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GOMA28

Author:GOMA28
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狩人の夜

The Night of the Hunter01

The Night of the Hunter
1955年
アメリカ

チャールズ・ロートン監督


ロバート・ミッチャム、、、(偽伝道師ハリー・パウエル)
リリアン・ギッシュ、、、(孤児をボランティアで育てる信心深い婦人レイチェル・クーパー)
シェリー・ウィンターズ、、、(ハリーに殺されるジョン、パールの母ウィラ・ハーパー)
ビリー・チャピン、、、ジョン・ハーパー(ウィラの息子)
サリー・ジェーン・ブルース、、、パール・ハーパー(ウィラの娘ジョンの幼い妹)

かなり特異な肌触りの映画であった。
ハリウッド映画とは思えなかったものだ。

わたしが感動してしまったのは、あの訳のわからぬジョンとパールの兄妹が夜小舟に乗って川を下ってゆくときの光景である。
岸辺のカエルやほかの動物たちの姿がアップで映ってゆくシーン。
静かで生々しい威厳に満ちた動物たちであった。(兎や亀、羊もいた)。
そのなかをただ流れゆく小舟。
アメリカの非常に優れた写真家、例えばスティーグリッツなどの撮った写真を想わせるふたつの家屋や鳥かごに驚く。
通常のハリウッド映画に組み込まれる絵とはとうてい思えない。
超自然的な雰囲気で一気に画像に神秘的な厚みが増す。
ここは一種の境界である。子供たちは生と死の狭間を行く。
勿論、ここにくる前の川において、彼らの母親が首をナイフで裂かれ車ごと沈められた、髪が流れにそよぐ水草のようなあの妖艶な姿は、もうミレーの描くオフィーリアであったが。
やはり同じ川なのである。夜も更けより死の密度は高まってゆくのだ。

突然あの妹が唄いだした美しい「ハエ」の歌。
兄のジョンが眠りに就いたときであった。
これはもう、極めて良質なシュルレアリズムの作品である。
兄の意識の不在に伴い妹が目覚め動物たちのオーラが放たれ。
彼女の歌は、深夜の漆黒の川に煌く光のようにたゆたう。
やがて物語のテーマ音楽としてオーケストラに引き継がれてゆく。
ここから一段深く(無意識の層から)映画に取り込まれて行くことになる。
そしてその後に流れる「母」の歌としかとれない歌は、水底からふたりを見守る母の想念によるものか、、、。
優しく子供の身を憂える歌である。


何度も聞くハリーの唄う歌は「虚無」を歌にしたらまさにこれ、という歌である。
「頼れよ。頼れ。そうすれば全ての恐れは消えゆく、、、。永遠なる主の御手に。」
絶妙なタイミングで悪魔(ここでは狼)の到来を告げるように不吉に流れ出す。その乗馬の影とともに、、、。
彼自身の存在を顕に示すテーマソングみたいだ。
普段は当たりの良い伝道師として振る舞いながら、ナイフを持って雄叫びをあげる表情など尋常ではない。
未亡人ばかりを金品を奪って次々に殺害する男だ。
しかも聖書を唱えながら。
「聖書には殺人が満ちています」って解釈も自己弁護にはならないが、、、。
彼もある意味、原理主義者のひとりなのかも知れない。
その確信的な振る舞いからしても、、、。
これがロバート・ミッチャムの風貌で伝道師の姿であるため、みんながコロッと騙される。
(あのhateとloveの指文字のカインとアベルの物語も、話自体は他愛もないものである)。
「羊の皮を着た狼」でなければ、未亡人を20人も殺し続けられるものではない。

ロバート・ミッチャム見事な怪演である。


中盤以降の絵の説得力は凄まじい。
勿論、効果音も全く無駄がなく、音楽も情景にピッタリである。
全ての事象が象徴的な意味でコンテクストを紡いでゆく。
聖書を基調としていることが分かる。


物語全体を見て、女性の愚かさに転じてしまう危うさがひとつのテーマに流れている(レイチェルにもそう語らせている)。
狼を呼び込み、狼を守り、狼に秘密を打ち明け、狼に付け入らせる存在としての。
最後に身寄りのない子供たちを守ったレイチェルだけが、自覚的な女性として描かれていた。
つまり「羊の皮を被った狼」に騙されない強い意志と知性を持った勇敢な女性である。

但し、そこはアメリカなのである。宗教国家であり、プロテスタントとしての共同意識でまとまっている国である。
他の場でも度々書いたが、このピューリタン(宗教的迫害を逃れてヨーロッパからやって来た人々)としての集団意識が如何に強固なものか、そのこともまざまざと知らされるのである。であるため、多くのアメリカ映画にはこれが無意識のテーマとして流れている事は多い。薄っぺらいSFやホラー映画すらにも底流に流れていたりするものだ。
ここはわたしの感覚には、どうしても距離を感じてしまうところなのだが。(いつもそうである)。
その共通感覚を破ることは、大変難しいはず。
聖書の言説に絡め取られる度合いの問題でもある。
だから、ジョンとパールの母ウィラは、あのような目にあったのだ。
その結婚をしきりに進めたお節介おばさんも極普通の感覚をもつ一人に過ぎない。

最初と最後で語るレイチェルは、コロッと偽伝道師に騙された彼女ら(彼ら)と基本的にどう異なっていたのか、、、。
彼女も聖書に深い造詣をもっている女性である。
ジョンとパールの試練を「出エジプト記」になぞって語っていた。

何処にでも少しパラダイムからズレた感覚を持つ存在はいる。(ちょっと頑固な変わり者とか、、、)。
恐らく枠の中の充実よりも枠自体に思考を巡らすタイプの存在である。
通常の内容的な理解では見破れない「見掛け」を見抜く眼力であろうか。
レイチェルにそれを感じた。(批判的宗教家としての)。



カメとふたり

gamera003.jpg

4月生まれのカメがもうすでに、かなり育ってきた。
うちに来た時もふたりに大きさの差があったのだが、その差がかなり開いた。
とは言え、片方が育っていないのではなく、共に大きくなりその差も目立つようになったと言うべきか。

水の取替の時にどちらも二回ずつコンクリの上に落っことしてしまったものだが、甲羅が柔らかく丈夫なため大丈夫のようだった。
そこはiPhoneなどより、しなやかで強靭である。
わたしのiPhoneはもう深い傷だらけであるから。

ともかく、ふたりは走るのが速い。
瞬間的にジャンプもする。(足の蹴りが強い)。
カメがこれ程、すばしっこいものだとは思わなかった。

ふたりがあちこち方向を変えつつ逃げるため、物陰に隠れたりすると捕まえるのに手を焼く。
捕まえてもバタバタ暴れまくる。
それがかなりの力なのだ。

水槽に入れてからしばらく見ていても、一時も体を休めない。
常に手足を動かしており、退屈している様子はまずない。
亀島のなだらかな方から登っていくのではなく、断崖から一気に腕(前脚)の力でグイっと上がってくる。

かなりのフィジカル派であることが分かる。武井 壮みたいだ。
片腕だけで水をかいてバランスをとりながら、もう片方で島に張り付き移動してみたり。
垂直の壁をロッククライミング風に登りかけてひっくり返ってみたりしている。

以前、仰向けにひっくり返ったカメが起き上がれず死んでしまうという話を聞いたことがあるが。
うちのふたりは、裏返しになっても1秒で首の力でさっと向き直り、ひと呼吸も置かずに走り出す。
その姿はあたかも体操選手の床競技みたい。(白井健三選手はさすがに連想しないが)。

そもそもカメがのろまでゆっくり、というのはどこからきたのか、、、。
大きな甲羅を背負ったその容姿からくる重々しいイメージからであろう。
しかしそれは思い込みであった。

うちのカメは障害物も何の躊躇もなく乗り越え突っ走る。
アスリート系である。
一度水槽から出したからには、目は離せない。


27日からいない方の2人は、向こうでやはり一時も落ち着いていないようだ。
プールにしろ遊び場に困らない上、同じ年頃の遊び仲間もいるそうで、退屈はないという。
早くも少し目を離したおり、どこに行ったか分からなくなることもあったようだ。

ともあれフェイスタイムでも話はしたが、遊べるときに思いっきり遊ぶことが一番である。
ちなみに、次女は宿題をほとんど全て終わらせて行っているが、姉はやっていない。
帰ってからの生活の差は出てくるな、、、。自己責任であるが。

二週間で人は然程変わるものではないが、カメは見た目でも大きくなる。
買ってきて1ヶ月ではっきり大きくなっている。
彼女らが帰る前に、見て分かる程度の生長はあるだろう。

ちょっと驚かせたい。





ルームメイト

roommate001.jpg
2013年
古澤健 監督

北川景子、、、萩尾春海(派遣社員)
深田恭子、、、西村麗子(看護婦)
高良健吾、、、工藤謙介(萩尾春海の交通事故の加害者)
大塚千弘、、、殺される看護婦

ハリウッド映画の「ルームメイト」はかなりよかったが、こちらは設定はもっと凝っている。
「乖離性同一性障害」は度々ホラーサスペンス映画の主題となる。
あの「アイデンティティ」は物凄い緊張感で充満していた。
この映画でもその尋常でない心的世界を描く。
晴海主体でその視座から語られるため、彼女と共にこちらも混乱を極める。
手法として成功していると思う。

ルームシェアの時間が長かったが、基本独りであのマインドゲームをしていた分けである。
それは苦しく残酷なやりとりを繰り広げる煉獄のように悲惨な場所と言えよう。
あの母親との電話すら幻想なのである。
いや、麗子(マリ)の深夜の携帯の電話こそ深く、当時に直結していた。
その時間に未だに繋がっているのだ。
しかし、交通事故(それが不慮のものであったのかどうか)により、春海は麗子やマリとの関係を忘れてしまう。
交通事故がなければ、シリアルキラー人格は暴走しなっかたか。
少なくとも、麗子に目を離さず(疎遠にせず)関係性を保っていれば、マリの発動は抑制出来た可能性はある。
関係が忘れられたため、各人格は相克関係になってしまう。
保険交渉の代理人である麗子はマリに場所を奪われ機能しなくなり、保険会社の男にその存在を怪しまれることとなる。
独りで素敵なレストランに行き、独り言でも話していれば、訝る人がいても可笑しくない。
いろいろな局面で人格の破綻が露呈し始める。

しかし交通事故の加害者である工藤謙介がその立場を超えて、春海に深く関わってゆく。
それは、恋愛のレベルにも達する。


性的虐待を含め、少年(女)期に心に深い傷を負った人間は、途方もない重荷を背負わされ回り道を強いられる。
ここは凄まじく共感するところである。
この潜在し続ける時間流は、次の場所が明瞭に用意されない限り、断ち切ることはとても困難である。
人格から分離されたマリの受け持った殺意は、外傷経験に触れる(フラッシュバックする)物事-ヒトに対し過剰に反応する。
馴れ馴れしく男を物色している看護婦や身元を嗅ぎ回る保険屋、自分の他に目を向けられる存在に対しても。
防衛を超えた最早殺意の塊であり、シリアルキラーとしてその都度自立的に起動する。
少女期に自らを守る人格としてマリを生み出し母親を殺害し、その愛人を自殺に追い込む(これは当然の報い)。
自分の優しい対話の相手としての麗子(まさに看護婦)は、マリにとって変わられる。

もうひとり、自分の少女期を映すかのような境遇の少女エリに出逢い、その少女に「マリ」の人格を根付かせる。
その少女の外傷はマリに姿を変え、加害者の殺害へ向かわせた。
しかしそれを仕向けた主体である春海に阻止される。
工藤謙介の存在が、春海による人格統合を助けた。(少なくとも工藤が晴海の心を癒したことは確かであろう)。


深田恭子の鋭利な怪演は凄かった。最後に晴海に寄り添う麗子に落ち着いていることで、救われたことが分かる。
(エリという少女については、まだ全く問題は解消していないが)。
北川景子も繊細な演技が素晴らしかった。
高良健吾の役は、少し現実性に乏しい面はあった。彼女の中のひとつの人格のように動く面も見られた。
麗子-マリがまさに何でもお見通しであったのに似て。
彼は彼女の抱える苦悩を車ではねる瞬間に見て取ったというのか?
ともあれ彼が彼女の幻想でなくて救われたと言える。
最初は事故の罪を償おうという意識からであろうが、真に彼女を救いたいという気持ちになっていったということであろう。
そういう存在がなければ、彼女がこの磁場から解けることはない。







スターシップ・トゥルーパーズ3

Marauder001.jpg

Starship Troopers 3 Marauder
2008年
アメリカ
エド・ニューマイヤー監督・脚本(一作目も2も脚本)
ポール・バーホーベン製作総指揮(一作目の監督)

1~3まで脚本家が一緒だったことに気づく。
監督によって映画は質的に変わるということだ。
本が映像化されることの本質的な変貌は、基本であるが。
ロバート・A・ハインラインの原作がどうであろうが、ポール・バーホーベンのコンセプトの方向性で突き進むのみであった。
本作は1を受け継いでいる。更に信仰の問題にも触れてくる。

またしても群れをなして襲いかかるバグと歩兵たちの大激戦である。
~らしさが戻った、、、。

キャスパー・ヴァン・ディーン、、、ジョニー・リコ大佐(最初の作品の主人公)
ジョリーン・ブラロック、、、ローラ・ベック艦長
ボリス・コジョー、、、ディックス・ハウザー将軍(かつてのリコの親友)
スティーブン・ホーガン、、、アノーキ総司令官(歌手でもあり「It's A Good Day To Die」を大ヒットさせる)
マーネット・パターソン、、、ホリー・リトル(信心深い二等兵)


ハイライン原作でも出ている、パワード・スーツが7体登場することで、今回はちょっとワクワクものである。
「マローダ」というガンダムの廉価版みたいなやつだ。
登場シーンが宗教がかっていて、神聖な?感じを狙っているが、そこはいまいち。
信心深い女性二等兵ホリーが神に祈っている時にその頭に天使の輪か後光のごとく輝くマローダ隊が降り立ってくる。
これを見た強情な無神論者のローラ・ベック艦長はホリーとともに祈りを捧げ、後にキリスト教に帰依することになった。
極限状況における信仰を得る契機の一例としてあるのかもしれないが、、、。

そのパワード・スーツ、神経系統に直結するというシステムらしいが、実際は手動で武器操作していた。
恐らく2系統の操縦方式らしい。(細かいことは不明)。
スーツに乗るときは裸で乗るのだが、リコがそれを降りるとき軍服を着ていた。
あそこはイエスキリスト風に布でも巻いて降りたほうが演出的にもよかったかも。
(さすがに外で降りるのに、裸では降りられないとは言え、どこで着たのか不明)。

戦いは長引き泥沼状態が続くなか、新種のバグが次々に現れる。
尻尾から破壊光線を発するスコーピオンズや自爆爆弾の神風バグなど、、、ご時世を省みても笑うに笑えぬ。
この戦況に過激派(反体制派)ならずとも人々は厭戦的になってくる。
すると軍事政府は締めつけを強化し、反体制の運動家を次々と公開処刑し始める。
また武器に関しては、お粗末な歩兵隊の銃火器に加え、惑星破壊爆弾”Q-bomb”を製造し広報発表する。
中間はないのかい!?非常に極端な武器開発製造方針である。
ワープの技術もあるのに、何で通常の戦いが塹壕からの銃を抱えて肉弾戦なのかは謎であった。
しかし今回、ついに満を持してパワード・スーツがお目見えしたというわけだ。
これは、めでたい事である。
(何故か綾野剛の7億円CMを思い出して仕方なかった)。

この乗組員も男女各3人にチーフのリコ大佐と7人の布陣で、気づいたのはこれまでの戦場での戦いもほぼ半々の男女比である。
男女同権と言うか、何にしてもジェンダーフリーが軍部には行き渡っているらしい。

それより気になったのは、他(バグの星など)の惑星に降り立ち戦うのだが、どの星も地球と同じ空気組成と気圧・重力、気温、気象状況にあるように見える。これは1でも2でもそうであった。
その場所の環境条件が同じでも、進化している生物が違うことは充分有り得る。(彗星などの影響もあり)。
しかしそれ以前に、こんなに地球に酷似した環境を持つ星が幾つもあるとは考えられない。
(地球の特殊性から考えても、わたしは、ない!と思う)。
惑星OM-1アラクニド隔離地区、、、などとと言っても、、、これは地球だ。

この映画、宇宙の何処に行っても第一次大戦中の地球上である。

ストーリーは何とも言えないアクの強さが更に滲み出してくる。
悪意は1同様健在だが、更に悪乗りしている。
アノーキ総司令官が戦意高揚のために歌「今日は死に日和」を出し、曲・ビデオだけでなくグッズ関係も大量に売り出す。
確かに軍の広報活動は1から随分あっけらかんと派手に行っては来ているが。
英雄、忠誠心、犠牲的精神、、、
プロパガンダは更にグロテスクに、勧誘もチープに誘惑的に分かり易く。
「勇気」「名誉」「入隊し責務を果たせ。」「入隊すれば将来安泰。」
日本でも近い将来、経済的徴兵制が実質進んで、こんな感じの軍隊で組織される可能性はないとはいえない。


ジョニー・リコ率いる惑星ロク・サン防衛軍にアノーキ総司令官が突然乗り込んでくる。
申し合わせたかのごとく、いつもより多いバグがフェンスに押し寄せる。
ブレイン・バグに長時間接触したため完全に洗脳されてしまったアノーキ総司令官はバグの頭脳「バヒモコイタル」に忠誠を誓い、惑星ロク・サンを生贄に差し出したのだ。アノーキがフェンスのバリアの電源を切った結果、リコ率いる惑星ロク・サンは壊滅する。
リコはその責任を問われ、処刑されることとなるが、ディックスに新たな任務、聖域の場所を知るローラの救出を命じられる。
「皆それぞれの方法で神を探している。」とバグ教に身を捧げたアノーキ総司令官。
バグは宗教(信仰)を利用してきた。
(信仰の、批判意識を捨て何も考えずその対象に従う麻薬的な面である)。
2よりも成り行きに説得力はある。

