつつも、旅客機の優秀な自動操縦の機能にも救われ、次第に逞しさを極限状態のうちに身につけてゆく。ライアンは多分にテリーに惹かれるところはあり、テリーも彼に微妙な好意は覚えていたことは確かだ。しかしやりすぎた。ライアンはテリーに撃ち殺される(これはライアンが仕向けたところでもある)。

最後はFBIに戦闘機によってロサンジェルス上空につく手前で撃墜されるところだったが、それを強く拒否し(誰だって拒否する)、「わたしにチャンスを頂戴。必ず自分の手で着陸させてみせる」、と言い切るほどしっかりしてくる。そして指示を出す地上の機長の言うことを確実に実行し、無事着陸させる。
(ジェット戦闘機のパイロットの命令に背き彼女を支援するところも何ともクールである。「アウト・ブレイク」にもそういう場面はあった)。
ライアンが言っていたように、乗客は皆殺しにはされておらず、監禁されていただけであり、彼が故意に狂態を演じている部分はあった。これは、刑事に証拠を捏造された当てつけでもあったことは分かる。


この映画は、刑事と地上から誘導してくれた機長に迎えられ、よくやったと賛辞をもらうテリーの途轍もない逆境を通し短時間で見違える程に成長した姿を描いた青春根性ドラマであったことを知る、、、。
彼女、出世間違いなし(爆!
(とは言え、クリスマス・イブに11人の乗客で飛行機飛ばしている会社である。厳しいといえばかなり厳しい)。





時間についてほんの一言

sands of time

モーガン・フリーマンの顔を見て思い出した。
昨日観た映画もある意味、時間との闘いとも言えるスリリングなものだ。
しかし、時間を考え出したら、これは結構、厄介である。

そもそもこの時間体験はどこから生じるか、、、
われわれの身体の大きさレベルにおいては、熱から生じている。
物質と熱の相互作用が目に見える変化を生むため、時間を体験する。
熱力学の法則により、物体は低エントロピーから高エントロピーへと一方向に向かってゆく。
それが時間の矢と見える。
時計の針と相関する。
(変化~動きの相関関係としての時間)
勿論、われわれ生命は大きなエントロピーの矢のなかでの非平衡開放系~ネゲントロピーに属している。

しかし、その熱はあくまでも統計学的な見地におけるこの世界の大きさにおけるものであり、素粒子レベルでは通用しない。
つまり、ニュートン的な日常のスケールのなかでのみ馴染むものである。
量子力学に”t”がそぐわないことは当初から問題になっていることで、時間概念を外した量子論を作り直している人も少なくない。
素粒子の相互作用の世界には”t”が当てはまらないのだ。少なくとも”t”だけ単独では取り扱えなくなっている。
光に対して時間と空間というものが個別に扱えないことは、アインシュタイン以降、もう前提となっている。
時間だけをとりだした考察はもうできない。
素粒子間の相互作用を正確に把握できないためわれわれは、エネルギーを統計学的な(平均値で)温度としてとらえている。
素粒子の運動そのものには、時間的方向性はない。

そんな時間がわれわれという段階の生に必要な尺度に過ぎない幻想であると述べる物理学者もいる。
モーガン・フリーマンのナビゲートする情報番組をたまたま観ていたらこの話が特に気になった。
時間の矢(エントロピーの矢)は絶対であるということを前提に話している科学者の噺は退屈だった。


時空連続体を「粒」として面白い見解を(学説を)述べていたのが、その次に登場した女性科学者であった。
その粒が連続的に生み出されてゆくというもの。
流れるのではなく、時空が非常に短いスパンで連続的に生成されていくのだ、というものである。
もともとこういった理論はイメージは不可能である。
(科学理論を比喩などに変換すると大概間違ってしまう。12次元理論など、イメージのつくものであるはずない)。


そもそも時間があるとかないとかどちらかに決める必要はあるのか、、、
取り敢えず、日常時間は時計で測って過ごせばよろしい。うちでも目覚ましで子供は起きている。
そもそも時間というものは、こういうものですと解明されたとしても、われわれの身体的実感として馴染むものかどうか、疑問である。

わたしにとって、とりわけ魅力を感じる時間は、「永遠」と「瞬間」だ。
いやそれ以上に吉本隆明氏の「固有時との対話」の「固有時」だ。
アインシュタイン以前に、このような時間の観念は出てこなかったと思われる。

日常の「時計時間」も(古典)物理学の「時間の矢」もある意味で正しいとはいえ、無粋な気がする。
やはりキリスト教の作った時間神話の定着なのか、、、世界の創成から終末をリニアな線で表わしてしまったことの。
ニュートンはそれを科学的に保証し時間の矢を絶対化し強固なパラダイムと化した。
日常生活において、常識以前の前提となってきた。
日本は、、、と言っても、仏教であるが(仏教が身体化したひとはそれほど多いとは思わないが)、「現在有体過未無体」(人間存在~現象界は、現在現れているかぎりにおいては実有であるが,過去,未来においては無である)は、ある意味西洋の最新の時間論~物理理論に通じるものはある。

西洋でもニーチェの永劫回帰などの思想も唱えられたが、むしろ異質な思想であろう。
(ギリシャ哲学においては、循環的な時間概念も唱えられていたが)。
社会通念に影響を及ぼすには至るものではない。やはり大きいものはキリスト教の教理というより世界観だ。
すでに絶対時間(線状的時間)と絶対空間(均質空間)が確立されていた。デカルト~カントに及び。
そして成長、発展、進化、、、などの社会通念が時間観念を地固めしてきた。


