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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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ALWAYS 続・三丁目の夕日

ALWAYS2.jpeg

2007年
山崎貴(前作に続き)

キャストは、親戚の少女役などが加わるが、基本的に同じ流れが濃くなる方向に行く。
ピエール瀧が今ひとつよく分からない役柄である。
三浦友和の内科医が実に味わい深い。


ここでは、東京タワー、東京駅、羽田空港も出てきた。
そうだ、こだまも出た。
日本橋も登場した。
映画館では、石原裕次郎である。
湯銭もある。
が、何と「ゴジラ」が現れたには、びっくりした。
VFXが実に上手く使われている。

「スズキオート」堤真一と「文学」吉岡秀隆は相変わらずだが、絆は更に深まる。
六子さんの幼馴染が現れたり、淳之介の実父が執拗に彼を引取りに迫ってきたり、事業に失敗した親戚の娘が鈴木家に預けられたり、、、いろいろあったが、茶川竜之介の芥川賞受賞を巡り各エピソードが色濃くじわっと絡み付いてくる。
小説家としてどう茶川が取り組んでゆくか、彼を支える街の人たち、ヒロコの葛藤、、、。

兎も角、この映画、何かを伝えるなどという、せこい事を一切考えず、ただ個々のエピソードを丁寧に描く事だけに専念しているところが心地よい。
そう、それぞれが、心地よく染み込むエピソードとして構成され全体を流してゆく。
題材に「昭和」や「終戦」などを使っているが、あくまでも素材、道具立て、枠のレベルである。
子供が普通に家の仕事を手伝う姿やTVを家族全員で鑑賞し、応援する姿など大事な要素は取り込まれている。
しかしその時代性としては、面白い話ーエピソードが組み立て易くなる方法として扱われている。
元々、昭和が良いとか悪いとか言うものではなく、根拠のないノスタルジーを掻き立てイマジネーションを膨らめたり、架空のありもしない世界をもっともらしく描ける為のものとして機能させている。
しかしその物語は、確実にある理想が描かれてしまっている。
下らない辟易するイデオロギーが入り込めない清々しさを感じる理想である。

それが、ジワっと涙を誘う。

その理想、というか理想的姿とは何か?
何とも言えない平板性である。
深層心理、内面的な籠り、精神的な病、分裂病などの「深さ」が存在しないところだ。
人間という病がない理想的な社会が描かれている。

であるから、意味がそのまま意味として活き活き機能している。
そして意味が活性化されてヒトの中で素直に解され、汚れぬ言葉が結構乱暴に愛おしくやり取りされている。
受け取り方に振幅が存在していても、誰もが感動は味わえるのだ。
街の誰もが、茶川の純文学を大切に味読出来るのだ。

そんな理想郷がここに築かれている。
そのどこかにあった記憶ーノスタルジーに知らず触れて溢れるものを感じるのだ。


あすは、この面々での締めくくり、64を観たい。


害虫

gaicyuu.jpg
2002年
塩田明彦監督

宮崎あおい
蒼井優
の両天才が、それぞれ幼いピュアな少女サチコと夏子を、よく分かった上で演じている。
サチコの依存体質であるフラジャイルな母を、りょうが好演。
ちなみに、父はいない。
サチコの慕う先生に、最近画伯としても儲けている田辺誠一。
ホームレスの知的障害者キュウゾウに、「さよなら人類」でお馴染みの「たま」の石川浩司。
サチコと気心の合う闇社会に生きるタカオに、「リリイ・シュシュのすべて」にも出ていた沢木哲。


母の最初のシーンが最期の部分を引き継ぐのかと思い込んでいたら、単に最初に過ぎなかった。
ただ物語は時間的に流れてゆく。

浅はか(偏狭)な正義感こそ、最もヒトの精神の深層レベルに強い怒りの火をつける。
それは「正義」でもなんでもなく、知の欠如に起因する愚劣な優越感に過ぎない。
(また、チンケな権力意識を満足させるための他罰主義であったりする)。
わたしも、つい最近、近隣のそれに対してまともに激怒したところだ。
激怒は一週間収まらず、家族がインフルエンザに次々に罹り、そっちの世話でそれどころではなくなったせいで、取り敢えず終息したとは言え。
殺意を一日に10回は覚える日々が続く。
(怒りが収まっても、ただでは済まさない!)

それはさておき、、、
サチコは、確かに恵まれているとは言えないかもしれないが、特に悲惨な身の上というわけでもない。
そのありかた自体には、元々意味も価値もない。
ヒトの幸せなどという価値付けは、ヒトの精神のありようである。
その精神が幸せと感じていれば、幸せという以外にない。
外からとやかく評価されるべきものではないだから。
大きなお世話なのだ。

サチコとキュウゾウは家に火をつけ、彼女は独り先生のところにヒッチハイクでトンズラするが、付けた家をわたしは最初、彼女自身の家だと早合点したが、あれはあれだけ献身的に面倒を見てくれた夏子の家だったようだ、、、。
その「こころ」の動き、必然性は理解するが、短絡ですらない素直さだ。
全焼している様子に、我に返り戰くが、後の祭りである。
もう先に進むしか方向は見えない。
向かうとすれば、唯一文通している信用できる先生のところしかない。
小学校を辞めて、原発現場で働く先生のもとへと。
しかし夏子はどうなったのか心配になった。
無邪気な無意識丸出しだが、将来的に素敵な娘である。
サチコの母の不倫やら自殺未遂からくる心無い(弱みに付け込んだ)噂や好奇の視線から必死に守ろうとしたことは事実である。
(ただの優越感からだけの行動ではない)。
それから、やはりあの放火、サチコに唆されたとは言え、実行犯であるキュウゾウさんが御用となるのだろうな。
火をつけて喜んでいては、保護されるしかない。
そうなのだ。恐らく罪には問われないであろうが、何らかの規範は身に付けるしかないのだ。

タカオの存在ゾーンも際どい。
極めて脆弱で呆気ない。
何処にも向き合えない母親も、まともな泣き方すら忘れている。

サチコは、行くべきところまで行って、先生と力強くすれ違う。
恐らく、喫茶店で彼を待っている間に、徐々に覚悟が決まっていったのだ。
あの自覚的な面持ちなら、きっと大丈夫だと思う。
(やはり、夏子の方が気がかりになってくる)。

「リリイ・シュシュのすべて」に通じるところが多い。
あちらは、独特の湿り気と過剰な陰りがある。
こちらは、もっとずっとあっけらかんとしているが、風がときおり強く吹きすさぶ。


いつも帰って、ビン入りのヨーグルトを食べるサチコが何故かとても愛おしく感じられた。







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ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS.jpeg

2005年
山崎貴監督

吉岡秀隆
堤真一
小雪
堀北真希
薬師丸ひろ子
須賀健太

役者がまず、良かった。
特に、須賀健太が素敵だ。
あんな息子がいたら、面白くって頼もしいだろうな、、、と夢想してしまう。
(やはり男の子は抽象性が高い。)

何か懐かしい極彩色の看板に、魔法のように魅せられた気がする。
どこまでもシンプルで平板だがディテールは念入りに作りこまれている。
劇画タッチの速度あるシーンの絡みは、少年期の漫画と一体化していたこころに知らず接続していた。
そうだ、少年SF文学とか、プラモデルや粘土に熱中したあの時期の体温にまた浸っていたのだ。
やはり原作が漫画であることも、大きい。

30年代は、きっと時代そのものがアーティフィシャルだったに違いない。
ヒトも、街も、駄菓子屋も、広場も、車も、シュークリームも、注射器も、TVも、力道山もみんな。
ここに夕日が当たれば憧憬の色も殊の他ビビットになる。
それはこそばゆくって、いたたまれないほどに美しく。
VFXが再現以上の効果をあげている。


何というか、「これから」という時代というものは、単純に生命力を感じさせるものだ。
今も昔も、様々な面で格差が存在する。
かつての方がそれは大きかったかもしれない。
しかし格差という均質さよりも、固有時こそが際立っていた。
それぞれが色濃く生きている。
恐らくそうだったことを誰にも夢想させる力をここには感じる。

今のような、みんなで揃って来るところまで来てしまい、出口が見当たらないという閉塞感はなかった。
先は見えないが、空は開けていて夕日は瑞々しかったのだ。

昔は良かった、とかそれを懐かしむことが主題の映画とは全く違う。
そういったイデオロギー以前の、生命力ー身体性が活き活き描かれている。
ここには窒息するようなプロットや複雑な構成や張り巡らされた伏線など必要ない。


漫画や科学と学習の付録の少年少女文学を我を忘れて読みふけっていた時間軸にいつの間にか乗り入れていた。


吉岡秀隆と堤真一のコントとも見紛うベタな直球演技は、素直に楽しめた。
堀北真希も薬師丸ひろ子も負けじと面白く、素敵であった。
が、須賀健太である。
こんな少年は実際にいない、と分かっていても、素直に受け容れられた。
特に少年たちが、この映画を輝かせていた。





