プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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電気グルーヴ ポケットカウボーイ 懐かしいコジコジ

denki002.jpg

一度もアルバムを聴いていないで、記事を書くのもちょっと何なので、初期のアルバムAを聴いた。
すると何と懐かしいコジコジのテーマ曲?「ポケットカウボーイ」があった。
その当時、この曲を聴いて何て面白い曲を作るアーティストだろう、とつくづく感心したものだ。
また再びあの頃の、奇妙な感覚を味わった。
「コジコジ」もまた見たくなった。
あのアニメどこかで見られないだろうか?

ここには、他にも「パラシュート」とか「ガリガリ君」に「猫夏」、「SMOKY BUBBLES」など感性を擽る曲ぞろいだ。
唯一「あすなろサンシャイン」だけは、しつこすぎて辟易したが、、、他の曲はクセになる音だ。
1曲だけスキップしてこの先も何度も繰り返し聴いてしまいそうなアルバムである。
そう、「ガリガリ君」は、赤城乳業の氷菓「ガリガリ君」のキャンペーンプレゼント用として製作された非売品特別SCDのものらしいが、初めて聴いた気はしない。
この凄まじい音は、聞き覚えがはっきりある。大胆なサンプリング元も窺える。

しかし、「猫夏」あたりまでこのアルバム聴き進めると、もうYMOやクラフトワークに並ぶ独自性と強度を感じてしまう。
つまりテクノを超えたテクノだ。
石野卓球とはどんな人なのか。
ピエール瀧とのステージや楽屋裏のヴィデオを観てしまうと強烈な個性というか、アクの強さばかりが残ってしまうが、、、。
そして余りにぬけぬけとした図太い曲、「Shangri-La」。
これはヒットしただろうな、、、。

こんな強さがわれわれには必要だ。
身体の底から戦闘力と破壊力の湧き出る曲だ。
電気グルーヴとは、この強靭な力であると分かった!

ついでに近所のレコード屋にとんでついさっきVOXXXを仕入れてきた。
Aの3年後の作品だ。
もう今日は間に合わないが、これについてもまたすぐ書きたい。
今聴いてる感じでは、わが「NewOrder」に近いものを感じる。
遥かに荒々しく、節操ないが、、、。
だが資料を見ると石野卓球氏は「NewOrder」のファンであることを知った。
(まだ、見ると言う程、見たわけではないが)。
なる程ね。
そんな感じした。
原質にそれが感じられた。

Aより確信に満ちた曲作りが窺える。
トータルアルバムとして極めて純度が高い。
と言っても、完成度が高まったというより、更に自由度と奔放さ(ナンセンス度)に煮え滾るエネルギーの奔流である。
凄まじい原始的な生命力。

そう、クラフトワークのような知的な構築性にまっしぐらに進む方向性と真逆である。
寧ろそこはCANに近い。
YMOがこぢんまりとしたグループに思えてくる。
どのアーティストをもってきてもこの大胆不敵さ(ふてぶてしさ)には敵わないが。

今聴いてる最中であるが、このVOXXX、気が変になりそうな狂気のアルバムであることは確か。

だいたい、「ジャンボタニシ」って何なんだ?!
それを演歌調にこぶしを回して唱われても、、、

終盤はもうトランス・ムジークである。
ここは寧ろ行儀の悪いクラフトワークといった感である。


圧倒的!

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電気グルーヴ Shangri-La

denki.png

テクノであるが、分類を作っていない。
元々わたしのブログは、分類はあってないようなものなので、どうでもよい。
電気グルーヴと言えば、「Shangri-La」がすぐに鳴り出す(笑。
CM(日産)でも使われていたし、当時よく店などでも耳にしていた。

「Spring Rain」(シルヴェッティ)のサンプリングから生まれているが、完全に彼らの曲である。

シャングリラ彼女の唱ったユートピア眩しい
シャングリラ彼女の語った趣きはよし
シャングリラ彼女にすればどうにでもなるし
シャングリラの中に消えた思い出は無視

夢でKISS KISS KISS KISS KISS KISS
何処へも何処までも
繋がるような色めく世界麗しの時よ
夢でKISS KISS KISS KISS KISS KISS
いつでもいつまでも
煌くような甘い想いに
胸ときめいていたあの頃のように

