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粘着する外気

momotarou.jpg

一番嫌な季節だ。
気温がそれ程、高いわけでもないのに、この蒸し暑さ。
粘着する外気に、だるさが絡む。
整骨院に行き始めて、益々だるさが強烈で、この外気だ。
しかもアルコールも禁止されている。
もともと呑まないが(爆。


今日は、次女が宿題の時に癇癪を起こし、随分荒れた。
彼女は横槍を入れられるのを嫌う。(今日改めて気づく!?)
独りで二階の机でやらず、帰ってすぐに食卓に広げてしまったもので、周りから何やら首を突っ込まれることとなったのだ。

今日は特に収まらず、何もかもひっぽかして自転車で出かけてしまった。
そっと後を追いかけると、何とわたしの弟の家まで行き、庭の使っていない物置小屋に入ってゆくではないか。
うちで使わない物品を時折そこに置かせてもらっており、一緒に彼女も付いていった事があったのだが、、、
まさか、そんなところを隠れ家にせんとする発想をもっていたとは、、、。

ともかく、頭にきて家出して、そこに隠れてやろう、と思ったわけだ。
彼女の決意としては、「鬼ヶ島」に乗り込んでやろう、、、くらいのものであったかどうか、、、。
立てこもり犯にネゴシエーターとして、だるいところ、踏ん張らなければなるまいか、、、?
と、思ったのだが、そっと中を覗いていると、しまってあった布団を出して敷き、こてんと横になっている。
天井を眺めつつ、何やら考えているのか、ただボーッとしてるのか、、、。
暫く寝てみた後で、「怖いから帰ろう」と出てきた。その間30分。
彼女としてはかなり頑張ったようだ。
特にやることもないため寝てみたのだろうが、退屈だしそろそろお化けも出てきそうだし、、、というところか。
先ほど、ひどく怒った事については、ケロっとしている。だいぶ落ち着いたことは確かだ、、、。
扉のところで、身柄を確保し、共に自転車で家まで連行となった。
途中、自転車の乗り方を後ろから細かく注意して、煩がられる。

宿題は、静かな環境で独りでやること、を再度確認。
これまで、彼女らだけで、自転車に乗るのは禁止していたが、もう自分たちで何処にでも乗っていけるため、安全な乗り方を充分身につけさせて、時間を決めて自主的に行かせようと思う。(行き先は勿論告げて)。
次の日の支度を済ませた後、時間に余裕があれば帰りの時刻を決めて行って良いことにする。(塾の日は、当然ダメ)。

しかし亀の世話は必ずする。
最近、朝間に合わず、わたし独りでやる羽目になることが、度々。
宿題にしても塾にしても同様、やるべきことは、放り出さずしっかりやる。
これを疎かにしたら、全てに響く事は、しっかり伝えておく。
おにぎり持っての宇宙科学研究所にもプラネタリウムにも行けない(笑。
「火星大接近」を楽しみにしている。わたしも彼女らも。
ただし、これらのある公園は、わがやではひどく不人気であり、そこで遊ぶことはありえない。
火星の表面よりは幾分ましか、くらいの広場である。
見たらすぐ帰るのは間違いない。
土曜の午後は、いつもどうしたらよいか、、、。
迷うところなのである。

亀がかなり慣れてきたから、ゆっくり遊ばせるのもひとつ、か。
だが、いま一番の課題は読書なのである。
iPadの利用度が異様に高く、それをペーパーの本へと比重を移したい。
ババールとレオ・レオーニの絵本を幾つかあてがって、模写などもさせてもいるが、もう少し食いつかせたい。
何とか読書に触手を向かわせたいものだが、、、。
刺激的で手軽なメディアが身近に多すぎる。
(もう長女は「水曜日のカンパネラ」をiPadで検索して、「キッビダーン、、、」を一緒に唱えている)。


わたしは、どうにも怠く、有効な一手が繰り出せない。
身体が粘着する、外気に。

何かよい飲み物はないか、、、?


momotarou002.png




水曜日のカンパネラ

Wednesday Campanella

”水曜日のカンパネラ”の中毒性。
これには参った。
つい最近、このユニットを知った。
(「日々ゆらり」muzi-q様運営ブログにて)
随分遅いか?
こんなに微妙な(バランス感覚の)音があったとは、、、。
ピコピコテクノでもあるが、妙にペシミックなコードが目立つ。
何というのか、、、ヒップホップでもあり、J-Popでもよいか。
韻を踏むナンセンスな言葉がまた、妙に艶かしい。

このアーティストはビデオで鑑賞するタイプだ。
音楽だけで聴くよりビデオで魅力を発散する。
”コムアイ”というヒトは、クレジットがボーカル(ラップ)という立場だけではなく「主演」となっている。
ミュージックビデオがデフォルトか。
実際、これは観るべきであり、断然、観た方が面白いはず。

まず、全編アニメの「桃太郎」が感覚にこびりつく面白さがある。
アクの強い絵も歌詞も絶妙。
(この画風はよく見る。名の知れたイラストレイターによるものだろう)。
しかしボーカルはフラットで透明。そして直向きで可愛らしい。
早速うちの娘たちに観せてみたが、こういう面白アニメに絡むリズム・サウンドにはすぐに、はまりこんでしまう。
唖然とした顔で魅入っている。
特に「キッビダーン、キビキビダーン、オニッターイジ、オニオニターイジ」のリフレインや「魂の16連射!」などのナンセンスなラップの韻とリズムがアニメと溶け込み、メディアとしてのマッサージ効果にタップリ浸れる。
「魂の16連射」って何?と聞かれてわたしに分かるはずもない。
しかし、このMVサウンドの中ではピッタリだ。

勿論、コムアイ女史のフル主演が見られる「モスラ」や「マリー・アントワネット」も愉しい。
こちらは、長くて退屈な映画による拷問めいた苦悩から気持ちを解放してくれるに充分な爽快感があった。
やってる当人がともかく愉しそうなのだ。伸び伸びした遊びの感覚。
「小野妹子」では、山田孝之が出ていた。もしかしたら彼は”水曜日のカンパネラ”のファンなのか。
MV自体が気持ち良いメディアであるが、この”コムアイ”ヒップホップは殊更に身体に和む。
(最近、映画がやたらと長く感じられることが多く、観終わるまでに飽きて6,7回ポーズすることが増えてきた)。
こういうミュージック・ビデオの方が遥かに気持ち良いことをつくづく感じる。
尺も5分程度で十分なのだ。
それで世界観はしっかり伝えられる。
映画の高密度版ともとれるが、この先映画もこうなっていって欲しい。
「去年マリエンバートで」も濃縮すれば、かなりこういった形式に近くなるはず。

「インカ」や「ミツコ」や「チャイコフスキー、、、」など、そのナンセンスに畳み掛けるラップと絵の勢いは凄い。
更に「ラー」などは、VFXにかなりお金がかかっているようだ。
曲数からみても、かなり熟したヒップホップ(ラップ)ユニットであることが分かる。
知らなかった、ではシャレにならない。

ここのところ自分が如何に新しいものに触れてこなかったかがよく判る。
”サカナクション”と”水曜日のカンパネラ”は大きな収穫である。
こちらもいま、キャパ切れ状態であるため、殊更新しいものを物色するつもりもないが、良いものはやはり取り込んでゆきたい。


さて「桃太郎」をもう一回観てみよう、、、(笑。

マイ・ガール

Mygirl.jpg

”My Girl”
1991
アメリカ

ハワード・ジーフ監督

アンナ・クラムスキー、、、ヴェーダ(11歳の少女)
マコーレー・カルキン、、、トーマス(ヴェーダの同い年の親友)

わたしは特にこれといって子供や動物に思い入れがないため、幼い主人公たちが頑張って演技をしてるくらいで、感動することなどまずない。
誰だって、幼年期や少年期はそれ特有の悲しみと孤独を生きてきた。

彼女らが何か特別な生活を送った気はしないが、その普通さにしみじみ浸かることは、なかなか心地よかった。
多感と言えば、まさにそういった時期である。
この頃の物事の感度は、凄まじい。
そのために、孤独であったりもする。
もしその感度が衰えぬままであったなら、到底生きながらえてはいまい。

ヴェーダは母親をはじめ、身近に死を見ながら(葬儀屋の父と)育ってきた。
自分の死についてもかなり過敏に意識している。
そして自分が好意を寄せる(大切な)人が奪われることにも敏感だ。
当然、彼らはひとりひとり彼女から離れてゆく。
彼らは自らの道を歩んでゆくのだから。
それを受け止めながら人は成長してゆく。
トーマスが彼女の指輪を探しに行ったのは、自然なことだ。
自然は、いとも容易く命を奪う。その根源的な不条理とともに彼は彼女の忘れえぬ人となった。
彼女もポニーテールにTシャツから、髪を下ろしてワンピースに着替える。
彼女ははじめて自覚的な詩を書く。
これは、凄く正しい。


情景的に、自転車を二人で乗ってゆくところが良い。
子供にとって、自転車は欠かせないものだからだ。
歩いて行ける範囲なんてたかが知れてる。
スピード感も自転車でなければ味わえない。
そして二人で病院に行き、山に行き、蜂の巣を落とし、木に登り、池に飛び込み、、、
折角林の杜があるのなら、わたしなら秘密基地だったり、内緒でうちで飼えない動物飼ったり、特別なものの拾える秘密の場所があったり、自分だけの宝物の隠し場所もどこかにつくるのだが、、、。

この時期は、もう少し宇宙との交信めいた抽象性が生活にふんだんに盛り込まれていたと記憶している。
生活自体が普通にSF的で呪術的であった。
せめてトーマスの方に、もう少し彼独特な生活の厚みが見えてもよかったのでは、、、。
しかし、「死」と「別れ」については同年齢の誰よりも深く経験をしたヴェーダであったはず。
彼の分も濃密な生を生きて欲しいという気持ちは自然に沸く。

少しおしゃまな女の子と幼いながら彼女のナイトと成らんとする男の子を軸にしたよい話であった。
しかし、ちょっと葬儀屋のお父さんの後妻となる女性がいまひとつしっくりこなかった。
キャスト的に他に女優がいなかったのだろうか、、、。
お父さんもいまひとつ画面的にもわたし的にも馴染めなかった。

この作品において、ヴェーダとトーマスとその母、詩の先生はしっくりしていた。
わたしとしては、キャストをいじくりたかった。
それから、演出も良いと感じるところは少なくないのだが(ビンゴのシーンなど)、全体にちょっと物足りない。

しかし、良い映画かどうか聞かれでもしたなら、迷わず良い映画と応える。


”2”は、見たくない。
これで完結がよい。
(そもそも敢えて”2”を作る意味が分からない)。



睡眠障害にも効く

dream.jpg

朝から医者に来ている。
腰に違和感が有った。
整骨院で診察を受け、マッサージと低周波をしてもらう。

体がかなり、固くなっていたことを知る。
柔軟性がまるでない。
これから、それを少しずつ、ほぐしてゆくことになる。
毎日通うことになった。
これはこれで、大変である。

しかし、マッサージは本当に気持ち良い。
だいぶ以前、自由が丘の按摩屋さん(診察とかせずに揉んでくれるところ)に随分通っていたことがある。
その時以来であるが、相変わらず専門家に手で揉んでもらうというのは気持ち良い。
一度病院で、理学療法の電気治療と機械によるリハビリは受けたことがある。
だが、手によるマッサージには、遠く及ばない。
適度な痛みも心地よく、またクセになる。
これは、うちの椅子型マッサージ機や、ジムではとうてい望めない。(ジムでは逆に体を痛めるかも)。
特に、整骨院では念入りに診察した上でやってくれるので効果が期待できる。
如何にも構造的な把握の下の微妙な圧によるさじ加減を感じる。
通うことは、面倒だが然程、苦にはなるまい。

レントゲンで異常が見つかったとあれば、整形外科となるであろうが、あのような完全な病院にはなるべく行きたくない。
外科的手術とかが必要でなければ、街のこぢんまりとした、余り人を待たせない整骨院がよい。
病院みたいにでかくてシステマチックでなく、院長の顔が見え、個別的な雰囲気が良い。
山本周五郎の「赤ひげ診療譚」にあるような小石川養生所みたいなところも魅力的だ。
凄い先生は、やはり威厳があって頼もしい。(確かに時折、見る)。

しかしわたしは担当医は、コンビニかファミレス店員みたいな感じのヒトを望む。
専門知識は豊富でも、さらっとした性格でないと、長丁場はキツそうだ。
必要なこと以外喋らないが、愛想はよく、淡々とやるべきことを進めてくれる。
一番気楽に付き合えるタイプのプロだ。
腕があってもクセの強い人は、やたらと自分を押し付けてきたりする。
そうなると、すぐ行かなくなってしまう。
わたしは、すぐにやめるのが得意なのだ(笑。


今回の人は、コンビニ・ファミレス系で良かった。
何人もいるため、カルテを下に次はどんな人が診てくれるか分からないが、恐らく大丈夫だと想える。
全体に何でも明るい。説明もそこそこ分かりやすい。挨拶が柔らかい。体に良いという水も旨い。
気楽である。
そこが一番大事だと思う。
思い起こせば、昔の医者は、誰も本当にクセが強かった。
合わないとなれば、徹底的に合わない。
最近、そういうのは、少なくなった。
良いことだと思う。
個性など邪魔なことのほうが、遥かに多い。

マッサージは、リンパ・血液の循環を促進したり、筋肉の緊張を緩和する効果が期待されるが、それによる自然な睡眠も大いに期待できる。(覚醒よりも睡眠、である!)
わたしは、今強烈なだるさと眠さに耐え、というよりトイレに起きたところで一気に書いている(笑。
つい先程は娘の歯医者に付き合い、待合室でiPhone握ったまま、ふと眠ってしまった。
その後はもう、ゴロゴロしっぱなしである。


今日は疲れが出ますよ、だるくなりますよ、と言われたが強烈であった。
睡眠障害の人にもマッサージは是非、勧めたい。



ドライブ

drive.jpg

最近、早朝とかなり遅い時間に車の送り迎えをする事がある。
よく感じることだが、朝はおっとりしているが、深夜は車が荒れている。

娘が生まれる頃、何度か早朝4時頃走らせたことがあるが、その時間帯は、長距離トラックが多く、ほとんどセダンは見かけない。
道もスッキリしたものである。
今はそれほど早い時間ではないが、長距離トラックが数台、道端に止まっているのでどうしたのかと見ると、山○うどんの朝定なのだ。何か微笑ましい感じがする。
わたしも学生時代、大学まで電車で遠かったので、朝定が摂れるところが途中にあればと、ずっと思っていた時期がある。
ラッシュ時前の車たちは、皆気持ちよさそうに走ってゆく。
道もほとんど混まず、特に早朝のトラックの流れは静かで優しい感じがする。

