プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
必ずパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。


*当サイトはリンクフリーです。

PICKUP
レッド・ファミリー
キューブ CUBE
ドント・ハングアップ
キャット・ピープル
パラサイト 半地下の家族 -2
パラサイト 半地下の家族 -1
ヘンリー・ムーア~彫刻に見る普遍性
911爆破の証拠―専門家は語る 前
9/11:爆破の証拠 - 専門家は語る 後
アポロ 11
シャチ~優しい殺し屋~
ハイヒール
お嬢さん
とうもろこしの島
セールスマン
トラピスト1に寄せて
「労働疎外より人間疎外」によせて
カッシーニ グランドフィナーレ
カッシーニ グランドフィナーレⅡ
シチズンフォー  スノーデンの暴露
スノーデン
レヴェナント: 蘇えりし者
透明な身体性
森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ
ヴィデオドローム2 ~イスラム国 ~アノニマス
見えない重力を描く Ⅱ
美の翳りに寄せて
写真についてーⅡ
午前零時の奇蹟(シュル・レアリスム覚醒の時間)
パーフェクト・デイ ~ルーリード ~ローリー・アンダーソン ~スーザン・ボイル
未来派の画家~ウンベルト・ボッチョーニ
Balthus ~ バルテュス展行ってまいりました。
「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ  ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ
大昔のスケッチ(詩画集のための試作)
すでに世界は終わっていたのか ~ ヒエロニムス・ボスその1
スヌーズレン002
情報リテラシー  ~華氏911 ~不都合な真実
南伸坊「歴史上の本人」
プラトーン
アリータ
カレンダー
07 | 2016/08 | 09
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

ゴジラ

GODZILLA.jpg

1954年
本多猪四郎監督
円谷英二特撮
伊福部昭音楽

宝田明、、、尾形(恵美子の恋人)
河内桃子、、、山根恵美子
平田昭彦、、、芹沢博士
志村喬、、、山根博士(古生物学)恵美子の父

デジタルリマスターされており、かなり綺麗な白黒画像であり、威厳を覚えるシーンが幾つもある。
かなり昔にTVで見ていたはずだが、全く覚えていなかった。


人類に対する自然界の逆襲として描かれており、「ビキニ環礁の核実験」批判でもあり、人間の核使用によって生まれた生物をまた人間のために葬るという人間中心主義批判の映画である事は言うに及ばず、最も重いのは強力な破壊兵器を為政者に絶対渡してはならないというメッセージである。勿論、原水爆のような規模のものは最初から国家主導で構築されるほかは、なかったのだが、この映画のような発明であれば、それを権力に如何なる場合でも譲渡しないことも可能であろう。
ここでは、その武器を作った博士がゴジラとともに自らの命を絶ち、その兵器開発の秘密も葬り去る。
崇高な映画であった。
伊福部昭の音楽が全編に渡り素晴らしい。この音楽と効果音、演出がこの映画の水準を支えている。

この一作目は間違いなく不屈の名作であるが、、、。
これ以降、続々とゴジラシリーズは作られるが、次第にエンターテイメント化し、ゴジラが人類の味方にまで堕落し、フレンドリーでときに剽軽な目も当てられない存在となる。
(売らんかなの興業成績目当ての陳腐な日和見主義が裏目に出て、確かワースト記録も出したはず)。
その為、軌道修正として、2作目以降を全て亡きものとして、真にこの一作目を引き継ぐ「ゴジラ」が1984年に制作された。
つまりその間の「とっとこハム太郎」とかと一緒に、同レベルとしてファミリー向けに上映されていたものはゴジラ史上チャラとなった。
めでたいことである。

