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GOMA28

Author:GOMA28
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ねむれ思い子 空のしとねに

Hand to Mouse

2014年
栗栖直也監督

3DCGアニメ映画。
観終わってみて、脚本はよくできていると思った。
作家が表現したいことは、しっかり伝えることのできるものだった。
この3DCGアニメ、7年かけて監督である作家が独りでコツコツ作りあげたものだという。
50分もの尺である。
大変な、目も眩むような労作と言える。
それだけでも、頭が下がる思いだ。

7年といえば、技術や形式面での革新がそのスパンのなかで起きても不思議でない期間である。
自らの思想にも変化は起きようし、脚本もへたをすると知らず変わってきてしまう恐れも出てくるはず。

それにしては、まとまっていた。
細部に至るまで、破綻も感じられず、重いテーマをストイックに描ききっていたと思う。

だが、だがである、、、。
この「セルルック」の手法だが、物語がシリアスでよくできているほど、入り込むことに抵抗が感じられてしまう。
このアニメのセルルックの手法が少し特異で、3DCG化したアニメキャラにわざと独特な猫線を描き加えたものである。
それが、恐らく通常の3DCGが非常にリアルな人物描写には最適であっても、日本特有のアニメキャラには向かないところでの折衷案として案出されたものなのであろう(この作者独自のものかどうかは知らぬが)。

結果、今一つなのだ。残念ながら、、、。労作の割に報われていない。
表現様式として、中途半端な感じが終始拭えず、そこが気になり折角練りに練った話に入り込めないのだ。
リアルな3SCGか日本キャラ丸出しのセル画かどちらかを選んだ方が遥かに感情移入もできたことは間違いない。

わたしの感想としては、基本的に普通のセル画で描き、メカや建造物などのシーンにのみ3DCGを使って構成・複合した方が、内容~ストーリーと形式の融合が強化され、格調も高まると思われる(つまり従来の方法である)。

勿論、作者は独りでこれを作ったそうだ。
CGであれば、基本形を一体作れば(モデリングすれば)、後はどのようにも動かすことが出来るため、独りならそのほうが作りやすいことは確かで、これをセル画でやろうとすれば、人海戦術で当たる以外にはなくなる。とても独りでなんて、そもそもできる仕事じゃない。
製作委員会とかのプロダクションを作る必要がある。

それにしてもこの作品、「絵」につまり作者が最も拘ったであろう絵に抵抗を感じて入り込めないのだ。
それは実に惜しいことではないか、、、。
母娘の愛情がSFの極限状況下で、情感たっぷりにグロテスクに描かれている。
良い作品だと思う。
いっそのこと実写版を制作してみたらどうであろうか?
フランスあたりで。


作中、「ただの情報の塊が人間ズラしてるんじゃないわよ!」
と、母の再生体に向かって罵倒する場面があるが、生命体はすべからく情報である。
それ以外の何かでは在り得ない。
勿論、監督の謂いたいことは、分かる。

ここでは、母は完全な主人公の少女の母以外の何者でもない。
主人公もそれを心底、実感した。
お互いに希は叶えたのか、、、。
最後のどこかの母娘が、夜空に美しく燃え尽きながら落ちてゆく人工衛生を見詰めるシーンには感動した。


話がしっかりしているので、実写化してみてはどうか?
このアニメーションは逆輸入のようである。
海外で実写化してもらいたい。

tetsujin28
*わたしがもう随分昔にMAYAで作った”鉄人28号”360°どこからでも見られるし、どのような姿勢、ポーズもとれる。
これ一体で、何処にも使いまわせる。特にロケット噴射口は念入りに作ってある(爆。
しかし、このデータを動かすワークステーションが先ごろ、使えなくなりこの鉄人は凍結した(拝。




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退職教員記念展を観た~女子美

jyosibi.jpg

昨日、余りに良いお天気であった。
こんな良い陽気に外に出ない手はないと思い、公園にゆく。

ひととき遊具で遊ぶがこの時期こどもは毎回、以前できなかったことが、少しずつ出来るようになってゆく。
今日も、ここまで登れたとか、ここを渡れたとか、前回諦めたところを克服している。
実は恐らく毎日がその反復なのだ。
そうして育ってゆく。

特にこんな反復(差異を孕んだ)遊びで、力をつけてゆく。
その身体感覚の獲得がきっと、美術にも重要な役割となって機能するのだと考える。

遊んだ帰りにいつものように、女子美アート・ミュージアムに3人で行った。


ギャラリーに最初に入ってすぐに飛び込んできたのは、高い明度を背景に茶や褐色(或いは荒々しい濁色)系の激しいタッチによる単純な形が大きく色面構成されていた。
いやスタティックな構成というより、ムーブマン~動勢そのものの動きの過程を捉えたものかも知れない。
しかしフリーキーに見えてかなりメッセージ性を秘めた繊細な画像に思えてくるものであった。
大きい中にタッチの揺れ動きが(躊躇も)見られた。
絵画とはすべからくそういうものであるかも知れない。

その後ろを振り向くと、とても穏やかで淡く、優しげな「色彩」の泡立ちが広がっていた。
そう、色自体が生きて動いているような、、、。
平面的な繊細なタッチで高明度で彩度を抑えた柔らかな暖かさが散りばめられて。
いや、泡立ちとかいう活性ある運動というより、流れに近く、それが大画面を充たしているというべきか。
近くで確認しても、個々の流れ動きは小さく静かである。
「青い猿」という作品だけが、異質の色面分割で何やら明らかなフォルムを匂わせる前形体とも呼ぶべきものが示唆されていた。
ちなみに、他の絵画は「天使の忘れ物」シリーズであった?

奥に入ると、彫塑が並んでいた。
粘土の塊を只管押し付けて作っていったゴツゴツ質感で量感そのものを表した感のあるものや、、、。
雨後に地表が強烈な日照りで乾燥した時にできる罅割れの写しといった作品など自然の襞~その凹凸の神秘に魅せられたような作品が並び、自然の時間の中に析出するような「染み」を魅せるものや、岩石の切断面を模した内部に様々な結晶を宝探しのお宝風に隠したようなものまで~何故か豆の入った和菓子を連想させもするが~わたしを夢想に誘ってくれそうなものがあった。

会場入り口付近に展示された版画にはもっとも興味惹かれた。
エッチング、メゾチント、アクアチントは分かったが、ミクストメディアとか、はどうして作られているのか、よく分からないものであった。さらにグラビア印刷の作品もみられた。
ディテールの精緻さに思わず吸い込まれる。
そこが版画の版画たるところだが。
表現方法(形式)の異なる版画をこれだけ凝縮した空間に見るのは初めてで、大変濃密な鑑賞体験となった。

今の印刷方式の主流は、オフセット印刷(平版)であるが、グラビア印刷(凹版)による味わいのある版画は格別な趣がある。
かつての雑誌の写真印刷はグラビア印刷術によるもので、最近はほとんど見ることもなく何とも言えない郷愁に満ちていた。
マグリッドやエルンストを想わせる建築物のアクアチント作品からグラビア印刷による草の自然が精妙に作った形体が印象に残った。
そう、このような写真によって対象化~抽象化されることで、自然の造形の神秘にわれわれは深く感じ入ることができる。
そんなことも再認識する展示会であった。




キリクと魔女

kirikou001.jpg

Kirikou et la sorciere
2003年(劇場発表) 制作1998年
フランス・ベルギー・ルクセンブルク

ミッシェル・オスロ監督・脚本・原作・製作
ユッスー・ンドゥール音楽

スタジオ・ジブリ

キリク
カラバ(魔女)
キリクの母
賢者(キリクの祖父)


やはり、昨日思った通りの監督であることが分かった。
たいがい処女作にその人の思想が詰め込まれている。(そのため、処女作を越えられない作家も数多くいる)。
本当は、「プリンス&プリンセス」を観ようと思っていたのだが、今時のDVDにしては異様に高い、、、出たばかりの頃のDVDの値段に近かったので、こっちにしたのだが、、、正解もよいとこだった(爆。


舞台はアフリカの村。
キリクは自分の意思で母親から自力で生まれ、自分で風呂に入り、素早く走り周囲の状況を全て理解し、みんなのために果敢に行動する、、、、釈迦みたいな赤ん坊だ。勿論、生まれたてで言葉も大人以上に理解して話せる。
しかも、ずっと裸のままだ。アフリカの赤ん坊はそれで普通なのかも知れぬが、これは普通の赤ん坊では明らかに、ない。

今、村は魔女の支配に慄いていた。
宝石などの財宝は全て奪い取られ、男たちは魔女に食われていた(後で、ロボットの手下鬼に変えられていた事が判明するが)。
泉が動物が入り込んで、通路の中で太ったために渇れてしまったことも、魔女は自分の魔力のせいだと宣伝(情報戦)に利用していた。

キリクは、何度も村人の危機を救っていったが、平和を得るには魔女との対決は避けられない。
魔女の暴挙から村を救おうと、彼は数々の危険を冒して魔女の住む山の向こう側の、賢者である祖父の元に辿り着く。
(途中でリスを味方につけたり、鳥や猪を利用して)。
そこで知恵を拝借するためだ。

「ぼくは小さい。」(キリク)、、、そりゃまだ生まれたばかりだから、、、。
「だから誰も入れなかったところに入れた。それを喜ぶと良い。」「大きくなった時に忘れずに自分が大きいことを喜べば良い。」(祖父)
彼は、人々の迷信や先入観や漠然とした不安や恐怖(共通感覚)を強大な権力に利用することができること、を彼に諭す。
そしてそんなかたちで権力を握るものが、女を軽蔑し男を憎み、人々にあらん限りの苦痛を与えようとするという。
何故か!?
それは自分が耐え難い苦痛を抱えているためだからだ。
だが、その苦痛と憎しみの作用で恐ろしい魔力(死の力)が発動する原理となる。
元凶とは、まさに深く沈み込んだ外傷なのだ。
その傷は時としてあまりに深いと場所すら特定できず、対象化することが不可能になることもあり、そこは他者の力を借りなければならない。
だがその苦痛を除く際には、それを遥かに上回る激痛を覚悟しなければならない。
(苦痛の記憶の参集、特異点の生成の場を再認することが多い。つまり歴史の根拠を問われる)。
それをなにより権力者は恐れているものだ。
だからそれを~苦痛からの解放を手助けする者は、その覚悟を必要とする。
そんなことを賢者はキリクに伝える。(まだキリクは赤ん坊なのだが、賢く先入観のない赤ん坊であることがよいのだろう)。

「ボクがカラバのトゲを抜く。出来なければ、死ぬ。」
そう決意してキリクは魔女カラバの絶え間ぬ苦痛の元である背中に深く刺さったトゲを抜きにゆく。
キリクの巧妙な作戦も功を奏し、魔女の背後をとり歯で刺を抜き取ると、村中に彼女の痛みの叫びが響き渡る。
しかしその痛みは、永い間苦しみ続けた痛みと違い、一時だけのものなのだ。
その後は、、、彼女を取り巻く世界は、別世界であった。

彼はカラバをその憎悪の苦しみから完全に解き放った。
いまあるのは、、、

キリクは、彼女に結婚を申し込む。
カラバは歳が違いすぎるため断る。
しかし、キリクの言うように口づけによって、ふたりは年相応のカップルとなっている。
ふたりの気持ちはかたまる。

ふたりは村に戻るが、大仕事を終え村を救った青年のキリクと元魔女の姿の普通の女性に拒否反応しか見せない。
彼らは、今を見ようとはしない。
過去の記憶や拘り(価値観)、先入観でしかものが見れない。
ただひとり、キリクの母だけは成長(急成長)した息子の姿を見極める。
だが、カラバの内的な変容を理解する者は、誰もいない。
村人が彼らに襲いかかろうとした時に、賢者が魔術から解けた村の男たちを連れてやってくる。
それが魔術による支配が終わったことを告げ、、、村が元に戻り、ハッピーエンドを迎える。

絵は昨日の「アズールとアスマール」に繋がってゆく強調と単純化による平面的装飾性の高い、実に芸術の香り漂うものである。
あの芳醇で見事な絵画世界の原石を見た感じだ。
しかし、監督の思想は明瞭にここに現れていた。


共感した。
音楽にも、、、。なにしろユッスー・ンドゥールである。




アズールとアスマール

AZUR ET ASMAR001

AZUR ET ASMAR
2006年

フランス

ミッシェル・オスロ監督・脚本・原作
ガブリエル・ヤレド音楽

アズール
アスマール
ジェナヌ(アスマールの母、アズールの乳母)
クラプー(アズールと同じ碧眼の西洋人)
シャムスー・サヴァ姫(城に幽閉同様に閉じ込められている聡明な姫)
ジンの妖精(囚われの身の光の妖精)
エルフ(ジンの従姉妹の妖精)
ヤドワ先生(国で最も知恵のある先生)

日本はアニメ大国みたいに言われているが、これ程の(このレベルの)アニメはまず作れない。
画像処理・制作技術や色彩配色は可能かも知れないが、とは言えそれも圧倒的にこちらが上だが、この脚本(原案)はさすがに無理だろう。何よりストーリー~物語が圧巻だ!
わたしは、これまで映画にストーリーより遥かに絵の質を求めてきたが、この映画は絵はずば抜けているが、物語の基本コンセプトがまた更に素晴らしい。

影絵ではないが、鮮やかな色彩の対比が美しい平面的で単純化された装飾性の極めて高いアニメーションである。
アズールとアスマールは、アスマールの母でアズールの乳母であるイスラムの女性ジェナヌに分け隔てなく愛情をかけられ実の兄弟のようにして育てられた。
ふたりは二つの言語や歌と彼女の故郷ジン(エルフ)の妖精の国の噺などの異国の文化の香りに馴染んで育つ。
ジンの妖精は閉じ込められているが、魔法の3本の鍵をもった勇者が助け出すという伝説が耳に(こころに)残る。

アズールの父親にふたりは徐々に引き離されてゆき、ついにアスマール母子は、アズールが専任の家庭教師宅に預けられ勉強している間に、もう用はないと無慈悲に何も持たずに追い出されてしまう。


領主の息子アズールは長じて父の反対を押し切り海を渡る。
幼い頃、子守唄で妖精が「大きくなったら海を渡るよ~」と歌っていた、、、決断に際してこれが無意識にあったことが大きい。
勿論、追い出されたアスマールとその母の安否もずっと気にかけていたはずだが、、、
アズールはジンの妖精を助ける冒険の末、幼い頃の噺からイメージを深めていた乳母の国に漂着したが、実際そこでは不当な差別を受ける苦難が待ち受けていた。
碧眼がもっとも差別の元凶となるため、ついに彼は目を閉じ盲目の若者となることにする。
そこへ、クラプーというアズールの文化圏からかつて彼と同じ憧れをもって渡って来た男が現れ、彼の案内で何とか食いつなぐことはできた。
クラプーは、詐欺まがいのことをしながら底辺で皆に煙たがれながらも強かに生きてきたのだ。
しかし次第に彼の生き様の魅力もにじみ出てくる。彼の流儀である。
「それでもこの国を愛している」という彼のことばは、重い。
アズールも彼に一目置く。

イスラムとフランスとの関係は今現在どうか。
ここでは、黒い目のイスラムの国における青い目のフランス(西洋)人の立場である。
20年も先にその地に夢を抱いて(ジンの妖精を探しに)来ていたクラプーもサングラスで目の色を隠しているが実は碧眼であった。
青い目はここでは、不吉なものとして、黒ネコとともに忌み嫌われている。
丁度、イスラム系の外見から(国籍は移していても)、テロ犯ではないかと見なされ排斥されるのと反転している、、、。
「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」で橋の上にトラックを乗り捨てた青年が国籍はアメリカなのにイスラム系であったために大騒動に発展したのも同様の差別意識からだ)。
ISIL による悲惨な事件もまだ記憶に新しいが、、、。
お互いに複雑で重々しい禍根を残している。
そしてイスラムの宗教・文化の特殊性(西洋国家にとっての)である。
その文化的・日常的影響力が恐れの対象ともなっている現状である。


盗賊との闘いや恐ろしい伝説の怪獣との駆け引きも兼ねた苦難の旅を経て、お互いに協力し合い何とか妖精の囚われた場所までやって来るふたり+クラプーであったが、最後の扉のところでアスマールは盗賊に刺されてしまう。
その後、予め探り出しておいた鍵を3本使い、妖精を囚われから解き放つ。
既のところで、アスマールの傷も妖精の力を借りて治ってしまう。

ジンの妖精は彼女を救出した勇者と結婚をすることになるはずであったが、アズールとアスマールのふたりが同時に彼女の前に現れたことから、主要登場人物全員が一堂に会することとなる、、、。
妖精は、どちらと結婚すればよいのか、彼らに尋ねるが、、、

ふたりがそれぞれお互いに兄弟の方を推挙し譲らないため、どうにも決められない。
彼らの喧嘩を幼い頃に仲裁してきたジェナヌをそこに呼んで決めさせようとするが、彼女にとっては双方が自分の息子に等しくどちらを花婿に推すかなど決められない。聡明なシャムスー・サヴァ姫をそこに呼び、彼らふたりの相手を推薦することばを聞くが、同等の説得力にどちらと決められず、ふたりと結婚すれば、という提案を出すがそれは無理であった。そこで姫の先生であるヤドワ氏を呼ぶ。しかしふたりの気高い若者に甲乙付けること自体不可能だと述べ、われわれとは全く違う考えでモノを見る7番目の人間をよびましょう、ということでクラプーがそこへ。彼は自分を売り込む。当然妖精に却下される。(試練を乗り越えた王子ではないと(笑)。そしてジンの従兄弟の妖精エルフを呼ぶ。
これはうまい!

