プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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カッシーニ グランドフィナーレⅡ
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スノーデン
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ヴィデオドローム2 ~イスラム国 ~アノニマス
見えない重力を描く Ⅱ
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エージェント・ライアン

Jack Ryan Shadow Recruit

Jack Ryan: Shadow Recruit
2013年
アメリカ

ケネス・ブラナー監督

クリス・パイン、、、ジャック・ライアン(CIAエージェント)
キーラ・ナイトレイ、、、キャサリン・ミューラー(医師、ジャックの恋人)
ケビン・コスナー、、、ロバート・ハーパー(CIAの上官)
ケネス・ブラナー、、、チェレヴィン(ロシアの大実業家)

監督自ら難しい悪役でフル出演。実に渋かった。


頭脳派スパイ、、、確かにこれからのスパイは電脳派であることが前提だろう。
元々主人公ライアンは情報分析官でデスク・ワークの人だ。
ところが何故か、007みたいなアクションも要求される立場に、、、。
モスクワに飛ぶまでは、彼もまさかとおもったはず。監査でわざわざ行ったのだし。
今回の事件が経済テロであるため、その道の博士号をもった彼が大抜擢を受けてしまったのだ。
(彼自身がそれを分析して報告してしまったから、自分の蒔いた種ではあるが)。

このクリス・パインという人、わたしには「ジェイソン・ボーン」のマット・デイモンに被る。
似たような事しているからか、どうも既視感に囚われる。姿かたちも含め。(勿論、違うところは違うが)。

気を取り直して、観てみると、、、と言っても。
まず余りにもアメリカ中心主義の非常に単純な、善=米VS悪=露の構図で、もう少しどうにかならないかね、という引っ掛かりはもちつつ観る事にはなる。
このステレオタイプは脱してもらいたい。

9.11の悲劇から出発している主人公にとって、テロからアメリカを守るという正義感が彼の動機・原動力であるころは確かだ。
しかし博士なのである、そこをもっと遡行してその事件の構造を観る歴史観は持たなかったのか。
だから、アメリカを相対化し得ない。薄ら寒い。
この右極化した地平を無批判に前提とした製作には、特に今後は何につけても疑問がぶつけられていかねば、、、。
(生成文法のノーム・チョムスキー博士の批判も十分に考慮しなければなるまい)。
やはりアメリカ様々の世界観では余りに薄っぺら過ぎる。
そして、これからは、危険だ。


リアリティよりもエンターテイメント重視の方向性そのものは良い。
ジャック・ライアンやその他の名優がアクションやら知的ゲームでスリリングにワクワクさせる、、、。
娯楽映画として楽しませる方向は正しいのだが、やはり面白いだけでは終わっていない。
リアリティを狙う部分もあるのだが、そこがちょっと微妙なのだ。
アクションはカー&バイク以外はあまりなく、ジャックの知的采配はそこそこ効いていたが、どうなのだろう。

ロバート・ハーパーもチェレヴィンも重みがあり渋くシリアスな雰囲気である。
そのくせ、チェレヴィンはあちこち抜けていて、ジャック・ライアンたちに実に都合よく進展してしまう。
これはかなりのご都合主義に見える。
というよりロシア側が不自然な程、間が抜けているのだ。
反面CIAの余りに迅速な動きが出来すぎか、、、。(ただし、この動きは他の映画でも感じるものだ)。
何とも言えない線で展開する。だが妙に小気味よく魅せてしまう、、、。

そう、話の進展、速度感は全体的に素晴らしい。
話の適度な省略がきっと、うまいのだと思う。
この手際良さはかなりのものだ。
恐らくこのため最後まで弛れる事が全くなく観ることができた。

ケビン・コスナーは、とてもしっかり映画自体を支えていた。
ケネス・ブラナーは脚本をいまひとつ詰めた方がよいように思えたが、役と監督を職人芸的にこなしていた。
クリス・パイン、、、大活躍の割に、どうも余り印象に残らなかった。
キーラ・ナイトレイ、、、彼女に合った役かどうか、よく分からない。少なくとももっとよいピッタリ合った役はいくつもあった。
「ある公爵夫人の生涯」「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」「エンド・オブ・ザ・ワールド」などの方が遥かに良い。断然良い。


もし、まだ続編が組んでゆくなら、脚本をしっかり練ったもので撮って欲しい。
このトランプ政権が喜びそうな愛国心や仮想敵国設定の安易さは、乗り越えたものを期待したい。
(ご都合主義も含め)。





廃墟の時間

kumamusi001.jpg

ほぼ毎日、車で送り迎えをしている道すがら、廃屋が気になっている。
もう随分前からだ。
かなり立派なお屋敷から、昔よく足を運んだ古本屋まで、、、カウントしたらかなりの数にのぼると思われる。
スーパーやデパート、ボーリング場は、空いてもすぐに次の店に改装されたり、取り壊され再生する。
しかし病院は、次のものになるのに暫くかかる(微妙な時間を経る)。
そして大概、取り壊される。
マンションなどがその土地に新たに建設されることが多いが、時折また病院が立て直されることもあった。

