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ピエロがお前を嘲笑う

pierrot.jpg

”Who Am I - No System Is Safe”
2014年ドイツ映画
バラン・ボー・オダー監督、脚本

トム・シリング 、、、ベンヤミン
エリアス・ムバレク 。。。。マックス
ヴォータン・ヴィルケ・メーリング 、、、、シュテファン
アントニオ・モノー・Jr 、、、、ポール
ハンナー・ヘルツシュプルンク 、、、、マリ


今は誰もが張り巡らされたネット上に、ひっかかって生活している。
身近でもあり、、、彼女になかなか上手く言い寄れなかったり、ポルシェに乗ってご満悦とか、乱痴気パーティーに出てちょっとでかくなった気分に浸ってみたり、、潜在能力を解き放って、これかよ?機械語とハッキング技術以外はかなりお寒いサイバーテロ集団(いや主人公)であるが、まだ皆若い。

ハッカーの主人公ベンヤミン 、、、トム・シリング
こりゃ、凄い役者だ!オタク臭さが半端ではない。(わざとらしいメガネのオタクはよく見るが、レベルが異なる)。
他のキャストもずっしり存在感があった。
連邦情報局の捜査官トリーネ・ディアホルムの凛としたストイックさはまるで、メリル・ストリープだ。
ベンヤミンをほとんど相手にしない彼女マリーも、かなりの曲者で掴みどころがない。
役作りが皆、重厚である。

確かに感覚的には「メメント」に近い。
だが、存在学的には随分違う。
彼らは基本、”WHOAMI”の透明人間であろうとしている。
所詮、どう見られるかは、それぞれの見る者次第なのだし。
こればかりは、いきがってみても、どうにもならない。
実績を積むだけか。
どれだけデカイハッキングをするか。
そこに存在意義を見出すしかない。

結局、身の丈を心得ない大仕事をしてしまったせいで、ハッキング界の大物MrXやロシアサイバーマフィアFR13ENDSを巻き込み死者まで出して、命を狙われる羽目になる。

また、その過程で捜査官に対し、断片的で強烈なフラッシュを残し、それが自白内容とずれるようにしておく。
「アイデンティティ」でも充分に示されたあの「解離性同一性障害」をまんまと利用してしまう。
母親の自殺に至る病状などもそれとなく知らせておく、伏線が巧妙である。
捜査官は、わたしは心理学者じゃないのよ、と言って乗せられないようにしていたのに、やられてしまった。
解離性同一性障害なんていう病には、人はとりわけ魅了されるものだ。

ベンヤミンが何度も繰り返す。
「ヒトは自分の見たいものを見る。」
また更に、自分の知っているものしか見えない。
当たり前である。
事象のうちから言語により分節化してそれとして見えるのである以上、持っている言葉を超える世界など知覚不能である。
彼らが作ったチームCLAYもネット上の最もクールな存在である、アノニマスを意識していることが分かるが、それ自体もまんまと否定してもらえる。
かなり紆余曲折したが、
絶妙の思考誘導だ。
「ハッキングはトリックさ!」
やはり角砂糖は、一個に見えて4つあった。

昨日見た映画「HERO]でもそうだが自白・自供・告白などの騙りは、受け取る側の言語センスとイメージ力が肝心であろう。
昨日の始皇帝の劇画的なダイナミックでトリッキーなイメージもスゴイが今日の女性捜査官も同様に唯一のわれわれの知覚の窓である。

結局、証人保護プログラムも獲りつけて、再び”WHOAMI”仲間と無罪放免の生活か、、、。
海上の船の光景は、何とも清々しい。
やはり、チームはしっかりあったのね(笑

これって、ハッピーエンドではないか。
しかも皆にとって、である。
(女性捜査官もニンマリしていた)。
この手の映画の中では、出色の出来であった。

音楽も内容にぴったり合った、ドイツの音であった。






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クイック&デッド

The Quick and the Dead05

”The Quick and the Dead”
1995年度アメリカ・日本映画
サム・ライミ監督

TV録画物で観る。

基本的にわたしは、西部劇そのものを意識的に見たことがない。
幼少時代に何となく見てしまったレベルでこれまで来ている。
であるから、サム・ペキンパー監督物を見たことがない、と言う映画ファンの風上にも置けないヒトなのである、、、。
これは大変だと狼狽える気は別にないが、機会があればそのうち見てみたいとは思う。
西部劇の要素(形式も)が色々な映画の様々なシーンに深く浸透していることは、察しはついてはいるが、もう形式的にも内容的にも透明化している、何というか原質化してしまっているのではないか。
この部分は西部劇だ、などと解説しながら見ている映画ファンもあまりいないと思う。
ひとこと言えるのは、西部劇というものは、かなり劇画タッチであること、それに気づいた。

シャロン・ストーン 、、、エレン
ジーン・ハックマン 、、、ジョン・ヘロッド
ラッセル・クロウ 、、、コート牧師
レオナルド・ディカプリオ 、、、フィー・へロッド“ザ・キッド”
ゲイリー・シニーズ 、、、連邦保安官(エレンの父)

とまあ、凄いキャストを揃えたもんだ。
中でもへロッドさんは、プリキュア(ハピネスチャージ、、、)で言えばサイアークのおやぶんである。
他のチョイアーク(手下の戦闘員)など、虫けらのように殺してしまう。
腕も立つし大変な悪さ加減である。
これ程の無法者の強者はいまい。
途轍もなく憎々しい(特に笑い顔が)ワルおやじのジーン・ハックマンで、大変お似合いであった。
日本の時代劇なら間違いなく悪代官というか、どこぞの悪い殿様であろう。
The Quick and the Dead07

それに立ち向かう美貌の女ウエスタン、エレン。
よくいるスーパーウーマンの典型であり特に驚いたり魅了されたりする程の存在でもないのだが、勇敢なだけではなく、神経質で脆弱な面や葛藤する姿も表現し、ヒロインの精神の時間的変化を丁寧に描いていた。
The Quick and the Dead04

コート牧師は、ラッセル・クロウのカッコよさが滲み出る、ちょっと控えめだが頼りになる美味しい役である。とても渋いがまあ、こういう感じかという必ず出てくるひとつのタイプである。まだ若いね。(今の姿を見るに付け)。圧倒的な存在感を誇る「グラディエーター」がこの後に控えるが。
The Quick and the Dead03

ザ・キッドは、ちょっと笑える優秀だが空っぽな、やんちゃなボンボンであり、ディカプリオのクールな演技が光っていた。
The Quick and the Dead02

エレンの父親役で、ゲイリー・シニーズがちょいと出ていた。この人は役がハマると物凄く良いが、今回は無難に熟していた。
盲目の道具売の少年がスパイシーな雰囲気を醸していた。演出上なくてはならぬ要所を決める端役である。


それにしても、何でこともあろうに、日本との合作なのだ?(バカボンのパパ風の質問である。答えは特に気にしない)。
マカロニ・ウエスタンだって、何でだ?と思うわたしである。
西部劇に触れるにあたって、全く映画通でないことが、忽ち露呈する。
他国が西部劇を作ることに関して、何故なのか全然知らないのだ。(正確には特に知る気にもなれないのだが)。
イタリア製西部劇がスパゲッティ・ウエスタンと呼ばれることを不服として、彼の淀川先生がマカロニとしなさいと仰ったとか、、、。
The Quick and the Dead06
それくらいしか実は知らない。(合ってるかどうかも)。
そもそもそれぞれの国に時代劇はウンザリする程あるはずだし、なんでわざわざこういうのを作らなければならないのか。
アメリカ国内だけで良いではないか、、、。
日本にも、時代物を作る題材など5万とあるではないか。
この映画のどの部分にどう日本が関わっているのか?わたしの見た目では分からない。
それはともかく、、、。

確かに西部劇自体は作り易い。
無法者に対して正義の保安官(又は流れ者)が立ち上がるというパタンであれば、どんなんだって作れるというもの。
TVドラマ「水戸黄門」など、無限に作成可能だし、そのような「定番」「定形」は確かにあろう。
イタリアはそういうのが特に好きなのか?
ミケランジェロ・アントニオーニ、ベルナルド・ベルトルッチ、ルキノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニ、、、これくらいしかそもそも出てこないが、これらの監督が西部劇を作ることはまずなかろう。
西部劇はどんな監督が作るのか?
ともかく製作陣にとっても面白く、需要もかなりあるのだろう。そうでなければ作るはずもない。
侍物における剣捌きに当たる銃の捌き様に。その形式や様式美の表現は極めようとすればキリがなくなるかも知れない。
やはり極める余地が、まだ充分に残っているものなのか?
孤高の主人公とそれを取り巻くドラマも何度も再現が要請されるのだろう。
外国がやらなくても、、、という心情はもってしまうが、普遍性は確かに感じさせる。
もっと西部劇を見れば、もう少しはわかってくるのかも知れない。
外国なんだけど、是非ああいうの作ってみたい、という気持ちに納得するのかも、、、。

別に勉強で映画鑑賞する訳ではないので、飽くまでも機会があれば、ということで観たい。
実際、今回のサム・ライミ監督の”The Quick and the Dead”は充分面白かった。
エンターテイメントとして、緩急起伏があり流れも良く、隙のないスリリングな作品に仕上がっている。
コミカルでトリッキーな面も忘れてはいない。(ホントに漫画的なのだ)。
手馴れた絶妙の運びであり、それに乗ればそのまま最後まで楽しめる。
何しろ話が「早撃ち大会」なのである(笑!
生死を掛けてはいるが、遊びに他ならない。
最高に贅沢なエンターテイメントではないか!
(ロジェ・カイヨワ流に見れば、遊びに必要な要素が全て詰まっている。)

早撃ちは、日本で言えば「抜刀術」か?
日本はどう考えても、こちらの映画を作ったほうが良い。
まさか、外国からは、「マカロニ抜刀術」みたいなものは出てはこまい。
勿論、「七人の侍」がジョン・フォードの西部劇に影響を受けており、黒澤のその映画のハリウッドリメイク版が、あの「荒野の七人」であることくらいは、映画に疎いわたしでも実際に見て知っている事柄だ。
相互浸透は充分になされてきたことは、分かる。
が、「マカロニ、、、」のようにそのまま作るというということを、当のアメリカ人はどう思うのだろう、、、。


この映画が日米合作だということを知り、そっちにばかり気が向いてしまった。
西部劇のテンポはとても小気味良く、体調が優れず何も手につかない状況でも、それを忘れて見入ってしまえるものだ。
今のわたしには、もってこいのメディアによる、マッサージなのかも知れない。
少なくとも、実際のマッサージに行くより、こっちの方が効く。







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”The Birds”
1963年アメリカ
アルフレッド・ヒッチコック監督・製作

ダフネ・デュ・モーリア「鳥」原作

ティッピー・ヘドレン 、、、メラニー・ダニエルズ
ロッド・テイラー 、、、ミッチ・ブレナー
スザンヌ・プレシェット 、、、アニー・ヘイワース
ジェシカ・タンディ  、、、リディア・ブレナー
ヴェロニカ・カートライト 、、、キャシー・ブレナー


初めてである。アルフレッド・ヒッチコック監督物について書くのは。
TVの「ヒッチコック物語」はずっと見ていたし、アメリカ時代の映画作品には、結構親しんでいた。
特にサイコ、トーンカーテン、これ、、、それほど見ていないか、、、。
「鳥」はアメリカに拠点を移してから、かなり後期のものである。
彼にとって最後の方の作品に当たり、円熟の極みを見せている。

TVに録画したものを見た。
随分久し振りであった。
特撮に関しては文句なしである。
(最近の高度な特撮よりバックボーンがしっかり在る分、雄弁である)。

特に後半かなりの上空にいる鳥の視座からの街の俯瞰画像が広がる場面は、戦争映画の戦闘機のパイロットの視点等とは次元の異なる恐ろしい程の畏敬を感じさせられるものだ。
これを見ている主体は、一体何者なのか、、、!
主体なき視野であるのか?
これまでに見た映画で、このような絶対的虚無の恐怖が感じ取れるものは他にない。

また、鳥というものは、1羽なら気にもとめないが、それが少しずつ増殖してゆくにつれ、この上なく不吉な感情に煽られれるものだ。
ヒロインの腰を下ろす背後のジャングルジムの光景がまさにそれであり、いよいよのっぴきならない状況になる間奏曲にもとれる。
この映画は、数の魔力を大変効果的に使っていた。
ただひたすら大群で押し寄せる迫力だけではない。
車が出るとき、何の反応もみせずに地面を完全に覆って静観している彼らには、宗教的な威厳を覚えた。
シーニュの群れである。
やはりそこがヒッチコックである。


