プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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昭和記念公園に行く

syouwa001.jpg
娘ふたりが歌を唱っていたら横にやって来たので長女が撮る。通り過ぎた後、グエグエ鳴いていた。音痴だから笑われたんだ、と言うとふたりとも真に受けていた。

セグウェイにトロトロ乗って移動している人が楽しそうであった。
自転車で敢えてここを走るのは何とも言えない。
娘たちとしょっ中、自主的に自転車教室をやっている。
似たようなコースだ。
銀杏並樹は色が黄金色にキラキラしていた。
その先には噴水もあり、そこそこ和めそうだ。

バスと電車でわざわざ来た。(最近わたしの事情で遠出は公共交通機関を使用する)。
殿様仕事の神奈中は、今日も25分予定時間を遅れた。
もはや日本とも思えないが、走らせたい時に自由に走らせているとも聞く。
それくらいのリズムで生きましょう、というキャンペーンなのかも知れないが、真意は掴めていない、、、。


大きな広場に売店、沢山の子供がまとまって遊べる大きな遊具。
確かにいつも行く公園より規模が大きい。
しかし、それくらいなら入場料払って入る程でもない。
やはり、ここはボートだ。
いつも行く公園にボートの池までは無い。
綺麗な池ではないし、広い訳でもないが、ボートに乗ること自体が日常的ではないのだ。
そこに意味が有る。

思いっきり漕いでボートを走らせた。
かなり風が強かった為、流されないよう気をつけて下さいね、と言われワクワクするものがあった。
陸と違って、ハンドルの反応が少し遅れる。
特性は次第に掴めてくるが、まず、漕がなければならない。少し嫌になる。
時折、わたしが疲れた頃を見計らって、最近走るのが速くなった次女が漕ぐ。
面白そうに漕ぐ。それを長女が羨ましそうに眺めている。
syouwa003.jpg
長女が来い来いと呼びかけていたら何故か一匹やってきたので、長女が撮る。

長女は、池から飛び立つ瞬間の鴨を狙って写真に撮る。これは流石に難しい。鯉が勢いよく近づいてくるところを撮る。これは彼らの表情も窺えた。
だが、本当はボート漕ぎをやりたかったらしく、しきりに次女とポジションを代わりたがってきた。
だが、こんな小舟で立ち上がったらたまらない。
もう水は随分冷たい。その前に深緑の水である。
間違っても落ちてこの水を飲む気などしない。
あちこちコーナーを回っていたが、わたしが途中でスマホをやって、自然の流れに任せていた時、岸沿いのモウモウとした枯れ草にボートが捕まってしまった。
ありゃ、動かない(爆。
必死に2人で漕いで脱出したが、ちょっときた冒険気分が味わえまずまずだった。
ハンドル操作に慣れてきたらもう30分経っている。(ちょっと残念だったが、ちょうどよい時間でもあった)。

ソフトクリームのプレミアバニラが、美味しかった。

知り合いのご夫婦とその息子4歳に出逢い、後半一緒に行動したが、その息子がやんちゃでかなりの重量級。
凄いキャラクター(体重無差別級のクレヨンしんちゃん)で、やることなすこと面白かった為、退屈はしなかった。
最後はシャボン玉を飛ばしまくってケラケラ笑いっぱなしで、おわかれした。

広い公園を歩くうちに、銀杏、紅葉、ケヤキと並ぶが、日頃馴染んでいるメタセコイヤもあった。
紅葉のグラデーションが特に見事というほどではなかったが、その先の噴水がちょうど強烈な逆光に映えてほとんど光線の束しか観えないほどのタイミングであったため、これはという瞬間に、娘たちも入れて写真に撮った。

その前に長女の撮ったもの。誰も映っていなくてよかった。
syouwa004.jpg

おやつを買い溜めておいた為、小出しに渡すとかなり喜ばれた。
やはり遠足はおやついかんだな、と思った。









クラーナハ展

久々に本業?の絵の方で、、、。

Lucas Cranach

国立西洋美術館
クラーナハ展に行った
1517年に開始された宗教改革から500年ということで、同時代を生きたクラーナハ再考のちょうど良い機会というものか。
拾い物の展覧会であった。行ってよかった。
そもそもクラーナハの絵自体それ程観てこなかった。
これだけの点数が集められただけでも見る価値があるというもの。

16世紀ドイツルネサンスの画家クラーナハ(父)。
この当時、クラーナハはデューラーやグリューネヴァルトとも比較される大画家であり宮廷画家である。
デューラーやグリューネヴァルトがそうであるように、クラーナハの時代を超越した普遍性と個性を強く感じる展覧会であった。
特にデューラーとクラーナハの「メランコリア」の作品の違いには思わず笑ってしまった。
クラーナハは、この主題をおちょくっているのか?デューラーが余りに真摯に深く掘り下げ神秘的な晦渋さを呈しているのと比べてみると何とも言えない。(勿論、赤ん坊のダンスに寓意的意味はあるようだが)。
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*クラーナハとデューラーの”メランコリア”(爆

