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GOMA28

Author:GOMA28
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パプリカ

paprika002.jpg

2006年
筒井康隆『パプリカ』原作

今敏 監督
平沢進 音楽


パプリカ/千葉敦子(サイコセラピスト、DCミニ開発チーム副主任)
乾精次郎(理事長)
時田浩作(肥満の天才、DCミニの発明者)
粉川利美(刑事)
小山内守雄(千葉の助手)

噺は「時をかける少女」より面白かった。


わたしは絶対自分の夢をヒトに見られるのも触れられるのもゴメンだ。
それこそプライバシーも何もあったものじゃない。
わたしという存在の根幹に関わるものではないか、、、。
(日々わたしもそこから歴史的な自己を探り続けている)。

夢と現。
他者と自分の潜在意識~夢。
その「境界」がとっぱらわれたらどうなるか、、、。
あらゆる軛から解かれた意識は何処へゆく(漂いだす)のか?


DCミニ(シナプス伝達型の通信方式による潜在意識共有装置)によって夢を共有する。
千葉敦子はパプリカ(コードネームか?)として、クライアントの夢(潜在意識)にダイブし障害(トラウマ)の元を突き止め、精神治療を行う。
これは医療行為である。

だが、使いようによっては、その装置はサイバーテロにも利用可能である。
ここでは実際、盗まれたDCミニを使った夢の乗っ取りにより、まさにサイバーテロへと繋がってゆく。
他者の夢に、ある意図(悪意)を持って突然無断で入り込む。
その人間の意識を丸ごと呑み込む程に悪夢は増殖する。
(謂わば、この映画のほとんどはその悪夢の描写に尽きるといえよう)。

様々な玩具や日本人形や家電製品が一斉に噴き出してパレードが始まる!
発狂した夢。
混沌の世界。
巨大な妄想がダイナミックに増幅してゆく。
浮遊感と時間の連続性も速度も覚束無い。
パプリカが救援に飛び回るが、、、謂わば相手―敵の掌の中で戦うような状況となる。
変幻自在な相手に対し変身しつつその元を探ろうとするが、、、
またそんなときの曲が素晴らしかった。
無論、テーマ音楽も。総合的に見てかなり実験性も高い。

この作品は、なかなか実写で再現は難しいものだと思う。
ちょっと、テリー・ギリアム監督なら挑むかも知れない世界に想えるが、、、。
夢の快楽原則と悪夢の不安と苦痛をパプリカが変身を繰り返しながら飛び回り横断する姿はかなり気持ち良い。


パプリカ―夢とその本体千葉敦子の個性がかなり違うところも、面白い。
素直で明朗快活なパプリカとシニカルで冷静沈着、知的な千葉。
人の現のペルソナと夢のそれとは異なる。
容姿―身体イメージがほぼ別人でしかも別人格。
心理学的にみても存在学(オントロジー)的にみても、、、
きっと、そういうものなのだろう。
別のアイデンティティは誰もが密かにもつものである。
大概、正反対のパーソナリティをもっていたりするもの。
パプリカの人格が次第に強度を増し自立の度合いを高め始める。
千葉敦子に意見し従わなくなり、結局千葉自身を変えてゆくが、、、。
実はそれが、彼女が真になりたいがなれないでいた自分であることが多い。

時田浩作の才能豊かな幼児振りもその超肥満な身体共に傑作であった。
比較的よく観る(読む)天才科学者タイプの典型ではある。

演出が度肝を抜くとまでは謂わないが、かなりデヴィッド・クローネンバーグのマンマシーン的表現が目立った。
特に小山内がパプリカから彼女の皮を剥ぎ取るようにして、恋愛の情を抱く千葉をその中から取り出すところには唖然とした。
夢の接触が幾つも起き、その集合体のグロテスクな様は見応えがある。
そして夢から別の夢への逃亡と攻防。
どこまでが誰の夢の領域なのかも判然としなくなり、戻るべき現実すらあやふやになる。

幾つもの夢に侵犯された意識は、荒らされて修復不能に陥る。
夢と現の境を崩すそのエネルギーはそもそもどこから発生しているのか、、、。
この力はどうやら発明者の時田すら想定し得ていなかったものらしい。
そして夢が現を侵犯してくる。
夢で粉川に撃たれた小山内が現実の世界で死ぬ。

夢が現実を破壊しブラックホールの如く吸い込み始める場所―時空に、粉川達は恐れ戦く。
巨大化した黒幕であった理事長がまるでプリキュアの最後の敵のような様相で暴れている。(ここは既視感あり。プリキュアが真似ているのだろうが)。

最後は夢から覚めたように収束する。
パプリカがこの事態を引き起こした理事長をその想念もろとも吸い込んでしまった。
彼女は童女から悪夢を吸い込む毎に成長してゆき、大人の女性になったところで全てを吸い込み消えてしまう。
(彼女こそがブラックホールか)。
そして助けられてベッドに横たわる時田浩作とそれを見舞う千葉敦子、、、。
穏やかな日常の再来。


もう少し夢の時間性―深さの度合いの描写がなされても良かったと思う。
夢の時間は、その層や場所によって進む速度は一様ではない。
ここらへんは、「インセプション」の方が精緻に描いている。


じっくり見られる映画であるが、子供と一緒には難しい。
完全に大人のアニメーションであった。

paprika001.jpg



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陽のあたる場所

A Place in the Sun

A Place in the Sun
アメリカ
1951年

ジョージ・スティーヴンス監督

セオドア・ドライサー原作『アメリカの悲劇』

モンゴメリー・クリフト、、、ジョージ・イーストマン(工場で出世を狙う貧しい出の若者)
エリザベス・テイラー、、、アンジェラ・ヴィッカース(社交界の華、ジョージの恋人)
シェリー・ウィンタース、、、アリス(ジョージの最初の恋人、工場従業員)


2人の女性に、ほぼ同時期に恋をし、どちらも比べられるものではなく、本当に好きであればどうしょもないことであろうが。
このジョージは、明らかにアンジェラと恋仲になった時点で、アリスへの愛情は失せている。
それを内省すれば、もうとるべき行動とすれば、「頼む、俺と別れてくれ!」と土下座するしかあるまい。
(アメリカには土下座はないが。気持ちとして)。
そこをズルズル双方との関係を引き伸ばしてゆけば、破綻しか見えないのは自明の理である。

しかし、それをやらずに続けることでドラマとなっているので、それを見るしか―楽しむしか、ない。
わたしにとって意外に思えたのは、アンジェラがあんなに本気で恋に落ちていたとは信じられなかった。
余りに彼女とジョージとは階級・立場が違いすぎる。
からかい相手として接触しているくらいかと思っていたら最初から一途な恋愛感情を燃やしていたのには参った。

わたしが見たところ、ジョージとアリスはちょうど良い夫婦に思えるし、ジョージとアンジェラも素敵な格差婚で、どちらも良いと思える。
しかも、ジョージはどちらとも、真剣な恋愛感情をもって付き合っていたことも確かだ。
(アンジェラと出会って、気が変わるがそれは仕方ない)。


この男は基本的に、正直で真面目な男だ。野心は、、、それほどでもない。
やはり過ちは、社内恋愛御法度でありながら、隠れてアリスと付き合いを始め、そのまま深めてしまったところにある。
そこをバカ正直に会社の規則に従っていれば、いきなりアンジェラと出会えて、そのまま正々堂々と付き合うことが出来た、、、と思うのだが、、、。
やはり、嘘はいけない。
(そういう教訓か?(笑)。

一番、いけないのは、自分に対する嘘だ。
神父が彼に最後に諭した如く。
彼は湖にアリスと共に落ちたとき、彼女を何をおいても救おうという気持ちより、アンジェラのことを想いアリスを放置して自分だけ岸に泳ぎ着いてしまった。不作為犯とでもいうべきものか?
いくら、殺害という犯行を否定しても、潜在する殺意はかき消せない。
教会の告白と謂う制度はかなり問題はあるが、この場合の自己対象化を図る意味では価値を覚える。
彼は、アンジェラに出会った時点から、アリスに消えてもらいたかった。
別れるではなく、消えて欲しかったのか。

この映画、恋愛の機微を伝える部分をはじめ、演出が精妙である。
鳥の啼き声やラジオ等、音の心理的効果を呼ぶ使い方が際立っていた。

こころを探り合い不安の張り詰める湖上に、怪しげに響く鳥の啼き声。
アリスの部屋の窓辺を介した、恋心に踊るラジオのボリューム調整。
みんなで勢いよくボート遊びに出発した後の桟橋に残ったラジオから、その後の急展開を予想させるアリスが溺死した事件を告げる放送。
エリザベス・テイラーの美貌とその表情も物語の影を引き立たせる演出としての効果が大きかった。
手に取るように分かるシェリー・ウィンタースの心理表現は、最後にはその風景とも一体化した狂気も引き寄せるものであった。
そして何よりモンゴメリー・クリフトの苦悩を繊細に体現する演技は素晴らしい。


また、この時代のフィルムにしては、異様に鮮明なDVDであることに驚いた。
*メディアディスク社(超高画質名作シリーズ)




西風号の遭難~急行「北極号」

Chris Van Allsburg002
村上春樹の翻訳本から、、、その2
急行「北極号」

CVオールズバーグ
絵・文

まずはその前に、昨日の「西風号の遭難」から、、、

読んでみると、まさに少年が嵐で船ごと吹き飛ばされ、気を失っているうちに観た、浮遊する夢が余りに美しく万能感を満たすものであった、、、。
目覚めた後もその衝撃の夢に取り憑かれ、現実にはどうしても充足できぬまま、かの浮遊する夢を追い一生を過ごした、、、という話と受け取れたが。

重力と電磁波に囚われた存在であるわれわれにとって、このような重力から解かれた世界はやはり、根源的な魅惑がある。
この世のあらゆる法則の源こそが重力だ。
そこから放たれれば、、、
恐らく自由と全体性を獲得することが出来る。
(そこにおいて自分が存在しうるかどうかなど知らないが、、、)。

長女に感想を聞くと、、、
「お船が飛ぶんだね。」
「面白い。」
という。

ホントにあったのかな。
「ホントの話だよ。だって、ラピュタも飛んでた。お船も飛ぶ。」
これって夢じゃないんだ。
「夢じゃない!」
これは、断言してきた、、、。

現実に船が空を飛び、飛行石が宙に浮かぶ。
そう、この話を夢と現に区切る必然性は、まったくない。
絵本に区切りなど何処にもなかった。
そのまま受け取る方が理に叶っているかも知れない。
「おじいさんだね。その子が。」
その丘(または世界の縁)で、おじいさんの話をただ聴けば良い。それが、正しかった。
そこに発見の可能性、新たな認識の場が隠されている。
(想像力でもよい)。


急行「北極号」
僕が主人公だ。

サンタは本当にいる。
これは何の問題もない。
実際に、どこの家の親もサンタだろうし。
サンタは何処にもいる。そもそもいない(否定する)必要はない。

わたしは、殊更子供の頃を貴重なものとか、美化する気などは毛頭ないが、、、
(未だに思い出し反復する不快で孤独な想いの方が多い)。
確かにその時期、フワッとどこかに行けた。
これは事実だ。


この僕は家の前にとまった急行に乗り込み「北極点」に行ってしまう。
バスローブ姿というのも良い。
いつも、こんな服装の時のこんなタイミングだ。
チャンスの前髪を上手く掴めば難なく飛べる。
この急行も走るというより飛ぶに近い。
物理法則は端から超えている。

「北極点」の町で世界中のクリスマスプレゼントが作られている。
サンタの手伝いをする小人もたくさんいた。
僕は、プレゼントを受け取る第一番目のこどもに選ばれた。
僕はサンタの橇に付く銀の鈴をねだって、貰った。

非常にmonumentalで静的なパステル画だ。
「去年マリエンバートで」の庭園の彫像にも似ている。
時間の刻み方の違いが絵に析出している。

そして、やはりトナカイの橇は飛ぶ。
日頃UFOが飛んでいるのだから、当然サンタも飛んでゆく。

しかし、僕はポケットに穴が空いていたため、鈴を亡くしてしまう。
ガッカリ沈むが、クリスマスの朝に箱に入った鈴が届けられる。
この一度失って改めて手に入るというのも、民俗学にも見られる贈与の醍醐味か?
これは嬉しさ倍増かも。

ベルを振るとそれは美しい音が。
次女はここに凄く興味を抱き、「どんな音かなあ」としきりに問いただす。
これは、音というより、、、何だろう、、、。

じっくり思い巡らせてみたい。
その音。






西風号の遭難

Chris Van Allsburg

村上春樹の翻訳本から、、、
CVオールズバーグ
絵・文

アメリカの絵本作家
なかなか良い作家を紹介してくれたものだ。これも村上春樹の功績のひとつか、、、。


今日、次女ではなく長女に読み聞かせた
(先日読み聞かせをしてくれた次女は、今日は忙しくてそれどころではないようなので、暇そうな長女に)

モーリス・センダック同様、広く人々に親しまれているアメリカ絵本作家であり、こちらも批評家受けがやたらと良い。


パステルの柔らかい粒子がマットな独特の光と物質感を生んでいる。
どこか地球上ではない空気感のパステル画だ。
そうか、夢の中か!
長女はよく起きがけに、「今日はいい夢見れた」ということがある。
まだ、現実と想念―例えばお化けの世界が、不可分な状況でもあることだし。
(サンタはどうだったか、、、)
すんなり実感・理解出来る部分もあると思われる。


まず彼女に絵だけ見せて、物語を想像させてみた。
優れて平面的であり、単純化され抽象化された絵は特別なものは一切描かれていないが神秘性が濃い。


彼女は一応、目を開けて見ていたが、「お船が海にいたり、お空に飛んでいた」。
「ちょっと面白かったけど」と、、、
次のことばが浮かんでこないようだった。
わたしも、文を読まないで絵だけ見せられたらこんなものか。
しかし、決してつまらないという表情ではなく、その不思議な魅力に興味は覚えたようだ。

明日、文と一緒にまた鑑賞しようと思っている。(今夜はもう遅いので)。
はっきり言って、文を読めばよく分かるというより、より夢の中に押しやられるような噺だ。
(この船、夢に出そう?と聞くとすぐに「うん」と応えた)。

最後に、難破船ともども、ぽつんとひとり取り残されるような感じで終わる。
そこが大変絵とマッチしているところか。
超然とした世界だ。
一種の冷ややかさと不安が漂う。
気温や気圧(重力)、空気の組成、更に海の水の組成も異なる世界に思える。
(最近、話題に事欠かない、地球外天体の海を夢想させる。タイタン、エウロパ、エンケラドス、、、)

とは言え、、、文の内容は、人生を顧みるものでもある。
それは、概念としてもっていない。
少年期特有の自分の力を誇示したい気持ちも、まだ少し先にある。
が、こちらの方は理解出来る範囲だ。
自分でそれはもう出来ると思ってやってみた結果、上手く出来た喜びと自信の経験。
失敗してガッカリした経験はすでに持っている。
(この少年の全能感は、漸く自分ひとりで立ち上がれたころの全能感に寧ろ近い気もするが)。


また、もし面白い事があれば、続きを載せたい。

どうでもよいことだが、わたしはこれまで、一ヶ月に40記事書いたことがない。
今月、初めての40記事となった(祝?