「聖域」というのも出てくる。ここで、パワードスーツ”Marauder”が製造されたという。
ちょっと宗教とも絡めてみたか。
ここが敵に知れたら、もう地球連邦は終わりだそうだ。
そういう場所は、現在もあるのかも知れない。
物理的になくとも個々の幻想レベルでは、存在する。それが実存における「自由」であり「尊厳」だ。
(その領域に触れるのが厄介なことに宗教である)。

最後は、バグの惑星が破壊され大爆発を起こしているのをお祝い花火のように背景にしてローラとディックスのラブシーンである。
「結婚式は教会でね。」とあれほど宗教を毛嫌いしていたローラ。アメリカ人は特に極端である。
また威勢の良い連邦ニュースで、総司令官アノーキはわれわれに歌を残した英雄として報じられる。
「総司令官の追悼アルバムを買おう」
ホリーは、軍に信仰を容認させ、活き活きとした幹部になっていた。連邦軍が信仰心を上手く懐柔する方針を決めたようだ。
しかし平和運動は認めない。
反体制過激派は中心人物含め皆、めでたく公開絞首刑。

マローダ計画の英雄リコの「では、戦場でまた会おう!」
戦争は終わらない事を示唆して連邦軍放送は閉じる。

Starship Troopers 3 Marauder


スターシップ・トゥルーパーズ2

Starship Troopers 2 Hero of the Federation

Starship Troopers 2 Hero of the Federation
2003年
アメリカ
フィル・ティペット監督



暗い映画であった。画面が全体的にかなり暗かった。
低予算で作られたことは、キャストからもよく分かる映画であるが、低予算でも傑作はいくつもある。
監督のビジョンとコンセプト・アイデアしだいで、どのようにもなるはず。
2においては、閉塞空間における、バグの動きに重点がかかった絵作りである。
バグをたたきつぶしたらそこから元気な子バグがたくさん出てきて怯える隊員の口に入り込んで寄生してゆく。
殺した隊員の脳みそからバグが飛び出てきたり、電子レンジでグチャッとはじけたり、、、。
VFXはほとんど体内に取り憑くバグの見せ方に賭けている。
その分、大きなバグに隊員たちが次々に八つ裂きにされてゆくシーンは前回より少なめであった。
勿論、夥しいバグは出ては来るが。

狭い空間内にとどめたことはよいが、スケールダウンしていることは否めない。
限られた場所で見えない(実体を隠した)バグに戦々恐々とする隊員たちの緊張感溢れる姿とスリリングな攻防戦を描ききれば、密度の濃い傑作にはいくらでもなるはず。
前作ほどのインパクトを全く感じないのは何故か、、、。
バグのVFXのこだわりに対し、他はあっさりしていた。と言うより何か抜け落ちている。
バグに乗り移られた隊員がこれまでの意識を引き継ぎ、思考・会話できているのだが、ブレインバグでもあるまいに、あのレベルのバグにそれほど高度な操作ができるのか、、、。

これは、明らかに違和感があり、例えば戦意喪失とか凶暴化するとか廃人になるなどなら分かるが、人格操作となると別次元であろう。意識がバグの中枢部のものになっている。彼らが単なるその受信操作装置だとしても、やはり考えにくい。しかも沢山のバグが入って組織的なネットワークで操っているとしたらこれまた途方もなさ過ぎである。入りすぎては、身体の動き自体がままならぬはずであるし見かけから大きく変態してしまうだろう。
無理があると、話に乗れない。
このへんのオカルティックな成り行きが、薄っぺらさ安易さを呼んでいる。
SFであれば、そのコンテクスト内でのそれなりの説得力ある論理(科学)的な根拠が示されないとストーリーがしらけてしまう。
ホラーとするならば、前作との流れが完全に断ち切れることになる。
これはホラー映画か?
すると、大変薄いホラーであり、あまり怖くない。(ホラー苦手なわたしでさえも)。

しかも乗り移った上官にペラペラと人間的な人間中心主義批判を述べさせる。
これは地球連邦軍が取り締まっている過激派の言説そのものではないか?
(まさか彼らとつるんでいるという分けではあるまい)。
双方とも全く譲らないにせよもはや、エイリアンとの戦いとは思えない。
言語による対話可能な相手にしてしまった事が、オカルト映画の悪魔との戦いさながら矮小化してしまった。
前作が余りに無慈悲な圧倒的他者であり、言語は愚か微塵もコミュニケーションの余地などない相手との戦いであったのに、その不気味極まりない分厚い恐怖そのものが失くなってしまった。

あのブレイン・バグが「怖がっている」と言って、唯一そこに救いを感じて発せられた彼らの歓声は何であったのか!?
その感性の緊張と想像性を絶やさなかった「スターシップ・トゥルーパーズ」からみると、これは、2とは言えまい。


つい忘れそうになったが、これは英雄譚でもあった。
つまり「スターシップ・トゥルーパーズ」からのひとつのエピソードという位置にあるのか。
しかし、正義感のある強い軍人であり、最後は自殺と取れる形で終わるが、彼を軍が英雄として祭り上げ入隊勧誘のCMに利用しようが、特にこれといったインパクトもない。
相変わらず地球連邦軍のお馬鹿さはギャグ的に継承しているが、もはやブラックジョークほどの効果もない。


「スターシップ・トゥルーパーズ」の続編とあらば、もう少し予算をくれというのが監督の本音であったかもしれぬが、それ以前に前作の基本コンセプトをよく観ておくべきだったのではないか?




アーロと少年~暫く娘たちは韓国旅行

THE GOOD DINOSAUR002

わたしは、昨日の「アーロと少年」で、人間と恐竜の逆転という言い方で感想を書いてしまったが、今朝その映画を観ていなかった長女が観ているのを脇で見つつあの関係が何であったかを知った。
最初の方をシッカリ観ていなかったのだ。
(娘の夏休みに入ってからというもの落ち着いて自分の事に集中する暇がない(笑)。
6500万年前に地球に隕石が衝突したために恐竜が絶滅したと云われるが、その隕石が軌道を逸れて何の影響も与えず彼方に飛び去ったことで、無事進化を続けた恐竜が、黎明期の人類と接触したという設定であることが分かった。
つまりこの恐竜キャラはファンタジー的な擬人化ではなく、あくまでもサイエンス・フィクションにおける、仮定である。
このアイデアはとても夢があり刺激的だと思う。
人間が主体―語り部であったら、暑苦しいしありきたりになってしまうだろう。
ちょうどその最初のシーンあたりでわたしは娘たちにフローズン・フルーチェを作っていた、、、。
映画はきちんと、最初から最後まで観なければいけない、という余りに当たり前なことを再確認した。

ついでに、出ているのがほとんど恐竜たちであるため、彼らの視座による世界が描かれることになる。
そこでいまひとつ、われわれとは異なる身体性をもつ彼らならではの言語―世界が見えるともっと面白かった。
彼らが余りに人間くさいのだ。
途中で、毒の果実を食べて幻覚状態に陥る。
これも昨日書こうと思っていたのに、結局忘れてしまった。
ちょっと思い切った変性意識を描いていたが。
折角だから、こんなふうに違う意識体の視座をもう少し味わいたいと感じるところだ。
爬虫類の進化系が世界を握っているのである。
そこをもっと突っ込んでもらえれば、更に面白みも広がったはず。
フォン・ユクスキュル的な「生物から見た世界」である。
娘に関わるのも、その面白さとヒトの過去―初期の謎にある。
もしかしたら自分自身の謎かも知れない、、、。

もう一つ、主人公の恐竜は草食恐竜であるが、農耕をやって定住する。
ティラノ・ザウルスでさえ、牛を放牧して場所にこだわっていきている。
やはり必然的に場所を持つ方向に収束するものなのだ、ということか。
われわれの意識でもやはり場所がもっとも肝心なものに思える。
それは記憶の拠り所であり、精神―ことばの発生に重要な役割を持つことは確かだ。


映画を見ている途中と、感想を書き始めてから、5,6回は中断があり、とても散漫な意識状態で書いてしまったが、7月に入ってからは、いつもそんなものであった(苦。
それも仕方ない、明日から娘たちが2週間、海外に行っているため、暫く会えない。
少しでも彼女らと接していたいと思う。
連日、夜は家の玄関で、花火大会を開いていた(笑。
亀の水の取替え時は必ず3人で行っているが、考えてみるともう公園に行ってもめいめいに遊んでいるし、ずっとつきっきりは最近ほとんどなくなった。散歩も3人で手をつないで行くことは減ってきた。
そうでなければ困るのだが、暫く顔も見えなくなるのは、寂しい。

「バケモノの子」でも「アーロと少年」でもそうであるが、やはり本来いる(帰る)べき場所というのは肝心なものとしてあるようだ。


明日の飛行機は早い。
もうそろそろ、寝る支度をしよう。
彼女らがまたここに帰ってきたら、誕生パーティーだ。

帰ったら、8歳というのが、、、笑える。
(何か旅をして戻ってくるみたいだからか?)


アーロと少年

THE GOOD DINOSAUR

THE GOOD DINOSAUR
2015年
アメリカ
ピーター・ソーン監督

ますます冴え渡るピクサーである。
(スティーブ・ジョブズもさぞお慶びのはず)。

技術がともすれば先行してしまうCG映画であるが、これは物語も素晴らしくよくできていた。
最初は、環境描写に対する主人公の恐竜に面食らったが、直ぐにその愛らしさに馴染んでしまった。
通常、1つの絵に異なる形式の造形要素は、違和感しか生まないものだが、キャラクターの魅力でストーリーの内に溶け込ませてしまった。
恐竜の非現実的な質感以外は、まことに精緻な自然描写である。
特に透明な川の叙情的な流れの表現はここまで来たかという感慨を持つ。
であるから、氾濫する川でのパニックシーンのきめ細やかで荒々しい描写には圧倒された。

何と言っても人間と恐竜が逆転した立場にいるのは秀逸なアイデアと言える。
物語を語るのは、恐竜である。まるでヒトである。
これまでだったら「ぼくがアーロと出逢ったのは、、、」などと少年による進行となったはずだ。
まさか、恐竜が畑を耕したり養鶏や放牧して生活設計して暮らしてるとは。
定住しており、狩りはしていない様子。
言語が無ければ出来ないような繊細な行動と、生活様式をとっている。
特に子育て。父親の、手のかかるアーロに対する愛情の示し方である。
そしてアーロは、父を失った洪水に対するトラウマを抱え、その克服に向け、少年を助けるため自ら洪水に飛び込む。
身体レベルの言語認識の書き換えを狙った行為である。
人間は、吠えるだけで言葉がなく、臭覚が発達していて獲物を追って暮らしているだけのようだ。

家族を丸い線で囲って示し、お互いを理解しあうところ。
翼竜に拐われた少年を助けに行くときに現れたお父さんの幻影。
最後の少年を彼の同胞である人類に渡すときの切ない別れ。
この辺は描写の素晴らしさで、泣けてくる。
非常に情景が細やかに良いリズムで、描かれてゆく。
このタイプのストーリーであると、まさに描写にかかってくるものだ。

VFXというより、演出の妙とも言うべきところが、特に漸くアーロと少年がアーロの家の間近まで戻った時に翼竜が襲ってきたシーンである。
まるで、天地の逆になったジョーズである。
このヒレに見える翼のシーンは恐怖を掻き立てるに充分なものだ。
この緊迫感と不気味さは技術以前のシーンの想像の問題である。
同様に、お父さんがアーロを元気付けるため夜の草原へと連れ立ち、そこで尻尾を振って蛍の群れを立ち上らせるシーンである。
宮沢賢治の童話のように美しい。
物語がよく練れているものは、このようなハッとさせられるシーンが必ずある。

更に、ひ弱なアーロを通し、恐怖にどう立ち向かうかがアーロの成長と絡め、テーマとなる。
ここで、大切な役目を果たすのが、旅の途中で出逢う、ティラノザウルスである。
彼が早く亡くなったお父さんの後を継いで、恐怖に対する心構えに気づかせてくれる。
このティラノザウルスとの出逢いから、アーロはめだって逞しくなってゆく。

それにしても、アメリカ人は、鮫を恐怖の象徴にするのが好きである。
ここでも鮫の幻影がしっかり使われていた。
ついでに言えば、父と息子の物語はハリウッドの伝統芸に思える。
そして子供の成長のための冒険譚である。アメリカ的イニシエーション儀式としての。
この映画は、極めてアメリカ的な物語の元型を窺わせる。
そう、あの「嵐の恵み」の翼を持つ狡猾な悪党にも、その表情に特に既視感を持つ。
基本的に内容的な新しさはほとんど無い。

それを言語を持った文化恐竜と野生人類の子供との絆―友情というパタンで描きかえている。
恐竜とヒトの逆転した関係が、しかし殊の他効果的であるのだ。
アーロが余りに人間的だが、その分少年がまるで人懐っこいペットみたいであった。
彼がアーロに最初から好意をもっていたことはその接近の様子から窺える。
しかし、本能的にも怖さという概念のない無鉄砲な生き物というのも極端である。
この対極にいるもの同士の関係は、やはりペットの効果をアーロに及ぼす。
ふたりのスリリングで幼気な冒険の体験から、単なる自己中心な甘え意識から他者に対する思いやりと責任感を生んでゆく。
冒険とはそういうもののようだ。(少なくともハリウッドの少年冒険譚の定義上)。

最後は余情をもって、帰るべきところに戻る。
戻ってくるからこそ冒険なのだろう。
身体的に同調できる、綺麗な後味の良い映画であった。


しかし、これ以降はもうこのパタンでは映画はできないと思う。
これ以上の抒情性もなかなか出せるものではない。
いよいよピクサーが孤高レベルに達してきた。



THE GOOD DINOSAUR002



バケモノの子

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The Boy and The Beast
2015年
細田守監督・脚本


「おおかみ子供の雨と雪」はお気に入りのアニメである。「時をかける少女」も良かった。

どうも、邦画は、溝口、小津、、、以外実写より断然アニメだなと、思ってしまう。

人間界の「渋谷」とバケモノ界の「渋天街」のパラレルに存在する街を舞台に繰り広げられる物語。
役所広司のバケモノ熊徹はキャラクター的に実に自然であった。
宮崎あおい、染谷将太の少年蓮(キュウタ)も申し分ない。
楓役の広瀬すずが意外と上手なのには驚いた。
リリー・フランキーの修行僧百秋坊は良い感じであった。
大泉洋の多々良もそれらしいものであった。
山路和弘が猪王山と、こうみると声の方は声優ではなく俳優がこなしているではないか。
宗師は津川雅彦であった。流石にこの辺に来ると枯れた良い味が出ている。
更に猪王山の子供、一郎彦、二郎丸なども重要な役を果たす。

最近、このパタンは多い。
失敗していることのほうが目立つが、ここでは上手くいっていると思う。
しかし、折角専門の声優さんがいるので、彼らを使ったほうが、無難だとは思うが。


あの「チコ」というモノは何だったのか。
蓮が一郎彦に対し闇の力を放つことを留める大切な役は果たすが、、、。

渋谷の路地裏に入ると、何故かどの方角の奥にも花飾りの置かれたところがあり、そこから不意に渋天街という、ちょっと、「千と千尋の神隠し」にも似た異界に出てしまう。
この渋天街が蓮の目の前-ローアングルにキラキラ開けたとき、思わずワクワクした。
こんな光景をわれわれは望んでいないか?
こんな光景を探し歩いた記憶はないか?
わたしは、随分長い間、探し続けた気がしている。
(その為、もうヘトヘトである)。

人はこころに闇を宿すもの。
闇に呑み込まれないために、連はパラレルワールドを行き来する。
そこで得た絆―こころの支えが結局、連を救う。
人間界には、楓という知を育む師匠ができ、バケモノ界には熊徹という武術の師匠を得る。
(双方を極めれば文武両道ではないか)。
そして彼らは皆、孤独に耐えている。
ただ、闇を持っているのは、蓮と楓である。熊徹たちには闇は宿さないらしい。
確かにそう思える。

しかし、あれだけ自分の気持ちを率直に言い放て行動にも移せて、闇がこころに沈殿するものだろうか、、、。
(勿論、実存としての闇は不可避的に持つとして、危険レベルの過剰な闇はどうであろう)。
連もその点では熊徹と似たようなもので、結構健康的ではないか。
独りで生きるなんて、相当強いこころを持っていなければ言えない。
闇を増幅させるこころとは、通常自分の意思や感情を抑圧して周囲に従順に生活してしまう内に生じる。
寧ろ楓の立場なら頷けるが、彼女は賢明にもその自分を対象化し、将来の自己投企に備えている。
蓮の境遇であったなら、親戚に大人しく引き取られて日常を普通に送る中にこそ起こり得る。
であるから、バケモノ界一の実力者の長男でありながら人間であるという引き裂かれたアイデンティティに苦しむ一郎彦に、闇をひたすら肥大させる可能性は大きい。
しかも彼はそれを「念動力」に変える(つまり外にエネルギーとして向ける)能力を持っている。
これは、充分に厄介であろう。

猪王山が頼られる存在で多忙を極めていたため、一郎彦に充分向き合う場を持てなかったことが最大の原因と言える。
人間であるため当然親に似ず容姿に差が出る。
その為顔を布で隠し、殊更父を崇拝するところに如実に彼の苦悩が現れている。
親の見る目が必要であった。
ここは、粗暴だが素直で暖かい熊徹と素で親密なやりとりを日夜続けられた蓮が恵まれてる。
百秋坊と多々良もいろいろ口出ししながら暖かく見守っている。
蓮も熊徹もどちらも未熟だが共に磨き合えるというもの。
しかも、蓮には元の人間界にも、楓というこころ強い彼女ができる。
やはりここは、とても大きい。
おまけに父親まで見つかり、一緒に暮らそうと受け入れられる。
彼はいくらでも自分の力で戻れるのだ。

こういった事は、全く珍しいことでも何でもない。
普通にある事である。
自分の事も当然含め。


最後の一郎彦との決着とは何なのか、、、。
ある意味、自分のファンタジー界(逃避や幻想、迷い、しがらみ)からの決別とも取れるものか。
最大の友、熊徹をこころの剣に変え(再び)内面化してしまう。
こう言ってしまうと、成人の儀式(イニシエーション)めいたものになって矮小化してしまうが、、、。
やはり、こうして逞しくしかも人格的な調和がとれて、還って来ることがテーマであったであろう。
あの「渋谷」に、、、ここに、である。


わたしであれば、こころに、熊徹がいると思うと落ち着かないが、楓と優しい実の父がいれば、基本怖いものなしだろう。
喧嘩の方はやたら強くなってしまったし。

こういうのリア充というのか?