そのままずっと長いこと放置されるのは、普通の民家や個人経営の小さなお店である。
時間の滞った内部で何が起きているのか、何が充満しているのか、とても不安になってくる。
よく廃墟探索等といって、チームを組み中に入ってみる人がいるようだが、とてもそんな気にはなれない。
病院ならまだよい。
広い空間がある。たくさんの空いた窓を吹き通る風がある。逃げるための外階段がある。
しかし、小さな空間は恐ろしい。そこに空気はあるのか、別のガスなのか、水が溜まってはいないか。
細部という細部が捲れ上がり、何かが侵入し発生している。密かに密かに異なる時間のなかで熟してゆく何か、、、。
そんな像を結ばないイメージが浮かんでくる。
それは、めくるめく群れを成していた。

廃墟(廃屋)には動くものがない。音もしない。
そこから、閉じられた内部にも動くものは見られないと思う。
あからさまに、大きなものは、大きな動きは、、、目につくものは。
そのようなものは、廃墟の静寂を壊してしまう。

だが、小さなモノたちは、きっとどこにもいる。
この地平の何処にも偏在することは、科学が実証してきた。
無音で策略を練り無言で実行するモノたち。
小さく細やかに忙しなく群れ動き、密閉した壁を僅かづつ自動的に食い破って進攻するモノたちの事だ。

そんな小さな機械の群れは、突っ切ってゆく。
誰の目にも留まらず。
鳥の目にも、監視カメラのレンズにも、猫の目にも、、、満月の下にあっても、、、風が吹いても。
誰にも気づかれず。

われわれの地図に関係なく、われわれの国に重なり、われわれの知らない国名をいつしか名乗っている。
勿論、聞き取れない音と、発音できない声で。
ただ、鳴き声や自然現象のなす音ではないことは、聞き分けられる。
そんな音=存在が、巣食って充満して、いまや臨界点を超えんとしていた。


それは、まったくの虚無から突然、物体化する「他者」である。





エデンより彼方に

Far from Heaven001

Far from Heaven
2002年
アメリカ

トッド・ヘインズ監督・脚本
「ベルベット・ゴールドマイン」の監督だ。

ジュリアン・ムーア、、、キャシー・ウィテカー (ブルジョワ家庭の婦人)
デニス・クエイド、、、フランク・ウィテカー(キャシーの夫、ゲイ)
デニス・ヘイスバート、、、レイモンド・ディーガン(黒人の庭師)


50年代のブルジョアたちの社会を日常生活の視点から描いている。
その時代の衣装、風景、車には特に目が行く。この時代のアメ車の大きいだけの無骨で愛嬌のある姿は微笑ましい。
バーンスタインの音楽も雰囲気によく合っている。
演出ともによく計算された映画作品という印象を受ける。
何というか手堅い堅実な描写で禁欲的に進む。(大袈裟な描写・演出がないところに好感をもつ)。
この日常に、レイシズム、同性愛(ゲイ)に対する意識のあり方を絡めてゆく。
と言っても、この時代を克明に描けば、自然に入ってくる基本的要素か。

公民権運動は、キング牧師を中心に広まって来てはいるが、この映画の舞台となった57年はまだ厳しい状況。
64年7月ジョンソン政権下で人種差別撤廃をうたった公民権法が成立するため、キャシーとレイモンドが堂々と逢えるのはもう少し先になろう。
ここでは、夫のゲイの件も同時に扱う。
あからさまに性差別という形では出てはこないが、夫婦関係は壊れる。
これは仕方ない。差別ではなく、あくまでも夫婦間の生理、(性の)相性の問題だ。
勿論、ふたりの中にホモセクシャルに対する差別意識は横たわっているが、それ以前の逆らい難い生理的な嫌悪がある。
夫も自分の性に対しもがき苦しむが、夫婦ともに諦めの境地に至る。思想レベルの問題ではなく、話し合いで解決するものではない。文字通り、どうにもならない。

キャシー・ウィテカーはとかくこの時代に(限らず)、主婦として女として人として胸の内に収めきれない物事をきれいに話してしまえる、解放された知性を持つレイモンド・ディーガンに惹かれてゆく。
これは自然なことだ。レイモンドはその思想を行動でも堂々と実行しようとしている。
しかし、こういった事情~事実は共同体のうちにあって齟齬や軋轢からやがて迫害(追放)しか生まない。
親友と信じてきた女性もあからさまにキャシーを拒否してきた。
彼らは強く思い知る。
時代(パラダイム)の限界として。

ただレイシズムは、現在でもある。
更に復活をみて活性化しているように見えるが、単に潜在していたものが滲み上がっただけか。
特に感情的で感覚的な度合いの強い思念は、それ自体力のない言葉(道徳的なもの)で消し去ることは愚か押さえつけるのも難しい。
完全にそれを消滅させる次の場所=概念が準備されなければ、それは昇華しない。
消えたと思っても単に違う姿を纏っているだけの根強いものだ。
ちょうど、トランプの出現とともに、人種、性差別は一気に顕在化し吹き出ている。


