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桜「SAKURA」

Sakura001.jpg

「いきものがかり」の「SAKURA」をやたらと耳にする。
いかにも和製ポップというコードの曲である。
良い曲だ。
ボーカルの吉岡さんが一生懸命唱っている健気さが、3月~4月に相応しい。
そう言えば、3月の卒業時には、あの”YELL”が相変わらずよくかかっていた。
わたしは「いきものがかり」は詳しくないが、その2曲は耳に馴染んでしまった。
もはや「日本の歌」という感じである。
(ついでに言えば、「じょいふる」というのもよく耳に入ってくる)。


すぐ近くの目抜き通りがソメイヨシノのピンクの長距離トンネルと化している。
ピンクの乱反射だ。
車でゆっくり通ってみるが、逆らい難く幻惑される。
桜自体が『桜の森の満開の下』に記録された、ただならぬ妖気を放つ存在であることをにわかに思い出す。

あの微風の谷間をスローモーションで浮遊してくる花弁には、ヒトを酔わせる何かが確かにある。


冷たい虚空。
冴え渡る孤独。
一陣の風に渦巻くは薄桃色のはなびら。

こんなところで、内面のない山賊と残忍な美女が出逢えばどんなことになるやら、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やはり、ソメイヨシノのトンネルは耐え切れない、張り詰めた空虚であった。
ピンクの隙間から跳び跳びに覗く青空も余りに明るすぎるのだ。

すべてのいきものの入眠を誘う、、、。
今まさに桜に吸い寄せられてゆく人々。
どこからこんなに集まってくるのか。
ピクニックの出で立ちである。
そのせいで、車の流れも緩慢なのだ。

声も漏らさず、知らず首を切り落とされるいきものたち。
勿論、ヒトも累々と、、、。
書割の下にそれらの屍が眠っていても気づかれることはない。

そんな過剰に妄想を誘う雰囲気に盈ちている。

振り切るようにトンネルを通過するべく、アクセルを踏みこんだ。
回り道をする。
と、そこにもソメイヨシノが、、、。
こんなに桜が、あったことに毎年この時期に驚く。
桜、さくらは偏在している。


「いきものがかり」という名前は面白い。
「いきもの」を殺す方向に様々な次元で物事が進んでいる中、「いきもの」に管理・制御ではなく「かかり」として寄り添うニュアンスは優しげで素朴で何かホッとする。

「SAKURA」を何故かまた聴いてしまった。
「桜」でも「さくら」でもなく「SAKURA」でなければならなかった。

立体の認識

headset.jpg

われわれの生活において視覚の占める部分が如何に大きいか、今更ではないがつくづく感じた。

赤ん坊が獲得する立体感は、其の物のあるところにはいはいして行き、手で触ったり舐めたりを繰り返すことで得られる。
目ではまだ何も確認出来ない。距離と立体感は視覚だけでは得られない。
移動運動と触覚によって立体感を含む空間感覚が獲得される。
ある意味、視覚と触覚は不可分であった。

だが、一度身に付いた空間感覚、立体感(形状感覚含む)は、視覚に統合される。
視覚だけで認識ができる。
五感は全て視覚に左右される。
視覚で感覚の全てを操り、擬空間に「没入」させる事が可能であるようだ。
触覚による形態知覚を視覚によって操作するのも容易である様子が窺えた。
寒暖の感覚も視覚次第である。

NHKでやっているサイエンス紹介番組をたまたま見たのだが、VRの特集であった。
ヘッドセットをつけた司会者が、スキージャンプのシュミレーションで恐怖に尻餅をついていた。
怖い怖いと驚くばかり、、、。
そうなのだ。
最近のVRは、その「没入感」で特にゲーム業界に深く浸透しつつある。
(ゲームのみならず、様々な実用的な分野にも進出を始めた)。
ジャイロセンサーと加速度センサーによる追従性がとびきり良くなったおかげで、普通に見渡すのと変わりなく「外界」を見れる。
しかも視野角がこれまた普通に見るのと同等に広く(100度)、その上充分に高画質なのだ。
もう、そこにいるとしか思えない。
恐怖も寒さも感じる!

つまり、取り囲まれている世界に対し「違和感」がなくなる。
これに司会者たちは、驚いているのだ。
その特異でお手軽な自然さに、、、。
行こうと思えば、アルプス山脈のてっぺんにいるプログラムを起動させれば、その場でそれを十全に味わうことが出来る。
瞬間移動のSF映画かドラえもんの「どこでもドア」であろう。
このコンテンツを充実させたら、旅行業者はどうするのか?
わざわざ危険な「旅」をして赴くより、こちらを選ぶひとも少なくないだろう。

コストも、スマフォで開発されたセンサー技術の組み合わせで実現できるため、かなり安く仕立て上がる。
確かにスマフォから随分生活形態も変わってきた。
誰もが充分に滑走路を滑ってきた。
後は、揃って離陸か!
ヘッドセットの価格もアマゾンで見ると一頃よりお手頃になっているではないか。
これは一般に広まる。
皆がヘッドセットを付けて、各々の世界で好き勝手な身振りをする光景が当たり前となる日も遠くはない、、、。


リアルとは何か、今後「感覚の技術」によって、定義がズレてゆく事が感じられる。
その認識と世界観は、絵画の制作にも他の芸術にも影響を少なからず落とすはず。


その番組で、隣に司会者の相棒がいることを知っていてもなお、あれだけ怖がることが出来るというのも、その感覚技術と言うより視覚技術の高度化とともに、視覚優位(視覚依存)の人間の有様を強く認識するものであった。






見えない重力を描く Ⅱ

Gravity.jpg
児玉氏の絵についての感想を幾度か書いたが、わたし自身思春期に複雑な思い入れがあるためである。
あの作品群(10点+1点)がそこから出てきた絵であることは一目見れば確かである。
(わたし自身、考える良い機会となった)。
その元イメージー=思想がどんなものかは容易に析出し得ないが。

絵は言語に比べ形式上、遥かにイメージにおいて限定的である。
奈良原一高氏がかつて述べていたが、「光」を表すとき写真では不可避的にその光として限定されるが、ことばで「光」と言えばそのイメージは限りないものだ、、、といったことであった。
しかし、そのニュアンスと方向を与えられたイメージがまた、饒舌で芳醇なのである。
雄弁なのである。
それは奈良原氏の圧倒的な写真作品で逆によく分かるところであろう。

同様に絵画もその限定性によって遥かに雄弁で芳醇であり得る。
大体、われわれがことばのイメージをどれほど豊かに持ちあわせているだろう?
例えば、宗教的法悦を言葉で言い聞かされても、あのエルグレコの天に向かい果てしなく丈高く伸び上がる聖者たちの絵画のイメージを凌駕出来るとは、想えない。(ベルニーニの彫刻でも構わないのだが、、、ここは絵で)。
ことばの「光」の速度を上回る絵画イメージは、ある。
また、重力を語りえている絵画はある。

勿論、絵画には解釈の幅も不可避的に大きい。
言語は言語によってなされるが、絵画を全く形式の異なる言語で語るのは、端から二次的創作は免れない。
(言語ー言語の批評も当然、従属性はあっても新たな創作となるが)。

ただ、ここでわたしが絵を前にしながら、遡行する(それは上方にか下方にか)引力があるということ。
見えない重力を想わせるのだ。
(絵は必ず絵以上のものである)。


そう、実際何を、と言うより重力そのものに行き着くことなのかも知れない。
つまり、究極には何らかの自然の原理を感知するまでの実験の場なのかもしれない。
そのはじまりの過程を見る思いであった。


「等閑の境界、多重するズレ」という初期(古い)作品に遡行してみる価値を感じる。
「ズレ」というのは、非常に確信犯的である。
新しい作品では、「青空の空隙」に愛着がある。
具体的な技法(視座の多重化)による多重なズレを現出している。
まさに「青空=日常」の「空隙=宙吊り」思春期の少女の瞳の強度による。
シーツの鏡への変容は、微睡みから自覚(映る)への内省の過程である。
皺は必然的に鋭い割れ目に変貌する。
どちらも全く日常の光景の一瞬の多重なズレの確かな光景である。


ここで、児玉氏の絵に関しては、とりあえず終了する。





境界線上のガジェットⅡ

iron man

「ハイゲンキ」という治療機がある。(あった)。
先日、掘り出した(笑。

普通の大きさのアタッシュケースにスッポリ組み込まれたよくあるタイプである。(よくあるかどうか知らないが)。
蓋を開けると電源スイッチと、測定端子と照射ヘッドと個々のインジケーターが付いているくらい。
シンプルさは、鉄人28号の操縦機並みである。
これももう、20年近く経つはず。いや、もっとか?

これこそ、宇宙の氣、怪しいと言ってしまえばそれまで、を中継する装置であり、正直なところ何が照射されているのか分からない。
照射した祭、その部位に余りに抵抗がない為、何も出ていないような気もする画期的な気の照射機なのだ。
購入時に診察を受けたみたいで、覚えてないがわたし用のカルテと専用使用書が入っていた。


そこには、胃上げ200カウント(くるぶしと膝の真ん中で、むこうずねの少し外側にある胃昇穴に照射)。
胃止め20カウント(臍とみぞおちの中間にある胃止めの気穴に照射)。
その他、その時の症状別治療(頭、腰、肩、脚等、1点につき20カウント)。早速、頭に試したい。副作用が無いぶん思う存分できる。
外気光治療15分(本体スイッチを連続にし、照射ヘッドのスイッチを入れ自分に向ける。動きが出てきたら抵抗せず身を任せる?!)。
これにほぼ似通った、ワークショップのことを思い出した。
これについて語るのは、少々難しいが近いうちにわたしの読者のみに明かしたい(爆。

他に気マットというのもあったようだが、見つからない。
当時とは体の状況も変わってはいるはずだが、本質的に変わってはいない実感がある為、このとおりに当分使ってみる。

毎日行うようにとあったが、20年間やっていない。今日から再開しよう。
基本は自然治癒力を高めるということだ。
願ってもない。


こういった機器がやたらと掃除の時に発掘されるのは、医者に頼らず、自分主体に体を把握し、健康というより、快適に過ごしたいと言う意思が無意識的にも発動していた為と思われる。
あと純粋な物珍しさ、好奇心によるところ、更に普通にあるものがみな信用できない、胡散臭いという事もあっただろう。
その為、余計胡散臭い新新興宗教系の物にもかなり手を出したが、それがどう作用したかは未だはっきり分からない。
もうほとんど内容も忘れたが、、、。


ひと口に言ってこれらは、美の翳りの領域のもがきでもある。
それらのガジェットたちは、その物質化とも言える。
ベッドの皺の延長が鏡―ガラスの割れ目になっていたところから出てきたものである。

奇形の面白い物体が、長い事眠っていた。
今この時を待っていたかのごとく、何の不具合もなく目を覚まし、作動する。
他に見つかっているものもどれもそうだ。


これから実際に、毎日使ってみたいと思う。

ただ、快適な環境を生成したい。
crystal.jpg


美の翳りに寄せて

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それは確かにあるのか、あることすらはっきりしないが、ないはずがない自分を揺さぶり、煽る何らかの実体。
美―調和と健全、の翳りに存在するもの。
病、メランコリア、ペシミズム、デモーニッシュなどと呼んでみたところで何もはじまらない。
他にもルサンチマン、ニヒリズム、デカタンス、、、等々。
それらの物語に絡め取られるばかり。

ただ、われわれが厄介だと感じるのは、いや厄介くらいならまだしも、真っ当な生を送れない程にそれに支配されてしまうことであろう。つまりは無意識の奴隷として。

それを構造化して捉え直すことで、翳りを新たなことばに回帰させたい。
言い換えれば、自己存在における不安、という未分化の何者かを有機的に分節する。
やはりそこからしか始まらない。
われわれ個々に課せられた仕事であろう。

それを読み解きたいとか、見易くしたいなどということではない。
紋切り型の象形に還元して安心を得よう(それは無理で、余計に病むことになる)というのではなく、形象を新たに生み出したいのだ。
念を押すが、無意識に揺さぶられるだけの奴隷とならないための仕事である。
ただ、自分のことば、自分の生の現在点を見極めたい。
今を十全に生きるに、必要な作業として、、、

、、、絵画制作は、その一つと成りうる。

しかしそこにおいて美とは、まだ可能なのか?
無論、それは定義の問題ともなろう。
わたしが、ここのところ観てきた絵画で、創造的アプローチをしているものに、同時代性の翳りを見ないものはない。
少なくとも伝統工芸的なもの以外、健やかなギリシャ的調和の美からは、遠いものばかりだ。
しかし、何というか美が手放せない、言い換えれば整合性―象形に最終的に寄り添おうとしてしまう例も少なくない。

フランシス・ベーコンなどは、突端の優れた例であるが、巷の自覚的な芸術においては、どんな水準の作品においても、度合いの差こそあれ、それが窺える。
またそれにおける、葛藤が感じられる。
フランシス・ベーコンのように戦略的方法を見出し、先鋭的に突き抜ける特異な画家はいる。
が、多くはそのような方法まで析出しない。
様々なレヴェルで、彷徨う。

具象的可能性に見切りをつけた画家は純粋抽象を選択してきた。
しかし、多くの作品が、具象的・抽象的を問わず、描いた際から見慣れたものに落ち着いていってしまうのは何故か?
象形化するのは何故か。
認識の度合いなのか?
単なる作者の身体的思い切りの悪さのレヴェルか。
方法の欠如によるところか。

とは言え、それらの作品は美と言うには、少なくとも禁欲的過ぎる。または、神経質過ぎる。
彩度の低い、又は狂乱する原色のぶつかり合う配色で統合より分裂・解体に向かう傾向は似ている。
感情よりも理性がやはり優位を占める。

その共通項はリアリティの追求からくるであろう。
理想的な美の構築・創造が仕事ではもはやなく、神にすがる宗教画は不可能である現在、作家の仕事は、リアリティの追求でしかない。
あらゆる面において齟齬・喪失・不安・不条理が先にある地平において、創造とは不可避的に現実との格闘となる。
勿論、リアリティと言うからには、自分の場所からである。
他の場所のリアルなど原理的ー身体的にない。
であれば、そこだけの形象の切り出し作業が始まる。
類型性はあろうが、独創は不可避であるはず。
後のその部分。
つまり、怪物のままの部分が観たい。
(紋切り型と言い換えても良いが、逆から見ればそれであろう)。



恐らく何故、怪物は怪物でいられなくなるのか?
多分考えるべきはこっちの、方だ。

ここで突っ込んで語る余裕はないため、また後日にまわしたい。


翳りが構造化され怪物として動き出す。
最近は劇画調(コミックタッチ)のポップな象形に堕落するものを多く見る。


それが怪物で有り続けるには、、、。







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境界線上のガジェット

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実はその昔、学生時代に池袋のサイ科学関連の機械やグッズを扱う販売兼ワークショップも開く店舗によく足を運んだ。
ワークショップも予約で参加出来るもので、首が凝るとか言って特別な機器をかけてもらったり、マッサージと「気」を入れてもらったりしたものだ。それなりに効いた気がする(笑、が値段は結構高かった。
そこへは主に鉱物・化石・テーブルウェア・グッズやガジェットを買いに行ったものだ。


今はもうほとんど捨てられてしまい、先日最後の湯飲み茶碗の縁が割られ、食器類はもう無くなってしまった。
底に良い波動を発生すると言う「パタン」がコバルトブルーで描きこまれたものである。
わたしがパタンやデザインに興味を持ったきっかけの1つである。
かなり気に入っていたのだが、もう手には入らないだろうな、、、。
うっかり水を注いだまま忘れていても、他のマグカップだったら捨てているが、それは有難く飲んでいた。
水が柔らかく胃に当たらなくなっていた気がする。味もまろやかに思えた。


水滴と炎の形態を融合させた端正な宝珠の形の水晶と両手にしっかり握れる形の水晶の棒2つはまだ大事に放置されており(笑、今もすぐ目前に置かれている。
確かそこが波動研究所でもあったため、良い波動や気を送り込むというのが主な効能であったはず。
それから波動を発生するプラスチック性の定期券大のカードが数枚、、、。
よく財布に入れていたものだ。