つまりそこへもうひとりの美しい(西洋側の)女性が現れ、暫し時を共にしてお互いに選ぶことにする。
それぞれジンの妖精、エルフの妖精が意中の人を選ぶことで、解決を図る。
最初は、ジェナヌもシャムスー・サヴァ姫も予定調和を期待した。
しかし、、、

イスラムの青い衣装を纏うジンの妖精は、白く壮麗な衣装を付けるフランス人のアズールを選び、、、
白い西洋風の優美な衣装を身に纏うエルフの妖精は、煌びやかなイスラムの赤い衣装のアスマールを選ぶ。
「わたしに異存はないが、、、」(アズール)、「わたしもだ、、、」(アスマール)
「この方がもっといいわね」(ジェナヌ)、「そう、これこそ未来への答えだ!」(クラプー)

最後のクラプーのことばが全ての締めであった。
(きっとそういう監督なのだ、、、)。
この思想は重い。
(だが、まだまだ現状は変わるまい)。

物語~ストーリーが如何に大切かをこの映画でこってりと認識した。
AZUR ET ASMAR000

夜のとばりの物語 ~醒めない夢

Les contes de la nuit002

Les contes de la nuit
2012年

フランス

ミッシェル・オスロ監督・脚本
クリスチャン・メイル音楽

スタジオジブリ
  
今日は、学校参観に時間と労力を割いたため、「アズールとアスマール」”AZUR ET ASMAR”は明日にしたい。
正直、ヘトヘトなのだ(笑。


前作もそうだったが、始まりに必ず出てくる若い男女の役者がこれから演じる話を撮影技師?と相談して作って演じる形であるが、撮影技師がパソコンで素早く、題材として採り上げられた時代~地域の文化(主に人々の装束や建築)などのヒントを見せてくれるのが、とても楽しいものだった。わたしはそこの博物的図鑑鑑賞の趣がかなり気に入った。
更に、あのデータを筒?に入れると、たちどころにその衣装を身に付け(変身)させてくれる機械(オートマタ)が、素敵だ。
影絵とオートマタがこれまた相性が良いではないか、、、。
音楽がまたとびきりであった。
絶妙な共鳴が心地良い。
このコンセプト~フォーマット、イケル!
こういう香りのあるものって、いいなあ~とつくづく想う。


今作は5編のこれまた素敵な御伽噺である。
前作の続編的な要素はなく、前回発表の際に零れたものを寄せ集めた位置づけだと思われる。
しかし、個々の作品の完成度の高さは謂うことない。
前作と変わらず、とびきり美しい万華鏡に恍惚となってしまうような要素は、同じである。
特に最後の『イワン王子と七変化の姫』の噺そのものの面白さがこどもにも受けていた。
しかし、この最後の編は前作に近いまとめであるが、それまでの編については、少し感触は異なった。

噺は前作のように丁寧に完結させずに、こちらに向けて突き放す感じが強い。
後は自分で想像して、、、と。
寓意性が高く、少し対象年齢が上がった感じがする。
その分、これらを観て眠ると、続きが夢に出てきそうな気がする、、、。
余韻が残るのだ。
昨日のも残ったが、感動が残るタイプのもので、今日のものは終わった先が気になるタイプのものだ。
(そうはっきり分かれるものでもないが)。
画像の素晴らしさだけではない、寓意的な噺の面白さが際立っていることにも感心する。


どうやらフランスでTV放送されていた番組が、このようにまとめられたらしい。
なんと贅沢な!
日本でもこんなTVアニメ番組が毎週放映されていたら、ちょっと文化状況も変わるのではないか、、、。

何といっても、影絵~切り絵は日本文化と密接な関係があるし、その技量においては、やはり日本が最も秀でてはいまいか?
切り絵作家の驚異的な作品が時折、波紋を広げ注目されても、それらはほとんど美術館か特定の個人蔵レベルである。
(美術関係の書籍・雑誌の印刷には載ってはいるが)。

こんな形でのメディアへの露出もあってよい。
誰もが大いに楽しめるものだ。

ただし、鮮やかで豊かな色彩表現と3D効果も巧妙なものができたとしても、わたしが心配なのはストーリーなのである。
映画を少しばかり観てきて強く思うことだが、海外の映画に比べて、邦画は予算・スケール・技術が原因でつまらないというのではなく、純粋に話が面白くないことが圧倒的に多かった。演出とか脚色とかのレベルではなく原案・脚本あたりからホントにつまらないのだ。(勿論、充分に素晴らしいものがあることも前提でのはなしだが(笑)。

最初のコンセプトで、もう終わっていたら、それまでである。
一言で言えば、良い脚本の元に表現手段を創意工夫して乗せてゆくことが肝心だと思われる。
この映画を観てしみじみ感じることだ。


Les contes de la nuit003

夜のとばりの物語

Les contes de la nuit001

Les contes de la nuit
2011年
フランス

ミッシェル・オスロ監督・脚本
クリスチャン・メイル音楽

スタジオジブリ


これには、驚いた。
これまで知らなかったことにも驚いた。
やはり思っていた通り、3Dをただやれば良いというもんじゃない!
あの方向性(立体の迫力の追求、ホントらしさ)は、芸術的に言えば言葉の真の意味での「退廃」である。(あくまでも悪い意味での)。
この画像には圧倒された。
これこそ、アニメでしかできない平面性を最大限に活かした装飾的抽象表現の極みである。
そう、平面にこそ高い芸術性が潜む。
そして形体のシャープでイメージを掻き立てる単純さ。
色彩が美しく配色・構成がまた際立って素晴らしい。
美が正統に追求されている。

とは言え、この作品「3D」である。
影絵と3Dの組み合わせにより成り立つ。
しかし形式的に不思議なことは何もない。
もともと「影絵」自体が優れて平面的な3Dではないか。
(切り絵をコンピュータに取り込んで処理するというのも、実に自然な手法に思える)。

影絵の超時代性と芸術性を、つくづく思い起こさせる。
意味深い芳醇な作品である。
だが、その上に寓話的ストーリーが簡潔に無駄なく、よくできていてとても面白い。
純粋に、こころに染みるものである。(はっきり言って古典の御伽噺よりも出来がよいかも)。
音楽効果とも実にマッチしており、時に躍動感がありスリリングですらある。
影絵自体の動きの制限は大きい。
顔は目が動くくらいであり、実にシンプル極まりない体の動きしか与えられていない。
にも関わらず、この饒舌さ豊かさは、なんだ!
きっといつも映画を見るとき使っていない類の想像力を瑞々しく発動させる結果の芳醇さである。
わたしは、この形式に驚きを感じつつ鑑賞した。


そのうち学校から帰宅した娘たちも一緒に観ていたが、いっときも目を逸らさず観ていた。
途中からだったので、終わってまた最初から観せた。
彼女らは文字通り魅せられていた。
一種のカルチャー・ショックでもあったようだ。
当然だと想う。
内容的にも形式的にもエキゾチックで美しく、そして余りにも分かり易い。
このような作品は、他にない。
観終わった後も、静かに余韻に浸っている様子であった。

6編全てが甲乙つけがたい極めてよくできた噺なのだ。
一つが10分くらいで観られるその尺もベストである。
(特にこどもの集中力において)。
大変充実した良質な時間を過ごすことができた。


圧倒的な(恐るべき)アート・ディレクションだ!
この監督のものは、この続編があるという。
ぜひ観たい。


映画を観て驚いたのは、久しぶりである。
そして、何度も観ることのできる映画である。
(ここが何より大きい。本当に親子で何度でも観られる)。



猫の恩返し

neko001.png

2002年

森田宏幸監督
柊あおい『バロン 猫の男爵』原作
主題歌つじあやの「風になる」
スタジオ・ジブリ
原作者が「耳をすませば」と同じ人で、同じ猫が出てきたりする(笑。
猫繋がり、、、確かあの作品で主人公が作家志望であったから、彼女が作家になってこれを書いたのか?
はっきり言って、わたしは猫がかなり好きである。今は近くにカメしかいないが、、、
それで親しみをもって観れるかと思ったが、ムタ以外にさほど猫を感じる猫はいなかった。
皆、猫っぽい姿をした人である。(擬人化が強すぎる)。


声:
池脇千鶴、、、吉岡ハル(女子高生)
袴田吉彦、、、バロン(またはフンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵、事務所の所長)
渡辺哲、、、ムタ(またはルナルド・ムーン、大食いの太った白猫)
斉藤洋介、、、トト(バロンの友人のカラス)
山田孝之、、、ルーン(猫の国の王子)
前田亜季、、、ユキ(ハルと馴染みのある白猫)
濱田マリ、、、ナトル(ハルを招待した猫王の第二秘書)
丹波哲郎、、、猫王(ハルに一目惚れする)

ここでも有名な俳優ばかりだ。


2002年の作品にしては、昔の漫画じみている。かなり大まかな印象を受ける。
なめらかさやスムーズさや絵の緻密さ、ディテールの細密さ、テンポ、、、などに今のアニメと比べて生理的な違和感を感じる。
これはこれで、見慣れてくるとそこに入り込めるのだが、最初はやけに古い漫画っぽさが気になった。
話は、ハルが、助けてしまった猫の(王の)ある意味、猫らしい自己中な恩返し、、、ではなくむしろ、のほほんとまったり生きるのもいいかななどと思っていたハルのこころの隙を突いた、誘拐である。
文字通り恩を仇で返している、これは猫王のハルへの恋なのか?
これを丹波哲郎がやっているのである、、、猫の世界ではなく霊界が心配になる(笑。


吉岡ハルというラクロス部に入っているのんびりした(遅刻常習犯らしい)女子高生が主人公。
ある日、猫の国の王子・ルーンがダンプに轢かれそうなところを間一髪で助けてから、彼女は不思議な事件に巻き込まれてゆく。
助けたその夜に「猫王」が従者をたくさん従え(黒沢明の映画みたいに)、直々に礼に現れ恩返しに来たと何やら目録を持ってきた。
あなたには、これから良いことばかりがおきますよと秘書が伝えて去ってゆく。
ハルという娘は基本的に、何が起きても驚かないタイプらしい、、、(笑。
そして明くる日、猫なら歓ぶ妙なお礼の品々が送られ、ナトルという秘書の伝えるところでは、彼女を猫の国にお招きしたいと、、、。
生半可、彼女も興味を示したところにさらに続けて王子のお妃に迎えたいというではないか。
これが猫の本質か、、、はたまた、、、。
現実逃避型の夢見がち少女であっても、いくらなんでも荒唐無稽な申し出であることには気づいた。
そのときその様子を窺っていたかのように響いてくる綺麗な天の声に従い「猫の事務所」を訪ね助けを求めることにする。
彼女は言われた通り、太った白猫ムタに出逢い、彼の後を追い猫の事務所へと迷い込む。
このパタンは 「バケモノの子」の「渋谷」からふと「渋天街」に入ってしまうのに近い。
(近いといっても、描写の質がまるで違うが)。

この小さな事務所の部屋に入る女の子のイメージは、そのまま不思議の国のアリスへのオマージュでもあろう。

その事務所にまで、ナトルという能天気な秘書が彼女を迎えにやって来る。
ハルは、バロン、ムタ、トトとユキに見守られながら、ナトルの強引な招待に従い、取り敢えず猫の国にお邪魔してみる。

トトが屋根の上の銅像なのに、事務所が作動すると言葉を話す生き物に変わるが、ここに出てくる猫たちもみなハルと同等に普通に話す。
しかし、他の動物なら違和感があっても、猫やカラスだと、それほどない。
彼らはかなりの知的生命体であるからだ。
話自体が実に荒唐無稽なのだが、不思議に猫相手なら、そこに拘る気がしない。
特に、バロン(フンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵)のキャラクターは敢えて言えば、シャーロック・ホームズや007の上をゆくスマートさである。
ムタ(ルナルド・ムーン)も「ブタ」と勘違いされながら、口は悪いがその体型通りの親しみのあるキャラで頼りになる存在。
どれも類型的で、話も特に珍しさや新しさもひねりもない、ストレートで楽しめるだけの内容になっている。
もう、猫の国からの脱走劇など、ひたすら目を楽しませるといった感じの展開であり、考える要素などひと欠片も無い。
所謂、昔からあった漫画の良いところばかりで作られている、と言うべきかも知れない。
観た後で、わりと爽やかな気分になった。
(もう少しディテールが丁寧な作りだったらな、、、とは思ったが)。


「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」のような大作の醸すドラマチックな感動からも、「思い出のマーニー」「借りぐらしのアリエッティ」「コクリコ坂から」のように、ひたむきで澄み切った気品を漂わす作品からも程遠いものであるが、こういうさらっと楽しめる作品を時折、無性に見たいと思うものだ。

こってりしたものばかりでは、疲れるではないか、、、。






パンダコパンダ~パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻

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1974年

高畑勲監督
宮崎駿原案・画面設定

佐藤允彦音楽
主題歌「ミミちゃんとパンダ・コパンダ」(水森亜土)


主人公ミミコは、メイの原型、パンダはトトロの原型だということが直ぐ納得してしまう映画だ。
パンダが中国から輸入されブームとなった頃の、謂わば宣伝映画か?
物語の作風、流れは赤塚不二夫的なものも感じる。
(話の筋だけではなく特に身のこなし、逆立ちなど、、、汽車が水中を爆走したりも)。
バカボンのパパがミミコの家にお客で訪ねていっても、充分彼女なら対応可能だ。
ここでは、動物園から抜け出し、竹薮に誘われて来たパパパンダと縫いぐるみのようなコパンダがお客となる。
ちょうど、一緒に暮らしていた祖母は法事で実家に帰っていて、家にはミミコだけであった。
暫くの間、ミミコ独りの生活のはずであったが、パンダ父子が転がり込んだ為、一緒に楽しく暮らす事になる。
どの辺を想定しているのか、家屋はほとんど西洋風であり、その庭の先にコンモリした竹藪がありパパパンダはそこを痛く気に入っている。

大分以前に、わたしはこの映画のコンテ集を買ったことがある。
何かの勉強のつもりで買ったはずだが、今日までほとんど中を覗いていない。
参考にしたいと思って買ったはずだ。後で開いて思い出そう。

出逢ってすぐ、彼らは家に一緒に住むことに決め、パンダパパはミミコのパパにもなり、コパンダはミミコの子供となる。
つまり、ミミコはコパンダのお母さんとなる。
ということは、パパというのは、ミミコにとって親ではなく夫なのか?
ずっと見ていたが、どうやら夫のようだ。
コパンダがぼくのパパだぞーと言って抱きついても、わたしのパパよーとは抱きつかない。
それに甲斐甲斐しく家事全般を新妻のごとくしっかりやり、コパンダの世話も愛情たっぷりにしている。


最初から彼らは信頼感と愛情で結ばれそれは不動の前提としてエピソードを物語る。
ここに関係が次第に深化したり、変化する余地はない。
何でもすぐに始まり、突飛な形で(ギャグマンガ的に)展開し、みんなで仲良くハッピーエンドになる。
ここには、ミミコの超人的な楽天性と受容性があるが、パパパンダの驚異的な腕力と超然とした包容力が物語を支えている。
そのなかでは、なにをやっても、飛んでもない悪戯をしようと、危ない遊びをしようと、最後にはパパパンダが助けてくれることが暗黙のうちに前提となっている。

それにしても筋運びや演出が、思い切りナンセンスで大味ではあるが、観てゆくうちにそれが味わい深いものに変わってゆく。
長女と一緒に観たが、彼女は途中からニンテンドーDSをやり始めてしまった。(うちはスマホゲームは与えていない)。
やはりその全体の雰囲気から時代性は顕だ。今のものとは質的に生理的に異なる。
しかしそこがまたよい、とまでは彼女らにはならないみたいだ。

わたし独りで二部まで観た。
また少し経ったら次女と一緒に観てみたい。
どんな顔で観るか?
恐らく、彼女も途中からiPadで何かお気に入りの怖い映画でも見始めてしまいそうな気がする。
この魅力はなかなか伝えにくいものかも、、、。


しかし、パパパンダの大増水が起ころうと汽車が暴走しても、何でも受け入れて楽しみ落ち着いてさばくところは、魅力に感じた。
こんな父親いるはずないが、頼りがいのあること、半端ではない。
何が来ようとどんと構えていられる。

最初の一部の話で、パパが帽子を被ってパイプをくゆらし会社にゆくところが、動物園というのには唸った。
上手い。ミミコにとってはパパはそうであって欲しい。
動物園としては、パンダに戻ってきて欲しい。
両方を叶えるには、パパが動物園にミミコの家から出勤すればよい。
これは妙案だ。

増水した綺麗な湖にベッドを浮かべ、そこに食料をタップリ詰め込んだバスケットとともに3人で乗り込み、動物の救出に向かうところなど、楽しい夢を見ているような光景であった。

面白いところは、いくつもある。


後のジブリ作品のような細やかに洗練されていない分、味わい深い原石のような作品である。


ロボットに想う

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ちょいとTVで見たロボットの特集番組であったが、、、途中から見たのだが、、、。
言語の学習メカニズムと発達メカニズムを予め与えられているだけのロボットが言語を独自に発明し、それを互いに(複数体で)習得仕合っている様子が報じられていた。
ゆくゆくは言語を体系化してゆくのだろうが、その時間はきっと恐ろしく速いと思われる。
それにしてもやはり、言語の発生は、身体の認識から始まり、他者の存在が必要不可欠であるとが分かった。
面白い。
ロボットがわれわれには見当もつかない言語で、人間そっちのけで何やら相談し始めたら痛快だ。

何よりAIにとって難儀であった、パタン認識もディープラーニングにより、人間を超えるほどの精度が見られるようになったらしい。
量子コンピュータの進化も前提となろうが、全てにおいて人間を凌ぐロボットの誕生も夢物語ではなくなったようだ。
感情が発生し、意識の生じたロボットだ。
逆にそこまでいかなければ、人間を超えることは出来ない。


プロキシマ星bに”Breakthrough Starshot”(数千個のレーザー推進の超小型宇宙船を送り込む)計画が2020年当たりを目処に実施されるというが、そこは太陽系にも最も近い恒星である赤色矮星プロキシマ・ケンタウリの惑星である。
ブレークスルー・スターショットは、光速の20%の速度で飛ぶため、4光年先のプロキシマ星bに20年で到達してしまう。
具体的なハビタブル・ゾーン探索と、感情をもち言語体系を生まんとするロボットの誕生は、同時に急激な盛り上がりを見せそうだ。
どちらもそう遠くないうちに、かなりの成果が得られそうな気がしている。
とは言え、探査の末、本当に生命体が見つかり、、、原生生物は遠からず水を吹き上げているエウロパあたりから見つかるも知れないが、、、高度な知性をもつ生物となるとどうであろう、、、。
もう少し先は長いと思われる(わたしは、いないと考えているが)。
まあ、いたとしても、、、

