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GOMA28

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森崎書店の日々

morisaki.jpg

2010年
日向朝子監督・脚本

菊池亜希子、、、貴子
内藤剛志、、、悟
田中麗奈、、、トモコ


菊池亜希子主演映画としては、「よだかの星」以来である。
そちらと違い、所謂映画となっていた。
彼女にもしっくりきていて、落ち着いた自然な空気が流れてゆく。
会社を辞めて身を寄せる神田の古本屋の舞台も、なかなか雰囲気はよい。
わたしも毎週欠かさず通っていた時期がある。
(勿論、秋葉原~神保町を)
しかし、その思い入れを刺激するほどの深入りは無い。
実にさらっとしている。
対象における距離感やディテールがほぼ一定であり、時空間の平板さは感じられた。
主題は、新たな場所と人との交感を通して、貴子の立ち直りを描いてゆくものであろうことは始まりから分かっているものだ。
だが人物描写がいまひとつ弱く、単なる道具立ては、それ以上でもそれ以下でもない。


ホントにこぢんまりとした空間に、持ち越した想念(失恋の鈍痛)は沈殿してゆく、、、。
だから貴子はよく寝る。
しかし、風通しはよく、それ程重くはならない。
適度に距離感をもって、店主の叔父である悟やトモコや本好きの常連が淀みを掻き混ぜてはくれる。
だがそれ以前に漂う爽やかさ。
これは、貴子というより菊池亜希子という女優の個性にも思える。
ただ、「舟を編む」とか「四月物語」と比べてしまうと、何か単調で陰影に欠ける気はする。
主人公たちと本が醸す雰囲気がそれらの作品を連想させてしまうのだが、、、。

主演である悟演ずる内藤剛志と貴子演ずる菊池亜希子とがそれほどぴったりな気がしなかった。
決してどこか悪いわけではなく、演技に問題があるわけでもない。
しかし例えば、「舟を編む」の宮崎あおいと松田龍平のような、これ以外にありえない、みたいなコンビには思えなかった。
それから、カメラ、演出、テンポ、曇ったり晴れたり雨が降ったりの情景の深みであろうか。
「四月物語」のあそこまでの叙情性はここでは必要ないものであろうが、、、。
コインランドリーでの貴子の倦怠の内に自ずと立ち現れるダブルイメージなどは、効果的であった。
この乾いた幻想(白昼夢)やフラッシュバックなど、もう少しあってもよかったかも知れない。
(くどくならぬ程度に)。
淡々とゆっくり描くことを主眼にしていることは、よくわかる。

(元)彼氏が貴子に「ブレード・ランナー」がよいとしきりに言っているのに、わたしSF映画とか見ないし、、、とかあっさり返しているところなど、後半から徐々に好感のもてる女性になってゆくが、結構つまらない退屈な女だなとは思った。
(演じる菊池亜希子氏はエッセイやファッション関係(ライフスタイルの提唱)で多くの信奉者をもつカリスマモデルのようだが)。
何というか、これといって拘りも、何かに強い関心ももたない女性は、やはり引っ掛かりがない。
これでは、付き合ってみても面白くないはず。
単に相手が悪いと断じているが、自己対象化をまずしっかりするべきであろう。
(その後、必要があれば元彼のところに乗り込むもよし。ただし独りで(笑)。


最近、人気の高いモデルの市川沙耶氏などは、相撲や鉄道、フィギュアなどに非常にディープな関心と知識を持ち、更にそこから事象一般へと敷衍する能力を披露している。
そのへんがモテる所以なのだと思う。(菊池亜希子氏もそうである)。

貴子が本を読み始めたら、生気が感じられるようになる。
6000冊古本を抱える狭い本屋に住んでいるのだし、これで本のひとつも読まなかったら、不自然だ。
本は確実にわれわれを深い迷宮に突き落としてくれるが、無明で曖昧模糊とした世界にぼんやり生きていては分からない、形ー構造を示してくれる。枠ー世界を身体的に感知させてくれる。

ここでの貴子も、漠然とした自立の意欲に湧いてくるが、例え意識化されていなくても、「世界に対する手応え」を読書を通して得たのだと推測できる。「本の発見」は大きい!それが古本であればなお趣き深い。(古い本のFetishな魅力ももう少し魅せて欲しかった)。
勿論、叔父悟の優しい励ましや、常連さんの蘊蓄や、トモコの価値を自ら作ってゆきたいという理想が、貴子を揺さぶったことも間違いなかろう。
少し描写は淡白に感じたが、神保町の街自体(カフェなど)もこころを癒す場所であったはず。

最後に貴子は、叔父の元を離れ自活する事を告げて終わるが、本はこの先も手放さないのではないか、と思う。



少し注文を書いてしまったが、菊池亜希子主演としては、「よだかの星」より遥かによかった。
今度、彼女主演の吉本バナナ原作の映画をぜひ観てみたい。


サン★ロレンツォの夜

Taviani brothers

La notte di San Lorenzo
1982年イタリア
パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督

オメロ・アントヌッティ、、、ガルヴァーノ
マルガリータ・ロサーノ 、、、コンチェッタ
ミコル・グイデッリ、、、セシリア


特に突出した演技者はおらず、たくさんの役者が群衆として演じていた。

この兄弟監督に興味をもって観てみた。
パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督、前回の強烈無比な「父 パードレ・パドローネ」で初めて知った。
兄弟監督では、コーエン兄弟は「バートン・フィンク」 、「ファーゴ」などで知っていた(お馴染みであった)が、、、。
兄弟で監督をするのはどういうものなのだろう。監督を共同作業で行うわけだ。
ユイレ=ストローブみたいに夫婦監督もいる。
共同監督だ。
どちらにしても気心は深く知れているだろうし、、、個性もセンスも分かっているし、、、でも共同で作るってシンドくはなかろうか。


~今夜はサン★ロレンツォの夜~流れ星が流れるたびに願いが叶うという。
今夜はあなたにきかせてあげたい。ずっと昔のサン・ロレンツォの夜を~


第二次大戦末期のトスカーナ地方である。
村を破壊しつつ撤退するドイツ軍から逃れ、アメリカ兵との接触を求めて彷徨う主人公たち一行の姿が陰影を込めて描写される。
彼らは、次々にドイツ軍の爆破を受け大切な仲間を失う。教会の爆破で新婚の妊婦が殺され担ぎ出される折り、その母親と神父との対峙する姿は、彼らの追い込まれた極限的状況を見事に表していた。
「自分でやります!」という母に、神父はただ力なく腰を落とすしかない。
信仰の力ではどうにもならない、あからさまな現実がはっきりあった。

しかしこの物語の構造は、母親の少女時代の視座から半ば御伽噺めいた口調で語り聴かせるものである。その世界は、基本的に毎日が「楽しい」のだ。目の前で人が殺されても、卵をお尻で押しつぶしてしまっても、ドイツ兵にコンドームの風船をもらっても、様々な経験なのだ。そこに戦争にどうしても過剰に押し込められる重々しいイデオロギーのフィルターは感じられない。
悲惨な戦争の実態が描かれてゆく映画ではあっても、独特な明かりと軽やかさを感じさせるもので、昨日見た映画に共通する雰囲気を湛えている。
この独特の孤高で結晶化した雰囲気こそがこの監督(たち)の基調を成すものだろう。

アメリカに渡ることを願い、独りで飛び出した若い女性がドイツ兵に撃ち殺される場面での、幻想の儚い美しさ。
あのように死ぬときは、きっと全てが叶ったかのような幸せな幻想に包まれるのだろうとリアルに感じるものだった。
ビザンチンの甲冑を着た戦士たちが、ファシストの戦士をたくさんのヤリで射殺す幻想など、象徴的で寓意的な場面が散りばめられ進行してゆく。
語り部の少女の心象が煌きながら描写される。
(これは、語るとしたらどのように語るのか、、、)。

途中でパルチザンと合流する。
彼らは皆、稲刈りをしてひと時を過ごし、そこに残る者は新たな名前を持つことになる。
そして、例の願いが叶うというサン・ロレンツォの日に、ふいに黒シャツのムッソリーニ親衛隊と交戦となる。
敵も仲間もほんとうに呆気なく撃たれ、呆気なく死ぬ。しかし敵と味方といっても同国人同士だ。昔馴染みもいたりする。
西部劇みたいなスリリングなリズムもない。そう、何とも間が悪いのだ。
麦畑で突然対峙して、そこでドギマギしてようやく撃つ。決して手馴れた早撃ちなどではない。
老人が鍬を振り上げたはよいが、それが藁の束に刺さり、引き抜こうとしているところを後方から撃たれたり。
ファシストの妙な親子の奸計にはまり、パルチザンや主人公たちの仲間が殺される。
当然、息子は父親の教育(洗脳)で相手を欺き、殺す仕事を覚えてきたはずだ。
親子である以上、選択の余地もなかろう。
この監督は、このような宿命の父子を描かずにいられないものがあるのだろうか。

昨日は、自分たちを名前で呼んで働かせてくれるドイツに移民で出てゆく夢を描く場面などがあったが、、、ここでは、ドイツは信用出来ない敵であり、主人公たちはアメリカ兵に助けを求め当てのない旅をしている。
昨日の少年は、無知蒙昧な奴隷的状況からも、研ぎ澄まされた感性と感覚によって、それはまた音楽による覚醒から自身を救った。
今日の少年には、その機会もなかったようだ。
映画には、ヴェルディの「レクイエム」が流れていた。
彼はパルチザン側に見つかって、射殺される。ファシストの父親もそれを目の当たりにし自殺する。
どうも、父子の関係は析出してくる。(あくまでエピソード的扱いだが)。


しかし一晩が過ぎ、自分たちの村の解放が告げられ、、、
窓を開け放てば、雨に煌く陽光と麦。
世界は只管、澄み渡って涼やかであった。
大人たちの心象がこの少女と同様のものとなる。


生き残ったものたちは皆、帰ってゆく。



La notte di San Lorenzo

父 パードレ・パドローネ

Padre Padrone

Padre Padrone
1977年イタリア
パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟監督・脚本
ガヴィーノ・レッダ原作(彼の自伝)
まさしく「父」である。家父長制がどうのという以前の問題である。超絶的な父と言える。

オメロ・アントヌッティ、、、父
サヴェリオ・マルコーニ、、、息子(言語学者)
ガヴィーノ・レッダ、、、本人(冒頭と最後に出演)


これほどの名作をまだ観ていなかったのだ、、、。
わたしのこれまで観た映画のベスト5には入る。
監督としても、タルコフスキー、ベルイマン、ユイレ・ストローブ、ゴダール、小津、溝口、ヴェンダースなどに引けを取らない存在と感じた。
これはとてつもない映画であった。
最近、映画を観る事の苦痛が募っていたのだが、こんなに素晴らしい作品がある事を知って、また観てみようという気持ちにも少しなってきた。(探してみよう、、、であるが)。

わたしは、羊飼いになるとはどういうものか、この映画を見て初めて知った。
牧歌的とは程遠い。


寓話的な出だしで始まるのだが、、、。
突然小学校から父に連れ出される6歳の主人公。彼は羊飼いの仕事で強制的に独りで山に暮らす事になるのだ。
幼い少年が義務教育すら受けられない。父には殴られ放題殴られる。
イタリアのサルデーニャ島を舞台に、貧しい羊飼いの子として生まれ育つ主人公の辿る過酷な物語である。
後に言語学者となる主人公であるが、20歳過ぎても全くの文盲であった。

頑迷な支配者である父を「エル・スール」「湖のほとりで」でも名優振りを魅せていたオメロ・アントヌッティが圧倒的な存在感を持って演じる。
まさに乾いた極寒の自然そのもののような支配者である。
人を育むと言うより、家畜のように小さく飼い慣らそうとする。
しかし血の絆は容易に断ち切れるものではないのだ。
と言うより、断つものではないのかも知れない。
父(父性)とは何か?
わたしも未だに分からない。
少なくとも主人公は力関係では逆転した時点であっても最終的にそうしなかった。
親子(父子)の関係とは、単なる呪縛を超えた自然のように険しく根深い強固なものなのだろう。
(何らかの意味を持った、いやそこに意味を見出すべき、、、)

父だけではない。
その土地である。
何故これほどまでに酷い目に遭った土地ー記憶に拘るのか。
ドイツに移住しようとし父の奸計のよってその地に引き戻され縛りつけられてもいる。
父の命令で本土の軍に入隊し、ラジオ技師となりその際、独学で標準語を身に付け、小学校、中学校、高校の卒業資格を取る。
しかし自らの意思で除隊し、故郷の島に戻り父の元に帰ってくる。
だが父は彼を認めず、ただ過剰な仕事を彼に押し付ける。
過酷な環境下の肉体労働しか認めない父のため彼は大学入試に落ちてしまう。
そもそも何故、彼は軍隊に残らなかったのか。
少なくとも、大学入試まではそのままいた方が楽であったはずだ、、、。
きっと生まれ故郷でこそ自らの本当にやりたいことができると信じていたのだろう。

結局、このままでは父との殺し合いなることを悟り、本土に戻り勉強を続け言語学者となるが、再び島に戻ってくる。
どうしても彼は戻る必要があるのだ。
彼の身体性がこの過酷な島ー自然に分かちがたく結びついているのだ。
どれだけ教養と知性を高めてもヒトの自然の部分は大きな基調となって彼を支配するのだろう。
最後に本人が語っている。
「わたしはこの土地に戻らなければ研究を続けられなかった。」
そういうものなのだろう。
人間とは不条理なものだ。自然がそうであるように。


彼が幼い頃から自然界の「音」に対する感覚を研ぎ澄ましてきた経験からであろう。
この映画の大変印象深い場面は、特に音に関連している。
演出も夜の自然の恐ろしげな物音や木の葉の葉擦れの音から動物や人々が揃って欲情する音など際立つものであったが、特にアコーディオンの音色に強烈に惹きつけられ、羊2頭と壊れたアコーディオンを交換したところである。
結局、そのアコーディオンでも彼は優れた音感で曲を弾きこなしている。
アコーディオンの曲にはフルートも絡んでいた。
グレゴリオ聖歌やモーツァルトのクラリネットの協奏曲なども挿入されていた。
もう一つは終盤、彼がラジオでフルート協奏曲を鑑賞している時に、父からラジオを消して出てゆけと怒鳴られ、逆に大きくするところである。
怒った父は殴りかかり、ラジオを取り上げ流しの水に沈めてしまう。
音が途絶えた後彼は、何とその曲の続きを口笛で吹くのだった。

