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GOMA28

Author:GOMA28
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初恋

HatsuKoi001.jpg

2006年
塙幸成監督・脚本
中原みすず原作

1968年12月10日に起きた「3億円強奪事件」の真相を明かす物語、、、
かなり斬新な設定である。

宮﨑あおい、、、みすず
小出恵介、、、岸
宮﨑将、、、リョウ
小嶺麗奈、、、ユカ
柄本佑、、、タケシ
青木崇高、、、テツ
松浦祐也、、、ヤス

彼らは、ジャズ喫茶「B」をたまり場とする。
しかし、そこで何を話すでも企てるでもない。
何となく集合しているだけだ。
現状を確認しているだけだ。
殺伐とした諦観の内に皆が沈み込んでいる。
外では刹那的で衝動的な暴力絡みの生活に明け暮れている。
リョウはみすずの実の兄。(その関係でみすずはこのバーに来ている)。
その関係は、表立っては誰にも明かさない。

だいぶ昔のこと、TVのニュース特集で観たのだが、女子校生が自分が必要とされているところなら、そこで何でもやると言い右翼の宣伝カーに乗ってアグレッシブに活動している姿が印象に残った。
この映画の主人公みすずも、孤独に耐える生活を強いられている。
父を幼くして亡くし、母が兄を連れて消えてしまい独り残され、望まれずに親戚に預けられる。
高校生の多感な時期に、この境遇は厳しい。

みすずはあるとき「お前しかいない」と言われ内容を聞く前に、岸に「やってくれるか」と問われる。
彼女は、自分を必要としてくれるなら、何であろうが「やるよ」と返す。
しかし、その計画―内容は政治的な意図を持ち、同時に犯罪にほかならない。
もしこれが、オウムのようなテロであったら彼女ならどうするか。
まだ、全体を俯瞰して行うものならその内容を掴み多少なりとも判断の余地も残ろうが、テロ行為の一端を担わされ、受け持った行動の総体的意味―結果が判らない場合など恐ろしい。
それでもやってしまうか、、、やりそうな気もする。
自分を何かに繋ぎ留め、日常を変えたいという気持ちが何より大きいのだ。
(実存の空虚に耐えろと言ったのは、シモーヌ・ヴェイユか)。

みすずは、岸の勧めで表向きは自転車屋の主、柏田(藤村俊二)にオートバイと車の運転を習う。
そこで、柏田の手伝いをしながら、メキメキ運転技術は上達してゆく。
但し、免許はとらない。

決行当日、雨がひどく、白バイが泥濘に嵌まりこんだり、併走したトラックの荷台シートが落ちて絡みついて来て取り除けなかったりのアクシデントから、シュミレーションからみてかなりの時間をロスしてしまう。
彼女は、やはり変えられないのか、、、ダメか、、、と諦めかけたその時、眼前を現金輸送車が通ってゆくではないか、、、。
偶然、先方も予定から遅れて走って来たのだった。
「うそ、、、!」後は練習通りに輸送車を止めたらこっちのもの。
中の人間を爆弾が仕掛けてあると言って脅して車外に出したところで車を乗っ取り逃げるだけ。
あっけにとられて、発炎筒を覗き込むだけの職員たち、、、。

上手く行き過ぎて、気の抜けたような2人。
それで、もうお別れであった。
「また会えるよね」というみすずに「ああっ」とだけ微妙な返事を返して。

ここに、いや全体に漂うのは、ニヒリズムだ。
それに窒息しそうになりながらも、なんとか生命力は燃やし続ける。
だが、虚無の呪縛は重い。
ここ「B」のメンバーは、主人公の2人以外で夭折していないのは、離婚して家業を継いでいるユカだけだ。
岸は、ずっと行方不明のまま。
3億円はとっくに時効であるが、札は今日まで一枚も使用されていない。

みすずが岸の借りていたアパートに、大学入学後に移り住み、彼をやるせなく待ち続けるある日、彼がいつも読んでいた本のページを捲ってゆくと、彼女への一生に一度限りの純粋な初恋の想いが綴られていた。
この気持ちを告白すれば、彼女の瞳を曇らせる方向にしか向かない、ということから彼は想いを封印して別れたのだ。
と言うより、岸は全て父親の側近に事件について調べ上げられており、日本に留まる事が出来なかった状況でもあった。
みすずは、女性で無免許であることから、捜査が及ぶ可能性は極めて低かった。


宮崎あおいのMTの車の運転やバイクに乗る姿がとても健気で可愛らしかった。
当時の車やバイク、街並みに部屋の家具・電化製品など、わたしも当時を知る(あまり覚えてはいないが)者として、よく雰囲気は演出されていたと思う。
宮崎あおいにとっては、実生活でまず乗ることなどない車を運転した貴重な体験ではなかったか。
相変わらず宮崎あおいの絶対的な存在感が、物語を支えていた。
演技が上手いとかセンスが良いとか、そういったレヴェルではない。
こういう女優―存在は、滅多に出ては来ないだろう。

「害虫」をふと思い出す場面もあった。

HatsuKoi002.jpg

エイリアン4

Alien 001Resurrection

Alien Resurrection
1997年
アメリカ

ジャン=ピエール・ジュネ監督
あのスタイリッシュな「アメリ」の監督である。

「復活」
”3”で死んだエレン・リプリーのクローン(No.8)としての復活か、、、(200年後である)。
200年後も人類は代わり映え無い。
彼女のキャラはちょっと変わり、エイリアンの遺伝子と融合している為、腕力が凄く気性も荒い。
血液も鉄をも溶かす、、、!これは伏線となりドラマチックな最後に繋がる。
2作目と対称的なキャラだ。非常にクールでなかなかのハードボイルド。


この作品、リドリースコットの輝かしい「エイリアン」の恍惚とした物質感や光の荘厳な厚みは無いが、全体としてゴシック調な陰惨な雰囲気が良い。
エイリアンシリーズ最後を飾る作品、、、(のはず)。
続編(2,3,4)が脚本・監督全て違うというのも面白い。

シガニー・ウィーバー、、、エレン・リプリー(リプリーのクローン8号)
ウィノナ・ライダー、、、アナリー・コール(新米クルー・第二世代ロボット)
ロン・パールマン、、、ロン・ジョナー(警護担当クルー)
ドミニク・ピノン、、、ドム・ブリース(メカニック担当クルー)

宇宙貨物船「ベティ」のクルーであるが、その貨物船が今回は怪しい船である。どうやら海賊のようで、非合法のものを現金(もう滅多に使われていない)取引している連中らしい。道理で品が悪い。

やはり、”Alien”―Hans Rudolf Gigerはここが、本家本元である。
フィギュアの強度が違う。
だから見慣れることがない。

人間とエイリアンのハイブリッド生物「ニューボーン」も誕生する。
何と言うか訴えるような瞳が物悲しい、、、。
エイリアンはリプリーを介して子宮を獲得した為、卵を産んで人に幼生体を産み付けなくてよい。
生まれた子は、形体も人とエイリアンのハイブリッドであった。(マイケルジャクソンを連想しては不味いか?)
それは、エイリアン・クイーンを殺し、リプリーに懐く。
エイリアンと人間の融合した遺伝子を持つためであろう。
ハイブリッドのニューボーンも、凶暴さは完全にエイリアンであるが。

金目当ての企業というより、兵器開発目的の軍部であるが、リプリーから抽出したエイリアンの研究・培養して増殖しているところである。
エイリアンは頭も良く、すぐに物事の因果関係も学習してしまう。(自分がお仕置きでやられていた冷凍ガスを発するスイッチを押して、研究員を殺すなど、、、しかしこの行為は映画のコメディ化にも繋がる危険性を孕む。この横揺れは時折、現れる)。
頭の良さと残忍さがよく分かるのは、機を見て研究室の透明な檻から脱出する際、仲間を殺してその血液で床を溶かすところであり、彼ら以外に考えつくことではない。
泳ぎも上手く、クルーたちを罠に追い込んでみたりと、ヒトを翻弄する知力を見せつけている。
エイリアンより更に残酷な軍部の研究室には、これまでに失敗したクローンたちの陳列や未だ苦しみもがいている一世代前のリプリーなどが放置されており、そのグロテスクで悲惨な光景が、彼らの非情さを浮き立たせていた。
この映画、エイリアンよりも人間の方が、遥かに下劣で気色悪い。(まさに正しい描写だ!)

お約束で必ず出てくるロボットだが、今回のコールは、ウィノナ・ライダーで非常に人間的に葛藤するロボットである。
企業の狡猾なまわし者ではなく、レジスタンスのロボットだ。
地球を守るため、リプリーを体内のエイリアンごと殺す使命で貨物船に潜入したが、状況の中で混乱する。
いつも思うが、ロボットが余りに精巧すぎやしないか、、、?
(今回はロボットに設計され製造された第二世代ロボットということである!200年経っているのだし、そうなのか?)
しかしテクノロジー的に見て、ロボット工学ーAIが突出し過ぎているきらいがある。
それに比べて銃器など今と同じではないか、、、。
他の領域のどれもがいまひとつ。
ロケットは、もうすでに光速の問題は解決しているようだが、、、。
(というより、冷凍睡眠による移動であり、ワープはしているフシはない)。
兎も角、科学テクノロジーの発達のアンバランスさは、かなり微妙である。

身も蓋もない話だが、200年前躍起になってエイリアンの軍事兵器への活用・開発をあれだけ研究していたのに、まだその計画が軌道に乗っていないというのは、途中から企業から国家プロジェクト(秘密裏の)に切り替わったといっても、完全な失敗ではないか、、、。国家予算からどういうふうにこんな軍事費の資金を捻出してるのか。こんな埓の開かないリスキーな研究の継続は普通では有り得ない。もっと遥かに手堅く進んでいるロボット工学によってロボット軍隊を作ったほうがずっと成果が上がっているはずではないか!
ただし、もう「エイリアン」ではなくなるか、、、?
そうでもない、途中で放棄された研究所で繁殖したエイリアンが地上を襲い、それに対抗するロボット軍、、、というのでも結構スターシップ・トゥルーパーズ調でもって行ける。
ロボットもアナリー・コールみたいなヒトが強力武装のガンダム・スーツみたいなのに乗って戦っても良い。
中に乗ってるロボットも苦悩したりして、、、。
ちょっとエヴァンゲリオン風にもなるか、、、。リプリーは昇進して軍部のトップあたりにいて指揮に回っている、、、とか。
何れにせよ、エイリアン相手に生身の人間が拳銃撃って勝てるはずはないし、、、。
そっちの方がまともな戦いになる。
要は、「エイリアン」的撮影と演出の問題になってゆくだろう。

最後のシーンで、あの強靭なニューボーンが宇宙空間に吸い出されるところだが、彼があれだけ強烈な物理的影響を受けているのに、女性2人が、といっても普通の女性ではないが、柱などに掴まって凌げる程度の状況であったのか、、、。
ニューボーンも柱に掴まったら一緒に楽に凌げる場面だ。
ちょっと、物理的に不思議に思えた。

最後にリプリーは自らの血で子どもを葬る。一作目と同様に宇宙空間に放ってオシマイにする。
(見事な完結編だ。)


「地球は初めてなの、、、」とコールに告げ、地球に到着するリプリー。
(そう言えばそうか、、、わたしまで感慨深い)。
粗野で豪傑なロン・ジョナー言うところ「あんなところに行くくらいならこの船の方がましだぜ。」


地球は、もうかなり酷いところのようだ。




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インデペンデンス・デイ

Independence Day001

Independence Day
1996年
アメリカ

ローランド・エメリッヒ監督・脚本

ウィル・スミス、、、スティーブン・ヒラー大尉(アメリカ海兵隊戦闘機パイロット)
ジェフ・ゴールドブラム、、、デイヴィッド・レヴィンソン(天才エンジニア)
ビル・プルマン、、、、トーマス・ホイットモア大統領
ランディ・クエイド、、、ラッセル・ケイス(ベトナム還りの落ちぶれた飛行機乗り)

あの最初のハリウッド・ゴジラの監督である、、、。あれは頂けない。
(ギャレス・エドワーズ監督のゴジラは見事であった)。


一見、余りに解り易い特大スケールのアメリカ映画に見えるが、、、。
ドイツ人監督で、星条旗を立てる兵士とか、星条旗が度々出るのは、どういうものか、、、。
「アメリカのみならず今日が世界の独立記念日だあーっ」と大統領が叫んでいたが、奇しくも7月4日にエイリアンを倒すという、アメリカ中心に全てが回ってゆく、、、インデペンデンス・デイ!

コンピュータ・ウイルスを敵のシップにアップロードして、核弾頭をも受け付けないシールドを無効にし、その間に総攻撃をかけて倒す。なかなかスリリングなレヴィンソン博士の計画ではないか、、、。レヴィンソン博士とヒラー大尉は、トロイの木馬風に敵のマザーシップに入り込んでそれを実行する。

外敵ができたことで全世界が一致団結するというものだが。
アメリカが先頭に立って全世界を救う、アメリカ万歳!映画である。


大統領は如何にもという感じの、かつて空軍のヒーローであり核を使用することに嫌悪感を抱くヒト。(「エリア51」を自分に秘密にしていたうえに、核使用を進言し見事に失敗に終わらせた国防長官を即刻首にしている)。
しかも家族思いで妻を戦禍で失うが、愛娘を大切にしている。
終盤は、何と戦闘機に乗り込みエイリアン相手に大空中戦。(まさか、それはない、、、)。
大統領があえなく戦死してもよいのか、、、という後先考えないノリノリ振り、、、少し軽い人だった。

主役の2人は両者とも、恋人と晴れて結婚したり、和解したりでアメリカ映画には必ず入ってくるヒューマン・ストーリーはWで手堅く確保している。
科学者はあの一癖も二癖もあるジェフ・ゴールドブラム。
飄々とエイリアンをとっ捕まえて基地にやって来たスティーブン・ヒラー大尉はウィル・スミス。
曲者同士で名コンビというのもアメリカ(特に刑事もの)の十八番であった。
巨大なシティ・デストロイヤーの主砲部分に戦闘機で突っ込み撃退するところは、まさに「神風」か。
(アメリカが見たカミカゼだろうか)。
ラッセルの自己犠牲で掴み取る勝利。
「君の父さんは英雄だ!」名誉回復と英雄譚も忘れない。

アメリカ映画を特徴付けるあらゆる要素の詰まった、これ以上ないステレオタイプのコテコテ映画であるが、大統領にクビにされた国防長官が、「わたしはユダヤじゃない」と言えば、それに返して主人公の科学者の父が、「誰にでも欠点はある」、、、ってこれは皮肉なのかなんなのか?

兎も角、監督の意図的なものを強く感じる。
「宇宙戦争」へのオマージュもしっかりある。寧ろ古い方か、、、。
押さえるところを押さえた上で、監督のプラスαの意向をしっかり加味した映画であろう。

スケールの壮大さは、半端ではない。 
月の1/4の質量を持つエイリアンの宇宙船(マザーシップ)が地球のすぐ近くにまでやって来たのだ。
(攻撃される以前に)それだけで自然界に及ぼす影響は甚大であろう。
この時代の撮影技術から言えば、圧倒的なVFXである。
メカ等のディテールもそこそこ良いが何と言っても「大きさ」であろう。
できれば何れ程地球上がメチャクチャにされたのか、もう少し具体的にその惨状も俯瞰するなどして現してもらえると、より説得力も増したか、、、。

ストーリーも何でもかんでも詰め込み、スペクタクルも広げるだけ広げた巨編である。
エイリアンの姿もしっかり見せているが、何とも微妙で複雑な形態である。
有機体で形成されたちょっと粘着くようなバイオスーツを身に纏っているなど、ここらへんの質感・リアリティはかなりのものだ。

当時、エイリアンがMacOSを使っている、と確か話題になっていたが、見ていた範囲では気付かなかった。
どのへんで使っていたのか?(わたしもMacOSは漢字Talk5くらいからずっと使っているので、見ればすぐわかる)。
そもそもエイリアンがパソコンをパシパシ使っていたか、、、?