抑えた感じの強い映画であったが、フランク・ウィテカーのあれだけの社会的ステイタスを持ちながらも、最後よく思い切ったものだと、ちょっと他のシーンにはない、この映画の枠を破る決断に思えた。
「好きな人と何処かへ行く」って、、、大丈夫か?
このフランクの今後こそ心配である。(感情的にはほとんど同情しないが)。
ふたりの子供はどうするのか、特に男の子の方はパパになついているではないか。

キャシー・ウィテカーとレイモンド・ディーガンの別れのシーンは、昼のメロドラマでも、もうふた捻りはもってゆくはず。
お互いに住むところが別の世界だと、、、。静かにふたりして手を振って駅のホームで分かれてゆく。
これを見せられて終わるとは、さすがに思わなかった、というより終わり頃は薄々気づいていたというのが正直なところだが、、、。

結局、キャシー・ウィテカーというブルジョア婦人が、性の問題とレイシズムを前に引き裂かれてゆく運命にも健気に耐えて生き抜こうとする気高さみたいなものを描いているのか、、、。
それもそうだし、黒人のレイモンド・ディーガンも苦境に立ってはいるが立派な男である。
新たな土地で、逞しくやっていけることは、想像に難くない。
ただ(元)旦那のフランク・ウィテカーが飛んでしまった分、かなり際どい着地を要求されるものと思われるが。
何処にどう降りるにせよ(笑。

Far from Heaven002






夢旅行 Ⅱ

kusuda002.jpg

今日は長女は飽きたと言うので、昨日の絵本の続きを次女に読んでもらった。
(勿論、小遣いは渡して)。

次女の方が読みはうまい。
しかも妙に感情を込めて読む。
だが、別に気持ちを込めるところもないのだが、、、任せる。


「ふくろうの話」
急に「忘れな草のように青く、冬のスリッパのように暖かな、ある夜のこと」などという表現がみられる。
噺はとても良い。
急に良くなった。
何故なのか?
ここのページの絵も急に良くなる。
何故か?
描き慣れてきたのか、、、。

ねことふくろうがほんのひとときをともに過ごす。
どちらもねずみを食べるが、ねこはとりも食べる。
ちょっと緊張の走る関係だが、少しのあいだなら、なかよくできる、、、。
つりがねそうの鐘の音をきき、きのこが、かさをひろげるのを、いっしょにながめて散策する、、、。
雲が月をよぎった瞬間、、、ふとねこは姿をくらます。
おなかがすいてたまらなくなったから、、、。


「つるの話」
つるが2羽沼地にやってきて3日間、そこの所有権を主張して喧嘩をし、うんざり疲れて両者とも去ってゆく噺。
その間、煩かった沼地であったが、静けさをとりもどし、かえるの鳴き声が響いている。
なかなか風情を感じる噺だ。

淡白で平面的な絵だが、ふくろう以前の絵よりかなり良いものになっている。
タッチに無駄がない。


「幸福の山の話」
山の時間に平地(街)の時間が(それを象徴とする)道路とともに迫ってくるため、庭師が山に花をたくさん植えて育てて、山を道路から守ろうとする噺。
ゆっくりした自然の時間を残そうとする庭師の企み。
そういう場所は大切である。
わたしも花時間をゆったり過ごしたい。

導入部のおばあさんの夫みたいな雰囲気のおじいさんが木の上から水を撒く。
しかし、絵は最初の頃から見ると良い。
あのおばあさんに似たおじいさんだが、、、。


「夢旅行の話」
噺は面白い。
少女がひとり夢をみている。
音が一切聴こえない生気のない世界。
時間も止まっているに等しい青ざめた夢時間。

薄ぼやけた絵は内容だけでなく印刷の関係もあるのか?
(印刷の問題だとすれば、これは不良品である)。
このような汽車の見られる牧歌的光景の絵なら、わたしの友人のSくんのモノの方が100倍良いが。
だが牧歌的な話ではない。
とは言え、汽車は少女が目覚めてからやってきた現実時間のものである。
まだ音のないぼんやり霞んだ絵でよいのだろうか、、、絵の解像度が低いのが気に障る。


「音楽家の話」
まるで、どこかの地域伝承風の噺でもあるが、余りしっくりこない。
旅をするバイオリン弾きを追っ払った村人というのは、いかにもどこにもありそうである。
その音楽家がバイオリンを弾くと、動物たちが蓄えを分けてくれる、というのもよい。
しかし、音楽家が登った山のてっぺんの城から大木が育ち、その枝にはリボンと花と、色々な楽器が実のようになっていたというのは、絵を見たところで空々しく、イメージ的にも稚拙で無理がある。
絵自体がとても貧困である。