クラナーハ初の日本における絵画展である。

以前からクラナーハ(父)作とか(子)作とか、画集で観てきたが、その意味がわかった。
クラナーハ(蛇の紋章)作とは、クラナーハ(父)の制作総指揮による子や多くの弟子の総力を結集したクラナーハ工房としての絵画の総称なのだ。
勿論、クラーナハ(父)は、傑出した技量をもつ画家であった。
特にその速描きの才能が認められたため、如何に効率的に高品質の肖像画や寓意画を量産出来るかそのシステムづくりにも才能を発揮した。普通は自分ひとりでただひたすら頑張るというところで終わるものだろう。
様々な主題に対するバリエーションとパターンをクラナーハ(父)が考え、それに従い工房―工場のメンバーが各要素の組み合わせを工夫し人気作品(ヒット作)を生み出して行ったらしい。
想像するだけで面白い。

実業家、企業家としての絵描き。
商品としての絵画の普及を見据えていた画家である。(ドイツだけでなくヨーロッパ各地へと)。
フリードリヒ賢明公から授かった紋章を自身の署名更に工房の商標にもしてゆく。
このような形の制作者の先駆的存在であろう。


SF映画のポスターみたいな絵には驚いた。
少年向けSF雑誌の表紙みたいでもあり、強烈な郷愁にやられニンマリした(笑。
ある意味、この時代に飛んでもない絵である。
騎士が宇宙服を着ているではないか。SF映画も真っ青な天変地異で火山弾みたいなのが飛んでくるし、、、。
「聖カタリナの殉教」である。知らなかった絵であるが、ひと目で気に入った。(一番好きかも!)
妖艶で細身のヴィーナスは、非常にモダンであることを確認した。
これほど美しいヴィーナスだったことに改めて気づく。
透明な布のベールを手にしているが、この素材でどこを隠すことも出来ない。
ただ、手にそれを持つ仕草によって、本来隠されるべき身体のエロティシズムを更に高揚させている。
非常に写実的に描かれた何枚ものマルティン・ルターによって彼の顔は覚えてしまった。
街で合えば必ず気づくほどに(笑。

「不釣合いなカップル」シリーズもかなり痛いところを突いている。
金持ちの醜い老人と若く美しい金目当ての女性の息遣いを感じるそのカップルの絵からは、幾らでもその手の映画やTVドラマが生まれそうなものだ。
ユディト、サロメ、ヴィーナス、ルクレティアそれぞれの女性の物語もしっかり網羅されている。
わたしは中でも、ヴィーナスの美しさに目を奪われた。まるで綾波レイかと思うほどの蠱惑的な超時代性がある。
非常に名高い傑作「ホロフェルネスの首を持つユディト」もじっくり観ることができたが、もっている画集のものより格段に見応えがあった。(自分の画集が古く写真が良くないことが大きい)。
cranach002.jpg
この自らが主人公のドラマから魂はすでに何処かに飛んでいるのが分かる絵。

単なる様式美の画家ではない。
表現の幅も広い。
版画作品も多い。
彼は版画芸術の屈指の天才であるデューラーとも実際に親交があったという。
版画も当然工房の主要な商品であり、ドイツのみならず国外の皇室・貴族に多くの作品を納めていたようだ。
(デューラーに市場の独占はさせなかった)。

しかもクラーナハの凄いところは、油彩画と版画では、その拡散力には雲泥の差が出る。
勿論、クラーナハも版画を重要視して多くの作品を生み出したが、1点物の油彩画の普及力も工房の生産力によってヨーロッパに「遍在する」までにしてしまった。

大した実業家である。
「正義の寓意」が彼の本質を表しているように思えたのだが、、、。

面白かったのは、ピカソやマルセル・デュシャン、マンレイなどによるクラーナハである。
抽象化されるとこんなふうになるのかという変貌が愉しめる。これがまた観ごたえ充分なのだ。
そして極めつけは、レイラ・パズーキの『「正義の寓意」1537年によるコンペティション』である。
中国の複製絵描き100人にワークショップで描かせた絵が100点?(数えてない)壁面にズラっと並んだ様は壮観であった。
複製と反復そしてそれによる商品というクラーナハの差異を孕んだ反復による制作過程にオーバーラップする視点を提供していた。


今日は、病院の帰りに寄ってきたため過労もあり、このへんにしたい。(上野公園で遊ぶんじゃなかった)。
常設展もボリュームたっぷりであったが、敢えて書かない。
上野なので一緒に観た、「ゴッホ&ゴーギャン展」も後日、一言書いておきたい。






冷たい熱帯魚

Cold Fish

園子温監督・脚本

2011年

吹越満、、、社本信行(熱帯魚店の店主)
でんでん、、、村田幸雄(アマゾンゴールド熱帯魚店店主)
黒沢あすか、、、村田愛子(幸雄の妻)
神楽坂恵、、、社本妙子(信行の妻)
梶原ひかり、、、社本美津子(信行の娘)

「ヒミズ」の監督だ。
バイオレンスとコミカルさで一気に見せてしまう。
勢いのある作品だ。
でんでんと言うか村田幸雄みたいな輩はあちこちにいる。
巻き込まれないように気を付けないといけない。
まず、これを観て、そう思った(爆。
絶対に返り討ちにしなければならない!