地球のイニシアチブは人類からロボットに引き継がれ、他のハビタブル・ゾーンに発見された異星人が招待を受けてやってきて、ご対面ということもあるかも知れない。
その頃までには、幾度かの小惑星の地球激突の驚異を避けておかねばなるまいが。
(つい最近、「アポフィス」が見つかってNASAも真面目にそれをTV発表し、世界中が色めきだったことを思い出す。いや、もう15年以上前だ、、、いやだな、、、最近のことはすぐ忘れるのに、、、)。
ご招待する前に、地球が吹っ飛んでいては(吹っ飛ばないまでも大打撃を受けてしまっては)、元も子もない。
いまの時点で、人類が確率上危険な小惑星に色素を吹付けその軌道を逸らすという妙案を捻り出し、具体化している。
ヤルコフスキー効果(天体の熱吸収率による軌道のズレ)を利用したもので、その天体の組成を探査しなくても一様に効果が見込める。
「アルマゲドン」みたいに、ミサイル衝突(核爆発)させるとなると、その惑星の組成を調べなければならなくなる。
探査機を開発、打ち上げ無事着陸させ、サンプル・リターンを待ってから実働に移る手間とコストも大変なものだ。
小惑星の多くは小さな瓦礫みたいな石の解体しやすい集合体(緩い結合体)であったりする。
一枚岩みたいな構造体でない場合、闇雲に爆破させてもほとんど意味はない。(弱い重力での結合体には効果がない)。
色を塗って熱放射に変化を加え大きく軌道をズラすなんて、、、芸術的でエレガントな方法だ。コストもかからない。
これは、次世代のリーダーのロボットも採用してくれるのでは?
いや、まず2020年代には、「アポフィス」に早速、色を塗りに行くようだ。
これはもしかして、本質的なアートである。
何故か、ワクワクするではないか、、、。
(このへんの感覚の引継ぎが肝心なのではないか、と強く感じるのだ)。


地球の代表種ロボットと宇宙のお隣さんの初の?出逢いというのも素敵だ。
その頃、人類はどこでどうしてるかは、ともかくとして、、、。
絶滅危惧種としてどこかに保護されているかも知れないが、歴史上の生物としてデーター化してしまわれていてもよい。

わたしには関係ない。
(だが、まず2020年代には、いろいろ面白いことが具体的に始められることは間違いない。その結果は、むすめたち世代がある程度は知るはずだ)。







長女のお腹の風邪

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発熱と嘔吐、下痢と、、、今日は練習していたにも関わらず、ピアノに行けなかった。
長女である。

それどころではない。
ちょっと、スープを飲んでも吐いてしまう。
食べられないことは、一番きつい。
何がキツイといったら、思うことが出来ない事である。
そういえば、学校もお休みした。

意識の上ではしたいことはあるのに、気力と体がそれに伴わない。
ともかく、今は何でも出してしまう為、何も留まらない。
口に入れる気持ちも萎え、食欲自体が沸かない。

それでいても、わたしの言葉かけには、いちいち生意気な返答をしてニヤリとする。
なかなかなものだと思う。
何かを返さなければ、といつも思っているらしい、、、。
面白い。


次女もいつもならわれわれに我儘を言って困らせようとするところだが、今日は長女の様子を見て、大人しくしている。
普通、ピアノが自分だけ上がった時など、大いに歓んで相手を貶したりするのだが、今日は独りだけピアノに行って上がって来ても何も言わない。
神妙に姉の様子を窺っている。

実際、辛いことは確かなのだが、寝ていればそこそこ楽なのである。
わたしも、家事(笑や医者に交通機関を使って行く時などは辛いが、家でゆっくり休んでいれば、例え熱が多少あろうが、それほどでもない。
ただ、嘔吐が続くときだけは堪らない。
長女は朝は流石に辛そうだったが、医者の薬で何とかおさまっている。

出るものは出る必要があって、出ているため、それを無理やり抑えるのは、からだにとってはよくないことは、昔から言われている。
確かにその通りだと感じる。必要があって出しているのだ。
しかし、少しでも快適に睡眠はとらせたい。

ということで、先ほど熱冷ましの座薬で、眠らせた。

実は、わたしも似たような症状である。
風邪は感染るものだからだ。

今日は、病院も含め野暮用もあり、外に出かけ尽くめであった。
調子が良くないのに出歩く用が多い今日この頃である。
更に看病とピアノの送り向かい。
小龍包づくりにも駆り出された(笑。

わたしと長女は、スープとお粥しか食べなかったが、、、。

そろそろ本格的に体調をスッキリさせる予定。


21グラム

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21 Grams

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督・製作

「バベル 」「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 」、「レヴェナント: 蘇えりし者 」と非常にヘビーな作品を撮っている人だ。思想的にもヘビーだが、役者の力技でグイグイ持っていくところでもあり、この映画でもベニチオ・デル・トロやナオミ・ワッツがかなり牽引している。

21グラムとは、死んだ時に軽くなる重さらしい。そんな話は以前聞いたことはあるが、何グラムだか忘れた。
「それは魂の重さだ」(ポール)

ショーン・ペン、、、ポール・リヴァース(大学教授、心臓病で余命1年)
ナオミ・ワッツ、、、クリスティーナ・ペック(夫と2人の娘を交通事故で失う)
ベニチオ・デル・トロ、、、ジャック・ジョーダン(クリスティーナの夫と娘を轢き逃げする)
シャルロット・ゲンズブール、、、メアリー・リヴァース(体外受精で夫ポールの子供を産もうとしている)


ひとつの事故で3組の出逢うこともなかった(絡むこともなかった)夫婦の運命が絡み合う。
まさに「交通事故」である。新たな交通を拓くが、人を身体的に死にも追いやる。
これは確かに悲惨な出来事であるが、可視的な事態である。
アリス・ミラーたちの訴える「魂の殺人」は更に魂そのものを無意識に殺害する極めて絶望的で無残極まりなくアッケラカンとした(滑稽な)事態である。この映画では前科者のジャックなどは、この被害をかなりの度合いで受けていることが見てとれる。
ことばについて一度もそれを対象化し吟味したこともない下劣な正義の名のもとに、宗教の名のもとに、教育の名のもとに、、、それらシステムにより、日々魂は白日のもとに殺されている、、、。殺されないまでも致命的な深手を負う。
はっきり言って「魂の重さ」をいうなら、ここに引っかからないで素通りはできまい。


死と生を語るなら、ことばと体制化されたことば(権力装置)との相克が見られなければ(語られてなければ)ならない。
何故ならそれなくして人の死んだ生きた価値など、吹いて消えるだけの、なんぼのものでもないからだ。
わたしが知りたいのは、ものの重量ではない!質量である!
ことばを相対化して解体し尽くしたその後に残る真実である!
その地平に立たずに死だ生だなんて、ましてや魂などと、、、おこがましい。
勿論、愛もへったくれもない。

ここで、ジャックは現実と、キリスト教権力による解釈、更に法(刑法)~社会との齟齬に悶え苦しむ。
ポールとメアリーは、婚姻(夫婦)と医療という法に対して依存と懐疑の間で揺れ動き、諦観をみせる。心臓病で余命幾許も無いところに、ドナーとなったクリスティーナの夫の心臓が送り込まれる。この交通は優れて暴力的な部分である。
そして、メアリー独断による人工授精。こどもとは、一体何者なのか?
そもそも、こどもとは一体何者なのか、、、その考察がもっとも疎かにされる。
ここでは、ジャックの外傷経験の裏返しのようなキリスト教のこどもの躾にそれが反映され、こどもは彼に対しこころを開かない。
クリスティーナがもっとも交通事故(唐突な横断的交流)の悲痛な現実的別れ~切断を経験するが、同時に医療という法の暴力と身体レベルの不安(愛情も含め)にポールやクリスティーナとはまた別な形で追い込まれる。
夫の臓器で生き返った男との邂逅であり、その彼は臓器という物体を極めて人格化している。そうでなければ、何故あそこまで提供者に拘るのか、ここには情報産業の暴力も前提に敷かれている。
そして何より、彼女の直接的なことばを予め奪ってしまう法(刑法)による、彼女の生活を断絶させた対象との隔絶である。
ジャックは自首したのに証拠不十分の上、弁護士の力で出所してしまう。
彼女の法に対する諦観が身体的退廃を染み渡らせてゆく。

彼女は、憤懣からポールに暴力(復讐)を強いて、解決ではなく解消にすり替えようとする。
これは明らかに浮き足立っており、非合理である。
ポールはそれを食い止めるため、自分に移植され今や拒絶反応も出て、虫の息の心臓目掛けて銃を撃つことで、食い止めようとする。病院で一命を取り留めたポールもまもなく死ぬことは、確実である。
クリスティーナこそここで、もっとも大きな言語による不協和の交通事故の犠牲者である。
家族全てと新たに得た恋人をも失う。この事故で彼女に新たに見いだせる何事かがあるか、、、どうか。
よくある信仰に落ちるパタンか、、、まさかジャックと、、、何故最後に彼と対峙していたのか。あの微妙な表情は何か?
終始ジャックは、キリスト教の教義~暴力言語体系の下で罪悪感に苛まれ現実を歪め続ける。
しかし元はといえば、彼がクリスティーナの愛娘と夫をひき逃げしたことに始まる。
以前から罪悪感に蝕まれてきたところへ、この自らの犯罪によって罪悪感の化物となってゆく。
とはいえこの物語は、そのことによって、ポールが暫し生きながらえ、クリスティーナに新たなこどもが授かる流れを作る。

ポールのこどもを彼女が身もごったことが一条の希望の光となり得るか、、、これは大変な疑問である。
いずれにせよ、ポールの叫ぶ通り、、、
「お前は何であんなことをしたのか!」「お前があんなことをしなければ、、、」絶句である。
あのままでよかったはずだ。
何もポールとクリスティーナが出逢って、こどもが生まれる必然などなかったことは確かだ。

しかし、何がどう起こるか、まさに予測不能の不確実性の世にひとは投げ出されている。
それこそがリアルであり、実相である。
どうであろうと、どこであろうと、どのようにも、われわれには生きるしかないのだ。
ことばによって、ことばをめぐって、、、
ただ生きぬくことが真実である。




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オートマタ

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Automata
2014年
スペイン・ブルガリア

ガベ・イバニェス監督・脚本


アントニオ・バンデラス(製作)、、、ジャック・ヴォーカン(ハイテク会社の保険調査員)
ビアギッテ・ヨート・ソレンセン、、、、レイチェル・ヴォーカン(ジャックの妻)
ディラン・マクダーモット、、、ウォレス
ロバート・フォスター、、、ロバート・ボールド
ティム・マッキナリー、、、ヴァーノン・コンウェイ
メラニー・グリフィス、、、スーザン・デュプレ博士/クレオの声


この映画の冴えているところ、、、

ロボット制御プロトコルの2番~ロボットは自他のロボットの改造・修正を禁止する~は、ロボット(AI)が作成したものであるため、われわれ人間にはすでに直接手はつけられない。

ロボットの自立と自律的な自己学習によって、人間の理解を大きく超えた能力を備えたロボットが製作に当たるためである。
(今もすでに入力されたプログラムに従って動く原始的なロボットの他は、独自の言語習得システムにより自立的に学習発達を進めるロボットが作られており、その発達速度は凄まじいものと予想される)。
確かに、これからの技術全般がそうなってゆく。過程がロボット(AI)によりブラックボックス化し、結果(答え)~製品だけをわれわれは手にするようになる。
実際人間が直接そのプログラミングや数式を導くのではなく、人はただ必要なことを訴えるだけで、それを実現する道筋~手立て~作成はロボットがやるようになることは必然の流れとなっている。
一例として、われわれがカオスと呼ぶものに対しても、ロボットは、特定パタンを見つけ出している。
(つまり考慮すべき変数の多すぎて人間には手の付けられない複雑系に対しても一定パタンを見出している)。
ロボットも高度になればなるほど、ロボットによる製作の部分が特化し拡大する。
この映画の時代設定が2044年。
丁度、2045年を「技術的特異点」~Technological Singularityと呼んでいる点からも的を得ている。
こういった問題は、今から充分考慮されていなければならない。


機械~ロボットが意識をもつには、、、

実際、ここに現れた第二プロトコルを無効化された改造ロボットには、意識がある。
つまり、はっきりした意識的行動をとっている。
第一プロトコル:生命体への危害の禁止、についても、ジャック・ヴォーカンの生命の維持は続けながらも、街に入れば自分たちが破壊されることが明白なため、あえて砂漠地帯の高濃度汚染地帯に彼を引っ張って歩いてゆく。
自己保存欲を優先させた行動だ。
それから情報を漏らさぬために自分の体にオイルをかけて火を点け自殺を図ったり、、、。
これは自分たちが独自の進化を始めたことを悟られぬように行った同族(ロボット)の保存のための犠牲的行為だ。
「たかが機械のくせに」に受けて答えて「凶暴な猿に過ぎない」と人間に返すなどなど、感情の充分な生成が見られる。
意識(自己意識)の芽生えには、感情が前提として必要だ。
様々な感情の集合体として意識が成立するからだ。

女性型ロボット、クリオが自らの女性としての役割を示すペルソナを最後にジャックたちと別れる際に、剥ぎ取って捨ててゆくところなどには、高度な象徴的な意識表現が見られる。

ロボットの改造を行ってきた最初のロボット(制御プロトコルのなかった頃の一体)がジャック・ヴォーカンに謂って諭す。
「核の使用によりここでは何百年間、有機体は生存不可能だ。このまま進めるのはわれわれだけだ。」
「人間にとって死は自然のひとつのサイクルだ。」「生は時の一部でしかない。」
「もう人類は寿命を迎えたのだ。」
そして「どの生命体も永遠ではない。」「わたしたちが人類を引き継ぐ。」
「わたしたちを通して人類も存在するのだ。」と、彼を慰める。

ジャック・ヴォーカンも納得する。顔もすっきりしている。
この太陽風の増加で砂漠化が進み、放射能汚染も機械雲による酸性雨も酷く、大気の乱れは通信システムも覚束なくし、人の力でなしうることは、大きく減退していた。人口は、このときすでに2100万人しか残っていなかった状況である。
彼らの自己増殖(第二プロトコル放棄)にこそ未来が見えてくる。


共に赤ん坊を生んでいる。

ジャック=レイチェル夫妻に女の子の赤ん坊が生まれた。
そして、ロボットにも同時期に子供が作られクリオが引き受けるかたちとなる。
この子供の世代における共存の可能性を最後に仄めかして物語は終わった。
クリオは実際、ジャックを命の危機から救った恩人でもある。
少なくとも、この両者間の親和性はこの後も保たれることだろう。
クリオたちは、ジャックに見守られて、谷の向こう側へ移動を果たす。
そこは人間がもはや近寄れない大気汚染区域である。
彼女らはその地から増殖してゆくことになろう。
ジャック等3人は車で、何故か海を目指す、、、ジャックの白日夢に度々現れたジャックの幼年期の記憶の海か?
現実の海か?


低予算映画である。

SF映画の傑作、「第9地区」も低予算映画であったが、そのまた半分の予算で作られていた。
確かに予算がかかっている感じは見るからにしないが、ロボットなどシンプルだが感情に訴える物悲しさを纏う彼らの存在を雄弁に物語る造形であった。動きもロボットらしい動きで不自然さはなかった。
空気全般に鬱積した哀愁が漂っていたが、それはこの世界観をよく表わすものであり、チープな感触など全くなかった。
基本コンセプトがしっかりしていたためだ。
後半、延々と続く砂漠の撮影は何処でしていたのか、、、アントニオ・バンデラスが本当に辛そうであった。
(少なくとも「ブレード・ランナー」のハリソン・フォードの何倍もシンドい撮影だったと思うが)。

感動はしなかったが、訴えるものはよくわかった。
良い映画であるが、何かが足りない、というかいまひとつブラッシュアップしたら「第9地区」レベルに迫ったかも知れない。
惜しい作品に思えた。





アノマリサ

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Anomalisa
チャーリー・カウフマン監督・脚本
デューク・ジョンソン監督


「エターナル・サンシャイン」の脚本のチャーリー・カウフマンが監督・脚本である。
これはとても印象に残る綺麗な映画であった。


デビッド・シューリス、、、マイケル・ストーン(カスタマーサービス界の有名人)
ジェニファー・ジェイソン・リー、、、リサ(テレフォン・オペレーター)
トム・ヌーナン、、、、それ以外全て

ストップモーションアニメで作られた人形アニメ映画。
人形を一コマずつ撮って繋げてゆくもの。
気の遠くなるような制作法である。
更にこの映画の長回しが凄い。
特にここまで撮らなくても良いだろうという何気ない行為や仕草まで丁寧に拾ってゆく。
(シャワーシーンなど特に)。
CG編集では、ここまでやらないだろうというところまでやる。
鬼気迫るものを感じる。
しかも異様に生々しい。
人間そっくりのことをやらせるのだが、造形や表情が恐ろしく繊細なのにわざと人形と分かる顔のパーツの分かれ目などを入れている。(構造上消せる線である)。
何というか、挑戦的な人形アニメ映画という感じで観始めると、すぐに気づくがマイケル以外の登場人物で、顔と声が違うのはリサだけか?後の人々は皆同じ。これはかなり食わせ物の映画であることが分かり、こちらも斜に構えて観始める。


話は、カスタマーサービス界で名声を博しているマイケルが日常いろいろなことに飽き飽きし、現状から逃れたいと思っていた時に講演会のため泊まったホテルで、これまで聞いたことのない”アノマリー”な女性の声を耳にする。(彼にとっては涙するほどの初めての女性の声か?)特別な声であった。
どこにいるんだ、彼女は、、、ということでホテルの同じ階を片っ端ノックして探す。
するとある部屋にその声の主が見つかる。おまけに顔もその他大勢の顔とは違う。
彼はそのリサという女性の声を聞くに付けこの女性と離れられないという思いが込み上げ、恋に落ちる。
彼女にシンディ・ローパーの歌を唱ってもらいうっとり。
彼は彼女を”アノマリサ”と呼び、彼女もその呼び名をとても気に入る。
翌朝今の妻とも別れ、そのアノマリサとの再婚を望むが、彼女のことばがや言い回しが紋切り型であったり、これまでウンザリしてきた習慣、仕草にも引っかかること、、、結局彼女もみんなと一緒ということから、彼女を置いてさっさと家に戻ってゆく。
その少し前に10年以上前に分かれた恋人をホテルまで呼び出して逢うが、突然出て行った訳を聞かれ返答には詰まり、おまけに自分の部屋に呼ぶに至って、とことん愛想つかれてしまう。
自己中の傲慢さ丸出しである。