この「音」に対する感覚が彼の言語学の研究に役立ったことは間違いない。
サヴェリオ・マルコーニの熱演素晴らしかった。

最後の本人の淡々とした生の語りも、大変興味深いものであった。


この映画いつまでもわたしのなかに残ってしまいそうである。



2度目の小学校運動会

undoukai002.jpg
上を見上げたくもなる、、、。

小学校2度目の運動会になる。
早朝、割と涼しいなかに、始まった。
応援席は前から2番目を取った。
1箇所、1番前が空いていたのに気付いたが、前年度次女の担任の先生にバッタリ会い、話をしているうちになくなった(笑。
(その先生は他の学年に移ってしまたが、元気そうで安心した)。


娘が登場するのは、3つあるのだが、最初の1つめの創作ダンスは、遂に長女が最後まで見つからず、次女も見つけたはよいが、動きが速くて4枚撮るのがやっとであった。そのうち1つは後ろ姿である。
ゲッツ&ターンなのだ(爆
動きの速さだけでなく、ポジションが大きく移動するためスパイダーマンかスーパーマン頼むしかない。
撮影場所をその都度確保することは、大変難しい。足場も無いという感じだ。
演目によって、見る場所は確実に変わるのだが、実際移動はままならない。
トラックの周りをドーナツ状に物凄い密度で人がひしめく、、、。

開門前から並んで取った場所は、取り敢えずの家族の集合場所であり、休憩場所にはなったが、演技を見る場所とはならなかった。そこからは、娘は何処で何しているか分からないのだ。
来年度は、何処であろうと1番後ろに場所を取ってテントを張り、折り畳みの椅子も隣に置こうと思う。
単なる詰所であり、演目の時だけ飛び出して行く基地というおさえである。
晴天で暑い場合はその方がずっと良い。
今年は曇天の為、テントが無くても大丈夫であったが、前から2番目の場所に特に何の意味もないのだ。


バックミュージックに、流行りの新しい音楽がかなり使われていた。
親たちもみんなノリノリだ。児童も楽しそうなので、言うこと無い。
わたしはここのところずっと、ヴェルヴェット・アンダーグランドに浸かっていた。
彼らの毒気のある依存性ある綺麗なメロディとノイジーで暴力的サウンドに麻痺していたため、BGMが何か異質な効果音にも聞こえた。
ふと目が覚めた感はある。


徒競走こそ、自分の娘が走るとき以外見処は無い。(ダンスはどこの学年のものも楽しく見れるものだが)。
娘が多少なりとも速く走れるようになったかどうか確認できる機会である。
しかし、ゴール近くに何とか捻じ込んで入り込んで見たが、走順を聞くのを忘れていた為、全く何処で走っているか、またも分からなかった(爆。
わたしは、最近かけ始めたメガネのせいで、ファインダーを見るようにすると遠方の確認が取れず、遠方を見れるようにすれば、ファインダーがサッパリ見えないのだ。
結局2年生全レースを盲滅法撮ってみた。1レース3回シャッターを押しただけだが。
しかし6走者全員の幅は一度に上手く入らない。次女は1コースと聞いていた、、、。
調べてみると、、、長女しか写っていない。次女はフレーミングに消えてしまった模様。
しかし何と写真に撮りにくい競技か!運動会自体がそういうものか?(視力の問題が大きいが)。

写真からスッパリ解かれよう。
それがいい。

そう運動会とはみんなでピクニックみたいに楽しくお昼を食べる機会なのだ。
食べる前に運動してお腹を空かせて、美味しく食べましょう、という特別なパーティーなのだということにする。
特に気を揉む必要は無い。

お弁当は、昨日買い出ししておいたものが、全部出ていた。
わたしとしては、 メロンが1番美味しかったが。(元も子もないか?)
徒競走は、長女が3位で次女が2位だったようだ。
幼稚園の頃はビリから2番目位だったりしたから、少しは走れるようになったとしたい。
すぐ隣のご家庭に聞くと、どうやら子供のソックスに工夫を凝らしているそうだ。
光るソックスとか特別目を引く柄を配しているらしい。丈も長いものにするとか。
(後で台風の目を確認すると、凄い特徴あるソックス履いている子が確かにいるではないか!)
そういう手があるのだ。参考になった!
そのお家にお弁当のお裾分け。
エビフライと肉団子が返ってくる。
2人ともよく食べた。


午後の団体競技。ネーミングからは分からなかったが、何と懐かしい台風の目ではないか。
一緒にやる仲間との力加減のバランスが取れないと上手くちゃんと走れない。
1人が速くても駄目なものだ。かなり微妙な身体の協調関係が必要となる。

案の定、転ぶ子が幾人も出る。
こういう場面で協力の精神が育まれるのかどうか、、、。
うちの子は、次女が僅かに写った。(まだ写真に拘る(笑)。
「運動会」
やってることの全体は伝わるが、我が子-ディテールはほとんど捕らえられない1日であった。
もどかしい。


長女は先日、転んで顔をかなり怪我した。
転んで何で顔を怪我するのか聞くと、ともかく顔から地面に着いたのだと。
手は何の為にあるのか、じっくり話し合う事となった。
何か夢中になって小物を作っていたそうで、どうやら手の方は忙しかったらしい。
自分1人の動きにおいてもかなり微妙なのだ。
様々な運動によって、身体を守る為の統合感覚と調性がとれるようになっていかないとな、、、と思う。


「運動会」はともかくとして。
うちに帰って来ても、2人は今また、暴れまわっている。

「早く風呂に入ろう。」
わたしにとっては、もう風呂しかない。



サンクタム

SANCTUM.jpg

SANCTUM
2010年アメリカ
アリスター・グリアソン監督
アンドリュー・ワイト脚本
ジェームズ・キャメロンほか製作総指揮

リチャード・ロクスバーグ、、、フランク・マクガイル 著名な探検家である父
リース・ウェイクフィールド、、、ジョシュ・マクガイル その息子
ヨアン・グリフィズ、、、カール・ハーレー フランクの非情さに憤る隊員

物語の最初と最後に現れる、ジョシュの水面からの逆光を浴びて浮かぶ全身の黒い影が神聖で瞑想的な光景であった。

パプアニューギニアの奥地にある人類未踏の洞窟探検譚である。
まさに”聖域”の探検というか侵犯というスケールのものであった。
何ともリアルで圧倒的な洞窟内の光景だった。

極限状態にもいろいろあろうが、ここでは太陽の光の及ばない世界というもの。
地底湖にも潜らざる負えなくなるが、潜水病の危険とも隣り合わせ。
電池が切れれば身動きも取れず、暗黒の世界に取り残される。
しかも、サイクロンがやってきて大量の水が滝のように流れ込んでくる。
飛んでもないシチュエーションだ。

極めて難易度の高い過酷な探検の割には、参加メンバーが素人臭すぎる感は拭えない。
多くの経験と高度な知識なしに挑めるものではないはず。
メンバーがどういう選定によるものなのか、いまひとつ分からなかった。
結局、洞窟に入ったメンバーで助かったのは1人だけではないか。
これは、単なる事故として見過ごせるものではなく、事件であろう。
犠牲が多かったで済む問題ではない。
スリルとサスペンスをフル稼働したとしても、もう少し人を生かしておいてもよかろうに、と思う。

実話が元ということで、後で調べたら隊員13人が皆、無事であったそうだ。
それには、ほっとしたが、ドラマにしても何もこんなに殺さずに面白い物語にできたと思う。
特に、余りに人間臭い諍いや暴力沙汰などが絡み、興醒めしてしまう面も否めない。
純粋にプロ集団による探査にしても、これだけの見事なセットが用意できるのだから可能であると思われる。
探検隊隊長の父と息子の確執から和解までの過程は絡めても良いとは思うが、他は余計であった。
全て素人の我儘から生じる、まずありえないようなトラブルばかりなのだ。(意識の低すぎである)。

しかしそれがあっても終始緊張を強いる展開で、道具立てがディテールまでしっかりしているため、目を離せないものであった。
洞窟の全体の形状などはかなり綿密に調べ、それに劣らぬ難関コース(シーン)をCGを含め作り上げたのだろう。
役者も少なからず、水にどっぷり入っているはずだ。
彼らの迫真の演技による切迫感、VFXによる環境の過酷さは充分に伝わってきた。

何というか、ハード面と、それを克服する身体の動き、そのフィジカルで物質的なドラマに魅力を覚える。
動きのディテールに説得力があり、醍醐味を感じる。
しかしそこに絡みつく、または動作の原因となる人間的な心情(劣情)は、少しお粗末といえよう。
特に女性隊員である。最初から連れて行きたくないタイプである。(女優のせいではない)。
反発心でいっぱいだった子供が、最後に父親を理解するところだけは感動的であったが、、、。
その場面である。

探検家の父が「何で洞窟なんかにこんなに拘るのか」と訴えかける息子に、「『洞窟』にいるときこそが、真に自分に向き合える場であり、ここがわたしにとっての『聖堂』なのだ。」
と返すところが印象的である。
それは、とても分かる。
犠牲者を出していなければ、問題はない。
(カールのような敵意の反応がアメリカ人の普通の感覚であろうか)。
しかし確かにそのような究極の場を欲する人間はいるものだ。
人によっては、そこが深い雪の山頂であったりするのだろう。

それは、とてもよく分かる。

わたしにとっての聖堂は、といったら、ただ横になりたい。
それだけだ。
眠りの底にそれがある。




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白熱

James Cagney

White Heat
1949アメリカ
白黒
ラオール・ウォルシュ監督
アイヴァン・ゴフ、ベン・ロバーツ脚本

ジェームズ・キャグニー、、、ギャングのボス コーディ・ジャレット
エドモンド・オブライエン、、、FBI ハンク・ファロン
マーガレット・ワイチャーリイ、、、コーディの母 マー・ジャレット
ヴァージニア・メイヨ、、、コーディの情婦 バーナ

サスペンス映画の教科書みたいな作品である。
まさに職人芸を見る思いだ。
機械的に最後まで目を離すことなく観てしまう映画である。

裏切りと駆け引き、策略の錯綜するなかで、コーディ・ジャレットの冷酷で残虐な個性が炸裂する。
その強烈さはどこか無邪気で可愛気もあり、憎めないところがある。
彼をうまく騙し、刑務所で弟分となり、罪を暴こうとするハンク・ファロンの大変な大芝居も見ものである。
はっきり言って、こんなに骨の折れる危険極まりない仕事、よく引き受けたものである。
有能な捜査官であれば、悪人にもどこかで顔を知られているものだ。

コーディの情婦のバーナが、また思い切りいけ好かない狡い女を演じきっていた。
ギャングの女というものは、こういうものだという象徴であろうか。
可愛気もあるが、世渡りに長けた大した玉である。

そしてこの映画の流れは、コーディのハンクに対する友情の深まりに即して進んでゆくが、その強固な軸となっているのは彼の母子関係でのうちに育まれた精神である。
この濃密で尋常でない母子関係こそ、彼の犯罪者としての本質的を形成している。
マザコンどころの話ではない。一頃流行った、母原病でも甘い。
世界一の犯罪者になりなさい、という英才教育を一途に行ってきたのだ。
どれほど凄まじい家庭環境で育ってきたものか。
母子関係は、その人間の生の基調を決める事は確かである。
父親も発狂して死んでいるらしい。
母親の教育と彼女の無意識にどっぷり浸かり、大人になってギャングの親分となってもまだ生々しく母親の強い影響下に居続けるのだ。
凄い人になっていても不思議でない。
そして激しい頭痛の発作(なんであろう?癇癪か?)ももっていて、それがまたカリスマ性を際立たせる。
あのにやにやしながら躊躇なく撃ち殺す、素早い決断と動きー所作は悪人たちにも畏敬の念を抱かせるに充分だ。
刑務所の昼食時に母が暗殺されたことを聞き、狂乱する姿など彼の心象が端的に強烈に現れている。
ジェームズ・キャグニー見事な怪演である。

ここに絡む刑事も凄い。
人の取り込みが巧みである。
母親しか信じない疑り深い男である。
自分を第二の母、少なくとも身内並に信用させるのだ。豊臣秀吉級の手腕である。一種の包容力か。
その過程が、ドキドキものなのだが、その間裏切り者の車のトランク越しや扉越しの銃殺なども行っていく。
バレたらイチコロのところをFBIとの交信も図りつつ親密な行動を共にしてゆくのだ。
綱渡りもいいところだ。

最後にやはりコーディの仲間からハンクの顔がわれ、これまで信じていた分、親分大激怒となる。
しかし、ハンクのあらかじめ打っていた手で、警察が大勢集まり、危機一髪のところで彼は逃れる。
激しい銃撃戦の末、追い詰められたコーディは化学コンビナート工場で「世界一」の華々しさで散る。


わたしとしては特に、FBIに通信信号を発しながらハンクが金庫破りに向かう「トロイの木馬」トレーラーに乗ってゆくのだが、それを受信しつつ場所を特定する警官たちの姿が面白かった。
パトカーの屋根についた可動式のレーダーアンテナとその位置確認をその都度しながら地図に座標をひいて、その位置をまたパトカーに戻す場面など、それだけでなにかワクワクしてしまう要素があった。
あのピカピカした回るレダーアンテナが一際印象に残る。


この映画がその後の様々な映画製作の模範例となり、アイデアやヒントをたくさん与えている事は確かである。
コーディ・ジャレット程の厚みを持った凶悪犯が、どれだけ生まれたかは知らないが。