社本家のように前妻の娘と後妻の確執が横たわる家での夫の立場は難しい。
彼は元々、星を眺めて物思いに耽りたい(逃避したい)タイプのヒトだ。
現実的な女同士の啀み合いにドップリ関わり治めてゆく気力なんて端からないと思う。
(娘もかなり大きいし、事前に充分相性を確認しておく必要があったはずだが、そのような段取りすら苦手であるようだ)。
父性を発揮して家庭をまとめる事がそもそも可能なのか、という問題でもある。
(この辺を語り始めたらキリがないので、やめる)。

娘が非行に走ったからといって、何が原因かは判らない。
しかし、親への不満をそういう形で表現していることは見て取れる。
この家庭の場合、娘が産みの母親に非常に固執していることは間違いない。
それは、二重の意味でもうどうにもならないことだ。(母子の幼年期の関係の濃さとすでに母が亡くなってるという点において)。
基本的に娘がある歳を越えたら、後妻は他の女以外の何者でもない。(それなりに信頼できる年上の友人からの関係づくりとなろう。それが、ここでは失敗している。娘―彼女がタバコ嫌いならまず外出先で吸うべきだ)。

その崩壊すれすれの家庭の状況に、巧妙につけこんできたのが、村田だ。
一見世話やきで人当たりは良いが、その押しつけの強さなど、わたしの大嫌いなタイプの人間だが、社本家にとっては、娘の窮地を救ってくれた恩人でもあり、取り敢えず良い顔をしておかない訳にもいかない。
熱帯魚屋で真っ赤なフェラーリというのも、胡散臭さ一杯である。車から見ても、すぐに距離を置くべきだったのだが。
村田がたまたま、娘を助けたというのは嘘で前々から社本家に目をつけてきたのは確かだ。
(ゴロツキは、自分の支配下に置けそうな、又は自らの自尊心や自己顕示欲を満たせそうな対象を探してうろつく。わたしの周囲にもまさにこんなのがいるが、大概頭が悪いため対象を選び間違う。その点、村田はドンピシャであった)。
そして、村田の店での娘のバイトの提案を受け入れた時点で、社本家は底なしの地獄に引きずり込まれてゆく。
正確には父である社本信行が、途轍もない地獄を見るのであるが、最終的にはみんな力強く落ちてしまう。
ここにエロスとタナトス(性と死)の渦巻く世界が描き尽くされている。


この場合、本当に相手が悪すぎた(爆。
両者の関係が余りに非対称なのだ。
圧倒的に村田の役者が上である。
まず、社本の妻を篭絡し、彼に妻を通して一攫千金の投資話を吹き込む。
元々娘の件もあり妻に引け目を感じている社本は、そそくさと村田の毳毳しい熱帯魚屋に赴くしかない。
金は用意してきたがいまひとつ話に乗り切れない投資家を、村田は社本の目の前で毒入りドリンクで殺害する。
この形で彼は財を成してきた事を知るが、時すでに遅く、同時に社本は、ここで強制的に共犯関係を結ばされた事も知る。
(このドギツサには恐れ入った)。
「俺は誰がいつ死ぬか、いつまで生きるか、ちゃあんと知ってるんだ。どこでくたばってもらうか、それを決めるのは俺だ!」という表明の重さは計り知れない。俺はお前の神である、という啓示に等しいではないか。これだけの絶対支配は、並みのゴロツキになぞ出来ようはずもない。これは何者であろうが、破格だ!

社本は、この強烈な体験により、恐怖と畏怖による思考麻痺(停止状態)で村田の指示どうりに動くロボットとなる。
ハラキリ山の妙な教会を模したような荒小屋(又は逆説的聖地なのか?)で、屍体の解体処理を手伝わされるのだ。
何とそこが村田の子供の頃父親に閉じ込められていた小屋であったという、、、。
恐るべき幼少期の一端を垣間見た気にさせられ、更に社本の畏れの意識は高まる。
血みどろの光景にマーラーの覆い被さることで、完全に圧倒された社本の心情が顕になる。
更に、凄いことに屍体解体における愛子の段取り、手際の良さである。
どれだけ、こんな経験を積んできたのか、、、。この女は一体何者か!
2人で談笑しながら解体を嬉しんでいるではないか、、、ちょっとこちらも妙に楽しくなってくるコミカルさ、、、。
社本としては、妻と娘を人質に取られている事もあるが、このコンテクストからもはや外れようがなくなっている。
完全に判断不可能な世界に囚われてしまったのだ。

屍体を出来る限り細かく切り刻み、骨は燃やして灰にして撒き、肉片は河に流して魚の餌にして実体―存在を消す。
それでこれまで殺人をずっと積み重ねて来たのだ。
誰に疑われようと、ボディが透明になっちまえば、何も分かりはしねえ、が村田の口癖である。