「アイ・ボールアース」にせよ、地球外の生命にとても拘わり始めている昨今の人類。
ケプラー宇宙望遠鏡は今、赤色矮星の惑星の観測に力を注いでいる。
赤色矮星~地球型岩石惑星~潮汐ロック~紫外線フレア(窒素の活性化ーシアン化窒素生成)~海流と空気(温室効果ガス)と雲の循環とその保護
これらの条件が揃えば、、、何かが生じている可能性はあるようだ。

憧れのエイリアンが現れるとすれば、どんなエイリアンがよいか、、、。
結構集団無意識的に、こういったイナゴのような、飛んでもない連中を呼び寄せたいのかも知れない。
(地球のなかは、紛争やテロが絶えないし)。



エウロパ~エンケラドス

sinkai001.jpg

本当に久しぶりに天体関係のことを、、、中学生の頃の熱気がなかなか出ないのだが、、、(笑。

エウロパ、、、エンケラドス、、、
どちらもここのところずっと話題の衛星である。
自分の知っているレベルのことだけ、とりあえず書いておきたい。
何故なら今後、急速に新たな何かが分かって、新発見ということも見込まれる状況にもなってきた、、、?
ようにも思われるため。

両者ともに、水を吹き出しているということからNASAもしきりに話題を振りまいている。
「水」がキーワードである!
水の存在は地球外生命の可能性に繋がる。
(水、、、エネルギーの存在はそのまま生命の可能性に繋がるのは確か)。
でも何でそんなに、外に原生生物を見たいのか?
われわれは他者を認めない割に他者の存在は気にする、、、。

生物の繁殖に太陽光線が必要ないことは周知の事実である。地球の深海における太陽光の全く届かない場所で、化学合成によりエネルギーを得ている生命システムが存在する。つまり光合成による食物連鎖システムとは別種のシステムが地球上には存在している。
水と潮汐力(放射性物質の崩壊などもあるか)などから得られるエネルギーに有機物さえあれば、生命の誕生は可能となることから、水とエネルギー(エネルギーが無ければ水は氷の状態である)の存在を頼りに地球外生命の探索が進められている現状だ。



Europa.jpgEuropa

ギリシア神話の、ゼウスが恋に落ちたテュロスの王女エウローペーにちなんで名づけられた。
軌道共鳴が有名。イオの二倍、ガニメデの半分という公転周期であることから潮汐力の変動の影響が強い。
当然、潮汐力で発生する熱エネルギーにより、氷の地表下における液状の水の存在、さらに加えて熱水噴出孔まで想定されている。これは、そのまま地球の深海の海底にあるそれを想像してしまうではないか!
いても、確かにおかしくない、、、。

表面には裂け目が出来たりなくなったり(塞がったり)を繰り返しているようだ。
地表の運動は激しすぎ、やはり水の存在する層で何かが静かに起こっている可能性はあるか。
2028年だったか、、、探査機が軌道上から観測を開始する予定である。
エウロパの他にも木星の衛星では、ガニメデにも氷の下の水の存在は以前から予想されている。
イオ、カリストも大きな衛星である。イオは火山活動で有名である。という事は少なくとも大気は多少は存在する?
(ただし、これらの天体は皆、重力が小さいため大気を繋ぎ止めていることは出来ない)。
カリストにも液体層があることは分かっている。


Enceladus001.jpgEnceladus

ギリシア神話に登場する巨人族、ギガンテスの1人であるエンケラドス。
とっても白い。反射率が異様に高い。氷のせいだけであろうか、、、。
南極付近から水を吹き出していることで大変有名な衛星である。TVで間欠泉を見たときは、そう言われてみれば確かに、と思ったものだ。(写真だが)。
土星を公転するときの微振動が測定され、それによると衛星表面下に全て行き渡る熱を持った水の層があることが判明した。

土星関係は、カッシーニ探査機による観測データからかなり詳細な画像も解析されている。
"Tiger Stripes"など特にエンケラドスを特徴づけるものだ。
非常にダイナミックで神秘的なゾクゾクする"Stripes"である。(しばし見惚けてしまう)。
そのひび割れから水が吹き出し、それによって地形が絶えず更新されているという。
よって、地表上の生命はその不安定さから、まず有り得ない。
エンケラドスの他に土星の衛星では、タイタンに水の存在は確実視されている。


海王星の衛星、トリトンにも水が氷の下にあることは以前から話題であった。火山でも注目されていた。しかし大気はここでも微量であるようだ。
(トリトンは公転軌道が逆回転であり、潮汐力の関係で数億年の間に海王星に向けて落下し、所謂ロッシュ限界、土星の輪のように粉砕する予定である)。
天王星、海王星などは、その濃いガス(水素・ヘリウム・メタン)から探り難い環境であるが、、、水(水とアンモニアの海)は大量にあるようだ。

基本地球より外側の天体について、氷の状態がほとんどであるが、その内部では潮汐力の関係で水が液体化している惑星・衛星はいくつも考えられている。

思ったほど自分の中に情報がなかったことに気づく。
最近、その手の書物は読んでおらず、NHKの科学番組を見て過ごしている程度であった為か。
そろそろ、面白い発表などあるかも知れない。
アンテナだけは立てておこう、、、。

最近、面白かったのは、「アイ・ボールアース」というやつだ!
地球外生命の新たな可能性の場である。
心惹かれるロマンである。(ロマンの域は出ていない、、、という意味でも)。


Tiger StripesTiger Stripes



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デルス・ウザーラ

Dersu Uzala001

1975年
ソ連・日本製作

黒澤明監督・脚本
ユーリー・ナギービン脚本
ウラジミール・アルセーニェフ原作

ユーリー・ソローミン、、、アルセーニエフ(探検家)
マクシム・ムンズク、、、デルス・ウザーラ(ゴリド族猟師)


この映画、物凄い資金難のなかで作られたらしい。ほとんどソ連から金が出た模様。
スタッフも日本人は5人。ソ連は70人。ソ連軍から30人出されたという。
また、森の中で出逢う虎をソ連側は、飼育された虎で用意しておいたが、黒澤は野生の虎でなければダメだと言い張り、わざわざ野生の虎を捕らえてきて出演させようとしたが上手くいかず、結局ほとんど当初用意した虎で済ませたらしい。
土地も土地であるし、大変な映画製作となったことだろう。


探検家ウラディミール・アルセーニエフの1902年から10年のシベリア沿海地方シホテ・アリン地方における記録から作られている。

アルセーニエフはロシア政府から地図上の空白地帯の地図作成を命じられる。
探検隊を組織しそのシホテ・アリン地方にやってくるが、そこで原住民ゴリド族のデルス・ウザーラという男に出逢う。
この物語は、アルセーニエフ隊長とデルス・ウザーラとの交流を通して描かれる。


デルスの墓を訪ねて来たアルセーニエフは、そこが宅地開発されていて、墓もどこにあるのか定かでない状況になっていることに愕然とする。
デルスは、皮肉にも彼の安全の為にとアルセーニエフが手渡した最新式の猟銃を強盗に狙われ、殺されてしまった。

文明に非文明が押しつぶされてゆく様相のなかのひとつの光景である。

デルスの悲劇は、彼が猟銃で襲ってくる可能性のある虎を撃ち殺してしまったことに始まる。
(いや、デルスの元に文明が侵入してきた時点で彼の運命は決定していたのかも知れない)。
彼らゴリド族には虎を撃ち殺してはならない掟があるようだ。
彼はそれから森の逆襲を怖れ、自分の行ってしまった殺傷を恥じ、ひどく不機嫌になる。
そして、誰もが認める優れた猟銃の腕があるにも関わらず、視力がほとんどなくなり、森で暮らすことも叶わなくなってしまう。
実際に視力自体が落ちたのか、森への畏怖から心理的に目が見えなくなったのかは、はっきりはしない。

デルスというヒト、自然界の生き物全て自分と同格の扱いであり、彼らを敬い信じている。
しかしクロテンの猟で街で生活費を得たおり、ウォッカを呑まされ商人に金を全て持ち逃げされる。
人が何故そういうことをするのか彼には全く理解ができないし恨む意識も微塵もない。
ひとの命を助けるのも当たり前、それを恩に着せたり自慢もしない。
文明の枠外にいることで、森の中ではとても頼りになり探検隊員たちから慕われるが、それが同時に彼の限界でもあった。
彼は森を一歩出たら、全く一般の生活者とはなれない。
文明の作る規範がことごとく彼の認識と理解を越えている為である。
彼は目が役に立たなくなったことで、アルセーニエフの家に引き取られるが、一室に閉じ篭ったままで過ごさざる負えない。
とは言え、彼が籠の中の鳥で、生きて行けるはずもない。

「何故、道路にテントを張って過ごせないのか?」
せめて、屋敷の外には出たかったであろう。
それまでは、ずっと森の中で様々な息吹や気配を肌身に感じつつ野宿に近い生活を営んできたのだ。
彼を連れてきたアルセーニエフにもその配慮とケアが必要であっただろう。
部屋が殺風景だから壁紙を貼替えさせよう、という問題では決してない。

結局、彼は出てゆくこととなり、身の安全を心配したアルセーニエフから渡された最新式猟銃のせいで命を落とすことになってしまう。

文明が彼を殺してしまった。

そして彼の亡骸を埋めた土地も、3年後には宅地にされてしまっていた。

ケレン味や派手なところのない、淡々とした流れの映画であった。
過酷な自然の光景が強烈な夕日の光線とともに印象に残る。

森の情勢を読むデルス・ウザーラの的確な判断と指示は見事なものであった。
それがなければ、アルセーニエフ隊長も隊員も何度命を落としていたか。
しかし、あくまでも西洋文明の及ばぬ異質な世界である森の法の元でのことである。
デルスは森のヒトであるのに、余りに探検隊―アルセーニエフとの友情を深めすぎてしまったのかも知れない。
しかしそこはとても難しい。ほどほどに距離を置いてとか言っていられる空間ではない。
常に森は気候の変動や予期せぬ事故、密猟者の罠や猛獣、病から身を守るための生死をかけた戦いの連続である。
そこで共に暮らせば、親密な関係にもなる。まして相手が尊敬に値すればなおのこと。


探検隊が背後にいなければ、デルスは虎を撃たなかったかも知れない。
森を追放されて、不慮の死を遂げる事もなかっただろうが、、、。
この悲劇は、宿命的なものであった。


MOTHER マザー

House of Voices001

House of Voices
2004年
フランス

パスカル・ロジェ監督・脚本
これはデビュー作らしい

何で邦題”MOTHER マザー”なのか、、、
また、これ程酷いセンスの無いジャケットも珍しい。

ヴィルジニー・ルドワイヤン、、、アンナ(新人職員)
ルー・ドワイヨン、、、ジュディス(独り残った大人の孤児)
ドリナ・ラザール 、、、イリンカ(職員)
カトリオーナ・マッコール、、、 フランカラド(孤児院の院長)

ルー・ドワイヨンってジェーン・バーキンの娘なの?
ふーん。
ゲインズブールではないのだ。
こっちのファザーとマザーを心配していても仕方ない。

今日はヴィルジニー・ルドワイヤン繋がりで、(無理やり繋ぐ必要はないが)たまたま見つけたこれを。
ちょっとあまり好きではないが結構よくできた映画「永遠の子供たち」を思い起こす、、、。
そして「ローズマリーの赤ちゃん」であろう。寧ろこちらか、、、。

そもそも、閉鎖を決めた孤児院に何故、新人が住み込みでやって来るのか、、、?
どういう仕事があって、誰が給料を払うのか、とかちょっとよく分からない。
しかも、妊婦である。当然働くにもいろいろと支障が出よう。
まさか、採用前にそれを確認しないことなどありえないし、、、。

まず、それを気にかけながらの鑑賞となる。
ルー・ドワイヨンがどうにもジェーン・バーキンに似てないなども、なるべく気にしないようにみてゆくが、、、。
それにしてもヴィルジニー・ルドワイヤンをVFXで、妊婦に見せているのか、本当に妊婦なのか、少し悩む。
見てゆくに従い、もやもやする点が増えてゆき、集中が厳しくなる。
次々におやつなど途中で飲んだり食べたりするから、これは肥満を促進する映画でもある。
わたしまで、妊婦っぽくなってしまうではないか!、、、これは新たなホラーだ(怒。
どうやら、彼女は(わたしではない)本当に妊婦で、最後のシーンの時はもう産後であったような、、、。
恐らくそういうことであろう?
結構、撮影が大変だったろうな。(妊婦にもしものことがあってはならない。その撮影現場に)。

まず、ホラーで(この映画はどうやらホラーとも違うが)よくあるパタンでは、主人公がまっとうなヒトで、周りの人間が悪で、策略を巡らし主人公(たち)に様々な罠をかけて襲ってくるなどがよく見られる。
しかし、この作品は、周りのヒトは皆、凄くまともな人で、この主人公が異常であった、というものだ。
彼女のこの症状は何であるのか、一つは妊娠(出産)に対するネガティブな感情に起因するものか、、、。
望んだ妊娠でなければ、憎悪や罪悪感や不安、恐怖の綯交ぜになったストレスが障害ともなろう。
特に彼女の背中に多数あった、傷跡である。
何かとても大変な目に遭って、ここに流れてきたという印象を与えることは確かであろう。
兎も角、主人公がかなりの問題を抱えた人物なのである。
しかし、それは取るに足らない設定である。
この映画の何とも異様なな特質は、何と言っても、、、。
彼女の異常な表象を彼女となってこちらも知覚する事を強いるところなのだ。
登場人物を客体視し、それを神の座から見てその動きを楽しむ通常の構造ではない。
(つまり誰もが共有できる表象―超常現象は一切ない)。
辻褄が合うかどうかではなく、そう彼女―主体が感知しているのだから、そうなのだと、、、。
しかし、これはこちらにとっては居心地は悪い。
生理的に受け入れ難い形式と言える。
これは、少ないタイプに入ると思う。
とは言え、見終わった今、貴重な映画を見たという、得した気分もほとんどない。
集中が大変しにくい映画であった。

見終わってこれ程何も残らない映画も、また妙に清々しい。
だが、すっきりし過ぎて、何見たか覚えていないのだ。記憶喪失してしまった。(いよいよ重症か?)


思い出す範囲で、残りの感想を述べたい。
映像や演出効果、編集などは、とても綺麗になされていたはずだが、、、。
しかし、それらはあくまでも客観的なストーリーの元で余裕をもって感じ取れるもの。

主人公の女性の異常感覚を通して外界を見るという視座を維持してゆけば、なる程微妙な、、、と思える。
(こちらも多少ズレつつ追ってゆくのだ、、、)。
そして、主人公が嘘つきと言って警戒するベテラン職員のおばあさんにその都度、彼女は助け出される。
主人公が身も蓋もない探求をしてしまうことで、周りの人間の傷口を開くことにもなるが、そんな他者の思いに想像力の及ぶ彼女ではない。
こういう自分だけが正しいと信じている浅薄な思考で闇雲に突き進むヒトは少なくない。
この先輩の女性が大変寛容で、人間が出来た人である為、主人公は幾度も命を救われるが、、、それに反省的思考は生じない。勿論、恩も感じるはずもない。(本人にしてみれば半ば憑依されているのだし、、、しかしそうなれば、わたしは彼女の視座―意識とみていたものすら更に他者にコントロールされたものということができる。これ程乗りにくい船はない)。

これなら客観的な視座で全ての登場人物を客体的に把握できる方が、遥かに居心地よく見易い。
巧妙に襲って来た魔物に、主人公(たち)がひえ~っと悲鳴をあげて逃げ惑うなどの方が落ち着く。
途中で見るのを辞めようかと幾度も思ったが、とりあえずおやつとDr.Pepperで乗り切る決意を固める。

何と言うか、施設に封印された領域があり、そこに戦時中に負傷して担ぎ込まれた(300人程の)子供たちが過ごした跡が見つかった、というもので、主人公はその子達の気配を絶えず感じていたからこそ、そこを探し当てた?のだろうが、実際どうであったのか定かではない。主人公にとっても、それに何か意味があったかどうかは分からない。(恐らく妊娠しているがため、その子らの霊に共振しやすかったのかも知れないが)、実際、赤ん坊がそこで死産してしまい、彼女自身も死んでしまった。それは、彼女が望んだことなのかどうか、、、。
最後の部屋は真っ白で異様に綺麗であるのが、まさに彼女の極まった(断末魔の)幻視の果てであることに共感する。
ほとんど霊界との狭間か越境してしまった場所か、、、と感じるところであった。
彼女にとっては、結局そこで死んだ子供たち(自分の子も含め)の「母」―”Mother"となったということなのか、、、彼女に近いビジョンを備えていたたった一人残されていたジュディスがその孤児院を去る間際に、彼女とそれを取り巻く子等を「見ている」ところから、ここでその世界の実在性が垣間見られた、、、。

主人公の行動はある意味、必然的なものであった、というところに落ち着きたい。





ザ・ビーチ

The Beach001

The Beach
2000年
アメリカ・イギリス製作
ダニー・ボイル監督

オール・セインツの”Pure Shores”
ニュー・オーダーの”Brutal”
などこの映画のサウンドトラックの曲はヒットして、当時よく耳にした。オール・セインツ懐かしい。

レオナルド・ディカプリオ、、、リチャード(アメリカの青年)
ティルダ・スウィントン、、、サル(楽園の中心人物)
ロバート・カーライル、、、ダフィ(リチャードに地図を渡し自殺した、楽園の住人)
ヴィルジニー・ルドワイヤン、、、フランソワーズ(エティエンヌの彼女)
ギョーム・カネ、、、エティエンヌ(フランソワーズの彼)

レオナルド・ディカプリオの映画を昨日に続いて、、、。


だいぶ以前、宮古島から橋を渡って行ける来間島のビーチの美しさに魅了されたことがある。
遠くまでずっと続く真っ白な砂浜に透明なピーコックブルーの海水が静かに打ち寄せる。
たまに見かける生き物は小さなカニくらい、、、。
いつまでいても誰の気配もない。
まさに、プライベートビーチではないか、、、といたく感動したものだ。
(半日くらいを過ごすには、最高のシチュエーションであった事をいまでも覚えている)。


この映画の舞台は、タイのある島の内側に隠された秘密のビーチの楽園である。
偶然、手に入れたその位置を示す「地図」を頼りに、半信半疑で友(フランス人カップル)を道連れにやって来たリチャード。

浜辺に開けた村で、西洋文明から逃れてやって来た様々な人々が少人数で暮らしていた。
観光ではなく、故郷を捨てそこに住み着いた人々ではある。

確かに外界から遮蔽された綺麗なビーチのようであるが、もう少しそこの圧倒的な景観をディテールに迫ってじっくり魅せてもらいたかった。
楽園の象徴がどれほどのものか、いまひとつ伝わる描写がないのだ。
寧ろ、サメが出るかなり危険なビーチに思えたが。

例え場所がどれほどのものでも、所詮感応する側の問題である。
村の作り(仕組み)と人間の繋がり具合も、もう少し詳細に知りたい。
ずっと見ていても浜で球技をやりにそこに来たのかと聞きたくなる。これでは湘南あたりの普通のビーチと変わりないではないか。
ここに、何らかの「解放」や「発見」があるのか。
ある強力な思想をもとにした共同体ではなく、何となく逃避してやって来た人たちの集まりであることはよく分かる。
目的的な意識のない、無為に時を過ごすだけの緩い共同体であるにしても、これでは直ぐに飽きるであろう。
染み付いた文化的な生活感覚からくる不便さ、、、こちらの方が意識に昇っては来ないか。
リチャードがサルと街に米を買いに出かけるとき、皆しこたま文化的な品々を彼についでに注文してきた。
(それが必死の形相であることが笑える)。
特に「電池」などは文化―習慣・内面を引きずり続けている証拠だ。
果たして彼らにとり、そこが居心地が良いのかどうか、、、。
来てはみたものの、、、でも戻るのももう億劫だし、、、ではなかろうか。
(わたしは絶対ゴメンだ。一晩泊まったら日本にすぐ帰国する。パソコンが恋しい)。

自己中心的な安寧を保とうとするだけの寄り集まりであると、ヒトの生の生理や欲望が激しくぶつかり合う。
浮気や嘘、裏切り(不貞)が自ずと起こり、そしてそれが忽ち噂で漏れてゆく。
病気や怪我は場所の秘密保持のため医者・医療に任せられない為、患者は生殺しとなる。
ここが最も問題となるこの共同体の脆弱性と言えよう。
すると本人だけでなく、状況的に周囲の生理が耐えられない。
ただ呻き声が煩いのだ!
ここで、集団の掟がしっかり定まっていない場合、倫理的葛藤が起きる。
(怪我・病気が治る見込みのない場合、どうするかという取り決めが前もって必要になる)。