毎日惰性で、書かないと気持ち悪いため書いているに過ぎないが、まとまった大きなものを作ることをずっと長いことしていないのが気になりだした。
少し考えてみたい。
やはり、絵を描くか、、、。

荒野の決闘

My Darling Clementine

My Darling Clementine
1946年
アメリカ

スチュアート・N・レイク原作
ジョン・フォード監督
ジョー・マクドナルド撮影


ヘンリー・フォンダ、、、ワイアット・アープ(牛追い、保安官)
リンダ・ダーネル、、、チワワ(酒場の情婦)
ヴィクター・マチュア、、、ドク・ホリデイ(病を持つ医者)
キャシー・ダウンズ、、、クレメンタイン(ドクの元恋人である貴婦人)

「荒野の決闘」という線で売りたかったのか、、、。
原題のまま下手に訳すと確かに厳しいものになるか、、、。
「いとしのクレメンタイン」では、ダメか?
”My Darling Clementine”余りに素敵な題名なのだが。

どうやら、元になる実話があったそうだ、、、。
しかし映画はあくまでも映画という芸術である。
それとして、鑑賞したい。


わたしは、西部劇というものを僅かしか観た事がないのだが、これ程詩情あふれる美しいものがあるとは知らなかった。
ジョン・フォードならではの詩情なのだろう。
選ばれた役者も皆、影と気品がある。悪役は狡猾な悪役に徹していたが煩くはない。
OK牧場の決闘も、いたって淡々とした静謐な流れの内に、語りと様々な想いと事物の交錯があり文学性すら感じた。

見渡す平原の絵も美しく、馬の疾走する様もひたすら美しい。
長閑な日曜日の光景も、小津の「東京物語」にも似たこの世ならざる美しさがあった。
「駅馬車」は、もっと激しい映画であった印象がある。
もう僅かな断片しか覚えていないため、見直さなければならないが。
この映画は、何と言うか、、、西部劇というより非常に繊細な恋愛ドラマに映る。
それもすこぶる純粋な。

善人と苦悩する者と悪者が、明瞭に描き分けられている。
とてもすっきりしていて、澄み渡った作品だ。
話の流れ、各人物の感情の変化も大変自然な説得力があり、共感できるものとなっている。
無理な展開や解りにくい設定が全くない映画を久しぶりに観た思いがするものだ。
ここはとても大切なところであろう。
アープのクレメンタインに対する微笑ましい一目惚れ。
病を抱えるドクの複雑で苦悩する心境。
チワワの女性としての一途でやるせない想い。
アープとドクの深まる友情。ドクの決闘への加勢までの流れ。
クレメンタインがあの街に残り学校の先生をやるという決心も分かる気がした。
すべての瑞々しい感情にそのまま同調する。


ワイアット・アープのクレメンタインに対する思慕の情には、シラノ・ド・ベルジュラックのような騎士道を感じさせる。
特にクレメンタインにやっとの思いでダンスを申し込むところは、朴訥で暖かいアープの人柄がよく出た場面である。
踊っている時の彼の子供のような嬉しそうな表情には、それを偶然見かけた彼の弟たちも呆れていた。
この辺には思わず失笑してしまった。
なかなか味のある人である。

ヴィクター・マチュアの哀愁に満ちた苦悩する表情―姿は、この作品を詩情の濃い重厚なものにしている。
そして何と言ってもカメラだ。
このカメラマンあってのこの美しい映画という気がする。
ポスターも見たが、面白い構図のポスターで、あのシーンを切り取るか、と唸るものであった。
ヘンリー・フォンダが腰掛けた椅子を後ろに反らせながら柱に右足をかけている。
思えばかなり絵として十分に考え抜かれた場面が多かったことに気づく。
OK牧場での決闘が、突然の駅馬車の乱入による、砂埃の中からの一発の銃声によって始まるところからして芸術的である。
また、銃撃戦などは変に芝居掛かってはおらず、非常にリアルな感覚であった。
実際、戦後間もなく撮られた映画である。監督の戦場での実体験も活きているのだろうか。
一度観たくらいでは、詩的で綺麗だという感想に終わりかねない映画であるが、少し細部に渡り見直さなければならない作品であった。


My Darling Clementine002
「あなたの名前が好きだ。クレメンタイン。」




ラーメン屋へゆく!

ramen01.jpg

昨日、ピアノが2人とも全部(最近、2曲づつとなった。まだ簡単な曲だからだろう)上がったら、美味しいラーメン屋さんに連れてゆく、という約束をしていた。
上がったので約束通り、連れてゆくことになった。

まだ、2人ともラーメンをドンブリ一杯食べ切れたことがない。
それでこれまでは、小鉢に分けて食べさせていた。
しかし、今回は2人とも大きくなったからドンブリ一杯食べきるぞと意気込んでいる。
彼女らは舗道を走ってはわたしのところに戻り、また走って来ては戻りと、、、準備運動しながらお店に向かう。
そんなに走っては、食べる前に疲れちゃうよ。
食べきれなければ、残していいから。
こう言うと、安心したようで、普通に歩きだした。

今、結構何にでも目標を立ててそれを達成しましょう、という気風に取り巻かれている。
やるべきことを自ら増やしてしまう傾向も見られる。
これは、実際キツイ。
寧ろ大事なことを選別し、気の抜ける環境をこそ作りたい。
(塾も随分削ったし(笑)。
ゆとりである!
ゆとり世代の何が悪い!(わたしは勿論その前の世代だが(爆)。

そういえば、企業の過重労働で使い捨てにされたり、自ら命を絶ったりするケースがよくメディアで報告されるが、何で途中で「やーめた!」と言えないのか?
いつもの駅で降りず、違う駅で映画でも見て、ラーメン、、、でなくともスィーツでも食べながら考え直せないのか?
そこのテーブルで退職届書いてもよいし。そういかないのは何故か?
プライドからか?余りに疲れて身を守る判断がつかないレヴェルにきてしまっているのか?

優等生でずっと過ごしてきていたり、厳しく躾けられてきて、途中下車の出来ない体質、、、自縛状態なのか、、、。
何にしても過労(更に強い超自我)から、自己防衛能力が発揮出来ない状況に至っているのは確かだ。
もう大人なんだから親が手を出したら過保護になるなどと放置される対応が少なくないと思うが、それよりも精神が衰弱した危機的状況下の隣人であるという捉え方こそ必要であろう。
もはや大人とかこどもの問題ではない。
周りの人間の見極めがかなり重要となってくるはず。
(その対象への強制力の発揮も必要になる場合もあろう。これは親か親友くらいしかできまいが)。
電通の人のケースなど、独立して事業主としてネット上で仕事を始めてもよかったのでは、、、ノウハウも吸収しただろうし、まだ若く時間も能力もたっぷりある。じっくり自分のペースで未来を構築してゆけれたら、、、と思う。本当にもったいない。

実際、世の中に大事な事なんて、ほとんどなにもない。
考えてみれば、どれもどうでもよいことばかりだ。
命をかけてやる仕事など、ない。


何と、、、わざわざ出向いたお店が臨時休業であった!
「えーっ」と長女。
3人で夜道を歩いて15分である。
大変微妙な距離でもあった。
上手くいかないことは、そりゃ沢山あるものだ、、、。
これも良い経験、とは言え、、、。

仕方ないので、コンビニで2人の食べたいおやつを買った。
彼女らも柔軟性が出てきたのか、店にはがっかりしていたが、ラーメンが他のものに変わったことには文句はないらしい。
確かに美味しいものは、世の中には沢山ある。別のもので良い、、、。


その店もこれで4回臨時で休業である。
たま~に行くうちでさえこうなのだから、、、休業率はかなりのものではないか、、、。

かつてラーメン店の名店(迷店も含め)は、臨時休業が多かった。
グツグツ煮込んだスープの出来が今ひとつだったので、今日は臨時で休むというもの、、、。
店頭にその札がぶら下がっていて、ガクッと来たことは何度もある。
それ程まずかったのか、、、まあ、店名に響くほどの不出来であれば仕方ないが、、、。
とは言え、わたしがラーメンに最も拘るところは、麺とスープの絡みである。
スープだけ美味くてもどうしょもない。
寧ろ麺の方に拘る。

思えば、、、以前の職場近くは、ラーメン激戦区であった。
わたしは、TVでも放映されたと或る有名ラーメン店で食べるのを楽しみにしていたのだが、、、
その店も臨時休業がとても多い店であった。
職場の仲間は何度も休業で引き返す憂き目に遭っていたため、そこで食べるのを最初から諦めているところもあった。
しかしわたしはその店のすぐ脇を通って帰る事が出来た為、店先を確認して開いていたらすかさず店に入り、ラーメン好きの仲間にメールを打つことが出来た。
「上弦の月登る」、、、戦争の暗号みたいでちょっとわくわくしたものだ(笑。


ペイチェック 消された記憶

Paycheck001.jpg

Paycheck
2003年
アメリカ

フィリップ・K・ディックの『報酬』を原作

ジョン・ウー監督
「レッドクリフ」でお馴染み

ベン・アフレック、、、マイケル・ジェニングス(エンジニア)
アーロン・エッカート、、、ジミー・レスリック(オールコム社社長)
ユマ・サーマン、、、レイチェル・ポーター(生物学者)


失った自分の記憶をヒント―ガジェットをもとに、手繰って奔走する物語。
こういう、アイデンティティが破壊された状態というのはかなり辛いはずだが、さほどの悲壮感は漂わない。
ただ、受け取るはずの金が受け取れない事と自分から送られた些細な物の入った謎の封筒の存在。さらに自分が関わったプロジェクトのIT企業とFBIに命を狙われていることで、焦って自分の記憶を探る。

この映画の見せ場は、、、
記憶とは何か、を考えさせる。
未来を知るということが齎す意味。
未来を見た自分が用意した日用品が次々に自分の身を守る備品と化してゆくところ。これはこれで楽しめる。

まず主人公マイケルの仕事が面白い。
IT企業から依頼を受けると、そのライバル会社の開発製品を元にして更に改良した製品を作り出して提供し稼いでゆくという、かなり際どい商売だ。(というより、はっきり犯罪ではないか)。
その商品開発期間の記憶は、その開発の秘密を守るため消されることになっている。これは相当ヤバイ。
何故なら、その間の記憶が消されるということは、彼にとってその間生きていなかったに等しいことだ。
これは単に記憶を失くしましたで片付く問題ではない。心身―存在に本質的に関わる問題だ。

われわれの物忘れ程度のことは、日常を形成する束の多くの事柄の内の、ちょっとしたことに引っかかるくらいだ(それでも書類や鍵であれば厄介なことになるが)。
しかもその事態は、最初から無意識的行為により、記憶自体にしっかり留められたことでもない。
われわれは、日常のほとんどの行為を身体が自動的なルーチンとして自律的にこなしていてくれている。
それが、意識的に行うべきところまで侵犯してしまったくらいのことか。通常、不注意と呼んでいるが。
普通、われわれが置いた記憶がない、などという時は概ねこんなものである。物忘れはほとんどそんなレヴェルだ。

3年の間に、篭って研究をしていようと様々な感情や思考、認識はあらゆる事象に対して開かれている。
実際、彼はレイチェルという研究者と恋におち、共に幸せな時間を共有していた。
この重要な時間は、どれだけの金とも等価交換できはしない。(何であっても等価還元はないが)。
ここでは、9000万ドルだかのストック・オプション報酬が決め手となるが、、、。
それでもマイケルのように、開発製造期間の3年間の記憶をそっくり消されるということは、存在学的に問題であるし、心身―精神に異常が出ても全くおかしくないものだ。
しかも神経シナプスを破壊するようなことを言っていたが、そんなことをしたらそれ以降の生活に深刻な影響を与えるだろう。
記憶の消去という事柄を余りに短絡視し過ぎている。
どちらかといえば、研究に携わった人間の記憶を消して外に放つより、その存在自体を抹消した方が企業にとってもその個人にとっても問題は出ないだろう。

このドラマは、まさにそこから始まってゆくのだが、、、。

また、マイケルが開発に携わった装置というのが、非常に強い重力場により光を曲げることで未来を観察するものだそうだ、、、
(それはよいとして、、、)、彼は未来を確認したことで、報酬を放棄し未来の自分が生き延びる為の品を19品自分宛に送る。
オールコム社から送られた殺し屋やFBIから命を狙われる度に、それらの品が上手く使われてゆくのが話しとしては面白いのだが、、、どういった未来を見たのか分からぬが、現実の流れを1箇所変えたところ、、、最初はタバコだったか、、、で異なる現実が生成される事は間違いない為、それ以降の筋道もガジェットも全く役には立たないことは断言できる。
違う現実を生きることとなるはず。
いろいろ用意した封筒を後生大事に持って逃げていたが、意味はない。
全てその都度、身近な物で対応・代用して切り抜けるしかない。
実際、それが出来る主人公だし。封筒の中身にさほど囚われる必要もなかった感じもするが、、、。
(しかし、それではこの物語が成り立たないか、、、?)

そして未来を観てしまい世界に伝えたことで、それを未然に防ぐための攻撃により、未来が壊滅的な事態に陥る事を知り、彼はその自分の3年間と引き換えに作ったマシンを破壊する決心をする。
が、予めハード的(ソフト上のウイルスではない)なエラーが出るように自分で設定しておいたそのマシンを使われる前に破壊するためにラボに決死の覚悟で突入したはずのに、そこでハードに手を入れエラーを解き、未来をひとつ観てみるか、、、ってどういう心境なのか?
しかも、レスリック社長もハードエラーの修理を彼らにさせろと言って、わざとマイケル、レイチェルを施設に侵入させる。
マイケル、レイチェルがこんなに呑気ではなく、当初の目的を直ぐに遂げていたらどうするのか?