機械の方は2つ買ったものはそのまま残っている。
20年近く寝かしっ放しでいたのだが、最近、掘り起こしたのだ。
何故かたいそう陽に焼けてはいた。
実はまだあったことに驚いたくらいだが、使ってみるとまた驚きであった。
しっかり使える!(と言うか今のところ電気が入るというレヴェルで、成果についてはこれからだ)。

ひとつは自分の身体波動をプリントして、液体やジェル系の物に転写するガジェット。
つまり、薬やオイル、化粧品、飲み物全般に使える。
これによって対象を摂取することによるアレルギーや抵抗、不具合、副作用が軽減できるという。
自分にとって親和性のある吸収しやすい有益な物体にしてしまうのだ。

使い方は、ベース上の丸い2つパネルの右側に右手を置き、左側のそれに対象物を置くだけ。
後はその物体の密度により、4段階に分かれているうちの該当スイッチを押す。
ジェルは4であり、トロトロしたりツブツブの混ざったものは3位にしてみる。その他の状態のものは、微妙(笑。
そしてスタート。
赤い光が幾つも順番に点滅してゆく。
暫くして適当なところで切る。
転写が済んだら自動的に止まるのではなかったらしい。
長いこと使ってなかったので忘れてた。
次の機械もこちらも説明書がどこかに隠れているため、よく分からないのが現状である。

もうひとつの機械は、α波(14Hzから8Hzの周波数領域)とθ波(8Hzから4Hzの周波数領域)を発生させてバイオサウンドとしてイヤホン又は外部音源を通して流し、神経を鎮静させ学習における集中力を増し、創造力を高めるための装置である。(α波とθ波を発生することだけは覚えていた)
これも、時間は自分で決める。
設定もかなり細かく調整が効く。
balance volume depth(変調の深さ) position(変調周期α波~θ波の調節)。
特にpositionにおいて集中力・創発力促進からひらめき・創造力さらに超リラクゼーション効果まで、幅広い調整ができることになる。
外部音源に繋ぎ、振幅変調を掛けることは、これからやってみたい。
(この機能は試したことが無かった)。

兎も角、瞑想モードというところで、プレーンでヘッドフォンを通して聴いてみる。
驚くべきことに、耳にイヤホンをした瞬間、ただ、ブーンといっているだけなのに、深く静かな心境に浸ってしまう。
何故、毎回たちどころに、こうなってしまうのかが不可解である。
暫く時間をかけて、少しずつ慣れてくるとかいうのも変だが、、、。
これだと人間、自分がシンプルな機械であること、神経ー精神メカニズムが結構簡単な原理で成り立つような気がしてしまう。
スイッチを入れた途端、余りにスッキリしてしまうのだ。
兎も角、機械的にすぐに落ち着く。しかも一定の状況が安定して維持される。
逆に人工知能があながち荒唐無稽な領域でもなさそうな気がしてくるものだ。
わたしはAIには元々懐疑的なのだが。
この2つの機械の使用感・効果については、これから先もお伝えしたい。


ともすると、価格的なところから霊感商法と受け取られ兼ねないものでもあるが、(そう、絵などになると正にそれとの差別化は難しそう)単に面白い以上の経験と認識は得た。
但し、物凄く古い機械になってしまい大丈夫かという点も若干の不安ではあるが、他に何があるでもないので、試してみたい。
これからは真面目に自分の身体で、それらの実験を続けてみることにする。
そうtDCS(経頭蓋直流刺激)へも繋げてゆきたいのだ。
(まだ、その環境がないのだが)。


秋葉原や池袋には、異世界とのボーダー上でモノを売る店があり、異世界のヒト、絵になるマッドサイエンティストみたいなヒトが、何かを嬉しそうに怪しく作って(取り寄せて)は、売っていた。値段が張るのが玉にキズなのだが。
今はどうだろう。(もう全く、足が遠のいてしまっている)。
街はかなり洗練されて小綺麗になってしまったものだが、、、。
コスプレ姉さんたちだけでは、余りに寂しい。
未来のイブが出てくるならまだしも。

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おいしい生活

Small Time Crooks

Small Time Crooks
2000年アメリカ
ウディ・アレン監督・脚本・主演

ウディ・アレン、、、レイ
トレイシー・ウルマン、、、、フィンチー
ヒュー・グラント、、、デイヴィッド
エレイン・メイ、、、メイ

三流劇場ペテン師、、、
まさにそうではあるが、、、
ペテン師の劇場であるなら、2流も3流もなかろう。
どっちもどっち。

コテコテのコミカルストーリーで、特にヒュー・グラントの偽善者振りがこそばゆい。

主人公のレイは、コソ泥である。
妻のフィンチーは、元ストリップ?ダンサーである。
メイという親戚がいるが、危なっかしい天然キャラである。
後は、レイの協力者たちで、店のフランチャイズ化を提案した経営を学んだ刑事以外は素人以前の能天気な人々である。

レイは、まず銀行強盗(完璧な?)を企てる。
まず近くの店を借り、そこから地下トンネルを掘って銀行の金庫を狙うという解ったような解らない計画を立てた。
しかしトンネルは銀行と反対側に向けて伸びてしまい、見通し真っ暗となる。
だが妻のカモフラージュで始めたクッキー屋がやたらと繁盛してしまう。
ここで、例の刑事が加わり、経営規模が爆発的に大きくなる。

仲間は皆、首脳陣(重役)としての地位につき、その急成長と斬新さがアメリカ中に反響を呼び、レイ夫婦は億万長者となる。

ドラマは、ここからである。

フィンチーは社交界にデビューし、文化人になりたがる。
レイは、肉団子入りスパゲティーをしきりに懐かしがる。
文化人育成レクチャーは、どうにも耐えられず仮病で休み仲間と賭け事をやりながら愚痴ったりして一向に文化人になる気などない。画商のデイヴィッドの文化の匂いに惹かれ、妻が入れ込んでいるのも当然気に食わない。

一方フィンチーは、美術のパトロンとなり、寄付をするなどして文化人としての足固めを始める。
教養を手っ取り早くつけるために、デビッドをたのみ、彼女の個別指導計画のカリキュラムを作成し指導してもらうことにする。
デイヴィッドとしては、千載一遇のチャンスである。
フィンチを手懐け、自分が企てた大きな事業に出資をさせる。

彼女は金を湯水のように使い、一流の社交界の貴婦人を目指すが、結局横領によって会社は倒産し全財産を失う。
横領した人間の顔も知らないという、ずさんな経営ぶりが祟り、出し抜かれてしまったのだ。
それまでジェントルであったデイヴィッドは案の定、悪態をついて、さっさと消えてしまう。
まさに金の切れ目が縁の切れ目の見本である。
この時点で、夫も失いかけている。

この辺の経緯を面白可笑しく描く。
軽くて明るいため見やすく、そこそこ楽しめる。
教養を金で買おうとするのが、学校でありセミナーであろうが、結局そのヒトのための教養は、そのヒトのいる場所からしか得られない。
レイはしっかり金庫の開け方を学んでいるし、それをフィンチーにも伝授していて、彼女は実践すべきところで見事に実践している。
教養は身につけているのだ。クッキーだって美味しく焼けるし。
必然性のない空知識が何になる。そんなもの使えない。
身体化されているわけでないから、遣う場もなかろう。

まあ、クッキーが予想外に受けすぎたわけで、単に回帰して元に戻っただけの事である。
しかし2人の間は確実に濃密になって戻ったのだから、良い(差異の)経験であった。
こうして反復が豊かに深まってゆく。


めでたし、めでたしである。
ふっと、落ち着ける映画であった。




思春期への遡行 

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久しぶりに絵を見て想った。

重厚で先鋭的な思想や、戦略と技法で描かれた作品には圧倒される。
ことばがそもそも出ない。
まだ、どう語ってよいか分からないからだ。
新しい形というより、見えなかったものが現前している。

またそれらは、暫くすると変身する。
われわれは大概、追いつけない。
慣れる前に、変わってしまうからだ。

絵に限らず、そんなものが作れたならきっと、面白い。
(絵はある意味、一番難しい領域かも知れない)。

だが、理解は得られない分、作者は孤独であり、孤高を強いられる。
勿論、達成と満足は得られるも、、、いや、甘い。作家は例え世間がどう言おうと、絶対に満足を感じない生き物である。
だから永遠に反復する。それは、その生と同義になる。

大概、誤解・誤読で文化は成り立ってきた。
多様というのは、そういうことだ。
作者もそれを受け取る者も、本当の意味など原理的に分からない。
各自が自分のスタンスで意味と価値をその都度、見出す。
その都度、感動したり憤慨してみせる。

しかし理解できなくとも偉大さを厳然と示す。そんな圧倒的で異質な力を及ぼすものがある。
完全に選ばれたもの、である。
別格というか孤絶した傑作、、、。
とは言え、そんな至高の鏡より、もっと受け取りやすい鏡がある。
実は、後者にわれわれをより活き活きさせる力が宿っていることが多い。
所謂、好きな作品というやつである。
大傑作と好きな作品とは、異なる場合が多いものだ。

だれも成し得なかった形象を見せる努力は必要であり芸術家であれば必然だが、誰もが知っている既視感のある紋切り型から、生きる力を更新する方法も有り得る。
価値はある。

鉱脈を求め、思春期に遡行し、幼少期、更に幼年期などの地層を掘り進み。
例えば、ディテールを極める。
時空間の変質と多元化。
要素の再構成。
カットアップ・コラージュなどの技法。そう技法の工夫でより鮮明に浮かび上がらせる。
(ひと思いに生物全般~鉱物に飛ぶ方法はあるが、まずその前に)。


つい最近見た絵に、その可能性を感じさせられた。

われわれを未だ停滞させている事象の多くが、その場所に畳み込まれている何かの作用を受けていることは、確かなのだ。

解決済みのものは、何もない。
それを可視化するだけでも、有効であるし充分に美しい。


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児玉 沙矢華展を観る

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post cardに使われていた「空を仰ぐ嘘」

児玉 沙矢華という画家を初めて知った。
経歴を見ると、わたしの高校の後輩であった。
全くどうでもよいことである(笑。


さて、絵であるが、題名がどうしても琴線に触れる。
と言うより郷愁を呼ぶというべきか、、、。
テーマに対する郷愁でもある。(わたしの年代ともなると、、、)

展示されている作品は、次のもの。
最近見た絵の中では、とても瑞々しく共振できるものであった。
素晴らしいというより、好きなタイプの絵である。
少女(少年)期を図象にしていることは、ある意味紋切り型に絡め取られる危険性をかなり内包している。
作者はそれを前提に、違う路を切り開こうとしているはずだ。

「等閑の境界、多重するズレ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「青空の空隙」
「共鳴する空想」
「空事の巣」
「空事の狭間」
「架空の地図」
「空を泳ぐ嘘」
「架空の街へ」
「架空の経路」
「空想の影境界を辿る」
「影絵遊び」

の11枚であった。
絵と画題との対応関係は、もうはっきりしない(謝。
(じっくり観ることが時間的に許されなかった事情から)
ただ、印象に残る絵ばかりであった。
また、時間をかけて観てみたいと思わせる絵ばかりである。
画集が出たら、間違いなく購入したい。
以前、よく絵(版画が多かったが)を買っていた頃であれば、値がついていたら買ってしまいそうである。
だが、今現在のわたしの状況では、買えない(笑。

10点の絵が同じテーマに収束されていることが分かる。
空事、嘘、狭間、巣、架空、空想、影、影絵、空隙、泳ぐ、、、

1点、「等閑の境界、多重するズレ」の作風(形式)が他と異なり、他の作品から大きく踏み出している。
それは題からまず窺えるが、絵そのものが明らかである。
鏡・ガラスがない。ドアをはっきり開けている。幼いながらも立っており、盲目の生きる意志をもっている。頭部は見えるが表情ははっきりしない。
これがまた、印象的である。
彩度を抑えた全体の色調がテーマに強度を与えている。
鋭いまたは煌びやかな輝きを排除し、光を抑え込む。
この絵はこの色調以外に成立しないことが分かる。
少し河原温の初期の絵を思わせる。
この絵の場面が風呂場であったら、凄い既視感を持ってしまうかも知れない。
場面は台所であるが、ものの構図が加速・圧縮されており、その時間性はキリコをも思わせる。
そのまま観たなら、等閑視された子供のある日(いつも)の光景―場所を象徴する高密度で無機的な絵と取れる。
しかしこれに「多重するズレ」と続く。
そう、ズレなのだ。尽く事象はズレて生成する。時間性―速度が加わる。
この絵は、一枚のあるときの図象に見えて、無数にだぶる反復を表している感がある。
ズレとはその時に生じる「差異」である。
生々しい生の現場である。
テーマの飛躍か、、、


同テーマと思われる作品群では「青空の空隙」に特に目がいった。
鏡にできた漆黒の穴を2人の少女が上から覗き込んでいる、その表情が他の作品にない強い意思を感じさせるものであった。
穴と書いたが、穴に見えて漆黒の異物であるのかも知れない。
漆黒それは、光を受け付けない。光―空事・架空のすべてを撥ね付ける。
そこに苛立ち、拘わり苦々しく凝視する。
その漆黒とは何か?空隙とは何か?
そこがいまひとつ、わたしにとっても彼女たちにとってもはっきりしない。

他の作品も意思と感覚を素直に発露させて染み込んでゆく、シーツの皺からガラスの割れ目に構造化してゆく自我の痛みを、その息苦しさを、焦慮の念を、軽い目眩を、充分に肌に感じさせるものではあるが、、、。
微睡みの安らかな表情の内に自閉・内向し、非現実の世界にイメージを遊ばせていることから、異質なカナリゼーションを起こし、内側・内宇宙から他者に向けて立ち上がり、ガラス張りの自己しか写さぬシーツから目を離し、他者―漆黒との関係を新たに切り結ぼうとしているように見受けられる。「青空の空隙。」
ほかの絵が言葉を外に放たないものであるのに比べ、これは自らのことばを明らかに漆黒―他者に向け吐こうとしている。
その意志の強度の内に恐れと闘志の綯交ぜになった感情が垣間見える気がした。
「空隙」という言葉は何というか単なる隙間より異様で異界的な異物感がある。


音で言えば、”Lily Chou Chou”の音楽に重なるものをいくつか感じた。例の「呼吸」


ここまで随分、表情と書いてしまったが、表情―象形になってしまうことで、もはや紋切り型から逃れられなくなる。
この表情から逃れ、これをどうしてゆくか、これは全て(純粋抽象以外)の画家の創作テーマでもあろう。
ここを切り抜けた画家はごく少ない。(フランシス・ベーコンなど数える程)。
これからの動きが気になる。

「等閑の境界、多重するズレ」の可能性を感じる。


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袋小路

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Cul-de-sac
1966年イギリス
ロマン・ポランスキー監督

モノクロのメリットが効き、抽象性が担保され古さを感じなかった。
もしカラーであったなら、時代感を印象づけられていたかも知れない。

ドナルド・プレザンス
フランソワーズ・ドルレアック
ライオネル・スタンダー

この3人とても良い味を出していた。

海辺に聳える古城というのは、どうもロマンティックというより、住み難そうという感じが拭えない。
特にわたしはアウトドアが苦手で、水洗トイレのないようなところではまず暮らせない。
あのご立派な由緒ある古城は、わたしにとってはテント暮らしと同等の感触しか受けない。

かつて11世紀の作家の古城で、彼の日記や草稿などプレミアものが残されているというが、現在の所有者にもその付加価値以外にさしたる魅力はないように映る。亭主も冬はひどく寒いと不平を漏らしている。
ただひとつ夫婦にとり実質的なメリットととして、かなり隔絶された環境であること。
それによりこの夫婦、何となくやり過ごして行けそうなのだ。
潮が満ちれば、孤島と化す。さすればやはりここは滅法ロマンチックではないか、、、。
(ホントにそれだけの機能であるが)。

若妻は気だるそうに何時も同じLPをかけているし、若い男とカニだったかエビだったかを獲りに行く名目で浮気中のようだし。(その意識かそもそもあるのかどうかもはっきりしないのだが)。何らかの決断を下すほどハリのある生活を送っていないためか、なし崩し的である。(セリーヌ的まではいかないか)。


