プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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カッシーニ グランドフィナーレⅡ
シチズンフォー  スノーデンの暴露
スノーデン
シャイン
鑑定士と顔のない依頼人
英国王のスピーチ
やさしい本泥棒
末期の目
レヴェナント: 蘇えりし者
透明な身体性
森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ
ヴィデオドローム2 ~イスラム国 ~アノニマス
見えない重力を描く Ⅱ
美の翳りに寄せて
写真についてーⅡ
午前零時の奇蹟(シュル・レアリスム覚醒の時間)
パーフェクト・デイ ~ルーリード ~ローリー・アンダーソン ~スーザン・ボイル
未来派の画家~ウンベルト・ボッチョーニ
Balthus ~ バルテュス展行ってまいりました。
「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ  ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ
大昔のスケッチ(詩画集のための試作)
すでに世界は終わっていたのか ~ ヒエロニムス・ボスその1
スヌーズレン002
情報リテラシー  ~華氏911 ~不都合な真実
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ヱヴァンゲリヲン

EVA.jpg

汎用人型決戦兵器ヱヴァンゲリヲン
(使徒アダムとリリスをもとに作られた、彼らと同じくATフィールドを発生可能な兵器)。

ヱヴァンゲリヲンを「序」と「破」と「Air」とダイジェスト版のような「使徒新生」と観てみた。(2回目である)。
「ネオンジェネシス」は「使徒新生」と内容が一緒。
「Q」が抜けている。どこかで見ないと。
以前、何となく雰囲気で見ていたEVAの外郭は認識できた。


イエスキリストの高弟12使徒が人類の敵として襲ってくる。(12人より多いようだが、、、)。
その使徒というのがユニークなフィギュアを展開する。
どれも秀逸だ。
物凄い強度だ。

この使徒。
地下にNERV本部が置かれている、第三新東京市をほぼ週一ペースで規則的に襲ってくる。
核攻撃をもものともしないATフィールドを展開する為、通常兵器など全く効かない。
唯一、自らもそのフィールドを作れるヱヴァンゲリヲンのみ彼らのATフィールドを解除侵食できる。
つまり、実質的攻撃―殲滅が可能。
撃退時は、彼らの攻撃の際に実体化して見えるコアを狙う。
ATフィールドの基本原理は人が外部から遅延する「自分」という意識を強くもつ状態であるようだ。


NERV本部最深部のターミナルドグマにリリス(イブの前に作られた最初の女性)が繋がれている。
ロンギヌスの槍に刺されて。
使徒はそのリリスに融合し、第三インパクトを起こして地上の生命を一掃しようとしているという。
ヱヴァンゲリヲンはその使徒排除のための兵器であり、綾波、シンジ、アスカ等のチルドレンは、ヱヴァンゲリヲンに適合するパイロットである。母のいない14歳の子供であることが選定の前提条件となる。A10神経活発時にEVAのコアとの同期がし易いらしい。
シンクロ率の高いパイロット程、優秀のようだ。(だがフィードバックも大きいようだが、、、)。
また、使徒とは、(何で使徒というのか分からないのだが)、外宇宙からやって来たエイリアンとかではなく、人類と遺伝子組成はほとんど同等の地球を起源とする生命体である?形体―機能が途轍もなく隔たっているように見えるが。
たまたま地球に繁栄した人類も使徒のひとつの流れであったと謂える。

シンジは常にへたれながらも何とか褒められたい認められたい甘えたいの一心でがんばる。
しかし、ひとつ何かあれば、すぐにダダをこねて逃げる。
一番支えになっているのは綾波レイである。
すぐに慰めて貰いたがる。
次いで葛城ミサト、そして惣流・アスカ・ラングレーか、、、。
こどもにこういうことをやらせること自体、作戦遂行に問題が出るのは必至だろう。
(寧ろそれを繰り込んだ戦略が必要だ)。
ただでも思春期真っ只中の不安定な時期である。
「実感も沸かない大事なことを何で僕なんだろ」
当然といえば、当然。

相変わらずオタク・レヴェルの兵器関連の専門用語の羅列でリアリティを生んでいる。
こういう畳み掛けは嫌いではない。良い雰囲気を作っている。しかしシンジの携帯しているS-DATはマニアックすぎ。そもそも発売もされていない。(クラシックコンサートのライブレコーディング時などに専門家がマックブックと一緒によく持ち歩いていたが)。
しかし陽電子砲を二度撃つ「ヤシマ作戦」の時など、ちょっと感動ものであった。
その後でのレイとシンジとのやりとりも、恐らくアニメ史上に残る名場面であろう、、、。
メカ画像のディテール描写に関しては、アップルシードなどの方が遥かに分があるが、フィギュアのアイデアの質が高いため問題ない。
兵器のランチャーや内壁などで、漢字がとてもグラフィカルに効果的に使われているのも印象的だった。
L.C.L.などSF映画の宇宙船コクピットに時折使われているアイデアであるが、確かにこの呼吸液体?のおかげで様々な身体調整やここではEVAとの神経接続への説得力は増す。
また、パイロットがパニックに陥った時(シンジはしょっちゅう陥る)、ダミーシステムが稼働し、EVAが本来?の性向でパイロットから離れて闘い出す。こちらの方が遥かに凶暴である。また、ビースト化して暴走したりする。使徒を喰ったりする。
かなりド派手なスプラッターシーンが頻出である。


実は、EVAの本当の狙いは使徒撲滅を超えて、、、ここがまだよく掴めていないのだが、、、
ヒトを群体から単体に進化させる「人類補完計画」のためであるという。

つまり。
それをNERVの他に、いろいろと手の込んだ計画でゼーレという何やら神がかった組織が進めてきた。
最後は人類対使徒ではなく、計画を実行するためのマテリアルを巡る人類同士(NERV対ゼーレ)の殺戮戦と化すが、結局、、、
儀式による強大なアンチA.T.フィールド生成により、あらゆる生命~意識は一体化を辿ろうとする。
「他者の無い単一体として人類を再生」させる計画であったのだ、、、。

しかし、レイの他者を望むこころが、それをさせなかった。
(まるで、ここからまた生命進化を辿りなおす壮大なドラマの幕開けではないか)。


これは凄まじく重い、、、。

よく分からないところは多い。
また、Qが手に入ったところで見直すか。


少年期

yoshimoto.jpg

今日は書いたものを全て破棄して、引用したい詩がある。
というか詩を読み始めたら、これを書き写したくなった。
今日観た2本の映画の感想は、そのうち載せたい。
(というより、もうどうでもよい)。
「固有時との対話」や「その秋のために」や「ちいさな群への挨拶」は特に好きだが、、、
先ほどこの詩を読んでいて、書きたくなった。
吉本隆明氏の「少年期」。
最近の自分に引っかかってきた。

くろい地下道へはいってゆくように
少年の日の挿話へはいってゆくと
語りかけるのは
見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
三銭の屑せんべいに固着した
記憶である
幼友達は盗みをはたらき
橋のたもとでもの思いにふけり
びいどろの石あてに賭けた
明日の約束をわすれた
世界は異常な掟があり 私刑があり
仲間外れにされたものは風にふきさらされた
かれらはやがて
団結し 首長をえらび 利権をまもり
近親をいつくしむ
仲間外れにされたものは
そむき 愛と憎しみをおぼえ
魂の惨劇にたえる
みえない関係が
みえはじめたとき
かれらは深く決別している
不服従こそは少年の日を解放すると
語りかけるとき
ぼくは掟にしたがって追放されるのである



今日見た映画のレベルが取り上げるようなものではなかった。
サム・ペキンパーのように形式自体が内容である稠密な映画ではなく、脚本、演出、構想など幻想の骨格に気が自ずと向いてしまう、描いている物自体がうやむやな作品であった。妙に演出だけが大げさでスタイルに拘わり濃かった。
無理やり書いては見たが、吉本氏の詩を読み始めて、バカらしくなった。

「海洋天堂」のような名作には、なかなか当たらない。
映画は難しい。探すのが、、、。そう「空気人形」も素晴らしかったが。


CHLOE/クロエ

chloe001.jpg

CHLOE
2009年
カナダ・フランス・アメリカ
アトム・エゴヤン監督

アマンダ・セイフライド、、、クロエ(娼婦)
ジュリアン・ムーア、、、キャサリン(医者)
リーアム・ニーソン、、、デヴィッド(大学教授)

アマンダ・セイフライドのクロエこれこそファムファタルを絵に描いたような、、、。
元になったフランス映画「恍惚」は観てない。
エマニュエル・ベアールがアマンダ・セイフライドの役のようだ。
だとすると、観てみたい映画ではある。
しかし、両者とも美し過ぎはしないか?