この生理は抑えられない。
わたしもかつて電車で移動中、長女の号泣が止まない為、同じ車両の女の乗客から激しい叱責を受け降りることとなった。
おかげで目的地に到着が一時間遅れたが、これが普通のことである。
そう、病院でもそうだった。わたしが医者にかかっている最中、子供が泣き出し病院中が騒ぎになっていた。わたしが抱き抱えるとピタッと泣き止んだため、それ程問題にはならずに済んだが、、、必ず何処からか生理的苦情は出る。
(育児上、自分の通院時に子どもを同伴せざる負えない状況は必ずある!)
ある意味、この映画で最もリアルで重みを覚えたところが、サメに食われ重傷を負った男を巡る場面である。
これを抜きにあのような楽園の場を考えることは絶対に出来ない。
苦から逃げてきた集まりを維持する事において、多少なりとも生理に不快に触れるものに対しては、それを速やかに抹殺する必要がある。


元々その楽園は、武装して守られた大麻の秘密の栽培場であり、サメのウヨウヨ泳ぐヤバイところであった。
ヒトを増やさないという約束でかろうじて彼ら逃避者たちの生活の場が保証されているだけだった。
しかし、リチャードはここに来るとき、仲間に地図の写を渡していた。
果たして彼らは4人で楽園に入ってきたのだった。
だが、大麻畑で農民たちに見つかり全員射殺される。

農民たちは、また外部からヒトを呼んだことに激昂して、楽園に押し入ってくる。
約束を破り勝手なことをしたことで、楽園の住人たちは皆、自分の故郷に追い返されることに、、、。
サルだけは、そこに残る。
彼女にとってはそこが自分の全てであったのだ。
これらの事態を引き起こしたのは、全て無分別で無軌道な(また無責任な)リチャードによるところは大きい。

しかしある意味、地図を渡し自殺したダフィに始まった亀裂であった。
彼がこれを仕組んだとも言える。
地図を、禁じられている他者、しかもリチャードのような若者にわざと渡したのだ。
彼の意図によるものに違いない、、、。

サメや人に殺された者たちは、単に行方不明で片つけられるのだろう。


前の晩、悪夢を見ただけ、、、という観の清々しい表情で日常に戻っているリチャードが面白い。
ゲーム感覚で農民を攪乱したり、新たに入ってきた友達を彼らに殺させたり、自ら重傷を負った男を殺したりも、青虫を食べたのと同じ一連の経験の中の一つであったか、、、。


レオナルド・ディカプリオやはり大した役者である。(青虫も食べるし(笑)。
ヴィルジニー・ルドワイヤンは「8人の女たち」から大人になったものだ、、、。

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華麗なるギャツビー

The Great Gatsby001

The Great Gatsby
2013年
アメリカ
バズ・ラーマン 監督・脚本
F・スコット・フィッツジェラルド 原作

レオナルド・ディカプリオ 、、、ジェイ・ギャツビー
トビー・マグワイア、、、ニック・キャラウェイ (証券マン~作家)
キャリー・マリガン 、、、デイジー・ブキャナン (ギャツビーの元恋人、トムの婦人)
ジョエル・エドガートン 、、、トム・ブキャナン(デイジーの富豪の夫)
エリザベス・デビッキ 、、、ジョーダン・ベイカー (プロゴルファー)

(スパイダーマンが出ていた。ニックの顔どこかで見たと思ったら、、、)。


ニックのナレーションで進む。
現在のニックはニューヨークから舞い戻り憔悴しきっている。
パーキンス療養所に静養中だ。
ここで語られるこの話が同時に彼のタイプライターから小説となってゆく、、、。
1922年、狂乱のニューヨークから始まる。
当時まだウォール街は野心に満ちた若者の熱気に渦巻いていた。
ニックもその中の一人であった。


「過去は取り戻せないか」
(過去は更新できないのか!だとわたしは思う)。
これがテーマである。
ニックの言う、ギャツビーが挑んだ途方もない夢であろう。
これこそがニックにとって他の誰にもないギャツビーの魅力であったに違いない。
時間(現状)に無為に流されてゆくだけの人々の中にあって、敢然と彼はそれに立ち向かった。
ギャツビーにとってのデイジーの存在は、彼の出自から全てを輝かしく上書きする象徴でもあったのだ。
自分を最初から生き直す華々しい象徴。
きっとそうだ。
デイジーとの最初の出逢いは、麗しい上流階級の華を見る思いであっただろう。
そこで彼は一目惚れをする。
自分の中の創造的可能性を信じる契機となった。
彼女は彼のその後の生きる力を支え続ける対象になったはずだ。

彼女は何故、待ちきれなかったのか、、、。
そこなのだ。
ギャツビーの幻想を彼女がほんの僅かでも伺い知る由などあろうはずもない。
軍隊に行って長いこと帰ってこなければ、見通しも持てず何処かの身分のある富豪に嫁いでしまうものだろう。
ギャツビーに惹かれていたのが事実であろうと、これも致し方ないことだ。

この物語は、彼の時間―存在を賭した戦いの記録でもある。
著者は親友―恐らくただひとりの―ニックである。
唯一ギャツビーを語る資格のある人間でもある。
それを見越していたのか?
ギャツビーが主催する彼の城のパーティーに招待状を送ったのは、ニックただ一人であった。
これもニックの言う、ギャツビーの恐ろしく研ぎ澄まされた感性によるところか、、、。


厳然と存在する階級。
しかし一代で築く巨大な富。
富の力による成り上がり。
すさまじいバイタリティ。

ただギャツビーの城に夜毎集まってくる羽虫みたいな連中は何者か、、、ニックに言わせればクズである。
分かりやすい。全くその通り。
成り上りといえば、歴史のないアメリカにおいて、金持ちは皆、成り上りでもある。
「市民ケーン」というのもあった。
あちらも豪奢な虚しさがとてつもなかった。

ギャツビーは、手段はどうであれ、富を手にして彼女の元に戻った。
失われた時間を取り戻そうと。
しかし、それを人は「求めすぎ」だと彼に返す。
普通に考えれば、デイジーはすでに既婚者である。
それだけ金があれば、いくらでも他に女性は見つけられるではないか。
ジョーダンだって、大変魅力的ではないか、、、とか思ってしまう。

このギャツビーの生に対する純粋さ一途さは、代替は効かない。
2人で遠くに逃げる事もできなかった。
城は全て彼女のためのものであったのだから。それは彼の彼女への思いの実体でもあった。
だが彼のその思い―行為が彼を急速に追い詰める。
城の夥しいゲストの乱痴気パーティとは対称的な彼とニックとジョーダンにデイジーという核心を突くべく4者会談の修羅場となる。
最終的に彼は全てをぶちまける羽目になる。
そして彼はトムの挑発についに耐え切れず激昂してしまう。
まさにトムの思うツボであったが、同席したジョーダンもデイジーさえもこれに引いてしまうのだった。
ギャツビーを受け容れられたのは、ニックのみであった。

その後の流れは坂を転がり落ちるかのようであった。
全てが破滅へと一気に進む。
これは全くこの物語の示す通りであり、実生活においてもほとんどこのパタンに落ち着くものだ。
誰もがギャツビーから身を引き、罪を押し付け逃げてゆく。
たくさんの羽虫が散り散りに、、、。
権威やシステムから逃れられない自己保身の賜物とも受け取れるが、自らの時間的存在としての諦めからくるものであるところが大きいと云える。



大変美しくまた退廃的な画面であった。
特に光の使い方が素敵だ。
音楽の絡みも絶妙である。
キャストも見事に役割をこなしていた。
車が何ともよい。これには痺れた。



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さらば愛しき女よ

FAREWELL, MY LOVELY002

FAREWELL, MY LOVELY
1975年
アメリカ

レイモンド・チャンドラー原作
ディック・リチャーズ監督

ロバート・ミッチャム、、、フィリップ・マーロウ(私立探偵)
シャーロット・ランプリング、、、ヘレン・グレイルまたはベルマ(魔性の女)
ジョン・アイアランド、、、ナルティ刑事部長
ジャック・オハローラン、、、ムース・マロイ(ベルマのかつての恋人)

ロバート・ミッチャム(というよりフィリップ・マーロウ)のナレーターが要所々々入って流れてゆく。
それが、かなり適当にハマっていた。
(これが映画の意味を限定するようなことになれば、ブレードランナーのようにディレクターズカットであっけなく削除される羽目になる)。

バーボンが美味そうだった。
ジャズがいい感じで挿入される。
ジョー・ディマジオの連続安打をずっと気にする主人公フィリップ。(如何にもと言う感じだ)。
独特の男臭さで、単に渋いとかでは片つかない。(キムタクとかのジャニーズを見慣れた人にはどう映るだろうか?そう言えば、キムタクはいまブームなのか?)
それを言ったら、ムースだ。
ほとんど、ノーメイクでフランケンシュタインでも行けるような、、、。
基本、ゴツイ男たちの物語だ。
アムサーという娼婦宿の女主人も尋常ではないゴツさであった。
あんな往復ビンタ見たことない。
しかしそれに対し、やり返すフィリップもこの古き時代の気骨ある男だ?!
である為、シャーロット・ランプリングの端正な美は際立つが、その恐ろしい魔性で、互角以上の迫力であった。
(表情は一番怖い)。

ヒトラーがロシアに進行した年。
黒人だけのバー。
なる程な、、、。
終始気怠い上に殺伐として暗い空気が漂うなか、1941年のロス?の雰囲気が堪能できた。
街のセット、室内、車も申し分ない。
美術、カメラ、演出の何処にも裂け目がない仕上がりだ。
駆け出しの頃のシルベスター・スタローンもいたりして、ちょっとニンマリ。
(ホントのチンピラ役である)。

ストーリーは、なかなか凝っている。
私立探偵のフィリップは、もう歳でもあり、身も心も疲れている。
この商売はもう辞めたいと考えながらも、、、続けている。
フィリップがある日、ムースという粗暴な大男からベルマという女(恋人)を探して欲しい、と依頼を受けて一連の事件が始まる。
かつて、ムースとベルマは銀行強盗で大金を奪い、ベルマがその金を隠しているのだが、ムースの出所後、全く彼女に連絡がとれなくなったという経緯であった。キナ臭い依頼であるがフィリップは受けてしまう。
この他に新たに入ってくる依頼をフィリップは割と気安く受けるのだが、どれも思った以上に危険なもので、手がかりを探ってゆく過程で、ことごとく殺人事件が起きてしまう。
その間に、フィリップは、市の実力者で大金持ちのロックリッジ・グレイル邸にも、事件から割り出した翡翠の件で調査に行き、婦人のヘレン・グレイルにいたく魅了される。その後数回、会って惹かれてゆく。
その後もフィリップ自身、よく殺されなかったという件もあるが、そのタフさで警察とも揉めながら、独自の調査を進めてゆく。
そして最後にそれらの事件が、改めてシャーロット・ランプリングのご登場によって!ブーツストラップである。
最初はバラバラで関係なかったような事件が全て繋がりを明かす。
実は、それまでヘレンだと思っていた彼女がベルマであったのだ。
いまひとつ分からなかった部分もフィリップが彼女に向けた語りによって、成程ねと分かるというもの。
そして衝撃的なラストシーンである。

ムースの最後のシーンはまさにフランケンシュタインのクリーチャーであった。
フィリップが言うところ、「彼は生きていれば3発撃たれたとしても彼女を許すだろう。彼は愛を全うした。」
確かに、何で、、、という感じで彼はベルマに撃たれ息絶えた。
更に、フィリップはベルマをも、、、撃たねばならぬハメに。
彼の実に疲れたやりきれない表情、、、。
彼は後を、ナルティ刑事部長に任せて、出てゆく。

そう、スタイリッシュでもある。

原作がしっかりしていることもあろうが、かなり練られた脚本だった。

ロバート・ミッチャムやジャック・オハローランの纏う雰囲気は、今の役者には見られない貴重なものだと思う。
シャーロット・ランプリングのこれだけの魔性の迫力も出せる女優がいるかどうか、、、。
FAREWELL, MY LOVELY001





オズ 

Return To OZ001

Return To OZ
1985年
アメリカ

ウォルター・マーチ監督・脚本

『オズの魔法使い』の続編である。

ファルーザ・バーク、、、ドロシー
エマ・リドリー、、、オズマ姫
前作同様の二役キャスト:
ニコル・ウィリアムソン、、、ノーム王・医師
ジーン・マーシュ、、、モンビ女王・看護師


所謂、VFXを見せる映画であったか、、、。
ノームの民やノーム王の岩石が独特の変形で喋る表情や扉を開く夥しい腕の動きは秀逸であった。
このような視覚効果は極めて独自なものだ。
ティック・トック(兵士)、ジャック(ハロウィン)、ガンプ(空飛ぶソファ)、ビリーナ(鶏)は、これまた精巧で絶妙なアニマトロニクスで表現されている。
ジェラシック・パークの恐竜の質感・量感と動きを思い浮かべてしまう。
何といってもここだろう。


例の竜巻から、ドロシーが変になったと考えるエムおばさんは、彼女を妙な病院に連れてゆく。
特に困った症状は、「不眠症」であり、オズの御伽噺に拘わり続けることである。
ドロシーにとっては、オズのことを話しても周りの誰も信用してくれないために眠れなくなったということだ。
彼女は流れ星を見た翌日、鶏の餌場でオズの鍵を見つける。

病院に一晩入院させられることになったが、非常に怪しい電気治療機にかけられる寸前停電になり、謎の少女がドロシーを助け出してくれる。(ちょっとフランケンシュタイン的マシーンだ)。2人は追い詰められ川に飛び込む。

謎の少女は助けるだけ助けて消え失せ、ドロシーはそれを何とも思わず、夜が空けると、鶏のビリーナがいて、ペラペラ話しかけてくる。
川かと思いきやそこは水たまりで、周りには死の砂浜が広がっている、そこはオズの国だった。
ということで、”Return To OZ”らしい。

ノームの民(岩石)が様々な表情で彼女らを監視するなか、エメラルド・シティに着くが何とそこは全てのものや人々が、石に変えられていた。
ドロシーは王様の「かかし」のことがとても心配になる。
彼を探してゆくと、車輪人間のホイーラーズに追いかけられたり、モンビ王女のコレクションの為頭を狙われたりする。
その間にティック・トックやジャック、ガンプなどの新しい友達ができる。
どうやら、かかしは、ノーム王が連れ去り、彼の陳列棚の飾りの一つにされているようだ。
そして、ドロシーがかつて落としたルビーの靴の魔力でノーム王はエメラルド・シティを征服したという。

彼女は、ノーム王のゲームで陳列棚の中のどの飾りが「かかし」か当てられたら、みんなを解放しようという誘いに乗る。
この時、面白いのは自分の他に最後に残ったティック・トックが、自分が外れて何かの飾りに変えられたら、それを参考にかかしを探して欲しいと言い残し犠牲になったのに、そんなことお構いなしに、彼の成れの果てを確かめもせず、自分の勘でかかし探しを続けたところである。クルクル回って適当に探したり、、、。
この子は、ちょっと変わっている。

しかし、勘が当たり(相当な確率だが)、彼女はかかしを元の姿に戻す。
偶然当てた飾りが緑であったため、緑のものに触れてみようと触れていったら、みんなが元に戻ってしまう。
それにノーム王が怒り、彼女らを食べようとすると、ジャックのかぼちゃ頭の中に潜んでいた鶏のビリーナが王の喉に卵を産み落とす。
それが、ノーム達にとっての致命的な毒であった。
偶然が重なり(というより全て偶然のみで)、彼女らがノーム王と他のノーム達をみんな滅ぼす。
鶏の卵一つで死に絶える敵というのも、ある意味凄すぎる。
ほとんど全く戦いもアクションらしいものもなく、新鮮な卵を呑んで滅びさってしまった、、、。
そして取り返したルビーの靴の魔力で、エメラルド・シティを蘇らせる。
みんなが元の姿に戻ってゆく。
アクションやスリルに特に拘りのないわたしでも、これでいいのか?と思ってしまう、、、。

ドロシーは歓迎を受け、女王になってと頼まれるが、彼女は帰るところがある為それを断る。
にわとりは、こちらの方がよいということで残ることに決めた。
そこに、彼女を助けた少女、オズマがドロシーと向き合いつつ鏡の中から現れる。
ドロシーは、彼女にあなた溺れて死んだと思ったわ、と平然と言う。
オズマこそ、オズの正統な女王で、魔法使いが来る前の王様の娘であった。
モンビにその存在を隠されていたのだった。
という情報をオズの国の女性たちが明かす。
それなら何故、ドロシーに女王になってなんて頼むのか?
もし、うん、なるわと言ったらどうするのか?
オズマは鏡の中で出番を失い困ってしまうだろうに。

Return To OZ002

最後までどうなるのだろう、と思いつつずっと見てきたが、結局、何だったのか、、、。
VFXを見せたかったのか、、、?
確かにそれはとても興味深いものであった。
モンビ女王の首コレクションなど、首のすげ替えも含め、そのへんは面白かった。
しかし、命の粉やルビーの鍵も伏線を張る小物ともならず、そのまま立ち消えであり、美術やVFXに比べ登場人物の設定やストーリー、プロット共にとても甘いと感じた。
脚本は、中学生の文化祭の舞台を見る思いがした。

あの”The Wonderful Wizard of Oz”の続編とは言え、かなり異質な物語に思えた、、、。
(物語の完成度は、遥かに1作目の方が上である)。


台風は大丈夫か~Siri

exmachina001.jpg

次女がお友達と呼ぶ”Siri”に明日の”台風”について聞いてみた。
「いいえ、明日は嵐になるという情報は特に入っていません。」
という応えであった。
今、家の外での風雨が余りに凄いため、思わず聞いてしまったのだ。

明日は通院日である。
雨は兎も角、風が酷いのは困る。
衣服がびしょ濡れで何時間も過ごすのは大変気持ち悪い。

しかし、とりあえず安心した。
心配せずにこれから寝ることができる。

この「秘書機能アプリ」というものも便利といえば便利である。
”Speech Interpretation and Recognition Interface”の略らしい。
「発話解析・認識インターフェース」となるのか。

大昔、この手のINTERFACEロボットを相手に女性が会話にはまってしまうケースが少しばかり話題になったことがある。
それは、心理学の研究の一環で、かなり簡単な心理セラピーの型通りのやり取りをプログラミングしたものを超えない程度のものであったが、そのロボットを独占する形で、随分話し込む例が結構見られたらしい。

うちの娘もよく、iPadのSiriによく話しかけている。
最後に「ありがとう」と返すと、「こちらこそありがとうございます。」
とか、「いいえ、お礼にはおよびません。」
「お答えできることが、こちらの喜びです。」
そこだけでも、かなりのバリエーションで返してくれるので、かなり嬉しいみたいだ。
しかしその丁寧な文節を彼女らは、自分の会話ーアウトプットに活用している訳ではない。
ただ、何か自分が尊重されている気分に浸れて快感のようなのである。