何故、鳥がヒトを襲うのか?
この作品、背景に人間中心主義的な分かりやすい理由などを一切設定しない。
その種明かし、説明がないところが、この作品を格調高い孤高のものとしている。
つまり、極めてリアルなものにしている。

サスペンスといってもSF設定であれば、やはり科学的根拠を示さなければならないハメになろう。
オカルトホラーなら、何やら(時空間的に)超越的存在の呪術によるものであることを示すことになるか。
だが、それによって、世界はたちまち虚仮威しの薄っぺらなものに落ち込む。

原因や理由など何においても、容易に決められるものではない。
TVなどで、評論家が犯罪者の犯行理由に対し、直様淀みない解説をし始めるのには常に呆れて寒々しくなる。
少なくとも当人は、自分が何故そんなことをしたのか、考えるほど判らなくなって、混乱を極めてゆくのではないか。
または、評論家の先生がそういうのだからそうしておこうと、丸投げしてさっさと降りてしまうかも知れない。
その方が無難で、周囲からも同意を得られるだろうし。
しかし、本気で考え出したら、答えなど決まるはずがない。
考える過程で、まず「自分」が解体する。
何において考えれば良いか、収拾がつかなくなるはず。
この世界は、様々なsigne(シーニュ)に満ち溢れているだけだ。

ただし、当たり前だが社会人としての側面から責任は問われる。
一義的な答えの用意は要請されるものだ。
誰にも納得しやすい分かりやすい物語へと折り合いをつけ、罰せられることになろう。
何であれ、法を犯せば罰せられなければならない。

ここでは、鳥だ。
ヒトも堂々と襲って殺している。
生徒たちを身を呈して守った女性教諭も殺された。
とんでもない連中だ。ヒトであれば容赦されまい。
やはり見ている側では自然に、何で鳥がこんなことするのかな、という疑問は湧起こる。
そして最後にはその理由が明かされるのか、、、
と、知らず期待しながら観ていたりするものだ。
劇中では、一度だけ被害に遭い避難している婦人が、ヒロインに対しあなたがこの土地に来てからこういうことが起きたのよ、と彼女のせいに決めつけたかのような暴言を吐いている。(ヒロインに思い切りひっぱたかれるが、そうかも知れないと少し思ったりもする)。

よくある、この手のサスペンス映画では、最後どんでん返し的に、それかよ!というような原因・理由が用意される。
ヒッチコックのこれは、先にも述べた通り突き放したまま、何も変わらず解決もされず、何も判明しないのだ。
ただ、車に何とか皆で乗り込み、家をそっと出てゆくだけ、、、。(しかもヒロインからプレゼントされた「ラブバード」の番を娘が膝に大事に乗せて、、、この無意識、何故か意味深ではある)。
終始、人間ドラマに鳥が些かも交錯することはなかった。
ヒトはヒトで結束したり、疎遠となったり、鳥は鳥の固有時により仕事をする。
ヒトにとって自然はそんなに生易しい飼い慣らせるものではない。
「ラブ・バード」の存在が引っかかるように仕向けてきたが結局、何かの暗示-シーニュにもなっていない。
ヒッチコックめ!

素晴らしいエンディングだ!
わたしがこれまでに見た映画のなかでも、最も説得力のあるエンディングである。
最初に発表された「ブレードランナー」(ディレクターズカット以前のもの)のエンディングより千倍はよい。
(と言うより比較にならない)。


ジャック・アンリ・ラルティーグ

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日中、ポカポカ陽気であったため、ベランダのいちごプランターの前で、思い切り寛いで本を見たいと思った。
文字を追うと、すぐにちょっとした単語に過剰反応して興奮し、落ち着いていられないのでドゥルーズとかは、やめる。
ロラン・バルトもダメ。モーリス・ブランショは多分眠る。ここで寝るのは危険である。

ということで、写真集を眺めることにした。
取り敢えず持ってきたのは、マン・レイアルフレッド・スティーグリッツロバート・フランク、ウォーカー・エバンス、アンセル・アダムス、ジャック・アンリ・ラルティーグ。
その他、リチャード・アヴェドンとか、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ダイアン・アーバス、そしてウジェーヌ・アッジェなどなど、、、大物が控えているのだが大判で重た過ぎるので、無理である。膝に置くと痛い。

選ぶまでもなく、ジャック・アンリ・ラルティーグにした。
書庫から運ぶ時点で決めていた。
思いっきりボケっとできる。

久々に見るラルティーグ。
純粋に、面白い。

大写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンとはかなり違う(笑。
勿論、ジャック・アンリ・ラルティーグにも「決定的瞬間」写真は数多い。
というか、それ狙いの写真ばかりが目立つ。
だが、ブレッソンに比べると、ギャグみたいな光景だ。
本人もそんなつもりで撮っているに違いない。
やはりアンリ・ルソーを想わせる。
だが、ルソーは素朴ではあるが、結構技法的な工夫を見出して描いているのだ。
ラルティーグは興味と好奇心に満ちているが、探求は感じられない。
少なくとも芸術家の苦悩など、どこ吹く風だ。
面白いシーンを切り取りたい、童心に近い「一心」が窺える。

単に”アンリ”つながりの連想をしてしまった(笑。
しかし、ルソーと比べると面白い。
彼には実にルソー的な、スポーツ写真がいくつもある。
ルソーの絵の下写真に思えるほどのものだ。
だが、ルソーはかなりの時間と試行錯誤を経てその絵を完成させる。
それは勿論、「絵」という形式であるための制作方法的な要請としてでもあるが、それだけではない。
構成・構図・技法などを考え、構想して制作している。(所謂素人絵描きのボンボワ達の素朴派とは、一線を画する。しかし紙一重的な部分が無いとはこれまた言い切れない、、、)。
ラルティーグは、動くものを見据えて、ここぞという時の運動神経勝負である。
釣りのようなものか?
構成的な静物・風景・肖像写真家の要素はない。
マン・レイなどのカメラレスの熟考された芸術写真からは、程遠い。

しかし、ではプロの大作家の写真で、これ程軽妙洒脱な楽しい絵を撮れる人がどれだけいるか?
と思うと、多くは重厚で壮麗な方向に洗練を重ねて向かって行ってしまう傾向が強い。
そう、重くなり、それに従い、ノイズも無くなる。

ラルティーグは、重力を自我で調整しない。
それを強靭なディレッタント精神で許さない。
微細な存在-有り様を全てそのまま、活かす(解放する)。
単に細かいことは、気にしないのかもしれないが。
しかし大雑把な性格で撮れる写真ではないのは明白だ。

この際、作家はひとまず置き。
作品は、必然的に(物理的に)色褪せるが、この写真のイデアは瑞々しさを失わないことが判る。
いや、はっきりイデアの存在する何かであると言えよう。
今これ以上語る準備は、脱力中のわたしにはないのだが、、、
ずっと、多くの脳裏に残る写真であることは、間違いない。

そしてやはり、作家が気になる作品群である。
彼ラルティーグにとって、世界はおもちゃ箱をひっくり返したような愉しさに満ちたものだったと想われる。
そんな世界とは、恐らく微細で多様で異質なモノ全てを面白がり愛する精神を前提とするはずだ。
そしてその強度を保ち、畢生ディレッタントで押し通せることは、超人(ニーチェの)に近いと言ってもよい。


アッジェも後で、ゆっくり楽しみたくなった。
写真集は、見始めると面白い。

Desert Music 砂と反復

Desert.jpg

”The Desert Music”
Steve Reich

"Different Trains"が、クロノス・クァルテットの演奏で、ホロコーストの経緯もあり部分的に耳には入っていたのだが、、、
「スティーブ・ライヒ」を意識的に聴いたのは、この”Desert Music”が最初と言える。
大変鮮明で煌びやかな衝撃を受けた。
曲構成が印象的で、ヘンリー・カウなど結構影響を受けていることが分かる。

大学時代に親しい友達から薦められて聴いたものだ。
彼女はピアノ科であったが、第二楽器がマリンバだった。
その関係もあろうか、ここでもマリンバがかなり聴ける。
この音世界には、たちまち引き込まれた。
わたしがフルートを少しばかり吹いているということで薦められた無調音楽には、正直辟易したのだが。
(フルートは入らないが、モートン・フェルドマンだけは、自分でもCDを買って聴き入った)。

砂漠というより、砂というものの本質に触れた気がした。
それは、海岸の砂でも砂漠の砂でもなく、わたしたちのその頃の先生でもあった國領經郎の砂丘でもない。
(埴谷雄高が彼を高く評価していたのは、物凄く意外であった。どこをどう気に入ったのか今もわからない。モチーフの砂関係でか?油絵なのに日本画的テクスチュアによる空間性においてか?しかし何故、砂だけでなく若い男女などを描き込むのか?)

The Desert Music
実際の「砂」であるが、まだ知らない「現実の砂」である。
砂は、わたしにとってぼやけた観念に留まっている。
他の多くのモノと同等に。
例えそれを名指しても、それがあるのだかないのだか覚束無い、そんな世界に大方暮らしている。
やはり、音楽を聴くと、その真実味がよく染み渡ってくるものだ。
抽象の方が、現実的であることが分かる。

BBCシンガーズは、ロック界における最高傑作と言えるプロコルハルムの”グランドホテル”ですでに聴いてはいたが、ミニマルミュージックの代表格の作曲家の曲で聴くと、また違う。
エモーショナルな感覚は微塵もなく、物質的で無機的な響きが幾度でも回帰してくる。
それもひと粒ひと粒の砂の運動として。

彼らには、反復が馴染む。
砂というものは、反復の象徴である。
いや、反復そのものか。
そして砂漠とは何か?
それこそ無限反復の厚みそのものであろう。
この全体の響きと声-コーラス?は、大変原初的であると同時に、終わりの光景だ。
ヒトは影すらない。
しかも象を結ばない。結ばせない光景であり続ける。
そんな強度をもっている。
宗教を超えたオラトリオを感じる。

マリンバ、弦、(金)管楽器、BBCのボーカりぜーションによる大きなアンサンブルである。
ライヒにはこういう構成が多い。
聴いてるうちに、珍しくうたた寝をしてしまった。
夢の不安と安らぎの両者が抽象の砂風となって立ち現れ、吹き付けては去ってゆく。
これが何千回と繰り返された気がする。


遥か遠方の何処かの地球の光景が思い浮かびそうになるが、その前に眠ってしまう。



Living In the Heart of the Beast

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ヘンリー・カウを聴いていた。
2009年のライブで、ダグマー・クラウゼのボーカルに、ロバートワイアットのスキャットが絡む。
凄まじい美しさだ。
最高の贅沢だ。
最も好きな現代音楽の曲の一つである。

ライブというのは、つくづく凄いものだと思う。
K・クリムゾンやLou Reedもそうであるが、極めて微分方程式的な生成が連動してゆく。
ライブとは、彼らのような存在にとっては特に実験の要素が強いのだろう。
人生そのものが実験ではあるが、、、それを最大限に増幅し優美に抽象化した波動。
その公開-共振の場である。
カオスモスというのか、これを、、、名付けない方がよいか。
ここでは高貴な野生が、次々に目覚める。
わたしと仮に呼んでおくこの場に、蠢く何兆もの生がそれぞれ騒めき立つ。
よいものに触れたとき、ほとんど「わたし」は消え失せる。
それが「ほんとう」なのだと。

ちなみに、わたしのiTunesをそのままほったらかしておくと、次にアルビノーニのアダージョへと引き継がれる。
カラヤン・ベルリン・フィルのものだ。
それが終え息を潜めた瞬間、何故かコルレリの「クリスマス・コンチェルト」が始まる。
究極の愛らしさ。
ビバルディより前の作曲家である。
であるから、バッハより更に前に生きていた。
しかし、その旋律の圧倒的な美しさは、厳格な対位法にさほど縛られていないせいであろうか。
古さ、固さを感じさせない。
大いなる予定調和と健康を感じ、何とも清々しい。
野生の小さなスミレに触れた時の感触に近い。

そのままにしておくと、ビバルディになっていた。

音楽の効用は、身体を「自己」から解き放つものだろう。
それが、何であっても、、、。
せいぜいビバルディまでで良かった。
このまま、進んでいくと、確かモーツァルトが待っている。
(わたし)はモーツァルトのマイナーにやたらと煽られる。
クリムゾンの二期とモーツァルトのマイナーには、過剰に反応してしまう。
今日はやめる。

(わたし)がいなくなるのはよいことなのだが、その代わり多くのモノが色めき立つのだ。
ある意味、身がもたないのだが、快感であることは理るまでもない。
ギリギリまで横溢する。
このディテールを、きっと強度というのだ!