、、、いまひとつよく判らない映画である、、、。
映画自体のせいではなく、わたしがこういう世界にどうも感覚的に入りずらい、というのもあるか、、、。

まず、夫の浮気を疑った結果、娼婦に頼み夫に誘いを掛けると乗るタイプかどうか調べてみるって、、、
一体どういう論理なのか、理解ができないのだ。
確かに、誕生日パーティに夫が飛行機に乗り遅れて帰らなかったことと教え子に異常な人気があることから何か不安を覚える場面もあるかも知れぬが、、、。怪しいと、、。写真などから、、、。
しかし浮気を疑ったのなら、浮気の対象であろう相手との関係をまず(場合によっては探偵でも雇い)調べてみるのではないか?
何で関係ない娼婦に夫を誘わせてみるのか?(悪ふざけか何かのゲームに思えたが)。
テストのような事をしてみて、そこから実際の何らかの関係が割り出せるというものではないだろう。
彼の好みの傾向とか性向は分かるかも知れないが、それは実際の浮気という行為とは関係ない。
しかも、よりによってアマンダ・セイフライドみたいな途轍もない美女が相手では、ほぼ誰でも嬉しくなってホイホイ乗って行ってしまうはず。
これがエマニュエル・ベアールでは尚更そうであろう。
世界トップの美女を差し向けてどうするつもりだ、、、と言いたい。

この辺からもう意味分からなくなって、ぼうーっと見てゆく事になる。
引っ掛かりがいまひとつないままついてゆくことに。

最初のクロエのモノローグから、なかなか凄い身体性のレヴェルを狙った映画だと感じた。
「相手を満足させたならわたしは、その人のリアルな夢となって生き続ける。
そうなればわたし自身消えてもいい。」

この娼婦であるクロエは医者であるキャサリンの依頼を受け彼女の大学教授である夫に接触し誘いを掛ける。
彼女は逐一、キャサリンにその様子・結果を詳細に報告してゆく。
キャサリンは、夫との関係崩壊を感じパニックに陥り、もうその調査を切り上げようとするが、クロエは向こうから電話が掛かって来るためやめられないと応える。
その関係がエスカレートしてゆくのだが、どうやらクロエの興味の対象はキャサリンであることが浮き彫りになってくる。
キャサリンと会う機会の確保のため、デヴィッドとの関係を頻繁に作っているのではないか。
それは、いよいよクロエとキャサリンの肉体関係にまで発展することで明確になる。
キャサリンは強引に彼女に手切れ金を握らせ、関係を一方的に断つが、クロエはそれでいよいよ逆上してしまう。
もはや、歯止めが効かないといったところ。

混乱に終止符を打とうと、キャサリンは全てを打ち明けるためデヴィッドを呼び出すが、そのカフェにクロエが偶然やってくる。
こここで血相を変えたのはデヴィッドではなくクロエであった事から、彼女は夫とクロエが不倫どころか接触さえも一度もなかったことを察知する。
ただクロエは、キャサリンに執拗に向かっていたのだ。
では、単純(素直)にキャサリンに迫ったのでは、だめなのか?やはり夫との破局などのダメージが必要だと踏んだのか。
まあ、まずその件でキャサリンとの関係もできた(それ以前からクロエは彼女に興味は抱いていたのだが)のだし、それを使うのは必然であった。

クロエは、直ぐにキャサリン宅に行き、息子を夫婦の寝室で落とし、帰ってきたキャサリンに詰め寄る。
この爆発は自分をモノ扱い(金で解決)したこと、自分の気持ちを利用したうえに、受け入れてくれないこと、などへの憤懣であろうか、、、しかし、その口論が、また抱擁となってしまう。
それを息子に悟られ思わずキャサリンはクロエを突き放す。
その反動でクロエは背後のガラスに強くぶつかる。
手で体を支えれば助かるはずであったが、彼女は自ら手を離し下に落下してゆく。

最後は、夫婦の仲も修復し、友人たちとのパーティを楽しむ一家の光景で終わる。
キャサリンの髪には、クロエから渡された髪飾りが、、、。
クロエは、キャサリンにとってのリアルな夢となり生き続けるのか、、、。
確かにキャサリンはクロエによって再び充足した生活(生きられる時間)を手に入れたようにも思われる。



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アリスのお茶会

alice001.jpg

昨日。
いつも行く公園の熱帯植物園で、「アリスのお茶会」をやっていた。
アリスのコスプレしたお姉さんが二人いて、にこっと微笑む。
え?
「どうぞ、どうぞ」と誘われ。
小さな女の子は、お茶会にゲスト参加できるそうだ。
お姉さんとも一緒に写真が撮れると。

朝から何故だか分からぬが次女が愚図って仕方ないため、連れて来たのだったが、、、
今や彼女は満面の笑顔。期待でウキウキしている。
(こういうイベント大好きだからな)。
彼女が席に着こうとしたときに、、、。

「カメラ」ありますよね?と係員らしき女性に聞かれ。
カメラどころか、iPhoneすら持っていない。
(愚図ってドウショモナイ子を気晴らしさせるために何処とも決めずに乗せてきたいつものパタンで、何も持ってきていない)。
それがなければ始まらないのか、、、。

「明日もやっていますか」と聞くと、明日もあります、と。
今はニコニコ顔の次女と木漏れ日の路やメタセコイヤの路を散歩し帰った。
(以前もこんなパタンがあり、そのときは向こうで撮ってくれたデータをプリントアウトしてくれたものだ。勿論こちらとしてはデジタルデータとして残したい)。

そして今日。
凄い雨の降った後。
長女と次女を連れて、やって来た。
リターン・マッチみたいに(笑。

エントランスを入ったところで、待ち構えていたかのような係の人にどうぞどうぞと勧められ、彼女らもそのつもりで来たために、すんなりと席に着く。
アリスコスプレお姉さんも入り、写真に何枚もおさめ、わたしもどうですかと言われ久々に自分も入った写真を撮ってもらった。
更に、うさぎのコスもあり、次女・長女それぞれそれを着て、撮影した。
お茶の席もかなりよく出来ていて見栄えのするものであった。

そして、次女のもうひとつの狙いは、2階のハロウィンのオーナメントと衣装である。
衣装としてマントと帽子がそれぞれ6パタンくらいあり、それらを単純に組み合わせできるものではないが、そこそこコーディネートして着れば、結構楽しめる。
それらをひとつひとつ写真に撮った。
75枚程。

今日は次女が風邪気味で咳がひどい。
下のカフェで、カモミールとジンジャーのハーブティとチョコチップクッキーをゆっくりいただいた。
BGMも落ち着くα波系音楽であった。
(聞こえた音楽に同調してα波が脳波として発生するなどという科学的根拠はないが)。
ハーブティと音楽でとても癒された気がする。
次女は熱もあった。
彼女はそのまま、ベッドで寝込んでしまった。

この時期、体調を崩しやすい。
次女のイライラも、心身の調整が効かない不快感から起きたものかも知れない。
適度に体を温め、ハーブティとヒーリングミュージックなどのお茶会を適宜入れてゆきたい。
ティーカップは趣味で集めたものが山ほどあるが、出す機会がなかった。
もうそれらを出しても、不注意で割ったりする年齢は過ぎたかなとおもえる。

心身ともにお茶会は、とても有効なものだ。
忙しい生活の中に効果的に積極的に組み込みたい。




ガルシアの首

Bring Me the Head of Alfredo Garcia

Bring Me the Head of Alfredo Garcia
1974年
アメリカ

サム・ペキンパー監督・脚本

ウォーレン・オーツ、、、ベニー
イセラ・ヴェガ、、、エリータ
ロバート・ウェッバー
ギグ・ヤング
ヘルムート・ダンタイン
エミリオ・フェルナンデス
クリス・クリストファーソン