見応え、充分であった。


戦闘機対戦車

Death Race

Death Race
1973年アメリカ
デヴィッド・ローウェル・リッチ監督
チャールズ・クエンストル脚本

ロイド・ブリッジス、、、ハンス・パイムラー将軍
ダグ・マクルーア、、、カルペッパー中尉
ロイ・シネス、、、マクミラン少佐
エリック・ブレーデン、、、シュテッファー


二次対戦も終盤、砂漠の広がる北アフリカ戦線上で起きたかも知れないドラマ。
1機の戦闘機と1台の戦車(アメリカのM4シャーマンをドイツのパンターに見立て)との虚無な戦い。
この戦車両方プラモデルで幾台も作った。(懐かしい)。


全くけれんみの無い、ヒューマンドラマである。
名作である。
人が不条理で究極的なところに追い詰められたとき、どのような在り方が可能であろうか、という物語であった。
文字通りの究極の選択を彼らは迫られる。
それぞれのキャラクターも際立っていた。


戦争時期の映画には、よく砂漠が出てくる。
ここでは、それが舞台だ。
ドイツにとっては、すでに敗戦が決まった戦争であり、この戦車においては行先も目的も失ってしまった。
そこに現れた、自分の師団の全滅から独り生き延びたドイツの将軍。
彼はこの時点で正気を失っていたのかも知れない。
と言うより、行くところまで行き着いてしまった戦況において、人間の持つ狂気の一つが研ぎ澄まされてしまったのかも知れない。

アメリカ軍のカルペッパー中尉とイギリス軍マクミラン少佐のコンビの飛行機が丁度そこを差し掛かる。
彼らはドイツ軍の仕掛けた地雷を爆破処理するために送り込まれた。
しかしたまたま居合わせたドイツ軍の補給隊を深追いした少佐の飛行機はその戦車の砲撃に当たり彼は脱出するも負傷する。
少佐の助けに入ったカルペッパーの飛行機も羽を撃たれ、ラジエターも壊される。
そこから、この戦闘機、基本的に空が飛べなくなる。
地を滑りながら逃げる飛行機を、もはや尋常でない精神状態のドイツ軍パイムラー将軍に操られた戦車が執拗に追跡してゆくのだ。
まさに、地の果てまで戦闘力を失った飛行機を追い詰めトドメを刺すつもりである。
もはや、それが自己目的化してゆく。
その過程を延々と、ひはひたと追ってゆくかなり消耗する映画だ。
しかも追い詰めた先にある場所が、何と例の一面地雷の埋め込まれた地帯なのだ。
自殺行為ではないか!

この情報は、戦闘機コンビにも、戦車のドイツ兵にも、知られてしまう。
その将軍は、まともな頭脳でしきりに訝る部下となったばかりの兵士に、そこに我が軍の秘密基地がある。それに合流し、連合軍の後方を攪乱し勝利へと導くのだ、と捲し立てる。更に地雷はわたしが埋めさせたのだ。それを抜ける道はわたしが知っていると。
戦車に乗ってるドイツ兵は皆、あぶない将軍に危機感を募らし焦燥と疲労を増してゆく。

最終的に狂気の鬼ごっこの末、重傷を負ってしまった少佐が、カルペッパーの勧めに従い降参ー白旗を上げることに同意したため2人でハンカチを振り戦車に向かう。しかし、将軍は降伏を認めず、部下たちが止めるのも聞かないで2人めがけて発砲してしまう。
それによりマクミラン少佐は絶命する。

ここで、それまでチャラ男であった独り生き残ったカルペッパーの表情がキリッとハンサムに引き締まる。
意を決した人間の表情であろう。
(ある意味、1番印象的なシーンであった)。
彼は戦車に対し、ろくに飛べない飛行機で挑むが、、、。


この映画、ドイツ兵がとても人間的に描かれていた。
ヒト対ヒトの関係になっている。
最後のシーンは特にそれを表している。


戦争下では、往々にしてこのような場面はあるだろう、、、
しかし日常生活においても、パイムラー将軍のような××な者はいくらでもいる。
反面、将軍を撃ち殺し、カルペッパーに水を差し出すドイツ兵シュテッファーのような人物もいる。
極限状況でなくとも、それが鮮明化する場面は、多々見られる。
うちの近所でもそうであるから。



錯綜するイメージ

kohan.jpg

ここ最近、夜になっても、こころが鎮まらない。
湿気を含む熱気が淀んでいる。
熱い風呂に何度も入りたくなる。

日中の様々な雑多なイメージの辺片が舞っている。
とは言え、柄澤齊の振るうビュランによる「ボードレール」のように鋭く重々しくではなく、緩く倦怠の中に浮かぶように、、、。

IPS細胞による再生医療がいよいよ本格化とか、STAP細胞と小保方さんが復権するとか、黒田清輝の展覧会にとうとう行きそびれた(外に出るのが億劫になっている)とか、、、娘のピアノ発表会の演目が決まったとか、、、いろいろ気になること(気がかり)もある。
お気に入りのバンダナがひとつ見つからないのも、長いこと使っていたショルダーバッグがいよいよ替え時だったりするのも(その前に車か)、意識の何処かに常に引っかかっている。
そう言えば、昨夜月の前を通り過ぎる雲の速度がやたらと速いことを、次女と目の当たりにして驚いた。
これだけは、涼しい事件であった。

どうでもよい事が気になり、実は結構ストレスを齎している。

一つ一つは混乱を招くような事柄ではないのだが、その想起が妙なタイミングで重なったりすると、神経系に支障を起こすようなのだ。動作に亀裂が入る。物を落として割ってしまうとか、、、。それがストレスとなっている。

自分の医者も含め、娘を英語塾や歯医者に送っていくのも、散歩や買い物すら日程として定められたものに圧迫感と違和感を覚える。
一日が24時間であることが自然とは感じられない。


黒田清輝の「湖畔」をしげしげ眺めて、漸く落ち着いた。
師のラファエル・コランを彼が明らかに超えていることが分かる。
コランなどを見てこころが沈静化することはまず、ない。


一見どちらも、柔らかな外光に包まれた穏やかな女性が静かなトーンと淡い色調で描かれているように思えるのだが。
何が違うのかと思うと、黒田はより抽象的に平面化が進んでおり、色調もパステル的なビビットさが高まっている。
そして何よりモデルより場所としての構図が優先されている。
それが清々しい。
単なる再現的具象ではなく、絵となっている。

恐らくここだ。
われわれの身体性にとって必要な芸術のラインである。

ズートピア

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Zootopia
2016年アメリカ
バイロン・ハワード、リッチ・ムーア監督
「ベイマックス」に続くアニメーション映画

ジュディ・ホップス、、、うさぎ初の警察官
ニック・ワイルド、、、詐欺師のキツネ(後にキツネ初の警察官)
ボゴ署長、、、ズートピア警察署長
ドーン・ベルウェザー、、、副市長
ミスター・ビッグ、、、裏社会のボスネズミ
フラッシュ、、、免許センター職員のナマケモノ

娘と観に行った。
最近、しきりにペットを飼いたがっている。動物の可愛さや他者性を味わう映画では、全くないが、取り敢えずこれにした。
良く出来た爽やかなアニメーション映画であった。
動物たちの営む都市空間の広がりとディテール共に精緻に描かれていて、ディズニーも変わったなとつくづく思う。
高度というより擬人的動物社会における物語であるが、ジブリのような浮き上がったファンタジーではない。
アニメーションのため人格?が適確に形象表現出来るため、恐らく実写より雄弁で厚みのある人間ドラマになっていた。
幼いが理想を健気に追う者と傷を負って欺瞞のうちに日々をやり過ごす者とのバディ映画である。
警官ものである以上、スリルとアクションにサスペンスもしっかり組み込まれている。
うさぎの女の子とキツネとの迷いながらお互いに感化し合い、絆を深めてゆくドラマなので押し付けがましさはない。
動物であることを設定上、上手く活かしたストーリーにもなっている。

ズートピアという肉食動物と草食動物の共存して暮らす都市。
(野生を完全に去勢したということか、、、かなり無理のある前提のユートピアではある)。
そこには、ルーツに根ざす暗黙の差別や権力関係(陰謀)と欺瞞は生きている。
(これが生命の本質であろう)。
DNAレベルから食われる側の恐怖と敵意は存在しよう。
それが、この物語の根幹にもなっている。

都市システムは立派である。
枠組みは人間の社会システムにほぼ等しく、、、。
彼らの多様な生態に合わせ細やかな設備が完備され、居住区も住みよく区画されている。
サハラ・スクエア、ツンドラ・タウン、レインフォレスト、リトル・ローデンシア、サバンナ・セントラル、、、等々。
この光景が、箱庭か模型世界のように愉しい。

ジュディとニックの関係が出会いからとても繊細で豊かに描かれてゆく。
特に2人で協力して失踪者をまとめて救出した後の彼女の記者会見の対応で、関係が崩れ去るところは、実にうまかった。
往々にしてこんな時に、素直な無意識が悪意なく露呈するものだ。
謎めいた「夜の遠吠え」が伏線にずっと張られていたり、ニンジンボイスレコーダーペンが適所で使われたり、ミスター・ビッグの娘をたまたま助けて命を拾うなどのうまい話なども絡め、達者な筋運びで進展する。
彼女が警官を辞し、田舎の親元に戻り、偶然、「夜の遠吠え」の謎が解ける。
物事は確かに、こんな啓示のような出来事で大きく動くのかも知れない。
その勢いで彼女は警官としてもニックの相棒としても復活する。あとは、スピーディに予定調和へと向かう。
ドーン・ベルウェザー副市長の存在は、最後の捻りであり、なかなかのものだった。弱者の怖さである。
そして最終的にバイタリティと一途さの大切さか、、、(娘連れでも、あまり情操教育を気にしなくてもよいとは想うが(笑)


がんばれば、何にでもなれるかどうか、、、これは、オリンピック選手などを見ても感慨深いテーマであるが。
「ウサギは警察官にはなれない。」
キツネは嫌われ者という固定イメージ
などを払拭する努力は当然必要だ。

しかし何かになり得たかどうかは、自意識の問題であろう。
他者が認める面はあるが。
現実は不透明であり、基準も無い。


上戸彩のジュディの吹き替えはピッタリだった。
娘達がどのように咀嚼したかは顔を見ても定かではないが、ナマケモノがやけに気に入った様子である。
(超スローモーなナマケモノを何でわざわざ事務員に起用するのかは謎である)。

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森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ

William Blake

町田国際版画美術館

確かに「版画」は身近なものである。
毎日誰もが財布に入れて持ち運んでいる。
しかし、その割に身近には感じていない。
福沢諭吉をまじまじ眺めている人は多くはないはず。

それにしても圧倒的な展示会であった。
一回さらっと見たくらいで、概観は到底述べられない。
もう一度行ってみたい。

わたしはメゾチント以外の銅版画はやったことがない。
ここでは、ビュラン(彫刻刀のひとつ)を使った、エングレービング(直刻銅版画)と木口木版画の傑作の数々が展示されている。
1ミリの間に10本以上の正確無比な線を入れてゆく。
そこに何となく迷って引いてしまった線など一本たりともない。

計算し尽くされた超絶的な技巧で引かれた線だけによって造形される芸術なのである。
その線刻表現の多彩さとその錯綜する組み合わせに驚き、酔うしかない。
呆れ返ってしまう職人芸と芸術性の融合。
(イタリアのジャズとクラシックをロックに融合したグループの名”Arti & Mestieri”「芸術家と職人」まさにそのものだ)。

そして、とりあげられた作家が皆、横綱級である。(丁度いま、相撲がピークだが)。
かのデューラーの不滅の傑作「メランコリア」が作品のひとつとして飾られている。(特別扱いではない)。
尋常な展示会ではない感じがしたが、そうだった。

独りで冠展示会が十二分に可能な作家ばかりではないか!
アルブレヒト・デューラー、クロード・メラン、マックス・エルンスト、わたしの大好きなウィリアム・ブレイク、門坂流、長谷川潔、柄澤齊へと、、、他にもたくさんの作家の名品が並ぶ。
特に、長谷川潔のメゾチント以外の技法の版画を初めて見たが、大きな発見であった。
やはり、技法によって作品世界は大きく変わる。所謂、作風ではない。
平面的で簡潔で神々しい。こういう明澄な世界も作っていたのだと感慨にしばし耽る。

ウィリアム・ブレイクをつくづく観ると、SFアニメ作家にも多大な影響を与えていたであろうことを実感した。(諸星大二郎とか)。

門坂流の線の起こす運動の多様さ、「急流」には唖然とし、更に「満開の桜」の張り詰めた狂気には、愕然とした。
多彩な線を適所に精確に使い分け構成されるスタティックな作品は多いが、このように線そのものが力として世界を生成するものは、少なかった。

そして、柄澤齊である。
ある意味、彼の一連の木口木版画が一番面白かった。
肖像である。これはいつまで見ても見飽きない。
ただの表面をなぞった感じの肖像などではない、思い切った「表現」がなされている。
肖像の主の作品を充分咀嚼し消化して初めて創作出来るものだ。
アルチュール・ランボーの天上を睨みつけるかのような目から下が、海の寄せ来る波なのだ。
しかし、それが恐ろしい程のアルチュール・ランボーに見える。
ボードレールはガラスの破片飛び散るなかで、詩人の強烈な意志を示す。
グリューネヴァルトと泉鏡花はエイリアンの本質が惨たらしく掴み出されている。
オディロン・ルドンは、恍惚とした夢想のうちに凍結している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

他にもたくさん観るべきものはあった。(あり過ぎた)。
ルーベンスを原画とした版画では、画家のタッチ(筆致)のエングレービングによる翻訳が鮮やかであり、新たな息吹を感じた。

明治天皇も、初めてじっくり観る事ができた。なる程と思った。

エルンストの「百頭女」「カルメル修道会に入ろうとした少女の夢」「慈善週間または七大元素」は持っており、昔はしばしば鑑賞していたものだが、展示会場こにおけるコンテクストでこのコラージュを見ると、また異なるものに見えて驚いた。