、、、これはノリノリの広がりのある楽曲であった。
下手をすると、ドリカムと勘違いされそうな危うさもある。
電気グルーブの中でも一番キャッチーで温かみを感じる(今聴いても)。
彼らの本質は危険で怪しくいかがわしいところであろうが。
これも彼らのひとつの極なのだろう。

”DENKI GROOVE THE MOVIE?”というDVDを最近観たのだが、26年間のヒストリーということだ。
これは昨年出たものであるから、27年活動していることになる。
とは言え活動休止していた期間が3年間くらいある。
だが、その間もソロアルバムなどは発表している。
実質的な創作活動は継続していたというべきか。
ピエール瀧は、映画俳優としてもこの時期開眼し、賞もかなりとっている。
また、彼がいつごろからあの青い富士山の格好をし始めたのかも分かった。

それにしてもアクの強いねちっこいステージである。
こういうかたちでテクノが日本に根付いたのかという感慨をもった。

海外でもドイツを中心に高い評価を得ているが、ドイツというところがまた良い。
テクノと言ったらやはりドイツだ。
イギリスではない。
だからイギリスを狙うメンバーが抜けて2人となりさらに彼らは純化する。
石野卓球とピエール瀧とは、キツイコンビである。
彼らの音は、中毒性が強く一度聴き始めるとそのまま惚けて聴き続けてしまう。
テクノ自体がそんな陶酔型音楽形式なのであるが。
彼らのものはその極みだ。

わたしは彼らを特に注目して聴いてきたわけではない、通り掛り的リスナーであるが、濃いテクノだなと聴くたびに思ってきた。
スチャダラパーとのコラボアルバムをブロともの方が取り上げていたため、少し聴いてみたが面白い。
コラボを組んだ頃、調度両者が活動を休止していたタイミングであったという。
デビューだって、同時期のグループである。
同時性を感じる。お互いに興味も持っていたらしい。ちょうどよい機会にもなったようだ。
コラボアルバムもピコポコ刺激的で耳に馴染む。
この時期、隆盛を極めていたミュージシャンが揃って充電期間に入っていたらしい。

元気一杯で売れまくっていた関わりのあるミュージシャンは、ラルクアンシェルだけだったと、共通のプロデューサーが笑っていたが、彼らとラルクが多少なりとも共通点があることが意外であった。
まあ、でも電気グルーヴである。何があっても可笑しくない。
思い切りタフでしたたかなイメージは、このDVDを見てさらに強まった。

わたしとしては、ピエール瀧の役者業の方が馴染んできていたのだが、音楽(本業)の方も改めて聴いてみたい。
相変わらずライブでは富士山になっているらしいが。

愛しのタチアナ

TATIANA001.jpg

TAKE CARE OF YOUR SCARF, TATIANA
1994年
フィンランド
アキ・カウリスマキ監督・脚本・製作・編集


シュールな映画だ。
「ルアーブルの靴磨き」は見応えはあったが、こんなにシュールではなかった。
カルチャーショックもかなり受けた。
まさに外国を味わったと言える。
ロックはともかく、バックに流れるクラシックはよかった。
ロードムービーである。

何というか、小津映画とはまた異なる「間」が特徴であった。
ジャームッシュ監督にも近いものを感じる。
無口でユーモラスな男2人と妙に辛抱強い女2人組みで港まで旅をする。
その港が結構遠く、途中でホテルに泊まったりして行く。
いや、そもそもフィンランド人の2人の男が何故、突然車で旅を始めたのか、何処に行くつもりだったのかが不明なのだ。
エストニアの女タチアナとロシアの女が、バスの故障のため車に同乗させて欲しいというところから、4人旅となる。
ありそうで、なさそうな話だ。
途中でサイレント映画を観ている感覚にも陥る。

1994年ということもあるが、妙に古めかしい車、孤独な墓石のようなガソリンスタンド、日本のグループサウンズみたいなロッカーたちや、スロットローディング式のレコード(塩化ビール)プレーヤーとか、独特のコーヒーミル(車にも取り付けていた)など風物がいちいち珍しい。
それらが充分興味深いものであったが、一番面白かったのは、4人のヒトである。
洋裁屋の男は、コーヒーばかり飲んで(出掛ける前にコーヒーが切れていたことに腹を立てママをクローゼットに閉じ込めている)、動車修理工のロッカー気取りの相棒はウォッカの一気飲み専門でふたりともほとんど口をきかない。
エストニアの女は少しだけフィンランドの言葉が話せるが、必要最低限の話のみ。ロシア出身の女は少しはイヤミは言うが、ともに男たちのぶっきらぼうで無粋なペースに付き合い、辛抱強い。(ヒッチハイクを頼んだこともあってか)