プール

pool.jpg

まだ、かの有名な「かもめ食堂」は見てない。
(わたしは映画ファンが定番としている作品の多くをまだ全然見ていない)。
「マザーウォーター」は見ている。
この「プール」やはり、「マザーウォーター」の雰囲気である。
音楽もわたしのブロともさん(やたらと音楽に詳しい方)がお気に入りというハンバート ハンバートがどちらも担当している。
製作者側にかなり気に入られているのだろう。絵とも柔らかくよく馴染んでいた。
舞台も「かもめ」は、フィンランドのヘルシンキだそうだが、こちらもタイのチェンマイである。(「マザー」は日本)。
しかも、綺麗なプールのある広いゲストハウスで悠々自適に過ごす人たちの姿である。
それ自体に何の文句もない。キッチンが兎も角、素敵だ。
特に、コムロイや修行僧たちの絵にはハッとする感動を覚えた。
拾われて育てられている現地の少年もよい味を出し好演していた。

とは言え、、、「マザーウォーター」でもそうだったが、主演陣は相変わらずである。
主演人物の小林・もたいがかなり変った人である。(マザーでもそうだが)
個性的と言えばそれまでだが。

全体的な雰囲気では、おっとりした流れの普通の人々の世界が淡々と描かれているかのようで、かなり異様な光景を感じる。
少なくともわたしにとっては、「害虫」(宮崎あおい主演)の方が遥かにリアルでフィットし心地よい。
あちらも、実に淡々とした映画である。

宮崎あおいのやる役は全てに深く共振するが、小林・もたいの役には、共感も好感も微塵も感じない。
ただ、振っているだけ。
その超然とした振りが、白々しいだけに思えるのである。
生活感や価値観、ドラマ性などの問題ではない。
実存”existenz”における妙な余裕がやたらと鼻につくのだ。

何故か、どの映画で見ても宮崎あおいには納得する。
脚本も演出もみな作品ごとに違うにも関わらず。
彼女の演技力・才能のせいか?彼女の個性・風貌のせいか?
わたしがファンだからか?(ファンだろうか?)
きっと彼女が本質的に持つ(実存と言っておいて矛盾するか?)真摯な目線、素直さ直向きさのせいである。
そこが宮崎あおいを信じられる理由である。

かと言って、小林・もたい氏にそれが欠けているなどというつもりは全くない。
娘役の人は、「マザー」に出てきた豆腐屋さんから見ると、印象が随分薄かった。
これと比べると「マザーウォーター」の方が小泉今日子と豆腐屋さんの女優がいる分、良かった気がする。


演出とか演技のレベルではなく、脚本・制作レベルで根本的に面白くない映画であった。
ただし、絵は綺麗である。




ウイリアム・ブレイク

William Blake


一粒の砂に 一つの世界を見 一輪の野の花に 一つの天国を見 掌に無限を乗せ 一時のうちに永遠を感じる。


ウイリアム・ブレイクの詩や絵画については、また日を改めて是非、書いてみたい。
今夜は、そこではなく、彼が作品を制作するにあったって、備えたことについてひとつだけ、、、。
何かといえば、身体である。
もう随分昔に、恐らく彼のデッサン集のどれかで読んだものであるはず。

それは、一言で言えば「身体」をほとんど感じることがないほどに、身体を鍛える-調整するということだ。
これは、今のわたしにとって、極めて説得力のある切実な備えである。
所謂、健康であること。
つまり真に中庸であること、である。

身体的な不具合や痛みを抱えていることで、思考に物質的な障害を与えることは少なくない。
特に時間性において過剰な遅延と停滞を齎し、その流れ・運動からの逸脱を強いる。
中断・断念・挫折へ繋がる。
そこに落ち込まなくとも、思考の中立性が維持できなくなる可能性に晒される。

スポーツとは、元来放つべき言葉をスムーズに出すために身体を調整することだといった身体論を読んだことがある。
(わたしのかなりの解釈が入ってしまっているが)。
何らかの種目で相手を倒すために、特定の筋肉のみを鍛える肉体的スポーツとは思想的にも方法的にも異なる。
実際、多くのスポーツでは、体の故障が引き起こされている。
精神-ことばには、何らかの影響は及ぼすにしても、それは二義的というか、結果的な副次性に過ぎない。
では、ヨガや太極拳などにそれが見られるか、というとどうであろう。
そこにある健康法が、自覚的にことば-身体に方法的に意識されているとはやはり見えない。
瞑想はどうか。
例えば、ずっと何も摂らず、座り続けていたら、身体そのものが衰退してしまうだけである。
何かを悟るとしても。
恐らく何も残さぬことを思想に繰り込んでいることは明白だ。
伝えること自体が端から放棄された自己完結性に徹底されている。
それで基本的によいのだが、ブレイクのように作品化する(伝える)には、あたかも肉体の重力を滅却した(肉体に縛られない)身体性の獲得が肝心であった。
ことば-詩そして造形において、完全な自由-中庸の場所を備えることを、まず彼は前提とした。
そういうことだと当時理解した。


相当な私的拡大解釈に思われるかも知れないが、改めて切実にわたしの現状に接続してきたことがらである。


”To see a world in a grain of sand. And a heaven in a wild flower, Hoid infinity in the palm of your hand. And eternity in an hour.”

こんな受容性(感受性)は、かなり鍛えられた透徹した身体を通さなければ、発せられない。
器官なき身体か?


石川啄木を読んでみたくなった。
いや、ドゥルーズか。


ローマの休日 ~by all means, Roma

Roman Holiday

Roman Holiday
1953年
アメリカ
ウィリアム・ワイラー監督
ダルトン・トランボ脚本
(まだ赤狩りがあった時期だという)。


グレゴリー・ベック
”Well, life is not always what one likes, is it?”
オードリー・ヘプバーン
”No, it isn’t.”


いつまでも色褪せない思い出があれば、この先もやっていけるか、、、。

”by all means, Roma”

そんな燐きを失わないであろう一生の思い出ってあるのかな、、、
と思うと、本当に一瞬の瞬く間の光景であったりする。
幼稚園の頃の細切れの光景をやけに覚えていたりする。

こんなふうに1日分あれば充分かも。

アン女王は、イタリアに表敬訪問中であったが、過密スケジュールで発狂寸前であった。
寝たふりをして、城を飛び出す彼女。
しかし睡眠薬を打たれていた為、夜道に寝そべってしまったところを、新聞記者のジョー・ブラッドレーに発見・介護?される。
オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ベックとの出逢いである。
(凄い出逢いだ)。
ここから始まる、目の覚めるような白日夢の物語。

王女は決意を込めて美容院で思いっきり髪を短くし、ジョーとともにこれまで憧れていた、やりたくてもできない庶民の楽しみを僅かでも体験しようとする。
何処を歩いても物珍しく何にも興味を示すが、お金を持った経験がない為危なっかしい。
ジョーは、とくダネを手に入れ一儲けしたい気持ちと、見守らなければいられない保護者の気持ちが綯交ぜである。
無理やりまた偶然に出逢い、彼は王女に接触しなおす。
彼女の願いに従い一緒にフィアット、ベスパのスクーターを乗り回す。
彼女の運転で彼が後ろにつかまり、ローマ市内を乗り回すところは、愉快で爽快だ。
スカーフがこんなにスクーターに似合うことを世界中の人がこの時知った。

スペイン広場、パンテオン、コロッセオ、トレビの泉、真実の口、、、ローマの名所を恋人同士のように巡る。
アンは自分の素性を彼がすでに知っていることを分かっている。
彼もそのことに気づいている。
この際、彼が何者であるかは、あまり彼女は気にしていない。
誰であろうが、所詮どうにもならない立場なのだ。

真実の口のシーンでは、驚いた拍子に思わずアンというより、オードリーの素が飛び出るが、これがまた彼女の魅力を深める。
なにをやっても、爽やかで美しく健気である。(華々しいブレイクが予感される!)
街の人たちから、いいカップルだ幸せにな、などと言われ満更でもないふたり。
楽しく恍惚とした時が流れる。
夜のサンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーでふたりは大暴れして、果ては水に飛び込み彼女を連れ戻そうとする追手を振り切る。
ずぶ濡れになって、ジョーのキッチンのないボロアパートへ一緒に帰ってくる。
せめて最後に彼女は手料理でも振る舞いたい思いにかられた。

ひとときの夢は終を告げる


「人生って、思うようにはいかないものだね。」
「ええ、そうね。」

そして、城へと、、、現実に帰るときだ。

彼は取材のため彼女を誘ったことを、送る車の中でひとこと謝りたかったのだろう。

”No, please. Nothing. ”
アンがそれをそっと止める。

切ない。

そして、誰もが独りで生きてゆかなければならない。


会見の日。最期に王女は、ジョーが記者であることに少し驚く。
しかし彼は心配いらないことを彼女に告げる。

”by all means, Roma”
公式の会見であろうとなんであろうと、彼女はこの一言だけは、彼にかえしておきたかった。


十番街の殺人

10 RILLINGTON PLACE

10 RILLINGTON PLACE
1971年
イギリス
リチャード・フライシャー監督

リチャード・アッテンボロー
ジョン・ハート


これは、よくあるこれみよがしのサスペンスホラーではない。
虚仮威しが一切ない。
何らかのテーマを寄せ付けない、隙のない作品である。
それは、演出にもはっきり現れている。
徹底して即物的な淡々とした描写がとても気持ち悪い。
そう、居心地悪く、不安なのだ。
先の読めない不安や宙吊り感ではない。
隠された真相や謎解きなど全くないし。
時間的に遡る人物像の心理学的な内面分析など全く締め出されている。
猟奇犯の過去の罪歴が明かされるが、それはあくまでも単なる罪名であるに過ぎない。