今度は元路線から再出発するかに見えて、、、単にメカ開発や、超能力少女が絡んだり、女性リーダーが妙にクローズアップされて、前と同じようにVS何とかに安易にシリーズ化してゆく。
最初の世界観などもはやなく、基本対戦ゲームを楽しむような感覚であり、畏怖の念や苦悩・葛藤などはどこにもない。
また主役級のキャストの質が著しく低くなる。(反面脇役が豪華キャストだったりする、、、)。
そして1998年ハリウッドGodzillaで完全に地に落ちる。もうズタズタの再起不能レベルであった。
アメリカのゴジラファンもそれを見て「恥ずかしいよ!」と嘆いていたものだ。
(反対に平成ガメラの質は高水準を保つ)。

しかし、ギャレス・エドワーズ監督の2014年Godzillaで見事、復活する。
この映画は、ゴジラの威厳(異物感)を取り戻す傑作であった。
何より、1998年ハリウッドゴジラに微塵もなかった風格があり格調高い作品である。
「シンゴジラ」は、まだ観てないが、数年後にでも暇があれば観てみたい。


ミニチュア模型はひと目でわかるものであった。
ドンドンという足音がするが、ゴジラはまだ上陸前だったりする。
普通ならそれで興醒めしたりするものであるが、この作品はそれを許さない。

トリロバイト(三葉虫)と残留放射能、山根博士自らが撮影したゴジラの頭部からこの怪獣の実像を推察するシーンは、なかなか尺もあり説得力があった。
またこの山根博士が水爆にも耐えるゴジラの生命力を研究したい、死なせたくないという葛藤もよく分かる心情であった。
更に、オキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢博士の孤独と苦悩。
しかし、ゴジラによる東京破壊の実情は、核投下後の広島・長崎さながらである。
野戦病院のような救護所で怪我人たちの世話をする恵美子。
この破壊をなんとしても止めたいという尾形をはじめ多くの都民の願い。
すでに芹沢の強大な威力をもつ生物化学兵器を知っていながら口外できない恵美子のとる選択。
それぞれの人間の心的流れがずっしり描かれており、音楽が要所を押さえている。
(キャストがとてもよい)。
最後の芹沢博士の自己犠牲を前提とした決断。
それを決意させる少女たちの「平和への祈り」の合唱。
無駄や誤魔化しのようなシーンはどこにもない。

ゴジラが白熱線でグニャット捻じ曲げる送電線の鉄塔は、素晴らしくリアルで美しかった。
放射能の熱線を発する前に光る背びれは、これぞまさしくゴジラである。
ゴジラの圧倒的な勇姿がもっとも観られる作品であった。



続きを読む

フェイスタイム~メアリー・カサット

Mary Stevenson Cassatt

久々に娘と長時間フェイスタイムで話をした。
話すというより、向こうは次々に玩具を出してきて遊び方を教えるというかたちだ。
こちらが何を答えても、まともに返事もしない。
4つ玩具を買ってもらったという。
ひたすらそれらで遊んでいるところを見せたいらしい。
彼女らの元気な様子が窺えるので、とりあえずほっとする。

亀の話には食いついてくる。
体が大きくなって、力も強くなり、走るのも速くなったことは伝えた。
実際に見せるのはタイミングがある。
この時は、ふたりとも亀島の下でじっとしていた。
つつき出すのは、忍びない。
ご飯と水替えも少し心配していた。
それが、わたしの生活のリズムともなっており、大丈夫というと、また遊びに夢中になる。

基本は、お人形相手にお医者さんか美容師ごっこがお気に入りだ。
買ってもらったのは、電池で動く犬と目玉の動くお人形である。
家にもリカちゃんが6人いるのだが、向こうで我慢できなくなったらしい。
どちらも、熱を測ったり、注射をしたり、包帯巻いたりして、あとはとても丁寧に髪をいじっていく。
家にいる時と同じことがやはりしたいのだ。
今日は向こうも余りに暑くて外に出る気になれなかったらしい。

わたしも亀の水替えと庭の木や花の水遣り以外では、今日は一歩もうちを出ていない。
旅行前に気にしていたオクラとプチトマトのことはこちらから切り出さないと何も言わない。
学校から引き上げてきた頃は、ふたりとも収穫を楽しみにしていたのだが。
こちらにとっては毎日少しずつ食べられて、なかなかよいものだ。


