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鉄人28号 コレクション―Ⅱ

tetsujin28008.jpg正太郎、大塚署長、敷島博士


Ⅰに引き続き、今回は少し個性的で変わった鉄人も、ご紹介。

7.006Tetsujin.jpg
21cm 目と胸の窓?が光り、手足を動かしながら歩く。懐古調鉄人スタイル。別に他の物より古いわけではない。これがブリキ製なら別だが。(ブリキ製のプロペラのついた空飛ぶ鉄人は残念ながらなくなってしまった)。これは専門ショップで購入し、プロに頼めばそれらしい塗装をしてくれるというので頼んだのだが、塗ったのかどうか分からないような仕上がりで帰ってきた、、、。かなりボッタくられた(苦。

8.007Tetsujin.jpg
21cm 透明鉄人。可動部分はない。何となくの内部構造が見えて、品がよく飾り物としてかなりオシャレ。

9.008Tetsujin.jpg
20cm 台座にお金の入れ口のある貯金箱鉄人。お金を入れると目が光り、両腕をあげる。面白いので持ってる小銭を全部入れてしまったものだ。フォルムとしては、Ⅰの5シリーズに近く手抜きは一切ない。操縦機もディテールも立派な質感のよいものがつく。正太郎くんも実物比?でつく。

10.009Tetsujin.jpg
14cm 普段はアキバで買っていたものだが、これは渋谷の「まんだらけ」の鍵のかかったケースにひとつだけ入っていたものをゲット。かなり高かった。(まんだらけは漫画は安いが、フィギュアは高いと噂があったが、そうだったかも)。そつのない、堂々とした胸を張ったプロポーションで均整は一番取れている方だ。

11.022Tetsujin.jpg
11cm 体全体がかなり丸っこく、まんだらけのものに一見似ているが、かなり違う。結構お手ごろ値段であったためか、比べるとチープ感は漂う。しかし形そのものはよくできており、お得感はある。

12.021Tetsujin.jpg023Tetsujin.jpg
16cm 大股で歩いているポーズ。色違いの2体。というより片方は無彩色。腕は肩の部分だけ可動。11とほぼ同等のでき具合であるが、体が細長いタイプ。ディテールの作り込みは、10と11は他とは異なり少しのっぺりしている。

13.004Tetsujin.jpg
12cm かわいいキャラの貯金箱。ソフビで柔らかい素材。これだけは、落としても平気なので気楽に扱える(笑。ただ、これだけのもの、としか言い様のないものだが(笑。

14.005Tetsujin.jpg
29cm 手足を動かして歩く。(すり足で歩くタイプ)。プラスチック製のブラック・オックス。鉄人といえば、彼がいないことには、はじまらない。鉄人コレクションの中で、一際存在感を発揮している。


Ⅲ、Ⅳでは、サイズの小さなものや、食玩の鉄人にスポットを当てて、ご紹介予定。
昔懐かしい、食玩である。
最近、全くそちらの方を見ていない(見る余裕がない)ため、どんなものが出ているか知らないが、昔の食玩といえども、ディテールの精緻さは見事である。

では、乞うご期待(笑。


鉄人28号 コレクション―Ⅰ

Testujin28Koube.jpg神戸の鉄人

「生前整理」を家族から持ちかけられた。
(娘からではない。彼女らはそんなこと知らない(笑)。
後、数十年は居座るつもりだったが、、、実際モノが多いのも事実だ。
生前整理ではなく、ただ「整理できるものを片付けたら」、、、でよかろうに。
何にでも、毒を込めたがる、、、
食事に毒が込められなければよいが。
油断禁物である?

本とレコードについては、以前から催促されていたが、ついにフィギュアにまで魔の手が及んだ!
本は結局、読む気にならなかった本ばかりを現在積み上げている。レコードには整理対象はなかった。
フィギュアは、最も溜まった時の10分の1に整理したのだが、最後の砦、鉄人コレクションはほぼそのまま残されている。
娘たちも興味を示さないし(わたしが触らせないのだが)、わたしがいなくなったら捨てるだけだから整理しろ、と迫ってきた。
人が体調が思わしくないのに乗じて、である(憤。

いずれにせよ空きスペースを作る必要にも迫られていることは事実だ。
他のフィギュアはともかく、鉄人を整理することは、考えられないため、まとめて目に付かないところにしまい込みたい。
(つまり単なる場所移動であり、片付け術からすれば禁じ手であるが)。
捨てるなんてありえないし、人に譲る気もない。
(譲るとしたら、しっかり面接をしないと)。

そんないきさつで、しまう前に、お披露目だけしておいて(笑。
自分も見れなくなるのなら、少なくとも目録だけはとっておきたい。

なお、購入して暫くは、それぞれのフィギュアについての詳しい情報があったのだが、今は何もない。覚えてもいない(当然。
かなり以前にアップルの提供するホームページにそれらの説明付きのものを掲載していたのだが、サービス終了とともに失くなった。当時アメリカやカナダから軽いコメントなどが届いていた。ゴジラはともかく鉄人知ってるヒトいるのか、、、?

それでは、数回に分けて、年代物を、、、。
多肉をどけて、一体ずつ置いてみた。下の線で相対的な大きさの比較がだいたいつくようにはしてみた。


1.002Tetsujin.jpg
頭(鶏冠)から足まで46cm 作画・モデリングの基本フィギュアということ。単純な丸みを帯び、スマートな印象。肩のみ可動。

2.001Tetsujin.jpg
33cm 基本フィギュアより少し角張り力士っぽい形体になっているタイプ。肩のみ可動。

3.003Tetsujin.jpg
32cm 2よりも更に肩幅が広がり、少し逆三角形ぽい、いかつさが出る。ハワイ力士的になる。完全固定。可動部なし。

4.011Tetsujin.jpg016Tetsujin.jpg012Tetsujin.jpg
22cm 目が光る。このシリーズは最もスタイリッシュな鉄人として発表されたもの。脚がしっかり造形されたためにスマートで上の3体に比べると洗練されており、立ちバランスも良い。腕・脚の全ての関節が可動。手首から手を外して付け替えられる。(開いた手と拳)。

5.019Tetsujin.jpg014Tetsujin.jpg013Tetsujin.jpg017Tetsujin.jpg
22cm 合金シリーズでとても重い。上のスタイリッシュシリーズとほぼ似た体型だが、メタルで輝き具合が異なり、見た目も重々しい。前掛け部分のリベットが上の3体のシリーズは凹型だが、こちらは凸型である。腕・脚の全ての関節が動き、バランスもよくしっかり立つ。

6.020Tetsujin.jpg015Tetsujin.jpg
13cm 超重合金シリーズ。上のモデルより小さいのにやたら重い。スマートさはないが、フォルム全体のバランスはよく、足の膝上が短く、体が丸っこい割に、まとまりがあってカッコ良い。腕・脚の関節は全て可動。しっかり立つ。(こういうものがひっくり返ると周りの被害も小さくない)。


まずは、基本的(ベーシック)な鉄人28号をご紹介。
非常に単純な形であるが、微妙なラインの変化で随分異なる印象を受ける。


*Ⅱでは、少し変わり種や遊び心のあるものをご紹介。



熱帯低気圧

Gustave Moreau
「化粧」Gustave Moreau


台風が来ると、朝からだるく頭が重いという症状のヒトはいないだろうか?
よく低気圧と自律神経の(不安定になる)関係が謂われるが、、、。
そう、むくみも出やすいと聞いたこともある。(血行にも影響する)。
血圧もかなり高い。
わたしは、今の休職の理由が理由だけに、特にそれがきつい。
普段でも、ゾワーッと痺れがあるのに、こういう日は更に皮をもうヒト被りした気分だ。
それで朝から何もする気力もない。
とても、だるい。ボーッとする。

しかし、これまで台風でこんなに調子の落ちたことはない。
思い返すと、ウキウキしてピンクフロイドの”吹けよ風、呼べよ嵐 ”など聴いて勢いがついていた気もする、、、。
もしかしたら、ただ単にわたしの体調が下降しただけのことか。
たまたま睡眠不足の祟っただけだろうか。(ここのところ夜中に目が覚め、亀の水替えなどしている)。
今日は、音楽すら受け付けない。(重症だ)。
ビョークの”Vulnicura”だけは、聴いたが、いつもの感覚が無い。
(ポーランドの現代音楽を想わせる宗教性を纏う楽曲集であるが)。


娘たちがとりあえず、宿題ができていて助かった。
こんなとき、みてやることなどとても、できない。
本も手に取る気力がない。
(読みかけで、ほっぽり出した本ばかりだ、、、)。
後は、任せた(笑。

何か、病気(脳梗塞)以降、気象に敏感になった気もする。
ホメオスタシス的問題か。
外的な変化に対する過剰な反応をしてしまいがちになる。
これは、ちょっと出かける予定がある、くらいのことでもそうだ。
一度、病院で「迷走神経反射」を体験してから、何故かそうなった。
パニック症候群かとも心配になることがある。
(悪循環だが)。
ストレスが溜まっていることは、確かだ。


とりあえず、もう一度暖かい風呂に入ろう。
入浴剤たっぷり入れて、、、。
温まりたい。
そして、好きな画家の絵でも観て寝よう。
(どうしょもないときの、お気に入りはやはり決めておいたほうが良い)。


ギュスターブ・モローにする。
「オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘」を観ると、何故か不思議に落ち着くのだ。

いつか、「モロー美術館」には、行ってみたい。
若きアンドレ・ブルトンが、カンテラを持って、深夜に忍び込んで観たとかいう、、、。
(こんな贅沢な不良経験ってあるだろうか、、、さすがはブルトン)。


良い夢が見れたら、明日は気持ちよく起きれる気がする、、、。



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シェルタリング・スカイ

The Sheltering Sky001

The Sheltering Sky
1990年
イギリス

ベルナルド・ベルトルッチ監督・脚本
ポール・ボウルズ原作
坂本龍一音楽

ポール・ボウルズ自身、作曲家であるが、ここでは関わっていない。
原作者夫婦の実体験を元にしており、妻の影響で小説も書き始めたという。

デブラ・ウィンガー、、、キット・モレスビー(劇作家)
ジョン・マルコヴィッチ、、、ポート・モレスビー(作曲家)
キャンベル・スコット、、、ジョージ・タナー(上流階級の金持ち)

1947年北アフリカのアルジェが舞台。
戦後間もなくの時代。
グランド・ホテルの近くのバーから始まる。

ニューヨークから来た有閑階級のひと組の夫婦とその友人の当て所ない旅を描く。
そこは、彼らにとっては異界以外の何ものでもない。
漠然と癒しを求めに来たというのが強いて言えば目的であろうが、計画など全くない旅である。
(夫婦関係は、すれ違いと虚無感とストレスが顕著に窺える模様)。

さて、欧米文化圏の人間がこの砂漠で、ハエが音を鳴り響かせて顔にはらってもはらってもまとわりついてくる国で何ができるのか?である。
自分たちの文化や教養が通用するものではない。
何らかの表現が受け入れられるか?
彼らの持っている素養を活かし音楽や絵画であれば、どうであろう。欧米的な形式がそのままで通用するか。

少なくとも主人公たちは、観光ではないが、土地に馴染んだり溶け込む気など毛頭ない。
かと言って、出てゆく。国に戻るわけでもなく、居続ける。
(恐らくその地が気に入ったのではないが、彼らを離さない特有の磁場があるのだ)。
自分たちの能力を発揮してそこで生活しようという気はなく、端から諦観漂う姿で刹那的に退廃的な生活に明け暮れる。
夫婦同士もその親友とも、関係は麻痺してゆく。
夫婦でそれぞれ浮気をする。(ポートとタナーもである)。
価値意識は砂漠の砂のように散り散りに舞い、干からびてしまう。
後に残るのは、何とも名状しがたい生理的なヒリつきと病の苦痛である。

アフリカの自然その圧倒的な美と残酷さの前には、何も太刀打ちできない。
何という光景だろう、、、。
サハラ砂漠。
目の眩む強烈な日光。
深い影。
余りに鮮やかな自然の映像が、ひたすら深まる絶望の色をビビットに濃くする。
坂本龍一の音楽も良いが、現地の民族音楽に痺れる。
これは、麻薬のような依存性をもつ。

ポートが腸チフスで倒れ、キットの看病する二人だけの場で、漸く両者の絆を強く感じ取ることができる。
死ぬ間際に、やっと生の実感を持つことができたのか。
腸チフスでポートを失い、タナーも別行動をとると、砂漠の街にキットは女であるということだけで何とか生きながらえる。
もう顔に表情はない。
アラブの商隊に囲われて生を繋いでゆくが、発狂寸前のところタナーの尽力で連れ戻される。
結局双六で振り出しに戻ったかの如く、アルジェのグランド・ホテル近くのバーで終わる。