村人たちが実際に山に登ってみると、バイオリン弾きの姿はなく、曲だけは流れていたという。
あまく、悲しいしらべが、、、って噺も絵もつまらない。

、、、ここで次女はリタイア。おつかれさま(笑。アイスは冷蔵庫にあるから、、、。

残りは、、、黙読(爆、


「12匹めの犬の話」
ひまわりの国に、婦人がひとり住んでいた。
彼女は土地も財産もみな、かわいそうな犬たちのために使い果たしてしまった。
肘掛け椅子と望遠鏡だけ残し。
ここまではよい。絵が一番、イケている。

彼女は犬たちと旅に出る計画なのだが、12匹目が集まるまで待つそうだ。
何故なのか、その理由は明らかにされない。
望遠鏡はその最後の犬を探すための道具らしい。

肘掛け椅子に座り、望遠鏡で遠くを眺める姿はなかなか印象深いものだ。
この絵は絵本中の最高傑作と言えるだろう。
丈高いひまわりと望遠鏡婦人と様々な種類の飼い慣らされた犬たちとの構図関係も良い。

婦人は、白い魚のような雲が流れる時にそれを見つける。
「みえたわ!」

犬は望遠鏡にすでに捉えられているうえに、その犬の到着を待って出発するのである。
何故、ひまわりたちが12匹目の犬が何であったのか知らず、その後風が吹くたびにひそひそ語り合う必要があるのか、、、。
話が最後で破綻する。

絵が良かったのに残念。


「ヴァルパーティンガーの話」
ヴァルパーティンガー、これは噂に聞く怪物のことらしい。
5月のお祝いにカエデの下で大人たちが集まり、ご馳走を食べ、酒を呑んで宴会をしているとき、こどもたちは家の仕事を任されていた。彼らは大人たちがうらやましくてたまらない。

突然の大きな叫び声と、蠢く何者かの気配。
酒の回った大人たちは、びっくりしてみな木に飛び乗った。
どうやらこどもたちが、怪物の噂を利用したようだ。
その隙に、、、彼らは残ったご馳走を残らず平らげてしまう。

翌朝、戻るとこどもたちは、手をおなかにのせ、ここちよさそうに眠っていたという。
そんな、ちょっと無理のある噺が最後。


色彩、配色が実に凡庸であった。
所謂、ナイーブ派(素朴派)も、もっとビビットな色使いをするひとは結構いる。
フォルム的にもヘタウマというわけでもないし、微妙なイラストレーションである。

噺も特にこれといったものはなかった。
読みの勉強に多少でもなれば、それで目的は達せられた、と思おう。


ただこの企画は、またやりたい。
絵本ならたくさん眠っている。
わたしもよいお昼寝になる。


夢旅行

kusuda.jpg

ジナ・リュック・ポーケ原作
エルナ・フォイクト絵
昭和57年集英社発行
楠田枝里子訳

訳者曰く、「まどろんでいる寝入りばな」の不思議体験が語られている噺だそうである。

長女と一緒に観た。
ずっと眠っていた絵本である。
昨日から、あれこれ絵本を出しては見ている。
ちょうど、学校で絵本の読み聞かせ授業を受けてきたところだ。
これは、長女が読むのにちょうど手頃な長さだったので、彼女にわたしが読み聞かせしてもらった(笑。
(初めての試みである)。
娘に本を読んでもらえる身分になったか、、、と感慨に更けながら、、、。
(でもお小遣い(袖の下)は、払っている)。

、、、途中何度も睡魔に襲われる。


「奇妙な墜落感、つんと体を突き抜けてゆく硬直感、あまやかな流動感覚、、、」
う~ん。どうだろう、、、。この楠田さんのことば自体は魅惑的であるが。
絵はいたって地味である。
昨日の「イバラート」みたいなビビットな「ボナール光線」を発する類の絵ではなく、マットで素朴で特徴に欠けた鈍い感じの絵である。夢に出てくるかといえば、、、別に出てきて欲しいと思う絵でも世界でもない。
夢にしては解像度が低い。キリコの絵みたいな圧倒的な解像度で迫るものからは程遠い、、、。
微妙な距離感の絵である。特に平面的とも言えないが奥行もない。(素人的な)線のうるさい絵もある。


「花売りのおばさんの話」

「泳げたい焼きくん」みたいな出だしであったが、、、。
冬を過ぎても雪がなかなか消えない町に突然現れたおばあさんが、色々な花を人々に売り始める。
買った人には漏れなく、ひとつお話を聞かせてくれる、、、というもの。

ふ~んっと思った。
その話というのが、この後に載っているそれぞれの噺となってゆく、、、。
ありがちな展開であり、その導入部である。
微妙なおばあちゃんの表情。このイラストレーターは、素朴派のヒトか?
長女の読みの速度がわたしの呼吸のリズムに合ってきた、、、そのまま次に、、、。


「ピエロの話」

ピエロがTVのせいで全く町の人々に相手にされなくなり、手廻しオルガンを乳母車に乗せ町を出てゆくことになる。
途中でブタに出逢って仲良くなり、「ねずみの耳」と名付け、一緒に泉の水を飲み、野いちごやきのこを食べながら旅をする。
これから先の冬のことなど一切気にせず、樅の木の下でいま、ふたりですやすや眠っている。