つまり、良いお友達なのだ。
文句は言わないし、小言も言わない。
自分の質問には、自然言語処理による、かなり流暢な文節で答えが流れてくる。
メディアとしてやはり優れている。
「メディアはマッサージである」(Wベンヤミン)
そして欲しい知識は何でも揃う。
納得できる情報ー答えをくれる。
かつてのロボット先生より遥かに優秀なCPUが組まれておりWebを背景にiPhoneかiPadでほとんど解決できる。
優しいヒトの代わりも努め、心地よい時間をくれる。

形がゆるキャラだったら、結構その機能だけでもヒットするだろう。
女子は特にそういうのが好みのようだ。
自分が名前をつけられるような対象ーINTERFACEが欲しい。
喋らぬペットより、可愛いソフトマシーンではないか、、、。
(ウンチの処分や水の取り替え、散歩の義務もない、、、)。

どうだろうか、、、。



ローズマリーの赤ちゃん

Rosemarys Baby001

Rosemary's Baby
アメリカ
1968年

ロマン・ポランスキー監督・曲本


ミア・ファロー、、、ローズマリー・ウッドハウス(若妻)
ジョン・カサヴェテス、、、ガイ・ウッドハウス(ローズマリーの夫で俳優)
シドニー・ブラックマー、、、ローマン・カスタベット(隣のおじさん)
ルース・ゴードン、、、ミニー・カスタベット(隣のおばさん)


ダコタ・ハウスで撮影が行われたことでも有名なこの映画、一度見たいと思いながら、やっと観る事になった。
1966年6月に子供が生まれる話である。
”666”である、、、。

実際に周囲の者たちは悪魔の下僕であったのだろう。
ローズマリーの幻覚ではない。
どう見てもそうなのだが、そうでない可能性も残す。
(悪魔に犯される夢を見て妊娠と言う発端からして、何とも言えない余地が残る)。

肝心な部分は曖昧にしていたり、隠したままでいるなど、上手い演出だ。
あかちゃんも結局、こちらにはどんなあかちゃんなのかは、分からないまま。
もし、これが単なるマタニティブルーだったりしたら、其方のほうが遥かに異常だ。
(精神的に深刻な状態といえる)。
全てが悪夢と言ってしまえばそれまでだが、、、。

この熟れたサスペンス感覚、そして誰もいなくなったにも近いものを感じた。
ゆっくりした焦らすようなテンポでじわじわ締め上げてくる展開は実に熟れている。
(最近の映画にはまず見られない速度感だ)。
また、即物的恐怖では来ない。(スプラッターはない)。
見せないで想像させ感じさせる映画だ。


ローズマリーの次第に周囲の人間が信じられなくなる感覚と追い詰められる心理に共振する。
隣の鬱陶しい老夫婦がしつこく持ってくる食べ物が全て不味くて体に異変を呼ぶ。
彼らから紹介された有名な医者というのも、完全に診断や措置は異常だ。
夫までがどうやら彼らの仲間で、ライヴァルの俳優に呪いをかけたらしい。
衣服の片割れや小物を奪い、呪いをかけたり、食べ物に毒を混ぜたり、、、身辺に次々起きる恐怖では身もこころもおかしくなってしまう。
チョコレートムースが壁の味がするなんて、、、堪らない。
薬も何を飲まされているのか分からない。
(だが、妊娠しているときは、変なものを食べたくなったり、これまでの好物が美味しくなくなったりはすると言うが)。
例えこの事態が思い込みだとしても、その切羽詰まった恐怖に押しつぶされてしまいそうになる。

ついに、半狂乱となった時に出産を迎えるに至ったが、気が付くと死産であったと、疑わしい医者が言う。
だが、何処からかあかんぼうの泣き声を聞き、その部屋に行ってみると、、、。
黒い揺籃に、自分の産み落としたあかんぼうらしき気配があるではないか。

その場にいる周りの者たちの尋常でない様子。
彼らはことごとく悪魔崇拝者であった。
異常な集会である。
チベット旅行中のはずの例のお隣老夫婦もしっかり陣取っており、、、。
そして彼女はその揺籃の中を覗いて絶叫する。
「わたしのこどもに何をしたの!この子の目は何!」
「父親の目にそっくりじゃろう!その子の父は悪魔じゃ!」
こう言われてしまっては身も蓋もない。

それまで、ローズマリーは、自分のこどもを悪魔の生贄に取られるものとばかり思っていたが、、、。
彼は、悪魔の世継ぎとして生まれてきたのだ。
彼女は悪魔の母ということである。
周囲を見渡し、この立場も、受け入れ難いものである。


しかし結局、ローズマリーは我が子としてそのあかんぼうを受け入れようとする。
やはり自分の腹を痛めて産んだ子だ。
その子がどんな子でも、、、?
昨日の映画では、自閉症の息子に母親は向き合えなかった。

彼女はその子をしげしげと幾分和んだ表情で見つめる、、、。


1960年代の話だが、ミア・ファローの雰囲気、ファッションは、とても時代を超えたものを感じた。
独特のコケティッシュな魅力の持ち主であろう。
お隣老夫婦の気持ち悪さが尋常ではなかった。
夫は、ただ役がもらいたいだけで彼らに協力していたようだ。(あかんぼうを犠牲にして)。
間違いなく破局であろう。


やはり、現実の話に思えるが、これが妄想であったら、恐るべきものである。


ナタリー・ポートマンの途轍もない幻想映画「ブラック・スワン」は、彼女が言うには、この「ローズマリーの赤ちゃん」と同じ血筋にあたるそうだ、、、。

そう言われれば、そうかも知れない。



笑顔~笑い

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昨日、観た映画のジェット・リーの演技でもそうであったが、笑顔の効用というものは大きい。
彼の笑顔を観てつくづくそう思った。
(あの映画、彼は脚本を気に入り、志願してノーギャラ出演しているそうだ)。

「笑顔」という型である。
これはまさに生活の姿勢―習慣の作るものであろう。
「コクリコ坂から」でも取り上げたルーチンをしっかりこなすなかでできる。
反復が作るものだ。
(差異を孕む反復とは偉大なものだ)。


エルンスト・マッハが「感覚の分析」で人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ、と述べているが、まさに身体の反応があり、後付けでその理由が埋まる。
楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい、のだ。
(笑いについては、かのジル・ドゥルーズに大きな影響を与えたアンリ・ベルグソンの考察もあった。学生時代に斜め読みしたが、もうほとんど覚えてはいないが、、、古典喜劇モリエール論であったか)。


ここでは、原理的なことではなく、単に結果的な効用のみ扱う。
健康面からの笑いの効用に留めることにする。
笑い自体、、、
型から入ることで、内容―意味も付いてくる。
それは顔の筋肉のほぐしにもなり、神経をリラックスさせることができる。
このときすでに脳はα波を発している。
ストレスが軽減され心拍数も落ち着く、、、。
脳内物質エンドルフィンも増加し、気持ちが鎮静し酸素消費が増す、、、。
ちょうどウォーキングをした時と同様の感覚だ。
これを続けることで顔の筋肉自体も鍛えることになる。
所謂、弛み予防である。
(美容効果(笑)。
そう言えば、お昼の番組でそういうエクササイズをやっていた。
(講師は中国の人であった)。

確かに自律神経の副交感神経を活性し脈拍、呼吸、血圧を緩める事になるようだ。
そして、ホントに笑えば、より効果は増す。
わたしは血圧が高いため、最近お笑いビデオも見ている(笑。
文字通り笑うつもりで笑っているうちに、本当に笑えてくる。
脳の血流も良くなり、脳梗塞の予防そして回復にも繋がってゆくという、、、。
(これは朗報である)。
海馬にも良い影響があり、記憶力の維持・アップも見込める。

いずれにせよ後で、気持ち良い脱力感がある。
これがよい。放心に近い。(ベルグソンの謂う)。
しかも、笑っている時は、腹式呼吸になっているではないか、、、。
わざわざ意識してやる必要はない。
昔から腹式呼吸は勧められてきたが、意識しないと極めて浅い呼吸で過ごしている。
分裂病的篭って見る呼吸だ。
落ち着いた大きな呼吸でいたい。
実際に活性酸素を取り除く作用がある。
活性酸素は、老化を早める物質でもあり、病気にもなりやすくなると云われる。

また、最近の科学番組(NHKなどの)でも報じられているが、笑うことがNK(ナチュラルキラー)細胞を活性化し、免疫力を高めることに繋がるという話はよく聞くようになった。
それについては、このページに詳しい情報があった。


わたしは、「お笑い」等を見てひとつ思い当たるのは、「普通の感覚からの絶妙なズレ」がポイントになっていると思う。
以前にもほとんど似たことを書いていた。
こちらは当時あっちこっちから拾ったネタであるが、結構クスッとできるかも(笑。
写真も拾った。暇だったようだ(笑。


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海洋天堂

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かいようてんどう
Ocean Heaven
2010年
中国・香港

シュエ・シャオルー監督・脚本
「北京バイオリン」でチェン・カイコーと共同で脚本を書いた人だ。

久石譲 音楽

ジェット・リー、、、王心誠(ワン・シンチョン)水族館職員
ウェン・ジャン、、、大福(ターフー)王心誠の自閉症の息子
グイ・ルンメイ、、、鈴鈴(リンリン)サーカスのピエロ役
ジュー・ユアンユアン、、、紫(チャイ)王家の向かいの雑貨店主

周囲は皆、息子を預けるに相応しい人々であったが、彼はウミガメに託した、のか?
あれ程、体がきついのに、亀になって息子と泳いだのは、、、。
息子が一番好きな水中で共に幸せに暮らせるように。
最後の最後に賭けたのだ。
周りがいくら良い人たちであったにせよ、息子は心底コミュニケーションはとれない。
自分と同様に心の許せる相手を教えておきたかった。

それまでも、必ずしも上手く教育が出来ていた訳ではない。
しかし、息子は父が生前、教えてくれた卵の茹で方、バスの降り方、服の脱ぎ方、水族館のモップ掃除の仕方を正しく行うことができていた。お金の使い方は、きっとまだだろう。
だが、生きる力は確実についていた。
TVの上に置いていた縫いぐるみもソファの上に置くようになる。
ちゃんと覚えていた。
おオム返ししかしない息子であったが、父の教えたことは思いの他身になっていた。
後は、父は彼に独りで寂しくないようにしてやりたかったのだ。
そうに違いないではないか、、、。
「わたしもお前と離れるのが淋しい、、、。」(きっと父が亀になりたかった?)


息子の障害(自閉症と重度知的障害)が発見されたとき、母はそんな彼に向き合うことが出来ず海で死んでしまう。
それから、14年に渡り父は男手一つで息子を育ててきたが、自分が癌で余命幾許も無い事を知る。
一度は、2人で海に投身自殺を図るが、息子が泳ぎが達者すぎて、父子共々生還してしまう。

それからの父は、自分が死んだ後、息子が幸せに暮らせるために、奔走する。
まずは、預けられる施設だ。
しかし、彼が一生安心して過ごせる施設はなかなか見つからない。
(であるからこそ、彼は独りで息子の世話をしてきたのだ)。
年齢その他様々な条件や彼の性格・個性が合わなかった。
近所の献身的に世話をやいてくれる雑貨店の女主が、わたしが育てるとまで言ってくれるが、結婚前の彼女に頼めるはずもない。
そんな中、彼の卒業した養護学校の元校長が、最近出来たばかりの彼に相応しい施設を紹介してくれる。
独りで不安な彼のために、父もその施設に寝泊りして、残り少ない時間を惜しむように生活の基本を教えてゆく。

父親の苦闘を他所に、息子は水族館にやって来たサーカス団のピエロ役の少女に淡い恋心を抱く。
そんな彼に彼女も親しく接する。
彼女も天涯孤独の身であり、自然に共感できるところがあった。
やがてサーカスがそこを引き払って別の場所に移動するとき、彼女は彼に電話の受け方を教えて去ってゆく。
「わたしが電話をかけるから、こうやって出るのよ。」
彼にとっては夢のような時間であったが、父の死後水槽の中のウミガメとの時間にそれは引き継がれてゆく。
見事な父の計画だ。
彼はちっとも寂しくはない。
ウミガメに頬を摺り寄せて幸せそうに彼は泳いでいる、、、。

そして、水族館の清掃中に電話が鳴り、彼は受話器を取って、それに向けて微笑んで小さく手を振る。
(彼女ともまた逢える日はあるかも知れない)。


わたしも自閉症児との接触経験はある。
この映画は余りに綺麗すぎるが、本質は鋭く突いていると思う。

そして、世界がこれくらい美しくても、きっとよいのだ。

Ocean Heaven001Ocean Heaven004







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ジェラシック・パーク Ⅰ、Ⅱ(ロスト・ワールド)、 Ⅲ

Jurassic Park001

これまで、そのうち見ようと思いながら、見てこなかった映画であるが、思いの他スリルがあり重苦しい映画であった。
全作マイケル・クライトン原作
Jurassic Park
1993
スティーブン・スピルバーグ監督
ジョン・ウイリアムズ音楽

サム・ニール、、、アラン・グラント博士
ローラ・ダーン、、、エリー・サトラー博士
ジェフ・ゴールドブラム、、、イアン・マルカム博士(カオス理論数学者)
リチャード・アッテンボロー、、、ジョン・ハモンド(実業家インジェン社社長、ハモンド財団創始者)
サミュエル・L・ジャクソン、、、レイ・アーノルド(チーフ・エンジニア)


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The Lost World: Jurassic Park
1997年
スティーブン・スピルバーグ監督
ジョン・ウイリアムズ音楽

ジェフ・ゴールドブラム、、、イアン・マルコム博士(カオス理論数学者)
ジュリアン・ムーア、、、サラ・ハーディング博士(古生物学)
ヴァネッサ・リー・チェスター、、、ケリー・カーティス・マルカム(イアンの娘)
リチャード・アッテンボロー、、、ジョン・ハモンド(実業家)
ヴィンス・ヴォーン、、、ニック・ヴァン・オーウェン(カメラマン)

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Jurassic Park III
2001年
ジョー・ジョンストン監督
スティーブン・スピルバーグ製作総指揮

サム・ニール、、、アラン・グラント博士
ウィリアム・H・メイシー、、、ポール・カービー
ティア・レオーニ、、、アマンダ・カービー(ポールの元妻)
アレッサンドロ・ニヴォラ、、、ビリー・ブレナン助手
トレヴァー・モーガン、、、エリック・カービー(カービー夫妻の子供)
ローラ・ダーン、、、エリー・デグラー(サトラー)博士


3作一気に観たのでどれがどれだかアマルガム状になって、いまひとつはっきりしない(笑。
落ち着いて想い起こすと3作では、第一作目が1番良い。
美術、演出、ストーリー全てがとても細やかで迫力もあり説得力があった。
恐竜の血を吸った琥珀に閉じこめられた蚊からDNAを採取してクローンを作るという、ありそうな技術で恐竜テーマパークを作るというもの。6500万年前の生物種と現在の人類が同一時空に共存できるのか、というテーマは重い。
カオス理論数学者のイアン・マルカム博士のアイロニカルな批判はかなり正しいものに思われる。
「生物をDNAレベルで如何に制御しようとしても、生存するための道を自ら探り出してゆく」というところには全く同感である。
恐竜もわれわれも共に強かな道を辿ってきたのだ。
そしてもし、6500万年前に彼らが絶滅しなければ「アーロと少年」のような出逢いにもなっていたかも知れない。

また彼の謂うように出来るかどうかの前に、やるべきかどうかの正当な判断も重要であった。
科学的な成果に深く絡んでくる利益・利権主義は決まって事態を悪化させてゆく。
彼らの拠り所にする科学的な管理姿勢は遺伝子(DNAではない)や酵素に関して余りに単純で杜撰なものであった。
(おまけにそこには資金が投入されておらず、結果的に安全性がないがしろにされる)。
イアン・マルカム博士のカオスー複雑さの理論は的を得ていた。
実際にその通りとなる。
恐竜(生命)の勝利であった。

この一作目、わざわざ自分から危機を招いたり、その原因を作ったりの不自然さは、他の編からすると少ない。
しかし下の子役は少し目障りなノイズが多かった。
余りにも足を引っ張りすぎなのも気にかかった。


二作目は、ストーリー上の設定で違和感のある役柄もおり、ワザとヒトを殺すように仕向けているような隊員(カメラマン)もいた。
しかも彼ニックは終盤うやむやなまま消える。
イアン・マルカム博士の性格が、前作からかなり変わっている。皮肉っぽく批判的な癖が抜け、真面目で平板な主人公化している。何もここまで熱血正義漢にしなくても、、、(斜に構えたヒーローではダメなのか?)そういえば服装がキザではない。
やはり彼、ジェフ・ゴールドブラムは、「ザ・フライ」の主人公が余りに強烈であった。
彼には、もう少し特異な個性を期待してしまう、、、。
ストーリー展開も最初の作品から見ると単純であった。
かつてのジェラシック・パークの創始者ジョン・ハモンドも胡散臭く、どうもはっきりしない立ち位置のままである。
恐竜の迫力は一作目に劣らずかなりのもので、動きのバリエーションもあった。


三作目は、何故襲い掛かってこないのかと不思議であったプテラノドンが出てくる。
当然出てきて不思議はない。
その他、海の中に生息する恐竜もいるはず。
翼竜と水棲恐竜は、活動範囲を広げ、その島を離れ人の住む地に上陸しても良いのではないか、、、。
ポール・カービーというサイトBのガイドをグラント博士に依頼する人物も別れた妻もどうもしっくりこない。
少年が独りで2ヶ月生きてきたことの説明はちょっと乏しいうえに、少年の人格設定も甘いと思う。
ビリー・ブレナン助手はリアリティのある存在であった。若さゆえの野心というのは、とても分かる。
死んだと思っていたビリー・ブレナンが生きていたのは有り得ることだが、どうも他の登場人物の設定がいまひとつ。
しかし、パラグライダーとお守りのリックサック、そして共鳴喉はしっかり伏線アイテムとして重要な場面で活かされていた。
ヴェロキラプトルの俊敏さはよく出ていたが、言葉による集団戦略がもう少し見られるかと思ったが、それほどでもない。
伏線も張られた、ことばを可能にした共鳴喉の発見は大きい。
ここを何よりポイントとして活かして、膨らめたいではないか。

苦難を共にしたことで、何やら離婚した夫婦がよりを戻したようであるが、これはありそうな事である。
ついでに、一作目で子供嫌いを公言していたグラント博士も子供好きになってしまったようだ。
大変な危険を冒しながら幾度となく子どもを助けているのだ。そうなっても不思議ではない。