どうも理解しかねる動きが度々主人公たちに見られ戸惑う。
しかしそれに沿って素直に見てゆけば、アクションは面白く描かれているため、飽きはしない。

報酬の金を放棄して自分の作った未来を観るマシンの存在に自らに気づかせる。しかも投げ出したその取り分をロトの大当たりで補填するというところは、なかなかの抜け目のないアイデアであった。
しかし、未来の生成の変化でロト番号だって変化する可能性の方が高いと思う。


記憶や未来―時間性を余りに安直に扱いすぎると、話がチャチになる。
この映画はそれを補うアクションの緊張があって、生理的には飽きずに面白く見続けることは出来た。





トイレの花子さん

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次女がご本を読んだというので、寝る前にすかさず長女がやって来た。
4月生まれで6月から飼っている亀(銭亀)が大きさに差ができているのだが、このふたりの間にも大きさの差が出来てきた。
長女の方が、3.5センチ、体重で2.5キロ大きい。

単独で見ても、大きくなった事が分かる。
彼女は、「トイレの花子さん」の話をしに来たと言う。
「本は?」と聞くと、覚えてるときた。
やはり、、、長女は読むのが苦手なのだ。
ひたすら作ったり、描いたり、弾いたりのヒトで、読むのは実にやりたがらない。
最近、担任の先生に作文を褒められたのに、読むことは苦手らしい。
じゃあ、お話聞かせて、と言うとよく友達との間で語り合ってる話の割に、噛みながら話してゆく、、、。


「語り部」から聞いた話によれば、、、。
「トイレの花子さん」は、3の続く都市伝説だ。
まず花子さんは、学校のトイレの事故で亡くなり、トイレに住み着くようになったという。
事故がどういった事故であったのか、その詳細は語り継がれてはいない。
ただ、花子さんは、トイレに纏わる事故で亡くなっている事実のみが皆に認識されている。

夜中の3時に3階の女子トイレの手前から3番目のトイレを3回ノックして、「はーなこさん、いらっしゃいますか?」
と呼ぶと「ハーアーイ」と声が返ってきたら、何とそこを3秒以内に立ち去らないと、花子さんに便器の中に連れ込まれて二度とこの世に戻ってこれないという。(何でもかんでも、3を連続させてみた語呂合わせだろうか。何で3なのか。西洋では6か?)
つまり花子さんと顔を合わせてしまった瞬間に、もうこの世にはいないという事情になる。
これは、ピンポンダッシュを超えるロケットスタートで、花子さんの返事を背中に聞きながら遠ざかってゆくしかない。
それでも、彼女の声が聞けたのなら、その存在を確かめたと間接的に捉えることになろう。
顔が見れなくとも、それをもって、花子の存在確認(花子探検ツアーは成功)としなければならない。

夜中の3時に決行するのだ。余程の心構えで臨むことになる。
肝試し的な要素が何より強い。
(お化け屋敷の延長線上であるか)。

まずうちの娘は、このような怖いことには関われない。
寝るときにその部屋の電気が点いていないと、部屋に行けないでわたしを呼びに来るし、寝付くまで添い寝しないとダメな時も多い。兎も角、少しでも暗いところに一人でいれないのだ。

そのくせ、怖い話にばかり興味がある。
先日、姉妹で何やら真剣に語り合っているから、何事か聞いてみたら「死とは何か」を話していたらしい。
それが、おばけと分かちがたい状況にもある。(普通に考えれば、未知の事象に対する恐怖と不安の感情の表れであろうが)。
2人の研究家によると、人は皆、死んだらおばけになるらしい。
おばけという立場を持って、この世の人と何らかの関係性を保持しているとすれば、これはまた暑苦しいものになる。
幸い花子さんは、何らかの接触を持とうとしてやってくる好奇心タップリの覚悟の足りない連中を向こう側に一瞬のうちに連れ去ってくれる。
これは、とてもすっきりしていて、良いことだ。

花子さんは、人間的な関係性など端から受け付けない。
彼のエイリアンか。はたまたブラックホールか。

こういった特異点をヒトは無意識的に欲している。
無意識的に意図的に他者と消滅を期待している。


お化けの話~PPAP

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次女にお化けの本の読み聞かせをして貰った。
(わたしに何か読んで聞かせたいというのだ。この際、何であっても聞いてみよう)。
今、彼女が一番夢中なのが怖い話であり、肝試しである。
友達とは、その手の都市伝説のネタで大盛り上がりのよう。

読んでくれたのは、怖い話特集本「本当に怖い話」(西東社)から「格安物件の12階」というもの。
わたしが聞いて覚えている範囲(わたしの独自の要約?)で、、、。

主人公はまだほとんど売れていないアルバイトに精を出すお笑い芸人。
彼は今のアパートより安くて広い部屋を探し出し、その201号室に引っ越してくる。
PPAPみたいなのがヒットしたら、きっとじっくり本業に専念できるのだろうが。
(ちなみに、娘たちのクラスでは、必ず誰かが休み時間になるとPPAPを緩く唱い出すらしい。これもある意味恐ろしい)。
新しいアパート初日も彼は夜遅く帰ると、ぐったり疲れて直ぐに寝入ってしまう。
するとその夜見た夢に、、、綺麗なドレスを着たかわいい人形が現れた!
お笑い芸人の彼は、暫しその人形に見蕩れてしまうのだが、、、。
(この辺で次女が思い入れタップリ読むので、笑いを堪えるのに一苦労)。
その人形は大きな鎌を持っていて、口のはしをつり上げて笑って言う。
「ねえ、わたし、一段のぼったわ」と、、、。
(ここで、最後のオチの察しはついてしまうが、堪えて聞いてゆく)。

それから、毎晩夢に現れる綺麗な人形の白いドレスには、赤いシミが広がってゆき、鎌の刃の部分の血ノリも目立ち始める。
その度に登ったという段は一つずつ増えてゆく。
おまけに彼女の表情まで怖くなってきている。(口が裂けてくるとか、、、口裂け女を混ぜたか?)

お笑い芸人はハッと気づき、次の日アパートの階段を数えてみた。
12段であった。
昨夜の夢で、もう7段目まで登ってきているではないか!
彼は全身から血の引くのを感じ、直ぐに引越しを決め、大家にそのことを告げる。
すると彼は、「誰も皆12日経つ前に引っ越して行ってしまうんですよ。やはり、あなたもですか」、、、だと。

今もこのアパートはホントにあるんですよ、、、この現実に繋げてくる手法はTVの「世にも不思議な物語」でも同様だ。

「面白い!いや、怖い!」
・・・・・・・・・・ということで(笑。


非常にショートなお話であった。
星新一にもとっても短い噺はいくらでもある。
別に怖くなくても面白く興味深い噺は幾らでもあることは、彼女らに教えておきたいものだ。

親にしてみれば、初めて娘に本を読んでもらって、感慨に浸りたいところでもあるが、、、。

後でこの本借りて幾つか拾ってみてみたが、ほとんど似たタイプの作りであった。
そのなかでは、先の話は構造がしっかり出来ているものだ。
しかも、直接的な描写でなく想像を要請するところが噺の肝になっていて、良いと思う。
だが、単に怖がらせようとして(その目的に絞って)書かれている事自体はやはり限界である。

う~ん。でも長いのはダメだから今度、星新一の短く読みやすいものを読み聞かせのお返しにしてみたい。
探してみよう。

日頃娘たちの好みをみても、尺の長いものは、素晴らしい出来の作品でも見せる(読ませる)のは、キツイ。
今回、ビルボード77位ランクインで、二週連続再生回数世界1位という、PPAPも実に短い。
真似できそう。易しい(単語3つだし)。キッチュで話題にしやすい(キモカワの部類か?)。つまり共有しやすく拡散しやすい。
短さ、、、一時、軽薄短小は何かに付け批判されてきたが、ナンセンスなリズムがヒトを惹きつけることは確かだ。
先の話も単純な、反復構造をもった話で、馴染みやすく解りやすい。


今回のPPAPのついつい気になってしまう要素は、意識においておきたい。




レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う

Leningrad Cowboys Meet Moses

Leningrad Cowboys Meet Moses
フィンランド
1994年

アキ・カウリスマキ監督・脚本

マッティ・ペロンパー、、、、(悪徳マネージャー、モーゼ)
ザ・レニングラード・カウボーイズ
サカリ・クオスマネン

「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」の続編である。

メンバーが老けている。
キーボードの人がヒゲを蓄え大人顔になってしまったのが残念。
彼らに届いた署名なき演奏依頼とは、、、。

何と彼らの前に姿を消していた例のマネージャーが、わたしはモーゼだと名乗り現れた。
それからモーゼのいいように彼らは翻弄される。
本当に従順でお人好しな人たちだ。
(いや、お人好しというレベルではない。「モーゼ」について行ってしまうこと自体が尋常ではなかろうに)。
そして今回も、「人を救うのはキリストであり、モーセは商売をやる」である。
絶対に関わってはいけない人だろう?
バンドもかなり名も売れてきて軌道に乗ってきたのに、これから故郷に帰るのだ、、、と。
何故かと問うと、故郷に奇跡が起き、処女生殖光線が射し乱反射の末、牛に当たり初の子牛が誕生したからだと、、、。
(さっぱりわからん!)
アメリカに恋人ができたメンバーもいるが、流石に彼はおれはアメリカ人になるといい、断った。
それは理由があって良かったが、、、。

前作には全く出てこなかった、聖書や階級闘争に関する言葉が語られる。
モーセの兄のアロンのことまで出てきた。
更に怪しい男と化している。
メンバーもこの男に従ってはいるが非常に懐疑的になってきている。
(金をちょろまかすのは以前から知ってはいるが)。
ある意味、ウラジミールの時よりモーゼの方が独裁的になっている。
アメリカから非常に心もとないボートでフランスまで辿り着き、チェコからライプチヒ、ドレスデン、ポーランドそして北欧へ、、、
軽々と彼らは渡っていってしまう。
そして結局、故郷に戻る。

ステージはアクションも含めもう様々な音楽要素が入り混じり、シュールなレヴェルにまで達している。
また、メンバーの醸す哀愁も、ただならぬ雰囲気だ。
そうただならぬ、というのが話の流れ自体がただならぬズレをきたす。
いや、こういうのをオフビートと言わなければならぬか?
いつの間にか、新メンバーが何人も入っている。

何で自由の女神の鼻を故郷へのお土産にするのか、、、
そんな事を問いだしたらキリがない。
実際にどうやって鼻を削ぎ落としたのかも定かではない。
唖の男が非常にタイミングよく彼らが収監されたのを地元ドイツ人に伝えて脱獄させたかもどうも判らない。
彼がやたらとカメラで写真を撮っているが、それは単にそれだけのことであった。
基本、伏線も何もない。
CIAが鼻を組織的に探すというのでもなく、一人の男が単独で動くが余りに手緩く、結局モーセと行動を共にし始める。
彼モーゼはプールの水面を本当に歩いて渡ってゆく。
等々、、、。
シュールで荒唐無稽な話(シーン)が続いてゆく。

もはや変わった感覚ではあってもペーソスがあり流れの分かる前作とは次元の異なる作品となっていることに気づかされる。
こりゃ、一体どういう話だ、、、。
巡礼の旅などと、言われては困る。


「ル・アーヴルの靴みがき」は、大好きな作品であり、「愛しのタチアナ」も何とも言えぬ風情があって印象深い作品であったが、、、
これは、何ともかんとも、である。




レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ

Leningrad Cowboys001

Leningrad Cowboys Go America
1989年
フィンランド・スウェーデン

アキ・カウリスマキ監督・脚本

マッティ・ペロンパー、、、、ウラジミール(悪徳マネージャー)
ザ・レニングラード・カウボーイズ(スリーピー・スリーパーズ)
サカリ・クオスマネン


フィンランドのロックバンド、レニングラード・カウボーイズが、シベリアの地からアメリカ大陸を横断してメキシコまで旅をするロードムービー。(「スリーピー・スリーパーズ」というグループが「レニングラード・カウボーイズ」として演技する。しかし後に、グループ名を「レニングラード・カウボーイズ」に変えてしまったらしい)。
ポルカで始まるが、旅をしながら先々で音楽を吸収してゆき、ロックやカントリーを奏でてゆき、メキシコでかなりの成功を収める。

物凄い極寒の荒れたツンドラの地から物語は始まる。
バンドがよく分からないが、ヘンな格好をしてポルカを演奏している。
あれは、リーゼントというのか、信じられない髪型を固めて、これまた先の著しく細長くとんがった革靴を履く。
普通に動くのにさぞ邪魔だろうと思うが、これで仲間としての連帯感と言うか結束ををしっかり保っているようだ。

彼らは悪徳マネージャーにそそのかされてアメリカにゆく。
「お前たちアメリカ人になれ」と言われて素直になるべくアメリカに渡るメンバーって一体、、、。
アメリカでは、ポルカをいきなりやって受けなかったが、民族音楽でメゲずに押すのも良いはずだ。
そっちの方が将来的にはビッグになれると思うが。
まさか、ビーチボーイズになれるはずもないし。
しかし巧みにロックやカントリーをコピーし自らのサウンドに昇華してゆく。
英語も覚えてしまって、大した学習力である。
(ロックは、聴いて覚えたのではなく、本を読んで学習している!)

メキシコではテキーラのせいでメンバーを失ったが、そまま元気に?演奏を続けめきめき認知されてゆく。
パブばかりでなく、結婚式や葬式でも引っ張りだこの人気バンドとなる。

基本、彼らは酒を飲んでいるか演奏してるかのどっちかだ。
演奏はかなり達者な人たちだ。
キーボードの人のキャラがちょっと際立ち過ぎるが。
(その面白い顔に惹きつけられっぱなしであった)。

稼いだ金を全て着服して自分の呑むビールにしてしまい、メンバーにはろくに食べ物さえ与えない飛んでもない悪徳マネージャーに思えたが、最後メキシコの地で消える時には、何故か彼らを大きく育てて静かに身を引くみたいな感じで終わっていた。
それは違うだろ、、、。
何でメンバーが、あんなに従順なのか。
途中から着服には気づいていたようだが。
地元からトリックスターのような唖の男が、でかい魚を獲って彼らを追ってきて仲間に入る。
(この男は続編ではかなり話を動かす役をやる)。
横暴なマネージャーに逆らい(メキシコまで歩けと言われ)一度は彼を縛り上げるが、直ぐに元の体制に戻され、字幕で「民主主義復活」と出たときには笑った。
そのレベルの笑いは全編に散りばめられていた。夥しいビールの空の缶が車を開けた瞬間溢れこぼれてきたり、すぐ目の前で間抜けにも車のエンジンだけ盗まれたり、、、。トラクター見て郷愁に駆られてみたり、、、。

兎も角、わたしがこれまで観てきた映画とはかなり毛色の違うものだった。
ロードムーヴィーというものは幾つか観てきたが、棺桶をキャデラックの上に括りつけてトランクにまで人を乗っけて移動するというのも面白い。
流石に旅の光景はそれぞれの土地柄も窺えて楽しい。


わたしにとっては、ステッペンウルフの”ボーン・トゥ・ビー・ワイルド”を久々に聴いて良い気持ちになれたところが、一番の拾い物!
新しく加わった従兄弟の人のボーカルであったが、どうも顔が面白すぎた。(キーボードの方が面白いのだが)。
元のボーカルの人が唱っていたらキマッテいたのだが、、、。