詩画集も豪華絢爛である。。
文字の方も実に興味深く読み耽ってしまった。
特に、木原康行の神経系を想わせる抽象的な曲線の束の「死と転生」にはワクワクしてしまった。
中村真一郎の詩がとても面白くて、、、この詩画集は欲しい。
何というかとても贅沢な時間であった。

更に、常設展でゴーギャン、フェリックス・ヴァロットン、何とフランツ・マルクの版画も観る事が出来た。
これは、おまけというには、お得すぎる。
しかし、余りに濃厚すぎた。
もう一回、観なければならない。


一緒に展示会を回った20年ぶりに会った旧友とジェラートを食べてひとまず帰った。


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エクソシスト

Mike Oldfield001
THE EXORCIST
1973年アメリカ
ウィリアム・フリードキン監督
マイク・オールドフィールド音楽

リンダ・ブレア、、、リーガン・マクニール(少女)
エレン・バースティン、、、クリス・マクニール(母・女優)
ジェイソン・ミラー、、、デミアン・カラス神父(精神科医でもある)
マックス・フォン・シドー、、、ランカスター・メリン神父(悪魔祓いの専門家)

マイク・オールドフィールド20歳の時、独りで城に籠り、全ての楽器を操り、2000回以上のダビングで完成させた歴史的傑作”チュブラー・ベルズ”の奏でられる映画。
彼は、この後も立て続けに至高の大作を発表していく。マルチプレイヤーとしてもトッド・ラングレンと双璧をなす存在であり続けた。
わたしは彼の計算し尽くされドラマチックに構築された稠密な音の城壁を、荒馬の如くアグレッシブに駆け巡るギターに随分と痺れたものである。他のアーティストのアルバムに参加しても、彼のギターは際立っていた。
コンポーザーとしても、こんな凄まじい音楽を作る人は他にほとんど知らない。
牧歌的で安らぎの広がる音の平原に突如吹き荒れる悪魔的な嵐、、、不安と悪夢の重奏、、、光を求め彷徨う魂、、、冒険の果てに辿り着く安息の地、、、そんな一大叙事詩を思わせる大作派である。
こういったスタイルでレコードを作る追従者は、とうとう出ずじまいであった。
今になって、この映画のエンディングに重なる寂しさをしみじみ感じる。
(ちなみにわたしは80年代中盤あたりから以降の彼の動向を全く知らない)。


イラクでの遺跡発掘調査に何で神父がいるのかいまひとつ掴めずに見始めた。
ここでこのメリン神父は、悪霊の像を見つけ出す。
悪しき予感から、緊張感が走る。
(よく分からなかったが、ここでその悪霊を目覚めさせてしまったということだったのか)。

父はいないが裕福な生活を営んでいた女優の母と娘に、母の介護に通いながら神父という仕事に疑問を抱きつつ引き裂かれて生きる神父。
この両者が極限的な状況で、邂逅することとなる。
どの医者にも見放された怪奇(憑依)現象に苛まれる娘と、苦悩を極めるその母親は、ついに精神科医で神父でもあるダミアンに最後の頼みとして救いを求めるに至る。ダミアン神父もその時、充分な介護や看病ができずに死なせてしまった母の件で大きな心痛を負い、自身のアイデンティティも揺れ動き、不安と失意の中であった。

ダミアン神父は、悪魔祓いの儀式には懐疑的であり、医学で治すべきだと主張するが、母としては八方に手を尽くしても悪化するばかりの娘の症状に、もはや他の手段は考えられない境地に来ていた。
まだ幼い娘の明らかに異様な形相と悪意に満ちた他者としか思えないオドロオドロしいことばとその声、更に彼の母の事まで知っている事態に、ダミアンも意を決める。
それにしてもイラクの悪霊が白人の少女にとり憑くというのも何やら象徴的である。

彼は教会に悪魔祓いの儀式の許しを得に行くと、メリン神父と共にそれを執り行うよう指示される。
そして壮絶なエクソシストの儀式が始まる。
ここで、何とも言えないのは、メリン神父がただの水を聖水だと言ってふりかけると、聖水の時と同様に悪魔が苦しんだり、ダミアン神父の母のことをつつき、彼のこころを乱す割に、母の以前の名を言えないなど、その悪魔があくまでも少女リーガンの身体と知を拠り所としていて、独自の身体的自立性は持っていないことが分かる。
もしかしたら、体外に出てしまうと無力なものなのか、と思う。

いまやただひたすら母も両神父共に、彼女に憑いているものを外へ取り出そうとする。
後半はそれのみの激しい攻防戦となる。
悪魔は、言葉巧みに人の弱みを突き、絶望させようとする。
神(カトリック)を冒涜し卑しめんとする。
このセットで、次第に追い込んでゆく。
物理的に殺傷するのではなく、精神を葬ろうとする。

そして若い方のダミアン神父がかなりのダメージを受け、しばし引き下がっている間に、メリン神父が絶命していた。
これに憤ったダミアン神父がリーガンに掴みかかり殴りつけ、わたしに憑依してみろ!と叫ぶ。
リーガンから堪らず抜け出てダミアンに入り込む悪魔。
その悪魔に危うく操られそうになった瞬間、諸共封じ込めようと窓から身を投げ、死を選ぶダミアン神父。
この終盤は、強烈だ。
リーガンの首が回転していることなど意も介さぬ強度を持つ集中戦であった。
結局ダミアンの犠牲で、リーガンは元の姿に回復し、その記憶はきれいに抜け落ち、日常に戻っている。

ただ、ダミアンの親友が訪ねてきたとき、少女はそのカトリック神父の制服に何をか感じとり強く抱きつく。
(実はわたしが一番印象に残った短いシーンだ)。


最後に母がダミアン神父の形見ですと言って、親友にペンダントを手渡すところで、続編を匂わせて終わる。
確か2と3があったはず。
さすがに2,3は観ようとは思わなかった。
わたしとしては、これで完結である。

そう言えば、チュブラー・ベルズにも2と3があった、、、。そう、2003というのも出ていたはず(思い出した)。
いずれも聴いていない。
注目していたのに、聴かなくなったしまったアーティストであった。
妙に寂しい。
機会があれば、聴いてみようかと思う。





彼岸花

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1958年
小津安二郎監督・脚本
カラー第一作目であるらしい。カラーを意識した絵作りが、随所に感じられた。

佐分利信
田中絹代
有馬稲子
久我美子
佐田啓二
笠智衆
山本富士子

セットに既視感たっぷり。
料亭の女将もセットに込か、、、お馴染みのいつも出てくる「あの女将」である。
毎度お馴染みの小津劇場という感じだ。
バー「ルナ」の雰囲気にハイボールもまたよい。
茶箪笥の上に置かれたラジオも赤い色が効いていた。
そういえばヤカンも赤い。
そしていつものようにフッと挿入される切り取られた風景。
やはり、カラーでも、基本は変わらない。
日中の家の居間には、バイエルの練習曲がバックで平坦にかなり長く鳴っていた。
これはちょっとないBGMである。
懐かしい曲で、何とも郷愁を掻き立てるものだ。

「むずかしいもんだよねえ。こどもをそだてるってことは。」(笠智衆)
この物語まさに、ここに尽きる。
親子の普遍的な関係が描かれる。
これは基本的に今も昔も変わりない。
親の気持ちと子の気持ちのズレの問題である。
これは、本質的に解決に向かうものではない。
「受け容れ」しかない。

小津映画の多くはいつも、基本的に波風立たずに娘を嫁がせる話であるが、今回は父親の知らないところで相手を決めてしまう娘との関係(確執)を描く。
家父長制が強く、娘の相手を父が決めるような戦前の時代でなければ、娘の相手なんて、父親は一番最後に知らされるものだろう。
勿論、適齢期に至るまで、とっても仲良し親子でいれれば別であろうが、生理的に普通は離れてゆくものだと思う。
生理的に離れるが、知的な愛情で再び関係性を構築できる契機はあるはず。
少女期に宿題を見るレベルでなく、いろいろ伝え育む関係は作れると思うし。
わたしは、そう願いたい。

それはともかく、価値観の推移はあっても、あまり結婚に関しては現代と大きい違いはないと思える。
本質的に理解は無理だ。
とは言え、父と娘の和解の上での結婚ができた方が双方にとって気持ち良いはず。
ここでの父親(佐分利信)も妻(田中絹代)に渋々流され、受け容れに近づく。
「何笑ってんだ、何がおかしい?」妻の思惑通りに結局は運ぶ。
山本富士子の第三者(トリックスター的存在)としての役目もかなり効いている。
こうした役割は、現実には難しいところだろうが。
周囲の女性陣の決して表立たないバックアップで、娘が自分の密かに決めた相手と結ばれ、父親もそれを認めてゆくしかなくなってゆく。


佐分利信の語りの、穏やで平坦なリズムが心地よかった。
この語りの調子は、常に淡々としていて例え妻との深刻な議論?においても、重くはならない。
気がどこかで抜けていて、気詰まりにならない。ユーモラスですらある。
彼と笠智衆のふたりが、自分の娘に手を焼いているという語り合いは「間」も含めて絶品だ。
もう少し長く喋って欲しい場面であった。

小津映画において、佐分利信と笠智衆のふたりの役者の重要性を改めて悟った。
小津作品の様式美を支える役者と言えるか。
そして間違いなく、この時期の有馬稲子は旬の女優であったと思う。
田中絹代の賢く我慢強い母親の存在感は大きかった。

tanaka kinuyo



最後に父が新婚の娘夫婦の住む広島に向かう電車の中、電報を頼んだところで終わる。
終盤、話の中心にある新婚夫婦が一度も姿を見せない。
この運びはとても洗練されている。

原節子がいなかったが、特に気にならなかった。
こういう小津映画があっても良いと思う。
(間違いなく小津映画以外の何者でもなかった)。


スズキ会長が謝罪とは、、、

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排ガス測定の偽装工作が三菱で発覚し、ついに日産ゴーンの傘下に入ることになったばかりであるが、何とスズキまで、、、。
と、ショックを感じWeb上の記事を確かめたが、それほどの深刻な事態ではないようで、ひとまず安心した。
スズキを特別贔屓にしているわけではないし、スズキの車に乗っているわけでもないのだが、ここのところの新ラインナップには、意欲的な取り組みを感じていたため、注目度はかなり高いものだった。

まず、アルトのマニュアルシフトのワークスである。(他にターボRSがあるが、あちらはオートマである)。
ちなみに、わたしは自動車教習所で、マニュアルしか運転したことはない(笑。
車を持った当初、5速ギアとクラッチがないことにかなり当惑したものだ(汗。
アルトワークス、かなりのレスポンスで小気味良く走るらしい。
勿論、軽であるためパワーの自己規制があり、端から限界は見えるが元々アウトバーンで走るわけでもない。
日常走行でスポーツフィーリングを味わってみたいのだ。
あの小さくて如何にも軽そうで、軽には珍しい引き締まったボディには魅力を感じる。(ツーシーター以外では)。
大概の軽は、トールワゴンタイプが多く、実用性に傾きすぎる。
その為、中国で不格好などと陰口を叩かれることもある。
勿論、日本の交通事情から軽しか走れない場所はあり、居住性も考えればベストな体型なのだが、分からない国では仕方ない。
ただ、そこに過剰な装備を施してゆけば、重くなる。値段も高くなる。おまけに軽を優遇していた税制が廃止され、近頃販売台数がかなりの落ち込みを見せていた。
そこに、根本的に軽の枠組みを見直しデザインされたアルトは、コンセプトがはっきり外観に現れている。
軽量コンパクトのインパクトは確かにあった。ワークスはカラーリングも決まって軽で一番カッコ良いと思う。
実を言えば、スタイリッシュで質を追求したセルボが生産終了になったことに一抹の寂しさを覚えていたのだが、あの方向性ではただ車が濃く重くなってゆくしかないことは明白である。スッパリ断念して、アルトの方向を取ったことは、正解だと思われる。

次に、イグニス。
これは、ソリオが軽のスペーシアタイプのトールワゴン系を踏襲した形で、まさに軽(スペーシア)より少し大きめのコンパクトカーで用途としてはその延長という位置にいるのに対し、はっきりどこでもない新たなポジションに、アルトテイストの軽量コンパクトミニSUVを投入したという感じだ。かなりユーザー任せの自由度は高い。
自ずと限定されるソリオのポジションから見ると、かなり広く老若男女からユーザーは集められると思われる。
形はアルトに似ているが、かなりのヒットを飛ばしたハスラーの発展形に受け取れる。
ハスラーも自由度の高い新しい軽の使い方を提案して予約待ちの人気機種となっている。
イグニスに目新しさがあることもあってか、時折街で見るとなかなかのものである。なんというか雰囲気がヨーロッパのイケるコンパクトカーに感じるものに似ている。この軽量ボディに、スイフトスポーツあたりの1.6リッターターボを積んでも面白い車になるはず。
勿論、シャーシーとトランスミッションから見直す必要が出てくるが、バッチリセッティングされれば、スイフト以上のスポーツタイプになると思われる。
基本はコスパの良い自在性の高い取り回しの良い車であろうが。
様々なタイプを用意することも、イメージを高めることに繋がる。
もうスイフトに少し遅れて出された、スプラッシュのような中途半端をやらなくなったことは、スズキの開発コンセプトがしっかりしてきたことを感じさせるところだ。

そしてバレーノ。
これは、まだ街で見ていない(笑。どれくらい売れているのか、、、。
まだ発売されて間もない車である。評価もこれからでああろう。一見してスタイルデザインに力を入れた車であることが分かる。
この面で、スイフトで満足できない層の取り込みに向けたものであることは察することができる。
だが、言えることは、車幅が確か1745くらいであったか。ならば、ほぼSX4と同じサイズだ。
このクラスだと通常1695であり、充分なコンパクトカーのサイズである。それでいながら、何と重さが950である。
下手をすれば軽の方が重い。これに驚き、重さだけはしっかり覚えている(爆。
ここのところのスズキの統一基本コンセプトがよく分かりすぎる車種である。
軽いということは、燃費も走行性能も自ずと良くなるものである。
写真で見たところ、一番リーズナブルなタイプはインテリア的にはいささかチープ感が漂うが、基本必要な装備の網羅されているタイプなら問題ない。エンジンも非常に特徴的な2タイプが用意されている。
直列3気筒直噴ターボの1リッターのものが、111PSである。文字通り、リッター当たり111ということで普通に言うスポーツ仕様のように想えるが、単なる1タイプ扱いである。但し当然無縁プレミアムガソリンだ。
もう一つが、直列4気筒のもので、これまでスイフトやソリオに使われてきた1.2リッター91PSものである。これは当然無鉛レギュラーでよい。充分使われてきたエンジンであり信頼性は高いはず。
で、用途はどうなのか、、、これは単純に数値上でどうこうは言えない。実際乗り比べてみないと分からないものだ。ただこちらの方は、車両重量が何と910Kgという車の大きさから言えば信じがたい軽量なのである。このメリットは安全対策が万全(シャーシーの剛性等)なら、小さくない。
面白い車が出てきたものである。わたしが子供の頃夢中になっていた車なら、同種類では排気量が大きい車の方を高出力に設定するのが普通であった。総合的に見てどうなのかは、道にいっぱい見つかる頃に分かるはずである。


所詮、燃費などというものは、メーカーが発表している数値の半分と見て間違いない。
実際に使ってみれば、だいたいそんなところだ。
しかし、カタログ上のほんの小さな数値の差(誤差程度)にやはり気が向いてしまうものである。
適正な形で数値は出しておかないと、メーカーとしてのイメージダウンによる損害はそれこそ計り知れない。
せこいことをすると大損するという教訓か、、、?