湖畔に腰をおろして遠くを打ち眺める若い女性のどこか思いつめたような表情が描かれるシーンに始まるのだが、、、監督の悪ふざけかと思う幕開けである(笑。
また殺伐としたメキシコが舞台。

死人の首を持って持ち歩く異常な劇。
保冷庫に入れて歩くのではない。
ズタ袋に入れて暑い中持ち歩くのだ。(主に車で運ぶが)。
ハエはたかりまくるし、臭いことこの上ない。こっちまで何か匂ってくるほど、、、。
主人公は泥だらけ、おまけに強烈な死臭膜散らしながらの無差別銃撃戦。
(墓を荒らされた被害者家族も容赦なく蜂の巣状態)。
埃は舞う、車はクラッシュ。ピストルは火を吹く。血は飛び散る。
首もあっちに行ったりこっちに来たり、小突かれたり、シャワーを浴びせられたり、凍りづけにされたり、、、。
ベニーにもしょっちゅうあれやこれやと話しかけられ、、、死んでるのに実に落ち着かない。
(本来ならゆっくり墓の下で眠っているご身分なのだ。ホントに迷惑な話だ)。

しがないピアノ弾きで、一旗揚げたいという金儲けのために引き受けたガルシアという男の首狩りの仕事であったが、、、。
ガルシアという男はすでに死んでおり、やっとのこと墓から掘り出したその首は、金儲けの目的で争奪戦となるが、、、
実際のところ、その首が本当のガルシアの首なのかも定かではない。
ベニーの恋人ではあるが、ガルシアの浮気相手でもあるエリータの言うことだ。
もしかしたらガルシアを逃がすために、他のガルシアの墓を掘らせたかも知れない。
顔など数日経った後で、はっきり素人が判別できるか、、、?一度もその首は画面上には晒されない。
何と言うか覚束無い首を中心に激しく回ってゆく映画である。
またその首に手段を超えて偏執狂的に捕らわれてゆく心的な状況も描かれてゆく。
ベニーはいくらエリータが諭しても、後戻りのできない精神構造が出来てしまっている。
「首は記号」に過ぎないが、同時に夥しいハエと鼻の曲がる死臭を振りまく存在でもある。
(だから余計に誰もが首を生理的にも遠ざける)。

「本当の首」にとことん拘っているのは、それを依頼主のところに持ち込んだベニーくらいか。
娘を身籠らせた、その犯人がガルシアであると分かったところで、、、
「ガルシアの首を持ってこーい。俺の元に持ってきた奴には100万ドルやろう!」
”Bring Me the Head of Alfredo Garcia!”
と命じた土地の権力者で大金持ちのボスが、ベニーが彼の首を届けた当日、娘の産んだ孫の祝いのパーティで大盛り上がり。
首などもう、どうでも良いといったところ。

受取人は尽く、その上の仲介者も、一番上のボスすらも、首自体にはなんの興味も持たなかった。
彼は本当の真実を知る人物まで辿ってゆきたかった。ただ金を釣り上げたくてそこまでの危険は犯せまい。
だが、それを持ってきたというところで、適当な報酬を出して、もう用はない失せろと、首にもこの首の搜索にも首を持ってきた男についても関心など払わない。
ベニーは、その首がどれだけの重い価値を持ったものなのかを何より知りたかった。
聞き出そうとするが、だれもその背景ー価値を語らない。
ベニーは首に纏わる尋常ではない物語を期待していたのだ。

彼が言うには(わたしはカウントしていなかったが)この首を届けるまでに16人が死んでいるのだ。
彼の最愛の、しかも首の主ガルシアも愛した彼女エリータすらも命を落としている。
エリータ自身は一体誰に気があるのか、はっきりしない女だったが、死ぬ前に行ったピクニックで決定的にベニーとこころを通わせるに至る。
もうお互い若くない歳で、結婚の約束と将来の夢まで語り合った。
このカップルの深い哀愁が何とも言えない。

彼にとって、犠牲の代償となる程の物語でなければ、端金(とは言え依頼人の上の段階に進むと金額は飛躍した)で納得できるものではない。
その首が蔑ろなのだ。

失ったものすべてに比べて、報酬の価値が見合わない。
ここまで犠牲を払って手に入れた首とは一体どれほどのものだったのか!
しかも、事あるごとにベニーはガルシアの首に話しかけ、それはいつしか彼の内省(または告白)の場にもなっていた。
そして最初は恋敵の憎き男であったのだが、何故か男同士の友情みたいなものをその頭ーガルシアに抱き始めている。
その首に依頼者たちが一顧だにしないことに彼は苛立つ。

金を気前よくポンと渡し、祝いだ、まあお前も一杯呑んでいけ、、、に、ベニーは切れる。
「こういうことになったのは、お前のせいでもあり、俺のせいでもある」と。
スローモーションを最も効果的に使う監督の面目躍如の銃撃戦。
無駄のないピストル捌き。
ついに一番最後の黒幕まで撃ち殺し、娘に「お前は子供の、俺は夫の面倒をみよう」と言い逃げるベニー。
(首を墓に戻すつもりであったか、、、)。
だが、厳重な警備の敷かれた邸宅の敷地内である。
警備兵に車ごと蜂の巣にされ終わり。


彼の人生とは、、、いやひとの人生とは一体何なのか、、、というより

余りの呆気なさが、清々しい。


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ワイルド・バンチ

The Wild Bunch001

The Wild Bunch
(ディレクターズカット)
1969年アメリカ
サム・ペキンパー監督・脚本

「強盗団」である。

ウィリアム・ホールデン、、、パイク・ビショップ
アーネスト・ボーグナイン、、、ダッチ・エングストローム
ロバート・ライアン、、、デケ・ソーントン
エドモンド・オブライエン、、、フレディ・サイクス
ジェイミー(ハイメ)・サンチェス、、、エンジェル


蠍を蟻の大群に殺させる遊びに興じている笑顔満面のこどもたちのシーンから始まる。
とても不穏な雰囲気が緊張感を醸す。

パイクたちが馬で乗り付け鉄道管理事務所に入るまでの一連の動きと、それに合わせたクレジットタイトルの計算し尽くされた表示などから、これはもう尋常でない映画である緊迫感が走る。
「動く奴は撃つ」(パイク)で、directorのサム・ペキンパーが表示されるインパクト!
これはペキンパーからの「文句のある奴はぶっ殺す!」というメッセージだ。

このような計算もあれば、その場で監督がふいに決めたという最後の決闘に向かうところでの4人の行進。
これは周りの者には、何を意味するのか後でフィルムを確かめるまで理解できなかったという。
全体としてみればこの映画の肝に当たるシーンでもある。
咄嗟に考えたシーンがそれになってしまうところが、この監督の凄さなのだろう。

細やかな計算と鋭い直感によって作られた傑作といえるか。
特に演出の妙であろう、
恐らく、ペキンパー監督の最も得意とするところが、そこなのでは、、、。

よく云われる「西部劇に引導を渡した最後の西部劇」いうことだが、たしかに主人公たちがもうこの仕事を最後にしようという疲労と虚無感を目一杯漂わせる、時代的にももはや通用しなくなった無法者―アウトローの退廃の美学が描かれている。

まず最初の途轍もない、、、子供が普通?に遊ぶ街中での戦場さながらの長時間の銃撃戦である。
ここまでやるか、、、と呆れるほどのものだった。

そして最後の死場での激しい銃撃戦。
もうみんな蜂の巣状態ではないか、、、。
また、出てくる女たちも男どもに負けずに悪い。
パイクも女に気を許したところで背後から撃たれてしまう。
(さっさと殺しておけばよかったものを、、、ともう完全に入り込んで観てしまっている)。
アーネスト・ボーグナインによれば、彼らの最初の銃撃戦と最後の銃撃戦の意味は違うということだが。
最初はただの強盗であり人殺しに過ぎなかったが、最後はエンジェルの同胞のために命を賭した姿を通して目覚めた義を持った闘いであると。
4人に対し敵のアパッチ隊は200を超える。
ダッチの晴れやかな笑顔には死場を定めた潔さがよく滲み出ていた。
(任侠映画にも同様に感じられるシーンはあるが、、、この「行進」はやはりうまい!)
その死地に赴く4人の心境を、銃を肩にした行進が如実に現してゆく。
閃きの冴え渡る監督の真骨頂でもあるシーンだ。