しかし、深夜の車はどこか殺気走っている。
またどこから集まってきたのかスポーツタイプが多い。
ありえない追い越しや駐車、割り込み等、禍々しい衝動をメタルにギラギラ煌く車たちは秘めている。
クラッシュ覚悟という、何か刹那的で無謀な行為が、とても内向的にも思えた。
(つくづく思うが、内省のない内向は狂気を生む)。


普段行かない遠くの公園に、車で出かけた。(わたしの意思ではない(笑)。
公園によって人に対する優しさが違う。
今日行った公園は、とても厳しい。
古民家が何故かあったりするが、子供たちは関心ない。(惑星探査機などなら触手が向くのだが)。
これといった場所も遊具もなかったが、階段を見つけた。
階段はひとたび登り始めると登りきるしかない。
それでひたすら登ってみたのだが、頂上には何と普通の民家がぎっしり立っているだけで、何の眺望もない。
(これには驚きを禁じ得なかった、、、良い意味ではない(念のため)。
後は、芝生の空き地と冷たい水の流れる川があるだけ。(底がヌルヌルしていて、すっ転びそうで危なかった)。
ベンチも陽が当たり放題。座っただけで強烈に熱い。
恐らくここの売りは、川岸でのバーベキューとかテントを張ってのキャンプ及び川釣りであろう。
うちの家族には全く関係ない。
わざわざ長女が車に強くないのに、はるばる来るほどの公園ではなかった。

やはり、いつも行く近場の公園(3つある)が一番である、という全員の結論となる。
1.亀と白鳥と鯉のいる池のある公園 2.プールが二つあるスポーツ公園 3メタセコイヤと花と噴水が気持ち良い公園、の三つ。
意見がひとつにまとまるのは、我が家にとっては、大変珍しいケースである。
公園は我が家にとっては大変大きな意味を持つ場所であり、わたし的にはホッとした。
(ついでに、イギリスは残念であった、、、。この自閉・内閉する精神が次々に残念な結果を広げてゆくものと思われる。恐らく亀裂は断絶として露呈してゆくはず)。


ドライブには、気持ちの切断と接合の効用がある。
娘が姉妹ゲンカ(これが締める悩み事は大きい)で、どちらかが興奮状態の時、その気分の切断には、車に乗せてまずは走る(爆。
これが朝の場合(月曜にありがち)、そのまま小学校まで運ぶことになる(苦。(そのため、クラスで一番に到着したりする)。
ともかく、気分を文脈から一旦切り、話をさせ、こちらの気持ちも場合によって端的に伝える。
これが環境的にやり易いのが、ドライブ中だ。
小さい音で「セーラー・ムーン」が流れているのも、先ほどの荒れた文脈から掬い上げるのに役立っているように思う。
密閉空間による雑多で過剰な刺激の除去と速度による少なからぬ感覚の異化、お気に入りの曲による和みとマッサージ効果で、その場にいながら強引に文脈転換させるより、効率は良いようだ。
しかも気分が沈静化したところで、問題はほとんど解消している。
元々特に何があった訳でもない事が多い。
何で喧嘩になったのかも忘れている。それはそうだ。

つまり何やら実質的に解決せねばならぬ事柄があったというより、何らかの感情・気分の拗れが発生したというレベルなのだ。
何故そうなったなどと質問すると、事後的に何らかの合理的な理由を捏造してしまう。
小2でも充分反省的意識で自動的にそれをやる。
理論的な解決に拘る必要はない。
何となく話を車内で少し間を置き聴くと、今日の授業のことなど話し出し、気持ちの中に引っかかっていた心配事が、朝妹との接触によって浮かび上がった、などという事は実際、少なくない。
まだ、自分の中で物事を整理しきれるところにまで、行っていないのだ。(わたしもそうだ(爆)。
フッと気分が晴れて、知らず解消している、、、。
後は、今日の学校生活の文脈にそれとなく気持ちを接合する。

「いってらっしゃい。」





徐々に外へ 廃墟へ

Angkor Wat*1

外に出ざる負えず出ているが、気持ち的には出たくない。
娘の授業参観があって、学校に行ったり、必要なものを指定された文房具屋に一緒に買いに行ったり、、、
日に一度は何やら出ることがある。(主に送り迎えの類であるが)。
出たくないのはやまやまだが、出た方がよいことは分かっている。
、、、健康のため、か。


運動のための運動として、ジムなどに行く気になれない。(先日見学しては来たが)。
この気候だと、散歩のための散歩もキツイ。
目的があれば良いか、、、
音楽会のお誘いは幾つか来るのだが、ちょっと遠いし気が重い。
時間も遅いし、何より落ち着かない。着てゆく服もめんどくさい。
音楽だけなら良いが、人に会うのが辛い。

わたしが早足なので、娘も最近一緒に歩きたがらない。
お店や子供センターやスポーツ公園(プール)だとついてくるが。
それに、ひとたび彼女らに付き合ってしまうと、時間がドンとなくなっているのはたしか。


とは言え、なかにじっとしていれば、それで何かすることができるかといえば、そうでもない。
部屋には、余りに雑多なものがありすぎて、気が散ってしまう。
うちの中は何処に行っても誘惑だらけで、集中できない。
TVにも、まず見もしない映画がたくさん撮りためてある。
しばらくの間、それらをいちいちチェックしていたが、惰性となり、、、
最近はスイッチを入れる気もしない。それはよいのだがHDが一杯になっているかも、、、。
うんざりである。

すると、どうにも身動き出来なくなる。
内界で自由自在な想像など、絵空事だ。
身体的な素材がなければ、想像や空想など不可能。

ブラウザのHP(フロントページ)からしばらくの間、あちこちのニュース記事を確認して回る。
ただ、世界が悪い方向に向かっていることを再確認して戻ってくる。
確かに世界情勢を見ても、近所を見ても、同じだ。相似形を見る気分だ。


最後によくお邪魔させて頂くブログに立ち寄ると、現在海外に滞在されている方がいる。
そうだ、近くだから鬱陶しいのだ。
思い切って、海外に飛んでしまえば、かえって落ち着けるに違いない。
今回は、何とカンボジアのアンコール・ワットではないか、、、。
いつもは、圧倒的にヨーロッパであるが。


文章(文体含む)と写真が何とも素晴らしい。
写真は常に文を必要とする。文にも写真がつくことはあるが。
丸裸の写真というものはない。(少なくとも題名はある)。

静謐な夕暮れの凍結があった。

そこはまさに、究極の廃墟であった。
わたしは、このような永遠の墓碑銘の穿たれた止まった場所に憧れる。
さもなくば、寧ろ金星のスーパーローテーションの真っ只中がよい。
(タイタンのそれでも構わないが)。

独りで訪れるには最適な場所に違いない。
ことばが、、、洗い流されてゆく、、、
存在が浮き彫りとなる。
永遠に温度のない夕日に侵食され続けて、、、。
何故か「去年マリエンバートで」を思い浮かべてしまった。
そう、その廃墟の純度が極めて近いのかも知れない。
非常に離れて見えて、極めて近傍にある場所に感じる。
きっとそういうものなのだ。
ついでに言えば「インターステラー」の5次元(近傍)でもある。


わたしは、当分独りにはなれず、時間もない。
娘たちと手をつなぎ、徐々に外に、廃墟に向ける散策をしてみたい、、、。
(日常の24時間ではない時間に乗り込むコースを考えよう)。



*1:「エストリルのクリスマスローズ」より、拝借。

黄金のアデーレ

Woman in Gold

Woman in Gold
2015年
アメリカ・イギリス

サイモン・カーティス監督

「黄金のアデーレ」悪くない邦題だ。確かにこの絵画はそのように呼ばれている。
「名画の帰還」まで説明を入れなくてもよいのに、とは思うが。

ナチスに略奪されたクリムトの名画のひとつ「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」の返還を巡るドラマである。
この絵は、クリムトの作品のなかでも際立って装飾性が高く、めくるめく美しさとふんだんに使われた金箔のただならぬ威圧感もあり、劇中にも出てきた宝石が豪奢に散りばめられた幅の広いネックレスも燦然と輝く。
(なお、クリムトは他に「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ」も描いている。この絵から見れば、大人しい)。
ブロッホ=バウアー夫妻がクリムトを会長とする当時の前衛芸術家集団「分離派」の支援者であったことからその妻の肖像を描いていた。

モデルとなったアデーレがベルヴェデーレ宮殿美術館 (ウイーン)に生前寄贈する謂の遺言を夫に託していたのだが、その絵の真の所有者は夫であり、彼はその絵を手放さず、姪甥に託す遺言を残していた。
しかしオーストリアは、アデーレの遺言を法的根拠としてその所有権を断固譲らなかった。
これは、それまでにはなかった画期的な裁判となり、後に大きな意義をもった。

アデーレの姪である82歳のマリア・アルトマンが駆け出しの弁護士ランドル・シェーンベルクと共に「黄金のアデーレ」を奪回のためにオーストリア政府に対し法廷闘争を繰り広げてゆく物語である。
(他にもクリムトの風景画3点もある)。
その絵画にはマリアのこよなく愛する故郷を追放された恨みと、両親を置いて亡命したことに対する罪悪感の綯交ぜになった感情が込められ、彼女のこころをずっと揺すぶり続けてきた。
奪回によって、その長年の想い(アイデンティティ)に正面から対峙する意味もあったのだ。
(わたしにとって、祖国を失うという想いが如何程のものなのか、実感不可能なものである)。

それにしてもまだ、取り返せる現物があってよかった。
ヘルマン・ゲーリングが個人的趣味から彼の別荘に持ち込んで飾っていたとか、、、。舛添氏みたいである。
そののちに美術館に移されたそうだ。
しかし絵によっては、いくら優れたものであっても、退廃芸術として処分されてしまったものも多い。
かのフランツ・マルクの絵画さえも退廃芸術の烙印を押された、、、余りに惜しい。
(これこそ人類の至宝に当たる)。
略奪は、そのモノにまつわる記憶ー想いや歴史をズタズタにする酷い行為であるが、破棄されたらもうそれっきりである。
(美術学校に落ちたヒトラーの腹いせか?)


ヘレン・ミレン、、、マリア・アルトマン
ライアン・レイノルズ、、、ランドル・シェーンベルク
ダニエル・ブリュール、、、フベルトゥス・チェルニン

ナチス侵攻時のオーストリアでの出来事(家族との想い出)が現在の裁判の流れの中に、頻繁に挿入されて重ねられてゆき、この絵画の奪回の意味が深まり濃くなってゆくのが分かる。
特にアメリカに旅だつ娘を病床から送り出す父親の最後の言葉の重みは計り知れないものであった。
また、夫とふたりで飛行場まで逃げる途上の緊迫感は並みのサスペンス劇を凌ぐ、かなりのものであった。
マリア・アルトマンとランドル・シェーンベルクのぶつかりながらも信頼を深め裁判を勝ち取ってゆく過程は実に見事に描かれていた。


ヘレン・ミレンの上品で凛とした演技とライアン・レイノルズの真面目な演技がすこぶるよい、この映画、ほんとうに見応え充分であった。

実話というが、この弁護士はシェーンベルクの孫とか、、、。
(お父さんは有名な判事)
シェーンベルクも音楽だけでなく、凄い絵を描いている。
ちょっとそのへんも何気なく出てきても面白かったか、、、。


クラフトワーク礼賛~ニューオーダーの死

kraftwerk002.jpg

”Music Non Stop”(Kraftwerk)
この1曲の一撃はいまだに残る。
ただこの曲と同等の衝撃は”Blue Monday”(NewOrder)にも受けた。

凡百のハード(ヘビー)ロックなど何百束になっても、ひと振りのハエたたきで一瞬に皆ぺっちゃんこという強度である。
強烈な差異である。
次元が違う。
一分の迷いもない。
絶対的自信漲る隙のなさ。
特に”Music Non Stop”は、ヴィデオで観たい。
(”Blue Monday”もヴィデオがよい)。
人間性の欠片もない、昆虫ロボットが圧倒的確信のもと、音を紡ぎ出している様がありありと窺える。
異物性と崇高さが醸す威圧はあるが、とても爽快である。
クリング・クラング・スタジオに他者(デビッド・ボウイ以外)を入れないのはよく判る。
彼らが元の姿で演奏する場所だからだ。マスコミなど入れたら大変だ。
ボウイはもともと宇宙から降ってきた男だ。
外骨格など気にしまい。

ルーリードの「メタル・マシーン・ミュージック」はアメリカからの返歌 であった。
そう、ルーも親戚かも知れなかった。ボウイの親友だし。

「知性」と「テクノロジー」による音楽ーサウンドの完全勝利である。

今日、最初の大ヒットアルバム”Autobahn(1974)”を聴いてみた。
物凄く懐かしい音である。
それから”ManーMachine(1978)”も。
「人間解体」という邦題が傑作である。
明日は、折角棚からごっそり取り出してきたので、”RadioーActivity(1975)”を聴きたい。
そうだ、”The Mix(1991)”もあった、、、。
(このようなリミックスバージョンはNewOrderもよくやっていた)。

しかしkraftwerkのどれも、、、
以前聴いた時よりも、随分哀愁を感じる。
そう、何故か郷愁や哀愁をやたらと感じるのだ。
最初の衝撃が解けた後、メロディの遊星的哀愁が残った感じだ、、、。
それはそれで、良い。
破壊力がそれで減じる分けではない。

クラフトワークはもうミックス・リミックスを無限に繰り返し世界中の音楽の遺伝子となって定着してしまった。
ミトコンドリアみたいに。
今の音楽に必須の要素となって。

NewOrderも多くの死を孕みつつ確かなスタイルを残した。
そして少なくとも”GetReady”で完全解散すべきであった。
何故、むりやり復活しようとするのか?
復活は、”GetReady”一発でよかった。それで、もうおしまいにすべきだった。
もう充分であったし、終了とてっきり思っていたのが15年ぶりのインターバルだなんて洒落にもならない。
すでにNewOrderには、コンポーザーが不在だ。

”MusicComplete(2015)”というアルバム、、、であるが、、、
わたしは、”GetReady”で一度復帰してみたが、もう彼らは完全にやめたと勝手に踏ん切っていた。
何であえてまだやるのか、、、としか思えないものであった。
ここにはかつての彼らの色々なイデオム(エレクトロ的な面とギターバンド的な面)のいまひとつ煮え切らぬ旋律と、初期の少し?を感じた”Sub-Culture”的な安易な曲、それからバーナード・アルブレヒト(サムナー)のエレクトロニックのサウンドを覚える部分が交互に見え隠れする。
それらは、一番つまらない劣性遺伝子の発現のような、作品のブラッシュアップと共に消えてゆくべき要素であった。

