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この一年~風の行方

ryuuseiu.jpg

この一年は恐るべきことに、ほとんど何もせず過ごしてしまった。
絵も描かず、本も読まず、フルートはケースに入れっぱなし、補助のフルートは外気に晒しっぱなしであったため真っ黒に変色している。
一台作りかけたラジコンバギーのプラモデルがまだ作りかけで放り出したまま、、、。
次女にいつ出来るのと聞かれたが、完成予定が立たない。
要するにやる気が出ないのだ。

これまでの生活を通し、もっとも何もやらなかった年であることは確かだ。
仕事も休んでいたし。
体を壊していたのだが、この休暇が体内胎生期~幼年期~少年期の解体作業には繋がった。

自分の確認作業として、ブログをそのための装置に仕立てた。
勿論、十全に機能してはいないが、全てのモノコトを自分に強引に引きつけ語ることはしてきた。
徐々に外へ。
自分~しこりから解放されてゆく何かの感触はつかめた。

これからは、「次の場所」を作ることである。
安らかな秘密基地である。
病院に薬を貰いに行くのは何とかしたい。
めんどくさいのだ。

来年は、病院に行かずに済む方法も考えたい。
それが余計なこととなって、やらずに済めば申し分ない。
Nー1で行きたい~生きたい。

結構、押入れにしまっておいた物は処分出来た。
「サムライ」までは、到底無理だが、あの無常観はどこかに留めて置きたい。
やはりモノが多すぎると風通しが悪くなる。
多肉植物も風通しひとつで病気になり、寄せ植えの鉢一つが忽然と全滅していたことがある。
ヒトにとっても風通しはとても大切だ。

モノが感じ難くなる。
本来、伽藍洞の空間も何処かにないといけない。
昔の人は、恐らくその代わりに軒下に風鈴を下げたはず。
舌の無い風鈴~鐸である。

風は何処からやってくるかといえば、彼岸からである。
境界を超えてやってくる、それを察知する感覚こそが肝心となろう。
新たな風をとらえ、新たな場所に展出したい。

その為にも此岸をもっとスッキリさせたい。
今回の未だ治らない風邪もまさに風の障りだと思われる。
ここには、余りに色々様々なものが澱み易い。
ものが溜まりに溜まって、身動きできずに何もやらなかった一年であったかも知れない、、、。

たくさんモノコトを捨てて、それでも残ったモノを大切にして、健康な生活を送りたいと思う。
多分、明日から(笑。



情婦

Witness for the Prosecution002

Witness for the Prosecution
1957年
アメリカ

アガサ・クリスティ小説・戯曲『検察側の証人』原作

ビリー・ワイルダー監督・脚本

タイロン・パワー、、、レナード・ヴォール(未亡人殺しの容疑者)
チャールズ・ロートン、、、ウィルフリッド・ロバーツ(老弁護士・法曹界の重鎮)
マレーネ・ディートリヒ、、、クリスチーネ(レナードのドイツ人妻)
エルザ・ランチェスター、、、ミス・プリムソル(ウィルフリッド卿の付き添い看護婦)
ジョン・ウィリアムス、、、ブローガンムーア(ウィルフリッド卿のパートナー弁護士)

「検察の証人」である。
クリスチーネそのヒトである。
アガサ・クリスティにも少し馴染んでみたい。
小説とは別物ではあっても、その映画版の雰囲気でもしっかり楽しめるはず。


ビリー・ワイルダーと言えば、オードリーヘップバーンやマリリン・モンローを思い浮かべるが、「アパートの鍵貸します」も良かった。
「麗しのサブリナ 」「昼下りの情事」のヘップバーン絡みの作品がやはり好きだが、、、。

推理サスペンスの意味では、昨日の「ナイル殺人事件」を遥かに超えている。
これぞ、どんでん返しのお手本みたいな映画だ。
文句なしである。

チャールズ・ロートン扮する恰幅のよいウィルフリッド卿の弁護は実に爽快で鋭い。
(昨日の主役の探偵と体格も似ている。知恵のある人はみんなこういう体格なのか?)
ドクターストップのかかっている身で汗ばみながらも、薬を酒であおり強烈な弁護を繰り出すところは粋である。
おまけにタヌキである。
だが、その上をゆくクリスチーネには恐れ入った。
彼女の仕掛けたトリックにしてやられたウィルフリッド卿は、妻の証言は有効性に乏しい理由から自分を偽証罪で有罪にさせて夫(愛人)を守ったことに複雑な思いを抱いていた。
何故、そこまでするのか、という彼の問いに対して、愛しているからよ、とだけ彼女は答える。

レナードの方も大変な役者で、それまでは無実の罪(富豪の婦人の殺人)を着せられて責められ、ドイツ人妻に裏切られた終始実直でお人好しの悲劇の主人公を演じてきたが、いざ計画が上手くいき無罪放免となるとゴロツキの本性を剥き出した。

とは言えこのシーンで誰もの上をゆくオオダヌキは最終的にウィルフリッド卿であった。
クリスチーネが愛のために(昨日もジャクリーンがまさにそうであったように)大芝居を打ち、証言で偽証をしてそれを弁護士に自ら暴かせてレナードを助けるという自己犠牲のトリックを見事成功させたのだが、肝心のレナードは冷酷非情にもそのクリスチーネを捨て、愛人を作っており転がり込んだ遺産で彼女と旅行に行くという。
この変貌ぶりには、クリスチーネは元よりウィルフリッド卿もびっくり唖然であり、その愛人と共に法定に卿を迎えに来たミス・プリムソルもその成り行きに目を疑っている。
当然のごとく酷い仕打ちを受け打ちひしがれたクリスチーネの逆上と絶望は、計り知れない。
「ドイツで困窮していたところを救ってやっただろう」
「入った金をそれぞれにおすそ分けしてやろう」などと、悪びれもせず開き直るレナード。
そんなことはさせないとすがるクリスティーネを突き飛ばし、お前は共犯になりたいのかと言い放つ。

だがその修羅場をやけに大人しく見守っているなと思って注意していたら、何とこの弁護士殿、余程光るもの(反射)を使った遊びが好きなようで、証言の時に提示されたナイフを懐中時計を弄ぶような仕草でずっと燦めかせクリスチーネにその存在を誘うように知らせているではないか、、、つまり明らかに彼女の現在の動転した心境に則した行為の誘導をしている。
ある意味、飛んでもないことだ。弁護士の立場である。
だが、彼もまんまとレナードに騙された上に、よって立つ法を侮辱され(彼は法曹界の重鎮として尊敬を集めていた)、法の悪用により富と自由を手に入れつつあったことに堪忍袋の緒が切れるところにきていた。

だが、よくこんなトリックをアガサ・クリスティは考えるものである。
序盤から、彼が片眼鏡で人を照らして眩しがらせたりする妙なシーンの伏線を見せておいて、最後にこれである。
まるで、目的物を正確に反射で照らし出す練習をしていたかのようだ。

「それよりこの罪で!」と案の定、クリスティーネは手に取ったナイフでその悪党を刺す。
もう冷静を取り戻していたプリムソルは素早く男の脈をとり死亡を確認する。
殺されましたと伝える彼女に「殺したんではない。処刑したのだ」と返すウィルフリッド卿。
調度主治医の指導で、病気の療養に旅立つところであったが、プリムソルもすでに察しており、「旅は延期されますね。次の裁判の準備ですね。ブランデーをお忘れなく(薬を飲む際のココアの魔法瓶を彼がすり替えていることも心得ていた)」と返すところも、一筋縄ではない。
「大した女だ!クリスティーネを弁護する!」
と、颯爽と出かけてゆく。
この調子なら病気も治ってしまうかも知れない。

ただ、ひとつばかり、、、あれ程鋭いウィルフリッド卿がクリスチーネの変装を見抜けなかったのは、ちょっと不思議な気もした。
あの傷とかもどうであろう。
もしあの傷痕でコロッと騙されたのなら、彼女は特殊メイクのプロである。
しかし、これはあくまでも劇中のコンテクスト上でのこと。
映画を観るわたしは、たれこんだうらぶれた女性がクリスチーネの変装した姿だとは全く気付かなかった。
どうみても似てないからだ。この辺は実に微妙な線であろう。
監督としては、あれがクリスチーネの変装と観客に見破られては映画がその時点で破綻してしまう。
恐らく、演出上からも絶対見破られないように別の女優を使っていたはずだ。
物語の文脈上はあくまでもクリスチーネの変装ということであるが。
(それが明かされるのが最後の回想においてであり、真偽は確かめられない為、問題はない)。

それからもう一点、マレーネ・ディートリヒは美貌の他に美脚で有名であった為、それもどこかで披露しなければならない縛りが恐らく会社(製作)側からあったとしても、あのシーンでの脚の出し方は、ちょっと無理を感じたものだが、、、。
まるでそれ自体が舞台の演物に思えた。
別にそれはそれで、綺麗なものを見ることが出来、観客にとって文句は何もないはず。

主人公のウィルフリッド・ロバーツ卿、病気で病院から一時帰宅の自宅療養の身でありながら、極めて難しい裁判を闘い抜き、騙されるところは騙されながらも、鋭い弁論と経験にものを言わせた姑息な手や果ては弁護士を逸脱したトリックまで仕掛けるところなどにはヒトとしての誠実さと矜持とともに親近感を感じてしまう。
マレーネ・ディートリヒの硬質な魅力は充分に堪能できた。
タイロン・パワーは見事なヒトデナシを演じきったと言える。

これまで観た映画で、これ程インパクトのある、どんでん返しは経験したことがない。




ナイル殺人事件

Death on the Nile

Death on the Nile
1978年

イギリス

アガサ・クリスティ『ナイルに死す』原作
ジョン・ギラーミン監督
ニーノ・ロータ音楽
ジャック・カーディフ撮影

ピーター・ユスティノフ、、、エルキュール・ポアロ - (私立探偵)
デヴィッド・ニーヴン、、、ジョニー・レイス大佐 - (ポアロの友人)
ロイス・チャイルズ、、、リネット・リッジウェイ・ドイル -(女相続人)
サイモン・マッコーキンデール、、、サイモン・ドイル - (リネットの夫)
ミア・ファロー、、、ジャクリーン・ド・ベルフォール - (サイモンの元婚約者)
ジェーン・バーキン、、、ルイーズ・ブルジェ - ( リネットのメイド)
ジョージ・ケネディ、、、アンドリュー・ペニントン - (リネットの弁護士)
ベティ・デイヴィス、、、マリー・ヴァン・スカイラー - ( 富豪の老婦人)
マギー・スミス、、、バウァーズ - (スカイラーの付き添い)
アンジェラ・ランズベリー、、、サロメ・オッタボーン - (作家)
オリヴィア・ハッセー、、、ロザリー・オッタボーン - (サロメの娘)
ジョン・フィンチ、、、ジェームズ・ファーガスン -(社会主義者)
ジャック・ウォーデン、、、ベスナー医師 - (スイスの医師)


エジプトのロケはエキゾチックである。そんな異国情緒いっぱいの空間で、、、。
塔の上からそれぞれの登場人物の動きを追うカメラなど、思惑の交錯を窺う緊張感がたかまり、、、そして石の落下。
前半の各人物描写の布石は大きい。観光フィルムとしても素敵だ。
その後、殺人事件が豪華客船カルナーク号を舞台に急転直下で連鎖的に起きてゆく。
リネットが敵を作りながら人物絡みの伏線をいくつも巡らし最後はポアロ探偵が意表をつく手腕でストラップする構成。
わたしは、ポアロ探偵には馴染みはないが、、、恰幅よく辛辣なベルギー人でなかなか好感をもてた。
相棒?のレイス大佐 もちょっととぼけたとても良い味を出している。

それにしても豪華なキャスト・スタッフ陣である。
かのベティ・デイヴィスが痛い老婦人でここでも怪演である。
リネットのメイド役がジェーン・バーキンである。贅沢だ。
ミア・ファローは相変わらず不思議で危ない魅力を振りまいている。
実力者ばかりで、とても活き活きと描かれており、いつの間にか引込まれている。
誰もが複雑な陰影をもち、一筋縄ではいかない面々だ。
サスペンスは普段は観ないのだが(謎解きや話の筋を追うことに興味がないためだが)、観てしまうと面白い。
わたしには、ポアロがこれで謎は全て解けたと言ったとき、全く真犯人など分からなかった。
リネットに余りに敵が多いこともあるが、必ずしも遺恨や直接的な利害関係から殺人事件が起きるとは言えない点がポイントであった。

憧れ(妬みも入っているか)から、、、ということもある。あんなお金持ちになってみたい、、、等々。
動機というものは、先入観を捨てて探らねば見えてこなかったりするものだ。
ジャクリーンが何やら企んでいるのは最初から明白ではあるが、余りにも突飛(個性的)な存在であり実は別に、、、とは思っていた。
そもそも始まりが余りにも不自然である。
いくら西洋人だからといって、何で直ぐにあんな形で相手を取り替えるのか、という強い違和感をもちながら、捨てられたジャクリーンの奇行を逃れながらハネムーンをするカップルって、、、それはないだろう、と思いながらポアロ探偵とレイス大佐に寄り添いながら吸い込まれていってしまう(笑。

全てが犯人である可能性をもった登場人物全員を一室に集め、探偵が小気味良く事件の種明かしと真犯人を指名するこのパタンは、この映画からだったのか?!
誰もが動機をもっていることから、有り得ないようなアリバイ崩しと証拠検出技術の提示(でっち上げ)により真犯人と思しき人物を衆目のもとに炙りだしてしまう。(登場人物皆が見ている環境で、こちらも臨場感に浸る)。
結局は、ジャクリーンのサイモンに対する愛情?による共犯であったと、、、。
(やはり女性作家だけあって、人の愛による哀しい性に決着させたか、、、と妙な納得をした)。
わたしは、サスペンスロマン系には全く疎いため、この作品が原形なのかどうかは知らぬが、少なくともTVの探偵ものは、この映画のフォーマットを踏襲して作られていることは歴然としている。
アニメのコナンシリーズだって、まさにこの流れだ。

探偵が得意に意気揚々と真実を語り、完全犯罪だと慢心していた犯人をぎゃふんと言わせるカタストロフの場面だ。
それまでの全ての流れが整然とここに極まる。
快感(無常観もあるが)を感じて見終わることが出来ることは、健康的だ。


しつこい風邪が抜けない身にとっては、もっとも身体に優しい映画でもある。
もしかしたらこの手の映画は、体調を崩した時によいものかも知れない。
(今年も後、一日。早く、カメと一緒に体調を整えたい)。

カメの病院

kame.jpg

カメの大きい方が、ここ3週間ほど極めて食が細くなっている。
以前のような活発な動きも見られない。
ふたりともよく泳ぎ、亀島へロッククライミングもしてよく遊んでいたのだが、、、。
(亀島の急斜面は登るのが楽しいらしく、上に到着するとすぐに水に飛び込みまた登り始める)。

甲羅の色艶も、小さい方に比べ鈍い。特にクリーム色の線の部分。
亀島の中に入ったきりの時間が長い。
大きな亀島の中に入れているヒーターにくっついて過ごすことが増えた。
水温は一定に管理しており、水も必ず毎日取り替えている。
ただ、以前使っていた紫外線照射ランプを立て続けに二つ割ってしまったため安全上の理由からも使用は辞めている。
そのかわり、うちで一番陽の射す窓辺に水槽を置いているので日光は晴れた日ならまず問題ない。
亀島も大きめのものを二つ置いており、無理して重ならなくとも各自で甲羅干しも出来る。
(そうしている時もあれば、2人で仲良く並んで干していたり、重なっていたり、その時々である、、、)。
片方の元気な方はあちこち動き回り甲羅干しもよくやっている。
大きい方は余り日光浴もすすんでやらずに島の中に篭ることが多くなった。
よく見ると、両者の大きさの差も縮まっている。

食べないのも含め、これはまずいと思い、別館で「カメ病院」を作ることにした。
水槽は以前使っていたもの。
これに、大きい方のカメを移す。
エサはこれまで使っていたものの最上位バージョンの「、、、スーパー~」というもの。
特にビタミンAとD3を強化したうえ、天然えびも高配合されているものだ。
それに別途、栄養剤。直接飲ませるわけにも行かないため、泳いでる水にそのまま混ぜることにした。
水に溶かして使う水溶性タイプである。
われわれが飲む栄養ドリンクと同じ匂いだ。色も。
更にこの水槽用の特別ヒーター。水温管理は特に気をつけたい。
水は勿論、清潔に保って、これで1週間ほど様子を見ようと思う。


うちのカメはふたりともそれぞれ娘の名前をつけている。
いま調子が心配なのは、長女カメである。

たまたま飼ったカメが、ゼニガメであったが、ラッキーだった。
その後、ホームセンターの動物売り場などに行くたびに、他の種類のカメで匂いのキツいものがかなり多いことに気づいた。
うちのカメは全く臭わないし、餌を適量与えていれば水も一日中それほど汚れない。
世話でこれまでほとんど負担に感じるところはなかった。

甲羅の造形は見飽きないし、仕草や様々な動きがじつに愛らしい。
かなりやんちゃで90°のロッククライミングも敢行するし、すばしっこい。
水槽の掃除で、少し外に置く場合など、どんどん走って行ってしまうため目が離せなかったのだが、、、。
いまは、大きい方はそうでもない。
やはり、食べないのが一番、気になる。

今日から、「カメ病院」で暫く調整しながら様子をみていきたい。


kame03.jpg小さい方の次女カメ
ふたつとも長女撮影。



フィツカラルド

FITZCARRALDO002.jpg

FITZCARRALDO
1982年

西ドイツ、ペルー製作
ヴェルナー・ヘルツォーク監督・脚本・製作
ポポル・ヴー音楽
トーマス・マウホ撮影

クラウス・キンスキー、、、ブライアン・スウィーニー・フィッツジェラルド(フィツカラルド)
クラウディア・カルディナーレ、、、モリー(フィツカラルドのパートナー)
ホセ・レーゴイ、、、ドン・アキリノ(大事業家)
パウル・ヒットシェル、、、パウル船長
ミゲル・アンヘル・フエンテス、、、チョロ機関士
ウェレケケ・エンリケ・ボホルケス、、、ウェレケケ料理人


呆れてモノも言えぬ映画である。
ヴェルナー・ヘルツォーク監督を立て続けに観たが、、、そう安々と観せてたまるかという悪意が伝わってくる。
「カスパー・ハウザーの謎 」は兎も角、「小人の饗宴 」といい、まともな神経で観る事は出来なかったが、これより遥かに大人しかった(爆。
一体何なんだ、、、としか言えない映画である!
(「ゾンビ」の方が遥かに身近に感じる)。