噺はなかなかよい。
何ということもない噺に思えるが、ここまで何ということのなさを保ち、最後は眠りほうけて突き放す。
夢の不安を表出させている。
かつてピエロを見てみんなが笑ったというが、絵を見ると笑える類のピエロには見えない。
サーカスで芸を観せるなどしなければ、まず見向きもされまいという感じ。
作者は冬の心配を匂わせていたが、取り敢えずブタが一頭いることがピエロのこころの余裕となっていよう。


「方舟の話」

雨がずっと降り続くものだから、ザムエルという男は、聖書のノアの話を思い出し、一生懸命舟を作った。
雨が降り出してから作り出したので、大変である。しかし洪水となればもっと大変である。
そして、食料と飼っていた動物や野生の動物まで乗せられるだけ乗せ、いざ海に向かおうとするところで雨はピタッと止んでしまう。
2日目には雲は流れ、太陽が輝きだした。
でも、みんなにとって楽しい旅行になった、、、という。

これは起承転結のある物語になっている。
というより、最初長女が読み出したところで、結果が読める安直さがありどうにも期待感がもてない。
期待感なしの絵本の読み聞かせは、はっきりキツイことがその身になってみて分かった。
(それだけで、今回の試みの意味はある)。
絵ももっと線を整理して単純化した方がすっきりして見易い。
噺も絵も、もうひと捻り加えた抽象性~単純化がほしいものだ。


「おんどりと卵の話」

おんどりが広い丘に住んでいて、朝昼晩と鳴いて過ごしていた。
自分を見てくれる相手がいないので淋しくなってきたとき、卵をひとつ発見する。
おんどりはどんなやつが出てくるだろうと色々想像し、期待に胸をときめかせる。
すると、出てきたのは花を嘴に咥えたひよこであった。
彼はひよこに自分の姿を「りっぱだぞ」と自慢すると、ひよこは「そうだね」と答える。

最後の「そうだね」がブラックでよい。
おんどりは、すぐひよこにも愛想つかれることが分かる。
おんどりは他者を期待していたのではなく、単に自分の鏡が欲しかっただけである。
彼は広い世界にひとり住んでいたというより、他者に対する感覚がなかっただけかも知れない。


ここで、長女は疲れてまた明日ね、ということになった。
よく、こんなにたくさん読めたものだと、感心した。
この後は、一緒に「雪見大福」食べて、わたしはお昼寝、長女は遊びに行ったらしい。


明日この続編となる可能性は40%と踏んでいる、、、。


イバラート時間

tasoutoshi.jpg

2007年
井上直久監督

この絵本については、以前とりあげた。
「イバラートとは」
わたしにしては、かなり詳細に説明を加えている。
感想より、解説がなされている。
これは、「イバラート」を知らないひとには取り敢えずの導入とはなろうか?


さて、このイメージビデオは、スタジオ・ジブリから出されている30分ほどのものだ。
画家の井上直久氏の絵を元に、2Dキャラと3Dによる木などの動きを加えて映像世界に作り上げている。
使われた絵は、63枚ほどだという。
わたしも井上氏の画集はかなり持っているため、ほとんど知っている懐かしい画像世界であった。
ジブリでも「耳をすませば」で、大々的に背景で登場しており、宮崎監督もこのアートを相当に気に入っていたようだ。
それは分かる。世界観が近い。
ちょうど「天空の城ラピュタ」の城~浮島部分の様々な光景みたいでもある。

絵に音楽が流れ、その上にキャラや乗り物が動くが、基本は絵本の絵をそのままにイメージビデオ化されたものだ。
絵そのものは動かず、崩れず、ズラされ差し替えられて展開する。
つまりあの絵本を捲って観るのを、ビデオで観たらこんな風にもなるという感じの例だ。
環境ビデオとして流しておいても良いかも知れない。
赤ちゃんが寝ているところなどで。
じっと見ていても、他のことをしながら、ふと見たりするにも良いかと思う。
語りとかは一切ないため、音をミュートにして流しておくのも邪魔にならずに環境に優しい。


だがわたしにとって、このイメージビデオには、何をか新たに感じるものではない。
絵本を覗くより新鮮な驚きも、爽やかな発見もなく、特段心地よさもなかった。
敢えて、これをやる意味が分からない、、、。
音もさして良くはないし、絵との相乗効果が生じるわけでもない。
3Dのモノの動きも効果的と思うほどでもないし、2Dキャラが上に乗って動き回るのも悪くはないがというレベル。
何というか、よく言う「子供だまし」という感じか。

恐らく、うちのむすめたちが観ても5分とじっと見てはいないはず。
それが目に見えている。


書庫に行って、絵本の方を確認したくなった、、、。
もしかしたら、絵自体にもう魅力を感じなくなっているかも知れない。

これまでにも、何度もそういう乗り換えをわたしはして来たことを思い出した。
以前あんなに拘って集めてきたものが、全く興味を唆らず価値を失っていることがあって唖然とする、、、。
後で確かめよう。