要するにこのマイケルとしては、似たり寄ったりのもの~日常から逃れたいのだ。
しかし、本当に他人が皆同じ顔と声に認識されるのなら、、、これは病気(精神疾患)である。

どうなのか、、、ただ皆似たようなつまらぬものばかりであることを表現するために、マイケル・ストーンとリサ以外の登場人物はみな基本造形が同じ顔で、同じ声にしているのか。
ただ、これは人形アニメ劇には取り込みやすいその特質をうまく利用した表現効果だと思う。
結局マイケルは、リサに特別な新鮮味を感じたのだが、内面~身体性(癖・仕草)にもそれを要求して幻滅する。

途中に出てくるマイケルの夢でまさにその同じ顔たちに追われて逃げる彼の姿が描かれてゆく。
更にSFタッチに、、彼のペルソナが剥がれ落ちて、それを拾うところも見られる。
自らそれを外しかけるシーンもあり、意味深であった。(これは夢でなく、、、境界である)。

わたしは、現実でもその展開を望んだのだが、そちらに野放図に広げてゆく気はなかったらしい。
実は彼は故障したロボットであり、メンテナンスを必要としていた、、、で階層の異なる組織が現れ急展開とか、、、
それではSF人形アニメになってしまう。
あくまでも現実のドラマの枠で精緻に描ききりたかったのだ。
この何とも癖のある、生々しい人形アニメ劇として。


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ホテル名は「フレゴリ」であった。
フレゴリ症候群か、、、やはり細かいし、二度見ればまた何かの発見がありそう、、、。
だが、あまり生理的に好きな映画とは言えない。
物凄い作業量によって作りあげられた労作であり、その内容も興味深いものではあるが、何というかわたしの美意識を刺激しないのだ。
それは、あくまでも個人的な好き好きのレベルのものである。



生のリアリティ

Churyumov Gerasimenko

アリス・ミラーたちによって明かされてきた抑圧を巡る精神構造のメカニズム論は、ずっとわたしの中で木霊のように反響してきた。
大学の心理学の講義でも、教授の何気なく言ったことばに「幼い子供時代に親にされてきたことは、自分が大人になって無意識に反復してしまう。親に扱われたのと同様の扱われ方を他者からされるものだ」という、運命論的決定論としか取れない、また悪無限循環的な呪文としてしか受け取れないものがあった。
が、それが尽く当て嵌めて考えるとその通りに思えてくるものだった。
これが思考(論理)の陥りやすい罠である。

最近わたしは、リアルな身体的な感情の発露を記録・確認(再認)する場として、このような無限定な表出~実験の場を作っている。
決して論理的な思考ではなく、詩的な思考~身体的な思考とでも言うべきものによって。
別に、幼い頃から何故か描いていた「絵」でも良かったのだろうが、、、それが無意識的にも意図的に命を救っていた、、、確認の上で(客観性も担保して)言語によることにした。
得体の知れない化物に形を与える必要があった。(アンリ・ミショーのように)。
そしてそれらを解体する。
更には創造に繋げる。
絵にせよ、音楽にせよ、全ては言語作用(分節化)によるものだ。
せかいはことばでできている。(ノヴァーリスの言う通り)。

これはわたしにとって、絵によるFirst Waveに続くSecond Waveであった。
絵はその創作過程の恍惚な時間性によりわたしを発狂の現実的局面からは度々救ってきたはずだが、現実を生きながらえるなかで感情や感覚、感受性から切り離された偽りの自己形成へと向かわせる事は阻めなかった。それであるため、真の創造的作業にまでは至らなかった。
真の自己が無いのに、何をか作り出せるはずはないではないか。
あの絵の作業は何であったのか、、、。それは今なら分析可能な位置には来ていると思う。
調度、4歳ごろから始まった、ある意味、河原温に似た作業である。(今考えてみれば)。
やはり言語による遡行力と対象化のための本質力いや解体力が必要だった。

今更ながら何事もなかったかの如く?隠蔽された意識~記憶の地平を叩き壊す作業に入った。
(いや勿論、意識的に過去を理想化していようと、外傷経験~抑圧された感情記憶は神経症症状や強迫行為として反復される)。
傷は充分に奇怪に変形して流動しており、瘡蓋のようなスタティックな表層ではなかった。
そして、思った以上に重層を呈している。
と言うより重奏していた。

しかし言語的に過去~記憶を辿る(故意に幼児期を思い出そうというのではなく、何事かについて身体性のうえから表出した言語はそれに替わる質を持ち得る)作業を反復しているうちに、何が変化してきたかというと、自分の身体に直結した感情と感受性が知らず蘇生してきたことだ。
一言でいえばブログは自己治療以外の何者でもなかった。まだその過程である。過去形ではない。
これは、まだ暫し継続する必要がある。

自分の感情をもつ。感受性を解放する。
何もかも解き放ってゆく、、、、、、、
これに尽きるし、そこからはじめて創造行為も可能となる。真に自由な。
(強迫観念に押し出された苦渋に満ちた表出が果たして芸術となり得るか、、、それは恐らく不健康だ。)
今はまず日常生活において、感情はストレートに爆発させるままにしている。
これを増幅させる。
この場をブースターとして。
更に。

自動的に身体が蘇生してくる。


キャロル

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Carol
2015年
アメリカ

トッド・ヘインズ監督
パトリシア・ハイスミス『The Price of Salt』原作


ケイト・ブランシェット、、、キャロル・エアード(裕福な人妻)
ルーニー・マーラ、、、テレーズ・ベリベット(写真家志望の若い女性、キャロルの恋人)
サラ・ポールソン、、、アビー・ゲルハルト(キャロルの親友)
カイル・チャンドラー、、、ハージ・エアード(キャロルの夫)

「ベルベット・ゴールドマイン」の監督だ。


目と目の演技がとても美しい映画であった。
(どちらも目力が凄い女優だ。それだけで語り合ってしまう)。
夫が鬱陶しいキャロルと恋人が鬱陶しいテレーズは、ひと目見た時からお互いに強く惹き合い徐々に親しくなる。
それからもキャロルは離婚訴訟中で夫から嫌がらせを受け、テレーズも結婚を急かせる恋人から煩く文句を言われ、、、
相手から離れたい気持ちも強まり、更にふたりの親密度は深まる。
キャロルとテレーズはお互いに似た境遇からも理解・同情し合うことができ、元々感覚的にも惹かれあっているためか深く愛し合うようになる。
(この感覚的、生理的に合うということは、肝心なところだ)。

恋愛の本質的な部分を突いた映画と言える。

相手(性、立場、年齢など)が何であっても、まずはトキメキである。
それなしに恋愛は始まるまい。
そして障害があれば更に燃える。
何より自分に誠実に、自分を偽らない。
そういう物語だったと思うが、、、。
違うか?!
ただ、そんな事を魅せる映画ではない。

ともかく、気品に充ちた繊細な絵がひたすら美しく、その流れを堪能する類の映画であろう。
ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラのファッションや細かい所作なども大いに見所であるはずだ。
撮影や美術がふたりを如何に美しく際立て、こころの揺れまで表現するに最適化している。
映画としての文体が丁寧に練られている。


ただ観れば良い映画だと思われる。
タップリと絵に酔うように。
音楽もそれに見合っている。

特に何も謂うことはない、というより謂うべきではない、、、。


”シンデレラ”の継母、”ハンナ”のCIAエージェントのような強烈な役や”ミケランジェロ・プロジェクト”の知的な役、更に”ギフト”のような特異な影のある役まで実に多彩に演じ分けるケイト・ブランシェットであるが、この作品のエレガントで深みのある役がもっとも彼女に合っていると思う。
ルーニー・マーラについては、今回はじめて観たが、オードリー・ヘップバーンを想わせる凛とした華のある女優である。
他の作品も是非観てみたい。


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ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります

5 FLIGHTS UP

5 FLIGHTS UP
2014年
アメリカ

リチャード・ロンクレイン監督


モーガン・フリーマン、、、アレックス・カーバー(老画家)
ダイアン・キートン、、、ルース・カーバー(アレックスの妻)
シンシア・ニクソン、、、リリー・ポートマン(ルースの姪、不動産コンサルタント)
クレア・バン・ダー・ブーム、、、若き日のルース
コーリー・ジャクソン、、、若き日のアレックス
ドロシー(愛犬)


わたしも、物の買い替えなどの際、ちょっとした煽りでデカいもの(具体的には伏せるが(笑、買ってしまうことがある。
だが、それが家となると話は文字通りでかい!
とはいえ、それとて何かのはずみで買ってしまうものなのだ。
この夫婦は既のところで、我に返るのだが、、、。


40年暮らしたアパートの「5階までの道のり」が老齢からキツくなった夫婦がエレベーターのあるアパートに引っ越そうかと考えることから始まる物語。(愛犬にもキツくなった、、、(笑)。
モーガン・フリーマンとダイアン・キートンが実に良い味を出している。
円熟味とはこのことか。

ルースは夫と愛犬の足腰を心配してエレベーターのあるアパートに住み替える提案をする(姪のやり手の不動産エージェントに勧められたことがきっかけだが)。
夫のアレックスは窓からの眺めの良いアトリエがある今の家をとても気に入っているが、妻の心使いを理解する。
しかし、40年住んだ家に染み付いた思い出~記憶は、重い。
そもそも記憶は場所~部屋とセットにあるものだ。
事あるごとに若い頃の出来事が、想念としてふたりにそれぞれ鮮明に蘇ってくる。
(ルースはアレックスの絵のモデルとして知り合ったのだった、、、)。

売る決断をした直後に、愛犬が病気(ヘルニア)になり手術入院することになる。
時を同じくしてマンハッタンに行く途中の橋で爆弾テロ総動が持ち上がり、メディアも騒ぎたて付近はその話題で持ちきりとなる。
そんな時でも、やり手のルースは家の売却を強硬に忙しなく推し進める。
周辺の場所の安全性は、不動産価値を左右する要素でもあり、物件の値動きに気を配るりりーの影響で夫妻も不安になり気が休まらない。
何しろ家が高値で売れなければ、次の家も好いものが手に入らない。
物事をかき混ぜる触媒のように、早速リリーが内覧会を開かせ、目まぐるしい競りに二人を巻き込んでゆく。
すぐさま、数字のゲーム(トリック)に二人もはまってゆく。
実に数字に人間はハマり易い。(わたしも直ぐにハマる。安値が出たときには今必要なくても、買っている(哀)。

ゆっくり穏やかに流れるふたりの時間を大切にしていた生活が急に忙しなくなる。
何故か現状を変えることを前提にした急き立てられるような事態に追いやられてゆく。
あれよあれよという間に、、、。
また、イライラが募りぶつかり合うこともしばし、、、しかしそれがふたりの深い信頼~歴史の再確認にも繋がってはゆくが。
だが、大変なゲームに巻き込まれたことは確か。

このようなことは、よくある。
今回も、ちょっとしたことで話が大きくなる。騒ぎがとんでもなく激化する。それに便乗する者も出てくる。
人は混乱を好む。
犬はそんななか、どうにか回復をみて、カーバー夫妻もしばし安堵する。
(この犬は子供に恵まれなかった彼ら夫婦の大切な存在であった)。

内覧会には、本当に個性的な家族が次々に現れ、好き勝手に見て回っては不躾な質問をして帰ってゆく。
夫妻にとって安らげないナーバスな時間が続く。
しかし、物件が良かったためか、混乱の収まらないうちにもオファーが何件も来て、値を釣り上げてゆく。
夫妻もそれに気をよくして、自分たちで先走り自宅の売却が決まらないうちに、かなり良さそうな物件に当たり調子に乗って競り落としてしまう。
リリーは、その勝手な行動に驚くが、彼女も直ぐにそれに対応し、彼らが購入を決めたアパートより高値でカーバー夫妻宅の売却値を釣り上げてしまう。さすがにやり手である。普通ならそれで万歳となり、後はサインして引越しあるのみなのだが、、、。
小切手のサインにその売主の家に赴いた時に彼ら夫妻は、たまたま放送されているTVを見る。

テロ事件の顛末を告げる番組であった。
橋でタンクローリー車が立ち往生してパニックになった若い運転手がその場を後にしてしまったことが、テロ爆破事件へと勝手に膨らみ、運転手は一夜にして民衆の敵の凶悪犯として手配されてしまったのだ。
そうなるともう出るに出れなくなり、事態は更に様々な憶測を呼び、彼のプライバシーなどお構いなく公に晒されてしまった。
結局彼は白旗をあげて警察に身柄確保されるが、途中でコンビニ強盗した件などは、訴えた店員が自ら犯した窃盗を騒ぎに乗じて彼になすりつけた冤罪だったことも判明する始末。


これを観てアレックス・カーバーは、サインを取りやめる。
それまで夫婦揃って買う気満々でやって来たのだが、、、。
自分たちが訳のわからぬ騒動に巻き込まれて自らを見失っていたことに、はたと気づいたのだった。
「5階まで登れる間は、今のアパートに住む」という本当の自分の気持ちに気づき、妻もそれを理解する。
この一件が自分たちを再確認し、より深く信頼を築くよい機会となったことも確か、、、。
アトリエの壁も妻が白く綺麗に塗り替えてくれたし、アレックスは今の妻の肖像を描き、全てにレフレッシュも出来た。

リリーが怒りまくって去って行ったが、それは仕方ない、、、。
(というか、少し申し訳ない、と思うが)。

モーガン・フリーマンとダイアン・キートンである。
当然のごとく、うまくまとまった映画になっている。


"se7en"”ショーシャンクの空に””インビクタス 負けざる者たち””最高の人生の見つけ方””コレクター””ディープインパクト””LUCY ルーシー””オブリビオン””トランセンデンス”、、、等々でモーガン・フリーマンを見てきたがその範囲で、この映画の彼は”ショーシャンクの空に”、"se7en"の次(ほぼ同じくらい)に良かった、、、。彼は、語りが良い。その雰囲気がとっても良い。





ニック・オブ・タイム

Nick of Time

Nick of Time
1995年
アメリカ

ジョン・バダム監督
パトリック・シーン・ダンカン脚本

「アサシン」の監督だ。
この映画も実にタイトでスリリングであった。
時をこれだけのテンションで刻む映画は他に観た事がない。
まさに”Nick of Time!”
90分の出来事を90分で描ききる。
極めてクールだ!

ジョニー・デップ、、、ジーン・ワトソン(会計士)
クリストファー・ウォーケン、、、Mr.スミス(暗殺依頼人)
チャールズ・S・ダットン 、、、ヒューイ(靴磨きの帰還兵)
マーシャ・メイソン、、、エレノア・グラント州知事
ピーター・ストラウス、、、ブレンダン・グラント(グラント州知事の夫)
グロリア・ルーベン、、、クリスタ・ブルックス(グラント州知事の秘書)
コートニー・チェイス、、、リン・ワトソン(ジーンの娘)


要するに、ジーン・ワトソン氏は、演説中のエレノア・グラント州知事に対し、銃を発砲する場面をビデオカメラに収められるためにスカウトされてしまったのだ。そういうことだろう。何であっても、彼女の反対勢力の仕業と思われない人物でなければならなかった。
それで、うまく彼女の殺害に成功すれば、まずは組織的暗殺団にとっては、言うことなしであろうが、、、。
何分素人である、、、リスクは大きい。周りに覚られて押さえ込まれなくても、、、
彼は知事と同一地表から、素人だから外れる可能性大として、撃つだけは撃つとする。
ほぼ同時に撃つとしても銃声は二度鳴るし、Mr.スミスはかなり上方から撃つため、知事を貫く弾道角はビデオに撮られたジーンの角度とは計算上、大きく異なる。ジーンの撃ったほぼ水平方向の弾痕も柱かどこからか発見せれてしまうはず。
同じ口径のピストルで同じ弾を撃っていてもそこは誤魔化せまい。
もう少しリスクの小さい、うまい方法があるはずだが。

ジーン・ワトソンのように正義感をもった人間をチョイスすると、最愛の娘を人質に取ったからといって思うように動かすのは困難である。素人臭い、無関係のゴロツキを大金で雇った方がずっと成功率も高くすんなり計画は進んだろうにと思う。
勿論、ジーンを選んだからこそ、このような緊迫した攻防がみられたのだが、、、。
(そうでなければサスペンスドラマが成立しない)。

特異な設定を丸呑みすれば、話の展開自体実によく練られている。
特にジーンの孤立無援の選択の余地ない、逃げ場を閉ざされれ追い詰められてゆく心境には、同調してしまった。
殺害は90分(演説の終わりまで)のリミットでありそこまでの過程を90分の映画で描く。
スタイリッシュなサスペンスでもある。脚本が良い。
それを見事にジョニー・デップが演じきる。
この緊張に押し潰されそうになりながらも、その殺人に直結する道の抜け穴を探る駆け引きに目は離せない。

やはり途中でヒューイを協力者に引き込むことに成功したことが大きい。
(この展開はかなりハリウッド的既視感はあるのだが、、、ある意味王道なのか、、、?)
彼のホテルでの人脈と彼の機転なしに、ジーン一人では、知事の殺害は防げても、娘の救出までには至らなかったろう。
あの戦争で耳が聞こえなくなったという阿吽の呼吸の嘘で、殺人組織を出し抜くうまい計画が立てられた。

闘いは素人だが、娘への愛と正義への意思を貫き、怯まず悪党に挑むディップは、いつもの特殊メイクディップより遥かに格好良かった。またエージェントスミスも優れた人物のスカウトという点では目利きであったが、、、。
更にジーンが選んで協力を頼み込んだヒューイも、最初は巻き込まれることを拒んだが、結局は想定を超える機転の利く相棒的存在となっていた。彼でなければあそこまではできなかったはず。見事な人選であった。
その強固な線だけでなく、うまい人選であったが、重要な事実認識~真実には導いてくれるも、呆気なく途絶えてしまったクリスタのケースもある。