クラウス・キンスキーの純粋無垢な怪演は、そこいらの狂気や怪物など寄せ付けないスケールだ。
クラウディア・カルディナーレの太っ腹の大らかさと包容力も並外れている。その上綺麗だ。
しかし彼らが何をやりたくて何をなしたのかは分からない。
何だか壮大なハッピーエンドみたいに閉じてゆくが、どうなっちゃたのか、、、である。
ただ、後には、呆れた心地よい喪失感と爽快感を残した。
こんな映画は唯一無二であろう。(後にも先にも、、、真似すらできまい)。

フィツカラルドという人物、誰かに似ていると思いつつ見ていたが、どうやら「バカボンのパパ」なのだ!
だんだん似てくるというやつなのだ。どう見てもナスターシャ・キンスキーには似てない。

だいたい、出てくる人々皆が、ワケの分からぬ人ばかりなのである。
バカ田大学の同窓生なのである。
勿論、主人公が一番ワケが分からぬとしても、、、。

アマゾンの森の中にオペラ座を建てるんだ、、、って蛇や猿に聴かすのか?
オペラが好きでたまらないというところまでは、充分共感するが、何でそこに飛ぶのか?
兎も角、オペラを自らが呼び寄せ、そこで皆に?オペラを堪能させたいらしい。
自分で聴いていたのでは、だめなのか?
皆に?オペラを流行らせたいのか、オペラ座そのものを建てたいのか?
そのへんの情熱の源がいまひとつ判然としないまま、、、兎も角フィツカラルドは行く先々でオペラ、オペラと騒ぎながら、いつも蓄音機を持って歩いて、パーティの場でもお構いなくレコードをかける。
(なんせ、首狩り族のいる川を渡る際にも、、、船員の大半は恐れをなして逃げてしまったが、、、蓄音機でオペラを流してゆく人である。しばらくの間現地のパーカッションとオペラが奇妙に絡んで不気味に流れ続ける)。
社交界の人々からは面白がられつつ、敬遠される。
ただ、大富豪のドン・アキリノからは、興味をもたれ自分の船の購入を勧められた。
すぐにフィツカラルドはそれに飛びつき、モリーにお金を無心する。モリーは二つ返事でOKである。
モリーこそ、バカボンのママそのヒトである!
パパには常に賛成なのである。素晴らしいとしか言えない。
ちなみにその事業主はドン・アキリノの破産の方に賭けをしている。

このフィツカラルドという人、オペラ座建設のお金を稼ぐために鉄道を敷いてみたり、製氷事業を起こしてみたり、パートナーのモリーに大きな船を買ってもらってゴム取引のためにアマゾン奥地ぼ密林にまで探検に行き、首狩り族を使って山越しに船を引っ張り上げ隣の川に船を降ろすという、モーセでもやらない(まず思いつかない)芸当をやってのける。しかし何でそんな荒行やるのかの理由が飲み込めなかったのだが(他に方法はなかったのか?)、、、。妙にリアルなのだが、凄い密林に分け行ってみても「地獄の黙示録」のようなシリアスさや暗さは微塵もない。

彼の雇ったオランダ人船長も疑問は感じながらも終始フィツカラルドに忠実で協力的あり、コック長のウェレケケもなんやかんや言いながらもフィツカラルドのやることにぴったり寄り添い、チョロ機関士はかなり批判的であったがフィツカラルドの、でかい船を引っ張り山を乗り越え隣の川に浮かべるという案に「気に入ったぜ兄弟!」と飛びついて賛同する、、、!
ひたひたと船に弓矢や槍を持って迫ってきた首狩り族(先住民)たちも、フィツカラルドたちは彼らの伝説~白い船に絡む招神信仰を利用して仕事を手伝わせようとするが、呆気ないほど簡単に仕事を承諾する。
人海戦術で大変な労苦を重ね、滑車とロープで重い船を川から岸に上げ、山肌を這わせて頂上まで持ち上げ隣の川についに降ろすところまでゆく。ダイナマイトを使い彼らを怖がらせもしたが、全員で協力してやり遂げたのだ。
この達成感は半端なものではない。途中、首狩り族から作業中の犠牲者が出て、その場が異様な緊張に包まれ、彼らの顔のメイクも変わり、コック長や船長は何やら不吉な企みを感じもしたが、結局全ての作業が思うように終わり、その夜は船員、首狩り全員酒を交わしてやんややんやのお祭り騒ぎ、であった。
翌朝からゴムの森の開拓に乗り出すといったところであったか、、、。

しかし、実はこの仕事を利用したのは首狩り族の方であった。
先住民(首狩り族)がフィツカラルドたちに素直に協力したのは、船の絶対渡れない急流の悪霊を宥めるために手を貸したのである。見事その白い船は彼ら先住民によって入ってはならぬその激流に捧げものとして流されてしまう。
大慌てにフィツカラルドたちが船を止めようとするが、「もう手遅れだ」(船長)であった。
岩場にぶつかってボコボコになりながらも、何とかその急流を渡り切り、首狩り族たちは目的達成で笑顔満面である。
フィツカラルドも大苦労して単に行って帰ってきただけであったが、無事戻った。
ドン・アキリノも何故かご機嫌である。
「君の船を買い戻したい。事業の拡大の為船が直ぐに必要なんで」ということだ。
この人も勿論、バカ田大学出身だ。

最後は、そのボロボロの船にボートに乗って集まってきた楽士や歌手達が乗り込み、何とそこで見事なオペラが始まる。
ベッリーニの「清教徒」、、、ドイツものではなかった、、、。
それを観る岸辺の観衆は大喝采。
その中には当然、パトロンのモリーも花のような笑顔で迎えて、、、。
肝心のフィツカラルドときたら、葉巻を咥えて得意満面の笑顔でポーズをとっている。
取り寄せたばかりの豪華な椅子に体をもたせかけて。

ヴェルディの「リゴレット」も流れたが、オペラの曲の間を埋めるポポル・ヴーの音楽も効果的で独特の呪術性を醸していた。
凄い映画である。
鉄の製造も迫真のものがあったが、船の釣り上げとか、船の急流アクションとか、なかなか見られない本当の自然の姿、その破壊も小規模なものではない、、、。この監督ならではのものであろう。
CGの無いに等しい時期(実際CGは使っていない)よくここまでやったものだとほとほと感心するが、何より呆気にとられたのは、ナスターシャ・キンスキーのお父さんである。
一体何なのか?!
きっと自慢のお父さんであるに違いない。









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ゾンビ

DAWN OF THE DEAD 001

DAWN OF THE DEAD
ZOMBIE
1978年

アメリカ・イタリア合作

ジョージ・A・ロメロ監督
ゴブリン音楽

デビッド・エンゲ、、、スティーブン(テレビ局員、ヘリパイロット)
ケン・フォリー、、、ピーター(SWAT隊員)
スコット・H・ライニガー、、、ロジャー(SWAT隊員)
ゲイラン・ロス、、、フランシーン(テレビ局員、スティーブンの恋人)

ゾンビ映画の元祖。(この前に一作、ジョージ・A・ロメロ監督によるゾンビ映画があったが、ヒットにおいても実質的にこれが最初の傑作と言えるか)。
恐らくここに提示されたゾンビ像(属性)がこの後のゾンビ映画に暗黙のうちに引き継がれていったはず。
あのミラ・ジョヴォヴィッチ活躍する「バイオハザード」のゾンビまで、皆同じに見える。
異形の者~妖怪、フリークス、小人何れにも属さない~生命活動を停止しており、内部(内界・内面)を感じさせない、しかし人の死後という形態は維持しつつオブジェのような形で動き回る存在である。
その上、噛み付くだけでも人を殺してしまい(場合によっては跡形なく人肉を食べてしまったり)、その人間も死後ゾンビとして第二の人生?を歩み始めてしまう。


全米で死人が蘇って人を襲い、被害者も同じように人を襲う所謂、ゾンビ連鎖が巻き起こり3日が過ぎた。
事態は悪化の一途を辿っていた。
フィラデルフィアのテレビ局「WGON」のテレビマン、スティーブンとフランシーンは、安全な場所への避難を決意する。
フランシーンのお腹にはスティーブンの赤ちゃんもいた。
彼らはテレビ局のヘリをかっぱらい、SWAT隊員の友人2人も誘い4人で逃げる。

4人の行き着いた先はデパートであった。
ヘリで屋上に降り、確認するとゾンビはたくさんいたが、生活に必要な物品はここで全て調達できることが分かる。
ゾンビに充分注意を払い、そこを当面の拠点とすることにした。
ゾンビの動きは微妙であり、個々の動きの速さは問題ないが多数で一気に押し寄せてくると非常に危険となる。
兎も角、彼らは頭以外を撃たれてもたじろがないのだ。
取り囲まれたら、もう厳しい。
ゾンビは、どの映画でも、過去の習慣を無意識に(自動的に)繰り返して朦朧と彷徨っている。
ここに集まってくるゾンビは皆、買い物の想い出に浸った身体がやってきたのか。
「アイアムアヒーロー」はまさに買い物にやってきたゾンビと戦うドラマであった)。
しかし、獲物に食らいつくと鰐のように肉を貪る。実に痛そうだ。歯は確実に強化されているように見えるのだが、、、。
実際?どうなのか。

この映画では、このような事態となったら、人々はこう出てくるだろうというパタンをしっかり出してゆく。
ボロボロな理屈を捏ねる役に立たぬ専門家、野次馬以外の何者でもないマスコミ、制御不能の暴徒化した輩、そのこの時とばかりに殺戮・破壊を楽しむゾンビでない人間、仲間もゾンビ狩りをするうちに精神の安定を逸し気が触れ自滅してしまう者、自分たちのテリトリー~既得権に過剰に拘り、しなくてよい争いを呼び込みそれに呑み込まれてゆく者が出てくる、、、。
非常な事態に人間の本質が剥き出されてゆくという、、、。
多くのパニックもの映画で、一番怖いものは、人間でしたというパタンは実に多い。
最近、観たものでは「シャーク・ナイト」がまさにそれである。

物品強奪の感覚はなくなるだろうな、、、とは思う。
何でもその時に命を守る物は片っ端、利用・活用してゆかなければなるまい。
あるだろうなと思えるパタンは網羅されてゆく。

やはり、印象的なのは、「蘇らないように一生懸命頑張ってみるが、もしそうなったらお前の手で撃ち殺してくれ」とゾンビに噛まれ今際の際のピーターがロジャーに自分の死後を託すシーンである。
これは、全く同じパタンで、「バイオハザード」にもあった。
ゾンビ化したスティーブンが、彼しか知らない秘密のアジトに他のゾンビたちを引き連れて恋人のもとに帰ってきたところは、とても切なく無情を感じる。「もののあわれ」をも思ってしまったではないか。
ゾンビという不可思議な存在とは何なのか、、、。
何らかの力で腐ったまま歩き回る屍体である。
ロジャーが序盤に語る話に、「地獄が一杯になってしまったから、死者が地上を歩きだしたのさ」というものがあったが、これは妙に説得力があった。
ゴブリンのコミカルで奇妙に明るい音楽とともに、どうにもならない厳然とした不条理の現実が際立ってゆく。
(厳然として在る障害の象徴~悪夢とも捉えられる)。

悪夢というかあっけらかんと漂う終末感でもあろう。
世紀末を語るのが好きな人々も多いこのご時世だが、、、こんな感覚はある意味、スーパーフラットに取り込まれてしまっている気もする。
子供たちにとっては、コケの生えた都市伝説のひとつくらいのものかも知れない、、、。
ありふれたアニメの一コマとして馴染んでしまっているものかも知れない。

この作品の精気は、むかーしこれを観た世代にだけ感じられるものだろうか。
彼らにとっても色褪せてしまったものだろうか、、、。
少なくともわたしにとっては、よくできたクラシックとして未だに価値は感じられる。
フランシーンをヘリで逃がし、自分は自殺を図ろうとした矢先、夜空に晴れ間が射しその刹那に生き残ることを決めるロジャーの感情の流れなど、よく捉えられた作品である。

鮫映画で「ジョーズ」をおさえておくのと同じ理由で、これは、おさえておくべき一作だと思う。
DAWN OF THE DEAD 002


クラスター~ハルモニア


chinode.jpg「地の出」

これをロックには入れたくない。
現代音楽である。
敢えて言えばのはなし、、、。

身体をリセットしたい。
中庸にしたい。
ナチュラルにいや、ニュートラルにしたいというとき、、、

音楽が一番効果的かも知れない。
”クラスター”や”ハルモニア”のような、、、。
これ以上に自己主張のない音楽を知らない。

AQUAのような音である。いやちいさなそよ風か、、、。
自然が秘めている音源がいつしか漏れ聴こえてきたかのような音。
”Cluster & Eno 1977”のアルバムジャケットは、草叢から天に向けた一本のマイクの写真(アートワーク)である。

その通りの音である。
Harmonia の”Musik Von Harmonia”も気持ちいい、、、ジャケットは青い洗剤のポリタンクだ!
プラスチックで、ただ気持ち良い反復。

身を任せてたゆたう、、、。
遊星的郷愁に。
雨の夜が煌く。

ディーター・メビウスとローデリウスによるクラスター(結成当初はクラフトワークのコンラッド・シュニッツラーが中心人物として在籍していた)は、所謂、電子音楽の先駆的存在であった。初めての電子音楽のアーティストであった。
この後にどれだけのロック現代音楽の作家が続いたことか、、、。

そしてミヒャエル・ローター、ローデリウス、ディーター・メビウスによるハルモニア。
なんだ、、、ミヒャエル・ローターがいるとハルモニアで、いないとクラスターかい。
と、当時思ったがまさにその通りなのだ(笑。

クラフトワークの雇われメンバー同士で作ったミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーで、あの栄光の”NUE!”ノイ!が生まれる。
その後、ラ・デュッセルドルフに引き継がれ、これも更に気持ちいい。
確かに、ドラムの無機的リズムが刻まれるとハルモニアで、それがないとクラスターである。

クラスターは、アンビエントミュージック、ヒーリングミュージックの始祖となり、、、
ハルモニアは、典型的クラウトロックと言える心地よいミニマル・ミュージックであり後のパンクミュージックにも繋がってゆく。
無機質の魅惑。

昆虫の音楽。
あの優雅で優しいアゲハ蝶の。
または、地中で眠るカブトムシの幼虫の寝息。

いや、縞瑪瑙の夢。
晶結するトワイライトゾーン~
黄昏時にようこそ。


小人の饗宴

AUCH ZWERGE HABEN KLEIN ANGEFANGEN

AUCH ZWERGE HABEN KLEIN ANGEFANGEN
1970年
西ドイツ


ヴェルナー・ヘルツォーク監督・脚本

ヘルムート・ドーリンク
ゲルト・ギッケル
パウル・グラウアー
ギーゼル・ヘルトビヒ


物凄く耳に障る映画であった。
一番小さい年配の小人が絶えず笑っているのだが、その声が「紙うさぎロペ」の相手役アキラ先輩の声をうんと神経を逆撫でさせるトーンにスライドさせた声である。
ずっと笑っていて、こちらの気がオカシクナルほどのもの。
こういう効果を何と呼ぶのか、、、。

小人しか出てこない、
小人の社会である。
小人しかいないのだが、相対的に大きさは椅子や車やバイクとの関係で分かる。
確かに彼らは皺が深い感じはし、それそのものとして独特の個性的身体である。
それから一口に小人といっても体の大きさにかなり大きな違いがあることも分かった。
小人のなかでも小さい小人と大きめの小人がいた。
しかし、何で彼らはこんなにも笑うのだろう、、、。

100分以内で終わる映画であったが酷く長く感じ、観ていることが拷問に近い苦痛であった。
体のコンディションが最悪の時にこれを見てしまったわたしがバカであったが、流石にこたえた、、、。
ただ、モノを壊して散らかし大騒ぎをし、動物を虐待して(豚を殺したり猿を磔にしたり)植物に火をつけて盲目の小人仲間をいたぶって、、、等の映像が延々と続く。

であるから兎も角、長い。展開も何もない。同じ質の同じ密度の空間があっけらかんとあるだけ。
基本的に施設の中、、、ひとり何か悪さをして椅子に縛られている小人のいる部屋~どうやら騒ぎは彼を巡って起きているらしいが~とその外(納屋も含むが)の乱痴気騒ぎをしている所だけの限られた光景のみ。
トラックがひたすらエンジンを掛けられたまま無人で最小回転を空虚に続けている。
彼らの施設の所長が窓から呼びかける「秩序を取り戻せ」に対する彼らの返答である。
これがこの退屈極まりない世界の終わりのなさを示唆しているかのよう。

あと何分で終わるかそればかりを気にしながら、モニタを眺めていた。
最近、ほとんどなかった経験だ。
思い起こせば「エリア0」の時以来か、、、「ジェラシック・ワールド」の時も近いものであった。
しかし、本作は意図したものであり、まっとうに作ろうと思ってコケた作品ではない。
そこが厄介なところである。

狙って放置して撮って編集しているという感じだ。
役者たちは皆、アドリヴで演じているのだろう。
これになにやら取り決めがあるように思えない。
何か意味性が見えたりしたところで、カットが掛かり撮り直すこともあったかもしれない。
徹底して全く空疎で何もない映像である。
周到に意味性をこそぎ取った映像。
動作、所作、言動、風景全てが尽く虚無の場である。

すでに、ここにはヒエラルキーすらなく、ただ広がるのはスーパーフラットな行き着いた感覚である。
エントロピーの行き着いた果て、、、。
何かを生み出す可能性絶無の世界。
そこでは、あの気のおかしくなる乾ききった笑い声が只管響いているのだ。
ただ只管響き渡っているのだ、、、。

世界の行き着いた果てには、、、。

そう、われわれと相似形パラレル世界終焉後の蛇足世界の光景。


もう一生涯見直すことのない映画が、ひとつ増えた。






マルホランド・ドライブ

Mulholland Drive

Mulholland Drive
2001年

アメリカ・フランス合作

デヴィッド・リンチ監督

ナオミ・ワッツ、、、ベティ・エルムス/ダイアン・セルウィン(女優志望)
ローラ・ハリング、、、リタ/カミーラ・ローズ(女優志望)
アン・ミラー、、、ココ(ミセス・ルノワ)/ココ(アダムの母親)
ジャスティン・セロー、、、アダム・ケシャー(映画監督)
ダン・ヘダヤ、、、ヴィンチェンゾ・カスティリアーニ