横浜美術館で「メアリー・カサット展」をやっている。
門の外に出るのが億劫のため、まだ出向いていない。
メアリーは「母と娘」を描ききった画家である。
母と娘をあれほど描ければ、人についてはもう描くところなどないだろう。
よく8歳まではヒトは、母親との関係で育つと云われる。
メアリーの絵に出てくる少女も赤ん坊からせいぜい8歳くらいまでが多い。
彼女の絵を画集で改めて観てみた。
母が幼い娘を膝に乗せ抱いているだけでどれだけの精神運動がなされているだろうか。
最初の親密な他者との間に起こる感情と知性のせめぎあいのとても繊細なドラマを見る思いがする。

もしこの関係性に病的な歪みがあれば、、、取り返しのつかなくなる場合もある。
われわれは意識で生きるものではない。
母親の無意識次第という場面が実は大変多い。
子育ては、一筋縄ではいかないものだ。
この関係特に、母息子において難しいものがある。
それはここで述べるものでもない、、、。

父親はしばし、見守るしかない時期はあるようだ。
(見守ることが殊の他重要性を持ってしまうのだが)。
 

ちょっと喉が渇いたが、ビールもない。
(最近、ワインよりもビールになった。飲んでも1缶であるが)。
明日辺り、買ってこよう、、、。




ビキニの裸女 

Manina.jpg

Manina la Fille Sans Voile
1952年
フランス
ウィリー・ロジエ監督

ブリジット・バルドー、、、マニーナ

これも古典かな、と思って観てみた。
最近古い文学的な作品こだわっており、20タイトルほど買い込んだ。
しかしどうしても重くなり、続けて観ていくのはしんどい。
それで、ちょっと雰囲気の軽そうなものも選んでみた。
ブリジット・バルドーの初主演作というのにもつられて買ってしまったが、これは主演ではなかろう。
しかし彼女の演じる娘の名前がタイトルなので、やはり主演なのか?
映画の後半に漸く出てきて、かなり待たされた感は、ある。
いきなり現れたとき新鮮味を覚えた。(最近、こういう無垢な少女は見ていない事に気づく)。
確かに若々しく瑞々しいバルドーであったが、まだ独特のオーラは纏ってはいない。
と言っても、「バルドー」に特に思い入れしなければ、充分に美しい普通(ノーマル)の女性である。


それにしても「ビキニの裸女」ってなんか怪物が現れたみたいではないか?
つい最近TV録画で「モスラ対ゴジラ」と最初のしょうもない方のハリウッドゴジラの映画を見たばかりで、このタイトルときた。
勿論、バルドーはビキニは着ているが、ヌードには全くなってはいない。
そもそもビキニの裸女って、、、意味が分からん。まあ、それはいつものことだが。
バルドーが島で暮らしていて、普通に水着で海を泳ぐというくらいのところである。

内容は、パリから宝探しにコルシカ島にやって来た大学生と島の少女マニーナとの恋の芽生えの物語とでも言うか、、、。
これだけでも、監督によっては、複雑な伏線を張り巡らし面白いストーリーを組み上げたり、圧倒するコルシカの自然の映像美で畳み掛けるなど、様々な手法があると思われる。
が、これは他愛もない映画であった。
特に前半はフランス映画とは思えない、文学性の欠片もないもので、終戦間もない頃の日本のドタバタ映画にも似ている。
アランドロンの「太陽がいっぱい」などの対極に位置する部類だ。
演出や撮影・カメラワークに特色もなく、特に印象に残る絵も無い。
ストーリーも平坦で厚みも無いが、予め重厚なものは避けたものだから、あまり文句も言えないか。