この物語は、人選を鍵としてスリリングに面白く展開してゆく。
ヒューイは少し出来すぎな感もあるが、やはり弱者(搾取される側)の味方で理想主義者であるエレノア・グラントの危機を救いたい一心のなせる技であろう。
あのように、人々には愛されていても、既得権にしがみつく権力者の排除の対象となる人物はいる。
(キング牧師をはじめ、、、)。
夫まで、敵であったというのも極端ではあるが、秘書を殺した時の彼の過剰な反応から、妻が政治上だけでなく私生活の面からも邪魔であったことが充分匂わされていた。クリスタは無条件にブレンダンを信用していたことが運の尽きであった。

ジーンが思わぬブレンダンや黒幕たちの前で驚愕しながらも殴られ首を絞められ気を失い掛けているときに見る、ちょっと予知夢的な幻覚シーンも、生理的、感情的にあの緊迫した展開において強い印象をもった。
時間はリニアな90分で流れるのではなく、現実的な想像や幻想も含んだ流れで展開してゆく。
われわれの生きられる現実は強度の緊張のなかに流れる時間や一瞬滞る時間や幻想へと落とされた時間などの束として意識されている。
そのへんの時間構造も描き込んだなかなかありそうでない、サスペンス(ちょっとアクション)映画であった。

窮地に追いやられても突破口を見出し反撃するジョニー・デップもやたらと格好良い。
クリストファー・ウォーケンの最初の頃の余裕がだんだんなくなってきて焦ってゆく過程の演技もさすがであった。


これは、観て損はない映画である。


夏をゆく人々

LE MERAVIGLIE004

LE MERAVIGLIE
2014年
イタリア スイス ドイツ

アリーチェ・ロルヴァケル監督・脚本
LE MERAVIGLIE003はじめて知った監督


マリア・アレクサンドラ・ルング、、、ジェルソミーナ
アルバ・ロルヴァケル(監督の姉)、、、アンジェリカ(ジェルソミーナの母)
サム・ラウウィック、、、ウルフガング(養蜂場を営む父)
ザビーネ・ティモテオ、、、ココ(居候のトラブルメーカー)
モニカ・ベルッチ、、、ミリーカテナ(「ふしぎの国」のキャラクター)
アンドレ・ヘンニック、、、アドリアン(更生プログラム中の少年)

「不思議の国」か、、、
モニカ・ベルッチ以外にキャストに金は掛かっていない気がする。


とても気候の良さそうなイタリアのトスカーナ地方である、、、。
古代エトルリアの遺跡も近くにある場所に、古くからの製法で養蜂業を営む家族がいる。
彼らの生活が実に淡々と描かれてゆく。
思想的な信条からであろうか、、、「世界はもう終わっている」(カルト集団か)という認識を根底にもった、単なるおバカで明るい自然崇拝論者とは対極にいるような父は、明らかに他の国からの移住者であろう、、、ドイツか?
自然のなかで、金ではない、古くからの伝統的な生活を頑固に完結させようとする。実際、野菜を作り羊を飼って自給自足をしている。ふたコブ駱駝が何なのかはよくわからないが、娘へのプレゼントとしては、無駄に思える。

彼は4人娘のなかの長女ジェルソミーナに自分の仕事の後継者となって欲しいことが分かる。
彼女に仕事をしっかり身に付けさせようとし、信頼もおいている。
しかし口煩くよく怒鳴り、粗暴で落ち着かない。(見ているこちらにとっても)。
養蜂の仕事は厳密かつ繊細な工程で成り立っており、修練もしていて引き締まっているが、その他の局面においてはかなり大雑把で適当で粗野な暮らしぶりである。
保健所?から設備の改善命令も出されており、そのへんのやりくりも夫婦間での揉め事の一つとなっている模様。
(伝統的な製法を守ることと現代的な衛生管理に齟齬は生じる部分はあろう)。

父は自然の生活を何より大切にし、狩人や強い農薬散布する農場主と対立する。
確かに蜂が死ぬような農薬には問題がある。
驚いたのは、彼らが家族で外で寝たりしていることだ、、、。
わたしには考えられないが、それ程気候が良いのか?
まだ風邪が良くならない身としては、本当に羨ましい。
下のふたりの幼い娘たちなど、パンツいっちょで近くの野原を走り回っていても、それで用が足りているではないか。
ちょっと考えられないような環境だ。勿論、題にもある通り夏なのだろうが、こちらの夏とも全く風情が違う。
知人が挨拶で「三寒四温の続く今日この頃で、、、」などと言ってくるが、只管寒いだけの環境にあって兎も角、これを観ることの感覚的異和が激しい。

LE MERAVIGLIE002

頑なに、自分と妻、4人の娘たちとよく分からない女性ひとりの7人の家族~共同体だけで、蜂蜜作りに精を出す彼であったが、何故か更生プログラム実施中のドイツ人の少年を働き手として入れてしまう。
長女と同じくらいの年頃か、、、母親は危険だからと反対するが、父としては純粋に労働力(力仕事の担い手)が欲しかったのか。
また、その地にTVクルーがやってきてロケを行う(CM撮りか)ところを海水浴中に娘達が見てしまう。
いつもTVでしか見ていなかったキラキラした世界~外部から来たモニカ・ベルッチ演じる華やかでキッチュなミリーカテナにひと目で魅了されてしまう。文字通り、番組『不思議の国』そのものに映る。
そして、父が頼みとする長女ジェルソミーナが父の承諾もなく、その番組の出演申し込みをしてしまう。
最初は父に番組に応募したいと懇願したが、相手にもされなかったため、秘密にサインしてしまったのだ。

これらにより、それまで守られた来た共同体に風穴が開いてゆく。
あまり働かない無口な少年は、鳥の鳴き真似(口笛)だけはとても上手かった。
その少年は彼女らにとって、はじめて現れた現実的~実際的な異性である。
単なる新たな働き手(実際ほとんど足しになっていない)というより、彼女ら(主にジェルソミーナ)を内側から女性性~他者性に目覚めさせる。
そこへ、文字通り現代文化を象徴するTVの世界の外部性も侵食してきてジェルソミーナ達は強く惹きつけられる。
この転換を、蜂蜜のバケツ交換をし忘れ、床に大量の蜜を垂れ流してしまったシーンに雄弁に表している。
覆水盆に返らずである。
後戻り出来ない局面となる強い暗示か、、、と思ったのだが。

ジェルソミーナ達は結局その番組に出演し、家族で行っている養蜂業をアピールする。
優勝すればそれなりの賞金も手に入る。
父親も渋々参加する。
しかし父のアピールには娯楽番組向けの要素はなかった。
かなり萎むが、少年と彼女が隠し芸を強引にする。
彼の鳥の鳴き声とジェルソミーナの口から蜂を出して顔を這い回らせるものだ。
ちょっと面白いというより気味が悪いものだった。
審査員たちは引く。(恐らくTVの視聴者にとっても)。
優勝は他のチームとなったが、ジェルソミーナ組の居候の女が番組の余韻で興奮して少年に性的に気に障ることをしてしまう。
彼は殊の他、人に触れられることを嫌うのだ。(この辺に彼の置かれた孤独が感知されるが、映画ではその線を深めるようなことはしない)。
それで少年は独り走り去り、行方をくらます。
(この女は、それ以前から内部に波風を立てる存在であり、何故この家族とともにいるのか不思議である)。

つまり、ずっと反対して相手にもしてこなかった父親を無理やり引っ張り出して参加させたにも関わらず、結果が得られず(賞金も貰えず)預かっていた更生プログラムの少年は疾走させてしまうし、家族にとって少なくとも良い思い出になったものではなかった。
ジェルソミーナとアドリアンの関係性が発展したり深まりを持つことは全くなく、TVの外部世界の誘惑もその後の影響や展開は語られない。

そしてアドリアンを見つけ出したジェルソミーナたちふたりのエトルリアの遺跡内での影の戯れが印象的であったが、結局それらは全て遠い夢であったかのように覚める。


彼女が帰ってくると、家族みんなが外で寝ており、彼女を迎え入れる。
この夢から覚めたばかりといった感覚、この引いた距離感は何なのか、、、。


最後でどんでん返しの感覚を強くもった。



いまひとつよく分からぬ映画であったこともあるが、とっても冗長に感じられた。
もっと、短くても充分にこの内容~世界観を表現できたと思うのだが。
まず、もう二度と見ることはない作品である。
夏でも見ることはない(笑。
結構、キツかった、、、。

やさしい本泥棒

The Book Thief002

The Book Thief
2013年
アメリカ

ブライアン・パーシヴァル監督
マークース・ズーサック『本泥棒』原作
ジョン・ウィリアムズ音楽

ソフィー・ネリッセ、、、リーゼル・メミンガー
ジェフリー・ラッシュ、、、ハンス・フーバーマン(リーゼルの養父)
エミリー・ワトソン、、、ローザ・フーバーマン(リーゼルの養母)
ベン・シュネッツァー、、、マックス・ファンデンベルク(ユダヤの青年)
ニコ・リアシュ、、、ルディ・シュタイナー(リーゼルの親友)
ロジャー・アラム、、、死神(語り部)

何と「鑑定士と顔のない依頼人」での名演技が忘れられないジェフリー・ラッシュのそれを更に上回る演技を観てしまっては、もう言う言葉も見つからないのだが、、、。
リーゼルという少女(孤児に等しい)が、厳しい戦火のなか本当のことば(愛)を得る過程で成長し自らの生を生きぬいてゆく物語。
そこに絡む名優もまた実に充実している。


First Wave:1938年。リーゼルは共産主義者の母親に連れられ、弟とともにドイツ・フーバーマン夫妻に預けられるところ、彼は旅の途上で死んでしまう。その葬儀の際、彼女は墓掘り人の落とした『墓堀り人の手引書』を手に入れる。
それを持っていることを新しい父にハンスに知られるが、それを頑なに自分の本だと言い張るところで彼はリーゼルがまだ字の読み書きが出来ないことも察知した。(学校でも自分の名前が書けないことから馬鹿にされる)。
わたしと一緒にその本を読もうということで、養父に教わりながら彼女は読みを覚えてゆく。
その夜から、ふたりの読書~ことばの獲得のための稠密な時間が始まる。
ハンスは地下室に文字を覚えるための黒板も作ってくれる。
着いた当初は頑なに話すことも拒んでいたリーゼルであったが、彼女が養父にこころを開くのに時間はいらなかった。

The Book Thief001

Second Wave:焚書はドイツヒトラー政権下でも頻繁にあった。
ちなみに退廃芸術として絵画も多くの名作が焼き捨てられている。
リーゼルは、山のように積まれて焼き払われた本の下からH・G・ウェルズの『透明人間』を抜き取って家に走り帰る。
それを見ていた市長の妻イルザは、彼女が使いで洗濯物を届けに来た時に、自宅の図書室に招き入れる。
「本が好きなのね。あなたは勇敢だわ」と言って、リーゼルの好きに本を読ませてくれたのだ。
彼女は亡くなった息子が無類の本好きであったことを打ち明ける。
ぎっしりと壁を覆い尽くす本の背を指で嬉しそうに撫でるリーゼルの気持ちにこちらも自然に共鳴している。
帰る時間にイルザは「また今度、続きを読みにきなさい」と、リーゼルに告げる。
自宅でも、養父が彼女の持ってきた『透明人間』を一緒に読んでくれる。
彼女は事あるごとに、市長宅の図書室で貪るように読書をする。(と言っても使いに来る傍らであるため時間は限られている)。
ここから本格的な読書が始まる。かなり豊かな言語世界がリーゼルに形成されてゆく。

Third Wave:ある夜フーバーマン夫妻にとって恩人の息子が命からがら逃げ込んでくる。
(その恩人に当たる親友に、もしもの時の家族のことを彼は頼まれていた)。
「人の価値は約束を守れるか、どうかだ」普段優しいマックスも肝心なときは毅然とした「ことば」を発するのだ。
その青年マックスはユダヤ人であり、匿っている事が知れたらおしまいであるが、危険を顧みず夫妻は彼を迎え入れる。
弱りきっている彼を家族みんなで極秘裡に世話してゆく。
知的なマックスはすぐにリーゼルと打ち解け、彼女に自己表出~言語表現の契機を与える。
自分の言葉で話すことを促してゆくのだ。
「今日の天気はどうだった?」外に姿を悟られないため地下潜伏を続ける彼は、リーゼルに天気をありありと伝えてくれることを要求する。「君の眼が語れたとしたら?」
彼女は必死によりリアルで物事の本質に迫る表現を模索する意識に目覚める。
彼は素晴らしい教育者でもあった。

Fourth Wave:マックスはクリスマスの日にリーゼルが地下室に持ち込んだ雪で家族みんなで雪合戦をし、雪だるまを作ったりして遊んだことで、風邪を拗らせ瀕死の状態にまでなってしまう。彼女は自分を責める。
そこで、リーゼルは、毎日彼に本を読み聞かせる。それしか彼女が彼にしてあげられることはなかったのだ。
読む本がないために、何度も何度も出入り禁止となった(何故なら市長に彼女が本を読みに来ていることが知れてしまったからだ)屋敷の図書室に忍び込んでは、本を「借り」てきてマックスに読み聞かせを続けた。
もう彼女に読めない本はなかった。
ここでの読書量はどれほどのものであっただろう。
(黙読と音読は、また違う。更に、常に死と隣り合う読書でもある。ことばの世界はより研ぎ澄まされ深まりを見せ、自分と彼の共有世界が濃密に形作られるはず)。
彼は家族の必死の看病の介あり、回復する。
この過程で、養母とリーゼルはこころを熱く通わせる仲になる。彼女は自分の内奥を悟られないために罵っていただけだった。
ローザは、深い愛情を上手く表現できないだけの不器用な人であることを彼女は認識する。

そんな頃、幼い者(12歳)同士、リーゼルとおせっかいな親友ルディは一緒に森の湖畔まで行ってヒトラーの悪口を叫ぶ。
とてもこどもらしいことばで。そんなことする人は、嫌いだ、、、という次元を保っている。
ルディの父は徴兵され、彼もなまじ足が速い為、年少の身でありながらエリートコースに取り立てられてしまった。
そこにイデオローグの侵食はなく、自らの身体性から滲みでたことばしかない。
(実際リーゼルは鉤十字の入った制服を着て行進をし、歌も高らかに合唱している)。
彼ルディは、マックスから「君を憎んでいる者よりも質の悪いのは、君を愛している者だね」と看過された当の少年である。
(幼い恋も同時進行しており、彼女にとってルディは大切ではあるが、とても鬱陶しい存在にも感じられていた)。

Fifth Wave:彼はクリスマスプレゼントに彼女にへブライ語で「書け」と書かれた白く塗りつぶされた本(ヒトラーの「我が闘争」、、、わたしの愛読書でもあるが、、、であろうか)を渡している。
君の物語を自分の言葉で書けばいいんだと、、、。
マックスは、いよいよナチスの迫害が強まり、この家族に害が及ぶことを危惧して独り出てゆく。
ハンスもローザも断腸の思いで見送る。

「僕はいつも君が紡ぐことばの中に生きている、、、」
、、、ここからもう、涙腺が緩みっぱなしとなり、涙が止まらない、、、

彼女はこの物語をマックスにもらった真白い本に書き綴ることにする。


連合軍の誤爆により、彼女らの住む街~民家が破壊尽くされる。
たまたま、地下で本を書いていたリーゼルは奇跡的に助かるが、養父母は亡くなり、ルディも彼女の目の前で絶命する。
彼女はルディが生前せがんでいたキスを骸となった彼にはじめてする。
そこに車で現れた市長の妻に本を持ってすがりつく。
彼女はそこで保護される。

二年後、戦場から帰還したルディの父親が経営する店で働いていると、満面の笑顔でマックスが入ってくる。
この時のリーゼルのレディ振りには驚く。

恐ろしい演技力の子役だ、、、。

最後に死神のことば、、、
「わたしは人間にとりつかれている、、、」

ことばに救われてゆく人、、、ことばに呑まれてゆく人、、、ことばで世界中を巻き込んだ人、、、

本当に、ことば=ヒト=世界だ、ということが何より染み渡ってくる映画であった。

The Book Thief003
キャストの素晴らしさは言うまでもないが、ジェフリー・ラッシュには参った。
エミリー・ワトソンの厚みのある演技にも感動した。
そしてソフィー・ネリッセ、大丈夫か?この歳でこんな演技ができて!そっちを心配してしまう。どうかこのまま崩れることなく育っていってもらいたいものだ。








カメの神秘 Ⅱ

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昨日の記事で、日向ぼっこのことを書いた。

3日ほど前までの時折、眺めるなかでの印象だったが、昨日いつもより長く見ていると、、、
(というのも洗濯物がいつもより多く出て、乾かすローテーションが生じてしまったのだ、、、そのついでに)。
長女ガメもしっかり次女ガメの後で甲羅干しをしていた。
若干、次女ガメに比べてその時間が短い感じはしたが、気持ちよさそうにしていたので安心した。
(日中ずっと観察しているわけではないので、長女ガメの日光浴のシーンを見過ごしていたのだ)。

それにしても、、、
次女ガメの亀島の上でのリラックス振りには、呆れるほどである。
大アクビをしてしばらく頭を手で掻いていたかと思うと、後ろ足を片方ピンと伸ばして、次いで手を片方ピンと伸ばす、今度は反対側の足とそして手を同じように伸ばす。それをやった後、またアクビをしてゆっくり目を閉じてお日様に当たっている。

羨ましい、、、。なんと贅沢な、、、。とホンキでそう思う。

この世に、これ程呑気な生き物はいないのではないか、と思うほどのリラックス振りである。

長女ガメの方もゆっくり甲羅干しはするが、頭を掻くくらいで、手足も取り敢えず伸ばしはするがアクビはしない。
全てにおいて次女ガメより控えめである。


今回、ふたりで日光の当たりの良い方の亀島に並んで乗っている時によくよく見てみたのだが、ふたりの大きさが全く見分けが付かないくらい同じなのには、改めてびっくりした。
かなり大きさに差が出ていたのに、これ程同じ体格に調整してくるとは思わなかった。
(昨日の感想と全く同じ内容なのだが(爆)。