イレイザー・ヘッドエレファント・マン以来ひさし振りにみた監督の映画。


非常に美しく残酷で哀しい映像であった。
妄想と現実(エピソード)と回想が深い愛憎とその後悔に染め上げられている。

一口に言えば「マルホランド・ドライブ」はダイアンの儚い夢。
そのなかで語られる「クラブ・シレンシオ」での舞台劇か。
シレンシオSilencio、、、お静かに~黙祷。
「これは全部まやかしです、、、バンドはいません、、、全て録音、テープです、、、」
歌手が出てきて悲しげに歌う。
「あなたはさよならを言って、私を置き去りにした。私は泣いている。一人泣いている」
ダイアンの心中をそのまま歌っていた。
ここで、2人の主人公ダイアンとカミーラはさめざめと泣く。
ここクラブ・シレンシオは境界である。
2人にとっての唯一の覚めた場である。

作品は非常に厳密にガジェットや象徴によってパズル状に組み込まれたいた。
青い色や光、白い煙、ランプの揺れどれも全てしっかり有意味な要素を担っている。
幾何学的なエッシャーの作品を観る思いがした。

その拘りの映像美のなかで際立つのがダイアンの底知れぬ後悔と悲しみと絶望である。
そしてダイアンのカミーラへの愛と憎しみと同一視である。
その感情を受け容れて観るととても自然な説得力ある流れを体験することになった。

別に監督の意向を理解する必要などない。
だが、自分の直感がどこかで絡み付けば、そのまま多層な流れに惹き込まれる。
そして、なるべく言葉に変えたくはない。
変換・還元してしまったなら、味気ないし残念である。

重層的な絡みはあっても、難解にしようと意図されてはいない。
謂わば、ダイアンの夢を極めて厳密に描写しようという文法で描ききった作品である。
それをそのまま味わい、解釈を当て嵌めるような野暮な真似はしたくない気持ちにさせる美学がある。


やはり映像の詩的な美しさだ。
ディテールの禍々しい鮮やかさだ。
また主演女優の2人の哀しい美しさだ。
そこに精神分析的な手法(心理描写)が巧みに活かされてゆく。

3回に渡る、ウィンキーズというダイナーでのシーンひとつとっても興味深い。
店の裏手に何か空恐ろしい顔の男が潜んでいる、という夢は明らかに深く後悔する(カミーラ殺害の)罪の意識の形象であろう。それを代役の男たちで演じさせている。何やら判然としない恐ろしい男の顔は自責の念そのものの彼女自らの顔にほかならない。2度目は、ダイアンとカミーラが警察に実際にマルホランドで事故があったかどうかを電話して確かめるシーンで、そこで2人は食事もしている。これもダイアンの夢~妄想のひとつであるが、カミーラがウェイトレスの名札「ダイアン」を見るうちに思い出す。これをきっかけに彼女らはあるアパートへ行き記憶の定かでないカミーラの本当の部屋らしき場所で女性の腐乱死体を見つける。ここは夢を覚醒へと揺り動かす危ういところ。しかしその後、2人の性的関係で夢の状態を保つ。3度目に出るダイアンがカミーラ殺害を殺し屋に金で頼むシーンは現実のエピソードとなる。動かしようのない残酷な事実として。このひとつの場を次元の異なるシーンとして重ねて構成して全編が出来ている。

テンガロンハットのカウボーイの死神や青い箱から現れる小人なども出るべくして出てくる。
ここにノイズがほとんど見当たらない。
その意味でも息苦しくもある映画だ。



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ファンタスティック・プラネット

La Planète sauvage

La Planète sauvage
Fantastic Planet
1973年
フランス・チェコスロヴァキア合作

ステファン・ウル『オム族がいっぱい』(Oms en Série)原作
ルネ・ラルー監督・脚本
ローラン・トポール脚本


イラストレーター、ローラン・トポールのイラストを切り絵アニメ映画にした。
セル画とは、全く違う文法である。動きと流れが独特のリズムである。
異なる表現形式を見た思いがする。
斬新で既視感は、ほとんどないのに郷愁を感じる、、、そして紙芝居にも通じる癖のある表現だ。
オム族hommes(人間)やドラーグ族の顔のアップになる度、ほぼ静止画状態となるところがまた印象深い。
オム族は形の上でそのまま人間であり、ドラーグ族はその10倍位以上の身長を持ち、彼らの1週間はオム族の1年に匹敵する。
やはり大きいものの方が長生きなのだ。その間、オム族は頻繁に子供を作って増えてゆく。
ドラーグ族によるオム族の駆除も彼らの社会問題として度々会議の議題に載せられているところも面白い。
物語は、飼い主のドラーグ族の少女にTerreテールと名付けられたオム族の赤ん坊が壮年を迎えるまでの、両族間に繰り広げられた奇妙な葛藤と攻防の世界を彼の目から描いていく。
それ程細やかな動きではないため、逆に想像力を働かせる必要があり、かえって意識的な鑑賞が出来た。

舞台であるイガム星に棲む様々な動物も奇想天外と言ってしまえばそれまでだが、独特の癖があり、米英や日本からはなかなか出てきそうもない形体ばかりであった。特に大きな鳥状の化物の形体は飛んでおり、オム族(人間)に殺されたあとの絶命の仕方もユーモラスで、他の生物やドラーグ族の放ったオム族殺戮兵器の形状や動きなども、なる程と思いつつ吸い込まれるように見入ってしまう。
オム族を玉がコロコロ転がって貼り付けていったり、殺虫ガスを振りまくタブレットみたなものを次々に撃ちだしたり、掃除機で吸い取っていったり、スプレーを撒いて回るロケットとか、、、戦いというものではなくこれは駆除だ。
やはり虫相手である(笑。兵器という感じのものは出てこない。

シーンとして一番面白かったのは、ドラーグ族が4人並んで座って瞑想に耽っている場面である。
彼らの身体の形や模様、色までが、その瞑想のリズムに同調して、、、というより瞑想そのものの変化として、生成されている画像~イメージには、ちょっと驚き恐れ入った。
奇妙さにおいては、やはりヒエロニムス・ボッシュの系譜である。独特の感触(まるで異星の文化)を感じる。
ディズニーやジブリアニメにばかりに親しんでいては、まずいぞと思わせるに充分である。
特に3Dの力技でド迫力で攻めてくる近頃のディズニーのある意味、対極に見える。
大変平面的で、シンプルなのに味わい深い。

確かにアニメーションは、その形式を問わず、作風は幾つもある。
ロシア作家のユーリ・ノルシュテインも切り絵による動画であった。
これは、極めて詩的な作品ばかりであったが、、、タルコフスキーを生んだ国である。まさにそういう作品であった。
また是非、近いうちに見直したい。
山村浩二作のアニメーション映画『カフカ 田舎医者』も鮮烈なアニメーションであった。
あの細かく動勢そのもの、生きた線が作ったような作品、、、思い出した、、、。

ルネ・ラルー監督~ローラン・トポールイラストの本作品はそれらとも、全く異なるセンスのものである。
ありそうで、滅多に見ない映像作品と言える。
形式的な面ばかりに目が行くが、、、その内容・要素をとっても、どことなくユーモアや違和感、そしてリアリティがあって面白い。

ドラーグ族の生態などとても奇妙で惹かれるものだが、瞑想時の目の変容にとても説得力を覚えた。
昆虫的な魅力である。
巨大な彼らにとって、オム族(人間)は下等な虫けらに過ぎず、ペットに飼われていたり駆逐されたりする対象であったが、彼らに飼われていた人間が彼らの学習用レシーバーから知識を吸収し、それを元にオム族用の身体に最適化したテクノロジーをもって組織的に機械を開発し、ついにロケットまで作るに至る。
彼らは他の星~ファンタスティック・プラネットに着陸し、そこで支配者ドラーグ人の生殖の秘密を握り、その場を破壊し彼らを存亡の危機にまで陥れる。
それまではオム族(人間)を粛清対象としか見なかったドラーグ族をオム族との和平交渉に引っ張り出す。

階級闘争そのものである。
か弱いオム族(人間)が、権力側の知と技術を利用して階級転覆を見事成功させた。


知識体系をもって文化を築いているドラーグ族が瞑想に多くの時間を費やしているのが興味深い。
高い科学力や殺傷機器の開発力をもつ彼らのもっとも力を入れているのが瞑想時間~儀式なのだ。
どうやら、他の星~ファンタスティック・プラネットにも精神だけ瞑想状態のうちにやってきて生殖活動を行っていたようであった。
(体だけの巨大人体がギリシャ彫刻のように沢山たっていて、そこに球体状に乗り移ってダンスするという、奇想天外というかシュルレアリスティカルな!)
そこをオム族に突かれたのだった。逆転勝利である。

オム族は新しい人工衛星Terreテール(地球)に移り住むことになったようだ。

La Planète sauvage002

見て損のない体験が出来た。

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カスパー・ハウザーの謎

Jeder fur sich und Gott gegen Alle

Jeder fur sich und Gott gegen Alle
1975年
西ドイツ

ヴェルナー・ヘルツォーク監督・脚本


ブルーノ・S,、、、カスパー・ハウザー
ヴァルター・ラーデンガスト、、、ダウマー教授
ブリジット・ミラ、、、ケイテ(家政婦)
ハンス・ムゼウス、、、ランコニ
フロリアン・フリッケ(ポポル・ヴーのリーダー)、、、盲目のピアニスト
ミカエル・クロエシャー、、、 スタンホープ卿(イギリス人)

19Cである。ニュルンベルクに独りの特異な少年が突然、現れる。
何を聞いても「ヴァイス・ニヒト」分からない、と目をパッチリ開けたまま、半ば硬直した身体で応える。
しっかり立つこともままならず、自分で歩く事も出来ない。(したことがないと見える)。
パンと水以外は摂ったことがないためか、他の食材は口に入れても吐き出してしまう。
自律神経系~不随意運動(神経)に障害はないようだ。
所謂、自然で無意識に流れる身体的習慣行為がほとんど(文化的に)獲得されていない。
(このことは、われわれの身体の日常性とは、われわれの制度そのものだということを改めて逆照射する)。
つまり、通常の生活を送っていれば自ずと身につく身体習慣が身についていないその意味で特殊な、、、、
そんな少年、、、が街路に発見されたのだ。

やはり、今現在とはパラダイムが違う。
まだ然程厳密に、遅滞と健常という言語的に峻厳する概念化が徹底されていない。
今であったらこんな程度では済まされない。
その違いは、こどもの感性に無意識的に顕になる。
この映画でのこどもたちは、ちょっと遅れてものを覚え始めたヒトくらいにしか彼を見ていない。
彼は毛色の変わったひとりの友達に過ぎない。非常に柔らかい対応である。
今であれば、親~世間の無意識(勿論、意識も)がストレートにこどもの行為に露呈する。きっと酷いイジメとなっている。
一般の家庭で(篤志家ではあろうが)、椅子への座り方やスープの食べ方、パンや水も与えられ、紙にペンで文字を書く事も教えてもらう。こどもが兎も角、一緒に緩やかな時間を共に過ごす。
そして、ことばを初めて獲得してゆく。
ある意味、ヘレンケラーのように、一番の見所かと思ったのだが、いまひとつピンと来ないうちに、妙に厭世的な(社会批判のパロディみたいな)感想が漏れたりして、ちょっと間を飛ばしているような気がしたが、、、。
自分の言葉を喋りだすところは、まさに役者の力を感じるところでもあったが、、、そこからの過程が飛んでいる気がする。
余り言語の生成の現場に力点を置く映画にするつもりはなかったか。


今であれば彼は機械的にその専門施設へ送致されるであろうが、こんなケースではどれだけ好奇の的にされるか分からない。
研究対象~資料として。
実際、幼い頃暗い地下室?に閉じ込められていたためか、暗闇の視力が尋常ではなかったようだ。
発見時は麻痺状態であったが、寧ろ感覚的な鋭さが異様に目立ってきたらしい。
確かにここでも、見物客は次々やってくる。
この辺は「エレファントマン」と人気を二分するか(笑。
市の予算の負担軽減から、見世物小屋に送られてからも、実に真っ当な紹介のされかたである。
見世物というよりショーとして成立していた。
カスパーは確かに微妙で不機嫌な表情である。
悪童が鶏で脅したり、そうした悪戯は確かにあるが、度を越しているとは思えない。新参者は大方それくらいの歓迎は受ける。
その分、淡々とした愛情もかけられている。特にケイテの距離感は素晴らしい。
彼を利用しようとする上流階級がいるのは確かだ。
彼の調書を万全のモノにすることだけに掛けている男もいたが、それも何処にでもいる。
鬱陶しいにしても、彼の苦痛は実存の悩みであり、珍しくもない。


「、、、あそこ(牢獄)にいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、経験しないですんだろうに・・・・。」

この彼の感慨は異なるものを認めない社会に対する憤りなどではない。
筋違いである。
特異な出自により翻弄された運命に対する嘆きである。
「あの男(彼を地下牢に閉じ込め、その後外界に置き去りにした男)はどうして私を外へ連れ出したりしたんでしょう。」というように、その何者かに対するカスパーの怒りの問いでもあろう。恐らく彼が全てを握っており、カスパーの殺害実行犯でもあろう。
(つまり出自の秘密が明かされるのを恐れたバーデン公が差し向けた刺客こそ彼であっただろう)。

その特殊性はあるが、考えてみればわれわれは誰だってその度合いの差こそあれ特殊な存在で在らざるを得ないのである。
カスパーレベルの知的ポテンシャルと感性をもって、思春期に上記のような内面発露をしない者の方が異様であろう。
そこにちょっと出遅れ感があって、悔しいみたいなものも、、、これについては、至って普通であり、寧ろ年相応のところまで言語(概念)~精神性をもってきたカスパーのやはり血筋の良さと高い能力をこそ賞賛すべき部分か。

制度が他者を認めないなどというのは、トートロジカルな言い回しに過ぎず、実情を見ればこれも度合いの問題で、結構風穴も空いており、音楽~彼はピアノ(モーツァルト)まで練習し、想像した物語を本にしようと書いたりもしている。自己を言語により再構築し情緒を沸き立たせ認識を広げる、環境的には恵まれているのではないか?結構、好き放題な行動も出来て自由な意見も尊重されている。恐らくそれが過ぎて スタンホープ卿に嫌がられていたような、、、。
彼にとり不幸だったのは、彼の名前が各方面に徒らに知れ渡ってしまったことが災いして、その存在を消さねばならぬ者に確実に消去されてしまったことだ。こればかりは、彼の保護者、ダウマー教授しかいまい、、、が万全の策を講じて守る必要があったはずだが。
そこが酷く無策で不甲斐ない限りである。

わたしとしては、何処にどういう形でポポル・ヴーが関わっているのかに関心が向いてしまった。
確かにこの監督の他の作品のクレジットを見ると、音楽:ポポル・ヴーとある。
本作では、リーダーが出ているということで、何とか調べたら盲目のピアニスト役ではないか、、、適所である。
しっかり尺をとって写っているのには、何か嬉しさを感じてしまった。

クラフトワークカンの二大巨匠は別として、タンジェリンドリームとクラウスシュルツの流れとも異なり、ジャーマンロックの雄として君臨し続けて長いグルグル、アモンデュール、ポポル・ヴーである。
そのメンバーの顔をこうして役者として見ることができたのは、グリコのオマケ的な得した気分になった。


うん、余計なことを考えず、もう一度見直す作品に思えた。特にことばを喋りだした後辺りからの流れを、、、。
(ポポル・ヴー関係でこの映画評にも当たっている内に、ハンで押したように違う者を認めない社会を断罪する論調のものが多く見られ、驚いた。そんな場面があっただろうか。何に反応したのか。カスパーの言葉からというより、寧ろ彼らのカスパーに対する差別意識が投影しただけではないのか。それはそれとして、日常生活で、本当に他者を受容している人が沢山いるのなら今の社会、実質的にはもっと過ごしやすくなってはいまいか、、、)


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風邪を引いて寝ていると~君の名は。

Enceladus001.jpg

水の一面における汗を実感しているところ、、、。
「Aqua~水」にある大変瑞々しく清らかなイメージの水は心地よく生きるためになくてはならない水である。
わたしはその水に浸かろうとしながらも池に溺れそうな感覚で起きたとき、寝汗でびっしょりであった。
堪らず着替え、朝食を1人で先に採り、、、結構時間がかかった、、、また寝ようとしたが、その前に何か書いておこうかと思い直した。

やはりタレスの説は、実感として感得しやすい。
このような体調のときは美味しいミネラルウォーターを飲みたくなる。
どうにもならないとき、まずは美味しい水を飲みたい。
すると水が根源であることを実感する。
水の存在の可能性は、生命の存在の可能性である。(ハビタブル・ゾーン)
水が無くなればあらゆる生命は死滅する。休眠状態であっても再生の場が訪れない。
そんな歴史もわれわれの近傍にあったようだ、、、太古の海、、、。

世界の様々な対立を超え多額の費用を拠出しても協力を図り、エンケラドスやエウロパ、、、
プロキシマ星bに、、、求めるものは何か、、、。
われわれは水から生まれ、絶えず水に誘われてゆく。
われわれの記憶は、、、そのまま連なって、、、
宇宙の果てまで飛んでゆく気だ。
きっと、、、。


そこで問うのか、、、「君の名は。」


中断
寝てしまった(笑。

ハーブティが美味しい。
風邪で兎も角、グロッキーなときは、、、
ジンジャーやシナモン系よりローズヒップが気持ち良い。

しかし汗がとめどなく出てゆく感じは、静かな(少しオーバーか?)カタストロフである。
ついでにひと風呂浴びてスッキリ寝たい。
(また寝るのか?)
いまなら幾らでも眠れそうな気がする、、、。

確かに育児は無理が前提となる。
これからは、彼女らに任せるところを増やす方法を取ってゆくことにする。
こればかりは、試行錯誤だ。
反復次第だ。

恐らく、プロキシマ星bみたいなアイボールアースであると、紫外線フレアの激烈な影響は避けられないはず。
窒素固定にそれは必要であるが、その後の雲~大気による保護がなければ化合物への生成発展に続かない。
恒星との距離から朝夕ロックされてはいても、流れは有り得る。対流と海流。(両方でなくてもどちらか)。
それから恒星が赤色矮性であることから時間が保証されている。
(いまやわれわれの太陽は後半分の命となった)。
反復が何かを生んでいる可能性は高い。
そうだ、どこにおいても時間を超えて、反復は起きている。
反復こそが絶対的なものだ。
そこに差異が生じる、、、。
書き換えも起こる!