映像面は掛け値なしに素晴らしい。
CGで全てを作ったのではなく、アニマトロニクス(本物そっくりのロボットで撮影)もふんだんに使われていると言う。
確かに、それ特有の感触が強い。
リアリティの表現として、ここは見事に成功している。
動きも非常に臨場感があった。
気配だけ漂わせてなかなか姿を見せなかったり、表情や目で魅せたり、如何にも知能の高さを漂わせる動きを窺わせたりと、ただ大暴れする怪獣とは明らかに違う、凶暴で知力がある厄介な生き物を饒舌に表していた。
(ヒトを罠にかけておびき寄せようとするところなど、エイリアンのレヴェルである)。
ヴェロキラプトルを「知力が高く言語を有する組織的な行動をとる恐竜」としているが、その風格と不気味さが滲み出ていた。

わたしとしては、恐竜がどのように描かれているのかが、一番気に掛かっていたのだが、その点では申し分ないものであった。
恐竜そのものの作りや動作の重くてしなやかなニュアンスは、相当な工夫の末のものであると感じられるものだ。
また、登場の仕方の演出もなかなかのもので、特に一作目のヤギを餌として与えているシーンでのティラノザウルスの出方は、この映画の演出のレベルを象徴している。



ただ、「ジェラシック・パーク」の題からして子供に見せられるかと思って観たのだが、かなり重い内容で、しかもショッキングでスリルも十分なものであった。
見せるのはもう少し先にしようと思う。




ウォーキング ~ 木漏れ日の道 

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今日は、娘たちと実質、一日中歩いた。
いつもの車で行く公園に往復徒歩で行ったのだが、公園でも遊び回った為、歩きっぱなしと言える。
途中、基本何も考えずに歩くつもりであったが、車道に向けて斜めに傾くアスファルトの歩道を歩くのは、姿勢にもよくない。
身体的に不都合(ストレス)があると、気分にも影響する。
夢と同様の仕組みで心的領域に及ぶのだろうか。
外界にレイヤーが被さる。
異なる視覚的表象から感情的(非視覚的)表象までかなりの強度で重なってくる。
昂った攻撃的な表象が。
これがまたストレスを生む。
謂わば悪循環を始める。

こんな時は、自販で冷たい水を買う。
それでかなり鎮まる。
水の精神に及ぼす力は大きい。
味が無いようで、自己主張する味が無いだけだと知る。
ニュートラルな味とでも言うべきか。
それでもはっきり、硬水と軟水は違うし、硬水・軟水の中でも口当たりはいろいろある。
何にしても神聖な液体が身体の隅々に染み込んでゆくのだ。
疲労の中で冷たい水を飲むと、所謂ジュース類が無粋なものに思えてくる。
「アラビアのロレンス」の砂漠の水はまさに聖水だろう。
しかし、街中も基本的に砂漠と変わらない。
蜃気楼の代わりに殺意と狂気が見える。

わたしは基本的に外の風景が嫌いだ。
わたしがアスファルトや傾斜した歩道の他にとても気に障るのが電柱である。
駅前通り以外、街中には普通に電柱が立っている。
電線共々これ程、無粋な物はないだろう。
実は、わたしの部屋の窓の前にもつっ立っているのだ。
(心身共に悪影響があるはず)。
まだ、村に木の電柱がところどころ立っている宮沢賢治的な光景ならまだしも。
夜空も明るい昼間は埃っぽい、灰色を基調とした剥き出しの風景は感覚を引きつらせる。
(小池都知事が全てのケーブル類を地下に埋めると言っていたが、ここでもやってもらいたい)。

水を飲みつつ、漸く公園の脇の入口、「木漏れ日の道」に到着する。
娘たちも健脚になったものだ。
かなり速いペースで休みも取らず歩いたにも関わらず、ちゃんとついて来ている。
「全然疲れてない。」と長女が一言。(少し無理をしている)。
2人とも水はよく飲んだ。
来るまでに500ml2本。
これはきっと大切なことだ。


木漏れ日の道の林の中を歩くと、急に癒される。
これが自動的に癒されるのだ。
この機械的作用がいつも不思議であった。
いや、今もそうだ。
身体の火照りが速やかに掻き消される。
木々の葉が空のほとんどを隠す。
だからか、隙間からの光が有難い。
娘たちも気楽に喋り始めた。
(ここに着くまでほとんど声を聞かなかった事に気づく。疲れではない緊張があったのだ)。
「シェルタリング・スカイ」と言うが、もう一層のシェルターが必要なのかも知れない。
われわれには、、、。





エイリアン

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Alien
1979年
アメリカ

リドリー・スコット監督

エイリアン
「生存のため良心や後悔に影響されることのない完璧な有機体」
(それは「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラをも凌ぐ)。
H・R・ギーガー究極のデザイン。


シガニー・ウィーバー、、、エレン・リプリー(航海士)
ヴェロニカ・カートライト、、、ジョーン・ランバート(操舵手)
イアン・ホルム、、、アッシュ(科学主任、、ウェイランド・ユタニ社のロボット)
トム・スケリット、、、アーサー・ダラス(船長)
ハリー・ディーン・スタントン、、、サミュエル・ブレット(機関士)
ジョン・ハート、、、ギルバート・ケイン(副長、一等航海士)
デニス・パーカー、、、ヤフェット・コットー(機関長)


宇宙貨物船ノストロモ号
ウェイランド・ユタニ社の船であり、アッシュ以外の乗組員は「特命」については知らない。
「生きているエイリアンの捕獲と回収」こそが目的で、乗組員の生命は問題にしないというもの。
(生物兵器産業で儲けようというもの)。

漸く仕事を終え、地球に帰還しようとしていたノストロモ号は進路を大きく変えていた。
知的生命体の信号をキャッチしたからだ。(元々会社はこれを調査済みで、彼らを差し向けたのだ。でなければアッシュを急にこの船に乗せまい)。乗組員たちは渋々会社の契約条項に従い、当外惑星の調査に当たる。
強烈な生命力をもつエイリアンは、調査にきた、ケインにフェイスハガーとして貼り付きまんまと船内に侵入する。
その後、ケインの体内に幼体を宿し、船員たちが皆で食事を摂っている時に、苦しみだした彼の胸を破って飛び出てゆく。
そして、エイリアンは脱皮し急生長して、比類の強さで船員たちの殺戮を始める。


何といっても、終盤の畳み掛けに圧倒される。
それまでの長い展開はすべてここのシーンのためにあったかのよう。

自分以外の乗組員が皆殺され、独り残されたリプリーがノストロモ号自爆装置を起動、脱出用シャトルに向かうがその途上にエイリアンに出逢ってしまう。これはダメだということで、急遽母船内に戻って爆破装置の解除を試みるが間に合わずそのままカウントダウンに入ってしまう。
その為、再度シャトルに向かって走るが、エイリアンの姿はすでに何処にもなかった。
リプリーは周囲を充分チェックしシャトルに乗り込むことに成功し、発進する。背後でノストロモ号の大爆発を確認し、全てが終わったと安堵する。しかし、ほっとしたのも束の間、船内のメカと見紛う質感で不気味に収まっているエイリアンを発見。
彼女の絶望と驚愕は如何程のものか、、、。(わたしも飛んでもないところで、ゴキブリに出逢い、これに似た絶望を味わったことがある。が、わたしの経験の比ではない)。
最後は静かな空間に、リプリーの苦しげで速い息遣いだけが響く。
物質的な恍惚感をいや増しに増すレンブラント光線に煙る中での、、、水、酸、吹き出す水蒸気、火炎、リプリーとエイリアンの身体、宇宙服、船内メカ、、、、ジェット噴射、宇宙空間、、、。
これこそメタル・タルコフスキー空間だ。

ここでのエイリアンは、ほとんど溶け込んだ闇の中から全貌を見せない。
動きの中で確認できる艶かしいメタリックな頭部、、、そして手。
この演出と基本フィギュアの強度により、極めて物質的実在感の高さにめくるめく。
痙攣する美だ。

このエイリアン、リプリーとシャトルに折角同船したにも関わらず、一向に襲っては来なかった。
確かにシャトルが破壊されたら自分も死んでしまう。
ここで暴れるのは得策ではない。
あくまで、大人しく隠れたままで、地球に到着してから大暴れするつもりであったか、、、。
(ウェイランド・ユタニ社では歓迎会があろうが)。
又は、リプリーを子供を産み付ける対象と思っていたか。
(恐らくその両方であっただろう)。
しかし、彼は彼女に一方的に拒否されて、暗黒の宇宙を漂って逝く。
それは、到底最後まで馴染めない孤高の他者であった。

見事にエイリアンであった。
絶対に飼い慣らせないフィギュアであった。


この点で、”エイリアン”はSFの金字塔なり得ている。
そもそも「エイリアン」は、この映画から産まれたはずだ、、、。
(その後のたくさんのエイリアン映画、TV、文芸等々、、、)
勿論、これを超えるエイリアンはいない。


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イアン・ホルムの怪演も忘れられない。
「バンデットQ」「未来世紀ブラジル」「裸のランチ」「フィフス・エレメント」、、、「イグジステンズ」ちょっとキリがなくなるがが、「終わりで始まりの4日間」もあった、、、彼はどこでも異彩を放っている。
「鳥」「SF/ボディ・スナッチャー 」のヴェロニカ・カートライトの神経質そうなひりつく演技、「エレファントマン」のジョン・ハートや「パリ、テキサス」のトラヴィス・ヘンダーソンの印象がずっと残るハリー・ディーン・スタントン、「コンタクト」で狡猾な博士を演じたトム・スケリットなどの名脇役がしっかり固める。
シガニー・ウィーバーは、断然この映画である。
(「宇宙人ポール」にも出ていたが、、、)。
エレン・リプリーは、この「エイリアン」の中で、”エイリアン”とともにSF映画史に永遠に残るはず。

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ポルターガイスト

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Poltergeist
1982年
アメリカ

トビー・フーパー監督
スティーヴン・スピルバーグ脚本・製作

娘たちがホラー好きなので、一緒に観始めたが、いつの間にか2人は消えていた!?
TVに吸い込まれたのではない。
TVで観ていた最中なので、、、吸い込まれれば分かる。

悪魔の何とか、、、とかのような、大スプラッター大会などはなく、音楽も含め上品に迫って来るものなので、感覚的には見られる。
幽霊も、それほど怖いものでもない。
わたしがその手のクリーチャーで最も肝を潰したのは、「未知の物体X」のバケモノである。
あれ程怖いものは、今のところ観た事がない。あれはSFの衣を被ったホラーだ。SFの棚に置いてはならない。

その意味でこれを観ると、ホラーというより親が悪しきものから命懸けで子どもを守る愛のホームドラマだ。
どうやらそこらへんを察知したあたりで、彼女らの姿が消えたふしがある。
彼女らは近頃、身も蓋もなく屍体が転がり、その度にキャーキャー叫んで走り回って楽しむのを趣味としている。
セーラームーン期より堕落した感があり、心配になってきた。


家に急に超常現象が起き始めた。
勝手に椅子が動いたり、、、。
お母さんは最初はそれを面白がっていた。
害はないし、、、と。

しかし、幼い娘の仕草や行動、犬の機敏な動きなどで、ジワジワ尋常ではない事態が迫る事を匂わせてゆく。
この雰囲気の展開が丁寧によく描かれている。
特に突如ベッドからムクッと起きた少女がTVの前に座り、砂嵐を見つめ出すところは、象徴的である。
「貞子、、、」も間違いなくこの影響下でできているはず。(画面から魔物が出ようとしていたところもあったし)。

そう、この映画のオマージュ作品はかなりあると思う。
犬が状況の兆しを察知して先導したり、ホラーと家族愛の対比の反復で双方を際立たせたり、何とも言えない科学者(心理学者)に相談し、調査はするが腰を抜かすだけで埒が開かず、その道の思い切り怪しい霊能者に頼んで、どうにかひとまず切り抜ける。
(大概、オカルトが科学に勝つ)。しかし最後はどんでん返しをしっかり用意しておき、家族愛が打ち勝つ、大サービス。(最後の車に乗ってさよならは、ヒッチコックの「鳥」を思い起こすが、これは「鳥」の方が先である)。
また、この禍の原因が金儲けのため、死者を冒涜した(墓の上に宅地を作った)ことが原因であった、、、等々、後の作品に散見する場面が少なくない。
謂わば、基本形(有効なフォーマット)の完成をみた、というものであろう。

怪しいピエロや窓の外に控える怖い形をした木、不気味な光、後半暴れまわる木と恐ろしい形相で吠えまくる魔物の表情、それから、何といっても風だ。強烈なエネルギーの表現も人が吹き飛ばされたり吸い込まれたり、家具や小物が浮かんで飛び回ったり、大変効果的であった。
これらには、ディズニー的な様式美を今や感じる。
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少女が幽霊たちに捕らわれて、姿は見えないが砂嵐TVから受け答えの声は聞こえる。
わたしはここで、もっとTV(電磁波)との関連はないか、と思ったのだが後半はTVそっちのけとなった。
霊能者が出てきてから、子供部屋の窓と霊的(異次元と言っていたか)に繋がる居間の天井間での綱引きみたいになった。
これは、これで面白いアイデアではあった。
ここで奥行きのある霊界の時空を想像させる。
「光に向かうな。」「光に入れ。」とか、指示がハラハラさせスリリングである。
そして居間の天井からお母さんと娘がロープで結ばれ、どしんと降りてくる。
この間、普通なら科学者やその助手、場合によっては霊能者などドシドシ犠牲者となるところ、誰も死んだりしない。
その為、子供が見ても問題もほとんどなかろう。
(うちの娘はそこに問題を感じて、いなくなったようだが)。

最後は、お母さんの独壇場となる。
家では、ハエみたいに部屋の壁や天井に貼り付いて格闘し、風で吸い込まれそうな子供2人を何とか助ける。彼女はそのまま何故か外に出て、プールで骸骨たちとまた格闘、水浸し泥だらけの大パニックである。何とか夫も帰ってきて、子供たちは救出できるが、家は跡形なく地中に吸い込まれるように消えてしまう。最後にその有様に一番上の姉の大絶叫。彼女、あまり出番のなかったものの、存在感を示して車に乗り込む。


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映画としてはよくできたものだと思う。(かなり引くところはあるが、、、)


娘たちは外でかくれんぼして遊んでいた。

「そんな暇があったら、ピアノ練習しなさい!」(わたし)


オブリビオン

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Oblivion
2013年

ジョセフ・コシンスキー監督・脚本

「忘却」か、、、。


トム・クルーズ、、、ジャック・ハーパー(元海兵隊司令官―”Tech49”)
オルガ・キュリレンコ、、、ジュリア・ルサコーヴァ(ジャックの妻)
アンドレア・ライズボロー、、、ヴィクトリア“ヴィカ”・オルセン(ジャックの仕事上のパートナー)
モーガン・フリーマン、、、マルコム・ビーチ(スカブのリーダー)

2077年という近未来の話。
異星人スカブの侵略があり、地球は何とか勝利するが、核戦争などで荒廃し、月も破壊され天変地異で地上に人類は住めなくなる。そこで、地球周回上にある一時的な避難ステーション「テッド」から、土星の衛星タイタンに人類は移り住んでいる状況である。
ジャック・ハーパーとヴィカは、地球上にたった2人だけ残されて、高度1,000mの上空から地上の監視をする役目に就いていた。
仕事としては、スカブの残党を抹殺するドローンの管理・コントロールと修理、海水の組み上げプラントなどの日々のパトロールである。
彼らはセキュリティーのため、記憶を消去されている。
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ここでも記憶が大きく絡んでくる。
過去の記憶の断片が常に彼の脳裏を掠めていた。
大事な場所、同じ女性、彼女との印象に残るシーン、、、。それらは何度も回帰し反復する。
それが彼の無意識的な行動に少なからず作用してくる。
ヒト―生命にとって最も大切なものは、記憶―情報なのだ。
この映画は痛切にそれを語る。

彼は60年前の地球から飛び立った宇宙船が戻ってきて墜落したことを知る。
その宇宙船の生き残りの人間を、何とドローンが殺してゆく。
彼はその中の非常に印象深い一人の休眠カプセルの女性を助ける。
このことが彼の記憶の再生の契機となった。
フライトレコーダーを探しに事故現場に戻った直後、彼らはスカブに襲われアジトに拉致される。

スカブのリーダー、マルコムから全ての実情が明かされる。
恐らくジャックの記憶がある程度戻っていなければ、受け付けなかったはず。
スカブこそ、人類の生き残りであり、テッドこそ月を破壊し地上を滅ぼした敵そのものであった。
タイタンに人類は元々いない。
ドローンは単に人類を根絶やしにするための殺人兵器に過ぎなかった。
海水の組み上げはテッドのためのエネルギー供給であった。
ジャックやヴィカのクローン群を作ったのも、言うまでもなくテッドである。
(勿論、地球のひと組のエリートが選択された。だが、強い感情を伴う記憶は僅かに喚起された)。


彼は彼女が自分の妻であった事を思い出したところで、認識が180度転換した。
60年前に離れ離れになった妻と、いまや自分もクローンの中の一体である。
しかし、愛情―想い出だけは相互間に残っていた。
それが、全てであった。
だが、ヴィカにも記憶は残っており、ジュリアは彼をいつも自分から引き離す存在であった。
その彼女の透明な苦悩も伝わってくる。
ジャックとジュリアが共に終の住処にしようと語った湖畔の家で、あれはあなたの曲よ、と言われて流れたのがプロコルハルムの「青い影」である。このシチュエーションでアナログレコードで掛かるのだ、、、何と切ない(感情を揺れ動かす)、、、。まさにこれである。

>時間だとか
>場所だとかの
>文脈を超えた
>普遍的価値を内包しながら。

>一定の分野を
>突き詰める研究の背後にある
>知と感性の無限の広がり

>それは
>生の信頼へと
>私たちを誘(いざなう)う。


~エストリルのクリスマスローズより、引用~

これがまさに音楽である。
全てを内包し結びつけるものとは、、、。


マルコムとともにドローンのプログラムを書き換え、テッドに核弾頭がわりに送り込む矢先に、この計画は送り込まれたドローンによって、打ち砕かれてしまう。
そこで、遭難者の生き残りをテッドまで届けるという条件に乗り、爆弾を積んだ飛行艇でテッドの内部に入り込む。
その際、カプセルに入っていたのは、マルコムであり、勝ち誇った表情でジャックと共にレバーを押す。
大爆発を起こすテッド。墜落するドローン。