顔もしげしげ観たが、長女の撮った写真(次女ガメ)そのもの。
どちらも、われ関せずという表情だが、どうだろうか?
思い切りリラックスしながら何かやっている感もタップリな利口そうな顔つきである、、、。



窓越しに外を眺めると、日差しはあっても寒そうである。
多肉植物の心配を本格的にしなければならない状況になった。
外気が氷点下になるとマズイ。
それまでに、対策を講じたい。
兎も角、この春~夏に小分けした株が(秋の間に)それぞれ増えすぎ、大きくなりすぎた。
鉢が増えたため、棚に収まりきらないで、あちこちに置いてある状況なのだ(笑。

笑ってる場合ではない。
今日中に何とかしよう。
カメの水を取り替える時にでも、、、。





スタンド・バイ・ミー

Stand by Me

Stand by Me
1986年
アメリカ

ロブ・ライナー監督
『恐怖の四季』から秋の物語「死体」スティーヴン・キング原作

ベン・E・キング「スタンド・バイ・ミー」主題歌


ウィル・ウィトン(少年時代)、リチャード・ドレイファス(大人)、、、ゴードン・ラチャンス(主人公、語り部)
リヴァー・フェニックス、、、クリストファー・チェンバーズ
コリー・フェルドマン、、、セオドア・ドチャンプ
ジェリー・オコンネル、、、バーン・テシオ
キーファー・サザーランド、、、エース・メリル

「最高の人生の見つけ方」のロブ・ライナー監督の余りに有名な作品。
わたしは、流行り過ぎていたので観なかった(笑。

「、、、そばにいて」とか「支えて、、、」でも変だし「スタンド・バイ・ミー」が一番だな、、、。
そう、子供時代は誰だって、孤独なんだ、、、。


オレゴン州の小さな町キャッスルロックに住む少年4人の秘密の冒険を描く。
まさに少年時代が、全部詰まったような冒険であり、わたしの少年期にはこんな芳しく重い経験はない。
4人は行方不明の少年の「屍体」を誰よりも先に見つけに行く。
余りに詩的で無益で孤独な冒険ではないか、、、

主人公のゴードンは兄を溺愛する両親の下、家族内での疎外感と劣等感に悩む。
親友のクリストファーは札付きの悪エースというゴロツキを兄に持ち、家の環境からも悪のレッテルを貼られ冤罪をきせられている。自分に対する理不尽な世間の悪意に充ちた視線に傷つき憤りを隠せない。
セオドアは、戦争で傷つきこころを病んだ父親に酷い暴力を受けながらも、その父親に対する憎悪とそれを上回る愛情を抱き苦しんでいる。
バーンは、このなかでは外傷経験は小さい少年で、臆病で鈍重なところはあるが、精神的な基盤はもっとも安定している。


クリストファー少年が長じて大学を出て弁護士として活躍していたのに、喧嘩の仲裁に入り喉を切られて死んでしまう、ということであったが、実に薄幸な運命であり、不吉極まりないものであった。
リヴァー・フェニックス自身、23歳で死んでいる。
ただ者ではない風格と底知れない孤独を、この頃から強く醸していたのだが、、、。
他の仲間も結局、幸福かどうかは分からない。決して明るい希望や未来の感じられるフェイドアウトではない。
どうやら主人公だけが物書きで暮らしており、希望していた生活は手に入れているようだ。


12歳頃、何を考え遊んでいただろうか、、、と考えてみると、、、何も考えていた覚えがないし、無意識に遊んでいただけだろう。
わたしにとって、ことばは特に不自由なく喋ってはいても、まさに不自由を感じるほど思考に軋み繋がる自分のことばをまだ必要とはしていなかった。
ほぼ自動的に反応するレベルのことばの受け答えで、実際の日常がやり過ごせてしまっていたのだ。
こころに繋がることばが、まだ生成される通路は開けていなかった。
わたしの少年時代は、間違っていたのか、、、?

だから、わたしがこの仲間に入っても、彼らのするようなマジでヒリツク話には入れなかっただろう。
彼らのする話は実際、恐ろしい。
わたしには、こんな質量をもった恐ろしい話を聞く勇気すらなかったはずだ。
この純粋で鋭利な孤独のことばを受け取るレセプターがないからだ。

特にリヴァー・フェニックス演じるクリストファーみたいな少年の問題意識である。
何故彼はそこまで老成しなければならなかったのか、彼の大人びた話を聞いているうち目頭が熱くなってしまう、、、。
年端も行かぬ子に、何がここまで苛烈な自立を強いるのか!
、、、凍りつくような恐ろしい現実である。
これは運命でもあり、誰の力でどうにかなるものではない、ということをわたしも最近心底認識するに至った。

主人公ゴードンの、優等生の兄とそれを可愛がり特別視する父、そして軽んじられる弟(としての彼)の構図は「エデンの東」をはじめアメリカ映画のテーマのひとつである。「お父さんは兄さんばっかりで、ぼくのことは、憎んでるんだ。ばくが死ねばよかったんだ(兄が事故死して両親はもぬけの殻状態)。」「いや、おやじさんは、お前のことが理解できていないだけさ。」(クリストファー)
これも切実である。しかし、このレベルは誰の家庭にも有り得る。うちの方がもっと過酷であった(笑。
このパタンは度合いによるが、表現~創造の過程がセラピーと化す可能性がある。
つまり普通とは言えないまでも、回り道をしながら発見をしつつやってゆける。
しかしクリストファーやセオドアは、かなりの強度の闇(外傷経験)を抱えこ込む。
それとの闘いは、想像を絶するものだ。
外部~社会と闘うと同時に、自らの闇~内面とも激しく闘い続ける宿命を背負っている。


わたしは彼らの頃、どうしていたかというと、早熟のクリストファーみたいに生き急ぐことはなく、全てにおいて起動が遅れていた。
わたしの場合、精巧なプラモデルを完成させることに心血を注いでいたし、スーパーリアルな絵を描くのが、単に面白くて没頭していた。それでどうする、も全くない。完全に回路を閉ざし孤絶した。
そのころは、作品が時折、外にポロリと零れることで外部との繋がりを保っていた(賞をもらうとか、、、)。
勿論、普通に学校に通っている身であるが。
どこにいようと、そこにはいなかった。
他者をあえて求めなかったため、内言語が外に放たれることばに形作られなかった。
内言語が長いこと、そのまま身体に沈殿、いや絡みついたままになっていたかも知れなかった。

やること自体が自己目的であり、その点においては、このブログを書く事と同じ次元の行為である。
つまりわたしは、まわりまわって(それほど回ってないが(笑)、少年期と同次元のこと~反復をしている訳だ。
今、はたと気づいた(爆。


辛く悲しく芳しい映画だ。
せめてリヴァー・フェニックスに後二倍は、生きていて欲しかった、、、。







カメの神秘

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何とびっくりしたことに、かなり大きさが違っていたふたりのカメがほとんど見分けが付かない大きさになってしまった。
娘たちが体重を量りたいということで、体重計に乗せてみるとどちらも80グラム。

甲羅と線の色との対比が違い(次女ガメはビビットだが、長女ガメは少しぼやけている)健康状態が気になるほどではない。
頭、手脚は色も形もとても似ている。
顔の造作は違うのだが、、、。
次女の名前のカメは、目鼻立ちがはっきりしていて気の強そうな、、、実際、手で持ち上げると激しく暴れる、、、顔である。
今日も水替えの際、持ち上げると、歌舞伎調に「なに~っと」こっちを睨む(爆。
長女の名前のカメは、目鼻立ちはすっきりしていて落ち着いた、、、手に取ってもさほどジタバタしない、、、顔である。
こちらはつまみあげてしげしげ見ても「何か?」と涼しい表情。

最初購入したときは、ほぼ同じ大きさで、だんだん大きさに差が生じてきて、次女亀と長女亀の比が1:1.3くらいのところまで開いたのだが、、、。
この時分は、長女ガメが圧倒的によく食べていて、次女ガメの鼻の先の餌まで取ってしまっていた。
しかし突然、長女ガメがほとんど何も食べなくなり、その間次女ガメがガツガツ食べていたためであろうが、、、
色と模様の線の部分の違いからわれわれには直ぐ分かると言っても、大きさと全体の形では見分けが付かない。
今はふたりとも、同じように食べている。
体の大きさ調整をしたようにしか受け取れない。
ふたりで相談でもしたのか、、、?
とっても神秘的な現象に思える。


もう食べ物も、以前の緑の餌に替え、ひところ食べさせていた、高ビタミンの赤のものは、やめた。
(勿論、小さな水槽病室でのビタミン浴も終了、、、贅沢すぎることもある(笑)。
ビタミン強化タイプは粒が大きく、噛み付いて砕けた破片が水に浮かずに直ぐに底に落ちてしまい、汚れも比べ物にならないくらいで水が濁るのが気になった。
ベーシックの緑のものに戻したら水がいつまでも綺麗で助かる。
(日に必ず一度は水替えしているが)。
粒の大きさもカメの口に調度合うためカスが水中に残らない。


ただ、次女ガメの方は、すすんで亀島に登り日光浴をよくしているが、長女ガメは亀島の中で休んでいることが多い。
すすんで日光浴しない場合は、やはり無理やり日光に当てた方がよいのだろうか、、、。
アウトドア派とインドア派か、、、?
甲羅(と線)の色も恐らくその関係だと思う。
動き、食欲には基本的にさほど差も感じられない。
性格~個体の差は、結構出てきているようだ。

まずは、よく食べるようになったことは、一安心ではある。


もう少し様子を観てみたい。

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アクトレス 女たちの舞台

Sils Maria

Sils Maria
2014年

フランス・スイス・ドイツ

オリヴィエ・アサヤス監督・脚本

ジュリエット・ビノシュ 、、、 マリア・エンダース(ベテラン女優)
クリステン・スチュワート 、、、ヴァレンティン(マリアの秘書)
クロエ・グレース・モレッツ 、、、ジョアン・エリス(若手新進女優)


ベテラン女優マリアとその秘書ヴァレンティンは、何処へ行くにも何をするにも一緒であり、マリアに対するヴァレンティンは、さしずめマネージャとしてスケジュール調整から、セリフの相手をするアシスタントとして、離婚調停関係における秘書としても、密接に関わっている。マリアはそれにかなり依存しつつ仕事以上の何かをいつも求めている。
ふたりは全幅の信頼を寄せ合うも、劇の解釈や映画評などを対等にぶつけ合う過剰なやり取りや要求で齟齬をきたすことも少なくないパートナーである。
何といっても、この映画の醍醐味は、マリアとヴァレンティンがセリフ稽古をやる過程で、その舞台の登場人物ヘレナ役(マリア)とシグレット役(ヴァレンティン)が部屋で真に迫ったセリフのやり取りを進めているように見える過程で、マリア自身とヴァレンティン自身のやり取りにもなってゆくところである。
または、マリアがヘレナになっていたり、ヴァレンティンがシグレットと化していたり、、、このへんの絡まりがもっとも見所だ。


ヴィルヘルム・メルヒオールという劇作家に見出され、彼の書いた戯曲「マローヤのヘビ」にシグレット役でデビューしたマリア・アンダース。
彼女は、彼が受賞した賞を代理で受け取るためスイスに出向く旅から始まる。
ヴィルヘルムとは、シルス・マリアで落ち合うことになっていた。
彼女は列車のなかで、夫との離婚調停のやり取り、授賞式のスピーチ原稿作成、舞台の次回作の打ち合わせなども忙しくしていた。そう、20年振りに「マローヤのヘビ」の若いシグレットではなくその相手役のヘレナ役での出演を依頼され、その受諾についても悩んでいた。
そんな中、ヴィルヘルムが亡くなったことを知らせられる。
彼女は彼の妻ローザと会い、劇を引き受ける気持ちになる。

チューリッヒから列車で彼の作品「マローヤのヘビ」の題名の由来ともなっているシルス・マリアに向かう。
アルプスの大自然が圧巻である。
シルス・マリアの自然現象であるうねるように河に沿って流れる蛇(雲)がそのままマリアの心象にも繋がる雄大な構図も見られる。
それにしても、雄大な絶景だ。まさしく河と雲が一体となって、うねって進むではないか!

ヘンデルやパッフェルベルの楽曲が荘厳に流れる。
風景とこれらの音楽がこれ程合う「映像」もあるまい。


マリア(女優)とヴァレンティン(秘書)との年齢差のある女性同士の関係とそのなかでこれから演じられる劇でのヘレナと若いシグリットとの関係が、セリフ練習(本読み)の過程を通して重ね合わされてゆく。
劇の内容としては、お互いに惹かれ合いながらも、若いシグリットによって追い込まれ消えてゆくヘレナの人生の物語ということだ、、、。

ただマリアにはどうしても吹っ切れない拘りが胸中にあり、セリフ練習に集中できない。演じることが苦痛になる。
(劇を辞退しようとさえ思い、それを訴えたりするほど揺れ動く)。
20年前にシグリットを演じていたために、今壮年のヘレナを演じる事への自らの老いに対峙する葛藤もある。
失ったものを、時間を、若さを、そしてヘレナのもつ人間味にも耐えられない。
シグレットの冷酷なことば~セリフによってそれらが次々に生々しく捲り立ち胸中をよぎってゆく、、、。
そのため、たびたびふたり(アリスとヴァレンティン)の本読みは破綻して、素の本人同士の言い争いになったりもする。
(本を読んでいる最中からそれが滲み出てゆく)。

「ヘビ」をふたりで観に行った時に、その「ヘビ」を見つけヴァレンティンを呼んだとき、すでに彼女は姿を消していなくなっていた。
このシーンは大変印象的であった。
マリアが何度も彼女の名を呼び、それが木霊する、鮮明な喪失の絵であった。
ここで、ひとつマリアは吹っ切れる。
劇を演じる戸惑いはひとつ払拭された。謂わば、自立した感がある。

だがまだ自分の若さと時間~過去に対する執着が残っていた。
それを劇の中で何らかの形で表現したいと願った時に、相手役のジョアンに幻想ごと一瞬で吹き飛ばされる。


この映画、実はジョアン・エリスがかなり雄弁に、ハリウッドの若く才能ある女優の典型を多少の誇張(強いタッチ)で演じている。
特に最後に、マリア自身の拘り~悪あがきを鋭く一刀両断する。これにはマリアもタジタジになり目が覚める。
(表面的には我儘で攻撃的で変わり者に見えてもしっかりした知性と洞察力と実力を兼ねている若手女優の例でもあろう)。
マリアもすっきり吹っ切れ新たにヘレナを演じる情熱が湧き、少し見下していたその新進女優ジョアンを心から見直す。

充分この複雑な劇を自分に身体化させたクリステン・スチュワートの感情表現の繊細絶妙な演技はクールであった。
まさに、この役になりきっていた。
ジュリエット・ビノシュについては言わずもがなであるが、彼女の成熟した無垢な大胆さと繊細さにはやはり魅了される。
特に彼女の笑い、である、、、。もうある境地に達している感じだ。
ジュリエット・ビノシュ 、クリステン・スチュワート 、クロエ・グレース・モレッツ三者三様の優れた演技力が遺憾無く発揮されていた。
なかなか観ることの出来ない女性の複雑な心象の交錯する雰囲気のある映画であった。

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大変な貫禄を身に付けてしまったジュリエット・ビノシュを見てまたかつての彼女の映画も観たくなった。

キック・アス/ジャスティス・フォーエバー

Kick Ass 2
ちょっと、普通な感じ、、、

Kick-Ass 2
2013年
アメリカ

ジェフ・ワドロウ監督・脚本

クロエ・グレース・モレッツ、、、ミンディ・マクレイディ、ヒット・ガール
アーロン・テイラー=ジョンソン、、、デヴィッド・"デイヴ"・リゼウスキ、キック・アス
クリス・ダミーコ、、、クリストファー・ミンツ=プラッセ、マザー・ファッカー
モリス・チェストナット、、、マーカス・ウィリアムズ(ミンディ・マクレイディの養父)
ジム・キャリー、、、サル・バートリーニ、スターズ・アンド・ストライプス大佐(ジャスティス・フォーエバー組織のチーフ)


『キック・アス』の続編
初っ端で、キック・アスのデヴィッドが、続編やるなら真剣にやらないとね、、、などと自ら騙っていたが、、、
確かに身辺の大切な人間の死を幾つも前にして、深刻に悩み内省する場面はある。

まずは調子の良いキック・アスとヒット・ガールとのトレーニングと現場・実践から始まる。
だが彼女の不登校やヒット・ガールをやっていること知った養父マーカスから、以降絶対にそれらをやめきちんと登校することを約束させられる。
デヴィッドは独りでの活動は出来ず、SNSを通じて出逢った「ジャスティス・フォーエバー」の集まりに身を任せてゆく。
相変わらず軽いノリで正義の味方ごっこを続ける。
が、これがリーダーのサルや父親の殺害にまで繋がることになってゆく。
事態はかなり大きな規模の殺人ゲームと化してしまう、、、。

結局ヒット・ガールとキック・アスの活躍の場面に収まってゆく。
それ自体はよいのだが、、、。
全体を通し、、、。
相変わらずのバイオレンス・アクションかと思いきや、残虐惨殺場面はあるが、前作ほどの「アクション」はない。
前回のように敵のアジトに独りで潜入し、二丁拳銃を空中で操りながらのといったアクロバティックな見せ場はない。
アクションの数の減少とスケールが縮小されたとしても、質まで落としては、ただ大味な作品に見えるだけである。
明らかにアクションにおけるディテールが、余りに手抜きで雑であった。
だいたい、デヴィッドの父の葬儀で繰り広げられた、派手な銃撃戦からの車の屋根からのヒットガールの攻撃は余りに無理がありすぎた。
何も見えない屋根の上から車中への狙い撃ちは不可能だし、あれだけ下から屋根を撃ち抜かれ躱すのも不可能だ。
どれもそれに似たりよったりの、雑な場面・状況設定でただ速度感でシーンを押し進めてゆく。
展開では誤魔化せられないし共感不能。その部分こそディテール描写によっていることは確かなのだ。