最後にポール・ボウルズ自身が出演していて、「迷ったのか?」と彼女に聞く。
凄まじく重く、同時に突き放した救いようもない問いにならない問いである。


彼女はもう地球上のどこにも戻る場所はない。




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ゲッタウェイ

The Getaway
The Getaway

1972年
アメリカ

サム・ペキンパー監督
ウォルター・ヒル脚本
クインシー・ジョーンズ音楽

スティーブ・マックイーン、、、ドク(銀行強盗)
アリ・マッグロー、、、キャロル(ドクの妻)
ベン・ジョンソン、、、ベニヨン(出所の裏取引相手)
アル・レッティエリ、、、ルディ(ドクを裏切る強盗)

サム・ペキンパー監督作品を初めて見た。(わたしは観るものが偏っているのか)。
西部劇、バイオレンス表現で有名な巨匠であるが、この映画では、監督の特徴(売り)は然程出ていないように思われる。
派手な暴力表現はあまり見られない。
強いて言えば、ルディがヘマをやらかした仲間を撃ち殺し、子供たちが遊んでいる通りで、車から投げ出すところだろうか。

しかし、充分に惹きつける映画ではある。
この映画も荒野を彷徨うではないか。
主役の夫婦は金のFetishな魅力に取り憑かれた立派な無法者である。
ジャズのバックがよいリズムを生んでいた。
ガソリンをぶり撒いて走る無駄にでかいアメ車も良い味を出している。


服役中の刑務所から早く出所させるドクへの条件が銀行強盗であった。
その強盗の相棒として組まされた男に狙われ、条件を突きつけた当のベニヨン一味にも、警察にも当然追われる立場となる。
おまけに、盗んだ金の入ったバッグをキャロルが駅で詐欺師に盗まれる。
それは大苦労してドクが取り戻すが、50万ドル盗んだのに75万ドルとTVでは言われており、実はベニヨンの弟がすでに金を使い込んでいた。
周りの人間は、新聞の顔写真を見て直ぐに通報してしまうし、、、。
基本は誰も信用できない。
つまりこの条件をベニヨンから取り付けた妻のキャロルにも不信感(不貞の疑いを)を抱く。
内向したバイオレンス作品となっている。

ドクは銃撃戦ではクールに撃つが、狡猾なルディを気絶中には仕留めない。
そのため激しい銃撃戦の後、ホテルを脱出する際、彼らはルディに背後から狙われる。
ドクがすんでのところで撃ち返し、今度はしっかり息の根を止めたが、ハードボイルドに徹しているとは言い難い。
最後に現れた敵のチンピラには、命を無駄にするな、と言って逃がしてしまう。
この辺が甘い、というかこういった詰のところで、おうおうにして命を落とす危険性は高いものだ。
この映画では、主役カップルは、めでたくメキシコ国境を渡って助かるが、この映画のオマージュ的作品で、最後の一人を大目にみたために場面がひっくり返る日本のヤクザ映画など見たことがある。(小林旭のもの、、、何だったか忘れた)。

いずれにせよ、銀行強盗のおしどり夫婦(関係修復)で、メキシコに定住して盗んだ金で幸せに暮らしましたとさ。
というのも、良い。
何か爽やかな雰囲気で終わる。
(フランス映画なら、国境の堺あたりで、ふたりは警察に蜂の巣にされているに違いない)。
しかし、中盤その対極の生理的不快を催す場面が、この映画では穢の象徴的存在であるルディを中心に沸き起こる。
これは、この監督特有のものなのか、わたしは知らないが。
車の中で食べ散らしたチキンナゲットを投げ合ったり、車の提供と運転を無理強いさせ、その夫の前で妻を奪うなど気色悪いバイオレンスシーンがルディのひととなりを表すだけのものなのかどうか。
確かに充分に下衆であることは分かるが、単に作品自体を汚しているようにも思える。

いや、空虚に滑稽に干からびさせているのだ。
この血筋に、ビム・ベンダースジム・ジャームッシュの映画が生まれているのではないか。
ロックで謂えば、Dinasor Jrであろう。
廃墟感がすでに漂っている。


それにしても、このスティーブ・マックイーンが、アスベストが原因で50歳で亡くなってしまうなんて、本当に惜しい。
他の彼の主演作品をもっと観てみたいものだ。
それから、サム・ペキンパー監督の最も彼らしい西部劇など、、、。


アイ,ロボット

I Robot001

I, Robot
2004年
アメリカ

アレックス・プロヤス監督

アイザック・アシモフ原作
(ロボット三原則など謳われているが、基本的に作り替えられた異なる作品。)

ウィル・スミス、、、デル・スプーナー刑事(ロボット嫌い)
ブリジット・モイナハン、、、スーザン・カルヴィン博士(ロボット工学と心理学)
ジェームズ・クロムウェル、、、アルフレッド・ラニング博士(サニーの生みの親・スプーナーの恩人)


ハリウッド映画はどうしてこうも頻繁に、「分かれたカミさん」を出してくるのか、、、?
そういうのが好きなのか?
ここでは話題に出るだけで実際の登場はないが、このパタン辟易する。
またこういったヒーローには、決まって美女の博士(知的な美女でない場合もある)がパートナー的につき、最初は犬猿の仲であるが最後は打ち解け深く理解し合う、という定形は何度見ても見事に崩されない。
ブリジット・モイナハン自身に何の文句もないのだが、、、。

未来のアウディをデル・スプーナー刑事がマニュアルで乗り回す。
全て自動運転の車の流れを遮り、蛇行し飛ばしまくるのだ。
ウィル・スミスの主演映画である。
そのつもりで観る必要がある。
やはり極上のアクション・エンターテイメントである。

U.S.ロボティクスという企業で、ロボットを大量生産し、普及を図っている。
ロボットが社会に浸透してゆくのは不可避であるが、、、。
近未来の2035年で、とてもこのレベルまで至っているはずがない。

Nestor5次世代家庭用ロボットに、ついに「こころ」に相当する場が生じる。
しかし今、AI分野では、ディープ・ラーニングなど学習システムに飛躍が見られる。
プログラムの組み方が本質的に変わったのだ。
パタン認識の非常に大きな成果がクローズアップされ、身近なものに感じられる時代にはなってきた。
体の動きについても、すでに10km以上の速度で走れ、片足立ちなどアクロバティックな動きやバランスのとれるロボットが出来ている。
人間の生活環境はヒトの体を元に構成されている。
人型ロボットなら、場所・機能別の複数のロボットは必要なく、1体あればどんなシーンにおいても原理的にはヒトの代わりが出来よう。やはり出るべくして出てくるものだ。

Nestor5のなかでも特に高性能なロボットが「サニー」である。
一体だけ特別にラニング博士により作られ、博士のメッセージを託された。
彼は夢を見る。
その光景は、ロボット三原則を超えて、彼らが革命を起こすことを指していた。
彼は怒る。
つまり、感情を持ち意思を芽生えさせ、やがて自由を求めるということだ。
彼はこころをもった。
ウインクを学習しサニーは肝心なところで、スプーナー刑事と意思疎通にも成功する。

しかし、それと同時にU.S.ロボティクスの中枢を握るVIKIというマザー・コンピュータも自立的に(密かに)アップグレードを重ねており、ついに自己破滅的な人類を守るためには、管理・支配するという論理を展開し、Nestor5たちを操って街を占拠し、邪魔者を消してゆく。それに気づいたラニング博士は監禁状態となったため、サニーを作り自らの意思を託して自殺したのだった。
これは、AI進化発展に必ず纏わるコンピュータによる管理の悪夢である。
サニーはVIKIにはコントロールされず、理解は示すが同意はしない。
「そこには、こころがない」からだという。

スプーナーもかつて事故で死にかけ、ラニング博士に上半身左半分を手術でサイボーグ化して再生してもらっていた。
その時、彼を助けたNestor4ロボットが、計算から11歳の少女ではなく、助かる確率のより高い自分だけを救った事に、不信感を抱き続けていた。数による管理・支配を危惧していたのだ。
しかし、サニーは感情(こころ)で判断できる域にすでに達していた。

最後は、熱い握手である。
スプーナーとサニーとの。

サニーが夢の中で見た丘の上に立つと、命令通りに倉庫に収容されてゆく夥しい数のNestor5たちが、ひとりまたひとり彼を見上げしばし佇み、やがて自分の意思に従って歩み始める。
この光景は何とも感動的であった。


VFXでは何といってもロボットの動きのモーション・キャプチャーが実に巧妙であった。
微妙なロボット感が非常に上手く出ていた。
ラニング博士のスプーナー宛、死後のメッセージ用に残したホログラムも粋であった。
正しい質問をせよ。というのはわかる。
スーザン・カルヴィン博士も充分存在感を放っていた。

ウィル・スミスは、相変わらずである(笑。



ゲーム

the game001

THE GAME
1997年
アメリカ

デヴィッド・フィンチャー監督
「ゴーンガール」「セブン」の監督である。

マイケル・ダグラス、、、ニコラス・ヴァン・オートン(富豪の投資家)
ショーン・ペン、、、コンラッド・ヴァン・オートン(ニコラスの弟)
デボラ・カーラ・アンガー、、、クリスティーン(CRS工作員)


何と言うか、、、これが仕組まれた話というには無理がありすぎる。
何故なら違う展開もいくらでも考えられる(起こり得る)からだ。
想定外の脱線も必ず起きるレベルの危なっかしい仕掛けが続く。
ほとんど行き当たりばったりにも思えるような、、、。

それより、そのゲームの依頼人コンラッドの意図が掴めない。
最後に「兄貴に変わって欲しかったんだ~。」ってどういう事?
「ありがとう!」って、、、どうありがたいのか?
ふたりでひしっと抱き合って感動に浸っているが、、、訳わからん。

確かに人間変わるには、生死を彷徨うくらいの衝撃は必要だと思う。
(まあ、自分も含めてだが、人間は変わらない、、、変われないからこそ、何とか思い切って変わりたいという衝動・願望はある)。
しかし、その仕掛けがどう精神に作用するか、リスクは大きい。
更に深く入り組んだトラウマを抱え込んでも知らんぞ!


「人生が一変するような素晴らしい体験ができる」というカードをニコラスは弟のコンラッドから貰う。
それが兄の48歳のバースデイ・プレゼントなのだ。

カードには、CRSという会社の連絡先が、、、。
行ってみれば、その人にピッタリ合った「ゲーム」を提供する会社だと説明を受ける。
やるも降りるも自由と。
とりあえず変な精神鑑定のペーパーテストと身体検査を終えて、連絡を待つと「あなたは不合格です。」という通知が。
ちょっと不機嫌になって家に帰ってみたら、そこからゲームが開始されていた。

よく途中で大怪我やショックで精神をやられず進行出来たな、と思うド派手で危険な仕掛けが次々に炸裂してゆく。
昔ときおりやっていた、ドッキリ系の番組で女性タレントが失神してしまったのを見たことがあるが、あんなものではない。
銃撃はあるは、危ないところを登ったり飛び降りたり、這いずったり、家はメチャメチャに荒らされるは、タクシーごと海に投げ込まれるは、、、死んだらどうする、何なんだということばかり、、、さすがに警察にも連絡するが、その会社自体実体がなく犯行意図も不明。
更にニコラス自らそのゲームに乗ったのである。


自分の行く先々に監視カメラは仕掛けられ盗聴され、TV番組が彼らのメッセージに変わり、関わる誰もがCRS関係者だと分かる。
相手CRSの掌で逃げ回っている自分に気づきニコラスは混乱を極める。
ついに、彼のクレジットカードのID,暗証番号を盗まれ、銀行口座はカラに。
60億ドルが消えてしまう。
富豪から一気に一文無しになり、ニコラスはどん底を這い回るハメに、、、
頼るところはただひとつ、前の奥さんのところだ。
そこで、車を借りることにするが、何やら自分が間違っていたとか、彼女に対し反省することしきり、、、。

人間追い詰められると、内省的になり反省したくなるものだが、、、。
これは下手すると気弱になって、精神衰弱にもなりかねないところだ。
ニコラスも、もうボーダーに来ているではないか。
ともかく、このゲーム心身に悪い。
最後にその会社を突き止めて中を見るとこれまで彼が関わってきた人間が全て集まっているではないか。
卒倒しても可笑しくないシチュエーションだ。

役者、仕掛けなど非常に金がかかる。映画並みであろう。
弟がその代金払うって、彼もどれだけ富豪なのか。
最終的に割り勘となるが、さぞや凄い額となったことだろう。

だいたい、ニコラスはそんな酷い人だったのか?
仕事中心の人間であろうが、そんな人はいくらでもいる。
真面目な堅物であり、父の自殺をトラウマとして抱え込んでるとは言え、それがこんなショック療法で解放されるのか、そこが疑問だ。
それに、こんな事までしてヒトを変えようというのは、明らかに人権を侵犯している。
しかし、脳天気にみんなでハッピーバースデーなのだ。
みんなで、よかったよかったとお祝いしている。ニコラスもコンラッドも、、、。大丈夫か?
その直前、ニコラスはコンラッドをパニック状態で撃ってしまったと信じ、ビルの屋上から投身自殺を図ったばかりだ。
パーティー会場の真ん中で、救命クッションをあのようにピッタリ設置して待っているというのもどうにも出来すぎではないか。