しかし、こんな村田に付き従うばかりの社本も、村田の外道な挑発の果てに、情動(衝動)が噴出する。
愛子を鉛筆で刺した後、村田を狂ったように何度も突き刺す。

すると瀕死の村田から、お母さん助けて、お父さん、やめて、、、と幼少の頃に戻ったかの様な、か細い声が漏れるではないか、、、この男の単なる出自というより本質を雄弁に語っている。
虐待の末に獲得された歪み破綻した村田の名付けようもない絶対的人格の起源に他ならない(心理学的には気の利いた障害名は見つかるだろうが、、、)。
そしてこの妻、愛子がまた凄まじい本性を噴出させてゆく。
この女はどうしてこうなったかのヒントすらもここからは、見えてこないが、、、。
彼女も村田に劣らず、恐ろしい死に様だ。(この死に様がそのまま生き様を象徴している)。
結局、社本は妙子も刺殺し娘に「生きてゆくことは痛い事だ!」と生きてゆく自覚を促し、娘の前で自害して果てる。
娘は何度となく死んだ父親を蹴飛ばし続け、1人で生きてゆく決意を固めていた。


でんでんという俳優であるが、このような役を演じられて、さぞ幸せだったに違いない。
悪役と言ってもその怪物性は生半可なものではない。
演じ甲斐は充分であったであろう。
そして黒沢あすかの愛子もこの村田と共に、残り続けるキャラクターであると思われる。


Cold Fish002

面白かった!






レベッカ

Joan de Beauvoir de Havilland001

Rebecca
1940年
アメリカ

ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』原作

アルフレッド・ヒッチコック監督

ヒッチコックの渡米第一作目

ジョーン・フォンテイン、、、わたし(ド・ウィンター婦人)
ローレンス・オリヴィエ、、、マキシム・ド・ウィンター(マンダレイの主人)
ジュディス・アンダーソン、、、ダンヴァース夫人(家政婦長)
ジョージ・サンダース、、、ジャック・ファヴェル(レベッカの愛人)
レジナルド・デニー、、、フランク・クローリー(マキシムの不動産管理人でマキシムの親友)

、、、レベッカ・デ・ウィンター(亡き元ド・ウィンター婦人)


マンダレイの広大で絢爛豪華な屋敷。空。海。崖。森。全てが狂気を秘めた美しさ。
レベッカは写真や肖像画でさえも姿は一度も見せないが、終始圧倒的な存在感で「わたし」を威圧する。
すでにこの世にいない美貌と教養の誉れ高い主人公が伝説となってマンダレイを支配し続ける。
登場人物の誰もが彼女の幻想に深く囚われている。というより蝕まれている。
そして静かに、夜の闇の水底からその実相を現し、マンダレイを炎に包む事態にまで追い込んでゆく。
まさにゴシック・ロマン。ひたひたと迫るサスペンスである。

後妻として入った「わたし」には、名前が与えられていない。
家政婦長でレベッカを称え亡き後も忠誠を誓うダンヴァース夫人の冷たく厳しい「わたし」への仕打ち。
いや悪意により、日常に安らぎはなく緊張感の引くことはない。
この家政婦長も狂気のレベルである。
やがて彼女のレベッカへの狂気の愛情は「わたし」へのあからさまな殺意に変わるが、、、。
最後は、「わたし」とマキシムが幸せに暮らすことが耐えられないと、屋敷に火を掛けレベッカの部屋で焼け死ぬという狂態を演じた。

非常に静謐に真綿で「わたし」の首を締めてゆくような場面が淡々と描かれてゆく。
各部屋にある物には、ことごとくレベッカの"R"のイニシャルがあり、前の奥様は、、、と何かにつけて比べられる。
時折、美しい自然の光景が広がる場面はあるが、それすらレベッカの影に染められているのだった。
「わたし」の神経質な鼓動の振幅までが手に取るように伝わる。
普通なら鬱になってもおかしく無い。
マキシムとも何度もぶつかることになるが、これもマキシムの中に巣食うレベッカの成せる技である。
(彼を捕らえて離さない想念は、レベッカへの愛情では無く、激しい憎悪であったが、それは最後に明かされる)。


ユダヤ教の始祖アブラハムの息子イサクの妻リべカ(レベッカ)がこのレベッカのモデルだという論考をどこかで読んだ記憶がある。
その双子の子供、兄エサウと弟ヤコブのうち兄を後継者とするところを、彼女は偏愛する弟ヤコブを兄と偽らせ後継者に仕立て上げた。
ヤコブは神と人とに争い勝ち、『イスラエル』(神と闘う者)と名のり、それは後に民族の名となる。
彼女がユダヤ~キリスト教の「全構想を用意した」と。
その世界を後々まで決定する画策であった。

この映画のレベッカも、自分が末期癌であることを知り、夫に自分を殺害させようと仕向ける。
自分の不貞の数々をわざと夫に知らせ逆上させて、彼に自分が手に掛けたという罪悪感を植え付けた。
自らの不在をもってマンダレイの主人と屋敷の使用人たち全てを彼女は呪縛し続けたのだ。
そして「わたし」もである。
しかしある夜、突然湖畔でレベッカのボートが見つかり、その中に彼女の屍体も確認される。
自分が殺したと思っているマキシムは窮地に追い込まれ絶望の縁に立つ。
レベッカの愛人であったファヴェルもなんとかマキシムを殺人犯に仕立てたいばかりに、彼女が偽名で通っていたロンドンの医者を突き止め、妊娠していたことをとりあげ、逆上したマキシムに殺されたという筋書きを証明しようとする。
だが、事態はマキシムにとって幸運なことに、彼女はもう助からない癌のステージであったことが分かる。
医者は彼女に自殺の意思があった可能性を検事に知らせる。
ここで、ボートは彼女自らが沈めた方向に導かれ、マキシムへの疑いは晴れる。
(マキシムが彼女をボートに乗せ底に穴を空けて沈めた事実はうやむやにされ)。