兎も角、変わった感覚の映画だ。
(日本映画には勿論、ハリウッド映画にも味わえない独特なものだ)。

顔のないヒトラーたち

IM LABYRINTH DES SCHWEIGENS LABYRINTH OF LIES

IM LABYRINTH DES SCHWEIGENS LABYRINTH OF LIES
2014年
ドイツ
ジュリオ・リッチャレッリ監督・脚本

アレクサンダー・フェーリング、、、 ヨハン・ラドマン(検事)
アンドレ・シマンスキ、、、トーマス・グニルカ(ジャーナリスト)
フリーデリーケ・ベヒト、、、マレーネ(ヨハンの恋人)
ヨハネス・クリシュ、、、 シモン・キルシュ(画家、アウシュビッツの生き残り)

「嘘と沈黙の迷宮」
こちらでよいはずだ、、、何故ならヒトラーではなく普通の人の共通感覚の問題が問われているのだから。
その隠蔽衝動も含め。

昨日見た映画と対極にある、重厚で稠密な映画であった。
(あの映画が、極めてチャチなものに思えた)。
戦争そしてファシズムに対する本質的な批評力をもった作品であった。

やはり恐ろしいのは、情報のコントロールである。
何よりも情報リテラシーが肝心となろう。
1950年代、法曹界の人間でさえ「アウシュビッツ」を知らないドイツ人が多かった、という事実には本当に驚いた。
この分では、ドイツのように戦後の総括をしていない日本の隠蔽している事実がどれほどのものか、疑わざる負えなくなる。

新米検事ヨハンは、アウシュビッツの真実を知るに付け、上層部の圧力にもめげず正義を追求する(悪を裁く)熱意に火がつく。
初めて任される大きな仕事に意欲をもって、膨大な資料を相手に精力的に取り組む。
主人公は、柵のない「潔白」世代であることも幸いして、アウシュビッツの戦犯の検挙を次々に進める。
彼の奮闘が功を奏し戦後、過去を隠して様々な職に就き、普通の善人となって社会に溶け込んでいる戦犯が炙り出されてゆくのだった。
しかし彼らは皆、戦後忽然と普通の人に変わったのではなく、アウシュビッツにおいても極普通の人であった。
普通の人間達の行った極悪非道で残虐極まりない行為に過ぎなかった事実も彼は確認してゆく。
(それまで彼は、特別な悪人が最悪の犯罪を戦争の名のもとで犯してきたと感じていた)。

さらに彼はナチスと無関係な正義の人間であると信じて疑わなかった父が党員であった事実に深く動揺し、恋人にも当たり散らし彼女を傷つけてしまう。その上、彼の正義の根拠を齎したジャーナリストが戦時中、アウシュビッツにいたという告白をもって、全ての確信と基盤が揺らいでしまう。
何も信じられないと。
誰も彼もが今やナチに見える、、、。

ヨハンは一時、仕事を辞め、絶望して路頭に迷う。
身の振り方も分からず、救いを求めるように、双子の幼い娘をナチスの医者に惨殺され心臓を病む画家シモンを見舞う。
ヨハンはシモンの代わりにアウシュビッツへと、グニルカとともにシモンの亡き娘たちの霊に祈りを捧げに赴く。

アウシュビッツは、歴史を知らなければ、見た限り穏やかな牧草地にしか見えなかった。
ヨハンは、グルニカに「自分も当時兵士であれば、彼らと同じことをしていたかも知れない」。
恐らく初めて自己対象化―解体する。
彼は、それまで自分を一方的に正義であると疑わなかった人間だ。
しかし父や信じた友の背景を知るに及んでアイデンティティが崩壊する。
何も覚束なく、寄る辺ない状態に陥っているヨハンにグルニカは語る。
「罰することを考えるな。被害者とその記憶にだけ思いをはせろ。アウシュヴィッツの裁判が無ければ、そのうちただの牧草地となり忘れ去られてしまうんだ」。

自己解体してからの主人公の姿が清々しい。
(彼はやはりここに来るまで、かなり頭の固い単純な正義を振りかざすだけの男であった)。
彼の表情に迷いは無くなり、、、
実に暖かみのある顔になっているではないか。
誰が何に属していて、それが善か悪かの枠の問題ではない。
誰かを裁く前に、どんな悲劇が起きたのかをはっきり世界に知らしめなければならない。
そして、それを二度と反復してはならない。
(日本はこれをやらなかった為、とても危なくなって来ている)。



収容所の生存者211人が、二度と思い出したくない悲惨な出来事を苦痛を堪えながら語ってゆく。
証言者たちのおかげで、19人の元親衛隊員を起訴し、17人を有罪に持ち込んだ。
しかし、20ヶ月の裁判中に自責の念を表する者はひとりとしていなかったという。
勿論、あのアイヒマンもそうであった。

彼らは命令をより効率的に効果的に実行するため、彼らの最善を尽くしていたに過ぎなかったのだ。



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アビス

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The Abyss
1989年
アメリカ

ジェームズ・キャメロン監督・脚本

エド・ハリス、、、バッド(油田採掘作業員リーダー)
メアリー・エリザベス・マストラントニオ、、、リンジー

本当に見終わるまでが拷問のような映画であった。
シンドイことこの上ない。
長かった~っ。

あの「アバター」の監督である。
それで気になり見始めたのだが、、、途中で何度冷蔵庫に行き、アイスやドリンクを取ってきたか。
おかげでお腹がゴポゴポではないか、、、。
その冗長さは尋常ではない。お腹も尋常ではない。
何故こんなにだらだらと時間を使わなくてはならなかったのか、、、。
胃が苦しい。

液体系CGはかなり難しいものなのだが、この時代(まだソ連との冷戦時代)にあれだけの表現を実現したのは凄い。
金もかけていることがよく分かる。
確かに海底のVFXは同時代を超えているのは確かで、見事なものだった。

だが話の内容をみると、いくらなんでもそれはちょっと、、、なのだ。
紋切り型の既視感たっぷりのエピソードも含めとてもついて行けなくなる。
離婚状態の拗れた夫婦が困難な事態を協力して乗り切りメデタク元の鞘に収まるって、何でこんなパターンが執拗に踏襲され続けるのか、、、。ちょっと延々続くこの人間ドラマが気持ち悪過ぎる。
ここで捻りを感じたのが、軍に送り込まれてきた将校が、その環境と責務の重圧から発狂してゆくところであり、苦悩する人物の悲痛な内面が窺えた。もう少し彼の身に沿った描写が丁寧になされてもよいのではなかったか。
中途半端に扱うなら単なる悪役の方がすっきりする。(ベトナム帰還兵などにもだぶる立場に思えるが)。

また海溝に棲むエイリアンの位置づけが、何とも言えない。
米ソ間の一色触発状態を津波で脅して彼らが救うという、それは科学力ある他者であるからこそできる芸当かも知れないが、、、。
わざわざそんなことをして自らの存在を人類に晒すことの方が面倒なことになるのではないか。
放っておいて、人類が絶滅しても彼らには関係ないはず。
まあ、あそこでバッドが核弾頭の爆発を身の危険を顧みず防いだ事への返礼ともとれるものだが。
彼らにしても間近で核爆発を食らっては堪らぬところであっただろう。
このタイミングで、「外」を意識させて身内―人類という同胞意識を持たせようかとも思ったものか。
人類のニュースをコマメにチェックしているところなど、興味・関心はかなりのものだ(笑。
(更に彼らバッドたちの通信まで全て傍受しており、アメリカのプリズムみたいだ)。

物理的な水圧という点から見ると、かなり無理が目立つシーンが多かった。
バッドは、何度も死んでいても当然なところだ。
特に、スーツなしであの深海を泳ぐ場面だ。まずあそこで確実に一回死んでいる。
それから、スーツ一つで5500メートル潜るって、ありえないことだ。

潜水艇同士のチェイスがあるが、それはしっかり見せるが、あの深海でぶつかり合いなどまさか出来ないと思う。
だが、結局破れた特殊部隊将校の乗る潜水艇は、海溝に落ちてゆき水圧で潰れる。
潜水艇が水圧でやられるのだ。人間はひとたまりもなかろうに。

エイリアンは、液体を制御出来るという能力といい、クリオネに似た形体といい、よいアイデアに思えた。
人類に悪意を持たないエイリアンがクリオネ似であればかなり安堵感が高い。
サメに似ていたら少なくとも欧米では誰にも信用されない。(タコは悪魔であり尚更である)。

エイリアンに人類の悲惨な戦争のVを見せてもらって納得してみたり、終始夫婦間の軋轢を巡っての暑苦しいやり取りが潜水艇の閉鎖空間で続くのは、どうしたものかと思う。


「アバター」の方が圧倒的に清々しく面白いものだったが、、、当たり外れのある監督のようだ。

キャストは、概ね良かったが、ヒロインはいまひとつ、しっくりこなかった。
演技が暑苦しいのだ。




よあけ

yoake.jpg

ユリ・シュルヴィッツ作
福音館書店

我が家には古い絵本が結構残っている。
良いものは整理しない。
すると、整理の対象となるものは、それ程出ない。
(片付け専門家からは甘いと言われそうだが)。

先日、ベッドに寝転がって、これを娘に読んだ。
というより見せた。
絵を見せるに、良い絵本がとても役立つ事を再認識した。
今度、自分でも絵本を作ってみようか、、、と思える。
ちょっとばかりやる気になった。
(実際に描くのは、もう少し体調が落ち着いたらのことになるが)。


音のない世界が広がる。
周囲の雑音を消してくれる絵である。
これが一枚ではなく、適度な連続性をもって流れてゆく。
そこが絵本の面白さだ。
良質な時間の空間化。

適度な連続性と書いたが、飛躍的な連続性である。
この飛躍が絶妙であればあるほど素敵なものとなる。
「間」と言い換えてもよいか。

そして物質的想像力を優しく掻き立てる。
事物に感覚を研ぎ澄ます。
その静謐な高揚感。

よあけ ”twilight zone”は、宝物のような時間(場所)である。
これまでも、何かうっかりして起きてみたら、「薄明の場所」にいたことがあったのを思い出した。
それは「虚無の場所」とは対極にある。
そう、それは夕日の沈む時間にも生成される場所だ。
地球上での、わたしにとってのもっとも貴重な記憶がそれであった。
という、大切なことを思い出した。

これと恐らく同質の場所が廃墟に当たるはずだ。
トワイライトに結晶したフラジャイルなフィギュア。
ユベール・ロベールの絵(まさに「時間の庭」)でもよいが。

実際にその場所に自由に行ける人はとっても羨ましい。
その時間性は、残念ながらここにいては味わえないものだ。
恐らくその為に、それを閉じ込める装置として、絵本や版画などが存在するのだろうが。
身体的な体験―想いにまで昇められるかである。
これは、こちらの感性と作品の質の問題となるが、実際にその場所に赴いても感性が試されることは確かだ。


わたしの知る限りでは、その場所を思う存分満喫しておられる方が、こちらだ
いま、ギリシャをまわられている。
写真と文章がまた素晴らしい。
旅とは何か、、、ということを夢想させられるものだ。





療養と育児

tDCS001.jpg

痺れが酷くなって、新しい病院を近いところに探した。
ここのところ、自分の療養と育児の両立にかなり困難な状況を感じることもある。
痺れで身体が休まらない。
当初は左半身の痺れであったが、今は四肢と頭部がとても気になる。帽子を被っていなくても被っている感じだ。笑えない。
丁度、車の車幅感覚みたいな感じだが、よくモノにぶつかり、物を落とすことも少なく無い。
身体感覚がブレる。
育児への影響は当然出てくる。と言うより育児の影響をこちらが被るのだが。
周りの環境もよくない。
生活自体がストレスでもある。

ピアノをみる以外は、とてもメンドくさい。
本を読んであげたり、絵を見てあげたりする分にはよいが、、、。
(一緒にでかい絵でもそろそろ描くか、、、それが専門だし。一番の薬となるか)。
兎も角、女の子の場合は殊更、大変だ。
更に双子の育児については厄介なものだ。
何でもないところは本当に何でもないらしい。
信じられないのだが、うちの親戚の双子は、兄妹であることで平和に治まってしまっているらしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信じられない。やはり、、、、(笑。

清里の星の綺麗な場所で、サニーレタス畑に囲まれて、飛び切り美味いジャージー乳のソフトクリーム食べてのんびり過ごしたいのはやまやまなのだが、、、。
そうはいかないのが、現実だ。


最近地震速報がよく入る。
これを書き始めてからも、矢継ぎ早に来る。
想定しておかなければならないことか。救急セットはあるにはあるが。
キリスト教関係の勧誘?も度々来る。
ホントにお断りである。

今日行った医者も、もうお断りだ。2度と行くことはない。
MRIを撮った。ただ、撮ったところでどうなるものではない事のよい例であった。
ただ撮っただけ(笑。
後は何もない。何を聞いても、何もない。勉強してんのか!
何のために来たのか、全く意味がない。
藁をもすがる気持ち、、、というほどではないが、体調はすっきりしたいものだ。
医者はもしかしたら薬の副作用かも知れない。
等といって来るが、それはないことが分かった上で出してもらってはいる。
辞書を引きながらわたしの薬手帳を見ないでもらいたいが。
tDCSまたは最近はtACSの効用が理化学研究所のレポートにも書かれていたが、そのへんの質問をしたら、何の薬ですかときた。
これまでかかった医者は少なくともそれが何であるかはちゃんと知っていた。

何の役にも立たない。
バカ医者。ピンからキリまでの、キリであった。

よくつまらない舞台で観客が金返せとブーイングする場面を見たりするが、本当にそうだ。
金返せである!
更に時間も。
時間の方が遥かに貴重だが。

医者は事前に面接してから掛からないとダメだ。
時間と金の無駄!
HPから予め入力して確かめるシステムなど、かなり簡単に出来るはずだが。
もう少し病院もHPをもっとインタラクティブなものとして活用できるものにして欲しい。
更にユーザビリティの工夫と独自性を加えてもらいたい。
事前に判断が出来ない。
(病院評価サイトはあるが、今日行った病院も概ね良いことしか書かれていない。もしかしたら選別して載せてるのか?「とても親切でした、、、」とかどうでもよいものばかり。その医者は、「はい、これで終わりです」。と勝手に診察を打ち切った(爆。2時間待たされて、4分程度でおしまいだと。もっとも、こちらもうんざりであったが)。

治す以上の効果の期待できる機器を探すつもりだ。(すでに手に入れたものもある)。
如何に人に頼らず、独自に探るかに掛かっている。



インセプション

Inception001.jpg

Inception
2010年
アメリカ

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作
ハンス・ジマー音楽


レオナルド・ディカプリオ、、、ドム・コブ(潜在意識から情報を抜き取る産業スパイ)
渡辺謙、、、サイトー(大富豪の実業家)
ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、、、アーサー(コブの信頼する相棒)
マリオン・コティヤール、、、モル・コブ(ドムの亡くなった妻)
エレン・ペイジ、、、アリアドネ(夢の設計士、まだ学生)
トム・ハーディ、、、イームス(変装のスペシャリスト)
キリアン・マーフィー、、、ロバート・フィッシャー(サイトーに狙われている大企業の御曹司)
トム・ベレンジャー、、、ピーター・ブラウニング(フィッシャー社の実質的トップ、重役)
ディリープ・ラオ、、、ユスフ(鎮静剤の調合師、深層の夢の世界を安定させる)

「インセプション」そのままで良かった(笑。
発端、、、から「植え付ける」であろうか。

アリアドネってすごい名前だ。よくバッカスと一緒に描かれるギリシャ神話の女神ではないか、、、。
ちょっと意味深い名ではないか?