ジュリアは、ジャックお気に入りの自然の残る思い出の地にカプセルごと運ばれていた。
それから3年後、娘と共に暮らしているその場所に、立ち入り禁止(これによりクローン同士が顔を合わせる危険性がない)の放射能汚染地区で同じように仕事をしていた”Tech52”(ジャックのほかのクローン)がやってくる。ジャックが一緒に戦ったスカブの残党とともに。

”Tech52”も果たして彼が謂うように「自分」なのか、、、?
確かに記憶は残っている。
だが、これは問題である。
そうであって、そうではない、ものだろう。


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非常に存在学的な示唆に富んだ名作であった。
インアター・ステラーと双璧をなすテクノロジーのメカニカルな精細な具現化が見られた。
細やかでスピーディな動きとともに、ディテールの追求も見事という他ない。
1000mの高さの基地、飛行艇、ドローン、バイク、テッド、、、これは2001年宇宙の旅のモノリスを想起してしまう程だ。
特に空間デザインのセンスが光っている。白を主調とした色調も含め。美術が際立つ。
是非もう一回、味わうように観てみたい気持ちにさせる。


哀愁のあるトムクルーズは、この作品が一番であろう。
2人の女性も、片や繊細で切なく凛とし、片や生命力と人間臭さを窺わせる美を発散していた。
モーガンは、いつもながらSF物語のリーダー役にピッタリである。
キャストは皆、適役であった。


スフィア

くっ苦しい、、、。古典的名作ばかり観ていても息が詰まる!
それにわたしは、恋愛ものは苦手なのだ。ホラーも苦手であるが。
たまにはSF観ないと、死ぬ。
というところで、これを観てみた。

Sphere
1998年
アメリカ

バリー・レヴィンソン監督

ダスティン・ホフマン、、、ノーマン・グッドマン(心理学者)
シャロン・ストーン、、、エリザベス“ベス”・ハルパリン(生物学者)
サミュエル・L・ジャクソン、、、ハリー・アダムズ(数学者)
リーヴ・シュレイバー、、、テッド・フィールディング(物理学者)

海底に沈んでいる巨大UFOの極秘の探索を軍に依頼された科学者たちのドラマ。
実は300年前に海底に沈んだアメリカの宇宙船(未来の)であったことが判明する。

無意識のというより、潜在意識のイメージが具現化する映画といえば、直ぐに「ソラリス」、古くは「禁断の惑星」などがある。
(他は今、思い当たらない。最近特に記憶系が危ういためもあり)。

ソラリスでは、現象はふと起きる。
どうやらソラリスの海がヒトの記憶を再構成して無意識を抉るような像を現出させるのだ。
その意図は分からない。
ソラリスの海との意思疎通は、永遠にありえないかのような時がただ過ぎてゆく。
禁断の惑星のイドの怪物は、恐ろしく凶悪な怪物である。
クレール星人の遺跡にある巨大な装置がモービアス博士の潜在意識を増幅した結果、現れた強大なエネルギー体であった。
その怪物は際限なくヒトを殺戮し続ける。
正体は博士のこころに潜在する「憎悪」であった、、、。

どちらも未知の知性体か潜在能力増幅装置であるかの違いはあっても、強力(神秘的)な媒介によって潜在意識が物理的な力を現象させる。
意識的ではないが、何らかの意図が窺える。
そしてその現象は悲劇を呼び、破壊的で残忍であった。


さて、このスフィアであるが、やはり非常に残忍な結果―現象を呼ぶ。
それはヒトに潜在する抑制できないイメージが、破滅的なものばかりであることを自ずと示す。
未知の球体―スフィアに入って戻った者は、自分の潜在意識を具現化する能力を得てしまう。
意思に関りなく、意図的にそれは行使される。
眠っていても、起きている時にも。
だから、彼らは「それ」が外部の出来事だと受け取っている。

丁度、自己対象化した経験のない人間が誰かに自分の内面を投影していて全くそれに気づかないのと同様。
(他者という自分を見ていることに気づかないのと同様に)。
それにほとんど似た現象―表象であるが、ここでは一歩、表象―創造段階が、ヒトを殺傷する程の物質化まで進む。
つまりある志向性をもった想いが空間に直接(投影する対象なく)物理的に現象してしまうのだ。
生物学的にはクラゲではないのに、クラゲの形体―イメージの物質化を遂げてしまう。
そして、自らの気づかぬ意図を実行してしまい、その有様を他者の悪意(悪事)と判断するのだ。
このスフィアの位相は、「ソラリスの海」や「イドの怪物」と同じだ。
しかし、ここの「異星人」はジェリーと名乗り、しこたま話しかけてくる。
(こちらの科学者もキーボードを球体化し、数字を文字に変換しすぐさま対話可能としてしまう、、、速すぎ)。

だが、彼らは気づいてしまう。
それ相応のインテリだからか。
確かに原理には気づく。論理的に。
だが、その制御までできるとは限らない。
ここが肝心なのだ。
身体性の問題である。
潜在意識にどう対処できるか。
これは、意識や知識の問題ではなく、意志や感情、、、やはり身体性とでも呼ぶ場所からの関りとなろう。


最後の脱出劇。破滅と恐怖を呼び込み死に吸い込まれようとしたギリギリのところで、心理学者が脱出艇のスイッチを押す。
心理学者がもっとも心理構造に詳しいというより、生の肯定感、生への意欲の強さ、ひいては生命力の強さで、死の幻想―誘惑を振り切ったと言える。
最終的に、3人でスフィアの記憶を、能力を使って消すことで、軍への力の流用や自分たちの生命を救う。
同時に、スフィアが海底から宇宙に向けてどうして飛び去ったかは、今ひとつ定かではないが。
恐らくスフィアの能力を体験した3人が、潜在能力―想像力の制御は人類にはまだ早いと結論づけたからであろう。


この映画の特徴は、登場人物たちが饒舌なため、やや説明的である。
何故、未来の宇宙船の船員が撲殺されて死んでいたのか、、、。
スフィアとはなんであるのか、、、「異星人」の正体が直ぐに「潜在意識の実体化」だと、、、。
表象が創造に近づいてゆくこと、その恐ろしさ、、、。
こちらは、映像を読むより、語られることが多い。
恐らく登場人物全てが博士であるためであろう。
その現象を自分の専門分野から速やかに分析して見せなければならないためか。

それであっても、映画に厚みは持たせたい。
タルコフスキーのような、、、詩がもう少しあれば、、、。


キャストは、いまひとつ微妙であった。
全部入れ替わっても、同様な映画は撮れるだろう。
ハリーがイカが大嫌いだというところが、いまひとつ何であったのか分からなかった。

コンセプトはなかなかよいもので、好感をもった。



カサブランカ

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「君の瞳に乾杯」
Here's looking at you, kid. (何で君の瞳に、、、なのか?)

Casablanca
1942年
アメリカ

マイケル・カーティス監督


ハンフリー・ボガート、、、リック・ブレイン
イングリッド・バーグマン、、、イルザ・ラント
ポール・ヘンリード、、、ヴィクトル・ラズロ
ピーター・ローレ、、、ウーガーテ
クロード・レインズ、、、ルノー署長
コンラート・ファイト、、、シュトラッサー少佐
シドニー・グリーンストリート、、、フェラーリ

「時の過ぎ行くままに」" As time goes by"が何とも切なく流れる、、、。
確か3、4回にわたり「君の瞳に乾杯」があったが、コンテクスト上ちょっと不自然に感じるところもあった。
つまり、浮いている。単にキザ、、、。

フランス領モロッコにある、アメリカにゆくための寄港地カサブランカが舞台。
二次大戦にアメリカが参戦した1942年に制作されたもの、というからやはり驚きでもある。


名台詞でも有名な映画である。
「昨日何してたの」
「そんな昔のこと覚えてない」
「今夜会える?」
「そんな先のこと分からない」
これでいけたらいいね。

「大砲の音それともわたしの胸の鼓動?」というのもある。
これはかなり凄い。心臓に悪い。いや、よいのか、、、。


パリにいたアメリカ人リックは、カサブランカで酒場を経営している。
「カフェ・アメリカン」である。よく分かるのだが、、、ちょっと微妙な店名でもある。
そこに突然、かつてパリでの恋人イルザが反ナチス活動家ラズロを伴ってやってきたことからドラマが始まる。

どうやら、リックやその周辺の人々は、親独政権であるヴィシー政権に距離を置いている(アンチの)ようだ。
彼の店には、反独レジスタンスたちが見え隠れしている。
情報のやりとりの場所ともなっているらしい。

しかし、彼自身は、虚無的な雰囲気に包まれている。
実は、かつてはムソリーニのイタリアに対抗する勢力に武器を流したり、反ファシズムのスペイン国民統一戦線に属していたという。しかし、パリで恋に落ちた女性に裏切られた事で、やる気を無くしてしまった、、、。
つまり、それほどの女性だったのだ。
イルザというヒトは。

確かにイングリッド・バーグマンである。
いれば、浮かれて、いなくなってしまえば、やる気なくすのも分かる。
ヴィクトル・ラズロも彼女がいてくれるのでレジスタンスの指導者を頑張れるのだ。
これは、最後にリック・ブレインの言った通りだろう。
確かに革命やレジスタンス活動には、美女(ミューズ)が絡んでくる。
これは、芸術も含めて、そうだ。
士気が昂まるというものであろう。

ここでは、所謂三角関係であるが、、、。
イルザに対するリックとヴィクトルの愛情の質が異なる。
リックは情熱的な燃えるようなものであったが、ヴィクトルは理解と寛容により包み込むような関係である。
イルザは、前者を取ろうとしたが結局、リックに身の振り方を一任したためヴィクトルと海を渡ることになる。
レジスタンス運動頑張ってくれ、となる。


この映画、実に細かい演出(小道具)が効いている。

リックがドイツ銀行の元頭取を門前払いしたり、ドイツ銀行の小切手を破り捨てたり、、、。
ラズロたちに協力を申し出るスイス人が「ロレーヌ十字」のついた指輪が見せて信用させるところ。
リックの店で、ドイツ軍が「ラインの守り」を歌い出すと、すかさずラズロが指揮し「ラ・マルセイエーズ」で対抗する。
ルノー署長が「ヴィシー水」と書かれたミネラルウォーターをゴミ籠に投げつけるところなど、その後の展開、リックとカサブランカからトンズラしようというシーンにまで繋げる。元々、彼も警察官でありながら隠れレジスタンスであったか。
など小物をうまく使うお手本的な映画である。

さらにイルザとの関わりでは、、、
最初のパリでの別れの際のリックが受け取った手紙である。インクが霧雨で滲んでいくところ、、、。
セリフで目立つのは「君の瞳に乾杯!」であるが、ちょと唐突に思える。
そんなに名台詞なのか?
えっと言って笑われないダンディズムのコンテクストが効いているのか、、、?それともハンフリー・ボガート効果か?(もっとも、日本語訳(日本国内)のレベルの問題である)。
後は、ずっと画面上にキザな言い回しは散りばめられている、、、。


リックが、若いブルガリアからアメリカに渡りたがっている夫婦をわざと賭博で勝たせ資金を作らせるところも、カサブランカでリックの信用が高い理由の一端であろう。
リックの人情家である部分が彼の信用をもっとも支えているところのようだ。
フェラーリ!(イタリア人だ)という裏社会の実力者とも繋がっている。

ピーターローレの名演技をもう少し見たかったところだが、あえなく逮捕され殺されてしまった、、、。
ドイツ兵を殺して通行証を奪ったのが彼ウガーテかどうかは明らかにはされないが。
彼はレジスタンスの活動家としてだけでなく、金目当ての闇屋でもあったようだ。
人情家のリックに見放されては、もはやおしまいだ、、、。

最後に、リックは恋愛よりも思想(政治)を取る。これも一種のロマンであるが。 
戦時下の緊張関係の内であれば、恋愛関係もストイックになる。
結局、ギリギリの状況における本当の恋愛感情を確認し合うのだが、リックはその上で、反ファシズム運動に改めて加担する事にする。
イルザは自らを納得させようという表情で、ヴィクトルとともに飛行機に向かう。
(わたしは、一瞬、ここで翻って戻ってはこまいな!と息を飲んだがそのまま飛行機に乗り込んだ)。
どうやらルノー署長は、彼らの手助けをする、ところから支援者であることが分かる。
活動家夫妻を見逃し、リックがシュトラッサー少佐まで撃ち殺しても、彼を守ったのだから間違いない。
単にだらけた賭け事好きの好色警官でもなかった。

飛行機を見守り、、、
「思うに、これは素晴らしき友情関係の始まりだな。」(ルノー署長)
新たにコンビができて、終わり。

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なる程、という感じのスタイル・演出に拘った映画であった。
恋愛映画であり、プロパガンダ映画でもあろうが、、、
人間の究極的な選択として、リックの立場であれば、あれ以外に選択の余地はないように思える。
(実行に際しては、ルノー氏が重要なキーマンではあるが)。






風と共に去りぬ

Gone with the Wind01Gone with the Wind03

Gone with the Wind
1939年
アメリカ

マーガレット・ミッチェル原作
ヴィクター・フレミング監督
シドニー・ハワード脚本
マックス・スタイナー、、、音楽

ヴィヴィアン・リー、、、スカーレット・オハラ
クラーク・ゲーブル、、、レット・バトラー
レスリー・ハワード、、、アシュレー・ウィルクス
オリヴィア・デ・ハヴィランド、、、メラニー・ハミルトン
ハティ・マクダニエル、、、マミー

そういえば、「オズの魔法使い」「ジキル博士とハイド氏」もヴィクター・フレミング監督であった。
しかしこの作品は超ド級である。
先日観た「アラビアのロレンス」に並ぶ大作である。

オリヴィア・デ・ハヴィランドは、かの「ジェーン・エア」のジョーン・フォンテインの姉である。姉妹でアカデミー主演女優賞を獲得している。ちなみに主演女優賞は『遥かなる我が子』(1946年)と『女相続人』(1949年)の2回にわたり獲得している。妹は、『断崖』(1941年)において受賞。凄まじい姉妹だ。
わたしはこの姉妹、カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワーズ・ドルレアック姉妹を超えていると思う。


戦後の日本人がこんな映画を作る国と戦って勝てるはずがない、と感想を漏らしたそうだが、こういうところに力というものが垣間見えるものだろう。戦前にアメリカ製のグランドピアノを観た婦人が同様の感慨をもったという話もどこかで読んだ記憶がある。

『タラのテーマ』が流れれば、夕日に向かって立つスカーレット・オハラが自ずと思い浮かぶ、、、。


わたしがひたすら彼女に感じるものは、善悪の彼岸にある奔放な生命力だ。
「一つの文化が戦争という烈風と共に消え去った」のである。
その後で必要なものは何か?
終始彼女のその燦きに惹きつけられる。
この力、確かに戦争を契機に発現したにしても、元々持っている資質であり、何処かで爆発するものであろう。

「タラ」の大地を守りぬき、どんな目に遭っても「明日考える、、、」という彼女。
確かに明日には明日の風が吹く、ものだ。
今日問題であっても、明日は知らず解消している事もある。
今、どうにもならないことに、拘っていても仕方がない。
ともかく今を生きるために生きることだ。
ヒトは今この瞬間にのみ生きている。
立ち止まって考えていたら生きる事に遅れてしまう。

だから全て即決する。
結婚など経済的な手段に過ぎない。
人だろうか、という選択もなに食わぬ顔でする。かなりドライだ。
果ては、自分の仇討に出かけて頭を打ち抜かれて死んだ亭主に対しても動じることがない。
(妹から略奪した男で、愛情も元々持っていないが)。
大物経済人又は政治家タイプでもあろうか、、、。

原始的とも言える彼女の生きる力の奔流に、周囲の者たちは次々呑み込まれ翻弄される。
これに何とかついて行けるのは、マミーくらいのものか。崇高なメラニーも途中で亡くなってしまうし。
レット・バトラーも最善を尽くすが、最終的に尻尾をまいてしまう。
スカーレットの存在そのものが、ハリケーンを想わせる破壊力をもつのだ。
アシュレー・ウィルクスの存在が更に彼女の目を眩まし迷走させる。
破壊は甚大となる。
南北戦争で、多くの男が死に、大地・屋敷はもう荒廃しきっているのに、それに輪を掛ける。

アシュレー自身は問題のない賢い紳士ではあるが、スカーレットの思い込みと押しの強さの前にタジタジになる。
こういう関係はよく見られる。彼はしっかり”No”と言っているつもりなのに、優柔不断でどっちつかずの存在にされてしまっている。
性格のひどく異なる者の間に発生してしまう特有の齟齬であろう。
ある意味、激しくぶつかり合いながらもコミュニケーションの基盤があるのは、スカーレットとレット間である。
愛娘が事故死しなければ、やがて意思の疎通は深まったと思われる。
2人も認めているが、似た者同士である。(結婚に対する価値観も含め)。
しかし規格外同士であるため、相克も凄い。安定した関係は所詮望めないのかも知れない。

レットは、このまま出て行ったままであるのか、、、。
でも、今は考えていても仕方ない。


最後も彼女は、オレンジ色の夕陽に向かって逞しく生きることを誓う。
この時期に限らず、ヒトはメラニーのようにこころが清く美しい(容貌も大変美しいが)だけでは生き抜けない。
今現在も、共通感覚などどこにもない、ディスコミュニケーションの時代が続いている。
外界がどのようであろうが、どう変化しようが、混沌としながらも、自分をとことん信じる強烈なパワーがやはりなくてはやってゆけない。
スカーレット・オハラは、正しい。

007Olivia DeHavilland
オリヴィア・デ・ハヴィランド


Gone with the Wind02
助演女優賞のハティ・マクダニエルとヴィヴィアン・リー

絵も音楽も充分に印象に残り、美しい。
キャストも文句なしであった。
押しに弱いレスリー・ハワードの苦悩も説得力があった(笑。
ハティ・マクダニエルとオリヴィア・デ・ハヴィランドが脇を見事に締めていた。
そしてCGのない時代で、このスケールである。
これだけのレベルの大作、今後作れるとは思えないものだ。



重陽の節句

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9月9日は「重陽の節句」である。

昨日はブログの管理ページにアクセスできなかったため、本日載せる。
以前、というか昨年、”ゆ~る・じゃぱん!”を運営されている”まーさん様”に気づかせて頂いたこの行事。
(うちでもやっていなかった)。
果たして、毎年TRICKorTREATのハロウィンをやってる家庭のどれだけ、この日本行事を行っているだろうか?

