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ザ・フライ2 二世誕生

fly2.jpg
お父さんに似ていないのだが、、、

THE FLY II
1988年アメリカ

クリス・ウェイラス監督

エリック・ストルツ 、、、マーチン(蝿男)
ダフネ・ズニーガ 、、、彼女

「ザ・フライ」の続編。
邦題では、ご丁寧に「二世誕生」と繋げる。
確かにこの方が分かり易い。

デヴィッド・クローネンバーグ監督でないことに、一抹の不安を感じたが、製作者は同じ人であった。
前作と比べても遜色ない蝿男の造形には充分な説得力があった。


前回のテレポテーション装置を発明した科学者の父と科学ジャーナリストの母との間に生まれた子供を巡る話。
(そう、母の意に反して産まされてしまうのだ。そして難産のため母は死亡)。
彼も父が獲得してしまった「蝿男」の遺伝を引き継いでいた。
父同様の過酷な運命に翻弄される息子の生き様がたっぷりと描かれてゆく。
また前回同様、どんな姿になっても彼を庇う女性が相手役で登場する。
今度は研究所の同僚である。

バートック研究所の社長が、彼の父の発明した転送装置と彼の標本的価値を自らのものとするために彼の庇護者となる。
彼は徹底した監視下で生まれた時から暮らし、取り巻く人間は皆、悪意に満ちていた。
彼の素性を知っているからである。彼を皆「社長のペット」と呼ぶ。酷い環境だ。
彼は成長が早く(5歳で大人になっていた)、頭脳も至って明晰である。
義理の父と信じていたバートック社長の要請で、亡き父の研究を精力的に進める。
また、社内に恋人もできる。
そして彼はついに生体における完全な転送に成功する。

しかしその頃、彼は体の異変にも気づく。
成熟した時点で蝿男に変態をはじめる自分の運命を知る。
同時に信じていたバートックの本心も知ってしまう。
彼は絶望に駆られ激怒する。
端末に特殊なパスワードを掛ける。
彼は、父のVTRを見て、転送によって体がレフレッシュすることを知り、これが遺伝子改良に有効に使えないかを探りはじめる。
彼は転送装置を利用して、他者との染色体(DNA)の交換により、遺伝子を変える方法を見出す。
染色体異常であれば、それを物理的に交換すれば正常な遺伝子が働くであろう、というものである。
(当時の一般的通念からすれば、それも説得力があったであろうか、、、)。
恋人を頼ってすがるも、彼女のために別れを決意する。

だが、完全体となったところで、結局研究所で所員たちとの大立ち回りという流れとなり、社長・恋人とはっきり対峙することになる。彼の全貌が明るみに出た、その時点でも彼女は彼に好意は抱いている。
彼はかなりの変態が進んだ時点で、「とても衰えて見えるわ」という彼女に、「いや、力が漲りとても充実した気分だ」と応えている。
確かに彼の父親もそういう気持ちを生前に吐露していた。
だとすれば、新しい世界に向けて文字通り羽を広げ超人として夜空に飛び立てば良かったのではないか!
しかし彼は社長を引きずって転送ポッドに入り込み、恋人にスイッチを押させる。
警備員などがなだれ込む寸前に、彼は染色体交換を完了し、普通の人間になって出てくる。
代わりに社長が何とも中途半端なクリーチャーとなって這い出てくる。
(最初、社長から出てきたために、失敗したのかと心配してしまった。実際ここは凄くハラハラさせた)。

やはり彼女がいなければ、とっくに夜空の彼方に消えていたように思われるのだが、彼女を残してゆく気にはなれなかったのだ。
つまり、身体は激変したのに、意識は変わらなかったということなのか、、、。
愛の力か!?それ以外に考えられない。(人間でいたいのではなく、愛情が勝ったのだ)。


この場合、染色体(物理要素)を変えれば、遺伝子(潜在する力)の発現―何らかの構造化に繋がるのは確かであるが、事前に結果については何ら予測もつかないはずだ。(エピジェネティク・ランドスケープ)
更に、身体の変化が意識を変えることは必然だ。(アルタード・ステイツ)
蝿男への変身により、その至高の高揚感と漲る力で意識の変性をみるのが自然だと思うが、、、
どうであろう?
それでも恋(人間的愛情)の方が強いか?
人間に留まるのもありであろうが、、、。
しかし出来れば、高笑いでもして(口・喉の構造上無理か?)彼女をほっぽらかして何処かに飛んでいった方が真っ当であった気がする。違うモノになったのだ。そこでまだ人間でいるというのは不自然ではないか、、、。

そうか、社長に復讐するためにも、入れ替わってやる必要があったか。
これは彼ならではの、宿命に対する復讐である。
いや、その宿命を利用し翻弄した者への復讐である。
それなら、解る?!

しかし愛情の方もやはり解る、、、。



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13F~サーティーン・フロア

13thfloor.jpg

The Thirteenth Floor
1999年アメリカ
ジョセフ・ラスナック監督
ローランド・エメリッヒ製作

クレイグ・ビアーコ
アーミン・ミューラー=スタール
グレッチェン・モル

ここで役者たちは、時代・立場を超えてひとり何役もこなす事になる。
充分役柄を理解した好演であった。

”13F”っていう題が余りに地味(又内容にほとんど関係ないの)だが、傑作である。
ここまで惹きつける映画は最近無かった。


1999年の科学者が1937年のバーチャル世界を創造し、創造主として実験的にその世界に介入を繰り返していくうちに、何と1999年の世界も誰かに創造されたバーチャル世界であることを突き止めてしまう。これはまさに天地を覆す驚愕の事実であった。

実は2024年こそが大元で、その時代に作った何千というバーチャル世界のなかで、1999年のバーチャル世界が唯一1937年という孫バーチャルを作ってしまう。それだけでも混乱を生じるのに、自分たちの世界がバーチャルであるという自己認識すらもってしまう。この発見をしてしまった1999年の博士はすぐにその部下(主人公)に乗り移った創造主に殺されてしまう。
ゲームのコマが自らがコマであることを知ってはまずいか、、、そりゃその時代での創造主の好き勝手が効かなくなるか、、、(当然あのバーテンのように防衛に出るだろう)。
しかも、そのオリジナルの時代でバーチャル世界を作った男の妻が1999年の、自分の夫をコピーしたバーチャル男(主人公)に恋をするということで混乱も増してくる。(顔が同じなので見ている方にも紛らわしい)。
何というか近頃流行りのゲームキャラに恋をする感覚なのか?
自分たちと同レヴェルに高度化したキャラであれば、ほとんど外国人に恋する感覚に近いか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ともかく作られた世界の住人は自我をもち勝手に発展するのである。
(その時点ですでに、バーチャルなんとかではなく、創造物以外の何者でもないが、、、)
最近のAIのディープラーニングの件をひとつみても高度な情報処理能力さえあればそんな展開も見られるのだろうかという気もしてくる。

つまりそこまでの自律性(主体性)と創造性が育てば、何が偽でどれが本物など全く意味が無くなる。
同レヴェルの存在と化す。
(現に1999年の科学者チームが、1937年の自己組織化するバーチャル世界を創造してしまうくらいだから)。
何であれその枠内でリアリティを持って生きていてば、仮想空間もなにもない、それでひとつのリアルな世界である。
その枠外からの超越的評価など余計なお世話だ。
1999年のポリスも終盤に例の妻に「この世界をほっといてくれ」と格好良く言い放っている。
(それが2024年からすれば逆に脅威ともなるところか、、、)。


この物語は創造主たちが、それぞれの世界に介入して好き勝手をしてお遊び(殺人)を始めてしまったおかげで、事件が起こり厄介なことになる話である。
意識を同期(ダウンロード)してその世界の特定の存在に乗り移ってくるのだ。
その間、その仮想空間の人間には意識・記憶がほとんどない(介在する余裕がない)。
そこで彼らは一定時間やりたいことをして、元の時代に戻ってゆく。
ただ、乗り移られた者も、大迷惑だが何も気づかないというわけでもなく、その時の経験が、何処かで遭ったことのある人(もの)などの残像イメージとして残る。自らの存在と経験に疑いと内省をもつ。
文字通り既視感である。


そんな介入を時としてわれわれも感じないこともない。
こういう、誰もがもちかねない疑念を上手く拾い上げて作っている作品であるため説得力がある。
(また実存としてある、われわれの超越願望を逆なでするように刺激するものだ)。

演出も良い。
レトロなVFXだが、必要充分な効果をあげている。
特にスモークとレザーは独特の風合いがあり饒舌であった。
世界の「果て」の光景には、郷愁すら感じ唸った。
(集合無意識的な「果て」であった)。
これは明らかにVFX技術に寄りかからない確かなプロットの映画であるからこそ可能となったものだ。

そして何より1937年の舞台が素晴らしい。
街並みや車やホテル、ダンスホールなどディテールまで説得力のある再現がなされていた。


一定時間放心していたり、記憶が飛ぶ経験のある人(わたしのように)なら、かなり共感とリアリティを感じるはずだ。

TheThirteenthFloor.jpg
最後はカーディガンズの曲だった。
選曲の趣味が良い。



セコンド

Rock Hudson

Second
1966年アメリカ
ジョン・フランケンハイマー監督

ロック・ハドソン主演


主人公は銀行家アーサー・ハミルトンから画家トニー・ウィルソン(ロック・ハドソン)に変身する。
すでに手術を受け第二の人生(文字通り)を送っている、死んだ親友からの得体の知れない誘いがきっかけであった。
アーサーは、頭取への昇格も決まった客観的に見れば何不自由ない恵まれた生活を送っている初老の男である。
死者からの電話にたじろぐが拒絶する気にもなれず、いざ指定された場所に行けば、問答無用で変身させられることになっていたのだ。
彼も今の人生に惰性と意欲の喪失は感じており、妙な尋問でその変身を漠然と承諾してしまう。
生まれ変わることを決意させられるのだ。(奇妙な決心だ)。
そして新たな人生に適合できなければ、次の顧客のための屍体として処理されることになるのだが、これについては、契約では知らされていない。
まるでカフカの小説みたいな話だ。
雰囲気もそっくりなのだ。

出だしからの話の運び、段取りのディテールがよい。
番地の書かれた紙片を電車に乗り込む時に受け取り、死んだ親友からの勧誘が電話であり、、、
出向いてみると、そこはクリーニング屋で、次に指定された場所が肉屋で、大いに戸惑いながらトラックの荷台に入れられて何処かのビルに運ばれる。
エレベーターに乗って部屋に通されるが、堪らず外に出ようと思っても、エレベータのスイッチがない。
どうしたら外に出られるのですかと人を捕まえ尋ねると、契約の部屋に通される。
そこからは、すべて会社のペースに乗せられてゆく。
この辺のヒタヒタ畳み込む心理的な描写は稠密であった。

契約にあたっての面接のやりとりも、奇妙で巧みなものであり、死因の選択や新しい職業も無意識を探って選び出してくれるというサービスぶり。
妙にディテールに凝った時代感のある手術の光景も異様な質感が際立った。
その後の回復までのリハビリも丁寧でリアルな描き方である。
見事に完備された新しい環境とぴったり寄り添う世話人の存在。
偶然浜辺で出会い、恋人になったかと思った女性が会社から派遣された監視役の社員であったり、、、。(このパタンには既視感がある)。
近隣の人でパーティーを催したら皆が生き返りメンバーであり、前世のことを口外する彼は不適応の烙印を押されることに。
(彼を批判的に睨みつける出席者たちの自閉的で閉塞した表情が凄い。これが逆に新たな生が幸せかどうかを自ずと照らしている)。
中盤、サンタバーバラの収穫祭で自分の若返ったことを実感として悟り、一気に高揚して新しい自分と環境を肯定し馴染んでゆくかに見えたのだが、パーティで酒が入ったところで、今の自分への違和と前の生への拘りが思わず噴出してしまうのだ。