娘たちのピアノ発表会

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昨年は長女の発表会であったが、今回は次女も加わった。
次女は昨年は、発表会をする人数のいない個人教室に通っていたが、今年から姉と同じ教室になった為である。

まだ、はじめてちょうど二年目で、欲もなくただ教室に通わされているレベルである。
こんなふうに、みんなが弾くところをみれば、刺激を受け意識も変わるかと期待できる機会ではあった。
他の生徒がどれくらい弾くのかは、普段ほとんど分からない。
教室に送りに行った時、前の子の演奏が少しだけ聴けたりすることはあるが。

全体的に、皆よく弾けていた。
ときめきを感じる演奏もあった。
うちの子のものではない(笑。
正直、うちの子の演奏は、聴きに行ってそれはないが、出来れば聴きたくない。
と言うより、聴いていられない。
ドキドキものである。だいたい、うちで聴いているからもうどんなものかは知っている。
だが、参加しなければならないため、来ているという感じだ。
しんどいというのが、率直のところ、、、。

しかしこの第一部で、ショパンまで聴けるとは思わなかった。
(第二部になると、高校生や大学生も加わり、難曲が披露されるというが)。
車のBGMでよく聴いていた『千と千尋の神隠し』のテーマソングの「いのちの名前」や今気になっている「エリーゼのために」があって印象に残ったようだが、「いのちの名前」は完璧に弾きこなされていた。
お決まりのことなのだろうが、途中何度も止まり、こちらがヒヤヒヤしてしまう子もいた。
どの子についても、親の立場に半ばなってしまっている。

うちの娘も、確実に一箇所ずつ間違えている。
しんと静まり返った本番に際し、しっかり弾きこなせるだけの実力を身につけていなければならない。
先は長い。自覚までは、まだまだ。
うちの子と同じくらいの年格好の少年が、補助のペダルをつけてもらって「小さな黒人」をきれいに弾いていたのには、参った。
あれくらい弾きたいと思ったみたいだ、、、。ドビュッシーはやはり何を聴いてもよい。
知らなかった曲だが「演奏会用練習曲」(中田喜直作曲)という曲も腕前を見せられる曲に思えた。
弾いてる子の表情が如何にもという感じで、同じ作曲家の「エチュード・アレグロ」も聴かせた。(すぐ後で知ったが、こういう発表会では、定番曲のようだ)。
定番というかよく弾かれるものでは、ブルグミュラーの「バラード」もあり、耳に馴染んでしまう。
「いのちの名前」以外にもこのステージではなかったが、「となりのトトロ」や「もののけ姫」などの久石譲ものは必ず何曲かは入るようだ。
しかし、運動会ではないし「クシコスポスト」はちょっと聴きたくない。(トトロも運動会の定番だが)。

最後はショパンの「ワルツ」とブラームスの「4手のためのハンガリー舞曲」が締めであったが、聴き応えがあった。
演奏者はもう中学生のようだったが、風格を感じた。

何が一番良かったか、と聞いたら、「お人形の夢と目覚め」が長女で、次女は「乙女の祈り」だそうだ。
「エリーゼのために」でも「いのちの名前で」もなかったようだ。
実は、それらの曲に2人ともかなりのこだわりを示していたのだが。
実際に聴いてみると、良いと思う曲が幾つも発見できたらしい、、、。

普段、家でほとんど触れることのない曲を身近に感じられるお友達が弾くのを聴く機会は大切である。
正直、次女があんなに背筋を伸ばして、長い時間鑑賞が出来るとは思わなかった。
親と違う席というのもよかった。


しかし、沢山の人の中で、ステージ上に自分の子の演奏を聴くというのは、まだまだしんどい、、、。
しんどくない時が来るとは思えないと、つくづく思う。
蛇足だが費用も、前年度より遥かにかかった。(これもしんどく感じた)。
勝手にお花をグレードアップしたのは、こちらの都合であるが、参加費も上がり、昨年度は自分の子供の写真・ビデオ撮影はOKであったのが、今年は一切禁止とされてしまった為、かなりお高い業者物を買わざる負得なくなってしまった。
送料含め、馬鹿にならない。自分のカメラで撮れれば全くの、タダである。

年に一度のことで、細かいことはどうでも良いのだが、何よりお花をステージ上で持てなかったのは少し残念であった。
会場にすら持ち込めなかったのだ。
受付にお預けである。
それも禁止となってしまった。(お花の大きさが不揃いなのが問題のひとつのようで)。
ちょっと世知辛い。

ジキル博士とハイド氏

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Dr. Jekyll and Mr. Hyde
1941年
アメリカ

ヴィクター・フレミング監督
「オズの魔法使い」、「風とともに去りぬ」とは、またかなり異なるとは言え、VFXもしっかり使われていて最後まで引き付ける。

ロバート・ルイス・スティーヴンソン原作
ヴィクトリア朝のイギリスを舞台にした噺である。
19世紀となれば、思想も相当高度に熟してきた時期であるが、それにしては素朴過ぎる「優秀な研究者」である。
ある意味、多重人格を劇的に表現している映画であり、そちらに注目して観ると面白い。
更に薬物依存の恐ろしさも表しているとも言えよう。


スペンサー・トレイシー、、、ジキル博士・ハイド氏
イングリッド・バーグマン、、、アイヴィー(水商売の美女)
ラナ・ターナー、、、ベアトリクス・エメリー(ジキル博士の婚約者)
イアン・ハンター、、、ジョン・ラニョン(ジキル博士の親友)

霧に煙る街灯の夜景が何とも言えぬ不安を湛えている。
ジキル博士からハイド氏へと顔が変身するが、VFXはなかなかのものであり、変身後の顔も漫画チックな下品さではない納得のいくものだ。(凄い形相のハイド氏も他に見たことがあるが、あれではアイヴィーが即逃げてしまうはず)。
ただ変身の際に飲む薬品はちょっと過激すぎる。
色も凄そうだが煙もモクモク上がっているではないか。見るからに劇薬である。
それを誘惑にかられ何度も飲むのだ。
何の研究なのか、本人はそれは何処かに置き忘れてゆく。

狂気の博士と言えばフランケンシュタインが著名であるが、このジキル博士も悪い心と良い心というものを実体化して、明確にそれを分離できるという突拍子もない考えのもと、片方の悪い心を消し去ることが出来ると確信し研究に明け暮れる。
(しかし19C終盤に現れるフロイトの学説も、唯物論的な科学として機械論的なアプローチをもって研究は進められており、科学として徹底する姿勢は似ていなくもない)。

周囲の人もそれに対し、それは神への冒涜になるとか、動物で成功したなどという事を平然と言う博士に、まだ人に試すのは早い等といっている。何を持ってその判断に至り確信を得たのか問う者もいない。
彼の前提とする考え-枠組みを崩す人は誰もいない。
周囲の人もひとのこころは善と悪で出来ていると思っているのだ。
善と悪とは何かとか、こころとは何かについての考察がない。
インテリの集まりの席であっても、この時期にしては恐ろしく素朴な議論しかなされない。
しかし、ジキル博士が「おかしい」ということを、誰もが直感していることだけは、まことに正しい。
そもそも何故、ジキル博士は、教会に行くのか、、、。
ベアトリクスは余程、他の面(医者として優秀など)で彼を慕っているのだろうが、父親は結婚など断固反対すべきであったが。

時折長期間に渡り、恐怖と暴力によって監禁される女性のニュースを聞くが、アイヴィーはまさにその例であろう。
不幸にしてジキル氏に偶然助けられた経験が災いした。
ハイド氏にも記憶はしかと受け継がれる。
つまりジキル状態にいた時も彼はアイヴィーをたいそう気に入ってしまっていた。
しかしそれは、恩師の娘ベアトリクスとの結婚を前にして意識化するのも避けたいこころの動きであった。
まさに無意識下に潜在させた悪いこころである。
そこで、ベアトリクスが父上と旅行中にちゃっかり彼は薬をやってハイド氏となる。
もう赤の他人とばかり、悪いこころ全開でやりたい放題。
確かにこう切り離して捉えられれば、お気楽この上ない。
これは悪いこころがやったの。わたしはもともと良い方なので関係ないと、、。
(こんな弁明を死ぬ前にもしていた)。
精神の弁証法的鍛錬も糞もない。
単にジキルの精神的なお粗末さが問題であっただけではないか!
罪なものだ。
あの向こう気の強い活き活きしたアイヴィーが衰弱しきってしまうことに、、、。
最後は殺されて、これ程悲惨な運命もない。


更に薬なしで不意にハイドに変身してしまうことで、事態はもはや収集がつかなくなる。
不幸な目に遭うのは、アイヴィー独りではない。
ベアトリクスとの結婚を期にハイドになるのを辞めようと思ったジキルであったが、勝手にハイドになってしまうのである。
その、意に反してハイドになってしまう「彼」の当惑の表情での変身は、哀愁を通り越してコメディタッチギリギリまで迫る。
ここは重いのだか、何なのか、、、。われわれまで当惑させてどうするのか。
あんなオドロオドロシイ劇薬飲んで副作用のないはずなかろう。
(わたしも気味の悪いビタミン剤を腰に手をやり駅でグイっと飲んで、胃が痛くなったことがある、、、関係あるか?)
ここが、この映画の肝だ。(原作は未読で知らないが)。

すでにジキル博士がコントロールが効かなくなり奈落の底にどのように落ちてゆくか、そのカタストロフを味わいたいという欲求しか、こちらにもない。
親友の前でも変身生ライブをやってしまい、もう後がない。自分はもう終わりだという自覚はもつ。しかし、、、
ジキルがベアトリクスに別れを告げ、そのまま立ち去ろうとしたところで、ハイド化する場面は皮肉であり大きな見所でもある。
ベアトリクスにも正体を晒し、駆けつけたその父親も殺害し、その後はスピーディーな展開で、ただ追い詰められてゆく。
流れはもう止められない。
最後は、逃げ込んだ自分の研究室に続々と詰めかけた警察官たちや親友からもう逃げられない、白状しろと迫られたところで、こともあろうに、と言うか案の定、わたしは関係ないジキルではないと繰り返し罪から逃れようとする。
そうするうちにまた変身してしまい(本来の姿となりというべきか)、大立ち回りをした末、親友に撃ち殺される。
ハイドが本質的な姿であり、ジキルは氷山の一角のほんの水から少し出た部分というところであった。
精神としての統合が進められていなかった。

そういった精神の場所からみるか、解離性同一性障害という病理における特殊性からみるか。
どちらからどうみても、面白いよくできた映画であった。
スペンサー・トレイシーの熱演、いや怪演は見応えがあった。

なる程、ナスターシャ・キンスキーがイングリッド・バーグマン似だということが、よく分かった。
ただならぬオーラが放たれているではないか、、、。
イングリッド・バーグマンの彼女らしい主演映画を観てみたい、と思う映画であった。

ラナ・ターナーはプレ・ラファエル派の絵に現れる美女のような繊細さと透明さが際立っていた。


Lana Turner001

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イノセント・ガーデン

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Stoker
2013年
アメリカ・イギリス

パク・チャヌク監督

ミア・ワシコウスカ、、、インディア・ストーカー
ニコール・キッドマン、、、イヴリン・ストーカー(母)
マシュー・グッド、、、チャールズ・ストーカー(叔父)

「イノセント・ガーデン」、、、分かる邦題である。内容的にも合っていると思う。


灯りの使い方や質感、音響、クローズアップ、カットバック、フラッシュバックなどディテールからとても凝った演出であった。
(オープニングクレジットからして、演出・編集の凝り様は予感できるが)。
特有のフェティシズムも全体から匂い立つ。
インディアの鋭い五感の共鳴効果でもあろう。息苦しく酔う感じを覚える。
それは同時に異和感を醸す。
次第に強まる異様な雰囲気を役者からだけでなく、全ての事象から漏れるように仕掛けている。

突然現れた得体の知れぬ知人?が、飛んでもないサイコパスな人物であり、次々と残忍な事件を引き起こし周囲の人間を恐怖に陥れるというパタンは、既視感が充分である。
だがこの物語は、その人物の特殊な血を引き継いだ少女の資質も一気に引き金を引いたように解放されてしまうものだ。
もしかしたら、彼女を覚醒させた異常殺人犯よりも、更に恐ろしい存在と化すのかも知れない。
それまでのサイコスリラーとは一線を画するものでは、、、と思われる。(同様のものがあれば失礼)。
そこに至るまでの感性と感情の解放の過程が大変官能的に危うく描写されてゆく。

最初は、彼女自身自覚なく、強い感受性というより逸れたそれを持て余し自閉していると言ったところか。
そこに父の死が訪れる。
同時に得体の知れない(行方不明とされてきた)叔父のチャールズが触媒として現れる。
異常に仲の良かった父の死後である。
行方どころか存在すら一部の人間以外知られていなかった彼であるが、家族や知人にとっては、兄の死を悼み帰ってきたと思うのが自然であろう。
然程怪しまれなかったが、あからさまに危険を感じた人たちは、イヴリンにそれを知らせようとするが、その前にチャールズの手に掛かり殺されてゆく。
これは、自分の素性(子供の頃の庭での無邪気な弟殺しと病院への幽閉)を知られる恐れからというものより、自分をまた家族から引き離す恐れのある因子を消す意識に思える。(また恨みも感じられる)。
彼の兄(インディアの父)を殺害したのも、彼が帰ってきたチャールズを我家に迎え入れず、別の家と車とカードを彼に与えたためであった。弟を幼い頃殺害したのも、兄と弟の親密な関係に対する嫉妬からである。またも彼にその時の生々しい悲しみと絶望が帰ってきた(フラッシュバックした)と言えよう。

しかしそれ以外に彼には、殺戮の快感に浸る資質も備わっている。
それが、親族でもあるインディアの血にも脈々と受け継がれていた。
亡き父が彼女に猟を仕込んでいたのは、その血を動物へと向けさせるためであったはずだ。
剥製だらけの屋敷を母のイヴリンは気味悪がっていたが。(ある意味、父娘に対するそれでもあった)。
父親は極めて親密にインディアに関わり、彼女の本性が発動しないように他に解消させ続けていたのだ。
その分、母親とは疎遠となり、ほとんど口も聞かない間柄となっていた。
(基本、サイコパスは愛情関係は築けないと言われることが多い。叔父はしかし彼女を愛している節はあった)。
母もその娘の存在を持て余し、憎しみに近い感情を抱いていたが、夫の亡くなったことで異物感は更に生々しくなる。


父亡き後、極めて優れた知力と病んだ遺伝的因子を抱え、インディアの苦悩は続くが、、、
この叔父との接触で、箍が外れてしまう。
最初のうちは彼の存在を拒むが。
この叔父は、ごく幼い時期から彼女に同胞意識は抱いており、誕生日に必ず靴のプレゼントを送っていた。
そして18歳の誕生日には、ハイヒールである。自分が晴れて接触する日にそれを贈った意味は、、、。
(恐らく彼女の父はそれを一番恐れており、その阻止に失敗して殺されたと言えよう)。
叔父とのピアノの連弾でエクスタシーを得てからというもの。
彼の存在は日に日に大きくなってゆき、母親との奇妙な三角関係、目の前でのクラスメイトの殺害を経て、彼女は伸び伸びと毒々しく覚醒してゆく。

最後は、実に晴れやかな表情で警官を猟で仕留めるように殺している。


ニコール・キッドマンのある種イノセントな演技もミア・ワシコウスカの狂気を花開かせてゆく姿に鮮明な対比を見せて素敵であった。このひとはいくつになっても美しい。(失礼)。
だが何と言っても、ミア・ワシコウスカである。
不思議の国のアリスなど問題にならないほど魅惑的であった。(アリスではこの狂気の揺れ幅を演じるにも演じようがないか)。
まさに、身体そのものを使った狂気とエロティシズムの表現であった。


彼女の「ジェーン・エア」も是非観てみたい。
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アンナ・カレニナ

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Anna Karenina
1948年
イギリス
ジュリアン・デュヴィヴィエ監督・脚本

トルストイ原作

ヴィヴィアン・リー、、、アンナ・カレニナ
ラルフ・リチャードソン、、、カレーニン(アンナの夫で官僚)
キーロン・ムーア、、、ヴロンスキー(アンナ不倫相手の貴公子)

この時点で3回目の映画化であった。

スカーレット・オハラもヴィヴィアン・リーであった。
イギリス人なのに、アメリカ人やロシア人が異様にしっくりする。
かつて淀川さんが「ヴィヴィアン・リー主演のこの作品は、みなさんをアンナ・カレニナの世界に引きずり込むでしょう。」と語っていたが、まさにぴったりのキャストだと思う。
そして言っている意味が深い!