ここまでドラマチックでなくとも、細やかにこのような導線は全体に引かれている。
感情の描写も行き渡っている。
特に、パイクとダッチの信頼関係。パイクとソーントンとの敵の立場にいる友情。そしてパイクたちとエンジェル間の情の流れだ。
人物がしっかり活きて変化している。
いや、人間(文明)の本質が遺憾無く描かれてもいる。
兵士の屍体にハイエナより遠慮なく群がる輩たち。
これは俺の殺した奴だと金になりそうなものを引ったくり合う。
これが混乱し貧困な世界のアウトローの姿か、、、。
非常に刺激的で、バイオレンスに満ちた世界であるが、稠密に結晶した映画だ。
無駄と思える部分が無い。
無駄死ににもスローモーションで描かれる様式美を感じる。
激しいシーンにも粗さが見られない。
CGのない時代に、よくここまでのVFXを作ったものだ。
特に橋の爆破シーンである。本当に馬に乗った人間を置いての爆破だ。
見事にみんな川に落っこちる。
さすがのペキンパー監督もスタッフ・スタントたちの命の心配をしたという(笑。
スタントも馬も無事に救出されたからよいが、、、。

サムペキンパーはメキシコに特別な拘りを持っているフシもあるな、と感じた。
(奥さんもメキシコ人だったし)。
舞台も1913年の動乱を極めるゲリラ戦真っ只中のメキシコである。
彼の趣向と描きたい(ぶつけたい)事全てがここに、という映画に思える。

一切の妥協をしないことが彼の信条である。
本作については、製作者の理解もあったらしい。
何と言っても4年間、製作者との衝突で、映画界から干された後の復帰第一弾である。
きっとやりたいように撮った作品であろう。
(それは生きたいように生きた、に等しく)。
彼は映画を撮り終えるということは、死を経験するに等しいと謂ったことを漏らしていたが、、、
作中の夥しい死もその死の擬体験でもあったか。
様々な自身の死への誘惑でもあったか。
あまりに素っ気ない死が殊更美しくもあった。
そしてこの作品自体が、「西部劇」という消えゆくものを彼流のダンディズムで(愛情深く)葬るものであった。

「死」へのオマージュ。


清々しさすら感じる作品であった。






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サムペキンパー 情熱と美学

Sam Peckinpah001

”Passion & Poetry: The Ballad of Sam Peckinpah”
2005年
ドイツ製作

マイク・シーゲル監督

サム・ペキンパー
アーネスト・ボーグナイン
ジェームズ・コバーン
クリス・クリストファーソン
アリ・マッグロー

「ゲッタウェイ」の他に持っているのは、「ガルシアの首」と「ワイルド・バンチ」だけで、後の2つはまだ観ていない。
「わらの犬」と「戦争のはらわた」は何とか手に入れて観たいと思っている。
それから「ボディ・スナッチャー」の一番最初の作品がペキンパー脚本・演出なのだ。ストーリー自体も素晴らしいものだし、これも取り寄せ、ぜひ観たい。
サム・ペキンパー監督の作品は、これからなのだが、、、先にこれを観てしまった。

考えてみると、わたしは映画作品以外にそれを撮った監督に特に興味を持ったことがない。
こんな作品作る人はどんな人なのか、、、。
「ブレードランナー」にいたく感動したものだが、リドリー・スコット自身について知りたいと思ったことはない。
そういう方向で興味を持ったことはない。
たしかにタルコフスキーは大変だっただろうな、、、などと境遇を想うこともあったが、、、。
基本的に作品さえよければそれでよい。
作る作品がどれもよければ、贔屓の監督にはもちろんなるが、彼(彼女)がどんなヒトかは、別だ。
また、余計な事も知りたくない。

サムペキンパー監督については、作品自体1本しか観ていない。
彼のドキュメンタリーフィルムから入るのもひとつか、、、という意識で観てみた。
逆に「エド・ウッド」みたいな監督を題材とした創作物―表現は、あまり観たくない。


まず、改めて強く感じたのは、映画を製作すること自体が、時間と金を途轍もなく必要とする、ことだ。
ということは、必然的にクリエーター側と配給元や製作者(会社)との闘いの過程ともなる。
監督は、純粋に自らの才能―創造性を遺憾無く発揮していればよい、というような呑気な立場にないということだ。
政治的やり取りに不可避的に巻き込まれ、苦渋の判断を強いられ続ける立場に立たざる負得ない。
希に自分の創造欲を充たしつつプロデューサーも手懐けられる強者(要領の良い)監督もいるかも知れないが、、、ある意味、それには常に大ヒットを飛ばすことが条件となるだろうし、商業ベースに自分の描きたいだけ描き尽くした作品が上手く乗るかどうか、、、これは至って難しい事かも知れない。
先ほど例に出した「ブレード・ランナー」も暫く経って、ディレクターズ・カットが出される。
リドリー・スコットが押しも押されぬ巨匠扱いになってからだ。
当初出された作品で、わたしが気になっていたところ(2箇所)がしっかり削れていて、ほっとした。
製作側はあれを付けた方が受けが良いと思ったのだろうが、作品的には、完全にディレクターズ・カットで純度が上がり引き締まる。
(肝心要のシーンでのデッカードの「内面の声」―ナレーションと最後の手つかずの自然の森に逃げてゆくシーンのカットである)。
サム・ペキンパーの作品はその程度ではなく、製作側にかなりズタズタにフィルムを切り刻まれてしまったという。
これは、芸術家にとって、断じて許せないことである。
「わたしは、フィルムに自分のありったけをぶつけてきた!」
ペキンパーが怒り狂うのは、当たり前である。
「わたしは、ハリウッドスタイルは理解できないし、許容できない」
当然であろう。
何故、どこか国外などに飛び出さなかったか、、、。
この映画自体、ドイツでの製作である。
タルコフスキーなどは、国から迫害を受け作品上映自体出来ず、亡命するしかなかった。

そして、小さなアニメ作品(パソコン一台で仕上がるもの)とかでなければ、不可避的にスタッフ・キャストとの人間関係で作品はつくられるしかない。

監督の個性・性格(人格)はかなりの影響をもつ。
彼自身一面では、粗野で粗暴なところが目立ったようだが、詩的で繊細な極めて創造的な面も彼をよく知る人々は強調している。
でなければ、単なる乱暴者に映画史に名を残す作品を幾つも撮ることなど出来ようはずもない。
とは言え、極めて仲のよかった友人たちの語る彼の特性の一つは、たしかに彼の才能を慕って寄ってくるヒトを一気に遠ざけるものであっただろう。人に対する激しすぎる叱責や仕事を進める上での苛烈な姿勢である。
中には80人以上をクビにした仕事もあったという。怒鳴るだけではなく実際暴力的であったそうだ。
しかし、終生の親友の中には、俺も何度もクビになったぜ、と言って彼への想いをしみじみと語っている人もいた。
要するに彼をどのレヴェルまで理解し得ているかであろう。
ここは、ひとつ超えれば絶対的な信頼関係に到達する閾があるのだ。
そこを超える事がきっと要求されるのだと思う。

結構、メンドくさいヒトでもあるが、、、。
スティーブ・ジョブスも遠目に見れば、飛びぬけた才能だけが際立つが、近くに寄ったらとてもシンドイひとでもあった。
この手の部類のパーソナリティであっただろう。
よく映像を追ってゆくと、彼には深い愛情とひとつ筋を通そうとする強い気骨を感じるのだが、、、。
それに、俳優のようにカッコ良いのだ。その魅力も間違いない。
しかし彼は次第に酒に溺れ始め、日に4本のウォッカなどの強いボトルを開けるようになり、それにコカインなどの薬物も入り体が傍目に見ても蝕まれてゆくのが分かる事態にまで及んでゆく。
周囲もハラハラし注意や心配はするが、結局どうにもならなかったという。