しかしひととはそういうものだと思う。
若返って独身に戻り、なんとなく憧れを抱いていた画家という立場を得たといえ、それで満足感や充足感が得られるものではない。空虚は増幅されるはずだ。アイデンティティは、姿形の変化に直結するはずないし、精神がそのあり方・立場を受容できなければ安定するとは思えない。しかもそれが自ら得たものではなく与えられたものであれば当然であろう。更に彼の場合、前の人生にそれほど不満や喪失感をもっていたとも想像できない。
誰でも本質的に実存としての不安と、日常的にあの時やり直せればという悔恨は持っている。
人間自体をやめない限り、やり直せばそれがなくなるというレヴェルのものではない。
また、なくす必要がないであろう。ただ、多様な生をそのまま生きれば良いのだから、、、。
(それを言ってしまえばそれまでか、、、)。

終盤、新しい人生がとてもやりきれなく、死んだ自分の友人という立場で妻の元を訪れるが、自分の居場所などきれいに消されており妻は清々としていた。生前の自分のことも「よく分からない人。現状に満足はしていなかった人」くらいの認識しか持ってはいないのだ。
このかなり気落ちした究極的な寄る辺なさは、彼に再度の新たな人生の選択を決心させる。
彼は藁をもすがる気持ちで、会社に掛け合おうとする。

しかし会社の方針は決定していた。
彼はすでに「次の段階」に進むことになっていたのだ。
彼は調度よい、新しい顧客の屍体役であった。
その処理は粛々と行われる。

終始、妙に身体的な生々しさが引っかかった。
この質感が特異な感じを残す。
カメラワークも身体性に絡む異様なものであった。
そう、やはりカフカの「変身」や「審判」に近いものを覚える。



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雨月物語

ugetsu.jpg
上田秋成の読本『雨月物語』から2編、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を脚色し制作されたもの。
1953年
溝口健二監督
宮川一夫撮影
川口松太郎、依田義賢脚本

森雅之
京マチ子
田中絹代
水戸光子


何といっても圧倒的な映像美の世界である。
宮川一夫の撮影―絵には驚嘆する。
幻想の極地である。
ものの本質はこのような「幻想」によってあからさまになる。
その意味で、真のシュールレアリズム作品である。

森雅之の源十郎の眼前に京マチ子の若狭が異様なアウラとして現前した瞬間と最後に田中絹代の宮木が源十郎に幻(霊)となって再開する件は筆舌に尽くせない。
特に、源十郎が迷い尽くした後、荒れ果てた自分の住処に戻った時の光景には、何故か深い既視感をもった。
何故だろうか。
自分の原体験と重なるものを色濃く感じたのだ。
このような本質的力(吉本隆明の言う意味での)をもったものに接する時に感じてしまう何かである。

長旅の末、家に戻った時は真っ暗な人気の無いがらんどうであった。
しかし、再度入りなおすと何やら明かりの中、妻が長く放蕩していた彼を暖かく迎えてくれるではないか。
酒と鍋まですでに用意されている。
息子も無事ですやすや眠っている。彼は息子を抱きしめ心からこれまでの過ちを悟る。
安堵した源十郎が酒を飲んで寝いってしまった後も宮木は彼の着物の繕いを愛おしそうにしているではないか、、、。
この余りに美しくも儚いシーンは、この先何年経っても忘れられないに違いない。
わたしの欠け落ちた郷愁を埋めるものだ。

筋書き―ストーリーはこの際何でもよい。
無論、諸行無常、世の儚さを綴った物語、脚本も秀逸だ。
しかしこの映画の強度は(差異は)この絵にある。
幻想の力が極めて高度に発動した際に、はじめて現れるレアリティである。

やはり新しい物語は、このような幻想から生まれてくるのだ。
わたしもこのような幻想による生の更新を図りたい。

制作以外にないな、、、。


闇という存在~カラヴァッジョ

Maria.jpg

1606年にカラヴァッジョが描いた「法悦のマグダラのマリア」が400年ぶりに発見された。
2014年のことである。
松岡正剛氏曰く「これは、もうひとつのモナリザである。」


闇に身を任せ溶けゆくマグダラのマリアだ。
ティツィアーノの豊満なそれとは、かけ離れたマリアである。

闇とは何か。
教会の闇である。(教会は昼間でも暗い)。
救いを求める祈りの空間である。
無限空間に通じる場である。

それにしても深い闇だ。
あまりに深い。
この絵において闇は闇という存在であり、そこから光が析出されている。

故郷のカラヴァッジョ(ロンバルディア地方)における、伝統的な光と影によって織り成される教会壁画が身に染み込んでいた。
それは彼のルーツとも言えた。
写実に特に秀でていたがそれは、象形的フィルターを通さない絵であった。
彼の現実の延長線上に生成されるものであった。
平板で説明的な象形であり単なる宗教闘争のプロパガンダに過ぎない当時の宗教画(カラッチなど)とは全く異なる次元にいた。
キアロスクーロ(明暗法)を超えた闇自体のの精神性を湛えて。
すでにバロックを予感させる絵画でもある。

「法悦のマグダラのマリア」

カラヴァッジョが最後まで手放せなかった絵であったという。
調度ダビンチがモナリザを生涯手放さなかったのと同様に。


僅か38歳で逃亡先の海岸で熱病で倒れた画家である。
天才といえばこれほどの天才は考えられない。
しかも終盤は逃走ばかりに明け暮れる日々であった。
何という、、、。


謎は多い。

画家として成功しながらも暴力沙汰を繰り返す生活に溺れた天才。
これは一体何によるのか。
早くからフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の庇護を受け制作に没頭できる環境に恵まれながら、何故絵筆よりも剣をもっている時間の方が長かったのか。
(この枢機卿自身、錬金術に明け暮れる面白い人であったようだ。)
しかし強大なパトロンを得て名声も手にしながら、ますます生活は荒れてゆくばかりであった。
殺人を犯すほどに常に殺気立っている心境とはどのようなものであったのか。

死の影は幼い頃から彼に付き纏ってはいた。
死と貧困、ペストの流行。
両親を若くして失う。
カトリックに対する異端公開処刑もローマに出てからは毎日間近に行われていた。
そして殺人により独り逃亡者として死と隣り合わせの緊迫した不安な日々を送ることに。

もう一つの謎。
これは彼の絵のかなり本質的な部分に触れるはずである。
主題が何であっても、彼の日常的現実から遊離しない形象世界。
それを殊更強調するかのような描写要素のひとつ。
彼は自分を様々な絵に登場させてゆく。

しかも宗教画に自分を入れるものか、、、。(いま他に、思い当たらない)。
『病めるバッカス』、『合奏』、『聖マタイの殉教』、『キリストの捕縛』、『ラザロの復活』、『聖ウルスラの殉教』、『ダヴィデとゴリアテ』(ここでは首を切られたゴリアテの顔となっている。大胆というか、不吉ではないか、、、)。
ラファエロ・サンティ が「アテナイの学堂」 で自画像をアベレスに当てて描くようなパタンはわりとあるものだが。

精神分析的な考察からも充分一冊の書物が書けるものではなかろうか。
しかし単にそれだけでは物足りない。
存在学的な受け止めがもっと為されてよいし、、、
ダークマターとは、こんな闇をいうのではないか、という気がしてくる。




反復

sun.jpg

機械的に今朝も公園に歩く。
何も考えず、何も想わない。

自動的に公園に着く。
噴水の細やかな霧に当たり、風に吹かれ、木々の中を抜ける。
ほとんど幽霊みたいに。

冷たく射すリズミカルな木漏れ日に神経が安らいでゆく。

この反復が基本となりつつある。

痺れと凝りは相変わらず続いているが、感覚を統合・調整したい。
自然の、天然のマッサージにより。
これが一番優しくて良い。

水も美味しい。

今日は、あちこちの整備された花壇ではなく、メタセコイヤの木々の脇に自生していた綺麗な花にこころ奪われた。
また明日もここに来よう。


9:00~11:00調度良い。


ダークマター

darkmatter.jpg

最近、しきりにこの言葉―名称が耳に入る。
Tvでも話題になる。
特に調べるでもないが、何となく気になっている。
ダークマターとディープラーニングは、巷でよく囁かれるようになった。
AIにおいて、ディープラーニングによりパターン認識は飛躍したそうだ。
(以前は機械が人に勝てなかった領域だった)。
テクノロジーの進歩にそのまま結びついてゆくものなのか、、、。


ダークマター、、、
まず分かっている物質だけをもとに考えたのでは、この宇宙がこのように創造された説明ができないとこから始まっている。
つじつま合わせから、仮説を作り、その実証は「感度」の問題になるのか。
ニュートリノ発見の延長上にそれもあるというわけか。
これもテクノロジーの進歩により可能となると目される。

しかし質量はあるが一切の相互作用をしない物質とは、、、。
それでこれまで、何にもひっかからなかったのだ。
しかもそれがなければ均質なため、あらゆる物質は生まれなかったと。
つまり宇宙自体が生まれなかったということになる。
あまりに本質的な問題ではないか!

不活性ガス、キセノン中で何らかの反応―光を発するものにめぼしをつける。
確かにそのような方法で近づく以外にないのだろう。

それは1リットル中に1つは存在するという。
これってかなりの密度ではないか、、、。

そんな物質が、これまで発見されないということの方が不思議になる。
やはり、まだまだ不思議で分からぬなことの方が多いものだ、という実感に浸ってしまう。
そして知らないことすら、分からないままで終わってしまう事がどれだけあるのか。
そんな不安に駆られる。
また、知ることで更に分からないことが認識される。
恐らくその繰り返しなのであろうが。
われわれは、知らないではいられない存在である。
そう、知らなくてはならない!


宇宙の物質の84%は、光を放ちもせず吸収もしない。
これ自体暗黒ではあるが、これに対して盲目であったらそれこそ暗黒であろう。
その解明による意識・認識における大きな変革は必ずあるはずだ。
まだ当分、認識の暗黒時代は続くのだと思われるが。
超巨大ブラックホールの中にこそ、安定した居住空間がある、などの説も出てきている、、、
後から後から、新たな仮説は幾らでも出てくるだろう。
だがそれが存在にとっての不可欠で不可避な運動である。
これは確かだ。
もしかしたらそれに終わりは無いものか?
それとも、、、

地球幼年期の終りは、何時ごろになるのだろう。

いや、同時に自分(という特異点)にとっての幼年期でもある。
自分を成立させているダークマターの解明は独自に進めていかなければならない。
(大局的―普遍的な説とタイアップできる部分を実は期待している)。



プリンスを聴きながら、徒歩で娘と公園へ

chinode.jpg

今日は、娘ふたりを連れていつも車で行く公園に徒歩で行った。
(わたしは運動のため、すでに二日ばかり徒歩で通っている)。
かなりの時間を要することは見えていたため「プリンス」の曲をiPhoneに入れて聴きながら出かけた。
次女は初めての徒歩による遠出である。長女は一度経験しているためしんどさは知っている。
どれだけ歩く事になるか、次女は想像もせずににこにこついてくる。
だが、徒歩の言いだしっぺは、次女なので、仕方ない。
長女は覚悟を決めた表情で歩いている。
どうなることかと思いつつ、明日は日曜日だし、とりあえず試してみようと思った。