どうやら「君の名は。」に拘りたいらしい(笑。


兎も角、寝よう。
あのアニメも寝てから始まった(爆。





シャーク・ナイト

Shark Night001

Shark Night 3D
2011年


デヴィッド・R・エリス監督
「デッドコースター」の監督である。
監督最後の作品


サラ・パクストン
ダスティン・ミリガン
クリス・カーマック
キャサリン・マクフィー


アニマトロニクスと3DCG技術がかなり駆使されている。
鮫の出てくるものではかなり真っ当な映画だと思う。

「ジョーズ」以外は、鮫ものは何というか2つや3つ頭があったりする荒唐無稽で話もむちゃくちゃなものが多いが、これは破綻もなくよく出来ている。例えどんなに突飛なものでも良いのだが、ディテールが出来ていないと、話に乗れない。
ダブルヘッド・ジョーズとかトリプルヘッド・ジョーズなどは、そこがストーリー的にも演出の上からも模型の造形自体にも欠けていた。特に問題なのは、鮫の造形であり場面ごとの仕上がりの度合いが異なりすぎていてシーンが繋がらない出来具合であった。
こちらは、専門家を製作スタッフに入れて精確さに拘っている。(ダブルやトリプルヘッドでは正確さも何もないが、リアルさは追求出来るはず)。アニマトロニクスと3DCG技術を複合させて、シーンの異なる鮫の造形をシームレスにする細心の注意を払っている。
監督は子役~スタントマンから監督になった人だそうだが、全体のまとまりを重視した作りが窺える。(非常に手際の良い人であったらしい。所謂職人タイプだ)。

話の特徴は、仕掛け人がショーと呼ぶ、本当の鮫に食い殺される人間の光景をネット配信するという、本当にあっても不思議とは言えないただ徒らに過激な刺激を求めてエスカレートする愚民の需要に応えたものというところか。警官までもが一味でありそれで一儲けしてやる、と居直っている始末。
暴れん坊の鮫が勝手に人を襲うのではなく、鮫はカメラをつけられ利用されているだけで、ここではクロスビー湖にバカンスにやってきた大学生がその極悪人たちの餌食となる。湖である。彼らは海水浴客ではない。
そこは、塩水湖ではあるが、通常いるはずもない鮫が何種類も、、、見たところ少なくとも4種類は、、、生息していた。
そんなことは知るはずもない学生たちがボートなどで夢中で遊んでいるうちに、ひとりまたひとりと餌食になってゆく、、、。
これ自体はお馴染みのパターンではあるが、すぐに死んでしまう者と生き残ってその後の展開に深く絡んでゆく者など、犠牲になり方にバリエーションがあり、飽きさせない。
そのへんは単なるパニック映画より、キャストも皆充分に演技をする場を与えられ活かされている。
勿論、鮫は仕掛け人が様々な種類を番組用に捉えてきては、その湖に放していたのだ。
このアイデアはなかなか時勢に沿ったもので、違和感を感じるものではなかった。

つまり、全く有り得ない題材で、ほとんど覚束無い素材をもって作られたパニック映画とは異なり、入り込める。
ただ、最初のあたりの青春グラフィティ風の入り方が、自然であってもわたしには苦手で引いて観てしまったのだが、途中からこれは最初の雰囲気のまま、青春お楽しみ映画なら良かったと思えてきてしまった。
何故なら、登場する大学生が皆、友達思いのいい人であるからだ。
(その他のパニック映画では、余り殺されたからといって同情するキャラに出会うことはない。ただ、痛そうと感じることはあるが)。
ちょっと犠牲にするには可哀想に思えてくる。そこが狙いと言われれば、そのとおりであろうが。
悪人は思いっきり悪く、その対比で描くにはこれしかないだろう。
リーダーは仲間を躊躇いもなく殺していたが、なる程鮫が処分してしまうから死体処理には困らないことを実感した。
特にわたしにとってのヒントにはならないが、、、。
そこが何故か印象に残った。

最後には、予定調和的に悪は身を滅ぼし、、、自分の放った鮫に自ら喰われ、、、主人公カップルだけが生き残るというものであった。

俗に言うB級映画というポジションとなろうが、こういう映画を見たい時は、ただもう感動の嵐に打たれたいとか、新たな認識を得て愕然としたいとか、難解でありえない世界に浸ってみたいという気分~コンディションではないときである。
日本人がTVの水戸黄門を見続けてきた理由にも重なる。

きちんと作法を守り、予定調和に向かって話を丁寧に進めてゆく安心感とその枠内でのハラハラドキドキ~ここでは鮫に喰われるべく喰われ最終的に悪は倒され主人公は助かりほっと空を見上げる(笑。
そこが手際よく、きちんと作られていればこういう映画は時折観たくなるものだ。
恐らく役者にとってもこのような映画は必要だと思われる。(A級に出られる役者は限られているし)。
「レヴェナント: 蘇えりし者 」級の大作映画はやはりこちらのコンディションも整えておく必要がある。
デヴィッド・リンチみたいな作家なら、コンディション悪くても、体質的に大丈夫なのだが(笑。

興行収入もこの監督のものはすこぶる良い。
特に「Final Destination 」シリーズである。
「カイト/KITE」の監督を引き受けヨハネスブルグで撮影準備中に急死して、その後を他の監督が引き継ぎ完成させたが、ちょっとそのまま見る気がせず、ウェブ上で確認すると、散々な評価でまともに見られるものではなかった。
エンターテイメント作りは、職人芸的にまとめあげる手腕が、まず必要だと思われる。
60歳というのは、早すぎた。
結局、これが遺作か、、、。

それでは、惜しい。
余りにそこそこ過ぎる。
もうひとヒット狙いたいものだった、と思うが。


人生、突然中断されることは、誰においても有り得る。
文字通り中断である。
終了ではない。勿論、完了ではない。
中断であろうと(原理的には中断でしかないが)、自分にとってはもう完了と思えるところまでは、生きたいものだ。
しぶとく(笑。


グラス・ハウス

The Glass House001
The Glass House
2001年
アメリカ
ダニエル・サックハイム監督

リーリー・ソビエスキー、、、ルビー・ベイカー(女子高生)
ダイアン・レイン、、、エリン・グラス(新しい母親)
ステラン・スカルスガルド、、、テリー・グラス(新しい父親)



ストーリーは至極単純なもの。
風邪をひいて寝ながら見れるものを選んで見た。
TV録画であるから、カットも多いはず。
しかし、複雑な映画ではないので、それで感想が変わるとは思えない。

16歳と11歳の子供が、両親の事故死により、何と隣に以前住んでいた夫婦に引き取られる。
そんなことあるのか、、、弁護士までついている。
実はその夫婦がその家の財産を目当てに、ふたりの子供の両親を事故死に見せかけ殺害していた。

思いもかけないほどの豪邸でロケーションもよい。
そこに引き取られ、彼ら(いや、姉)は次第に違和感を深め、矛盾に気づく。

16歳ともなれば、しっかり育ってきていれば、自我ももち判断力もある。
偽善者もちゃんと見分ける。
この子はとても健康な子に思える。
だからまっとうに、反抗も出来る。
これがとても大事なことだ。

疑問を抱き、それを調べ、嘘を見抜き、そこから逃れることを試行錯誤する。
逃げ切れないと判断したところで復讐に転じ、見事それをやり遂げる。
アッパレである。(張本か?)

理想的ではないか。
これがこの11歳ひとり息子という場合では、完全にこの夫婦のいいように操られ金だけ騙し取られて、良くって施設にでも入れられておしまいだろう。
この16歳の姉の存在である。
勿論、この姉あってのこの映画だから当然なのだが。

この作品は設定もありがちで最初から筋も読める。
かと言ってそれ以外に何を見せるという訳ではない。
結局、この元お隣夫婦とこの姉との攻防戦それ自体を楽しむ映画である。
最後にそれなりのカタルシスがやって来る。
カタルシスは精神浄化作用がある。
そのため「カタルシス」なのだが、現代においては熱を出したり下痢をすればすぐに薬で抑えてしまう。
心的に荒れ狂う怒りも制度的(親の権威の下)に無意識下に押し込めてしまう。
皆、深い病を抱えもつようになる。
幸いこの主人公の少女は親の虐待(威圧的で分裂病的な押し付け)も受けず、すくすくと育っていたようだ。
こういう普通に自分の感覚でものが判断出来る子は、何か大変な事態に追い込まれても気丈にやってゆける。
自分の感覚や感情を否定されて生きてきた者は、精神の域が低いためちょっとしたピンチですぐ破綻してしまう。
自分がないのだから、礎になるものが無い。


歴史的にもこれまで描かれ続けてきた壮大な「戦争絵画」や「戦争譚」はカタルシス機能を担う。
システィーナ礼拝堂の天井画や「最後の審判」を描いたミケランジェロは、どれだけの人をカタルシス=法悦に呑み込んだか。
(しかしこれも「聖ゲオルギオスの龍退治」などあからさまに異教弾圧、一神教の強化に方向性が操作される流れも出てくる)。
映画についても戦争・サスペンス・アクションものはことごとくカタルシス機能を果たしている。
敵は単純に厚みのない悪=外部の者(龍であったり)であり、話は単純な方がよい。
(敵に内面があったら殺せない)。

しかしこの映画は、16歳の少女が、まだ何だか物事が分かっていない弟を庇いつつ、やられたらやり返すレベルで戦う。
であるから、「キック・アス」みたいに、バズーガ砲で相手を吹き飛ばす爽快さには至らない。
もっと、こぢんまりして現実的である。
パトカーでその悪辣極まりないゴロツキを轢き殺すに留まる。
それまで何度も脱走や工作を繰り返すが惜しいところで邪魔され捕まえられてきて、散々悪口などを吹聴されてきたこともある。
最後は確かにスッキリして健康的だ!
だが、刺激的な場面を映画でたっぷり体験してきた感覚にとっては、呆気ない。
特にホラーだ。あれは、下手をすると外傷経験にもなりかねない(あれはカタルシスではない。毒だ)。



何というか、映像の流れがTVドラマタッチであった。
日本の2時間ドラマを思い起こす。
ドラマならすんなり分かる設定と映像であった。





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ギフト

The Gift001

The Gift
2000年
アメリカ

サム・ライミ監督


ケイト・ブランシェット、、、アニー(カード占い師)
ジョバンニ・リビシ、、、バディー(精神を病む自動車整備工)
キアヌ・リーヴス、、、ドニー(DV男)
ケイティ・ホームズ、、、ジェシカ(街の名士の娘)

「天賦の才」である。


このように何かが見えてしまう人は確かにいるようだ。
吉本隆明が説くところでは、受胎5ヶ月目から獲得する胎児の内的コミュニケーション(言語以前のコミュニケーション)能力をそのまま鋭敏化した人がそのような能力を形成しうる、という。
カードはその能力を発動するためのガジェットか。
何にでも、スウィッチが必要である。
つまり、オフのための。
日常生活の中で常に見えてしまってきては、生活者~人として破綻してしまう。

主人公のアニーは夫を事故で亡くし3人の男の子を女手一つで育てていた。
生活費の足しに、商売(占いの商売は禁じられている)としてではなく、お礼という形で金品をもらいカード占いをしている。
しかし、見た限りでは寧ろ精神カウンセラーに近いことをしている。
だが、ジェシカの失踪を巡り、「天賦の才」が炸裂する。
(しかし、この能力、自分を寧ろ生き難くする厄介なものでもある。危険ですらある。実際殺されかけている)。

来るはずのない祖母がりんごを持って唐突に現れ、すぐに嵐が来ることを告げ「あなたの能力を活かすのよ」と言って消える。
最後には、自殺したバディーがハンカチを返し「いつまでもこの街の人々の救いになってあげてください」と言って消える。
まさに「天賦の才」を大切に活かしなさいと言いに来たのだが、、、。(片田舎の保守的環境でカード占いをやっていたら、当然風当たりは強い)。
この辺の現象は夢の中では誰にでもありうるにしても、ここではリンゴやハンカチの物体は現実に残されている。
透視能力や予知能力に留まらない、一種の霊能力だろうか。
白い百合が花を手に取った瞬間黒く枯れてしまったり、蛇口から垂れる水滴が血に変わるところなどは、何とも言えないボーダーの現象であるが。

この辺の撮り方~演出は、細かい場面で効いており、流れ全体の緊張感を次第に高めてゆく。
風景の撮り方、幻視など、この監督特有のダークで深みのある光景である。
しかし、場面の絵が滑らかに繋がっていないと見える部分が幾つかあった。絵が繋がらないのだ。
これは、映画が様々な場面を前後して撮るところからくるものであろう。が、編集時にチェックはするべきだ。

わたしがこの映画で感じたことは、人との関係をこのような特殊能力を介して行うことの、難しさ大変さ、である。
小さな街ほど、違う者を認めない。
しかもその能力、自分自身に対しては使えないとのこと。
自分の欲得に使えれば、わたしなら株でボロ儲けし、ビバリーヒルズに引っ越すが。
占いの顧客もきっと気前がよい(笑。

この映画のもうひとりの主役バディーの行動~言動は、大変説得力があった。
彼がいなかったら、随分フラットな映画となっていたはず。
しかし彼のような人の相談に乗るとなれば、中途半端は許されない。
そしてかなりの長期戦を覚悟してかからなければならない。
ここでのアニーのバディーに対する接し方は、彼に幼少期のことを思い出させ考えさせるやり方も含め、適切だったと思うが、多忙さから彼の退っ引きならない事態に関われなかったことは悲劇であった。
こういったケースは通常、精神科医でもなかなか手に負えない。

息子が亡き父親の写真を観て寝ていたことを彼のベッドで確認する。
彼は学校でよく喧嘩しており、家でも何も喋らない、こころにえも言われぬ衝動を抱えていた理由を彼女は知る。
翌日、4人で父親の墓参りをする。
その彼が母親に抱きつく。
ずっと続いていた暗い光景が一気に晴れ渡り、これから先に希望を感じさせるところで終わる。


ケイト・ブランシェットとジョバンニ・リビシの演技がこの映画を支えていた。
この2人が別の役者であったら、、、かなり厳しかったかも知れない。
音楽も的確な演出効果を控えめに醸していた。
興行収入はかなり良かったようだ。
成功作である。




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今年一番の風邪をひく~シンプルに暮らす

La invención de Cronos002

今日は一日風邪で喉が痛み、寝ている。
ただ、寝ていて何もしていない。
こんなことは、久しぶりだ。

ここ3年間くらいは一度もなかった。
咳込が酷いため、やはり寝ている。
辛うじてベットに座ってほんの時折、キーを打ってブログを書いてみる、、、。

そんな生活であれば、3記事くらいは毎日アップ出来そうに思えた。
普段は家事で午前中は何もできない(笑。
今日は、何もやらないと、決めていた分、時間の余裕~遊びが出来た、というところか。

時間は何とでもなる。
何をどういう順番に行うかのプログラム組立も必要だが、何をやらなくても良いかを選別することも大事であろう。
最近、わたしは、N-1の志向で物事にあたっている。

それでしだいに、シンプル化を図りたい。
アランドロンの「サムライ」を観て実感したところもかなりある。
TVでも、極限的に物を持たない人々の暮らしぶりを紹介する番組があった。

物を持たないということは、移動がし易い。
ノマド志向である。
それだけではない。

カーテンやテーブルやベッドなどの下や脇に盗聴器でも付けられたら、物でごった返した環境下で異変を察知するなどほぼ不可能である。一時期よくハブや電源コンセントや引き込み口に内蔵するのが流行ったようだ。
確かにそれなら、電気の供給に不安はない。(しかしそれは、電気屋さんの仕事ではないか、、、いつ誰がやるのか?)

風邪が治ったら、アランドロンの「サムライ」に学ぶ片付け術でも考えてみたい。
わたしに出来ればの話である。
以前引越しの際、まだ独身であった頃、6人家族の引越しより遥かに物が多いと業者に愚痴られたものだ。

そもそも独身コースという標準コースを決め付けるのが変だ。余りにフレキシビリティがない。
クライアントは皆、別なのだ。
とは言え、荷物が多すぎることが良いとも、わたし自身思えなくなってきた今日この頃、、、。


暮れだからとか、一切関係ないが、少し捨てる覚悟を決めて、寝ている。
くれぐれも、モノの場所移動に終わらぬようにしたい。
空白の場所が出来たら、きっと嬉しい。


そこに何が立ちあがるか、である。
違う歯車に連結してみたい。
(吸血鬼にならぬ程度に(笑)。


さて、おやすみなさい♡





透明人間

Memoirs of an Invisible Man001

Memoirs of an Invisible Man
1993年
アメリカ

H・F・セイント『透明人間の告白』原作
ジョン・カーペンター監督

特にジョン・カーペンターという感じはしなかった。
『ダーク・スター』 はどうでもよいとして、『ジョン・カーペンターの要塞警察』 、『遊星からの物体X』『ゼイリブ』 などは、かなりショッキングでメリハリがあり、楽しめるものであった。
しかしこの作品は、それらに比べると、特に彼でなければ作れないと感じる出来でもない。
コメディ作品であろうが、いまひとつ吹っ切れない。
もう少し爽快感を出せたら良かったと思われる。せっかくのダリル・ハンナだ。

チェビー・チェイス、、、ニック・ハロウェイ(ビジネスマン、相場師)
ダリル・ハンナ、、、アリス・モンロー(科学者、映像作家、ニックの恋人)
サム・ニール、、、デヴィッド・ジェンキンス(CIA)


「透明人間」では、1933年のHGウェルズ原作のものが有名である。
クロード・レインズとグロリア・スチュアート主演だ。
まだ手に入れていないが、このグロリア・スチュアート版は是非、見てみたい。
本作は、スプラッシュのダリル・ハンナ(勿論、ブレードランナーのレプリカントとしてまずは名を売った)の出てくる1992年のもの。
それほど、彼女らしさが出ていなかった。

サム・ニールはここでもアクの強い権力者を演じている。
わたしとしては、「イベント・ホライゾン」のウィリアム・ウェア博士が兎も角、強烈であった。

そうだ、あの傑作「ピアノ・レッスン」にもヒロインの指を切り落とす夫役で出ていた。この人はこの手のものが多い。
何といっても「オーメン/最後の闘争」のダミアン・ソーンなのだし、、、。
しかし「月のひつじ」ではとても渋くて良い役(笑、であった、、。こういうのもなくては、役者もキツイはず。

興行収入でかなりの赤字を出していたようだが、頷ける。


すでに細胞の透明化の技術は実践されており、TVの科学番組でも透明になった魚を映して科学的説明を加えていた。
透明化により細胞の3Dイメージ化が可能となり、その解析が飛躍的に容易になったという。
実際に、脳も透明化して調べている。
しかし、その透明のレベルでは、よくってグラスの透明さに行けば良いところで、「見えない」ものでは全くない。
しっかり見える透明である。(全く見えなくなったら研究対象になるまい)。