しかし、軽めのものは望んだが、薄いものを欲したわけではない。
この映画見終わったばかりで何故、何の印象もないのか、と考えてみると、、、
登場人物に厚みがない以前にその存在に全く魅力がない為である。
つまり人物を造形するにしても、それ自体が端からつまらないので、描いてみたところで絵にならないのだ。
特に主人公?の学生であるが、大学教授の馬鹿げた冗談を真に受け、即宝探しに出かけるなど有りうるか。
そこから周囲を口車に乗せてお金を無理やり工面させ、それを元にヒトを巻き込みつつ好き勝手をしていただけだろう。
この主人公に共感持てる人が果たしてどれくらいいようか?
あのタバコ密輸業者も彼に協力したおかげで、命を落としたようなものである。(自業自得ではあっても)。
最後に、ふたりで虚しい夢を見たわね、みたいに感慨に耽って、抱き合い愛を誓うって、、、。

その前に、君のやってきたことはヒトをそそのかす詐欺まがいのことだろう。
それで利用した人間が3人も犠牲となり、金を上手く言いくるめて出させた人間にはどう対処するつもりか。
アパルトメントの部屋代も滞納していて。
ともかく、この大学生が軽薄を超えてアホすぎ、魅力も面白みも何も無い。
その男にご執心という女も気が知れない。
最終的にバカップルがひと組出来た、という映画かい?


フィルムの保存状態が悪かった為か、ノイズや傷がかなり気になった。
フィルムの保存・修復作業の大変さを、ヒッチコック映画の保存スタッフの記録を観てつくづく感じたものだが、ブリジット・バルドーの若き日(プレ・BB)を残す意味ではこの映画もその対象になるであろうか、、、。
(わたしは、特にこのフィルムでそんな苦労することもなかろうと思うが)。

まだ、毒がないためBBのアイコンは無いが、AKBなどよりは遥かに清々しく初々しい美は湛えられている。
なくなったら、もったいないか、、、。






マグダレンの祈り

Maria.jpg
The Magdalene Sisters
2002年
イギリス、アイルランド

ピーター・ミュラン監督


ノーラ・ジェーン・ヌーン、、、バーナデット
アンヌ=マリー・ダフ、、、マーガレット
ドロシー・ダフィ、、、ローズ(パトリシア)

アイルランドでは、1996年まで女子高更生施設に3万人が監禁されていたという。
家族に見捨てられ、福祉制度もない未婚の母たちには修道院の施設しかなかった。
キング・クリムゾンが「クリムゾンキングの宮殿」を発表して27年後漸く廃止されたというのも信じがたいのだが。
(ビートルズの「アビーロード」よりも聴かれた”エピタフ”はどこにも流れていなかったのか?)

この映画の舞台の「マグダレン修道院」もその施設のなかのひとつである。
改心した娼婦マグダラのマリアから名前をとった更生施設であるが。
紛れもなくナチスのアウシュビッツにも等しい、多くの魂を虐殺した場所である。

ここの実態も知らず強制的に入れられた少女たち。
彼女らは親によって無理やり連れてこられる者も少なくなかった!
そういう3人の少女を軸に物語は展開する。(実話に基づき)。

孤児院で育ちその美貌により道を逸れる前に連れてこられた、ティツィアーノの「マグダラのマリア」を彷彿させるバーナデット。
未婚で子供を産んだローズ。
従兄弟にレイプされたマーガレット。
彼女らは全く罪が無いばかりか性被害者であるにも関わらず、「婚外性行為」をした罪でここに幽閉されるのだ。(バーナデットはそれを未然に防ぐためという理由から)。
それは疑いや将来危惧されるレベルでも入れられてしまう。
しかも噂が広まる前に、本来身を呈して守るはずの親や親戚に連れてこられる。
厳格なカトリックとは、宗教とは、一体何なのだ?!