スズキはほんとに大丈夫だろうか、、、



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村田英子展を観る

murata hideko

村田英子の絵を小さな展示会で観た。
はじめて観た。

非常にドラマチックな悲壮感と深い憂いの漂うビビットな女性像が並んでいた。
9点程の油絵であったが、色とその塗り方が何より印象的であった。
それは見覚えのある色の選び方と塗り方であった。
特に、「青」が。


村田英子氏。独立美術協会会員。
独立美術協会と言えば、前回観た児玉 沙矢華氏もそこの会員ではなかったか、、、。
実力者ぞろいのようだ。
経歴を見たら、わたしの高校の先輩である。(ちなみに児玉氏は後輩)。
絵を最初に観た印象通り、ギュスターブ・モローに傾倒していた人であると。
色使いと塗り方がまさに、モローであった。
あのモローの抽象に突入寸前の狂気の色使いに差し掛かりそうな頃を思い起させる。
エロスとタナトスを残酷に表す煌びやかで退廃的な配色と叩きつけたかのような色面テクスチュア。
痙攣的である。
ギュスターブ・モロー。
バルテュスボッチョーニと並ぶ、わたしの一番好きな画家でもある。

"black Salome"シリーズ?がメインであった。
Salomeの絵は、どれも顔が主体であるが、上半身部分(着衣)の色使いも肝心なところである。
一際目を引く青にせよ赤にせよ生々しくビビットである。叩きつけるようなタッチや重ね塗り、錯綜するコラージュ部分も、深遠さと厳しさを畳み込んでいる。黄色は黄金の広がりー永遠性を思わせる。
モローのSalomeは、Salomeのみならずその一瞬の情景そのもの(物語)の切り取りであるが、村田氏のSalomeは、Salomeそのもので象徴する普遍的な女性像の創造であろう。
顔は、ギリシャ神話や聖書を思わせる天上的な禁欲的容貌(ギリシャ神話は禁欲的とは言えないのだが)というより、寧ろ現代的でハリウッドスター的な彫りの深い造形を基本としているようだ。
クロエ・グレース・モレッツを思わせるコケティッシュな可愛らしさも窺わせるものもある。
(じっくり見ているとそれが痕跡であることを感じるが)。

モローも数多くの"Salome"を描き続けたが、村田氏もこのようにSalomeを"black Salome"として描き続けるのか?
(ライターにそういうものがなかったか?他については生憎、知識がない)。
モローの他にもこれまでに洗礼者ヨハネの首を持ったSalomeの絵は画家達の題材に幾つもあがっており、怪しく舞を踊るシュトゥックのSalomeも強烈な印象を残してきた。(画家の中でモローのものが主題的に見ても最もシュールだ)。
しかしブラックとは、黒いサロメとは何なのか、、、。
美の儚さと普遍性を練り上げた女性像に具現化した作品に、とどまらないことは題にも如実に窺える。

鮮烈な色の炸裂は、激しい生命力を強く表している。
全ての作品に漂う悲壮さは、その表情を洗い落としたような顔に刻まれている。
(凡ゆる表情の去った後の頭部にも似た)。
この絵(アマルガム)そのものは、何か決然とした決意を感じさせないではいない。


もう少し多くの作品に接してみたいものである。
さしずめ今日初めて観た感想である。

Gustave Moreau
出現:ギュスターブ・モロー



生田絵梨花 〜 猫

neko.jpg

ふたりの娘がかなりの生田絵梨香ファンである。
セーラームーン・クリスタルへの熱気は去り、2次元から3次元に移行してきたか?
ももクロ唱うタイトル曲は、相変わらず車に乗ると大声で合唱してはいるが。

普段、「いくちゃん!」と呼んで2人はTVの彼女を喜んで見ている。
やはりピアノと歌が上手なのがよいのだと想うが、可愛らしさも勿論あってのお気に入りなのだろう。
受け答えも凛としているし、時折放つボケ(天然か?)のズレ具合も印象的だ。
好きになる要素は色々あると思われる。

アイドルやタレントも学業との兼ね合いなどもあって大変だと思う。また人気を手にしたとしても、居心地が良いとも限るまい。実際のところはどうなのだろうか。(結局個々の問題に落ち着こうが)。
どんなにスポットライトを華々しく浴びても、自分だけの場所は確保したいであろうにと要らぬことまで考えてしまう。


ひところ(わたしが高校生頃)の彼女らとは、かなり違う印象を持つ。
現在広く人気を博している指原莉乃という人のトーク番組を見て思ったが、自分の言いたいことを何の気兼ねもなくポンポン言い放つ。
そういう芸風を作られて被せられているのとは、明らかに違う、生な表出を見せつけられる。
私立女子高のケラケラ高笑いながら道を横に並んで闊歩してゆくお姉ちゃんがたの語り(テンション)、そのものに近い。
ホントに屈託無く活き活きしていて、思わずつられて笑ってしまうのだ。(笑う以外にない)。

わがいくちゃんの乃木坂46の番組でも同様だ。(乃木坂冠番組が幾つもあることを知った)。
そこの様々な企画でメンバーたちが、結構それぞれ言いたいことを言い合っている。
(実際、学校ではあんな面白いことをやってはいられない。メンバーにとってはそこをめいっぱい補う場でもあるのか)。
実際、確かにそうだな、とこちらも頷きながら聞いている。
とてももっともな事を言っていると思う。
そこが、昔と違う。昔はそんなんじゃなかった。
もう、はっきり言わされてつまらぬ話をしている事は見え見えで、時折自分のことばをうっかりこぼすと大きなボロを見せる。
このパタンであった。

今のアイドルは、感性を押し殺さず、活かしてゆける環境が用意されていると感じる。
だから、頭が良い。

先日、乃木坂番組でメンバーが猫の真似をする企画があった。Vを見てその仕草を真似るのだ。
これは正直、受けた。
こちらが面白いと言うより、やっている当人が愉しいだろうな、と思う類の面白さだ。
所謂、普通の生活を営んでいる範囲では、こんな事出来る機会はない。
独りでこれを部屋でやっていたなら、間違いなく家族が内緒で病院に連絡するだろう。
仲良くみんなでキャーキャー言いながら、猫になって、最後に「かわいいーっ」と賞賛し合う。
メディアを通し全国に流れ、ファンも喜ぶ。
確かにホントに可愛いのだ。ケチのつけようがない。
こういうハレの儀式を定期的に出来る事は、快感であろうし、健康的だと思う。
ここに時折、自分だけの時間も保証されれば、いう事あるまい。

最後に「とっても素敵な企画ですねえ。また是非やりましょうね。」とメンバーが視聴者の気持ちを代弁するようなコメントを放っていた。君はプロデューサーかい、と言いたくなるところだが、思ったことをかなり自由に話せる場なんだと感じる。
ノイズや偶発性も含め編集でカットするより、それをそのまま拾って受ける番組にする方針が窺える。
そのなかで、言語感覚を研ぎ澄ませてゆくのだろうと思う。いやそれだけではない。

この番組の前回の特集で、いくちゃんの絵が紹介されていた。いくちゃんの描いた絵である。
いくちゃんは、ピアノと何処ぞの民族音楽だけでなく、絵も凄かった。
これなら、個展や画集をやってもかなりの人を集められると思った。
ラインに進出するのも良いのではないか?
田辺画伯が痛手を負う可能性があるが、新規参入は常に想定していなければならない。
恐らく、田辺画伯の絵に飽きてきている人や、さらなる刺激を欲する人が飛びつくはず。勿論、いくちゃんファンは突然であろう。

表出の機会が様々にあるショービジネス界というのは、やはり当人が1番磨かれる場なんだろうな、とつくづく感じた。
ここでつけた力は、後々も色々な面で生きるのだろうな。



指原氏はそのうち自民党からの出馬要請がかかるかも知れない。
あれだけ喋りが達者で票集めが上手いのだ。
自民がほっとくはずがない。
(いつだって政治信条など二の次だし)

草いきれ

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朝の陽光の降り注ぐもとで、湿った草いきれを静かにゆっくりと吸い込む。
緑が目に染み込む。
身体に行き渡る。

もう首筋がピリピリする。
半袖の腕に日が暖かく、フッと吹き付ける風が優しい。

気持ちいい。

「みんなだまっている。」
「いきをひそめて。」
(谷川俊太郎がどこかで書いていた)。


いつもは7時のところ、今日は5時半に娘たちを起こした。
昨日は、ダラダラしていてピアノもろくに練習せずに夜更かしをしていた。
密かに、早く起こしてやろう、と思っていた。

流石に彼女らも文句は言ったが、一緒に朝の庭に出て、空気を吸うと気持ちも和やかになった。

草いきれを3人で吸い込んだ。
娘の頬から微笑が零れた。
かなりショボンとしていた多肉の色艶が少し良くなっている。
枯れたと思っていた花の幾つかは、復活の兆しも見える。


物音が遠くで
いや近くで
いくつかし始める。

すでに起きている人はいた。
犬の散歩のひとはわたしより早かった。

いまは、あちこちで起きる音の連鎖が起こる。
カラスも鳴く。
世界が今日も新しく、物音で繋がってゆく。


家に入ると娘が朝っぱらからピアノを弾き始めた。
それも自然に溶け込んでゆく。



自然体で臨もうという気持ちが何故かスッと湧いてきた。




ネイチャー ~火山・鰐

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ENCHANTED KINGDOM
2013年
イギリス
ドキュメンタリーフィルム
パトリック・モリス、ニール・ナイチンゲール監督


最近、火山の噴火、地震が相次いでいる。
一万年周期で起きる超巨大地震も、後100年程度に迫っている可能性が高いらしい。
前回は7300年前で、九州の縄文人が多大な被害に遭遇したようだ。
その後の100~200年は人の入れる大地にすらならない。
そのため彼らは、地面ー樹木は捨て、狩猟に切り替えた。
火砕流は凄まじく高温で速く走り、水面を瞬く間に渡り、大地をたちまち焼き尽くすという。
自然の破壊力は尋常ではないことが察せられる。(NHKサイエンスゼロを参照)。


TVで「ネイチャー」というBBC EARTHの作った映像を見た。
もはやカメラの目というものを、意識せずに身を委ねて見られる技術レベルのものだ。
その為、妙に心地よい映像になってしまっている。
子供向けに作られているのか、捕食の際の残酷なシーンは編集されていたようであるが、そこは大人は想像できるし、問題はない。(何でもそのまま即物的に示せばよいというものではない)。

ここでも、今現在生命が生息出来ない、地中のマグマが生々しく噴出し毒ガスで充満している場所が紹介されていた。
地球とは思えない光景が広がり、こんな場所があること自体、困惑してしまう。
高温ガスと塩の世界であり、あたかも地球の生まれた当初の姿に似ている。
凶悪なエイリアンがどこからか飛び出してきそうな、異様な場所である。

更には、砂漠化して水のない地で水を求めて彷徨うものたち、深海や険しい山岳地で光を求めて戦いを繰り広げている生命の姿が広く捉えられていた。

過酷なありさまである。が、sophisticateされた、綺麗な画面であった。
恐らく、TVの前でソファに寝っ転がって見ている人も多いと思われる。
メディアである以上、そういうものだ。
これまでの自然災害の様子もみな、カメラを通した映像で知る情報でしかない。

これはこれで大変な資料である。
先のNHKの番組もこのドキュメントも主体的な情報の受け取り方いかんである。
撮影が何より過酷であったはずだ。
ただ唖然とする事態をすんなり心地よく呑み込める情報に編集してゆく過程に、相当な労力が費やされている事を察する。
しかし、それでも尚つくづく感じるのは、多様な場所と多様性を生きる生命のあり方だ。
この自然の様態を見ると、基本が「多様で在る」しかないことが分かる。

「過酷さ」と「多様性」を、地球においても生命にとっても、実感できる2つのプログラムであった。


「ネイチャー」の中でとりわけ印象的であったのは、地球とは思えない活火山の究極的な様相ー死の世界であったが、ナイル鰐のひたすら獲物を俟つ姿にも強いインパクトがあった。
恐竜時代から生息し、1年間捕食しなくともじっと耐えている強靭な生命の、逞しくも気高い美しさに見蕩れるばかり。
その生命力を象徴する鰐のファンになってしまった。


火砕流に見舞われたとき、鰐ならどうするのだろう?
水底に沈んでやり過ごせるものでもなかろう。
恐竜時代から生き延びているのである。
何かやり過ごす方法を知っているのだろうか?
少なくとも深い谷などでそれが遅滞するような事態がなければ、人では逃げようもないと思える。
地震も含め、本格的な調査と対策は優先されなければなるまい。