しかし、現在の城主は彼女の絵を沢山描いている。旦那の彼女への自己妄想的な閉じた入れ込みようは痛々しいほど伝わる。絵そのものは、本人の言うとおり、日曜素人画家であることはお愛嬌として。それを彼女との堅固な対幻想に構築する意志はない。
そのような歪な関係のもと、お互いに暇を持て余しているところに、招かざる客がやってきた。
彼女はハダカで泳いだり、奔放で率直で向こう見ずに見えるが、思いのほか保身に拘り、嘘をついて男を誑かす。女性性ととるべきか、業というべきか。いや幼いのか?しっかりしているように見え、何考えてるのか今ひとつ分からない。兎も角もはや、ご主人に惹かれてないのは確かだ。何で結婚して一緒にいるのか分からない位の関係だがまだうやむやで継続する。早かれ遅かれはっきりしてくるのだろうが、ギャング-他者との関わりにおいて、露呈は加速されたと言えよう。

そのアクの強い粗暴だがどことなく憎めないギャング(2人いたが、個性がさらに強い方?はすぐに死ぬ)とのいつまで続くか分からない共同生活がどうにもカフカ的なのである。
別に「城」から連想して無理やり言っている訳ではない。
ギャングはヘマをやらかし、傷を負って城にたどり着いた。
そこから身動き出来ずボスに助けを請うが、いつ来るかわからない。
なるべくギャングを刺激せず、お迎えが来て去ってゆくまでやり過ごす基本スタンスで夫婦は行く事にする。
そんなところに夫の友人ファミリーが訪ねてきて、ギャングは庭師と紹介されて給仕の仕事までやらされることになる。
態度はデカイが妙に板についているところが下手なコメディよりずっと面白い。
全く可愛げのないそこの子供が悪戯をしまくる。子供は端から皆の幻想から外れた所にいる。
子供の度を越した悪ふざけから、夫と友人ファミリーは決別する。(表向きは)。
友人はすでに若夫婦の状況を見破っており、相談はいつでも受けるなどとしきりに言うことが、現状をあやふやにしておきたい夫を殊の他刺激したのだ。ここで更に事態は加速する。
ギャングは声は暴力的だが適度に紳士的でもあり妻が尻尾を振ってきても取り合わない、夫はギャングの言いなりで過ごす。妻はギャングの言いなりである夫の批判をヒステリックに繰り返す。
そうこうしながらお互いに絶えつつも協力して待つのだが、先方はいつまで待っても来ない。
それぞれの関係の解体が徹底し、白日の下というより満天の星の下はっきり露呈する。
ただ、待つことが3人を1つの共同体にしていた。
誰にとってもそのお迎え―救いの主の登場で全てが解決するという幻想のもとやってきたのだが、、、。

結局、ボスが迎えをよこさない、完全にギャングが見放されたと了解したところで、話は予想外の急展開となる。
ギャングは彼ら(夫)の車でそこを去ろうとする。お迎えを待つゲームからそのゲームの主が抜けようとする。
ギャングはこんなタイミングで射殺され、急に突っ張りだした夫は捨てられ、若妻はまた例によって他の男と逃げてしまう。
最後の最後に夫婦の2人がギャングの銃を避けようと相手を互いに盾にし合うのは、ウケる。
しかし実はこの関係、端からそうだった。
ギャングという触媒により活性しグロテスク化して見えたに過ぎない。
そして、触媒が消えたところで、もう解体し尽くしていた、というよりすでに触媒が有効な環境でなくなっていた。
エントロピー最大となって終わり。


これは、まさにカフカ的なお笑いコメディと言える。

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フランソワーズ・ドルレアックはこの翌年、1967年25歳の若さで自動車事故で帰らぬ人となる。
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映画界で最も美しい姉妹(勿論妹はカトリーヌ・ドヌーブ)と讃えられたが、その称号は未だに彼女らのものだろう。



ベルベット・ゴールドマイン

Velvet Goldmine

Velvet Goldmine
1998年イギリス
トッド・ヘインズ 監督・脚本

ビロードの金鉱、、、素敵だ。

ユアン・マクレガー 、、、カート・ワイルド
ジョナサン・リス=マイヤーズ、、、、ブライアン・スレイド

ユアン・マクレガー はトレイン・スポッティングといい、結構この手の薬ですっ飛ぶ映画出てたんだ。

何というか、、、カートと言えば、カート・コバーンを連想するし、ブライアンだと、ブライアン・ジョーンズだろう。
2人とも27歳で死んでる天才肌のミュージシャンだし。時代を作った男だ。
(天才といっても”ブライアン”・イーノには、危なっかしさは微塵もない。極めて覚めた理論家だ)。

ヴィーナス・イン・ファーズ(トム・ヨーク、ジョニー・グリーンウッド、バーナード・バトラーによるスペシャルバンド)とは、豪華だ。
バーナード・バトラーはスウェードではないか、、、久しぶりに聴く、、、(感慨。
まさにグラムだ。てんこ盛り感たっぷり。
イーノがかなり沢山選曲されているのは意外だった。(ファーストソロアルバムから)。
ロキシーミュージック時代は確かにグラムしていたが、、、。
T-レックスやブライアン・イーノ、スティーヴ・ハーリーの「悲しみのセバスチャン」まで聴けて、得した気分だ。
懐かしい事この上ない。
なかでもT-レックスの音には殊の他思い入れがある。
イーノに対してもそうだが、グラムはイーノにとっては、ほんの僅かな部分に過ぎない。
わたしはそれ以外のイーノを聴き込んできた。サイバネティクスミュージック以降のイーノに。
しかしT-レックスは100%グラムであった。
ギラギラしてひたすら眩しかった。ボウイと共に。

それはともかく、2人の主人公の格好はデビット・ボウイでありイギー・ポップ、それに勿論マーク・ボランであった。
なのに不思議にボウイの曲は無かった、、、。

あのエメラルドのピンは、どこかの星から落ちてきた証か?
だとすれば、ジギー・スターダストそのものだ。
皆、地球に落ちてきたのだ。誰かの家の軒先(または玄関)に。
きっとそういう稀有な宿命を背負った存在が、あんな風なムーブメントを起こす人となるのだろう。
彼がレコードを出し、ライブに立つと、皆が彼に自分を重ね合わせる。
まさに自分は彼なのだ、と。
詩とサウンドとそのスタイルに100%共振するのだ。

そして彼がスタイルを変えれば、自分も変える。


考えてみれば、今そんな影響力を持ったアーティストがいるだろうか、、、。
音楽的に優れた人は、いつの時代にもかなりいる。
しかしファッション、ライフスタイル、思想にまで深く浸透してしまうものって、あるだろうか?

わたしはキング・クリムゾンにやられたが、思想的に、音楽的に、である。(第二波でプロコルハルム!)
とは言え自分の精神的基調になってしまっていることに、間違いない。
ボウイ=マーク・ボランの線は確かに煌びやかでカッコ良かったが、わたしはクリムゾンからピーターハミル、ジェントル・ジャイアント、ジェネシス、、、の方へ流れてしまった。
ボウイからルーリード(ベルベット・アンダーグランド)には、ドップリと行ったが。
ベルベットである、、、。
この映画、ネーミングが尽く象徴的である。


「世界を変えようとして自分たちを変えちまった。」
まあ、世界を変えるにはまず自分からであろう、、、。


ずっと身につけているエメラルドのピン。
自分より歴史が古い。
「オスカー・ワイルドからもらったピンだ。」
なるほど。
そうだったのか。
オスカー・ワイルドがくれなかったら、トリスタン・ツァラかアンドレ・ブルトンがくれてたろう。
日本だったら、稲垣足穂か野尻抱影だ。
しかしそのバンドは、なんだろう、、、YYMOではもう時代がひとつずれる。
それだと向うには、もうクラフト・ワークが出てきてしまう。
そうだ、その前の謂わば、ロックの最後の姿ではないか!?
書きながら今分かった。(遅い!)
確かに全人的な影響を被るムーブメントとしてのロックという文化の終焉をここで迎えるのだった。
その煌びやかで退廃的で絶望的な光景がここで描かれるものであろう。

「人生はイメージだ。」
夜が明けた後、どのようなイメージが可能か?
最早、可能なイメージは残っておらず、根こそぎイメージの解体作業が続くはず。
その先に、クラフト・ワークやカンが何もなかったかのように真顔で立っている。
実際、何もなかったのかも知れない。


「お前にやるよ」、とスターの徴を、ずっと話を進めてきた記者のアーサーに差し出す。
輝くあれは何か?


ただのエメラルドではなかろう、、、。

だが、だからこそ、もう必要はない。



ル・アーヴルの靴みがき

Le Havre

Le Havre
2011年フィンランド、フランス、ドイツ製作
アキ・カウリスマキ監督・脚本


アンドレ・ウィルム、、、、マルセル・マルクス
カティ・オウティネン、、、、アルレッティ
ジャン=ピエール・ダルッサン、、、、モネ警視
ブロンダン・ミゲル、、、、イドリッサ
犬、、、、ライカ


見ようと思っていたタイトルは結局、買わなかった。
間違えて(ひょんなことから)他の映画を買ってしまった(苦。
”Le Havre ”
以前から映画の題名は耳にしていたため、かなり古い作品と誤解していた。
随分近年の映画であることにびっくりした。

凄く気持ちの良い映画である。
大好きな映画の一つとなった。
それにしても、こんな映画があるのだ。
最近の作品であったことに驚いている場合ではない。

アキ・カウリスマキ監督の作品は初めてだが、既視感がある。
ノルマンディーのルアーブルとは、こういうところなのか?
郷愁に満ちた渋い風景だ。
どこかで観た風景なのだが、今思い出せない。
年代もはっきりしない独特な光景である。
そうだ、いつ見たか分からない夢に似ていた、、、。


港町ルアーブルで靴磨きをするマルセルの元に、アフリカ難民の少年が警察に追われ転がり込んでくる。
マルセルは彼をかくまうことにする。
愛妻は重い病で入院したばかりだ。
困難と不幸と不安を背負ったかに見えたが、マルセルはあくまで移民の少年イドリッサを守り抜き、彼の望むイギリスに送ろうとする。
この彼の決意に、ご近所のこころある人々が惜しみなく力を貸す。
そうでない者は、警察に密告するが。
(そういうものだ)。

マルセルは遠出をして難民キャンプにわざわざ少年の祖父に逢いに行き、少年を無事イギリスに渡航させることを誓う。
少年はライカと一緒に、靴磨きの仕事を教わって、始める。

協力者はいるが、冷たい目は当然ある。
警察は後者によって動かざる負えない。
モネ警視は何度もマルセルに非番時などに家に立ち寄り警告する。
警視は上からも強い圧力を加えられている。


マルセルにとっては、もうぐずぐずしてはいられない。
しかし密航者を更にイギリスまで密航させるには、結構な金が要る。
そこで、リトル・ボブに頼むが、条件は出て行った妻に戻ってきてもらうこと。
マルセルはすんなり、彼のもとに家出した妻を連れてくる。
チャリティーコンサートは無事開かれ盛況に終わる運びとなった。

しかしそのコンサートのため、妻と約束したお見舞いが一日伸びてしまう。
黄色いワンピースの届け物は、イドリッサが引き受けてくれた。
異常な程、利口で思いやりのある、よく出来た少年である。
(これなら、引き取っても良いくらいだ)。

リトル・ボブには何故か聞き惚れた。
コンサートが近くであれば、聞きに行ってしまうくらい味がある。
わたしはシャンソンやるのかと思っていたら、プレスリータイプのロックンロールではないか、、、
音楽の中で、わたしの最も苦手なロックンロールなのに、くすぐるものがある。


どうにか警察の目を欺き、野菜の荷車に乗せて少年を港の船にまで送り込む。
その道の船乗りに金を渡し、よろしく頼む。
しかし船出を待たずに、モネ警視一行が嗅ぎつけてやってきてしまう。
文字通りの絶体絶命である。
すぐさま、警視は甲板下に隠れている少年を見つけ出す。
しかしモネ警視はじっと上から少年を見つめ(見つめ合い)、すぐに蓋を閉めその上に座り込む。
他の警官たちには、この船にはいなかったと、させる。
当然、マルセルは深く彼に感謝する。
Le Havre03
「カルヴァドスならもらおう。」
フランスのノルマンディー地方で造られる、リンゴを原料とする蒸留酒だそうだ。
わたしは酒には疎い。(たまにワインを飲むくらいなので)。
カルヴァドス飲みたくなった。

良質な酒に酔うような、深い味わいの御伽噺である。
医者に絶望視されていた奥さんは、全快・完治しすっきり元気になって例のワンピースを着ていた。
よくある大どんでん返しのサスペンス映画や、リアリズム映画のニヒリズムなど寄せ付けない。
圧倒的な強度を放つエンディングであった。

これほどの生への真心と解放。
爽やか極まりない、夢の世界を思い出す。

Le Havre02

まだそのまま続いて欲しい物語であった。


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肉体の悪魔

DIAVOLO IN CORPO

DIAVOLO IN CORPO
レイモン・ラディゲの処女小説を元にした映画。
たびたび映画化されているようだ。1947年度版が有名なようだが、内容はこれとはかなり違う。
この作品は1986年イタリア、フランス制作のマルーシュカ・デートメルス 主演のもの。
その存在感から、「カルメンという名の女」(ゴダール)も観たくなってしまった。(まだ観てないのだ)


マルコ・ベロッキオ監督
過激思想犯や爆弾テロやその裁判が要素として扱われるが、作品自体にそういった思想的な意味はのせない。
主義主張がどうのなどという水準の作品では勿論ない。
「肉体の悪魔」の様態をマルーシュカ・デートメルスを介して弾けさせる感じだ。
つまりは、システムにおける最も根源的で危険な生=性の多様な力の奔流を描くものか。
ベルナルド・ベルトルッチ監督に感覚的に重なる面は感じられる。
このような映画に接すると、未だ観ていないパゾリーニ監督のものも観てみたくなるものだ。
(似た匂いを感じる)。


さて、この映画、、、
何よりマルーシュカ・デートメルスの表情の長時間アップが多い。
彼女の様々な表情の変化、、、それも狂気に微動する、、、をじっと捉え続けるショットが印象的である。
その長さが異様さを雄弁に演出していた。
実にこの映画で彼女は多くの表情を魅せている。
そのほとんどは、危うくも過剰かつ静謐な表情であった。
これはマルーシュカ・デートメルスの顔を観る映画であることを知る。
その端麗な顔がどんな表情を突如生成するかに惹きつけられるばかりだ。
勿論、肉体もそのまま端正で量感たっぷりの芸術作品と言えるが、題から連想するほど露出時間は多くはない。
である為、パゾリーニはどうなんだろうという興味は沸く。
恐らくそこは、比べて大分過激なものなのだろうと思われる。
何れにせよ、マルーシュカ・デートメルスの存在感とオーラで、この作品が色褪せることはないであろう。

ジュリア(マルーシュカ・デートメルス)の感応力の一面が官能力としても迸っているが、最初の自殺を試みる女性と目が合った(顔を見合った)瞬間、共鳴してしまい、ふたりの瞳からは涙が溢れ出ていた。これがすべてに現れている。
ジュリアとは、事程左様に共振力を持った女性なのだ。
カトリック(法―システム)の饒舌な言葉で通じなくとも、相手は彼女の波動に深く打たれてしまう。
そして官能的な恋愛ほどその共振力を必要とする。
そういう女性を演じるに当たり、マルーシュカ・デートメルスはまさに適任だ。
病的な神経質さと本源的バイタリティから発動するエロスとフラジャイルな行為に、こちらも最後まで乗せられていってしまった。
(終わりの方でうっかり寝てしまったのだが)。

ただ、最後の学生の彼氏の口述試験を見守る彼女は何なのか、いまひとつよく分からなかった。
この前あたり10分間程度、眠っていたのがまずかったか、、、。
古い彼氏(婚約者)の裁判を傍聴していたのが、これに取って代わった、ということか。
完全に彼氏が交代したという象徴的なシーン?