遠く高く離れる

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いくらでも、奇怪化していても、そこに不自然さをもたない絵画がある。
無調でないのに、いつも耳に新たに響く音楽がある。
(12音階であれば、紋切り型ではない訳ではない)。
象形からの解放が、如何に可能であるか?

言い換えれば、新たな関係が如何に生まれるのか?
新たなことばが。

生命に、、、
目標などない。
方向もない。
価値もない。
かたちもない。

生命で有り続ける生命。

震え続ける生命。

存続する生命。

生成そのもの。


そうだ、David Bowieが地球に落ちてきて、何故変身をし続けたのか!
絶えず異なる何かに変わり続ける。
(成りきっては、ならない。ただの名付けられる誰かになってしまう)。
顔のないエイリアンに、または頭部という身体しか持たないベーコンの絵に。
そしてもはや、形体ーことばが尽きた時に、天に戻る。
そうだったのか、、、?
いや、最初の一撃以上の何かを示唆して逝ったはずだ。
Lou Reedを見出したのは、David Bowieであった)。
確実に継ぐべき何かを渡して。


確かに時空間とは、受肉の形式だ。
リレーと反復を生む。

西暦何年何月何日と振られて、初めてわたしは何という病名が付され、同時に何層かの社会的な位置づけも更新された。
痺れは一体いつから始まったのかも書類に記されている。
全ての来歴は日付にあり、理解されることはないが何であっても承認される。

いや、予め全ての項目は書き記されてきた。
無限反復帳に。コズミック・レコードに。アーカシア年代記に。
わたしはその一片を、わたしとして体現してみたに過ぎない。

逸そ日付だけを毎日更新しても良い。
河原温みたいに。

それは、しかしいつから起きていたのか?
いつまで続くのか?
(しかし、知ってのとおり傷がその日付を曖昧に滲ませる)。

この身体はどこから来てどこにゆくのか?

時空とはそいういことだ。
何かに似ていると思えば、映画に似ていた、、、。
いや、舞台劇でもよい。
ジギー・スターダストのひとつのステージにも甦てっゆくだろう。


それは眩く灯る遠くの小さな出来事に見える。
認識しなければならない。
見渡すには距離が必要だ。
自分が出ている映画を見なければ。



ニヒリズムの足枷

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ニヒリズムが常に足をすくう。
ニーチェのいう、「肯定」の意味を忘れていた。
ニヒリズムに裏打ちされた感覚は、それだけで思想を不活性にする。

所謂、権力の他に、ニヒリズムの浸透を警戒しなければならない。
全ての「価値」を捨て去ること。
あらゆる概念にルサンチマンは影となってとり憑く。
宇宙の原理であるかの如くに。

それに躓いてはならない。


多肉の「乙女心」の葉の陽に映えた碧い燦きに、それを直覚した。
ことばではない。
生命である。
生命の肯定である。

彼の、生命を無条件に肯定する精神-思想である。
そこには、もはや「人間」などということばは、あらゆる規範とともに、いや象形とともに消え去っている。
人間主義を完全に超克し。
一切に憤りをもたない強靭な精神を彼は超人と呼んだ。
神でも人間でもない、フーコーの予言した人間の終焉とともに現れる存在である。
パラダイムの転換などというレベルでは勿論ない。
それは文化ではない。

生命である。
しかし有機体ではない。
象形から解かれている。
潜在し続け、罠に掛からない。
それは文化ではない。
あらゆる制度を掻い潜る。


常に生命に無意識に根を張る思考である。
そこに有り得る運動は。
あの永劫回帰!
そうだ、差異と反復か。

改めて気づいた。


それは文化ではない。

純粋な生命体であり、強度である。


パニックルーム

panic room

”Panic Room”
2002年アメリカ
デヴィッド・フィンチャー監督

主人公メグにジョディ・フォスター
娘サラにクリステン・スチュワート
強盗バーナムに『ラスト・キング・オブ・スコットランド』で圧倒的なアミンを演じたフォレスト・ウィテカー


当初主演は、ニコール・キッドマンが予定されていたらしい。
この映画だと、ニコールの方がもしかしたら適任であったかも知れないが。
それに合わせて子役もクリステン・スチュワートに変わったとか、、、なぜかな?
ただやはりジョディ・フォスターとフォレスト・ウィテカーが出るとその風格だけで有難い映画となる気はする。

相変わらず2人とも迫真の演技である。
クリステン・スチュワートだって、なかなかのものである。
線の細い知的な美少女がまさに役にピッタリであった。今現在若手では最もギャラの高い女優らしい。
フォレスト・ウィテカーは、『ラスト・キング・オブ・スコットランド』の驚異的な怪演から見るとかなり押さえた葛藤を抱える知的で内省的な役柄である。こちらも似合う。(ただあの「ラスト、、、」の時の異様な凄みはなんだったのかと、これを見てつくづく思う)。
ジョディ・フォスターは相変わらず何をやっても、凄い。言うことなし!


パニックルームというシェルターは、わたしも欲しい。
多くは地下ではなかろうか?
核爆弾にも耐えるスッペックを誇るレベルのものが結構あるらしい。
必ず銃器も備品にあって、自分のシェルターに逃げ込もうとする他人を撃ち殺す為の必需品だそうだ。
(アメリカ製品において)。
しかし、こういう部屋は何かワクワクするものがある。
全室モニター録画出来るビデオパネルもあり、特別回線の電話機、パソコン端末があれば、基本情報確認やアウトプットにも問題ない。
最近は発電機やバッテリーの性能も上がっており心強い。
そう、ここではレーザー感知システムが行き届いていたが、それもセキュリティ上、大切な部分だ。
但し何ヶ月も篭城できる必要が生じるはずだから、適度な広さと優れた空調システムと風呂は絶対ないと困る。
ミネラルウォーターとチョコやクッキー以外に、入浴剤とトイレットペーパーは是非タップリストックしておきたい。
宇宙食みたいな保存の効く食品があれば楽しいだろう。(B級SF映画の宇宙船クルーみたいな)。
数冊のじっくり読める分厚い本も必需品だ。こういう時は、きっと深く沈潜出来るはずである。
またせめて、エア・プランツくらいは置いておきたい。無言の会話が弾むことだろう。
植物の在る無しでかなり生活の質は変わってしまう。(「サイレント・ランニング」は極端であるが)。

こんなシェルターがあったらの話である、、、。
避難所なんていう実用的なものではなく、少年期の秘密基地の大人版と、なり得るであろうか?
これで満たされなかった幼い頃の夢の代わりとなるとは思えないが。
場所が異なることが、何より決定的である。
が、これは原理的にどうにもならないこと。
ともかく非日常的でワクワクできる場所であれば良いとしよう。所謂、別荘ではダメだ。
単なる空間ではなく、時間性こそが重要だからだ。

そこにばかりにフォーカスして妄想してしまった(笑。
さて、ドラマはシングルマザーになったばかりの教授メグと糖尿病で血糖コントロールの必要なその娘サラが、パニックルーム付きの邸宅に引っ越してきた夜にいきなり3人組の強盗に襲われるというもの。
パニックルームが文字通りパニックルームとして機能し、やっぱりパニックルームのある家に引っ越してきて良かったわね、という訳には行かないスリルに富んだ(鬼ごっこ+かくれんぼ的)映画である。
まさにパニックルームのおかげで、両者・お互いが散々な目に遭うのである。
強盗団の目当てはパニックルームの床下金庫に隠された多額の銀行債なのだ。
そして彼らの中の、バーナムはパニックルームの設計をしセキュリティサービスを行っている会社の人間であり、誰よりもその部屋の構造に通じている。しかし、凶悪犯ではなく、生活に困窮した子供思いの人格はある人である。(それが話を面白くしていく)。
メグは明晰な頭脳でそれに対抗する。(ジョディは常に賢い役である)。
このシチュエーションを最大限に活かしたお話で、楽しめるものとなっている。
ジョディとフォレストとクリステンが脚本以上のものに話を引き上げている。
最後の情けが仇になってしまうバーナムの唖然とした表情とそれを眺めるメグの顔がよい締めくくりになっていた。


話も緊張感が途切れずよくまとまっており、キャストのよさからも充分に観て楽しめる映画であろう。
この監督の映画としては、「セブン」「ゴーン・ガール」であろうが。


でもやはりジョディであれば、あの名作「コンタクト」が懐かしい。
あそこでのジョディ・フォスターは絶対であり、彼女の他にあのヒロインは考えられない。


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死刑台のメロディ

Sacco and Vanzetti

”Sacco and Vanzetti”   ”Sacco and Vanzetti”
1971年
イタリア フランス映画
ジュリアーノ・モンタルド監督
ファブリッツィオ・オノフリ脚本
エンニオ・モリコーネ音楽
ジョーン・バエズ主題歌 勝利への賛歌(Here's to you)

ジャン・マリア・ヴォロンテ 、、、バンゼッティ(イタリア移民の魚行商人)
リカルド・クッチョーラ 、、、ニコラ・サッコ(イタリア移民の靴屋)
ミロ・オーシャ 、、、ムーア
シリル・キューザック 、、、カッツマン
ロザンナ・フラテッロ 、、、ローザ

「怒りの葡萄」を何処にしまったか見つからずこれを観た。
強盗殺人事件の冤罪事件を忠実に描いたものである。
アメリカの事件であるが、作ったのはイタリア・フランス。
あのイタリア・フランスがよくここまで、タイトにストイックに作ったもんだ。
言い回しは凝ってはいるが、洒落やユーモアの遊びもない。

この当時はこのような政治的謀略による冤罪事件がアメリカには蔓延っていたようだ。
アナーキスト、共産主義、移民への過敏な拒絶反応が露骨に見られる。
赤狩りの影響を受けた映画も多い。
確かに異様極まりない光景である。
しかし今はもっと巧妙に不可視な形でファシズムは染み渡っている。
その劣悪さは更に増しているといえよう。
大方自分が実際にどんな目に遭っているかすら気づかずに抹殺されて逝く。
ヒト-存在として一度も生きずに滅んでいるなら、そもそも生まれる意味がない。
まさにそうなのだ。
まずそこがヒトとしての、前提となろう。
全ては、自覚にある。


本作の力強さはドキュメンタリータッチで描ききっているところにある。
バエズの歌とエンリオ・モリコーネの音楽以外に演出らしいものはない。


1920年アメリカ合衆国マサチューセッツ州で起きた、イタリア移民のサッコとバンゼッティの冤罪事件。
有罪とされたのは、靴職人のサッコと魚の行商人ヴァンゼッティである。
殺人及び窃盗によるものではなく、われわれはアナーキストである罪で殺されるのだ、とバンゼッティは訴える。
民主主義という主義を守るために殺される、と。

わたしも100%アナキストである。
今更言断るまでもないが(笑。
当然である!!
中庸を生きようとするその仕方である。
何が自由主義の最大の敵だ?!
その主義こそ叩き潰さなければならない!