うちの娘たちも学校で習ったらしく聞いてみると、「病気しないように菊の花とか菊人形飾るんだよ。」とは、答えていた。
とは言え、ひな祭りの時のように、人形飾れとは催促してこない。
何故か長女は帰ってくると、折り紙で何か作るのを習慣としているが、昨日は面白い人形を作っていた。
それが何であるか、うっかり聞きそびれた。
その間、現実的な次女は、宿題をひたすらやっていた。
別に勉強熱心なのではない。早く済ませて安心して遊びたいだけなのだ。事務的なものである。

さて、うちで何を行ったかといえば、昨年度”まーさん様”のブログで印象に残っていた日本酒に菊の花を浮かべてゆるりと呑む、というやつである。
子供たちのおもちゃがあちらこちらから視界に入り、風情を楽しむ雰囲気を削ぐのだが、そこそこ酔って楽しめた。
ビールをがぶ飲みするより、健康に良い気はした。
彼女らは「子供のお酒」に、菊を浮かべた(笑。

菊を飾ってみても、その黄色が気持ちをめいっぱい発散させてくれる。
(青は鎮めるが、黄色は外に気を解き放つ力を持つ。ランボーはどう言っていたか、、、)。

菊人形は我が家には無いが(その代わりフィギュアがあるが?)、長女が作ってくれたならそれで良い。
風情がある?


なんでも、奇数は陽の数で、9はその最大である。
その9が重なる為、「重陽」なのだという。
この日に、日本では菊や菊人形を飾ったり、お酒に浮かべるなどして祝い、邪気を払ってきた。
しっかり執り行っているご家庭もあるようだが、行事というより僅かながらの厳かな時間であっても、疎かにはしたくない。


闇雲に海外行事や祭りを持ち込みやるのもよいだろうが、、、こうした日本古来の行事は失くしたくない。
ついでにあのバカバカしい限りの、バレンタインデーだけは、もういい加減に終息して欲しいと願う。
(ハロウィンも全然関係ないものだが、、、)。
それを言えば、クリスマスもだが、山下達郎の曲で完全に日本に溶け込んでしまったから、もう良いことにしよう。


邪気退散!!
無病息災!!


本日4記事目、失礼。



蝉の残響

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本日3記事目のアップ(笑。
自分のブログの管理画面に入れなくなった。
昨日の事である。
FC2登録時のメールアドレスが使えなくなるため、変更したつもりでいたのだが、実際は無効であった。
画面に行く際に現れたアラート、確証コードを登録時メールに送りました、というものを受け取れない。
すでにそのメールアドレスは存在しない。よって確証コードも見れない。
管理画面に入れなければ、記事も書けない、という事で昨日は穴を開ける事いなる。

連絡が来るまで待つことになろう、という事で娘たちと出かける。
時間は有効に使わなければ。
と言っても最近、車の運転がひどく面倒になってきた。
(水曜日のカンパネラを車のBGMにしてから特に)。
であるため、本当に近場にしか行かない。
いつもの公園、病院、買い物くらいだ。
つまり、下駄替わりといったところだ。
旅行なら荷物送って電車に限る。という使い分けである。
(最近は温泉すら行っていないが)。


いつもの公園にちょっとだけということで立ち寄る。
ここのところ台風の影響もあり、急にカンカン照りになったかと思うと雨がサラサラ降ってきたりで、洗濯物が外に干せない。
(そっちか?)
公園でも、車を駐車場に入れるときは、かなり暑かったが降りると同時にスっと涼しくなった。


2人にほんの30分から40分で帰るよと告げ、どこで遊びたいか聞くと、アスレチックコーナーで遊びたいと、、、。
そこは、まだ午前中のためか、ヒトはほとんどいなかった。
丸いボールに乗ってロープを勢いよく滑ってゆく遊具で遊びだした。
それだけ、何度もやっている。
いつもは混んで順番待ちができる遊具が貸切状態なのだ。
恐らく時間いっぱいそれで遊ぶことだろう。

わたしは、近くの木陰で腰を下ろして休む。
もうどこに行っても、ベンチに座りこむようになってしまった(笑。


いつしか朦朧としてくる。
自分を包み込む木陰の柔らかな闇、、、。

劇的にそれが干上がる。
思わず目が覚める。
呆然と見回す間に、一瞬に仄暗いしじまに取り残される。
冷ややかな孤独を覚える程に。

これが反復される。
そうなのだ。

そんなときに、忽然と移ろふ蝉の声、、、。 
これまで蝉の鳴き声に気付かなかった事を知る。

ここについた時から蝉は鳴いていた。
まだ、鳴く季節であったのだ、、、。
そう、家を出るときにも鳴いていた。

いや、残響であったか。
正午。


娘たちがさすがに飽きてやってきたので戻る事にする。
午後から彼女らは用事がある。
わたしは、ブログでも書ける状況になっていればよいが、、、。

また水曜日のカンパネラの”桃太郎”を娘たちが一緒に歌う。
もうかなり覚えてしまった。
この曲、わたしにとって単に面白いからではなく、非常にノスタルジックな響きがあるため、耳を引くのだ。
昔のプログレポップのいくつかのイデオムの引用と感じられるフレーズが心地よい郷愁を誘う。
そう、わたしのお気に入りだった曲の残響が胸をくすぐる、、、。


欲望という名の電車

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A Streetcar Named Desire
1951年
アメリカ
テネシー・ウィリアムズ 原作・脚本
エリア・カザン監督

ヴィヴィアン・リー 、、、ブランチ・デュボア (元名家の未亡人)
マーロン・ブランド 、、、スタンリー・コワルスキー (職工・ステラの夫)
キム・ハンター 、、、ステラ・コワルスキー (ブランチの妹)
カール・マルデン 、、、ハロルド・ミッチェル (スタンリーの同僚)

キャストは申し分ない。


「アンナ・カレニナ」から3年後のヴィヴィアン・リー主演
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが「この役!?」である。あれから12年後か、、、。このひりつく痛々しい演技で主演女優賞を取りまくったものだ。

ブランチは名家の娘であったが身内の者は妹以外死去しており、その上夫も家も全て失ってしまう。自暴自棄の果て放蕩の限りを尽くし、高校の国語の教師であったが、未成年誘惑のかどで免職となり故郷から追われるように妹の家に身を寄せる。
”欲望”という名の列車に乗り、”墓地”という列車に乗り換え、”極楽通り”に行きたい、と彼女が言うところから始まる。

確かに黄昏ている。(黄昏た狂気の役作りが徹底している)。
明るみを極端に嫌う。(昔化粧品会社の女社長で白色のスポットライトを自分の顔に常に照らして歩く人がいたが)。
わたしにはもう陽は射さないのと言い、陽を一切避ける。
夜のシーンばかりが続く。まるで、夜だけ動き出す人形たちのようだ。
月の下で甘味な幻想(妄想)に生きる。
これもよいのだが、それだけでは生きれない。
彼女は、粗野な昼の世界の逆襲を受けることに。

いみじくもブランチが転がり込んだステラの家をポーの怪奇小説の舞台のように酷いと言った通り、そこで日毎恐ろしい事態が反復される。
ブランチは過度に神経質で見栄っ張りで自意識も過剰であるが、それにしてもスタンリーは度を越している。粗暴にも程があろう。果たしてこれが義理の姉を前にすることだろうか?
自分が俗物であることを見下されないための自己防衛もあるにせよ、最初から懐疑の目で彼女に敵意丸出しで、事あるごとに暴力で脅している。嘘や上流階級ぶった虚飾が特に癇に障るというのは分かるが、この夫もかなり異常だ。
しかし、妹のステラは妊娠しており、この粗暴な夫を愛している。
ブランチは暴力を恐れ一緒に逃げる相談をするが、ステラは全く取り合わない。
ステラは貧しく粗暴な夫との暮らしに充足しているのだ。
夫のスタンリーは、これまでの平穏な生活がブランチのせいでおかしくなったと怒りを隠さない。
いちいちブランチの噂を嗅ぎ回り、容赦なく弱みを暴き尽くそうとする。

ブランチにとっては、最後の救いをここに求めて流れ着いたのだ。
「極楽通り」に。欲望を墓に葬って、再生を求めはしたが、彼女は余りに受動的であり、自立性が脆弱すぎた。
ヒトの好意に縋る事に慣れ過ぎてしまったためか、もう神経が磨り減って意欲がなくなってしまったためか、、、。自分から動くことができない。
ここに来るまでで、もう余力はなかったか。
生きる力は、とても弱い。所謂弱者といえよう。


「熱いお風呂に入りたい。」
これはとてもよく分かる。
高ぶる神経が休まるのだ。この辛い空間内ではお湯の温度だけが救いとなる。
わたしもひっきりなしに風呂には入っている。やはり熱い温度で。
感覚を一時だけでも充たせる。

それにしても、よくあれだけ義理の弟にいびられながら居座り続けたものだ。
お互いに水と油くらい感覚的に合わないのに。
単に意見に齟齬をきたす程度の差異ではない。
どう見ても双方とも一日同居したらもうウンザリのレベルであろうに。
動けないのだ。お金の問題は大きい。自立(幻想)の問題は大きい。(よく故郷で教師が務まったものだ)。
だが、それだけか、、、。
動けないという事は、内側の狂気に徐々に沈み込む事態ではないか。
発狂する前の蛹の状態。
この間、この世界での淡い希望をハロルドとの間に抱いたが、あくまでも彼女の側での世界の充足に過ぎなかった。
彼女は昼の出会いを望まなかった。彼との幻想の共有は所詮出来ない。
昼の世界の住人たちからの遠慮も配慮もない噂も押し寄せ、幻想はことごとく打ち砕かれてしまう。
ハロルドも退いてしまった。
更にステラの出産入院の夜のスタンリーの仕打ちが決定打となってしまう。

彼女は妹の家を出てゆくのではなく、内側から向こう側に出て行ってしまった。


残酷な話である。
ハロルドの悲嘆に暮れる姿に同情する。



アラビアのロレンス

Lawrence of Arabia 001
Lawrence of Arabia

1962年
イギリス
デヴィッド・リーン監督

久々に観た。やはり圧倒された。

ピーター・オトゥール 、、、トーマス・エドワード・ロレンス (考古学者、哲学者、軍人?)
オマー・シャリフ 、、、シャリーフ・アリ (ハリト族 ベドウィン の首長)
アレックス・ギネス 、、、ファイサル王子
アンソニー・クイン 、、、アウダ (ハウェイタット族 の首長)
ジャック・ホーキンス 、、、アレンビー将軍


砂漠の光景でこれほど凄味のあるものは見たことがない。しかも深夜、神々しい早朝(日の出)、昼の地獄の熱砂、夕日に静かに暮れる時間帯、全てを通して生々しく描かれてゆく。カメラのスケールがやはり尋常でない。
どこをとっても名シーンばかりであるが、アリの現れる場面など広大で幻想的な砂漠でなければ有り得ない。
また、夜の砂漠には、サンテグジュペリの孤独が深く影を落としていた。
トマス・エドワード・ロレンスは、フランス語・ギリシア語・ラテン語に通暁しており、 アラビア語もこの任務に着く以前に、しっかりマスターしてしまったという。5か国語がペラペラなわけである。
また、無類の読書好きで、何処にあっても常に本は手放さなかったらしい。
途轍もない読書量であり、研究熱心であったという。
映画でも、彼のプロフィールに読書をよくし、広い知識をもち、博学であるとあった。
この知の広がりの内に、アラブの諸問題もあったのか。

そして、オートバイを愛した。冒頭から彼の乗るバイクが猛スピードで飛ばし、自転車を避けきれず道脇に突っ込み、彼の葬儀から始まる。激動の人生の幕引きは、また大変呆気ない。
彼は高級で性能の素晴らしいブラフ・スーペリア を乗り回すのが好きだった。というより猛スピードで激走したのだ。何と言うか極限至上主義という感じでもある。
少年時代は自転車であったというからスピード所謂、異なる速度に身を置くことに関心が強かったのか。彼のひとつの信条は速度であったように思われる。
ともかく全てにおいて早い。また速い。(ラクダを操るのも早かった)。更に極限的状態に常に身を置く。そうしないと逆に生きれない、かのような、、、。そんな際立った資質を感じ取れる。
そして自転車でどこに行っていたかといえば、遺跡や博物館巡りであった。
繋がる。

トマス・エドワード・ロレンス、彼は当初、変わり者だが差別感覚が無く統率力と戦術に長けた頼りがいのあるファイサル王子の軍事参謀 として認知される。
それから2年間の恐ろしく濃密なドラマであった。
彼は実は複雑極まりない、特異な魅力溢れる人物であることが分かってくる。
カイロにて将軍からアラブの情勢把握の任務を仰せ使われる。
イギリスとしてはトルコードイツ(最大のライバル)同盟の牽制があった。イギリス、フランス、ロシアはトルコを叩きそこから美味い汁を吸うことで、とりあえずの利害は一致していた。

ロレンスは、いきなり参謀の能力を発揮し、ホウェイタット族を巧みに取込みベドウィン族とともに、ネフド砂漠を越えてアカバを襲撃する。誰もがまさか陸路を行くとは思っていなかった、後ろからの奇襲である。(大砲は海に向かっていた)。
彼はこの作戦の実行直前、ホウェイタット族の1人を殺傷してしまったことの落とし前として自分が命をかけて救ったベドウィン族の男の銃殺を余儀なくさせられる。
この時期にどうやら彼は精神をやられていた、、、。(又は彼の倒錯的な別の局面が目覚めたといえようか)。
アカバは陥落し、彼はアラブの人々から篤い信頼を勝ち得る。
彼は白い綺麗な首長の服を譲り受け身に纏う。彼の中のアラブがはっきり誕生した時である。

アカバ陥落の報告のため、ロレンスはシナイ半島(歴史上モーセしか渡ったことのない半島)を渡りきる。
当然、クタクタになりながらのカイロ到着であったが。
この精神力と肉体の強靭さはどこから来るのか。それともそれは強靭さというより、こころと体の極限的な酷使をすすんで行う彼の性向の成せる業か。
シリア戦ではヒジャーズ鉄道 のゲリラ的な列車爆破である。これを何度やったことか、、、もう趣味のレベルであったかも知れない。(忘れたが70回以上、彼が爆破しているはず)。ワジ・ムサの戦い 。

そしてこの時期、ジャーナリストに大きく戦勲 が取り上げられ、世界中に彼の名前が轟くことになる。まさに「アラビアのロレンス」だ。しかし彼は高揚し英雄気分を味わうと同時に自らの内に蠢く異常性にも悩まされはじめる。
たった一人の命にあれだけ拘ってきたのに、殺戮を楽しむ自分を今や認識し、戦慄を感じずにいられない。
これ以降、殺戮に恍惚感をもったり、ダルアー偵察 の際、オスマン軍に捕まりムチ打ちの刑などの拷問を受けるなど、かなりの精神におけるダメージに戦く。
ボロボロの衣服で夜放り出されるロレンス。この時はもうすっかり自信を無くしてしまう。
それを介抱するアリ。この辺になるとアリが陰日向にロレンスを見守る立場となる。
ロレンスの瞳に宿る狂気もめくるめく、、、。この辺はPeter O'Toole独壇場だ。
彼はこの精神的危機を癒すため、普通の生活に戻ろうとする、、、

エルサレムにて彼はアレンビー将軍に辞表を出すも 受理されず、すでにアラブの次なる戦いに送られる手はずとなっていた。
ロレンスはサイクス=ピコ協定について聞かされ、アラブの国が帝国主義国の野望に切り裂かれることを予期し、イギリス正規軍より早くダマスカス占拠へと急ぐ。
彼は金のためなら何でもする凶悪な連中を組織し進軍してゆく。
彼はその途上メギドの戦いで、また陰惨たる殺戮を結果的に指揮してしまう。

アラブ民族にとっても16Cから支配されてきたオスマントルコ に対する最大の決起となる。
ある種、この戦い全体がロレンスの文学的な特質(幻想世界)と重なっていた気もする。


アラブは基本言語は、セム語族であっても、民族としてのまとまりはない。
彼らは古くからの因縁を持つ互いに敵対し合う部族の集まりに過ぎなかった。これでは会議は愚か最低限の街の管理・秩序も保たれるはずはない。
アラブ国民会議をロレンス独りで組織しようにも、結局みんな砂漠に散り散りに去っていってしまう。
彼はアラブ人に対して、幻滅と懐疑の念でいっぱいになりながら大佐に任命され迷惑払いされて、失意とともに帰国してゆく。
イギリスにもファイサル王子 にも裏切られて。勿論、ロレンス自身分かっていたこととはいえ、、、。
アラブはそのまま政治家の手に渡る運命となった。

彼の乗るジープをバイクが素早く追い抜いてゆく。


これ程の大作がこの先作られるとは、思えない。
また、ここまでしっくりするキャストも集まらないと思う。
ピーター・オトゥールは本物より彼、ロレンスであったはずだ。
オマー・シャリフ もアンソニー・クインもアレックス・ギネスも実にリアルで活きていた。

Lawrence of Arabia002

Lawrence of Arabia003
トマス・エドワード・ロレンス本人


バッテリー

battery001.jpg

2006年

滝田洋二郎監督
あさのあつこ原作
原作については全く知らない。

林遣都、、、原田巧(中学生天才ピッチャー)
山田健太、、、永倉豪(キャッチャー、巧の女房役)
鎗田晟裕、、、原田青波(巧の病弱な弟、野球好き)
蓮佛美沙子、、、矢島繭(巧のクラスメイト、テニス部)
萩原聖人、、、戸村真(野球部顧問)
上原美佐、、、小野薫子(テニス部顧問)
天海祐希、、、原田真紀子(巧の母)
岸谷五朗、、、原田広(巧の父)
菅原文太、、、井岡洋三(巧の祖父)

菅原文太の演技がもう見れないのは、本当に淋しい。
しかし、林遣都にはこれからずっと注目してゆきたい。


現時点であるが、実写邦画の中でわたしの一番好きな作品である。
野球に全く関心がなく、TV中継も見ないわたしが、何の因果でキャッチボール見ながら泣かなければならんのか?!
しかし、この映画、キャッチボール見るだけで充分泣ける映画に仕上がってる。
この映画は少年時代から青年へと役者が変わって推移するような時間的スパンはなく、中学一年(入学少し前から始まるが)の短い時間をじっくり豊かに、少年のこころの変化と周囲との関係を描いてゆく。