わたしはプリンスの曲では、モロにロックという感じの曲が好きだ。
彼のギタープレイの冴え渡るロックがとくに良い。
マイケルジャクソンは優れたパフォーマーでダンサーであったが、プリンスは優れたコンポーザーであって、プレイヤーであった。
しかしソレにとどまらず、黒人でありながら完全な白人ロックをコンポーズするその特異なアイデンティティが光っていた。
しかも、コピーや亜流ではなく独創を感じる刺激的な白人ロックを生産していた唯一無二の存在である。
所謂、ファンキーなブラックミュージック的なものもよかったが、イギリスのロックミュージシャンがやっていてもおかしくないようなやつが特に好きであった。
しかし、はっきり言ってそれほど熱心なリスナーではなかった。
マイケルジャクソンと同じくらいは聴いていたというところか、、、。
ファンからは、随分遠いところにいる。

さて、公園徒歩二日目に車で駐車場に行く遥か手前のショートカット、いきなり木漏れ日の道に入る口を探しておいたため、そこから入ることに決めていた。
だが案の定、次女が後どれくらい?もう半分来た?としきりに聞いてくる。
疲れたの?と聞くと「うん」と答える。
公園に着いたらゆっくり休ませてあげる、と応えそのまま歩き続けた。

すると右側の歩道をゆくわれわれの背後からおばさんの自転車がどけどけという感じの声を上げつつ突進してくるではないか。
すぐに子供は脇に避難させたが、何でも「前が見えなくて止まらない」みたいなことを叫んでいた。
子供を前の荷台に座らせた母親の乗る自転車であった。まあなんと血迷ったものか、、、。

プリンス聴いてる場合ではないのでイヤフォンを外し、交通安全体制のレヴェルをアップした。
ふたりを前に歩かせ、後ろから監視して歩く。
長女・次女・わたし。
そうこうしているうちに、ショートカット入口に到着する。

ここだけ車の激しい横断歩道のない大通りを横切るため、両手でふたりと手を繋ぎ横切る。
キャーッと言いながら横切る。
するともう木漏れ日の道の一番の端にいるのだ。
いつもは、そこまでは歩かない端っこなのだが、すぐに本流に繋がるところである。
車の駐車場からは、遥かに手前である。
不安になりかけた次女もウキウキして満足気であり、長女も「もう着いたの?」拍子抜けの感じであった。
長女は以前より確実に体力は増していた。この時期の1歳は大きい。

変化に対する対応は常に怠れない。
外部からの来襲も含め。
事故にしてもインフルエンザにしても、、、。
気は抜けない。
しかし、一番大切なのは、成長(成熟度)に見合った見守り方と環境・情報刺激の与え方であると思う。
これは完全にルールのない個々に対応した個別指導のレヴェルのものだ。
長女は絶えず、手をわたしと繋いで歩く次女とは異なる、距離をもった歩き方で、自分で歩いてきた。
着々と自意識を更新している(内的言語の増えている)のも分かる。


公園で充分遊んだ帰りに、お喋り次女が道端のラーメン屋さんに入ろうと言い出した。
以前、夕暮れどきに散歩に出かけたときは、焼き鳥屋に入ろうとせがまれ入って食べている。
まるで、おやじである。
将来、酒飲みになりそうな気配が漂うが(そういう雰囲気が充分あるが)、それはいま心配しても仕方ない。
ベーシックなラーメンを注文して食べた。
かなり美味しかった。
また来ようね、と言って店を出たら間もなく長女が上着を忘れた!という。
(学校でもしょっちゅう忘れ物をしているのだ)。
ああまたやった、と呆れたら何と隣の座敷にいた同年齢の男の子が、「ハイッ」とピンクの上着を外に走って届けてくれたではないか!
呆気に捉えられながらも長女は嬉しそうにそれを受け取り、共に礼を述べたのだが、今日一番想定外の出来事であった。

長女が気づくより早くその子が事態を認識し、素早い対応をしてくれた。
世界は刺激と変化に富んでいる。
深く有意味な対応―認識を大切にしたい。






ピンクムーンは見えない

moon.jpg

今夜見えるはずの今年最も小さな満月が見えない。
4月だし、桜の月などと、風情があるではないか、、、。

だが、、、
出ていないのだ。
いつも見る空に見えない。
最初は6:30に見た。
ピンク・ムーンと言っていたら、娘がにこにこしながらやって来た。
確かにセラー・ムーンの一人みたいに聞こえる。
あるべきところにいない。
関係ないとこまで一緒に見回してしまったではないか。

今やり始めていること(まだ言えない)
つい先ごろ家に届き、読み始めた本も
見えないものを見えるようにする為のものだ。

そこに出ると観測・理論上分かっているから、今出ていないことも分かる。
自明となり透明になってしまったシステムの不条理極まりないな形体を可視化することも、芸術や学問の役目だ。

もう少したったら空が晴れ渡るだろうか。
そのときが来たら見てみたい。
ピンク・ムーン!


隠れた思考パタン、分類、ヒエラルキー、メンタルマップ、シグナル。
それらの無意識的生産構造と浸透作用。
そしてそれを強固に維持する共謀的沈黙―ドクサ。

確かに見える、見えないだけではなく、語れない真相がある。
しかし見えないものを見、語れないことを敢えて語る必要がある。
何処にも潜む、権力構造は常に打ち砕かなければならない。
というより維持させてはならない。
この身辺から解体させてゆく。
徐々に外へ、、、。

運命の奴隷となってはならない。

エピステーメー。
(プラトンが読みたい、、、)。

ピンク・ムーンは未だ見えない。
今日のところは諦めるか、、、。
こればかりは、どうにもならない。
自然という項。


何故か娘とセーラームーンcrystal3を見ることに、、、。
金曜日だからよいか。



いつもの公園まで歩く

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長女と以前、歩いて行って帰ったこともあり、わたし1人なら気楽に行って帰ることのできる公園には違いなかった。
雨が降る前には、行って帰ってきたい。
そこで足早に歩いた。
何故歩くかと言えば、運動の為である。
血圧が低い日は、早朝に歩くことに決めた。
病院の雑誌にこれでもか、というほどRUNに勝るウォーキングのメリットが書かれていた影響を受けたのだ。
よくある健康本だ。


車でいつも行く道の歩道を歩いていたが、排気ガスをこれほど吸いながらそこを歩く必要はあるまいと感じ、脇道を途中から選んだのだが、、、。
脇道はどんどん脇に逸れるばかりで、公園方面から遠のいていくのだ。
折角、緑舗道みたいなところに入ったのに、これは虚しい。
いよいよ遠ざかってゆく。
道なりにしか歩けない不自由さに愕然とする。
カフカの「城」状態になってしまうではないか。

車や自転車ならすぐに戻ることができるが、徒歩だと修正に費やすエネルギーがかなりのものになる。
徒労感のダメージがのしかかりつつ何とか戻った。
やはり素直に大通りの車道脇の道をひたすら歩くのが近かったと思い知る。
脇路に入るとかえって突然車がスレスレに入ってきて危ないことも分かった。
特にバイクである。
かなりの速度で曲がってくる。
日頃歩かない道を実際に歩いてみて道路事情を知った。


足早に歩いて調度一時間かかった。
そんなものだろう。
缶コーヒーを飲んで、噴水近くでマイナスイオンを浴び(その気分に浸り)、木漏れ日の道で森林浴をして、すぐに帰路に着いた。
降りそうな気配である。
「うまみ」というコーヒーを飲んだが、面白い味の缶コーヒーが出たものだ。
ちょっと意外だった。

帰り道はいつもの車道脇の歩道をそのまま歩いたが、かなり歩きにくかった。
自転車である。
やはり車道は怖いので彼らも歩道を走る。
右側走行の自転車がかなりの速度で背後からすり抜けてゆくと、ビクッとする。
勿論、前方からも来るが、それには準備できる。
だがやはり多少のストレスは感じてしまう。

スポーツ公園にあるジムでトレーニングするのとどちらが良いか考えながら歩いた。
結局公園でのんびりできる方に決めた。
時間的に、だだっ広い芝生にほとんど誰もいないのだ。
そこが待っているなら、途中はそこにたどり着くまでのゲーム的な道程である。
それはそれでよしとしたい。
道にも慣れてくるはずだ。


考えてみれば、これまで健康を目的にした時間というものをこんなに取ったことがないことに気づいた。
ストレッチを何かのついでにした記憶はあるにせよ、しっかりした体操などわざわざした覚えがない。(忘れてるだけか?)
わたしのなかでは、単に健康のために時間を費やすということに価値はなかった。
眠ることの重要性に最近、気づいてきたところである。
サーカディアン・リズムは血圧にも大いに関係するという。

そう、自分に最適なリズムを得る為に時間を割り振る事は、認識面においても肝要ではないか、と感じる。
歩くことは、続けてみようと思う。
脚が鈍感になっているのか、、、筋肉痛とかこれといった疲れの感覚はない。
今後どうであるか、、、。
顕著な変化があれば、報告したい。






実験は続く

saboten hana

本格的に季節が変わった
暑い

今頃から種蒔き出来る花の種が幾種類もある。
内緒で蒔こう。
裏庭あたりに、、、。
花が咲いたら驚くはず。
花は唐突に咲く。
多肉やサボテンは特にそうだが。
植物に然程興味をもたない娘たちも、目を覚ますくらいパッと咲かせてみたい。


そろそろ色々な処に内緒で種を蒔いていきたい。
面白いではないか。
ワクワクするような春の仕掛けが出来たらよいのだが。
企みである。


このブログも、もうすぐ3年目になる。
早いものだ。
途中2ヶ月ほど入院などで途切れもしたが。
ブレながらも続いて来た。
今もブレている。
それは仕方ない。
存在自体が常にブレているのだから。
それに任せて一種の実験をして来た感がある。

いやわたしにとって実験以外の何ものでもなかった。
その時咄嗟に準備した素材の化学反応を楽しんで来たというところか、、、。


何を書くかなんて何も分からずはじめたが、実は今も分かっていない。
盲滅法の種蒔きに近い。
だがこれも投企である。

種類の分からぬ種を撒く、、、。
ほんとうに何に成るか分からない種なのだ。
面白い。
それが水や肥料や風通しや日照具合で何かの芽になる、、、
ように見えて得体の知れぬ潜在的な力の作用であらぬものになってゆく、、、。
それが面白い。

これからもやってみよう。


面白い実験がまたあちこちで出来るとよいのだが。



明日は娘と絵を描く約束だ。

夜の音

Andromedē002

最近、異様に夜の音が耳に冴えてくる。
へたをすると、月の音も聴こえてきそうだ。

昼間は窓の外を爆音で走り去るバイクの音やお買い物の途中のお喋り、、、くらいか。
3時位になれば、学校帰りの子供たちのキーの高い声があちこちに弾けて、、、
うちの娘たちのお喋りが間近に生々しく響き、、、
彼女らのいつものiPadのアニメ声が独特のリズムで反復される。
夕方には、ピアノの音、時折姉妹の大喧嘩の引き攣る声、、、
で、ソワソワ落ち着かなくなる。
お風呂に入って暫くぼんやりし、、、
やがて音がとぎれとぎれ
水滴がポタポタするくらいになってくる。
(我が家の水道は、一箇所もう半年以上にわたって漏れているところがある)。


彼女らが寝込み、完全に夜の帳も落ちる。
やがて静寂が音連れると、途端に違う音の気配が迫る。
娘たちもしきりにお化けを怖がるのだが、恐らく関係はないと思う。
充満した気に篭る音である。
やはり気配というに近い。

蝉が無音で派手に鳴いている感もある。
耳鳴りか?
そう、耳鳴りもあるのだ。
この辺に、環界と身体の相互嵌入を覚える。
縁の感覚。
たこ焼き器の上と下。


そうだ、もうじき軒下に吊るす風鈴の季節だ。
これを日本古来の鐸(さなぎ)にしてみよう。
舌の部分のない風鈴を吊るし、音連れる風を聴いてみたい。
今年はこれをやってみようと思う。
かつては、風は遠くの山を越えてきたという。
恐らく、その山のむこうから何をか運んできたはずだ。
希な情報なのか、解読不可能なものなのか、恐ろしい徴だろうか、、、