あくまでもNewOrderは、”Blue Monday”の強度を保つバンドである。
そのサウンドは一言で言えば、ニーチェのツァラトゥストラ的なものである。
この破格(エレクトロとアシッドディスコの融合)の創造性こそが彼らである。
そのバリエーションの生成・反復が彼らであった。
ギターがメインでもよい。
ギターバンド的なサウンドは、”The Perfect Kiss”である。

ここには、彼らの”Regret”がない。
”Vanishing Point”がない。
”Ruined In A Day”がない。
かと言って、”World In Motion”もない。

その意味で、これらは単に半端な形骸である。

発想とアイデアの尽きた凡庸な曲だけがNewOrderの名で並んでいるではないか。
”GetReady”で終わっていれば、彼らの歴史を汚すこともなかったろうに、、、。
と思う。
もう完全なゾンビである。
前作でKraftwerkに送った曲があるという。Kraftyか。(craftyであれば狡い、悪賢いとなるのだが、、、皮肉なものだ)。
もう一儲けでもあるまいに、、、。脱退したピーター・フックとの間に金絡みの問題も起きてるらしい、、、。


何であっても死ぬタイミングが肝心である。
死にぞこなったら(しがみついたら)オシマイという何とも寂しい例だ。



亀がとても元気

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漸くうちの環境-水槽に慣れてきたようだ。
とてもよく動くし、亀島の上に登ったり、下の空間に隠れてみたり、ヒーターの上に乗ったり掴まってみたり、踏み台に乗って、首を伸ばして口をめいっぱい開けてエビの餌をパクッとしたり、、、。
ともかく、ウンチもたくさんするので、しっかり食べ始めたということだろう。
餌の水面に浮かぶ量が確かに減ってゆき、気持ち良い。

亀島に乗って紫外線ライトで一定時間甲羅干しもするなど、結構分かっている風だ。
そんな顔をして目を閉じたりしている。気持ち良いのか、、、。
首を伸ばしてじっと何かを観ている姿がまた好奇心を感じさせる。
生き物は、それがみせる好奇心の様子が面白い。
子ガメは特に分かりやすくて楽しい。

水替えの時に丘に放すと、チョロQみたいに、チョコチョコと走り出す。
体を何処かに隠したいのか。そう受け取れるのだが、そんな場所がないと隅っこに取り敢えず走って行く。
素早い。
その姿から見ると、かなり速いものだ。
亀が遅いという伝説の元になったのは、何亀であろうか。
少なくともゼニガメではないはず。
素早いし、絶えずチョコチョコ動き回っている。

しかしよりによって、ウサギとカメとは、一体どういう対比・組み合わせなのか。
とても突飛なものに想える。
このふたりを同時に比べる視座がどう存在するのか。
レースの話であるが、ウサギだってゴールに向かって道を進むような律儀さなどありはしないし、勿論昼寝をするような見通しなどもってない。
喰われそうになった時だけ、跳ねて逃げるくらいのものではないか。
結構普段はじっとしており、あまりアクティブには見えない。
亀の場合、走路をおあつらえむきに作ってあげれば、かなりの速度でゴールまで到達してしまうかも知れない。
ウサギとカメで、レースなどするより、ウサギは月で餅つきしていたほうが、ピッタリする。
(餅つきもさぞしんどかろうが、、、)
亀は竜宮城とこちらもロマンチック(とりようはあろうが)で、やはり別々がよかろう。


暫く、水替え及び水槽洗いと餌の配合をわたしがやっていたが、今日の夜からその仕事を長女がやりだした。
水槽洗いと水量調整は、手伝ったが結構要領よくできた。
明日は次女がやるという。
彼女らが責任を持って、それらが滞りなく出来るようになれば、しめたものである。
情操と勤労と観察に役立てば、充分意味が有る。

ふたりの観察日誌がかなり笑えるものだった。
別に面白い内容というわけではないが、亀の仕草や首を伸ばした時の表情や口のパクパクに同期する文体がやたらに愉しい。


このまま元気で大きくなっていって欲しいと、亀と娘たちを見ながら思う。


サカナクション 

sakanaction001.jpg
sakanaction

ボーカル(フロントマン)の山口氏の表情が非常に印象的であった。
先日、テレビでライブの一部を観たのだ。
確信に満ちた晴れ晴れとした顔がやけに脳裏に焼き付いたのだ。
サウンドにも少し聴いただけだったが、惹かれた。気にかかった。

かの山口氏、誰かに似ていると思ったら、田辺画伯ではないか(笑。
違うか、、、ともかくわたしは、サカナクションを初めて聴いた。(グループ名は知っていたのだが、、、)


良かった。
日本のミュージシャンも少し聴いてみようと再び思った。
以前、そう思ったのは、Salyuに接してのことであった。
Salyuは圧倒的存在であった。
瞠目した。
その前に聴いていたのは、遊佐未森と越美晴とナーヴ・カッツェか、、、。
随分前だ。
わたしの持っているLP約500枚とCD約2000枚は、ほとんど海外アーティストのものだが、iTunesで買い始めた音楽のうち200曲は少なくとも日本のミュージシャンのものだ。小林太郎が一番の注目株であるが、、、。

わたしがロックとクラシックと現代音楽を聴いてきたのは、それが日本でない(起源と必然をもたない)音楽であるからである。
わたしは、日本的なものが尽く気色悪く、神経に触り、深い憎悪の対象となっていた。
それは、近親憎悪にもピッタリ対応する。(自分のルーツは大変ベタな縄文人という感じなのだが(笑)。
わたしのアイデンティティは、日本的なものからあらん限り遠ざかることで形成されてきた経緯がある。
だから気に入るものは、普遍性に達したものとなる。(ヨーロッパ的なものがよいとかいうものではない)。
無国籍的とかワールドミュージックとかではなく、アナキズムにベクトルの向いたもの、、、。


話を戻す。
彼らの”sakanaction”は聴き応えを感じた。
わたしは、徹底したサウンド派であるが、時折詩も確認はする。(訳することもある(笑)
彼らは歌詞に重きを置いてる。
女性ベーシストの演奏がなかなか目立つ。
オルタナティブ・ロックという懐かしい言葉を思い出す。

kikUUikiとDocumentaLyも合わせて一度聴いてみた。
バッハやクレーまで、出てきた。
一種拘りのある歌詞であった。
このサウンドの質感、エレクトロでもあるか、、、
それを引き合いに出せば、アフリカ・バンバータでクラフト・ワークに繋がる。
繋がる。
何も、電気グルーブばかりじゃない(爆。
良い感触だ。

アルバムとしてはDocumentaLyからkikUUikiそしてsakanactionと来るようだが、一度に聴く分には、その流れに意味は特に感じない。彼らをリアルタイムに聴いてきたら流れに感想はいろいろ持つのだろうか、、、。
それぞれに対しまだ何とも言えないが、かなり印象的な曲もあり、いずれまた書く機会は持ちたい。
気になる曲はある。

一度に聴いたら、どれがどれという感じではないのだが、sakanactionが一番吹っ切れたサウンドに聴こえた。
普遍性が高く、洗練されておりヨーロッパでもどこで流れても違和感はない感じがした。
ということは、わたしにとって聴きやすかったことを意味する。
すんなり飲み込めた。

DocumentaLyは、エレクトロ色が強く残り、全体を覆う孤独感に好感はもった。
kikUUikiでは、Paradise of Sunnyが特に面白かった。トータル性もありまとまりも感じる。
どちらも一筋縄ではない、ペシミスティックだが解放に向かおうとする世界観を形作っている。


全体として聴いて、”sakanaction”が一番心地よかった。
わたしは、無機的なものが好きなのだが、このアルバムは様々な要素がアマルガム化され昇華・蒸溜されたものに想える。
それで、とてもすっきりした後味を覚える。

更に懐かしい。
何かに似ているのだが、それを指し示せない。
だが、聴いたことがあるサウンドなのだ。
これまで聴いてきた音の奔流が、ここにも溢れてきたのかと感じられた、、、。

音楽というものがたぶん、そういうものなのだ。





クラフトワーク

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Computer World (1981)とTour de France (2003)を最近なんとなくまた聴いている。

これ以前に彼らは誰も理解できないような、とんでもない音をすでに発表していた。

まずセンセーショナルであったのは、”レディオ・アクティビティ”。
そしてマニフェストとして強烈に響いたのは、”マン・マシーン”であった。
ちなみにMVで圧倒されたのが”ミュージック・ノンストップ!”
これまでの音を全て断絶し、何にも妥協しない、完全なオリジナルの音を作る凄まじい強度(差異)であった。
(タンジェリンドリームさえ、イギリス的イデオムに感化されているとして、彼らは認めなかった。であるからきっとイエスとかELPなんぞ論外であったはず)。
クラフトワークとは、結局クラフトワークでしかなかったことに、だいぶ後になって誰もが気づく。
唯一無二とは、彼らのための言葉であった。
(ライブがまさにそれ。)


この時期ドイツのエレクトロニク・ロック(何と呼ぶべきか、、、)、カン、グルグル、アモンデュール、ファウスト、、、たちは、既製のロックやポップは勿論、クラシック、既製の現代音楽から、あらん限り遠ざかって行った。
イギリスやフランス、イタリアのロック(ポップ)アーティストが適度なクラシックロジックをとりこんで、稚拙で脆弱な音をひょろひょろ出していた時期と重なると思うと、やはり音楽性以前の姿勢からしてまるで違う。
先のジャーマンロックアーティストから見ると、彼らは随分安易で不真面目に映ったはずだ。


”Computer World”
例えば、火星で独り作業に明け暮れるなんてことになったなら、こんな音楽が一番心身に良いはず。
適度な刺激と覚醒を呼ぶが、思考の邪魔にならずに、いつしか視界に溶け込んでいる。
聴いていていつまでも疲れない。

昔の音とは言え、圧倒的なオリジナリティを発し続けることに、改めて驚く。
その音はサンプルとして、その後の様々な音楽に溶け込み、すっかりわれわれの肌に馴染んでいる。
いや、肌というより神経に。
それでも、新鮮なのだ。
神秘ですらある。

ついうっかりするところだが、1981年といえば、まだマックも世に出ていない時期である。
アタリでキューベースが使えたか、、、いやまだだ。
こんな時代に、完璧なコンピュータミュージックが作られていた。
ただ、驚愕である。
ここから後のYMOが生まれ、電気グルーブなどの孫やひ孫たちが続々と輩出することになる。
所謂テクノ直系でなくとも、ほとんどのミュージシャンがその方法論を拝借したことは事実だ。
彼らの音はリミックスし続け拡散し、他の音楽に繋がってゆく。


”Tour de France”
ヒトと自転車。ヒトに最も密着し一体化したテクノロジー。
クラフトワークにうってつけの題材。
機械化したヒトの姿そのもの。
しかもそれは高速に加速する未来派の音である。
音楽=ヒト=機械
テクノ・ミュージックの極み。

彼らのクリング・クラング・スタジオから繰り出される音がそのままツール・ド・フランスに速度として流れ込む。
(クリング・クラング・スタジオに入ることを許されるのは極僅かな人のみであったらしい)。
心地よさばかりが染み渡ってくる。
心地よいが、調和と同義になる。
テクノというのは、まさにこれであった。
音楽としての円熟がこれまた凄い。
ここまで複雑な楽曲となるとは、思わなかった。

いずれにせよ孤高のクラフトワーク・ミュージックである、としか言い様がない。


これにディスコとハウス、ゴシックロマンが絡み合うことで、”Blue Monday”(NewOrder)が生まれる。


オデッセイ

The Martian002

”The Martian”
2015年
アメリカ
リドリー・スコット監督

あの「プロメテウス」のスタッフが集まって作ったという。
「ブレードランナー」とは趣の異なる希望に満ちた内容である。
これも原作があるらしい、、、が特に読む気はない。

マット・デイモン、、、マーク・ワトニー(植物博士の宇宙飛行士)



火星の大砂嵐が襲いくる映画はいくつもある。
これもそれが発端だが、圧倒的に重厚で繊細な展開だ。
火星という過酷というより壮絶な環境に、独り投げ出された男。
予め問題も答えも無い未知の状況で、生き残るための問いを立て答えを探る緊迫感に満ちた物語である。
この作品、映画(SF映画)史上燦然と輝く金字塔となること間違いない。
最近の映画では、「インターステラー」と双璧をなす。


地球の40%の重力の問題も、特に違和感なくクリアしていたと思う。
絶望的状況において、あらゆる知識と技術を参集して生き延びる姿をマット・デイモンが見事に体現している。
彼の会心の演技が光る。

地球上でも人はいつも孤独だ。しかし、火星に独りというのは、実際どれほどの孤独か?
その物理状況からしてまさに死とピッタリ隣り合わせなのである。
想像を絶する恐怖と絶望。
観ている間の緊張感は並大抵のものではない。
しかしマーク・ワトニーは、ユーモアを忘れず、絶対にへこたれない。
(確かに船長のディスコミュージックの趣味は最悪かも、、、音楽はこんな時こそ無くてはならないだろう)
こちらとしても、彼が根本にもつ楽天的なムードがなければとても観ていられなかった。
また、ビデオカメラはこういった時に、やはりこころを支えるものとなるようだ。
自分の中の他者と語る最適のツールであろう。
しかし、彼にとって神は全く必要ないものであった。(アメリカ映画としては珍しく思えたのだが)。
他のクルーが残した十字架を、水生成の素材として削っているところが、興味深かった。

空気、食料、水が計算上とても足りない極限的条件下での人の取りうる行動とあり方が問われ描かれてゆく。
マーク・ワトニーがもてる全てをぶつけてその運命を切り開く。
それは知識や判断、技術や突飛な発想にユーモアも含むが、それら総じて「生きる力」によるものである。
知識や計算が十全ではないかも知れない(例えば水を採取する方法、、、等。
しかし、それでもよいのだ。問も答えも一つではない。自分で考えて行動を起こすことこそ肝心なのだ。(わたしの言葉とは思えぬ)
これは、NASAのエンジニアやチーフ(政治的な責任者)や彼を置いてきぼりにしたAress3のクルーにとっても同じである。


デビッド・ボウイの「スターマン」の流れる頃には、わたしもかなりハイな状況であった。
そのあたり、中盤からはハラハラより、ワクワクが強くなり、そして何故か泣ける。

3層構造のドラマが絡み合いつつ極まってゆく。
火星に独り、絶望を再三味わいながらもサバイバルを試みる果敢なマーク・ワトニーの世界。
NASAのコントロールルームの面々の様々な思惑と苦悩と挑戦。(そこに中国企業も絡む)。
Aress3のクルーたちの爽やかな英断。
緊張感たっぷりの3つの場所の葛藤と決断がどれも説得力充分であり、その融合がついに不可能を可能にする。