わたしは昨日の「ジェーン・エア」をとても優れた女性に思った。
しかし、「アンナ・カレニナ」をそう思うことは全く出来ない。
ヴィヴィアン・リーが演じているため、薄幸の悲劇のヒロインのように錯覚してしまいそうだが、、、。
恋に溺れた身勝手な女ではある。自分でも「身勝手ばかりでごめんなさい」とは言っており、自覚はある。


そもそもアンナは兄の不倫の仲裁に呼ばれ、それを嗜める役であったのだが、その時に出逢ったヴロンスキーと破滅にまっしぐらの恋に落ちてしまうという皮肉な成り行きである。
しかも、2人が初めて出逢った駅で、後に彼女は列車に飛び込む。
「あなたのことは、何ひとつ忘れません。」と囁かれ胸の中に響き渡り、呆然とした場所であった。
(最初に遭った時も、人身事故があった、、、あれは運命を示唆する伏線なのか)。

この「アンナ・カレニナ」は恋の恐ろしさを完膚なきまでに描ききっている。
確かに当初は、貴公子ヴロンスキーが一方的にアンナに猛アタックをしてくる。
しかも既婚者で子供も持っていると知ってのことだ。(不届きな!)
独身だと勘違いして恋に落ちてしまったのなら、同情に値するが、、、。(相手はヴィヴィアンである、無理もない)。
しかし、アンナもそれに応じてしまう。
そこに、全く母親としての意識ー愛情が発動しないことに、大いに違和を感じる。

俗物ではあるがしっかり国の仕事もこなしている夫と可愛い息子がいながら、彼女は貴公子との恋にのめり込んでゆく。
何の不足もないのに、ただひたすら過剰を求めてしまうところに、人間的な悲劇が起きる。
人の本質はこの過剰を求めるところにある。
といったところを最近とみに話題にもなっている蓮實重彦氏がかつて論じていたが、とても腑に落ちる。
確かそれを、喪失・欠如性に求めた吉本隆明氏を痛切に批判していた際の言説だ。
その過剰さは、ここでは「幸せ」とでも呼べる感情の高揚として実感されたりする。
劇中では、悲劇に至らずルール内で恋と現実(ハレとケ)を上手くコントロールしているご婦人の例も紹介されているが、コントロール出来ているという時点で、それは現実側にいるということであろう。
行って(逝って)しまえば、それまでである、、、。
人は、蓮實氏に従えば原理的にどこまでも行ってしまうものなのだ。


何でも噂のうちは、人々は話のタネとして愉しむレベルだが、公然のものとなると即、排除の対象となってしまう。
それまでとても恵まれた個人的資質と環境を享受してきた人生から、それが仇となり大転落してゆくこととなる。
「あなたのことは、何ひとつ忘れません。」はもはや悪魔の囁きとなっていたが、今更気づいても時既に遅し。

恋の恐ろしさなのか、、、アンナという恵まれた個人にたまたま起きた災難であったのか、わたしにはいまひとつ一般化して考える材料もないため、取り敢えず後者のものとしておく。
しかし、ひとは、この為(この幻想の為)なら何を投げ出し、犠牲にしても構わない、と思ってしまう何と言うか「熱」をもつことがある。
自爆テロだってそのひとつだ。

「愛を盾にすれば全て許されるとは思うな。」われらがカレーニン閣下の言うように、大義を振りかざせば何でも許されると思ったら大間違いだ。
(まさに「コンドル」でもそうであったが)。
わたしは、カレーニン閣下に中盤からしきりに同情してしまった。
結婚生活における愛の更新と反復とは何かを考えさせるものでもあった。
恋愛は、その関係者にとって、昨日の「ジェーン・エア」のように生きる力を芽生えさせるものになったり、このようなテロ行為ともなる。

離婚が承諾されないと不倫関係という不安定で拒絶・差別甘んじて受ける立場が続く。
不倫状態が世間(社交界)に対し極端な閉塞状況を作り出してしまうため、当人同士が濃密な依存状態になる。
しまいに「わたしの人生はあなた次第なのよ。」である。
こうなると相手の一挙一動に懐疑的になってゆく。
不安と抵抗が止めどなく膨張し、身体的にも解体の危機に瀕する。
依存関係は不可避的に死をもたらす。これは、真理である。
(生物学的に言っても、この地球上に死が導入されたのは、細胞が依存して生きる多細胞化を選択したためである。これは全く飛躍ではない)。
恐らくここの次元から、喪失・欠如又は幻想(妄想)が殊更、問題化してくるのだ。


そして何からも逃げきれなくなる。






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ジェーン・エア

Charlotte Brontë

Jane Eyre
1944年
アメリカ
ロバート・スティーヴンソン監督

シャーロット・ブロンテ原作 「嵐が丘」のエミリー・ブロンテの姉(言わずと知れた)

オーソン・ウェルズ、、、ロチェスター
ジョーン・フォンテイン、、、ジェーン・エア(ロチェスター家の家庭教師)
ペギー・アン・ガーナー、、、少女期のジェーン
エリザベス・テイラー、、、少女期のジェーンの親友
マーガレット・オブライエン、、、ロチェスターの娘(養女)アデル


ミア・ワシコウスカ主演の2011年製作映画が話題であったが、敢えてこっちを観た。
ちなみにわたしはミア・ワシコウスカのファンではあるが。(今度のアリス、、、も愉しみにしている)。

素晴らしくよくできた恋愛ドラマで、思わず引き込まれた。
ジェーンの日記の形で語り進められるのも、とても分かりやすくて助かった。
キャストがまた圧巻である。

まず子役のペギー・アン・ガーナーである。
見るからに聡明そうな美しい娘であるが、聡明で意志の強い役をしっかりこなし、説得力があった。
その親友の子役が、何とエリザベス・テイラーである。
ゴージャスな布陣ではないか。この子直ぐに結核で亡くなってしまう。
寄宿舎の健康管理の問題で、明らかに過失(人災)である。
マーガレット・オブライエンのロチェスターの娘は無邪気でおてんばで愛らしさが出ていた。
ついでにジェーンを預かっていたリード家の婦人(夫が亡くなれば他人)とその子供の憎たらしさもかなりのものであった。
あのぶくっと太った性格の悪いいじめっ子の元型はここにあった。(多分)。
オーソン・ウェルズは、少なくともわたしがこれまで観てきた彼の映画の中でも、もっとも幅のある迫真の演技に思えた。
勿論、「市民ケーン」「第三の男」での彼も圧倒的であったが。


リード家を厄介払いされて入れられたローウッド寄宿学校は、管理者がリード家と繋がっておりジェーンを最初から色眼鏡で見ていたが、人間を封建的な秩序に埋め込む矯正の対象であり道具としか見ない権威主義者であった。
それに激しく反発しつつも耐えるジェーン。ヴィクトリア朝時代とは、これ程のものであったのか、、、。
確かにこの時期の物語は、これに類似する階級差別や虐めや劣悪な生活環境を記したものがある。(小公子、小公女等々)。

全てをかなぐり捨てて、ソーンフィールド屋敷に家庭教師として赴くところから、ジェーンの真の自立となるか。
今の自立とはレベルの違う、厳しい戦いの末に勝ち取ったものである。
ここで迎えた最初の朝の彼女の台詞にこちらも心底ホッとしたものだ。
「これまでの人生でもっとも素晴らしい朝だわ。」
それまでの人生が余りに過酷過ぎたと言える。

原作では、ジェーン・エアは孤児で美人ではないという設定であったが、それに反して映画の彼女は繊細で凛とした透明感のある美女であった。映画でも容貌が劣るような扱われ方をしていたが、どうにも違和感があった。(内面の美しさ、志の高さの表現というものか)。
芯の強い自立心のある女性であることは変わりない。

彼女は彼に秘められた暖かさを見てとり彼は彼女に周囲の女にない虚飾や傲慢さがないことに好感を抱くようになる。
寝室の火事から彼女に救われてから2人は急速に接近し、愛を育み一度は挙式を挙げるところまで行く。
だが、ロチェスターが重婚であることが訴えられ、破断となり彼女は傷心のまま彼の元を離れる。
彼も当然大きなダメージを受ける。


嵐に塗れて彼女の名を呼ぶロチェスターの声を聴き、彼の身を案じ飛んでゆくジェーンの霊感が凄い。
この映画要所要所にオカルティックなところが有り、ちょっとしたホラーよりずっと怖いものがある。
ロチェスターの若気の至りで結婚してしまった幽閉された狂気の奥さんの存在(実際には姿は映されない)は充分に怖かった。
グレイス・プールという老女がその面倒をみており、彼女も夜中に恐ろしい笑い声をあげたりする。
ロチェスターの寝室と、しまいには屋敷全体に放火したのは、狂気の妻であったようだが。

ロチェスターは視力を失い(原作では片腕も失っていなかったか)、屋敷も焼け野原であったが、愛の前に障害などない。
元々、ジェーンは凡ゆる障害を跳ね除けてきた女性である。
彼女の側からのアプローチにロチェスターは生きる意欲を取り戻す。
ここで真に2人は結ばれ、子供も授かる。
しかも子供の顔を確認出来るほどに彼の視力も戻ってゆくのであった。

映画はこうでなければ、、、とつくづく思うのであった、、、。


やはり名作である。

Jane Eyre

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コンドル

THREE DAYS OF THE CONDOR002

THREE DAYS OF THE CONDOR
1975年
シドニー・ポラック監督

ロバート・レッドフォード、、、ジョセフ・ターナー(コンドル)
マックス・フォン・シドー、、、ジュベール(殺し屋)
フェイ・ダナウェイ、、、キャサリン・ヘイル(一般女性で写真家)

原作は”Six Days of the Condor”だという。
短縮したのか?

ジョセフはCIA職員であるが、事務方である。
世界中の本や新聞を読み漁り、暗号やトリックなどに目を光らせる。
007的な派手なスパイ活動をするわけではないが、暗号解読などで重要な秘密を暴きでもしたら危ない立場となる可能性もあるのかも。

昼ご飯を買いに裏口から抜け出して行き、帰ってきたら彼の勤めるアメリカ文学史協会(CIAの外郭団体)のメンバー全員が何者かに射殺されていた。彼はたまたま弁当係だったので、命を拾ったようなものである。
本を読むのが仕事の現場で、この惨事はないだろうと、唖然とする。

それで当然のごとく、彼は本部に保護を求める。
しかし上司から送られてきた男のうち、1人は友人のサムであったが、もうひとりがジョセフに向け銃を発砲する。
ジョセフはその際、その男の足を撃ちぬく。
しかし撃たれた男が何と同僚のはずのサムを撃ち殺す。
ここでもはや正面から関われる組織ではないことを改めて知る。
しかもジョセフはその殺人の濡れ衣まで着せられてしまう。
彼は不可避的に組織に対し、独りで立ち向かう流れとなってゆく。
たまたま居合わせた一般女性キャサリンの協力を仰ぎ、真相を暴く行動に出る以外にない。
彼女とは、適当な写真に関する感想など言って仲良くなるが、ここは強引だ。
たまたま上手くいったが、裏目に出たらここでオシマイだ。


ここから、ジョゼフことコンドル(コードネーム)は、冴え渡る。
(CIAでは、ただの本読み係でもコードネームというカッコ良いものがもらえるのか、、、)。
本読みが仕事というぬるい環境にいた職員とは思えぬ、実戦的で機敏に先を読む流れるような行動に出てゆく。
そこがもう長年培ってきたかのような手際の良さであり、電話会社に忍び込み黒幕の電話番号を調べ出し、沢山の箇所に同時に繋げて攪乱したりするなど、飛び抜けた技術屋の側面も見せる。
事務方でミステリー小説とコミックが得意とは言え、メカとコンピュータにも強いのだ。
よく出てくるこの時期のパソコンがとても趣深かった。
コマンドライン入力の如何にもデータを着々と処理する感じを示すモニタがよい雰囲気だ。
そこにもわたしなどは、見蕩れてしまう。

結局、CIAの中に影のCIAがもうひとつ出来ていて、様々な陰謀を巡らしていたようなのだ。
コンドルはそれを掴む。
そして、黒幕と察した男を捕らえ詰め寄るところまでゆく。
するとそこに現れたのは、それまで彼ーコンドルを追ってきたジュベールである。
これまでの殺しは彼により完璧に遂行されてきた。

マックス・フォン・シドーの殺し屋は、エクソシストのメリン神父より遥かに良かった。
とは言え、わたしにとっては、「処女の泉「第七の封印」「野いちご」などのベルイマン映画での彼の大ファンではあるが。
彼はここでは、冷酷で威厳を持った殺し屋を淡々と演じている。
その存在感は圧倒的だ。
最後の場面で、コンドル絶体絶命かと思いきや、、、
あくまでも殺し屋としてのポリシーを貫く彼は、自分の雇い主であったそのCIA裏組織のトップを撃ち殺す。
新たな雇い主はCIAニューヨーク支部長のビギンズであった。
コンドルは、結果的に命拾いし、おまけにジュベールは彼を「殺し屋」にスカウトする。
(勿論、コンドルはアメリカは離れられないと、断るが)。
ここの2人の会話の部分がやけにリリカルで沁み込むものである。


今回の騒動の発端は、コンドルが意図せず読み取って本部に送ってしまった極秘計画の解読であったらしい。
組織内での石油をめぐっての中東侵略の機密に触れた部分であったようだ。

ビギンズはコンドルにこの「仮定のゲームの大義」を説いて聞かせるが、彼はそれを一蹴する。
最後に、ビギンズに対し「この1件は、ニューヨークタイムズにリークしたぞ!」とコンドルが言い放つが、彼は「馬鹿なことをした。君はもう終わりだ。」と返し、「記事にはならんぞ。」と余裕を持って応える。
コンドルの顔は曇ってこわばり、彼が雑踏の中に消えてゆく不安なシーンで終わる。


情報のコントロールと陰謀説はわれわれに常に付きまとう懸念である。
(政府あるいは、大統領直下のCIA組織などであれば、メディア操作など容易いものだ)。
そうでなくともつい最近、科学論文ひとつ出す際にも、様々な思惑からの情報操作や個人の陥れなどの泥沼をわれわれはうんざりしながら観てきた。
丸裸の情報などというものは存在せず、不可避的に何者かの幾重にも編集された情報が流布されるのみなのである。
自分で調べがつくような情報源など、日常生活の中にはほとんどあり得ない。
ほぼ全て、メディアを通した情報を信憑性を測りつつ判断しているに過ぎない。
このこと自体、実に覚束無い。
われわれは覚束無い生活を送っているものである。

絡め取られながらも、もがき真相の線を手繰り寄せて食らいついてゆくコンドルはなかなかの者であった。
終始事務方のお兄さん風情を保ち続けていたのも洒落ていた。007化しないところがよい。
取り敢えずキャサリンという女性を仕事のパートナーとしたが、、、。
フェイ・ダナウェイは、巻き込まれ役をあやふやなままに上手く引受けこなしていた。

ジュベールには迷いはない。雇い側も敵側も共に信用する必要はなく、そこに大義はなく、大事なのは仕事の正確性だけだ。
大変健康的だという。だから見所のありそうなコンドルにも勧めてきのだ。
THREE DAYS OF THE CONDOR

ジュベールに言われれば何でも説得力を感じる。
一番確信を持った人間は、彼であった。


弥栄グリーンフェスタを聴いた 高校生のコンサート

sakatano tane

いつも行く公園の”グリーンハウス”にて、弥栄高校のグリーンフェスタというコンサートが開かれた。
雨続きであったため、かなり久しぶりの公園である。
まず早めに着いたため空いてるところがまだ少なく、38Mの展望台から遥か彼方を望遠鏡で眺めることから始めた。
清々しく気持ちよかった、らしい。(わたしは見ていない)。
ふれあい動物公園が開いたため、娘たちとモルモットや獰猛なヤギに人参あげて遊ぶ。
ちょっと、ルー・リードの「パーフェクト・デイ」を思い浮かべるが、気にしない。
3人で自然な流れで、公園の噴水に向かって歩いていく。
いつものように。
夢遊病のように、何となく、、、。
すると突然、園内放送でコンサートの件が告知された。
それが開かれるグリーンハウスは目指す噴水のすぐそばである。

そのまま行ってみよ、ということになる。
来週の土曜日には自分たちが「ピアノ発表会」なのだ。
(長女にとっては二回目、次女は初めての)。
その気分に予め浸っておきたくもなる。(しかしそれはわたしだけだった事が後に分かるのだが)。
ホールには、すでに3人ほどの人が座っていた。
まだ開演30分前であった。

わたしの後ろに席を取った娘たちは、暇を持て余して手遊びや歌遊びをし始めた。
30分あると座ったままでも、結構遊べるものだ。
娘たちの幼い声がひそひそ暫く響いていたが、鳥のさえずりくらいのノイズに過ぎず、誰の気にもならないようだった。
やがて、始まりのアナウンスが聴こえ、まだ小さく続いていた彼女らの声に、上から忽然と若く清らかな声が被さってきた。
その瞬間、ひとつまたひとつと重なる合唱以外の音は一切、途絶えた。
突然始まり、その歌声の主たちは、2回の階段から降りて来る者、背後のホールからわれわれのすぐ横を通り抜けて行く者、すぐ目の前の椅子から立ち上がり正面に向かう者、それぞれがほぼ同じ時にステージへと歌声とともに集まった。
娘たちもこれには、息を飲んだようだ。

演劇ではこういった始まりは数多く体験しているが、コンサートではあまりない。
合唱を聴きに行くことは、これまで無かったことに気づく。
大概、オーケストラか少し小ぶりのアンサンブルか弦楽四重奏とかである。
それ以外はピアノ、フルート、バイオリンの単独演奏のもの、、、。
楽器を弾きながらどこからか現れるのは難しい。