今来るとしたなら、一体何処からやって来る風なのか。
それは放射能を含んでいる風なのか。
PM2.5や黄砂を運んで来る風なのか。
界隈の瘴気を集めて来る風なのか。

アンドロメダから宮沢賢治の仲介でやって来た音ならよいのだが、、、。





写真について

Gibeon meteorite
4億5千年前に地球に落下した隕石。


片付け仕事は、とりあえず一区切りしたのだが、どうしても見つからないものがある。
古い写真が見つかったのは良いとして、それより新しい写真群が見つからない。
ちゃんとしたカメラで撮り始めた頃のものである。
それらは、敢えてアルバムに入れず、桐箱に入れて何処かに大切に保管したことまでは覚えているのだが、、、。
仕舞い場所が何処なのかが、どうにもはっきりしない。
地中に埋めてないことだけは確かなのだが(笑、一時期の写真群だけスッポリ抜けているのだ。
それが、昨日夕刻から気になり続けて、、、どうにもならない。
薬は飲んでいるため、眠ることは眠れたが、気がかりができてすっきりしない。

やはりこれは、深刻な物忘れなのだろうか。
生活を脅かし始めたら、誰が何を言おうが深刻な事態となる。
今のところ、次女の保険証を失くしたくらいであるから、楽観視はできないが、慌てる程のことでもないような気がしているが、、、。
物忘れは、バカにはできない。
重大な事をごっそり忘れていて、そのこと自体に気づかないで何の問題も感じずいることもあるかも知れない。
コンテクストの片鱗を握っているから、忘れたという意識がまだある。
気になってしょうがない、気持ちがある。
だが最初から最後まできれいに失くしていたら、無い事すら知らない。
無かったことで、良ければ良いような気もしてくるが。

そんな事も実は幾つかあったのではないか、と思う。
それで、支障なく生活できていたなら、それでよい。
家の母親を見れば、忘れることが如何に逞しく生きることに繋がるかがよく分かる。
基本、自分に都合の悪いことを全て海馬や大脳皮質から消去できれば、きっと長生きに繋がるだろう。

しかし、忘れてはいけない事がある。
今の自分を少なからず形成するに至った、暗黒期である少年時代の記憶である。
少年時代とは、ロマンチックに美化されるに値するものとは言い難く、体力、知識、経済においても圧倒的に弱く依存的で抽象的な存在の時期であり、言い換えれば奴隷の時代の記憶に他ならない。
それがよく淡い郷愁に彩られた何か帰るべき世界のように描かかれた作品などを目にすることは多いものだ。
しかし実態としては不可避の暴力に晒され続け、その認識に形を与える言葉を欠如した暗黒時代であり未開の時である。
ここに言葉をあてなおす作業は、ことに触れてしてゆく必要がある。
内省的な(反省的な)知である。
知により、光を当て直さなければならない。
解放のためであり。
反復のために。

写真は大脳に替わる記憶装置としての役目も果たす。
勿論、それは芸術にも展開する路も秘めている上、何より感情を導き出す作用がある。
感情が沸き立たなければ、初めてのことばが生成されない。
差異が生成されない。
新たな反復が望めない。
写真は、その点で優れた装置なのである。
思い出すより遥かに大きな覚醒に路を開く。
その過程で作品も生まれてゆくかも知れない。
(自分だけのものでも良い)。


それが、無性に気になり始めていたのか。



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原風景Ⅱ ~All is lost

昨日の続きで、かなり違う傾向のものを。
いや基本的に全く同じであるが。
これらは皆ソースに過ぎないものであった。
(もう方付けようと思う)。


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ただ、闇を撮りたかっただけか。
闇にも目印は必要だ。
この徴が十字架ならば、カラヴァッジョの救いのない闇だ。

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どこの扉だろう。勿論、もうあるわけもない。中にあったものも諸共、、、まだあったとしても知りようもない。
仕舞い込まれて、明かされることのない無意識下に沈み込むもの、、、
または、ただの厚みも奥行もない書割であったか。


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最近はとくに、こういう剥きだしのモノは見なくなった。災害とか事故のときなどにふと顔を見せるが。
ある戦いの秘められた名残にも思える。
そう残骸だ。


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ほんとうに宇宙の隅っこ感が半端ではない。稲垣足穂に見せたい(笑。
この写真、好きだ。
こんな一角があった。


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当時のわたしの心象風景か。
底知れぬ不気味な淋しさ。
絶対零度の光景があるなら、、、。


わたしのルーツであることは間違いない。





原風景 ~鉄

子供のおもちゃの片付けをしていたのだが、しまう場所がなくなった。
余りに多いのだ。
それでわたしの物品を少し整理し、その場所に取りあえずは置くことにした。

その時に、古い写真が掘り出された。
文字通り、そのように発見されたのだ。
1979年と書かれている。
多分、当時自転車に小さなカメラを装着して、うら寂しい光景を撮っていた頃のものである。
かなり夥しい数があった。

10%の画質でスキャンしたものを幾つか、、、。
紛れもなくわたしの原風景である。
これらのメモをもとに絵を描いていた。(写真作品としての価値は全くない)。
絵は、ほとんど抽象である。

ボードにリキテックスで描いていた。
リキテックスは性に合う。
わたしはせっかちであり、瞬時にものを仕上げてしまいたいからだ。
油絵はいつまで経っても乾かないため基本的には選ばなかった。

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あらぬ彼方をうち眺めるダイナソーである。

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ダイナソーが方向性をもって移動してゆく。

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いつも自転車で通る道すがら、米軍の施設(設備)は常に肥やし臭い畑を挟んであった。

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よく出逢った、電動車椅子の紳士である。今日はどちらの路にするか、というところか。

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このようなカップルの写真はいくつ撮ったことか。かなりこの手のものはある。

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独り者であるが、そこそこ楽しそうである。

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わたしの写真の最も典型的なもの。実際、こういったところが結構有り、自転車でこの中を走ったこともある。
クモの巣に巻き付かれることもあり、充分先を確認しつつ走らなければならない。


大概、鉄との出逢いである。
鉄は最も安定した元素であり、地上のどこにでも見つけることのできる身近なモノである。
恒星の核分裂も鉄どまりである。

何というか、、、確かなものとの接続であった、と思う。



今夜は出てきた写真をしみじみ見ながらワインでも呑んで過ごしたい。


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池のある公園

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近くに3つの公園がある。
1つは女子美隣の噴水の幾つもある公園、もう1つは50mプールのあるスポーツ公園、もう1つは白鳥とでかい鯉と亀のいる図書館隣の交通公園。
今日は交通公園で、池の亀などをのんびり見て過ごした。
と言っても20分くらいのものである。
最近は全く来ていない、思い出深い公園である。
わたしが高校の頃は、ここに足繁くやってきたものだ。
道路脇にあるラーメン屋が目当ての一つであった。
見た目はこってりに見えてスッキリ味の飽きのこない旨いラーメンであった。
決して図書館目当てではない。
わたし自身が読みたい本は、この図書館より自宅の方が充実していた。
今とんと足が向かなくなったのは、ラーメン屋が途轍もなく酷いものに代わり、わざわざ行く意味が失せたからだ。
(代わってから一度食べに行き、激しい怒りを覚え残して帰ってきた)。

しかし、今日久しぶりに公園を訪れてみて、ここの池は捨てたもんじゃないと分かった。
池の水面の隅の方は、昔わたしが写真に撮った時と同様に桜の花弁がぶ厚く覆っていた。
その桜の絨毯に見紛う写真を表紙に”AQUA”という同人誌を作った事を思い出した。
2号までしか出さなかったが(笑。
今日もほとんど同様に想えるテクスチュアと重みである。
ピンクの多様に腐った色相の絨毯が、深い吐息のように揺れて見飽きない。

亀が緑の池でノンビリとゆっくり泳いでいる(としかみようのない)のを見て、こういうのもあったのか、と思った。
気づくのが遅かった気がする。
何故かわたしも亀に成れていたかも知れないと思った。

真昼間である。
周辺にいた数人の男女がそのやりとりからひとつのコミューンであることが感じ取れた。
おそらくいつもここらへんで、池を見て過ごしている人々なのだ。
「生き物に餌をやらないでください」の看板越しに、時折パン屑を投げていた。

大きめの亀と小柄の亀が何故か頭突きをする形で頭を突き合わせながら相対して泳ぐでもなく浮かんでいる。
ずっとそうしている。
はじめは大きいのが小さいのを虐めているのか、少なくともからかっているように思えた。
小さい方は明らかに大きいのより単位時間内の脚の漕ぎ数が多い。
最初は焦って防御に回っている感じがした。
しかし分からない。
自分にとって不都合な相手ならば体を翻して逃げれば良いのだ。
お互いにジョーズみたいに食いついたりしない種類である。
先程から近くで潜水を繰り返して遊んでいる亀もいる。
潜水して逃れられないこともなかろう。
案外、仲が良く遊びのひとつでやってるのか、求愛の行為なのかも知れない。
ここらは、亀の専門家でなければ分からないところか。
兎も角わたしには、分からない。

亀の考えも分からないし、コミューンの人たちの事も分からない。
ただ、後者の場合、言葉は分かる。
リーダー格がその他の人々に何やら話して聞かせる形でコミュニケーションがとられている。
最近の出来事、今朝の事など、何ということもない事が切れ切れに語られてゆく、、、。
おもむろに彼がみんなに食べ物を分けはじめる。今日のオヤツという形らしい。それもパンか。
皆喜んでいる。
別に先生と生徒とか管理者と参加者などではない。皆ほぼ同年齢の初老の人たちだ。
どこかのホームとかから散策で来たのではない。
そういう組織性ではない。
この池のベンチのところにいつものように集まって来た単独者たちの間に出来た繋がりなのだ。
それだけは、会話から察することができる。
この池の、ゆるーいコミューンという雰囲気。
そうこの池なのだ。この亀とどでかい鯉と白鳥のいる池。しだれ桜の花弁の舞う、、、。
わたしは、今彼らの外縁にいる。


立ち去る気もなく、それ以上入り込む気もない。

暫くそのまま亀を見るともなく眺め続ける。





娘ふたりと女子美へ☆彡

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学校から帰ったと同時に、娘ふたりを連れて女子美のアートミュージアムへ。
月曜日にわたしがたまたま入ったところである。(であるからわたしにとって二回目となる)。
そして娘たちにも見て欲しくなったのだ。

面白い虫作品の話をしたら2人とも興味を示し乗ってきたので、ピアノ塾の次の日である今日行く約束をしていた。
2人ともモノを作るのが大好きであること。
とくに長女は虫を平気で手でつまめ、カブトムシに馴染んでいること。
この辺が決め手でもあった。

しかし、その長女が今日のことをすっかり忘れていた。
友達と遊んで道草食って少し遅れて帰ってきたのだ。
(如何にも長女らしいところだが)。
彼女が門に入ってくるなり、すぐさま車に乗せアートミュージアムに向かった。
5時に閉まるところもう4時を越えている。

しかし、道も混まず心配することもなく女子美には早めに着き、ゆっくりと見て回ることができた。
娘たちがそんなに長く鑑賞できる訳が無く、時間的にもちょうど良い。
彼女らはきまって少し広い空間に入ると、以前であれば、走り回ったり順路の白い線上を遊びに使って監視係に注意を受けたりしたものだ。
だがさすがに作品を見に来たという意識はもっていた。
もう小2なのである。
当然といえば当然であろう。
ただ、わたしの方で面白そうな作品コーナーに誘導しようとしても、彼女らは自分の見たいものを見に行く。