兎も角、「普通」の素晴らしさを標榜する元思想犯の彼氏より、新しいやんちゃで奔放な彼氏に寝返ったのだ。
これは、彼女の場合、自然だ。彼女自身の性向からも病状からも属性から言っても。
そもそも最初の彼氏を好きになったのは、過激思想に惹かれた部分もあったのでは?
それが、刑務所を出て結婚する段になって、平凡や普通の良さを吐かれて、普通に暮らそうとしきりに言われても、もう既にある意味刺激の強い生活に歓びを見出してしまっているのだから、どうにもならない。話が違う。
しかし、刺激とスリルに富んだ生活を更新・反復してゆくのもまた、過酷であろう。
当然、安定からは程遠い、高価な皿が割れまくる生活が待っているのだろう、、、。

いや、刺激とスリルなどという皮相的(結果的)な見方では彼女は掴めない。
本源的な女性性を病的にまで死守して、生を抑圧するシステムからズレようとして藻掻く姿がそう映るのだ。
そう最後の彼氏を見詰める彼女の表情に、何やら決意を感じた。
この精神科医(ジュリアがかつて患者であった)の息子も権威に対する反抗心はしっかりあるが、捕まるようなヘマはしないセンスの良さが感じ取れる。厚かましいが結構利口もので頼りがいのある男だ。

まあ、それはこの先の噺だ。


明日は、ゴダールが観たい。
散歩がてら買ってこよう。


ブライト・スター いちばん美しい恋の詩

Bright Star

Bright Star
2009年イギリス
ジェーン・カンピオン監督・脚本

ファニー・ブローン、、、アビー・コーニッシュ
ジョン・キーツ、、、ベン・ウィショー
チャールズ・ブラウン、、、ポール・シュナイダー

前から観たかった映画。

「その名を水に書かれし者ここに眠る」"Here lies one whose name was writ in water"
この墓碑銘の詩人ジョン・キーツとファニー・ブローンの悲恋物語を描いたもの。
(すでにこの墓碑銘だけで、涙が出るほど感動していたため準備は万端で観た)。

それにしても25歳で夭折している。トラークルが27歳、ノヴァーリスが28歳だし優れた詩人は何と短命なのか、、、。
おおそうだ、レイモン・ラディゲは20歳であった。もう数学者の才能の寿命と同じではないか!
成り行きの決闘に倒れた天才数学者、ガロアが確か19歳だったはず。
ちなみにわたしは、この歳では物心すらついていない。(この歳で死んだなら人にすらなっていなかった)。


絵が美しい。
音楽も見事に絡む。
フェルメールの絵を随所に見る。
彼らの関係は、「真珠の耳飾りの少女」と画家フェルメールにも似ている。
ファニー・ブローン:とジョン・キーツの出会い頃からの話しだ。
と言ってもこれはジョン・キーツの伝記映画ではない。
あくまでも、ブライト・スター、ファニー・ブローンの物語である。

「ブライトスター。その誠実なきらめきは、夜空に高く、孤独を知らぬ。」


実際、ワイト島へ船出をし、島で大いに詩の霊感が迸り、処女作「キーツの詩集」を発表。
世間の評価などはともかく、これで詩人デビューを果たす。
スコットランド、ヘイスティングでイザベラ・ジョーンズ(人妻)と恋に落ち彼の「エンディミオン」を完成。
その後、かなり乗りに乗り、ブリテン島のベン・ヴィス山に登頂する。
さらにインスピレーションを高めたところで、、、
ファニー・ブローンに出逢う。
この映画はこの時期から始まる。
と、思った。
がしかし、ファニー・ブローンに出逢ってから彼はワイト島へ出向く。
そこから、手紙を送り彼女はその内容に一喜一憂しつつ蝶に囲まれ過ごす。
人妻の出る幕はなく、当然スコットランド、ヘイスティングもなく、山にも登らない。
ここは、ファニー・ブローンとジョン・キーツに純粋に絞り「平凡な50年を生きるより、夏の3日を生きる蝶の恍惚」を濃密に壮絶に描き切る、ジェーン・カンピオンの世界である。


「ピアノレッスン」にシチュエーションの似たところも少なくなかった。
向こうのほうが荒涼としてはいたが。
また、セリフがほとんど詩なのでもう堪らない。
絵と詩と音楽が究極の絡みを見せた時の美の強度は他に類を見ない。
やはりフェルメールの絵を観る感動に近いものだ。

「詩で魂は癒され、勇気づけられ、謎を受け容れることになる。」
ファニーに対し詩とは何かを教えるキーツの初っ端のことばがこれだ。
「湖に飛び込むが、向こう岸に泳ぎ着くためではなく、思考を超えた感覚を味わうために飛び込むのだ。」
わたしもファニーの隣で是非とも話を聴きたい。
こういう場所にずっと浸りたい。
そう想った。

また、いつもキーツと共にいるチャールズ・ブラウンと共同で詩の構成作業を進める様は、スティーブ・ジョブスとビル・アトキンソンの斬新なプログラム制作の現場を連想する稠密な時間が窺える。
それにしても、こんな風に作成されるのか、あの長編詩が、、、。(いや、作品は何だろう、、、「レイミア」あたりか?いやもっと以前のものか、、、。)
意外だ。

その後の「パビリオン」いや「ハイピリオンの没落」
肺病。
「秋に寄せて」、「ギリシャの古壷のオード」といくはず。
世間の評価はまずまずか。
専門家、詩人からの評価は高くなる。
肺病の悪化。
もうどうにもならなくなってゆく、、、。

劇中に「毒人参を飲んだように、けだるい痺れが感覚を鈍らす」という一節が詠まれていたが、映画のコンテクストを離れて自分の現状に接続してしばし夢想を膨らめてしまうところがいくつかあった。
また、後半は観ていられなくなり、何度かDVDを止めてしまった。
わたしのほうが体力的にもたなくなるのだ。


身体が衰弱しても神経を病んでも、言葉の強度はいや増しに増す。

一番印象的であったのは、恋人同士で詩を交互に詠い合うところだ。
ここまで濃密で創造的な関係は、確かに一生涯かけても生まれないかも知れない。


ファニー・ブローンが素晴らしかった。
まさにミューズであった。
アビー・コーニッシュ、初めて知った。
素敵な女優だ!


シンプルメン

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SIMPLE MEN
1992年
アメリカ・イギリス・イタリア制作
ハル・ハートリー監督・脚本


ロバート・バーク   兄ビル
ウィリアム・セイジ  弟デニス
カレン・サイラス   ホテル主人ケイト
エリナ・レーヴェンソン  彼らの父の愛人エリナ

シンプルなギターサウンドが、淡々とした雰囲気に瑞々しさを加えていた。
この監督の画面は相変わらず、平面的な感じである。
何というか、余計な思い込みや心情とか、思想の入り込まないようにしているように思える。
他に考えたら、ゴダールがそうではないか、、、。

兄は、友人と彼女と組み、コンピュータの窃盗に成功したが、友人と彼女に裏切られ持ち逃げされている。
稼ぎはともかく、彼女に振られたことにダメージを食らっている。
弟は、どこかの大学の哲学科の学生で、物静かで実直な人である。

このふたりの兄弟が父を探しに旅に出る。
父親は伝説的な名野球選手であったが、いまは過激思想の革命家である。
(しかし見た範囲では、革命家気取りに酔っているだけである)。
一般には、爆弾テロ犯として手配されている。
収監されたニュースが入ったので子供たちが面会に出向くと、、、
すでに刑務所を脱獄して逃走中であった。

逃げるのが愉しいから逃げていると本人は謂う。
実際爆破も殺人もしていないらしい。
確かにそんな感じだ。
微妙な立ち位置だ。逃げ回っていないと安定しないような。

「この世はトラブルと欲望だ。」(兄ビル)
まあ分かる。と言うかそんなもんだ。

貰ったポンコツバイクを直してオヤジに会いに行く。
それが、トラブルの幕開けか?
そして、電話番号で割り出した場所付近のホテル(バー)で出逢った女主人と兄が恋に落ちる。
まさに、バイクで足が付き、恋が元で逮捕となる。
彼の言っていたことに嘘はない。
特に何もしていない弟も逮捕だ。

彼ら兄弟にしても、母を訪ねて、、、みたいに思い詰めて父のところにやっとたどり着いたというものではなく、成り行きで何となく来てしまったという感じである。
どちらかといえば、その土地で出逢った女性との関係に重きが置かれる。
オヤジのことなど、なんでここにいるのか考えたときに思い出すレベルであった。
ルーマニアから来た、何とも言い難いてんかん持ちのうら若い女性が、父親の恋人と分かったとき、デニスは諦観に初めて浸ったであろうか、、、そんな様子であった。(娘の年齢よりも若い歳である)。
父息子関係という幻想。女性に対する幻想が根底から揺らぎ、逮捕された方が落ち着く感じか、、、。
また、逮捕に来た警官が、妻―女性に対する幻滅で打ちひしがれて、他のことはどうでもよいという状況の人である。

ここに、前向きで元気ハツラツの人はいない。
しかし、エリナとケイトの女性陣は、信じる何者を受け容れるキャパを持っている。


わたしがもっとも印象的だったのは、そのルーマニア出身のエリナのダンスである。
これは、かなりきた。
酒場で何やら自棄酒モードで始まるダンスである。
「パリの恋人」でのヘップバーンのダンスほどアーティスティックではなが、アクの強さでは引けを取らない。
しかも、後ろでデニスと、父親を匿うタラという船の持ち主の男が動きをを真似て一緒に踊るのが何ともユーモラスで惹きつける。

ともかく癖と味のある登場人物ばかりである。

終盤に兄から出る言葉、「すべての人間的行為は搾取関係だ。」
これには、まったく同感だ。
「依存による搾取」を強調していたところが、よい。


最後の父と息子の対面は面白い。

デニスにとっては、初めての父との対面であった。
ビルとは屹立し睨み合うだけの一時。
和解など永遠にありえないことが分かる出会いと別れである。


過剰な思い込みもなく、平坦で深みがない良い映画である。


はなしかわって

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”MEANWHILE”
ハル・ハートリー監督
2011年アメリカ

まんまの邦題か。「一方、、、」という感じか?

D・J・メンデル、、、ジョセフ・フルトン(何でも屋)
こういう人はたまーにいる。大概、カッコ良い。田中泯みたいである。


二階堂美穂の日本語英語がとても親近感を抱かせてくれた。
お陰で、其の辺から映画に入り込めた。
いきなりそこからかい、という感じかも知れないが。
凄い発音で、われわれの中学校時代の英語の授業を思い浮かべてしまった。
ハル・ハートリー監督の元奥さんだそうである。
インパクトあった。と言うか目が覚めた。

インダストリアルな音楽が入りノイジーで深い空間性が開ければ、ビム・ベンダースな感じもした。
この主人公もその風貌といい個性から見ても、ビムの映画に出ていても可笑しくない。
何というか、明るく平面的で動きの線が交錯する映画作品である。
また、エピソードに数字がふられてゆくのが興味深い。
日記みたいである。

おせっかいな男がニューヨークの街を時折、車に轢かれそうになりながらも、ひたすら歩き回る。
特に、死ぬかも知れないと感じた人など、ほっとけない。
心配して声をかけるが、結局他者に対し踏み込める限界はある。
ただ、この男の場合、その空間的な接近がまったく嫌味ではない。
多くの人間と異なり他罰主義(日本の場合はこちらが多い)で近づく人間ではなく、本当に心配になって近づき、印象深く離れてゆくあまりいないタイプ。

いつも外部のこと、他人のことが気になりよく歩き回っている。
少なくとも物語の最中ほとんど歩き回っていた印象だ。
しきりに流行っていた、モナドか?
都会のモナド。
ある意味、単独者である。
組織で動くことはない。
だからモナドだ。

いつもせわしなく、いろいろなことをとても器用にこなしながらも金はない。
受け取らないからだ。
ドラマーがどうやら本業らしいが、夢を追い掛け大きな金策をしては、偶然の出遭いで人助けをしていて時間を割いている。
ドラムにさほど専念している様子も窺えなかった。
何かを極めるという自己修練型の人ではないのかも知れない。(練習に打ち込んでいる場面はないし)。

結局、人が自分に望むことをなんでも引受け、それで一日を過ごしている。
その為、何時しか街が自分に親和的になってきているのだ。
彼のその属性のお陰で、人やその他、いろいろなものが自ずと引き寄せられてくる。
結局、彼の手がけた大きなプロジェクトも相手から乗ってくるではないか。
交通が徐々に彼という特異点に集中し始める。
事故も当然発生するだろう。
実際、交通事故にも遭う。

何といっても最後である。
これ程、ラストシーンに締めくくりをキメてくる映画を見たことない。
もう、びっくりした。
ちょと、これって寓話なのだろうか?
最後にそんな事を思う。
最初に欄干で助けようとし、身投げのラジオ情報を聞いては、ずっと心配していた見知らぬ女性に抱かれているなんて。
伏線の絡みとかいうレベルではない。


ジョゼフは、人が良いのか?
ヒトは悪意や利用価値のもと他者に関わって来ることは多いが、無私または善意でということは少ない。
少なくとも支配欲求から来る者はとても多い。(本人が気づかずの場合もある)。
これは、実感からである。

何も求めない人や様々なラッキーな事柄が自然に、にじり寄ってくるのならジョゼフがそういう人だからであろう。
(様々な交通の交錯の関係上、リスクもつきものだが、面白い人生ではある)。


最後に、彼が「生きる」と例の彼女に心配されながら、強く宣言したところでは、こちらも元気づけられてしまった。
一日中家の中にいるわたしでは、とてもできない生き方だが。
さっぱりした気持ちの良い映画だ。


フォローミー

Follow Me

Follow Me
1973年イギリス映画
キャロル・リード監督

ミア・ファロー、、、ベリンダ
マイケル・ジェイストン、、、チャールズ
トポル、、、クリストホルー

学生時代に一度、ヨガのワークショップに参加したときの、あの感覚が蘇った。
ふたりひと組になり、片方が目を閉じ(目隠しして)、片方が手を取り誘導する。
しかし言葉は交わさない。
特に、導かれる役になったとき、かなりドキドキする鮮烈な体験となった。
誇張でなく、初めて現実の生成を実感する瞬間を味わったものだ。
また、他者感覚である。
日常メガネで観る名付けられた特定の人格とではなく、未知のモノとのコンタクトなのだ。
目が空いていたら、コンテクストの切断は難しく、意識―時間がこれまでの関係(物語)を引き受けてしまうはず。

明るさ暗さしかない段差も障害物も分からぬ世界を歩く、、、。
しかも言葉もない身で歩む事の寄る辺ない不安と新鮮さ!
目を閉じ、言葉がないうえに、他者に手を引かれて歩くことがこれほど濃密な時間を産むものか、と目の覚めたものだ。

Follow Meと言われて後を無言でついてゆく体験も、間違いなくワクワクして堪らないはず。
きっと、上記の体験に近い感覚が味わえるものと想う。
徐々にだろうが、確実に心の底から、ニンマリして顔が綻び、満面の笑顔が花のように開いてくる、、、


彼チャールズが、彼女ベリンダを見るためだけのワークショップとなる。
但しここで、見るは、ほぼ目隠しの状態に近い。
人間的ではなく、あらゆる動物の中でもっとも権力構造のない無力な視線が交わされる。

こちらでは、目は大切な器官として機能するが、相手と触れ合うでもなく、ただ真似をするためのものである。
政治性(権力関係)は一切発揮しない。
眼差しには威力はなく、意味以前に留まり続ける。
10日ほど(笑。

この流れに滑り込んで、この映画面白くなった。
トボル演じるクリストホルーという私立探偵が俄然愉快なキャラクターだ。
ベリンダ、チャールズの関係を再生・活性化するピエロ―トリックスターである。
このワークショップの考案者である。
暇である。
やはりこのような暇な存在がいないと、すべての関係は、エントロピーの流れに沿って綻び緩み解体してやがては一様化して逝くのだろう。
宇宙とは、反生命の流れなのだ。
生命をもっとも力強くときめかせるのは恋愛だ。
その証拠に(根拠か)生命は単細胞の頃から恋愛はしていた。
交接という形で。(フランスの生物学者ジャン・ロスタンの説より)

