
”CAN”これは多分、現代音楽。
だが、クラフト・ワークがロックと呼ばれるなら、ロックでよかろう。
何にも似ていないカテゴライズ不能のものは、取り敢えずロック枠に放り込まれる。
まるで「その他」だ(笑。
「その他」の王様はやはり、キング・クリムゾンであろう。
決してピンク・フロイドではない。シド・バレットのいた頃は、本当に光っていたが。
彼らジャーマンロックのグルグル、ファウスト、アモンデュール、タンジェリン・ドリームたちは自らをロックアーティストなどと思っていたか?少なくともエドガー・フローぜ(タンジェリン、、、)は思っていなかった。ベートーベンの生まれ変わりくらいには思っていたふしはある。だからあらゆるクラシックと現代音楽から徹底的に遠くへ逃走を図った。違う音楽を創造しようとした。
他の面々もおよそ想像がつく。
(ノイ、ラ・デュッセルドルフ、ハルモニア、、、たちもいる)。
しかし、CANは、というよりホルガーチューカイはそんなこと端からどうでもよい、知ったことではないだろう。
イルミン・シュミット、ジャッキ・リーベツァイト、ミヒャエル・カローリ、あともうひとり忘れた、、、残念、も同様だろう。
ここに日本人、ダモスズキが入る。メンバーについてはここでは触れない。
兎も角、ホルガーチューカイは音の編集を極めたかった。
自分が面白い音を作り込みたかったのだ。
芸術に拘った訳ではあるまい。
結果的に何かに似てしまっても、別にそれはそれ、、、といったところであろうか。
もっとしなやかで柔軟な人々なのだ。
だから、固いこと言わず何でもかんでもアメーバー的に取り込み、ダイナミックで洗練された独特なサウンドで深く琴線を鷲掴みにする音が排泄された。
不可避的にCANへと昇華されたといえよう。
これもひとつの方法である。
恐るべき無意識的な方法だ。
しかしこの辺のスタンスを見るに付け、それ以外の国の所謂、プログレッシブ・ロック(書くのも恥ずかしい)の幼稚で安易な姿勢が目立つ。そう目立つのだ。絵なら見なけりゃ済むが、音は聞こえて来てしまう。その意味で目立つのだ。
EGGのように、まんま現代音楽になってしまえばそれまでである。
あれはあれで、かなり完成度が高く、とても良かった。
ウィン・メルテンは、最初からもうマイケルナイマン同様、現代音楽(ミニマル)である。が、ロックにも顔を出す、と言うよりホルガーチューカイと一緒に仕事をしたりしている。やはりこのあたりがグレーゾーンか。
ヘンリーカウ、ハットフィールド、キャメル、ナショナルヘルス、、、カンタベリーファミリーのジャズの振り子を極限的に振り切れば、ソフトマシーン、ロバートワイアットまでゆくか、、、これらは高純度で結晶化している。違う場所に発生したが、マハビシュヌ・オーケストラもその点で、特記できる。
グリフォンは、シェークスピア時代の楽曲の再現をしているときは筋は通っていたが、ロックの旋律をクラシックぽくアレンジし始めてからは、古風な木管などを使う高級なプログレではないか、、、惜しい。特にサードアルバムの構成は言うことないのだが、、、。
タンジェリンドリームみたいに何故か日和ってポップなシンセグループになってしまうのもどうしたものか、、、。何を考えたのか、出だしの志は何処へ?やはり頭が硬すぎ、クラフトワークのような緻密な戦略性に欠けたためか。
クラウスシェルツが唯一頑張ったとは言え、"Irrlicht"ファーストアルバムを超えられていないまま、、、どうなった?