「あたらしい朝がきた」のところで、色々なモノやモニターが立体配置されていることに興味を惹かれたようだ。
よく知っているモノが何でこのように定位されているのだろう。
明らかに日常文脈から宙吊りされたモノたちであり、あっけにとられている。
それから文字が書かれた紙が燃やされていること、、、これには不思議がっていた。
よく見てみると、小さい人がいること、、、しゃがみこんでじっくり見ていた。
顔がないね、と次女が言う。
全体として見回しても、部分―細部に目を凝らしても、色々見方、発見があったようだ。
いや、どう見たらよいのか分からぬ体験をしたようなのだ。
またその作品の中に自ずと入ってしまうことが大きい。
同時に身体的に様々な体勢で動くことを促される。
極めて身体的な鑑賞なのだ。(体験と呼ぶべきか)。

考えてみれば、これは彼女らが居間で毎日、自分たちの身の回りを取り囲む形で作っている工作空間に相似している。
我が家ではそれを、散らかっている、と呼んでいるが、彼女らにしてみれば有意義なコンフィギュレーションを身体的に生成していることが想像できる。
祖母がうっかり構成物をズラしたりすると怒ったりする。
それを今度は他者の作った形体―場所の中に身体を置いて何かを感じ取っているのだ。
言語以前又は言語以上の意味を彼女らなりに拾っている。
しかし、何というか臓器移植ではないが、他者の身体性に対する違和は当然あるものだ。
わたしはそれをこれまでの何に対しても感じてきた。
だから他者と呼ぶのであるが、、、。
難しいものである。身体性における共鳴。
しかし言語であるなら、抵抗はないが全く無力で不確かだったりする。
やはり、その場所に入ってみるしかないのだ。

わたしは、最初そこに拘っていることが意外であったが、納得できた。
こんな風な場所が毎日少しずつ形を変えて、今もうちにあるのだ。
彼女らが自然にそこに行くのは、解る。
そして早く女子美に入って広い空間でアートを思いっきりやって欲しい。(まだ気の遠くなるほど先だが)。
うちの日常空間においてはどうしてもそこは邪魔なのだ(苦笑。

これは、インスタレーションにも展開しかねない芽を秘めている場所である。
日常環境に重なり異化する装置にも成り得る。
日常の方が変わればそれはそれでよいのだ。


わたしは、今回も虫をじっくり眺めてしまった。
そこにある虫が作家蔵であるとすると、部屋にどのように並べられているのだろうと、想像してしまった。

娘たちは大きな鉄の像にも興味をもったらしい。
確かに普段見ることは出来ない形だ。
だがわたしが高校生くらいまで、街のちょっとした隅にこのようなオブジェが残されていた感はある。
あまりに面白いので写真に収めて回ったこともあった。
既視感より郷愁を覚える作品が多かったと感じる。
今は、ホントに鉄の塊を見なくなった。


娘たちが生まれて初めて作品の感想を書くという経験をした。
今日は、フロアにも公園にも人がいなくて贅沢に場所を独占できた。



次の作品展にまた来たい。





じめじめする

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久しぶりに書庫に入ると、書庫といってもうちのは、エアコンだけはとりあえずあるただ本とキャンバスをひたすら置いている(トミカとフィギュアも少しある)倉庫に過ぎないのだが、湿気で大変なことになっていた。この時期もうこんなに湿気がくるのだ。
お目当ての本を幾つか探しているときのことだ。
本がいやに湿っているのに気づいた。

かなり昔の写真集で、ページがベタっと貼り付いていて、ページそのものが無理に剥がすとぺリっと破損するのも出た!(恐らく絶版でもう手に入らぬものだろう)。
これは、もしかしたら大変な事態に陥ったか、と思い何冊も取り出してみた。
棚の場所に関係はなく、ところどころ危うい感じの本があった。
酷いものは、下の部分がブヨブヨ皺のいっているものがある。
この際、読めるものは、とりあえずよしとしよう。
フェティシュな面で、残念感は拭えないが、どうにも仕方ない。
わたしは、物の管理というものがめんどくさい。
更に最近のわたしの運動範囲の狭まりが事態の進行に拍車をかけてしまった。

また買いに行くのは辛いが、そこまでする必要はなさそうだ。
以前、急に思いついて整理してしまった本をまた読みたくなって、神田の古本屋街に探しに行った事を思い出した。(絶版モノであったがそのときは一日かけて運良く見つけた)。
何とかこれ以上事態を進ませずに、現状維持したい。


とりあえず大きめの除湿剤を買いに行ってみた。
(エアコンの除湿をかけっぱなしにはさすがに出来ない。寒いし)。
下は本で屋根裏部屋がキャンバス置き場なので、1階だけに4個ボックスタイプのものを置いてみた。
それで足りるのかどうか、分からない。

3日に一回は書庫に何か見に行っていた時期があったのだが、最近は2ヶ月に一度くらいしか入らなかったのだ。
如何に本から遠ざかっていることか。
絵からはもう十年単位で離れている!
その空白の大きさの一部を物質的な形で観た感がある。
現実に悲惨な状況は密かに進行しているものなのだ。
やはり、何もしないでいると、何かが刻々と変化している。
滅びに向かっている。
自然はそういうものなのだ。


少し調べてみると、除湿剤ではとうてい足りないことが分かった。
書庫専門の除湿機など買う気はないが、除湿機はどうやら必要なことが分かった。
押し入れではなく部屋のため。
いつも鍵をかけて締め切っていたのも、良くなかった。
そこに近づく気力が無かったせいだ。


結論として、たまには読書を生活に戻してゆきたい(笑。
頭の上を見上げれば、キャンバスもある、、、。

いや、歴代のガメラのフィギュアもあるではないか、、、!
実はここは、わたしの神聖なる宝物殿であったことに気づいた!



野火

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Fires of the Plain
1959年
市川崑監督

英語の題もついていた。

大岡昇平の小説を原作としている。
「野火」は中学生の頃読んだ。
デジャヴのことが書かれていて、友達と議論?した覚えがある。
人にとって記憶の問題は大きい。
しかし、この映画ではそれについては、何も触れられない。
ちなみに、ジャメヴ「未視感」的な場面は幾つか後半にあったと思う。

船越英二、、、田村一等兵

極限状態にあって、半分魂の抜けた役柄だ。
しかしながら壮絶である。
飄々と修羅場をすり抜けてゆく無表情の兵士いや全てから解かれたヒトである。
(こんな相貌を時折、見かけることはある)。


立場が微妙だ。
結核であるため原隊から厄介払いされ、病院に行っても追い返され、結局レイテ島の戦線において帰属できる場所のない何者でもないヒトになってしまった。
しかしすでに日本軍そのものが実質、体制(命令系統・情報)は解体している。
(そして放置されている分、われわれの今現在にひどく近いと思うのはわたしだけか?)
その外観から米軍や現地人(村人)には日本兵と認知されるとは言え、箍はハズれ空腹と虚無感の内に誰もが日本軍兵士という意識は薄れていた。また、途轍もない悪夢の雨季である。取り敢えずの集合先に吸い寄せられるようにして、魂を失った亡霊のように彼らは歩く。そして人形のように忽然と倒れ死ぬ。
自分が何者であるかも判然としない。
米軍(確かと思われるもの)に助けを求めようとするものも出てくる。
しかし、田村はそれも選ばない。
何も選べないために、いかがわしい他の隊の隊長の後を取り敢えずついて行く。

集合場所とされるパロンポンとは何処から来た情報なのか?
(命をかけた情報などいつもすれ違いざまの怪しい口伝えではなかったか?何故人はすぐに噂を容易に信じ込むのか?)
そこを目指す途上の光景はもはやこの世とは思えない。
行き倒れの者の靴を脱がせて自分の靴を履き替え、捨てられた靴を次の者が履いてゆく動作が実に機械的に繋がってゆく。
こんな光景、既視感がある。

戦場が舞台となっているが戦闘場面などなく、一方的に何処から来るともなく爆撃や銃弾が襲ってくる。
皆、突然死ぬ。
勿論、戦地である。いや、生きていれば、いつ死ぬか分からないことは分かっている。
だが、それでも死は突然やって来る。
心の準備などない。
そんなこと、何処にあっても同様でないか?


パロンポンに向け夢遊病者の如く歩んでいた一行は、当たり前のようにほとんど狙い撃ちされて死ぬ。

後はどこにゆくのか?
田村の置かれたところでは、、、。
「猿」を殺して食いつなぎつつ生きながらえるか、野火のもと、現地の百姓たちのいる場所に危険を顧みず向かうか。

結局「猿」を殺して食っているこれまで共に来た馴染みの兵士を彼は銃で撃つ。
もはや血だらけの口のその兵士は、田村にとり、見知らぬ何かであった。
それは、認めがたい状況であった。(すべてを終わらせたかったのか)。
そして一目普通の生活を見たいがために、田村は野火のもとに手をあげて走り出す。
これまで、何度も謎の狼煙―徴として彼の脳裏に残っていたあの火であった。
現状を脱するに、それが彼にとっての唯一の選択となった。
だが野火からは、銃弾が情け容赦なく、彼向けて飛んでくるのだ。


今は銃弾は余程のことがない限り、降り注いでは来ない。
しかしそれが何であるにせよ、突然襲いかかってくるものに応えられる方法をもっている人は少ないはず。
準備は怠れない。







女子美の新星展を観た 


入る前に想像していたのは、基本純粋抽象のパタンである。
今の時代(時代考察をここでするつもりはないが)、具象は大変な方法論が不可避となる。

実際に見てみると、身体性をもった抽象と具象に異物の過剰な付加による変奏のパタンも目に付いた。
とても意識的で、洞察された方法が誠実に作動して作品化していた。
まだあくまでも過程であろうが。
5人のもう大学院を出た人たちの作品が展示されていた。


何かを作る必然性をもつ人たちとは何だろう?
どうしても作り続けてしまう無意識的な衝動、生命力から突き上げてくるのであろうが。
時代性におけるものや、個人史的な動機が引き金となっているところは察せられる。
パソコンドットが要素となっている反復画像の電脳版画(シルクスクリーン)もある。
鉄の自らの意思でそうなったような造形もあれば、知ってるようで知らない郷愁を強く纏った虫もいる。
身体がかつて何処かで辿った地図と思しき図象もあった。
何にしても象形的再現に終わる作品など一つもない。
全て、新たな形象を目指すものである事は、確かだ。
見えないものを見えるようにする。
写真文化の熟しきった後の世の作品群である。
少なくとも、ここにルノアールを見に来る人などいない。

どれにもかなりの時間が畳み込まれている。
確かに画家が数年、数十年、一生涯の時間を要して制作する絵は多くの例を見る。
作品を作るだけではない、それに至る準備を図る莫大な時間を費やしてここに来ている。
そんなことも、しみじみ感じる。
恐らく作品化寸前で紋切り型に呑み込まれ、出直す作業もかなりあったはずだ。
所謂、「美」に足を掬われるといったもの。

ここに展示されているということからも、ひとまず方向性は定まったということだろう。
自らのすべき作業をもっていることは、強みだ。
それはまず、作家個人にとっての認識(思考)運動の過程となる。
線上的な時間の流れを踏みとどまり、垂直的な時間を畳み込み結晶化する。

この作業は必然的に、主体として物事を構造化する作用を持つ。
構造的な認識がなければ、世界は単に生きにくさー受苦だけで通り過ぎてしまう。
受苦の奴隷で終わる。

方法はそれぞれの作家の身体性(歴史性)と不可分にあり、その純化が進められてゆくはずだ。

身体性における世界の絶えざる確認作業であったり、物ー鉄との加工を通した自己との接続作業であったり、父親との少女期の思いを巡る結晶化の作業であったり、現実を反映するドットの複製反復作業であったり、、、。