重層する夢
現実とは一体何であるか
(自殺者とは、本当の現実に生きようと願った者なのか)。

それをここまで作り込むか、、、という気迫に溢れた作品。
監督の渾身の一作だと分かる熱量を受け取った。
久々に映画を見ることが素晴らしい体験となったものだ。
映画という形式をもって、初めて実現可能な世界と謂える。

何より潜在意識の時間性を重層的に描き込んでいるところが素晴らしい。
空間はどの映画でもよく描きこまれるが、時間の要素についてはタイムマシーンとかタイムリープとか安直で稚拙なレヴェルに終わっているものがほとんどだ。
それらは、時間性そのものには触れず、単に過去や未来の空間―場面を並列して描いているだけのものである。
ここでは時間の存在学とでもいうものが潜在意識の層とともにアグレッシブにアクチャルに描かれていて、とても見応えがあった。

ドム・コブたちは、潜在意識から情報を抜き取る窃盗団みたいな仕事をしている。
「アイデアは形を持つと突き刺さる」ってすごく良くわかる、、、。
潜在意識は制御出来ないって制御できれば顕在意識だ、、、というところや、、、
コボル社という依頼主の会社の実体がほとんど明かされないのが、ちょっと物足りない部分もある。
が、気にかかる程のものではない。

面白いのは、対象の夢に入り込むと、そこに自分の潜在意識の侵蝕が起こり、場に混乱を与えるところだ。
ドム・コブは亡き妻モルが邪魔をするというが、結局彼の意識のせいである。
彼の企ては不可避的にモルには筒抜けで、一緒に夢の場を共有する仲間を危険に陥れている。
妻が落ち込んだ虚無と彼の罪悪感とは同じ場ではないか?
そして、インセプション、、、アイデアを植え付ける。
これが実に恐ろしい行為であり、その罪に彼は苦しめられてきた。
「望む場所へ行けるが、何処に行くかは分からない」
根付いた思考は、どのように生成展開してゆくかなど全く判らない。


夢の世界の設計士は構造のトリックを使い都市を丸ごと構築する。
ペンローズの階段のような構造を巧みに取り入れて作ってゆく。
街の多重空間の創出などさせ自在に遊べる、天地創造の醍醐味であろう。
しかしその構造に記憶の再現を嵌め込むと、夢と現の混乱が起きるというのも頷けた。
そんなとき自分独自のトーテム(一種のアイテム)が自分の存在する場を見極めるメルクマールになると、、、。
実に説得力あるきめ細かい設定だ。
フランシス・ベーコンの絵が壁に掛けられているところなども実に行き届いている)。

夢の層により時間の圧縮度とその同時性の展開場面は非常にスリルがあった。
時間の進み方が、潜在意識の層によって異なり、下層に降りるに従い時間は遅くなる。
何故なら深層にゆくほどこころ―精神の働きが加速するからだ。
確かに夢の世界の速度は速い。
この映画では、現実界の10時間が深層第1層では1週間、第2層においては6ヶ月、第3層では、10年とされていた。

車の橋桁からの落下の時間層とホテルでの一段下層のもの、そして富豪の金庫室のある雪山でのもっとも深い時間層での攻防。
コブは妻と更にその下の層にまで降りる。「わたしと一緒にここで暮らしましょう」
ここまで来るとまさに現実とは何か、その価値や実在すら判然としなくなる、、、。
(確かにコブがサイトーを迎えに行ったあの虚無の領域は、まさに特異点のような場かも知れない)。
時間自体が解かれてしまう場であるか、、、。

彼と妻が50年間かけて深層の場において建造してきた巨大な建造物が海に向かって次々に崩落してゆく、、、。
想いが無残に解かれてゆく、、、
その圧倒的な寂寞感。
VFXに実に魅了された。効果的とかいうレベルでなく。形式=内容のレベルにおいて。
カフェでの爆破もあんな風な新鮮な光景は初めて見た。

結局、サイトーの依頼である、富豪の御曹司の識閾下には「父の真似ではなく、自らの道を進め」がしっかり根付いたようだ。
作られた遺言状の下に隠されていた風車のアイテムこそが真のメッセージを誘発した。
潜在意識では感情は働かないとは言え、考えの発端はこのような深い感動による。
そのシンプルで原初的な熱量のないところから、それは生長しない。
そしてその結果がどうであろうと、、、。

「望む場所へ行けるが、何処に行くかは分からない」
コマが回り続ければそこも誰かの夢の中かも知れない。
やっとドムが念願の子供との再会を果たしたその世界も、、、。
彼が全てをふっきり向き合う現実の果敢なさ、覚束なさ、しかし掛け替えのなさが、このコマの回転の緊張に一気に収束する!
この稠密なテーブルの時間性はまさにタルコフスキーのあのテーブルではないか、、、(何故か涙が止まらなくなってしまった)。
そこにすでにコブはいない。(子供たちのところー現実に戻ることが出来たのだ)。
最後の最後の一瞬まで緊張の途切れない作品であった。


キャスト陣も皆、申し分ない。
傑作というしかない!



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宮廷画家ゴヤは見た

Goyas Ghosts001

Goya's Ghosts
2006年

ミロス・フォアマン監督・脚本
ジャン=クロード・カリエール脚本
ソウル・ゼインツ製作アメリカ・スペイン合作

ステラン・スカルスガルド、、、フランシスコ・デ・ゴヤ
ナタリー・ポートマン、、、イネス・ビルバトゥア/アリシア
ハビエル・バルデム、、、ロレンゾ修道士

「カッコーの巣の上で 」「アマデウス」の監督である。

まさに「宮廷画家ゴヤは見た」である、、、。
よく分かる邦題ではあるが、「家政婦は見た」と何となくダブり居心地が悪いのだが、、、。

映画を観るとき、、、。
映画でしか表せない世界を見事に表出しているものにいつも感動するが、この映画はまさにそれであった。
異端審問がどうとかいうより、最後の場面の恐ろしい何者をも寄せ付けない寂寞感には参った。
主役3人の凄まじい演技にも圧倒される。
ナタリー・ポートマンは毎度のチャレンジ精神が冴え、ひとり実質3役の荒業をやってのけている。ステラン・スカルスガルドのゴヤは、異様にゴヤの「自画像」の雰囲気に似ており確かな説得力があった。ハビエル・バルデムの、、、何と言うか「アマデウス」におけるサリエリのような狡賢い立場もよく演じられていた。

ゴヤというだけあり、ヒエロニムス・ボスベラスケスの作品まで、、、絵がよく見られる映画である。
油絵の例の2枚は言うまでもなく映画用のものだが。(撮影後にどうしたのだろう?Web上に出したらプレミアものだったかも)。
”Natalie Portman”の肖像画などかなりの値がつかないか(笑。(ファンにはきっと売れる!)
ロレンゾ修道士のニヒルな肖像はホントに燃やしたのか?コピーを燃やしたのか、聞いてみたい。
勿論ゴヤの版画が結構映画の中で観られる。
「ロス・カプリチョス」は版画画集でわたしも夢中になって観た方だ。
昔のことだが中学校の美術の先生がゴヤに関して、熱弁を奮って解説・批評してくれた。
(高校ではほぼ受験勉強カリキュラムで面白くも何ともなかったが、中学の授業は拾い物がかなりあった)。
聴力を失ってからの名作のいくつかについて、この映画にも出ていた「マドリード、1808年5月3日」のような政治性の高い傑作には触れず、「着衣のマハ」と「裸体のマハ」の違いなどをとても詳細に語ってくれ、勉強になったものだ。
油絵の美しい女性像(権力者にはかなり辛辣ではあるが)と版画「ロス・カプリチョス(気まぐれ)」などの透徹した写実との対比も面白い。そう「黒い絵」も凄いものだった。(思い出した。後で見よう)。
シニカルで深い闇を孕んだ存在の厚みを感じる人物である。


ここでは彼は、ゴヤの生涯みたいなドラマの主人公ではなく、いつも事態を一歩引いて観察し描きとる側の立ち位置におり、物語のナレーション(超越者)もしている。彼に肖像を描いてもらったイネスとロレンゾの激変する時代に翻弄される果敢ない姿が交錯しつつ淡々と描かれてゆく。

スペイン独自の「異端審問」、ナポレオン率いるフランス軍の進撃(侵略)、スペイン独立戦争、、、。
ここでイネスは、富豪の美しい普通の娘から、豚肉を食事で食べなかったということだけで「異端審問」にかけられる身となる。ゴヤや彼女の父の懇願でロレンゾ修道士が彼女に面会するが、結局ロレンゾの子を身籠っただけで、15年を経てナポレオンの進軍によって牢から出される。彼女にとって時は止まり、ロレンゾを痛ましくも素直に信じ続けているが、理性は消え去っていた。かつての美貌もろとも、、、。
娘アリシアは幼くして教え込まれた異端者としての母の姿をそのまま継承し(または実は、反動形成?でもあろうか)、逞しく生き抜こうとする健かな娼婦となっていた。
策謀と日和見で、聖職者でありながらイネスを汚して捨てたうえに信仰も捨てフランスに逃亡するも、ナポレオンの権威に縋り舞い戻り、自ら復活・強化させた「異端審問」と聖職者を断罪する権威に就く。しかしナポレオンの正体に気づいた民衆によって捕らわれる、、、有り得ない程の激しい人生の浮き沈みを体験するロレンゾというパーソナリティ。
それにしても一体彼は何を求めていたのか。単なる権力か。それがどれだけ覚束無い代物か刑にかけられる時には悟っていたはずだ。きっと群衆の中から、正気を失ったイネスが自分の名前を叫ぶ声を聴いたとき、もうやめようと思ったのだろう。
その光景を高みのバルコニーから笑って眺めている王の並びには何とアリシアがいるではないか。国王付きの将校にでも取り入ったようだ。
何と皮肉なものか。
ここでまた、偽りの悔い改めをして生き長らえても、ロレンゾのその先に見えるものなど既に何もなかった。


彼の屍体を手押し車で運ぶところをイネスひとりが手を握り、付き添ってゆく。
彼女の腕には誰の子供か分からぬ赤ん坊が抱かれている。
(彼女にとっては、その子がアリシアなのだ)。
その後を、無力に打ち拉がれながらも、見守りながら追うゴヤ。

この絶大な重みは、この映画特有のエクリチュールで可能となったものだ。

イベントホライゾン

blackhole001.jpg
最近、銀河系中心部の超巨大(超大質量)ブラックホールに吸い込まれるガス雲”G2”の動画がNASAから公開されている。
コンピュータによるシュミレーション(これはその一部の静止画)だが、実際に吸い込まれの速度は、時速800万kmを超えるという。
下は、ホントに初めてそのものが、撮られたもの。

以上、ここまでCM(爆。

Event Horizon
1997年
アメリカ

ポール・W・S・アンダーソン監督

「事象の地平線」(シュヴァルツシルト面)である
われわれの情報の果てである。
ブラックホールに入った船がまた出てきたという感じか?
海王星の近くのことらしい、、、。
(そのへんにもあるかも知れないが、巨大なものはないと思われる)。

サム・ニール、、、ウィリアム・ウェア博士
ローレンス・フィッシュバーン、、、ミラー船長


7年前に忽然と姿を消した深宇宙探査船「イベントホライゾン号」が見つかる。
その救助に向かい「イベントホライゾン号」に乗り込んだクルーの怪奇な物語とでもいうものか、、、。

宇宙船の創りも船室もかなりディテールまで作りこまれている。
重力制御装置のコアなど、幾何学的で何とも言えないネモ船長も混ざっている感もあり。
そして「ソラリス」を想わせる。
「エイリアン」の雰囲気も漂わせ、光の表現もよく「声」も効果的に演出され、これはかなりの高密度で楽しげなSFではないか、、、。
と期待して観てゆくのだが、、、。

船は重力制御装置でブラックホールを作って時空を移動すると博士は説明していたな。
ワームホール(臨界超次元)によって移動するという。
原理の説明は、ドラえもんでもやっていた紙の端と端を折って重ねる例のネタである。

この船、暫くブラックホールのなかにいて、質の悪く、趣味の悪い船となって還ってきたようだ。
最初と同じ形体をしているが、時空の歪みを経て全く異なるものに再構成された、ということか、、、。
非常にネガティブな識閾下の想念を現象化させるダークスプラッターソラリスだった。
この重力装置のコアにクルーが取り込まれるというメタフィジカルな出来事に始まり、全てが禍々しい空間に歪んでゆく。

クルーたちは、次々に自分の抱える「闇」とあからさまに出逢ってゆく。
非合理なそのファントムに抵抗せず引きずられてしまうと、あえなく命を落とす。
明確にコアはクルーを殺す意思を持った主体と化してしまっている。
最後には博士を完全に乗っ取ってしまい、自分の意思を喋らせるのだが、イマイチ何が目的なのかは、はっきりしない。
元の博士はひ弱であったが、凄まじい腕力を発揮する。しかし知力の方は後退した印象を受ける。
とは言え、ウェア博士の極限振りには、流石のミラー船長も唖然である。
しかし船長のミラーはしっかり理性で、目くらましには惑わされない。

結局、ミラー船長大変善戦するが残ったクルーを救うため、ウェア博士ともども爆死する。

何と言うか、「バイオハザード」の監督だけあって、ゾンビ的な惨たらしい殺戮スプラッターの美を極めようとしているのも分かる。
特に最初の、「イベントホライゾン号」の船員の屍体の群れが重力空間に切り替えられた瞬間に床に落下してボトボトっと砕け散る様子はこの監督の性向・趣味を鮮やかに表しているところだろう。
この趣味的な部分に注力し過ぎていることは否めない。


もしかしたら重力と魂はかなり密接な関係のあるものなのでは、と思う。
光と重力の関係のように。

Event Horizon003

インビジブル2

Hollow Man II

Hollow Man II
2006年
アメリカ

クラウディオ・ファエ監督
ポール・バーホーベン製作総指揮(インビジブル監督)

ピーター・ファシネリ、、、フランク・ターナー捜査官
ローラ・レーガン、、、マギー・ダルトン博士
クリスチャン・スレーター、、、マイケル・グリフィン(透明人間、元特殊部隊兵士)