しかし、4人で一緒に長時間を共にする割に、これだけ会話のない関係は厳しくないか。
しかもホテルは男女でのペア二部屋である。
普通は、男女2人ずつの二部屋ではないか。
でも、一言も話さず一夜を明かす。
これは奇妙であった。
4人でひとつのテーブルで食事も摂るが、ここでも会話は一切なし。
もう一夜は、車の中か、、、よくわからない。

そして、港に着くと流石にお互いにお別れの言葉を一言ボソッと交わし、女たちは船へ。
しかし、何故かカフェイン中とアル中の男二人も無言で船に乗って来ている、、、。
ロッカー気取りの男とタチアナの間に、無言の意思疎通と惹かれ合いが生じていたのだ。
船のロビーでのふたりの光景は昔の日本映画みたいであった。
ロシアの女は列車に乗って帰り、車でどうやらタチアナの住む家まで3人でやって来る。
洋裁屋の男が相棒にもう帰ろうと言うが、彼はおれはここに残って作家になる!と言ってタチアナの家に入っていってしまう。
ここに残るぜ、、、だけでなく作家になるとも!?、、、。
やはり面白すぎるヒトたちだ。
何かが確実に違うのだが、どう違うといえばよいのか。

コーヒー飲みの男は、ひとり家に戻り、母親を閉じ込めたクローゼット?から出し、何もなかったかのようにミシンを動かし始める。
彼の新たな日常が始まった。
旅の経験がどう作用するのか分からないが、相棒がいなくなったのは確かである。


これといったセリフがほとんどない。
行動にも、特に男たちの動きには目的も根拠も見つからない。
ただ、コーヒーを飲みウォッカを一気飲みし、4人とも好き勝手にタバコをふかす。
そう女たちも終盤、退屈からかタチアナがバックから取り出した酒を二人でグイグイ飲んでいた。

確かにこういった感じの映画は幾つも見てきたことに気づく。
大概、思わせぶりなもので見るのが辛くなってゆく。
だがこの映画にそのような臭みは一切なかった。

とてもすっきりしている。
高い純度を感じた。


それにしても面白い(変わった)映画である。
奇妙な余韻に浸りワインを飲んでいる。
(流石にわたしも酒が呑みたくなったものだ)。

グランドホテル~プロコルハルム

GrandHotel001.jpg

たまたま、聴いてしまった1973年度のアルバム。
プロコル・ハルムの不滅の名作であり、時折聴いてしまうもの。

一部の隙も無いアルバムというのは、ほとんどない。
奇跡的な一枚としてこれがある。
退廃の美学である。
これほどどうでもよい、語るべきことなどもはや何もない内容を美しく虚しく歌い尽くしたアルバムは他にない。
典雅で諧謔に満ちた荒涼とした美(神の不在)を描ききった希にみる作品。
勿論、大傑作という以外にない。


グランドホテル、、、どうやらフランスの一流ホテルのようであり、グランドホテル形式の映画のようであり、、、。
思い切り空虚でチープな煌びやかさと喧騒が見事に奏でられる。
これ以外の的確なオーケストラアレンジがありえるだろうか。
特に中間部のどうでも良いバイオリンによる見せかけのマイナーメロディのセンスは極めつけである。
安物メロドラマ(宮廷音楽風アレンジ)をカットアップして非常に上質な音楽に設えている。
リズム・テンポ・調・曲想も目まぐるしく変わる構成力は流石である。

トゥジュール・アモール、、、リリカルでハイテンポのピアノイントロから続くギターとオルガン音色が小気味よい。
ギターの畳み掛けもきっちり決まっていてロビン・トロワーをちょっぴり彷彿させるところでもある。
フランス行って山小屋借りようかな、、、
スペイン行ってピストル買おうか、、、
頭に一発、ズトンとね。
これだけあっけらかんとした歌詞がこれだけのノリと心地よさは、ないだろう。

ア・ラム・テール、、、極めて美しいリリカルなワルツ。
ピアノとオルガンの融合は見事だ。
しかし特筆すべきは、ゲーリー・ブルッカーのボーカルは、このような曲でこそ際立つということ。
彼はコンポーザー・ピアニストだけでなく、ボーカリストとして如何に魅力的かがここで充分に味わえる。
何処までも広がりを感じる何処までも空虚な曲である。
僕は土人の目を逃れ独りでラムを呑んで生きてゆくよ。
そして街を焼き払い、飛行機を借りて空にストーリーを書くんだ。
神様がきっと買ってくれるさ。