ハーバード・リード卿を改めて思う。

それはそれとして本作、単純に検察対弁護側に収まらないところを精緻に描こうとしているところが良い。
全て政治的な思惑で動いている事を晒すことが、テーマを際立たせるポイントであるから。

話のほとんどが法廷での闘争場面である。
(弁護士が丹念に記録や証拠、証言を洗い直す場面も強調されるが)。
検事側は、当然でっち上げと強要偽証の積み重ねで強引に迫るが、弁護側も政治的な対抗によるものでしかない。
サッコはそれにすぐに気づくが、すでにどうにもならない。
「だまされた!」両者に対する怒りが突き上げる。
しかし歯車は動き始めたら止まらない。
最初に捉えられた時点でもう回転の向きは決定済みであった。
三権分立がどうとかいうレベルの問題ではない。
人々の内に巣喰うファシズムの発動の光景である。

サッコとバンゼッティは世界的に名を売る事になる。
思ったより情報の隠蔽や歪曲の操作が働かなかった事に驚く。
謂わばシンボルだ。そう、シンボルに過ぎない、、、。
熱狂的な支援者も強固な弾圧者も増えた。
(アインシュタインも確か異議を表明していたはず。請願書もアメリカの全ての大学から寄せられた)。
勿論、時の人になることなど本人たちの望むところではない。
しかし、そうなってしまった自分たちの存在自体を持ってなすべき意義は心得ている。
終盤の死刑の前に述べるバンゼッティの演説である。
「わたしは犯罪を無くすために闘ってきた。その犯罪とは人が人を搾取することである。」
「だからわたしは、ここにいる。」
「アナーキストという罪でここにいるのだ。」
「皆さんに礼を言おう。われわれは一生かかっても、これ程人間の理解の為に役に立つことはなかったはずだ、、、」
2人のアナーキストが世界に運動を巻き起こす結果となった。
強盗殺人犯では、一瞬でも人を活性化することはない。

しかし、その大分前に語るつもりもなく吐露してしまうサッコの心情により共感を覚える。
それは、溢れ流れ出る感情の言葉である。
勿論それすらも単なる体制批判、反体制思想として取り込まれ象形化される。
ことごとく言葉の全てが紋切り型に編集し直され、社会は退廃し硬直を極めるだろう。

バンゼッティの方は政治的に利用されることにも甘んじようとする気持ちに揺らぐが、結局拒否する。
最後はこころの尊厳に行き着く。
最終的にサッコのように黙って取り合うべきではなかったと述懐する。


最も印象に残ったのは、死刑が決まって留置されているサッコを妻と子供が面会に来たシーンである。
彼が無念を妻に訴え、妻は控訴の可能性と世論の高まりを希望として彼に伝える。
しかし彼はもう何か(主義、同志とか理想も含めて)に縋る気など毛頭ない。
「イタリアに帰るはずだったのに何故ここにいるのか、、、。」
すでに彼には妻と息子しか確かなものはなかった。
しかし別れ際、子供にもっと顔を見せてくれと呼びかけるも、息子は後退りし父を異様な目つきで見るだけなのである。

、、、後に何が残る?


最期に彼は最愛の息子に手紙を書く。
「へりくだって隣人を思いやれ。弱い人、悲しむ人を助けよ。迫害される人に手を貸せ。彼らこそ真の友人だ、、、。われわれの信念は受け継がれる。忘れるな、、、」

流石にこの時期の映画(と言うよりお国柄か)、電気で黒焦げになる即物的シーンは映さなかった。
「グリーン・マイルズ」では、見られたものだが。この映画ではそこは必要ない)。


また、裁判員制度の危うさというよりも完全な限界が晒されている。
こんなシステム(茶番)を日本は採り入れこの先もずっと続けてゆくつもりか?







風林火山

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1969年
稲垣浩監督

井上靖原作

実は、西部劇か昔のアメリカ映画を観ようと探していたら、これがあったので。
上杉対武田のドラマ・映画は以前何となく見てはいたが、「風林火山」は、初めて見る。
恐らくそうだ。
(どちらかというと上杉側から見たものや川中島にフォーカスしたものが多いように思えたが)。


「風林火山」
佐久間良子演じる由布姫が異様に良かった。
役柄上も一番、惹きつけられる。
この時代の「女性」ではなく「女」としての困難と業に身を窶す姿が鮮明に描かれていた。
共同体の利益のために利用・交換される女の運命が浮き彫りである。
そこにかなり当時としては突出した個の意識を持った女性である由布姫。
あえて敵の子を産むことで運命への復讐を誓う。
自然に彼女のこころに寄り添い見てゆきたくなる映画である。
その鋭く艶やかな無常観を湛えた存在感は、生死をかけた戦いに暮れる武将の琴線に強く触れること間違いない。

「武士」という少数エリートとして生きる男も大変である。
三船敏郎演じる、山本勘助の野望と由布姫への思慕の情との板挟み状態で苦闘する姿には、とても共感できた。
勘助は常に大きな理想を掲げて非情な路を突き進む人間として描かれている。
美や愛に対しての葛藤も当然尋常なものではなかったはず。
しかしこれほどドラマチックでなくとも、ヒトは引き裂かれながら生きるものである。
この存在形式は普遍だ。
その引き裂かれながら耐え続けることがそのまま生の戦いでもあろう。
斬り合いそのものよりハードかも知れない。

主人公が重厚な存在感をもつ三船であることは、やはり大きかった。
佐久間と三船が一際強いオーラを放ち、長い尺が滞らずにしっかり流れたと思われる。
キャストは大事である。

他にも豪華キャスト陣が達者な演技を魅せていた。
そのなかでは中村 嘉葎雄の板垣信里は魅力的であった。
父が討ち死にしてからの、それまで隠してきた洞察力と認識を遺憾無く放射し高い志を感じさせる凛とした姿は美しかった。
中村勘九郎の武田勝頼の無邪気な演技には微笑ましいものがあったのだが。
殊の他ポッチャリしており、快獣ブースカみたいだった。
由布姫の息子にはちょっと見えない。
実はこの映画で一番びっくりしたところだ。
(中村勘九郎氏はその後、良い歳のとり方をしたのだろう)。
緒形拳の槍持も面白い役どころであった。
その規範をはみ出た自由な気質は、結構由布姫と同等のものであったように思われる。

中村錦之助の武田信玄には、終始違和感があった。
連戦連勝の知将にしては、そこらのゴロツキのような匂いが漂う。
山本との関わりの中で、さして成長する感じでもない。
以前、映画かTVドラマか忘れたが、中尾彬が信玄入道をやっていたが、こっちの方がすっきり入る。
一癖も二癖もある人物像の仕上がりがそれらしく思えた。
もしかしたら、先入観として今回見るのを邪魔していたか?


終盤、由布姫が勘助に、もうそなたと話すことはこれが最後でしょう、と語る場面が特に印象に残るものであった。
結核にでも冒されていたものか?
すぐさま彼は、そのときはこの私めもお供いたします、と語る。
傍目に見れば、忠臣としての礼儀を返すように見えて、精一杯の自身の心情を訴えていることが分かる。
勿論、由布姫も充分に分かっている。
今生においては、ふたりの距離は絶対であるため、こころの繋がりは濃度をいや増しに増す。

現在はどうであろう。
見かけは、全てが自由に映る。
しかし関係性は、硬化し不可能性を増すばかりだ。
(勿論、われわれの意に沿わない(気づかない)関係性が何重にも瞬く間に張り巡らされてゆく)。
ディスコミュニケーションの閉塞性と弊害は生半可なものではない。

更に強い彼の野望を支えていた、勢力ー権力によって平和を勝ち得ることは、すでに不可能であることが晒されている。
しかしその意思は変わらず活き継がれており、場所を弁えず虚しく爆発しつづけている状況だ。
ここで描かれる山本勘助が考える勢力争いは、あからさまなものに限らずスケールを変え質を変えあらゆるものー場所に潜在している。
今はその不可視な部分がより恐ろしい。
向こうの海まで武田の勢力が伸びれば日本は安泰だ、って余りに安易で安直すぎるが、何故か清々しくもある。
勝頼の元服姿は、家臣のサービスで模擬のその姿を脳裏に焼き付けることはできただろうが、上杉謙信の首をとること、天下をとることは、叶わなかった。
大きな夢というよりも誤算である。

また、山本勘助自体の設定にかなりの無理があり、よくここまでなんとかまとめたと思う。
(やはり主役は上杉謙信か武田信玄で行ったほうが、しっくりくる)。
上杉謙信がセリフのない石原裕次郎であった。


明日は、アメリカの古い映画を探して観たい。
「怒りの葡萄」とか、、、。



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要塞警察

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Assault on Precinct 13
1976年アメリカ
ジョン・カーペンター監督

本作はジョン・カーペンターの最高傑作とも呼ばれるもの。
こっちのほうも観ておかなければ、と思ったのだ。
これは『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス監督)へのオマージュとして作った作品であると。

確かに西部劇風の設定と展開である。
巧みにストリート・ギャングと警察との抗争にすげ替えたものだ。
警察署ごと地区移転を図らなければならないほどの荒廃した無法地区が舞台である。
(無法地区・無法者は西部劇に欠かせない)。

ギャング対警察といっても、準備万端で突然襲ってきた多数のギャングたちと調度移転をして後処理のため残っていた少数の警官との戦いである。サイレンサーの不意打ちで、最初のうちに警官はほとんど射殺され、残ったのはその日に空になる警察署の電話番に送られてきた刑事と一時的に収監された凶悪犯ナポレオンだけである。(もうひとりは脱走計画に失敗し、あえなくギャングに殺される)。他に、肝の据わった凛とした女性職員もいるが、初っ端に腕を撃たれ負傷している。(しかし銃をバンバン撃ってギャングをやっつける頼りになる女性)。
それから逃げ込んだ民間人ひとり。

この男がそもそもそこに助けを求めて入ってきたことで、標的にされることになったのだ。
しかし、民間人としては命を狙われたら、警察に駆け込んできて悪いはずはない。
この男は、ギャングに可愛い娘を直前に射殺されているのだ。
射殺した犯人を銃で撃って殺したまではよいが、その報復に連中が多勢で襲ってきたとくる。

圧倒的な武力の差と心の余裕の差が歴然としてある。
特に警官たちはこの事態がにわかに飲み込めない。
このたまったものではない、という状況を如何に乗り越え逆転を図るかが、映画の見所となろう。
『リオ・ブラボー』という映画は見てはいないのだが、西部劇っぽい展開である。
なんせ、警察署の玄関に、わざわざギャングが「皆殺しの旗」を置きに来てから本格的に始まるのだ。

特に凶悪犯の死ぬ方の男は、彼ら「ストリートサンダー」の実態を知っているためビビりまくる。
警察署もほとんど引越しが終わっており、銃器の備えも乏しい。
電気と電話も移転の為切れることになっている(がその前にギャングに線を切られてしまう)。
応援は呼べないうえ、周囲は地区移転の為、人がいないので異常事態が感知されない。
警官たちもそれでようやく、自分たちがのっぴきならない場所に立っていることを知るに及ぶ。
警官たちといっても警官は結局一人となっており、急な都合で護送されてきた2人の凶悪犯を檻から出して手錠を外し、共にギャングと戦う事になる。都合上、これ以外に彼ら自身の身を守る術はない。

凶悪犯が良い人でなければ、大変である。
特に、その筋では一目も二目も置かれている、スタイリッシュな殺し屋ナポレオンは、腕前を発揮し知恵も貸してくれる。
しかも、警官より物事に対し、シビアで楽観主義ではない。
そこが良かった。こんな時に多少とも甘さが出たらおしまいだろう。
何とか署内における信頼関係は築くことができ、少ない弾丸で敵に応戦することになる。
こんな時、署に飛び込んできた父親がシュワルツネガーであれば、充分過ぎる活躍をしてくれるはずだが、その市民は終始毛布を被って怯えている始末。
しかし、それが普通だ。シュワルツネガーには、銃弾は当たらないお約束になっている。
庶民が出たならたちまち蜂の巣だ。
じっと寝て待つのがベストな選択である。
(結局この人は、生き残った僅か4人の中の一人となる。ここに教訓すら感じる)。

結局、ナポレオンの言う通りに地下室に身を隠し、狭い通路をやって来る連中を狙い撃ちにし、最後は刑事のアイデアで充分に通路に呼び込んだところでアセチレンガスを爆発させ一網打尽とする。女性職員も殊の他勇敢に立ち向かい、ナポレオンを感心させる。
面白かったのは、ギャングたちが屍体の処分や車の位置を速やかに戻してしまうなど、周囲に一切感知されない光景をすぐさま作ってしまうことだ。(銃はサイレンサーだし)。これでは、パトロールの警官が通っても気づかれない。
ナポレオン曰く、「やつらは働き者なのさ。」
確かに組織集団の恐ろしさが身に滲みる。

何とか作戦も成功し、ギャングを片付けたところに、呑気に救援のパトカーが騒ぎを察知してやって来る。
刑事とナポレオンにはその頃には友情が芽生えており、女性とナポレオンの間にはちょっと恋愛感情も窺える。
「お前はカッコつけるな!」
「だからナポレオンと呼ばれるんだ。」
イマイチよく分からないところでもあるが、ナポレオンは確かにカッコよかった。


考えてみれば、このようなクライムサスペンスは、どれも西部劇の影響を受けている、と言うか系譜の中にいると思うのだが。
この作品が、『リオ・ブラボー』の下に書かれているのなら、この流れは脈々とクライムサスペンス作品群を貫いているといえまいか。

無論、「真昼の決闘」の流れも途絶えることはない。
(おおっゲーリー・クーパーとグレース・ケリー!)
寧ろそっちの方が真実味はあり、今では河幅が広がっているように見える。