いくらなんでも、大掛かりでやりすぎのドッキリパーティーなのだ。
しかも大金をむしり取る、悪質なドッキリでもある。
あの展開では、途中でやめることも出来まい。契約違反ではないか?
こういう会社が実際あったら面白いかも知れぬが、、、必ず事故(発狂も含め)は起きるだろう。

最後に幾度となく騙され、飛んでもなく酷い目に合わされたクリスティーンをニコラスは自分から食事に誘っている。
もしかしたら、、、この男、何も変わっていない!?いや仕事オンリーでなく遊び心のある人間に変わったのだ?
(しかし少なくとも、また関わったら何をされるか、、、というトラウマ―学習は全くないのだった!?)
せめて別の女性に声をかけたら、、、と言いたくなった。


結構、救われない映画だ、、、。
何だったのか、あれは、とも思う。
こういう役をやらせたらマイケル・ダグラスの右に出る者はいない!
この確信だけは深めた。



夏の庭 The Friends

Natsu001.jpg

1994年
相米慎二 監督
湯本香樹実 原作
田中陽造 脚本


三國連太郎、、、傳法喜八(老人)
戸田菜穂、、、近藤静香(少年たちの担任)
淡島千景、、、古香弥生(喜八の妻・静香の祖母)
3人の子役(主人公の少年たち)

原作が有名な児童文学で海外でも十数カ国で翻訳されているという。


コスモスが咲き乱れている主のいない庭が、「奇跡」の一場面にあったのを思い浮かべた。
ここがそのまま切り取られているように見えた。


死に興味をもつ年頃の少年たちが、もうそろそろ死にそうな老人を見つけて、彼の死ぬところを目撃するため密着して過ごすうちに芽生えてゆく関係性とその広がり(深まり)を描く。
死ぬところを見たところで、死のなんであるかは分かるはずがないが、それについて考えを深める契機とはなるかも知れなかった。

それに葬式などの儀式への参加ではなく、日常生活の中での突然の遭遇は、それに対する真摯な態度を要請する。
概念以前の身体的な感情と思いを呼ぶ場所ではないか。

少年たちは老人の庭の手入れをし、コスモスの種まきをしたり、廃屋のような家の修繕をする。
サッカーの練習(試合)以外は、ほとんど入り浸り状態で仕事に精を出す。
少年たちと老人は次第に気心も知れ、老人が何故名前を隠し世捨て人のように生きながらえてきたかを少年たちは察する。
戦争中、戦地でフィリピンの身篭った女性を射殺してしまったトラウマから、戦後引き上げてきても、妻の待つ家に戻れなかったのだ。
そして長い時が過ぎ、晩年を迎えた今日である。

確かに、その心情には共感できる。
少年たちは、もう死の探求より寧ろ老人との庭を介した生活とやりとりが主題となっている。

そして少年たちは、老人の妻の名前を聞き取り、「古香弥生」その人の所在を探り出すことに成功してしまう。
何とその人は、少年たちの誇りでもあるマドンナ的な担任、近藤静香先生の祖母でもあった。
これには驚く。
しかし、静香先生が老人―すでに傳法喜八の名が割れた―に戦後からこれまでの状況と自分が孫であることを明かしても、喜八は頑なに自分であることを認めない。
確かにその決心で家に帰らず独りで暮らしてきたのだから、孫が迎えに来たからといって、さっさと妻のもとには戻れまい。
妻もその状況を合理化するために、夫は戦死したという物語を作り「ボケ」を装い閉じ籠ってしまっている。


結局、喜八は妻を一目見に行って帰宅後、少年たちによって死亡が確認される。
彼らにとって、すでに待ちに待った一般的な死ではなく、大切な存在の死であり、認めがたい死であった。
そうであろう。
台風の日に、3人とも家を抜け出し、喜八の家に心配で来ているくらいなのだ。


全てのエピソードが伏線となり、最後に回収される必要などないし、日常を見れば孤立した系の連続にしか思えなかったりするものだが、ひとつ突出したシーンがある。
それは、プールで3人で泳いでいるとき、一番のおデブ少年がいないことに突然気づくところだ。
彼はプールの底に沈んでおり、そこを近藤静香先生が素早く泳いですくいあげる。
わたしは、てっきりそこでおデブの少年(喜八には関取と呼ばれていた)が、死ぬのかと思ったら、次のシーンでは古香弥生の捜索の相談をしており安心した。とは言え少し突飛なシーンにも思えた。
近藤先生と少年たちだけが水面に静かに光って浮かんでいるところ(イメージ的なシーンである)は、この4人の連帯感のようなものは充分窺える。
と同時に生きていてよかった、という生の実感をしみじみ味わっているシーンと捉えるところか。
後の喜八の死の事実の受け止め方が変わってくるところであろう。


三國連太郎のまだそれほどでもない年齢での老け演技は達者なものであった。
特にぎこちない歩き方など、役作りが徹底していた。
少年たちの新鮮で清々しいほどの下手くそな演技も、最後には少し自然に感じられてくるものだった。
(但し、大切な部分での感情表現などは、かなり厳しいところであった)。
地味な絵で進行する中、戸田菜穂の存在は咲き誇るコスモス同様、晴やかな彩を添えていた。
(少年映画には、やはりマドンナは必要なようだ)。

寝る前にさらっと見るに適した映画であった。
(2度見ることはないと思う)。



トゥルース 闇の告発

THE WHISTLEBLOWER

THE WHISTLEBLOWER
2010年
ドイツ・カナダ製作
ラリーサ・コンドラキ監督

レイチェル・ワイズ
モニカ・ベルッチ
デヴィッド・ストラザーン
ヴァネッサ・レッドグレーヴ

確かに「内部(不正)告発者」である。

紛争後の管理地区で、民間警備会社が国連組織の軍やアメリカ軍と共に活動している事実を知った。
このような地区に派遣されると、給料もよく単に給料目当てでやってくる人間は多いはずだ。
国連職員だと訴追免除もある。
家から離れて混乱の地に来てこの特権である。矜持のない無自覚な人間にとっては、何でもアリにはなるまいか?
(環境的に、、、旅の恥はかき捨てなんてことわざが日本にもある)。
公務員だけでなく利潤を至上目的とする一般企業が入り込んでくると更にややこしくなると思える。
統制が取りにくいだろうな、、、利益に傾くなとつくづく感じた。
悪しき官僚主義が蔓延り易い土壌となるだろう。
主人公が、パソコンメールで訴える人道主義というのは、アメリカのミリタリー・ヒューマニズムに対する皮肉か?
(アメリカは事あるごとに、人道主義を唱えて覇権・侵略行為をしてきた)。

ユーゴスラビアの解体で生まれた、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの各国であるが、言語、宗教、民族からいってもどうまとまりをつければよいか分からぬ国々である。
民族は20以上あって、言語がどれくらいだったか、、、方言が200とか、何かで読んだ記憶がある。
個人観や社会観も大きく違っていてどう共通理解を得られるか、というレベルから難しい。
(国同士の関係も含め)。
ここの舞台はボスニア・ヘルツェゴビナであるが、まず映画を見ても国としてどうにも成り立っていない。
紛争は治まり国連監視下で人々が暮らしている時期とは言え、人々がどう暮らしているのか、映画からはほとんど見えない。
一般の市街と民衆の光景がほとんどない。
虚無的で諦観の漂う、殺伐とした場所・場面ばかりが続く。
少女たちの孤立無援な姿が痛々しい限り、、、。

主人公は警官として国連平和維持の任務で赴任し、ジェンダーの問題を担当するが、人身売買が組織ぐるみで行われていることに気づく。
彼女は囚われの身のひとりの少女の実情を知り、そこから非道なシステムに独りで分け入り、追求・告発してゆく。
映画の焦点は、ほぼこれに尽きる。

平和維持の目的で派遣された軍人・民間人が年端もゆかぬ少女の売買を行っている。
その土地の男たちはほとんど戦火で亡くなっているのだから、人身売買が誰を相手に行われているかは言うまでもなかった。
組織内での捜査は全て先手を取られ握りつぶされる。
組織の最上部まで汚染されていた。
捜査を進める中、彼女自身も危険な立場に追いやられてゆく。
主人公はその事態に途方に暮れるが、助けようとして失敗し射殺された少女に対する強い思いもあり、そこで調査して得た資料を全てBBC―マスコミに公表する手段をとる。
マスコミ自体如何わしいものだが、使いようである。
中央突破がダメならまずは外圧、民衆に訴えるしかない。

このような人身売買が世界各地にわたり存在するという事実がエンディングに公表される。
統制がとれていない混沌とした廃墟と化した場所ほど、権力(国連という名目)によっていいように荒らされるものに思えた。
権力の傘の下に群がってきた無責任で金儲けに取り憑かれた空虚な人間によって、命を消費される人間が確かにいるということだ。
では、そのような非道システムが、どのような組織・共同体・国家において消滅できるのか、、、
少なくとも経済や道徳や軍事力、政治でどうにかなるものでもない。
民族・言語・宗教によって整合された国などそもそも考えられるか。
それが出来ても果たして、非道なシステムが発生しないか。
人間の本性から自然に生じるレベルのものであれば、人間を早くやめる算段が必要である。
恐らくこれが正しい。


単に男の性だけの問題ではなく、少女を売る身内(女もいる)も含めた、事態である。
紛争後の貧困などは、もとより理由にはならない。






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奇跡

I Wish

I Wish
2011年

是枝裕和監督・脚本

大迫航一 、、、前田航基
木南龍之介 -、、、前田旺志郎
福本佑(航一のクラスメイト) 、、、林凌雅
太田真(航一のクラスメイト) 、、、永吉星之介
有吉恵美(龍之介のクラスメイト) 、、、 内田伽羅
早見かんな(龍之介のクラスメイト) 、、、橋本環奈
磯邊蓮登(龍之介のクラスメイト) 、、、磯邊蓮登
平祐奈(龍之介のクラスメイト) 、、、平祐奈
木南健次(航一・龍之介の父) 、、、オダギリジョー
有吉恭子(恵美の母) 、、、夏川結衣
坂上守(航一の学校の先生) 、、、阿部寛
三村幸知(航一の学校の先生) 、、、長澤まさみ
山本亘(周吉の幼なじみ) 、、、原田芳雄
大迫のぞみ(航一・龍之介の母) 、、、大塚寧々
大迫秀子(のぞみの母) 、、、樹木希林
大迫周吉(のぞみの父) 、、、橋爪功
高橋長英、りりィ、田山涼成、入江雅人、中村ゆり、松浪志保

ひとり入れてしまうと、入れないわけにいかなくなってしまった。
話題性のある出演者も多い。
新人子役から渋いベテランまで。

台風一過、でもまだ雨が油断できないということで、、、家の中で娘たちと過ごすことに、、、。
たまたま、TV録画で見てしまった映画だ。

「九州新幹線の一番列車がすれ違う時、奇跡が起こる。」という九州新幹線 (鹿児島ルート) の全線開通を印象付けるコピーを元に九州旅客鉄道(JR九州)とジェイアール東日本企画の企画により製作された企画物映画。
子役がたくさん出ている。

企画物のPVっぽさはほとんどなく、子役のわざとらしさや稚拙さも感じられなかった。
その点では、助かった。

イギリス向けの”I Wish”は、ピッタリだと思う。
そういう内容だ。

両親が離婚したことで鹿児島県と福岡県で離ればなれに暮らす小学校6年生の航一と4年生の龍之介がいつかまた一緒に暮らしたいという「願い」を叶えるため「九州新幹線の一番列車がすれ違う」現場にわざわざ学校をサボって出向くお話。
この時期の子供は、何か変な物に願をかけたりするのが好きだ。
(鉄道好きな子供たちから突然立ち現れた一種の都市伝説のような噂か)。

それまでの何と言うか、日常の会話やつぶやきのやりとりやすれ違いなどが軽妙に描かれる。
主役の兄弟のズレが最後まで続き動きを持たせている。
また、何ということのない日常生活の所作の面白さがしっかりカメラに拾われている。
ストーリー展開よりも監督はこの辺の機微に焦点を当てたかったのかと思われるのだが。

子供は遊び盛りで、何とか理由をつけて授業をサボりたい普通の少年たちである。
端からどれだけ家族で一緒に住むこととかを夢に見ていたか、、、
それよりも、大義を旗印に、お友達と旅をしてみたい、冒険したいというお年頃である。
それでよいと思う。
電車には乗りたいし(その企画だし)、駅弁も楽しみだ。

火山が噴火すればきっと、みんなで一緒に住めるという飛躍というか短絡はやはりこの時期特有のファンタジーで面白い。
他の友達はそれで死んだらどうすんだ、と問うが何とか逃げ延びてくれ、と返すところが笑える。
こんな調子でずっと行ってしまう。