「ネイチャー」 日本語ナビゲーターの滝川クリステルが、やけに浮いていた。
夏目三久さんのような確かな日本語を話す人か、声優を使ったらどうであろう。


シルバラード

Silverado001.jpg
Silverado
1985年アメリカ
ローレンス・カスダン監督・脚本

ケヴィン・クライン、、、ペイドン
スコット・グレン、、、エメット
ケビン・コスナー、、、ジェイク
ダニー・グローヴァー、、、マル

西部劇って、80年にも作られていたんだ。
しかも、古典的というか伝統芸能のような出来。
勧善懲悪の安心して見られるものだ。
王道を行くと言うべきか。

その枠内で、如何にハラハラさせるかが、西部劇の出来具合の良さを決めるだろう。
ここでは主役の4人は何かあっても大丈夫だろうが、それに近い善人たちはどうなるのかは、心配になる。
そこそこスリルある銃撃戦を繰り広げるが、悪役以外はあまり犠牲者は出ない方であったのが、ホッとした。
ただ善人たちも罠にはめられ、ほとんどみんな怪我は負う。
しかし誰もが望む予定調和に収斂する。
そこが快感ということだ。

このような定番ー枠が先にある劇は、ヒーローものに顕著である。
スーパーマン、スパイダーマン、バットマンとか、アイアンマンとか、、、。
そう007やスターウォーズシリーズもあった。
挙げ出すとキリがないことに気づく。
何かの間違いで、ヒーローの死なないドラマである。
シュワルツネガーものなどその極みであろう。

そんな中で敢えて西部劇にまだ需要があったのか。
80年代に新たな西部劇を作る熱意というか必要性である。
更にもっと新しい西部劇も作られているのか、、、。
日本でも侍ものは、飽きもせず幾らでも作られているし、当たり前のことなのだろうか。
アメリカ人にとってルーツに関わる根強い文化なのかも知れない。


わたしにとっては、”The Fly”のジェフ・ゴールドブラムが悪者の用心棒、”ブレード・ランナー”のレプリカント、ブライオン・ジェームズが善人側で出ていたことが発見であった。何故か嬉しくなったりする。
この2人は顔を一目見れば分かる個性的なタイプだ。
時折、出ていたことに気づかない役者もいるし。(わたしが気づかないだけだが)。

とりわけケビン・コスナーの若さが何とも言えない。
非常に軽い役で出ているが、二丁拳銃が何やら決まっている。
やはり主人公たちの早撃ちは悪党を圧倒するのだ。
拳銃さばきがこそ、見もののひとつであろう。


基本的に拳銃の動きの為の演出と筋立てとして、善と悪・友情・葛藤・裏切り・奸計・銃撃(早撃ち・決闘)などがうまく絡み合い組み合わされてゆく。あくまでも見たいのは、銃がどんな形で火を吹いてゆくかだ。
それが如何に楽しめるかが、西部劇の醍醐味であるはず。
この”Silverado”は、全てが楽しめるものであった。

ただ、途中で旦那が殺された奥さんと誰かが恋に落ち結ばれるのかと思ったのだが、それはないようであった。
その奥さん(女優)の影が余りに薄過ぎたきらいもあり、やけにあっさりしていた。
この要素は、削ってしまってもよいのではないかと思われる。
少し中途半端な感を残した。


西部劇の面白さはしっかり詰め込まれており、そこをはみ出るものも特になかったとも思われる。
新しさは特に感じない正統な西部劇であった。


オーゴッド

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Oh, God!
1977年アメリカ
カール・ライナー監督

ジョン・デンバー、、、ジェリー・ランダース (スーパーの売り場主任)
ジョージ・バーンズ、、、神
テリー・ガー、、、ジェリーの妻ボビー


カントリー・ボーイ、ジョン・デンバーが主人公役であるが、わたしは昨日のポール・ウィリアムスよりも、更に曲は聴いていない。
ほとんどリアルタイムでは別世界であった。知ってる曲も”Take Me Home, Country Roads”以外ほとんどない。この曲はジブリでも使われていたし。ポール・ウィリアムスも似たようなものだが彼の方は聴けばわかる曲がもう少しある。
こちらには、馴染みがない。


神が突然、自らの存在をヒトに思い起こさせろ、と主人公をメッセンジャーに仕立て動かそうという荒唐無稽なもの。
余計なお世話だ。
というより、厚かましい。
アメリカであっても「人同士仲良く協力しろ、殺し合うな」を訴える為に、神を持ち出してどうにかなるとは思えないが、まず日本であったら何の効果もあるまい。
日本の場合、平和憲法の方が遥かに効力がある。

日本では、特にこのような自我を持った人間の延長上に位置するような人格神自体、馴染まない。
話の設定と内容が更にチャチに見える。
しかも、「私がまだ生きていて、人間を見すててないことを示してくれ」といって神の支配に戻すのは、とてもではないが無理である。
また、いくら「わたしは神にあった。対話をし姿も見た。」と騒いでも、ここに見られるくらいのアピール程度でメディアを騒がせることは不可能だ。狂人扱いさえしてもらえるかどうか。
実際なら小さな話題にすら登るはずがない。
彼の身辺の人々が慌てるくらいだろう。
(ここでも彼の妻と2人の子供はとばっちりを喰らう)。
それは当然だ。一度、実存主義を通過した後に戻ることなど出来ようもない。
であるから、最初から最後まで面白いコメディというより、ただ空回りする白けた話が続くだけだ。
100分程が実に長かった。


神を其の辺のお爺さんとして登場させ、キリスト教に改心させようという魂胆ではないにせよ、外部に超越的な存在を意識させ、その下に正義を行えという思考形態を強いることには違いない。
ガチガチのキリスト教徒や何かの宗教の信者であれば、すでに受け入れている精神構造であろうが、そうでないものにとっては、これを真に受けることなど、できようはずもない。
神が再び出てきて(日本ではかつて出たこともない。常に八百万の神として実体なく自然界を取り巻いている)、私を信じろ、まだ見捨てていない、と言いつつ、自分たちでしっかり考えろと言うのも時代的に無理だ。

確かに神の実在の下でこそ精神の自由が発動できる時代は、宗教画を観てもあったことは分かる。
(エル・グレコ)

しかし、一度殺した神がまた出てきたとしても、もはやゾンビ以外のものではない。
余りにチャチなのだ。
このチープ感に浸かりきった映画であった。


感情的に動く余地など全くない作品であった。

ファントム・オブ・パラダイス

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Phantom of the Paradise
1974年アメリカ
ブライアン・デ・パルマ監督・脚本
ポール・ウィリアムズ音楽

ウィリアム・フィンレイ、、、ウィンスロー・リーチ(作曲家)
ポール・ウィリアムズ、、、スワン(音楽プロデューサー)
ジェシカ・ハーパー、、、フェニックス(女性歌手)

ポール・ウィリアムズの曲に本当に久しぶりに聴き入った。
思わず「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」を聴いてしまったではないか。
(電気グルーブがリミックスでもすれば生き返る曲だと思った)。
彼はスワンという、大衆の欲望を一身に体現したかのような悪党を怪演していた。

如何にも1970年代を感じさせるが、それは古さではなく、その頃の香りと不思議な魅力に溢れたものである。
こういった類の作品はあまり見てこなかった為、新鮮な映像・サウンド体験と言えようか。
分割画面の映画も余り観ては来なかったが、スピード感と密度を増す効果がよく出ていた。
演出もカメラワーク(目線)も、独特の個性が感じられる。
長回しは余り気にならなかった。
ところで、これはロックのミュージカルなのか?兎も角、全編にポールの曲が満ちていてなかなかに心地よいものだ。
Carrie (1976)は、持っていてまだ見ていないが、こちらも観たくなった。
(ちなみにクロエ・グレース・モレッツ主演のキャリーは観ているが、見比べてみたい)・

さて、話は自分の作った快心の曲「ファウスト」が、悪徳プロデューサーに盗まれたうえ無実の罪で投獄され、果ては自分が全く認めない歌手(グループ)にそれを唱われるという屈辱に怒りを爆発させ、それを阻止しようとレコード会社?に脱獄して飛び込むのだが、あろう事か(不運にも)レコードプレス機に頭を挟まれ、顔と声を激しく損傷してしまう。
彼はプロデューサー・スワンに復讐を誓うが、自分が唯一認めこころを寄せているフェニックスにその曲を唱わせるという条件で、スワンのパラダイスというライブステージに曲を書き直して提供する契約まで結んでしまう。
ウィンスローにとっては、ただ純粋に良い曲を書き、優れた演奏によってそれを発表したいという意欲が優ってしまったと言えようか?実際そこにつけ込まれたと言える。相手は途轍もなく悪賢く、彼は余りにお人好し(純粋なミュージシャン)過ぎた。

結局、彼はまた妙な歌手に渾身の作品が唱われ、自分はレコーディングルームに監禁された。
また騙されたことに完全に怒り狂い、ファントムとなって(仮面の怪人となり)、復讐を果たしてゆく。
だが、自分が認め信じるフェニックスまでがスワンに奪われ、自暴自棄になり自殺を図る。
しかし、ここで例の契約書の恐るべきカラクリを知ることとなる。

彼が契約したのは、悪魔との契約書であり、すでにスワンは不老不死の契約を済ませていた。
そして、その契約書には、スワンが滅ぶまで、ウィンスローも死ぬことができない定めとなっていたのだ。
彼は、舞台上でフェニックスとの結婚式を執り行い、その最中に彼女を殺し、話題を更に沸騰させようと企んでいた。それを悟った
ウィンスローは、自身の死を前提にスワンの契約のビデオを焼き、その実効性を解いてしまう。
スワンもウィンスローも諸共に滅ぶことになる。


舞台であっけらかんに唱われる歌詞が又、振るっている。
「なんのとりえもなく 人にも好かれなければ
死んじまえ 悪いことは言わない~」

思えば、随所に面白いシーンがあった。
ウィンスローの曲をオーディションに来た歌手たちが自分のアレンジで次々に唱うのだが、それぞれの音楽スタイルで個性的に決まっていて、その唱い分けが印象的であった。別テイクアレンジ版で全部レコードに入れても面白かろうに、、、と思った。
オドロオドロシイ演出で固めた、ウィンスローの曲を演奏するビーフのステージは、そのステージ単体として観ても結構引き込まれる楽しさ、見栄えがあった。
すぐにビーフはファントムに逆らいステージに出たため感電死させられるが、ステージひとつ観たい気分になってしまった。
(ロッキー・ホラーショーか、、、)
ウィンスローの声を失ったがチューニングを介して声を蘇らせるそのミュータント然とした姿が、なんともソフトマシーン化していた。仮面から目をむき、キーボードを革手袋をして弾いて唱うところには何とも魅入ってしまった。

へろへろしていたウィンスローがいざ自分の曲と彼女が危機に瀕する事を知ったとともに、自分を監禁するためにレンガで固められた部屋を突き破って飛び出してゆくなど、仮面(損傷による諦観)ーファントムの力も相乗作用して、強靭で超人的な力を炸裂させる場面の説得力と迫力は充分あった。
やはり源は純粋な音楽の力であろう。
それだけのものが音楽にはある。
「全ての芸術は音楽の状態に憧れる。」


かなり爽快であった。

「生きたところで負け犬
死ねば 音楽ぐらいは残る~」
先の身も蓋もない曲から。


お早よう

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1959年
小津安二郎監督・脚本

佐田啓二
久我美子
笠智衆
三宅邦子
設楽 幸嗣
島津 雅彦
杉村春子
沢村貞子
東野英治郎
・・・・・・・・・・・・・・・

最初の出だしは、「快獣ブースカ」にダブってしまった。
子供たちの「おなら」遊びである。
しかし、軽石飲んでおならを出すというのは奇想天外であった。
「お腹治るまでパンツ履くのおよし。」と杉村春子。
ずっとお腹を壊していて体に悪そう。
無邪気な遊びは、ときに危ない。

相変わらずのローアングルである。
なくてはならない風景の切り取りは、ここでも絶妙である。
それから改めて思うが、小津映画は居酒屋のシーンが多い。
これもなくてはならない要素か。
大概、酔っ払ってるのは東野英治郎である。

笠智衆が若く、まだ余り枯れてない。
調度「麦秋」のときの笠智衆のようだ。
子供に怒ったりするところなど、似ている。
しかもあまり怖くない。

昭和30年代風物誌が和む。
日常的に使われている御櫃とか。
粉歯磨きなんて言葉も聞こえた。
黒光りする黒板!真白いチョークの板書。
もう見ることはないアイテムである。
ゴムひもに鉛筆の押し売りも、どすの効いたおばあちゃんも面白い。
おばあちゃんのあの御座なりなお祈りの最中のボヤキもいける。
ご近所の奥様方の噂噺は未だに衰えず、普遍的なものだ。
意固地な子供に手を焼く大人の姿も、感慨深い。
今も昔も変わらないものだ。

2人の兄弟がTVが欲しいとねだって断られ、拗ねまくる。
窘められると、しこたま屁理屈で返す。
仕舞に「余計なこと言うな」と怒られて、「おはよう、とか、こんにちは、とか、いい天気ですね、、、」など大人も無駄な挨拶ばかりしているじゃないかと、、、。
この後、暫くの間子供は黙りを続け、これもまた近所で悪い噂となってゆく。

この家はもうこの時期に、英語塾に子供に通わせている。
しかし子供たちは塾をサボって隣の元水商売の若夫婦の家にテレビを観に入り浸っている。
テレビを観惚けて勉強をしないのも問題だが、この家自体が近所から厄介者扱いされているのだ。
必ず共同体は、共通の敵を作り出す。何が悪いではなく少し変わったところに目をつける。
彼らにとって、テレビをこの家で観る事自体が、許せない。
これも普遍的な共同体の仕様である。