ある意味「中身のない男」であった。

最近の生物学(細胞研究において)、細胞の透明化が実際に進んでおり、透明の魚なども新たに生まれている。
しかし人間の透明化と言っても、このような透明化はまた次元が異なるが、、、。
その辺をとやかく謂う映画ではなく、まず透明になる実験が成功し完全に透明化した人間が生まれたという前提から始まる。

「インビジブル」の方は、自分のミスでデッキから消去してしまい、この2しか残っていなかった。
2とは言え、1の続きを意識することなく、これ自体で観る事に問題はない。
しかしこの映画自体には、さしたる魅力はなかった。

少し前に観たマフィアと透明人間ではどちらが面白いだろうか、、、などと一瞬想った。
透明人間が、自在に透明・不透明に変わることが可能であれば、こちらの方が都合はよく、確実にやりたいことは出来るはず。
しかし、透明化したらそのまま、というならリスクが高かろうがマフィアの方が良い。
ヒトは自らが他者から見られ、何がしかの存在として受け取られてゆくことにより自我が更新され続けて実存が可能となる。
透明で有り続けていたら、自分が例えやりたい放題のことをしていたとしても、アイデンティティーの崩壊は自明のことだ。
精神が持つはずがない。ここではさらに緩和剤の問題もあり、死への不安や恐怖も抱え込み生きることになる。
マフィアが自在な(ドラえもん的な)透明人間になりでもしたら、まさに最強・最凶であろう。
それだけは勘弁してくれ。
政府はそれを兵器として使いたかったのか?
レーダーや赤外線に引っかかればそれまでだし、兵器として使うとしたなら、かなり限定的な使用に留まるように思える。

ここでの透明人間の心的状況の描き方はとても薄い。
透明なので薄いのも仕方ないが、、、それにしても一体何をどう描こうとしているのか、が判然としない映画であった。
題からしても、「中身のない男」だが、彼の振る舞いは、それに等しい。
パーソナリティの横揺れなどがもう少し明瞭に描かれていてもよいかな、とは思える。

透明人間の身体性は、映像的に描くとすれば基本こういう感じになるだろう。
しかし終盤の主人公も透明化し、透明人間同士の闘いなども、もっと工夫が必要であっただろう。
考えれば、まだ他に様々な演出の余地もあったとは思うが。
さらに透明人間といってもあれほど全く感知できない存在になってしまうとは、考えられない。
ヒトの知覚は勿論、視覚優先であるが、それだけではない。
感覚は幾つも細やかで重層的に機能する上、第六感なんてものもある。
これは確かに、、、。
足音や空気の振動や匂いや気配(超越的感知含め)、、、いろいろあろう。(実際そうだったのでは)。
そこからすると、単純に見えないだけで覚知出来ないということもないはず。

しかし見えない何者かに襲われるという恐怖は、かなり出せていたのではないか。
特に、ダルトン博士とターナー刑事が車で逃避行中の疑心暗鬼など不安を掻き立てる良い演出であった。
もっとも見せ場は適度に見せてはいるが、それぞれのキャストの設定の背景やその動きの動機がしっかり描写されていない。
動かし方を取り敢えずそれ風に作っていても、そこに強く共感できる動機がないため、流れそのものに説得力が足りない。
全体にその流れで最後までゆく。
特に警察と軍?の動きや体制が何やらいまひとつでちょっと頼りなさすぎないか。


キャストも皆、微妙であった。
クリスチャン・スレーターなど、観たいと思っているファンには肩透かしであろう。
出ているはずだが。
ターナー捜査官も善戦していたとは思う。
マギー・ダルトン博士(ローラ・レーガン)は、ひとつ頑張れば、ブリジット・フォンダ的な魅力も出せた気もするが、どうであろう。
(少し大根気味に感じられた)。




グッドフェローズ

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Goodfellas
1990年
アメリカ
『Wiseguy』ニコラス・ピレッジ原作(ノンフィクション)
マーティン・スコセッシ監督


レイ・リオッタ、、、ヘンリー・ヒル
ロバート・デ・ニーロ、、、ジェームズ・“ジミー”・コンウェイ
ジョー・ペシ、、、トミー・デヴィート
ロレイン・ブラッコ、、、カレン・ヒル(ヘンリーの妻)
ポール・ソルヴィノ、、、ポール・“ポーリー”・シセロ
フランク・シベロ、、、フランキー・カーボーン

「おともだち」である。

登場人物全員の顔が皆、イッテルところが凄い。
皆が一触即発状態にいる。
危ないことこの上ない。
そして湿り気など微塵もなく、からっからに乾いた世界である。
古くからの仲間でもいらなくなったら、すぐに消す。
しかもそこにペシミスティックなところなど全くなく、、、。
どれだけ危険でもこの世界の魅力に取り憑かれ離れられない人々である。
Goodfellas002.jpg
特に、このトミー・デヴィート(ジョー・ペシ)の狂気の沙汰は、凄まじい。
冗談かと思って笑っていたら突然切れて相手を蜂の巣にしてしまう。
話が終わって帰っていったかと思っていたらまたひょっこり戻ってきて撃ち殺す。
きっと途中で頭に血が上ったのだろう。
もう飛んでもない輩である。
この男の詰まらい笑い話には、誰もがお愛想笑いをせざる負えない。

しかしもっともドキドキさせられた場面は、これまで一番親密に組んで仕事をやってきた相手であるジミーにカレンが道脇の店に手招きで誘導されるところである。寸でのところで車に乗り込み大慌てで逃げ帰るが、そのまま角を曲がっていたらどんなことになっていたか、、、。兎も角、奸計と罠は至るところにあり、狂気と暴走もちょっとした雲行きでスイッチが入る。
実際のマフィアの世界をヘンリー・ヒルを中心に描く実話(と言っても不可避的に創作であるが)。

何であっても、大きな盗みや薬で巨額の金が舞い込み、それを命ともども一挙に蕩尽する人間の根源的な欲望の見えるところが堪らない。
だから、マフィアはやめられないのだ。
ヘンリーも大統領になるよりマフィアになりたいと、子供の頃から念じていた。
そして、コツコツ努力を積み重ね信頼とコネを得て、一角のマフィアとなったのだ。
これも、人間信念を持って頑張れば何にでもなれる、という例か。


しかし幹部はイタリア人でないとなれない、という仁義があるらしい。
幹部になれば、組織の誰を殺しても構わないという。
凄い掟だ。
ちゃんと貢物や年貢?を納めていれば、取り敢えず守られるが、ひとつ注文を付けられると身の危険は半端ではない。
それでもやめられない魅力があるのだ。
恐らくそれを一度知ると、、、堪らない快感の虜となってしまうのだろう。
トミーなどはヒトを殺す快感のためにマフィアをやっているように見える。
自分も最後にあっさり幹部にハメられ殺されてしまう。


この手の映画では、「ゴッドファーザー」と双璧をなす作品という。

音楽がまた何ともよい。
クリームやストーンズもよいところで活きていたが、、、。
最後は「マイウェイ」が実に決まっている。これがシナトラ版ではドウショモナイ。
そしてデレク&ドミノスの「愛しのレイラ」で締め。
全てがスタイリッシュ。
アッケラカンとしていて、気持ち良い。

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ビリギャル

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2015年
土井裕泰監督
坪田信貴原作

有村架純、、、工藤さやか
伊藤淳史、、、坪田先生
あがた森魚、、、塾長
吉田羊、、、母
田中哲司、、、父
松井愛莉、、、さやかの親友

大学は受かった後からが肝心なのだが、、、大丈夫か?
籍を置いている4年間(8年までオッケーだが)に何をするかだ。
わたしの大学の心理学の教授は受かった後、大学には1日も行かず、その時間をひたすら勉強(研究)に費やしたと言っていた。外遊もしたそうだが。
つまり自分の為に使えるその時間を学問にどう有効に使うかだ。
大学システムが有効に活用できればそれに越したことはないが、、、。
多くの場合、実質受かったところで終わり、大学すら小学校の延長線上にあるようだ。
宿題、レポートを形だけ整え提出すればそれまで、、、という。
まずは、自己解体ではないか、、、折角の機会だ。

そして何を学びとるか、のみが問題だ。
ある意味、もっともストイックに突き詰められる時期である。
体力もあるし究極までやり抜ける。

わたしの場合、大学時代に自分にとってのファースト・インパクトが訪れた。
考えてみれば、勉強らしい勉強はこの時期にしかしてない。
それ自体を自己目的化出来るアナーキーな時空ではじめて可能となったものだ。

思えばそれ以前の高校時代など酷いものだった。
何かを学んだ記憶すらない。
大学に入る際も、全く静かなものだった。
勿論、自分の意思で決めた大学ではあるが、、、。
国立大だったこともあり、入学金も学費などもあってないようなものだったし。
これといった抵抗感も達成感もなく、何となくキャンパスに入っていったものだ。
(すると最初に遭ったのが、母親が教わっていた教授であった。「お母さん元気か」である。母が教わった教授がまだ4人退官前で残っていた。心底ウンザリした。母どころか母の父親もその大学である。別に呪縛されているとは思わないが)。
暫く休みがちに通っていたものだ、、、
しかしそれからの経験はかなり貴重なものだった。
こんなことを長く語る気はないのだが、、、。


わたしはこの映画のような熱いドラマは全く経験してないが、こういう世間に囚われない賢く優しいお母あさんと他人でありながらどこまでも信じてくれる塾の先生の存在というものは、大変大きいと強く感じる。
それから親友も他者に対する感覚をしっかりもっていて暖かい。
この映画でもっとも重要なところは、そこだ。
高校3年生なんて不安定でまだまだひ弱な存在である。
思い切って何をやるにしても、、、この時期はやはり受験か、、、
このような確かな後ろ盾がどれだけ心強いか。

ここでは大学合格までのサクセスストーリーに留まらない、学ぶことの本質に触れるものもあり、彼女が存在としてのレヴェルアップも果たしていることは、確かに分かる。
受験の準備期間がとても濃縮された彼女の成長の時間になり得ている。
これは、よかったと率直に思える。
一回り素敵な女性になっている。


しかし、大学は入ってから後の問題である。
それが、ちょっと気になってしまった。
それもあり最初にくだくだと書いてしまったものだ。
こんなに派手に入ってしまうと、もうゴール、、、となってしまわないか。
そうならないことを祈りたい。


それから、、、
有村架純は、文句なしの存在感で名演技であった。
でも大人になってどんな役をやる人かどうも想像つかない、、、。

伊藤淳史は、わたしにとっては今でもチビノリダーである。
ファースト・インパクトは大きい(爆。

あがた森魚が渋い。渋すぎる。

吉田羊を見直した。

松井愛莉のお天気お姉さんは実に恐ろしかったが、このような年相応な役は自然なチャーミングさで安心して見れた。

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上白石 萌音の366日を聴く

Kamishraishi Mone

youtubeで何人ものヒトが「366日」を歌っているのを聴いた。
ここでわかるのは、同じスコアでも歌い手によって全く異なる曲になるということ。
わたしは、長女と聴けたのは、上白石 萌音さんのものだけだった。
他のものに魅力を覚えず、聞流してしまったが、彼女の歌だけ何度も反復して聴いた。
純粋さ清らかさ、果敢なさは上白石さんの声によってこの曲の特徴となる。
うちのむすめたちのなかでは、いくちゃん(生田絵梨香)のショパンの次にきている。
(今日観たような映画で、バイオリンではなくピアノ編があれば生田女史が主役で演じるのもよいのではないか)。

こういったそよ風のような刺激って、良いなあと思う。
アコースティックギターによるもっとも理想的なバックに聞こえる。


Vが曲の内容に関連していないところが、逆に身体的な同期性を感じさせる。




命をつなぐバイオリン

WUNDERKINDER001.jpg

WUNDERKINDER

ドイツ
2011年
マルクス・O・ローゼンミュラー監督

エリン・コレフ、、、アブラーシャ(バイオリニスト神童と呼ばれる)
イーモゲン・ブレル、、、 ラリッサ(ピアニスト神童と呼ばれる)
マティルダ・アダミック、、、ハンナ(バイオリニスト2人の友達)
グドルン・ランドグレーベ、、、イリーナ(アブラーシャ、ラリッサそしてハンナの優れた音楽教師)
コンスタンティン・ヴェッカー、、、シュヴァルトウ親衛隊大佐
カイ・ヴィージンガー、、、マックス・ライヒ(酒造工場社長、ハンナの父)
カテリーナ・フレミング、、、ヘルガ・ライヒ(ハンナの母)
ミヒャエル・ブランドナー、、、 アレクシー(マックスのウクライナ人の部下)

「命をつなぐバイオリン」って何だ?
ちょっと酷すぎる。
「神童」のままがよい。
ドイツの誠実な自己対象化による総括のひとつの成果でもあろう。
決して薄っぺらい反戦映画・反ナチ映画にはなっていない。


アブラーシャ、ラリッサ、ハンナ、3人の子役は皆、自分で演奏している。
そこがまた素晴らしい!役者としても十分に凄い上に、、、。
アブラーシャの迫真のバイオリンだ!
その才能に憧れ、地元で酒造工場を経営している富豪のライヒ一家の娘、ハンナも彼らの先生の下で勉強に加えてもらうようになる。
バイオリン映画の傑作と言えば「北京バイオリン」があるが、こちらはあのような迫り来る父子の感動の物語、というタイプの映画ではなく、体制(戦争)によって翻弄される神童の過酷な運命を淡々と描写してゆく。
途中でリコーダーやギターで、3人がラリッサの作曲した「友情の曲」を奏でているところは痛々しくも微笑ましい。
とても抑えた表現で戦闘場面などの派手さ(アクション)などもないが、かえって張り詰めた心的緊張感は強い。
またそれぞれの登場人物が色濃くソリッドに描かれている。
アブラーシャやラリッサを教え育てる音楽教師の誇り高い凛とした姿、「ボルシェビキにファシズム、体制に反抗したくもなる」と彼らに援助を惜しまないウクライナ人アレクシーなど、信条をしっかりもち、妥協しない人物像は印象に残る。

スターリン政権下のウクライナという国の深刻な事情には胸が詰まる。
本当は、共産党の宣伝を兼ねたものとは言え、アメリカのカーネギーホールでアブラーシャとラリッサのコンサートが催されるはずであった、のだが急に政局が激変したのだった。
彼らの家族もアメリカにわれわれの才能を見せつけてやれと意気揚々であったのに。
独ソ不可侵条約を破りドイツがソ連に進攻してくる。
当初はハンナの家族を森に匿うアブラーシャ達の家族という構図であったが、ドイツの支配下にソ連が置かれる立場となると、今度はハンナ一家がユダヤ人でもあるアブラーシャ、ラリッサ達を匿う番となる。
そんななかで音楽を通し固く結ばれるアブラーシャとラリッサとハンナの3人の瑞々しい友情。
ほんのひと時の詩的で美しい微睡みのような時間は、惨たらしい現実を殊更に際立てる。
3人は文字通り体制に無残に引き裂かれてゆく。