それにしても、人間にとって階級やら社会的立場やら自由になる時間やら、、、恋愛は結構、気合がいるものだ。

暇なピエロが力を発動しなければ、ヒトは次々に干からびていってしまうだろう。
後半からの面白さはここに起因している。


そんな感じだ。



バグダッド・カフェ

Out of Rosenheim

”Out of Rosenheim”
1987年西ドイツ
パーシー・アドロン監督

これが西ドイツ映画であることに驚いた。
勿論、ハリウッド映画であるはずないが、こんなアメリカ砂漠のまっだだなかのドイツ映画とは、、、
しかしそれをものともしない繊細無垢の重戦車?がバッハのコードに乗り、一圓をオアシス化してしまう。

ヤスミン、、、マリアンネ・ゼーゲブレヒト
ブレンダ、、、CCH・パウンダー
ルーディ、、、ジャック・パランス
デビー、、、クリスティーネ・カウフマン

「バグダッド・カフェ」は、アメリカ西部、モハーベ砂漠の中にポツンとあるモーテルの名。
その広大な乾いた広がりは虚しく美しい。
その夕日を際立たせて何度も弧を描くブーメラン。
音楽と色彩が時空に深く溶け込んでゆく。
劇中のバッハの平均律も絶妙に絡んでくる。
このアメリカ西部の砂漠に、バッハをひたすら弾く青年がいることが映像に輝きを与える。
(わたしは実はこの青年に一番惹かれた)。
さらにキャンピングカーに泊まりながらそのカフェに入り浸っている初老の男の絵。
何故か光に拘るキッチュな宗教画に見えるが、その宗教画形式が何を描いても許される絵だ。
面白い。

主人公もカフェの女主人も他のひとも、この殺伐とした砂漠で、トカゲのように活きる。
恐らく、ここでしか生きれないために、ここを選んで暮らしているのだ。
ぶつかりながらも、と言っても常にブレンダが噛み付くばかりだが、活き活きと確かに生きている。
そうでないものは、出てゆく。
仲が良すぎて居心地悪い、と出てゆく昔ながらのファミリー客の選択にも説得力がある。
そしてヤスミンのように無理に還されても、帰ってくる。
バッハの平均律もここを駆け巡るからこそ際立って美しい。
ここだけのバッハである。
バッハの旋律に鮮明な原色が映える、なんてことのないカフェの室内。
それが、どんな宮廷より絵になっているではないか。

この作品に浸り、映画は絵と音楽であることを再認識する。
というか、映画の快感を知る。
淀川先生の気持ちが分かる気がしてくるものだ。

物語としては、アメリカの砂漠の町?に、ドイツから異邦人がやって来るというもの。
体格の良い婦人で、夫と別れたばかり。
ゆくところもない。
それで、砂漠の「バグダッド・カフェ」に流れ着く。
やたら濃いコーヒーを飲む。
アメリカンでは、ないのだ。

彼女の説明をしないマイペース振りと、やはり夫に逃げられたばかりの乾ききってイライラしている女主人は、すんなり合う方がオカシイ。
ブレンダにとって、ヤスミンは怪しい事この上ない生き物だ。
しかも自分のプライベート生活に、客のはずが知らぬ間に入り込んでいる。
あるとき、自分のモーテルと「オフィス」を綺麗に片付けられて激怒する。
(言い過ぎには流石に反省するが)。
しかし、その片付き具合は、ブレンダにとってもまんざらではなく、徐々にヤスミンの生きる場が確保されてゆく。
ヤスミンに何の打算もなく、彼女はただ可愛い赤ん坊やブレンダの息子や娘に愛情を持って打ち解けてゆくのだ。


若くして赤ん坊を持つブレンダの息子は、周りの無理解(砂漠状態)の中をひたすら生の象徴でもあるバッハを弾き続けてきた。
これは、彼にとって生きると全く同義の行為である。
ルーツがそこにない、ドイツの精神を遥か彼方から砂漠に水を引くように弾いてきたのだ。
そこに、彼の音楽を理解し愛する女性がドイツ本国からやって来た。
ここに、大きな化学反応が起きて不思議はないではないか。
「バグダッド・カフェ」は、ヤスミンの文字通り「マジック・ショー」により、そこを通過する大型トラック野郎のオアシスに変貌する。
泉の如く集まってくる人々のこころを愉しく豊かに満たしてゆく。
バッハもジャズにまで溢れ出す。すごい変奏だ。
乾ききっていた場所が賑やかに潤う。
誰もが納得し、ヤスミンをこころから迎え容れる。
ブレンダも戻ってきたヤスミンに駆け寄って満面の笑顔で迎える。
画家にはモデルを頼まれたうえに、、、ここはコミカルなところだ、、、プロポーズまでされる。
これで、ヤスミンに強制送還の心配はなくなり、アメリカ国民として、その砂漠に永久に住むことができる。


タイトル曲がエンディングで、エモーショナルに流れてゆく。
これも良いのだが、基底を流れるバッハの生の美しい脈動が人を活かしてきたことは確かだ。




Vitamin C ~ Soup CAN

CAN.jpg

”CAN”これは多分、現代音楽。
だが、クラフト・ワークがロックと呼ばれるなら、ロックでよかろう。
何にも似ていないカテゴライズ不能のものは、取り敢えずロック枠に放り込まれる。
まるで「その他」だ(笑。
「その他」の王様はやはり、キング・クリムゾンであろう。
決してピンク・フロイドではない。シド・バレットのいた頃は、本当に光っていたが。

彼らジャーマンロックのグルグル、ファウスト、アモンデュール、タンジェリン・ドリームたちは自らをロックアーティストなどと思っていたか?少なくともエドガー・フローぜ(タンジェリン、、、)は思っていなかった。ベートーベンの生まれ変わりくらいには思っていたふしはある。だからあらゆるクラシックと現代音楽から徹底的に遠くへ逃走を図った。違う音楽を創造しようとした。
他の面々もおよそ想像がつく。
(ノイ、ラ・デュッセルドルフ、ハルモニア、、、たちもいる)。

しかし、CANは、というよりホルガーチューカイはそんなこと端からどうでもよい、知ったことではないだろう。
イルミン・シュミット、ジャッキ・リーベツァイト、ミヒャエル・カローリ、あともうひとり忘れた、、、残念、も同様だろう。
ここに日本人、ダモスズキが入る。メンバーについてはここでは触れない。
兎も角、ホルガーチューカイは音の編集を極めたかった。
自分が面白い音を作り込みたかったのだ。
芸術に拘った訳ではあるまい。
結果的に何かに似てしまっても、別にそれはそれ、、、といったところであろうか。
もっとしなやかで柔軟な人々なのだ。
だから、固いこと言わず何でもかんでもアメーバー的に取り込み、ダイナミックで洗練された独特なサウンドで深く琴線を鷲掴みにする音が排泄された。
不可避的にCANへと昇華されたといえよう。
これもひとつの方法である。
恐るべき無意識的な方法だ。

しかしこの辺のスタンスを見るに付け、それ以外の国の所謂、プログレッシブ・ロック(書くのも恥ずかしい)の幼稚で安易な姿勢が目立つ。そう目立つのだ。絵なら見なけりゃ済むが、音は聞こえて来てしまう。その意味で目立つのだ。

EGGのように、まんま現代音楽になってしまえばそれまでである。
あれはあれで、かなり完成度が高く、とても良かった。
ウィン・メルテンは、最初からもうマイケルナイマン同様、現代音楽(ミニマル)である。が、ロックにも顔を出す、と言うよりホルガーチューカイと一緒に仕事をしたりしている。やはりこのあたりがグレーゾーンか。

ヘンリーカウ、ハットフィールド、キャメル、ナショナルヘルス、、、カンタベリーファミリーのジャズの振り子を極限的に振り切れば、ソフトマシーン、ロバートワイアットまでゆくか、、、これらは高純度で結晶化している。違う場所に発生したが、マハビシュヌ・オーケストラもその点で、特記できる。

グリフォンは、シェークスピア時代の楽曲の再現をしているときは筋は通っていたが、ロックの旋律をクラシックぽくアレンジし始めてからは、古風な木管などを使う高級なプログレではないか、、、惜しい。特にサードアルバムの構成は言うことないのだが、、、。

タンジェリンドリームみたいに何故か日和ってポップなシンセグループになってしまうのもどうしたものか、、、。何を考えたのか、出だしの志は何処へ?やはり頭が硬すぎ、クラフトワークのような緻密な戦略性に欠けたためか。
クラウスシェルツが唯一頑張ったとは言え、"Irrlicht"ファーストアルバムを超えられていないまま、、、どうなった?
"Irrlicht"は確かに衝撃であった。アレ聴いて精神病院に入院してしまったという人が結構いるのだ。
シンセでその対極にあるのは、ギリシャのヴァンゲリス・パパサナシューだ。
彼のアフロディティス・チャイルドは、プログレポップであると同時に、三波春夫的なサービスの効いた演芸性もあり、その発展で充分に映画音楽を制する可能性を秘めていた。(プログレポップでは、割と単発的な優れたオリジナリティを放つ佳作アルバムは少なくない、、、ベガーズ・オペラは中でも光った。ハイセンスでは、スクリッティ・ポリティとか10CC)。

ジャズとクラシックとロックを極めて高品位にアマルガムしたアルティ・エ・メスティエリは、結局ファーストだけで、次からはどう見てもただのハイテクニックのジャズロックグループだ。これなら、もっとクリエイティブなジャズロックグループはイギリスにも沢山いる(いた)。フリオ・キリコは結局、練習熱心な太鼓屋さんであった。
ちょっとLP引っ張り出したい気分になってきた、、、。

ブルースをロックに極めて饒舌にダイナミックに流し込んだロビン・トロワーは忘れられない。
物凄く美しいブルースロックであった。演奏が飛び抜けているのも勿論効いているというより彼の場合、本質的なものである。
なんというか演奏そのものがコンポーズに嵌入しているのだ。(その代表がルー・リードとクリムゾンか)。
ハモンドオルガンの第一人者、永遠の少年マシュー・フィッシャーがプロデュースというのも頷ける。
2人ともサウンドはまるで違うが、とても似ているのだ。
2人ともその身体性で、コンポーズからサウンドに分かちがたく結びついたタイプだ。
ファズやワウワウ、片やハモンド(に加えVも)が彼ら以外の人には弾けないことが決定的であり、それを前提に楽曲が生成される。
これについては、また後に書きたい。

その対極に、楽譜を渡せば、他のクラシック奏者でも基本的に同じに弾けるというのがELPとかイエスだろう。
ジェントル・ジャイアントはまた違うタイプで、寧ろジェスロタル寄りの存在だ。
そしてもう少し極まれば、プロコルハルムの頂きである。(マシューとロビンはメンバー。)
アナーキーでフリーキーでフリークスなロックとして、忘れられないのが、スロッピング・グリッスル、マーク・アーモンド、サイキックTV、オランダのメカノとか、、、

何を言っているのかと言えば、この域のアーティストは、質的には極めて優れた音楽水準を保っていること。
(酷い例を上げる前に、例外を先に確認しておきたかった)。
他に、アレア、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、サードイヤーバンド、ヴァンダーグラーフ、ルネサンス、イオナなどもここに入る。おう、ツェッペリンとムーディーブルース、ジェネシス、フォーカスをお招きしないと。(これは、やり始めるとキリがなくなる)。

忘れているのもかなりあるはずだが、、、それはともかく、プログレとか呼ばれる連中のほとんどがクラシックを連想させるどうでもよい音色を紋切り型とすら呼ぶ気になれない形でサウンドに嵌め込んで、何か作った気になっていることだ。
また、それを煽てるリスナー(音楽評論家)もいる。様式美でいくなら、グリフォンやトレース、イエスくらいまでもっていってもらわないと。しかし、それにはリック・ヴァンダー・リンデン(トレース)くらいの技術と素養が必要となる。彼はクラシックのピアノ協奏曲アルバムも何枚も出している。カーブド・エアもビバルディを引用したりしているが、彼らのクラシック要素のロックへの引き込みはうまい。アイス・ハウスの方が一枚上だが。アレンジ力で言えば初期のディープ・パープルはイエスより良い。

プログレの志も内容も構造もセンスも全くないものが圧倒的に多いことは断言できる。
なかでも、彼のノヴァーリスの名前を冠するとんでもない腑抜たプログレがいた。クラフトロックもマカロニロック同様、両極端と言える。プログレッシブの本来の意味から言えば、ここに挙げていない方々、クラプトンやイーグルスなど、レッテル貼られたプログレなど問題外でプログレ的ブルース、フォークロックミュージシャンはいる。チェレステなども捨てがたい。

以前レコード屋に、冬はこたつでみかん食べながらプログレでも聴きましょう、というコピーが貼ってあった。
このキッチュ過ぎるコピーが妙にピッタリ似合ってしまうのだ、特にイタリアバンドのほとんど。マカロニバンドか。
この辺からの隔絶と言って良い距離をCANをはじめとする上にあげたアーティストたちは保っている。

かと言って何かに全く似ていない曲かといえば、CANの場合、スレスレで近いものもある。サンバとか。(故意にやっている)。
前衛にも縛られないしなやかな柔軟性があるところが、タンジェリン(結局コケたポップ)やクラフトワーク(厳格・孤高)との違いか?(クラフトワークのライブはもう機械劇みたいで、未来のメトロポリスである)。
しかも取り入れた要素はすべて、CANの音である。
原始的でダイナミックで、洗練された唯一無比のCANの音になっているのだ。

”Ege Bamyasi”(もっとも聴き易いCANで有名)の中でも、”Vitamin C” や”Soup”は、異様にシンプルで、童謡みたいに牧歌的だが、呪術的で独特な翳りにも充ちている。
一度聴いてしまうと耳から離れない。エンドレスに鳴り始める。(「天国の階段」の歌詞にあるように、、、)。
この牧歌的な(ときに荒々しい)麻薬的で呪術的サウンドがCANである。
つまり。現代音楽とかロックではなく、”CAN”でよい。

何れかを聴いてしまったら、全部聴きたくなる。中毒性が間違いなくある。
そんな音だ。
ポップとか前衛ともズレがあり、引用するものすべてとズレ、形式上何かを懐かしく夢想させ活性させる独自の音楽。
何か本来の意味での健康で元気の出る音楽である。
凡百のプログレでは、とても浸れない快感である。


我がNewOrderはまた再結成して始動した。
これも目は離せない存在だ。耳か。そう願いたい。

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山の音

yama.jpg

成瀬巳喜男監督
1954年
川端康成の本を原作としているとのこと。
読んでない。

どこが「山の音」なのか?
分からなかった!