本人の性向や性格もあるし、価値観・美意識の拘りもいったって強いひとであった。
長年に渡る製作側との軋轢の及ぼすストレスもそれとの関係で無視できないものであっただろう。
しかし59歳というのは、いくらなんでも早すぎる。
彼を支える親友で、彼より早く逝ってしまうひとが何人もいた事も小さくはない。
(例えば50歳で亡くなったスティーブ・マックイーン)。
彼を慕う人は勿論他にもたくさんいたが、彼らでもどうにもできなかった。
酒と薬はある意味、どうにも出来ない、、、。


取り敢えず、サム・ペキンパーの作品を意識して観てゆきたい。


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メランコリア 神の死

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宇宙を自己認識するたったひとつの主体が完全に消え失せ、実質いや現実に宇宙は消滅する。
その意識ー知性ー夢とともに。
宇宙を想い描く唯一の精神が神もろとも死滅する。

キルスティン・ダンスト、、、ジャスティン(コピーライター・アートディレクター)
シャルロット・ゲンズブール、、、クレア(ジャスティンの姉)
キーファー・サザーランド、、、ジョン(クレアの夫の富豪の科学者)

Melancholia
すでに”メランコリア”については2度も書いている。
だが、また観てしまった(笑。
「宇宙にはわたしたちの他には誰もいない」わたしも全く同じ考えだ。
誰もいない。
何者も。
「トリスタンとイゾルテ」(ワーグナー)のみが、余りに空虚に荘厳に全編にかかり続ける。
究極の宗教性を覚える。


第一部 ジャスティン

窮屈な田舎の小路を巨大な真っ白いリムジンで乗り付ける。
結婚式披露宴で客を2時間待たせる新郎新婦。
整然としたマリエンバート的庭園に、18ホールのゴルフ場を完備したどうでもよい大邸宅。

あの星は何?
彼女はいち早く気づく。いや身体で感づく。
「あれはアンタレスだよ、、、」

実は、ジャスティンのこころはもう身体に落ち着いていなかった。

豪邸の中は、、、
気の滅入るやり取り。
過剰な芝居がかったやり取り。
ダラダラ続く抱擁。
言葉が淀む。腐っていく、、、。
手順も流れも時間もボロボロに砕け散る。
広告業界にいる彼女―ジャスティンは言葉の世界の人間であるからか、、、
言葉から真っ先に崩壊してゆく事を悟っている。
パーティは、世界は、滅茶苦茶。
エントロピーは増大し続け、、、。

「土地を買ったよ」
(今更何を、、、)。

ジャスティンは書斎の抽象画をすべてブリューゲルなどの画家の絵にすげ替える。
すでに彼女はちゃんと歩くととさえ出来ない。
怖いの、、、。誰より早く事体を恐怖する。
身体が収まりきれない。からだが言うことを聞かない。

ESAもNASAもJAXAまだ、何も確認できないのか、、、
(公表出来ない。それもあろう)。

上司も地位も伴侶も彼女にとってはもう全くどうでもよかった。
エントロピー最大、、、。

「アンタレスが無くなっている、、、」



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第二部クレア

人里離れた場所のために幻想性も昂まる。
「わたし時々あなたがひどく憎くなるの」姉クレアがジャスティンに対し。
これまでの世界ー規範において、そしてこの終末ー事体の受け入れにおいて、、、。

「天体は衝突しない。通り過ぎる」夫の気休めは、不安を駆り立てるばかり。
ジャスティンは送り出されたが戻ってくる。
何処に行けるというのか。
もはや、行くところなど在りはしない。
すでに彼女の感覚は変わってしまっており、味覚も無くなっていた。
とても献身的でしっかりした姉クレアであったが。
周囲も人の世話を焼いている場合ではないことに気が付く。

次第に姉妹の立場は逆転する。
使用人も無断欠勤する。
夫も自殺する。
真相は明かされてゆく。

ジャスティンは、或る夜確信を得た。
巨大な天体「メランコリア」は衝突して地球を呑み込む事を。
わたしたちは完全消滅する。
宇宙を知り感ずるものは何も無くなる。
同時に宇宙は無くなる。
完全な虚無に耐える。
いや主体の消滅における理性ー感情の受け入れ、の問題である。

「他に生命は無いの?宇宙のどこかに。そこに転生は、、、」最後の望みにかけるクレア。
「わたしには分かる。生命は地球にしか存在しない」ジャスティン。
「他には無いの」
彼女はとりすがろうとする全ての幻想を否定する。

クレアは激しく動揺し、子供を抱き狼狽えるが、ジャスティンに諭され、子供とジャスティンが木の枝で組んだシェルターに入る。(もはや何の象徴性も持ち得ない)
取り乱しながらも、受け入れようとするクレア。
しかし、迫り来る恐怖は抑えられるものではない。絶望に顔を歪ませる。
ジャスティンは完全に達観して静かな境地に入っている。
父にソックリな幼い息子もすでに目を閉じ、、、

3人で手を繋いで生命―知性の完全な最期を迎える。


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光と緑の美術館~パーク・ライブ

パーク・ライブ
yokoyama park
我が家でよく行く公園のひとつ。
陸上・野球・テニス・そしてふたつのプール(50M)がある総合スポーツ公園に行くともなく行ってみた。
そろそろ娘たちを泳ぎに連れてゆかねばならないことにはなっている。
妙なオブジェもいくつも丈高く立っている公園だ。
「照手姫伝説」(てるてひめ)ゆかりの地(横山丘陵緑地)でもある。
まだ早朝の時間帯であったが、ベンチに座った女性がアコースティックギターをかき鳴らしながら歌を唱っていた。
わたしはiPhoneでクラフトワークを聴いてきたのだが、それを止めて少し離れたベンチに腰を下ろし暫し耳を傾けた。
非常に声量があり、特に高音の伸びと艶が素晴らしい歌唱であった。
ギターもちゃんと弾けてる。(サックスなどがアレンジで要所々々絡むとなかなか決まる感じ)。
曲想は、CHARAやACOとかYUIなどの歌手が如何にも唱いそうな感じのものか、、、。
なかなかのゴシック的歪みと甘苦いテイストの絡む楽曲で、彼女自身の作品なのか聞いてみたい気もした。
(わたしは日本のシンガーソングライターについてはとても疎いため、誰かの楽曲を唱っているのかも知れない)。
暫く聴いていると、彼女のファンなのか初老の老人が彼女のすぐ隣に腰を下ろし、何やら談笑を始めた。
彼女は笑い声もかなり大きい。
その受け答えから、よく知っている者同士ではなく恐らく今日初めて話す相手のようで、頻りに老人は彼女の歌を褒めている様子であった。
歌が途切れた為、わたしはまたクラフトワークに戻った。
やはり”Music Non Stop”は最強である!