この続編は、彼女らの人間的な成長に伴う葛藤や相克に力点をおいているとは言える。
ミンディに歳相応の女の子になって欲しいマーカスの考えと責任感は正しい。
彼女の生育歴(幼少期)は極めて異常であるからだ。(この年齢からのやり直しは不可能に近いとも言え、、、)。
今後の成長に何らかのサポートは絶対に必要である。
思春期を迎え、もうガールからレディになりかけのところだ。
人生において、とても大切な時期である。

彼女も一生懸命、普通の女の子に自分なりになろうとするが、周りの悪ガキ(女)もかなりのもので、ここでも闘いは絶えない。
だが、彼女は珍しく真っ当なデヴィッドのアドバイスも受け、正当に中央突破を図る。
女の子としての凛とした美しさで、相手をやっつける。(パパからもらった「ゲロゲリ棒」もダメ押しに使うが)。
してやったりであり、彼女としてはヒット・ガールは卒業するつもりでいた。
しきりに彼女の復帰を願っていたデヴィッドも最愛の父を殺害され、父の意思を尊重しその復讐に生きる道を選択せず、スーパー・ヒーローごっこから足を洗うつもりになっていた。
だが、銃器をもった悪党たちが暴れまわりデヴィッドを拐い、彼の命の危険に際して、今回もミンディはヒット・ガールと成らざるを得ない。
そういう流れの続編設定だ。

今回は特にクリス・ダミーコ演じるマザー・ファッカーが徹底して悪を極めようとする。
彼の周囲の極めつけのプロの悪党たちも、彼を思いとどまらせようとしながらも本当の悪に染めようとしているかの如くである。
マザー・ファッカーは究極の悪の道を目指し突き進む。
その表現が殺しである。
SNSで何かやるたびに発信する。拡散させフォローを集める。

これは充分な武器(充分すぎる武器)になる。もっとも今有効な武器にしているのはD・トランプに他ならない。
うんと悪さをしてSNSで拡散、フォローを得て仲間をかき集める。
金で雇う。どうしょもない殺し屋を沢山。そして残酷な殺しをする。
今回はその手下の殺し屋の面々も凄まじい、、、特にマザー・ロシアだ。もう人間とは言えない。

ザワザワとした混戦のなか、そこそこのアクションで他を圧倒するヒット・ガール。
だがさすがのヒット・ガールもこの怪物には苦戦する。
しかしパパがもしもの時にと残しておいてくれた注射器が自殺のための毒物ではなく、アドレナリンであったことで、彼女は形勢を逆転し勝利に繋げる。
こんな伏線が何本か入っていてもよかった。

大きな流れとして何を言わんとしているかは分かるが、もう少し丁寧で細やかなアクションシーンが見たい。
やはりこの映画はアクションである。ヒット・ガールのアクションなしに有り得ない映画であろう。
そして、ディテールの描写である。
続編を期待したいが、、、。

もう、バイクで颯爽と養父の元を去ってゆくクロエ・グレース・モレッツ~ミンディは、もう少女ではないし、続編はないはず。
もし、続編(めいたもの)を作るのなら、ヒット・レディにでもするか、、、。
そうなると作風は全く異なってしまうだろう。
(これで終わりがよい)。










フィフス・ウェイブ

The 5th Wave

The 5th Wave
2016年

アメリカ
J・ブレイクソン監督

クロエ・グレース・モレッツ、、、キャシー・サリヴァン(女子高生)
ニック・ロビンソン、、、ベン・パリッシュ(キャシーと同じ学校の生徒であり軍の少年兵士のリーダー)
アレックス・ロー、、、エヴァン・ウォーカー(アザーズからヒトに寝返った青年)
マイカ・モンロー、、、リンガー(ベンと同じチームの凄腕戦士)
リーヴ・シュレイバー、、、、ヴォーシュ大佐(アザーズに寄生された大佐)
マリア・ベロ、、、、レズニック軍曹(アザーズに寄生された軍曹)
ロン・リビングストン、、、オリヴァー・サリヴァン(キャシーの父)
マギー・シフ、、、リサ・サリヴァン(キャシーの母、医師)

われわれが「アザーズ」と呼ぶ地球侵略者との攻防戦を描く。

彼らは非常にものものしい巨大宇宙船で堂々と真昼間アメリカ上空に現れ、静止状態を暫く保っていた。
(所謂、浮かんでいた)。
そして突然、動きに出た!

以下の戦略をもって地球上から人類を駆逐するための攻撃を始めたのだ。
全体を俯瞰する戦況としては、、、。

First Wave:電磁波の攪乱(電磁パルスにより電気を使用不能に)
自動車が突然暴走したり、飛行機が制御を失い墜落したり、、、
太陽フレアの関係で、いつでも電磁波の攪乱は起きており、発電所が稼働停止になるケースも普通にある現象ではある。
しかし電気が完全に使えないと如何にこれまでの文明が崩壊してしまうか、、、これは想像に余る。
如何にわれわれの文明が電気のみに頼っているか、も意識したほうがよい。
単に電気前の文明に戻ったのではなく、電気を失った荒廃した文明後の地帯に住んでいるに過ぎない。

Second Wave:地殻変動(津波・地震など)
沿岸地域は津波でほぼ全滅してしまう。
そのほかは地震で多くの人が死んでしまう。
この自然を利用した災害の大きさは尋常な規模ではない。
しかもこの災害はわれわれにとっても絵空事ではないところが、きつ過ぎる。

Third Wave:疫病(鳥インフルエンザ)
ウイルスを強化して蔓延させるが、免疫のある人間が生き残る。
ベンもそのひとり。
人類は過去、様々な疫病によって、人口を減らしている。
西洋ルネサンス期の黒死病もそのひとつ。
アステカ王朝もスペイン軍の持ち込んだウイルスで滅んだ例である。
ここでまた多くの人間が侵略者の広めたウイルスで亡くなる。
そう言えば、地球侵略でやって来たかつての火星人は、地球のバクテリアで死滅した。
地球のウイルス、バクテリアの力は絶大である。

Fourth Wave:寄生(人を完全に乗っ取る)
この危機意識は、これまでも多くのSFで取り上げられてきたテーマである。
他者問題に絡む、あらゆる領域に絶えず取り上げられる題材である。
そして人間同士が懐疑的、排他的になり、人間としてのこころを失ってゆく。
「人間を淘汰するにはまず、人間のこころを奪う」(キャサリン)
外見上は相手が敵か味方か分からない。(まさに他者問題)。
難民キャンプにおいて、軍が救出に来たかと思って歓んだのも束の間、リーダーレズニック軍曹以下全員アザーズであった。
親は皆殺され子供は拉致され戦闘員に仕立て上げられる。

Fifth Wave:人類一掃(洗脳した子供兵を使った狙い撃ち)
「殺虫剤を撒いても死なないゴキブリは狙い撃ちしかない」(キャサリン)と言うように、侵略者にとって個別に網から逃れた生存者を狙い撃ちしてゆく段階となった。そこで彼らは、人間の子供を洗脳し、ヘルメットに仕込んだ探知機とレンズにより視覚的に敵・味方を識別させる大変有効な方法をとった。(人間は視覚優勢であり、一番分かりやすく理解もし易い)勿論、人間を敵と識別する装置である。
人間の子供が、生き残って隠れている人類を皆殺しにする極めて皮肉なシステム~トリックである。
しかし、その敵が余りに不甲斐ないことに気づいたリンガーが、軍が何かを隠していることを察知し警告する。
ベンも直ぐに疑問を呈し、自分の姿を仲間に見せ、それが明らかに敵であると機器が反応を示していることを隊員とともに確認し、カラクリを知った彼らは基地へと反撃に向かう。

アザーズは地球を乗っ取りに来たのだが、地球環境に対し必要以上のダメージを与えないような方法で進めてきた。
(とはいえ、地殻変動はそうでもないが、、、)。

主人公キャシーを取り巻く状況としては、、、。
彼女は、疫病治療に関わっていた医師の母を失い、弟と父とともに難民キャンプに逃げ込む。
しかしそこに軍の救助隊と称して現れたレズニック軍曹一行に父を含む親たち全員を殺され、子供たちはまとめて軍に連れ去られた。
キャシーは、弟の後を追い軍基地に向かうが、途中でアザーズに狙撃され脚を負傷し気を失う。
数日後に気づくと、自分が謎の青年から傷の手当てを受け保護されていたことを知る。
しかし彼女は、銃を奪われていたことから拉致されたと思いこみ、直ぐにその家から逃げ出す。
だが森でまたアザーズの罠にはまり、今度もその青年に助けられる。
彼女は数回にわたり彼に助けられるが、その青年の力に疑いを持ち、何者なのか訪ねるとアザーズであることを明かす。
すでに以前、彼らは地球に来て長い間地球人として生きてきており(偵察隊か?)、今はどちらとして生きるかを自分の意思で決められることが分かったという。(いまひとつよく分からんのだが、、、キャシーも分からないらしい(爆)。
そして彼エヴァンは、キャシーのため、地球人として生きる決意を固めたという。
キャシーというよりクロエ・グレース・モレッツの魅力の成せる技であろうが、、、。
キャシーを追って軍の基地にまで来て、彼女の弟を救い出す援助をし、基地を爆破して彼女の前から姿を消す。
(同胞に対する徹底した裏切りである。このエヴァンという異星人、謎を深める)。


大概、この第四、第五のフェーズにおいて、単に地球人対異星人(侵略者)という単純な構図ではなく、人間同士の間でも葛藤のみならず、個人的にも派閥(グループ)的にも対立、闘争が起きるはずである。すでに地上の99パーセントが殺戮された人類であっても。(そうなると、ヒト対エイリアンというより、彼らのイディオムを借りれば「愛」を信ずるもの対それに価値を置かないものとの相克の構図ともなろう)。
ここでも、人間同士の対立ではないとはいえ、主人公のキャサリンとベンは、彼女の弟のみを選択的に(まさにピンポイントで)助けだす。
人間対エイリアンとの闘いという次元で考えれば、大勢の人間の子供たちが輸送機に乗せられ運ばれてゆくのである。
そのなかで彼女の弟だけ救い他を見捨てて、ハッピーエンドという問題ではなかろう。

もうひとつ、物語の進行上気になった点であるが、軍の基地においてあれだけ差し迫った緊迫する状況下で、キャシー、エヴァン、ベンの3人の場の空気を無視した愛の語らい(ベンは埒外にあったが)をしている「間」はどうやってできていたのか、よく撃ち殺されなかったと思う「時間」であった。
最後、キャシー、その弟、ベンの3人を爆発する基地まで、リンガーがジープで絶妙のタイミングで助けに来る。
余りにダイレクトに、、、。
ここら辺に関しては、プロットの検討がかなり甘いと感じる。

結局、レズニック軍曹たちは基地を離れ、彼女らは弟だけ助けるに留まり、これからどうするかに対し、人を助けなきゃ、、、これは、「人を助ける気持ちが失くなれば、人間でなくなる」というエヴァンのことばを受けてだろうが、、、数人残った子供部隊で実に覚束無いものである。彼らはもうアザーズの管理・利用から外れた存在である分、身の危険は遥かに高まるはず。
まずは、「明日考えよう」(ベン)である。そうなのだが、大丈夫か?
「希望を持つことこそ人間の証なんだ、、、」(キャシー)何とも楽観的な。
(クロエが言うと不思議に説得力を感じてしまうのだが)。


レズニック軍曹の軍の立て直しと新たな戦略、基地を爆破して姿を見せないエヴァン・ウォーカーの行方、、、
続編を前提に作ったような作品であるが、次作にどれくらいの製作費が当てられるかの要素も出来を大きく左右すると思われる。
確かにエヴァンではないが、この映画クロエ・グレース・モレッツによって、最後まで観続けられた。
他の女優が主演であったら、分からない。



長女の按摩、、、

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今日は100円で20分背中から腰のマッサージを長女がしてくれるというので、歓んでやってもらった。
20分といったら結構長い。
彼女は、近くにデジタル置時計を置いて、しょっちゅう時間を確認しながら、背中を体重を掛けて押してくれた。
とても丁寧に、手を抜かずにやってくれたため、かなり疲れたらしく、ここで一休みというので、そこまででいいよ、とした。

その時間、14分であったが、充分に効いた。
おかげで、その後どっさり疲れが出てしまい、その場にすやすや眠りこけてしまった。
実に気持ちよかった(笑。
しばらく眠り、悪夢で起きたのだが(爆。

これからたまにやってくれるというので、おうちのお手伝いの一貫として、記録もしておこうと思う。
写真整理の時に、つくづく大きくなったものだという、当たり前な感慨をもったものだが、自分が娘にマッサージしてもらい、グウグウ寝てしまう身になるとは想像しなかったことだ。
顔をみても、つくづく「いっちょまえ」な表情をしていて笑ってしまうことがある。

確かに卵も自分で割るようになり、自分でやるという場面がかなり増えてきた。
よいことには違いないが、ちょと寂しさも感じることもある、、、。

明日は、一緒にお買い物に行かなければならない。
足りないものが幾つか出てきた。
レジを頼んでみようかと思う、、、。
紙上の計算はもう随分やってきているし100円ストアでの支払いは幾度もしてきた。
大きい数(と言っても4桁だが(笑)で実際のお金が扱えるかやってみたい。

日に一つは、何か些細なことでも新しい経験をさせたいものだ。
こちらにとっても、楽しく面白い体験となる。
それが肝心だ。


10 クローバーフィールド・レーン

10 Cloverfield Lane

10 Cloverfield Lane
2016年
アメリカ

ダン・トラクテンバーグ監督


メアリー・エリザベス・ウィンステッド、、、ミシェル(デザイナー志願)
ジョン・グッドマン、、、ハワード(拉致犯)
ジョン・ギャラガー・Jr、、、エメット(作業員)


ある日突然、運転中のミシェルは自動車を追突されて拉致される。
そこは自家製の地下シェルターで、彼女は片足に怪我を負っており、点滴治療が施されていた。
主はハワードと名乗る元海軍に所属していたという男。
彼女は逃がしてくれるように懇願したが、それは無駄なことだと。
何とか外に出ようとするも逃亡(脱獄)は未遂に終わる。
彼が言うには、外の世界にすでに生存者はいないと、、、。
単に誘拐され拉致されただけだと思ったが、彼は命の恩人であるらしい。
ミシェルは取り敢えず判断保留とし、そのまま様子を窺うことにする。

同居するエメットというハワードのシェルターを共同で建てた男の話からも、どうやら外の世界は尋常ではない様子であった。
ハワードによると何者かの攻撃で放射能か化学兵器による空気汚染が進んでおり、人の生きられる状況ではないという。
その攻撃の主は地球外生物の可能性も大きいらしい。
ミシェルはそのまま彼らを信じることができないながらも彼らとの生活を余儀なく続けてゆく。

ある時、外から車が走ってきてのを見て、ミシェルはやはり騙されていたと確信し、その車を迎え入れようとするが、運転してきた女性は皮膚がすでに酷くただれている状態であった。
彼女はシェルターに入れてくれるように懇願するが、それは明らかにウイルスか何かに犯された状態であるためミシェルはそれを拒む。彼女は彼らの言っていたことが正しかったという判断に至る。
罪悪感に苛まれながらも、ミシェルはハワードたちを信じ、3人の共同生活を続けていくことを受け入れてゆく。

しかし、空調設備に障害が起き、彼女独りでダクトを通って機械の再起動に向かったところで、ハワードの娘の件とその行方不明となった友人について不審な物証を見つけてしまう。
少なくとも彼女らの消息の鍵は彼が握っていることは確かのようであった。
彼女はすぐさまエメットと相談して計画を立て、ガス防護服を作りハワードの拳銃を盗み逃亡を企てる。
防護服は彼女が仕上げるものの、結局エメットの盗んだ鋏、ナイフから計画はバレてしまう。
エメットは銃殺され遺体は溶解される。

彼女は、ハワードにダメージを与えつつ必死に彼から逃げ、不死身のように追いすがってくる彼を何とか振り切り、ようやく外に出る。(最後まで彼は外は危険だと彼女を止めようとする)。
その直後、薬品引火によるものか、地下シェルターは爆発する。
しかし何と青空には鳥が飛んでおり、ハワードの言っていたような汚染された環境ではなかった。
一瞬安堵してヘルメットを脱いだ彼女であったが、今度は異様極まりない物体が獲物をシラミ潰しに探るように浮かんで飛んでいるではないか。

明らかに地球外生物と受け取れるクリーチャーが、人間を物色していることが分かった。
この事実に驚愕しながらも、彼女は更に恐ろしい敵から身を守るべく闘いに身を晒す。
相手は毒ガスを散布して迫ってきたため手作りの防護ヘルメットで対応する。
やはり作っておいてよかったのだ!
彼女は一体を火炎瓶で撃退し、命からがら車で逃亡する。
ハワードが必死に語っていた敵からの攻撃というのは、真実であったのだ。

ハイウェイを走らせている最中に、ラジオに「バトンルージュでは難民キャンプが設営され、安全が保障されている。一方、ヒューストンでは助けを必要とする人のため、戦闘・医療経験者を求めている」という放送をキャッチする。
ミシェルは、意を決してヒューストン方向に車を向ける。
先の上空には、例の物体が幾つも浮かんでいた。
この後の彼女を待ち受ける試練を暗示するかのように、、、。


なかなか繊細かつ精悍な雰囲気の女優であった。
ハワードも渋めだが実にタフなサイコパスである(というか本気で彼女の身を案じていたおじさんにも見える)。
「君らは警報装置と取り付けはしっかりやるが、実際アラームが鳴った時のことを考えていない」というハワードの言は、盲点をついている。
アラームの鳴った時に如何に適確な行動を迅速にできるか、、、日頃から考えておく必要がある。


当然、続編は作られるはずの流れで終わった。
(続編が出たら観よう。その前に”クローバーフィールド/HAKAISHA”というものが以前製作されており、そちらから観てみたい)。
勿論この作品は、完全に独立した完結モノとして問題なく鑑賞できる。










エルサレム

Jeruzalem.jpg

Jeruzalem
2015年

イスラエル

ドロン・パズ、ヨアブ・パズ監督・脚本・製作


ヤエル・グロブグラス
ヨン・トゥマルキン
ダニエル・ヤドリン
トム・グラジアニ

スマートグラスによる究極のPOVであった。
しかもエルサレムの贖罪日の禍々しい出来事。
エキゾチックな街並みやホテルに如何にも終末的クリーチャー。


かなり重厚な切り口の出だしである、、、。
「人は無意識の内に憎悪を説いて周り、神々が戦火を交える音に耳をかさない。全てはこの地(エルサレム)に集約されることになる。この地では果てしない憎悪が根を深く降ろし、死者を目覚めさせる」と、、、。(地獄の入口のひとつがエルサレムなのだ)。
いきなり墓地から目覚めた女(母親)の死者?が、3つの宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教となろうか)の指導者によって諭されるがどうにも効かず、頭を撃たれて処分される。
その女には蝙蝠のような羽が倒される前にバサっと開いたのには驚いた。所謂、悪魔である。
エルサレムの2人の祭司による記録(録画)であった。

このビデオに始まる導入部にはかなり期待を抱かせるものがあった。

後の展開は、直ぐに「スマートグラス」をパパからプレゼントされた娘が、テルアビブへと女友達と連れ立ってバカンスにゆく。
アッケラカンとした忙しないテンポで進む。
この切り替えは目の覚めるくらい鮮明なものであった。
以降、このスマートグラスによるPOV映画となる。
主人公の掴む知識をリアルタイムでこちらも共有できることは、話には乗り易いし主人公の現状や心理にも密接度は高い。


最近はこういう形式の映画が増えたが、長回しのカットなしゲーム感覚映像が特徴的である。
これもまさしくそれで、登場人物たちの軽佻浮薄さとピッタリ合った形式とも感じられる。
大概は、こういう駒をどう動かしてどういった構造の映画にするのか、、、というところだが、如何せん主人公の女性のしているスマートグラスの視点から離れられない。とはいえ一体感が得られるなどというレベルではない。
(おかげで、この女優はほとんど画面に現れないため自分の演技や顔すらもほとんどアピールできないではないか。声の出演か?)