TVシーザー、、、また魅惑的なピアノフレーズから、、、。
ここでもオーケストラは全く自然にプロコルハルムのメンバーになっている。
楽曲の基盤の構成要素である。ゲーリー・ブルッカーの面目躍如である。
楽曲自体が初めからオーケストレーションで書かれたものと、プロデューサーがオーケストラアレンジを後から入れたものとの歴然とした差である。
BBCシンガーズも全面的に入っている。
キース・リードの詩の韻も心地よい陶酔を呼ぶ。
サウンドと詩が不可分に退廃的な様式美で貫かれている。
”T.V.CEASAR Mighty Mouse”である。一筋縄ではない言語感覚。
イメージのはっきり伝わるハイパーセンスである。
テレビでお馴染みマイティマウスは何処の家にも住みついてるのさ、、、。

スーベニール・オブ・ロンドン、、、アコースティックギターとオルガン主体で極めて投げやりな曲想。
ブルッカーも殊更ソウルフルな歌唱スタイルであるが、からからに乾ききった覚めた歌である。
ロンドン土産をもってきちゃってさ、、、
である。
いい加減にしなさい、である。
アルバムとしてはなくてはならない絶妙なアクセントではあるが、まことに安くておバカなテーマ。
これもグランドホテルの一幕であることは確か。

ブリンギング・ホーム・ザ・ベーコン、、、天才バリー・J・ウィルソンのドラミングの際立つナンバー。
オルガンフレーズもよく、そこにギターがまた上手く絡む。
ブクブク太った赤ん坊を連れてきたかと思ったら、それはどうやら皇室に生まれた子らしい。
よくまあ、、、それにしてもグロテスクをスタイリッシュに描く手腕には呆れる。
”クイーン・イズ・デッド”にしてもそうだが、イギリスでは大丈夫なのか?
もう心配するでもないが、、、シニカルを超えているが詩になっているため芸術的に昇華されているといえる。

フォー・ロコリス・ジョン、、、漆黒の宙を彷徨うかのような不安を掻き立てる曲。ここでもドラミングが際立っている。
非常に優れた彼らからしか生まれてこない表情を持つ曲。
これほど詩と曲の裂け目のない作品は珍しい。他の曲も勿論そうだが。
不安というより、どうしようもない居心地の悪さ、身を捩る違和感を覚えないではいられない。
しかし曲の魅力が麻薬的に作用し、奇妙な快感に変じてゆく、、、。
ジョンは、何の病気なのか、どの医者にも判らない。
病気かどうかも、、、
彼の体温はいつだって正常だった。
彼が海に沈んでゆくとき、彼は自分に手を振っている人々の姿を見た、、、

ファイアーズ、、、厳かなピアノイントロで始まる。
ある意味、プロコル・ハルムの曲の中で最も哀調のある曲と言えよう。
BBCシンガーズのスキャットが全面に躍動的に押し出される。
ゲーリー・ブルッカーのボーカルも冴える。
ここでもテンポと調性の変化が曲想を深め豊かにしている。
戦争譚であるが、言葉からスッポリ魂の抜け落ちた世界が透いて見える。
美しいが限りなく冷ややかに覚めた、逆説的な様式美の楽曲である。
如何にもグランドホテルらしい話であろう。
最後から二番目の曲としての重要な役割を完璧に果たして、終わる。

ロバーツボックス、、、もはや蛇足だ。ダメ押しか。
プロコルハルム(ゲーリー・ブルッカー)以外の誰からも生まれない格調とポップさと絶望に満ちたドラマチックな楽曲。
乾ききった上に光もない。
ここでも変幻自在な展開で一気に駆け抜ける。
ゲーリー・ブルカーの低音"doctor"のシニカルな多重スキャットの味わい。
エンディングの永遠に続くかの如き、虚空に向けた劇的に高揚する彼のリフレイン、、、
Just a pinch to ease the pain
I'll never trouble you again
これはまず教会では歌われまい。
あくまでもグランドホテルである。

救いが欲しいのではない。
ただ痛みを忘れさせて欲しいのだ。

わかるか!!!