見え見えの伏線絡むドラマ性や偶然の恩恵や不意の事故などの振幅や飛躍もなく、ブラックな雰囲気作りやハードボイルドを狙ったお噺の類ではない。
ただ、虚無が切り取られているだけだ。

ヒロインかと思われた若妻が前半早々に、いとも容易く猟奇犯に殺される。
逃げられる状況的要素は少なくとも3つあったが、どれにも接続されない。
このあっけなさ、寄る辺なさは、しかしわれわれの淡白な現実を思わせる。
われわれは、ドラマ(物語)に馴染みすぎてきたことを知らされる。

ハリウッド映画ならまずそこがフルに活かされ、サービス満点のマニュアル通りのエンターテイメントが展開してゆく。
フランス映画であっても、そのへんを上手くオシャレでスタイリッシュな流れに乗せてゆくだろう。
その他、ベルイマンとかタルコフスキーであれば、神の不在を問い詰めるような、透き通り張り詰めた超越的な光景に広げてゆくか。
その点、この作品には、何もない。
その場をやり過ごす言葉しか持てない若い亭主と、病の囚人という他に言いようのない猟奇犯が機械的に自らの運命を辿ってゆく。

この映画には空間的にも時間的にも超越的な視座がない。
神の目がない。

観る方としては、何にも寄っかかれない姿勢で、猟奇犯や若い軽佻浮薄な亭主と暫しともにいるだけだ。
少なくともこっち側で、ポップコーンを食べてる場所はない。
この先どうなるかを見守るのではなく、その場面に寄り添うだけというあまりしたことない経験であった。


それにしても、あの亭主の悲哀たっぷりなあっけなさ。
どうして彼を真犯人だとするのかね?の問に対し「やまかん」と応えて、絞首刑。
法がもっともあっけらかんとしていた。
猟奇犯の病の底知れぬ根深さは、もう業の成せるものとしか言えまい。
あの無能な亭主に罪を被せて自らの潔白が証明されてしまった時の号泣は、まさにこころの底から突き上げてきたものだろう。

リチャード・アッテンボロー
ジョン・ハート
この2人の主演。演技には見えないホントにその人に思えた。
身も蓋もない名演であった。


こういう話は、どこかで読んだことがあると引っかかっていのだが、何だカフカによくある話じゃないか、と今気づいた。


ブロブ 宇宙からの不明物体

Blob.jpg

The Blob
1988年
アメリカ
チャック・ラッセル監督

何か怪しく密やかな「滴」というより、もっとあられもないデンと構えた奴が出そうな予感は、その邦題からしたのだが、、、。

かなり時代性を感じさせる作品であったが、、、微妙な味わいであった。
如何にもといったアメリカの田舎町であり、アメフト選手やチアガールで、ちょっと目立ってモテようとするか、場末のダイナーや小さな映画館のB級ホラーでグダグダ過ごすか、というやるせない停滞した空気でどんよりしている所だ。
そこには、その小さな環境で優等生やってる少年少女もいるが、とてもじゃないけどやってらんねーぜ、というとんがった兄ちゃんはバイクを乗り回す。(ただし独りで)。
そりゃそうだ。窒息しそうな田舎だもの。
よく分かるとても説得力ある景色なのだが、こちらはどのタイミングでそれが出るのかだけが気がかりである。
その背景作りはもう充分という頃、、、。

「宇宙からの不明物体」原色でギラギラした、稚拙で詳細な劇画看板を思わせる邦題が妙に期待をそそるなか。
比較的早く「不明物体」は律儀に飛んで来た。
ウルトラQのガラダマもどきの分かり易さで、ほのぼの降ってくるではないか!
こりゃ触手が動くというもの。(わが円谷の当時の特撮技法に近い!あの特有のゆらゆらした物の飛来シーン)。

この映画、質感が好ましい。
独特のアーティフィシャルでキッチュな感触がイケる。
「不明物体」が凶暴なグデタマであるところも良い。
所謂” Blob”「ふとっちょ」である(笑。
どこかプッチョにも似ている(爆。
笑ってる場合ではない。

敢えて特殊な形を纏わず、変幻自在に身も蓋もない凶暴な暴れ振り。
恐らく細胞の形・動きそのものを拡大イメージしたものだろうが。
DragonBallZに出てくるミスターブーにもそう遠くはない。
ヒトを次々に取り込んでスケールアップしてゆく。
この情け容赦ない機械的徹底さが、「宇宙からの不明物体」という他者性を存分に見せつける。
いや逆で、この邦題が見事にたどたどしく(バカ正直に)も説明的にそれを上手く表していた、というべきだ。

しかし、実は外から来たものではない、というオチである。

アメリカ軍が生物兵器として開発した細菌実験であったのだ。
ひとつの田舎町を実験場にして、どれほどの威力を持つか軍のデータ収集の目的で行ったことであった。
政府の細菌兵器研究者たちは、町の人々を犠牲にして、その巨大細胞といったスライム状の化物を捕獲しようとする。
よくあるオチである。

で、こんな状況で頼りになるのは、お巡りさんでもなければ、神父でもなく、善良な街の人々でもなく、不良として普段白い目で見られていた例のバイクにーちゃんであった。
人間は、自由を求めるものだ、とかカッコつけて言い、誰よりも早くに研究者たちの胡散臭さを見抜いて彼らの隔離・保護対策(策略)から逃れ脱走したり、なかなか勘が冴えている。
彼は、ともかくアウトサイダーで活き活きするタイプのヒトだ。
結局その不良のお陰で、街の人は救われる。

そのスライム化物の退治方法を見出したのも、その不良である。
「宇宙戦争」でもそうであったが、未知の敵(例の火星人など)を倒すには、その弱点を如何に発見するかにかかっているものだ。
この作品でもまさに、そこである。
観察眼のある頭の良い不良なのだが、このパタンもこれまでよく目にしてきた。
殺られて変形したヒトの顔をホラーっぽく見せつけるところなど、一連のサメ(アナコンダ)パニック映画でもお馴染みのカットである。

ということで、既視感が充満した内容であるのだが、しっかりまとまった流れのある味わい深いSF映画であった。
防護服を着込んだ軍関係者たちが、次々に巨大化したスライム怪物にベッタンベッタン潰され取り込まれてゆくところを見ているうちに、プチプチの快感に近いものを感じてもくるのだ。
ちょっと感覚的に麻薬的な麻痺を誘う魅力がある。
即物的物質感というか、特有の感触を大切にしたトーンで丁寧に作られていることで、ある水準を保っている作品といえよう。






これでいいのだ

20101008_akatsuka2_v.jpg

赤塚不二夫氏の自伝映画みたいなのだ。

赤塚不二夫氏は、何をやろうと(映画では、劇画タッチを強調しすぎて空滑りしている感じもあるが)、常に人のこころを引き寄せ愛されてきた。

その理由は、はっきりわかった。

この映画で、改めて強く実感したことは、少年期(初期)における、母親との関係の取り結び方である。
恐らくその後の「世界という関係性」の基調は、ここが決定する、と言っても過言ではない。

如何に安らかで、絶対的な支えとなる親和的な関係性が母子間に築かれたか。
と言う水準ですらなく、何か根源(原初)的な信仰の強度を持つ異様な愛の拡張をここに見る。
(何というか、人類以前の種のコードを強く感じる。つまり家-共同体以前の)。
ここは、思った以上に根深く大きい上に、決定的な何かである。

バカボンのパパ、いや赤塚不二夫役は浅野忠信である。(最初は、受け入れ難かったが、次第にしっくりしてくるのであった)。
赤塚氏専任の編集者に堀北真希である。(浅野同様、芸の幅を広げるべく健気な奮闘が見られた)。


奥さんが堀北編集員に真剣な面持ちで、そっと告げる。
「わたしは2番目なんです。」
明らかに、普通ではない。
しかし勿論、これは良いとか悪いの課題ではない。
もっと本質に降りてしまった実状報告に過ぎない。

通常多くは(わたしの家などまさに)母子間は支配・被支配の暴力関係に全てが流れ込み(カナリゼーション)、文化的に食うか食われるかの構造が強固に形作られていく。
全ての機微が、微細な感情の細い支流の全てが、その構造へと流れ込み、もう後戻りは出来ない。
エピジェネティック・ランドスケープ(後生的光景)である。
吉本隆明も親子とは、どちらかが相手を殺す関係にしかならない、と分析・達観していた。

赤塚家では、息子が母から暫く離れて暮らさざる負えなかった寂しさを埋めるために、必死に無心に描いた漫画を後に母親が自ら集め綺麗に綴じ、それを彼とともに出版社に売り込みに行くのだ。
これだけで、彼と母の関係は絶対になってしまった。
変性とは、そんなほんのひとつの行為やことばで生じるものだ、恐らく。
そして、多分そちらの方が、愛らしい上に素敵だ。
見守る者も戸惑い、絶句するが、何故か涙が溢れてくるではないか、、、