テレビが一億総白痴化の元だという親の主張(受け売り)も面白い。(大宅壮一だったか、はじめに言ったのは)。
買う前からそういう見解を持っているのも、ある意味臆病である。
しかし結局そう言っていた笠智衆お父さんがTVを買ってあげる。商売を始めた友人東野英治郎に頼まれたこともあり。
そういうことだ。どこもそうだ。
「勉強しないと返してしまうぞ」と凄んでも、小学校低学年の子に、軽くあしらわれる。

子役がなかなかのものだ。
2人とも達者である。
しかも上の子役は、音楽家となり、音楽プロデューサーとしても活躍していたようだ。


子供たちの大人批判を面白がりながら「無駄なことも大事で世の中の潤滑油でもあるしね」と言う佐田啓二に、「無駄なことが潤滑油にはなっても、肝心なことが言えないようじゃね」と沢村貞子が息子の彼に諭す。
久我美子の翻訳の仕事を彼が度々請け負っており、彼のところに彼女と同居する甥である小学生が英語の勉強に通っている。

駅のホームで偶然出逢った2人が、「いい天気ですねー。雲の形がよいですね。」と何度もぎこちなく繰り返す。
さすがに、それはない。
2人の距離が縮まる予感は持たせつつ物語が終わる。



荒鷲の要塞

Where Eagles Dare001

Where Eagles Dare
1968年
アメリカ・イギリス
アリステア・マクリーン原作・脚本
ブライアン・G・ハットン監督

リチャード・バートン 、、、スミス少佐
クリント・イーストウッド 、、、シェイファー中尉

クリント・イーストウッドがちょっと若いシュワルツネガーみたいだった。
(実際にダブって見えてしまうところもあった)。
戦地で二丁拳銃撃つひとも珍しいのでは、、、。
西部劇の渋い早撃ちヒーローそのものにも思えた。

第二次世界大戦真っ只中の話である。
極秘作戦ということで、欧州侵攻作戦において要となるアメリカ軍カーナビー将軍がドイツ軍に捕らえられたため、彼を救出する任務で精鋭部隊6人が編成され、荒鷲しか入れないとされる険しい雪山にあるドイツ軍の難攻不落の要塞に送り込まれる。
一面の深い雪山に迷彩飛行機が飛んできて、そこからパラシュートで精鋭部隊が降りてゆく。
彼らは無事任務を遂行できるのか?
という戦争アクションかと思いきや、最初の極秘命令自体、裏があり、異なる目的の潜入計画であることが分かってくる。
それを知るのは、どうやら一人だけのようであった。
物語が始まり、早々潜入した仲間の2人が殺される。
情報は確実に漏れているのだ、、、。


この映画は、スパイの情報戦であり、結局自国の中枢にどれだけのスパイが潜入しているのかを、この作戦行動を通して炙りだそうという、ある意味人質奪回よりも遥かにリスキーな超極秘作戦によるものだ。
仲間に敵がいるのだから、ほとんどの行動が筒抜けであり、必然的に主人公も不透明で寡黙な行動を強いられる。
そこに、いまひとつよく分からない女スパイも絡んでくる。
話は、幾度も急展開を迎える。

それについて行くシェイファー中尉の心境も穏やかではない。
兎も角、常に命は狙われているのだから、やることをただやるしかない。

主演のふたりが本当に寡黙で、肝心なことは高倉健のように何も語らない。
スミス少佐は少なくとも全て知った上で指揮、行動を執っているはずだが、シェイファー中尉にも、見ているこちらにも皆目解らないまま話は進行する。
特にシェイファー中尉は、本当のところ何故自分だけがアメリカレンジャー部隊の隊員でありながら、このイギリス軍の作戦に参加しているのか解らない。
自分が何やってるのかわからないでやっているため、余計にぶっきらぼうで吹っ切れない感じである。
しかし、若くて精悍である。流石に腕はよく、銃を撃ち放題撃ちまくる。
女スパイといい、ゲシュタポの存在といい、こちらも疑心暗鬼になりながらハラハラ観てゆく。
ドイツ兵が無個性で、余りに弱いのは気になるが、、、。
そして、どれだけ爆薬を持ってきたのかと呆れるほど、爆薬を至るところに仕掛け、次々にタイミングよく爆破させる。

銃撃や爆破も激しいが、アクションとしては、やはりロープウェイ上での格闘シーンであろう。
城の出入りは、ロープウェイ以外にないのだ。
ここは、この映画ならではのスリリングな場面である。
他にも、様々なところでドイツ兵が押し寄せる一歩手前で、切り抜ける(爆弾をセットし終わる)ような場面が多々有り、緊張の途切れる事は全くない。

結局、極秘任務を遂行する精鋭部隊の内、3人がドイツ軍スパイ!であり、その上官であるターナー大佐が元締めであったことが割り出された。
この辺は007も真っ青なピンチを逆手に取る、頭脳戦の成果であった。
一流の軍人は、どんな事態にも動じず、それをチャンスに変える機転の効く人間なのだということが解る。
彼が信用していたのは、唯一外部から呼び寄せたシェイファー中尉だけであった。
最後に、そのクリント・イーストウッドのホッとした表情が印象的であった。
やはり、事態がなんであるのか、その事実を知ることが、一番の平静と安堵を生むものなのだ。
(女スパイは、最後まで彼らの味方であった。そこは、疑うところではなかった)。

何であっても、真実を暴き、知らなければならない。
これは、何事においても、真である。



CGはなく、スタントで全てを撮った映画と言われるが、それでもこれだけのものが出来ることは、しっかり確認すべきことに思われた。
(ロープウェイにも実際に乗って演技をしているというというが、その手のことが好きな人はニュースを見ても確かにいる)。
CGに頼りすぎない新しい映画を観たい。


お嬢さん乾杯!

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清涼飲料水を飲みたい気分でこれを見てみた。
と言うのも、風邪をひいてお腹に来て、食べるものがなかなか喉を通らないので。
更に生憎の天気、、、。
植物も元気がない。

しかしこれで随分楽になった。


木下恵介監督
1949年

原節子、、、お嬢さん
佐野周二、、、あにき
佐田啓二、、、弟分
東山千栄子、、、お馴染みのお母さん


冒頭のドリフのコントのような演出で、とんだ映画を見始めてしまったという感があったのだが、話は結構シリアスで繊細なものであった。
だが、軽快なラブコメディのノリはしっかりおさえていくので、グイグイ引込んでゆく。
原節子が、ここでも期待通りの原節子をしていた。

「安城家の舞踏会」ほどではないが、かなり走るお嬢さんを演じていた。
コミカルな演出にも健気によく乗っかっていた。
そう、彼女はいつも以上に表情が多彩で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵のような神聖な顔を見せたり、悪戯っぽい顔やバツの悪そうな顔や如何にも気分の悪そうな顔、恋をして思いつめた顔など、、、特に目の演技などにも惹かれるところがあった。

佐野周二の自動車整備工場のあにきは、如何にも恰幅のよいあにきそのものであった。
お嬢さんとは、実によく合うカップルである。
上品で教養がありピアノが上手で、、、英語とフランス語も得意という彼女と世の中金だ!と言ってはばからない無粋で頑固だが純粋なあにきはよい取り合わせである。
なんせ弟分に、「結婚するなら、堅気の女と結婚しろ。結婚しないなら、女と付き合うな。」である。
下手をすれば暑苦しい。この押し付けがましさだけだと、とてもやってられない。
しかし、バレエや音楽(ショパン)を鑑賞し、いたく感動する感性を持っている。
この部分でのお嬢さんとの接点は大きい。大変、大きいものだ。
その為に(証拠に)、彼女の煮え切らぬ心情を鋭く見抜き苦しみ悶えている。(それが面白く演出されているところがこの映画のよいところだ)。

人と人の繋がりは理屈ではなく、芸術的感性で決まることは絶対であるから。
逆にここがズレていたら、言葉をいくら尽くしても埋めることは不可能だと、断言できる。


役の上で、佐田啓二がパリっとしたスーツを着た知的な出で立ちで、彼女の彼氏役であったなら、面白くもなんともないだろう。
第一それでは、コメディにもなんにもならない。
佐田啓二が軽めのやんちゃな弟分であってうまく成立していた。
よい配役である。

配役といえば、、、
東山千栄子、優しい包容力のある日本のお母さんを演じたらこの人の右に来る人はいないのでは、、、。
出演時間は短めであるが、ここでも充分なオーラを発していた。
この女優のいるといないでは、映画自体がはっきり変わってしまう。
原節子の出る映画では、なくてはならない存在に思える。

この映画で一番のポイントは、「愛しています」ではなく「惚れた」であろうか。
お嬢さんの「愛してます」、ではやはり自分を納得させる理由が入ってくる。
「惚れた」、はもう、問答無用である(笑。
ここにきたとき、ヒトは一気に行動に出る(爆。
(と言うか、迷いがない!)

話の運びは職人芸的な手馴れた運びであり、隙がなく中盤頃には完全に乗せられている。
主人公ふたりのこころの揺れ動きは、まさにラブコメディの王道ではないか、、、。
如何にもであるが、その軽快な流れに沿う快感に満たされてゆく。


失意のまま旅に出たあにきを、弟分の車で追いかけるお嬢さんのシチュエーションで終わるところは憎い。
なかなかスマートでハッピーな期待を膨らませる、爽やかなエンディングではないか。


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病葉(わくらば)

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数ヶ月の長い間、ベッドのある部屋の窓辺に並べて置いた植物たちを30鉢ばかり庭に出したのだが。
1ヶ月も経たないうちに、枯れたり萎んだり、葉色が酷く悪くなったりするものが幾つも出てきた。

青々と艷やかだった物が、病葉に変わっているとかなりがっかりする。
気持ちが落ちる。
葉っぱも落ちている。

今日は庭で虫籠を幾つも出して中を洗ったりしていたため、外に出していた鉢物をよく見る機会があったのだ。
雨に当たりすぎておかしくなったのもあるようだ。
もう流石に寒さや、寒暖差でやられるものはないとおもうが、、、。
後考えられるのは、強い光と風か。

反面、適当に作った(急拵えの)畑のほうれん草はしっかり収穫できた。
随分、わたしや娘の栄養源にはなったと思う。

さっぱり世話をしていなかった裏庭(実に狭い)の葉っぱは逆にとても活きが良い。
ずっと外に放りぱなしの半野生化したものだ。
無言の生命力を見事に感じる。
生の素晴らしい緑だ。
西側にいるのに。
表の東の大量の鉢群は今ひとつだ。
大切に外に置いたり、中に入れたりしながら育てたものなのに。
肥料も水も考えて与えてはいたが、天候との関係がうまくいかなかったか、、、。

鳥が種を落としたおかげで毎年一際綺麗な花を咲かせる幾つかの植物も、今年は調子が今ひとつであった。
もうすでにうちのメインの植物にもなっていたのだが。
クレマチスとクリスマスローズや菊の類はいつも通りである。
しかし毎年、コンスタントにというのは難しいらしい。
数年経つと、生命力が鈍ってくるようなのだ。

何においても生命力が基本だ。
更新され反復する生命力である。
やはりこれ以外にない。


それを最近、強く感じたのは、伊藤若冲の絵である。
まだ、美術展には行っておらず、TVで見た範囲であるが、凄いものだということだけは、ひしひしと分かる。
そのあるようでない命の描写に。
日本画であっても流派における研磨ではなく、自然観察の極みから生まれる線と色彩が違う。
時間の畳まれた精緻なディテールには、多様な命のエネルギーが宿る。
あるようでない、匂い立つ命。
微細すぎて混沌とした盲目な芽吹き。
これは、希望か、、、。
今、若冲がこれ程望まれている理由は。
(サイケデリックですらある細部のデジタルな処理と情報量のすっきりした莫大さ加減も今にピッタリだ)。

彼は、、、
文字を残さなかった。
ことばを残さなかった。
「千載具眼の徒を俟つ。」という言葉だけは残したらしいが。
(どういう形で残っていたのか、、、)。

そのため、これからもずっと、神秘な生命力が残り続ける。
下手に饒舌なことばをつらつら残さない方が鮮度が保てる気がする。
勿論、前提として例外的な仕事を果たした上でのことだが。
他の絵師は、残し過ぎたケースが多い。(弟子を取るのもそうだ)。



水と肥料のやりすぎに気を付け、また室内にいくつか引っ込めよう。


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雨音が響き鐸(さなぎ)となる

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The Cureの"Wish"を最近よく聴く。1992年のものでわたしの聴くもののなかでは新しい方だ。

CDをコンスタントに買わなくなって、もう久しい。
しきりに購入していたのはLPレコードであり、CDの頃にはもう幾分覚めていた。
iTunes Storeで買うのに慣れてきたところで、一曲単位の販売がなくなったので、それももうやめている。

ということでここ数ヶ月で買った音楽はCDで、ももクロの「セーラームーン」(娘に頼まれ)と電気グルーヴくらいか、、、。


”Wish”は、わたしのZERO状態に何ともよく馴染む。
零度と言うべきか。
ついさきほど、一度ヘッドフォンを外し、席を立つとき耳に入った雨音に妙に共振する音であることに気づいた。
過度の湿り気と漆黒に震える旋律。
あまりに自然にその場所絵と誘う律動。
雨音に似て。

”From The Edge Of The Deep Green Sea”からただひたすら入り込む。
深みへ。
幻想に烟る深みへ。
歪んだオルガンとギターのつくる音色以外に光のない闇に沈む。
”Doing The Unstuck”などは三味線と琴で演奏しても恐らくアレンジが更に深まることが分かる。
その流れによりそいつつ補正しながら進んでゆける音である。
何というか、外からの音ではなくなってゆく。
キング・クリムゾンにそんな余地は残されない。

”Trust”からさらに黒い霧に包まれ下ってゆく。
そう、われわれは下に下に沈むのだ。
あるべき住処に戻る。
いろいろな謂われ方をしてきた場所である。
それが虚空に解かれるもうひとつの路であることを、知らず想い出している。



”To Wish Impossible Things”に至る頃には、漆黒の雨音が楽曲の要素となっている。
いや、組み込まれていたのだ。
この夜のために生成されたのだ。