H・G・ウェルズの小説『透明人間』をもとにしたものでは他に、「インビジブル」がある。
こちらは、透明人間は悪事を重ねる殺意たっぷりの怪物として描写されてゆく。
薬の開発によって自ら透明化しており、凶暴性をもち殺人鬼と変わらぬ行動をとる。
しかしこちらの透明人間は、軍事目的のスパイ活動への誘いをはっきり断る意思をしっかりもった人間だ。
(透明化する以前よりまっとうになっている)。

ニックは秘密裏に核融合実験を行っている研究所の事故により、着ているスーツもろとも透明化してしまう。
何とビルもそちこちで透明化している。
「原子構造がまだ不安定です。近づかないでくださいって、、、凄い事態ではないか、近づくどうのという問題か!」
彼は単に事故に巻き込まれて透明化しただけだ。
大変悲運であった、、、。

彼は研究の講演会の仕事をサボって居眠りをしている間に、事故に遭う。
かなりいい加減で人を食った男であるが、透明化したことで彼を軍事目的に使おうと画策するデヴィッド・ジェンキンス一派から執拗な追求・追跡を受ける。
そこでの彼の対応は、急に凛々しさを増し(見えないが)、気骨のある姿勢で彼らの懐柔を切り抜けてゆく。
「体は失ったが、魂は失わない。自分が何になるかは、自分が決める」余りにベタだが、とても立派である。
繰り返すが、見えていた頃より、ずっとしっかりしている。

普通に街を歩いていても、服を身に纏うにしても、食事一つとるにも、自分の身体が目に入らないことによる障害が説得力をもって描かれているところは、素晴らしい。ここが一番、ポイントかも知れない。
子供がよく、自分が透明になれたらこんなことしたいと楽天的で安直な主張をするが、実際なってしまうと大変キツイ生活が待っている。自分が他者から見られることで、自己確認している部分が如何に大きいか、、、。
アイデンティティもそこから得られる。

彼のその姿を見ても(見えないことを認識しても)彼を徹底してサポートするアリスも素敵だが、いまひとつその理由が見えてこない(笑。彼女が良い人であり、すでに恋に落ちているから、、、で納得しておこう。
彼の顔が見えるように施す彼女のメイキャップというかペインティングが(笑えるほどではないが)面白かった。

「彼は普通でこれといった特徴がなく、親しい友達と呼べる人間もいないので、透明になる前から、すでに誰からも見えていないのと同じだ。」とニックを評してデヴィッド・ジェンキンスが語っていたが、穿った見方だ。うまい、、、。


最後の件は、不思議に今日先に観た「クロノス」に近い。
見えないことを上手く利用してだが、デヴィッドと(2人で)ビルから飛び降り自殺をしたと見せかけて政府機関の追跡を逃れる。

かなり悲哀のこもったコメディである。しかしハッピーエンドみたいであった。
(行く末は大変そうだが、、、)。


Memoirs of an Invisible Man002


微妙な空気感の映画でありこの監督らしさが感じられず、ヒットなどからは遠い印象をもった。

クロノス

La invención de Cronos

La invención de Cronos
1992年
メキシコ

ギレルモ・デル・トロ監督・脚本

「パンズ・ラビリンス」「パシフィック・リム」そして最近観た「クリムゾン・ピーク」の監督の初期作品だ。(第一作目か?)
わたしは、言うまでもなく「パシフィック・リム」がダントツに好きだ。
だが、この映画を観ると「パンズ・ラビリンス」や「クリムゾン・ピーク」こそがこの監督の描きたい本来の世界観なのかなと想う。

ちょっと、デヴィッド・クローネンバーグやデヴィッド・リンチをゴシック美学で塗り込めたような感触があり、「パシフィック・リム」が異色作だったように感じてしまう。

フェデリコ・ルッピ、、、ヘスス・グリス(古美術品店主)
ロン・パールマン、、、アンヘル(デ・ラ・グァルディアの甥の殺し屋)
タマラ・サナス、、、アウロラ(ヘスス・グリスの孫娘)
クラウディオ・ブルック、、、デ・ラ・グァルディア(死期の迫った資産家)
マルガリータ・イザベル、、、メルセデス(ヘスス・グリスの恋人)


ギレルモ・デル・トロ監督の源流と言えるか。
ガジェットに関しては、まさにそうである。
豪奢な金色の昆虫型。
ゼンマイを巻き腕などに伸びた針が徐に刺さると、その度に内部構造~カラクリが禍々しく映される。
密かな、それぞれの歯車の連動して回る動きと、何か不気味な有機体の蠢く様子である。
この造形に光源の分からぬ灯り、刻々と動く機械の歯車、、、これこそデル・トロ監督の原質~無意識に想える。
このディテールへの拘りが重厚さに繋がり、どっぷり真紅の風呂(笑、、、に浸かることができる。
(仮面ライダーのガジェットは余りに安っぽすぎる)。


ヘスス・グリスは何も変身しようとか、何かを望んだわけではないのだが、不死身となるガジェットを偶然発見し、それは鋭い針~昆虫の脚に刺されて痛いのだが、自身に試してしまった。
手に調度程よく乗るサイズの黄金の昆虫型のゼンマイ仕懸のガジェットで、作られたのは16Cだという。
世紀の掘り出し物には違いない。
しかし、その作用として身体が若返り活気づくのだが、喉が渇き血を見るとたまらなくなってきたのだ。
日光にも弱くなった。
明らかに、自身が吸血鬼化していることに気づく。
だが、そのガジェットを使う度に依存性が高まり、やめられなくなる。
(まさに麻薬中毒だ)。

おまけに、余命幾許も無い大金持ちのデ・ラ・グァルディアが、この昆虫の存在を、何十年も前に探し出した取り扱い説明書によって知っていたのだった。
彼は殺し屋の甥、アンヘルを使い、その本体を探させていた。
そしてついに古美術商のヘスス・グリスの店にそれがあることを知り、その像を手に入れたかに見えた。
だが、肝心のガジェットはヘススがそれから取り出して持っていたのだ。
それからというもの、彼はアンヘルに執拗に狙われ、何度も殺されかける。
普通なら間違いなく何度も死んでいるところだが、ガジェットを使っているため、不死の人となっていた。
しかし血を吸わないではいられない。これが不死の代償なのだ。
単に平穏無事に暮らさせてはくれないのだ。


口のきけない孫娘アウロラが次第に変わり果ててゆく優しいおじいちゃんを庇い労わり続ける。
「パンズ・ラビリンス」の少女オフェリアにも重なるところのある少女であった。
「パシフィック・リム」では、芦田愛菜の演じた少女か。
いや、ビクトル・エリセ監督のスペイン映画「ミツバチのささやき」のアナ・トレントだろう。
この幼気な少女の存在意義はとても大きい。

アウロラとヘススとの間の絆が暖かく淡々と最後まで伸びている。
対照的にアンヘルとグァルディアとの信頼関係ゼロの欲得の繋がりも続く。

アンヘルの暴力をひたすら受けるヘスス。
最後は、自分が死なないことを逆手にとった捨て身の戦法でアンヘルを撃退する。
しかし、血を啜ることに耐えられなくなった彼は、その吸血鬼転生ガジェットを石で叩き壊す。
それは取りも直さず、彼の死も意味する。

最後はベッドで最愛の孫娘と恋人のメルセデスに看取られて安らかに逝く。
その最後のベッドでの、引いた「絵」が大変美しい。


監督の残酷な運命の美学が強く打ち出された作品であった。
これは、以降の作品にも、より説得力をもって受け継がれてゆく。


わたしとしては、この監督に「パシフィック・リムーⅡ」を是非お願いしたい!
こちらの美学も半端ではなかった。



君の名は。

Your Name

Your Name
2016年

新海誠監督・脚本・原作

声:
神木隆之介、、、立花 瀧(高校生)
上白石萌音、、、宮水 三葉(女子校生)
長澤まさみ、、、奥寺 ミキ(瀧のバイト先の先輩)
市原悦子、、、宮水 一葉(三葉の祖母)

ここでも声優ではなく皆、俳優である。
(声優はやってゆけるのか、、、心配になる)。
しかし、この4人は上手い。
特に、上白石萌音とは何者か?歌もべらぼうに素敵だし。
(神木くんは前から良いし、長澤まさみに関してはピッタリである。市原悦子はもう溶け込んでいた)。

「君の名は。」と、丸がつく。佐田啓二と岸惠子主演映画とは、ここで差別化する。(この映画も見てみたい。母親世代のものである)。


誰そ彼と われを名問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれを
                                   万葉集
黄昏時は、時間が結晶化する。
こんなとき、ほんとうに逢うべきヒト同士が地続きにいる。
夢と現の間である。

口噛み酒を祀った祠のあるクレーターが1度目、「片割れどき」という方言の元となった落下で2度目、そして今回が3度目。
その落下の時に糸守町の宮水神社の少女~巫女が同年齢の他の土地の男の子との入れ替えが起きる。
彼女のおかあさんもおばあさんも彼女の入れ替わりに気づいている。
自分もかつての経験者であるからだ。
しかし夢から覚めるように今はもう何も思い出せないという。

喪失感なのか郷愁か、、、。
われわれは常に忘却してしまった大切なことを、それが何であるか分からぬまま気にし続けて生きている。
(現存在は死を気にしているだけではない)。
その琴線に見事に触れたアニメーション~物語だ。

ここでとても沁みる点は、入れ替わり、という謎の現象により、相手を知るという事態である。
その相手が生きる環境とその取り巻く人びとに戸惑いながらも好奇心と冒険心をもって関わり、彼らを通してその相手を知ることで、愛おしむように深くその相手を知るようになるという事。
ここではしかし、男の子と女の子は厳密に対象性にない。女の子は家族とその系譜にまで遡る歴史性まで顕になるが、男の子は現時性とその個体性のみ。双方ともに母親が不在であることが精神的な親近感を持ちやすい要素になり得るか。男の子の方はある意味触媒に過ぎない。あくまでも女の子の方が事体を変える主体として働くためだ。

3年前のティアマト彗星の核分割した破片の墜落による飛騨の山奥、糸守町のほとんどの消失。
そこに住んでいた三葉の、、、何が入れ替わったのか、、、こころ、としておこう、が瀧と入れ替わる。
三葉の異能の作用によるものだが。
しかし、ヒトの記憶のほとんどは身体にもっている。このへんのちぐはぐさは大丈夫か?
肝心要の「入れ替わり」の身体事情が身体論的にいまひとつしっくりこない、、、が、ここでは追求しない。
最初は2人とも、夢であると思いつつ生活してゆく。(しかしこれが現なのだと、はたと認識するに及ぶ)。

ただ、幸いなことに2人の周囲の人々は「良い人」ばかりであった。
違和やズレ、はみ出しを追求せず、暖かく適度な距離感で受け入れてゆく。(実際、村でそれが可能かとは思うが。うちの地区ではダメである)。
驚き戸惑い呆れながらも新たな自分を楽しんでみようという余裕と好奇心が自ずと生じてくる。
それでなければ、精神に異常をきたす可能性の方がはるかに高いはず。
まずそうはいないと思われるが、奥寺先輩という存在は2人にとって、かなり素敵だ。
こんな先輩がいたら、人生に勢いがつく。もう一頑張りが効く。
決して小さくないことだ。


相手に何とか逢いたいと思う気持ちは、こんな関係であれば更に強まるものだ。
距離~空間ではなく、時間が隔てているのだ。スマフォの電波は届くはずもない。
時間が身体を文字通り隔てている。全く逢えないのと相手に成ってしまうことは同義である。
(ここではスマフォのスケジュール帳にメッセージを残せることが互が存在している~入れ替わりを間接的に知ることに役立つが)。
それと、瀧の知る前(入れ替わり事件前)に三葉が電車で渡した「組紐」。
「君の名は?」で、、、ある。

瀧がすることが、場所の絵を描くこと。風景というより場所である。
記憶術にもあるが、記憶こそその場所に宿るものだ。
彼は場所に拘る。恐らく手がかりに詰まれば、それしかない。
どうにか思い出したいとすれば、その手段以外に何かあろうか、、、。
就活でも場所に関係する建築業(建築デザインであろうか)を選んでいたと見える。

一度は三葉も含め、糸守町の500人を越す犠牲が出てしまうが、再び瀧はかつて入れ替わった時に観た場所の絵を頼りに祠まで辿り着き、そこで、三葉の口噛み酒を呑む。それは彼女の半分の存在を取り込む行為~儀式であった。
再び入れ替わりが起こり、三葉である瀧は友人と手分けして村人の救出に奔走する。
その結果、村のほとんどの人が奇跡的に助かることとなり、史実がここで書き換えられた。

2人はクレーターの外縁部~さかいめをお互いの名前を呼び合い走るうちに黄昏時を迎える。
ここで、お互いを知った上で、はじめて2人が向き合うことが実現する。
(この「出会い直し」、民俗学的な出逢いでもある。小さな国生みにも繋がった)。
しかしこんな時こそ、たわいのない冗談くらいしか出てはこないものなのだ、、、。
お互いを忘れないようにと、ペンで掌に名前を書き合おうとした時に、、、
クライマックスに掌に書いた文字にスクリーン上の2人だけでなく館内の全員の視線が息を潜めて集中するのに気づいた。
実に上手い運びだ。
黄昏時は、しかしほんの一時であける。
三葉は、はじめからいなかったように影も形もなかった。
この空虚、残酷な孤絶感、喪失感は如何程のものか、、、。
(思えば、自分の幼少期の記憶にも接触する空気でもあった)。

最早、何があったのか2人とも思い出せない、、、そのことにもがくが、、、それも忘れてしまう。
夢から覚めたかの如くに、、、一度は書き換えられた日常が続く。

これに似た時間劇に「リターナー」があったが。
このアニメーションの方が、設定とプロットに破綻がないうえ、ずっと物語が壮大で複雑に構成されている。

それから5年後(彗星事件から8年後)、得も言われぬ喪失感を引きずりながら生きる2人は、偶然すれ違う電車でお互いをはっきり認め合う。
すぐにそれぞれの電車を降り、相手を探し求めて走りだす。
そしてついに階段の上と下とで同時に相手を見つけた。
徐に下り、登り、階段の途中ですれ違い、そのまま黙って分かれる、、、だが、、、2人の目からは、夢から覚めた時の涙が溢れ出していた、、、。



娘に見たいと言われなければ、一生見なかったかも知れない。
世間受けがよく、何か青春ラブストーリーじみたCMを見て、全く行く気など起きなかった。
観て正解であった。わたしがこれまでに観たアニメ史上No.1であった。
惜しむらくは、長女がコーラを飲みすぎて(ポップコーンも食べ過ぎていたが)終わり間際にトイレにたったことだ。
今後、うちでは絶対に映画館での飲食は禁止にしたい(惜。



この映画の曲も歌っているが、これは別だが歌唱の特徴がよく出ていると思われる。

上白石萌音「「366日」short ver.」

工芸は現代アートになる  Ⅱ

Argentina.jpg

前回「工芸は現代アートになる」で、実にサラッと娘たちと公園の帰りに回って見てきたのだが、、、
本日、女子美のアートギャラリーでギャラリートークがあるというので、改めて行ってみた。

「素材に働きかける」過程で獲得する自分ならではの技術とそれによる創造の醍醐味とを力説されていた。
工芸とは、、、一口に素材への果敢な「働きかけ」と言えるのでは、、、と思った。
結果、素材から思いもよらぬ様々な新しいテクスチュアも生成されている。

「女流画家協会展70回記念」その2含む)のギャラリートークは、女子大生のアルバイトであった為か、ちょっと有り得ないトークにかなり意気消沈した(例え何であれ破天荒で面白いのなら不思議な元気を貰えたりするが)。
今回は、女子美の学生に教えている先生方の作品展であり、トーク(解説)もその先生方(作者)であった為、安心して聴くことが出来た。実際、喋りに澱みがなく内容も聞くべきものがあった。特に技法について、、、。
ややマイクがクリアに言葉(声ではない)を拾いきれていないことで、話が掴みにくいところは少なくなかったが。

サンドブラストを使用して作るガラス工芸の制作方法についても作家の工藤直先生から直にお話を伺えた。
作品からも想像できるが、大変神経を使う、微細極まりない集中した作業を要することがよく解った。
ガラス工芸は、その表現形式が大きく2つに分かれ、ガラス素材へのアプローチも技法も異なり、奥も深い。
わたしも、そろそろそういった「入り込む」作業に没頭したくなった、、、そうなるとブログやっている余裕はなくなるが。
勉強になった。そして羨ましいという感情が芽生えた。
近いうちに何かやってみたい、、、。
ついでに、娘達が女子美に入りたいと想っていることを伝えると、「ええ、お待ちしています」と笑顔で言われた。
「小2です」とつけ加えたら目を丸くして、工芸科の案内の冊子を頂いた。
すぐに、彼女らに観せたい。(お姉さん達が見たこともない道具でいろいろとおおきな作品作りをしている写真がいっぱいある)。

まず、今回改めて先日見た作品を確認すると、「AQUA」というおおきなリボンの羽衣状の複雑に構築された作品は、絹糸とステンレスの素材で作られていた。
柱~コラムに多色染めの多層織による、作者は「ミニチュア建築」と呼称していた。
複雑に絡み合うリボンによる構造体だ。
なる程。色も自然色素で淡くパステル調で大きい割に圧迫感はない。(逆に重力に逆らう上昇感すらある)。
独特の密度と空気感が作者の言うとおり感じられる。

刺繍はかなりテクスチュアの陰影の強いものがあった。
力強い表現だ。
前回、然程きに留めずにそのまま通過してしまったが、光の乱反射による色調の変化すら認められた。

染と織は違いますよ、と何度も念を押されたが、今回我々には通常出来ぬ、作品の裏返しを観せてもらった。
これは作者だから可能なことだ。
確かに、染は表だけが作品であるが、織は裏も表である。
当たり前だが、実際に精緻で重厚な作品で見てみると、その裏側の表具合を実感する。

友禅など、制作過程において何人もの専門家を経た果てに完成を見る反物も女子美では、授業で最初から最後まで制作されるらしい。
ひとりの先生が全ての過程を指導するそうだ。ある意味、これは凄いことだ。
最終的にどの部分の専門職になるにせよ、全過程を見通せるようになっていることは、とても有効なことだと思われる。