この映画「神童」の神童たる所以であるが、最後にアブラーシャ(バイオリン)とラリッサ(ピアノ)が完全に完璧な演奏をすることで、ナチスから命を保証しようという機会を与えられる。
ヒムラーの誕生祝賀会のコンサートであった。
自分の家族を攫って強制収容所に連行した相手を祝う会である。

これは、一般のドイツ軍関係者にとってはコンサートであろうが、二人の神童にとっては、耐え難い拷問に等しい。
最初は、とても順調に曲を弾きこなして一曲目が終了したが、会場のドイツ将校と目が合った途端ラリッサの脳裏には、
強制収容所に送られていった家族の姿や直前この男から受けた脅しの場面がフラッシュバックされててしまった。
そのため、引き終わる間際に彼女はピアノに突っ伏し嗚咽してしまう。
会場のハンナの両親の声を殺した叫び。そしてハンナの祈りも虚しく、、、。
アブラーシャは命を助けられるがラリッサは処刑される。
才能によってではなく、彼女の強い感受性・脆弱さによって、、、。

ハンナも言葉が出なくなり、筆談でコミュニケーションをとっていた時期があった。
戦時における日常のショック症状からである。
このような戦況下が、こどもにとってどれだけ過酷な時間となろうか。

結局、バイオリンが何であったのか、、、。


年老いたハンナのコンサートに友の形見の楽譜を持って現れた老人は、もうバイオリンはあれ以来全く手にしていないと謂う。
美術品の修復を仕事にしていると、、、。



WUNDERKINDER002.jpg


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オーメン

THE OMEN

THE OMEN
1976年
アメリカ

リチャード・ドナー監督
ジェリー・ゴールドスミス音楽

グレゴリー・ペック、、、 ロバート・ソーン(駐英大使)
リー・レミック、、、キャサリン・ソーン(ロバートの妻)
デヴィッド・ワーナー、、、ジェニングス(フリージャーナリスト・カメラマン)
ハーヴェイ・スティーヴンス、、、ダミアン(悪魔の子、ソーン夫妻の息子)
ビリー・ホワイトロー、、、ベイロック(家政婦、ダミアンの下僕)

「よくないことが起こる前兆」

6月6日6時に生まれることって、あると思うが、、、。
666は、ロックなどでも、意味深に謳われている。(ジェネシスなど、、、)。
「神と子と聖霊に対して、悪魔と反キリストと偽預言者」というところ、、、とか、墓を暴き真実を悟る場面など。
この映画は結構、覚えていた。勿論、最後の振り向いてニヤリ。
やはり全体が悪夢のトーンである。
しっかりしたプロットで構築された骨のある作品であり、単に刺激で惹きつけるタイプの映画ではない。

だがここに、かの「ローマの休日」のグレゴリー・ベックがいるとは、、、。

ダミアンの出生を探る旅で散々な目に会いボロボロになる、、、(本当に疲労困憊している)。
何ともイメージが合わない。


ホラーといっても最近のホラーみたいなスプラッターシーンはほとんどない。
牧師の串刺しやカメラマン、ジェニングスの首チョンパくらいのものだ。
昼間に急に嵐に襲われ、雷が木に落ち、悪魔に狙われた牧師が木の葉のごとく逃げ惑うところなど、詩的文学性が香る。
このような風情で、悪魔の恐ろしさをヒタヒタと感じさせる描写は染みる。
短絡的・即物的な運びや、偶然や突発的な出来事は一切ない。
全てが時計じかけで仕組まれたように動いてゆく。
ロバートとジェニングスも真相には近づくが、最終的な始末すべき敵が息子なのだ。
これが、酷く厳しい現実としてロバートの前に立ちはだかる。
勿論、彼は最初からダミアンが実の息子でないことは承知のうえだが、かと言って育ての親である。
殺す決意が容易くつくものではない。
奥さんキャサリンの方も痛々しく悲惨だ。
ダミアンの魔性にとことん脅かされノイローゼになった末、、、ダミアンに強い疑念を抱き、彼は自分の子ではないことを、感じとる。
しかしそんな時に、ダミアンとベイロックの二人に相次いで突き落とされ、絶命する。

彼ロバートはそれまでの周囲の人間の悲惨な死はみな、ダミアン―悪魔によるものであると認識し、、、
エクソシストのブーゲン・ハーゲンから受け取ったナイフでダミアンを教会で殺す決意を固める。
下僕のベイロックと山犬を振り切り、車でダミアンを連れて教会に飛び込むが、、、。
(彼は大使館から無許可で外に走り出した不審者として警察につけられてしまう)。
最後、もう一歩のところで、「パパ~、やめて~」の声に怯んだところを警官に撃たれる。

ダミアンの勝利。
そして彼―悪魔が政界の海に入り込んでゆく事を予測させるエンディング。


この物語、これでオシマイでも充分成り立つ。
続編を無理に作る必要もない。
含みを持たせて終わることも大切だ。
その後を想像させる余地を残すことは必要だ。
2,3,4まで作った上に、これをリメイクする必然性を感じない。
特に、この完成度を凌ぐことはかなり困難に思える。
最新VFXをふんだんに投入するくらいしかやりようがないように思える。
その作品どころか、この作品以外は、一つも観ていない。
更に観るつもりはない。


それにしても、、、どうにも引っかかるのが、山犬とはなにか、、、。
キリスト教、いやアンチキリストにおいて、山犬とは何なのか?
そして、どうして人間と山犬の間に子が生まれたのか、、、。

いや、現に生まれてしまったのだ、、、。
占星術のうえからも、その日―ダミアンが生まれた日が特異な日であった。
宇宙的な摂理から誕生した凶星であったのだ。
そうして悪魔は人間界に受肉して紛れ込んでゆく。


やはり、この物語はここでとどめておいた方がよい、、、。




海底2万マイル

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20000 Leagues Under the Sea
1954年
アメリカ

ジュール・ヴェルヌ原作
リチャード・フライシャー監督

ジェームズ・メイソン、、、ネモ船長(権力を憎む天才科学者)
ポール・ルーカス、、、アロナクス教授(海洋学者)
ピーター・ローレ、、、コンセイユ(教授の助手)
カーク・ダグラス、、、ネッド・ランド(銛打ち名人)


マシュー・フィッシャーが少年時代愛した映画だと、どこかで読んだものだ。
プロコル・ハルムのハモンドオルガン奏者である。
あの寂寞感漂う神々しい音色はネモ船長への鎮魂歌か。
彼の作る曲もヴォーカルも、ひたすら清められようと上昇する青白い焔を想わせる、、、。

そういえば、彼らも海賊だった。


ノーチラス号のプラモデルとフィギュアはもっているが、地震のときに、何とそれだけひとつ下に落ち、先端部が折れてしまった。
接着剤で今はとめてある。それ以来置くところも変えた。
ノーチラス号を持ってるくらいだから、この映画は以前に観てるはずだが、、、ほとんど場面に記憶がなかった。
「ネモ船長と海底都市」と間違えていたかも知れない。
別に、ノーチラス号自体の造形の魅力で持っていても可笑しくない物であるが、、、やはり映画で観て買ったとは思う。
思っていたよりずっとトーンが暗く、内容的にも重苦しい映画であった。
全体にもっとファンタジックな記憶がある。
この映画、時折見る悪夢?に似た雰囲気なのだ。

ピーターローレが終始、ごく普通の感性をもった役をこなしているのも異様であった。
そして粗暴で無謀な行動を取ってかき回すネッド・ランドこれがカーク・ダグラスで癖が強い。
ジェームズ・メイソンのネモ船長は、適役であるがとても頑なで内向的で暗い。
特に掲げる理想と洞察は素晴らしいが重く、潜水艦という閉鎖空間をより加圧する存在でもある。
ポール・ルーカスのアロナクス教授は如何にもというか、解り易いノーマルな紳士であり知識人という感じであった。

ここでも、画期的な発明を軍事目的に利用しようという国家権力との闘いが基調をなす。
武力―管理支配を目論む体制に対する個の自由と解放を標榜する者たちとの対立は普遍的テーマなのか。
恐らくこの映画以降こういったテーマが根付いてゆくのだろうが、、、。
今日映画の基本テーマのひとつとなっている事は確かであろう。

特にここでは、偉大な発明を成し遂げたネモ船長が、かつて彼を地獄に突き落とした体制(権力)側の手によって殺され、結果的に研究・発明した成果まで爆破して消えたところに、限りない虚無感と哀惜の念が残る。
彼の独善スレスレの高邁な理想を追う姿と辛辣な文明批判の言葉に、妻子を殺した権力への憎しみも説得力をもって寡黙に表現されていた。
そう、巨大なイカとの闘いなどあっても、全体として静謐なトーンが流れていたのは、やはりネモ船長の存在が大きかったと言える。
また、暗い中でも海の広大な自然とその豊かな宝庫に対するロマンも語られており、外―陸に対する安らぎという価値―愉しみが描かれているところは救いであった。
船内の美味しいご馳走も全て海産物から作られているというのも、この日常の現実にも繋がってくるエピソードである。
細かい部分であるが、その辺の場面がネモ船長の理想の細部として現実感を加えてゆく。

船内のメカの魅力がまた大きい。
未知の動力源―エネルギーで動いている船であるが、稼働させる部品は19世紀内燃機関発明期のものという景観が何ともゾクゾクさせる。ボルトやナットもボコボコ打ってあり、Fetishな魅力に溢れる。大小幾つものレバー類もまたよい。
実は、ここが一番わたしの惹きつけられたところだ(笑。
やはり、面白い。


最近の激しいVFXの映画を見慣れてきた目からすると、とてもゆっくり平坦に話が流れてゆく。
その分、テーマに見合った重厚な印象を残すのだが、潜水艦内という息苦しさも増す。
そのため、軽佻浮薄で粗暴なネッドが余計なことをしたり、脱走を企てたりする。
これはある意味、ネモ船長が醸すペシミスティックな厭世観に彼のようなタイプがいたたまれなくなる生理的で無意識的な行動とも言えよう。
実際に、彼はノーチラス号及びその船員と本窮地もろとも海の藻屑にしてしまう行動を取る。
それにしても彼がノーチラス号の本拠地を記した紙を入れた瓶が、しっかり軍部の手に渡っているというのは、チョットすごい。
奇跡的だが運命的でもある。

この凡庸な精神が、新エネルギーによる人類の革命を打ち砕いたともいえるエンディングであった。
ネモ船長の研究にずっと興味津津であったアロナクス教授は、最後にこれで良かったのだ、みたいなことを言っていたが、わたしはひどく惜しい、取り返しのつかないものを永遠に失った気がした。


カーク・ダグラスめ!
いや、これは役者だった(笑。


ノーベル文学賞に関して

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びっくりした。
ボブ・ディラン?
なんでまた、、、。
である。
恐らく詩人としてだとすれば優れた詩人は世界には他にいくらでもいる。
あくまでもシンガーソングライターとしての評価かと思われる、、、。

詩は音楽に乗るとまたどのようにも意味と価値を変えてゆく。
セックス・ピストルズの「マイ・ウェイ」が極端な例だが、そういった楽曲の傑作は幾つもある。
「詩」と「旋律・サウンド」との調和・違和・歪みをアーティストは効果的に利用するものだ。
歌詞のある曲は不可避的に重層するメッセージの束となる。
言葉で書かれた詩を読む(聴く)ことと、歌の歌詞を聴く(唄う)こととは、表現の次元が異なる。


学校でビートルズかローリングストーンズかで勢力二分して大騒ぎしていたころ、たまにディランとか聴いてる同級生もいた。
わたしが、ビートルズにひたすら心酔しつつも、ストーンズに鳥肌を立てて感激していた時期である。
ヤードバーズ、クリームの話などそのなかでしてみると、ちょっと尊敬の眼で見られたりもした。
マーク・ボランも人気が高かった。が、わたしは密かにデヴィッド・ボウイに惹かれていた。
まだ、そのころは人生を塗りつぶす影響を受ける、プロコル・ハルムとキング・クリムゾンには出逢っていない。
そういえばラズベリーズだとかバッドフィンガー(バッドカンパニーではない)とか言ったりするとみんなから袋叩きにあっていた、そんなころ。
試しにディランも聴いてみたことは、ある。
正直言って、全く引っかかりがなかった。
ともかく音楽としてサウンドとしてこれほどつまらないのはないな、、、と思いそれ以降聴くことがなかった。
元々わたしが、フォークとロックンロールは雑音にしか聴こえないところからくるのだろうが。
詩もいろいろ言われていたのは知っていたので、いくつか翻訳ものだが読んではみた。
社会派の詩だな、ということで関心はゼロになった。

その後、ロックはずっと聴き続けてきたが、「詩」を強く意識したのは、ルー・リードとピーター・ハミルだ。
勿論、ピート・シンフィールド、キース・リード、ベティー・サッチャー、リチャード・パーマー・ジェイムスによるキング・クリムゾン、プロコル・ハルム、ルネサンスの詩はとても心に響き、瑞々しく身体に残っている。しかし彼らは作詩専門のメンバーである。(ピートシンフィールドはソロアルバムを出しているが)。

しかし詩の提供ではなく、音楽と詩の両方を作っているという点において。
そして演奏し唱っている点において、、、。
サウンドとリリックの極めて重層的で高密度の融合という点では、上記のふたりだ。
所謂、孤高の才能と独創性と過激さ、稀有な美しさという点で。
特に、詩を詠うボーカル―声の底知れない表現力!(ここまで書くとロバート・ワイアットも入ってくる)。


ボブ・ディランと基本的に同じ立場・スタイルでもある。
しかしわたしは圧倒的に、ルー・リード、ピーター・ハミルに共振・感動する。
片や夜のニューヨークの帝王、片やマサチューセッツ工科大学の過激なナルシスト(失礼!
聴くたびに、どちらにも激しく魂が揺すぶられる。
だがボブ・ディランには無感覚である。時折耳にはしたが、何も残らない。
(フォーク、、、フォークロック特有のあのサウンドの雰囲気からしてキツイのではあるが)。
恐らく、ディランが彼らに勝っているのは、認知度くらいだ。
知名度ならジャスティン・ビーバーでも別にAKBでもよかろうが。(関係ないか(笑)



ノーベル平和賞は昔から、あれだが、文学賞もそんなものなのか、、、と思った。
村上春樹が今回も受賞を逃した上にボブディランということで、酷く落胆した。
いつまで村上春樹を待たせる気か?
(でも、これではボイコットしたくなるかな、、、)