考えてみれば、同じ音など聴いた事がない。
同じ作曲家の同じ演奏家の同じクレジットのレコードであろうが、同じ音が流れたことなど一度もなかったことに、今更ながら驚く。

シドバレットのピンクフロイドを聴いた時の煌きがここにも感じられる。

その音は、プログレッシブであったことなどない。
このかたまりは、全ての表象を取り込み。
飽くことなくわれわれを個の外へ心の底へと、引き戻す。


夜の雨音に耳を澄ましいつしか鐸となる。

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写真についてーⅡ

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このメタセコイヤたちは愛情たっぷりに撮られている、メタセコイヤの肖像写真みたいだ。
わたしの身体性に地続きの優しいフレーミングでもある。
この向こう側に、メタセコイヤの吐息が聴こえてきそうな彼らに密着したメタセコイヤの道がある。
常に木漏れ日とそよ風が絶えることのない、時折噴水の水しぶきが虹とともにかかるお気に入りの一本径が控える。
事後承諾であるが、この写真と後の写真の二枚、エストリルのクリスマスローズより、転載させて頂いた。

以前、「写真について」の記事で、写真の感情喚起する作用に少し触れた。
写真が説明的、資料的な機能を引き受けたので、絵画はその機能を放棄したという解説が一般的であるが、写真はいつも説明的、資料的以上の何かを語ってきた。
資料的役割に徹しようとしたアッジェが最もその機能を激しく逸脱しているとも言える。
アンドレブルトンもそこに注目した。(流石である)。

恐らく禁欲的な写真ほどリアルな幻想を孕むのかも知れない。
リアルなほど幻想性を増すのは、カフカの小説に如実に見ることができる。
余計な(お節介な)エフェクトがかけられている方が写真の意味が限定され、つまらないものになることは多い。
ただ、その時空を切り取っただけ、と言ってもその人の深い身体性ー現存在が如実に現れてしまうものだ。


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ところで、自分がよく娘たちとほっつき歩いている日常的な場所が、写真によって一体ここはどこなんだという光景になっている好例である。

透徹した文学的写真である。
青空とメタセコイヤの圧倒的な重みが実に鮮やかだ。

まさか、このなかをわたしが、時折娘たちを叱りつけたりしながら歩いているとは思えない。
普段、周りは知らぬ人ばかりだという前提で歩いているのだが、もし知っている人にそこを見られたら、モグラの穴にでも入りたい気分になるはず。
この写真の部分がクローズアップされると、少しばかり人間的なドラマも見えてくるだろうか。

しかし写真は距離を切り取るものでもある。(それは同時にフレーミングを決めるもの)。
宇宙空間から観た地球にもある意味、これは似ているかもしれない。

この視点から自分の日常を見直してみなさい、と提示されているかのよう。
それは大切なことだ。

わたしにあれこれ言われながら歩く娘たちは、寧ろ微視的な視座をもっているようだ。
芝草の中の細かい虫などをよく見分ける。
その虫の顔をわたしからくすねたルーペで、しげしげ見ていたりする。
娘たちは、漠然と隣にある女子大に行くの、と言っているが、理由を聞くとこの公園で遊べるからと答える。
最初は、子供の考えていることは、、、と思ったが、満更でもない。
大学院を卒業したばかりの作家の展覧会をアートミュージアムで見たら、その人も授業中抜け出してここで虫採りをしていたそうだ。そのためたくさんの作品をものにしている。娘も見習ってもよいのかも?

わたしが一番つまらぬ距離感でものを見ている恐れもある。
写真がよく気になるのもそのためかも知れない。
多様性と言いながらも自分がどれだけ多様な時間を生きられているか、、、。

自分がそのなかを幾度となく行き来している場所の写真を見ることは、とても興味深い。
しみじみ魅入ってしまう。
自分にとっては素敵な資料である。
(地球をまるまる見てみるのもよいが、この距離感も必要である)。



白昼の幻想

Gibeon meteorite

今日も通院は1日がかりだ。

朝出るときは、少し肌寒さを感じて軽い上着を羽織ってみたが、案の定電車の中ではもう暑い。
通院の途中で、衣替えをしたくなることが何度あったか。
季節の変わり目は特にそうだ。

最近は血圧が安定しており、WHO区分でも軽症高血圧であることが多くなった。
正常血圧のこともある。
しかし、ボーッとしているのは変わりない。
他に原因があるようだ。

痺れとの関係性は大きいはずだ。
やはりtDCSをやってみたい。
幸い今通っている大学病院の脳外科にいつでも今の担当医が紹介状を書いてくれるというので、その臨床でもやってるかどうか確認してみたい。


痛みは決して共有はできないものだが、思いの力はそれを和らげる。
それは医者の提示する検査の数値より現実性をもって。
また、治療よりも実効性をもって。

今日は帰ってからひたすら眠ろうと思っていたのだが、その前に例の公園に行って、メタセコイヤの道を歩いてみた。
ここを静かに歩いてみたかった。
噴水と木漏れ日と風のそよぎで一直線に伸びる路が何か祈りに満ちたものに思えた。
暖かな残像が見えた。

病院に行った後、改めて癒されて帰った。

やはりこの世は思いで、できている。
ことばになる直前の世界を呼吸したい。
もっと緩やかで、たおやかな時間がある。

そこへの秘密の通路を守ってゆきたい。
想像力によって保たれる次元。
この資源の表象化を半日陰の中に画策する。

噴水と木漏れ日と風のそよぎで一直線に伸びる路のなかで。



夜の静寂に

Sonnenstern.jpg

「メランコリア」(映画)の最後に、「地球以外にわたしたちのような生命は存在しないの」と地球滅亡を直前にひかえて姉に主人公が静かに断定して答える姿が強く印象に残っている。
こんなに静かな夜はしみじみそれに説得力を感じる。

昨日観た映画では、地球を支配するためのトライボットを地中深く、われわれがまだ地上に現れる前に埋め込んでいた異星人がそれを操り、地球人の虐殺を繰り広げる。
われわれの誕生前に地中深く潜んでいる存在というのも、妙に抵抗を感じない。
何故なら頻繁にメキシコなどで観測される火山火口を出入りするUFOの映像をあれ程見せられては、違和感を覚える方が難しい。
まず宇宙空間よりも地下や海底にこそ何かが潜んでいる気がする。

もうすでに人間とも仲の良い(と言うより取り敢えず友好関係を作っている)イルカは我々と同等の敢えて地上に出なかった高度な知的生命体だ。
地球内をもっと探った方が良いかも知れない。
反面、太陽系、その外も含め知的存在の片鱗すら見つかっていない。
理論上は五万といるはずなのに(もっとか)。
別に(昨日の映画みたいなのも)いても良いと思うが、全くその影すらないのは何故か。
ひとつに、われわれの認識の限界が、大きい。
次元の違いによるところが考えられよう。

充分に安定した環境で長い時間を生命の成長に当てられた惑星がどれだけあるか。
この観点からお隣さんを探しているが、、、。

言語や電磁波や重力に縛られない存在がいたなら、われわれはそれを知ることが出来るか、、、?
以前、バシャールとのチャネリングを通し、そのような存在の示唆があった。
それが本当かどうか、という問題ではなく思考実験上充分意味ある仮説にもなる。

最近、NHKの宇宙物の情報番組をいくつか見たが、番組内容は兎も角、つくづく思ったのは「地球」の色形である。
このような「絵」の惑星の写真は少なくとも他に一度も見たことはない。
(パラレル宇宙の理論はさておき)。
お隣さん探しは殊の他難しいと思える。
ただ、思えるだけなのだが。

やはり「メランコリア」のあの澄み切った確信に満ちた主人公の言葉が重みを持つ。
もしその通り、地球が宇宙の藻屑となり、もはや何者も宇宙自体の内省をするものがいなくなったら、、、
宇宙とは一体まだ何者かであるだろうか。

全くわれわれを超えた次元に(認識の果てに)いる存在にとっては、われわれの指す宇宙とはどのようなモノなのか、、、。
それは言うまでもなく、われわれがそれにならなければ、分かりようもないことだけは解る。

NHKで「宇宙絶景」というのを何度かやっていたのだが、どうもピンとこなかった。
よくある絵葉書の絶景に地続きなのだ。
同じ感性で「まあ綺麗」と溜息をつく類の綺麗さ。
(そもそも、綺麗さでよいのか?)


やはり芸術から出てこなければならない。
そう感じた。

寧ろゾンネンシュターンみたいな画家から、、、


わたしも風邪をひいたついでに描いてみようか、と思う(笑。





3年目を迎えて(笑

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3年前の5月3日からこのブログというものを始めた。
それ以前、1997~2002までホームページは6つくらい運営はしていたが、それから2013年まではその手のことに全く手を触れないでいた。というよりも、もうやることはないだろうと思っていた。
途中2ヶ月ほど入院でお休みしたが、2度目のWebへの書き込みがいつしか習慣化してしまっていた。

ブログというものは、内容を一点だけに絞りそこに集中して書かなければならない、といろいろな人が忠告していたが、そもそもわたしは拘って書きたいと思うことがない。その日その日で関心は様々なものに移る。面白いと思ったことについて、いや面白いと思ったことを通して、生じる考えを書いていくことに、今後もなってゆくと思う。
それ以外にわたしには書きようがないのだ。
わたしはわたしでしかない。
その一点に絞る。

ただ、わたしはわたしでしかないのだが、そのわたしが何であるかなど、解らない。
絶えず新たに生成され続ける何かであり、反復する差異である。
ひたすら多様さそのもので在りたいと思う。
と謂うよりそれしかないのであるが。


取り上げる題材は、もう映画には飽きてきたので、なるべく違うモノでいきたい。
何の駒も持たないが、、、。


昆虫は幼虫、蛹、成体と変態するたび、、前の生態の記憶は全くないという。
もし記憶が残っていれば今のかたちで生きるのに明らかに邪魔になるからだ。
ヒトはどうなのであろう。
考えてどうなるものでもなかろうが。
めくるめく光の彼方、、、。


そんな気持ちを震わせて何かを待ちたい。




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宇宙戦争

War of the Worlds001

War of the Worlds
2005年
アメリカ
スティーヴン・スピルバーグ監督
H・G・ウェルズ原作
1953年製作作品のリメイクである。

トム・クルーズ、、、、父
ダコタ・ファニング、、、娘
その他

「ザ・ミスト」にも比較しうる傑作だ。
以前、観ていても緊張感は変わらない。
これだけ密度の濃い、張り詰めた作品は他にない。

最初に観たときの衝撃はかなりのものであったが、わたしの周囲のヒトたちから今一つとか、トムがダメ親父だったとか、いう声が聞こえ(かなりの注目映画ではあったようだ)、こちらの見方が甘かったのだろうか、という気持ちになっていたのだが、今回見直してみてやはりこれは凄いと思い直した。

まず、これだけのスケールのリアルなパニック演出が出来るか、、、。
2005年としては極限的VFXであるはずだ。

次々に破壊される街の様子。ヒトが光線で破壊され灰となって吹き飛ぶシーンは強烈な印象を残す。
逃げ惑う人々を捉える、カメラの長回しも効いている。
特にあの住宅の前に墜落した飛行機の無残さには鬼気迫る執念を感じた。(911の記憶もまだ新しい)。
豪華客船の転覆も非常に精緻に描写されていた。
地下室も二箇所逃げ込んでいるが、それぞれ光と闇で演出された空間ディテール表現が秀逸であった。
特に後の方の廃屋のエッシャー的空間内でのカメラと人の動きはまことにスリリングである。
宇宙人の造形と細やかな(意外な)動きも独創的で、魅入ってしまう。
パニックに陥った人々の心情も一様でなく、様々に丁寧に描き分けられていた。
後半は人々は捉えられ血を抜き散られて捨てられる、この展開も凄い。(ただ虐殺されるだけではない)。
何というか、宇宙人側にも人の方にも描き方に充分な奥行きがある。

トムはダメ親父なのか、、、。
実の娘や息子と上手くいっていないことは分かるが、そのふたりの子供に対してあれだけ身を呈して守り抜こうとする父親のどこがどうダメなのか、解らない。少なくとも十分に勇敢で責任感と愛情ある父親であることには違いない。又子供との軋轢を修復したいという気持ちも充分に窺えるものであった。
港湾労働者で素朴で不器用な男をトムは饒舌に的確に演じていた。
再婚した元妻は、彼より経済の豊かな文化人夫婦となっており、親子の確執を生んでいる原因のひとつと思えるが、最後は息子も娘も彼にこころを開いていた。とは言え、彼はそれ程嬉しいわけではない。また元の日常に戻ってゆくのだから。極めて悲惨な事件ではあったが、彼にとっては束の間の別れた子供との距離を縮める非日常的ハレの時間でもあったと言える。(坂口安吾の言う意味での戦争の側面でもある)。

しかし、脅威を感じたのはダコタ・ファニングである。
驚くべき演技力であり、彼女と呼吸が同調するとこちらも息苦しさ(動悸)を感じる。
この映画の引き込みの迫力の多くの部分は彼女の力によることは確かだ。
鬼気迫る身体感覚を揺さぶる巫女のような演技なのだ。
恐るべき子役である。
芦田愛菜(パシフック・リム出演)にもぜひ頑張ってもらいたいと思う。


オチは余りに有名であるが、歴史的にもインカ帝国の滅亡が家畜が運んだ病原菌がおおきな原因であったことなど、このような異文化?異界の者同士の接触には十分考えられる危険要素である。
オチは十分に考えられる状況であり説得力はある。
途中、ボットから無防備に降りて家屋に潜入し、いろいろ触りまくる宇宙人の様子が伏線でしっかり敷かれていた。
最後、鳥がボットに接触しているのを目敏く察知したトムが、もうバリアをはる能力の無い敵に気づき、それを伝えられた軍が攻撃して撃破する。こうした細部の身体感覚に即した描写が惹きつける要因だと思われる。

非常にきっちりと描かれた映画であり、わたしは何の文句もない。

ただダコタが凄すぎて、トラウマになる人も出かねないと思うところはあった。

War of the Worlds002

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”Bon voyage.”

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