昨日見た「秒速5センチメートル」の遠野 貴樹のように、吹っ切れてしまう。
確かにわたしは、そんな脱皮をしながら生きてきたのだ。


考えてみれば、面白いものだ。

ソーシャル・ネットワーク

The Social Network001

The Social Network
2010年
アメリカ

デヴィッド・フィンチャー監督
ベン・メズリック『facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男』原作
アーロン・ソーキン脚本・製作総指揮

ジェシー・アイゼンバーグ 、、、マーク・ザッカーバーグ
アンドリュー・ガーフィールド 、、、エドゥアルド・サベリン(マークの親友)
ジャスティン・ティンバーレイク 、、、ショーン・パーカー(ナップスターの創始者)
アーミー・ハマー 、、、キェメロン&タイラー・ウィンクルボス(双子)
マックス・ミンゲラ 、、、ディビヤ・ナレンドラ(双子の親友)
ブレンダ・ソング 、、、、クリスティ・リン
ルーニー・マーラ 、、、エリカ(マークの以前の彼女)

「セブン」「ゴーン・ガール」の衝撃的映画の監督である。


この脚本、大丈夫か?!
まったくもって、これではマーク・ザッカーバーグ人格破綻者ではないか、、、
よく当人が何にも言わなかったものだ、、、(言わなかったかどうかわたしは知らない)。

アスペルンガー症候群かとも思われる。
知能は高いし。

実際は、全く違うタイプの人かも知れないが、通常これは伝記ものとして観られるだろう。
(もう公開からは大分経ってるので、問題はなかったのだろうが)。

成功神話には悪が必要といったことが語られていたが、、、スティーブ・ジョブスにしてもこの人にしてもかなりの描かれ方だ。
l極端である。


さて、この映画で観る限り、、、
マークは、ハーバード大の秘密クラブである”ファイナルクラブ”や”ボート部”からは到底、声はかからないタイプである。
彼女にも全く自己中な話しっぷりでしかも話題は飛びまくり、愛想つかれる。
挙句の果てに振られ、腹いせにブログで彼女を中傷する。
これは、断じてあってはならぬことだ。
わたしも、それだけは自らに厳しく律することで、一貫してやって来た。
ずっと、言うべき事のみ(書かねばならぬ事のみ)を書いてきた自負はある。

これが単なる映画上の演出・脚本レベルで描かれたことであったら、名誉毀損にもなり兼ねない部分だろう。
この作品、実にセンセーショナルで緊張感もあってよくできたものであることから更にこの部分は真に受けられる危険性も高い。
映画はあくまでも映画作品ということを弁えた人ばかりとは、言えない。

しかしそれは兎も角として、マークは女性との関係も、ボート部やファイナルクラブ同様、不毛であったと描かれる。
すると、この異常なばかりの鬼気迫る情熱によるフェイスブックの構築・拡充は、その代償行為でもあろうか。
そう自然に受け取れてしまう。
だが、代償行為はどこまでやっても代償に過ぎない。
それとも女性とのコミュニケーションの不全・破綻をフェイスブックという形で補完しようとしたのか、、、。
(これも代償にほとんど変わらない)

昇華ならよいが、、、。
芸術(美術・音楽・文学・映画・写真、、、)とはいえなくとも、想像性・創造性の高いものなら昇華に繋がるところはあろう。
全く新しいコンテンツを生成するためのコードを書く恍惚はわたしにも分かる。
これもひとつの創造行為ではあるかもしれない。
だが、ベンチャービジネスの要素が強すぎる、
「数」に還元されるだけのものになってゆく。

登録ユーザー数を更新して、スタッフと熱狂しながらも、彼は非常に醒めてしまってもいる。
毎日がただフェイスブックを大きくしようという熱に浮かれてパーティーが続く。
単に終わらないだけか?
共同創業者であったサベリンを切り捨て、途中から彼を精神的に導いたパーカーをも切り捨てる。
そうしながらも、只管フェイスブックは拡大してゆく。
ファイナルクラブのナレンドラ達にも、訴訟を起こされ彼独特の感性で反論してゆくが、ほとんど他人事だ。
彼はフェイスブックにしがみつく。

マークは頭だけではなく感性も鋭く描かれている。
成功すればするほど、虚しさがこちらにも伝わってくる。
数値には、何も還元できない。
億万長者になっても、救われはしない。


話の冒頭で、こっぴどく振られた彼女エリカに躊躇しつつフェイスブックで承認リクエストを出す、、、。
あくまでも、この物語の締めとしては、うまい!
(フェイスブックなんて知らないわ、と言いつつ彼女もちゃっかり使っているのだ。それだけ強力なSNSである証拠だ)。


ビートルズの”ベイビー・ユーアー・リッチマン”久しぶりに聴いたが、これ程の名曲だったことに初めて気づいた(笑。
独りでパソコンを打つマークの虚ろな表情にピッタリ合っていた。