彼にとって母親は、すでに神であった。

この喪失感から転じたこの上なく暖かい充足の場所に対する絶対的な敬愛の情こそが、彼の世界観の枠となった。
だから安心して逸脱できる。
どこでどうしても、良いのだ。
なんでも作れる。
どうにかなる。
必ず、かーちゃんは認めてくれるし、全力で後押ししてくれるし、愛してくれる。
何があっても必ず、「かーちゃんが助けてくれる。」
そしてかーちゃんが世界と自然に重なっていた。
最終的に救われるのだ。

そりゃ、新しい連載始める時など、アイデア出しに苦労はするけど、周りのみんながみんな、絶妙のタイミングで笑顔で手を貸してくれる。
疑う余地なく、世界は自分のものなのだ。
例え、自分のお金を着服して逃げた社員がいても、「としとったかーちゃんが、そいつにもいるんだよ。」
全ての宇宙が「かーちゃん」で繋がるのだ。
訴える必要などどこにある。


「これでいいのだ。」

きっと神とは、本来こういう姿をしているのだ。

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堀北真希の戸惑いが伝わってきた。
赤塚さん専任の編集者、これは難しい役だ。
実際にも余程の何かがなければ務まるものではなかろう。


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観察熱心な集中力の凄いプロである。
彼にとっては自然体の側面の一つであるが。


少年期は誰だって孤独だ。
しかし、その時期に過剰な単独状態を強いられた魂は、極度な集中力を恐るべき強度で発揮する。
この作品でもそんな風景は見られた。


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彼の作品の影響はいろんな人たちが受けたはずだが、同業者だってかなり感化されたと思う。
藤子不二雄の漫画に出てくるいつもラーメン食べてる小池さん(後にソロデビューもしたが)は、相当、赤塚キャラに被ってくる。
わたしが1番好きなのは、「バカボンのパパ」なのであるが、いつも掃除している「レレレのおじさん」も結構好きである。
このいつも同じ何かを反復する極端なキャラというのは面白い。
学生時代に彼そっくりの男子に「レレレのおじさん」(まんまである)とあだ名(呼び名)をつけた。
特に掃除も同じこともしないが何とも言えぬ、全身から発せられるオーラが激似であった。
彼本人はそのあだ名をそれほど気に入っていなかったようにも思うが、呼ぶといつも普通に返事を返してきた。
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そうそう、ケムンパスとデカパンもお気に入りだ。
娘たちに昨日それらをマンガ本から見せたてみたが、さほどの反応はなかった。
しかし、プリキュアに出てくる連中の平板性と紋切り型には流石に小1の彼女らも辟易してきたらしい。
(わたしは少し安心する)。
最近は、ブースカとグデタマが可愛いそうだ。
(確かにこの脱力系2者は近い。)
わたしもかなり逸脱したか、、、。


この映画が、映画作品としてしっかり出来ていたかというと、(?)もあるが、わたしにとって肝心なところは、受け取った。
浅野忠信、この二枚目俳優がバカボンのパパにしか見えなくなっていた。
堀北真希は、、、爽やかで可愛かった。

海のうた

Robert Wyatt

Robert Wyatt
彼は2014年に全ての音楽活動のstopを宣言している。(引退ではなく、stopとのこと)。

必ず、定期的に聴く曲がある。呼吸困難になった鯉が水面で息をする身振りで。
この"Sea Song"がその中の一つ。
(ちなみに昨夜は、長女と一緒に、Vanessa Paradisの”Joe Le Taxi”を堪能した。彼女も凄く気に入ったらしく、いい曲だね、と言いすやすや眠った。その後、Naimee Colemanの”Ruthless Affection”を聴いてわたしも寝た。)
ニック・メイスンのプロデュースで、”Rock Bottom”を引っさげ復活したロバート・ワイアットの”The End Of An Ear”以来の実質上のセカンドアルバム(マッチング・モウルを除く)の一曲目。

"Sea Song"

”Shipbuilding”、” At Last I Am Free”もよく一緒に聴いた。これらは彼の曲ではかなり有名な曲である。
もちろん他の曲もよく聴いた。”Nothing Can Stop Us”急遽ロバート・ワイアットが聴きたいのだ。
何故、ロバート・ワイアットが必要なのか、、、。

その理由の全てがこの曲にある。

不意に沸き起こる「情動」を冷まし清めて昇華してくれる音楽なのだ。
これを無私の優しさの強度と言わずして何と言おう。
激しさも、厳しさも、妥協も、生ぬるさも、愛情も、、、全ては自我の偏りの支配欲の波である。
何者も取り込もうとしない波。
そして、それだけではない。

阿寒湖のほんの一部、サッカーコートの半分位の場所だけで、マリモが丸く育つという。
もはや、そこ以外にマリモの育つ環境はない。
有り得ないほどの絶妙な環境が、植物学的に有り得ない(極めて光合成に不合理な)形体-球を創造-維持している。
不合理であり、不条理な存在を生かしてくれる有り得ない波。
そんな奇跡の「海のうた」だ。

この曲のスキャットがロバート・ワイアットの海を押し広げてゆく。
無限の彼方の燦めきにまで。
わたしたちをこの岸辺で夢想の内に、つなぎとめていてくれる。



Robert Wyatt 02



エコーズ

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湿り気たっぷりのエコーズを聴いた。
何せ、ここのところ、デビット・ボウイを聴いているうちに、クラフト・ワークを聴き始め、ロボットになった夢を見たので、ピンク・フロイドあたりで、戻ってこようと思った。

エコーズはホントに湿っぽい。
あまりにリリカル過ぎる。
そして、ことの他イギリスだ。

アウトバーンで無限軌道を疾走するマシンからは、到底感じられない湿気である。
しかも、湿気どころかレディオ・アクティビティの中を突っ切るのだ。
(実際、原発事故の後処理も全く進んでいない)。
何もピンク・フロイドでなくても良かったのだが、冬の乾燥にはよかった。
ここ2日ばかり、喉もヒリヒリなのである。
先程から妙な鳥の鳴き声がする。
宙を仰ぐ。
空がこれまたあっけらかんと、光っている。

徐々にやって来る。
避雷針を背負った男が。
背中が光るのは後光ではない。
気をつけなければ。

朝に頼むな。
夜は気まぐれ。
どっちも信用できないとFewがかつて言っていた。

確かに、夜の夢も、昼の白日夢も当てにならない。
しかし、起きてる時が人間、1番危ない。

これは、言うまでもない。

全ての愚劣がここに堆積しているではないか!
吐き気がする。
虫唾が走る。
風邪をひいたのか?
(隠された何かの病か?)

未だに風邪がなんであるのか分かってはいないが、恐らく人類が絶滅するまで分からないだろう。
わたしが、1番信用しないのは、医学だ。
(では、何を信用するのか?世の中、信用で成り立ってはいない。思い込みでかろじて成り立っている)。
空中分解というのが、最近流行っているらしい。
馬鹿らしい。
そもそも、、、何があったというのか?
何が?

わたしという、この感性と痛みは、どこにあるというのか?
それは、これから、何処に逝くのか?
それだけが唯一絶対の関心事である。


わたしが無になった瞬間、全宇宙が消滅する絶対真理の前で、この全表象の意味は?
ナゼ、わたしは、これを経験するのか。
わたしは、絶対無神論である。
「ゼロの定理」を思い起こす)。

エコーズは、やはりただのエコーズであった。

エコーズは、やはりただのエコーズであった。

クラフト・ワークからの乗り換えは、”カン”しかなかったか?
それとも、オランダの”メカノ”にするか。
今思い出した。
ジョイ・ディビジョンがニュー・オーダーとならずに、そのままで行ったら、メカノになっていたかも、といわれる彼ら。
つまり、それはイアン・カーチスが狂気に耐え続け、あのお経のようなボーカルを唱え続けることを意味する。
その強靭さと悲痛さと攻撃性のテンションがどれだけ維持できるか。
これは、聴く側にも限界がある。


カンの原始的で知的なカオスエネルギーを全身に浴びたい。
また、クラフトワークの理詰めの凶暴なシーケンサーに惚けるのもよいが。

エコーズは、あっけなく静かに途絶えた。

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CANの面々。





雪だ!