合唱なら確かに、かなり凝った移動の演出が出来る。
そりゃ、ミュージカルもあるし、ワイヤーアクションで飛びながら歌えるんだから当たり前だが、、、
ただステージ上で高校生が唄う歌を聞くことしか頭になかったので、導入にはハッとした。
混声合唱であることも、何か新鮮な感じで、大いに好感を持った。
何せ、如何にも野球部風のお兄ちゃんや、ニキビたっぷりのゲーマー風の少年が懸命に口を開けて発声しているのだ。
それだけで応援したくなるというもの。
男女比も半々でバランスが取れていた。
そして何より若さだ。瑞々しさだ。
無我夢中で歌っている姿が何というか羨ましいではないか、、、。

後ろにいる彼女らの表情は見えないが、神妙に聴いていることは気配で分かる。
それを感じつつ、「さくら」(日本古謡)やモンテベルディの曲以外は知らぬ曲ばかり、8曲ほど聞いた。
「さくら」は編曲が素敵だった。
草野心平作詞の『「コズミックエレジー」より鬼女』というのは、雅楽っぽいおどろおどろしさもあり構成が凝っていて面白かった。
チャレンジ感があって良いのだが、舌足らずな感は否めなかった。
流石に聴くにつれて、どんどん声量、声の力(主に伸び)、言葉の明瞭さが、弱く危うさがめだってきた。
安定感もかなりキツイ。
最初から、非常に若い感じのアンサンブルであり、そこが微笑ましいところで、是非娘に聴かせたいものでもあったが、初々しさだけで引っ張るのも限界はあった。

案の定、後ろから「もう飽きた」、「眠い」という声が2つ聞こえてきた。
終わる2曲前からである。
どうもその前からそわそわしている気配は確かに背に感じながらわたしも聴いていた。
であるからわたしも落ち着いて聴けなかった。

きっと最後は面白いぞ、と言って半ば強引に聴かせた。
子供は一度飽きると、続行は難しい。
しかし後半は弦楽合奏である。
バイオリン、チェロ、ビオラ、コントラバス、、、などが出て来る。
これはまた違うよ、と期待を持たせる。

ドボルザークやチャイコフスキー、谷山浩子の「テルーの唄」まで出てきた。
弦は優しく深みがあり、柔らかく包み込んでくれる音である。
これに親しんでもらいたいのだが。
「もう寒い、冷え過ぎてる」等と言い始めた。確かに冷房は効いている、、、。
チャイコフスキーの「弦楽セレナード」やるなら穏やかな「第二楽章」も良いのだが、「第一楽章」やって貰う方が、受けは圧倒的に良いはずなのだが。
そうは、行かなかったか、、、。
ドボルザークの弦楽四重奏「アメリカ」第三楽章は、曲のよさを知り、少し得した気分になった。
「テルーの唄」は、編曲がなかなか良かった。
彼女らもかつて車のBGMで聴いていた曲であったため、おやっと思ったようだが、惹きつけるまでにはいかなかったか。
最後は、合唱部と弦楽部の合同でモーツァルトだ。
よかったね!とは言ってみたが、何とかもった。
”Ave verum corpus”「アヴェ・ヴェルム・コルプス」である。
フォーレのものも、とても良い。
聖体賛美歌である。小品であるが絶品である。転調がとくに良い。わたしはこういう曲が大好きである。
これを最後に聴けるのは、幸せなのだが、、、。
もういっぱいいっぱいな感じであった。(生徒さんもうちの娘たちも)

ご苦労様でした!


疲れてすぐ帰るかと思いきや、水遊びをしこたまして帰路に着いた。
寒かったんじゃなかったのかい?
(帰る途中でラーメン食べたが、美味しかった)。




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陽は昇る

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LE JOUR SE LEVE
フランス
1939年

マルセル・カルネ監督
ジャック・プレヴェール台詞・脚色
モーリス・ジョーベール音楽

ジャン・ギャバン、、、フランソワ(塗装工)
ジャクリーヌ・ローラン、、、フランソワーズ(花屋)
アルレッティ、、、クララ(元バランタンの愛人)
ジュール・ベリ、、、バランタン(犬回し芸人)

「陽はまた昇る」というアメリカ映画と紛らわしい邦題で、こちらはどうも損をしてるように思われる。


フランス映画らしさに満ちた作品である。
ヒトを撃ち殺し部屋に立て籠る現在と、回想が3回に渡り挿入される構成で成り立つ。
またこの時期は、ジャン・ギャバンなのだろう。
もう少し新しくなれば、アラン・ドロンで、文字通りの二枚目となろうが。(だいぶ雰囲気は異なる)。

昨日の映画「霧の波止場」に比べると詩的な台詞はやや少なめに感じたが、絵と音楽にはただならぬ感動を得た。
ウジェーヌ・アジェの巴里が思い浮かぶ幽幻な街角と、グレツキを想わせるポーランド現代音楽調の音楽の神秘的な重厚さには驚いた。
勿論、台詞に印象的なものはある。
「あなたの目は、片方は嬉しそうだけど、もう片方の目は悲しそう。」
ジャクリーヌ・ローランのフランソワーズの台詞だが、まさに観る事に催眠をかける言葉だ。
案の定、ジャン・ギャバンのフランソワは鏡を見つめてつくづくそうなのか、という顔をしている。
こうやって、相手を恋の迷宮に引きずり込むのか、、、。
恐るべし、フランス娘!昨日に引き続き飛んでもない。
フランソワの単純さからいって、もうこの一発で完全におしまいであろう。
勿論、最初の出逢いから、所謂一目惚れ状態ではあったのだが、、、。
しかし、相手が反応なければそれまでである。
こんな言葉を返されてはたまったもんじゃない。

このへんは、フランス恋愛文化からすれば、ごく普通のやり取りのうちなのだろうか、、、。
「初めて君を見たとき幸せを感じた。」
「雨の日に停車場で市電を待っていたら、満員で乗れない。その次の電車も、またその次の電車も。ずっと雨の中で佇んでいる。自分の人生はそんなものだった。」
と、フランソワ。
これは渋い。素朴で実直な性格がよくわかる。
母性本能をくすぐる(そういうものがあるのなら)台詞でもあろうか。
とは言え、すぐに恋に落ちるのだが、結婚はなかなかしない。
だらだらと気を持たせる。
要するに、恋愛が好きなのか。
恋の状態を、こういう言葉のやり取りを続けたいのか。
勝手にしなさい、というところだが、、、。

それにしても、ヒーローとヒロインの名が紛らわしい。
フランソワ(男性形)に対するフランソワーズ(女性形)である。
2人とも施設にいた孤児であった、とは言え同じである必要はなかろう。
(それとも付けやすい名前なのか?タローとかジョンとかみたいに、、、とくにつけやすくないか)。
アッシジのフランチェスコに因みこの名が広まったとも云われている為、施設ではつき易い名前なのか、、、。
ともかくこれでは、感想がちょっと書きにくい。


ジャン・ギャバンのフランソワに撃ち殺されるバランタンの嫌味な性格ー演技は凄い。
フランソワーズの実の父だと、とうとうと嘘をつき、父の苦悩を訴えるところなど尋常ではない。
作り話であそこまで喋れれば大したものだ。
日常は、ひとつの引き金で劇的に異化する、その極端でもあり、いくらでもありうる例ードラマであろう。
突然の可憐な美女にときめくのも、非日常の時間だが、激情に任せて相手に銃を向けてしまうのも、一気にそれまでの日常を断絶し完全に回想の世界にしてしまう。
もしかしたらあの嫌味なバランタンは、わざとフランソワに自分を撃たせるために拳銃を持参し、彼の目前に置いたように思える。
それが、恋に破れたバランタンの最大の復讐にもなり、フランソワを破綻した自分の道連れにも出来る。
ずる賢くヒト(女)を騙してばかりいる男である。それくらいの計算をしてフランソワの部屋を訪れたはずだ。
それにしても、ホントに執着の激しい嫌味な性格を見事に演じきっていた。
ジュール・ベリ恐るべし。
実生活でこういうのに関わったらえらいことになる。

「天井桟敷の人々」のアルレッティが存在感を示していた。
このクララが比較的に極端(単純)な登場人物のなかで、幅のある良識を備えた、しかし女性の性に翻弄されもする厚みのある役を好演していた。


最後の自殺し倒れたフランソワを優しく包み込む朝日が、題名の由来であることが解る。
(わたしが彼の立場であれば、興奮が冷めたところで、白旗上げて投降するのだが、、、)。
それでも、いくらでも悲劇のドラマには成りうる。
しかし、このエンディングのシーンで決めたかったのだ。
ここのイメージが最初にあったのかも知れない。




霧の波止場

LE QUAI DES BRUMES

LE QUAI DES BRUMES
1949年
フランス

マルセル・カルネ監督
ジャック・プレヴェール脚本

ジャン・ギャバン(脱走兵ジャン)
ミシェル・モルガン(ネリー、、、17歳とは思えない早熟娘)
ミシェル・シモン(ザベル、、、ネリーの名付け親)
ピエール・ブラッスール(ルシアン、、、ひ弱なチンピラ)
ロベール・ルヴィギャン(暗い画家、ミッシェル)


「日が昇るたびに何か新しいものを期待してしまう。」(ネリー)
ル・ア-ブルとは、こんなに霧の深い港街なのか?
あの怪しげな酒場”パナマズ”がぴったりな場所だ。
パナマにいたことを自慢する店主。
清潔な本物のベッドで寝ることが夢だという男。確かにしょっちゅう宿を借りて寝ていた。
後の「ア-ティスト」でもこんな犬がいたな、と思い出した。
突然、あんなところに、こんな人が、、、という感じでネリーが立っているのが凄かった。
かぐや姫に突然出会ったおじいさん状態だろう。ジャンは。(ジャンは、役柄でもジャン)。
わたしには、やけにプラスチックな美女に見えた。「メトロポリス」に出てきそうな。
「人は誰かを殺すんだ。」「それが他人だったり、自分だったり。それだけのことさ。」という画家ミッシェル。
彼はジャンに何気なく靴のサイズを聞いておく。
「泳いでくる。遠くまで行けそうな気がする。」と海に飛び込み自殺し、ジャンに普段着と靴と帽子を譲る。
気前が良い。
物事の暗い部分ばかりが目に付けば死にたくなるだろうか、、、わたしは一向にならない。
しかし何でザベルはあんなに顔を嫌われるのか。
音楽の趣味は良いのに。
ルシアンもゴキブリ並に嫌われていたが、、、これは仕方ない。
乗ってる車がカッコ良い。車好きでカートにも乗りまくる。(誰にも取り柄はある)。

ストーリーと言えば単純な男女の恋愛を描いたものであり、全くなんてことないものだ。
フランス人は、いきなり恋に陥り、恍惚の時を過ごしたかと思うと、さっと別れとなる。
もはや恋愛の様式美である。西部劇やチャンバラ劇にはとうていみられない風情である。
出て来る娘も凄い。ミシェル・モルガンは実年齢も18だったそうだが。
「理解なんて出来ない。でも愛することなら出来るわ。」とネリー。17歳の娘が喋る言葉か?
フランス娘は言うことがいちいちませている。(いくちゃんより3つも若いのに、、、どういう比較だ?)

ネリーの養父ザベルの店にジャンが訪れる偶然も、ジャンが画家になってしまう流れも面白かった。
全く新しいアイデンティティを得て、ベネズエラ行きの船に乗ることになるその日に、ジャンは公衆の面前で恥をかかされたルシアンの兇弾に倒れる。
泣き叫ぶネリー。最後にキスをしてくれ。時間がない、、、。
事切れるジャン、、、。
これを悲劇と呼ぶなら、そうかも知れぬが在り来りなものである。(片方が死んで終わりというパタン)。
ここまで含めての様式美である。
しかし台詞が如何にも、である。洒落ている。
それに被る音楽もまた良い。
ひたすら洒落ていて、いつしかこちらがうっとりしている、、、。

わたしがこの映画にしみじみと感じ入ったのは、その映像そのものである。
「映画」の文体の心地よさとは、これであるという実感である。
陶酔である、、、。



大いなる幻影

La Grande Illusion

”La Grande Illusion”
1937年
フランス
ジャン・ルノワール監督・脚本

今日から古典に幾つか当たってみたい。

戦争の荒波に揉まれた作品で、その内容からも、フィルムの大幅なカットや焼失の憂き目に遭い、再現が大変だったようだ。
結局ナチスが持ち去った完全版のネガが発見され、この復元に漕ぎ着けたよう。

ジャン・ギャバン(マレシャル中尉)
ディタ・パルロ(エルザ)
ピエール・フレネー(ド・ボアルデュー大尉)
エリッヒ・フォン・シュトロハイム(ラウフェンシュタイン大尉 収容所長)


この映画、音をドンパチ鳴らしてみようが、演芸会で歌を唄ってみようが、大変切なく美しく静謐なのだ。
戦場での戦闘シーンも一切ない。
舞台は収容所内か未亡人エルザの家か国境近くの深く閉ざされた雪山くらい。
交わされる会話の夢のような静かな重さ。
覚束無いアイデンティティは、ますます希薄となり。
それらの会話と行動は、「人間同士の邂逅」を経て、魂を越境へと誘う。
絵が、ひたすら美しい、、、。


「ゴルフ場では、ゴルフをするしかない。」
誰もがコースに入ってしまうとそこが自明の場所となる。
そのコースには、それ独自の統制制度が成立し、それまでの社会階級は歪み崩され単純化されもする。
自分の輝かしいアイデンティティ(階級)の崩壊を感知する者は、形骸と矜持にしがみつくも、見つめる先は死しかない。
(ド・ボアルデュー大尉とラウフェンシュタイン大尉のような貴族階級)。
ラウフェンシュタイン大尉が殊のほかド・ボアルデュー大尉を丁重に扱った理由である。
彼らの黄昏た同族意識は、特別な友情を育んだ。
逆に古い階級意識から事も無げに降りた者たちは、無意識的に少なくとも収容所に留まることはできない。
彼らは外に出ることしか頭にない。新たな何かが待つ外に出てゆくのだ。

彼らは皆、ゲームを早く終わらせようと想っていた。
ここでは、敵も味方もなく、存在が現れてくる。
職業、民族、階級、国家の柵は消え失せて。
友情や愛情が立ち現れてくる。

そんな幻影が美しく垣間見える。
それが余りに儚く美しいため感極まってくる。
しかし階級も差別も戦争も、、、。
未だに何も終わってはいない。
今も新たな階級、差別、戦争が生まれ、勃発するばかりか、、、。


「国境なんて所詮人間の作ったもの。自然には関係ない。」
「戦争さえ終わらせれば。」
最後の脱走したふたりのフランス兵士(マレシャル中尉とユダヤ人の資産家)が深い雪の中を歩くシーン。
「撃つな。国境を越えた。」
「ああ、よかった。」と思わず漏らすドイツ狙撃兵。


「真の友情」や愛情は何処においても芽生えてくる。
越境し新しいアイデンティティを得ようとする者たちに。
フランス人マレシャル中尉が終戦後、ドイツの未亡人エルザを迎えに。
もしそれが叶わないにしても、、、。
残念ながら戦争はいつまでも続き、今やEUも崩壊の危機に瀕している。
しかしそれでもなお、、、。
他の幾人ものマレシャル中尉が他の幾人ものエルザを迎えに行くのだ。
それがこの「大いなる幻影ー希望」でもある。

「ゼラニウムの花」は厳しい土地でも、ラウフェンシュタイン大尉がしたように丹精込めれば育だつ。
ルノアールは、ギリギリのところで、われわれを信じている。


まるで全編が夢であったかのような。
美しい映画であった。

レイダーズ 失われたアーク

Raiders of the Lost Ark

”Raiders of the Lost Ark”
1981年
アメリカ
スティーヴン・スピルバーグ監督
ジョージ・ルーカス製作総指揮
ジョン・ウィリアムズ音楽

まさに”Raiders”盗賊たちの噺である。

ハリソン・フォード、、、インディ
カレン・アレン、、、マリオン(インディのかつての恋人で大酒呑み)
ポール・フリーマン、、、ベロック(インディのライバルで彼が手に入れた物を尽く奪う)
ロナルド・レイシー、、、トート(ゲシュタボのサディスティックなエージェント)
ジョン・リス=デイヴィス、、、サラー(インディの友人の考古学者)

この作品の後に『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』(1984年)、『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(1989年)と続く。
ファンの強い希望で『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』(2008年)も製作される。
トレジャー・ハンター、インディ・ジョーンズ第一作目。

ナチスがタニスの遺跡を発見し、聖櫃(アーク)の発掘が進んでおり、その所在は「ラーの杖飾り」が手がかりとなる。
その情報と争奪の依頼を陸軍諜報部から受け、インディは例のフェドーラ帽、レザージャケット、牛追いムチスタイルで颯爽と現地に赴く。

ヒトラーのオカルト趣味をかなり押し広げ、ナチス対インディ「聖櫃」争奪戦の構図となる。
(実際、ナチスはこの時期多くの貴重な文化的逸品をヨーロッパ中から巻き上げていた)。
この対立構図はシャーロック・ホームズの作品も同様であった。時代設定が近い。
そこにフランス人考古学者のベロックもナチスとともにインディの前に立ちはだかる。
かなりハードな冒険アクション劇であるが、特に軍のトラックやジープとのカーチェイスが究極的。
これ程の尺と激しさで繰り広げられるカーチェイスは、パチンコ玉のでかいのに追われるシーンともどもトラウマになっていたが、今観てもかなり疼いた。(古傷が(笑)。
兎も角、あんな罠があったら命が幾つあっても足りない、と今回も思った(笑。
更に蛇である。インディのように蛇が特に嫌いでなくとも、夥しい毒蛇には圧倒される。
まだ、CGはほとんど使われていない時期、後に大きな範例となる映像である。
(ハエが一部、気になるところはあった)。