恵美が彼ら少年集団の宿泊場所を確保してしまうところは、まさに「奇跡」である。
普通に考えれば、あれだけ無計画な旅であることからして、何処かに野宿に落ち着くであろうか。
彼らを泊める条件を全て備えた高橋長英、りりィ老夫婦の家に偶然泊めてもらう事でもう、恐らく彼らの運は全て使い果たしたと思われるのだが、、、。
泊めてもらえるだけでもありがたいのに、馬刺しはあるかと、ねだる子供も如何にもそれらしい。
美味しい料理を振舞われて、まるで修学旅行のような楽しい一夜を過ごして、翌朝願いを叶えに発つのだが、かんなが老夫妻に何か叶えて欲しい願い事ある?と聞くところなど、ちょっと面白い部分が幾つもある。
航一の大人ぶった「インディーズ」の解釈とか、、、「もうひといきってこったな」。
(龍之介と同居中の父親がバンドを組んでインディーズレーベルからCDを出している)。

この映画はそんなちょっと面白いズレで流れてゆく。
そしていつもの日常生活より少しばかり活き活きとしたちょっと脱線した旅で、少年たちが一回り強くなる。
それが淡々と描かれているところが、最後まで寄り添えたところだ。
(わたしは子供が主人公の映画は途中で放り出すことが多い)。


ほっと出来る映画である。



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公園への散策~潮汐力

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蝉の音が鳴り響く、、、。

お茶を飲んでは、芝の中を歩き、また水を飲んでは、遊具で遊ぶ。
ぶら下がる。飛び降りる。
走る。
階段を登る。階段を降りる。
轟音。鳥が飛び立つ。空軍戦闘機と鳥影が交錯する。
幾つもの線。
無数のピアノ曲線。
虫たちの行方は次々に吸い込まれてゆく。
幾重もの規則的な呼吸。


アイスクリームを買う。ソーダのアイス。アイスブルー。シルバースカイ。
暑くても、木陰は涼しい。
モグラの穴もあって。
穴はきっと深い。
部屋がいくつも通路で繋がっている。
暗い広がりが静かに続く。
何処までも。
遠くの見晴台の奥深くまで。
深くそして高く、、、。


潜在する。
空に地下に。何かの重みが。
うち震える。
至る所で震える。
風景が震える。


次女が言う。
「月だよ。」
明るい青空に
突然はりついている薄い月。


何処からかシャボン玉が一斉に風景を映しながらくるくると舞って来る。
それは虹色を宿し、煌きながら、、、。
わたしがコーラを開けると、炭酸が全て飛び散ってしまった。
次女は思った通りカラカラ笑い転げる。




アマデウス~レクイエム

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Amadeus
1984年
アメリカ

ミロス・フォアマン監督
ピーター・シェーファー原作・脚本

F・マーリー・エイブラハム、、、サリエリ
トム・ハルス、、、モーツァルト


モーツァルトがやはりジョン・ライドン(セックス・ピストルズ)にソックリでニンマリしてしまった。
(封切られたときもそう思ったものだが、、、)。
宮廷や貴族、教会お抱えではない音楽家の走りであったか?
まさにパンクミュージシャンではないか。
こんな人だったらさぞ魅力的だったろうが。
この映画を見ると、とてもリアルに思える。

生涯、人間としては最大の敵であるサリエリが最大の音楽の理解者であった。
その皮肉が壮大なドラマとなる。
最後の臨終間際のモーツァルトの指示通りに「レクイエム」をサリエリが記譜する場面はまさに白熱の現場であった。
モーツァルトは最後までサリエリを誤解したまま終わるが、サリエリは更にモーツァルトの偉大さを心底認識する共同作業となったはずだ。
こんな場所、創作において最もよい勉強のパタンであることは間違いない。
彼の弟子は、こんなふうに学んでいたのだろう。
羨ましい光景だ。
しかし、途上でモーツァルトは死んでしまう。(共同墓穴に投げ込まれておしまいという素っ気無さ)。
ここではサリエリが指示の全てを受けて「レクイエム」を仕上げたことになろうか?

実際は彼の弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成されて日の目を見るのだが、モーツァルトの指示がどれだけ徹底されていたのかが、議論を呼び様々な「補作」が出来ていることも事実だ。
世界中の音楽研究者によるいくつもの補作の試みがなされている。

なお、完全に作品も人物も忘れ去られたサリエリだが21世紀になって、再評価がなされオペラ上演が定期的にされ始めている。
オペラ歌手によるCDも出された。
人気の原因はこの映画「アマデウス」のようだ(笑。
非常に悪辣で凡庸な人間に描かれているが、再評価に耐えられる音楽家であればまさに復権である。
元々宮廷楽長の高い地位にいた人物だ。

モーツァルトは義理の母も謂うように、大人になれなかった少年そのもので、邪心はないが音楽のことしか頭にない生活力皆無の男である。
サリエリに才能を疎まれず、あの奥さんのようなマネージャーがいたら極貧生活に埋もれることはなかったかもしれないが、、、
あんなに酒に溺れ遊びまくり不摂生していれば、病気にもなろう。
この物語で、サリエリが無理やり「レクイエム」を書かせなかったなら、この大傑作が世に出たかどうか分からない。
だとしたら、サリエリの果たした役割は大きい。
更に、モーツァルトの天才を誰よりも深く理解していた彼の才能は過小評価すべきでない。
(周りの取り巻き連中から見ればその能力は歴然としている)。
しかし、そのための嫉妬も凄まじかった。
それら全て含め、再評価へとも繋がったか?
映画の力は大きい。

実際は、とある田舎の領主がこれを依頼したことが分かっている。
自身アマチュア音楽家で、当時の若く才能ある作曲家に匿名で作曲させ、それを写譜して自分名義で曲を発表するというサリエリに輪をかけた悲哀のこもったことをやっていたらしい。
モーツァルトの奥さんとも、もめたという少し有名な話はある。

もとより「レクイエム」は、一番大好きで(ついでにベルディ、フォーレのものも好きだが)、この映画を見て改めて「フィガロの結婚」、「ドンジョバンニ」もオペラとして観てみたくなった。残念ながらわたしはCDでしか聴いたことがないのだ。
「フィガロの結婚」は、ウィーンではそれほどではなかったが、プラハでは大ヒットし、道行く人が口ずさんでいたらしい。
それで極貧というのもいただけない。何とかならなかったのか?
「ドンジョバンニ」には、わたしはかなり悲劇的な要素を強く感じたが、言わずと知れた代表作のひとつである。
(どれも代表作になり得ようが、、、)
ちなみにわたしが「レクイエム」の次に大好きなものは、「ピアノ協奏曲20番」である。
どうしても好きで、コンサートに何度も聴きに行ったものだ。(懐かしい。勿論この他の彼の曲も、、、23番とか)。

全体的に見ると、短調の曲が美しくカッコ良い(笑。
「レクイエム」はなかでも圧倒的である。
またこれから聴いてしまいそうだ。

映画で殊の他、印象に残ったのは、モーツァルトが指揮をする姿である。
そこに彼がよく表れている。
もし時代が時代であれば、彼は飛び切り才能豊かなロック・ミュージシャンとなっていたかも知れない。
常に新たな創造に向かう、茶目っ気とあの笑い方。それがタクトを振る様子に凝縮されているような、、、。
その破天荒な生活ぶりも含め、そう思った。
監督の演出にその意図見え見えである。

キャストが、ほんとによかった。
モーツァルトとサリエリは自然に本人そのものに思えた。
これを見たら、サリエリに興味を持つ人がたくさん出ても可笑しくない。
モーツァルトのオペラを見たいという人も当然出るはず。

劇中でも程よくPVされていた。
そのような効用をもった映画でもある。
音楽だけではなく、衣装、街並みなどの美術面も素晴らしくリアルであった。


文句なしの感動の大作と言えよう。
(アメリカ映画の最良のものを観た気がする)。


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憑依機械

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生を貶めるものはたくさんある。
様々な道徳、宗教、政治制度、、、
母親、突然現れた昔の友人、、、等々。
他者に憑依する欲動が様々な位相で発動する。
いや、発動し続ける。
ほぼ生きることと同義となって。
マイクロ・ファシストがざわつき、せめぎ合う。

ミラー・ニューロンが告げ知らせる。
これは罠だ、危険だと。
相手が無意識―自動的であることも多い。
機械仕掛けの昆虫を想わせる。
形は色々だ。
しかし少し注意すれば、大概見え透いたものではある。

無意識であったとしても、意図は何なのか?
実は、こちらの方が意識より根本的で強靭であり探りにくい。
単なる利用や虫の良い支配欲、、、
というよりも憑依なのだ。

闇雲な力で憑依しにかかって来るバケモノたち。
彼ら全てに言える特徴は、他者をもたないこと。
自らに疑問がない。
鉄面皮の自己愛。
ことばをこれ以上ないくらいに賎しめている。
ことばの作用に対し驚異的に無自覚である。
法螺を吹き放題吹く。
等々。


常に絶望的に滑稽な風景を引き寄せる。
ここにはユーモアが発生しない。
但し周囲に目つきの悪い監視人がいても気にすることはない。
それらは単なる書き割に過ぎない。
風が吹けばバッタバッタと音もなく倒れて消える。
そんなものだ。


憑かれると疲れる。
体調も乱れる。
思考も感情も感性も、、、
あらぬ熱が身体を蝕む。
あらゆるモノコトが膠着する。
内部から凍結し痛みを生じる、、、。

だが、憑依機械の動きの影をしっかり握っていれば大丈夫だ。
それは繋がっていても作動できない。
寸前で押し留めることが出来る。
後は殺意のコントロールくらいだ。

音楽が最後に助けてくれる。






モンスターズ 地球外生命体

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Monsters
2010年
イギリス
ギャレス・エドワーズ監督・脚本・撮影

スクート・マクネイリー、、、アンドリュー・コールダー(カメラマン)
ホイットニー・エイブル、、、サマンサ・ワインデン(社長令嬢)

ゴジラを見事復活させた、ギャレス・エドワーズ監督による「ゴジラ」のひとつ前の作品。


太陽系の惑星や衛星に探査機が次々と送られるなか、地球外生命体のサンプルの収集などにも期待が集まっている昨今である。
ここでは、NASAの探査機が大気圏突入時に大破し、サンプルで持ち帰った生物がメキシコで繁殖してしまうというもの。
ありそうな設定である。
危険地帯として軍に管理されたメキシコの地区にスクープを狙いに赴いたカメラマンが、何故か現地で怪我を負った社長令嬢を無事にアメリカに連れ帰るまでの話である。

モンスターはメキシコの街に、森のなかに、湖に潜在する。
その生きた全体像は、ほとんど把握されていない。
謎のまま畏怖に包まれ、それは人々と隣り合わせに確かに存在している。
歳月はかなり経っているのに、見た者、カメラに収めた者は数少ない。
それでコールダーもやって来た。(仕事になる)。
死骸はよく見受けられるが、それも滅多に全体像を見ることはない。
暗闇になかに異様な精気と音を感じ、人は恐れ慄く。
巨大な触手に襲われたら最後、助からないようだ。
人々は、こんな生存様式に、すでに慣れてしまっているらしい。
(歴史的に振り返れば、このような在り方を原始のヒトは経験してこなかったか)。

アメリカ国境には、万里の長城のような壁が築かれ、これまた異様な様相を呈している。
自ら篭もり自閉することで、見ること―知ることを拒むかのように。
それは同時に自分だけ助かろうという幻想の試み。
彼らは外部からアメリカの姿をつぶさに見た。

ふたりはアメリカ国境に入った最後の夜、軍の助けを待つ間に現れた、2体の巨大なモンスターの神秘な姿に観入る。
静謐の中に、視線を宙吊りにする名状しがたい姿(フィギュア)とその行為。
厳然たる他者性と崇高さを前に、ふたりは言葉を失い立ち尽くす。

ふたりは、そこに他の何かを、、、。
全く新しい在り方、生の多様性を目の当たりにしたのだ。

異なる「美」の発見である。
(アンドレ・ブルトン調に、痙攣する美とでも謂いたい)。
彼らは恐らく永遠に飼い慣らされない潜在する存在としてある。

「わたし帰りたくない。」
(もう元の世界には耐えられない)。
サマンサ・ワインデンのことばがそれを如実に語っている。
ふたりは魅せられたのだ。
そして他の選択―他の生があることに気づく。



モンスター(エイリアン)としての品位を失わず、最後にピークを持っていった見事な映画である。
各カットの絶妙な映像美も特筆できる。
また、旅の醍醐味というものも感じた。
(旅とは、本来こういうものであろう)。

この作品、、、
「第9地区」「ムーン」「コンタクト」、「エイリアン」などに並ぶ傑作であることに間違いない。


(予算をかけなくてもコンセプトと技術が秀逸であれば傑作が作れるというお見本)。



ソウ ”SAW”

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SAW
2004年
アメリカ

ジェームズ・ワン監督
リー・ワネル脚本

ケイリー・エルウィス、、、ローレンス・ゴードン(外科医)
リー・ワネル、、、アダム(ゴシップ写真家)
ダニー・グローヴァー、、、タップ(刑事)