岡本直枝氏による「歩歩」は、前回足だけの生き物のオブジェに見えたというような間の抜けた感想を述べていたが、、、
麻、羊毛をフェルティング、ニードルによって、グイグイと縫い合わせ絡ませ濡らして揉み、素材との格闘の末、生まれる「力」を表したものであるという。
確かにこれをスタティックに見るなんてどうかしている。大人しい置物には見えない。
繊維の強靭さとその素形力~謂わば素材の力を舐めてはいけない。
司会の渡邉美奈子氏(AQUAの作者)からもキーワードとして何度か提示された「縮充」の成せる業でもあろう。
作者の「縮充」という技法~作業により更にパワーをアップした素材の強靭さは、素形力と反発力の狭間~均衡でパンパンになっており、いつか爆発する気配も秘めている。
そんな足のオブジェだ(爆。

これも前回、卵の割れた殻が幾つも繋がったようなオブジェと評していた、何でもオブジェと言っておけば良いものではない、その作品は「さかいめの標本」というものであった。わたしは、内部をテーマとしたものかと瞬間的に思ったものだ。
これは、陶芸に形式上必然的に起きる~属性とも言える、中空構造による内側と外側の「さかいめ」を「線」として可視化しようとした試みであったらしい。それで複数の殻を連続的に接着して「線」を際立たせようとしたのか。
「さかいめ」がテーマであった。
確かに何のさかいめにも、めくるめくロマン~幻想(思想)がある。
現実には、「線」という抽象は無く、卵の殻の厚みがあるだけだ。
その厚みは取り敢えず現実においても、さかいめとしてあり、場合によってはベルリンの壁であったりもする。

最後に、うちの娘が驚いたマーブリングが浮いている作品である。
今回その素材をしげしげ観察して驚いた。
勿論、紙にマーブリングしたものをハサミで切り取ったのではないことは、分かってはいたのだが、どうやって作ったのかまで調べることもなく、前回は帰ってしまった。
その素材は、シルクオーガンジー(固い風合いと光沢が特徴の軽く透けた生地)と絹糸、金糸に金箔である!
これで、繊細でフラジャイルなあの絶妙な波紋造形が形作られていたのだ。
連ね並べ重ねて作られたそうだが、具体的には作っているところを見なければ分からない。
「支持体に空間を意識した動き」を与えるように作られているようだ。
支持体とは絵画では絵の具、音楽では音(音素)、木彫なら木である。
ここでは、その繊維群であるか、、、。
かなり微分された表現である。

「素材」に関わる事は優れて身体的な経験にほかならない。
このような取り組みが、こころを癒し解放する契機となる面も押さえておきたい。
(そういったメッセージをメールで送られた作者の方もいた)。


工芸の面白さと可能性を強く感じる展示会となった。

サムライ

Le Samouraï

Le Samouraï
1967年
フランス

ジャン=ピエール・メルヴィル監督・脚本
アンリ・ドカエ撮影
フランソワ・ド・ルーベ音楽

アラン・ドロン、、、ジェフ・コステロ(殺し屋)
ナタリー・ドロン、、、ジャーヌ(情婦)
カティ・ロシェ、、、ヴァレリー(ナイトクラブのピアニスト)


全てがストイックな映画であった。
削ぎ落とされている。
アラン・ドロンの表情も。
そして色調まで、、、。
洗練されたお洒落な行為と所作で成り立ち、ニヒリスティックな感じは全くない。
それぞれの人物も2日間だけ切り出されたコンテクスト上に作動している。
その前後の日付(来歴)は全くの暗闇に消えている。
もしかしたら、突然スイッチが入って動き出した人形の世界かも知れなかった。
「去年マリエンバートで」同様に、、、。
であるから、この映画に「何故」は意味を成さない。
何も語らない。
コステロのように。

本当に言葉がなく、説明やナレーションなどのある映画~物語の対極のものだ。
映像と音楽だけで全てを表そうとする。いやそれで表せるもののみで生成されてゆく。
特に、郊外のガレージにコステロが車を入れると、そこの主人が素早く一言も語らずナンバーを取り替え、拳銃を渡す。
その機械状の流れの中で、コステロは作業が終わると機械的に主に金を渡し、自動的にまた街へと出て行く。
このようなシーンを他の映画で見たことはないのに気づく。
(他の映画が如何にことばに頼っているか、、、)。

ジェフ・コステロと彼のカナリア1羽だけの部屋、帽子のツバと白手袋に拘り、そして決まって盗むエレガントなシトロエン。
趣味が良いというか、物が無い方が何かされた時にも気づきやすい。
あんなに素早く部屋の異変に気づくのだ。
普通は窓のカーテンに隠れるように取り付けられた盗聴器などにそうは注意は向かない。
わたしだと、あの盗聴器に偶然たどり着くまでに5年はかかる。(その頃には、すでに必要とされていないはず)。
(なんせ物が多すぎるのだ)。

あのようなライフスタイルには憧れる。
鳥は飼いたくないが、あの何もなさは素晴らしい。
いつか、何もない場所に至りたい。
勿論最後は、何も持っては逝けない。

何も持たないということは、死の近傍で生きるということだ。
殺し屋としていつでも死ぬ覚悟が象徴的にその場所に表れているのかも知れない。
ある意味、悟りを開いた聖者の佇まいである。
人に死を運ぶ商売である。そのくらいの厳粛さはあってよいか、、、。


しかし、その世界に悪夢も重なる。
やたら多い鍵から合うものを只管探し続ける。シトロエンに合う鍵を、、、。
それは、地下鉄の乗り換えを延々と繰り返す逃亡にも同様に。
これは、完全と孤独を追求する悪夢の光景だ。
熱に魘される悪夢に似て、、、。

暗黒のなかに、、、これは悪夢なのか現実なのか、、、あの反復は目眩を誘う。
足音だけがいつまでも甲高く響きわたる。
鍵の束から合鍵をいつまでも探すのかも知れない。
反復と不安そして孤独。
殺し屋~サムライとしての属性(いや本質)の成せる業か、、、。

有名な「サムライの孤独ほど深いものはない。ジャングルに生きるトラ以上にはるかに孤独だ。」
最初に出てくる監督のことばで、自分の身も重ね合わせているらしい。
覚悟を決め、孤独を恐れず作った映画であったのかも知れない。


所謂、フレンチ・フィルム・ノワールの孤高の傑作である。


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鑑定士と顔のない依頼人

The Best Offer

The Best Offer
2013年
イタリア

ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本
エンニオ・モリコーネ音楽

ジェフリー・ラッシュ、、、ヴァージル・オールドマン(著名な美術鑑定士)
ジム・スタージェス、、、ロバート(修理屋?)
シルヴィア・フークス、、、クレア・イベットソン(謎の鑑定依頼人)
ドナルド・サザーランド、、、ビリー・ホイッスラー(元画家、ヴァージルの相棒)

この映画を見て思い出したエピソードがある、、、。
だいたいこんな話であった、、、小林秀雄が良寛の詩軸を手に入れ得意になって飾り堪能していた。
あるとき、良寛の研究者である吉野秀雄が訪ねてきたので、彼に自慢げにそれを見せると、しばし見つめてからこれは良寛の書ではないと、、、。
小林はそれを聞いて、直ちにその詩軸を一文字助光の刀で縦横に切り裂いてしまったという。
(そんな刀を持っていて侍みたいに使えることに流石は小林秀雄?と驚いて覚えていたのだが、、、)。

「お宝探偵団」に「真贋」を確かめて、あっさりケリのつく世俗的な問題はあるとは言え、、、。


「贋作の中にも真実がある」とこの映画で何度も述べられるが、全くの偽りで作られた幻想の内にあっても絶対的な経験として価値を残す「ものこと」もある。
われわれは誰でも、幻想の中で真実を求めて生きている。
偽りのなかにあってさえ、何にも代え難い絶対的な価値を見出そうとする。
それに縋ってゆく。
そうでなくて、生きてなどいけないではないか。

この映画もまさに、そこであろう。
「ニュー・シネマ・パラダイス」の監督である。
実にわたしの琴線に触れる映画を作ってくれる。
美術も音楽も見事に調和しておりこれ自体が芸術作品となっている。


物語は、著名な鑑定家であるヴァージル・オールドマンに家財産を売り払いたいため、もっとも信頼できる鑑定家に査定をお願いしたいというところから始まる。だが、それは途轍もない罠であった。
その依頼主はアクシデント等を理由に、合うべき時になかなか彼の前に姿を現さない。
それは結局、精神の病のためということが明かされてゆくが、、、。
最初のうちは、手続き関係でぶつかり合いながらも、徐々に相手のことが気になってゆく。
双方のこころに安らぎと開放が訪れて、、、
そしてそれが幸せな方向に展開してゆくかと期待させつつ、多くの不安で禍々しい伏線は張られてゆく。

主人公のヴァージル・オールドマンは自分の比類ない知識と鑑定眼を活かし、相棒の元画家ビリーと結託し、高価な値のつく絵を安く落札し、儲けていた。しかもヴァージルは、自分の気に入った女性肖像画を軒並み自らのコレクションに加え厳重なセキュリティのもと秘密裏に所蔵していた。
大変贅沢な絵画コレクションで、あれだけで美術館が成立してしまうくらいだ。
(余りに有名な絵もあり、ちょっとそれは、、、というところもあるが)。


ヴァージル・オールドマンのコレクションを知るのは、ビリー以外にいないことから、彼が首謀者であることは歴然としている。
しかし、このシナリオあまりに大掛かりである。
ヴァージルの絵を盗み金に変えるだけなら、もう少しコスパよく手早い方法もあろうに。
やはりクレア・イベットソン~女性をわざわざ差し向けるところは、ヴァージルに余程の打撃を与えたかったのか。
ヴァージルに一流画家への望みを絶たれた恨みか、、、しかし、それは自分の才能とプロデュースの問題でもある。

ヴァージルは親友には恵まれなかった。
彼のごく周辺に集まっていた連中はことごとく共謀者であった。
しかもヴァージルの人となりについて熟知している。
どのような攻略も可能と言えよう。
しかし、クレア・イベットソン自体が偽名で邸宅は同じ名前の小人症の女性の持ち物であったというから騙す側も大規模な仕事である。
邸宅を借り、何度にも分けて家具・調度・絵画・はたまたオートマタの部品を床にバラ撒いて置くなど、念の入りよう。
これで充分屋敷に彼を惹きつけられる。
クレアお嬢様の特異性を吹聴する影のある使用人も勿論、仲間である。
クレアは両親を亡くし、広所恐怖症で長年ずっと小さな部屋に引き篭っているという設定で、焦らしながら徐々に彼に気持ちを惹きつけ自分にこころを開いてゆくようにする。
ロバートは、ヴァージルが飛びつくであろう歴史的に貴重なオートマタ組立で、彼がすっかり騙されるまでの時間を作る重要な役目だが、いつからの接触なのかは定かではない。どういう風に目利きのヴァージルを信用させたのか?いつも修理した製品を下から出して渡すだけであり、ヴァージルの前でオートマタを組み立てているシーンはない。わざとバラしたものを元に戻すように、最初から仕組んでいることは明白だ。ロバートの恋人も白々しい。

周りが巧みに強力に彼がクレアに身も心も捧げてしまうように仕向けてゆく。
全員が全員演者なのである。
これは恐るべき世界であろう。
しかし、彼も本心からクレアに恋する。(彼は見掛けは頑固で堅苦しい紳士だが、非常に初々しい感性を持ち続けていた)。
非常に不自然な形だが、彼にとって初めての生身の女性との恋愛となったのだ、
非常に皮肉であるが、真実である。

そして引退を決めた最後の競りを終えて帰ると、家にクレアはいない。しかも彼女にだけ披露したコレクション全てが奪い去られていた。そこにはオートマタが置かれていて、単に録音した声が鳴っていた。(精巧な立派な仕掛けなどではないガラクタ)。
「如何なる偽物の中にも、必ず本物が隠れている。見抜けなかったね。あなたはすでに過去の遺物」と繰り返される、、、。

ロバートの店も蛻の殻、使用人にも電話が繋がらない。彼女の邸宅前のカフェにいた小人症のクレアがあのクレアという偽名の女の全ての動きを観察していた。あのクレアは普通に外界を歩き回っており、彼の前だけで病を演じていたことを知る。小人のクレア(屋敷の所有者)が店で叫んでいた数字は、今思うとあの女の外出した回数であったことが分かる。
鑑定した家の品目を売ることを拒否したのも自分のものではないのだから(レンタルか)当然であった。

孤児院から独力で鑑定眼を身に付け、努力の果てに築いた財産が単に全て奪われただけでなく、彼にとっての初めての真実の恋も、無残に打ち破られた。そして信じていた周りの友人たち全てが敵であった。
今彼は衰えた姿で独り、施設で(アルツハイマーか?)療養生活を送っている。

クレアの高飛びする前、ヴァージルに残した最後の言葉「信じて、わたしは何があってもあなたを愛してるわ」が強烈なダブルバインドとして彼を蝕む。
彼は恐らく白日夢の中、彼女に言われたとおりいくつかの広場を通りすぎ、あたかもオートマタに半ば侵食されたかのような彼女のお気に入りのプラハのレストラン"Night and Day"に行き、テーブルをとって彼女をひたすら待つ、、、。
一体、彼女とは何か、、、!

彼にとってあのクレアとの鮮烈な恋の想い出~記憶が、失った全てより確かな価値として今もこころに残っているのかも知れなかった。
(であるから、その価値を守るためにも、被害届けを警察には出さなかった)。
「如何なる偽物の中にも、必ず本物が隠れている。」


これほどわたしのツボを刺激する映画は珍しい。
物凄い映画があったものだ!

(まだまだ傑作を探す意味はあるなと、これを見て実感した)。
ベストオファーには気をつけたい。



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ブリッジ・オブ・スパイ

Bridge of Spies

Bridge of Spies
2015年

アメリカ

スティーヴン・スピルバーグ監督
マット・チャーマン(英語版)、コーエン兄弟脚本
『ファーゴ』は面白かったが、これも細やかな描写で人物が真に迫っていた。
トーマス・ニューマン、、、音楽

トム・ハンクス、、、ジェームズ・ドノヴァン(弁護士)
マーク・ライランス、、、ルドルフ・アベル(ソ連諜報員)


わたしが観たトム・ハンクスの中で、一番良かった。
彼は寒々と荒涼とした硬直し続ける現実に温かみを持ってしなやかに溶け込んでいた。
更にその相手役のマーク・ライランスのアイロニカルで達観した佇まい。
飄々としているが、確かな芯をもち、その人間的魅力で忽ちドノヴァンを惹きつけてしまう。
恐らく長い年月を只管耐えに耐え、異国で祖国のために息を殺して諜報活動を続けてきたことから形成された性格でもあろう。
彼は冷静沈着な諜報員である前に絵画と音楽(ショスタコーヴィチ)をこよなく愛する芸術家でもある。
ふたりの間には冷戦を超えた友情が芽生える。
「不安はないか?」(ドノヴァン)、、、「それが役に立つのか?」(アベル)このやり取りが数回あったが、象徴的なものである。
この役者が間違いなく物語を重厚なものにしていた。
2人の他の役者も皆、不自然な役柄を感じる人はいなかった。
当然、脚本、演出がよく出来ている為であろうが。


1957年冷戦中米ソのスパイによる諜報活動が盛んに行われていた時期の事実に基づく話である。
アメリカ偵察機撃墜事件「U-2撃墜事件」の舞台裏を明かしたものという。
逮捕したソ連の画家を装った諜報部員アベルと撃墜されたU-2のパイロット更にドイツの壁近くで連行されたアメリカの学生の1対2の捕虜交換をジェームズ・ドノヴァンが国のメンツと策謀渦巻く中、成功に導き無事に帰国するまでの話である。(ドノヴァンはアベルの弁護人でもあり、死刑を懲役刑の減刑させている元敏腕検察官である)。
アメリカ、ソ連、ドイツ(東ベルリン)3国間の非常にスリリングで緊張感ある交渉が展開されるが、実際の話に忠実であることでその重みは増す。
その時の立役者であるジェームズ・ドノヴァンの難問に対するフレキシブルなアプローチに魅了されてゆく。
スピルバーグ=ハンクスでは『ターミナル』よりかなり陰影の濃い大作となった。

交渉の場となった東ベルリン、、、。非常に荒涼とした雪景色が交渉の厳しい現実を更に際立たせる。
そこにドノヴァンは、政治事情からアメリカ政府やCIAから何の保護もなく、民間人として独り立ち向かう。
極寒の街角はギャングと衛兵で何処も危険。
アベルの家族だと言ってドノヴァンの前に現れた3人の人物の白々しいこと。
交渉相手だと思っていた相手がすり替わる。その素性も嘘。
三つ巴の思惑の交錯する中で、利害の一致点を目敏く抽出してそこを突く。
その一撃が冴えているかどうかだ。
ここにおいて、成功と失敗は天と地の差となる。
「冷戦」という戦時中の攻防のスリリングで重苦しい物語であった。


アベルの絵は古典的なリアリズム絵画であるが、技量は確かなものであった。
(この精緻で隙のない観察と技量がその対象の精確な把握にとって重要な能力でもあろう。そのチェック作業として絵を描いていたのかも知れない。これがもし表現主義などであれば、本業の諜報活動は破綻するだろう。描く対象が自分の底知れぬ内界となってしまうため)。
肖像画家として充分にやっていけるレベルだが、実際あれ程の腕前だったのか。
ドノヴァンが肖像画をプレゼントにもらっているのだから恐らくそうなのだろう。
ドノヴァンのコーヒーは、常に砂糖2つとミルク入りのネスカフェというのも面白い。
あの交渉の粘り強さと、1対2交換に拘り抜いたところは、この少し自閉的な性格から来ているのか。
(しかしあの逆境にあって、なかなか1対2は打ち出せないものだろう。この押しの強さは、スティーブ・ジョブスをも思い浮かべた。やはり何かをやり遂げる人は少なからずその面は窺えるものだ)。
アベルの言うように「不屈の男」なのか。多分そちらだろう(笑。


最後のアベルが国に連れ戻される時、ハグされず、ただ車の後ろ座席に乗せられたところを心配そうに、グリーニッケ橋を独り離れず見守るドノヴァンの姿にこちらも共振していた。
エンドロールに入る前、家族がドノヴァンがどれほどの重責を担っていたかを少しでも理解できたことにほっとした。
エンドロールの中で、アベルが本当の家族と再会し共に暮らせるようになった事が分かりまたもほっくりした。
音楽も厳粛で品があり、映像にマッチしていた。