自然―生命と死の視座はなく。
超脱した精神の場も見えない。
ただの人間ドラマである。
お昼のホームドラマの方が断然面白かろう。

一見、小津作品の絵に似た部分もあるが、あそこにある余白や間、ドラマを垂直に超脱した光景は微塵もない。
これが決定的違いであり、致命的であるところだ。
似て非なるものとは、このことか。
鎌倉、駅やバス停、高徳院とか、、、当時の風景に風俗史的興味は感じるが、それを目的にしたものならNHKが作ればよい。
余りに贅沢なキャストだ。

小津作品には「山の音」が常に響いている。
背景輻射の如く。
そういえば、「童子のお面」が登場するシーンがある。
しかし、そのオブジェ効果も薄い。
今ひとつ物質的―呪術的な迫り方は、この物語の次元では期待できなかった。

老境に達した夫婦。
息子夫婦の不仲。息子の浮気に対する、主人公である義父の義理の娘への感情移入。
ふたりの間には次第に恋愛感情が染み渡ってゆく。
娘も子連れで出戻り、親子ともに卑屈な影を撒き散らす。
重苦しい雰囲気の中で蒸し返されてゆく親子史における齟齬。
義理の娘―嫁(原節子)の暗い表情と受動的な反抗―堕胎。
その中で、お互いを労わり思いやる義父と義理の娘。
最後その娘は、離婚を決意するが、義父はその選択を悔悟の念をもって快く認める。
そこまでの心情が切々と描かれる。

描かれて面白いか?
そういう映画であった。

吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」の原節子をやたらと見たくなる映画であった。
あそこでの原節子は水を得た魚である。
気持ちの良い腐った果実の甘い匂いの満ちた名作であった。
「そうだ、口直しに見るか!」(笠智衆の口調で(笑、、、安城家に笠智衆はいないが)。
原節子の魅力で言えば、圧倒的に「安城家の舞踏会」である。
次いで、笠智衆とのコンビでの聖母姿。
正直、それ以外の原節子は、どうもキャラとしても相貌も面白味がない。
という、余計なことを知ってしまった感がある。
残念な認識であるか。
知らないで済ました方が良いことも、世の中多いものだ。

夫の浮気はさっさと知って、手を打ったほうが良い。
この映画から得た感想である。


恐らく、原作はかなり異なるはずである。

着ぐるみコンサート

Zoorasian.jpg 金管五重奏「ズーラシアンブラス」
usagi.jpg 弦楽四重奏「弦うさぎ」(つるうさぎ)

家族全員で着ぐるみコンサートに行った。
母親のおごりだ。
前日に娘たちにブーツを買わされた。季節柄もうないかと思っていたらあった。しかもお得な値段で(祝。
超満員の受付を入り何故か、広告はどっさり貰うが、プログラムを失くす、、、。


やってる音は、ポピュラーな基本子供向けタイトルが多い。
演奏はしっかりしている。CDも5枚ほど出してるらしい(「ズーラシアンブラス」)。
受付でしっかり販売していたが、ジャケも着ぐるみであった。(当たり前か)。


「ウイリアムテル序曲」、「ボッケリーニのメヌエット」、「愛の挨拶」エルガーのもの、、、これ好きである。
外せないチューンというのはあるものだ。
「となりのトトロメドレー」、、、来ると思っていた。
ポピュラーソングの管楽器アレンジものもあったが、結構良かった。こなれている感じ。
「この素晴らしき世界」、「ユア・マイ・サンシャイン」、、、
管がブラバンもどきにならない技術があって、こちらも楽しめる。
弦の音もよく通ってしっかりしている。

しかし感心するのは、よく着ぐるみで演奏が出来るものだという事。
当然暑くて息苦しい筈だ。
何と言っても、管楽器はブレスが大事だ。
肺活量だ。
「弦うさぎ」は、ブレスは無いが女性のはず。
汗は大丈夫か他人事ながら心配した。


演奏者は、金管五重奏「ズーラシアンブラス」と弦楽四重奏「弦うさぎ」(つるうさぎ)である。
全く知らなかったが、活発な活動をしている、有名どころのようだ。


「ズーラシアンブラス」は、オカピーが指揮、インドライオンとドゥクラングールがトランペット、スマトラトラがトロンボーン、マレーバクがホルン、北極グマがチューバという構成。それぞれ個性が出来ていて、時折子供をお約束で笑わせる。
最後の方で、ゴールデンターキーがトランペットでプレミア的に飛び入りするお決まりのようだ。

「弦うさぎ」は、第一、第二バイオリンにチェロ、ビオラの基本構成である。
安定感がある。

「ハッピーバースデー変奏曲」はなかなか楽しかった。
短い楽曲を何人かの作曲家のアレンジで演奏し分ける。
また幾つかのお国調に演奏し分ける。
よいと思う。何より原曲を誰もが知っており、テーマが短いため聴きやすく子供に違いと特徴が分かりやすい。
欲を言えば、もっとたくさんの作曲家でやってもらいたかった。
清水ミチコもそれ得意である。ピアノなら彼女に頼みたい。おう、それからNHKによく出る「アキラ」さんである。
結構ファンなのだ。

モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」弦と管楽器で弾き分けるのも、子供にとっては面白い体験のはず。
途中で何故か「犬のおまわりさん」が入ってくる。
ふざけないといけないと思ってる節がある。
基本音楽を聴きに来ているのだから、モーツァルトの時はそのまま弾いても良い。
勿論、ふざけるのは良いのだが、音楽的にビックリさせて欲しい。
(犬のおまわりさんはチョットきつい)。
やはり、こうしたコンサートは視覚的な演出、ジェスチャーやアクションのウエイトが大きいか?
それで惹きつけることはできるが、落ち着きを削がないか少し気にはなった。


うさぎとかめ、特にここで聴かなくても、、ピクニック、、運動会を思い浮かべてしまう。これは無くて良いかな。学校に行けばいくらでも聞く事になる。
会場を立体的に使い、演劇調に演出している事は分かる。
終盤ゴールデンターキーもトランペットで飛び入りしなかなかノリが良かった。
客席後ろから彼が高らかに鳴らして合流する「闘牛士のマンボ」は特にそう。
けっこう、これには娘たちも盛り上がっていた。
そして「トランペット吹きの休日」、、、と続く。
トランペットのソロも頑張っていた。

ノリノリで終わり、アンコール。凝ったアレンジの
「聖者が街にやってくる」で締める。
このくらいの時間で調度よい。
これ以上は、双方にとって厳しくなる。
こちらは間違いなく途中退場を余儀なくされるであろう。

次女は終始ノリノリで大はしゃぎであったが(おかあさんといっしょのライブみたいだった).長女は途中から帰りたがって大変だった。寝て待つ事が出来ないらしい。
終盤、蘇ったが一時はおんぶして連れ帰る覚悟を決めたものだ、、、。
これからの人生、寝て待つ事も大切である。(その方が良い場合もある)
そのうち、要領としてではなく、配分とバランスの感覚も身につくとは思うが。
面白いと気づいた時に、またノリノリで楽しめば良い。
平坦な曲は詰まらない。


帰りにレストランで食事。
そこで食べ終わったところで、長女が母からもらったブレスレットを失くした事に気づく。
わたしは付けて来たこと自体知らなかった。
何でもダイヤがいっぱいハマってる、そのまた母から貰ったやつとか。
何で小学1年生にそんなものあげるのか?
大学入学時に、あげれば良かろうに。
貰っていない次女がニヤっと笑ったのが印象的であった。
彼女はポーチをもらって、自分の宝箱に仕舞い込んでいる。
(個性はどこにいても明確だ)。
また、コンサートホールに探しに行くこととなる。
よくはめている、100円ショップものであれば、そのまま帰宅なのだが。
しかし、そこは日本。
ちゃんと落し物コーナーに届けられていた。
海外から評価されている美徳が実感できる日ではあった。
反面、コンサート会場でのおばさんマナーはかなり酷かった。


プラマイゼロの日である。




tDCS(経頭蓋直流刺激)とは

tDCS.jpg

まず、これはまだ手探りの実験段階に過ぎないこと。
と言うよりお試しか?
実は、当初わたしもやってみたいと思ってしまったものであるが、、、。

NHKの情報番組でも、先日3/7に放映されていた。


人の運動には意図せぬ可塑性を招く場合があると、番組では「局所性ジストニア」を取り上げていた。
その症状である「巻き込み現象」である。
キーを押さえる指の上下動が、巻き込む癖となってどうにも治らない。
本人にとっては深刻な問題である。
それに対して、左脳と右脳を結ぶ脳梁に注目し、その塑性を取り払う、誤った情報を左右の脳の間で書き換えることが可能であるということだ。
何やらそのメカニズムの説明があるわけではなく、やってみたらそうなった、だからそれでいこうみたいな解説である。
ここは一口で言って上書きによって、元の状態(運動)に戻すというらしいが、どうも根拠が薄い。
それは、この研究・実践全般に言えることである。
根拠が薄く、現在の事例からは問題ない、と言われているだけの気がするのだ。
今後、様々な副作用や不具合が報告されそうな予感だけはする。

説明、映像を見ていても、行き当りばったりの手探りを見る思いであった。
わたしが連想してしまったのは、接骨医の光景だ。(接骨医が行き当たりばったりと言うつもりは毛頭ない)。
それぞれの認識(運動)野にあたる部分に電極をセットして微弱電流を一定時間流して様子を見る。
つまり純粋にリハビリの質を高める、理学療法の補助的な使用とかに向くものなのか。

しかしその結果報告はもう400件を超えるとか何とか、、、。

1―2mA程度の弱い直流電流を頭に通す研究で、脳梗塞後のリハビリや高齢者の停滞した学習能力アップに成果が見られ、鬱病、片頭痛、パーキンソン病などの治療に役立つ可能性が高く、アメリカ国防省では兵士の集中力をアップさせるプログラムとしても実査に行われているということだ。
しかし大雑把な説明しかない。
それぞれの病気のどの点においてどのように作用するのか、よく分からない。
また、各病気にはそれぞれステージと目される段階もある。
どこに効果があり、その際どう危険があるのかなどは、重要な部分である。

一回に5~30分程度の継続通電をして確認をとっているそうだが、まだ方法的に定まったものはなく、副作用や危険因子などはっきりしていない部分も多い。
従来のTMS(経頭蓋磁気刺激法)と併用すると良いとか、、、
その絡みがどう検証されそのような結論に至るのか、そもそもTMSはどの程度、検証を積んだ方法なのか。
以前からそのリスクとコストについては指摘がかなりある。
実はこれも何やらはっきりしない。

また、tDCSは成果に「個人差」が出ているという。
そもそも医療に降ろす段階であろうか?
まだ実際に臨床までは、来ていないようである。
やはりもっと研究・検証を進めてからにして欲しい。


いづれにせよ、まだ始めたばかりの研究で、それそのものが前提として正しいのかどうかも分からない。
解説において必要最低限の情報もまだ出せる準備が整っていないようであったし。(TVにおいてまるで説得力が無かった)。

わたしはこの実験の人柱には志願しないことにする(笑。
当初、その触れ込み(特に脳梗塞後のリハビリにかつてない効果をみせた等)に、触手が動いてしまったのだが。
強引にやってもらおうかなどと思ったこともある(爆。


しかし、少し見守ってみたい





エル・トポ


El TopoEl Topo

1970年メキシコ映画
アレハンドロ・ホドロフスキー監督・脚本

最高のシュルレアリスム映像であった。
エル・トポとは、モグラのことだそうだ。
ここでも手足のない役者や小人の役者が重要な役を演じる。
行者や聖人、仙人、ゴロツキ、悪党、小市民、悪女、子供、うさぎ、人殺し、、、などが次々に血の中に沈んで逝く。
善悪美醜の彼方の鮮烈な地平を、モグラが横断する。

全体が5つのパートに分かれる。
ちょっと変わった西部劇のような始まりから、宗教劇と言うより壮大な黙示録映画へと展開してゆく。
その流れは尋常なものではない。(しかしよく知っている話でもある)。


プロローグ
穴から出たモグラがどうなるかのエピソードが軽く語られる。

何故か裸の子供と一緒に馬に乗る黒服の流れ者が、ならず者を退治する。
その裸の子供が用を足し、念入りに砂をかけるところが印象的。
最後の一人に、残りのならず者の人数と居場所を聞き出し、その場所へと向かう。

砂漠にあってその男の子は何故裸なのかが分からない。
太陽光で肌が痛まないのか?
黒い服の男エル・トポはめっぽう腕の立つガンマンである。

創世記
エル・トポは子供とともに悪党のボス(少佐)を始め悪党全員を撃退し、教会を取り戻し人々を解放する。
しかしボスに捉えられていた女が同行を強硬に求め、彼エル・トポは自分の息子を神父に任せ、その女を連れて2人で旅に出て行ってしまう。
男の子は、神父の服を着せられ、呆然と父親?を眺める。

更に、女はエル・トポに4人のマスターガンマン殺しを悲願する。一番じゃなければわたしダメなの、と言い出す。
彼はまたもや、女の言う事を聞く。

1人目は、盲目の行者。
腕のない男と足のない男を従者にしている。
行者は、被弾しても全ての弾丸をダメージなく貫通させる秘術を心得ている。
恐らく経絡秘孔を熟知している賢者なのだ。(ケンシロウでなければ闘えまい!)
つまり、エル・トポは、例え早撃ちに勝ったとしても必ず殺られてしまう事になる。
しかも彼が言うには、「死は存在しないため、躊躇わず撃ち殺す。」
そこで、いつ掘ったかは定かでないが、落とし穴に行者を落として撃ち殺してしまう。
2人の従者も女と協力して殺し、一人目あっさりクリア。

すぐに第二のマスターを知ると言う女が彼のところに案内すると、やって来る。
そのマスターの言うところでは、自己喪失を極め、繊細この上ない手作業を完璧に熟し、必要な部分のみを壊すことが出来る。
兎も角、手指の巧緻性が極めて高い賢者なのだ。
早撃ちも無類の速さである。しかし自己喪失を極めるというのは面白い言い方だ。
つまりフラジャイルさを極めている。
エル・トポは、彼を観察して、何故か彼が依存している母親を攻めればそれに動揺して勝てると割り出し、それを実行して背後から撃ち殺す。
二人目クリア。エル・トポ賢い。

預言者たち
女同士の闘い。
嫉妬だろうか?あの女がムチを振るうが、後から来た女の方が腕が立ち、逆にムチ傷だらけにされてしまう。
だが、そこから二人は妙な仲良しになり、エル・トポの方が疎外されるようになる。

三人目の行者は、音楽を好み、うさぎを沢山飼っている。
音楽をともに奏でれば心は通じ合えるもの、、、二人は一緒に楽器を奏で心を通じ合う。
行者は相手の心を読むのが得意であった。その為弾丸は一発だけ入れている。
一発で相手の心臓を必ず撃ち抜けるのだ。
その為、完全者と詠われるという。
早撃ちでエル・トポは、やはり先に心臓を撃たれるが、金属の皿を入れておくことで銃弾を防ぎ、三人目も結局クリア。
完全者といえどもエル・トポが胸にそれを挟んでいることには気付かなかったか?
「完全すぎても失敗する。」(エルトポ)
兎も角、エル・トポの奸計の方が優っていたようだ。
調子よく殺人は遂行されてゆく。

四人目は、既にピストルを虫取り網と交換してしまった仙人である。
(この辺は覚えていた)。
どんな銃弾をお見舞いしても、その網で跳ね返すという。
恐るべき域に達したマスターである。
これでは、流石に歯が立たない。
殺せない、と思った瞬間、、、。
仙人は命すら価値を認めず、未練ももはやなく、エル・トポのピストルで自ら命を絶つ。
「きみの負けだ。」と笑って仙人は死ぬ。
決闘で相手を倒してきた彼のプライドは崩壊する。
エル・トポは大いに取り乱す。
そして銃を棄て、女にも捨てられ、二人目の女には撃たれ、最後に、神に祈りを捧げつつ、ついに倒れる。
女たちは馬にまたがって立ち去り、、、。
彼の屍は手押し車で何処かに運ばれてゆく。

詩篇
何故か目覚める。再生したの?
まさに反復。回帰してきたのか!
その姿からも随分経った後のようだ。
人相は大きく変わり果てており、化粧も入念になされていた。(時折見るド派手なキリスト像みたいだ)。
どうやら彼は地下住人のフリークス達の神として祀られて眠りについていたらしい。
自分の有様に大いに混乱するが、その姿通りの聖者として、地下世界の村人を地上に導く決心をする。
岩を懸命に掘り進めるが、いくらやっても埓が開かない。
ダイナマイトを手に入れるため、彼の世話をしてくれていた小人の女性とともに、地上界において資金稼ぎの芸をやる。
彼と彼女がどうやって外に出ていたのか?そのコースは地下住民には使えなかったのか?
ふたりの出入りの構造は読めなかった。

兎も角、トンネル開口のための資金集めのコントが繰り広げられてゆく、、、。

啓示
彼は世話焼き係りであったコントの相手役の女性と、教会で結婚式を執り行うことにする。
彼女は彼の子供を身籠もっていた。
しかし事もあろうに教会で、かつて捨てた息子と再会してしまうのだ。
息子は怒りの余り、父を殺そうとするが、父はトンネルが開通するまで待ってくれと頼む。
(『恩讐の彼方に』そのまんまの構造か!この手の話が外国に意外とあることに最近気づく)。
若い頃の父そっくりの息子は、それを受け入れるが、遅々として進まぬトンネル工事に業を煮やす。
すると父からの提案で、トリオで芸を見せ、トンネル工事も三人で行うことになる。
そしてついに開通の日、息子は「師を殺すことは出来ない」と言いその場を去ってしまう。