猿も悪の手先としてしっかりスパイの面構えで存在感を示すが、その主人の仕込んだ毒入り杏?を食べて死ぬ。
友人サラーもこの時から、2作目・3作目と長く続く協力者として登場する。
柔らかな人柄の良い友人だ。(実はわたしは最初観たとき、この人物が最後の最後に裏切るのでは、などと期待して観ていたものだが)。
ヒロインのマリオンが何処でも煩かった。大酒は呑むし、、、。
面白かったのは、敵に捕らえられやっとのことでインディに探し出されたのも束の間、今逃げたら発掘作業がやりにくくなるということで、また彼に猿轡をされてそのまま放置されるところだ。
これが、インディとマリオンの(これまでの)関係を象徴している。
マリオンが切れるのも無理はない。

物語は、基本インディが知識と知恵を動員し苦労して見つけ出した秘宝をナチスーベロック陣が横取りし、それをインディたちが追って奪い返すが、べロックたちの奸計にはまりまた取られる、という動きである。
おまけに自分たちも捕らえられてしまったりする。
この反復のスリリングでアグレッシブなアドベンチャードラマである。
おまけに、このベロックというのは、質が悪くインディのものはなんでも欲しくなるらしく、彼女のマリオンまで自分のものにしようとする。(悪者は徹底的に憎たらしく描かれている。単純明快な手法だ)。

最後のとてつもないオカルトドップリな終わり方に妙に説得力があったのは、最初から宗教的な意味とその力の秘密が充分に説かれていたからであろう。不自然さが感じられなかったのが、思えば凄い。
このようなシーンがこの後、何度となくいろいろなアドベンチャー・オカルト映画に見られることとなる。
幾つかは明らかにインディ・ジョーンズに捧げられたオマージュであろう。
宗教(キリスト教)のオカルト現象の猛威の元型と言えるか。
焔で顔が溶けてゆく姿が生々しく悍ましい。(特にトートの溶ける場面)。
しかし、目を閉じて見ないだけで、あの地獄の焔を避ける事が出来るというのが驚き。
そういうものなのか、、、考古学の知識からすれば、それで助かるのか!
そうだ、今思い出したが、わたしが一番仰天したシーンはそこだった、、、。
「見なければ、無かったことになる。」わたしの教訓ともなったものだ。


どうなのだろう。
エリア51のような場所に、ホントに何やら重大な秘宝が隠されていたりするのだろうか、、、。
アメリカより寧ろロシアの方が何やら隠していそうであるが、、、。
少年時代、そんな夢想をして不安になったことがある。(決してワクワクする夢ではなく)。






シャーロック・ホームズ シャドー・ゲーム

A Game of Shadows

Sherlock Holmes: A Game of Shadows
2011年
イギリス・アメリカ
ガイ・リッチー監督

ロバート・ダウニー・Jr、、、シャーロック・ホームズ
ジュード・ロウ、、、ジョン・ワトソン
ノオミ・ラパス、、、マダム・シムザ・ヘロン
ジャレッド・ハリス、、、ジェームズ・モリアーティ


この監督のスタイルというものが前作と本作でよく感得できた。
ペルシア戦争のテルモピュライの戦いを描いたジェラルド・バトラー主演の「300」もこんな演出とテンポだったことを思い起こした。
あの戦いの時の、速回しとスローモーションの流れるような組み合わせ。(ハイスピードカメラ使用)。
印象的だがあまりやられるとちょっと弛れてくる。
2シーンくらいに絞ったほうが効果的か。
それにだぶる印象のあるファイトの前の戦略イメージ。
前作ではリアルタイムでも全く想像通りの組立で勝利していたが、今回は実際には横槍が入って違う展開になってしまうなど、なかなかのものだった。
最後のモリアーティとの組手の時のふたりのそれぞれの脳内イメージ合戦は、鮮やかであった。
(これ自体がシャドー・ゲームか?)
そしてホームズのとった究極の方法まで、全く緊張が途切れなかった。
しかし、その速回しとスローモーションのシーケンスの演出が多すぎるきらいはあった。
銃弾トリックを後で遡って機械構造の内部運動から説明するところなどCG的に面白いのだが。
如何せん動きの演出が些かくどい。

今回は最凶の黒幕との命をかけた決戦であり、ホームズの覚悟して臨むというところ。
死闘はスケールと激しさをいや増しに増す。
飛んでもない砲弾の嵐を浴び、ホームズ自身心臓が一時止まる。
が、今回も伏線が細やかに張られており、特効薬で蘇る。
一番の蘇りは極寒の滝壺(ライヘンバッハ)に落ちても命を拾う、兄からくすねておいた酸素マスクであるが。
前作の鍵じゃあるまいし、あれがポケットに入っていたとは思えないのだが、、、伏線としてあったので良しとしたい。

どうも文句をつけたいモードになりかけているが、今回は問題なく物語に没入できた。
最後の決戦であったため話も収斂して突き進み、しっかり集中できた。
レイチェル・マクアダムスが始まってまもなく呆気なく殺されてしまうのは、ちょっと物足りないが物語そのものは充実していた。
ホームズもモリアーティともども世間的には死んだことになる。
葬式をしようがホームズはこのまま終わらない予感はしていたが、かのモリアーティ教授だって分からない。
このふたりの裏のかきあいはどこまでも続きそうな迫力であった。

しかし、謎解きとなるとどうであろう。
前回もそうであったが、伏線の鮮やかな回収という感じで手品的な印象であった。
脚本手順的には、結果がありそこから遡行して良い塩梅のポイントに伏線を張るというところだろうが。
この対応感が少しタイト(一対一対応)すぎて、、、ああそうか、とすっきり感心する気持ちにはなりきれない。
デヴィット・クローネンバーグなど伏線かと思っていても、そのまんまとか結構ある。
実際のところは、そんなものだ。世の中それほどクリアーではない。理屈だけで組み上がるほど単純明解でもないし。(だから今回、予想イメージに予期せぬ外部要因が加わったところなどは気が利いていた)。


それから、ちょっと変わったエピソードだと引っかかったところ。
噺に幅を持たせるためのものだろうか。以下幾つか、、、。
あの迷彩服はいくらなんでも忍者ではあるまいし。目の前にいて気づかないなんて有り得ない。
噺にほとんど関係ない遊びとしても意味不明。
ワトソンの新婚旅行の列車に乱入する際、ホームズが女装する必要があったか。
新婚旅行なのでそうしたとしたら、かなりきている、、、(痛。
ホームズの兄マイクロフトは何で全裸で家の中をうろつくのか。しかも女性のいる部屋で。およそイギリス上流階級には思えないのだが(型にはまらない大人物という描写か)。これも痛い(笑。
あれだけの運動神経を誇るホームズが乗馬が苦手で、ポニーみたいのに乗ってみんなの後をポコポコついてゆくのも面白かった。誰でも苦手種目はあるという彼のキャラの幅を広げるものか。(取ってつけたようではあるが)。
わたしとしては、レイチェル(峰不二子)がひょいとまた現れるものと期待していたら、後で息絶えるシーンが出てそれまで、というのが少し捻りの足りなさを感じた。
前回あれだけ活躍して彼女も超人振りを発揮していたにも関わらず、アレッと思うところではあった。

とは言え、よくできたアクション映画であった。
「前作」より楽しめた。

シャーロック・ホームズ

Sherlock Holmes

Sherlock Holmes
2009年
イギリス・アメリカ
ガイ・リッチー監督

ロバート・ダウニー・Jr、、、シャーロック・ホームズ
ジュード・ロウ、、、ジョン・ワトソン
レイチェル・マクアダムス、、、アイリーン・アドラー
マーク・ストロング、、、ヘンリー・ブラックウッド卿

『アイアンマン』のロバート・ダウニー・Jrがシャーロック・ホームズで、体育会系の私立探偵であり研究者である。
原作でも格闘技に通じているということだからこれは納得するとしても、負傷した退役軍人にしては、体力・健康とも申し分なく、喧嘩も滅法強いジョン・ワトソンはどうしたものか、、、ちょっと逸れている感じはする。
わたしにとってジュード・ロウは「ガタカ「イグジステンズ」の印象がともかく強い。(これは本来のジュード・ロウではないかも知れないが)。ここでは見た目は端正な紳士ではあるが、とんでもないファイターであった。

ブラックウッド卿のキャラクターは、『法の書』のアレイスター・クロウリーが元になっているそうだが、どう参考にされているのか判らなかった。まさか黒魔術を使うからなどというところで、アレイスターを参照したということはないと思うが。
ブラックウッド卿、相当な悪の黒幕という風貌を持ったオカルト臭たっぷりの男ではある。
しかし更にその上を行く、モリアーティ教授というのがいるらしい。
アイリーンを脅して操っていた男でもある。

その教授については、同時並行して影の如く存在しており、物語の最後にホームズが彼との対決を予告する形として強い印象を残す仕掛けである。これで続編が作られなかったら、映画ファンから間違いなく抗議が来るだろう。
しかし、彼が実際本ストーリーでは、最後に電波受信装置を盗む位の絡みであり、作品中に続編の広告を打ってる感じがした。
その為か、ブラックウッド卿の手強さとか怖さ、そして物語への集中が削がれていたことは確かだ。
ブラックウッド卿は最初現れた雰囲気からすると、それ程圧倒的な存在ではなかった。
オカルティックな演出と当時最高の科学を利用し、策を重ねて計画を実行してきたにしては、尻つぼみであっさりしすぎている。
普通はこの回においては、彼は最凶の存在として無敵の力を発揮し、何とかホームズ・ワトソン・アイリーンで辛くも打ち克つくらいにしないと、、、そもそもこの映画の意味がない。と言うか位置づけがよく分からないものだ。


何故かここでも研究室などに、動物がやたら出てくる。
ここのところそればかりが続いているような、、、。


全編アクションが多く、「フラッシュバック」が多用されていて、スピーディなテンポを強調する効果は感じた。
とは言え、アクションがここまで多いというのもどうだろう。
シャーロック・ホームズがあそこまで筋肉ムキムキというのも、、、。

ホームズの謎解きであるが、事前に謎を解いて解決するとか未然に防ぐと言うより、鋭い事後分析に思えるのだが。
それもあるところで、ドバっとまとめて分析を捲し立てる。
1件づつはやらないというか、点がある程度線となって一気にピンと来るのであろう。
ラフファイトの事前の作戦(イメージ戦)以外は、ほぼそうであったように思う。
その分派手なアクションや爆破や惨劇の場はふんだんに作れて楽しませることは出来る。
勿論、最後に待っていた議員の大虐殺は阻止した。(これが事後であったりしたらお話にならない)。
インディー・ジョーンズからすればサラッとしているが、なかなかの攻防は見せてくれた。
だが、どうも物語が薄味なのと、推理と言うか分析のための伏線はよいとしても、強敵の影が見え隠れしつつほぼ実質的な関わりを持たないため、今回のメインの悪役が際立たなくなってしまったのが残念なところだ。
折角、カリスマ的な魅力を漂わせるマーク・ストロングを使っていて、勿体無い。

ロバート・ダウニー・Jrは、こうした知的なラフファイターがはまり役になったと思う。
ジュード・ロウもワトソン像はともかくとして、存在感はタップリあった。
アイリーン・アドラーという役柄は、彼女の「本職」から言ってルパン三世の峰不二子ソックリで、ちょっとニンマリしてしまった。
レイチェル・マクアダムスはまさに主人公を翻弄する憎めない悪女に適役である。
それから、ワトソンは婚約者が出来て、ホームズとの距離をどのように置くのかどうかも作品のテーマとなっていた。
わたしは、あまり興味はひかれないが、ふたりが離れてしまっては映画も成り立つまい。
と、当然思ってしまう程度のことだのだが、、、。


何というか、普通に面白い映画であった。
モリアーティ教授は、最後の最後に突然出てきても(明かされても)よかったのでは、、、。
アイリーンもずっと黙っていて。(つまり、こちらには知らせずに)。
どうであろうか。




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インディ・ジョーンズ 最後の聖戦

Indiana Jones and the Last Crusade

”Indiana Jones and the Last Crusade”
1989年
アメリカ
スティーヴン・スピルバーグ監督
ジョージ・ルーカス製作総指揮
ジョン・ウィリアムズ音楽

ハリソン・フォード
ショーン・コネリー、、、インディ・ジョーンズの父ヘンリー・ジョーンズ
リバー・フェニックス、、、若い頃のインディ
アリソン・ドゥーディ、、、女性考古学者エルザ・シュナイダー(ナチスと手を組んでいる)

インディ・ジョーンズは、イエス・キリストの聖杯を探しにヴェネツィアに向かう。
父がその探索隊の隊長であったが、姿を消してしまい、父の消息を探る旅でもあった。

最初は、軽くインディ・ジョーンズが何故今のようになったかをあのハンサムなリバー・フェニックスが若かりしインディージョーンズとして再現してくれる。短い尺に鮮やかにまとめられていた。
それを見れば、一応なるほどと、納得できることになる。
ムチを使っているのは、こんな理由だったのだ、、、。帽子も何とも言えない。
(動物が次から次へと出てくる、出てくる。シリーズ中最多ではないか?)
ここからやるとは思わなかったが、父子物語でもあり、ルーツから行こうというものだろう。

毎回、ボンドガール調の女性が出てくるが、この作品シリーズは、スピルバーグ版007というものか。
今回は、知的でドライな女性博士であり、聖杯を奪うためなら手段を選ばない。
ジョーンズ父子も手玉に取られ、ナチスとも手を組んでいる。
しかし学者であるためか「焚書運動」には生な感情を見せる。

ここでもからくり部屋はお約束で出てくるが、入れば必ず夥しい何かがウジャウジャしている、、、。
出来ればスキップしたいところでもある。
本作は、ねずみの大群がもう気持ち悪い。これまでで一番キツイかも。
どうしてもこの手のものを見せなければならないのか、、、。冒険だからなのか。
われわれがねずみを気持ち悪がるのは、当然だ。
地上の湿地帯を争った動物の最大のライバルだったからだ。
集合無意識にも当然暗いトラウマとして刻まれている。

父子関係はハリウッドのお家芸テーマでもあるが、ここでは結構ニンマリさせてくれる。
特に父に何か言いたいなら聞くから言ってみろ、とあらたまって言われ息子が詰まって何もないよ、と返すところは、リアルで共感持てた。
そんなものだろう、、、。わたしも父親と話なんてまともにした覚えがない。

この父子のユーモラスな珍道中で特に面白かった小ネタ?は、自分たちの乗っている飛行機の尾翼を撃ち壊したり、椅子に縛り付けられているのにライターを火が付いたまま絨毯に落としてしまったり、成り行きでヒトラーからサインをもらってちょっと感激してしまったり、こうもり傘で鳥を追い払うことで敵の戦闘機を撃墜したり、、、そしてミスをした時の相手へ(父から子へ)の伝え方がまたよかった。(邦画ではこの間ー余裕があまりない)。

しかし、よくここまでタフなラフファイトを繰り広げられるものだと、感心する。
今回は前回にもなかったボートチェイス、バイクチェイス、戦車での大格闘、飛行船からの飛行機での空中戦、、、
こりゃ、少なくとも考古学者ではない。冒険家でもない。格闘家でもない。
インディー・ジョーンズとしか言えまい。

最後の聖杯にアクセスする時の三つの謎解きには、ワクワクした。
しかもお父さんまで撃たれどうなってしまうかと、ちょっとハラハラした。
最後に、父親のライフワークで探り続けてきた聖杯を目の前に、父自ら息子を助けるためにもういいよということで、収める。
流石にギリギリまで楽しませてくれる究極のエンターテイメント映画であった。
脚本、演出、音響、カメラワーク・撮影全てが熟れていた。


滅多に見れないリバー・フェニックスを見ることができたのもお得感がある。
しかし惜しい人であった。


ショーン・コネリーがかつて自分の出た映画の中でもっとも気に入った役だと言っていたそうだが、かなりのお間抜けで深刻な危険を幾度も呼び込むドジを連発するそれまでにない役柄であったはずだが。
彼は実はこういうのに憧れていたのか?
コントというか、パパ!パパ!と息子がパパの仕業に仰天して叫ぶたびにバカボンのパパを連想するところであった。
Indiana Jones and the Last Crusade02


大巨獣ガッパ

gappa.jpg

1967年
日活
野口晴康監督

川地民夫、、、黒崎(生物学者)
山本陽子、、、小柳(カメラマン)
和田浩治、、、町田(記者)
藤竜也、、、ジョージ
町田政則、、サキ(島の少年)

主題曲
美樹克彦


まず、山本陽子が新鮮であった。今の女優で言えば、木村文乃か?
清楚で凛としていて可愛らしい。ギャルっぽさがないところが良い。(当時まだギャルは出現していなかった)。
日活は大変な経営難が続き、各社怪獣もので盛り返していた矢先でもあり、うちでも1つということで作ったらしい。
キャストには金が掛かっているようにも思えるが、何程力を入れて作られたのかは疑問。

ガッパということから、カッパから発想を得ているはずであるが、この時期既に、ゴリラやワニや恐竜(翼竜)や亀、海老、蛸、龍などは使われており、残るはカッパかつちのこくらいのものではなかったか?
つちのこでは、モスラの幼虫くらいやりにくさが出てくる。残るはカッパとなるだろう。
ガッパもゴジラみたいに口から熱線を吐く。やはり強力な武器は欲しい。
口から何かを吐くというのが1番考えやすい定番である。
目から出すのもいたがそれは、熱線ではない。目から熱線出すのは厳しい。

この映画まず初っ端から主題曲で、度肝を抜かれる。
美樹克彦という歌手はテレビで見た覚えがうっすらとある。
ヘルメットを振り回しながら歌っていた記憶が僅かにあるのだが、、、。
多分その人だと思う。
極度に薄っぺらいグループサウンズ調のサウンドで、小節を回したナンセンスな歌詞が演歌調に歌われ、独特のノスタルジーに引き込まれる。この映画にも出てくるが、夕日が似合う曲である。
以下歌詞である、、、。