丘の上で、のんびり聴き入っていたら、蚊に腕を3箇所刺された。
わたしは、ひどく蚊に刺され易い体質なのだ。
ベンチにあのまま座っていたら、もっと刺されていたはず。
じっとはしていられず丘を降り、いつもなら帰るところだが、、、

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それはそれは可愛らしいと謂われた照手姫は、現在JR橋本駅のビルにいる。
ピアノ発表会のおり、何故か照手姫と一緒に娘の記念撮影をしてしまった。



Light and Greenery Art Museum
その公園の向かいにひっそり「光と緑の美術館」”Light and Greenery Art Museum”がある。
あると分かっていても、ほとんど入ろうという気が起きない類の美術館なのだ。
そういう美術館というのも珍しい部類だろう。井浦新が入ったら、何と言うだろうか。コメントを聞きたい気もする(笑。
わたしが生まれる前からその公園の麓にあった美術館である。
子供の頃、来たことがあるが、まさかこれ程小さな空間とは思わなかった、、、。
もしかしたら、隣にカフェ空間があるのだが、展示空間を割いて作ったのかも知れない。
分からないが、いくらなんでもお金払って入ったらこれだった、、、というのはちょっと物足りないものだ。
作品は、、、皆、彫刻家として名高いイタリアの作家のものばかりである。
マリノ・マリーニ、ジャコモ・マンズー、エミリオ・グレコ、ペリクレ・ファッツィーニのリトグラフやドローイングが主でそれぞれの作家で6点前後かあり、ファッツィーニの小さな彫塑が3点ばかりあった。
(わたしだってフランス画家のリトグラフ作品は10点は持っている)。

ペリクレ・ファッツィーニの悪戯っぽく何かを狙っている猫の彫塑が一番気に入ったが、考えてみるとこの4人は皆、具象系の作家である。
ジャコモ・マンズーのリトグラフに音楽的なコンポジション作品があったが、それ以外はどれも全て具象であった。
マリノ・マリーニの、カラーのリトグラフで「馬と騎手」は、立体でも彼の代表作に見られるテーマだが、彼の拘り題材なのだろう。
色彩も赤の地に黄色と白、部分的に青と黒の入る強烈な色彩対比でサイズの割に見応え充分である。
その他にも、馬と騎手の全く雰囲気の異なる作品があり、黒地に青・赤それに彩度を落とした3段階くらいのオレンジが分散した静かな内に動きを秘めたものや黒地に赤と緑を光と影風に配置し、白い馬と青い騎手を上下に構成的に並べたものなどがあった。
赤地に張りのあるリズムを感じさせる男女のダンス作品も活き活きしたものであり、彫刻家のドローイングや版画ではあるが、とても質の高い独立した平面作品であることは違いない。
とは言え、エミリオ・グレコのドローイングなどは、明らかに彫塑作品制作のための試作デッサン的なものに感じられた。
明らかに描こうと思えばすぐ描ける(笑。

部屋が1部屋なので、入ってくるっと回って出るしかなかった、、、。
(常設展と特設展をどう分けるのか、、、展示スケジュールを確かめたくなったが、あまりその意欲も沸かない)。
客はわたし一人。
車が駐車場に10台以上並んでいたのだが、それはただ駐車場として貸してるだけのようだった。
カフェの方が人の出入りもあるように思える。


午前中の公園というものは、午後の公園より個別的で突出したイベントに出逢うことがある。
以前は三味線の凄まじい演奏に圧倒されたこともあった。
午後の平板な時間に無い、何かに出逢うには早い時間に出掛けることが必要か、、、。


空気人形

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2009年
是枝裕和監督
業田良家原作

奇跡的な傑作!
この映画に出会えたことは、幸運であった。
空気人形こそ本当のエイリアンだった!

~こころをもつことは、切ないことでした~
これは恐らく、「こころについてのこころ」をもってしまったことだ、、、。
嘘をついてしまったことに戸惑う、、、そんなこころ
(「原生疎外」に対する「純粋疎外」、、、吉本隆明流に言えば)。
こころはだれでももっているが、、、。

ペ・ドゥナ、、、のぞみ(空気人形)
板尾創路、、、秀雄(空気人形の持ち主)
ARATA、、、純一(レンタルビデオ店員)日曜美術館でお馴染み、、、
オダギリジョー、、、園田(人形師)

シリウス~プロキオン~ベテルギウス
あなたもあるとき、わたしのための風だったかも知れない。

この詩を知っているか、、、老人が語りだすがはじめのひとことで詰まる。「命は、、、」
のぞみがその後を引き継ぐ、、、
「命は、、、そのなかに欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ
自分だけでは完結できないようにつくられているらしい
しかし互いに欠如を満たすなどとは、知りもせず知らされもせず
ただばらまかれている無関心の間柄
世界とは多分この他者の総体、、、」(こんな感じだったか、、、)

人形は「世界」を持ってしまう、、、まさにこころを持つとは、他者のいる世界を持つこと
(実際、わたしの近隣にも他者を感知する感覚の欠如した表向きはヒトがゴロツイテいる)

わたしの世界観は、のぞみのものとは根本的に違うが
世界はわたしにとって、ただ過剰を求めて押し広がるものだ
ただひたすら過剰を求めて
耐え難いほどシンプルに(膨張宇宙のように)

それは取り敢えずよいとして、、、

「だれかの代わりでもいい」
のぞみは恋する
普通の女の子より慎ましく健気に
純一は応える
君にしかできないことをお願いしたい
わたしにしかできないこと?

「私の中は空っぽなの」のぞみ
「ぼくだってそうさ」純一
「あなたとわたし初めて遭った時から似ていると思った」
のぞみの語る空っぽさと、純一の実存としての空っぽさの表現が、物理イメージとして食い違った
広場で出逢った老人も心配するな、周りも空っぽな人間ばかりじゃと語っていた
のぞみは、ほとんどみんなが空気人形であると信じた

君の空気を抜きたい
たしかにそれしかない
しかし彼女はそのまま受け取ってしまう
彼女も純一がしてくれたように、彼の空気を抜き、自分の気―愛で彼を満たしてあげたかった
彼女は純一の詮を探すがどこにも見当たらない
口から息を一所懸命入れるが入ってゆかない
「わたしの息は入らなかった」
彼女が空気を抜こうとナイフで切った彼のお腹からは血が止まらなかった

ヒトと人形の違いが「燃えるゴミと燃えないゴミの違い」というのは、謂い得ている(笑

仕方なくのぞみは純一の亡骸をビーニール袋に入れて燃えるゴミに出す
彼女は、自分の空気を抜きつつ、燃えないゴミ置き場に横たわる
過食症の若い女がマンションの窓から彼女を見おろし「綺麗!」とため息をつく


「戻ってきたときは皆、違う顔をしているんだよ、最初はおんなじだったのに」(園田)

これ、以前読んで知っていた
上野オリエント工業にコムアイ(水曜日のカンパネラ)が訪ねた際に、製作担当者(この映画では園田)が、ラブドールは、「お客様のもとで物質的なものから精神的な存在に変化するということは自然なことかなと。有史以前から偶像崇拝は世界中で様々な形で存在していました。山であったり、その土地であったり、動物であったり、樹木だったり、岩だったり。マリア像も仏も土偶も、それぞれ定義として括るには難しい部分がありますが、そこに込められた意味や想いには近いものがあったのではないでしょうか。この『想い』の部分に於いてドールの存在を同列に考えることも可能かと思います。」と語る。
実に感慨深い。この映画を観てからであると。

コムアイも「ここの子たちが、どこか寂しそうに見えるのはショールームから出て誰かに嫁にもらわれたいのかも。勝手だけど、天命を全うさせてあげたいって思いました。ラブドールってもはや一つの性別のように思えますね。柔らかくて、すーっと人に馴染むことのできる、人間にはできない最強の人格。今日、改めて彼女たちに会って、知らない人と親密な会話を交わしたような、そんな気分になりました」と返す。一つの性別(新たなジェンダー)とは流石コムアイ炯眼である。しかしのぞみの場合、エイリアンになったとも言える
本当に「ことば」の僅かなイメージ―想像力のズレであった

「その子と一緒に時間を過ごした時は、見守られている感じがして、彼女となら同居もできそうだなって思った。本当の女の子だったらいろいろ気になることが出てくるんだと思うんだけど、この子ならわかってくれるって安心感と、放っておいてくれる信頼感が不思議とありましたね」
のぞみは、途中からそれを自ら演じるしかなくなる
秀雄が元の人形に戻ってくれ、俺はヒトというもんが面倒なんや、と懇願されるが可逆性はない

こころについてのこころをもってから
彼女は引き裂かれて生きることになった

「お帰りなさい」
「きみが観た世界は哀しいものだけだったかい
美しいきれいなものも少しはあったかな?」
園田が聞く

頷く彼女に彼は「いってらっしゃい」と寂しげな笑顔で送り出す
「行ってきます」

「作ってくれてありがとう」
「こちらこそありがとう」


彼女はしかし「天命を全うする」ことはできなかった
彼女はもはや動けぬ体で、ごみ溜めから息を吐く
精気、精霊、プネウマ、スピリット、エスプリ、ガイスト、、、やはり「魂」と呼びたい
それを彼女の認識した世界に向けて吐き続ける
そのまま萎んでしまうまで、、、