と神に告げている。


全曲に渡ってバリー・J・ウィルソンのドラミングが光っていた。
曲を支えるのがドラムであることを痛感する。



インビクタス 負けざる者たち

invictus001.jpg

Invictus
2009年
アメリカ

クリント・イーストウッド監督
アンソニー・ペッカム脚本

モーガン・フリーマンが製作総指揮

モーガン・フリーマン 、、、ネルソン・マンデラ
マット・デイモン 、、、フランソワ・ピナール主将(ラグビー)

「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」に続くクリント・イーストウッド=モーガン・フリーマンのタッグである。

はじめて「ラグビー」というものを観戦した気分になった。
(このスポーツ、個人的に見たことがない)。


ネルソン・マンデラが「自由への長い道」を出版したとき映画化するとしたら、モーガン・フリーマンに自分を演じて欲しいと言ったことが、この映画の実現に繋がったようだ。
ネルソン・マンデラの言葉を知ったモーガン・フリーマンはヨハネスブルクの彼の自宅も訪ねたという。
モーガン・フリーマンは映画化の権利を買い、早速脚本をクリント・イーストウッドに送り、彼に監督を依頼した。
クリント・イーストウッドの快諾を受けてこの映画の誕生となる。

ネルソン・マンデラとモーガン・フリーマン。
顔も雰囲気も似てないが、優れた指導者の放つオーラ・威厳は同等なものを感じる。
実際、モーガン・フリーマンはこの手の役(他でも大統領をこなしている)が多いし様になる。
ネルソン・マンデラ氏、流石に御目が高いというか余りにど真ん中過ぎる気もするが、、、。
これにマット・デイモンも加わる。
キャストが映画を締めている。

確かにスポーツはこれから新しい国家の結束を高めようという時に一番役立つものだと思う。
日本の戦後復興期においても、海外のチーム(選手)との対戦は、日本という意識の高揚に大きく寄与している。
産業・経済の発展の原動力のひとつになったことは確かだ。
国際社会との戦い、凌ぎ合いという意味においても。

マンデーラ氏、元々実力はあったが現在低迷し、連戦連敗に帰しているラグビーチームに目をつけるところは、やはり鋭い。
国をまとめるのにこれは使えると睨んだ。
さらに彼の27年間に渡る投獄によって研ぎ澄まされた感覚である。
アパルトヘイトの象徴カラーである緑と金色のユニフォームと「スプリングボクス」のチーム名を変えようという強い動きがあった。
ラグビーそのものが富裕層の特権スポーツであり、貧困層は裸足でサッカーをやっていた現状でもある。
ラグビーの存在自体が改革の元、風前の灯火になっていた。
しかしその流れに対し、彼は人口の多数を占める黒人に対する恐怖を白人が抱いてしまったならおしまいだと現状のまま止め、それを国をあげて応援する方向に仕向けるのだ。経済は依然白人が握っており彼らの取り込みは必須であった。


彼は国民に変わることを要請する。
「もう卑屈な復讐を果たす時ではない。」
「赦しが魂を自由にする。」
「赦しこそ恐れを取り除く、最強の武器なのだ。」

尽く彼の基本(政治)姿勢である。
「それは我々に対し彼らが拒んだものばかりだ。」
「だがわれわれは憐れみをもって接し、彼らを驚かそう。」
「どれだけ打ちのめされようと、わたしは運命の支配者である。」
「魂の指揮官なのだ。」
ここが彼の偉大さである。
もはや、周囲の動きに惑わされない。
やるべきことを進めるのみ。

「わが負けざる魂」Invictusである。

マンデラはチームキャプテンのフランソワをお茶に招き、彼らの全面バックアップと力以上の活躍を期待する。
チームは短期間に常勝チームとなり、黒人地区でのラグビー教室などの地道な活動もあって、国中からの応援を得るに至る。
謂わば、国の注目を一身に浴びる存在となる。
そんななかで、専門家が誰も予想していなかった自国開催W杯で優勝を勝ち得てしまう。
この力はやはり想像を超えた力となったはず。


いま世界は、基本的に報復に対する報復の構造に閉じてしまっている。
誰の意識もそこに留まりかねない。
どうしても、そうなる、そこに落ち込むケースが多い。
しかし魂の救済の観点に立てば、その構造を包含する世界史観が必要となる。
または、詩的感性である。


「赦しが魂を自由にする。」には、映画を通してドキっとした。






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