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雪が降ると胸が騒ぐ。
わたしが、娘と同年齢の頃は、雪はよく降った。
自宅の庭に、かまくらを作り、そこにミカンと何故か牛乳を持って籠ったことがある。
中はとても明るく、カラッとしていて寒さはなかった。
勿論、牛乳の美味しかったこと、、、。

雪の思い出には常に眩しさがある。
一緒に登校していた友達と雪に覆われた路を歩いていると、不意に彼女が「この雪に寝転がりたいね」とそっと言った。
雪は一面に輝いて眩しかった。
光の粒たちがみな飛び跳ねている。
わたしたちは、無垢な笑顔を見合わせた。
澄んだ空気に気持ちが吸い込まれて、スッキリした風になる。
あたたかく、太陽も冬なのにやさしい。
おもわずわたしたちは、笑って小走りに走っていた、、、。

だれにも重力から解かれる一瞬はある。
他のことなど、どうでもよい。
その記憶だけは、どこまでも胸に秘めて逝きたい。
この白い、、、一面に白い、、、


雪かきシャベルの音があちこちから響いてくる。
あの、アスファルトを擦るシャリシャリ音だ。
雪国のヒトは、きっといつも大変だろう。
しかし、この程度の降雪で、何でわざわざ雪かきするのか。
せっかく、全てを隠蔽する真っ白い雪が降ったばかりなのに、、、。
運行見合わせの電車のニュースがどこからかしてくる。

きっと昨日までの悪夢を帳消しにしてくれる。
いっそわたしたちは、時間の乗り換えをしてもよかろうに。


働き者たちが、たちまち日常を掘り出してしまう。
彼らは止まった時間に窒息でもするというのか?

もう少しこのままにしておいてはもらえぬか?
遅かれ早かれ、花が散るように雪もかき消えてしまうのだ。
(日陰の雪はしぶといが)。


道から雪はどけられ、チェーンの金属音をかき鳴らして車が行き来し始めた。
いつもより、うるさい。特に重低音が。
そう、いつも思うが、静かな時はいっときだけなのである。
人の生のほとんどは、騒音まみれに違いない。
大切な音は、きっと大きな音に消し去られてきた。
そんな刹那を幾度思ったか。
虚空に彷徨う力ない視線では何も追えなかった。


雪がたまにしか降らないこんな所に住んで、なんで雪かきなどするのか?
それは何の身振りなのか?
何を人に見せ、何を共有しているつもりなのか?


もっと、雪を観たい。
ずっと、雪を観たいのだ。

このままで。


次女の腹痛

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次女の腹痛
入浴後、いつものように寝かせようとしたら、刺すような下腹部の痛みを訴え、とても寝るどころではない、ということなので、すぐに救急病院へ連れて行く。

痛みが出て直ぐに病院に駆け込んだものの、熱も無くトイレも出ず、変なものも食べてはおらず、感染症でも、虫垂炎でもなさそうだ、という所見から、医者は様子をみようというだけ。
若い医者である。

様子をみると言っても、眠れないんだがどうしたら良いかと聞くと、じゃあ待合室で30分待ってて、という事で、少しでも早くと思って連れて来てみたのだが、意味がなかったことが分かる。
様子を見て対応ということであろう。
次女の腹痛だけが、この時の流れの中で、たったひとつの確かな現実であり、サッパリ意味不明の空間が淀んでいる。

何が原因で痛いのかが、分からない。本人も医者も分からない。勿論わたしも分からない。
その為、意味も無い時間を咳をしたり嘔吐したりして待っている患者の中で過ごすこととなった。
待ってるうちに、これも極めて馬鹿げているとしか思えなくなる。
環境の悪い待合室に30分程度いたところで、何がどうわかるとは思えない。
次第に鈍い怒りがこみ上げてきた。

次女と、こんなところに待っていて何か意味があると思うか?とやり取りをしはじめると、看護婦が中待合でお待ちくださいときた。
結局、30分待ったが、痛みは変わらず、医者もどうしたら良いか分からず、痛み止めのとんぷくもらってきて飲ませてくれ、という。
薬局でもらって、飲ませ、また30分。
長椅子に寝かせ、わたしのダウンのコートを掛けた。

いつもは、8時半には寝つくので、もう2時間超過している。
もう10時半だ。

何とか眠らせなければ。
兎も角、今は眠らせることだけが、必要な事に思える。
とんぷくでも何でも飲ませ、取り敢えず眠らせてあげたい。

薬のせいか、少し楽になったようだ。


ということで、ほぼ病院からのライブとなった。
これが、生活というもの。
育児か、、、。



小さな悪の華

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Mais ne nous délivrez pas du mal
フランス
1970年制作
ジョエル・セリア監督

確かに、内容的には製作当時上映禁止になる理由は取り敢えず分かる。
しかし、日本とアメリカだけは、上映したというのだから、フロンティア精神旺盛というかチャレンジャーである?
別に、上映したからって、どうというものでもないと思うが。
一緒に、「闇のバイブル」(聖少女の詩)という作品も観てみた。
(ちょっとパッケージ的に似た印象をもったため)。

この「小さな悪の華」の方が話としてはずっと面白かった。
しかし、主演女優は「闇のバイブル」の方が良い。
こちらは、女優であったが、本作は普通のそこらのねーちゃんである。
一番、この作品(「小さな、、、」である)の残念なところは、女優であると感じてしまった。
「闇の、、、」の方の女優ならしっくりしたが、こっちは、ちょっと普通すぎる。
女優をしっかり選んでリメイクしてもらっても良い、と思うが無理にリメイクしてほしいほどのものでもない。

日本でもしリメイクするなら、例えば小松奈々ほどの美女では、相手の男が逆に改心して教会に懺悔の告白に行ってしまいそうなので、少なくとも本作よりは綺麗で、小松奈々より庶民的な娘が設定上、ピタリとはまるだろう。
ともかく、予算の関係なのか、余程オーディションに人が集まらなかったのか、見切り発車で作ってしまった感が強いふたりの主演映画である。
そのふたりが、どうよっ!というドヤ顔で誘惑してきても、基本「何やってんの?」レベルなのだが、、、。
しかし、物語上、相手役は欲情して追い掛け回す訳ではある。
終始、こちらとしてはその流れに同調できず、距離感を持って眺めることとなった。

やはり、こういう物語は、その主演女優がまず肝心となり、その魅力が前提となって物語が進展してゆく。
ロートレアモンの「マルドロールのうた」に興じたり、その影響をくらったこれみよがしなお話を書いてみたり、男をたぶらかして歓び、その男の大切に飼っている小鳥を殺してみたり、牛飼いの牛をみな逃がしてしまったり、放火をしたり、魔女儀式をしたり、誘惑した結果襲いかかってきた男を殺害して水に沈めてみたり、、、ひと通りのことをふたりで夏のバカンスに楽しむ。
間違いなくこれらをただ、ふたりで一緒の時間を過ごすためだけにやっている。
一緒の時間を少しでも濃密にしたい、それだけの気持ちなのだ。
何をやるかは、問題ではない。
しかし、悪いことの方がスリルと興奮と共有する秘密も持てて楽しめるではないか。
それが際どいほど、えげつないほど、密接する-ひとつになる、歓びが高まってゆく。
無意識的に宗教的な、法悦に近いものをふたりは目指したのか、、、。


とは言え、、、
「闇の、、、」の方は、女優は良いのだが、物語の方が訳の分からぬ煙にまいたファンタジーで、見終わって一体何を見たのかが、さっぱりであった。実際、これほどの思わせぶりだけで漂いまくる映画も珍しい。
こちらは、思春期特有の自己中のウザイ娘の物語で、内容的によく分かるものであるが、どうもその悪ガキ自体にオーラがないのだ。
微塵も無い。
そこが、問題なのだ。
スタッフはもう少しキャスティングに時間と金をかけるべきであったのでは。
そっちの方で、もっとしまっていたなら、文字通り、上映禁止の「背徳的インパクト」も鮮やかであったろうに。
実際、日本とアメリカで上映されても何ともなかったのでは。
ヨーロッパ杞憂である。

最後に、舞台でふたりが詩を朗読して、焼身自殺するが、ただ、観客はホントに燃えてる!と狼狽えるばかりであった。
こちらもあれまっ、という感じで驚いたが、彼女らに対する共感やら同情などは、まったく覚えない。
やはり観客同様(その中には彼女らの親もいるが)、なにあれ!?である。
唖然とする、なにあれ、、、UFOよりずっと思いがけない何か。
しかし、その実だれもの識閾にひっかかりていて、なかったものにしておきたい、無意識に隠してしまっているようなそれをあからさまに眼前にしてしまったのである。
唐突に晒け出された自らの「それ」に怯えているのだ。

自らの身体の内に抱え持っている異様な異物が、今燃えているそれなのである。
思春期の観念的に肥大した名状しがたい怪物の出現!


そうなのだ、製作者たちは、その感覚を強く訴えるためにあのキャストを選んだのだ。
最後に彼女らに同情を感じてしまうようでは、物語の肝心の締めくくりで純度が保てないではないか!
そういうことだったのか!?
きっとそうなのだ!(バカボンのパパか?)