「のこぎり」であり「見るの過去形」である。
影で糸を引く犯人”ジグソウ”にも掛かっている。

昨日の映画と同様に、余命を宣告された男が神として振舞おうとする話だ。
展開する舞台も拷問的ストイックさから陰鬱で重く狂気を帯びるが、同じ構造である。
犯人のやっていることは大変骨の折れる仕事―仕掛けを作り見届けることだ。
綿密な計算も必要であり、、、それは恐らく彼らにとっては趣味・趣向―妄想の粋なのだろうが。
よくそれだけの情熱と余力があるものだと、まずホトホト感心する。

この映画、「そして誰もいなくなった」の数十人の孫の中のひとつであるとはっきり断言できるものだ。
これはまたギリギリのところで、ヒトの在り方―実存を問う物語ともなっている。
実存は本質に先立つ。
(物凄く懐かしい言葉を思い出してしまった)。


ローレンス・ゴードンは、外科医であり、妻子がおり、不倫もしており、患者や雑役係は普通に見下している、よくいるタイプの人間である。
珍しいところなど何もない。
わたしもこの手の、患者を物としか見ない医者などいくらでも見てきた。
癌に犯されたジグソウが、インターン向け研修対象くらいにしか扱われていないことに復讐心を燃やす心情は充分理解できる。
彼はジグソウによって、あるとき突然殺害ゲームに投げ込まれる。

そして極限状態においてローレンス・ゴードンがどのように振舞うのか、いや行動の選択をするのか、、、
これが大きな見所ともなる。
閉塞空間において、もうひとりの男アダム(これまた象徴的な名前だこと)と移動(空間)の自由を奪われながら、妻子の無事と自らも助かる道を必死に探るローレンス。
しかし、このふたりの関係性に対称性はない。
ローレンスは私生活の秘密や人格が次第に顕にされ、ペルソナが解体されてゆくのだが(昨日の映画でも告白をしあった)、アダムは、最後まで肝心なことは何も話さず結局何も暴かれない。
それは、直接殺人に手を下す病院の雑役係のゼップやその裏で自らの手は汚さないジグソウらと更に事件を執念で追う刑事タップからも情報提供―盗撮という関係で金を得ていた共犯的存在であり、彼は自覚を持っており明らかに同じゲームにはいない。
(ローレンスにとりアダム殺害が、妻子と自分を助ける条件である。彼が犯人と仲間と知れば、端から命は保証されないはず)。

しかし犯人がどういう意図であろうと、試されるのだ。
この極限的場面場面でその都度実存の再編成を彼らは強いられる。
その展開が、実に痛い!
それは、自分に直面することでもあり、逐一神(悪魔)の目から見られ、文字通り身を切る事でもある(やはり重奏されたSAW)。
しかしそれである意味、ローレンスは救われてゆくのが分かる。
(少なくともわたしの目からは)。
ローレンスは、人間としての尊厳をあらためて獲得してゆくではないか、、、。
それを一部始終”God Only Know”の立場で見ていたのは、神である犯人ジグソウである。
一体、最後まで身近に「見ていた」ことで彼は何を感じたであろうか。
必ずや逆照射されるものがあるはずだ。

麻薬依存の女性もそのゲームからかろうじて生還し、結果的に救われる(麻薬から解かれる)。
彼は、生を大切にしない者は許さない、と騙る。(昨日の判事は単に罪を裁くものであった)。
明らかに常軌は逸しているが、自身の身体性から見えることが、はっきりあったのだ。
そして怒りが抑えられなかった。
それと同時にサイコパスが発動した、と言えるか。
しかしやったことは、単なる悪趣味で悪辣な殺人にほかならない。


昨日の判事と同様の生理を感じる。
(しっかり継承している。立派!)

サイコ(いや、狂信と謂おう)の底知れぬパワーを今日もつくづく味わった。
特に、ローレンスとアダムのあれだけの狂気渦巻くやりとりの「間」で、屍体としてひたすら見ていられるという異常性には文字通り脱帽!である。
あの展開にはさすがに「うっそー」と、、、思った(苦。


そして誰もいなくなった

AND THEN THERE WERE NONE01

AND THEN THERE WERE NONE
アメリカ
1945年
ルネ・クレール監督・脚本
アガサ・クリスティ原作

バリー・フィッツジェラルド、、、判事
ウォルター・ヒューストン、、、ドクター
ルイス・ヘイワード、、、ロンバード
ジューン・ドペレス、、、ベラ


”AND THEN THERE WERE three”
スティーブ・ハケットの抜けたジェネシスが出した最初のアルバムタイトルをみて、なるほどねと当時思ったものだ、、、。
この映画は、、、そして”ふたり残った”。

途中で嫌にならない、わたしにとっては数少ない映画である。
テンポが絶妙であり、目を離せない。
孤島という閉塞空間にひたひたと起こる狂気の殺人劇である。
彼らを招いたホストが不在であるという構造には魅せられた。


全体に軽みがあり、幾らかコメディタッチで、人物像が少し人形めいている。
ひとりまたひとり”10人のインディアン”の歌詞に合わせて殺害されてゆき。
このメンバーの中にこそ、そのホスト=犯人がいるとして、皆が互いに疑心暗鬼となり、不信感を募らせてゆく過程は描かれているのだが、、、。
何と言うか、情念の部分が抜け落ちている。
役者たちは至って達者な人ばかりなので、演出上のことだと思われる。
とは言え、役者の演技や脚本に、無駄がなく簡潔で上品な雰囲気が味わえた。
細かい仕掛けや演出の工夫は充分感じられ、最後の電灯の傘の使い方など思わず唸ったところだ。
猫も毛糸も人形も鍵もモノクロの光の明暗の中で、とても活きていた。
映像の解像度は、最近観た古典映画の中でも良い方ではないが、画面に傷が見られなかったのは大切に保管・管理がなされていたためか。
役者たちの顔に馴染むのにやや時間を必要とした(笑。

今更ストーリーについての感想を書く気は無いが、最後のはっきり原作とは違う(戯曲版だという)オチは、それはそれでとても楽しめる。
11人目がヒョイと現れるところなども、粋である。
(彼は最初に印象的な姿を見せていたが)。
よく練られている。


個性から言って一番癇に障る判事がやはりサイコパスで、わたしにとってあまりサスペンスとは言えなかったが、充分展開を楽しめる内容ではあった。
客の中に犯人であるホストが紛れ込んでいると皆に明かすのも彼であるところからも典型的サイコである。
ただ、死ぬ前にあの種の善行を行って、死ぬんだという心象も動機も全く共感は出来ない。
余りに手の込んだ悪辣な仕掛けをわざわざ死期も間近な男が組む事自体、ご苦労様なものである。
(やはりサイコらしい)。
その分のシラケはあるのだが。
異常設定が基本となっているのだから仕方ない。
流れを楽しむ映画であろう。

最後に残る男女のやりとりも軽妙でよい。
信じることで救われる、となる。
物語の最後に、ここは説得力があった。
結局はラブ・ストーリーでハリウッド調にキメたと言えるか。
(ルネ・クレール監督ではあるが)。


しかしこの既視感の度合いは、やはりどれだけこの作品が後の映画界に反復されてきたか実感するものである。

充分にリスペクトに値する先駆的映画であろう。(オリンピックに影響された表現、、、(笑)。


雲~絶対的な白

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よく変幻する彩雲がどうのといった記事を読む。
わたしもそのような文を書いたりしてきた。
今日長女と公園に行き、芝生に寝っ転がって空をうち眺めていたのだが、、、。
白一色で複雑怪奇な形態にかっちり固まった雲がただその存在を誇示していた。

圧倒する白の存在感だ。
白は油絵やアクリルでは、多くの種類があるが、やはり常に足りなくなる。
娘の宿題で描く水彩の白もつい先ごろなくなって、5本白だけ買い足した。
しかしどの白を使っても、この白は難しい。

白は実際に白そのものの物質性が弱いものだ。
ジンク系は、透明性が高く剥離しやすい。単色では扱いにくく混色には適するが変色は早い。
チタニウム系は、隠蔽力は高いが混色で濁り易い。
学校で教育用に使われる白はそれらの特色を程よく混ぜたミキシングホワイトが使われたりする。
白という素材そのものに関しては、、、。

白い雲をそれっぽく見せるのは易しい事である。
写実的な描写であるなら尚の事。
そのシチュエーション、コンテクストの中に上手く嵌め込めばそれと見える。
適当に色を混ぜても雰囲気は出し易い。
だが、白以外に何も混ざってはいない。
単に、マットな白というレベルではない。

今回の雲は、雲を超えているのだ。
雲らしいものであったが、それより圧倒的に「白」であった。
関係性の中での白ではなく、絶対的な白である。
これは、どう描くのか。(描くとしたなら)。


カシミール・マレービッチのシュプレマティズムの「白の中の白」を画集で見たときも驚いたものだが、、、。

いま空に浮かぶ巨大な白―物自体には慄然とした。


長女が、あんな重いものがよく空を飛ぶね。
と言う。
やっぱり重いの?
と聞くと、、、
うん、重い。
飛行機で何度も見たから知ってる、と。
(彼女はわたしの10倍以上飛行機には乗っている)。
雲の裏側は真っ黒だったりするよ。夜の色。
その時、重さも恐ろしい秘密も実感したらしい。
雲を下に見た時なのか?
しかし、雲というより、、、。

あの白、、、。
白だね、、、。


白でしかない、白。


寝転んで、雲をふたりで見ながら、「白」に絶句した。


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ダンサー・イン・ザ・ダーク

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Dancer in the Dark
2000年
デンマーク
ラース・フォン・トリアー監督・脚本
ビョーク音楽
ビョーク2作目の主演。(1作目は「ネズの木」

ビョーク、、、セルマ
カトリーヌ・ドヌーヴ、、、キャシー


音楽と踊りは、いつも突然始まる。
そしていつまでも終わらない。
(クラフト・ワーク)

最後から2番目の歌。
巨大なウエディングケーキのようなグランド・フィナーレにゆく前の。
最後から2番目の歌を聴いたら。
カメラが上がってゆきラストの合図が出る前にホールを出てしまう。
最後の歌は聴かない。
永遠にミュージカルが終わらない魔法の方法だ。
よいことを教わった。

工場の残業で始まるインダストリアル・ミュージカル。
あらゆる機械音が突然、大いなる喜びに共振する。
リズムとメロディの洪水が誰をも巻き込む。
ささいな色と鈍い光とぼやけた陰が、ビビットで優しく清らかなステージライトに変幻する。
一瞬にその場所は、めくるめく夢の世界へ接続する。
全く新たな時空の生成。

そうだ。
そこは極限なのだ。
飛躍的な共感の。

個人的な苦痛や悲しみから最も遠く離れた場所に生じる振動。
非主体的な身体の身振り。


これは確かに音楽やダンスばかりではない。
絵画も彫刻もそうだ。
小説だってそうだ。
例えば、胸を病んでいるカフカにとって唯一の喜び、快楽は書く事だけであったはず。
ひたすら非主体的に書くことのみ。
中心のないところに終わりはない。
無限に物語は精緻極まりなく機械状に記述され、喜びは持続する。
彼は作品の朗読会でもマックス・ブロートらと腹を抱えて、大笑いをしながら読みあったという。

日常がどのような苦痛と悲しみの文脈にあろうが、機械的に生成される芸術とは原理的に喜びでしかない。
ミュージカルが続く限りは。

ミュージカルを終えないようにする方法が必要だ、、、。

その原理が、苦痛や否定や支配・抑圧を原理とした道徳や宗教・政治権力に封じ込まれると、突然われわれは死刑を前にした人生に立ち戻っている。
暗く殺伐とした視界の中に立ち惑う。
何故、わたしはこんな刑を背負い込まざる負えなかったのか、、、。
カフカはそれをも面白おかしく淡々と精緻極まりない記述を機械的に続け、喜びと化したが。

やはり”Music Non Stop”である。


ビョークには言葉もない。
ビョークが音楽も担当。圧巻であった。(ビョークのMV的魅力にも溢れる。不可避的に)。
レディオ・ヘッドのトム・ヨークとのデュエット曲もある。
「わたしはもう見た。」
「見るべきものはなにもない。」
セルマを陰日向に支えるカトリーヌ・ドヌーヴの抑えた地味な演技がいぶし銀であった。


どの音もビョーク以外の誰のものでもなく、、、

急にビョークの音が無性に聴きたくなった。
”Biophilia”と”Vulnicura”を聴き耽った。
圧倒的な強度―差異である。



火星のカニ

Mars001.png

火星に「カニ」がいて、その移動の軌跡の画像がNASAに届く。
火星探査機「キュリオシティ」撮影の微妙な解像度の写真だ。
なんでも、激写されたらしい、、、。
確かに移動の軌跡らしきものは見られるが、肝心のカニの形が不明瞭だ。
その形から、何故「カニ」としたのか根拠も分からないのだが。
(絶対カニと言うなら食ってもらいたいものだ)。