随分と、「ダーク・スター」からは遠くに来た感のある見応えの作品であった。


ダーク・スター

dark star
こういうパッケージ、、、

” Dark Star”
1974年アメリカ
ジョン・カーペンター監督

何ともすごい映画である。
この映画を見ているうちに、脳裏に浮かび上がったのは、未だその作品を見るに至っていない迷(名)監督エド・ウッドである。
きっと、彼ならこんなスペース・ファンタジー作ってしまうのでは、、、と思ったのだが、実際は更にぶっ飛んでいるらしい。
ますます敷居が高くなった。

しかし、これも大したもんである。
ジョン・カーペンターの初仕事であるそうだが、それにしてもと思い確認すると学生時代の作品だと、、、。
学園祭のドタバタ気分の乗りで作ったようなものなのか?
(しかし商品として出す際にリメイクはされているらしい)。
タルコフスキーの「ローラーとバイオリン」も彼の学生時代の作品であるが、極めて高純度の傑作であった。
作品に向かう姿勢というか、位置づけがひどく隔たる気がする。
これ、まさか卒業制作ではなかろうな、、、。

この作品は、大学校内を適当に使って予算の心配をせず面白いもん作ろうぜという感じで制作されたと思われる。
しかし、面白かったのは誰より作った本人たちであろう。
こちらも、そんなつもりで見る分には悪くもないが、知り合いの息子の作品を学園祭でノルマで見させられる気分にもなる。
道具立てや諸準備などの制作費は、ほぼお小遣い程度で済んだだろうか?
本も何というか、子供向けSFであっても、それはないという類のものである。
いや、子供対象なら真っ当な物理を下敷きに描かなくてはならない。
まあ、真に受けて誤学習するほど緻密な出来ではないので心配ないが。
これは、あくまでも大学生のパーティーの余興と言える。

宇宙のどっかの星で捕まえたエイリアンが、キャンパスに転がってたであろうビーチボールに手(足か?)をつけただけのものである。(これは笑える域を超えている)。それが変な悪戯をして船員を困らせるが何をしたいのかは意味不明なのだ。
その悪さが宇宙船に致命的な損傷を与えることとなる。(伏線もバッチリ?)
かなりの尺を取った、エレベーターのシーンは一体何なのか、さっぱりわからんが、廊下でも使ってフィルムの角度を変える映像を是非とも撮ってみたかったのだろう。
宇宙空間があたかも空気が充満しているような星が湿って瞬く光景。
その光景を眺めるのが好きな孤独好きの内向的で要領の悪い船員と粗野でいい加減な船員。
この宇宙船かなり深刻なトラブルが発生しても、ロックを聞いていて呑気に構えているのだ。
彼らの学生生活そのものにも思えてくる。
そう、始まって早々彼らは地球からの支援を予算削減から打ち切られたことを知らされていた。
何か最初から諦観に満ちたアナーキーでファンキーな雰囲気・感触は確かにある。
大学生活に何処かついてまわる孤独な自在感というか、、、。

それにしても、どこを利用したのか異様に狭苦しい変な並びのコクピットだ。
船室(休憩室?)は、モロ散らかし放題の自分の部屋の再現か?体育館の倉庫かい。
何処であろうと、少しはそれらしく作って見せてもよかろうに、、、。
それから冷凍保存された事故死したという船長。
船体が爆発寸前に真面目に彼に助けを求め相談にいく船員。
船長も何故か受け答えをしてしまうのだが、まるで要領は得ない。
(そりゃ死んで冷凍になっているはずだし、、、)。
また何故かAI化して誰の言うことも聞かない核爆弾を船員が外に出て、デカルトもどきの意味不明な説得を試みたり、、、。
コンピュータがまた説得力に欠けるデパートの店内放送みたいなやつ。
(これで不真面目な奴が真面に聞くか?)
これは、ファンタジーなのか?
ナンセンス・コメディーなのか?
何なのか?
確かに荒唐無稽で不条理なのだが、一笑に付しておしまいという代物でもないのだ。

実はこの作品も早回しでさようならしようと思い始めたのだが、最後のサーフィンをしてどこかの星の重力に引かれ衝突してゆくところで、この作品がカルト映画として、密かに?見継がれていることが少し分かってくる。
最後の方は飛ばさなくてよかった。
なんせ、核爆弾が船内で爆発したというのに、取り敢えず船外に出ていた者は生き伸びており(船長も生きていた!?)、最後にサーフィン好きな船員が船体の破片を板にして乗り、どこかの星の重力に引かれて飛び去って逝くという、究極的に物悲しいエンディングなのである。(もう片方の孤独を好む船員は最後までロマンに浸ってどこぞのピカピカ光る星に取り込まれて逝く)。

ここにブーツストラップされ、この作品が唯一無二の孤高のカルトたり得ているような気がする。
見終わって、時間を無駄にしたという気が不思議にしてこない、清々しさなのだ。
下手をするとまた見てみたくなるような、嫌な予感までしてくる。
何かサブミナル効果を巧みに使われた疑いも持ってしまうのだが、、、。
そこまで手の込んだ作品ではない。


結局、不可思議な魅力というものを味わえる逸品であった!
時間と心に余裕のある方には、ちょっとオススメしたい作品である。
(そうでない人に下手に勧めでもしたら、殴られかねない)。


呪われたジェシカ

Zohra Lampert
”Let's Scare Jessica to Death”って、なんだそれ?
1971年アメリカ映画
ジョン・ハンコック監督

題を見るとおフザケものに思えるが、真面目な低予算映画である。
ジェシカ(Zohra Lampert)の如何にも精神を病んでいるというわざとらしい笑顔の表情と内面の声で印象的に話が進む。
彼女は絶えず所与の表象に対し自問自答するほど脆弱な精神状態であるが、「回転」の家庭教師は、ヒステリックな攻撃性を外界に向け続ける。
ジェシカは精神の病を自覚しており(療養生活のため田舎に来たのだ)、自分の感覚の正当性を疑いつつ生きざる負えないが、彼の家庭教師はその点、徹底的に無自覚であり自尊心に支えられて生きている。
しかし基本的に「回転」の映画世界と同様の心理的恐怖が描かれてゆく。
ともに主人公の視座から全てが語られる。
「回転」は世話人による屋敷のエピソードからスウィッチが入るが、本作の主人公ジェシカは幻惑モードで均衡を欠いたまま水面に浮かび続ける。

囁き、人影、購入した屋敷の前の住人の不遇の死のエピソード(必ずこれだ!)、水中に潜む(水を介した)不安、そして孤立化(それは同時に相手周囲の取り込まれも示唆する)
完全に閉じた話の構造は同じだ。
特にこの作品はあからさまに最初と最後が繋がる円環構造である。
湖畔にて、ジェシカのモノローグに始まりモノローグに終わる。いや繋がる。

このような非スプラッター手法のホラー系譜がしっかりあることを知った。
しかし、こちらは「回転」のような様式美は意識されてはいない。
その分、閑散として偏狭で冷たい田舎町の人と自然が演出に深く溶け込んでいる。
また、正体不明の吸血鬼が村人を取り込んでいるらしく、皆が何処かに包帯をしてる。
この包帯ー傷が彼女の幻視・幻聴(人影や囁き)と現実を接続し続けていく。
さらにこちらの映画では、屍体が忽然と現れては消える。
(これでは当然、主人公の孤立・混乱はド壷にはまる)。
そして身近な者までその餌食となる。

「これが現実に起こったこととはとても信じられない・・・これは夢?それとも悪夢?狂気か正気か、もう私には分からない・・・」
観ているものも、ほぼ同感であろう。

これでは当分岸に上がれまい。


この種のホラーで無くてはならない、霊の存在とは何か?
この映画を見たあとで、考える気になれないのだが、、、。
何にしても、自らの死に納得できない霊が、この世に可視化される(場所を持つ)資格を得るようである。
それも特定の個人に対して。
または、一定の条件(物語)が揃えば、自身のうちに霊の姿を可視化する特権をもつヒトがいる、ということか。

どちらにせよ、特殊な体質をもつ人が対象である。
と言うより、そのようなモノを見る人がまさにその人であろう。


何れにせよ、われわれは映画で呑気に楽しんでいれば良い。


Zohra Lampertの病的な演技はなかなかのものであった。
特に貼り付けた笑顔はそれだけで、何かを呼んでしまいそうである。
「霊障体質」という言葉を思い出した。
(霊感商法でかつてよく流行っていたものだ)。




回転

kaiten.jpg
"THE INNOCENTS".
1961年イギリス
ジャック・クレイトン監督
ヘンリー・ジェイムス原作

これは所謂怪奇譚なのか?
デボラ・カー扮する家庭教師の妄想による心理劇なのか?

死んだ召使と家庭教師の前任者の亡霊が子供たちにとり憑いた為に巻き起こる悲劇なのか
家庭教師の統合失調症的な変容があどけない兄妹を追い詰めてゆくのか
と思いつつ見始めたが、前家庭教師の亡霊が座っていた場所を見ると水滴(涙?)が紙に滴り落ちている。
現実も幻想もなく染み込み広がってゆく超自然的精神界が稠密に緊迫感をもって香り高く描かれてゆくことにただ惹かれてゆく。


遠い呼び声、囁き、揺れる白いカーテン、屋根裏で見つけた写真ペンダント、そこに映っていた召使だった男、その顔がガラスに映る、高い塔のてっぺんに見える、オルゴール、オルゴールと同じ曲を弾く兄、その曲を口ずさむ妹、川の向こう岸の人影、夜の廊下を横切る女の姿、首を折られた鳩、幼い兄妹の何とでもとれる行動、しかし無邪気というには些か実年齢を越えた兄の認識、世話役の婦人から聞かされる召使と前任者の道ならぬ恋と死に様、、、。
これらの道具立てが全て、すでに若くはないが大変美しい家庭教師のリビドーを過剰に刺激しつつ連動し始める。
家庭教師が無意識から追い詰められてゆく様相が物語を加速する。

この作品が通り一篇の文学的な恐怖映画で済まないところである。
如何にも精神分析学者が喜びそうな映画だ。
なるほど、と感心してしまうところでもある。
しかし、分析にばかり気を取られていたら映画の醍醐味を見過ごしてしまいかねない。

なにをおいても、演出と絵作りの抜かりのなさ。
デボラ・カーと子役二人、さらに世話役婦人の絡み合う張り詰めた心理戦。
その静謐で鬼気迫る変容。
特にデボラ・カーの尋常ではない目の変貌。
これは、「アラビアのロレンス」で見たピーター・オトゥールのそれに匹敵する。

また、娘とその兄にとり憑いていると信じるその男女の名前をデボラ・カーが強引に吐かせようとするところは、余りに強烈だ。
「何を見たの!正直に言うのよ!」と何度も彼と彼女に執拗に責め立てる場面。
もしかしたら、兄妹がそのふたりを殺害したのか?
そう受け取るしかないほどの、パニックを二人に与えることとなる。
その衝撃で妹はこころの安定を失い、兄は絶命した。
最後にデボラはあたかもその兄を誰かに見立てかのようなキスを彼にする。
やはり原作がヘンリー・ジェイムスである。
一筋縄ではいかない。


ホラー映画とされているが、スプラッターで即物的な描写などの入る余地は全くない映画である。
ヒトの業のもつ恐ろしさは緊張感をもって掘り起こされてはいるが、ジェットコースター的恐怖・目眩はない。
その分、後に残る。
結局ただ身を委ねてゆけばよい作品だったことが分かる。
いや、もともと映画とはそういうものだと、再確認させられる名作であった。


デボラ・カーの演技を見るだけでも価値のある映画であろうが、子役のふたりも圧巻であった。
特に妹の余りに無垢でfragileな演技に、デボラ・カーの抱く恐怖と疑念がこちらにも憑依してしまった。
そういう怖さをもつ映画である。


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天国への階段

Led Zeppelin001

ベランダに出て、本を読み始めたら強風にとてもページを押さえきれなくなった。
対話を拒む無粋な風である。
春一番か、、、。
そこで、、、
うちで1番陽の入る暖かな明るい部屋で、ぼんやり過ごすことにした。
先日買ったプラモはまだ作っていない。
本体よりも高価なコントローラーも届いたので、そろそろ組み立てたいものだ。


昨日の続きでレッドツェッペリンの”Stairway to Heaven”を、、、。
よく聴いたものだから、聴きかえす必要はない。
が、念のため一度だけ久しぶりに聴いてみる。
そういえば、誰だっけ日本の女性歌手がカバーしてたな、、、本田美奈子?だったはず。
それも探して聴いてみよう、、、。