ゼロの定理

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The Zero Theorem
2013年
イギリス・ルーマニア・フランス・アメリカ制作
テリー・ギリアム監督

テリー・ギリアムは好きな監督ではない。
これまでの作品も面白くなかった。
だが、本作に限って、良かった。
触発度と絵のクオリティが、高いからだ。


主人公がミッシェル・フーコー似の、コーエン:クリストフ・ワルツ。
余りに哲学そのものの風貌でプログラムを仕事にしている。
常にわたしは、とは言わず我らは、を主格とする。
フーコーと違い大変硬直したペーソスたっぷりのキャラを味わい深く演じている。
禁欲者であり、ホモではない。

展開に連れ、エンティティがデータベースにおける対象物ー実態であるに留まらず、アクチャル・エンティティ化(アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの言う)してゆく。
それは、あたかもサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」の再演さながらに。
(ここでまた、何故ベケットは第二外国語でそれを書いたのか?)
主人公はエンティティを睨んでプログラムを組みつつ、アクチャル・エンティティからかかってくる電話をひたすら待ちわびる。
来る日も来る日も、しかも電話は自宅でとらなければならない。

かつて一度はかかってきたのだ。
その時、あまりの歓びのため、誤って受話器を落としてしまった。
それ以来、今現在の生活が反復される。
あの言葉の続きを、電話にかかってくることを、ひたすら待ち続ける日々である。


その間、謎の美女ヘインズ:メラニー・ティエリーに電脳空間で出逢い、しだいに惹かれてゆく。
電脳空間のそのあざといこと。
そこでもコーエンは、安看板そのもののマリンビーチで深い海に突如溺れる。
その次の電脳デート時には、ブラックホールに、ヘインズもろとも落下する。
「あなたって想像の中でもいつも無を抱えてるのね!」
コーエンにとって、生の全ては、電話待ちなのだ。
生きる目的を知りたい。

マネージメント:マット・デイモンの息子ボブ:ルーカス・ヘッジズとも親交を持つ。
名前を覚えるのが面倒なため、彼は従業員からボブと呼ばれる。
凄く面白い掴みどころのない天才プログラマー少年だ。
すべてのキャラは、マネージメントの差金でコーエンのもとへのこのこやって来る。
しかし、ヘインズとボブだけはコーエンにとって特別な意味を持つ。

彼の部屋は会社のカメラ(キリストの磔刑画に備えられた監視レンズ)で常に監視されている。
しかし、コーエンは、超越しており気にしない。単にそんなことどうでも良いだけなのだ。
彼にとっての関心事は、かかってくる電話だけなのだ。
その為か、「存在意義研究科」に所属してもいる。
また、強く自宅勤務を切望している。
電話は決して、転送でも留守番でもダメなのだ。


終盤、かつてのあの電話はあなたの妄想だと言われ混乱を極めるコーエンの「生きている意味とはいったいなんですか!」
という悲痛な叫びに対し、
「君は聞く相手を間違えている。」

軽くあしらうマネージメントは、づづけて言う。
「わたしは神でも何でもない。ただ真理を追求する者だ。」
「実業家だ。」
「カオスを整序すれば、その分が富となる。」

これは、良いアドバイスだ。
この監督を見直した。

「真理を待ち続けることで、人生を無駄としてしまった君にはもう用がない。」
マット・デイモンやたらと決める。
これまでの彼の映画で恐らくもっともカッコ良い。


この映画を観ていて連想した文がある。
随分前読んだ、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの次のもの。
「すべての哲学は順番に退位されるだろう。そしてアクチャル・エンティティだけが残るだろう。その時、機械と存在との戦いがはじまる。」
今でも覚えていた。
強烈だったからだ。
ジル・ドゥルーズとミッシェル・フーコー、ロラン・バルトを読んでいた頃、なかでも非常に残った一節。
特に、ジル・ドゥルーズとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、ごく普通のことばとして読んでいるそれが尋常でない意味で使われていることに気づく。
確かにジル・ドゥルーズは、哲学とは、概念の発明である、とはっきり述べていた。
ロラン・バルトは、わたしが文章を読んでいてもっとも触発されるのは、その文の内容とか文体とかよりも、そこで使われることばー単語である、といったことを語っていた。その単語を咀嚼するときに浮かび上がる豊かなイメージから受ける思想の大きさについてである。(わたしの解釈で語っており、原文からは程遠いのだが)。
そして、あまりに美しい、ミッシェル・フーコーの実践的詩情。
厳密な哲学思想ばかり語られているが、彼の詩情は、時にたまらない。

そして何より、「アクチャル・エンティティ」=「具体者」である!


彼は、ただひとり、ヘインズだけのいない夕日の沈みかけたマリンビーチにいる。
ヘインズがいないのであるから、人類などすでにだれも残ってはいない。
キラキラする砂浜にフーコーそっくりのコーエンが佇む。

ビーチから海に入ると、彼は夕日を手に掴んでもみもみしてニッコリする。
彼は何者なのか?

とてもジンとくる静かなエンディングである。



また、お気に入り映画がひとつ増えた。








麦秋

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1951年
小津安二郎監督

初夏である。
「紀子」第二弾にあたる。

笠智衆が何と、紀子のお兄さんやってるではないか!
やたら若いのだ(驚。
しかもである。東京物語で奥さんだった人が、おかあさんなのである。
それは、ちょっと、、、。

原節子はここでも「紀子」なのだ。
どうしても何らかの連続性をどこかに思い入れてしまうが、それでは奇妙な(気まずい)混乱を感じてしまう。
ちょっと、居心地悪い。
もうひとつ、お父さんが、やはり笠智衆でないのが、最後までしっくりこなかった。
次の「東京物語」を先に観てしまっているからなおさらだ。
笠智衆が原節子の義父で、あのお母さんが笠智衆の奥さんで、一緒に浜辺の桟橋を歩く姿がイデアとなってしまっている。もうどうにも修正は効かない。
「東京物語」の方がどうしたって「真の世界」なのだ。

彼女が紀子という名前でなければ、まださほど気にならなっかたはずだが、、、。
ただ紀子はここでも、「お嫁に行かないか?この男はなかなかいい奴なんだ。」
とか「~大学を出て、旧家の御子息なのよ。今は~会社の常務なの。」
などの話は、相変わらずもちかけられる。
取り敢えずこちらは、一段前の下界の姿として観よう、と思う。

ともかく、じいさんがいっぱい出てくる作品だ。
紀子は、にこにこしながらじいさんの横に座っている。
「とってもお金持ちで、一生遊んで暮らしていられるところ、ありません?」
とお見合いの話ばかりでうんざりな彼女がお茶目に聞く。
するとじいさんが応える。
「いやー。いい天気だーっ。」

「やまとは、ええ。」「まほろばじゃい。」

、、、、、静かな光景に染み入る、、、、。

このへんに来ると、もう境界を一歩跨いでいる。
あやうい。
このあやういじいさんたちの存在が、濃密な緊張感を維持してゆく。
例によって、境界界隈の光景が挿入され、、、。
大仏だ。
そして誰の隣にも、いつだって紀子が、菩薩となって慈悲の笑みを湛え座っている。

そうだ、彼女は救済に来たのだ。
56億7千万年待たずとも。
すでに、そこにいながらにして、まほろばであった。

じいさんは、耳が聴こえないのか、聴こえているのか定かではない。
しかし、余計なことなど聴こえすぎないほうが、肝心の声が聴こえるというもの。
、、、即身成仏。

しかしそれを身を持って体現している笠智衆が、今回やたらと若い。
何と、ひとを叱りつけたり、子供に怒ったりもする。
ドリフの加藤茶に芸風が一瞬ダブルところもあったりして(あの麩の執拗な開け閉め)、思わず頬が緩んでしまうがちょっと残念ではないか。そういうお茶目は期待してない。
しかし、すでに枯れているため、脂ぎった演技は無理である。
やはり、笠智衆は兄であっても、いつしか父親的な存在に落ち着いている。
であるため、父親役の役者が霞んでいた。
本来、笠智衆が語る語り口を踏襲しているが、板についていない。
特にその父親役が、あのお母さんと並んで座って話しているところなど、パロディを観る思いがした。

これは無理もないと言える。
こちらは、時間軸を逆に観てもいるし。
笠智衆の演技とも何とも言えぬ身体性に感化されてしまっては、、、、。


じいさんだけでなく、紀子女子会もかなり見られた。
「ねーっ」
が、頻繁に発せられた。
「ねーっ」は、なかなか普通聞けない。
特に原節子の「ねーっ」である。

ま、いいか。
パクパク食べる姿もかなり見られた。
原節子の人間的な普通の側面を見せようとしているフシがある。
しかし、原節子は原節子である。
Audrey Hepburnがそうであるように。
ピカソが如何に自分を破り捨てても、新たなピカソの絵は、ひと目で彼の作品と分かってしまう。

やはり存在そのもの、である。
それを観るだけである。
何をやるかではない。
どのようにあるかである。

紀子は一見物凄く突飛なタイミングで、まさかという人(幼馴染)と結婚を決めてしまい、家族全員が色めき立つ。
親兄弟は受け入れ難いが、紀子は良い縁談を蹴って、二つ返事でその申し込みを受け入れる。
彼は研究のため4年間遠方の土地に暮らす為に明日東京を発つのだ。
そんな時に持ちかけられたため承諾してしまったらしい。

人生で重要な節目と言われる行事なんてものは、往々にしてちょいとした拍子で決まってしまうものだ。
何らかの理由や好き好きや価値観を細かく付け合わせて、その分析結果で物事が決まるということはない。
どんな場面においても。


何処に行って誰に嫁ごうと紀子は紀子以外の誰でもない。






晩秋

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1949年
小津安二郎監督


笠智衆の存在がただ、圧倒的だ。
何とこの時、46歳ではないか!
それでこんな老け役をものの見事に演じきっている。
笠智衆という役者の偉大さに感じ入るばかりである。
こんな役者は、他に、、、樹木希林がいたか!
このふたりが双璧かも知れない?