火を吹く島か 空飛ぶ岩か
宇宙の神秘 怪獣ガッパ
南の海の遥かに浮かぶ 幾万年も住んでるという
一度怒れば天地も裂ける 嵐のようなその叫び声
宇宙の神秘 怪獣ガッパ
ガッパ ガッパ ガッパアアアア~

以上。
最後のガッパアアアア~が凄い。
水曜日のカンパネラみたいな捻りはない。
が、妙に抜けている。


そういえば、わたしの小学校の友達にガッパというのがいたことを今思い出した。
映画を見てあいつに似ているということでつけられたはずだ。
嬉しいのか哀しいのか微妙なところだったろう。
女子なら間違いなく哀しいだろうが。


子ガッパが拐われ、両親ガッパが東京まで我が子を連れ戻しにやってくる。当然だろう。
わたしがガッパでも、取り戻しに来て、ついでに東京を壊滅して帰るはずだ。
ガッパは平和主義者なので進んで破壊活動は行わなず大人しく3人で仲睦まじく帰ってゆく。
そこがモスラに似ていた。


撮影と美術、演出も含め、かなり大雑把な作りである。
細かいことや丁寧な作業は予算も無いし、まあいいか、というノリであろう。
丁寧に作った素人っぽさというより、この辺でよかろうという結果が目立ちすぎる、、、。
火山の噴火やシーン全体の光の当て方とか、、、あからさまに絵と分かる島の山とか。
日本人そのものの南洋のヒトとそのおざなりな踊り。外国人は使えなかったのか、、、。トーテンポールや石像も手抜き過ぎ。
イースター島の石像と一緒だ、と言われても全然違うし。
俳優が力技で納得させようとしても、そりゃ無理がある。
ガッパがミサイルや砲弾の攻撃をどう受けているのか判然としないし、全く効かないのかダメージを受けているのかも分からない。
これが、ゴジラやガメラの映画との大きな違いだ。

あげればキリがないが、博士の研究機材など多少の手間をかければもう少しそれらしくなろうに、というところがどれも残念である。
特に船の中のものなど、小学校の理科の実験の方が充実しているではないか。
それから大学教授や研究者に「東都大学」という大学が多い事に気づく。(どうでも良いが、、、)。


週刊誌プレイメイト社の記者と生物研究の科学者がチームで、社長(スポンサー)の命令で南太平洋を探検していた。
雑誌社なのに大規模テーマパークを作るというのだ。何かの取材ではない。
渡航中に、何だか物凄い噴火をしている島を見つけ、彼らは上陸する。
そのキャサリン諸島のオベリスク島で、ガッパの卵の孵化を目撃し、生まれたばかりの子供を島民が止めるのも聞かず持ち帰る。
スクープであり、貴重な研究対象でもあり、ビジネスチャンスである。
(この辺はモスラの小美人連れ去りと同様のパタンである)。
プレイメイト社は雑誌がバカ売れし、子ガッパを見世物に更に金儲けを企む。
子ガッパは、親ガッパに居所を知らせる能力を持っており、それを察知した両親は水中から空を飛んで相模湾に現れる。
ガッパ夫妻は、子ガッパを探しながら温泉町を潰してゆく。
何とも言えぬ反応のぬるい自衛隊とガッパの攻防戦が行われ、結局子ガッパを親に返して事態を静めようということになる。
サキという島からやってきた子供と、小柳が強くそれを推す。(子ガッパはこの2人にだけこころを許していた)。
羽田空港で、子ガッパを親ガッパに返すシーンは間がよく、情景が上手く描かれていた。
このシーンは、覚えていた。以前(リアルタイムではないがTVで)見ていたことを思い出した。


わたしは山本陽子については出演作も含めほとんど知らないが、彼女の魅力が振りまかれているのがファンにはたまらない映画であろう。昭和の良いところがここに最も出ていると言える。もっと、彼女と子ガッパとのシーンなど多く入れてもよいはず。(その交流が更に彼女の魅力を引き出すと思われるが、何だか「怪獣ブースカ」を想わせるものにもなりかねない)。
しかしそれ以外の怪獣映画としての部分(つまりほとんど)は、結構厳しいものだ。
怪獣映画には、もっと細部への拘りが欲しい。
特撮は甘いものではない。
音楽や音響はとても大切な要素であるが、主題歌とか、、、特に必要ないのではないか。
ガメラのようにシリーズものとしてやるのでなければ。
妙に印象に残りすぎた。





インディ・ジョーンズ 迷宮の伝説

ndiana Jones and the Temple of Doom

ndiana Jones and the Temple of Doom
1984年
アメリカ
スティーヴン・スピルバーグ監督
ジョージ・ルーカス原案・製作総指揮
ジョン・ウィリアムズ音楽

インディ・ジョーンズ2作目である。
勿論、1作目も3作目も観ているが、、、

ハリソン・フォード、、、インディ(考古学者と言うより冒険家)
ケイト・キャプショー、、、ウィリー(クラブの歌姫)
キー・ホイ・クァン、、、ショート(国籍不明の戦災孤児)


娘ふたりが、猿の冷えた脳ミソのデザートあたりから一緒に観始めた。
次女にこの人(インディ)は何やってる人なの、と聞かれ考古学者だと答えたが、これは大きな誤解を生むと思い、冒険家だと言いなおしたが、それも何だか分からないため、ハリウッドの俳優だと答えておいた、、、。
彼が「ブレード・ランナー」のデッカードやってたんだなあ、と思うと感慨深い。
このひとはやはり、ブレード・ランナーやスター・ウォーズよりも「インディー・ジョーンズ」がはまり役かなと思う。
「ランダム・ハーツ」とか「パトリオット・ゲーム」や「ホワット・ライズ・ビニース」の不気味な悪役などいろいろ巧みに演じ分けているが、この役はスタイル(フェドーラ帽、レザージャケット、牛追いムチ)までしっかりきまっており、彼のアクション(アドヴェンチャー)ヒーローとしてのイメージを確立するものとなっている。(ある意味、寅さんと同じである)。

また、この作品はトリオの珍道中の定番的面白さ愉快さに溢れている。
個々の個性と性格もしっかり描かれており、キャストが流れとともにピッタリ馴染んでゆく。
このトリオ構成は見事に成功している。
(インディ一人では、このユーモアを散りばめた演出は無理だろう)。


3作のどれを観ても、ハラハラドキドキのスリルで押しまくり、飽きさせない。
少しでも目を離すわけにはゆかない息も継がせぬ面白さである。
ただ見ていれば良い、見ることの快感が堪能できるものだ。
この映像体験で、考え事は出来ない。
考えたら置いてゆかれる。
そういった映画は、確かにあるものだ。(ウィル・スミスものとか、、、)。

そう、そうした作品にある全ての要素がこれ一本で体験できた。
ナイトクラブでのダイヤと解毒剤をめぐっての銃撃戦と大乱闘、何ともチャイナムードのカーチェイス、墜落する飛行機からのゴムボートによる雪山から河への有り得ない着水、かなり芸を熟す象に乗っての旅から、数々のジャングルの獣、猛禽類との遭遇、突然現れる巨大で壮麗なバンコット宮殿とその凄まじいオモテナシのゲテモノ料理。夜の格闘を経て、絡繰り部屋での降りてくる天井と不気味な虫の群れ、大掛かりな邪教の火の儀式と大乱闘、トロッコチェイスはなかでも抜きん出た名シーンであろう。そして押し寄せる大迫力の奔流、ギリギリの(ゴムボート脱出をまた彷彿させるような無謀な)吊り橋アクションまで、、、何か抜けている要素があっただろうか、、、その全てがジェットコースターのスリルとスピードで途切れなく続いてゆく、、、。


まさにてんこ盛りアクション・アドヴェンチャー映画である。
夏のストレス解消には良い作品だと思う。
(水も押し寄せてくるし)。

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スターシップ・トゥルーパーズ

Starship Troopers

Starship Troopers
1997年
アメリカ
ポール・バーホーベン監督

ロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』原作
残念ながら、これは読んでいない。

キャスパー・ヴァン・ディーン、、、ジョニー・リコ(機動歩兵隊員。武勲により認められる)。
デニス・リチャーズ、、、カルメン・イバネス(優秀な宇宙船飛行士)
ディナ・メイヤー、、、ディジー・フロレス(リコを慕う女性兵士)


いきなり始まるケレン味たっぷりの軍部のプロパガンダCMから毒々しい映画であることを悟る。
軍に支配された地球連邦では、軍歴で人権が決まる。
兵役を経なければ市民権ももてない。
地球人は銀河に進出するも、アラクニドバグズ(昆虫型生物)の領域を犯し彼らの攻撃を受けることになる。
何と彼らは小惑星を地球にぶつけて来て、ブエノスアイレスを壊滅させたりするのだ。
そんな強敵アラクニドバグズと人類との戦いを迫力たっぷりに描く。
全編、ブラックユーモアにどっぷり漬かった噺でもある。
登場人物全員が病気である。
ナチのプロパガンダを効果的に使ったようであるが、内容的には如何にもアメリカであり、日本でもあるか、、、
まるで虫同士の潰し合いを観る思いだ。
虫に思い入れは無いが、人にも全く無い。

宇宙戦艦やバグの造形及び動きのディテールの精緻な描写が、即物的で呆気ない殺戮の迫力を高めていた。
しかし、この昆虫と宇宙船(メカ)と殺戮についての評判は随分いろいろなところから聞き及んでいたため、然程の衝撃はなかった。確かに圧倒的多数のバグが押し寄せて何のためらいもなく機械的に人を殺戮する光景はそのスケール感ともども脳裏に暫く残るだろう(笑。
(歩兵隊の武器のレベルが敵の身体能力・攻撃力に対し低すぎるのは、情報部などの上層部の明らかな失策であると思うが)。
だが戦いのVFXの見事さより、全編を塗りつぶすシニカルであっけらかんとした描写に寧ろ呑まれた。
「第9地区」のニール・ブロムカンプ監督が、影響を受けた映画にこれをあげていた。
よく分かる。ディテールの描き込みも同様に徹底している。
あの映画は、まさにこの裏側から作ったような作品である。

バグたちは、様々なタイプがいたが、実動隊・兵隊と背後に控えるブレイン・バグのような支配階層に分かれていた。
それにしても、宇宙空間に待機して高みの見物をしている上層部の船団を光線で次々に射止めていったり、地球に小惑星を激突させる高度なテクノロジーがどうなっているのか具体的な描写が見られなかった。
アラクニドバグズの兵隊とブレインは出てきたが、エンジニアや工場や研究機関が見られないのは残念である。
もしかして、それを念力(身体的能力)で実行するようなバグが別に存在するのか、、、。
だとすれば、それこそその形体を観てみたい。

それにしても主人公リコが、お前が一番頭のいいやつか!と爆弾を手に持ってブレインと思しきバグに聞くところなど、ホントにバカ丸出しであった。確かにブレインバグの方が遥かに賢そうに見えたものだ。
実際、日常にもこういう手合いをよく見る。
リコを慕うフロレスも、バグの口にダイナマイトを放り込んで敵に背を向け小躍りしているところを突き殺される。
普通に考えて、当たり前だろう。
また、リコが想いを寄せるカルメンという有能なパイロットであり上層部に属するこの女は一体何なのか、昆虫より不可解である。
超能力をもったかつての親友も情報部に配属され支配層にいるが、捕まえたブレインバグの気持ちを読んで、こいつは怯えているぞ、って何なのだ?それを聞いて取り囲む兵たちも喜び勇んで雄叫びを上げる、、、。
敵国兵の幹部を捕らえた兵隊そのものであるが、余りに品が無い。
実際アメリカが他国に乗り込んで行った軍事行動がこういうものであったはずだ。
怖気づいた軍曹がバグにやられたら、主人公たちが薄笑いを浮かべて観ている姿もそうであったが。
しかし、直前まで自分の戦友や恋人がバグたちに惨殺されまくったのに、何と晴れ晴れした表情で、「わたしたち3人がいれば無敵よね」(確かにかつての友人であったが)などと、調子の良いことを燥いで言っているカルメンが、主人公だけでなくみんなから持て囃されているのだ。
主人公を振って得た恋人がバグに無残に脳みそ吸い取られた後でも、ケロっとしているのが、デフォルト世界なのである。
こういう水準なのである。
戦時下においては、敵は確かに不気味な昆虫がごとき存在と化すだろう。
しかし、その精神は同様に同胞にも投影される。


非常に冷酷な映画に「メランコリア」があったが、ちょっと同じ匂いもするこの映画の悪意も徹底していて実にグロテスクであった。
勿論見応えのある、傑作だ。



ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

mosura.jpg

2003年
手塚昌明監督

小泉博が1961年作「モスラ」からのつながり(内容的にも)で小美人やモスラと40年以上を経ての再会を果たす。
相変わらず、かつてのモスラであり、小美人であったが、小泉博の変わりぶりがその年月を雄弁に語っている。
小美人はザ・ピーナツから次の世代、長澤まさみと山下リオのお姉さんになっていた。
(長澤まさみほどのビッグネームが学芸会的小美人を真面目にやってるところが微笑ましいというか、、、)。
「カイジュウ」映画の歴史と伝統をしみじみ感じる。
特にモスラが絡むと一際シブイ。

ゴジラ、ラドン、モスラは怪獣御三家と呼ばれてきた。(勿論東宝である。ガメラは大映)。
美術セットも健在であり、初っ端からその独特な雰囲気が楽しめる。
しかし、今回モスラを観てつくづく思ったのだが、蛾とその幼虫を怪獣として活かそうという荒唐無稽な発想、何処から出たのだろう。(これは文句でも何でもない。観ていてモスラに同調すると、どうにもむず痒いのだ)。
どう見ても、どう戦うのか、と思ってしまう。(さすがにリアルタイムで「モスラ」は見てないが、幼い頃からそう思っていた)。
余程、鱗粉に毒性があるとか、幼虫の吐く糸が強靭な拘束力があるなどないと、、、構造上、筋肉で戦うタイプではないのだし。
なんせ、相手はもっとも強い恐竜の10000倍は強いのだ。(それ以上か)。
しかも、こともあろうに口から50万度の凄まじい放射熱線を吐きまくる。(背びれを光らせて、、、これがシビレる魅力だ)。
しっぽや顎の破壊力も半端ではない。(恐竜にしては、腕の筋肉も異常に発達している)。
そんなとんでもない相手に、蛾やその幼虫が差しで立ち向かう、その絵的な無謀さ。
見ている方がどうすりゃいいのよ、と悩ましいのである。やはり、、、。

内骨格と外骨格が同レベルで戦うこと自体が、重力的に言って不可能である。
通常他の映画では、蜘蛛などの昆虫でも、多少大きくてもせいぜい30センチ位までで、大群で押し寄せたり、何かに紛れて不意に毒を注入して攻撃するなどが主流である。
でかくなったら自重で潰れる。でかい蟹も水中だからもっている。
メカゴジラも同様であり、ああいうものを作るなら、「スーパーX・Ⅱ」の発展型がもっとも効率がよいはず。
巨大な人体型で戦うなんて重力上まず無理な話であり、それを説得力持って示していたのが、「鉄人28号」である。
あの映画で鉄人は立っているだけで精一杯であった。パンチなど繰り出したが最後、ビルに倒れ込んで起き上がれなかったではないか、、、。「鉄人28号」あの映画は正しい。

更にキャストが、大変キツいものであった。
小美人の神秘性とまとまりは、長澤まさみと山下リオのお姉さんより遥かにザ・ピーナツの方が上である。
また、そのイメージが歌声とともに強く残っている、、、。
今回の小美人、よくても高校の可愛らしい文化祭発表を想わせるものだ。(思い起こすと長澤が照れながらやってたような気がする、、、思い過ごしか)。
その上、主人公やその相手の操縦士や吉岡美穂演じる女性飛行士など中心メンバーが余りに素人演技過ぎた。
周りをベテラン強面俳優が固めているが、如何せん主役級俳優が弱すぎる。
釈由美子もちょっと顔を出したくらいで物足りない。


と、何故かいらんことばかり書いてしまった、、、。通常このような白ける事は、怪獣ものに対し書かないのだが、、、。
初代ゴジラの骨で作られたメカゴジラ「機龍」にどうしても引かれて現れるゴジラ。
それに決着をつけるなら、もっとも理にかなったエンディングか、、、。
(あのゴジラをあの体勢で抱えて空を飛ぶのは、不可能であるが、それはよい)。
機龍を深い海溝に捨てるのが一番であるが、機龍が自らの意思でゴジラとともに飛んでゆくところが感動的ラストな訳である。
この映画、中心キャストがよければ、もう少ししっくりした運びとなったと思う。
やはり、かなり惜しい。

小泉博と中尾彬が良い味を出していた。
と言うより、この2人がいなかったら、どういう映画になるのか、、、。

最初の頃、浜辺に打ち上げられた巨大生物の死骸がカメーバというカメ怪獣であったが、妙にガメラに似ていた。
死因は首のあたりを鋭い爪の一撃で負った深手のためだという。
ちょっとガメラをあからさまにライバル視している気もした。
この時期、圧倒的に「ガメラ」の映画の出来が上であったのは、はっきりしている。
あの重厚さからすると、雲泥の差を感じざる負えない。

どうも、いつもの怪獣映画鑑賞の乗りではない、、、。
わたしは、基本的にゴジラ、ラドン、モスラのファンである事は、念の為に断っておきたい。
ついでに、長澤まさみも結構ファンである。