しかし、帰りに彼の目に飛び込んできたものは、巨大な財産マンダレイの焼失する光景であった。
この恐ろしいレベッカという存在とは、何か。


続・ラーメン屋へゆく!

ramen01.jpg
先週、ラーメン屋に行ったら、あえなく臨時休業で食べられなかった為、、、
本日、娘をピアノ教室に送った後、迎えに行くまでの間に、自転車でラーメン屋の偵察に向かった。
日の暮れるのが早くなったものだ。
改めて行くとしたら、少し暖かい上着が必要だなと感じる。
やはり歩くより格段目的地への到着は早い。
ラーメン屋には、暖簾がかかっていた!

ということで、ピアノから帰ると直ぐにラーメン屋に。
(先週は2人とも曲が上がったのだが、今日は次女が上がらなかった。その件はあくまで伏せて)。
ラーメン屋で、3人で3つのドンブリを頼んだ。
これは、初めての試みである。
娘2人が大人盛りのラーメンを一杯食べるのは、これが初めてとなる。
これまで小鉢にドンブリ一杯を小分けして食べさせていた。
つまり、二倍の量に挑戦である。

結果、2人とも食べきった!
スープに関しては、わたしより娘の方が残りは少なかった。
スープはそんなに飲まなくていいよ、と言ったが美味しいから飲んだと、、、。
わたしは血圧高いからあまり飲まないよ、と言うとすかさず、順番をつけてきた。
次女が一番、長女が二番、わたしが三番と、こういう番付が好きだ。
(食べきった順ならわたしが一番、次女が二番、長女が三番であるが、、、。
それを言ってみたら、次女がくっそーと言って、笑わせてくれた。
(ピアノでその闘志をもっと見せてもらいたいところだが、それは伏せる)。
何かと順番に拘る年頃か、、、。

帰りはもうほとんど真っ暗だ。
広い通りを歩けば、街灯や店の明かりで、夜をあまり感じないが、ひとつ住宅街に入ってしまえば、静かでそこそこ暗くて落ち着いた通りを歩ける。
2人がたまに行く小ぢんまりとした公園に差し掛かる。
うちでよく行く公園ベスト3には、入っていない。
それらの公園からするとひどく小さい。
しかし夜の効果か、、、街灯に怪しく照らし出された遊具など、やけに艶かしいのだ。
2人は少し立ち止まり、夜の公園で遊びたいね、と言う。
分かる。
感性的には分かる。が、もう遅い。
その公園では、どんなときでも、5時のサイレンが鳴ると、ハチの子を散らしたように子供たちは帰ってしまう。
どんなに遊びに熱中していても、さっとそこから離れてゆくのが凄いものだ。
(どういう条件反射か、、、わたしにとっては、ひとつの謎である)。

人っ子一人いない、夜の静まり返った公園。
昼の何千倍、魅惑的である。
月の光も加われば、これが更に幻惑する光景となる。
生憎、今夜は雨が降りそうで辛うじて降らないでもっている状態である。
曇った空の下、それでも公園には何かがあった。
(この光景の中には生身では入らない方がよいと感じた)。
友人にまさに、この夜の公園の光景を専門に描く画家がいたことを思い出す、、、。


美味しいもの、目を引く綺麗なもの、このあたりの感覚を日常にどこまでも解放してゆきたい。
これらを何処においても求めることが、生きることである。
それはに接する緒となろう。



ツレがうつになりまして。

tsure001.jpg
うつ病は、十人十色の症状であり、周囲にも理解されにくい病である。

2011年
細川貂々「ツレがうつになりまして。」原作
佐々部清監督

宮﨑あおい、、、髙埼晴子(売れない漫画家、髙埼幹雄・ツレの妻)
堺雅人、、、髙埼幹雄・ツレ(鬱の夫)

そういえば、、、NHK大河ドラマの主演コンビではないか、、、
わたしにしては珍しく見ていたTVドラマだ。「篤姫」だったっけ。
この頃、凄い宮崎あおいブームが吹き荒れていた。


この映画、まず主演キャストが良かったというのが一つだが、、、その環境である「家」がとても良い雰囲気であった。
あの家は、病にとっても良い影響・効果を齎す環境になり得ていると思う。
木造のやや古風で落ち着いた一戸建て日本家屋である。庭もちょうど良い広さで。
(これがコンクリート打ちっぱなしの内壁のマンションなんかだったら、やってらんない)。
特に、ハルさんのiMacのある仕事空間周りが素敵であった。
リビングと隣り合わせで、ややもすると集中に難があるかも知れぬが、ツレとの絶妙な距離感が保持できる。
そこに、イグアナの”イグ”もいる。
このイグもなかなかの寡黙な役者で、癒し以上の役目も果たしている。