穴から外に出た瞬間、光にやられて光を永遠に失ってしまうモグラ、、、。

主人公の掘った穴のお陰で、地下住人たちが皆、外に喜び勇んで押し寄せた矢先、地上の人間たちに全員銃殺されてしまうのだった。
怒り狂った主人公に対しても、地上の者は情け容赦なく銃弾を浴びせ続ける。
手負いながらも彼は、銃を持つ者たち全員を射殺するが、自らも油をかぶり焼身自殺して果てる。
幻身を滅する供養・祈願であろうか。彼は僧である。

相手の女性は、子供を産む。
息子と女性と子供がまた馬に乗り旅に出てゆく。
主人公の墓は、蜂の巣と蜂蜜塗れである、、、。


粗筋書いてどうする、というところだが、余りに異様な運びなので思わず反芻せざる負えない事になった。
瞠目の映画だ。
鮮烈。

独特の特権的カルト臭プンプンの映画だが、その濃密さたるやとんでもない。
前半のウェスタンガンマンとしての戦いでは、4人のマスターガンマンを次々倒すことになる。ちょっと後のドラゴンボール調なのだが、だんだん相手の戦闘力ー数値的な力が上がってゆく訳ではない。皆、同レベルの強者であり、賢者である。
正面切った決闘は一つもなく、それぞれとのズレにうまくつけこんでゆく。
この間の感覚、そこが微妙で面白かった。
女は尽く災いのもとであったが、これは女の言いなりになる彼の責任でもある。
何故、あんなに言いなりになるのかは、謎であった。
まあ、最後にまともな女と出逢えて、子供も出来る。

これは何を意味するか?
大いなる反復である。回帰である。
この物語の初めに、馬に乗って連結してゆく、、、。


わたしにとって、精神の薬は、音楽であるが、この映画はそれに近い作用を及ぼす。
これは、敢えて必見の映画であると推したい。

太秦ライムライト

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2015年
落合賢監督
大野裕之脚本
戸田信子音楽
クリス・フライリク撮影

チャールズ・チャップリンの『ライムライト』をモチーフにして描いた作品であると、、、。
そうなのか、、、。
結構、クリント・イーストウッドの雰囲気もあった。

55年間の斬られ役の大部屋俳優の人生。
香美山、、、福本清三は兎も角、格好良い。
わたしにとって、田中泯(前衛舞踏家・評論家でもあるが)とともに、もっとも格好良い俳優のひとりだ。

福本氏のその所作の一つ一つと、そのたたずまひにシビレる。
刀の扱い、殺陣の隙ひとつない多様な流れ、もはや芸術である斬られの型(特に最後のシーンの美しさ)は言うに及ばないが。
夕食の支度で、手のひらに豆腐を乗せて包丁で賽の目に切り、味噌汁を作って独りでそっと飲んでいるところなど、、、
そうだ、わたしが初めて八王子の道場に田中泯を訪ねた時も、彼は味噌汁を一人で黙々と作っていた。(弟子はその時みんな寝そべっており、何故か全員松岡正剛の口髭を真似ていた(異、、、 )。
味噌汁が日本の文化そのものであることは確かであるが、ここでは孤独を何より雄弁に語るものに思える。
味噌汁と剣の修行の反復。
孤独以外の何者でもない。
(時流からしても)。

また香美山、、、福本の、ことばを喋りすぎない、いつも一歩手前で呑み込んで、会釈し去ってゆくところが堪らない、、、。
高倉健より不器用だ。
伊賀、、、山本に稽古をつけるときにも、一歩手前で引く。
最後に「誰かが見ていてくれますよ。」
まるで、神様は見ていてくれます、と言われているようだ、、、。
語り過ぎない。
肝心の部分は当人に埋めさせるのだ。

伊賀が惚れるのは当たり前である。


しかも、今回の映画で拾いものだったのは、その山本千尋である。
武術家で、初めての役者経験だそうだが、とても凛々しくも瑞々しい女優であった。
間違いなく女優に向いているというだけでなく、日本(撫子)を体現出来る貴重な女性でもある。
伊賀のこの凛とした姿が、熟成し充分に枯れた香美山と対等のオーラを発しており、両者の煌きで映画が成立していた。

それにしても香美山と伊賀の仄かに香る愛情に満ちた関係は、とっても微笑ましくて爽やかで羨ましい。
下手なラブコメディ(重苦しい恋愛劇も含)なんぞより、遥かに素敵な恋愛ー愛情劇でもあった。
ライムライトとは、名声の代名詞であり元々は舞台の照明(電球が普及する前の)だという。
古いライムライトに照らされたふたりの情景が残像する。
これをロマンチックと呼ばず、何といえよう?


思えば中学の明日香・奈良・京都の修学旅行で、、、何とありきたりのコースか、、、班単位で見学に行った。
ほとんど記憶にない。
現在、東映京都撮影所と松竹京都映画がここで撮っているそうだ。

殺陣にはCGが使われ剣はまるでおもちゃのようにチャチなのには、驚いた。
わたしが見に行った頃は、普通の剣の形でやっていた。
どうなのだろう?CGの方がよりリアルになるのか?丁寧な効果音も臨場感を大変高めていた。
そういえば、われわれが見に行った頃も、人を切るときはキャベツを切って音にしていたとか聞いた覚えがある。

わたしは、笠智衆といい、この人といい、歳を取るに連れてますます素敵になる田中泯といい、枯れた存在が堪らなく好きであるようだ。そうだ、本田 博太郎また良かった。ぴったりな素晴らしい役であった。


桜の花弁の舞う最後のシーンの圧倒的な様式美も、さることながら、味噌汁をひとり静かに味わう孤高の男の姿には、流石に参ったものだ。
実に、粋な日本の息づく日本映画であった。
撮影者と音楽(作曲家)の意図も明確であった。
確かなものが描かれていた。
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山本千尋のこのデビュー作、アクションだけでなく演技も直向きで良かったが、余りにデビュー作がハマりすぎると、この先のプレッシャーが心配である。こちらにとって違う役のイメージが難しいし抵抗も感じてしまう。大丈夫か?

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このパッケージのもの。淀川先生の解説付き。

”Le Fleuve”
ジャンルノワール監督・脚本
クロード・ルノワール撮影
1951年


このDVD冒頭に淀川先生の解説があり、見方を方向づけるようなものではないが、その太鼓判によって、好いものが見られるという期待と確信をもってしまう。

「ロサンゼルスのハリウッドの花屋さんがジャン・ルノアールに会いに行ったんですね。
『どうかルノアールさん。きれいな、きれいな映画を撮ってくださいませんか?ここに資金がありますから。』
ちゃんとお金集めてきたんですね、花屋さんが。
ルノアールは感激したんですね。
『それじゃ僕は、あなた達が好きなような映画ができるかわからないけれども、ひとつインドの映画を撮りましょう。』と、言ったんですね。」
それで出来たのが、この映画だということ。
淀川先生が仰ると、何かとても良い話に聴こえる。満開の綺麗なお花が見えてくる、、、。

どれだけルノワールが慕わられていたかも、よく分かるはなしだ。
お父さんオーギュスト・ルノワールファンは恐らく世界のどこよりも日本に多いはずだが。
斯く言うわたしも、「イレーヌ・ダンベールの肖像」の魅力には、逆らいがたい。
いくらフランシス・ベーコンが天才であろうと、これはこれである。
わたしも多様な流れの太い束で伸び広がっているのだ。
ベーコンが凄くても、ルノワールも好きなのだ。わるい?
ここでは、その次男の作品の話だ。

映画を見る前の心の準備というか、こころのリセットが最近うまくできない。
何となく、これをかける前に、「シャニダールの花」を見始めてしまったのだが、予定はこの映画だったので、強制的に替えた。
数日前に観た「アリスのままで」が「シャニダールの花」の隣がよいかな、と思って置いていたため、つい観てしまった。
その「、、、花」が不思議に前見たときよりも、良い感じなのだ。何故だろう?
ともあれ自分なりの映画のコンフィギュレーションが育ちつつある。
が、配置図の描くものから、どうも今日はこれを観るのがそぐわない、みたいな感情もできている。
面倒なものだ。今ひとつ気持ちが乗れない、、、。


「河」は、かなり以前に観ているはずなのだが、ほとんど覚えていなかった。

インドのベンガルが舞台だというのは、覚えている。
場所にまつわる記憶-印象は強いものだ。
「美しい」と、淀川先生も連発されていたが、やはりお父さんの絵を思わせる。
(お父さんはインドはさすがに描かなかったが)。
特に生の謳歌という点に置いて。
詩的な作品である。

確かにインドは「河」だ。(文明も河であった)。
河なくして生はない。文明も生まれない。
反復も回帰も。歴史も。
ヒロインは河を観察し、詩に書く。
ちょっとしか読まれないし、残念ながら読んで聞かせる相手が詩にさほど興味がない。

河に下りる様々な階段にも想いを馳せる。
これはわたしにとっても、発見だった。
階段にこれほど種類と階層があるとは知らなかった。
だが、河に接続する重要極まりないレセプターである?
階段にそれぞれのヒトが拘るのは当然であろう。

詩人のヒロインはイメージを膨らませる。
クリシュナ
ラーダ
の物語を作る。

女の子は皆、恋する悲劇の女王になっている。
男の子はコブラに夢中だ。
笛の音がよい。
コブラには耳がない。しかし地面を伝わる振動に敏感である。
蛇使いは巧みに笛を吹きながら、細やかに振動を送る。

よそ者や、痛みに、不平や、片脚に、片目に、砂絵に、憧れや残酷に、、、白昼の長椅子での微睡みに、、、

インドは、そんな場所なのか。
暗がりに極彩色。
ハッと思うと屍体がある。
天然のマルセルデュシャン作品だ。
それが自分の弟の屍だったりする。
まさかのヒロインの弟。


新たな季節が訪れ
祭りになる。

「インドの匂いプンプンしてましたね。」(淀川先生)
その色彩からかも知れないが、ホントにプンプンしてた。
それから何といっても、ダンスである。

こんなダンスが他にまともに踊れるとしたら、オードリー・ヘップバーンくらいか、、、
実は、このダンスが一番印象的だった。
コブラの笛の音とともに色彩の基調となっていた。


全編を通した穏やかな流れは、やはりインドの「河」であった。



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水の声を聞く

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2014年
山本政志監督・脚本

このような経験は幾度もある。
既視感に満ちている。

新新興宗教団体のスタッフの背の高い、大学で宗教を学んでいたという男はよく認識していたようだが、カリスマ性というのは面白い。

主人公の在日の女性が、アルバイト感覚で教祖をしているときは、スタッフやプロジューサー、信者たちの求める適度に神聖で理想的な雰囲気を持った教団として順調に成長していた。
その中の背の高いスタッフの分析する通り、教理など初めからあって無いが如くであり、教祖に至っては祖母が巫女をしていたとは言え、宗教には何の知識も教養もない極普通の感覚の若い女の子であるに過ぎない。
話すことは、プロジューサーの作った作文の暗唱である。
オウムに毛が生えたくらいのものか。
話に中身など全く何もない、あらかじめ用意しておける、どうとでもとれる抽象的なものだ。
しかも、無内容の話を神聖化するかのように韓国語で静かに抑えた調子で応えさせる。
更に何やら水の満ちた水槽や蒼い民族衣装や韓国の歴史を感じさせる儀式(踊り)などの演出と相まって、相談者や信者の感じるありがたさを増幅させるのだ。
この効果により清廉な彼女の身体を通して発せられる情報の全てが、悩める者たちに「実質的効能」を生じさせてしまう。
これが教団という場所における、化学反応による彼女のカリスマ性である。
彼はその潜在する構造に瞠目し、その教団に在籍を決め、彼女を支え続ける決意を抱いていた。

同感だ。
そういうものだと思う。
しかし、教団が膨れ上がってゆき、それなりに時間を積み上げてゆくと、その重さ(責任)に彼女の個人的バイト意識が耐えられなくなる。
それは必然的なものだ。ある意味、プロ意識が徹底していないのだ。
講話が終わったところで、スマフォでちゃらちゃらギャル語を喋っている場合ではなくなってくる。
状況に対し自覚が生じ、この娘の場合祖母の生き様を訪ねて探り、自らのルーツと信仰について真面目に考察してしまう。
それにより、成り行きでなってしまった受動的立場を、自ら意識的に選択し直すというカント的な転向に出た。
だが、それは内実を伴わぬ姿勢に過ぎない。
存在を救う為の悟り(認識)などが、お手軽に短時間で得られるはずもない。
気持ちだけ、しかも薄っぺらな意志だけもって突っ走ることになる。
これほど、傍迷惑な話はない。
ここにヤクザやそれに追われる迷惑者の父親も絡む。
スタッフは、カリスマ性だけ妙に高め、経営を破綻に追い込む教祖が邪魔になる。
そうなると組織の崩壊は速い。


自分の言葉で喋り出し行動を始めたことにより、全てに厳かさを欠き安定性もない紋切り型が目立ち出し、それを打ち消すように強引に突っ走るようになる。これはあたかもどこかの国のようだ。
独りよがりな浅薄さが浮き出て瀬戸際的な叫び(説得力のなさをカバーする為の)になる。
もう、お告げレベルの語りはない。それに従いカリスマ性も失墜してゆく。
抽象的で秘密めいて個別的な韓国語メッセージから、大上段から人類を救うのですといった、あられもない日本語へのシフトにはついて行けなくなるはず。
当然、彼女という存在自体に辟易するヒトが出てくる。
そこに、不満(恨み)を持つスタッフが、ヤクザを仕掛けてくる。
オシマイ。

水の音を聞いているうちがよかった。
その水面の微かな揺らぎに、中立した純粋なメッセージ、相談者本人が見出すべき意味が秘められていた。
自我の声に従ったら、ロクなことはない。
他者に対してそれを押し付け、支配する働きにしか及ばないではないか。
多様な生を抑圧するのみである。
教祖など、所詮どれほどのものでもない。
無内容で優しい響きを渡していさえすれば、誰もが自分でそこに意味を投与するのだ。
そうすれば、全てが丸く収まる。


実際、あっちこっちに転がっていそうな普遍的な話だ。

その分、新鮮さとか驚きを感じる部分は無かった。
しょうもない奸計を巡らす中学生にも別に、特別な感情がもてなかった。
ありふれた光景の1つである。



ジョニーは戦場に行った

JOHNNY GOT HIS GUN

JOHNNY GOT HIS GUN
1971年アメリカ
ダルトン・トランボ監督・原作・脚本

戦地で体のほとんどすべてを失った青年の、ほぼ一人芝居。
脳だけは機能していたことが、良かったのかどうか、、、。

現実をモノクロ、想念をカラーという手法は、いくつかの映画で観てきた記憶はある。
それが何であったかは、思い出せないが。
わたしも、覚束無いものだ。

「悪い夢から覚めないんだ。誰か起こしてくれ。」
もはや夢と現実の区別もつかない。
ねずみが体の上を這い回っているのか、看護婦の何らかの措置なのか。

身体には外界に些かも接続できるものが無いうちはまだ平穏であった。
モールス信号で繋がってしまった為、主体的な実験は終わりを告げた。

健常時には知らなかった世界を見つけたにも関わらず、、、
太陽を見つけた。
ことばを見つけた。
新たな時間を見つけた。
ならば、もう少し粘れなかったか。
折角、頭の良い看護婦さんに巡り会えたのだ。
(これを見てつくづく思ったのは、稲垣足穂が女性は看護婦であること、と言っていたこと)。
確かにそうだ。
こうなったら、腹をくくり、自ら実験することだ。
ちょっとありえないレベルの生の実験となろうに。
ここで、「殺してくれ」では、芸がなさすぎる。

男は尽く馬鹿だ。
「民主主義のために一人息子を捧げるよ。」
「民主主義を守り、正義と永遠の平和を手に入れるんだ。」
彼は志願して早く入隊したのだった。
大したものだ。
ちなみに、彼の彼女は、しきりに兵役を逃れて何処かに行こうと何度も持ちかけていた。
しかし彼は自身の決意を曲げる気もなく、よく出来た看護婦さんを振り切ってしまう。
きっと、日本でも戦争法案賛成(9条改正賛成も含む)の人々は、自らの血を進んで流してくれるのだろう。
頼りにしたい。