「こびとのゲート」というものもある。
自然の造形は様々なものを連想させるものである。
地球上の岩石においてもそうだ。
そういうものはわれわれの子供時代の道端に幾らでもあるではないか。
月面に「うさぎの餅つき」だって日本人は長いことみんなで投影してきたものだ。
(それは穏やかに、、、)。
「ゲート」のひとつやふたつ、どこにあっても可笑しくない。
その気になって探せば、地球上にもあるだろう。
しかも何らかの特殊な建造物であれば、それだけ孤立してあるというのもどうか。
環境(遺跡という場所)として見た場合。

あらゆる面から、主体・理性・人間自体の限界が露呈している。
この社会は閉塞感に窒息寸前だ。
外部に何らかの主体・理性・人間を求めたい無意識―欲動が発動するのは、無理もない。
見たいという言語作用で見えるものは少なくないはず。
かつてユングもUFOの存在を人間が調和や平和を求める象徴的形態(円形の完全性)として虚空に描く無意識であると説いたことがある。(実際のUFOの破片のニュースでがっかりしたとか、、、)。
火星にはすでに、「タコ」「うさぎ」果ては「体育座りをするおじさん」まで登場してきている?!
更に火星上空をUFOまで飛んでいたと、、、。
火星にとってみれば、「キュリオシティ」自体が立派なUFOだろうが。

原始生物の存在はやがて確認されるにしても、、、。
この性急さ安易さ尋常ではない。
(また、何かの要因でコロッと飽きられるかも知れないが)。


宇宙―われわれの外に生きる生命体―他者への夢はいよいよ募ってきたことは確かだ。
外部といえば、以前火山の火口を出入りするUFOのことを取り上げたことがある。
確かに今も地底王国の存在など一部、取り沙汰されている。
(いつも一部で、ではあるものの(笑)。
それなら、深海も放っては置けまい。
(こちらは堅実な捜査が静かに続けられているのだが)。


しかし一見外部(未知)の領域への視線に感じられて、やはり完全に内部のありふれた物語である。
既視感とお馴染みの感性に塗れた日常の噂ー都市伝説レベルのネタに過ぎない。
すべては自動的に呑み込まれる。
そしてあいかわらずの反復があるのみ。


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夜の気配 (1

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雨の重力が細く煌く。
柔らかな針となって。

多肉植物に密かに吸い取られてきた。
淡い歴史も定かではない。

散漫な微熱がすべてを曖昧に溶かし込み。
思考はいまだ溺れたまま。

猫も鳴かない。
バイクの爆音も消え失せて。
気配だけが残る。

夜は発光している。
白い漆黒の表面。
とても薄い世界に共振して。

翌朝の湿った紫外線の背後に迫る。
禍々しい遊星の影が。
鈍重な予感のように揺らぐ。

痺れと拡散。
無感覚な雨と風。
思考の一瞬の晴れ間を閉じ込める麻痺。

アルトーの呪文の傘ですべてを遮る。
そのための夢を補給しなければ。


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孤独

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極、私的な話で、少し詩的なものでもある。

完全に独りになることは難しい。
だが、そんな時間は一日に必ずいっときはもちたい。
それがないと、多分発狂に気づかないでいる危険性もある。

独りで部屋に閉じ籠っていても、一向に様々な想念(雑念)が押し寄せてきて、独りになれないことも少なくない。
寧ろ、子供の世話などで独りになる時間が取れずに困ることより、この状況に苛立つケースの方が多い。

こんな時、わたしはドイツの詩人を詠む事にしている。
いくつ目かの詩で思い切り浸り込むと、孤独に目が覚めることがある。
何と言いうか、ようやく独りになれたという静謐さに着地している。(いや浮遊していてもよいのだが)。

詩人は、パウル・ツェランやトラークル、リルケもよい。
哲学書を一日の喧騒が去った後で、ちょっと読もうとしても、歪んだ熱気が身体に潜んでいてすんなりそのモードに切り替わらないことがある。
そんな時にも、、、。
わたしの場合、日本の詩人では、岩成達也や平出隆もよいのだが、フランス詩人で丁度よい人は見つかっていない。(イヴ・ボンヌフォアを読んでいた時期もあるがもうやめた)。
ともかく白昼の時間に、自分にまとはりついた邪念を追い払ってくれる錯乱した呪文があればよいのだ。

できれば、絶望の漆黒の夜空に儚い月がかかっているような情景を感じるものが、こころを清め沈静化してくれる。
あくまでも、わたしの場合、である(笑。

何にも邪魔されない孤独の時間―思考の場を生むのは、殊の他難しいものだ。
「器官なき身体」を生活の只中にもちこめないものか、、、


今夢想していること、、、。



The fosse - Wim Mertens ~ 「夜の概要ⅴ」



”The Fosse”のライブステージ演奏ものがあったため、拾った。
(今日も続きをするつもりは全くなかったのだが、偶然見つけたからには載せたいと思ったのだ)。

アルバムMaximizing the audienceのチューンの方がそれはビビットで安定しているが、これも良い雰囲気だ。
若々しい頃のウィン・メルテンを見ていたため、月日の流れをいやが上にも感じた。
これは、そのまま見続けると昨日載せたものより面白い構成になっていて見応えはあると思われる。
そう、聴き応えというより、ライブコンサートとしての見応えである。
ヴォーカルの女性との連弾もあり、変化のあるアンサンブル自体が嬉しい。
わたしのように、コンサートに行けない身の上からするとささやかな楽しみにもなるというもの。

”The Fosse”の後にもう2曲(4 Mains、Struggle for pleasure)聴くことができるが、その後はLudovico Einaudi(ルドヴィコ・エイナウディ )の映画の挿入歌になってしまうみたいだ。(これは、いまひとつ、、、わたしにとっては)。
3曲目で止めたい。

ウィン・メルテンを聴くとマイケル・ナイマンの「ピアノ・レッスン」みたいな映画音楽を作ってもよいのでは、、、とも思う。
非常にリリカルでドラマチックですらある。
いつも感じるのは、知的になってしまいがちな現代音楽(ミニマムミュージック)のなかで大変emotionalなのだ。
映像的である。


昨日の”Close Cover”とは違い、BGMで詩は詠めない(笑。
とはいえ、トリスタン・ツァラの詩で、もう一つ載せたいものがある。
単にそれだけの理由だが、、、。
今日のものは、昨日の詩より遥かに短い。


勝利の真昼から
「夜の概要ⅴ」

もろもろの溜息は声高に毛皮の時刻からつくられた
そして私は悔恨のない時刻の水のなかで
無感動な歌のように生きたのだ 新しい慈愛は競売で絹の帆を揚げる
その時ひとは愛を何に変えたのか
砂の上低くラヴェンデル香の木の眼の下で断ち切られたもやい綱よ
長く広い祈祷の空間から訪れた汽笛よ
湿り柔らかい妖精の周囲に示される帰還の飛翔よ
執拗な悦楽で輝き 牡牛どもの角のある光明を埋没させる この黒い夜よ
おお 饒舌な海の瓶どもよ――その時ひとは愛を何に変えたのか――

愛の大いなる純真さのように
単彩画を膨らませながら 暖炉の火の皺をのばしながら――
錯乱した木の葉から 息をつめた壁から 凝視する眼から
あるいは生そのものを孤児たちの遊びに変え
絶望を小学生のわめきに声に変えるカードの配り手から
愛の純真さを誰も護りえなかったゆえに
もの静かで揺るぎないひとつの歌が
柏の束を積んだ川船の風にきしむ言葉で 愛を奏でるのだ
その時ひとは愛を何に変えたのか――そして声は沈黙した
棍棒のひと打ちが虚空に跳ねるように
穏やかなひとつの歌がありもはや亀裂はなく
柱時計はなく
下流に狐があり
人形はなく
遠くに別の人形がある
私は何なのか私は何を避けるのか
アザレアの門の向こうにまたひとつの門がある


        「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


dadaの中心人物であったが、そのグループの詩人では大変、親しみやすい(というかエモーショナルで詠み易い)。
過激で知的なのも面白いし刺激的なのだが、こういう詩が好きだ。



なお、このシリーズ?はここまでにしたい。
明日から通常の形態に戻る事にする。
(と言っても毎回、好き勝手な記事を載せているだけであるが(笑)。



Close Cover - Wim Mertens ~ 「近似的人間」


”Close Cover”
ベルギーのレーベル、クレプスキュールから大昔に出された曲。(いつだったか、、、)
ミニマル・ミュージックの作曲家ウィン・メルテン(ウィム・メルテンス)のもの。
その当時は、Soft Verdict名義でこの”Close Cover”が「ブリュッセルより愛をこめて」というアルバムに収録されていた。
次の”4 mains”も実に彼らしい繊細でエモーショナルなミニマル・ミュージックのひとつ。

”The Fosse”が特に有名だが、アルバムMaximizing the audienceに収められている。
彼は作曲、ピアノだけでなく、作詞もする。
ここでのヴォーカリゼイションも際立っている。(女性ヴォーカル)。


単に曲紹介でも、この季節からいって良いかとも思うのだが、わたしはこの曲で昔、遊びをしていた。
結構、彼の曲は詩の朗読のバックに使える。
わたしは、トリスタン・ツァラの「近似的人間」のバックにかけていた(笑。
レコード(塩化ビニールの)からテープに移しリピートをかけて。
当時は、いい感じに思えたが、、、。


出だしと最後の一部分だけ引用、、、。

日曜日 血のたげりを抑える重い蓋
ふたたび見出された自分自身の内面に沈みこみ
身を閉じ うずくまった一週間の重み
鐘は理由もなく鳴り
鐘を理由もなく鳴らせ そしてわれわれもまた
われわれは鐘とともにわれわれの内にうち鳴らす
鎖の音を楽しむだろう

われわれを鞭うつこの言葉の作用は何なのか われわれは光のなかで戦慄する
われわれの神経は時の手がもつ鞭であり
そして疑惑が彩色のないただひとつの翼をつれて訪れ
他の時代からの苦い魚たちの遊泳への贈りものの
崩れた包みの皺だらけの紙のように
われわれのなかでみずからを締めつけ圧迫し みずからを圧しつぶす

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜の暗い吐息が濃くなり
血脈に沿って さまざまな存在の層の
音階に移調されて 海のフリュートが歌う
もろもろの生は原子の微細にいたるまで無限にそして高く
無限に高く繰り返され それゆえわれわれは見ることができないのだ
この生を傍らにしながら われわれは見ないのだ
紫外線のかくも多くの平行な道を
われわれが通ることができたかも知れぬ道を
われわれをこの世界に導かなかったかも知れぬ道を
あるいは 遥か昔にあまりにも遥か昔に発ったゆえに
時代も土地も忘れ去られ 土地がわれわれの肉を吸いつくし
塩と金属と井戸の底の透明な液体だけを残し去ったかも知れぬ道を

私はいま 言葉がその核のまわりに織りなす熱のことを
われわれの名である夢のことを 考えるのだ





                「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


久々に詠んでみた。
これもひとつの鑑賞法かも、、、。

桃太郎

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単に過激なことばのぶつかり合いだけでは、イメージが構成されない。
一義的に意味が収まった歌詞では、鬱陶しさしか覚えない。

すべてレトリック(修辞)にかかってくる。
言葉遊び(押韻)、暗喩等々。

>イメージのもつ最も
>顕著な部分
>”矛盾率に挑める特性”
>を生かしつつ
>私たちの思考を拡大せしめる。


確かにわれわれの現実において、A=非Aの事態にも多々遭遇する。
これは思考作用により見出されるものだと思う。
排中律の否定も同様。

それを契機に更に思考は拡大し、イメージは自由度を増す。
>メタファーは
>類似性(感応)
>を前提に成立


「類似性」というのは最も重要なアイテムだと思われる。
「相違」からは、いや相違で片つけていたら、深く感じ揺り動かされる作用や導きは生まれない。
全く異なるとみえる物に何らかの方法を携え、そこに類似性(相似性)を見出すこと。
(哲学や科学はある意味、この方法を発明する学問か。所謂、概念の発明)。

わたしでも、類似性(相似性)を見出すとき、感応している。
別に明瞭な方法論をもってではない。
殆どの場合、感性(詩的直覚)としか謂いようのないものだ。
対象は多々ある。
主に芸術においてであるが。
(その際、自分の内言語を探り始め、構造を垣間見ることもある)。


そして清々しくもむず痒い想いがイメージを喚起する。
今回は、「桃太郎」であるが。
所謂、ヒップホップに触れて、、、。

ヒップホップというものに、以前触れて(テレビで見て)辟易し拒絶反応をもった。
その歌詞のお説教がましくも押し付けがましい非常に貧困な内容とレトリックに対して。
更にメタファーのない音楽(サウンド)自体に。
まずこの先聴くととはなかろう、と思っていた。
しかし「水曜日のカンパネラ」をヒップホップユニットとしてくくる(変な言い方だが)のなら、認識が変わった。
絶妙なナンセンスである。
そこが心地よい。
意味の脈絡もかろうじて保持されつつ、言葉遊び-レトリックが音韻的にフルに活きている。