ツレのような状況―病状に陥ることは、誰にでも有りうる。
病の全てはバランスの問題だと思う。
調和の取れなくなった身体の歪みが苦痛の場所となる。
(ここでは、主に脳の神経伝達物質のバランスの崩れ)。
更に、肝心なことだが、うつ病は適切な治療―対処が極めて難しい、掴みにくい病でもある。

非常に横揺れが大きい。
随分よくなってきた、と周りで安心していたら突然自殺するというケースも珍しくない。
(ここは、精神科医である弟に聞いた話の範囲であるが)。

かくいうわたしも、睡眠導入剤なしの生活はありえない状況である。
服用しないときは、朝まで眠れない。
疲労だけが生々しく蓄積し、神経がヒリつきっぱなしになる。
わたしの身体もバランスの崩れが重層している。

ツレが髙埼の「髙」を「高」と書かれる過ちに過度に敏感で、しゃにむに訂正させようとするところ。
やはり単に生真面目で几帳面とかいうレベルではなく、融通が効かない自閉症的な面を覗かせる。
毎朝自分で作るお弁当のチーズの種類も、ネクタイも曜日によってはっきり決めているところなんてまさにそうだ。
このある意味、ディテールに拘る―凝るところは、芸術家であれば創作に昇華出来る部分だ。
逆に今活躍の芸術家がもし、ツレのような仕事に就いていたらかなりの重症の鬱になっている可能性がある。
ツレも身体のあちこちの不調を訴え始め、医者に行ったら「うつ病だと」、、、しかし、いきなり言ってもらってラッキーである。
普通は、伝えない。しかし彼の場合、そのお陰で直ぐに対処できたことは、大きい。
この映画での、妻ハルさんの「会社辞めないと離婚するわよ」は、素晴らしい。
これ程よく出来た妻がホントにいるかは、大いに疑問であるが、その発想がなければツレはこの先やってゆけないことを直覚したのだと思われる。

ハルさんは、外に対して「ツレがうつになりまして。」と言えたことで、吹っ切れる。
連載を打ち切られた出版社に談判に行き、鬱関係の書籍の仕事を貰う。
そこから、ツレの闘病日記も渡され、振り返って考えるうちに、自分のホントに書くべき作品のアイデアが文字通り浮かんでゆくのだった、、、。(ここのVFXはちょっと微妙であるが)。
自分たちの本が出来上がる頃には、ツレは薬を飲まなくてもよいところまで回復していた、というのはやはり2人で協力してひとつの書くべき作品制作に一心に向かっていたからであろう。


最後の、「できないさん」(以前の会社時代のクレーマー)がツレの公演会場に現れるところは、ない方がよかった。
取ってつけたようなワザとらしいハプニングには白けてしまう。
「あとで」・・・「焦らず」「特別扱いをしない」「できることとできないことを見分けよう」
確かに、、、。

ツレがハルさんをマネージメントする会社を作って共に稼ぐというのは、素晴らしい取り組みだ。
その会社名が、「髙」に因んだ「ハシゴ社」というのが笑える。
ホントに拘りの強い人だ。
この頑固さが著しいアンバランスを身体に来すのだとは想えるが、それが対象化され洒落のレベルに昇華されると、このような安定した稼ぎの出来るところにくる(笑。
なかなか、そうはないケースではあろうが、こういう方向性もあるという前向きな意欲を引き出す契機になれば良いと思う。


宮崎あおいと堺雅人の夫婦も良いが、宮崎あおいと松田龍平夫婦も凄く良かったことを思い出す。
「舟を編む」の続編はないのか?
(あの「みっちゃん」もへたをすると、真面目で責任感が強すぎ欝になりかねない人である)。



羅生門

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1950年

芥川龍之介 『藪の中』、『羅生門』原作
黒澤明監督

三船敏郎、、、多襄丸(悪名高い盗賊)
京マチ子、、、真砂(金沢の妻)
森雅之、、、金沢武弘(侍)
志村喬、、、杣(そま)売り
千秋実、、、旅法師
上田吉二郎、、、下人


平安時代。というか時代を超越した場所―時空に想えてくる。
羅生門の廃墟としか言えない凄いセットには、ひたすら圧倒される。
雨の降りを激しく見せるため、墨汁を混ぜたという話は大変有名。
それだけでなく、杣売りが森の中を歩き見上げると、木々の間から陽光が漏れ射してくる場面もインパクトを与えたシーンだと聞く。
「わかんねえ、さっぱりわかんねえ」の独白に繋がる迷宮入りも暗示しているものか。

森で起きた殺人事件。
検非違使の庭での関係者3人の証言が、土砂降りの羅生門で杣売りと旅法師により物語られてゆく、、、。
噺の聞き役として、豪雨の中飛び込んで来て羅生門の木材をもぎ取っては焚き火をする下人が加わる。