最期に純一にしてあげられなかったことを
誰も気づかない世界に向けて
したかった
のか


これほど胸の締め付けられる、重量感を感じない映画はこれまで観た事なかった
重力値の低い場所で極めて稠密な質量を抱え込んだ感覚を味わった

のぞみのペ・ドゥナが余りに儚く美し過ぎるエイリアン(空気人形)であった
「クラウドアトラス」の彼女もよかったが、こちらの方が圧倒的に抽象的でリアルであり、限りなく切ない
ARATA(井浦 新)のナイーブで篭った演技も優しくフィットしていた

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婉という名の女

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大原富枝の本は、噂だけで読んではいない。
圧倒的な作品ということであり、コンディションの良い時を選び、隔絶された部屋で、一気に読みたい。

映画があったので、観てみることにした。
大丈夫だろうか、と心配にもなったが、岩下志麻が主演であるため任せた!
小説と映画は全く異なる形式の芸術である。
別モノと意識して味わいたい。

1971年
今井正監督

岩下志麻、、、婉
江原真二郎、、、野中清七
河原崎長一郎、、、野中欽六
緒形拳、、、野中希四郎
中村嘉葎雄、、、野中貞四郎
田代美恵子、、、野中米
楠侑子、、、野中寛
長山藍子、、、野中将
北大路欣也、、、岡本弾七
山本学、、、谷秦山
岸田今日子、、、みつ
加藤嘉、、、井口九郎兵衛

土佐藩執政の野中兼山の子供たちのなかのひとり婉という娘に焦点を当てた物語。
野中兼山は儒学―南学の流れを組む学者であったが、そこから仏教色を削ぎとり、独自の朱子学を構築したという。
彼の功績として、治水・商業の発展(利得の向上)・森林経営・開墾などが挙げられている。
飛び抜けた経世家であるとともに非常に優れた儒学者であり、藩政改革に大変な貢献をしたにも関わらず、政敵の謀略により失脚させられ、彼の死後8人の子供とその生母2人、乳母1人を含む11人が、宿毛(すくも)の在に幽閉され、外との交渉を閉ざされ気の遠くなるほどの永い年月を送る。一家断絶を図る目的であることは、言うに及ばない。

幼いうちは、それでもその幽居が広く自由にさえ思えたそうだ。
だが、思春期を迎えた後は、ヒトは外部―他者なしには生きることができなくなる。
性の問題が必然的に噴出する。
謂わば、彼らは二重の制度によって究極的に苦しめられる。
(これ程の拷問があろうか!)
案の定、婉の兄は発狂してしまう。
その弟は、いや兄上こそが人として正しい(感覚の持ち主だ)と謂う。
そのとおりだろう。
正しく発狂して彼は座敷牢で死んでしまう。
その母も自害して果てる。
婉にもその危機は訪れる。
そのように、一人また一人と亡くなってゆく。
精神がズタズタになる地獄の日々がひたすら反復される。
全員で自害しようとしたこともあったが、婉がその流れを絶つ。
そんな獄舎を、儒学者山崎闇斎門下の谷秦山がある日訪ねてきた。
勿論、遭って話すことは叶わぬが、その事実と兄の詩を高く評価してくれた事に、彼らの生への希望が湧き出る。
特に、婉にとっては、唯一の尊敬に値する外界の男性であり、彼の存在が深くこころに宿ることになってゆく。
今や遠くに去りゆく谷秦山の姿を竹矢来越しに、輝く笑顔でいつまでも見守る婉。
(遠くを歩み去る男の姿がこれほどの生きる希望に繋がるのか、、、と思うと胸がひどく締め付けられる)。
谷秦山とは、学問上のやり取りを文で交わすことが許されるが、彼が所帯持ちであることから世間で詰まらぬ噂が広まり、それもできなくなる。

そして後を継ぐ男が全て死に絶えた時に、藩から恩赦が下される。
女は数ーヒト扱いしていないのだ。
(婉は幽閉中を全て学問に費やしており、その点に置いては男を遥かに凌駕していても、御制度上はおんなである)。
お前たち、外に出て勝手にしろ、とお達しであった。

幽閉されてから既に40年が経過していた!

まさにふざけるのもいい加減にしろ、であるがよく40年孤絶した空間を耐え抜く事ができたものだと、女の強さにも感嘆する。

「わたくしたち兄弟は誰も生きることをしなかったのだ。ただ置かれてあったのだ。」
これは、映画の始まりの恩赦を受けた際の婉の文句である。
ここから想像を絶する凄まじい回想が始まった、、、。


川を初めて見る3姉妹。
婉はその美しさに見入り、姉と妹(腹違い)は、その流れの激しさに尻込みする。
その後の彼女らの生き方を象徴する場面であった。

世間体というものが思いの他、障害を生むことも学習したが、それよりも矜持を常に忘れず突き進もうとする婉。
「元執政、野中兼山の娘・婉、邪魔だては許しませぬぞ!」
かつての自分たちと同じように蟄居させられた谷秦山に逢うため籠を飛ばす婉の姿に、愚劣な制度に対する強烈な憤りとヒトとしての断固とした矜持を感じた。


これは、どこかで小説を当たらなければ、と思う。


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Dreams
1990年
黒澤明監督

伊崎充則、、、少年
寺尾聰
マーティン・スコセッシ、、、ゴッホ
笠智衆、、、老人

第1話「日照り雨」
そばえ
幼い少年が、こういう時は狐の嫁入りがあるから、外に出てはいけないと、母親に諭されるが行ってしまう。
特に強い制止でもないのだ。ちょっとやんちゃな子なら行ってしまうだろう。
彼は、森の大きな木に身を隠しながら「狐の嫁入り」に眺め入る。
その奇怪な行進には、魅入ってしまう魔力があった。
雅楽に乗った独特の動きでもあり、怪しい様式美に満ちている。

リズムの節目の首の振りなどから、狐たちが少年の存在を察知してゆくことが分かる。
少年が走って戻ると、母が今度は毅然とした態度で門には入れないと立ちはだかる。
別人の如くに。
狐が先ほど怒ってこれを持ってきたと言って、短刀を彼に差し出す。
きっちり謝って落し前をつけてこいと、母によって門の扉は固く閉ざされる。

「鬼ヶ島に行って鬼退治して来い」と言われるのと同じくらい荒唐無稽で不条理な旅を要求される。
恐らく少年は狐に出会えないか、逢っても全く話が埒があかず、彷徨い続ける気もする。
最後に短刀であえない最期を、、、というのも充分ありだ。

エキゾチックな古き時代の日本のカフカ的寓話とも言えるか。

第2話「桃畑」
雛祭り
団子を座敷に運んできた少年が、団子の数と少女の数が合わないことに気づく。
雛祭りに来た姉の友達の数がどう見てもひとり多いのだ。
(座敷童子の話かと思いきや、、、)。
姉は、そんなことはないと否定する。
だが、、、勝手口に不思議な女の子がホントにおり、彼がその後をついてゆくと、、、。

その家の畑を雛壇のようにして、綺麗な装束を着た怪しげな人々がズラッと並んでいるではないか。
(まるで雛人形である)。
彼らは桃の精霊であり、桃の木を切ってしまったことを怒り、お前の家にはもう来ない、と彼を責める。
しかし、少年は桃の花がもう見れなくなって寂しいと泣く。
それを見た精霊が舞を踊り、桃の花を幻想のように散らす。
舞と華やかに舞い散る花弁を少年が堪能した後、彼らは消え去り、後には切られた桃の木の跡だけが残っている。
だが、一本だけ小さな桃の木が、綺麗な花を付けていたことを知る。

これも日本的な映像とは思うが、音楽は雅楽で最後まで通してもらいたかった。
われわれにとっても、エキゾチックな小品である。

第3話「雪あらし」
雪女
全体に、退屈で汚いだけ。
異様に時間が長く感じた。
と言うより、見るに耐えない。

第4話「トンネル」
威嚇する犬
将校が戦死した遺族を訪ねてトンネルに差し掛かる。
死んだ一等兵が彼の前に現れ、自分が死んだのかどうか問いただす対話。
更に全滅した第三小隊が隊列を組んで出現し、将校は彼らを前に慚愧に堪えない心の内を述べる。
彼らは皆、頭部は骸骨さながらであったが、「回れ右の言葉」に従い去って逝く。
不気味さでは、その後ひたすら吠えかかる犬である。
激しく吠える犬に、一切「言い訳」は通じない。