わたしがつくづく思ったのは、身体性を持って物に関わらないと、何も変わらない。
ということだ。
この人たちは、そこを知った(知っている)ことが鋭いというか恵まれている。
それは言うまでもないが、単なるお絵描きグループで、「写真みたい」などと褒め合って絵を描いていることとは、本質的に異なる。
(この次元では何の認識作用も働かない)。


「あたらしい朝がきた」
の作品紹介文には、ストレートに胸にこみ上げるものがあった。
「生きにくさ、、、」における実感が充分に共鳴できる。
全くその通りだと思う。

今後もこの作家さんたちの作品には、注目してゆきたい。


以降、蛇足である、、、。

ただ、一番楽しく愉快で非常に巧みな出来の「虫」シリーズであるが、端からそのパタン(バリエーション)は見えてしまっており、そのままで行けば伝統工芸化しか方向性がなくなる恐れを秘めている。
作家はその辺をどのように考察しているのか。
装飾と様々な部位の組み合わせの仕立て仕事に陥らない、潜在する生成の場から立ち上がってくるモノの創造に期待したい。
(原初的で魔術的な形態に深化する感じもするのだが、、、)
少女期の想いの結晶化とこの外骨格というヒトからあらん限り離れた生命への注視は、そのまま大事にしてもらいたい。

電脳シルクスクリーンの既視感もどうしても付き纏うものであろう。
アンディ・ウォーホル(それ以降のポスト・モダン)の影響は、視覚文化において写真並みにでかい。
シルクスクリーンは、既視感との闘いがかなりきつい場所でもあろう。
しかし、反復は生命におけるキーコンセプトでもある。
健闘を祈りたい。


jyosibi tonari
虫シリーズ作者が授業を抜けて虫を獲りに出かけたという、隣の公園。
うちの娘たちのいつもの遊び場でもある。


いつもの公園 いつもの空

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公園に来た。
いつもの公園だ。

そよ風とのブレンドで柔らかい陽射し。
幾度目かの雲のない青空。
何故か今日は、太陽の有り難さを感じる。
暖かい。


来週からは、授業参観や家庭訪問が立て込んでくる。ピアノをみるのもだんだんやり甲斐が出てきた。
今日は、ただゆっくり寛ぐ事にする。


テントを張って拠点を作り、そこから子供達が遊びに飛び出しては、暫くして水を飲みに帰ってくる。
わたしは番をするかたちで、シートをテントの前に延長して広げ、寝転がって過ごす。
これが良い。
寝るには、最高だ。
眠るまではいかないのだが。
風呂と同等の気持ちよさである。
(どうやらそれを追求するブログになりそうな気配も感じてきた、、、)。

「子供の飲み物」を彼女らは、「子供のお酒」と呼んで乾杯して呑んでいる。
「うまいっ」とまで言っている。
将来、酒飲みになりそうな気がする、、、。少なくとも雰囲気は好きそうだ。


周囲は外国人が多い。欧米系である。
英語が色々な声で聞こえてくる。
低い声、高い声、ゆっくりな声、速い声、幼い声、年老いた声、、、声に暫し聴きいってしまう。
やがて鳥の鳴き声と同等の音にしか聞こえなくなる。
人で一杯なはずなのに、妙に静かだ。
時折、娘と同年代の女の子の話声がすると、急に意味が立ち現れ、ハッとする。

小さなボールが転がってきていた。
側にわたしのメガネがあった。
公園とは、微妙にフラジャイルな環境である。
危険というよりも、子供のちょっとした擦りむきや打撲、うっかりの踏み潰し、カメラのメディアを落っことすなど、ノンビリ憩う時間を軋ませる要素は付き纏う。
それで眠りこむまでは、いかないのだ。
しかし、一度寝転ぶと、起きる気はしない。
(わかってくれる人は少なくないはずだ)。
少し遠くでは、サッカーと野球をそれぞれ親子でやっている。
風も急に捲き起こる事がある。

一種、何処かの縁にいる気分なのだ。
妙な清々しさも覚えてしまう。

そんななか、やはり眠る間際まで意識は遠退く。
背中に優しい、芝生の適度な柔らかさにシートの弾力。
空をずっと打ち眺めているのだ。
尚更である。
不思議なことに、飛行機が一つも横切らない。
かなりの時間、全く通らない。
ここらへんは、ジェット戦闘機が時折、編隊を組んで爆音を轟かせて飛んでゆくこともあるのだが。
空を遮るものがない、非現実的な青空。
「リターナー」で飛んでた飛行機がこんな時にフワッと浮かんでこないのか?
少しばかり荒唐無稽な事態も望んでしまうものだ、、、。


突然、お昼ご飯となる。
娘たちのお腹が空いたのだ。
時間は彼女らのペースで飛躍して進む。
「おなかすいたーっ」家ではあまり聞かれない言葉。
手をちゃんと洗ったのかどうか、もうお弁当を開けている。
お寿司とお茶が幾らでも入る。
わたしも娘たちも家であったらこんなに食べられない。
雰囲気で食べている気がする。間違いない。
しかし寝て食べているだけのわたしは、かなりマズイ。
「公園太り」と言うのもあるかも知れない。

食後にアイスクリームが食べたいという長女と店に買いにゆく。
次女を待たせているため、足早に3つ買って帰る。
その途中に、目の覚める一面の菜の花。
その弾け渡る黄色の光と香りにも惹かれ、暫くその場に釘付けとなる。
しかし次女とアイスを待たせる分けにもいかない。
テントに小走りに戻るや、2人はすぐにペロッと食べてしまった。


わたしはまた横になり、娘たちはまた遊びに走ってゆく。
スイッチが切れたように周囲が静まる。
遠くでバットの響きが小さく反響する。
全ては遠退く。


ただ暖かい。
柔らかい風に瞼を閉じる。
先ほどの黄色がまだ目に残像する、、、。

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入浴夢

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最近、入浴時間がやたらと長くなった。
つい先日は、2時間ほど入っていたのだが、意識があったのは初めの20分くらいである。
つまり、1時間半以上眠っていたらしい。
夢も確かに見ていたのだが、残念なことに服を着ている最中に忘れてしまっていた。
ただし、かなり面白い夢であったことだけは、分かっている。
直後にすごい夢だと感じたことだけは覚えている。
返す返すも残念なことだ。

やはりアルタード・ステイツのマシンもそうだが、ちょうど良い(抵抗のない)水温の水槽に入ってゆっくり休むことは何かを解放することは確かだ。
この時、光を一切入れなかったり、極度の調整をするようだが、わたしにとっては普通の風呂場で、窓際にパキラ(観葉植物)の微妙な形が柔らかな夕日に照らされているくらいがちょうど良いように思われる。
パキラは見るほどに味わいがあり、見ていて飽きがこないのだ。
しかし考えてみると、植物を見ていて、飽きるという感情が芽生えた試しがない。
これは不思議といえば不思議なことだ。
特にわたしは人一倍飽きっぽい。
気持ちが散り散りにならず、リラックスして適度な集中を得るには、適当な植物が視界にあるくらいで良いのではなかろうか。

そもそも、家で完全に光を締め出すのは無理であるし、風呂場でそこまでの実験をするつもりはない。
日常生活の一コマで過剰な事はできない。
それに何かあったら大変ではないか、、、。
別に自分が類人猿に変身する恐れは感じはしないが。
物々しすぎるのは、特に意識を緊張させ萎縮させなくとも、構えてはしまうだろう。
何らかの効果を結果を出さなければと思ってしまうのではないか、、、。

気楽にならなければ本末転倒なのだ。
わたしは、やはり睡眠、、、夢の状態は植物の状態ではないか、と感じている。
それは大分以前から感じている事だ。

親戚でもう7年間意識なく眠っている人がいるのだが、調度そんな心象のなかを生きているのではないかと想う。
外部との疎通を絶っているので、内的生活がどのようなモノなのか全く計り知れないが。
潜在する生の神秘は窺わせる。
病院施設のベッドに行くと、胃瘻のカテーテルを入れて、多くは口を開けて眠っている。
反射と思しき動作は見られるが、深いところの状況は掴みようがない。
だが、厳然と生きていることは感じる。

話が逸れているのか関連するところがあるのかも定かではない、、、。
ただ、入浴ほど(風呂に入るほど)気持ちの良いものは、いまのところ他にない。
そのことを言いたいために書いているのか、、、。

その抵抗や痛みや痺れの無い、いやあらゆる重々しく苦い記憶の薄れた心的環境に訪れるものは、われわれの生にとってとても貴重なものだと想える。
そこで見られる夢は、重力の影響を最小限に抑えられた場所のものである。
改めて夢を観たい。


そう入浴剤も様々なものを使ってみたい。
GAIAのアロマもいろいろ試しているところだ。
この実験は、今後も進めてゆくつもりである。

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アパートの鍵貸します

The Apartment

The Apartment
1960年アメリカ
ビリー・ワイルダー監督・脚本

ジャック・レモン、、、バド
シャーリー・マクレーン、、、フラン

初見である。
これまで所謂名作というのをほとんど見ないできたため、、、。
この作品は実に面白かった。

テニスラケットがスパゲティ茹でるのに便利なことを初めて知った。
やってみたいとは、思わないが。

この映画のような管理職の浮気用に部屋を貸すバイトがあるのかどうか、、、。
あったとしても、表には出ないはずだし、あってもおかしくはないだろう。
(何を言ってるのか?)
これによって、主人公バドは、トントン拍子に出世する。
コメディである。が、かなり切ない展開となる話である。

彼が密かにこころを寄せるエレベーターガールのフランがベッドに落ちていた割れた鏡から部長の愛人であると知り、穏やかではない。
だが、その愛人密会の場の提供で出世してきている当人である。
どうにもならない。
しかもフランと部長の関係が拗れ、彼女が事もあろうに彼が貸した部屋で自殺未遂。
その彼女を甲斐甲斐しく面倒を見るバド。
彼女に対して彼は常にこのように自分の気持ちを殺し、献身的に彼女の身になって面倒を見る。
両者を取り持とうとして彼女の義兄に殴られても痛みすらはぐらかす。
しかし、これは彼女の言うとおり、利用するものとされるものの権力構造のなかでのこと。
ポストは与えられても、人を利用しては使い捨てる非情な上司の奴隷に過ぎない。
ペーソスたっぷりの黄昏た人生を歩むのみである。

しかし、徐々にこのマゾヒスティックな主人公に感情移入して応援してしまうのだ。
役者ジャック・レモンが上手い事もあるが、してやられたものである。

筋書きはほとんど、どうでもよいものであるが、それをこれだけ面白可笑しくく悲哀も込めてこってり描き切る手腕が凄い。
これをもって、「エンターテイメント」と呼ぶのか、所謂「映画」と謂うのか。
最後は渋い上等なラブ・ロマンスを観た気になっている。
(恐らくそうなのだ!ラブ・ロマンスとはこうなのだ)。

プロットに隙がなく小物(割れたコンパクトやティッシュ、TVにラケットやレコードやナプキン、ピストル、、、)も実に上手く活かされている。
機微に触れる演出も上手い。
盛り上がって振り返ると彼女の席が空。
ピストルの音かと思えばシャンペンの音。
彼女に見切りをつけるかのように関係ない女性を示し、そちらの方向に進むと他の男性と腕を組みその女性が消えてゆくなど。
こういう演出が作品の吸引力を増してゆく。

もうバドとフランは絶望的であると思われる。
離婚し完全にフリーになった部長は、彼女との結婚を決めてしまった。
しかし、他者を支配し利用することに無感覚な彼の精神に対し、バドは決然とNoをたたき突きつける。

バドは、”Mensch”になるべく、全てを放り出し柵から決別する。
フランも誰が本当に大切なのかを部長の話から認識する。
その結果、真に欲しいものを知り手に入れるのだ。