杣売りは森で、市女笠、侍烏帽子、断ち切られた縄、守り袋が歩くうちに現れ、最後に侍の死体にたどり着いたまでの目撃情報を騙る。他には何も見ていませんと、強調する。もじもじとても慎ましやかに述べる分、何かを隠している雰囲気満載。
そして以下、直接的な関係者からの各証言である。

悪名轟く盗賊の多襄丸は自分がその侍である金沢武弘を剣と剣の果し合いの末、殺したと偉そうに騙る。
森で昼寝をしていたら、そよ風が吹いたために、殺すことになった、などというフランス実存主義文学のようなセリフを述べる。
まるでカミユの主人公みたいだ。(ムルソー?)
そよ風のとき、すぐ近くを馬で通り過ぎた侍の妻の裾がたなびいたのに電撃的エロティシズムを覚えたようで、ここはロランバルトか。
自らの豪放さを演出するかのような語り口で、その気性の激しい短刀で刃向かう妻がますます気に入り、手篭めにした。するとその女はあなたか夫のどちらかに死んでもらいたい。生き残った方にわたしは着くと謂う。これまたギリシャ神話なら驚かないが、かなり究極的な提案をする。フロイトならどう分析するか?結局2人とも勇敢に戦い、自分がその夫の侍を殺すが、女には逃げられたと豪快に笑い飛ばしてみせる。この男、大変見栄っ張りで虚勢をはるタイプに見える。

真砂の証言だが、多襄丸は手込めにしたあとさっさと逃げてしまい、夫にすがるとその目にはわたしを蔑む冷たい光しかなかった、、、という詩的な表現で来た。なかなかの女である。女は兎角、創作は上手い。
殺してと頼むと気絶してしまい、気づくと夫に自分の短剣が刺さっているではないか、、、。その後自害しようとしたが死にきれなかったと。
しかし、これはすぐに杣売りが否定する。自分が屍体を見つけたとき、何も刺さってはいなかったと。
こちらの証言では、女は気弱なようにも窺えるが感情の激しさは見受けられる。そしてここでも自分が殺害したことを主張する。

何と殺された男の話を巫女を通して聴取するという、かなりハイパーな手段も用いる。
平安時代の奥深さを感じるところか。ちょっとわくわくするではないか、、、。
巫女が言うには、、、
真砂は手込めにされた後、多襄丸に慰められる。すると彼女はこともあろうに、どこにでも連れて行ってくださいと美しい表情で頼んだという。その上何とあの夫を殺してとせがんだと言う。これで一気に熱の覚めた多襄丸は、夫に向かって「この女を殺すか、助けるか、どうするか」と聞いた。
真砂は逃げ、武弘は彼女の持っていた短刀で自害したと。つまり自分で自分を殺害したということだ。
しかし、先に言ったように、短刀ではなく、彼は剣で殺されていた。

つまり、みんなが聞き手の下人の言うように、自分の都合の悪いところは隠して嘘をつくのだ。
だが、おもしろいことに、誰もが殺害を否定するのではなく、3人とも自分が武弘を殺したと主張している。
殺害の罪に問われてもなお、隠す何かがあるのか。
女と男の問題が絡むと、昼メロではないが、そちらが優先となるようだ、、、。

この後、飛んだ真証言が語られることになる。
下人に本当のところどこからお前は見ていたのかときつく問い詰められ、杣売りはとうとう白状する。
実は彼は3人の言い争いから見ていた。(関わりになりたくなくて検非違使に喋らなかったのだ)。
多襄丸は女に謝り、お前のためなら何でもするし何にでもなるからといった感じで非常に熱心に汗タラタラで口説いていた。
しかし真砂は無理だと断り、縛られた夫の縄を解く。だが、彼はこんな女のために命を張るのはゴメンだと決闘を拒否する。
そして何故自害しないのかと厳しく問う。これはかなり元々の夫婦仲が悪い感じが否めない。
多襄丸はいつまでも文句を言うなと言って去ろうとする。すると泣いていた真砂が急に高笑いをはじめ、夫ならこの男を殺してからそれを言うべきだと返し、多襄丸に対してもここから助けてくれるならどんな男でも良いと思ったが、お前も情けない男だと吐き捨てる。女の恐るべき底力だ。
そこで、2人の情けない男同士の体面を取り敢えずかけた、へっぴり腰の戦いになる。
先ほどの自分の証言の勇ましい果し合いではなく、本当に素人が刀をもって斬り合いをしたらこんなであろうと思われるリアルで無様な斬り合いが繰り広げられる。下手な腕自慢の侍の芝居掛かった斬り合いなどすっ飛ぶくらいの凄みで圧倒される。
結局、夫が死にたくないと言いながら刺されて死んだというではないか。

どんでん返しは続く。すぐ裏手で赤ん坊の泣き声がする。
下人は素早くそのうわ掛けの衣を剥がして奪う。
それを杣売りが強く咎めると、おれよりこの赤ん坊の親の方が悪い。だいたい手前勝手で何が悪い。生きていくためにはこうでもしなけりゃやってけない、と独自の現実主義の理屈を吐く。
逆に下人は杣売りを問い詰める。その螺鈿細工の高価な短刀はお前が盗んだのだろう。
これにはグウの音も出ない。完全に杣売りの偽善性も下人に晒されることになる。