眩しいものすべてが黄金なのだと信じる女がいる
天国への階段を彼女は買おうとしている

店が閉まっていてもいつもの心得で
一言かければそれは手に入る

天国への階段を彼女は買いに来た

店の壁には貼紙が、、、でも確かめればなんということはない
言葉に隠されている意味を掴めばよいだけのはなし

小川のほとりの梢には一羽の鳥が
ひとの想いなどすべてあやういものだと嘲りつづける

わたしは迷う
わたしは彷徨う

何かの強い気配に西方を窺う
わたしの魂は身体を振りほどいて叫び声を上げる

わたしの思考は木々の間を煙の輪となりすり抜けてゆき
立ち竦んで見守る人々の声がさざめき響き渡る

不思議だ
不思議な気分だ

あの囁き、呪文を請えば
笛吹きたちがきっと悟りへと誘ってくれる

永く待ちわびた者たちのために新しい日が明け
笑いが森を木霊してゆくだろうと

生け垣がガサガサ騒がしくても気にしないで
五月祭の儀式の支度だと思ってほしい


過ぎし日に立ち戻るための道はふたつある
長い目で見れば今の道を変える時間は残されている

そして、、、それがわたしを惑わせる

あたまのなかにはハミングが絶えず鳴り響き
笛吹きたちが仲間にお入りなさいと誘惑する

親愛なるレディ
風の音が聴こえるか
そして知っているよね
あなたの傀儡たちが流し続ける噂を

曲がりくねった道を進みゆくにつれ
わたしの影法師は魂よりも高く伸び上がり

どうやってすべての沈黙が黄金になるのか
白い光を纏った彼女が明かそうとしている

ひたすら耳を傾けるのなら
その調べはついにわたしたちに同調し
わたしだけの調べとなる

そしてわたしたちがひとつに
ひとりひとりがすべてになり
決して揺らぐことのないひとつの岩へと変わる、、、



そんな天国への階段を彼女は買いに来た



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*元歌詞は長いので省略。



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Let it grow

Eric Clapton

”Let it grow”

Eric ClaptonのLet it Growが机の上に出ていたので、聴いた。
久しぶりだ。

これと同時期に、レッドツェッペリンのStairway to Heaven(天へのきざわし)を聴いた、と思う。
当時この曲は、麻薬賛美が暗示されていると友人の間でしきりに噂されていた。
歌詞にもあるように、すべての言葉はダブルミーニングであり、マルチミーニングである。
ことばはもともと何とでもとりたいようにとれる。君のとりたいように受けとれるんだ。
身体のコンテクストにおいて精神が意味を切り出せばよい。
必要なことばは風に乗ってくるかも知れないよ。
この辺はキング・クリムゾンのI talk to the Windにも通じる。
ただし、生きることは危険だよ。
みんなでひとつになろう、この世を住みやすくしよう、楽になろうよという誘惑には特に注意するんだ。
われわれに巣喰う影は、時に魂よりも遥かに背が高く伸びてしまう。
あの天に向かわんとする輝くスターに取り込まれてゆく。
それさえ充分わきまえておけば君は揺らぐことのない岩となって残り、無軌道に転げ落ちてゆくことはないさ。
(そういえば、カラヤンがこの曲絶賛してた)。


クラプトンの方に戻る。
彼のボーカルは優しくて好きだ。
みんなギターやコンポーズのことばかり言うけど。

Standing at the crossroads,
trying to read the signs
To tell me which way I should go
to find the answer,
And all the time I know,
Plant your love and let it grow.

どうしたらよいかわからなくなったとき
何かを読み取ろうとするのもひとつだが
愛の種を植え、それを育ててゆくなかで
これまで自ずとそのこたえに導かれてきたようにおもえる

Let it grow, let it grow,
Let it blossom, let it flow.
In the sun, the rain, the snow,
Love is lovely, let it grow.

ただ育てること
それだけ
流れに身をまかせ、花を咲かせ
晴れても雨でも雪のなかでも
愛は、育てることで愛しい

Looking for a reason
to check out of my mind,
Trying hard to get a friend
that I can count on,
But there's nothing left to show,
Plant your love and let it grow.

こころを探り
頼える友もみつからないなかで
ひたすら理由を求め続けるが
明かせるものはまだ何もない
ただそれを愛し育て続けるだけ

Let it grow, let it grow,
Let it blossom, let it flow.
In the sun, the rain, the snow,
Love is lovely, let it grow.

陽に雨に雪のなかにあっても
花を咲かせ
育てること
愛はそれだけで愛しい

Time is getting shorter
and there's much for you to do.
Only ask and you will get
what you are needing,
The rest is up to you.
Plant your love and let it grow.

ああ、やるべきことは山ほどあるのに
時間は残り少なくなって逝くというが
すべては君次第
愛の種を蒔き育てるだけで
君の希うめぐみと慈しみを、きっと手にしていることだろう

Let it grow, let it grow,
Let it blossom, let it flow.
In the sun, the rain, the snow,
Love is lovely, let it grow.

慈しみ育てよう
流れに身をまかせ花を咲き誇らせ
晴れの日も、雨の日も、雪の日も
愛はただ育てることが愛おしい



深夜2時の怪

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夜はお化けが怖いということから、長女はずっとわたしと同じベッドで寝ている。
キングサイズなので広さでは全く問題ない。
しかも、次女と違い寝相はよい。
(何もかも正反対の双子であり、次女の寝相の悪さは凄まじく、朝は大概180度位置変えしている)。

次女は寝つきがよく、長女は寝つきが悪い。
長女は常に睡眠不足の状態にある。
かと言って、睡眠導入剤を飲ませるわけにはいかない。
(わたしは、常用している)。
子供だからホットミルクを寝しなに飲ませるくらいだ。

長女のお化けが怖いというのを、われわれはこれまで余り深刻に受けとめてこなかった。
一人で寝るのが淋しいという程度に考えてきたのだが、深夜2時にわたしは長女の叫び声に叩き起されることになる。
次女はよく寝言を言うが、長女のそれはこれまで聞いた試しがない。
「蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛がここに入った!」と背筋を指して叫ぶのでびっくりして飛び起き、背筋からパジャマ、掛け布団、シーツあちこち見たがそれらしきモノは見当たらない。
「パパどうにかして」
「捕まえて」
わたしは、寝ぼけ眼で取り敢えず動いてはみるのだが、実際何ともしようがない。

それは長女の腕を痛いほど強く掴んだという。
それで彼女は、そいつの腕を掴み返し、へし折ったそうである。
そんな、壮絶な戦いが夜中、私の眠る隣で起きていたとは知らなかった、、、。

で、蜘蛛はどうなったのか、そいつと蜘蛛との関係はと聞くと、それがまさに蜘蛛であると、、、。
ウルトラQと怪奇大作戦で培った怪獣(珍獣)造形力を巡らせてみたが、いまひとつ像として結ばない。
まだ、覚醒もできていない状態でもある。

そういう、怖い夢、、、お化けの夢を見たんだね、としばし慰めることとなった。
しかし、彼女は必死の形相で夢じゃなく今ここにいた、と。
その化物は、わたしが殺して始末したと、言う。
でも、まだいるという。複数なのか?
残党はそれはそこらへんにまだいるかも、という。

まさにそれが夢であるところのリアリティであろう。
わたしも、最近苦しい夢に悩まされることがあった。
夢の最大の特徴は、その鮮明で明晰極まりないリアリティにある。
あまりに克明で細密なため、起きたばかりのトワイライトゾーンでの残象は数週間脳裏に焼き付いていることもある。
それが訳の分からぬお化けであれば、相当キツイであろう。
しかも格闘までしている。
長女は次女と違って、戦闘力は同年齢の男子より確実に上である。
次女なら泣いて逃げるところを迎え撃ったようだ。(日常が常にこのパタンである)。


長女によれば、蜘蛛の破片が何処かにあるはずだとのこと。
朝になったらベッドの点検を約束して、寝かすことにした。


日頃から見ているお化けビデオ(怪談レストラン・学校の怪談など)の悪影響が懸念されることとなった。
夜の鍵閉め点検も、これまでより厳重にチェックすることとなった。
その前に殺虫剤の準備と洗濯・除菌であろうが。
(ファブ○ーズは、コマメにかけてはいるのだが、虫でも入ったのかどうか、、、)。


ベッド周辺の点検はしたが、破片と思しきものは発見に至らなかった。


誕生日

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誕生日を迎え、これまでで一番美味しいケーキを食べた。
次女が独りで、美味しいケーキ屋さんで買ってきてくれた。
実際、味も良いが、娘が初めての買い物で買ってきてくれたのだから、極めて貴重なケーキである。
しかも、その手のことは長女がやってくれることがほとんどで、次女はそんな時大概寝転びiPadで「グデタマ」を見ている。
(最近、グデタマはアメリカでも人気急上昇らしい)。
当日に脅かしてやろうと企んでいたようだが、何分初めての事ずくめで緊張したらしい。
少し驚いたのは、「パパお誕生日おめでとう」をちゃんとプレートに書いてもらう事が伝えられたことより、ロウソクの大小でしっかりわたしの年齢が揃えられていたことだ。
わたしの歳を知っているとは、思わなかったのだ(笑。
一度も彼女に聞かれたこともないし、、、調べたのだろう。

ケーキをなんとなく買ってくるだけでも、わたしにとっては快挙と思えるのだが、プレートにロウソクの大小の本数まできっちり仕込んであるとは、、、わたしの成り行きの加齢とは全く次元の異なる、寧ろ子供の成長を実感した。
当然、そちらの方が感慨深い。
こちらとしては、今更ひとつ歳が増えて、何が面白いというものではない。
悲しくもないし、特別な感情に浸りたいという姿勢自体無い。
娘の垂直上昇率に少しばかり目眩がした。

そろそろ、こちらはこちらで総決算を考え準備を始めるという方向性もあるかも知れない。
が、怠くてやる気がない。
そこらへんで、娘とは気が合う。
やはり「グデタマ」である。
そのへんからの共有するものは、増えてきた。
「霊」や「宇宙」や絵や音楽では、結構じっくりやり取りが楽しめる。
そろそろ一緒に作品作りも出来そうだ。
紙による立体作品(折り紙)などでは、すでに長女には到底かなわない。
今年は、何か共作をしてみたい。


最近3人の間で話題になったことに、インドで人類史上初めて隕石に当たって死んだ人が出たということがある。
こういう話題にはよく食いつく。
2013年にロシア・チェリャビンスク州に落ちた直径10数メートル級の隕石の件は、今も鮮明に記憶に残っている。
しかし、あの神秘的な出来事では1500人からの負傷者は出たが、死亡者は無かった。
今回は、3人の負傷者と歴史に残るひとりの死者である。
宝くじで何億円当てた等、問題外の大当たりもよいとこである。
(もしかしたら記録に残っていない直撃者がいたのかも知れないが)。
普通、奇跡と呼ばれるくらい難しい事であろう。

しかし、宝くじに当たる方がどちらかといえば、嬉しい。
(買ったことないので当たりようがないのだが)。
どれだけ貴重な死に方であっても、突然生を中断されるのは痛い。
誰であっても原理的に生は中絶されるしかないのだが、薄々それを感じてそれなりの覚悟ができているのといないのでは雲泥の差である。
何よりも引き継ぎ、という点においてである。
わたしが、もっとも肝心な問題として考えるのがその点である。


娘たちに少しでも多く引き継げるものを、それとわかる形で残しておきたい。
今日つくづく感じたことである。
明日からは、多少自覚的に生きたい。


風は冷たい 

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2階のベランダに椅子を出して読書を試みる。
窓越しに日光の様子を怪しい影の揺らめきのうちにサボテンとともに見ていたら、そこに溶け込みたい衝動に駆られた。
勿論、サボテンもわたしも、である。

肌に確かに光の圧がかかる。
かなりの照度と温度である。
そこに時折吹き抜ける風は殊の他冷たい。

最初は、良い刺激でもあったが、すぐに許容出来る刺激のレベルではなくなる。
最近、映画も見れないが読書もいっこうにスイッチが入らないのだ。
心地よいめくるめく刺激が欲しかったのだが、、、。

暑い陽射しのなかを凍った風が突き抜けた。
自動的に堪らず部屋に逃げ込んだ。
僅か15分しかもたなかった。
トホホである。

さすがに外に居続けるのはまだまだ酷である。
もこもこダウンコートを着込んで本を読む気はない。
読書は、軽装でないとダメだ。
そうでなくては、文字が身体に染み込まない。


その直後、アマゾンで昨日注文した、「RCCホーネット(2004)」が届いた。
久しぶりにプラモデルを作りたくなったのだ。
われを忘れて機械的にものを組み立てる恍惚に浸りたい。
創造ではなく、作業である。
勿論、それが目的ではない。
出来上がったものが欲しい、それだけの為に作る。

しかしただ手を動かす。
ほぼ目と手が同期する。
というか従属関係が薄れる。迷いがない。
しかも、出来上がるものが、光覚的というより触覚的にカッコ良い。
少年期的充足感を満たす時間が来た。
(恐らくわたしにとって旅行などでは、味わえないものである。気晴らし、静養とは本質的に異なる)。

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と同時に、この激速ラジコンカー(RS540モーター)で、やはり外に出たいのだ。
これは、多少ジャケットは着込んでも、道路や公園の広場で走らせたい。
娘たちも、古いラジコンカーを物置から出してきて、家の中で腕を磨いている。
今度、公園で思いっきり醍醐味を教えてあげようと思う。

そもそも、わたしがラジコンカーが欲しくなったのは、娘達が家で遊んでいる姿に触発されてのことだ。
多分。
徐々に外に気持ちが向かっているところに、調度これがピッタっと嵌ってきた。
光と外界に対する憧れが蘇えってくる物質的というより身体的触媒だ。


まだまだ風は冷たいが、外に出たい!