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秒速5センチメートル

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フランスでの公開時のロゴ、、、さすがフランス(最近フランス文化の凄さに圧倒されっぱなし)。
2007年

新海誠監督・脚本・原作・絵コンテ・演出・製作総指揮

新海誠監督のやりたいように作られた作品に思える。

「桜の花びらが舞い落ちる速度」が秒速5センチメートルだという、、、。

風情がある。というより儚い。

「桜花抄」、「コスモナウト」、「秒速5センチメートル」の3部作構成である。
遠野 貴樹「桜花抄」(小3~中1)「コスモナウト」(高校生)「秒速5センチメートル」(社会人)
篠原 明里「桜花抄」(小4~中1)「秒速5センチメートル」(社会人)
澄田 花苗「コスモナウト」主人公の女子高生


「桜花抄」
人物の内面描写が自然現象との関わりのなかで、見事にディテールまで繊細に描かれている。
散々雪で待たされ(彼女を待たせ)深まる夜の不安と焦燥のさなか不意に風に吹き飛ばされてゆく彼女に渡す手紙、、、。
情けなさで押し潰されそうになるきもち。
この切なさは自分の記憶にも深くゾンデを降ろす。
桜の花弁のはらはらと舞い散るなか、、、その普遍的な(いや永遠の)時間のめくるめく。

仕事の関係で転校の続く家庭に生まれた遠野 貴樹は、同い年の転校生、篠原 明里とこころを通わせる。
内向的で図書室が好きなふたりは、お互いに強く引き合ってゆくが、転校によって離れることになる。
ふたりは、転校を重ね次第に遠く離れて暮らすことになる。
栃木と鹿児島まで、離れてしまった時に、意を決してふたりは会うことにする。
大雪で途中電車が長時間止まり約束の時間を大きく遅れてしまうが、深夜ふたりは会うことが叶う。
雪の結晶のはらはらと舞い散るなか、、、彼は彼女をどう受け止めたらよいか分からなくなる。
ふたりでお弁当を食べ、一夜を納屋で明かす。
別れ際、「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う。ぜったい」と 明里は語る。彼は無言でそれを受け止める。
ふたりがそれぞれ書いたラブレターは、どちらも渡せなかった、、、。

「ぼくたちの前には、茫漠とした時間がどうしようもなく横たわっている。」
「このまま彼女と一緒にいることはないということは確かだ」、という彼の予感・直覚は正しい。


「コスモナウト」
音楽(ピアノ)の演奏がモノローグに絡み美しい。
澄田花苗が主体となり物語が綴られる。種子島が舞台。
遠野 貴樹は文武両道の憧れの的、というより転校してきた時から澄田花苗の恋愛対象であった。

彼は優等生的に当たり障りのない優しい返答しかしないが、それは外部との交流を単にやり過ごすだけの手法に過ぎない。
篠原 明里との文通は遅れがちとなり、やがて途絶える。彼女のことはまだ忘れられないが、何が忘れられないのかまだ分かっていない。
メールを打っては発信しない日が続き、それが儀式的な癖となっていた。
次の花苗へのことばは、誠実な答えであったと思われる。
「余裕ないんだ。迷ってばかりだよ。できることをなんとかやってるだけ」。

時速5キロで運ばれてゆく深太陽系探査ロケット。
本当に真っ暗なひとつの水素原子に出会うことも希な空間を進んでゆく孤独な旅に思いを馳せる。
茫漠とした時間の横たわり。どうにもならない距離。
それが生むもの、、、。

澄田花苗はサーフィンで波に乗ることに成功する。
(彼女はプロのサーファーを目指しているのか?)
この幸運な日に、彼女は意を決する。
彼に告白しよう!、、、しかし彼が自分の遥か、遥か向こう、、、遠くを見つめていることに気づく。


「秒速5センチメートル」
相変わらず光の物理的表現のきめ細やかさに驚く。
篠原 明里は来月、誰かと結婚を決めている。
そんな時、子供の頃書いた手紙を見つける。

ただ、生活しているだけの悲しみ、、、茫漠とした時間の消費に毎日を費やす悲しみがその無表情に現れている。
彼はすでに、1000回メールしてもこころは1センチも近づかなかったと3年付き合った彼女に告げられ分かれている。
前に進みたいが、掴むべきものが何であるかが分からない。強迫的にそれを求め闇雲に働いたが、日々弾力を失うこころに唖然とする。そしてある朝「自分があれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに消えていることに気づく」。
(篠原 明里からの結婚の知らせのメールは見たはず。少なくとも要因ではなくともトリガーではあろう)。
同時に彼は会社を辞める。

夢の中では、遠野 貴樹と篠原 明里は13歳のままで、また桜の花弁の舞う下で逢える、、、
回想と空想~白日夢が目まぐるしく交錯する。
この時の歌はとても良かった。
わたしが山崎まさよしのファンだからか。
いや、とても曲想と映像が合っていた。
そして現実へ、、、
線路を渡るすれ違いざまに篠原 明里の現在の姿~幻をある女性に認め、 貴樹は降りた遮断機を間にして、振り返る。
電車の通った後、彼女もこちらを振り向いているだろうか、、、?
しかし、その女性はすでに影も形もなかった。
彼は一瞬眉を曇らせるが、その後口元に笑みを浮かべる。