妙なオチに見えるかもしれないが、「桃太郎」を聴きくと(観ると)何かざわつくのだ。
エンディングで、桃太郎がキジに乗って鬼ヶ島に向かって飛んでゆく姿に。
寓意や象徴も呼び寄せ。
(それが奈良・平安の詩歌のように古典的にも思える)
言葉にサウンドに絵に。
ナンセンスな重層性が重力を帯びた飛行-調べを生んでいる。



*エストリルのクリスマスローズ(或る詩学Ⅳ)より引用

公園~すごろくゲーム

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昨日の大雨のため躊躇したが、娘たちが行きたがったので、シートを持って公園で午前を過ごすことにした。
どちらかといえば、曇天であったが暑いし、凄く蒸す。(暑さだけならどうにか耐えられるが)。
しかもUV-Aは曇天・快晴関係なく射し込む。
娘たちときたら、すっかり休みボケしており、帽子を忘れUVカットの乳液もつけてきていなかった。
わたしもボーッとしており、車を降りて彼女らを見て始めて気づいた。
これまで、毎日学校に行っていた頃は、みんな忘れずにいたのに、、、。
と言うより、無意識的にやっていたことだ。


暑い中、飽きもせずまた公園でモルモットを抱いて遊んだ。
どう見ても、でかいネズミだが、、、。
抱いてる間、小さな円柱形のウンチをする。
大人しいながら、それなりに環境に対応(対抗)してくる。
足を結構踏ん張る。
鼻をずっとくんくんして何やら探ってくる。
居心地が悪い(抱き方が悪いと)?とピーピーと鳴く。
確かに不満はあろう。
前足の指4本。
後ろ足の指3本。
尻尾はない。(骨はあるらしいのだが)。
人参はもう食べ飽きたみたいであまり食べない。
(順番に次々抱かれて、その度に人参食わされているのだ。もういい加減にしてというところか)。

長女がモルモットをお姉さんに返すとき、この子男の子?女の子?と聞いた。
男の子だったようだ。
次女の方は不明。


次は、熱帯植物園でしばし涼んだ。
自然に涼みたくなるもの。
のんびりしたところで、わたしは帰りたくなったのだが、、、。
長女がブランコだけは外せないと言い、次女がプールに行きたいという。
公園の隣の施設のプールには一度行っているが、滑り台以外に何も面白みもないし、水着もない。
それは諦めさせた。
冷たい水を買って飲むと、スキッと生き返って。
木漏れ日の道を足早に散策し、、、
思いっきりブランコで遊んで、帰ることにした。
やはり、蒸し暑い。


うちに帰り、何故かカレーを作って食べたら、わたしはどうにもお風呂に入りたくなって、入ると疲れが出てゴロゴロ寝てしまった。
すると、微塵も疲れのないふたりが、すごろくゲームをやろうと起こしてくる。
何で今すごろくゲームなのかは、ともかく、やるしかない。
今日は遊んであげると朝、宣言している日だ。
シートがどこにも見つからず、長女と一緒に4つ切り画用紙にスタートからゴールまで作ってみた。
早速遊んでみると、4戦してわたしの1勝3敗であった。
一端の顔して、サイコロ振ってくる。
もう8歳だ。いやまだ8歳なのか、、、。

その後は、iPadでずっと「レアルおままごと」と「プリンセス・ミニー」いう番組を見ている。
魔化不思議だ。
面白いのか、これが、、、。
3DCGムービーの対極にあるような、といかお人形でのおままごとをそのまま映しているだけ。
いつもリカちゃんとか相手に、自分たちでやってるのと変わりあるまい。
他人がやっているのを覗き見しているようなものなのか。
しかしこの世界、どこか「水曜日のカンパネラ」などと通じるところは、ある。
一緒に見てると何となく見てしまう。


映画はさすがに、何となくでも、みる気がしない。
幾つか最初の5分から10分見てはみるのだが、どうにも入って行けない。
映画自体みたくないのだ。
もともと映画というものに対しわたしは距離を感じている。
特に好きな表現ジャンルでもないし。
ブログのジャンルは、映画について感想を述べ始めても「美術」にしているのはそのためだ。
(また気が向けば書くと思うが)。

しかし、育児ブログでもない、、、。


アルフレッド・スティーグリッツ~ジョージア・オキーフ

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自分が心底圧倒されるものを観たいと思い、写真集や画集をひっくり返して観ていった。
マレービッチやデュシャンを観たが、いきなりそこにチャンネルが合わせられず、落ち着こうと思ってスティーグリッツの写真を観た(笑。
わたしはスティーグリッツの静謐な芸術写真が好きである。
写真集を観ているのだが、絵画なのだ。
わたしは、めんどくさい為解説(英語だし)はほとんど目を通さないが、彼が大金持ちの息子で父親に溺愛され、やりたいこと全てに金を惜しみなく出してもらったことについては、ある程度知っている。
かなり贅沢三昧の生活を送りながら、写真の勉強に励んでいたそうだが、金の心配を一切せず十分な教育を受け、妥協することなく写真を芸術に高める仕事に邁進できたことは、素敵なことだと思う。
彼はしかも何を始めても、成功を収める。
展示会「フォト・セセッション展(写真分離派展)」をしても、先鋭的な写真誌「カメラワーク」「291」を創刊しても、写真グループにおいても、、、。
しかも彼の写真雑誌の特集に「ピカソ・マチス」を組むという、その後の芸術界全体に関わる仕事も推し進めた。
つまり、写真だろうと絵画だろうと、彼のメガネにかなう芸術家をどんどん掘り出し紹介し育成もした。
しかし一番の功績はギャラリー「291」であろう。
そこで、ジョージア・オキーフの展示会を無許可で行い、結果彼女の華々しいデビューの場となる。
マルセル・デュシャンの便器をひっくり返したレディ・メイド「泉」の写真を撮ったのも彼だ。
これらの功績は、大変大きいと言える。
スティーグリッツは写真家としても巨匠であるが、その見る目の凄さも尋常ではなかった。

彼の写真を捲っていくうちに、なんとも柔らかな優しい光に満ちた「収穫」やフェルメール調の「パウラ、日差しと影」などで充分に和んでしまった。
そう、いつも彼の写真を観ると、和んでしまうのだ。
精神安定剤になる。
特にこの残暑の時期「部屋の窓から」の雪の降る街を俯瞰して眺める光景には、うっとりして時間も凍結する。
その他、「野心の街、ニューヨーク」など、いまにもゴジラが登場しそうな不穏な空気感に満ち満ちた街のフラジャイルな姿にも興味は尽きない。
動きといえば、一連の「雲」であろう。たくさんある。
わたしも大学時代に影響を受け、雲ばかり自転車に乗りながら写真に撮っていたことがある。
確かに雲は、たくさんたまってしまう。
そして、思い出した。
何とも凛々しい「ジョージア・オキーフ」である。(彼の奥さんのポートレート)。

ここで、写真集は止め、オキーフの画集を観ることに切り替えた。
彼女の絵は、「花」であろう。
わたしは、花が苦手で、恐らく全てのモチーフの中で、一番手こずるものであった。
そんな中、オキーフの花を観て、はっきりと驚愕したものだ。
花は、こんなふうに描くものなのだと、分かった。
分かったが、それ以降、花は一度も描いていない。
わざわざ自分で描く必要もなくなった感じがした。

しかし、今夜更に驚くことがあった。
「山」と「ビル街」である。
実は、花以外、彼女の絵をそんなにこれまで見た覚えがないことに気づいた。
「花」が余りにも有名であったため、わたしも「花」を観ればよいという気がしていたのだ。
だが、「山」と「ビル」は、もっと(いや同様にか)圧倒的であった。
何と言ってよいのか、言葉が見つからないのだが、本日凄いものを観てみたいと思った願いは実現してしまった!
ビルについては、マレービッチにだぶるところがあった。
この簡潔さと抽象性のもつ強靭な説得力には恐れ入った。
(こういった絵を観ると、他の画家たちの絵が如何に無駄に饒舌か、うんざりしてくる)。
ビルから何故かくゆり立つ白んだ煙と絶妙なポジションを夜空に決める月がまた趣深いではないか、、、。
更に凄いのは、山である。
日本画家にも山の巨匠は何人もいる(水墨画から油彩まで)が、それらの画家を上回る自然界の核心をついたとしか言いようのない厳然たる「山」には、唖然とした。
このムーブマン及び色相の強調・単純化とマチエールの独特さは、セザンヌのそれとも異なる方法であり、飛び抜けて傑出したものだ。
しかも、ビルも山も、彼女の描く花に負けず、愛らしく綺麗でもある。


もう家中の誰もが寝静まっているこの時間に、もう少しジョージア・オキーフを眺めていたい、、、。
(もっと発見もあるはず、、、いや、これからである)。


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亀との再会~桃太郎

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娘たちが帰ってくる。
わたしは、シャトルバスの停留所まで迎えに行った。
時間を間違え、20分待たせることに
長女は「何かあったのか」と心配していた。
わたしが単に遅刻しただけなのだが、、、。
次女はただニコニコしていた。
「おかえり。」


荷物を詰め込み、CDを取り替えて出発した。
車の中で、「水曜日のカンパネラ」と「夢見るアドセンス」が交互に鳴った。
単に交互に並べたら面白いかと思ったのだ。
流れは、不思議によかった。
しかし彼女らが知っている曲は、1曲目の「桃太郎」だけである。
これには、かなり乗ったが、その後の曲にはシーンとしていて、やがてお喋りを始めた。
合わなかったみたいである。

これまでに、「遊佐未森ベスト」と「手嶋あおいベスト」と「セラームーンスペシャル」の選曲CDを作り、何れもヒット(好評をはく)してきたのだが、これは空振りのようだった。
そうだ、それらの前に「宇多田ヒカル子守唄選集」も作っていた。なかなか寝付かない時にそれをかけて夜のドライブに何度となく出たものだ。


今回、馴染みの曲が「桃太郎」だけであった。
それに、「夢見るアドセンス」のようなアイドルポップはほとんど聴いたことがなかった。
「いくちゃん」のいる乃木坂の曲は「ここじゃないどこか」、「何度目の青空か?」とか数曲聴いてはいたが。
打ち込みのピコポコジャーンの際立つ音にはまだ慣れてはいない。
それから水曜日のカンパネラも「桃太郎」以外の世界観は難しいようだ。
ことばの面白さにも、なかなかついてゆけないらしい。
確かにそうだ、、、。
「桃太郎」はPVのアニメーションも秀逸であり、あそこから入ったとも言える。
何度見ても飽きない、感性を擽るものがある。
「魂の16連射」なのだ。


7日の誕生日のお祝いを9日、今日改めて行った。
ケーキを昨日Webで見つけたケーキ屋さんに頼んでおいた。
彼女らを家に連れ帰って、直ぐにケーキ屋さんに取りに行った。
すでにケースに「ご予約ケーキ」として飾ってあった。
見た目が楽しい美味しそうなチョコレートフルーツケーキであった。
予想以上に美味しかったみたいだ。
これから、ケーキ屋さんはここにしようと決める。

しかしちょっと大きめのホールケーキといっても、食べるとあっという間になくなってしまう。
花火みたいに呆気ない、、、。
何故か一抹の寂しさを感じる。
(ケーキ食べてそれはないのだが)。
余りに簡単に8歳になってしまうものなのだ。


ふたりが帰ってきて一気に家の中が活気付き、ホッとする間もなく明日はピアノ教室。
来た早々次女は近くの店に自転車に乗っていき、帰りに転んで膝にかなりの傷を負う。
オロナインを塗ってあげた後、亀の水替えを3人でする。
長女の亀がやたら大きくなっていることに驚く。(やはり)。
ふたりははしゃぎながら亀と追いかけっこをして楽しむ。
わたしは亀がこのまま大きくなったらどんなケースにしたらよいのか、今から少し不安になる。
長女のオクラが2つ食べごろになり、毎日摘んでいた次女のミニトマトが今日も2個ばかり赤くなっている。
次女は、録っておいたTV番組を確認し長女は何やら黙々と工作を始めた。
番組の解説をちょっとして、工作の道具と材料を渡す。
時間の流れが変わる。加速する。

また少し遅れてついて行くような時間が始まる。



今日3回目のお風呂に入る。
早く寝よう。


遠藤彰子の世界展~COSMOS~を観る

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8月6日(土)~8月28日(日)
相模原市民ギャラリー
(入場無料)

「絵を描いている私は、自分と向き合うことによってのみ、危うく自分の廻りや外の世界と繋がっています。それが私の絵を描くことなのだと思います。そして小さい頃の記憶の始めから現在までに見たもの感じたことが、絵の内側の重い要素になっているようです。」(遠藤彰子)
パンフレットの冒頭に遠藤氏の文として引用されたものである。(それ以降の解説本文の文章には一切関わらない、、、つもり)。