「わしにはわしの心が判らねえ」と言いつつ、杣売りは「6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」とその子を引き取ることにする。
旅法師はあなたのお陰でわたしは、ひとを信じて行けると礼を述べる。
どうなのだろう、、、。少なくとも性善説を訴えるようなエンディングとは思えない。(授業か何かで最後に性善説の勝利なんだとか教えられた記憶があるのだが、、、)。
全ては、この崩落寸前という感じの羅生門のように覚束無い。
そこに女性の魔性が色濃く絡む。

モノクロで撮られたこの映画の重みは凄い。

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ATOM

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Astro Boy
2009年
アメリカ

『鉄腕アトム』手塚治虫原作
デヴィッド・バワーズ監督

声:
フレディ・ハイモア、、、アトム・トビー
ニコラス・ケイジ、、、テンマ博士(アトムの生みの親、トビーの父)
ビル・ナイ、、、お茶の水博士(アトムの理解者)
クリスティン・ベル、、、コーラ(アトムの親友)
ドナルド・サザーランド、、、ストーン大統領

かなり凄い人たちが声優をやっている。

邦題の「ATOM」は仕方ない。(われわれにとっては、「アトム」以外のなにものでもない)。
いっそ、元の題名もこれでよかったのでは、、、。


一言。素晴らしい作品であった。
わたしは、アトム派ではなく鉄人派であったのだが、この映画を観てアトムの魅力を再認識した。
まさに「こころやさしい~かがくの子~」であった。何万馬力かは知らぬが、、、。
アートワークもキャラ設定も含め、申し分無かった。
様々なロボットキャラには和んだ。
確かにアメリカのアトムになっており、周りも全てアメリカであったが、アトムの本質はしっかり捉えられていた。
御茶ノ水博士がオリジナルより彼らしく描かれていた気がして、嬉しい。
更にこのアトムはアニメであるからこの愛らしさと抽象性が保てると思う。他のキャラは何とでもなるかも知れぬが、アトムはどうやっても実写には耐えない気がする。

ギャレス・エドワーズ監督の”GOZZILLA”共々、原作へのオマージュ(tribute)である。


空中都市メトロシティで、選ばれた人々がロボットを管理しながら優雅な生活を享受している。

テンマ博士は彼の優秀な息子、トビーをピースキーパー暴走事故(ストーン大統領が原因)で失ってしまう。
博士は御茶ノ水博士が発見した『ブルーコア』(原子力より強大だが安全なエネルギー)を搭載した、トビーに生き写しのロボットを全身全霊で作りあげる。
しかし、ロボットの知力(及び記憶情報)は同等であったが、彼はトビーのコピーに過ぎない、という意識に悩まされ続ける。
コピーとして見ている以上、そのロボットを息子として愛せるはずがない。
単なるコピーはコピーである。
しかも博士は仕事に没頭していて、生前のトビーすらよく把握してはいないのだ。(学校のテストの点以外は、ほぼ知らない)。
博士の理想化した勝手な幻想によって、彼のトビー像は作られている。
そのロボットは、最初から捨てられる運命にあった。
結局、お前は息子ではない、、、とわかりきったことを言われテンマ博士に追い出される。

彼はブルーコアを盗もうとする軍にも執拗に追われ、メトロシティから落下してしまう。
落ちた地上で、”Astro Boy”―アトム(和名)という新しい名前をそこで出逢った仲間につけてもらう。
彼自身もトビーという名前は、剥奪されたも同様であったことから、その名を受け容れる。
彼はひたすら居場所を探す。

彼は『ブルーコア』エネルギーの特質なのか、どんな場面にあっても、他者―人を救う道を選ぶ。
自分を追い詰めた人間を最終的に助けてゆく。
テンマ博士も今のアトム自身を自らの子供として認め、深い愛情に芽生える。
最後にレッドコア(ブルーコア抽出の際の副産物)を装着して街を破壊するピースキーパーとの戦いとなり、アトムは自爆を前提とした双方のコアの対消滅を図り、ピースキーパーを倒す。
ピースキーパーは破壊されたが、アトムも完全にコアエネルギーを失い回復不能となる。
御茶ノ水博士もすでにブルーコアは強制的に処分させられ持っていなかった。
しかし、アトムが100年前の真鍮製巨大作業用ロボットを甦させるときに分け与えたブルーコアがあった。
そのロボットがやって来て自らエネルギーをアトムに分け、アトムは蘇生する。(与えたものは返ってくる教訓か)。

アトムのやり遂げた偉業は、人間とロボットの真の共存を達成したということだ。
ロボット3原則のような主従関係ではなく、友人として対等の関係性を結んだと云える。
ロボットはそれまでのように使い捨ての道具ではなく自立した存在となり、人間はロボットを一個の主体として尊重するようになった。
それによって、アトムは自らの居場所を作ったと謂える。(見つけたのではなく、作り出したのだ)。

この時代に、「ノーベル平和賞」があるならば、間違いなく彼が受賞者であることは間違いない。
(それにしても、ストーン大統領は酷いキャラクターであった。誰をモデルにしているかは想像できた)。



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