だが、今世紀に入ってからいよいよ、時間はない(われわれの意識が要請する物語)というひとから、時空連続体を前提とした、観測者のいる系の速度により伸び縮みする時空(これはアインシュタインが初めから言っていたこと)や、生成され続ける時空の粒まで出てきている。


何にしても、「時間」というかたちで何かが語れることは、なくなって行くとは思われる。


アウト・ブレイク

Outbreak002.jpgTVなどメディアの力は大きい。これで宿主の猿が見つかる。

Outbreak
1995年
アメリカ

ウォルフガング・ペーターゼン監督
ローレンス・ドゥウォレット、ロバート・ロイ・プール脚本


ダスティン・ホフマン、、、サム・ダニエルズ大佐(軍医)
レネ・ルッソ、、、ロビー・キーオ(アメリカ疾病予防管理センターCDC医師)
モーガン・フリーマン、、、ビリー・フォード准将(軍医)
ケヴィン・スペイシー、、、ケイシー・シュラー少佐(軍医)
キューバ・グッディング・Jr、、、ソルト少佐(軍医)
ドナルド・サザーランド、、、ドナルド・マクリントック少将


文字通り「アウトブレイク」爆発的な感染を巡る闘いの映画であった!
「バイオハザード」に敢然と立ち向かうダニエルズ大佐一向に立ちはだかる体制側の思惑も絡む、スリリングな迫り来る死の恐怖と隣り合わせの展開に、一瞬たりとも目が離せない。
(ちょっと広告みたいな文句を書いてしまったか?)
かのダスティン・ホフマンとモーガン・フリーマンのぶつかり合いである。
このテンションがわたしを惹きつけない訳がない。
そこに知的でアクティブなキューバ・グッディング・Jrが絡みレネ・ルッソが女神役を見事に決める。
ドナルド・サザーランドの可愛気のない悪役ぶりも様になっており、ケヴィン・スペイシーも個性的で軽妙な良い味を醸していた。
これが面白くないわけがない。
カーチェイスだけでない手に汗握るヘリコプターチェイスがまた凄いの一言。見所である!
(しかし、軍は市民を救うために命懸けで取り組んでいる人間をそこまで追い詰めるか?そうなってしまうのだろう)。
キューバ・グッディング・Jrの出来る男ぶりが至るところで披露される映画でもある、、、。


この映画は兎も角、速度感が尋常ではない。常に切羽詰っていて緊張の連続である。
「エボラ出血熱」に症状のよく似た、更に感染速度と増殖の速い「モターバ・ウイルス」の拡大と、軍の感染地の爆撃による消滅(細菌兵器隠蔽)作戦のつくるタイムリミットからいやが上にもスリリングな展開となる。
ダニエルズ大佐とソルト少佐の相棒(名コンビ)による宿主探しや血清作りに奔走する姿もときに痛々しい。
そのウイルス、かつてザイールのモターバ川流域で内戦中に発見された致死率100%のウイルスであったが、当時1967年の時点では空気感染はしなかった。しかし、今回確認したウイルスは従来型とその進化形も見つかり、空気感染もし治療に当たる医師も感染して犠牲となる。
この最初のウイルス発見時に軍は、血液サンプルだけ採取して、その地を兵ごと爆撃し消滅させて拡大を防いでいる。
その際、獲得したウイルスは細菌兵器として保管管理され、それに対する血清もビリー・フォード准将等によって秘密裏に生成され保存されていた。

軍は最初の患者が出たときに、細菌兵器のことが明るみに出ることを恐れその血清を使わなかった。
そのため更に強力に進化した「モターバ・ウイルス」には、改めて宿主を探して血清を作る以外になかった。
しかし、その強力な致死率100%ウイルスの拡大感染は空気感染力も加えて余りに速かった。
軍は細菌兵器の秘密を守り感染拡大を防ぐためその地の爆撃消滅を大統領にシュミレーションを示し納得させる。
サムと彼との離婚を決めているCDCの中心にいるロビーも協力して懸命に感染者たちを救うために模索しながら現場の治療に専念する。
だが、それを快く思わないドナルド・マクリントック少将により、事あるごとに妨害を受け、正確な情報を市民や大統領に伝えたいサムは遠ざけれれてゆく。

しかし、爆撃決行間際にサム・ダニエルズ大佐とソルト少佐コンビが、ついに宿主を探し当て確保する。
この報告を聞いたビリー・フォード准将はすぐに爆撃を中止させ、サムたちには血清を作ることを命ずる。
だが、それを決して容認しないドナルド・マクリントック少将は執拗に彼らを排除しようと妨害、攻撃を仕掛けてくる。
これはまさに時間との闘いだ。
彼の元妻、ロビーも感染しているのだ。
爆撃機の前にサムとソルトの乗るヘリコプターが空中で対峙する。
サムは爆撃機の搭乗パイロットに必死に専用無線で呼びかける。

結局、、ビリー・フォード准将がサム側に完全に寝返ってしまったため、市民は血清治療が受けられ、ロビーも間に合って助かる。
ふたりは、今回の大変な経験を経たことで、元の鞘に納まることとなる。
ハッピーエンドということか、、、最後には少しホットする(シュラー少佐が助かっていないことが寂しいが)。


つらつらと書いてしまったが、、、こうした噺は他にもありそうなものであるが、陳腐さや既視感からくるダレは全くなかった。
リアリティを感じるからか、、、
恐らくそうだ。
噺は実際にあってもおかしく無いものである。
それを生々しく演じるキャストの力が何よりも大きい。
とても説得力のある作品であった。
Outbreak001.jpg


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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