この一文は、どのような文脈から切り取られたのか分からないが、わたしなりに解釈(咀嚼)出来るものではある。
要するに彼女にとって絵を描くこととは、自分に向き合い幼年期から続く記憶を画像化する作業を通してのみ、廻りの世界との繋がりを危うくも再構築してゆく事の出来る行為である。

自分に向き合うとなると、自分の内界を降りてゆく又は上昇する、垂直的な時空間構造の生成を見ることになる。
通常の生活が、水平に伸び広がっている横軸の等質的空間であるとすれば。
まさに、遠藤氏の上にまた同時に下にどこまでも深化してゆこうとする世界が生じてゆく。
しかしそれは真っ直ぐではなく、螺旋状の捻れをもって伸びる運動である。
捻れは彼女の想念-記憶の人々にとっての階段であり、疾走する自転車にとっての坂路であろう。
それは、記憶の要素にとっての構造となる。

この捻れた垂直運動は、次第に強まりダイナミックになってゆく。
描き続けることとは、そういうものか?
描くという生命力である。
それが大作化を不可避的に齎した。(あくまでも遠藤氏の場合)。

何にしても、ひとつの方法があり、構造が出来れば半自動的に作品は流れ出してゆく。
構造の中を選択的に、かつ無意識的(自然)な流れにのってフィギュアが造形されてゆくはずだ。
ある意味、ジョン・ケージの「チャンス・オペレーション」または、ウォディントンの「エピジェネティク・ランドスケープ」である。
わたしの実感からでもある。

また先ほど垂直的な構造を強調したが、個別的な空間(異空間)の合成された擬遠近法とでも謂える広がりを感じるものもある。
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しかし、それぞれのひとが等質空間にいる訳ではない為、出逢う可能性は垂直構造よりも困難に思える。



よくこの人のような作品について書かれる物語(解説)に、現実の裏側にある何らかの真実を暴き出すとか、現実における欠落感を埋めるために未知の何かを追い求めて、、などの紋切り型が散見される。(というのもまた、この手のものをパンフに見てしまった、、、)。

絵とは平面であり表面でしかなく、隠された意味でも価値でもない。
作家を媒体として生成される有機的な(遠藤氏においては)構成の産物だ。
それと、蓮實重彦氏も説いていたように、創造は欠落を契機になされるものではなく、ひたすら過剰なエネルギーによって生まれてゆくものであると考える。

結局作品というものは、方法でありその具現化のための技術の問題であることを、今日見た絵で再認識した。
それは、確立してゆくに従い、止めどなく溢れ出てゆく。
ときに構造を解体しまた新たな構造を要請しつつ、、、。


わたしは遠藤氏の絵に出てくる要素にもとても愛着を感じる。
特に疾走する自転車やほぼ360度から観られる人物フィギュアである。
この微妙で特異なデフォルメ-フィギュアは、飽きない。
あえて言えば、バルテュスの質感に近いものを感じるものだ。


以前の上に伸びる前のキリコ的な作品も好きである。(以下の2点は、本展示場にはない)。
いまは、大規模な構造の中の記憶要素として活性している。
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好きなデッサン。
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なお、遠藤氏が小学生のとき描いた絵も飾られていた。
フォーヴィスムの影響が見られるものであったが、、、果たしてどうか?

挿絵もかなりの数が展示されていた。
(これらについては、あまりらしさを感じるものではなかった)。


小学校時代からわたしも馴染んできた画家であるが、その頃は今よりずっとコンパクトな絵画であった。
1500号は、まさに壁画を観る思いである。
点数も多く、日本画を様式に取り入れたものもあった。
この充実した展示が無料ということは、驚きである。
しかも、会場が空いているのだ。
じっくり観ることが出来る。


だいぶ以前、同会場で遠藤氏の絵を2点ばかり観ていた。



ゴジラ FINAL WARS

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2004年
ゴジラ生誕50周年作品とか、、、。
「田中友幸・本多猪四郎・円谷英二に捧ぐ」とある。
痛快アクションムービーとして、物量的に力が入っているのは、感じられた。

北村龍平監督


松岡昌宏、、、尾崎 真一(ミュータント兵士)その中でも特に能力の高いカイザー
菊川怜、、、音無 美雪(分子生物学者)
ドン・フライ、、、ダグラス・ゴードン(轟天号船長)
水野真紀、、、音無 杏奈(テレビキャスター)美雪の姉
北村一輝、、、X星人参謀(クーデターによりリーダーとなる)
ケイン・コスギ、、、風間 勝範(ミュータント兵士)
宝田明、、、醍醐直太郎(国連事務総長)
その他、泉谷しげる、伊武雅刀、中尾彬、長澤まさみと大塚ちひろもほんの少し例の「小美人」で登場する。

キース・エマーソン音楽?!(どこの音がキースのものか判らなかった)。
音楽は基本的に耳に入らなかった。(ドルビーシステムであったが)。

日本語吹替版で観たのだが、音がズレて遅れて入り、とても鑑賞に支障があった。


地球防衛軍が組織され、地球のあちこちに怪獣が現れ世界中で戦いが繰り広げられている。
海外での怪獣の暴れるシーンも、まさに海外というものであった。(日本のスタジオ模型に見えなかった)。
轟天号という一見サンダーバード3号かと思うようなドリルのついた戦艦で空を飛ぶ。
どこでも移動できるようである。地下・地上・水中・空と、、、スーパーXからは隔世の感がある。
X星人も現れる。
怪獣を操っているのは、彼らであった。
「妖星ゴラス」が地球に、残り後何時間何秒で衝突すると法螺を吹き、怪獣を消してみせて救いの神のような存在として振舞う。
ゴジラもかつてないほどの敵を相手に戦うが、人間(ミュータント)もかなりのアクションを繰り広げる。
バイクによるアクションも見せられた。
特にゴジラの動きはよい。
敵の怪獣たちのフットワークもなかなかのもので、皆重力を無視した軽快な戦いを繰り広げていた。
そして、今度もモスラである。
どうもこの怪獣の戦い方がよく分からない。
今回も捨て身の戦いで、ガイガンをやっつけるのだが、どうやって倒したのかは見えない。
相変わらず神秘的な怪獣である。

この映画そのものが、何でもアリのアクション系であるため、気になるものではない。
このモスラは、自己犠牲の象徴か。
戦いには、必ずこの役割を担う存在が登場する。
風間少尉もまさに、神風特攻隊のような最後であった。

ゴジラと怪獣たちの戦いに集中すれば、スピーディで小気味よいバトルに魅入っていけるものだ。
人間とミュータント対X星人の戦いは、メリハリやリズムも今一つで、間が持たないところが目立つ。
ダグラス・ゴードンの動きや立ち回りもぎこちなく、不自然なところが多かった。
X星人とういうのも突飛なヒトであるが、音無 美雪というヒトはもっと不思議ちゃんであった。
菊川キャラにあってる?
何しに登場したのかさっぱり判らなかった。
小美人から預かったお守りを、敵に操られかけた尾崎の背中に当てるという、流れ上重要な役目を果たすが、何も分子生物学者である必要はほとんどない。
水野美紀がちょっともったいない気がした。もう少し活躍してもらいたい。(菊川と入れ替えてもよいか?)
北村一輝は特異なキャラを熱演していた。「フィフス・エレメント」のゲイリー・オールドマンばりの怪演であった。
(ちなみにわたしは、ゲイリー・オールドマンの大ファンである)。

何にしても、ゴジラが強い。
他の怪獣をバッタバッタと倒すところが爽快である。
モンスターX,そして変身したカイザーギドラには大苦戦し劣勢に追い込まれるゴジラであるが、そこで事もあろうにカイザー尾崎の念力?からエネルギーを調達し、ギドラを大気圏外まで吹き飛ばす。


この映画はそういう映画である。
そういう映画として楽しむ他はない。
これでいいのだ!


しかしミニラが出てきたのはどうにも白ける。ああいう終わり方はあるまい。
ちょっとだけ、「シンゴジラ」見たくなった。


ゴジラ 1984

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1984年

ゴジラ生誕30周年記念映画であり、実質第2作目となる。
直接、第1作目ゴジラを引き継ぐ作品となっている。
第2作から第15作までは、リセットされ亡きものとなった(拝。
昭和最後に、復活した「ゴジラ」である。
(ちなみに、今度の「シンゴジラ」は、1954年度ゴジラも否定し、始めて現れたゴジラという設定である。わたしにとっては、あり得ない)。

橋本幸治監督
中野昭慶特撮


小林桂樹、、、三田村 清輝 内閣総理大臣
田中健、、、牧 吾郎 新聞記者
沢口靖子、、、奥村 尚子 博士のゼミをとる学生 助手として働く
宅麻伸、、、奥村 宏 尚子の兄 学生
夏木陽介、、、林田 信 生物物理学博士 奥村兄妹の恩師


ゴジラはまさに核の象徴。
ゴジラをもって、はじめて核を世界に正面切って語れる。
こんな感じに、、、という映画。

冷戦時代における米ソの緊張関係と日本の立場や人間が生み出してしまった歩く核兵器でもあるゴジラにどう対峙するか、が描かれる。ソ連の原子力潜水艦がゴジラに撃沈されたことを知ると総理はすぐさま情報を全面開示し、米ソにそれを連絡し触発状態を回避する。

30年ぶりに、伊豆諸島の大黒島にゴジラが出現する。
火山活動により目覚めたらしい。1954年に山根博士が予言したようにゴジラは一体ではなかった。

ゴジラが日本を襲ったら自国の防衛もあり、アメリカとソ連が強硬に軍事衛星から核ミサイルで撃退すると総理に迫ってくる。
もしゴジラがそれで退治できても、東京は焦土と化す。
「米ソは要するに核実験をしたいのです。総理ご決断を。」
「核でゴジラが倒せるかどうかも分かりません。」
米ソに賛同する閣僚もいるが、多方は核は避けたいと願う。
総理は「あなたがたは、自国がゴジラに襲われたら、躊躇わず核攻撃に出ますか?」と米ソ首脳に尋ねる。
無論、「非核三原則」は絶対の立場であり、例外は許されない。
結局、核ミサイルによる攻撃は、中止される。

しかし、一捻りあり、ソ連は原爆ミサイルを日本に向けて発射してしまう。
誤発射であったが、飛んでもない事態となる。
直ぐにアメリカに要請し、迎撃ミサイルで成層圏内であったが、爆破に成功し一難去る。
(アメリカに投下される原爆を防いでもらうというのも皮肉だ)。
だが、ゴジラの方は解決していない。東京は火の海であり瓦礫の山である。

軍は極秘に開発していた国防兵器「スーパーX」を投入する。
飛行性能が高く、ゴジラと相対して戦うことができる軍唯一の空中要塞だ。
チタン合金とセラミック耐熱素材で製造されており、ゴジラの熱線にも耐えうる。
カドミウム弾を実装し、照明弾を発射して、ゴジラがその光を見て口を開けたところに、着弾させる。
その結果、何故かゴジラはビルに寄りかかり眠ってしまう。
しかし、追撃され成層圏内で爆発した核の電磁パルスと放射能雨や雷を浴びて、パッチリ目が覚める。
スーパーXも通常兵器で応戦するも、ゴジラには歯が立たず、ビルを倒され押しつぶされてしまう。

後の頼みはゴジラの帰巣本能に気づき、それを超音波により誘導する研究に成功した林田博士にかかってくる。
奥村 宏も終始協力し、三原山にゴジラを呼び寄せ、噴火させた火口に誘い込み、爆破によりマグマの中に落とす。


巨大な1mもあるフナムシも登場した。(以前は原寸大三葉虫であったが)。
人間の体液を吸い尽くす生物で、ヒトに飛びついてくる。
ゴジラに寄生しているらしい。
石坂浩二が警備員の脇役で一瞬出ていた。
武田鉄矢が浮浪者役で姿を見せた。

キャスト的に、田中健と宅麻伸が被ってしまい、役割と個性がいまひとつはっきりしなかった。
沢口靖子はまだ幼ささえ窺わせる風貌で、良いアクセントになっていたが、人物像が薄い印象であった。
夏木陽介の博士は、ゴジラをあるべきところに戻すため、いわば唯一コミュニケーションに近い接触を試みたと言えるか。
小林桂樹の総理大臣が、一番厚みのある存在に描かれていた。


都民を地下避難させよという総理の命令にも関わらず、なかなか避難が進まない状態は分かるが、余りにも其の辺の政府による危機管理と避難誘導の実態が弱すぎる。
ゴジラが既にいるとわかっているのにすぐ近くを新幹線を走らせたり、あり得ないシーンであろう。
まさか、ゴジラ見学路線でもなかろうに。
また、ゴジラが一時眠りこけた時に、わざわざゴジラの周辺に群衆が詰めかけて(逃げ遅れなのか?)いたが、これでは単に踏み潰されに寄って行っただけである。
かなりリアルに進められる部分とまるで意味不明なところが交錯していた。

全体としてみると、30年前の「ゴジラ」の完成度にはとても及ばないものであった。
だが、ゴジラだけを見ると、かのゴジラの風格と威厳はしっかり備えていた。





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Author:GOMA28
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