リドリー・スコットの監督映画で、これほど力強く希望を感じさせるものが他にあっただろうか、、、。
画面が明るい訳ではないのに、明るい映画を観た気分だ。
一人の宇宙飛行士の無事を世界中の人々が見守るのだ。
こういうものがあってよい、とつくづく思う。
彼ならではの圧倒的なVFXと、科学的考証。絵の美しさ。
生きる力を高らかに謳った文句なしの大傑作であった。

The Martian001





しかしプラス、、、
TV録画で「ザ・リング2」”The Ring Two” を観た。(ついでに観てしまった)。
アメリカ
2005年
中田秀夫 監督

日本版のリメイクではなく、アメリカ版The Ring の続編という位置づけで製作された。
前作の6か月後 という設定である。
ナオミ・ワッツ がまたずぶ濡れで孤独に耐え頑張る姿を見せている。
この続編の肝は、前作ではサマラは故人であり呪いが有効であったに過ぎなかったのだが、今作では体を乗っ取り、何と自身復活を遂げようとする。定義上、彼女は死人とは言えぬ。
呪いの伝播から、エイダンに乗り移り生き還ろうと企画変更してしまったため、ビデオはもうどうでもよくなった。(ビデオをレイチェルに燃やされて、そうせざる負えなくなったのか?)
サマラのその積極的で前向きなコンセプトは面白いと思うのだが、如何せん迫力と全般的演出の弱い感は否めなかった。いや、具体化のレベルというより、大元の監督、脚本自体の問題であろう。

鹿が何故、車を襲いに出てきたのか分からない。
眠るエイダンの手から送り込まれたあの断片的映像から、サマラの出生の秘密や母にまで行き着くのはちょっと無理ではないか、、、。レイチェルに超能力を感じてしまうところだ。
全体のテンポがどうもしっくりしない。
暗い色調に、美しさがない。

ちょっと身を乗り出してしまったのは、終盤レイチェルが井戸から這い上がってゆくのを追いかけるサマラの身のこなしが、まさに貞子のそれであったところ、感心した。
それから、エイダンはなかなかの芸達者だということが分かった。
顔の演技は相当なものである。
「キャリー」のシシー・スペイセク がサマラの本当の母親役で出ていたのが何故か感慨深い(笑。

最後、レイチェルが井戸の蓋を閉めて呆気なく全てが終わったように思えたが、どうなのか。
エイダンが彼女を「ママ」と呼んだときは、彼はサマラに乗り移られていた。
バスタブに沈めてエイダンからサマラを追い出したときは、いつものように「レイチェル」と母に叫んだ。
しかし生還してきた レイチェルに対し、彼は「レイチェル、愛してるよママ」とか呼んでいたはず、、、。
微妙でややこしい含みをもたせて終えた感じ、、、。


全体としてみてチープさが漂い、確実に前作よりつまらぬものになったことは間違いない。
The Ringの監督がそのまま作れば、もっと良い作品になったのでは、、、。
今回こそ、ナオミ・ワッツファン限定映画であった。

Naomi Watts002




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小間使の日記

Le Journal d’une femme de chambre

Le Journal d’une femme de chambre
1966年
フランス、イタリア
ルイス・ブニュエル監督・脚本
ジャン=クロード・カリエール脚本
セルジュ・シルベルマン製作

オクターヴ・ミルボー原作

原作があるためか、他の彼の作品に比べ、プロットの構成に奇想天外さはない。
ルイス・ブニュエルを意識せずに観る事ができる映画だ。

ジャンヌ・モロー、、、セレスティーヌ(小間使い)
彼女を中心に映画は進行する。


昆虫学を治めていたブニュエル。
彼の興味を刺激する世界としてこんな世界に注目してみた、というところか、、、。
服飾品・家具・調度・写真などのフェティシズムの世界に凝固した中産階級の世界が描かれる。
ブーツのコレクション、アルバム作り、資産暮らしで働かず、隣人とは敵対関係を作り閉じ篭る。
何をやるでもなく過ごしてゆく、そんな閉ざされた生活の反復。

しかしはっきり固定された階級や上下関係を、ジャンヌ・モロー演じるセレスティーヌがその怪しい美貌でかき混ぜてしまう。
彼女は巴里という都会から来た洗練された魅惑的な女性である。
彼女は何故、田舎の堅苦しい中産階級の小間使としてやって来たのかは、明かにされない。
触媒的な彼女の存在によってにわかに、片田舎の保守的な静的秩序が揺れ動きはじめる。

彼女は毎夜、仕える主人の求めに従いブーツを履いて歩いて見せたりして職務に従順である。
そつなく、とてもよく働く。
しかしとらえどころはない、自由な精神の象徴的存在でもあるセレスティーヌ。
自分の感性や感情に正直に振舞う。
否定し合う隣人同士の間を構わず行き交う。
彼らの近傍に常にいて、中立を保つ。
とは言え下男のジョゼフが野卑で気味悪く、醜いので大嫌いである。

彼女は、小間使を辞め、巴里に帰ることにする。
しかし汽車を待つ間に、親身に接していた少女が強姦され惨殺されたという事件を知る。
彼女は、森と街を繋ぐ象徴的存在でもあった。
その少女が殺された森というのが、常日頃嫌悪の情を向けていたジョゼフがいつも通る道であった。
彼女は直感的にすぐさま、彼を強く疑う。

セレスティーヌはすぐに屋敷に戻る。
真相の究明に乗り出す。
殺された少女は野いちごとかたつむりを獲って歩く素朴な存在だ。
これを境に自然と頑なな文化との越境が起きる。
いつもやぎや鳥が殺されていくように、野蛮な暴挙が隣り合わせにある事実が顕になる。

セレスティーヌはジョゼフと結婚を約束するほどの親密な関係を結び、彼が犯人である事を暴こうとする。
彼女自体もこの過程を通し、アイデンティティは不安定の極みとなる。
身を呈した彼女の働きで何とか、ジョゼフを逮捕まで漕ぎ着ける。

しかし最終的に彼女も婚姻により中産階級の仲間入りをし、越境もしなくなることがはっきり示されて締めくくられる。
彼女も自ら、自由を失う。
閉塞感が強く漂う。
激しい活動等がそのやりきれなさを補強する。
結局、逮捕されたジョゼフは釈放され、店のオーナーとなっており、その活動の一端を担う立場ともなっていた。
やがて来る極右翼の全面的な野蛮な暴挙を予期させる行進のエンディングである。

重苦しい映画であった。
いつものルイス・ブニュエルのユーモアある軽みがない。




スペル

Drag Me to Hell

Drag Me to Hell
2009年
アメリカ
サム・ライミ監督・脚本
(スパイダーマンはお気に入りである)。

アリソン・ローマン、、、クリスティン・ブラウン(銀行の融資担当の女性)
ジャスティン・ロング、、、クレイ・ダルトン(心理学の大学教授)
ローナ・レイヴァー、、、シルヴィア・ガーナッシュ(クリスティンに呪いをかけた老婆)
ディリープ・ラオ、、、ラム・ジャス(霊能者)
まさに”Drag Me to Hell”であった!

「スペル」も結構イケる邦題だ。まさに呪文のせいで地獄に突き落とされるのだ!


わたしは、ホラーにめっぽう弱い。
これは、かなりのホラーであった。

ホラーといえば、昨日「The Ring」のところで、「死」について10行ほど書いた文がきれいに消えてしまっていた。
アップして(したつもりで)、ブログの確認でみたら、そこの部分がすっぽり抜け落ちていたのだ。
あれは、その時の思考と気持ちの文脈内で出てきたものなので、もう書けない。
ホラーである。(実はこれと近いことが最近、何度かある、、、)
「The Ring」そのものは、全く怖いとかいう類のホラーではなかったが。

これは、とても怖かった。
というか、ショッキングであった。
暫く、残りそうだ。
話の筋も怖いのだが、何もあそこまでグロテスクに汚らしくしなくてもよいではないか、、、という生理的なショックも大きい。
この手のものがダメな者にはかなりくる、、、。

しかし、この映画、単に怖くて汚らしくてショッキングなだけではなく、非常に細やかに計算されて作られている。
特に、クリスティンが自分のボタンをガーナッシュに押し付けようと墓地に向かう時に、乗っていた車の揺れでボタンの入った封筒が、中身の違う他の封筒と入れ替わってしまうところなど、感心した。
大きな流れとしても、濃密な畳み掛けと最後の来るとは思いつつも来てしまう展開も充分観ごたえがあったが、それを支える雰囲気(気配)が細部・色調の拘りで見事に表現されている。
とは言え、話の運びだけでもしっかり怖いのであるから、あのハエ絡みのゲロっというのはなくてもよかったのではないか。

これ程、濃密で切羽詰る3日間というのもあるまい。
それにしては、クリスティンはタフであり、彼女を見守るクレイも理想の彼氏ではないか。
彼女のあそこまで、呪いに対し敢然と立ち向かう姿には、応援したい気持ちも自然に湧いてくるものだ。
クレイの霊に対し合理的な懐疑心をもちながらも、彼女のために尽力する気持ちもとても伝わる。
ラムも如何にも霊界の専門家然とした態度で彼女を支えようとする、よい味を出していた。


だが、この話余りにも「不条理」である。
何もこれ程の呪いがクリスティンにかけられる必要がどこにあったのか、、、。
クリスティンは他の人と比べても相当に善良な人間の部類である。
ガーナッシュとは、そもそも何者であったのか。
単にクリスティンとは、ガーナッシュに出会ってしまった「運の悪い人」なのか。

そうだ、運はひどく悪い。
勿論、ガーナッシュにかけられた呪いのせいではあるとは言え、、、。
彼氏の気難しい格式張った母親に漸く気に入られたところで、呪いの効果で無茶苦茶にされる。
自暴自棄になったが、何とか切り抜け一時ライバルの奸計で白紙撤回された次長の椅子を正式に射止めたのに、封筒の中身が変わっていたために、Drag Me to Hellである。
しかもその日彼氏は彼女に婚約(結婚?)指輪を持っていた。
彼女は、社会的地位と結婚(これも社会制度ではあるが、対幻想の極みでもある)を両方手に入れたところで、悲劇の極地に放り込まれる。

恐らくガーナッシュへの対応の誤りによってではなく、ラミアに見初められてしまった結果なのだろう。
そうとしか思えない、恐ろしい運命であった。
余りに恐ろしすぎて呆気にとられたが、、、。
(これがもしやりすぎのユーモアなどが入っているとしたなら、監督の悪趣味としか言い様がない)。
ただ、あのゲロゲロしたグロテスクな質感無しでも、充分に成立した作品であると思うのだが、、、。


それから一番気になることなのだが、彼女の魂は一体、救済されるのか、ということだ。
あのような形でラミアに連れ去られたのだ、死後の行方がたいへん気になる。
つまり、彼女の恐怖とは、「死」という未知(超越)の場への恐怖ではなく、「死後」の恐怖である。
ここは、大きい。
ある意味、死ねない(消滅できない、、、関係性が絶えない)恐怖である。
彼女は、あれで死ねたのか、解かれたのか?!
それとも、死後も呪いは続くのか、、、


ホラーとかグロテスクとかいうより遥かに残酷極まりない噺であろう。


殺意の香り

Meryl Streep

Still of the Night
1982年
アメリカ
ロバート・ベントン監督・脚本

「夜の静寂」でよいのでは、、、。
このふたりの主役にはあっている。

ロイ・シャイダー、、、サム・ライス(セラピスト)
メリル・ストリープ、、、ブルック・レイノルズ(美術商の助手)


最近はやたらと強面役のメリル・ストリープの若い時期の姿がある。
翳りをもった怪しくも繊細なヒロインである。

サム・ライスの患者であった男がナイフで刺殺され、その愛人であるブルック・レイノルズに嫌疑がかかる。
彼女は、謎めいた魅力を湛えサムの元を訪れ、殺された男の妻に腕時計を返して欲しいと言って帰ってゆく。

静かにゆっくりとドラマは進展する。
この雰囲気が「夜の静寂」という感じでよい。
ブルックが裸で背骨の矯正マッサージを受けているところなど、緊迫感ある他のシーンに劣らず、はっとさせられた。

オークションで現代絵画を競り落としている光景など、思わずヒッチコックの「北北西に進路を取れ」を思い出してしまった。
こちらの方が遥かに上品ではあったが(笑。

サムの母も精神科医で、二人で殺された男の見た夢判断をするところも面白い。
もう少し長く展開してもらったらより楽しかったのだが、、、。

結局ポケットに「グリーンボックス」を入れる、というところがブルックの指摘から、「グリーンバックス(ドル紙幣)」であるほうが適当であるとされた。殺された男の元愛人が彼女の同業者でもあるゲイルであり、彼女は銀行を信用せずに現金を持ち歩いていたせいでそう呼ばれていたと、、、。
しかしすぐにそこから、彼女が真犯人であるとわかるというのが判らなかったのだが、、、。
映画的には分かってしまう。
わたしには、いまいち判らなかった、、、。
それを自分のポケットに入れて行き、、、つまり同伴し、、、その後すぐ殺されたというところからか、、、。
(何か見逃した気がする、、、)

ま、謎解きよりも全体の雰囲気とその流れを楽しむ映画として充分な感じがした。
尺も短く、心地よかった。

この頃のメリル・ストリープを知る上で良いフィルムである。
典型的なヒロインのひとつのスタイルといえよう。


プラス、、、
『ザ・リング』
ナオミ・ワッツ主演のハリウッド版「The Ring」も観た。
2002年アメリカ
ゴア・ヴァービンスキー監督

日本版をかつて観ているが、特にアメリカならではという印象は薄い。
「貞子」は「サマラ」となっていた。なかなか良い名前だと思う。
ナオミ・ワッツ演じるヒロインの息子は、如何にもこの手の子役らしい既視感の高い子役であった。

角川版で観ていれば、ナオミ・ワッツファン以外に観る必要性は感じないのだが、、、。
しかし、呪いのビデオは、こちらの方がよくできていて、そのものとしての作品性は高いものだった。

自分が死なないのは、ビデオのコピーを取ったためだ、と洞察したところがやはりクレバーだ。
そんなクレバーなヒロインにナオミ・ワッツはピッタリだった。
それに気づかなければ、息子は死んでしまう。
しかし結局、それ程単純なことでも実はなかった、ということで2作目が作られたはず。

”2”も確かハリウッド版リメイクがなされたと思うが、TVでやれば、観てみたい。
この第1作目もとても丁寧なオリジナル映画のリメイクで、細部の作りはこちらの方に見応えを感じる部分があった。
更に独特な雰囲気や色調も充分に取り込まれている。
サマラに殺されたヒトの怖い顔は、ほんのちょっと窺わせる程度に抑えていたのが印象的であった。