カトリックの厳格な戒律の元、修道女には絶対服従で、ひたすら過酷なルールに従う。
衣服は没収され、粗末な茶色の不格好な制服を着せられる。(一般にはひと目であの修道院だと分かる)。
プライバシーは一切ない。
過重労働である洗濯を無償でひたすら行う。(象徴的でもあるが)。
娯楽も息抜きもなく、友達付き合いも会話も、外部の人間とのちょっとした対話も禁止される。
物事、人に対する関心は一切持たないことが崇高な生き方であると強制され。
思春期に達しても、性教育もされず、自分の体に対する不安と混乱も抱え込む事になる。
子供を産んだ(産まされた)ばかりで連れてこられ、乳が張って苦しい少女に対しても何も対処されない。
修道女たちの性的な虐待と虐めが日常的に続く。
更に神父による性的虐待が加わる。(神父に暴言を浴びせた娘は精神病院に監禁された)。
高い壁と有刺鉄線に阻まれ脱走は極めて難しく、失敗し捕まった場合厳しい折檻が待っている。
不服従とみなされた娘は、罰として髪を剃られ激しいムチ打ちにあう。(質問しても不服従となる)。
絶対的に正しい教会に対して、自らは罪人であるという意識をあらゆる局面ですり込まれる。
身体を悪と看做すよう徹底的に矯正される。
施設内は基本的に無気力と諦観に満ちてゆく。

「魂」を救うために「性」を捨てろ、という暴挙。
性は生物学的にみても、死よりも本質である。
(であるからこそ、それをシステム維持のために権力は利用するのだが)。


結局この修道院とは、罪の意識を植え付けそれを償わせるための装置以外の何物でもない。
(しかし、外界はどうなのか?教会に対し意味も問わず無条件に従う精神に何ら変わりはないではないか!)

こんな環境が1996年まで存続したことも驚く事ではないであろう。
現在でもこの構造はヒトの精神にしっかり残存しており、何かの機会にいつでも発動するものだ。


マーガレットは弟が迎えに来て、院を去る。
「もっと早く迎えに来れなかったの!」と怒る姉に、「成長してきたんだよ。」と弟。「もっと早く成長しなさい!」
確かに、彼女が親・親戚に厄介払いされるとき、弟は何もわからない子供であった。

バーナデットとローズは、共に院を脱走する。
欲の皮の突っ張った修道女に彼女らの労働で溜まった金の保管されている金庫の鍵を差し出すと、黙って見逃すのだ。
呆れたものである。
(彼女は鍵を失くし、ローズはそれを探し出していた)。
「ダブリンってイギリスよね?」「多分そうね。」と言って、逃亡を敢行する。


彼女らは外界に出ても、適応はさぞ難しかったことであろう。
最後に見せるバーナデットの見せる生きた鋭い目!(雨降りの郊外で出逢った修道女たちを睨みつける目)。
クリムゾンもパンクも間に合わなかったが、、、不屈の批判精神でギラギラしている。

教育も満足に受けられなかったであろうに、マーガレットは教員となり校長補佐にまでなった。
バーナデットはヘアーサロンを開店するが、3度の結婚に失敗する。
ローズは2児をもうけ、50年ぶりに第一子に会うことが叶う。
しかし、彼女たちのいずれも性に対する外傷経験のため、幸せな結婚生活は送れなかったという。


外界に暮らし始めた3万人を超えるカトリック修道院にいた女性の共通の特徴は、教会に対する激しい敵意と憎しみであるという。
当然であるが、この大罪に対し教会側はどのような謝罪と補償を彼女らにしたのであろうか?
それについては、この映画では何も語られていない。
(それ以前にこの社会自体が基本的に、まだ何も変わってはいない。このことがまず問題であろう)。