「メリークリスマス」
何というか、「戦メリ」を思い出してしまった、、、。
ここでの「メリークリスマス」
この「ことば」は、ヘレンケラーの"Water"に相当する鮮烈さである。
民主主義などという寝とぼけた言葉ではなく、生まれたての「ことば」に違いない!
そうだ、ヘレンケラーのような時間性は持ち得ないが、新たな生の実験の余地はある。
看護婦さんと共にやってみてもよかったではないか!
折角、君は覚醒しかけたのだ。
もう少し時間稼ぎをしたまえ。
それを活かさず、自ら可能性を摘むとは、、、。
その意味で、残念な話であった。

充分にリアルで説得力に満ちた作品であった。
実話を元になどというものでなかったところが、よりリアルさを高めていた。
主演のティモシー・ボトムズは、ワールド・トレード・センターのニコラス・ケイジ以上の困難な演技になったはず。
イメージや回想シーンも含め、熱演としか言えない演技であった。










フォーレ レクイエム

G faure

”Requiem”
ニ短調作品48
ガブリエル・フォーレ作曲

早朝薄暗い時から聴いていた。
楽曲の流れとともに朝の明るみが音連れた。
何と気持ちの良い美しい朝だ、、、。


「主よ、私を解き放ってください。永遠の死から。」

第1曲 イントロイトゥスとキリエ(Introitus et Kyrie) 厳かなコラール 慈悲をお与えください主よ、、、最初のユニゾンによる降下が特に印象的 永遠の安息をお与えください 絶えることのない光が彼らに輝きますように
最も力強く長いパート eleisonで終わる

第2曲 オッフェルトリウム(Offertorium) 奉納である 怒りの日はない 転調が繰り返される 伴奏なしのうた 解き放ってください 死せる者の魂を 深い淵より アーメンのリフレイン 落ち込みませんように 闇の中に 深さと複雑な陰影を感じるところ

第3曲 サンクトゥス(Sanctus) 短いが荘厳で幻惑的なパート 天と地があなたの栄光に満ちています 聖なるかな の呼びかけとよせるような応え バイオリンの天上の燦めきの効果 アルペジオで始まりアルペジオに終わる 息を呑む美しさ

第4曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu) いつまでも続く安息を彼らにお与えください 切々と独り歌うソプラノ 合唱のない谷間の静けさ
深淵に響く歌の音

第5曲 アニュス・デイ(Agnus Dei) とても好きなところ 何と優しい幻惑的な楽の音か 神の子羊 世の過ちを取り去る方 ここでいつも感極まる 永遠の光が彼らに輝きますように 後半の転調で曲の雰囲気は一瞬激変する  不安になるが最初のテーマに回帰し終わる

第6曲 リベラ・メ(Libera me) 「主よ、私を解き放ってください。永遠の死から。」このバリトンの独唱がこの楽曲全体で一番印象的だ それを覆うようにユニゾンの合唱が続き その後当初から転調したバリトンがその歌を引き取る

第7曲 イン・パラディスム(In paradisum) 楽園へと天使たちが導きますように 厳かで優しいオルガンのアルペジオに始まり それに終わる いや第1曲冒頭のRequiemに回帰して終わる 明確な作品上の意図が見える

あくまでも素人の独りよがりな感想である
大概、掃除をしながら聴いたりしているが、第5曲あたりで嗚咽してしまい、座り込んで聴く。


「怒りの日」がない。
「死の恐ろしさ」を煽る部分がない。
制作当時カトリック教会に批判された事柄であるが。
「死は永遠の至福に満ちた開放感に他ならない。」(G・フォーレ)であれば、まさにこれ以上の(斬新な)レクイエムはない。
何より、美しい。ひたすら優しく美しい。
純粋な音楽として、これ程ぴったりな誕生日プレゼントはなかった。

そう最初に聴いたのは、高校二年の時、弟からの誕生日プレゼントで貰って、その夕方に聴いたものだ。
次の日は、ほぼ一日中レコードを回しっぱなしでいた。
わたしの特権であるが、誕生日の翌日は常に休みなのだ。
そこは恵まれた運命だとつくづく思う。
(今は、娘たちから羨ましがられている)。
窒息しそうになる前に、定期的に聴いてきた。
薬か?そうだ、薬だ、、、。

よい空気を流したい時に、この楽曲はなくてはならない。
勿論、モーツァルトのそれのようにオドロオドロしい大傑作もあるが。
まったく違う気分に浸る。
ベルディのそれとも違う。
ただ、美しい音楽に包まれたい時にこれを聴く。


良い音楽は、常にそれ以上の何かだ。





アリスのままで Still Alice

still alice

Still Alice
2014年アメリカ映画
リチャード・グラツァー  ウォッシュ・ウエストモアランド監督

邦題もそのまま。これで良かった。


正直、これには、きた、、、。



ジュリアン・ムーア  、、、主人公アリス(言語学の大学教授)
アレック・ボールドウィン  、、、夫ジョン(医学部大学教授)
クリステン・スチュワート  、、、長女リディア(双子を出産)
ケイト・ボスワース  、、、次女アナ(舞台女優)
ハンター・パリッシュ  、、、長男トム

良き夫とよく出来た一男二女の家族構成ということである。


衰えてゆくものに対して最近極めて敏感になっている。
やたらと感情移入してしまう。
それが、、、ここでは、記憶である。
記憶である。
記憶が如何に生にとって本質であるか、、、。

言葉に届かなくなることの恐怖。
(物を置き忘れるとか、しまった所を忘れるなどはまだ序の口)。
生の基盤を根源から打ち砕く、、、
若年性アルツハイマー。
それは、ヒタヒタと進行する。
「癌の方がよかった、、、。」
重い言葉だ。
宙を掻き毟るように、「ことば」を求めても、虚しさしかそこにない絶望。

それでも生きてゆかなければならない。
しかし、記憶なしに生きることが可能か?
「喪失は災いではない。失くす業の習得は容易い。」とは誰が言ったか?

物をなくし
名前をなくし
約束をなくし
睡眠をなくし
ことばをなくし
理解をなくし

この映画で、記憶を失って生きる者の絶望を実感させられた。
ヒトが人生、、、と語り始めるとき、記憶の集積がそれであろう。誰にとっても。

アルツハイマーが50歳になったばかりで発症したなら、そして子供にも50%遺伝する、となると。
まだ、なくす事を悲しめるうちはよいが、なくしたことすら気づかなくなるとき。
自覚がない。
それでもアリスはアリスのままなのか、、、?
宙吊りのまま、まだ生きながらえてゆく。
その当人とは、何者なのか?

ヒトは恐らく自分が何者でもないことに耐えられるとは、想えない。
アリスはそれを見越し、毎日見る決まりにしている自分宛のマックブックのヴィデオに、「薬」の場所とそれを全て飲み干しベッドに横になる指令を録画しておく。その時になったらもう何も判断は出来ないから、指令である。


最近、海馬に蓄えられた記憶がより大容量の大脳皮質に分散貯蔵されているという研究結果を聴いた。
細胞の働きが細かく解明されている昨今。「場所」や「時間」の細胞について度々目にはしてきたものだ。
パソコン端末のHDから外部大容量ストレージにデータを移して管理するのと変わらない。
実にイメージし易いものだ。
それは神経新生に密接に関係しており、新生が活発なときには記憶移動も速やかに成されていくという。
睡眠時に密かに転送が行われているらしい。(睡眠の意味が少しずつ解けてゆく)。
神経の生成が抑制されると、記憶もいつまでも海馬に留まるしかなくなり、新たなことが覚えにくくなってくる。
生成の促進には運動が大変効果的であるという。
(わたしも珍しくウォーキングなどに出てしまった(笑)。

アリスもジョギングを必死にやっていたが、アルツハイマーの進行に対しては効果はなかった。
気休めにもならなかったようだ。かえって道を忘れたら危険である。
やがて家のトイレの場所も忘れてしまう、、、。

しかし、記憶の操作においては、アクティブとなる神経への働きかけにより、実際に可能となっているそうだ。
医療面で考えられているのは、、、
PTSDの原因であるトラウマとなっている記憶神経と関連付けられてしまった事象の記憶神経の結びつきを解けば、それから解放されるというのも。実際にマウスレベルでは、神経の切り離しが成功しているという。
(例えば、雑踏や乗り物を見るとパニックになってしまうサリン事件被害者などに有効であろうとのこと)。

それをマウスで試すのと同様にオプティカル・ジェネティクスで確認は出来ないため、磁場を使って記憶場の発動のon/offを行うという、、、まるでB級SF映画のお手軽さである。
そんな単純な問題かどうかはともかくとして、記憶が度を越して減衰したり、特殊な絡みつき(ペアリング)が解けなくなるなどの「記憶の障害」が起きると(これは多様性・単なる差異の問題で片付かない)、生活は間違いなく地獄と化すことが分かる。
悲痛な病の存在である。
それは、確かに、ある。
「多様な生」、「実験としての生」として、勿論認めるべき生の一つであることは言うまでもない。
支援団体などから、支援の対象とされるだろう。
だが、その当人にとって(家族にとっても)認めがたい生であることも、当然ある。


斯く言う私もしょっちゅう記憶は飛ぶ。
他人事ではない。

ジュリアン・ムーアの大学で活き活きと講義している姿からの推移の演技が圧倒的であった。
見守る家族にも胸が痛くなった。
最後は自分の娘の真剣に語る話も理解できない。
衰え困惑するアリスと悲痛に歪むアナの表情にすべてが収束する。

「、、、それは愛の話ね?」
「そう、ね、、、愛の話だわ。」
(誰よりも一番理解してもらいたい存在に、無残にもその力がまったく残っていない事実を突きつけられる)。
誰よりも優秀であった母のその有様を改めて確認する娘の無念さ孤独さに、同調しない訳にはいかなかった、、、。


これも「静かなるアリス」という小説を原作としているそうだ。
原作を読む気はない。
単に、読書時間が取れないからだ。
わたしの苦悩である。




チャイルド44  森に消えた子供たち

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Child 44
2015年アメリカ映画
ダニエル・エスピノーサ監督
リドリー・スコット製作

スターリン体制下のソ連1950年代
秘密警察捜査官レオ・デミドフ、、、トム・ハーディ
その妻小学校教師ライーサ、、、ノオミ・ラパス

ネステロフ将軍、、、ゲーリー・オールドマン もう少し燻し銀演技を観たい。随分枯れてきて魅力は倍増だ。
クズミン少佐、、、ヴァンサン・カッセル シャープで重厚な強面存在感が相変わらず凄い。
ジョエル・キナマン、、、ワシリー  極限的な憎たらしさを演じきった。権力の傀儡としての虚しさも充分に感じさせた。


”There is no murder in paradise."

鉄道付近で孤児たちの猟奇殺人による遺体発見が相続く。
瞳が充血しており、体が外科的な切開を受け、胃が摘出された遺体である。
犯人はおそらく一人のはず。

この白昼における漆黒感は何だ。
不透明な分厚い空気に息が詰まる。
余りに虚ろなシュール・レアリスティカルな光景。
ポールデルボーの悪夢だ。(そう、秘密警察捜査官レオはそこの住人に似ていた。わたしはアンドレ・ブルトンに密告する)。
もはや滑稽に見える密告と自白の強制、粛清、、、。
主人公の公安局高官レオも謂わば、体制への忠誠の確認の意味で妻の告発を強いられる。
そして絶えず命を狙われる過酷極まりない状況で野に下ってゆくのだった。
その時、同時に子供の猟奇殺人が特定の鉄道沿線地区に巻き起こる。

誰もがこの猟奇殺人-名付けようのない事態に戸惑う。
この連続猟奇殺人は果たして体制内側からの腐敗の一つの表れなのか?
東西体制(思想)レベルの問題に収まるのか?
犯人の語る口からも、ヒトを納得-安心させる言葉は何も出ない。
確かにヒトラーは強力なトリガーではあったようだ。
しかし精確に誠実に語ろうとすればする程に、その行為の何であるのかは分からなくなる。
この対面時にレオが恐らくはっきり認識したことは、まず殺人を阻止する何らかの手立てを行うことの必要性であった。
(殺人が現実的に認められなければ、「捜査」も秘密裏に遂行する以外になく、それが発覚すれば当然反逆罪である)。
実際、殺人の無い(全て事故として処理する)この理想社会は、日常茶飯的な殺人によって維持されている。
密告制で政治犯の処刑が見せしめと教育の意味で日々行われてきた。
子供の目の前で、思想犯の両親が普通に(反逆者として)射殺される。
スターリン政策により、射殺を免れても多くの人民が餓えで死に(一日に25000人が餓死)、孤児つまり今回の猟奇犯の対象にされる子供は増える一方であった。
彼ら孤児は、森に消えて逝く。(そして全裸で鉄道付近に転がっている)。

レオは、公安局の高い地位にあって、その状況に苦しんできた経緯がある。
やっと追い詰めた犯人は、ソ連旧体制下で形振り構わず権力を握り地位を掴もうとする男ワシリーに口封じで殺される。
この理想のスターリン体制下に、このような殺人事件はあってはならないというだけではなく。
理由の明確ではない殺人など、2重の意味で以ての外であり、公表されてはならない。
これまでの44人の子供たちは、全て「鉄道事故」か川も湖も無い場所での「溺死」で片付けられた。
ホモセクシャルの男性をリストアップして狩り、片っ端から罪を被せて処理する。
「生の否定」の限界の形である。
「多様な生」が即座に、全て根こそぎ根絶される。
これで維持されるシステムとは何か?
そうだ、それこそが” paradise”であろう!
(実は、今日も「パラダイス」講話が開かれます、という某○○教パンフを持った訪問者が来たところだ)。
生を否定しひとつの価値に凍結する世界こそがまさしく” paradise”である。

物語の最後に体制側で返り咲くレオにとっても、事件についての真相など何も分からないし、そもそも考えを率直に述べることなど出来ようはずもない。
何も分からないという正直で真っ当な見解を述べる。
ただ、彼はこのような殺人を阻止する部署の設立を要求する。
体制を受け容れて、その省の長として中央突破を図ることにする。
自分が今後出来ること、すべきことの決意表明だ。
大変有能な捜査官として、ネステロフ将軍を招き入れる。(事の真相を悟り、レオに協力し秘密捜査に加担した)。
何より殺人(表向きは事故)で日常を維持することを終わりにしなければならない。
あの猟奇犯は、そのあからさまな殺人そのものといった「印象的な殺人」によって苦しみ身悶えしながら、その日常を解体しようとしていたことは確かだ。(それ以外の方法が見い出せなかったことが、病いであるところだろう。いや方法という距離がこの犯人には無い。その生きる身体性そのものがこの行為に直結していたのだから、、、これを彼の口から整然と説明できるわけがない)。

レオは以前公安局で働いていた当時、眼前で両親を見せしめ銃殺された2人の孤児を引き取る。
(その時の射殺犯(殺人狂)である部下ワシリーが地位を高め最後までレオを追い詰め苦しめつづけた)。
その行為で、これまでの人生の清算がなされる訳ではない。
しかし、親の敵である自分がその子供を大切に活かすことでしか未来への希望は生まれない。
そうレオ夫妻が決心した選択によるものであろう。


わたしは、原作本を読んではいないが、気にはならない。
元々、本ー文字と映像とでは形式が全く異なる。
ストーリーなども比べる気にもならない。
この映画作品、理由や動機もはっきりしないままに、物事が次々に起こってゆく。
そこには、ただひたすら生を求める多様なせめぎあいが存在する。
この点におけるリアルさがとてもしっくりくる。

殺人を認めない権力が殺人により自身を正当化している。
そこに政治的な反逆とも事故にも還元しようのない(取り込まれない)目的・意味不明な殺人としか言えない「殺人」によって風穴が開く。(当局は処置に窮し、事もあろうに同性愛者に罪を擦り付ける。反逆罪の一種として)。ここに体制を少しでも変える余地を見た主人公レオが身を投じたのは、自然の成り行きである。その時点で彼自身それが何を意味するかなど考えてはいなかったとしても、、、。


わたしの好きなタイプの映画である。
充分に息苦しいが。




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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