Naomi Watts



罪と罰

Marian Marsh

Crime and Punishment
1935年
アメリカ
ジョセフ・V・スタンバーグ 監督
フョードル・ドストエフスキー原作

ピーター・ローレ、、、ラスコーリニコフ
マリアン・マーシュ、、、ソーニヤ
エドワード・アーノルド、、、ポルフィーリー警部

「罪と罰」、ピーター・ローレファンとしては観なければと思ってはいたのだが、、、
ドストエフスキーである。
観るのを躊躇っていた。
読んだのは、遠い昔で手元に本すら無い。


どんなものかな、、、と思って観たが、少しアメリカの所謂、犯罪映画のタッチになっていたかな、という気がする。
原作とはだいぶ違う。
マルメラードフ(ソーニャの父)は出てこなかった。この人物が原作ではポイントとなるはず。
かなり早いうちに、強欲な金貸しを殺害することを決めるが、マルメラードフとの出逢いがかなりの決め手となっていたはず。
ここではその娘、ソーニヤの存在と自分の家族を金で買収しようとする男の出現、その他金関係からくる鬱屈・憤慨などが直接的原因として窺えるか。
ラスコーリニコフの強欲金貸し老婆を殺害する際、義理の妹も居合わせ殺してしまっているはずだが、ここでは金貸しだけである。斧ではなく火消し棒を使っている。
この点で、ラスコーリニコフの苛まれてゆく罪の意識の根拠が少し弱まる感じはする。
ソーニャの悲惨な境遇の描き方も弱さを感じる。(ここでは父が酒飲みであることは明かされるが、娼婦であるかどうかは分からない)。
またその極貧の生活を強いられているソーニャがそれ程貧しくも感じられず、余りに美しすぎるのも御伽噺じみていた。
ラスコーリニコフの姉がここでもモテ役であるが、ソーニャの方が遥かに美しい(この女優が異様に綺麗であった)。

もう少しラスコーリニコフとポルフィーリーとの間の論戦に存在学的な深まりが欲しい。
かなりの心理戦を戦い、双方共に消耗してゆく様はスリリングでさえあったが。(もともとこういう感じであったか?)
原作も3回だったか、、、もっと白熱していったようにも思うが。
優秀なラスコーリニコフが終始劣勢であったのも気になる。彼ばかりが切れて威嚇しいきり立っていた。
ナポレオン的なプライドだけのような、、、。
ポルフィーリー警部のコロンボばりの推理・分析はここでも冴えていた。
たいへんねちっこく、後半に行くに従い凄みと深みを増し、相当な人物に見えるようになっている。
ラスコーリニコフの去った後の、笑い方も近いのでは。
エドワード・アーノルドの芸達者が際立っていた。

ソーニャの信仰心をもち、ひたむきに生きる姿がラスコーリニコフの歪な特権主義的な考えを揺るがす力となっていたことは同様か。結局はその彼女の存在によって、彼は自首することを決める。この筋は、変わらない。


しかし今この件に深入りする用意がない。せめて本を少し読み返したい。ほとんど何も覚えていないのだ(笑。
肝心なところを忘れている気もする。(最近、何でもそうだ)。
また、小説と映画の形式上の違いを前に、印象の異なるところを挙げてみても意味はない。

登場人物の範囲や関係をかなり縮小・簡略化して、的を存在学ー実存主義からクライムものにかなりズラして撮っていることはよくわかる。
それはともかく、、、この映画はこれとして目の離せぬ緊迫したものであった。

ピーター・ローレの汗ビッショリの熱演はやはり光る。
この映画は何と言っても、ピーター・ローレVSエドワード・アーノルドに尽きる。

エドワード・アーノルドの横綱相撲であったが(体型も)、ピーター・ローレの追い詰められてゆく様に同調できる。
しかし、類まれな能力に恵まれ、犯罪学を専門とする割には、容易くやられてしまったな、という感は否めない。
刑事コロンボの「溶ける糸」などの犯人の方がずっと手強い。

但し、この作品は、「罪と罰」に関してギリギリまで突き詰めようとする思想劇である部分は捨ててはいない。
単なる捕物ではない。
その意味でのトリックや巧妙さなど微塵もない。
ペンキ屋が狂気に陥り自白してしまい、冤罪という踏み絵を突き出される。
それは決して展開に役立つのではなく、ラスコーリニコフとソーニヤの実存に投げつけられるものだ。
ラスコーリニコフの罪の意識に決定的に重みを加えたのは、ソーニヤの初めての素直(素朴)な信仰からの逸脱の意思表示である。

敢えて凡人同様の罪を償う素直な気持ちが彼のうちに沸く。
彼は、恐らくこのように、かまってもらいたかったのだ、、、。






ブルジョワジーの密かな愉しみ

Le Charme discret de la bourgeoisie

Le Charme discret de la bourgeoisie
1972年フランス
ルイス・ブニュエル監督

「ブルジョワジーの密かな愉しみ」とは実にお洒落で思わせぶりな題でよい。

ジャン=ピエール・カッセル、、、セネシャル
フェルナンド・レイ、、、ラファエル
ポール・フランクール、、、テブノ
デルフィーヌ・セイリグ、、、テブノ夫人
ステファーヌ・オードラン、、、セネシャル夫人
ビュル・オジェ、、、フローレンス
ほとんど、この6人連れで行動を共にしている。
つまり、食事をしようとしている。


結局、いつまでたっても、食いっぱぐれるブルジョアたちの話だ。
食欲・性欲はある意味、ブルジョアを象徴するものだ。
それを常に妨害され満たされない彼らは、夢と現の境のあやふやな世界を反復しながら、最後にやけに現実的な真っ直ぐに伸びる道を並んで歩いてゆく。
最後の道はそれまでの映画空間とは明らかに異なる光の下にある、リアリティに干からびた道である。ある意味、彼らに一番そぐわない道である。
何処のどういう道であるのか?
どのような意味があるのか、分からないが彼らが何をかはっきり受け入れた表情に見受けられる。
近くのレストランでも車で乗り入れる彼らが、ほぼ手ぶらで何もない一本道を進んでゆく。
倒れるまで歩んでゆくしかないような道だ。
わたしは、ゲームの上がりを求めていると想えた。
そう、完結を望んで、、、。


かなり優しい感じで気持ちよく流れてゆく映画である。
ある意味、とても見易い。
何故か、、、攻撃的なシニカルさがないからであろう。
シニカルだが滑稽で登場人物には愛嬌がある。
批判性がないところが一番良い。

接待と会食のシーンが形を変えて幾度も反復され、その間を繋ぐように死者や夢のシーンが現れる。
夢はブルジョアの仲間同士でリレーして繋がってゆき、現実に乗り上げたりもしていた。
しかし、どのシーンもすぐに中断され、それは多くの場合ドアベルや銃声である、そして夢や死者に強引に引き取られる。
様々な身分の人間が入り混じり混沌とするが、それを収めるがのごとく、彼らの中では食卓に着く椅子の順番に拘ったりする。
ともかくメニューを調べ食事内容に一流の拘りを窺わせるが、まともに何一つありつけない。
場面によっては、お茶やコーヒーすら飲めないのだ。(酒だけは呑めていたみたいだが)。
申し合わせた情事(不倫、、、これもブルジョアの特技か)も、いちいち邪魔が入る。

なかでも面白かったのは、どう間違えたのか招待されて食卓についたと思ったら、それが劇場の舞台の上であった。
これなど、とりわけこちらまで夢か現実か判断付け兼ねる秀逸な場面である。
幕が上がって、観客の前での彼らの慌て振りがまた面白い。プロンプターのいいなりに台詞まで喋ってしまうではないか。
慌てて逃げ出す彼らであるが、ここまで食事が摂れなければ、夢に会食が出てきたり、強迫的悪夢に悩まされても不思議はない。
夢は結構、唐突で残忍なものになってゆく。
夢(誰の見たものか?)もしまいには、テロに全員撃ち殺されるのだが、テーブルの下に隠れたひとりが手を伸ばし、食物に食らいついている様などもう流石である。

このような、唸ってしまう場面が多々有り、流れもよく軽みの心地よい実に練られた映画であった。
シュールレアリズムに落ち込まないギリギリの脚本・演出が光った。


登場人物たちにとってみれば、この完結しないエピソードの反復は、全員射殺の悪夢から言っても最期の局面を迎えたと言えようか。これ以上、夢は反復し得るか、、、。
生きる欲から吹っ切れてしまった人たちが気ままに、ただ真っ直ぐ歩いてゆく姿が妙にリアルである。
もはや、ブルジョアジーも何もない。
ただのわれわれである。
すでに体温が感じられない、、、。
熱から覚めたら、こうなるのだろう。











オルフェ

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ORPHEE
1951年フランス
ジャン・コクトー監督・脚本


ジャン・マレー、、、オルフェ
マリア・カザレス、、、女王
フランソワ・ペリエ、、、ウルトビーズ(女王の運転手)
エドアール・デルミ、、、セジェスト(若い詩人)
マリー・デア、、、オルフェの妻ユリディス

マリア・カザレス繋がりである。
昨日の「天井桟敷の人々」のマリア・カザレスとはうってちがう、クール・ビューティの極北である。

タイトル・クレジットがジャン・コクトーによるとてもお洒落でアーティスティックなものである。

わたしはだいぶ昔(子供の頃)に観たこの作品で、いまだに強く印象に残っているところがある。
まず「ガラスはいらんかね」と自分が死んだことに気づかずガラス売りをして浮かぶようにさまよっている男のシーンだ。
こんな状態が魂の変遷の過程であるものなのかと単純に唖然とした。
それから、オルフェがウルトビーズと共に自ら2度目の冥界に向かう際の、城壁を横に飛ばされる(落ちてゆく)ように移動する場面が堪らなく快感であった。
更に、手袋をオルフェがウルトビーズに促され、はめる際のフィルム逆回転装着は、これまた妙な艶めかしさが感じられた。
確かにもっと露骨に、死んだユリディスが女王にベッドから起こされる場面にも使われていたが、手袋の方がずっと惹きつけられた。
そして、手袋をして鏡に入る時である。鏡への消え方も何パタンもあるが、水面に手を入れたかのように波紋が広がり吸い込まれてゆく様が破綻なく細やかで美しい。ちゃんと背景の部屋の内部は写っていてしかもその中を彼らが歩いてゆく。

やはり映画の魂はディテールの演出にこそあると、思った。
当時そういう言葉で納得した訳ではないが、部分の方が全体より面白い事は悟ったものだ。

この映画、今観ても部分やディテールに魅せられる。
2台の死神オートバイも不吉なカラスみたいで、実にカッコ良い。
最近のギャングものに出てくるこれみよがしの大排気量改造バイクなどより、遥かに不気味で超越している。
彼らはセジェスト、ユリディスと人を跳ね殺し、オルフェも含む死体を鏡の向こうに連れ去ってしまう。ウルトビーズは女王の部下であっても、何もあそこまで、、、と思うがユリディスのためなのか、、、。しかしこれらは彼らの、命令を踏み外した行為であった。

女王たちの行為は、全て命令によってなされているらしい。

その命令の主は不在なのだ。(神とは一言も言ってはいないが)
しかし命令に背けば、地上における罰よりも遥かに厳しい罰を与えられるという。
それを知っていて、女王とウルトビーズは死んだオルフェと妻ユリディスを死地から救う。
地上に生き返らすのだ。
ここで、女王はオルフェを、ウルトビーズはユリディスを愛している。
取り敢えず女王は分かるのだが、ウルトビーズが何であんなに献身的にみんなの世話を焼くのかいまひとつ分からなかったのだが、今回観ても違和感はあった。

そしてもう一つ、ずっと覚えていたのは、オルフェが冥界からセジェストのカーラジオを通して送ってくる、詩に夢中になるところである。
詩人オルフェは、彼が民衆に人気があるのは、「無難に表現する方法を心得てしまっている」からだと指摘されたことをコンプレックスにしていたのか、カーラジオからだけ流れてくる得体の知れない言葉ーメッセージに深く囚われる。
妻の命の危機にも耳を貸さぬ程に。
(「何回繰り返す」、とか数字を語る言い回しにわたしも妙に惹きつけられた)。
その脱却と言うか超脱しようとする意思が、彼を女王に向かわせたのか、それとも女王の魔力によるものか、、、。
彼にとっての女王という存在は「永遠」とか「絶対」などこの世に存在しないものの象徴でもあろう。
詩にとって無くてはならぬ、、、。


「詩とは何だ?」
「意図せず書く事」
これがよかった。
わたしもその意味では、詩を書いている?!