分かるが、イデオロギー的に面白くもなんともない。
形式が取り敢えず面白いが。

第5話「鴉」
ゴッホ
ある男がゴッホの展示会場で、、、彼の絵の中に入ってしまい、、、。
「アルルの跳ね橋」の下にいる洗濯女たちにゴッホの居場所を尋ねる。
すると「カラスのいる麦畑」にいるゴッホに出逢う。
見晴かす風景は、全て「ゴッホの絵」である。
彼の色彩で、彼のタッチで構成されていた。
誰の視座という訳でもなく、ただそのような絵画世界に入り込んだというものか。
ゴッホもその構成要素のひとつであるため、彼の視座ではない。
その彼も中にいる。

その男の夢の中としか謂いようのない光景である。
ゴッホの「何故描かん!」というシーンのみ覚えていた。
絵はまず描くことで始まり、夢もまたそれ以外にない。

この話だけで映画一本作ってもよいと思える。
はっきり言って、他は大したものではない。
捨てても全く惜しくはない。

第6話「赤冨士」
放射能
色分けされた放射性物質(放射線ではありえない)というのが、何とも謂えないが。
空気に乗ってくるというか風や雨が一番怖いだろう。
現にわれわれはそれを味わった。

富士山の爆発も近頃、危惧されているが、その麓の原子力発電所の爆発という設定だ。
原子力を抱えている分、災害時のリスクは大きい。
ただこの噺は、リスクマネジメント(原発の事故管理等)などへの不安ではなく、無意識的にわれわれが抱く生理的悪夢と言える。
原子力―放射能幻想である。
所謂、漠然とした不安を象徴的なもの―イコンをもって素朴に表出したというものか。
しかしここまで長い。発想もとても、いただけない。

(ちなみにわたしは脱原発派である。コストがどれだけかかろうが)。

第7話「鬼哭」

この辺に来ると、かなり飽きてくる。
浅薄なイデオロギーの意味づけが、やたらと鼻につき耐え難い。
役者がそれに輪を掛ける演技をしてくる。
どうも、いかりや長助という役者は、好きではない。

早送りして終わらせようと思ったら次の夢ときた。

第8話「水車のある村」
予想外の長台詞
どこの村なのか、国籍不明である。
そこの謎の老人が笠智衆だ。
何よりも驚いたのは、彼がこんなに饒舌に長すぎる台詞を淀みなく喋ることである。
まるで、堺雅人ばりではないか、、、。
呆気にとられた。
だが、何を喋っていたのかほとんど記憶に残らぬ程度の詰まらぬ内容のものであったことは確かである!
笠智衆に喋らせるのだ。
もう少しマシな事を喋らせろ!と言いたい。
彼をわざわざ使ってかなりくだらないエンディングに終わったことに怒りと疲労を覚える。


結局、見ることが苦痛な駄作であった。
小津や溝口を見て口直しをしたい。


保護者面談

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先日、保護者面談があった。
次女には、悪口言わないでねと何度も前日に念を押されていたが、すっかり忘れて学校に向かった。
道の途中で次女に出逢う。
丁度、彼女らが下校する時間に家を出たのだから、どこかで出逢うことになるはず。
表情を変えずに目と目で、じゃあいってくるから、という確認を取り合ってすれ違った。
とても元気の良いクラスの女の子と一緒であるためか、よそよそしい。
次女がちょっぴり大人っぽく見えた。

最初に、長女の5組。
持ち時間は15分。
次は次女の4組。
時間は勿論、同じ。

学校側の配慮で(常にそういうものだが)、一回でこちらが間で待たずに連続した面談時間はとってくれる。
双子はそれでなくては、やってゆけない。
(であるから、授業参観はキツイ)。

何故、長女に出会わなかったのだろう、と思っていたら、何と彼女は教室で待っていた。
取り敢えず、どうすると聞いてみたが、はっきりしないが恐らく一緒に帰るつもりでいたのだろう。
では、還りは一緒に帰ろうということにして、彼女は校庭で遊んで待つことにした。
(わたしと一緒に帰ると、必ず途中で何か買ってもらえるのも、分かっているし、、、)。

彼女の遊び相手のボーイフレンドも何故か一緒に2人もいた。
とっても礼儀正しい少年だ。
3人で後でね、と言ってとても楽しそうに校庭に駆け出して行った。
毎朝、「今日は学校行きたくない。休む。」と言っているヒトには、とても見えない。

長女も次女も地味に、普通にやっているようだ。
特にいじめもなく、落ち着きが全体的にまだないことから、怪我やちょっとした事故は時折あるようだが、基本的に平和な時間が過ぎていることは感じ取れる。

どちらも、独りでポツンといることはなく、友達と何らかの関わりを持って過ごしていることと、どうやらわたしに似て、創作関係は時間を忘れてそれに没頭してしまうようだ。
わたしも、絵を描き出すと、何も耳に入らない方であった。
時間感覚は意識から飛んでしまっていたものだが娘も、特に長女であるが、図工の制作ではかなり没入してしまうという。
チャイムが鳴り、授業を終わる段になると決まって最後までやりたいと先生に訴えてくるという。
特に立体制作に燃えるらしい。
それで、度々終わらなかった工作を家に持ち帰って、続きをひたすら作っていたりする。


とても頼もしかったのは、担任の先生が、その気持ちをしっかり理解してくれているところだった。
単に、管理しか頭にない教員であると、時間を守りなさい、時間で全て終わらせ速やかに片付けなさい、の方向にしか向かない。
それからピアノの関係で音楽会実行委員に選ばれ、その仕事が始まっているという。
(ピアノ自体はまだまだであるが)。
あのひとたちがどの程度、自分たちで物事を決めてゆくのか見当もつかぬが、サポートのもと少しでも考える力がつき、自信に繋がって欲しいと願う。
どんな発表会になるのか、早くも心配になってきてしまうが、、、やはり楽しみでもある(笑。

図工と音楽だけかな、、、と思ったが、他の教科も普通にやっているようで、まずはそれで良しとした。
(ここのところ習い事を3つやめにしたばかり。バレエ・水泳・英語、、、ピアノだけ残した。今は伸び伸び生活させることにしたのだ)。
2人とも一番褒められたのは、給食をよく食べることだ(笑。
最近の給食は、わたしの頃から見ると桁違いに美味しい。(わたしの頃が不味すぎたのだ)。
給食当番もよくやっているという。
食にこだわることは、良いことだ。たくさん食べて元気に大きくなって欲しい。基本それだけだ。

算数のテストもほやほやのものをみせてもらったが、取り敢えず見た範囲は全て出来ていた。
10月からやっと教育課程上、掛け算・割り算が入ってくるという。
まだ、微分・積分までは、遠いな。教えてあげられる時期までは、わたしも頑張って生きていないといけないなと、、、感慨に何故か浸る。

先生の最後の話題で、長女の方だが、とても面白い作文を書くという。
物を作る際の制作過程を細かく説明する文章が、読み応えがあって楽しいという?
彼は国語科の教員である。(小全免許の他に)。
これは、わたしも気付かなかった。
返って来た作文をみて独特の妙な文体だなと、これまで感じていたのだが、最近そこに筋が入ってきたのだろうか。
彼女の文の方にも今後、注意してゆきたいと思った。

先生がよく、娘のことを見てくれていることを感じた。
小学校低学年は、やはり理屈よりも、共感が大切だと思う。
今年度の担任の先生には、是非来年も持ち上がってもらいたいと感じる、面談であった。


今日も、2人は喧嘩しながら、ダンボールでガチャポンの機械を作っている。
わたしの頃は、宿題が終わると、読書を毎日していたものだが、、、。
パソコンゲームは、やらせないようにしたいと思っている。(その存在を教えないつもりだ)。




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