何か象徴的である。
そうだ。
人生というものは、そういうものなのだと思う。
まず自分のあるべき姿を見出さなければならない。
必要なことは、その後ついてくる。

自分を知り、その自分に忠実であること。


それに尽きるものだと思う。


小雨の夜の幻想

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一向に絵を描き始める気配のない日々。

ノートパソコンからの放熱の音以外これと聞こえる音のない夜。
窓を見るといつからか無音の小雨が降っている。
知らぬ間に、天の恵みのように。
白く光る水滴がは、暫く見るうち実際落ちているのかどうか、、、判然としなくなる。
途切れとぎれの白線の模様にも想えて。
絵を描きたい衝動を感じる。
(それは、どこかで観た絵に似ていた)。

同時に、寧ろ外に出たい気持ちが沸く。
またしても。
絵を描くのも実験であるが、夜の雨に当たるのも実験である。
いや、その前に病いも実験のひとつであった。
薬を飲むのは実験である。(医者にとっての実験の一つであると同時に)。
今の薬が全く合わない。
一日中、薄い布切れを羽織ったようにボーッとしている、、、。
集中もできない。


それで外に出たいのだ。
雨に当たりたい。
それが先だ。

鬱陶しい透明な皮膜を溶かすのだ。
きっとそれは、不透明な何かである。
はっきり可視化して暴くことが決め手となる。
すべてがそうだ。
画家が皆そうしてきた。
認識がもっとも重要だ。
誰にとっても。

より良い薬を求めて。
夜空を仰ぐ。
放射能を含んだ雨滴が薬のタブレットとなるかも。

思ったより雨足は速く、量も多かった。
窓からはもっと柔らかく細やかに見えた。
雨が強まってきたのだ。
わたしが外に出ようと階段を降りる間に、相が変化したのだ。

代わりに風がない。
無風の闇を無音で水滴が落下してくる。
青白く赤紫の雲が不気味に光る中を赤い光を灯した旅客機が飛んでゆく。


鳥や虫やジェット機や小型機やヘリコプター、、、たくさんの塵などが雨と一緒に落ちてくる。
暫く立ったまま口を開けてみた。


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アザーズ

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The Others
2001年アメリカ・スペイン・フランス製作
アレハンドロ・アメナーバル監督・脚本

ニコール・キッドマン主演

これはTV録画で観た。
(民法であったため、下にCMとか入りやはり鬱陶しかった)。


二次大戦後のイギリスで、ドイツの支配を受けた島であるようだ。
結核も流行り、悲劇の歴史をもつ地であるという。
舞台が島であり、子供たちの病により太陽光を遮り屋敷に閉じ篭ったところからも、隔絶した密室空間濃度が極めて高い。
しかも古い大きな屋敷である。
おまけに、一歩外に出ると、霧で一寸先も見えないときている。
その極限的環境のもと、ニコールを中心とした心象世界を描ききっている。
本が充分に練られているが、原作はなかった。
監督による脚本である。
音も効果的であると思ったら監督の作曲であった。

それらによる隙のない統一されたトーンの緊張の途切れぬ物語が静かに進行してゆく。
カメラがコンセプトを迷いなく伝えている。
演出も細やかで巧みであった。
美術の家具、調度品も無駄なく雰囲気を演出していた。
幻がかった抑えられた色調の中、ニコールの色調がひたすら映える。
(製作総指揮にトム・クルーズが加わっていることもあってか)。

後は、ニコールの繊細かつ神経症的な迫真の演技である。
この幻もクリーチャーの類も一切出現しない、不可解な現象にも客観性は確証不能な映像の中で、物語の内実は彼女の演技をもとに伝えられてゆく。
2人の子供と使用人の演技もしっかりそれを支えていた。
特に女使用人のフィオヌラ・フラナガンとの掛け合いは、その度に緊張感を増す。
また、姉の思春期手前の微妙な年頃の心理表現も説得力があった。

霧の中で、戦地に赴いたまま帰らなかった夫に出逢うところで、婦人が尋常でない状況にある事を察してしまう。
あの日のこと、と娘と夫が同様に彼女を責めていたのも符合してくる。
振り返って、彼女が2人の子供に聖書を教える姿が痛々しくよみがえる。
煉獄へも天国へも行けずにいる存在とは、、、。


ある日、陽光を遮っていた屋敷のカーテンが全て取り払われる。
それまで存在を予感し恐れていた他者―侵入者が一気に現実味を帯びる。

終盤での畳み掛けは、こちらが薄々予感していたことがはっきり開示されるが、分かっていても衝撃的である。
映像(特に演技とカメラ・演出)の質の高さで、いささかも興味の削げるものではなく、充分に魅せるものとなっていた。

結局、”The Others”とは、、、そこにこれからも越してくるであろう、人間たちを指す。
最後の、「ここはわたしたちの家よ」と呟き、窓越しに去ってゆく家族を見つめるニコールたちが物悲しく印象に残る。

切なくも美しいゴシック・ホラーであり、格調高い作品であった。
ヘンリー・ジェイムス原作の「回転」(デボラ・カー主演)を思い浮かべる映画でもあった。
(その格調からであろうが)。
恐らくニコール・キッドマン主演であることが大きな要因である。
この作品なら購入しても損はないと思われた。


監督の力量を感じる映画であった。


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バニー・レークは行方不明

Bunny Lake Is Missing

Bunny Lake Is Missing
1965年イギリス製作
オットー・プレミンジャー監督

キャロル・リンレー、、、アン
キア・デュリア、、、スティーブン(アンの兄)
ローレンス・オリヴィエ、、、ニューハウス警部

バニー(アンの娘)

ザ・ゾンビーズ(TV画面から)


アメリカからイギリスに(船で)渡ってきたばかりの母娘に突然起こった事件。
新しい土地で、アパートに荷を降ろす間もなく、保育所に預けたばかりの4歳の娘バニーが行方不明となる。
その不在の娘を巡ってのサスペンスドラマとなるが、、、。
母親にとっては、この世における最大の惨事に他ならない。

しかし、娘の捜査が進展するにつけ、娘の存在自体を裏付ける全てのものが消え失せていることが浮上する。
単なる疾走・誘拐事件では片付かない状況となってゆく。
誰よりも追い詰められ、打ちひしがれているのは母親であるアンだ。
しかし、事もあろうにその母親アンの人格(精神状態)に対して周囲から疑いが向けられてゆく。
しかも、見ているわれわれにも、物語を俯瞰する視座は与えられない。
構造的に迷う。

バニーが最初から「いないまま」というのが、この物語の設定上の肝だ。
物語が進むにつれバニーの存在自体が、確かに疑わしくなってゆく。
極めて怪しく鬱陶しい家主を初っ端から出しておくのも物語の基調をざわつかせる。
おざなりで無責任な保育所の管理体制。
次々に明らかになる責任者の不在。
その上の階にいる、妄想過多の老婦人などがストーリーの基盤を揺るがしてゆく。
揺れ幅は大きくなってゆく。

時間の経過により、募る動揺と不安と緊迫感。
兄による妹の少女期における幻想癖の吹聴など。
彼女の幻のお友達の名前が「バニー」であった、、、。
対比的に冷静なニューハウス警部でニュートラルな視座を保持しておくことで揺らぎはまた強調される。


だが、ある時点で、冗長性を保っていた物語に破れと転換が生じる。
兄スティーブンの伝えた渡航日の偽りをニューハウス警部が気づいてしまう。
同時期にアンが人形の一件を思い出す。
彼女は閉店後にも関わらず、修理に出した人形を夜中に店に引取りに行く。

主人公アンの、この悪夢の如き行為により、われわれにこの不在を巡っての物語の真実が一気に開示される。
そしてその真犯人の驚くべき狂気の表情、その目。
さらにその不気味な行為。


終盤は、スリラーの前に「サイコ」が付く。
彼女はある場所に駆けつけ、窓越しに探し続けていた当の存在を認める。
しかし、何故か息を呑み静かに見つめ、タイミングを計るのだ。
われわれは、来るべき時が来たことは、知っている。
ただどう出るのか、だけなのだ。
われわれもそれに対して息を呑む。

だが、その後の気味の悪いことこの上ない、鬼ごっこに隠れんぼに果てはブランコ遊びだ。
この一連の流れで、アンが相手を下手に刺激できない事を充分に認識していることが解る。
相手が「なんであるのか」を元々よく知っている事が判明する。
ならば何故、最初からそれを疑わないのか、ここが非常に疑問となる。
そこを何故疑わないのか?
(ここに来てわれわれの最大の疑問である)。

「たかーい、たかーい」「たかーい、たかーい」
どんどん彼女は背中を押されて、ブランコの揺れ幅は大きくなりついに揺れ幅―高さはリミットとなる。
「おそらにとんでゆく」「おそらにとんでゆく」
「たかーい、たかーい」
反復が限界に達し、張り詰める。



そして最後が最後である。
表情(特に眼差し)がまた極めつけであろう。

職人技のような作りのサスペンスである。
いや、サイコスリラーである。

一点だけ疑問を残して。



クラウドアトラス

Cloud Atlas

Cloud Atlas
2012年アメリカ製作
ラナ・ウォシャウスキー、トム・ティクヴァ、アンディ・ウォシャウスキー監督・脚本
これも原作はあるらしい。
(読む余裕はない)。


6つの時代の叙事詩を転生を軸に語り交錯させてゆく大作。
1849年、2144年、2321年の物語をウォシャウスキー姉弟が監督。
1936年、1973年、2012年の物語をトム・ティクヴァが監督している。
ウォシャウスキーは「マトリックス」を手がけた監督。

キャストもひとりで何役も演じ分ける、大変な映画だ。
ここまでやるのは滅多にないはず。
かなりの長編作品でもある。(3時間くらい観た)。

トム・ハンクス
ハル・ベリー
ペ・ドゥナ
ジム・ブロードベント
ジム・スタージェス
ベン・ウィショー
ヒュー・グラント

それぞれ、いろいろな役、、、。
ひとり何役やっているのか、掴みきれなかった、、、が、調べてみようという気はない。
だが、2回観てみたい映画ではある。

トム・ハンクスの芸達者、ハル・ベリーも素敵であったが、何よりペ・ドゥナの瑞々しさが光りに光った。
それから作曲家のベン・ウィショーの繊細で青臭い野心家の演技も際立っていた。
それぞれがアザという徴や既視感で時空を超えた繋がりを覚えている。(実はアザの件はいまひとつ分からなかった)。
本や原稿、ムーヴィーがまた登場人物を時代を超えて繋ぐ肝心なアイテムとなっているところも興味深い。

「死は新たな扉を開く」
まさにその意識に繋がっていくと言うべきか。
それぞれの時代のシーンが絶妙なタイミングで鮮やかに繋がれてゆく。
頻繁に目まぐるしく切り替わってゆく。
しかも時代ごとに映画そのものの形式を大きく変えている。
SFデストピア風、コメディータッチ、歴史冒険譚、ポリティカルアクション、文芸作品的なものと3監督がお手並み披露をしているかのごとく違う。
それを違和感なく繋いで展開してゆくことは、本当にかなりの技であるだろう。
様々な時間が畳み込まれてめくるめく結晶化してゆくようだ。
そこで聴かれる音楽も良い。
若き作曲家の完成させた「クラウドアトラス6重奏」もできていたなら全編聴いてみたい。
触りだけでも充分に魅力的であった。


しかし、役者に複数の役をやらせる必然性を感じるパタンとそうでないところは感じる。
明らかにその俳優がカルマにおいても容貌的にもやる意味を感じない役には、何とも言えない無理があり違和感を覚えた。
(特にペ・ドゥナの不法移民。ハル・ベリーのひどく怪しいDr、、、)。
折角の物語の流れを少しでも妨げるような不協和音は入れない方が良いと思われる。