確かに貴樹は一歩を踏み出さんとしていた。

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言の葉の庭

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2013年
新海誠監督

タカオ(靴職人を目指す高校生)
ユキノ(高校の古文の先生)


雨の日の美しくも瑞々しい恋(孤悲)物語であった。
「君の名は。」の監督の作品であることがよくわかる。
こころの琴線を同じように切なくかき鳴らす。

ここでも万葉集だ。

この監督はことばをとても大切にし、それに拘る。
良い監督は、皆そうだ。
そもそもことばを疎かにする者に、まともなものなど作れるはずもない!


「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
雨の降る新宿の公園のベンチで出逢った女性がそう主人公の少年タカオに言い残し去ってゆく。
彼女はどこか苦しげで孤独な雰囲気を醸していた。
チョコレートとビール以外に味を感じないらしい、、、。
、、、雷が鳴り響き、曇り始めた、、、雨が降ればあなたを引き止められるのに、、、。

彼らは、決まって雨の日にそのベンチで出逢う。
雨の日にだけ出逢える、織女星と牽牛星みたいに。
確かに雨であれば、邪魔は入らない。(たまに晴れた日にそこを訪れるとまるで違う場所であった)。
そこはふたりのこの世であってこの世でない儚く絶対的な世界だ。
外部の時間は流れない。
ただ暖かい色彩と光に満ちている。

かなり後で気づくが、彼らは同じ高校の古文の先生と生徒であった。
タカオは雨の日の1元はサボることにしていたのだ。
(古文の先生ユキノは療養休暇中であったが)。
彼女がどういう理由で学校を休むことになったかタカオは随分遅れて知る。
(味覚障害もそれが原因で発症したか)。
そして彼女が学校を辞め去ってゆくのも目にする。


タカオは、靴職人を目指し日夜、独学で研究を重ね制作に取り組んでいた。
そのためのアイデアスケッチを暇なときはいつもしている。
梅雨が終わると、カラッと晴れた夏になる。
彼らは別々に淡々とした日常生活を送ってゆく。

タカオは、いつかの短歌の意味を知り、また雨の日に出逢ったユキノに返す。
「雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」
ユキノは最初、彼に短歌を詠んだとき、自己紹介も兼ねた気持ちであった。
だが、タカオは自分の進む道以外に関心の向く状況ではなかった。
今更お互いの立場を確認し合ったところで、それが何であろうか。
、、、雷が鳴り響き、雨は降らずとも、、、あなたが引き止めてくれさえすれば、わたしは留まる。

大雨が降り、ふたりはびしょびしょになってユキノの家で服を乾かす。
そこで、タカオが食事を作って食べて共にコーヒーを沸かして飲む。
お互いにこれまで生きてきた中で一番幸せな時だと自覚する。

だが、タカオがユキノにずっと抱いてきた好意を口にすると、彼女は実家の四国に戻るのだという。
タカオはそこをすぐに飛び出してゆく。
ユキノは彼の後を追い、お互いに初めて激しくぶつかり合う。


タカオはある日、愛らしいハイヒールを作り上げ、あの公園に持ってゆき、ベンチにそっと置く。
彼がユキノのために作った靴だ。
その靴は、歩くためのものである。
少しでも彼女が長く歩きたいと思えるようにと。
そして自分のためにも。

「2人とも歩く練習をしていた」のであった。
あの雨の日々に、、、。「雨」と「靴」にこめられた濃密な時間の意味を知る。

タカオは、「もっと遠くまで歩けるようになったら」ユキノのところに会いに行こうと思う。


宮崎駿や栗栖直也や細田守にない、、、とまでは謂わないが、現実と地続きに接続してゆくところがこの監督(作品)の素敵なところだ。
しかも現実の最も詩的な場所に。
いまここである最も詩的な場所に。

そこでは無論、歳の差なんて問題外である。
昨日のSFアニメを観た後であるからか、この淡々として極めて物理的に追求されたディテール描写の魔術が殊の他、爽やかであった(特に光学的な反射など)。
極限的世界の仮構から本質を描き出そうとする手法は思想の表出にとても有効なものだが、このアニメーション「言の葉の庭」の現実を詩的に異化してこのままからそのままへ展出してしまう方法には、目の覚める思いがした。


最後に流れるJ-Popは、悪くはないのだが、雨いや水にちなんだクラシックか現代音楽の方がしっくりしたと思われる。
ちょっと、あそこまで行ってヴォーカル入のポップとは、、、
余韻、余情にもっと浸りたかった、、、、。
あくまでもわたしの個人的な趣味の問題か、、、?
(岩井俊二ならぴったりのクラシックを入れてくるだろう)。


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