そもそも何故、人は殊更自分を若く見せたがるのか。
歳相応で良いではないか。
(アンチエイジングってなんだ?)
寧ろ歳以上に見られることこそ凄いではないか。
役者としても、実年齢以上の年齢をある時間生きれるなんて、贅沢だ。
勿論、それだけの内実(時熟)がなければ空っぽさは、立ちどころに露呈するだろうが。

彼は娘の紀子(原節子の紀子は本作~麦秋~東京物語と続く)を嫁がせる為に、わざと自分も後妻をもらうと嘘をつく。
その時の彼の間ー娘へのすべての想いを呑み込む暖かい諦観の表情、はもう筆舌に尽くせない。
どんな超大作映画のドラマチックな場面であろうと、この一瞬のインパクトを前に白々しい実態を晒して霞んでしまうことであろう。
星が激突してくりゃ感動に繋がるかなんて、甘えてるんじゃない。
この静謐極まりない映画の強度が如何程のものか、こんな一場面にも如実に表れる。
笠智衆の存在ーリアリティの問題なのだ。
そのまさに身体性の所以なのだ。

役を演じるからといって、嘘がつけるか?
高度な表現が可能であっても、ヒトはそう簡単に騙されない。
感動をしたくて、そのモードで映画を観始めたとしても、白ける場合が少なくないのだ。
それは、仕方ない。
そういうものだからだ。

こういう映画を観ていると、ものを作る事の何というか基本的な姿勢について考えさせられる。
それが、どのような分野のものであったとしても、その基盤となるところのものである。

ときおり絶妙なタイミングで挿入されてくる風景が入るべくしてそこにあることに気づいた。
反復されて用いられる丈高い木が3本ほど抜きん出ている森(山)の景色の意識への触り具合が、まさに調度よいものであることがわかる。
超ローアングルの視野も、猫となってこの異界を無心に眺めてゆく優れた方法であることに気づいた。

その目で原節子ー紀子を観てみると、これもかなり面白い。(別に猫である必要はないが)。
紀子はここでは、まだ幼さが残るうら若き女性だが、屈託なく笑いこけたり、子供をからかってふざけたり、「汚らしいわ!」と不快感を素直にぶつけたり、父に対し愛情と嫉妬の綯交ぜとなった怒りの視線を送ってみたり、と結構ギャルっぽいのである。
能舞台を父娘で観に行った時、偶然に居合わした父のお相手と目される女性を確認した際の紀子の表情は、まさに普遍的なものだ。
ここは、静かに能を観劇しつつ、目線だけで、父とお相手の女性をそれとなく鋭く見守る紀子の息も詰まるスリリングで高度な情報戦が秘めやかに展開する。
複雑な目の攻防は、演技を超える。

父とお相手は、実際相手に気づき軽い挨拶を交わすだけだが、紀子にとってはドイツ軍のエニグマを解読してやろうというテンションである。
目である。
これは、露骨に凄い。
原節子がこれ程の目玉の使い手であることに驚いた。
ハンス・ベルメールのドローイングの少女の目玉くらいのインパクトがある。
このタイトな空間において彼女は鬼太郎のお父さん一歩手前まで来ていた。

ともかく、この能舞台の空間は、原節子の独壇場であったと言える。

笠智衆と原節子は映画史上最高の父娘であろう、、、。


この調子では、いつまでも終わりそうにないため、このくらいにしたい。
明日は、「麦秋」を観たい。
その後で、また改めてあの金字塔「東京物語」を観たりして、、、。
「紀子三部作」でもある。




安城家の舞踏会

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1947年。
吉村公三郎監督。
新藤兼人脚本。
モノクロ。

ビスコンティ映画と比較してしまうが、この燕尾服と着物のホールに流れる曲も微妙な、日本的舞踏会の方がずっと新鮮に感じられた。

ルオーの絵が壁に飾ってあった。
安城家のお父様は伯爵であり、パリに絵の修行に出ていた根っからの貴族である。
家が元40万石の大名であったのだ。
華族制度の廃止により、没落の憂き目を見て、彼は子供たちの行く末をただ案じている。
邸宅をどうするか、それが懸案であり、悩みを抱えているが、全てにケリをつける意味で最期の舞踏会を開催する。
物語はすべて、安城家の邸宅内で進むグランドホテル的形式で展開する。


ふたつの発見があった。

ひとつは何故、原節子が日本を代表する女優と言われるのか。
この映画でよくわかった。
小津安二郎監督映画では、彼女は常にこの世の人ではないのだが、ここでは終戦後の没落貴族のご令嬢としてかなり困った家族を独りで何とか切り盛りする実践的な女性となっている。
気に入らない闇成金男を冷たく睨みつけたり、階段を走り降りたり、上がったり、札束を抱え持ってたんか切ったり(上品にだが)、お父様を助けようと野球の選手みたいにスライディングアタックしたり、その後すぐにダンスをしたり、、、このアクティブさは誠に新鮮であったのだが、舞踏会の最中、バルコニーで夜風に当たる髪が一瞬靡いたところで、彼女はモンマルトルのキキにも勝るミューズであったと、実感した。
最後のお父様との深夜のホールでふたりきりのダンス(ステップ)も素敵ではあるが、、、さほどのインパクトでもない。
非常に表情も動きも多彩でビビットでありながら、小津映画のこの世離れした品格は崩さない。
彼女は女優として上手いのではなく、稀有な霊格をデフォルトでもっているのであった。
揺るがない身体性として備えているのだ。

原節子かAudrey Hepburnか、であろう。
単に綺麗とか美しいではない、次元にある。


いま、日本は体操やフィギュアスケートの層は実に厚く、次々にスターが出てくるが、、、
原節子の後を継ぐ女優はいるのだろうか?
美貌や才能のあるヒトは結構いるだろうが、この先どのような芽を開かせるのかは、未知数だと感じる。
人格とかいうより、存在そのものの品格である。
ペルソナとかアイデンティティーではない。

原節子恐るべし。
とも感じた。
(思わずアマゾンで原節子の本を購入してしまったではないか。これについては後日また)。
この映画は、原節子の凄さを再確認するための映画とも言えよう。

また、もう一つこれまた、大変な役者を知った。
勿論、とっくに知ってる人はよいのだが。
森雅之である。
安城家の長男であり、原節子の兄である。
それぞれ正彦と敦子という役であるが。
この森雅之、みんなにヒトデナシ扱いをされ、露骨に何のひねりもなく「ヒトデナシ」と罵倒されたりするヒトデナシであるが、この時代にこれほど決まったヒトデナシがいたのだ。
実は、こんなに役者に惹かれたことは稀である。(原節子は別として)。
フィルム・ノワール (film noir) の一連の映画やその後のフランス映画によく現れたヒトデナシも魅力的であったが、森雅之ほどではない。
こんなにいい役者がこの時期の日本にいたのか、という驚きは隠せない。
少し前に、佐田 啓二を小津映画で知って、得した気分に浸ったのだが、その比ではない。
この一本で彼のファンとなった。
退廃的で粋でフラジャイルな若殿である。(すでにお父様も殿の座を失ったにしても)。
そりゃ、小間使いの菊さんが惚れても仕方ない。
ここに出てくる誰よりも魅力がある。(原節子は別格として)。

森雅之の後を継ぐ俳優が今いるか?
単にニヒルだったり、デカタンスに浸ったり、ナイーブで奔放で衝動的であったりの形ではない。
存在の味である。
このヒトはどうにも憎めない、どうにも惹かれてしまうという味が凄いのだ。
原節子とよいタッグである。
世話の焼き甲斐があるというもの。

「ヒトデナシ」という言葉は久々に聞いたが、良い言葉である。
称号である。
華族が廃止されても、ヒトデナシで立派にやっていけるではないか!