亀が来た

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カメが昨日やって来た。

ヒト以外の動物と同居する事になったのは、本当に久しぶりで新鮮な気分だ。
4月に生まれたゼニガメ2匹である。
とっても小さく危なっかしい。
まだ、オスかメスかも分からない。
でも育てれば、30センチにはなるという。
それより、30年は生きるというのが何より助かる。
頻繁にお葬式はあげたくない。(熱帯魚の時はそうだった、、、)。
カメはわたしのちょっとした入れ知恵もあるが、娘たちのリクエストである。

わたしは子供の頃から大学を出る辺りまで、全部合わせると15匹くらいの猫と暮らしてきた。
だから動物といえば猫が思い浮かぶし、猫との思い出はたくさんある。
しかし、家庭の事情から今は猫は飼えない。(猫アレルギーのひとがいるのだ、、、)。
そもそも娘のある意味、情操教育も兼ねてのもので、彼女たちが基本的に面倒をみる設定だ。
犬、猫が相手では手に負えるはずがない。(世話が続けられるはずがないし、塾もあるので現実的にも無理)。
それで、金魚にするかカメにするかという話になったのだが、亀の方が長く付き合えそうな気がした。
そんなところが理由(笑。

わたしも猫との生活が続く中、亀やカエルやヒヨコ(お祭りで貰う)もいた時期がある。短期間であるが。
高校、大学時代には、父親が熱帯魚を飼って増やしていた為、それに付き合ってもいた。
しかし、魚とは余り親しくはならなかった。猫は熱帯魚には無関心で、外で鳥を獲って得意がっていたので、彼女との関係ではない。
単に水モノには余り深入りする気が起きなかっただけだ。
水槽の掃除が大変なうえ、酸素や温度、紫外線の管理も手は抜けない。
知らぬ間に、彼らは病気になり体調を崩し、ポッカリ浮かび死んでしまう。
それがどうにもキツイ。

勤めに就いてから長い間、動物とは全く縁のない生活を送ってきた事をカメを目にしてしみじみと感じる。
ただ殺伐とした生活とも言えないのは、植物に取り巻かれていたからか。
サボテン、多肉植物は、わたしにとって生物と鉱物の間に位置する存在であった。
鉱物収集の線と植物の接点である。
そこに動物の要素が入ってくると猫となった。
猫にはわたしを夢中にする全てがあった。

猫がだめだと、次はカメかも知れないと思う。
カメにも鉱物と多肉などがもつ魅力が備わっている。
今、カメたちを見ていてそう思う。


しかし当のゼニガメたちは家に来てから、ほとんど夕食を口にしなかった。
店にいた時と同じ水温で、同じ食べ物を同じ量、出してみたつもりなのだが。
環境(水槽?場所?)が変わったせいか、過敏になっているのが分かる。
水槽の亀島の下にふたりとも、こそこそ隠れてしまった。
娘たちも暫く顔を水槽にくっつけ、見詰めていたが、あまり動かないので飽きがきたようだ。
今日もほとんど餌を食べない。水温は温めてみた。それから紫外線か、、、
このグズついた天気で軒先に水槽を出してみても、紫外線が充分摂れるか心配なため、紫外線照射ライトを頼んだ。
明日、装着してみたい。
そうすれば、場所など気にせず、ずっと室内で過ごせる。
(水槽の出し入れはやはり毎日だと大変だ)。

水温の管理にヒーターも必要だな、、、。(これもすぐ注文だ)。
まずは環境づくりをしてしまおう。
安定したら娘たちにバトンタッチだ。
それがなかなか大変なことかも知れない、、、。
水の取替だけはしっかりやらせよう。



天井桟敷の人々

Les enfants du Paradis001

Les enfants du Paradis
1945年フランス
マルセル・カルネ監督

ガスパール・ドビュロー、、、バチスト
ピエール・ブラッスール、、、フレデリック
アルレッティ、、、ガランス
マルセル・エラン、、、ピエール(ラスネール)
マリア・カザレス、、、ナタリー
ルイ・サルー、、、モントレー伯爵

(第1幕)『犯罪大通り』と(第2幕)『白い男』で構成される。
とっても長い作品だが、退屈しようもない話である。


当時の巴里の猥雑な見世物小屋やサーカス小屋やストリップ小屋などが続く大通りにある劇場に始まる恋物語。
その値段の安い最後方・最上階の天井に近い場所にある観客席に陣取る活気に満ちた庶民の姿が窺える。
人々が皆、生きており、そのために恋愛の重みや苦しみもたっぷり伝わってくる。
「誰も悪くないのに、誰かが別の誰かを想って、上手くいかないのよ、、、。」
ナタリーの言うように、延々と弧を描き踊り続けるダンスに重なってゆくような流れ。
めくるめく物語だ。
結ばれることのない恋愛が、その想いを絶対化してゆく過程が描かれてゆくとも言えるか。
その舞台となる街・劇場のオープンセットが圧倒的なリアリティで迫る。

モントレー伯爵だけはちょっと薄っぺらいが、それ以外の人物たちはクッキリとした重厚な陰影が刻まれている。
心理や感情の動きを追って展開を図るレベルの映画ではない。
であるため、彼らの存在に対し魅惑されてしまう。
台詞も詩的で洞察に裏打ちされた感銘を受けるものが多かった。
更に無言劇でのパントマイムから溢れ漂うペシミズムは秀逸である。
バチストの白とフレデリックの黒(オセロ)の対比も象徴的な効果を魅せていた。

それにしても、ここまで完成された劇中劇も見たことがない。
このスケールと緻密な描写の具体化においては大変な力が注がれたはずだが、1945年ドイツ占領下でフランスが作ったということが大変意義深く、驚異でもある。
人間はそんな状況下においてこそ文化ー芸術が是非とも必要なのだとつくづく思った。

この映画、呆気なく入浴場で殺害されるモントレー伯爵以外は、実にしぶとい面々である。
特にマリア・カザレス演じるナタリーをはじめとして、、、。
真に想いをしっかりもち続けるヒトの生命力を、ただ只管感じるものだ。
その想いさえあれば、不幸では決して、ない。
その想いとともに、これから先も生きてゆける。

誰もが最近の映画にない、存在としての重みを際立たせていた。
誰も悪くない、ではなく誰にも共感を抱いてしまった。
最後には全ての登場人物が偉大な悲劇の主人公に想えてくる。



大傑作で名高い本作品をやっと観てみた。
途中家庭の事情で何度もポーズしながらの鑑賞となったことが残念である。
それでも充分過ぎる見応えであった。

Les enfants du Paradis002



自由の幻想

Luis Buñuel Portolés

”LE FANTOME DE LA LIBERTE”
1974年フランス
ルイス・ブニュエル監督

何か題でも付けないわけにもいかないし、と付けたような題である。


たくさんの俳優が出ていた。


のっけから「自由よくたばれ!」はよいが、全編痛快なアイロニーに染め上げられている。
自由、、、月並みなカビの生えた言葉である。

言葉や権威に雁字搦めになって、妙な慣例や制度に従って盲目に行動するヒトの滑稽で猥雑なシーンが次々と現れる。
芋蔓式に連なって出てくる形式は面白い。
どれも、お茶目で軽妙で挑発的である。

警視総監が何人いようが、出まかせの死んだ妹や、ビルの天辺からの無差別狙撃犯だろうが、目の前の不在の娘や、トイレと食卓が入れ替わっていようが、、、趣味がSMだか、賭け事だか、宗教だか、年の差恋愛であろうが、何の写真であろうが、母が危篤であろうが、癌であろうが、何であろうとも、、、名付けようで何とでもなる、いや全ての物事は名付けられることを待っている、それから人はシステムに即して行動しなければならぬのだから、、、職務や自由や思想・信条に拘ろうが、、、差し当たり皆、囚われの身なのである。(書いてるわたしも、、、クレタ島のパラドクスか)。

ちょっと説明的過ぎる感じの噺もあったがその分、滑稽さや不気味さはより強調されていた。
死んだ妹のエピソードで、彼女がモーツァルトを裸でピアノ演奏する場面だけは、異様な清々しさを覚えた。
これら芋蔓の中で、死者の場所からの噺だからか、言葉に埋めきれない強度がある。
しかしその死者からの電話で、警視総監名乗る男が墓地を訪れ、警視総監がふたり鉢合わせになったかと思うと、何事もなかったかの如く談笑を始める。(警視総監が何人いようが知ったことじゃないのだ)。
全ては言葉に過ぎない。
眼前の娘の実在も言葉に覆い隠され、ビルの上からの無差別殺人犯もヒーローになる。
恐らく尽くそのように、在るのだ。

更に、その乾いたそっけない銃声が日常に裂け目を入れる象徴的なものに響く。
驚く間もなく突然、生を中断させられる者たち。
(しかし中断以外に何がある?)
そもそも彼らは生きていたのか。
撃たれる者たちも、誰かが撃たれた事に唖然とする者たちも、何か人形めいて、、、。


自由の幻想によって機械的に動く街を俯瞰する視線はブニュエル自身のものか。
少女に名所絵葉書写真を怪しげに渡す男も。
するとカフェで、出任せに死んだ妹に似ているなどと引掛けの種にする警視総監もそうだ。
あの幻想の妹の姿は、一体誰に向けられたものか、、、。
そう、日常の干からびた想像力に訴えた画像か。
不意に露呈した生の感触にも想える。


言葉が自壊する。
自由が内破する。
「自由よくたばれ!」がまた叫ばれる。
反復する。
この小噺は、この先も延々と続いてゆくのだろう。

シュールレアリズムというより、アナキズム、DADA!を感じる。

爽快ではある。
だが、噺自体が面白いという訳ではない。
わたしにとって自分の怒りに抵触する部分が多かった。
(勿論、映画のエクリチュールに愉しんだとは言えるが)。


たまには、こういうものを観ないと、感性が錆び付く。

自由の幻想、、、確かに笑える。



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めまい


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Vertigo
1958年アメリカ
アルフレッド・ヒッチコック監督

ジェームズ・ステュアート、、、スコティ
キム・ノヴァク、、、マデリン、ジュディ


感覚的な眩暈というより、中空に足場を外されるような寄る辺なさを感じ続けた。
特に、中盤ヒロインであるマデリンが鐘楼から転落して死ぬところから後は、こちらとしては見通しがつかない。
まさにわたしもスコティと共に映画の中を彷徨う事になる。

しかしやがてわれわれは仕掛けに驚く。
それは、ジュディの視点に移った場面で、彼女の偽らざる素直な悔悛の念を手紙に書いて自ら破り捨てるところである。
実は、親友の妻は最初から替え玉だった。
お金を貰って引き受けた役であったが、彼女も彼をいつしか愛してしまっていた。
それで「仕事」が終わったにも関わらず、彼女はかつてのホテルにそのまま居続け、彼と再び出逢う事になる、、、。

キムノバクの一人二役マデリンとジュディとの演じ分けは女優としての力の見せ所であろう。
泳げないのに水に飛び込む彼女。
サンフランシスコ湾で、スコティはマデリンを助けに水に飛び込む。
ジェームズ・ステュアートも高所恐怖症でありながらアクションスター並みの渾身の演技を見せる。

どうやら、橋を遠くに臨むサンフランシスコ湾の光景にヒッチコックがいたく魅了されて、生まれた映画のようだ。
しかし、そこ以外はほとんどスタジオ撮影となったという。


主人公スコティの高所恐怖症が物語の重要なファクターとなる。
ヒロインが教会の塔から飛び降りて死ぬ中盤は、それが大きな障害となった。
しかし最後にもう一度、2番目のヒロインが同じ場所で死ぬ時、その高所恐怖症は皮肉にも克服される。

主人公は、容貌の似た恋人を2度失くす事になる。
そう、スコティはネックレスからジュディが自分をハメタ女であることを見破るが、芽生えた恋愛の情は変わらない。
ただマデリンだった彼女のフィギュアをなぞり時を逆行させ、その高みから振り出しに戻したかったのだ。
ジュディにグレーのスーツを作って着させ、茶色のハイヒールを履かせ、髪を染めさせ、アップにする。
ジュディ=マデリンと共に、その場所から再生を図る手筈であったか。
わたしはそう願う。


確かに親友であろうと刑事を引退している友に、自分の妻が最近行動が変だから監視調査してほしいというのは、唐突すぎる出だしではあったが、それから後の流れは極めて幻想的で神秘的でもあり引き込まれてしまう。
美術館、墓地、窓を開け放ったホテルの光景は、ヒッチコック特有の美術である。
また、必要最低限の効果的音響と不安を煽る音楽。
建物全てが精巧に組まれたセット撮影であったようである。
塔の中の階段はミニチュア模型を横倒しにしてレールに備え付けたカメラをズームして撮ったという。
また何度も体験する床の落ちる感覚を受ける「めまいショット」はやはり斬新であった。

タイトルバックも先駆的なデザインだ。
スパイラル模様は強い印象を残す。
配色も赤と緑は象徴的な効果をもたらしている。

全体の色調とアニメーションとそれにぴったり合わせた音響が悪夢の連なりの臨場感を濃厚に醸し出していた。
視覚効果と音の融合した新たな技術開発が「この映画そのもの」とも言えよう。
監督としての力の入れ様まで伝わってくるまさに「映画」である。

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欲望のあいまいな対象

Luis Buñuel Portolés

Cet obscur objet du désir
1977年フランス、スペイン
ルイス・ブニュエル監督

フェルナンド・レイ、、、フェルナンド(男の主人公)
アンヘラ・モリーナ、キャロル・ブーケ、、、コンチータ(男を翻弄する女:2人一役)

あの「ブランカニエベス」が忘れられないアンヘラ・モリーナとソルボンヌ大の哲学科に15歳で入学したキャロル・ブーケの2人が一人の女性コンチータを演じる。
単純に女性の二面性を描き出すための演出手法とも思えない。
女優なら一人でいくらでも多重人格を演じられるものだ。
二面性などと書いてしまったが、それくらい誰でももっており、それがなければ、寧ろ病気を疑ったほうがよい。
しかもコンチータは特別な女でもない、常に我儘で思わせぶりな普通の女である。
今流に言えば、ツンデレのうんとアクの強いやつか?!
はっきりメリハリをつけて二面・多面又は多重を分担し表現し分けているとも言えず、二人に一人を演じさせたのは単なる気紛れか。

しかし面白い試みである。観ていてどっちが現れるか、だけでも楽しい。どちらも個性的で優れた女優であるため尚更。

セビリアの街では、日常的に爆破や銃撃テロが起きていた。主人公の間近でも。
先ごろのパリやイスタンブールでの惨事を思い浮かべる。
勿論、TVのニュースで知る情報だが、映画における彼らも不快感はあっても危機感は然程なく、人事のような雰囲気で過ごしているようだった。


物語は、まさに物語られる形で進められる。
いきなり一等車に乗り込んだ初老の男が、追ってきた若い美女にバケツの水をぶっかけるところから始まる。
同席した紳士・淑女は当然びっくりして、そこに至った彼の話を長旅の退屈を紛らわすにも聴きたくなるものだ。
その期待に促され(本人も話したいのもあり)語り始めるという形式である。
それで完全に踏ん切れるとでも思ったか、、、。
(列車に乗ったときは、少なくともその覚悟であったことは確かである)。


内容はただもう、男が如何に耐え、尽くしに尽くしても裏切られ、怒って突き放そうとすると女の方が縋ってくるというお噺である。

初老のフェルナンドの関心は、末若き美女コンチータのことだけだ。
コンチータで心が一杯になっている。
金だけは捨てるほど持ってはいるが、ほとんど役には立たない。
思春期の恋と変わらぬ悶々とした状況から抜け出せない。
思いは深みにはまる一方でコンチータの美とエロティシズムの虜となり、他の情報など入ってくる余地もない。
一途で元気で羨ましい面はあるが、とてもキツイ事はよく判る。
誰もが実感でき、同時に呆れはてる、ある意味凄い噺である。

かなりディテールに分け入り紆余曲折が語り尽くされ、しかも関係は一向に進展しないで結局破綻の模様。
こんな話をされたら、そりゃ面白いに決まっている。相客たちの興味津々なこと。
時折、子連れのご婦人は、こどもを客室の外に遊びに出す。
それはそうだ。内容による。


絵的な演出は大変的確で、説得力があった。
2人の女優が恐らく素晴らしかったせいもあろう。
違和感なく、映像に吸い込まれた。
この面白さの質は何か?
内容的な話について書いたが、この監督もヒッチコックやアラン・レネ同様、少なくとも凡ゆるイデオロギーを寄せ付けない。
プロットやテーマもなく、如何なる超越性にも関与しない姿勢が貫かれている。
各シーン、各要素が技術的な追求によって出来ている。
2人の女優の起用もその要請のうちのひとつだと思えてくる。