ダブルフェイス 秘めた女

Ne te retourne pas01

Ne te retourne pas
2008年
フランス

マリナ・ドゥ・ヴァン監督・脚本


ソフィー・マルソー、、、ジャンヌ
モニカ・ベルッチ、、、ローザマリア

非常にしんどく重い映画であった。
ソフィー・マルソーの混乱に歪む(VFXも使われる)顔の表情や手足の浮腫など苦悶の表現が長時間続き、見ていられなくなる。


主人公の作家は8歳以前の記憶をなくしており、自伝的小説を書くにあたり、その記憶を何とか蘇らせようとする。
するとそれに同期して、アイデンティティを大きく揺るがす様々な出来事が身辺に起こり始める。
(そもそも自伝小説を書こうと強く思うこと自体が無意識からの突き上げであったはずだ)。
ジャンヌ(ソフィー・マルソー)の「現実」の足元が次々に崩壊を起こす。


わたしも8歳以前の記憶など無いが、特に不思議に思わずきたが、普通のヒトは覚えているのか?
覚えていないと困るものか。
このひとの場合は、思い出すべきであった。
そうしないと気持ちよく普通には暮らせない。
彷徨える魂も解き放たねばなるまい。
誰もが本来あるべき場所にいることが必要なのである。

ローザマリアという連れ子のため義父に愛されなかった幼い少女が、養父母に引き取られることになったのだが、自動車事故でその養父母と同年齢の娘が死んでしまう。ローザマリアはその現実を幼いながら何とか受け止めるために自分がジャンヌになることにした。
つまりそれ以前の自分を幼いながら自らの意思で消去したのだ。
それまでの自分の存在も周りから望まれてはおらず、自分を迎えに来た自動車で娘と新しい親が死んでしまった罪悪感もあったであろう。
彼女はジャンヌとして生きることを選び、夫とふたりの子供もいる家庭を持ち作家として暮らしている。

しかし、書くという行為は抑圧したこころをそのままにはしておかない。
まさにこころの底を掘り返す作業となってゆく。
当然、自己防衛と抑圧によって作り出したセルフイメージもそれに密着・連動する周囲のイメージも変容を余儀なくするだろう。
重い蓋が開かれてしまった。
街を歩くと忽然と少女がどこかで見たような現れる。
自宅ではテーブルの位置や物の置き場所が微妙に変化する。
やがて夫の撮ったビデオに違う容貌の自分が映っていることで混乱を極める。
自分の顔が見知らぬ顔に変わってしまった。このソフィーからモニカに変貌するVFXは並みのホラーより怖い。

それからというもの、夫も子供たちも、最後の頼みにしている母親も全く違う容姿となっている(見える)。
彼女は母がイタリアで撮った写真に映っている女性を探しに行き、その女性に会う。
母親であることをすぐに悟るがその婦人は彼女を固く拒む。
更にその女性の息子が、彼女のこれまでの(変容する以前の)夫そのものなのだ。
ここのイメージ形成がいまひとつつかめないのだが、、、
その男性は、実の母と再婚相手との間にできた息子(父違いの弟)である。
そういうものなのだろうか?

ともあれそこの地において、記憶の空白期の出来事を知り、封じ込めていた記憶と合致する。
自らはローザマリアとして少女に戻る。
ジャンヌの存在を遠い記憶から蘇らせ、ふたりで仲良く過ごすイメージを浮かべる。
そこから一旦、ジャンヌの大人の(ついこれまでの)姿を経て、現在のローザマリア(の姿)となる。
結局モニカ・ベルッチのローザマリアに完全に引き取られる。
彼女は、元気にイタリア休暇から戻り、変容したあとの正しい姿の夫とふたりの子供と楽しげに抱擁する。
その姿をジャンヌが離れたところから見ている。
ローザマリアも彼女のその姿を見て微笑む。

あるべき姿に皆戻り、ジャンヌはローザマリアの幻想として健全に分離され世界は安定する。
最後は「ふたり」で一緒にパソコンのキーを叩き、例の小説を仕上げてゆく。
感情のしっかり込められたよい小説となったはずだ。


死は不確かなりに死として認めるしかない。


Ne te retourne pas02

続きを読む

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

SF PickUp