やはりハッピーエンドは気持ちが良い。
この成果をジェームズ・ドノヴァンの個人的資質に見るか「アメリカの良心」ととるかは、兎も角、、、。
(アメリカの良心を是非このように感じたい気持ちは、世情から言っても昇まるのだが)。
しかし、やはり国(共同体)ではなく、個人が何が正しいのかをしっかり認識できることが肝心である。
監督の思いは充分に伝わってきた。

せっかく助けたパイロットがその後、ヘリコプター事故で亡くなったというのが、何とももったいない、、、。



Re:名前のない遊び

aqua.jpg

一部引用を考えたが、やめた。そのままがよい。
名前のない遊び
ハイデッガー的な「遊びと余裕の幅」をこの方らしく詩的に優しく綴られている。

一口に「実存」を前提に、遊びがある。
機械の様々なジョイントにも遊びがある。遊びがないと壊れてしまう。
精神医学(臨床心理学)上においても遊びは病いの予防と治癒におおきな役割を果たしていることが伝えられている。

遊びの古語の意味に、心のままに動きまわる、水中で自由にふるまう、、、澱まず流れる、、、などがある。
水そしてその流れ~イメージがどうやら、遊びの本来の意味に関与していることは分かる。
水~液体は象徴的だ。
水の変幻自在なちから。

全てに染みわたり、、、形骸化を打ち砕く。浄化する。
それは、遊・聖・狂をも行き来する、、、。
いまや宇宙探索において生命(他者)発見の希望そのものでもある。
水に対する畏敬と憧れそして何とも言えない安らぎ、、、。
わたしがはじめて友人と作った同人誌名が”Aqua”であった。
懐かしい。
懐かしい遊びの場であった。


どのような形式の遊びが可能か、、、これを投企と呼んでよいのでは、、、。

才能と狂気(苛烈な感受性)によって作品を制作する遊びは、兎も角スリリングな至高体験となるはずだ。
それが時代の無意識に触れ、言語化(象徴・イメージ化)できたなら、普遍性も帯びよう。
発明と言っても良いものだが、同時に環境との調和も得られる。
既成の宗教に関わらずに、法悦を味わえるのは、やはり芸術という遊びか、、、。
特にだいそれた傑作でなくとも、制作者は癒される。病は解放される。これは、おおきい。
制作によって深みに嵌ってゆくように見られたヒトも、制作に関わらないでいたなら、単に病院に収容されて死んでいただけかもしれない。
確実に豊かで充足した内容の生を生きていたに違いない。


そして

最終的には、、、

  あしひきの岩間をつたふ苔水の
    かすかにわれはすみわたるかも


、、、この境地にいたい、、、。

キック・アス

Kick-Ass008.jpg

Kick-Ass
2010年アメリカ

マーク・ミラー、ジョン・ロミータ・Jr”Kick-Ass”コミック原作
マシュー・ヴォーン監督・脚本

アーロン・ジョンソン、、、デイヴ・リズースキー / キック・アス(コミックヒーローに憧れるオタク)
クロエ・グレース・モレッツ、、、ミンディ・マクレイディ / ヒット・ガール(ヒロイン)
ニコラス・ケイジ、、、デイモン・マクレイディ / ビッグ・ダディ(ミンディのパパ)
クリストファー・ミンツ=プラッセ、、、クリス・ダミーコ / レッド・ミスト(ダミーコの息子)
マーク・ストロング、、、フランク・ダミーコ(麻薬組織のボス)
リンジー・フォンセカ、、、ケイティ・ドーマ(デイヴの彼女)

何と言ってもクロエ・グレース・モレッツがカッコ良い。
「キャリー」などに出ている場合ではなかろう。軌道修正しないと)。
最後の敵地へ二丁拳銃で1人で突入。
その後の、目の覚める敏捷極まりない、しなやかな拳銃アクション、、、。
問答無用で、彼女が主役だ。
ナタリー・ポートマンのマチルダ(Léon)より素敵かも、、、(向こうはシリアス、こっちはコメディだが)。
同じくらいの歳ではないか?
Kick-Ass005.jpg
音楽も、プロディジー、プライマル・スクリーム、スパークスまで出ている。全編ロックである。
いや、、、エンニオ・モリコーネも何故か入っていた。
とても音楽で盛り上がる構成だ。

物語そのものは、わざわざ語る程のものではない。
何故、コミックにはスーパーヒーローがいるのに、人は自分がそれになろうとはしないのか、、、と不思議がるデイヴ少年がまず、オカシイ。非常に困った傍迷惑な存在だが物珍しさからネットをはじめメディアで話題の有名人になってゆく。
なるからには、多少なりとも具体的な計画やもっと明確なVision更に最低限の武器や身体の鍛錬は必須であろうに、なにもやらない。どうみても変な男だ。

物語の流れは、自分に麻薬販売の罪を着せ、妻を自殺に追いやったギャングのボス(とその組織)へのマクレイディ父娘の報復により展開してゆく。
基本的に、如何にヒット・ガールとビッグ・ダディを格好良く活躍させるか、、、その見せ場のシーンにより映画が成り立つ。
最初に父がまだ幼い娘をピストルで撃つというシーンから、尋常でない父娘の姿~シチュエーションが窺える。
防弾スーツを着せているにしても、こちらもハラハラしてしまう。
何故か、ビッグダディは自分たちの物語をコミック化している。
銃器マニアで殺しのプロというだけでなくアニメが上手い。

それから、常に何の役にも立たず足を引っ張り続けるキック・アスにも最後には、物語を締める役を与える。
あの空飛ぶスーツに装着した2丁のXM214 Micro gunsからギャングを蜂の巣にしたり、Mk 153のバズーカ砲でダミーコを向こうのビルまでぶっ飛ばすなど、ぎこちないが爽快に決めてはくれる。
だが、キック・アスの立場は、ギャング組織がマクレイディ父娘の復讐劇によって崩壊するまでの解説役(狂言回し)である。
あの父娘がいなければ、武器も手にすることはなかったのだし、、、。

ここにスーパーマンやらスパイダーマンのような(スーパー)ヒーローは存在しない。
逆に、何の特殊な能力もない普通の人間が取り敢えずヒーローコスチュームを着てしまって、何が出来るかというお噺でもある。
その意味での実験性はある。
最近観た「アイアムアヒーロー」にも重なるところがある。
まあ、こちらは最後まで大したことないが、、、。相変わらずのヘタレである。

敵の殺戮を喜々として華麗にゲーム感覚でやってのける殺人マシンである、幼いヒット・ガールの強度が際立つ。
一言、気持ちいい!観ていることがそのまま快感である!
「エクス・マキナ」のエヴァにも相当する美しい人形(アンドロイド)としての気品もある。
彼女も未来のイヴの系譜に属するはず。
ここに、彼女の生育歴における唯一の自己実現が殺人であったというような人間的悲劇性は微塵もない。
あるのは、楽天的娯楽性のみだ。

最後はダディの親友(かつて組んでいた相棒)の警察官がミンディ(元ヒット・ガール)の身元引受人となる。
(保護されたのか、殺人については何らかの形で問われないのか、、、そこはよくわからない)。
彼女はデイヴの高校に普通に編入して来る。
(この映画、やたらめったら屍体を転がしておいて、犯人を捕らえる動きが少なくとも警察にはない。警察幹部がギャングとつるんでいるのでもう、めちゃくちゃとは言えるが)。

この映画の特殊性と言うか画期的なところは、クロエ・グレース・モレッツの役柄とその完璧な役のこなし様であろう。
あの拳銃さばきとそのアクションだけでも、凡百の映画などすっ飛ぶ!
人にとってなくてはならない大切な遊びの要素の「目眩」に値するところ。(ロジェ=カイヨワから)。
そこにおいて、この映画は輝きを失わない作品として残るはずだ。
サム・ペキンパーがこれを観たら何と言うだろう、、、。
ちょっと、そのへんも思ってしまった。
Kick-Ass004.jpg

工芸は現代アートになる 

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女子美のアートミュージアムで「創る、伝える、繋がる」展を観た。
女子美の先生たちの作品ということ。
再度、ゆっくり観に行くつもりだ。
今日は娘たちと公園で遊んだついででもあった為、通りすがりに作品を眺めるという感じであった。
(ウインドショッピングか、、、結構贅沢である)。

しかし、それでも印象に残った作品はある。
透明なガラスの作品で、石の中の世界を想わせるものだ。
そう、仮想された内部へと、、、視線~想いを郷愁に似た感覚で誘うものである。

非結晶質なものの内部に時間性を想わせる階段~道が奥に通路のように延びてゆくもの。
長女が気に入ったのもがそれで、奥行のない世界に奥行が生まれていることに興味を覚えていた。
それから、割れて穴の空いた石の中に幾種類もの結晶が生成されている、、、密かな宝石の発掘を夢想させる作品に、次女の方は惹かれたようだ。
わたしもこれらの作品の前では足を止め、中を覗いてほくそ笑んだ。
が、いかんせん時間がなかった。すぐに家に帰る事情が発生した。

他にガラス製の容器~オブジェの中を覗くと、そこには異質で異素材の造形(意外なフィギュア)が潜んでいたり、、、。
大きな金魚鉢ふうのガラス作品が並んでおり、いちいち我々親子は中を覗いて移動した。

内部~内界への夢想。(決して内面ではない。あくまで表面である)。
ロジェ=カイヨワの宝物のような本「石が書く」で、次のような行があった。(およその記憶である)。
縞瑪瑙を薄く削ってゆくと、時に内部に影絵のように蠢く黒い水に行きあたることがある。
その水は地球の創世記の頃に取り込まれた、まだ地球大気層での循環すら体験したこともない純粋な水なのだ、、、。
わたしたちは、その水に一度でも触れてみたい誘惑と衝動に駆られる。
いつも瑪瑙を光に透かしては、その水のことを想う。
そしてついにその水そのものを観たいという欲望を抑えきれず、石を更に削っていったある瞬間、瞬く間に水は気圧のせいで蒸発してしまい、後には石の窪みだけが残される、、、といったものだった。

内部についてのこんなふうな悲痛な体験が、われわれの無意識に喪失の歴史として畳み込まれて沈んでいるのかも知れない。
それは想像力の根拠となる場所となり、幽かに絶えず疼いている、、、。
何かを創造したいという突き上げはこんなところから来るのか、、、。
(こんなこと言っている人は誰もいないが)。

内部を持ったガラス、陶器、、、その他では、卵の割れた殻が幾つも繋がったようなオブジェが、やはり内部の喪失そのもののあっけらかんとした乾いた感覚で、幾分ユーモラスであった。
ユーモラスといえば、掌と建造物~街と漫画チックな顔の表情の組み合わさった鵺状のオブジェとか足だけの生き物と言ってよさそうなオブジェもそれであった。

後は精緻な模様のタペストリーといった感の布状の染物類である。
そう様々な布の、軽やかで涼やかに靡くものから、ずっしり重そうで表現自体も重厚なものまで、かなりの点数が並んでいた。
天井から何本も透明に淡い色で曲がりくねって垂れ下がる羽衣状の帯は、大きな空間を専有しながらも全く圧迫感なく優しさを湛えていた。これには娘たちも喜んでいた。
外国の若い女性が非常に真剣に鑑賞していた、、、流石、女子美である?

最近、娘たちに教えたマーブリングが、何と半立体としてはっきり台紙から浮き上がって飾られている作品があった。
これには、彼女らも驚き、しきりに横から見ていた。
長いピンで何箇所もとめられて3次元化していた。
それにしても、全くのマーブリングである。
あの繊細極まりない複雑性の象徴とも謂いたい波紋、、、。
「よく浮き上がらせたね」長女の感想であるが、、、全く同感。

展示場の外に置かれていた、確か「カオス・ポット」という、カオスを撒き散らしそうに太ったジブリアニメに出てきそうなポットがわたしは気に入った。


兎も角、素材はみなそれぞれ異なり、ひとつの作品にも複数の素材と、技法が重ねられていて、賑やかな展示会であった。
へたな絵画展よりもずっと多彩で、自由に表現を模索・実験して遊んでいる感じの作品展であった。
工芸の面白さ、、、元々面白さは知っているが、その多彩で自在な面白さを味わった。
もう少し味わいたい、、、。





クリムゾン・ピーク

Crimson Peak

Crimson Peak
2015年
アメリカ

ギレルモ・デル・トロ監督・脚本


「パンズ・ラビリンス」「パシフィック・リム」の監督だ。「パシフィック・リム2」は作らないのか?あんな映画をまた観たい!

ミア・ワシコウスカ、、、イーディス・カッシング(小説家の卵、大金持ちの娘)
ジェシカ・チャステイン、、、ルシール・シャープ(トーマスの姉)
トム・ヒドルストン、、、トーマス・シャープ(準男爵で実業家、イーディスの夫)
チャーリー・ハナム、、、アラン・マクマイケル(イーディス昔馴染みの眼科医)

いきなり冒頭で、ベッドに横たわる幼いイーディスのところへ死んだばかりの母の幽霊が「クリムゾン・ピークに気をつけなさい」とおどろおどろしく警告しに来たところで物語は始まる。
なぞかけか、、、。

その経験が余程こころに残ったものか、長じて彼女は霊的体験を元に小説の執筆に専念する。
しかし彼女の作品をまともに評価してくれる人がなかなか現れない。
そんななか、彼女の小説に深い興味を示し賞賛してくれる男性(イギリス人の紳士)が現れた。
パーティーで洗練したダンスを披露し、2人は必然的に恋に落ちる、、、。

主人公の凛とした美しいしなやかさに対し、夫とその姉の背徳的で退廃的なゴシック的雰囲気が物語の基調を作る。
舞台は、屋根の抜け寒々とした如何にも恐ろしげなお城である。(お城に入ったのに雪が舞ってくるのだ)。
何と正統的なゴシックホラーであるか、、、様式美を極めるつもりか。
(海外のお城を買った日本人富豪がメンテナンスで破産寸前というのはよく聞くが、ここは、メンテする余裕がないようだ。わたしがイーディスなら、この様子を一目見たところで離婚して実家に帰る。100%間違いなく)。


荒れ果てた城も家具・調度品やからくり人形の類も凝りに凝っていた。
ミア・ワシコウスカには最初から惹きつけられると思ったら衣装が凄い。
メガネもよかった。(それから父上から貰ったタイプライターも素敵な逸品!)
相手のトーマス・シャープの開発している粘土掘削機もなかなか魅せてくれる傑作だ。
イーディス・カッシングがミア・ワシコウスカのせいか「不思議の国のアリス」の続編~暗黒編にも思えた。
飛んでもなく絢爛なゴシックの国のアリスだが、、、似合う。

これは、霊が人を怖がらせる存在ではなく、少なくとも城の住人にとって、基本的な要素なのだ。
ある意味、彼女らは城そのものを支える根幹の存在であり、哀しい宿命の象徴でもある。
ここで、霊は時と場所を選ばず這いずり回り蠢くが、犬や虫がそうするのと同等の在り方である。
では何がホラーかといえば、、、ヒトの情念~想念であろう。
霊現象もそのなかのひとつの光景か。
そもそもイーディス・カッシングはそれを小説に書いていたはずだ。

Crimson Peak004

演出がかなりの度合いで衣装が果たしていることが解った。(さすがにわたしでも、、、)
ファッションに興味のある人が見ればインパクトは大きいと思われる。
非常に個性を際立たせるエッジの効いた衣装デザインである。
それぞれが、普通に豪華なのではなく、個性的に見事に決まっている。  
これをコミカルにすると、アダムスファミリー、、、にはならないな。(いや、なるかも)。

只管、豪奢で怪しく退廃的な映像美に引き込んでゆく作りであり、独特の様式美を構築している。
ストーリーは、その映像を流す為の枠でもあろう。
情念渦巻く特異な愛憎劇であり、クリムゾンピーク(赤粘土)の真紅とドロドロの血と幽霊の赤いボディが雪白に殊更映える。
非常に細やかに、寒い雪空の中に、ひとひらの枯葉に、吹雪に、粘土に、幽霊に、靡くカーテンに、ささくれだった気配、悪意、霊気、殺気、死の予感が転写されてゆく。
ケレン味はなく、意外な展開とかスプラッターで過度な刺激はないに等しい。
(情け容赦ない殺傷シーンはあるが、、、ちょっと見ていて痛い)。

結局、この殺傷劇は基本的に幽霊などとは関係なく、ヒトの哀しい宿命の成せるものであった。


しかし怪しい母の幽霊から「クリムゾン・ピークに気をつけなさい」と10歳くらいで警告されたにしても、それが何のことか分かる状況に置かれなければ気がつくはずもないし、それでは遅い。本当に幽霊は彼女を危険から守る気があったのか?
それが怪しい。
わたしがあの立場でも、まず分かるとは思えない。
そんなその場にならなければわかろうはずもないメッセージではなく、イギリスから来た実業家には関わるなとか言ってもらったほうが、事前に回避可能である。
但し、それではお噺が始まらない、、、


兎も角、映像であった。
キャストもピッタリ・ゴシックであった。

Crimson Peak006


グレッグ・レイク~キース・エマーソン

Greg LakeGreg Lake Keith EmersonKeith Emerson

年の瀬に、何とも寂しいものである。
ELPのELである。エマーソンは3月に銃で自殺、レイクは癌により亡くなったことが12/8に発表された。
エマーソンは所謂、鬱であった。これについてはどうにも書けなかった。他人事ではないし、、、それが今度はグレッグ・レイクである。
もうPだけである。カールはまだかなり元気でいるらしい。
(ドラマーはいつも運動になっている感じだし、新陳代謝も良さそうな気がする)。
晩年の、クリムゾンキングのジャケット絵みたいに膨れ上がってしまったグレッグ・レイクを見ると何とも忍びなかった。
いくらなんでも膨らみ過ぎで大丈夫かと思っていたが、やはり無理があったか。こちらも他人事とは言えないが。
どうしても中年過ぎるとヒトは太ってしまう。(勿論、細くなるスティーブ・ハウみたいな例もあるが、、、彼はそのせいか、勢力的に自分の息子2人と組んでいまだにツアーをやってる。良い人生だ)。