「ネオソウル」の描き方はまるで「ブレードランナー」を彷彿させるが、その文明が一度壊滅すると、決まってここでの「ハワイ・ビッグ・アイランド」のような「マッドマックス」的光景に描かれる事になる。
どちらにしても多くの映画で既視感があるが、そう考えてみると、個々の6つの物語そのものに目新しさは、ほとんどないことに思い当たる。
この映画のこれ程の観応えとは何であるか。
やはり、輪廻転生的生死観、欲望とそれに対決する姿、愛情のかたちを深く中心軸に据えた叙事詩の構成が見事に成立しているところによるものであろう。

兎も角、構成・編集が素晴らしかった。


それから「クラウドアトラス6重奏」を聴きたい。
特異な空気感を持つペ・ドゥナの出る他の作品も観てみたい。





エンド・オブ・ザ・ワールド

Seeking a Friend for the End of the World

Seeking a Friend for the End of the World
2012年アメリカ製作
ローリーン・スカファリア監督

こんな映画が良い。

邦題を付けるとしたら、Seeking a Friendの比重大であろうが、そのままだと逆に余りにも軽々しい、、、。
ドラマの中に出てくる気の利いたセリフのひとつからでも付けたほうが良いか。
何れにせよ「エンド・オブ・ザ・ワールド」は内容に合わない。
重苦しいSFか思想めいた映画と受け取られそうだ。
ピュアなラブコメディとしての世界を仄めかすものがよかろう。

スティーヴ・カレル、、、ドッジ
キーラ・ナイトレイ、、、ペニー

小惑星が地球に衝突する3週間前から最終日までの期間の2人を中心とした濃密な時間を描く。
そのインパクトは、地上の生物を焼き尽くすくらいの規模というもの。
どの地点に激突するかは、混乱を避けるため公表されない。
おそらくきっと、歪んだ衝動、無意識的な爆発が至るところに見られるはずだが、ここでは小暴動や自殺はあるが、ほとんどが気持ちをドンチャラ騒ぎで紛らわす方向や他の何らかの逃避を試みるくらいである。
全体を通してあたかかくソフトでほのぼの感溢れる流れで進行する。

同じ枠設定でも”メランコリア”とは全く異なる。
このような真摯なラブロマンスがなければ、多方は”メランコリア”となってしまうだろう。
(実際常に潜在的な危険はあり、荒唐無稽な絵空事ではないようだ)。
”Seeking a Friend for the End of the World”
死ぬのは独りであっても、他者の存在はやはり必要か?


すごいのは、ドッジのところに通ってくる家政婦さんだ。
寸分違わぬ生活を反復する。(滅亡後も反復予定でいる)。
普通あそこまで悟れまい。(元々がそういうヒトなのか?)
確かにドッジの務める保険会社に保険の相談をこの期に及んで持ちかける人もいる。

それから何としても生き残ろうとするペニーの元彼のバイタリティ溢れる準備も半端ではない。
どんな状況に置かれても生きるために最善を尽くす。
楽天的な清々しさである。
(メルセデス・ベンツのスマートを何であんなに何台も用意しているのか分からない)。
しかし現実は常に企みを上回る。

そして時間はいつも足りなくなるものだ。
ドッジとペニーは寄り道しながら急速にお互いの距離を詰めてゆく。
愛情によって心温かなまま最期を迎えられるのが一番かも知れないが。
それでもいつだって、時間は足りない。



こうした設定でのラブロマンスはこうなるだろうなという典型である。
何の文句もない。
好きな映画がまたできた。

丁寧に繊細に話が進められてゆくため、自然にこちらもその中に入り込んでいる。
濃密な時間となった。
電話も交通機関も止まっている分、なおさらのこと。(eメールも)
TVも終了した。
向き合おうとすれば深く向き合える。
2人はある意味、この上ない真摯な姿勢で生を全うする。

彼女がアナログレコードファンで、避難する時もそれを持って逃げるのもが印象深かった。
古いレコード。フラジャイルな記憶。
音楽の記憶はやはり大きい。
辿るもの、すがるもの、大切なもの、語るものは、もはや記憶しかない。
手紙もレコード同様の必須アイテムとなっていた。
タイムラグが思いがけない方向を指し示す。
そしてこうした事態でなければなされない邂逅と和解。
空間と時間が一時に圧縮される。

最期に話す事は、生い立ちやルーツ、家族の話にやはりなるのか、、、。
絶対に眠らない約束をして、、、。
語り合いは、最早内容や意味ではない。
ことばである。


その時はやって来る。
光とともに。

ブラックアウト
(接触以前の大変動が巻き起こるはずであるが、それがあの爆音と光であるか、、、)


わたしも無論、そうなったら娘たちと共にいたいと思う。
何を話すでもなく、、、
一緒にいられれば良い。
それ以外に、、、それ以上のことはない。


地獄の黙示録

Apocalypse Now

Apocalypse Now
1979アメリカ製作
フランシス・フォード・コッポラ監督

全編悪夢である。
醒めない悪夢か?
(わたしも途中少しばかり寝てしまったため、感想を書くかどうか迷った)。

「まだサイゴンにいたのか!」

夢はそのなかにいる限りは明晰ではあるが、対象化したとたん訳がわからないものとして把握される。

陸軍空挺士官のウィラード大尉は、ベトナム戦争の戦場に妻と離婚までしてまた戻ってくる。
(これは、聞く話だ。特殊な例ではないらしい)。

気の進まぬ仕事を押し付けられ、それに従わざる負えない。
ダラダラしながらも、承諾したからには、生真面目に仕事に向かう。
だが赴いた先が、それぞれ調子がちょっと狂っている。
「ワルキューレの騎行」でナパーム弾を落とし、敵のアジトを急襲する。
部下思いの中佐が「波乗りを楽しもう」と、ノリノリでいたり。
ベトコンは確かに存在するのだろうが、姿はほとんど見えず、何と戦っているのか判然としなくなり、、、
時折、仲間のクリーンやシェフが撃たれたり刺されて殺されることで、外敵に改めて気づく。

ドアーズとストーンズも流れる。
正気を取り戻させるかのように。

Apocalypse Now001

使命は覚えてはいるが、基本流されてゆく。
ボートを盗んだり、プレイメイトの慰問に殺到する兵士から逃げて、ターゲットのいる場所に接近してゆく。
命令系統が破綻しているのに、機械的に闘う最前線の兵士たち。
いたるところで銃器が火を吹く。
何かが炸裂する。
が、妙に静かだ。
誰もが呑気だ。
ただ悪夢は重く混沌を深めてゆく。
主体は朧げに有り、物事に対する感想を述べたり(思ったり)はする。

Apocalypse Now002

彼はターゲットに近づいて来たのを察知する。
それとともに、主体的な動きが増してゆく。

全てから解かれて現地で王国を作っているというカーツという元大佐の元にようやく到達する。
そこに見る東洋人たちは、皆西洋文化のコンテクストから完全に隔絶された呪術的な世界の住人であった。
カーツその人は太った僧侶のような人物であった。
ナビゲーター役の西洋人ジャーナリストもいた。
(彼はその主を信奉していたが、邪魔者扱いされている)。

はじめウィラードは捕らえられる。
しかし、いつの間にか拘束を解かれていた。
夢ではよくあることだ。
カーツと話をする。
少しだけ語り合う。
意味ありげだが、ある意味あり触れた話だ。
わたしはこの近辺からコックリし始めてしまった。

何かを確かに感じるのだが、なんであるか判然としない。
そのうちに、、、
王国の民衆が牛を殺す儀式に入る。
黙示録的光景であろうか、、、。
この騒ぎのうちに、彼は使命を果たす。
カーツを殺す。

ドアーズのジ・エンド。

(眠ったのはほんの僅かであったはずだ)。
ウィラード大尉の意識状態に近い感じで並走していたためか眠くなった。
混沌とした悪夢のような現実である。
重苦しさと気温はまったく地続きであった。


「恐ろしい。恐ろしい。」
人の死に際のことばに大概、意味はない。


シャーロック・ホームズVSモンスター

SHERLOCK HOLMES

SHERLOCK HOLMES
2010年アメリカ製作
レイチェル・ゴールデンバーグ監督

単に”SHERLOCK HOLMES”という名の映画だったのか、、、?

ジョン・ワトソン氏の亡くなる直前にメイドに口述筆記させた「死んだ友人の最も偉大で世に知られていない功績」の話である、ということで、語られる内容が描写されてゆく、よくあるパタンである。

アルバトロスの映画である。
その方向での期待高まる作品。

この映画は”スチームパンク”作品といえよう。
ジュール・ヴェルヌ、H.Gウェルズ、コナン・ドイル、、、確かにホームズのヴィクトリア朝時代は、内燃機関の発明による産業革命の結果、人間の想像力も飛躍した時代である。
産業を拡張するテクノロジーだけでなく、怪しげなものも沢山輩出したはず。
レトロフューチャーな演出は、メカや建築、ヴィクトリア朝衣装にも色濃く見られた。
その時代錯誤的な架空の雰囲気作りはまずまずだと思われる。

特に、ロンドンの夜空をメカドラゴンと気球戦闘機が闘う場面は良かった。
VFX的にもう少し踏み込んで欲しいところだがかなり良いシーンである。
ホームズの兄のメカスーツもなかなかのものであった。

ただ、ストーリーの上で意味もなく長く挿入される、森を走るシーンや海を臨む断崖を途中まで降りかけてみるシーンが邪魔である。
また、噴水の給水ポンプを千切り取るためにメカ恐竜を使うというのもあまりにナンセンスな箇所であった。
メカ大ダコやメカ恐竜、にメカドラゴン更に体が不随なのに意のままに動かせるメカスーツまで作っているのだ。給水ポンプくらい自分で作ったらどうか。
また、敢えて巨大ダコや恐竜を作る必然性があったのかどうかも疑問だ。
もっと、コスパの良い方法はいくらでもあろうに。
メカスーツと女性アンドロイドとメカドラゴンは必要だろうが。

そもそもありえないオーバーテクノロジーであるが、まあ天才なら設計図くらいは作れると譲歩しても、それを作るだけの設備と資本関係には、少し納得できる背景を用意しておいた方が見易かった。
またワトソン君も全く疑いも持たないほどの女性型アンドロイドも、ちょっと出来過ぎではないか?
勿論、架空のファンタジックテクノロジーでありその根拠を示す必要はないが、出来過ぎというのも違和感を高める。
何処かにぎこちなさも欲しい。
蒸気を脳天から吹くとか、、、まさにスチームパンクである、、、。
其の辺があっての、マッドサイエンティストであろう。
しかし、このお兄さん(マイクロフト?)警官ではなかったか、、、?

ロンドンを焼き払う根拠がよく解らない逆恨みでもあり、これだけの発明が出来るならそちらで有名になり持て囃されてもよかろうにとか、もう挙げればキリはない。
主役のホームズとワトソンは、他の点から見ればさほど問題は感じられないが、ホームズのイメージはちょっと違うかなとは、ずっと引っかかり続けた。(ワトソン君もちょっとパンパンすぎだ)。
それから、今思い至ったのだが、探偵ものとしての謎解きがあった記憶がない(爆。
給水ポンプの1件は到底謎解きには見えないし、城を突き止めたところも、謎解きとかいうレベルではなかろう。
日本の2時間もの探偵ドラマの謎解きくらいは複雑な線を辿って欲しい。
結局ホームズは気球でドラゴンを撃退した勇者か?
探偵はどこ行った、、、。

だが、スチームパンクとしての雰囲気はまずまずであったと思う。


脚本をもっと丁寧に練ってもらえば全体の雰囲気自体は良く、佳作映画になり得ていたのではないか、、、。


DVDのパッケージデザインは、あんまりだ。



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GOMA28

Author:GOMA28
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