こういった作品特有の、シュールなリアリティを強く感じた。


結局、最後は列車を降りて、また彼女に付きまとっているではないか、、、。
背後で爆破テロがあろうが、そんな現実彼らにとっては関係ない。





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サイコ

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Psycho
1960年アメリカ
アルフレッド・ヒッチコック監督

アンソニー・パーキンス、、、ノーマン・ベイツ(モーテル管理人のサイコ)
ジャネット・リー、、、マリオン・クレイン(ヒロインというかシャワー室で殺される女性)
ヴェラ・マイルズ、、、ライラ・クレイン(ジャネットの妹)
マーティン・バルサム、、、アーボガスト(私立探偵)

ちなみに
1998年のガス・ヴァン・サント監督によるリメイクも観た。

ヴィンス・ヴォーン、、、ノーマン・ベイツ(モーテル管理人のサイコ)
アン・ヘッシュ、、、マリオン・クレイン(ヒロインというかシャワー室で殺される女性)
ジュリアン・ムーア、、、ライラ・クレイン(ジャネットの妹)
ウィリアム・H・メイシー、、、アーボガスト(私立探偵)


何とリメイクとはコピーであった。
オリジナル作の忠実なカラー再現となっていた。
これはこれで凄い。
ここまで徹底するのは、度が過ぎている感もある。
間の取り方が、僅かに異なっていたりするが、それはリメイク版の方がディテールに詳細であるからか。
殺され方が時代性もあってのことか、より酷い逆に言えば即物的ー生理的な演出にはなっている。
(マリオンの瞳孔が開いていくシーンは面白い)。
役者は、アンソニー・パーキンス以外ではリメイク版の私立探偵に味があったが、それ以外はどちらも微妙であった。
不動産屋の社長が両者雰囲気がそっくりだったのには驚いた。

しかし見終わって、そもそもリメイクする理由が分からなかった。
(身も蓋もないか)。
通常はカラーより白黒の方が格調高いものであることが多いが、これはカラー作品もかなり良かった。
逆に、ここまで質的に近いものであれば、何故また撮り直す必要があったのかと思ってしまうものだ。
2作観ても、1作語れば用の足りるものか。(ヒッチコックの手法について語るだけのものになろう。とは言え多くを語る用意もないが)。


基本的にヒッチコック監督の姿勢は、「北北西に進路を取れ」と変わらず、ギリギリまで余分な動きや台詞、音、心理、感情を削ぎ落とし、技術的な追求で各要素を究極的なフォルムに作り上げてゆく方向性であろう。
また、ここでも不在のモノが、最後まで物語を禍々しい闇の権力で動かし続ける。
それは前半から現れる鳥の剥製の触感として、窓越しの人影としてずっと物語の基調をなし、最後のノーマンの母の姿に極まる。
ピーナツだろうか、ノーマンの動揺を表す心理小物の演出などは流石に気が利いている。
高台にある古く気味の悪い屋敷の姿は、あらぬものを内包する大物演出装置であろう。
ピーナツ食べながら黒い沼に沈んでゆく車を、われわれはノーマンと共に息を殺して見守る。
ほっとして、多分両者に笑が浮かぶ、、、。

この映画を特に印象的なものに染めているのは、ヒロインと思しき女性が中盤までに、惨殺されてしまうところか。
彼女をその時間流に誘い込むのが、ワイパーが効かぬ程に視界を奪う大雨である。
いやその前に自らマリオンは、罠(会社の現金の束に目が眩む)に掛かっていた。
信号待ちの交差点で社長に出会った時が、「戻る」最後のチャンスであったはず。

本作品以外にも、ヒロインが中間で殺されるものは確かにあるが、この映画はその先の展開にも淀みがない。
マリオンの跡を追う探偵もあっさり殺され、彼女の妹と恋人が事の深刻さを悟り、安否を探り深みに入ってゆくが。
ノーマンという存在の闇は、彼らの価値観や想像を絶していた。
その異質性、人格の解体した存在自体の苦悶はマリオンにも微かに感じられ、身の危険も察知していたが、、、。
アイデンティティが「母という死者」に乗っ取られた空虚の中心に、姉たちは抗いようもなく吸い込まれてしまったのだ。
会社のお金を着服するなどという日常的私欲などとは、次元の異なる「罠」に彼女らはハマってしまったと言える。



心理学者のご丁寧な解説は充分なものだった。
「羊たちの沈黙」「アイデンティティ」に連結してゆく物語の始まりであったことに違いない。

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北北西に進路を取れ

North by Northwest

North by Northwest
1959年アメリカ
アルフレッド・ヒッチコック監督


ケーリー・グラント、、、ロジャー・ソーンヒル
エヴァ・マリー・セイント、、、イヴ・ケンドール
ジェームズ・メイソン、、、フィリップ・ヴァンダム

無駄のない非常に洗練された演出を感じたものだが、落ち着いて考えると純粋に技術的に幾何学的に構築されたシーンの集合体だと分かる。
思い起こせば最初のタイトルクレジットが、平行線と垂直線の交差を斜め上から俯瞰するニューヨークの高層ビルに移り変わるところから、この映画の構造が透けていた。

マッチやハンカチのロゴマーク"ROT"のデザインは抽象的な主人公の名刺に打って付けである。
高層ビルから見下ろす地上の幾何学的模様が象徴的なイメージへの変質とともに黄色い主人公の乗る車が発進してゆく。
交差点、幾つもの直線、方向(矢印)幾何学的な迷路を登場人物たちは巡る。
途轍もなく広大な埃っぽい平地を猛スピードで真っ直ぐに走り去ってゆく車。
そして怪しい予感を白く振り撒きながら地平線上をゆるゆると飛んでくるプロペラ機。
白昼の悪夢が機械的に舞い降りては主人公に襲いかかる。
様々な悪夢ー誘拐、逃亡、罠、恋、殺意が連鎖してゆく。
最後は4人の大統領が彫り込まれた夜のラシュモア山での悪夢。
言葉や文字、タイミングを図っての逃亡が、息詰まる滑りやすい足場の巨大な岩肌を渡る逃亡へと。

この逃亡劇、高みからの俯瞰構図と上下の運動が多かった。
これは格別重要な要素だ。

主人公は日常の文脈から唐突に引き剥がされる。
そしてありもしない虚構の時空間に放り込まれる。
カプランという不在者の名とソーンヒルという実名の間を行き来しつつ。
やがては何を演じているかも判然としない存在(演者)となる。
ずっと絡み合うことになった密輸組織のボス、ヴァンダムにも指摘される。
「お前はレパートリーが広いな。」
不思議の国のアリスみたいに発狂した時間流に乗って、分岐点を飛び移りながら流れてゆくしかない。
そこでは、このような時間のなかでしか、生じようのない、恋も燃え上がる。
案外、列車を降り日常時間に接続したところでスイッチを切ったように、終わる恋かも知れないが。

目を離せない生理的に吸い込まれる映画だ。
最近、この感覚の映画を観た覚えがある。


言葉やディテール、ショット・カメラ、編集による要素を如何に効果的に作り込むか。
大変システマチックに生み出された映画のエクリチュールそのものを魅せられた思いだ、、、。

エヴァ・マリー・セイントは、このアーティフィシャルな映画にピッタリ合ったヒロインであった。
ケーリー・グラントも「サンダーバード」の人形に見えるところもあってよかったのだが、もう少し人間の体温を感じさせないタイプの俳優が合っていたと思う。
リメイクするようなことがあれば、音楽はクラフトワークがよい。


確かにこれは、「去年マリエンバートで」の先駆的位置にいるのかも知れない。
質感からして似ている。


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腰を痛める

kuzukiri.jpg

あまり書きたくないことだが、今日一日腰が痛くて、ずっと動けなかった、、、腰痛である(苦。
母の友人が訪ねてくる日であり、と言っても大学時代の友人で60ウン年振りの再会!で、わたしも顔を出すことになっていた。
お子様御夫婦とお孫様にも是非会いたい、ということである。
これまで、ずっと電話と手紙だけのやり取りで、繋がっていたらしい。
死ぬ前に是非、会っておきたい、とのことだそうだ。
確かに、健康保険が切れて、お祝い金などもらった後、どうにも寄る辺ない気持ちに居たたまれなくなるものか。

わたしは、寧ろ自分の不安より娘の心配の方が先にたってしまうだろうが。
その時になってみないと分からない。
何とも言えないことだ。

そんな訳で、娘が後で言うには、同じ会話を20回位繰り返しながら話が進行していったらしいが、わたしは寝ていた。
途中で、娘のピアノの音がしたが、一曲ずつしか弾かなかったようだ。
もっと弾けばよいのに、と思った。
(ピアノ発表会用に2曲は少なくとも暗譜しているのだし)。
やはり、話の方が盛り上がっているのか。

退屈のため、ベッドに寝ながらノートパソコンで「ボーダー」を観た。
しかし、退屈さが紛れない。
話の面白さが上手く掴めなかったのだ。
ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノの刑事ものでの共演である。
何か物凄く、グッとくるものを期待して観てしまったのだが、サッパリ分からん、ものだった。
これは観ない方がよい映画であったかも知れない。
知らないでいた方がよい事は、世の中確実にある。
枯れた渋みも、思わぬ衝撃も、驚きの展開もなく、ちょっとワザとらしい(ミスリードを誘おうとする)演出などに辟易した。
ヒッチコックのような面白さは全くない。
(もしかしたらこの映画、ふたりの名優のためにも作らない方がよかったかも)。
かえって疲れた。

体勢を変えて寝ると、下からとてもご丁寧な帰りの挨拶が聞こえた。
これは、もうわたしの出る幕はないと思い、そのまま寝ていることにした。
挨拶だけでもしに降りようと思っていたのだが、タイミングを逸したと思った。
しかし、何故かその後も会話が聞こえてくる。
どうやら玄関に行くまでの間での立ち話に想える。
別に玄関までの距離があるわけではない。恐らく席を立ったところで何かの話が蒸し返されたに違いない。
これは、下手をすると映画よりサスペンスかも知れない。
少し聞き耳をたててみたが、話の内容までは掴めない。
いつも煩い娘達が、今日はやけに静かなのも解せない。
下で何が起きているのか。これは、ミステリーの方か。

確かに「今日はお招きいただき、ご馳走になってしまい、ほんとうにありがとうございました」という声を聞いてから大分経つ。
声は静まってきているのだが、誰かがいる気配はしっかり続いている。
見えなくとも存在感がひしひしと伝わって来るのだ。
いよいよどうなっているのか、とっても気になって、思い切って下に降りることにした。
腰を僅かでも捻るとかなりの痛みだが。

すると何ということか、母と同じくらいの年格好の真っ白い髪のご婦人がいま帽子を被りかけているところではないか。
まだ、玄関にすら出ていなかった!
帽子を手に取り、被る間の時間を、何か話にでも費やしていたというような格好だ。
恐らく、時間の進み方が違うのだ。
SFの世界に近い。
娘たちもその時間流に乗って、お客様にお気に入りのリカちゃん人形の説明を真剣にしていた。
わたしの姿を見て、又ご丁寧なご挨拶を頂き、わたしも負けじと丁寧に返す。
「是非又お越し下さい」と最後に付け加え、、、。
ご婦人は駅まで母と一緒にゆっくりと静かに歩いて帰っていった。

市役所通りの桜並木が完全にトンネル化しているところがいたく気に入ったらしい。
「道路が何て素晴らしい」を連発していた。


お土産はかなり高級そうな葛切りであった。
娘たちは大概、ケーキ(洋菓子)を予想している。
洋菓子はバター、卵、生クリーム主体で高カロリーであり、わたしが思い切り食べられない(笑。
こういう味もそろそろ覚えさせないと。 


暗殺者の家

The Man Who Knew Too Much

The Man Who Knew Too Much
1934年
イギリス
アルフレッド・ヒッチコック監督

レスリー・バンクス、、、ローレンス(ベティの父)
エドナ・ベスト、、、ジル(ローレンスの妻、ベティの母)
ピーター・ローレ、、、アボット(暗殺団のボス)
ノヴァ・ピルブーム、、、ペティ(娘)


ヒッチコック監督がアメリカに行く前の、イギリス時代の作品。
76分であった。

予め尺に制限でも合ったのか、内容的にそうなったのか、短い時間で簡潔にテキパキと進む映画であった。


特異な場面こそなかったが、、、トーキー特有の動きというか、その質感がアーティフィシャルなものに感じられた。
特に娘が誘拐されたことを知り、クルクルと回って気を失うヒロインの所作など、、、。

そして何よりピーター・ローレの風貌とアクのある身振りが味わい深かった。
「M」でも見事な怪演を見せていたが、ここでも怪しくユーモアを湛えた毒気たっぷりの暗殺団のボス振りである。
「白熱」の狂気スレスレのジェームズ・キャグニーと東西両横綱を張ってる感じに思える。


題材的にはありがちな、秘密(要人の暗殺計画)を思わず握ってしまったために巻き込まれるサスペンスものである。
娘を拐われ、警察に喋れば命はない、と。
物語は、止むを得ず父と射撃名人の妻との2人で娘の行方を探る、スピーディーな展開で進む。


射撃が伏線となっている。
最初ジルとサンモリッツのクレー射撃大会で、腕を競い合った名手が、暗殺団のスナイパーであり、最後に人質にとった娘を屋根の上まで追い詰めるも、母ジルに撃ち落とされ、締めくくりとなる。


銃撃戦は尺の割にタップリ取られており、想像以上の過激さであった。
はじめ警官たちは銃を携帯してはおらず、近くの倉庫からトラックで運んで来るところも面白い。
撃たれるまでは、取り敢えず丸腰が決まりなのか?