フェーム

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Fame
1980年アメリカ映画
アラン・パーカー監督


録画されている映画を観た。
異様につまらない映画であった。
取り敢えず、どんな映画であろうと、最後まで観きるようにはしてきたが、これはどうにも持ちこたえられず、早送りでオシマイとした。
時間を無駄にした無念の気持ちはある。
ま、途中から手を伸ばして出来る範囲の掃除もしていた為、失くなって困っていた娘のキャラクタ消しゴムも見つかり怪我の功名である?と諦めたが。

思えば確かにこれまでも、映画を見ながらあっちこっちの掃除も兼ねていたことがある。
見始めてしまったので仕方ない、といったレベルで見ている時である。
映画館では流石にそんなことは出来ないが、代わりに眠っていたはず。
眠っているべき時に掃除をしていたのだから、なかなか生産的ではないか。
勿論、映画館に脚を運ぶ際は、しっかりタイトルを選んで観に行く。(当たり前だが)。


この「フェーム」という作品だが、最後まで距離をもって眺める以外になかった。
こころに触れない映画というものが、確実にあることを知らされたものである。
芸術学校の生徒たちが街頭に溢れ出しタクシーの上などにも乗って踊りまくるシーンがあるが、その「フェーム」というヒット曲にもノリそのダンスシーンを楽しめるかどうかが作品の受け容れを決めるように思う。
この曲に乗った場面が残念ながら、コンテクストも含めすんなりと入ってこない。
所謂、名作にある普遍性を感じない。

それにこの曲は、音楽科のシンセサイザー地下多重録音マニアの芸術家肌の生徒が作ったことになっている。
(彼はただひとり、わたしがこの映画で好感を抱いたキャラクターであった)。
タクシードライバーの親父さんがわざわざ息子の宣伝の為、スピーカーで流して回っている。
しかしこれは明らかに、違うと思う。
彼のあの演奏スタイルと音楽趣向から、こんなベタなポップチューンが出てくるのはそもそも不自然だ。
寧ろ、マイク・オールドフィールドの「チュブラー・ベルズ」であろう。
もしそれが流れようものなら、さらにピッタリな前衛モダンダンスが溢れ出していれば、わたしは間違いなくこころを奪われていただろう。それ以外のシーンがどれだけ興ざめな紋切り型であろうと。
そうだ、トマス・ドルビーでも充分によい。

この場面よりは、ランチの時間に自然に始まり厚みを増してゆくフリーライブというか、あの演奏の方が格段に良い。
曲自体が良いうえに、それぞれの生徒の動きもフリーキーだ。
とは言え、このシーンだけで、この映画に入り込むには、まだいささか弱い。
でも、授業の演奏や歌やダンスがあまり面白くなく、自由時間に自然発生的に生まれる演奏がやたらカッコ良いとかいう構成の作品などであれば、結構面白くなるのではないか!
あのランチタイムライブがキング・クリムゾンの”Fracture”のレベルまで極まって行ったりしたら、もう至高の映画になってしまうかも。もう他のシーンなど問題外、意識の外である。
何というか、そこまでやってほしい。

だが、根本的に本質的に、ないものねだりである。
あざとく、外連味タップリな「セッション」は、ジャズを題材にかなりのレベルまで音にともなう表出を極めてゆく映画であった。
あの緊張感、強度を感じるところがなかった。
音楽・バレーなどによる表現映画としての手応えが弱すぎた。


結局、部屋掃除に走ってしまった映画であった。



今日はプールへ

 娘たちを、いつも行く公園の隣のプールに初めて連れてゆく。
(ひとえに、わたしの体調の関係で約束を伸ばしていたのだが)。
わたしは、まだ体調の具合から無理なので、近くのホールでその時間を久々の読書にあてることにした。
監視体制はかなり濃いし、丁寧なのだ。
小学生なら、保護者は一緒に入水しなくともよい事になっている。
とは言え、プールを歩くだけでも水中エアロビクス効果はあるため、そう遠くない時期にわたしも一緒に入るつもりだ。

さて、日頃全く出来ない読書をするか。
と、言いたいところだが(笑、談話会場も自然に兼ねてしまっているホールが読書向きであろうはずもなく、、、。
ご高齢のおばさま達の鼻息も聴こえるくらいの会話というのか、噂話の発表会で音より熱気が凄く、思わず上着を脱いてしまった。
(いやでも話が暴力的に入ってくるのだが、内容の辻褄からお互いに相手の話は一切聞いていないことが分かる)。

数行読んでは、後戻りして少し前の文脈を確認し直し、しまった哲学書を持ち込むべきではなかったと反省する。
(ちなみにわたしは、反省だけは絶対しない主義を貫いてはきたのだが、最近ちょくちょくしまったという後悔は素直にある、、、)。


そのプールは、取り敢えず大人も泳げるサイズのプールもあるが、隣の子供用プールが公園の遊具広場みたいで、お子様は皆それ目当てで遊びに来ているのだ。
娘たちも特に半透明チューブの中を上から滑り落ちてくる遊具には、最初は怖がっていたものの、スリルがやみつきになって、泳ぐ練習もろくにせず、何度もストーンと落ちてくるのを繰り返し楽しんでいた。
泳いでる子より滑り落ちてくる子の方が多い。

上がってから聞いてみると、チューブ内部の向かい風はかなり強く、それが余計に怖さをますそうだ。
体を寝かして滑ると体感スピードは、かなりのものらしい。
やはり、ロジェ・カイヨワの言うように、目眩を楽しむ遊びは、ヒトを強く惹きつける。
(その最たるものが戦争となるのだが)。

家からずっと近いところにある、スポーツ公園のプールは一時間単位だが、このプールは休憩時間は取るが時間無制限でいられる。
その為、二人もエンドレスで出ようとしない。

今日も、この時点で映画は諦める。


結局、読書もプールをガラス越しに眺めていたりで、数行しか読んだ気になれなかった。
受難なのか何なのか、、、。

娘が満足気なので、それで良いことにした。














整理する日

今日は一日中、整理に明け暮れた。

何も今時、モノの整理をするつもりは、なかった。
事のはじめは、次女に「怪談レストラン実写版」を観たいと言われそれがすぐに取り出せなかったのである。
あっちこっちの(各デッキとパソコン10台の側に、分配してDVDとブルーレイタイトルを置いている)ラックを見てまわるが、何処に置いたか見つからない。
整理が悪いせいであることは間違いないため、全部をほおり出して、ジャンル分けして置きなおすことにした。

それと同時に、気にかかっていた多肉の整理も始めてしまった。

幾つか、もうダメになってしまったものや、いらないタイトルも見つかり、廃棄処分も始まってしまう。
そうすると、パソコンのなかの、もういらないデータやユーティリティ、アプリケーションも気になり出す。

本も読んでいないものも含め何故か気になる。

それから、娘たちに以前から見せたいと思っていて、何処にしまったか分からぬ「絵」もついでに見つけたくなる。
そうなると、もう自閉的な持ち前の性向から、適当に済ませられなくなり、脳みそではある程度で切り上げて、映画でも見て記事書いて、子供を寝かしつけないと、とは考えるのだが、それより片付け整理リビドーの方がずっと強度を増してくる。


結局、冷静に見ればかなりの量がもう必要ではない、置きっぱなしとなるであろうものであることに気づく。
床にほっぽり出してみると、よくこれだけの量のモノが何処かに収まっていたものだと、途方にくれ真面に目眩に襲われる。
血圧にも悪い。
次女に見たいと言われ、6時間後に例のDVDが見つかる。

彼女らの就寝時間ギリギリに見終わる逆算であったため、すぐに見せることにはした。
その間に、残すものと捨てるものを見分ける作業に入る。
これは、狭い庭に散乱した「多肉」についてもである。
(この時点で、わたしの映画鑑賞は本日については、無くなる)。

ビデオテープものは、そこそこ整理ができたが、DVDタイトルはまださすがに、見直すかも知れないという気持ちには逆らえず、そのまま配置替えにとどまった。ブルーレイは勿論。
本も僅か数冊の廃棄で終わり、一番景気よく捨てられたのは、ケーブル関係であった。
懐かしいINTERFACEに暫し思いに耽る場面もあった。

ついでにプリンターもひとつ捨てた。
と同時にその分は注文した。複合機はそれ1台であったので。
E社のものはもう懲り懲りであったので今度はB社のモノにした。
B3ノビ対応複合機である。これがないと結構不便なのだ。カレンダー作りに。
web上で調べると、E社やC社、H社のモノに比べかなり評価が高かったため、わたしにとって初めてのメーカーであったがB社のものに決めた。
もう度重なるトラブルやランニングコストの悪さからいって、E社のものだけには手を出さないことにしていたが(肝心のプリントより、ノズルのチェックパタン印刷ばかり繰り返し行ってきた実績がある)、スレを見た範囲でB社のその製品には、ちょっと期待できそうな気になっている。
これは、整理というのか単なる更新・入れ替えに過ぎないのだろうが、仕方がない。
必要なものは、ないと困るのだ。

ちなみに、娘達がキッドピクスで描いた絵をプリントアウトに使っているC社のプリンターは、最初のクリーニングの挙動にはこちらの諦観を必要とするが、悟ればストレスは感じなくなるものである。
H社のランニングコストと普通紙印刷の綺麗さについては満足度は高いが、ドライバーやアップデート、ユーティリティには扱いにくさを感じる。
また、トラブル対処が為難い。
レーザー導入は、仕事で使う訳ではないので考えていない。


多肉については、もうお亡くなり寸前の鉢が残念ながら3つ見つかりそれは、空の鉢となってしまった(合掌。
小さい葉を他の鉢の隅っこに置いてみたが、厳しそうだ。
最近思うのは、寒さ対策だけでなく、冬でも水のコントロールが必要であることだ。
サボテンや冬眠する多肉は別だが、冬の乾燥期に適度な水分補給が実が結構大切だったりする。
土がカラカラに乾いてしまっているものには、水が欲しいかどうか聞いてみる必要があるようだ。


などということから、自分の性分の問題もあって、映画を見るどころの話ではなかった。
しかし、娘ふたりがかなり手を貸してくれたため(それは怪談ヴィデオを観たいからでもあるが)、親子交流がいつもと違う形で出来た。
かなり出来ることが増えている事に気づく良い機会でもあった。
また、頼まれてやることも嬉しいようで、やり終える度にドヤ顔をするのが面白かった。
確かに取り敢えずお買いものに行って何か買い与えて済ますことが少なくないことに、後ろめたさがあった。(教育上、あまり良いとは言えまい)。
これからは、なるべく彼女らの活動の場を多面的に作ることを特に心がけたい。
と、モノ整理を通して思った。


兎も角、息があがり切羽詰まったが、そこそこ楽しい一日であった。
終わりよければすべてよし、としたい。







映画を見始めてすぐ止める

幾つか見ようとして見始めるのだが、そのまま見続けることが出来ない。
見ていられないのだ。
先が見えるからでも、つまらなさが分かるからでもない。
ただ、見ることに耐えられないのだ。

何故か?
いや、そうではなく、何故見る必要があるのか?
映画を。

ブログ記事を更新するため映画を観ることが本末転倒だ、などと言うつもりは端からない。
元々映画を見る習慣などわたしにはなく、映画を見た感想を書こうととでもしなければ、映画自体を見ることもないだろう。
最初からそのつもりであった。
結果的に、幾らか映画の鑑賞体験を積むことが出来た。
などという気持ちは微塵もない。