しかし、ハリウッドゴジラの方がゴジラらしかったと思う。
映画の出来は、間違いなく向こうの方が良い。

どうやら、今思うにこの日本的特撮は、もう終わったのかも知れない。
予算も切り詰められていることは、窺えるものであるが、「パシフィックリム」などを観てしまうと、どういう見方でも到底太刀打ちできない。
あらゆる面での、歴然としたレベルの差がある。

X・Ⅱ
*スーパーX・Ⅱ


ゼロ・グラビティ

ZeroGravity.jpg

”Gravity”
2013年
アメリカ
アルフォンソ・キュアロン監督・脚本

サンドラ・ブロック、、、ライアン
ジョージ・クルーニー、、、コワルスキー


まさに”Gravity”であった。

何で「ゼロ・グラビティ」なのか?
”グラビティ”以外の何ものでもなかったではないか、、、。
如何にも映画の題名風にする為に、ゼロでもくっつけたのか、、、。
意味は、正反対になる。

この映画は敬遠していた。
何故なら、消火器の噴射で宇宙空間を移動しているところをyoutubeで見てしまっていたからだ。
(H・G・ウェルズの頃でもやらないはず)。
それ以来観るのを避けてきた。
しかし、先日TV録画されたものを観て、度肝を抜かれた。
やはり目の覚める凄い映画であった。
VFXは圧倒的なレベルだが、特にカメラワークが本当にそこで撮っているかのよう。
最近、映像でこれほどびっくりしたものは、無い!
宇宙空間の描き方でこれ程の説得力を感じることはなかった。
(昔のSFでは、宇宙空間が地球の夜空と見分けのつかないものが結構ある)。


昨日のサンドラ・ブロックが、「スピード」から随分、大人になったものだ。
当たり前であるが。
果たして「スピード」に死と生が何程描かれていただろうか。
この映画における、死と生に比べるとホントに薄っぺらく感じてしまう。
サンドラ・ブロックの存在自体も重くなっている。
その死と生とのコントラストにおいて、かの大傑作「エイリアン」のシガニー・ウィーバーに重なる部分を多く感じる。
あそこまでの物質的恍惚感は無いが。
それにしてもこれだけの映画を、ほぼ一人芝居で演じることが出来るなんて役者冥利に尽きよう。
人間をしっかり演じている。
これほど極限状況を加速度的に生きる映画は無い。(それはまたSFであるからこそ可能となる)。


物語は漆黒の宇宙空間に出て、ハッブル宇宙望遠鏡の修理をしているところから始まる。
そのまま、予定通り作業が進めば、地球に戻るそんなタイミングに、、、。
なんでもロシアが自国の軍事衛星を爆破したことで、その連鎖破壊の影響が彼らの作業空間にまで及んだという。
(火星と木星の間の小惑星帯であっても、実際はスカスカの空間。軌道上一致しなければ、かなり大規模であっても宇宙塵の災害はないとは思うが)。
その破片直撃被害は甚大で、ライアン以外の関係者は皆、巻き込まれて命を落とすことになる。
勿論、前半のコワルスキーの的確で冷静な判断と包容力に彼女は充分助けられた。
必死にISSまでたどり着くが、ここでライアン一人となってしまう。
(ハッブル宇宙望遠鏡からISSはこんなにも近かったのか、、、意外であった)。

そこから文字通りサンドラ・ブロックの迫真の演技である。
しかし、描かれてゆく宇宙環境はリアルで不気味なほどの迫力であるが、物理面における技術・理論的な部分の描写は少ない。
マニュアル読みながらの素人操縦は、何やら昨日のバスの運転を思い出した。
(そう言えば、コワルスキーがライアンに、「君からすれば僕なんてバスの運転手さ」等と言う意味深な台詞があった、、、)。
そこが理論・技術面の考証・追求をしている「インターステラー」「オデッセイ」との違いだ。
だが、この”Gravity”それらの映画に並ぶ大傑作であることは間違いない。
映像が素晴らしい。
そして人間が描かれている。
優れたSF環境において始めてそれが深く描かれ得ることは、これまで何度も観てきた。
さらにSF映画が科学的考証を超えた芸術である事を、思い起こさせる。

ライアンがソユーズの燃料切れで帰還を諦め、疲れて入眠状態にいる時に、外から忽然とコワルスキーが入ってきて、着陸用の噴射を推進に使えば良いというアイデアを授けに来る場面には、文句なしに感動した
柳田 國男の民俗学の資料に出てくるような話である。
この映画が何処に力点を置いているのか判る。
これが彼女の無意識であろうが、霊的な共鳴であろうが、人間が何であるかが描かれている。
ただ素直に生きようとする力そのものである。

Gravity=生きる場所
地球に帰らなければならない。
彼女はそれに気づく。
娘を亡くし、自分が男の名前を付けられたトラウマから、この幻視体験を通して浄化・解放される。
浮遊する魂がはっきりと、自分の居場所に戻ってゆく。
迷いは一つもなく、中国の船も勢いで操縦してしまう。
死に直面した(死を深く纏った)「生きる力」が鮮やかに際立っていた。


サンドラ・ブロックは、彼女の内的変化を十分に表現した。
そして地球に降り立ち、波打ち際に横たわったときのキラキラした喜びに、こちらも共鳴するばかり、、、。

宇宙服越しとは言え、ジョージ・クルーニーはこれまでに見たのなかでも一番カッコ良かった。


ZeroGravity001.jpg


スピード

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Speed
1994年
アメリカ
ヤン・デ・ボン監督


キアヌ・リーブス、、、ジャック・トラヴェン刑事
デニス・ホッパー、、、ハワード・ペイン犯人
サンドラ・ブロック、、、アニー・ポーター

脱力した後は、思いっきりハラハラしてみようか、と思った、、、。
ホラーは苦手なので、アクション系に。

速度と重力感覚が常にあり、”スピード”というに相応しい映画となっていた。
閉鎖的な空間に拘束される場を多用した作りがさらに効果をあげていたことは確かである。


荒唐無稽でもお構いなしにグイグイと引きつけてゆく作品であった。
その強度が、圧倒的であった。
勢いが大切である。
演出にも演技にも勢いがある。
一番勢いを感じた場面は、バスの15メートルジャンプだ(爆!
CG使わず、これ程のものを作ったことは、偉大だ。
かなりの低予算制作であったことで有名であるが、全くそれを感じさせない。

えっ何でと思うところが幾つかあっても、それが隙にはならない。
ハラハラドキドキが絶えず、迫力もかなりのもので緊張感は途切れない。
アクション映画とはこういうものなのだとしみじみ思う。


次々に、一難去ってはまた一難である。
ここでは、工事中による中断ー飛躍の場面も2つある。

エレベーターのあの吊り下げられた密室の嫌な感じは充分堪能できた。
わたしは、普段からあれに乗ったら直ぐに降りたいと感じる。
そこに爆弾しかけられて閉じ込められ、ガンガンズリズリ落ちでもしたらまさに生きた心地などしない。(誰でもそうか、、、)。
ここでどういうふうに犯人が、具体的に金を要求してきたのかよく判らなかった。
コミュニケーションのすれ違いも感じるところである。
(まあ、サイコ犯自身が何やら逆恨みから爆弾仕掛けをやっているようであるし)。

そして何と言ってもバスである。
この犯罪に警察が如何に組織的に関わっているのか今ひとつ分からなかったが、キアヌ・リーブスが物凄い罰ゲームをやってるようで、手に汗握るシーン満載であった。サンドラ・ブロックもここでは、真面目に驚いている様がよく覗え、文字通りの体当たり演技にケレン味はなかった。デニス・ホッパーのサイコパスは、ダミー構造を有する爆弾とか非常に緻密で意地が悪そうなのだが、肝心なところが抜けている。
だが、ここの一連のシーンは、充分に練られ、よくできていたと思う。
特に、ハワードの監視映像をこれまでジャックたちの邪魔をしてきたマスコミのメディアで攪乱するところなど、とても上手い。
電話のふとした話からカメラの存在を見破る前に、それに気づかないところや、そのときの電話の逆探知をせず、金時計から割り出して犯人宅に趣いてしまうところなど、ちぐはぐな感はあるというものの、、、。
こここそまさに速度と空間における過度の拘束と、犯人による心理的拘束、、、呪縛にじっくり付き合わされる。

そして地下鉄へと流れる。
ここでも、アニーが拘束され、共に脱出できないため、ジャックは速度に賭ける。
速度を最大限にし、曲がり角での転覆を図る。脱線である。
結果的に工事中の地下鉄から地上に飛び出てきて横転する。
劇的でよいではないか。これがCGなしの低予算であるとは思えない位の臨場感。
ここで、ジャックとアニーはホントに結ばれる。
しかしここまでドラマチックに結ばれてしまうと、日常生活には耐えられない事は、彼らもよく知っている。
多分そうであろう。


キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックの体当たりの演技は、見応えがあったが、ひたすらフィジカルな役であったものだ。
恨みを劇場的に晴らすのが目的なのか、地味に金なのかと思うと、もう一発派手に花火を上げてしまえ!というところなのかどうなのか、、、金が目当てで、何であんな面白いことするのか分からない犯人にデニス・ホッパーがとても似合っていた。


1回観れば充分な、大変面白い映画であった。


レンタネコ

rent a neko

ネコ好きのわたしとしては、この題名で触手の動かないことはなく、ブロともさんからのお勧めもあり観てみた。

2012年
荻上直子監督

市川実日子、、、さよこ(レンタネコ屋さん)

市川実日子は、「マザーウォーター」で豆腐屋さんをやっていた。
良い感じのサバサバした役が似合う。「めがね」というのが有名らしいが、、、。

”rent a neko”
アイデアとしては、アリだと思う。
猫ばかりが寄ってくる人というのは、大変良くわかる。
わたしもかつて猫に濃い縁があったため、それは実感する。
猫愛に溢れた人に、ピアニスト、フジ子ヘミングがいる。
彼女の部屋には、ちょうどこの家と同じくらいの猫が住んでおり、それぞれが人見知りしたり、走り回ったり、ドスンと構えていたり、好きなことをしていた。生き物特有の迫力があり、とてもビビットな印象を得た。

さよこの家にも猫はいついているが、動きがいまひとつ演出上類型化しているきらいはあった。
彼女も猫を愛しており、たくさんいついてしまったため、それを人のために生かしたいという思いからか、猫を貸す事を思いついたのだろう。何より猫の癒しは絶大である。これは、フジ子女史も強調している。
猫を手放すのは、忍びないため、貸す事にしたのか、、、。
取り敢えず、このことについては共感できる。

マイク越しに「さびしい人にネコ貸します」と、リアカーに猫を卵みたいに乗せて引いて回る。
結構吹っ切れた感じの淡々とした女性であり、特に不安も不満もない人に見える。
借りたいという人が来れば審査する。
審査の時に記入する用紙がまた脱力していて良い。
(みんなこれでいいの?というきょとんとした表情なのも微笑ましい)。
環境と借り手が良いヒトと分かれば、彼女の審査が通る。
「前金で1000円頂きます。」「それで大丈夫なの?」
子供のおままごとの延長か、ホントにお気楽な趣味なのか誰もが疑うレベルに思える。
うちの娘たちもよくカードを作って、わたしに書き込ませたりするのだが、項目も似ている。

しかし、大人の女性がやっていることなので、ほのぼのしますねえ、で終わってしまうのも、、、。
彼女の言うように、ホントに彼女はこの他に、株で儲けているのか。
当たる占い師をやっているのか。
CM音楽を作っているのか。
どれも猫と一緒に、、、「師匠」だったか、、、。

どうにも現実味に欠け、嘘(良く言って出任せ)に想える。
さよこが「レンタネコ」以上のめんどくさい事を日夜やってるようには見えない。
彼女は一体どうやって生活しているのか?(ただ経済面だけでなく)。
猫でもあるまいし。


中学時代から、授業をサボって保健室で寝ていたという彼女。
(ここで子供の頃から株で儲けていた、という実態は霞む)。
その時期特有の白日夢的感覚はわたしにも分かるが、基本的にそのまま大人になってしまったようである。
(良く言えば、猫のように育ったというべきか)。
しかも貼り紙をして、はやく結婚するみたいな目標も書いている。
しかしその目標の達成を図って何やらやっているようには窺えない。

「さびしい人にネコ貸します」がどのくらいのこころもち(目的)なのか、、、。
確かにさびしい人の救済には成りうると思う。
同時に彼女が猫を介して誰かと繋がりたいという切実な(しかし漠然とした)思いからなのか。
(彼女というネコを受け容れてくれる相手を探すための)。
そのスタンスは実際かなり中途半端に想える。(いや、猫的なのかも知れない)。
借りる人が皆口にする、そんな値段で生活が大丈夫なんですか、という生活の実態。
それは、経済的な面にとどまらない、彼女のパーソナリティに及ぶ危惧でもある。
「結婚する」というのが、どこまで目標なのか、、、。ネコに結婚は不向きのような、、、。
目標や目的、、、。これがこのさよこには、もっとも馴染まない現状と想える。
どうも彼女自身が猫に見えてくるではないか。
しかも猫もそれぞれ、どんな猫なのか。(猫の個性はひどく異なる。これはわたしがよく知っている)。
そして猫を借りた側の人間がどのように変容したか、ひとつもその場面がない。

最後に出てくる中学時代の幼馴染であるが、これも実に幻のような存在である。
嘘ばかりついて、窃盗を重ねているという。
さよことしては、急に身内が出てきたような気不味さか。
この物語に少し影を落とす、重みを加える人物かと思いきや、、、。
彼はヒョイと彼女の前に現れたかと思うと猫も借りず、夏のビールの旨さを教えて消えてしまう。
後に現れたのが、彼を追っている警官というのが笑える。
(だがこれは、そのエピソードのブラックユーモアではなく、この物語全体にかかっているように想える)。

どうも、噺に引っ掛かりが持てぬまま終わってしまった。
登場人物+ネコの描写の弱さが大きい。
幻を見た気分である(笑。
しかし、淡い幻のような夢にも想え、思い切り脱力できた。

ただ、ネコはこころの穴ボコを埋めることは、できる。
この一点に置いて、さよこの言っていることは、はっきりと正しい。
勿論、「レンタネコ」もサービスとして成立するものだと思う。


火星大接近

Curiosity.jpg

宇宙科学研究所の隣にある博物館にプラネタリウム(火星大接近)目当てで行った。
プラネタリウムのあの真っ暗になった瞬間の雰囲気は、いつもとても素敵なのだが、、、ちょっと解像度に不安が、、、。

前半は、イチバンボシは木星、次いで火星、土星が見えるよ。今夜見てみてという話から、、、
火星とアンタレスの光の強さと赤さ加減の見比べで、「火星の方が光は強いですね~。でも赤さはアンタレスかな~」などのその場で見て比べる話など、、、娘たちにはよい刺激となった。
見て比べるのは、知識の得方というより、考え方の基本として良いと思った。
そして当然、「夏の三角形」の話がきて、天の川と織姫、彦星の話でおわるが、、、
天の川を渡るふねの話は、少し新鮮だったか。
7月7日ではなく、旧暦なのだ。
そう、天の川は太陽系もそのなかに属していて、長いその先が見えてる(別にあるのではなく)ということを彼女らは始めて知ったらしい。
ちょうど良い匙具合だった。(尺もちょうど良かった)。


後半は、火星の話となった。今日のテーマである。
二年に一度くらい火星と地球は公転周期上接近しており、火星の楕円軌道と地球のほぼ円軌道との兼ね合いで、小接近だったり、今回のような中接近だったり、今度の18年は大接近になったりする。
そのへんの話はさらっとして、、、火星探査機のキュリオシティの自撮りの話とか、バイキング2号の撮った地表写真とか、、、。
子供的には面白い方向の噺であった。
こと火星については、画像データの解像度はまだ低く、臨場感は足りなかった。(ここのプラネタリウムの性能の限界もあるか)。
SF映画チックに、地表面を滑空するような映像で締めたが、如何せん画像がボケている。
とても残念。

最近、火星に人影を見たとか、いろいろと話題に事欠かないが、そういう都市伝説みたいなものもキッカケになると思う。
そういう噂話はとても好きだ。特に女の子は。
そんなものも、iPadなどで見せてみようかと思った。
好奇心・興味の導入になっただろうか。


宇宙展示コーナーにあったスペース・シュミレーター・プログラムは凄く充実していて、彼女らもかなり遊べた。
太陽系の各惑星の動きや関係、特徴がとてもよく判るものであった。
冥王星も入っていたはず。
わたしは、プルートのファンなのだ。
これはかなりの力作に思えた。
わたしは、ほとんど触る暇がなかったのだが。

また予定外であったが、この地区の歴史的変遷が文化・自然の両面から3D再現展示されているディビジョンは遊べた。
娘を連れているため、遊べるかどうかが問題なのだが、娘が遊べるくらいならば、ほとんど誰にとっても面白い場所となるはず。
動物の剥製の数がかなりのものであった。
そちらに力を入れていることが判る。
これには、結構怖がっていた。
お化け出る?と次女がしきりに聞いてきた。
面白いのは、きのこが沢山栽培されていることである。
自然などと一口に括らずに、各ブース少し注意して観ていった方が良いように思えてきた。
平板な通り一遍な歴史というより、焦点を当てた拘りが感じられた。
しかし、留まってはいられない。
彼女らは直ぐに何処かに行ってしまう。
(植物や菌類の歴史は興味深いため、そのうちまた来たい)。


最後に、工作コーナーで「星のアクセサリー」を作った。
やはり2人とも、ものづくりが好きだ。
どこに行っても、何か作れるコーナーがあれば、そこに飛んでいってしまう。
20分程で、和柄の紙製の綺麗なアクセサリーが出来きた。
月曜日に担任の先生にも見せたいとのこと。
わたしは、少し取っておいて夏休みの工作の一つに回したらどうかと提案したのだが、すぐに見せたいらしい、、、。

確かに、そうだろう。



”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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