犯人たちの閉じ籠る建物の玄関をノックした途端撃ち殺される警官。
ブラインドを何気無く下ろした瞬間に撃ち殺される警官。

撃ちまくり状態が過熱し双方が次々に倒れていく。
弾丸のある限り終わらない機械的銃撃戦の體をなす。
数から言っても、暗殺団の消耗(不利)は時間の問題であった。
ボス、アボットも警官を扉でいきなり撃った事を後悔しスナイパーをなじる。
教祖役の女幹部が、切れた銃弾を運んできた途端に撃ち殺される。
アボットもこの辺に来ると、諦観を匂わせる。
人質少女を盾に逃げる最後の手段を講じようとするが。
結局それは彼女の母に阻まれ、彼は自殺に追い込まれる。
踏み込む警察。
扉の後ろからピーター・ローレが独特のオーラを放ちつつ崩れ落ちるところなど、特に魅せる。

他にも印象的なシーンは幾つもあった。
歯医者のシーン。
ローレンスが暗殺団メンバーの歯医者を逆に眠らせ、娘の居場所と暗殺場所を特定する。
歯がむず痒く感じる、なかなかハラハラさせるシーンだ。

奇妙な新興宗教を隠れ蓑にした暗殺団との格闘シーン。
まさか椅子の投げ合いになるとは。
意外であったが、銃声をアボットが気遣っていることが分かる。
父親ローレンスは娘ベティと一緒に捕らわれの身となってしまう。
最終的に間一髪で2人は部屋から抜け出すが、今一歩逃げ切るまでは行かなかった。

電話の掛け合いシーン。
ここは間一髪のタイミングでローレンスが暗殺場所を妻ジルに伝えることが出来る。
情報戦で暗殺団が素人に引けを取ったのは痛かった。
これが結果的に彼らの決定的な敗因に繋がってゆく。

アルバート・ホールのコンサートのシーン。
シンバルの音に合わせて要人を暗殺しようとする場面でジルが会場に大声を張り上げ、弾丸を僅かに逸らせ未遂に終わらせる。
アボットの怒りは、ストレートには出さずともレッドゾーンに来ていることが分かる。
尾行もされて、窓の下には警官だらけではないか。
追い詰められても何処か余裕を装う彼の振る舞いは粋でもある。

やはりどうしてもピーター・ローレにばかり注目してしまった。


しかしどのシーンも、簡潔で無駄がなく、様式の誕生期の味わいがあった。
古典の名作もたまには観たい。
そういう気持ちを起こさせる作品である。

The Man Who Knew Too Much02

「新世会展」を観た

もう38回目の展示会だそうである。
北海道出身者の集まりであったが、長いあいだのメンバーの入れ替わりで、もう固有の地域性はなくなっているらしい。
アマチュアの絵画展というと、何かのついでに入ってみようかとフラッと入ってサッと通過して出てくることがほとんどだ。わざわざ招かれた知人の展示会でもそうだった。直ぐ後で口直しがしたくなることも、とても多い。
しかし、入ろうとする時点で、何かあるのでは、という期待はもっている。
今回もそうである。

入ってみて、感じた空気は思いの他良かった。
革新的な驚きや居心地の悪さ、不安さはないが、単なる自己満足なお絵かきでは全くない。
はっきりと人に見せるべき絵が並んでいた。
つまり再現性を追いかける途上で息絶えた感じの絵ではなく、再現の先にベクトルの向いた形象を探る表現になっている。
わたしは、こういう展示会は結構好きだ。
映画(勿論様々なものがあるが)を観る心境にも似ている。

言い方を変えると、(伝統)工芸品を見るような一定レベルの技術による安定した完成度と間をもった作品群であり、その空間を自分の生きられる時間として共有できるものであった。
実はこれがなかなか日常空間では不可能なのだ。
自然や日常的な事象を異化し、咀嚼しやすい形で提供する芸術の側面が機能している。


噴水の幾つもある公園の長い並木道を歩いてみても、それだけではたかが知れている。
もう一歩踏み込んだ加工ー芸術化が欲しいと思えることはある。
インスタレーションか、、、。
勿論、公園であってもディテールに踏み入れば、異化した時間性のなかに溢れ出る余地は開けてはいる。
不思議の国のアリスのように。
しかしどちらかといえば、ティム・バートンの映画でそれを体験した方がより刺激的である。(又は容易であるのか、、、恐らくそちらの方であろう)。
そのため、、、わたしはちょっと苦手な映画鑑賞を日々していると言えるか。


光の反射効果を禁欲的に活かした稠密な水面シリーズや単純化と省略の効いた装飾的平面画像や充分熟れた太くて短いタッチの重層により作り出される量感ある風景画、、、などは充分に心地よい。
それぞれの作品を個別に見ても、感じたのはまず作者止まりの満足ではなく、鑑賞者に差し向けられた距離であり、記憶を刺激する身体的な馴染みであり、触知的な心地よさであった。
また、グループで切磋琢磨して得られるものを感じたものである。

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遠い空の向こうに

october sky

October Sky
1999アメリカ
ジョー・ジョンストン監督
ルイス・コリック、ホーマー・ヒッカム・Jr脚本
NASAエンジニアであるホーマー・ヒッカム原作「Rocket Boys」から
October Skyは、「Rocket Boys」のアナグラム。なる程、お洒落だ。

題は、この素敵な”October Sky”のままがよい。
どうにもならない現実において、宇宙という意味、その抽象的価値とは何か、を深く思い知る。

ジェイク・ギレンホール、、、ホーマー・ヒッカム
クリス・クーパー、、、ジョン・ヒッカム(父)
クリス・オーウェン、、、クエンティン・ウィルソン(科学オタクの変人扱いされているクラスメート)
ローラ・ダーン、、、ライリー先生(31歳で亡くなる科学の先生であり恩師)


青空に吸い込まれるようにロケット(ミス・ライリー号)が天高く真っ直ぐ飛んでゆく姿を見守るだけで、、、
胸が熱くなる。
そんな映画だ。
いやそれ以上であった。

卒業すれば炭鉱で働く以外に道のない街の、高校生4人が努力の果てに打ち上げたロケット。

価値観も何もかも違う、それを見上げるひとたち、、、。
様々な気持ちをいっぱいにして、同じ憧れの眼差しを天に向って引かれる、果敢なくも健気な線に集中する。
ロケットが吸い込まれるのではなく、人々のこころが吸い込まれてゆくのだ。
ひとつの熱い思いに導かれて、、、。

自分の知らぬ新しい世界に旅立ってゆく、息子の決意を見守る父。
手塩にかけた生徒の確かな答えを、病窓から確と見詰める命尽きようとする教師。
技術面を陰日向で支えてきた父の理解ある部下。
厄介者扱いしてきたが、漸く彼らの素晴らしさに気づき応援する校長。
そしてこれまで、彼らを嘲笑してきた多くの街の人々。
ロケットが上空から消えるまでのほんのひと時、彼らはひとつになり、やがて打ち上げ場の空き地が祝福の色に染まる。
感動の笑みがひろがる。

ここに至る前から、わたしは溢れる涙を堪えきれなくなった。
映画でこれ程止めどなく泣いてしまうのは最近、珍しい。
自分の中に溜まったたくさんの苦しい思いも一緒に洗い流してしまった。
そんなスッキリする思いだ。
とてもベタな、直球勝負の映画なのに、それだからか、、、。


アメリカ映画典型の父子の相克・葛藤から和解(理解)の映画でもある。
貧しい、斜陽の炭鉱街で人生に自由というものが実質ない(元来炭鉱で働く人のためにひとつの街が形成される)高校生ホーマーは、先頃打ち上げられた軌道上を飛ぶソ連のSputnik人工衛星を夜空に眺め、宿命的な衝撃を受ける。

僕はロケットを作ろう。
それは内なる声でもある。
炭鉱はすでに次の石油エネルギーにとって代えられる状況であり、粉塵による健康破壊や落盤、火災の危険と常に隣り合わせであり、若者にとって未来を感じさせるものではない。が、父は彼が後を継ぐことを熱望していた。

ホーマーは変人として孤立しているクエンティンと親交を結び、遊び仲間2人を加えて4人で、日夜ロケット開発に挑む。
しかし狭い街であり、炭鉱責任者の頑固一徹の父の理解は当然得られず、奇異の目で周囲から見られつつも、若い科学の先生や父の外国人出稼ぎの部下からの、励ましや協力によりへこたれることはなかった。
彼ら4人は奮起するが、ロケットを飛ばす原理が漸く掴めた頃に、森林火事が起き彼らに嫌疑がかけられる。
しかし、ここでホーマーはライリー先生からプレゼントされた参考書を元に、彼らのロケットの軌道計算をしそれが火元でないことを証明してみせる。

ホーマーは部下を救うため事故にあい負傷した父の代わりに炭鉱で働く事になるが、エレベーターで地下にゆく時に見上げる夜空の星々の煌きが、彼の内面をありありと表していた。
生活のためロケットを諦めかけるホーマーであったが、難病でもう先のないライリー先生からの「自らの内なる声に従いなさい。」という言葉に目覚め、「あなたの活躍が私の生の証となる」と決定的な言葉をもらう。

彼らは期待に応え、全国レベルで催される科学コンテストに参加する。これは、彼らにとり単なるコンテストを超えた職業の自由を獲得する大きな意味も持つ。
ホーマーのプレゼンをもって、彼らは見事優勝を勝ち取り、4人は大学奨学金を得る。


大気圏外にロケットを飛ばすのに2200万馬力必要という話を以前聞いた。
それから見ると実に脆弱なものに感じるが、このような意志と姿勢がロケット開発を進めていったことは間違いない。

ロケットの改良と共に、点火方法がどんどん洗練されてゆくのも面白かった。
最後の打ち上げ実験の時、父親が正装をして初めて現れ、ホーマーはライリー女史やすでに亡くなった協力者などに礼を述べた後に父に感謝の意を直接述べる。そして「よかったら発射のスイッチを押して欲しい」と、、、。
父の顔にはすでに息子に対し、完全にこころを開いた表情しかなかった。


父役のクリス・クーパーが究極的にカッコよかった(笑。


最後に、役者たちが演じた本人の在命中のビデオが流れた。
ただ感無量である。




去年マリエンバートで

LAnnée dernière à Marienbad

L'Année dernière à Marienbad
1961年フランス・イタリア
アラン・レネ監督
アラン・ロブ=グリエ脚本

ヌーボーロマンの旗手アラン・ロブ=グリエの脚本がアラン・レネの手によりほぼそのまま映像化したものだという。
非常に緻密に構築された映画である。

A、、、デルフィーヌ・セイリグ
X、、、 ジョルジュ・アルベルタッツィ
N、、、サッシャ・ピトエフ


「瞳の中に何かがあった。あなたは生きていた。」
XがAに語る。

わたしは、振り返ってみると、ひとの眼を見て生きてこなかった。
避けてきたと思う。だから、あなたが生きていたかどうか、分からないままでいた。
それは同時に、自分が生きていたかどうかも分からないことになる。


舞台は、時間と空間の錯綜する擬場とでもいうべき場所-館と庭園である。
と言っても何があるでもなく、何が起こるでもない。
いや、何も起こるべきではないどこかであろう。

ここで映画は、厳密に映画のエクリチュールの内で進行する。
決してそこを離れた意味はもたない。
プロットやテーマであるとか、教訓、心理、イデオロギーなどの超越性に接続しない。

広大なフランス式庭園をもつ陰鬱で豪奢な館での舞台劇からいつも始まる。
しかし、どこから始まろうが意味はない。
時間はバラバラな夢を繋ぐように切り貼りされ、視点はAとXの間を彷徨うのみ。
ただ視点が存在すること自体が、奇蹟でもある。
それ以外の視座は芽生えようがない。
館に集まる夜会服の人々は皆、幻影だからだ。
よって「映像そのものが生の時間」である。

硬直する人々。
飲食せず、眠らず、魂の感じられない彼らは、まさに夜に目覚めるオルゴールの人形のよう。
なかでも精巧に出来ているのは、Nか。
カードさばきの正確さはまさに機械である。そして絶対にゲームに勝つ。この館の歴史に精通している。
彼は、その強度からAの夫かも知れぬ存在らしい。

どうやら、話は壁に掛けられた一幅の絵から自動的に生じているらしい。
場所に纏わる幽霊が一時その絵の世界を模倣してゆくのか。
長い廊下や高い天井には姿なき声が木霊する。
舞台劇が始まり、その再現~続きをふと現象化した彼らは演じ始めてもいる。
ひと時をナンセンスな討議や虚ろなお喋り、必ずNの勝利するゲームや射撃に興じ、やがてシンと静まり返る。
広大な庭園に立つ立像たちの如く。
それが際限なく反復されてゆく。
これは、一体何なのかも問うものは勿論いない。

ただ、その得体の知れぬエネルギー体の中のゆらぎのようにたち現れるXは、そのエクリチュール(決してコンテクストではない)から超脱を試みる。
何故かは分からない。
ドラマを必要とするからか?
いや恐らくどのような系においても、そのような現象は又は変異は起こるのだ。
BIGBANGのように。

Xは、周囲の彼らの瞳を見る意思をもってこれまで何度も生じてきた。
そしてAに「生」の兆候を確認する。
いや正確に言えば、Xの志向性に対しAが身体的(無意識的)に呼応したのかも知れない。
Xは、彼女に「去年関係を持った」事(物語)を何度も説いて植え付けようとする。
その言葉によって、彼女に動揺を与え、意識と記憶を懐胎させようとする。
彼女はその「事実」を否定し、撥ね付けるが、それは決してその記憶を抑圧しようとか、嘘に憤慨しているのではなく、あくまでも記憶をもつという体験、精神の目覚めに怯えているのだ。(それは死の恐怖に近いものか?)
Xは、彼女との間にプロット=記憶の文脈を捏造しようと交渉を繰り返す。
それによって、この物語に並行する亜時間が生成され、そこ(別の宇宙)に共に展出できるからだ。
しかし、彼らには作動時間の制限がある。
幻影人形は、一時の祝宴?を終えると消えてしまい、XはまたゼロからAの覚醒に挑まなければならない。
机の引き出しに夥しく貯まってしまった「Aの庭園での写真」がその無残な挑戦を物語っている。

XはAと一緒でなければ、ここを、この世界を脱出できないのか。
恐らくそういうものなのだろう。
意識は対象を必要とする。

Nは、その写真の存在に気づき、Aに問いただす。
Aは、すでに自我をもっており、曖昧に応える。
以前も、Xに対し「愛してるなら、ここから消えて」と言って、Nの監視から逃れていたことがあった。
Nは射撃場に行くふりをして、権利上この世界の秩序を守るため彼女を銃殺する。
彼はこの世界のゲームを司る存在なのだ。
しかし、時間は複雑に切り貼りされており、入れ替わる。
Xもその主体性をもって、それを差し替える権利を持つ。

Aが感情の発露とともにグラスを割ったとき、視点は彼女に移り、彼女にアイデンティティが生じた事が分かる。
その証拠に彼女は気持ちを昂ぶらせ、涙を流す。
細切れにモザイク状に組み込まれたシーンにXのものでない幾つもの「彼女の視点」が存在していることに気づく。
そして、反復の末、XはAを自分の時間に引き入れることが出来、共にその館を出てゆく。
完全な終わりが訪れる。
階段を降りてくる館の主であるNがそれを確認する、いわばカメラによる蛇足的なところで、物語は終わる。


「瞳の中に何かがあった。あなたは生きていた。」
こんなふうに一度でも相手の瞳を見ることが出来ていれば、わたしも違う世界に生きていたかも知れない、と思う。


このエモーショナルな映画は、わたしの身体性にとても馴染むものであった。


LAnnée dernière à Marienbad02
LAnnée dernière à Marienbad003



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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