記事を書くために映画でも見てみようと始めたことなので、所謂、映画ファンが映画を見たくてたまらず、見るのとは違う。
淀川先生のように映画を愛している訳ではないのだ。
あのような生き方にはうっとりしてしまうものだが、、、。
とても無理だ。

まだ本を読みたい気持ちのほうが強い。
が、今の生活サイクルでは、とても集中して読めず、いつその感想が書けるかわからない。
とりあえず、2時間程度モニタを見ていれば、それなりに何かを感じる。
だが、それを記事に書いてしまうと、何かが残るとか、変わるとか、生活に役立った、などということは全くない。
書く事は、不思議な作用を齎す。
ほとんど、頭の中が空になってしまうのだ。
もしかしたら、それを望んでやっているのかも知れぬが、、、。
プラスではなくマイナスの効用である。
(それは良い読書をした経験に近いものがある)。


今改めて、何のために書いているのか?
ではなく、何のつもりでブログを更新しているのか。

そうである。
見始めてすぐに嫌になったのは、この映画で更新記事を書くのはキツイと思うからである。
勿論、こころを奪われるような映画に出くわせば、見る事を止められず、終いに何かを書いてはいよう。
しかし。批判するほどの意欲も生じない映画であると、もう気持ちは萎える。
(それでも無理やり書いてみたのもあるが)。
そして、今日はアップデート出来ないという状況になってくると、イライラしてくる。

何であれ、生活の組立として、何らかのルーチンをもちたいのだ。
一日に一本は映画を観て、感想の一つも備忘録のつもりでも、書き記しておく。

何かそこに、自分が踏みとどまっているという感覚がある。
さもなければ、もう全てがなし崩しとなってしまい、エントロピーの矢に吸い込まれて行ってしまうだけ、、、。

わたしにとって、映画を観て感想を書くという行為は、とりあえず何かにしがみついて、システムに流されることから身を守ろうということ以上でも以下でもない。
しかし、なんでまた映画に拘ってみたのだろうか?

恐らく、これまでやってこなかったことをやり、少しでも抵抗をもたせたかったのかも。
わたしにとって、映画を見ることは、結構無理のある意志の力を必要とするものである。
システムを破壊したいという、実は根深い強固な望みから出た仕草なのだ。
映画で記事を書いていないときは、ほとほと見るのに疲れた時である。

こんなふうに。


痙攣~発作~逃走

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憩いたいのだ。
最終的には。
結論として(笑。


身体が溢れ出す。
磁場から。
あらゆる記憶の場所から。
物陰という物陰から。
幼い頃、カッターでアルファベットと数字を引っ掻いた机の表面から。
そう、ほとんどは、極小な窪みから恐ろしい斥力で。
負のチカラで。
もはや内部の化学反応の種は減滅した。

何れにせよ、アリスが部屋の中で膨張し球形に近づき張り裂ける寸前までになっている。
ヒステリックな甲高い声とスローモーションな悪意たっぷりの低い声が絡み出す。
(わたしは、それが両親の声であるとすぐに直感するが、気づかぬふりをする。何に対してか?)
それは、いつ始まっていたのかは知りえないが、エンドレスに続くことはもう肌で分かっている。
部屋を宇宙大に埋め続けていた。それは。

器官のある身体であったなら、こんな有様にはならない。
何処も余りに白かった事に気づく。
鏡が、少なくとも鏡が何面もあったはずなのに。
しかしそれは些かも狼狽える理由にはならない。
物を映さない鏡は、妙にしっくりするのだ。
今は特に、この期に及んでと謂うべきか。

歪曲を幾重にも受け容れながら、それは総体として調和を目指してゆく。
(そうか、これを予定調和と呼ぶのか、、、というのは嘘だと知っている)。
ただ、こどもなら誰もが恐怖するように、その緊張は極限に達する。

これは、明らかに間違っている。
張り裂んばかりの怒りでそれがはっきりする。
その電気信号が器官の末梢まで突き抜ける。
シナプスやレセプターを光速で破壊しつつ進む伝達がある。
わたしはその時、違うわたしである権利をあえて放棄した。
即興的に放棄した。

コードを荒々しく創る事を選んだのかどうかなど、知る由もない。
元来、われわれの決断に理由などあった試しはない。
決断もほとんど意識もされてこなかったではないか。
それはそうだ。
われわれは、意識で動いてるのでは、ないのだし。


さて、外面上の動勢が見えないといって、何かが憩いに入った訳ではない。
恐怖は麻痺したが、まだ放出される否、吸い出されてゆくものは、とどまらない。

針の穴からも出てゆく。
痛みは、身体の痛みではない。
還元しようのない痛み。
魂の痛みという以外に言葉はない。

まだ、次の形-身体が見つからない。
それまでは、当分ヒリヒリし通しだろう。
生命が実質上裸なのだ。











秋刀魚の味

sanma.jpg
昭和37年
小津安二郎監督 最終作品。

リアル「3丁目、、、」である。
終戦後の日本。
こっちは、夕日はないけど。

どうしても、リアル昭和30年代ものも、VFX30年代映画も、結婚が大きなテーマとなっている。
「家族」というものが、生きているからだろう。
終戦後の再生を目指しての根拠の確認と結束という意味からも、日本民族-家(家系)-家族が実質的に活性した時期だと思う。
すでにその意味で、随分前から家族はもうない。
少なくとも、当時とは大きく変質してしまった。
取り敢えず、親子が同じ屋根の下に暮らしてはいるが、それ以上の何かはない。
ほとんどは、そうである。
休日に、ディズニーランドに家族連れで行っているとかいう問題ではない。
そんなものであれば、東京スカイツリーの家族連れの混み合いなど物凄いものであった。
うちの娘たちも、あのタイミングでちゃっかり行っている。(もっとも水族館の方がずっとよかったようだが)。

実質的に全く違う。
祖父母がいない核家族であることに起因する、などと言われてもきたが、全く関係ないと思う。
祖父母自体がすでに変質している。
わたしは、昭和30年代の日本が今より良いとか悪いなど言う気も考えるつもりもない。
何においての比較も、あまり興味もない。
ただもうそれだけ、時代(歴史)が希薄化しており、われわれの根底に何らかの抵抗として感じられないのだ。
共同の幻想がほとんど持てない。
奇しくも、またオリンピックというのが開かれるようだ。
あのシンボルマーク、競技場で揺れに揺れつつ馬鹿げた形(代案)で兎も角やるようだ。
あの内輪での足の引っ張り合い、追い落とし(しかし肝心なところではひどく杜撰)、誰もがお互いの粗探しに血眼になりながら、日本を元気にとか経済効果がどうとか言って、結局何のためにあんなかったるいことをやろうとしているのか?これひとつとっても象徴的である。また少なくともオリンピックに象徴的な力などない。
(今回外からの妙で低級なイチャモンなどがあがっていたが、容易く押し倒され、一体擁護の声はどうなったのか?)
全てが、ことばがもっとも重篤であるが、形骸化している。
これについて書く場ではない。
ただ、ひとつはっきり言っておきたいことは、異なるものを認め活かす風潮-懐は、確実に身の回りから消えている。
外国人を呼ぶのだからとか言って、外国語を勉強したりしているが、勝手にやってなさい。
まず誰もが本質的に他者であることに対する感覚、その前提が極めて薄い。(特に政治家ほど酷い)。

つまらないことに、スペースを使ってしまった。
「秋刀魚の味」には関係なかった。
父が妻に先立たれ、娘が結婚になかなか踏み出せない。
孤独と家族や家への愛情を巡り、、、。
こんな関係性が今存在し得るか?
しかし小津安二郎の映画のテーマのひとつは、これである。
わたしにもこの小津作品や30年代をVFXトレースした「三丁目シリーズ」にある家族(愛)経験は微塵もない。
わたしにとって「東京物語」は、純粋な形式美の極北としてある。
内容の結婚-家族が中心にあり、いつも同様な設定下でキャストが想定内の動きを繰り広げるこの光景はゼンマイじかけで動いているように感じられる。

常に同じである。
鑑賞するこちら側としては、少なくともそこに切実なテーマ性は覚えない。
わたしは小津ドラマの物語内容に引き込まれるというより、その形式・意匠に惹きつけられてきたのだ。
笠智衆の演技もあいまって小津映画は、みな同じだ。
わたしは小津作品のそこに常に魅せられてきた。
この「秋刀魚」でも、娘・岩下志麻の父親として笠智衆がいつものように演じている。
このいつものようにが、もっとも大切に思える。

現時点において、孤独と愛情をこのような風景に切実に感得することは出来ない。
しかしかつてあった世界を夢想して感じることは出来る。
孤独とか愛情というより、もっとイデア的な調和ともいうべきものとして。
その点において、やはり「東京物語」は圧倒的に美しく洗練された作品である。


「秋刀魚の味」のキャストでは、
岩下志麻と岡田茉莉子、佐田啓二は言うまでもないが、何といっても東野英治郎であった。
戦後間もないこの時期の空気にたっぷり浸れたものだ。

原節子が小津の遺作に出ていないことだけが、何とも淋しい。









ALWAYS 三丁目の夕日'64

ALWAYS64.jpg

2012年
山崎 貴監督

キャストに、染谷将太(六子の後輩工員)と森山未來(六子の恋人・結婚相手)、地味ながら高畑淳子が叔母、米倉斉加年が父で加わる。森山未來って、良い役が多いなと改めて思った。
産婆が正司照枝であった。
相変わらずピエール瀧が意味不明。(ちょいともったいない)。
編集者の大森南朋と内科医の三浦友和が更に良い味を出す。
もたいまさこもいよいよ本領発揮だ。
須賀健太が、あの子供役からもう東大受験生である。
もっとも、鈴木モーターのせがれもあのワンパク子役から、加山雄三を目指す高校生ロッカー?だ。
やはり子供は成長が早い。
堀北真希は、これで女優としての評価を揺るがぬものとしたのでは?演じきった感がある。
吉岡秀隆、堤真一、そして薬師丸ひろ子のトリオについても、相変わらずのフルスロットルであった。

ここからこの監督、「寄生獣」へ、というのはちょっと飛躍を感じるが、VFX(絵)的には連続性を感じる。
しかも、染谷将太繋がりで(笑。
(ほとんど社長に頭を叩かれているばかりの冴えない役である)。
染谷はこの後、あの大活躍へとなだれ込む、、、(祝?。


この映画の舞台、東京オリンピックで皆が大はしゃぎである。
ちなみにわたしは、全く意識にない。
「東洋の魔女」など何度もオリンピック特組でVTRのかすれた映像を見たものだが、ジャイアント馬場が幾人かでスローモーションで動いているような印象しかない。

TV画面に接して、日の丸の旗を振って応援する人など果たしていたのだろうか?
劇画的誇張はこれまで通り目立つ。
が、イヤミは微塵もない。
もう2篇観てきて、これを観ると感慨無量である。
「メンインブラック」の1,2,3とも「スター・ウォーズ」とも訳が違う。

ずっと染みてゆくのだ。
浸透力が明らかに異なる。
ゆっくりとじわっと。それが、とても自然に。
全く揺さぶられるという感覚なしに。
それが珍しい体験でもあるのだ。

「リターナー」からこれは、随分な進展だ。
自由度が遥かに高まっている。
余計な拘り、がんじがらめの前衛(SF的な)意識を削ぎ落として、VFXで昭和をその人情を、かつての宗教画がそうであったかのように典範として差し出し描いた、かのようだ。
エル・グレコがそうしたように。
宗教画であるが故に得られる自由。
神と共にいることで得られる解放。
その結果の洗練された姿があの「絵画」であった。
それは、前衛絵画の様々な紋切り型の君臨、その亡霊ににっちもさっちも行かなくなった桎梏から無縁な場所にいる。
そして幾つもの誇張した物語や説明性を無化する異なる話を巧みに設える。

少し強引だろうか?フランシス・ベーコンが象形から形体を勝ち得る仕草にそれは、近い。
あらゆる桎梏を離れ、自由を獲得してゆく方法。
この通り、この映画は「洗練」を得ている。
他の決して多くはない傑作に見られる「洗練」を。
この「洗練」は、桎梏を極めて巧妙に回避し自由を獲得した「洗練」にあたる。


多分それが、、、。
この作品の何故か胡散臭くない感動を呼ぶところだ。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
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