ただ、今思い出したが、彼の小説にディランが出てきていたはず。彼はディランが好きなような、、、
スティーブ・ジョブスもそうだったが、、、。う~ん、、、微妙。


久々に”The ConstruKction Of Light  Millennium KING CRIMSON”あたりを聴いて爽快な気分に浸りたくなった。

シラノ・ド・ベルジュラック

Cyrano de Bergerac

Cyrano de Bergerac
1950年
アメリカ

エドモン・ロスタン原作
マイケル・ゴードン監督

ホセ・ファーラー、、、シラノ(近衛騎士)
マーラ・パワーズ、、、ロクサーノ(シラノの従妹)
ウィリアム・プリンス 、、、クリスチャン(ロクサーノの恋人)

恐ろしくよくできた映画であった。(惜しむらくは、最後をもう少しあっさり場面を削って終わらせて欲しかった)。
それにして、この時代の名画は凄い。
見事な恋愛コメディーであった。


恋愛にこれほど詩の才能を求められるとは、平安時代の貴族みたいだ。
彼らの「文」には愛を流暢に語る和歌が添えられ(和歌だけだったり)、その作詩力が大きく響いたという。
こういうのって、結構面白いではないか。
詩だけならわたしも必死に書いてみたい!
ついでに挿絵なんかも描いてみたりして(笑。
かなり凝るだろうな、、、。(相手はさておき)。
いや、自分のことはさておいて。


剣においては天下無双。学問、詩作の才能も敵(政敵)すら認めるほどの、文武両道ぶり。
そのうえプライドが高く、唯我独尊。権力を嫌い、誰にも従うことはしないシラノ・ド・ベルジュラック。
剣での闘いがかなりの尺で数回にわたりタップリ見られるが、最近のアクション映画の銃撃戦などより遥かに迫力がある。
詩の暗唱なども如何にも詩人らしい、、、。

だが、彼にも弱点がひとつ。
ひたすら想い続ける女性がおり、彼女に対しては究極の献身ぶり、というより滅私奉公ではないか(古。
恋愛のひとつの局面はエゴだ、とわたしは思うのだが、、、それは微塵もない。
自分の鼻をことの他、気にしている。
自意識過剰のひとつだ。
自分が過剰に気にするから、周りも気にしてしまう。
「蓼食う虫も好き好き」というし。一端、何かで魅力を感じ好きになってしまえば、まさに「痘痕も靨」である。
実際、彼が劇場で詩を詠みながら大立ち回りをした後、ある女性が忽ちシラノに恋をしているではないか、、、。
自分が端から(鼻から)、女性に相手にされないというのは、単なる思い込みなのだが。


彼女の好きな相手とはいえ、何も恋敵にここまで親身に協力しなくとも、、、。
所謂トリモチ役は遥かに超えている。
シラノ・ド・ベルジュラックも人が良い、とかいうものではなく、、、
もはや、自分をその男と同一視しているレヴェルか。
そう思うが、、、。
これは漢気というにも程がある。
この辺のやりすぎが、かなりユーモアとペーソスに塗れる。
毎日手紙を代筆して戦地から危険を冒して彼女の元に送るとか、、、。
妙に律儀に真面目に熱心にやるほど、、、。

しかもその相手の男、かなりの馬鹿であり協力する値打ちはない。
ただの木偶のぼうである。
彼女に醒めさせるという手もあろうに。
その方が圧倒的に正しいことは分かってはいるが、彼女の幻想と自分のコンプレックスからそれができない。
しかしどうせ、自分が一途に思う相手と結婚する男なら、もう少しましなのを選んでからにするべきだろう。
この男の独力ではロクサーノにすぐに見透かされるのは目に見えている。
メルトダウン―自然消滅だ(爆。

どう考えても詩は自分が詠むべきだ。
言葉はいきものだ。
世界は言葉だ。
他人の詩を詠むとしても、まず自分のものにしてから自分の言葉で詠むしかない。
この二人羽織腹話術は無理。
盛り上がるほど何かのコントに思えてくる(苦。
しかし、このロクサーヌ、闇の中で詩を詠んでいる主がシラノだと、その声から分からぬか、、、?
もしかすると彼女とこの傀儡男は割れ鍋に綴じ蓋か。

しかし、クリスチャンも最後に漢気を示す。
自分を通して彼女はシラノの精神をこそ愛しているのを、ようやく見抜く(遅。
彼はシラノの代わりをかって出て、敵陣の視察に行って帰らぬ人となる。
この展開は予め分かってしまうが、よいところだ。


14年目。いつもより少し遅れてシラノはロクサーヌのいる僧院を訪ねる。
かなり夜も更けている。彼は暴漢の待ち伏せに会い瀕死の重傷を負っていた。
クリスチャンからの最後の手紙を、何故かシラノがその詩の調べにふさわしい詠み方で滔々と暗唱する。
「その声聞き覚えがあるわ!暗いところでよく読めるわね、、、」って彼が手紙は全部書いて、詠んできたって。
最後の最後に気づくロクサーヌも何とも、、、。(あれから14年目である)。

詩を詠みながら崩れるように倒れて死ぬなんて、まったくダンディな漢だ。
結局、悲劇で幕は閉じるが、、、


シラノのこの妥協のない生き様は、大いに見習いたい。


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ハンナ

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Hanna
2011年
アメリカ

ジョー・ライト監督

シアーシャ・ローナン、、、ハンナ
エリック・バナ、、、エリック・ヘラー(ハンナの父元CIAエージェント)
ケイト・ブランシェット、、、マリッサ・ウィーグラー(CIAエージェント)


何だかさっぱり筋―脚本のつかめぬ映画である。
内容が何だか分からないが、映像的コンテクストをなぞるように見てゆけばそれなりに見れる。
しかし、何でそうするのか、は謎ばかり。
そうすれば、こうなってゆく力学的作用(反作用)は生理的に受け入れられる。

この映画の目玉は、何と言ってもシアーシャ・ローナン―ハンナだ。
16歳という設定。
フィンランドの森林地帯に父と2人で住む。一面の雪景色、、、。
彼らが住む小屋には、百科事典とグリム童話の他にこれといって何もない。
所謂、文明の利器はない。
TVやラジオすら、、、。

そうした環境で何をやって暮らしていたか。
父からの特訓で、サバイバルのための戦闘力(体術)を身に付け、ナイフや拳銃の腕を磨き、狩りをしながら英語、ドイツ語、スペイン語、アラビア語の習得をしていた。
何のためかというと、、、よく分からない。
それは、最後まで宙吊りのまま、、、。

外の世界に出たがる娘。
ここで、外があることを知っているだけでも拾い物だと思える。
父が外に出る心構えが出来たらこのスイッチを入れろと言って狩りに出る。
その間に、彼女は装置のスイッチを押す。
帰ってきてそれを知った父はヒゲを剃りスーツに着替えて外に出てゆく。
(何でだ?とういう気持ちでこちらは呆気にとられるが)。
その装置は、CIAに小屋の場所を通知する送信機だったらしく、直ぐにCIAの襲撃に遭う。

娘は彼らに捕らえられ本部に監禁され尋問を受ける。主に父の居場所についてであるが。
父の目論見としては、あくまでも娘をCIAに送り込むことであったのだろうが、、、
何か彼女に任務めいたものがあったようにも、それを遂行したようにも見えなかったのだが。
ただ、行ってそこを逃げ出しただけのように受け取れる。
(自分の遺伝子操作についての情報を得るのが目的なのか?いや、ここで初めてDNA検査を受けたのだ)。
ああ、そうか。母の敵をとりにいったのか?(ここでまだそのいきさつは知らされてなかったような、、、しかし「魔女は死んだ」というのは、マリッサを殺したと勘違いして父に送ったメッセージである)。それが任務であったか、、、余りにあっさりしすぎて。
磐石の警備を抜け出す技量に関しては、父に叩き込まれた体術とセンスが充分活かされるところだ。
兎も角、彼女は外の世界には出た。

ロードムービー風にハンナは逃亡の途上で友達らしき子が出来たり、文明の利器に驚いたりもするが、、、。
特に印象には残らないし、伏線的な流れが生まれるわけでもなく。
そのキャンピングカーの家族にも友達になった女の子にも魅力がほとんど感じられないのも困った。
ハンナは部屋の電話やポットやシーリングファンには戸惑い果てる割に、ネットカフェでパソコンいじって情報を取り出すところなど何ともである。一般のパソコンでCIAの機密情報にすぐアクセスできるはずもないと思うが。
適度なアクションシーンをいくつか挟む。

そのハンナを執拗に追い続けるマリッサ・ウィーグラー。
このCIAエージェント、片っ端からヒトを銃殺してゆくが、わざわざ殺す意味もない人間を次々に撃ち殺す。(子分も使って)。
これは、サム・ペキンパーの映画では、見られないことだ。
冷酷とか非情などと謂う以前の問題で、何でそうするのかが分からない。
変なヒト。
どんな映画のどんな役でも、その人間が置かれたコンテクストのうちで共感をもつ部分があるからそのキャラに添うことができる。
このマリッサは、悪人ですらないし、狂人の身近さもない。
ただ、電動ハブラシで鬼のように歯を磨く様は、確かに常軌を逸していることは分かる。

もっと分からないのは父親エリック。
マリッサ・ウィーグラーに「なんで今頃、現れたの?」と聞かれるが、わたしも聞きたい。
サバイバル術を娘に叩き込んだ末に、彼女をどうしたかったのか?
さっぱり見えない。
基本的に、呆れてモノも言えない。

だが、最も呆れて怒る気にもなれないのは、脚本家である。
一体何を考えてるのか、なんにも考えていないのか、まず後者であろう。
遺伝子操作の生体実験など随分昔から使い古されたネタや、あなた本当の父なの?とか聞き飽きてもうカビが生えている。
あくまでもその使い方であろうが、、、ここでは感情移入が微塵もできないではないか、、、もういい加減にしよう。

物語の骨格の構想が全く練られておらず、行き当たりばったりの脚本に演出が絡み、きっとキャストが一番何やってるか分からず戸惑った映画であったと思う。

「心臓を外しちゃった」など、それが何かの決まり文句にでもなるとでも思ってるのか?!
こんなもの、サム・ペキンパーが見たら、何と言うだろう?
きっと恐ろしいことになるはずだ、、、いや見向きもせずに呑みに行ってしまうか、、、。

まあ、見ていくうちにどんどん関心が薄れてゆく珍しい映画であった。
キャストに同情したい。


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シアーシャ・ローナンはアクションも出来ます!という宣伝にはなるが、、、割に合うか。


時計仕掛けの美~癒しの装置

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瞬間の美~癒しの発見。
これを時間限定のスヌーズレンとしたりインスタレーションとしてもそれはそれで、オツなものだ。
本日13時過ぎの出来事である。

最近、亀の水槽を新しく大きいものにした。
亀が大きくなった為だ。(しかし片方は片方の優に1.5倍はあるのが不思議。買った時は同じ大きさだったのだ)。
紫外線ライトを続けざまに二回壊してしまった為、また割る事を見越して水槽ごと陽の射す窓辺に置くことにした。
この変更により、、、
陽の射す水面が広がり、天候による光の照射量の増減等による反射光の輝きの度合い・変化が生まれた。

思わぬアート~癒しの時間が現象した。
今日風邪で休んでいる次女が亀を眺めているわたしの隣に座ったときに偶然見つけた事だ。
次女はたびたびわたしとは逆方向の空間に目をやる。
白い天井の端に音もなく光の気流のような波紋とロウソクの焔の形に燃えついた虹があるのだ。
波紋は亀の泳ぎ具合によって細やかにダイナミックに変化する。
亀がこちらの気配で、何やら驚き手足をばたつかせると、ジェット気流の揺れと速度が増す。
亀が落ち着くと、穏やかにたゆたう。
虹はほとんど亀運動に関わらず一定の灯り方を維持する。
これはきっと、水面ではなく水槽のガラスのプリズム作用によるものだ。

このスヌーズレンまたはインスタレーションは、時計亀仕掛けの虹と光の気流変圧装置による。
次女の発見により、半装置化した。
これはウケる。
影の存在が亀なのだ。

14時前には、天然幻灯機は落ちた。

何があったわけでもない。

昼間の宮沢賢治の童話世界を垣間見た。
次女と一緒に視れたのが、またよかった。

我が家にとっては「午前零時の奇蹟」以来の収穫である。


学校から帰ってきた長女にそのことを話すと、「知ってるよ、何度もみたもん」と当たり前のことのように返してきた。
「パパにそのとき教えてよ」というと、、、
ニヤッと笑ってピアノを弾き始めた。


明日も晴れないかな、、、。

公園の散策

sun.jpg
今日の太陽は、心地よい。
ということで、半ば自動的に外を歩いた。
うちに一番近い公園に行く。

スポーツ公園はやはり運動目的以外にはあまり面白味はない。
と、今日は感じてしまった。
楽器をやっている人もこの公園が一番少ない。
(先日の女性のギター弾き語りは、特別であった)。
今日は一人もいなかった。
そうなると、ジョギングしている人と犬に引かれて歩く人以外、誰もいない。
ベンチを馬乗りに座り込んで、囲碁・将棋に打ち興じる老人やゲートボール、、、もまだ始まっていなかった。
他は、室内のジムでトレーニングしているか、プールで泳いでいるだけだ。

別に人間観察しに来た訳ではない。
そんなことには全く興味ない。
ただ、最近公園で聞こえる楽器の音にちょっと惹かれる。
写生の絵などには関心ないが、、、演奏はときおり、面白いものに当たる。
三味線の鬼気迫る演奏を聴いてからのことであるが、、、。
その後もトランペットやサックス(ありがちだが、、、)
トロンボーンもあった(これは多分吹奏楽部の男子生徒だ)
それから尺八。いまBamboo Fluteは海外でも人気がスゴイらしい。
辻本好美という尺八奏者の影響らしい。

独特の音色で素敵だと思うが、ウンーんちょっと微妙。尺八である必然性があるだろうか、、、バスフルートでもよさそうな、、、。
尺八は日本の侘び寂びの音色だなと逆に実感。
噺は逸れたがギターの弾き語り。
これは、ちょっと立ち止まって聞きたいものと、足早に通り過ぎたいものとの幅が大きい。
何でもそうであるが(笑。
思い込みだけのものは、ただ辛い。

コンサートホールにお金を払って(当たり前だが)ゆくのもひとつだが、、、
公園などで一期一会の演奏を聴くのも、なかなかオツなものである。
決まった音を構えて聴きに行くのではなく、たまたま面白い(凄い)音に出会ってしまった、というのも良い。
まさに、ハットする「他者」との邂逅である。

それは一番、瑞々しく面白い関係に想える。
生の更新であり、差異を孕んだ反復となる。


”Bon voyage.”

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地球が静止する日
宇宙戦争
トランス・ワールド
ロボット
ヴィデオドローム
イグジステンズ
マイノリティ・リポート
フローズン・タイム
マザーハウス 恐怖の使者
EVA
ベイマックス
ファースト・コンタクト
ファースト・マン
13F~サーティーン・フロア
あやつり糸の世界