"Irrlicht"は確かに衝撃であった。アレ聴いて精神病院に入院してしまったという人が結構いるのだ。
シンセでその対極にあるのは、ギリシャのヴァンゲリス・パパサナシューだ。
彼のアフロディティス・チャイルドは、プログレポップであると同時に、三波春夫的なサービスの効いた演芸性もあり、その発展で充分に映画音楽を制する可能性を秘めていた。(プログレポップでは、割と単発的な優れたオリジナリティを放つ佳作アルバムは少なくない、、、ベガーズ・オペラは中でも光った。ハイセンスでは、スクリッティ・ポリティとか10CC)。
ジャズとクラシックとロックを極めて高品位にアマルガムしたアルティ・エ・メスティエリは、結局ファーストだけで、次からはどう見てもただのハイテクニックのジャズロックグループだ。これなら、もっとクリエイティブなジャズロックグループはイギリスにも沢山いる(いた)。フリオ・キリコは結局、練習熱心な太鼓屋さんであった。
ちょっとLP引っ張り出したい気分になってきた、、、。
ブルースをロックに極めて饒舌にダイナミックに流し込んだロビン・トロワーは忘れられない。
物凄く美しいブルースロックであった。演奏が飛び抜けているのも勿論効いているというより彼の場合、本質的なものである。
なんというか演奏そのものがコンポーズに嵌入しているのだ。(その代表がルー・リードとクリムゾンか)。
ハモンドオルガンの第一人者、永遠の少年マシュー・フィッシャーがプロデュースというのも頷ける。
2人ともサウンドはまるで違うが、とても似ているのだ。
2人ともその身体性で、コンポーズからサウンドに分かちがたく結びついたタイプだ。
ファズやワウワウ、片やハモンド(に加えVも)が彼ら以外の人には弾けないことが決定的であり、それを前提に楽曲が生成される。
これについては、また後に書きたい。
その対極に、楽譜を渡せば、他のクラシック奏者でも基本的に同じに弾けるというのがELPとかイエスだろう。
ジェントル・ジャイアントはまた違うタイプで、寧ろジェスロタル寄りの存在だ。
そしてもう少し極まれば、プロコルハルムの頂きである。(マシューとロビンはメンバー。)
アナーキーでフリーキーでフリークスなロックとして、忘れられないのが、スロッピング・グリッスル、マーク・アーモンド、サイキックTV、オランダのメカノとか、、、
何を言っているのかと言えば、この域のアーティストは、質的には極めて優れた音楽水準を保っていること。
(酷い例を上げる前に、例外を先に確認しておきたかった)。
他に、アレア、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、サードイヤーバンド、ヴァンダーグラーフ、ルネサンス、イオナなどもここに入る。おう、ツェッペリンとムーディーブルース、ジェネシス、フォーカスをお招きしないと。(これは、やり始めるとキリがなくなる)。
忘れているのもかなりあるはずだが、、、それはともかく、プログレとか呼ばれる連中のほとんどがクラシックを連想させるどうでもよい音色を紋切り型とすら呼ぶ気になれない形でサウンドに嵌め込んで、何か作った気になっていることだ。
また、それを煽てるリスナー(音楽評論家)もいる。様式美でいくなら、グリフォンやトレース、イエスくらいまでもっていってもらわないと。しかし、それにはリック・ヴァンダー・リンデン(トレース)くらいの技術と素養が必要となる。彼はクラシックのピアノ協奏曲アルバムも何枚も出している。カーブド・エアもビバルディを引用したりしているが、彼らのクラシック要素のロックへの引き込みはうまい。アイス・ハウスの方が一枚上だが。アレンジ力で言えば初期のディープ・パープルはイエスより良い。
プログレの志も内容も構造もセンスも全くないものが圧倒的に多いことは断言できる。
なかでも、彼のノヴァーリスの名前を冠するとんでもない腑抜たプログレがいた。クラフトロックもマカロニロック同様、両極端と言える。プログレッシブの本来の意味から言えば、ここに挙げていない方々、クラプトンやイーグルスなど、レッテル貼られたプログレなど問題外でプログレ的ブルース、フォークロックミュージシャンはいる。チェレステなども捨てがたい。
以前レコード屋に、冬はこたつでみかん食べながらプログレでも聴きましょう、というコピーが貼ってあった。
このキッチュ過ぎるコピーが妙にピッタリ似合ってしまうのだ、特にイタリアバンドのほとんど。マカロニバンドか。
この辺からの隔絶と言って良い距離をCANをはじめとする上にあげたアーティストたちは保っている。
かと言って何かに全く似ていない曲かといえば、CANの場合、スレスレで近いものもある。サンバとか。(故意にやっている)。
前衛にも縛られないしなやかな柔軟性があるところが、タンジェリン(結局コケたポップ)やクラフトワーク(厳格・孤高)との違いか?(クラフトワークのライブはもう機械劇みたいで、未来のメトロポリスである)。
しかも取り入れた要素はすべて、CANの音である。
原始的でダイナミックで、洗練された唯一無比のCANの音になっているのだ。
”Ege Bamyasi”(もっとも聴き易いCANで有名)の中でも、”Vitamin C” や”Soup”は、異様にシンプルで、童謡みたいに牧歌的だが、呪術的で独特な翳りにも充ちている。
一度聴いてしまうと耳から離れない。エンドレスに鳴り始める。(「天国の階段」の歌詞にあるように、、、)。
この牧歌的な(ときに荒々しい)麻薬的で呪術的サウンドがCANである。
つまり。現代音楽とかロックではなく、”CAN”でよい。
何れかを聴いてしまったら、全部聴きたくなる。中毒性が間違いなくある。
そんな音だ。
ポップとか前衛ともズレがあり、引用するものすべてとズレ、形式上何かを懐かしく夢想させ活性させる独自の音楽。
何か本来の意味での健康で元気の出る音楽である。
凡百のプログレでは、とても浸れない快感である。
我がNewOrderはまた再結成して始動した。
これも目は離せない存在だ。耳か。そう願いたい。
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