”Brain Salad Surgery”『恐怖の頭脳改革』が特に好きなのだが、彼らのレーベル「マンティコア」初のアルバムである。
1973年。トータルアルバムとしての完成度の高さは、彼らの他の作品と比べても上である。しかも ”Karn Evil 9”『悪の教典#9』は圧倒的に凝縮されたエネルギー体である。グレッグ・レイクとキース・エマーソンを知りたい人には、まずこれを聴いてもらいたい。
そして、1971のセカンドアルバム”Tarkus”か。これはほとんどキースの組曲である。コンセプトもキースのもので、後の彼のコンポーザーとしての原型が窺える。
(わたしのフルートの先生も発表会で、”Karn Evil 9”のエレクトーン演奏をした。#が9つも付いているんですよ、と説明して始めたが凄い演奏だった。これを演奏すると誰でもエマーソンみたいに見えたことを、いまでもよく覚えている、、、何年前のことだ?)
そしてグレッグ・レイクの作品 ”Still...You Turn Me On”は、”Trilogy”、”From the Beginning”に並びわたしの最も好きなELPの耽美的てアコースティカルな曲の代表だ。ここでのグレッグのヴォーカルとギターにはただ只管酔いしれる。


この頃は、クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、ルネサンス、ヴァンダーグラーフ・ジェネレーター、、、などがとても元気で活きの良い頃である。
勿論、プロコルハルムも全盛期を迎えていた。ジェスロタルも忘れてはいけない、、、。

それらとは、別の流れで、クラフトワーク、カン、、、も独自の道を歩んでいる、、、。

群雄割拠である。
そんななか、、、トリオとしては、EGGと並ぶテクニックをもち、EGGがほぼ現代音楽なのに対し彼らはどちらかといえば、クラシック、ジャズ要素が強かった。無論、現代音楽へのアプローチも怠らず、”Brain Salad Surgery”の「トッカータ」はアルベルト・ヒナステラ作曲の「ピアノ協奏曲第1番第4楽章」を編曲したもの。サードアルバム”Trilogy”(1972)の”Hoedown”は、コープランドの曲を彼ら流に暴力的に編曲したもので、作曲者から絶賛を受けている。この曲に限らず演奏はどれもそのスタイル共々圧巻である。
また、EGGが基本的にInstrumental中心で、たまに入るヴォーカルは何とも無機的なのだが、ELPはグレッグ・レイクもキース・エマーソンもどちらも上手い!グレッグのヴォーカルは本当に叙情的で、大英帝国の深い霧を感じさせる知的で気品あるものだ。
彼のヴォーカルが聴ける曲の記念碑的なものにキング・クリムゾンのメンバーであった当時の、 ”Epitaph”がある。
”In The Court Of The Crimson King”に収録されている。(SF映画における”Blade Runner”にあたるアルバムといえよう)。
この曲に彼のヴォーカルの初期の魅力が湛えられている。いよいよ聴きかえしてみたい世界にもなってきた、、、。
その後(クリムゾンのSecond を経て)ELPを結成する。
ELPのハードなチューンだと、キースとグレッグの正直どちらが歌っているのか分からなかった。そう、とてもヴォーカルスタイルが似ているのだ。”Brain Salad Surgery”はキースがヴォーカルだとクレジットを見てはじめて知った。似ている。

グレッグ・レイクのベースはピアノのような澄んだ美しさで際立っていた。(ピアノのトーンに近いベース音なのだ。逆にベース音をシンセで出すプレイヤーは山ほどいる。単にベースギターの替りで出すのでなくても)。アコースティック・ギターの音色も煌びやかで美しかった。
キース・エマーソンのキーボードはまさに天才のテクニックであるし、そのステージアクションも彼独自のパフォーマンスとして熟成していた。
わたしのかなり昔の職場の同僚に、キース・エマーソンフリークの人がいた。
ご自身は幼少時代からパイプオルガンを本格的に習って演奏しており、専門は「数学」と「ババール」であった。
彼女の娘さんもお母さんにならっていつもキースがどうの~と言っていた。あの複数のキーボードの早弾きにゾッコンだったようだが、彼の作曲するクラシカルで稠密な構成のハードな曲にも惹かれていたようだ。
(わたしはこのお宅のiMacのメンテナンスと、ババールのHP製作のため写真取材に度々伺っていた)。
娘さんは年齢的に言って、キース・エマーソンを普通に知る世代ではないのだが、母の影響は大きく、彼女のアイドルだった。
、、、考えるともう相当昔の話だ、、、いまM家の人々はどうしているだろう?
恐らくいまでも趣味のババールの買い付けに母娘の軽いフットワークでヨーロッパに飛んでいる事だろうと思う。
「人間は趣味で生きている」、、、わたしの親友のS君の口癖(信念)だ。


キースは71歳で右の指が動きづらくなり、基本的に8本の指で演奏していたという。
クラシックピアニストもそれくらいの年齢になると腕が鈍るヒトは少なくない。
まして、非常に激しくアクロバティックな演奏を見せる人だ。しかも長時間に渡り何日も続け、、、。
過去に輝かしい成果を山ほど残しているのだから、ただ引退すればよかったのでは、、、。
グレッグ・レイクは長い闘病であったという。
あの体型も病のせいであったのか、、、。


ふたりとも、それに替わる人がいない、所謂天才であった。

ご冥福をお祈りしたい。



この世代で、未だに元気、元気(おかあさんといっしょではないが)なのは、ひとり飛び抜けて元気なミックジャガー筆頭にせいぜい数十名というところではないか?残念だが、今後も、ポツポツと寂しいニュースは入ってくるのだろう、、、。






借りぐらしのアリエッティ

The Borrower Arrietty
The Borrower Arrietty
2010年

米林宏昌監督
宮崎駿・丹羽圭子脚本

志田未来、、、アリエッティ(14歳の小人の少女)
神木隆之介、、、翔(心臓を患う少年)
大竹しのぶ、、、ホミリー(母)
竹下景子、、、牧 貞子(屋敷の主人、翔の祖母の妹)
藤原竜也、、、スピラー(野性的な小人の少年)
三浦友和、、、ポッド(父)
樹木希林、、、ハル(家政婦)
声が声優ではなく、俳優ばかりだ。

「思い出のマーニー」(2014)の監督・脚本のひとだ。
かつてジブリ作品の中で「~マーニー」が一番好きだと言ったが、この「~アリエッティ」が一番のお気に入りとなった(笑。

この監督作品には今後も注目したい。

次女が風邪でおやすみなので、一緒に観た。
小児科の待合室でいつもこれが流れているため、一度始めから終わりまで観てみたいという希望である。
もっともである。わたしも観たかった。

最初、”カリ”と聴いて「狩り」かと勘違いしたが「借り」であった。
(お父さんの出立が「狩り」っぽかったのもあり)。
なる程、それで「借りぐらし」なのだ。
(ハルさんの言うように盗みとまでは言いたくないが、失敬しているのは確かか、、、小人だから量は微量で目くじら立てるレヴェルではないが)。
「借りぐらし」って面白い、、、。
アリエッティにとって初めての「借り」に、見習いでついてゆくのが、まるで探検みたいに楽しそうである。

古い屋敷の床下で暮らす。しかも何代も続いて、、、。
見たところ、これも素敵な暮らしに見えた。
可愛い小人が自分たちの身近にひっそりと暮らしていたらと想うとやはり、こちらもそわそわする。
だが、決して交流どころか姿さえ見られてはならないのだ。
小人側の厳しい掟が立ちはだかっている。
物語は、ほぼ同年齢のアリエッティと翔の2人の間に生まれる両人種間初めての繊細で淡い愛情の芽生えと別れを描く。

そう言えば、この映画サイズの小人(小さくなった人間、、、アリスも含め)が活躍する映画は幾つもある。
だが、可愛らしさではアリエッティが一番だろう。
凛としているところが良い。

とは言え、わたしはその身体のサイズには到底、馴染めない。
あんなふうにでかいダンゴムシやバッタと親しく付き合えない。
まあ、普通サイズで、擬人化された虫たちと付き合う映画もあるが、、、。(相対的に同サイズとなるが)
其の辺は、一様に擬人化を少なからず受け脱臭された表現だ。
もっとも、この部分をリアルに描写してしまうと、みんなウルトラQやウルトラマンの怪獣になってしまう。
ホラーになって、落ち着いた繊細なこころの動きなど描写するどころではなくなってくる。
昆虫の顔をルーペで眺めた経験のある人なら、皆納得できるはず。
The Borrower Arrietty003

角砂糖やまち針、水滴などのモノへの拘りも良い。
あのドールハウスといい、そのへんのディテールの描き込みがこのタイプの映画はとても大事だと思う。
(静物に対し動物たちの描写は若干弱かった感はある。ただし猫は良かった)。

翔のアリエッティに対する「君たちは滅びゆく種族なんだ」ということばに少し驚いたが、死にゆく者への共感というか親近感が言わせているのか、、、。
自分も今度の心臓手術の後まで、生き延びることはないと感じている。
何というか、同じ傷を舐めあう気持ちでいたように思われる。
しかし、アリエッティが断固それを否定し、自分たちは必ず生き残ることを強く主張する。
アリエッティに関わりあっている間に、翔は彼女の生命力に感化され始める。
(実際、借りで暮らすということは、従属する人間の存在~生活が前提である。大きさから言ってもその存在を隠している身からも、自立して農耕や牧畜~虫の飼育などに従事するのは難しい。しかし、菌類や沼地などで藻類やユーグレナなどの生育が出来ると食料に関しては依存しなくても道は開けるかも。後は何といっても種族の人数である。自給自足であっても、人手~分業・組織がないことには、何も始められない。最低限の邨だ。外敵~猛禽類などからの防衛が不可避であろうし。しかし一番危ないのはやはり人間となる。結局今現在のあり方が最も無難なところか。身軽で機敏に移動できる~ノマドでいることは大きい)。

結局彼女らは引っ越すため遠くに行ってしまうのだが、貞子のお父さんが小人のためにイギリスに特注した豪奢なドールハウスを使わせてあげたいものであった。アリエッティのお母さんもそのキッチンセットや調度をいたく気に入っていたことだし。
共存は出来なかったのであろうか?アリエッティと翔との世代で、掟は変えられなかったのか。
そうすれば、みんなの夢が叶うではないか、、、。
もう少し、そのための葛藤や具体的なやりとりがあってもよかった気がするのだが、、、
好奇心に充ちた規範に囚われないアリエッティと死に直面しどんなものに対してもそのままを受け入れる翔の接触が共存の機会を探る最後の機会であったかも知れないと思われた。
この引越しは残念な運命である。あまりにそれをすんなり受け入れすぎていた。
あのハルさんの存在も小さくなく、小人陣営のひとつの恐れの対象の典型であろう。若い頃小人を見た事があり、彼らに会った事実を認めて貰いたいのなら、もっと方法があっただろうに。ただ、彼女は彼らを人格とは認めておらず、単に珍しい生き物(珍しい虫レヴェル)としか思っていないことは確かであった。共存に道を開くところにいるひとではない。


ところで、これは日本アニメだと思ってみていたのだが、英語のセリフを訳しているのか?
というのも、最後の最後、翔が生きることを力強く表明した後の肝心なセリフで、「君は僕の心臓の一部だ」にキョトンとしてしまったのだが、、、神木くん。
これって、まさかとは思うが、英語の苦手な中学生の訳ではあるまいな?
彼が心臓病だからといってそれに引っ掛け、こんな言い方まともな神経でするか?
それまでこちらもピッタリ共感していた上、「助けてくれてありがとう」の指同士を触れ合う場面で感動の頂点に達した矢先である。
神木く~ん、お願いだよ~。
(神木くんのせいではないのだが)。

それを差し引いても、とても好きな良いアニメだ。
音楽がまた良かった。セシル・コルベルのハープが終始心地よかった。
むかしよく聴いていた、キム・ロバートソンを彷彿させる、美しく優しい音楽である。

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アイアムアヒーロー

I Am a Hero

I Am a Hero
2015年

花沢健吾「アイアムアヒーロー」コミック原作
佐藤信介監督

大泉洋、、、鈴木英雄(漫画家)
有村架純、、、ひろみ(女子高生)
長澤まさみ、、、小野つぐみ(看護師)
片瀬那奈、、、徹子(英雄の彼女)

何のこともない日常から描かれる。
思いっきり冴えない情景である。
主人公の生きる環境とアイデンティティを知らせる導入である。
誰もが自分の思い描くようには生きれないという事実の反復。
諦観漂う生活。

鈴木英雄は売れない漫画家である。
新作を編集者に見せるも相手にされない。
同棲する彼女、徹子も彼に愛想をつかし、彼は家を追い出される羽目に。

翌日、徹子からの昨夜のことを詫びる電話が入るが、酷く体調が悪そうであった。
心配した鈴木が部屋を覗きにいくと四肢の動きがバラバラで有り得ない身のこなしをする、彼女がいた。
そして驚く鈴木に、変わり果て恐ろしい形相の彼女が襲いかかってきたのだ。
腰を抜かしながらも何とかしのぐ鈴木であったが、人間業ではない圧倒的な腕力で窮地に追い込まれる。
しかし彼女は、彼に噛み付く寸前に柱を噛んで歯が全て抜け落ちてしまう。
噛まれても、彼は血も出ず軽症で済む。徹子は結局、変わり果てた体のまま絶命する。
(彼女がウイルスに犯されZQNと化しても歯を落とすことで彼を救ったのかも知れない、と感じさせた)。

忽然と日常が破られたことを知らせるアラームの如く、空には多くの軍用ヘリが不安を煽るように横切ってゆく。

呆然としたままアトリエに行くと、確実に何かが起きてしまったことが分かる生々しい惨状が繰り広げられていた。
仕事仲間は皆、ウイルス感染で全滅してしまう。
頭を砕けば、そのゾンビは死ぬこともここで知る。

鈴木はたまらず外に転げ出ると、完全にいつもの街ではなかった。

この映画のゾンビはこれまでの映画作品のどのゾンビより人間であった頃の記憶を残しており、腕力や身体能力は高い。
かなり敏捷であり、街を逃げ惑う人々は、猛獣に襲われるように否応なく犠牲になってゆく。
ウイルスは公平に人を襲い、恐らく空を逃げているひと握りの特権階級以外は、同等に危険に身を晒していると想える。

逃げ惑う鈴木は女子高生ひろみに出逢い彼女のスマフォで調べると富士山に行けば助かることが分かる。
気圧と気温との関係か?ゾンビはZQNと呼ばれることも知る。
藁をも掴む気持ちで、タクシーで一緒に逃げる。
だが、タクシーは事故に合い、彼らは森をとぼとぼ歩いてゆく。
途中で鈴木は、ひろみの首にZQNに噛まれた跡がある事に気づく。相手は赤ん坊のZQNらしく発症するまで共に過ごすことにする。この辺から2人の間の信頼感は逆に増してゆく。「ヒデオちゃんといれば大丈夫な気がする」、、、しかし彼女にもその症状が出現してしまう。だが、異常な腕力は見せるも鈴木に対し危害を加えることはなかった。彼女は人間のまま踏みとどまりZQN特有の身体能力も秘めている、ハイブリッド誕生か?

漸く普通の生きた人のいるレジスタンスのアジトみたいな施設(元ホテル)に到着するが、過激なセクトを想わせる統率がしかれていた。
上下関係の元で上に立つ者が権力を自分に良いように行使し、残虐な制裁もメンバーに加えていた。
それがところどころにある焼死体であることが匂わされる。

これはとてもリアルな現場である。
恐らく実際でも、こうなることだろうと思われる。
ここにこそレジスタンスが必要であった。

小野つぐみ(偽名でヤブと名乗る)に出逢う。
彼女はただひとりレジスタンスの資質をもっている。
つぐみは患者を見捨てて逃げ込んできた看護師であるという罪悪感を胸にしまいながら逞しく生きていた。

ここで、異様なZQNたちの生態?が見られる。
彼らは生きていた~人であった頃の思いを只管反復して彷徨っていた。まるで可視化された霊界みたいだ。
特に、大学陸上部のZQNは、常に走り高跳びをし続けていた。
その為か、頭部の上半分がなくなっている。
丁度、脳にあたる部分だ。(それはないと思われる。何故なら体はそれとして腐敗せず生きているのだ。その代謝維持コントロールを統括するのは脳である。頭を打ち砕くと死ぬのなら、その頭とはどの部分なのか、、、)。これは、取り分け不思議なZQNである。しかも非常に怖い存在だ。人のいるホテル屋上にまで達する不安を常に醸している。後に実際に音楽の力で勢いを増し、飛んできて上の人間を全滅させる。(本源的な身体力を活性させる「音楽」が活用されている。ここでは悪意による操作であるが)。
ZQNのVFXは見事なものだ。これについては、海外映画に全くひけをとらない仕上がりだ。

彼ら人間たちの組織にも不公平感から亀裂が走り内紛が起きるが、それが元でほぼ全員がゾンビ化することになる。群がり襲いかかる彼らに鈴木、つぐみ、ひろみは追い詰められてゆく。しかしつぐみの悲痛な呼びかけで漸く、鈴木の「君は僕が守る」(彼のボツになった漫画のベタな文句)の自覚により、彼は銃を取る。(クレイ射撃が彼の趣味なのだ)。
鈴木英雄は、ここでついに英雄となり、次々にZQNの頭を銃で吹き飛ばしてゆく。
ほぼ、百発百中で。ここがこの映画のクライマックスであろう。
大泉洋、ホントに頑張った(笑。
最後に異様極まりない強敵、陸上部ZQNをやっとのことで倒し、3人で車で脱出する。
鈴木の顔が車のリアウインドーに強烈に射し込む太陽光に霞んで、エンドロール。


ひろみの存在が余りに中途半端ではないか、、、?
折角ハイブリットとして新たに覚醒した(有村架純としては二役目に入った)のに、ほとんど何の役回りもなく、つぐみに保護されているだけであった。腕力は間違いなく3人の中で飛び抜けているにも関わらず、、、。
まあ、アジトの性悪なリーダーにボウガンで頭を矢で刺されていたのだから、それどころではなかったか。
(いや、それで助かっていることの方が不思議か、、、脳幹に刺さっていないから大丈夫って、そういうもんでもないだろう)。
呑気に自動車で街へと脱出したが、ひろみをすぐにまともな病院に連れて行かなければ危険であろう。


どうも、「頭」が(むず痒く)気になる映画であった。


極普通の小市民的な男が、女子高生を守るために勇敢な男にならざる負えなかった過程が丁寧に細やかに描かれていて、そこは良かった。究極的な事態に追い込まれ苛烈な負荷をかけられただけではヒトは何も変われず、そこにひろみやつぐみを守りたいという明瞭な目的意識が加わりはじめて変身できるという、真っ当な真理が示されていた。ひろみが最後まで大人しくしていたのも、鈴木を奮い立たせる為であったところも勿論ある。
彼女も鈴木を英雄にしてあげたかったのだ。
小野つぐみも彼を大いに見直す。
有村架純と長澤まさみである!
これから先は、、、鈴木にとって「モテキ」か(爆。


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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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