このような臨場感にそもそも拘る必要があるのか。
ひとりの視座に絞ることは、臨場感のスケールを狭め限定する。
時空間が極限されるが、自分の身体性にほぼ同一するかといえば、全くそんなことはない。
人は視覚だけで知覚している分けではないため、居心地悪さと単に忙しなく窮屈で、ともするとチープ感も漂う。
(つまり視覚以外の情報のないことを逆照射され身体性を損ねる~気に障るのだ)。
言うまでもなく、臨場感は視座を登場人物の誰かに重ねることなくいくらでも出せる。
(これまでの映画がそうであった)。
機動性はよいがともすると、この方式は制限の方が大きくなりすぎるきらいがある。
少なくとも大きなスケールの重層的な視点とその展開を要する映像には向かない。
(小さな洞窟探検の長回しショットなどで部分的に採用するのが最適ではないか?)
結局、、、ひとつの駒として全体の中で動かす構図にはできないため、その本人の人格レベルで世界を窺うことになる。
つまりこの女性の意識~ことばで映像世界を手繰ってゆくため、大変軽佻浮薄な関係に寄り添ってゆくことになる。
(海外バカンスに来たふたり連れ女の子の典型パタンというところであろうが、、、些かステレオタイプにも思えるところだ)。

現地で知り合った、男性含め4人での行き当たりばったり(テルアビブに行くところを飛行機で知り合った男性の話に乗ってエルサレムにしてしまう)バカンスの動きに並行して地中深くひたひたと根を下ろした憎悪を具現した悪魔の出現に及ぶ過程を描くような超越的視座は、封印したい監督の考えであろうが、如何せん突然現れる巨人ネフィリムやクリーチャーに「うっそー、なにあれ、なんなの~、しんじられなーい」のノリで終始押し通されても、ただ気持ち悪いものが続々出てきてパニックになって逃げる他、何かに繋がったり発見したり認識したりの広がりや深化が起きない。
ものものしい前口上は、単にこれから怖いものが沢山出て来るからね~というお化け屋敷的な呼び込みだったのか、、、。
キリスト教の不死者、イスラム教の堕天使、ユダヤ教の巨人ネフィリムが蘇って眼前を過る。
おまけに主人公の亡くなった兄も、彼女の願い通りに現れる。不死者として。
地獄の門が全開状態か、、、。


しかし事態の本質に少しでも触れる存在が出ないまま、誰もが被害者・傍観者として逃げ犠牲になるだけで終わる。
彼らに内省はない。(アメリカ兵士のひとりが宗教的内容の話をし始め絶望を語っていたが、新鮮味はない)。
「エルサレム・シンドローム」で仄めかすに留める。
しかし、これこそがありのままの現実描写だと言うことか。
(超越性を切り捨てるということは、そういう方法となろう)。

クリーチャーの出し方が瞬間的、部分的な個人的な視野で、絶妙なものであった。
軍用ヘリや戦闘機が夜景に不気味な音をたてて飛び交い、軍による街の隔離、洞窟からの逃亡と、、、非常事態の不安な雰囲気が色濃く滲み、、、。
突然、不条理で理不尽な事態に投げ込まれる寄る辺なき個人的な存在描写においては、POVの効果は要所では利いている。


クリーチャーに襲われながらも逃げおおせて、今まさに長い地下迷路の出口を破って外に脱出した主人公たちであった。
何とか2人だけでも助かったかと思ったら、自分も傷から感染して薄れる意識にのうちに空に登ってゆくではないか、、、違うものとなって、、、。
僅かな間の宙吊の状態における不確かな喪失の過程が、切実に実感される。
この上空への浮遊を、呆気にとられて彼女を見上げる彼氏の姿が小さく遠ざかってゆくことで描くシーンは秀逸であった。
彼女はスマートグラスをつけたクリーチャーとしてしばしの間~撃ち落とされるまで目立つ存在でいよう。


この監督は、スマートグラスでこの虚しさと無力感を撮りたかったのか、、、
何でも瞬時にリアルタイムに情報を表示するガジェットは、あくまでも水平的な広がりにおける情報しか拾えない。
地の底、或いは天上の意思や智には触れることすら叶わない、、、。

確かに日常の浮ついた意識とこの地の果に深く染み込んだ意思との対話など出来るはずもないくらい隔絶がある。
しかし無意識が突き上げるように、こんな嵌入がいつ意識に起きないとも限らない。
いや、すでに現実に多発している。
恐らくこういうことでもある。
まさにヴィデオドローム!


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死霊館 エンフィールド事件

The Conjuring 2

The Conjuring 2
2016年
アメリカ

ジェームズ・ワン監督・脚本(チャド・ヘイズ、ケイリー・W・ヘイズ、デヴィッド・レスリー・ジョンソン)

マディソン・ウルフ、、、ジャネット・ホジソン(悪魔に憑依される少女)
ヴェラ・ファーミガ、、、ロレイン・ウォーレン(霊能力者)
パトリック・ウィルソン、、、エド・ウォーレン(ロレインの夫)
フランセス・オコナー、、、ペギー・ホジソン(ジャネットの母)
サイモン・マクバーニー、、、モリス・グロス(心霊現象研究家)


超常現象研究家エド&ロレイン・ウォーレン夫妻の調査による、史上最長期間続いたポルターガイスト現象「エンフィールド事件」を描く。
『死霊館』(シリーズなのか?)の続編だそうだが、わたしはそれは観ていない。
だが、この作品は独立してこれだけで完結しているため、鑑賞にとって問題はない。

たまたま観たホラー作品、、、のようだが、よくできていて充実感を味わえた。
とても丁寧に作りこまれた映画である。
キャストもよかった。
特に、ジャネット・ホジソン嬢の豹変する姿や表情の演技と素直な子供らしい素の部分もともに素晴らしかった。


さて話は、ロレインがニューヨークのラッツ一家の霊現象の調査を頼まれたときからはじまる。
その家でかつて起きた一家全員虐殺の惨劇の様子を霊視する彼女であったが、実はその事件は悪魔の仕業であったことを確認する。(犯人を操って殺させたのだ)。
そこに禍々しく出てきた悪魔が、結局今回イギリスのホジソン家を襲った悪魔であったことから、ロレインたちに調査を思いとどまらせる警告であったことが分かる。しかも最愛の夫の死の予知夢という形で脅してきた。
これは相当な相手であることが、素人のわたしにも分かる(笑。
ロレインにその悪魔も驚異を感じていたのだろう。
(しかし、こんな能力は欲しくないものだ。とても生きた心地はしない、、、)
悪魔というものは、この地上でそんなに悪さをしたいのだろうか、、、そういう疑問も芽生えてくるのだが、、、。

教会の要請でイギリスまで来てホジソン家の調査をするが、強力な悪魔のためロレインの透視能力が封じられ、霊的なものが家族から感じれれない状態であった。霊現象であることが証明されれば、教会の援助が得られる。
一家はかなりの惨状であり、確かに悪霊につけ込まれ易い状況にあった。
経済的に困窮した、4人の子を養育するシングルマザーの家であり、まだ離婚の後遺症を引きずっている。
更に子供と母親間の関係がギクシャクしていて不安をお互いに抱えている。

普通に見ると思春期の少女の父親の喪失からくる鬱積した不満や葛藤などが、母の不安と切り盛りのストレスとの相乗効果を生み家庭内の様々なイザコザがあたかも霊現象のような様相を呈している、または故意にそう演出していると受け取られる可能性は高い。
そこへ夫婦間の絆は非常に強い夫婦の霊能力者がやって来た。
当然、ジャネットは、その関係性を豊かに保っているその夫妻には安らぎを覚え惹かれてゆく。

鏡にだけ悪魔が映ったり、影だけが歩いたり、おもちゃが勝手に動くというシーンも随所に見られるが、、、
ここで巻き起こっている霊現象は凄まじく、「エクソシスト」でもそうであったが、家具が宙を舞い、ソファーが飛んできたり、ジャネットが空間移動したり、宙を浮かんだりしまくる。
勿論、少女の口を借りておどろおどろしい口調と声で、恐ろしい言葉を吐きつける。

表だって彼らに危害を与えている霊はその家のソファで死んだ老人の霊であり、「ここはわたしの家だ。」というしょうもないことで彼らを脅す。後半まで、何でこんな事で老人の霊は嫌がらせをしてくるのか、、、どうも腑に落ちない気持ちでこちらも観てゆく。
(もしかしたら、父親の帰宅を待つ少女の強い無意識が言わせている言葉か、、、という考えも浮かんでしまう)。
彼らもそれで引越しなどしない。日本ならすぐに引っ越すはずだが、国民性の違いだろうか、「ここはぼくんちだ」と子供も譲らない。そこで、不可避的に霊との対決となる。

また、ホラー映画によっては、当事者の見聞き感じる物事が第三者には全く感知できないようなものがあるが、これは皆がともにそれを体験する。しかし隠しカメラを検証し、これは当人が偽証しているとか、これは浮かんでるのではなくベッドからジャンプした写真だなどと端から取り合わない専門家もいる。
実は悪魔が逆にカメラを利用したのだ。カメラの前でジャネットを脅して部屋を荒らさせたのだ。
証拠もあれば反証も出る。そんな経過であったが、結局これが決定打となる。
それまで、独り孤独なジャネットと、彼らは信頼関係を築いてきた。
自分たち(ウォーレン夫妻)もお互いがたったひとりの味方として支えあってこれまできたことを明かしていた。

モリス・グロスも、諦めきれない気持ちでいっぱいであったが、一旦、この件を霊現象から外して皆撤退を決める。
一度は夫妻もそこを引き上げかけるが、エドがテープに録音した謎めいた老人の霊の二度に渡る言葉を思い出す。
それを2台のデッキで同時再生すると、「助けて、あれが、おれのことを、離してくれない」であった。
その老人の霊は悪魔に操られており、ジャネットが悪魔に乗っ取られることを心配してとどまっていた霊であったことが分かる。
またその霊は「さずけたり、ちなんだりする、誕生の時にあった頼まれなくとも死ぬまで付いてまわるもの」という重要な伝言メッセージをロレインに残す。エドはすぐに、それが「名前」であることを指摘する。
ここからスピーディな急展開となる。

その後、ホジソン家に直ちに引き返すと、悪魔は力を解き放っており、ジャネットはすでに窮地に落ちていた。
エドは予知夢の心配をするロレインを振り切り、悪魔の暴れ狂う家に飛び込みジャネットの救出に向かう。
ロレインは、ラッツ家を霊視した時に襲ってきた悪魔からその「名前」を聴きとり咄嗟に聖書に書き込んでいたことを思い出す。
それを調べると、”ヴァラク”であった!
今まさに窓際まで追い込まれ圧倒的な魔力によって、夫が予知夢の通りに殺されそうになっているところに彼女は駆けつける。
そして、その悪魔の名前を叫び、地獄に撤退させる。
ジャネットとエドは後既のところで、助けられる。
翌朝、「わたしは運がいい。たったひとりの味方が奇跡を起こすんでしょ。わたしにはふたりいた」とジャネットは語る、、、。

最後は、感動的であったのだが、、、何故かそれで済まない終わり方ではある。
また続編にゆくのだろう。
その前に前作を観ておくか、、、。

エルビス・プレスリーはもっとも苦手なミュージシャンのひとりであるが、ここでエドの唱うプレスリーから話は濃密になり、感動的に展開してゆく。ここでのプレスリーはよかった(笑。



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リオ・ブラボー

Rio Bravo

Rio Bravo
1959年
アメリカ

ハワード・ホークス監督


ジョン・ウェイン、、、ジョン・T・チャンス(保安官)
ディーン・マーティン、、、デュード(保安官・助手)
リッキー・ネルソン、、、コロラド・ライアン(保安官・助手)
アンジー・ディキンソン、、、フェザーズ(流れ者の女性)
ウォルター・ブレナン、、、スタンピー(保安官・助手、牢の番人)
ジョン・ラッセル、、、ネイザン(無法者)
クロード・エイキンス、、、ジョー(ネイサンの弟の無法者)
ペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス、、、カルロス(ホテルの主人)

西部劇という映画~エンターテイメントの快楽が詰まっている。
もう様式~定形美の世界だ。
安心して楽しめるところが何より。(つまり主人公たちの生死ではなく純粋に彼らの活躍の質に集中できる)。
派手なガンアクション(に加えダイナマイトまで登場)は勿論、友情にアルコール依存性からの立ち直りを絡めてもいる。さらに女性がしっかりもので情熱的なラブロマンス、若くて律儀な思慮深い助っ人の心強さ、肝心な時に頼りになるユーモアタップリの個性的な名脇役、賢兄愚弟の悪者、そして歌(音楽も効果的に使われている)と、、、盛りだくさん。

そう、歌手(ミュージシャン)が2人も主役級にいる。脇役でパブのショウで背景に唱うとかいうレベルではない。
もっともミュージカルではないため、歌うのは一度だけだが。
ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが「ライフルと愛馬」を歌う場面にはドキッとした。
ソフトな歌声が良い。この手の曲(カントリー)もなかなかではないかと見直した。
決闘を控えナーバスになっているときに綺麗な歌声を披露している場合かとも思うが、、、
敵も巧妙に「皆殺しの歌」を流して、神経を逆撫でする不安感を掻き立てていた。
(なかなかの心理戦である。敵の兄貴の方は知的レベルも高い、、、弟はただのゴロツキだが)。
しかも、そのメロディーにハーモニカで合奏するスタンピーの無神経振りも凄い。
その図太さ頼りになる(笑。


メキシコ国境地帯(「黒い罠」に引き続き)のテキサスで、チャンス保安官は、殺人犯のジョーの身柄確保するも、彼を移送出来ないように兄のネイザンによって街を封鎖されてしまう。街はネイサンに金で雇われた殺し屋に監視され、保安官たちは孤立無援の状況下に置かれることになる。
そんなときに街を訪れたチャンスの旧友が事情を知り、彼に加担しようとするも、殺し屋に殺害されてしまう。
旧友が連れてきた腕の立つ賢い若者コロラド・ライアンが、その後何かとチャンスたちに力を貸し、ついに街に残り保安官助手として力を発揮してゆく。おまけにギターと歌も上手い(笑。

いよいよ緊張も昂まり、悪党たちはデュードを不意打ちにして囚え、ジョーとの交換を持ちかけてくる。
罠であろうが、デュードを助けたいチャンスは、その提案を呑む。
そして翌朝、交換場所にジョーを引き連れやって来るチャンスたち。
ジョーとデュードが解放されてそれぞれの仲間の待つ場所に向かうそのすれ違いざまに、機転を利かせたデュードがジョーに掴みかかる。そこで一瞬怯んだ相手方に一斉射撃でアドヴァンテージを取る。
その後には、スタンピーもカルロスも銃弾を持って駆けつけて大銃撃戦となるが、数で圧倒する相手とはいえデュードとコロラドの確かな腕がどんどん男たちを撃ち殺してゆく。そして、駅馬車に積んであったダイナマイトをスタンピーが相手に次々に投げつけることで、一気に優勢をかたいものとする。
結局、相手の立てこもる小屋を破壊し圧勝に終わる。

流れ者の美しい賭博師フェザーズの愛を受け入れる堅物のチャンス保安官。
タイツ姿で登場した彼女に目が点になっていたことが笑えた。
コロラド・ライアン演じる若きリッキー・ネルソンは、とても瑞々しく爽やかであり拳銃裁きも様になっていた。
スタンピーのウォルター・ブレナンは、よくいる一言多いが結局頼りになる憎めない爺さんである。
葛藤しつつも主役のチャンスを誰よりも心配し、最後に結ばれる美しいヒロイン。
如何にも憎々しい悪党たち、、、と、しっかり決まったキャラクターが隙なくくっきりと描き出されていた。
特にデュード役のディーン・マーティンはアル中や緊張感を服装と着こなし顔と指の表情からも細やかに演じ見事であった。


兎も角、めでたしめだたしである。
ちょっと呑気な感じはしたが、楽しい西部劇であった。



”Bon voyage.”



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