この作品、何が特別かといえば、恐らく何も特別なものはない。
弟の病気療養もあって東京から岡山の妻の実家に越してきた家族の話だ。
ただ、その長男である原田巧という少年が、天才的な野球のピッチャーであり、弟が野球が何より好きであるにも関わらず病弱なため出来ないでいる、という状況にある。
野球についても全国大会でどうの、ではなくここ岡山県での活躍である。(この先全国レベルの活躍になるかもしれぬが)。
しかし、それでも中1で、県大会準優勝のチームの3年生4番バッターも歯が立たないというのは、相当なものだ。
体も著しく成長する時期で、1年と3年とでは、飛んでもない体格(筋力)差があったりするものだが、それもものともせず投げ勝つのだから凄い才能の持ち主なのには違いない。

物語は、この才能を持て余している孤独な少年が、自分の速球をしっかり受け止めてくれるキャッチャーに出会ってから始まる。
このキャッチャーも中1とは思えぬ、包容力と優しさをもった懐の深い少年である。
速球はとりあえず受け止め手が現れても、巧のこころは頑ななまま変わらない。
彼は頑固なまでに物事に妥協しない。
見上げたもので、彼は自らの孤独を受け容れ、それに耐える力をもっている。
彼の何よりの強みであるが、それで留まっていれば自ずと限界も呼ぶだろう。
しかし中学生でいつそのような力を得たのか?
永倉豪の母から息子に野球をやらせて上げることはもう出来ないと、言われると「野球はやらせてもらうのではなく、やるものだ」と直ぐに返せる程、肝が据わっている。
彼がいつからか、弟の夢を引き受けたことからか、、、分からない。
(弟は野球が大好きなのだが病気からすることが出来ない。巧は無意識的にも野球を自らに運命づけている)。

巧は不条理な持ち物検査は受け入れず、顧問からの髪を切れにも「髪を切ったらもっと球が速くなるのか」と言って拒否する。おまけに「あんたに僕の球が打てるか」と言って顧問に挑戦状を突きつける。結果、巧が勝つ。
彼は全てその形ー調子で、自分の姿勢で押し通す。実際通ってしまう。
その為、周囲との軋轢を生む。
枠にしがみついてレールの上を上手く渡りたいだけの連中には激しい羨望と敵意を向けられる。
逆に真のライバルも呼び込み、真剣に対決を挑まれる。
どちらにせよ、熾烈な戦いの中を孤独に生きてゆく宿命なのか。
ただ祖父は、巧にもっと自分の為に楽しく野球をやらせてあげたいと願う。


林遣都と山田健太のコンビは奇跡的な出逢いだ。素晴らしい名コンビである。
脇役の少年たちもそれぞれ個性がしっかりしていて、リアリティが充分あった。
弟の痛々しさすら感じる前向きで清々しい演技には感動を禁じ得なかった。
お寺の小坊主も、惚けていて幅広い感情表現などなかなかのものであった。
寿司屋の倅も充分に個性的で活き活きしていた。
そして巧をリンチした3年風紀委員の先輩も見事に小市民的ないじましさと卑劣さを発散していて名演技であった。
矢島繭は清楚で純粋な、巧のこころに触れ得るもうひとりのパートナーとも言えようか。
更に、対戦することになった名門校(準優勝校)のメガネをかけた参謀の生徒の個性も際立っていた。
また、回りを固める大人も渋い。
祖父はまさに縁の下の力持ちであり、みんなをまとめ安心させる雰囲気を常に滲ませていて流石の貫禄であった。
父は普段は頼りないが、肝心なところでの洞察はしっかり的を得ており、普段強気の妻にも深い気づきを与える。
病弱な弟、青波を心配する余り、巧に辛く当たり、野球をすることに否定的な母の姿も充分厚みを感じられた。
顧問は如何にも熱心で不器用な野球部の顧問であり、部員にしっかり目が向いている。

キャストがともかく良い。
このキャストの演技で見せているところが大きい。
しかし、話の流れも全く端折ること無く、丁寧な描写でじっくり厚みを持って展開してゆく。
その為、説得力がある。

何度も繰り返されるキャッチボールの意味がそれぞれの場面で異なってくる。
これまでキャッチボールなどに興味などもったことのないわたしであるが、キャッチボールにすら魅せられてしまった。
このコンビは本当に素敵だ。
野球をすることで、初めてこころの繋がりができる、と彼の父が謂うように、巧も家族や友人、自分の野球チームやライバルチームの人間と、深い共感を得てゆくことだろう。それを予感させるエンディングだ、、、。
最後、弟のお見舞いから駆けつけマウンドに立った巧を、初めて母が応援する姿に彼は晴れ晴れと癒される。
彼の最後の投球の後の爽やかな笑顔が全てを語っているではないか。(冒頭では投球後の唖然とした空虚な表情であった)。
孤独を受け容れ自らをしっかり見出すことは重要であるし前提でもあるが、こころの理解を得ることで広がり豊かになってゆくものは大きい。
肉親の理解、これは決して小さなものではない。
そしてゆくゆくは、矢島繭の存在が次第に大きく支えになってゆくのであろう。
そんなことまで自然に想い浮かぶ映画であった。

この映画は、また観てしまうかも知れない。
(娘たちともう少したったら観てみるか、、、)。





オリヴァ・ツイスト

Oliver Twist001

Oliver Twist
1948年
イギリス

デヴィッド・リーン監督
チャールズ・ディケンズ原作

ジョン・ハワード・デイヴィス、、、オリヴァ・ツイスト
ロバート・ニュートン、、、ビル・サイクス
アレック・ギネス、、、フェイゲン
ケイ・ウォルシュ、、、ナンシー
フランシス・L・サリヴァン、、、Mr.バンブル


アラビアのロレンスの監督の作品。
大きなスケールの非常にこってりした物語。
少年オリヴァ・ツイストの数奇な運命を辿るもの。

彼の境遇は、教区救貧院から葬儀屋、スリ一味、富豪の邸宅(祖父の家)と変えられてゆく。
そう、全て外部の力に翻弄されて過酷な経験を次々に味わう。
何故、母親が夜逃げ込むように授産所にやってきて彼を産み落とさねばならなかったかは、一切語られない。
彼を産むと直ぐに母は死んでしまったため、彼女の首にかけられていた黄金のロケットも奪われてしまう。
そのことは、産まれた男の子のその後の悲惨な運命を決定した。
人間の赤ん坊ほど危うい存在はない。
自然界においても人間社会にあっても、極めて脆弱で保護を必須とする立場だ。
泣き声に対応してくれる確かな善意がなければ、まずまともに生きながらえることはできない。

孤児院の強欲な老婆の手にロケットが渡り、オリバーと勝手に名付けられた彼の素性は隠蔽され家畜同然の暮らしを強いられる事になる。
人にとって最も大事なものは、常に情報であった。
ヒトという生命体も情報系にあり、また社会という外部情報系を内在化しつつ生活を反復している。
その意味からも、レッテルがどう貼られるか一つで大きな境遇(選択の自由)の差ができる。

この時期の少年少女を扱った映画に出てくるキリスト教の収容施設は、どれもキリストの名を借りた劣悪極まりない拷問施設であった。ここでも”God is love”とか”God is truth”などという白々しい看板が抜け抜けと貼ってある。(聖書からの引用文句であろうが)。
同様の内容が幾つも重なれば、実際もこんなものであったという見当が充分につく。(実話によるものもかなりあった)。
という事は、ひとつ何かの拍子にレールを外れると、救済という名目の飛んでもない世界が大きな口を開けてる事になる。
一度そこにハマると、運良く救い出されても、彼のようにまた連れ戻され、更に泥沼に引きずり込まれる危険性が大きい。
そこがキリスト教施設であろうと盗人のアジトであろうと、、、。
どのような階級であってもそれぞれ個々に差異があり、幸せなど個人的な価値意識によるものではあるが、このような施設とギャング集団は、一方向的な主従関係にあり全く自由も権利もない過酷な環境である事に違いはない。
ここにる少年たちは単に、ここを離れて行く場所を持たないだけで寄り集まっているだけなのだ。


しかし現代にも、離れようとしてもそこから脱することのできない磁場というものは、いたるところに存在する。
何と言うか、人間的弱さと孤独に耐えられないこころの隙間に、その場所の吸引力があると思われる。
それに加えて個人の情報リテラシーの度合いであろう。
その個人の中に、確かな次の場所(考え)が生まれれば、ある日盗みに出かけるフリをして逃避する事は可能だ。
ここで問題なのは、それを考える場所が今現在の場所にほとんど生じないという事だ。
それで、多くのケースの場合、外部の者に発見され連れ出されるまで、出ることが叶わぬのだろう。
構成員が経験・教育の無い少年(少女)であれば、尚更のこと。

ただ、オリバーの場合、ひとつだけ得なことがあった。
それは、容貌である。
これは、もしかしたらギリギリの状況において、命の保証にもなり得るものかも知れない。
彼は劇の中では、容貌に優れ、少し憂いを含んだ高貴な雰囲気を湛えた少年ということである。(うーん。そうだったか?)
これは、葬儀屋でも盗人集団でも使いようによっては、利用価値が高くなろう。
スリに間違えられた際に出逢う富豪の男性にも、その容貌によって保護され可愛がられた。
彼がその老人の孫であることが分かるのは、その後の事である。

なかなか、これは肝心な事かと思える。
女性なら尚更かも知れない。
だが、常に保護されるかといえば、可愛さ余って憎さ100倍でもある。
オリバーを見かねて、かの老人に彼の情報を教えたために、ナンシーは愛人であった悪党サイクスに殴り殺されてしまう。
裏切られた際の逆上は殊の他大きいものだ。

最後の民衆が1団となって警察とともに、オリバーが捕らえられている悪の巣窟になだれ込んでゆく場面が圧巻ではあるが、また恐ろしい民衆の一面でもある。
ここでは、それによってオリバーを始め盗人として育てられた身寄りのない少年たちを救う事にはなったが、情報の誘導による動きである。いや何となく集団の勢いに便乗して乗り込んでいる者たちも少なくない。
これは、現代ではより注意が必要である。
情報リテラシーの問題は非常に深刻になっている。


ともあれ、オリバーの波乱に満ちた人生は見応えたっぷりであった。




キリマンジャロの雪

THE SNOWS OF KILLIMANJARO001有名な一本のマッチで両方のタバコに火をつけるシーン

THE SNOWS OF KILLIMANJARO
1952年
アメリカ
アーネスト・ヘミングウェイ原作
ヘンリー・キング監督

グレゴリー・ペック、、、ハリー(作家)
エヴァ・ガードナー、、、シンシア(今現在の妻)
スーザン・ヘイワード、、、ヘレン(最初の妻)
ヒルデガルド・ネフ、、、リズ(シンシアとヘレンの間の婚約者)

豹の話はBANANA FISHでも挙げられていた。
印象深い話だ。

彼はヘレンとともに、この話の謎を解くためにアフリカにやって来たという。
そこで脚の怪我が元で壊疽に罹り、死の淵を彷徨いながら、パリやスペインでの女性との関わりを回想する。
アフリカで狩りをしたり、スペイン内戦に巻き込まれ自身も兵士となっていたり、闘牛に拘ったり、その内人気作家となったりで、何とも刺激の多い波乱の人生である。
親替わりの伯父は何かと、ハリーに「狩り」を忘れるな、と忠告する。
謂わば、冒険(好奇心)と野心であろうか。
そういうものが、ネタとなる作家は勿論多いはずだ。


最初の妻シンシアとアフリカに狩りに行く。
彼女をモデルに小説を書き、そのお金で連れ立って行ったのだが、彼女は現地で妊娠が分かる。
しかし、その事を旅を続けたいハリーに話せず、結局自ら階段を転げ落ち、流産を選ぶ。
その後、彼の希望通りにスペインに闘牛を見に行くが、2人の仲は子供の件が尾を引き拗れてしまう。
シンシアは、彼の元から消えて行く。
わたしには、何故シンシアが彼に身篭った事を伝えるのに、あれほど抵抗を覚えたのか理解できない。
いくら世界中を旅するつもりの彼であろうと、自分の子供が出来たとなれば、それを中心に考えるはずである。
何で躊躇するのか、、、妊娠で彼を縛りたくないとか、関係を繋ぎたくないって、夫婦なんだから当然のことであろう。
この感覚では、どっちにせよ長くは続くまい。自意識がまず過剰である。

かなりの売れっ子作家となり、名声を得た彼は、リヴィエラで伯爵令嬢リズと出逢う。
船のシーンが印象的である。リズが水の中を泳いでハリーの小舟にやってくるのだ。何とも幻想的、、、。
彼女の自由奔放さがよく伝わってくる官能的な美しいシーンである。結構健康的でもあるが。
彼はリズとのことでも一冊のヒット作を手がける。
彼女は彫刻家で、妖艶な魅力を放つ美女であり、彼はその邸宅の一室で小説を書く日常がルーチン化していた。
リズとの関係で上流階級との付き合いも多くなりますます豊かになるが、伯父に狩りを忘れるなとまた忠告される。
そのころ、シンシアの住所を知り、手紙を出したことをリズに責められ、彼は彼女の元を悪態をついて出てゆく。
上流階級気取りの生活自体に飽き飽きしてきたこともあろう。

その新しい生活環境の中で、シンシアのことが益々自分の中で大きくなっていったのだ。
最初のモンパルナスのカフェでの出会いからして、余りに強烈過ぎたのだ。
確かにシンシアはビビットな美女であり、彼にとって最初の本格的な一目惚れであったのだろう。
こういうものは、なかなか消えない。大脳皮質に残り続ける。

ハリーはシンシアがスペイン内戦に看護婦(ジープの運転手)として従軍していることを知り、彼も入隊しおざなりな兵士となる。
だがそこで奇跡的に彼は劇的なシンシアとの再会を果たす。
しかしそのときは彼女はすでに重傷を負って瀕死の状態であり、直ぐに死んでしまう。

傷心の彼はパリに戻り、以前路上でシンシアかと思って声をかけた女性に再会する。
ハリーはその女性ヘレンと結婚し、再びアフリカに発つ。
キリマンジャロの雪山を頂上近くまで登った豹の謎に迫りたかったのか。
思い出のキリマンジャロから、人生をやり直したかったのだ。
彼は怪我から死の淵を彷徨うも、献身的なヘレンの看護と医書を頼りにした荒治療も功を奏し、実際にもう一度やり直せる希望が訪れる。
死を覚悟してからの再生である。それは強烈な再生体験であるはず。
ヘレンとの仲もシンシアの替りではない、本当の愛のこもった関係となるだろう。
ハッピーエンドであった。(わたしは作家が死ぬと思っていた)。

原作を読んではいないが、相当異なる内容のようだ。
これはこれで、希望の光が満ち満ちて、なかなか気持ち良いものである。
文字通り、夜明けだ。

ヒルデガルド・ネフという女優の超時代的な美にも驚いた。
彫塑を作っているところは、タマラドレンピッカを想わせる雰囲気もあった。

THE SNOWS OF KILLIMANJARO002

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コクリコ坂から

kokuriko001.jpg

From Up On Poppy Hill
2011年

宮崎吾朗監督
宮崎駿・丹羽圭子脚本
手嶌葵 主題曲


長澤まさみ、、、松崎 海
岡田准一、、、風間 俊


病院を改築したコクリコ荘と高校の男子部室棟の“カルチェラタン”を主な舞台に話は展開する。
劇中、何度も坂本九の”上を向いて歩こう”が街の商店街に流れてゆく。
街や家具、洗濯機、マッチで付けるガスコンロ、ガリ版など、、、あの時代の雰囲気がよく出ている。(わたしもぼんやりだが、、、)
主人公の海が朝食(夕食)の支度をする手際も見ていて楽しいものだ。
少々彼女の負担の大きさは気になるが。

カルチェラタンでの高校生の学生運動はかなり異質な感覚であった。
果たしてわたしより少し上くらいの連中があんなに団結して物事に当たれたであろうか、、、。

よく分からない、、、

しかし、ごった返していても楽しそうな文化部ばかりである。
あの哲学研究会には、あまり入りたくはないが、、、。
全体の雰囲気はよい。
何処かの一角で何かしてみたい気持ちにはなる。

ただ、海の何気ない生活の反復がとても澄み切ったすてきなものに見えてくる。
彼女の、前の日に泣いても、翌朝には亡き父の写真に花と水を供え、旗を揚げ、手際よく朝食を作り皆に声をかけ食事をとらせて、自分の他に妹・弟の弁当を作り登校する。友達より早く下校し、買い物と夕食その他の家事をしっかりこなす。
それをひたむきに健気に繰り返す。
その毎日。

これは、もしかしたら恐ろしく強靭な思想を形成する素地になるのかも。
そう思ったのは、彼女が恋心を抱いた風間 俊が兄弟だと分かったとき、彼は分別を優先し一方的に距離を持つことにした。
しかし海は、何故か自分の感情・感性を曲げず、自分の思いを信じ続ける。(決して頑なに、意固地にではない)。
そして、きっとこれは毎日旗を揚げ続ける自分に、父が代わりにあなたを差し向けてくれたのだと受け取る。
例え兄だとしても、「あなたが好き」だと、、、。
ある意味、これは過激な思想である。
アナキズムである。
大したものだ、、、。

そのこころは、変わらないと。
この自分のこころに率直にやるべきことを重ねていくうちに、簡単にはぐらつかない精神の強靭さが生まれてくるのだ。
自分が善き事と感じたことをしっかり認める精神。
枠に惑わされないこころ。
毎日の旗揚げの日課がそれを作っていった、、、。
わたしは、そう考える。

カルチェラタンの掃除を提唱し女子をたくさん巻き込んで綺麗にした結果が、取り壊しの阻止・保存に繋がった。
俊を思うこころをそのまま持ち続けたことが、彼の本当の出自を知るところまで連鎖したのだ。
(アメリカ帰りの母に尋ねれば、分かったこととは言え)。
海と俊は、彼らの本当の父たちの親友である、記念写真の第三の男性とも出会うことができた。
これは、彼ら2人に対する祝福である。
もう、何も気にすることはない。
自分の思うように生きろ、と。


自分の日々の生活のルーチンを無心に、ひたむきに行う重要性を改めて感じた。


最初、長澤まさみの語りは、大丈夫か?と思ったのだが、話が進むうちに、自然な海になっていた。
終わってみると、海そのものの語りに思えた。
岡田准一の俊は違和感なかった。
手嶌葵の唄はこの中で聴くと、しっとり感があってまた一際良かった。

ジブリ作品の中では異色作に取れるが、脚本がしっかりしており、じっくり鑑賞できるものであった。



”Bon voyage.”

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地球が静止する日
宇宙戦争
トランス・ワールド
ロボット
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マザーハウス 恐怖の使者
EVA
ベイマックス
ファースト・コンタクト
ファースト・マン
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あやつり糸の世界