演出、カメラ、美術全て丁寧に練りこまれており、セリフが如何にも当時という感じであるが、そこがこの時代性を映す効果を高めていた。
内容は栄枯盛衰といった無常観を湛えた殿様とその家族の苦悩から広がってゆくものだが、作品自体とても心地よく観ることができた。

ひとことで言って、綺麗な映画である。
すでにこの年代に、映画という形式の完成度がここまで達していたことは感慨深い。



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レディ・グリニング・ソウル ~デヴィッド・ボウイ

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”Lady Grinning Soul”
「アラジン・セイン」のなかの大好きな一曲。
”デトロイトでのパニック”を目当てに当時よく聴いていたのだが、後に気づくとこの曲の美しい旋律がいつも尾を引いて残っていた。
”Beware Of Darkness”(ジョージ・ハリソン)と”Perfect Day”(ルー・リード)ともに、わたしの最も好きな曲であり、よく独りで歌ったものだ。(小さな声で歌う曲であることがよい)。
作曲家で前衛ジャズピアニストのマイク・ガーソンの演奏が全面に渡って弾けている。
ボウイの曲のなかでも際立って繊細で美しい、「永遠の刹那」を芳しくうたったものだ。
無常観に裏打ちされた切なくも美しい世界が垣間見られる。

大傑作アルバム「Low」のフィリップ・グラス版もよく聴けば確かに良かったが、バイオリストのルチア・ミカレッリの「Music from a Farther Room」での”Lady Grinning Soul”の独特なミステリアスなカヴァーの艶やかさは、これまた魅力に溢れていた。Ravel の”String Quartet IN F Major”に引き継がれる瞬間もゾクッとさせられたものであった(アルバムでは、「タイスの瞑想曲」が特に素晴らしい演奏であったが)。
ピアノではなく、バイオリン演奏になってもこの作品の魅力は色褪せることはなかった。

しかし何といっても、ボウイの唯一無二のヴォーカルである。
勿論、彼というコンポーザーあっての、この曲であるが。
ヴォーカリストとしても、ルー・リード、ゲーリー・ブルッカー、ピーター・ゲイブリエルなどと共に、有り得ない魅力を放つ。
その最たるものが”Lady Grinning Soul”に凝縮されている。
またマイク・ガーソンのピアノがボウイの声に、実にビビットにしなやかに絡み纏う、、、。
「アラジン・セイン」は名曲ばかりであったが、マイクのピアノ演奏でかなりの高密度の作品となり得ていたと言える。

”デトロイトでのパニック”聴いた後で、夢心地にされてしまうというのも、ボウイならではのマジックであろうか。
マイク・ガーソンの卓越した技術の支えで、曲想の自由な表現が保証されたところは大きい。

ちなみにボウイで一番好きなアルバムは、「Diamond Dogs」である。
彼のアルバムとしては評価は低いが、わたしは大好きだ。
生半可なSF映画を見るより、遥かに衝撃度と充足感が残る。

考えてみれば、ボウイは本当に優れたアーティストであった。
あの大絶賛を受けた”Low"を出した後、生意気なパンクロッカーたちに、ボウイはあれを発表した後すぐに死ねばよかった、などと言われてきたが、しぶとくよく生きたと思う。
そう、ブライアン・イーノとの共演・共作も、世界を拡張する素晴らしい展開を魅せた。
山本寛斎を着ていたが、かなり東洋文化にも感度を高めていたようだ。
「映画」にも出演していたが、こちらはまあ坂本龍一が出るのと同様のスタンスであったか。
”Low"以降も次々に自分のスタイルを壊し、新たなスタイルに挑み続けた。
この点では、ピカソに比較しうる芸術家である。
(彼は、あのクラフトワークにもほぼ唯一認められた存在で、彼らのスタジオを使わせてもらっていた)。


旧友マークボランの事故死を受けて、彼の残した幼い子供が大学を出るまで見守りその学費を全て出していたことは、あまり知られていないが、事実であるようだ。
(イギリスで最も学費の高い名門校である)。


ここに挙げたうち、ジョージもルーも亡くなって久しい。
ボウイも1月10日に帰らぬ人となった。
69歳。
癌と18ヶ月間の戦いであったという。


ただ、淋しい。


女子美退職者記念展  矢辺博子展を観る

Keith Haring
これはKeith Haringのもの。矢辺氏の作品は表示出来ないため。

公園が思いのほか寒かったので、女子美アートミュージアムに行ってみた。
(以前、娘がそこでキャーキャー走り回って、女子美のお姉さんに叱られたものだ)。
余談だが、いま長女は将来女子美を狙っているふしがある。
何故なら、公園が隣にあるからだ。
(公園で女子美のお姉さんが遊んでいるところなど、わたしは見たことはないのだが、、、)。


本来、シルクスクリーンやモノタイプ版画は、優れて平面的な表現手法である。
本作品群もシルクスクリーンの特性を表現手法として昇華させたものになっている。
構成要素は具象的でありイラスト調のものでもある。
それらの要素は、作品を跨り反復して再現したりもする。(カジキマグロなど)。
また、花瓶など殊更質感と立体性を際立たせた要素もある。
しかしそれは実物の質感と立体感ではなく理念上のものであり、更に抽象度は高まってくる。
要素はそれぞれ質感が異なるが、ディテールは追求されている。


作品群はあくまでも、平面上に各要素を配置して、擬空間を現出させるものである。
いや、擬空間の創造を目的に据えるというより、各要素間における関係性の創出が結果としての擬空間を生んでいると言えよう。
ただし、よくある装飾的に好きなものを見栄えよく並べてみました、といった作品とは異なる次元を空間化していることは、はっきり窺える。(ロートレアモンの言う意味での)。
いずれにせよ、空間という、そこに不可避的に入り込む狡猾な(線及び空気)遠近法制度を完全排除し、観念-イメージとしての絵を純粋に創造する「方法」が示されている作品群である。


絵を描くときに、無意識的に受動的に介入する、制度である「空間」を締め出すには、やはりこのように制作を平面性のうちに求めるしかない。
純粋に自由な創造空間を設える方法をまず前提として確保する必要がある。
ということを、スッキリ実感する展示会であった。


特に矢辺氏のインクの色合いがとても落ち着き、心地よく眺めていられる。
質感・テクスチャの対比感も粋である。
シルクスクリーンの版画はやはり気持ちが良い。
(Andy Warholやヒロ・ヤマガタはごめんだが)。
勿論、メッシュを使った孔版であればよいわけではない、ことは言うに及ばない。
大半は、何かの元絵をそのまま形式を移した類のものや、単に包装紙のような装飾的なものなどが目立つ。


一昨日行った展示会の素人作品展のつまらなさが、今一際実感される。
制度の自動的上なぞりの閉塞感が、その場を早く立ち去らせようとするのだ。
具体的・象徴的に、無自覚な空間描写にそれは如実に表れる。





早朝の散策 独りで

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冷たい午前の風は気持ちをニュートラルにする。
人間、1番難しいことは中庸である、とつくづく思う。
特殊な在り方でいることは、何でもない。
普通にしていれば、誰もが特殊である。
オンリーワンは前提であり、歌に唄って感動する気になること自体、オメデタイ。

自分が知らず身に付けてしまっていた前提を如何に対象化して、解体するか。
解体には当然、対概念または、それを包含する思想を必要とする。
恐らく勉強とは、その為にある。
他に何かあるか?
まさかくだらん知識を溜め込むためではない事は言うまでも無かろう。
更に下劣な馬鹿になるだけだ。

如何に人間を完璧に止めるか。
それがすべてだ。
それが中庸である。

無の境地は、蓄積の果てに開けるわけではない。
しかし、溜め込んだ塵芥を対消滅させるには、大変強靭な方法が必要になって来る。
正しい勉強が必要だ。

お買い物 (徒歩による)

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今日は、娘たちと徒歩でお買いものに出かけた。
お買い物に歩きで行くのは、軽い運動のためである。
他にこれといって理由はない。
彼女らはいつも大暴れしているため改めて運動の必要はないが、わたしにはある。

昨日一日掛りの例の(高血圧の)病院に行って、体重増やすなと警告を受けてきたのだ。
基本的に、塩分は少なめに、水は意識的に摂り、歩くようには心がけてはいる。
だが、実際のところパソコンの前に12時間は座っていることが多い。
別にパソコンで何か生産的なことをしているわけでもネットサーフィン(懐かしい)しているわけでもない。
(今やURLの時代ではなくアプリの時代になった感慨もひときわであるが)。
基本的に目的もなく自動的に、座っているだけだ。
そのためにパソコンデスクも買い換えた。


昔はワークステーションで3D画像作りを楽しむというか、勤めの傍ら通っていたMAYAの学校の宿題に追われていたのだが。
今はパソコンにおいては、何の縛りもない。
だがニュース・トピックスを見ていても面白くないので、ここのところずっと映画を観てきた。
ほとんどパソコンは映画を観る為のツールになっていた。
画面の大きさから言って、TVで観た方が良いに決まっているが、自分独りで籠もって観れる感覚がよい。
実際に籠っているし。

しかし、さすがに少しは動かない分けにはいかなくなってくる。
人間は動物である。
それを改めて自覚する。

いつも、犬を飼っている人を大変だなと思ってきた。
娘のピアノの先生に早朝と夕方よく道端で鉢合わせになる。
犬は歩かないとすぐに病気になってしまうようだ。
飼い主も忙しいのに確実に散歩時間を割かなければならない。
その点もあり、わたしは猫は飼っていた(同居していた)が、犬には関わったことがない。
猫は自分で排泄物の処理もやってくれるし、雀を捕ったりして自主トレもしており、基本的にヒトを煩わせることはしない。
可愛い顔して、自立した隣人であり、クールな存在なのだ。
下の世話まで人にやらせておいて偉そうにしている犬をわたしはあまり好きになれない。
行く先まで指図して飼い主を引っ張りまわし、突然止まって電柱に放水したり、ヤリ放題ではないか。
よく吠えるし。(後ずさりしながら吠えている姿など、如何にも犬らしいと思ったりする)。


しかし、犬より遥かに手強いのが、うちに約2名いたのだ。
これは、実際恐るべきことである。
時折、発狂しそうになることもある。

常に発せられる強烈無比な要求に応えていては文字通り身が持たない。
こちらの教育的展望から様々なことに導くとかいうスタティックな企ては端から破綻してゆく。
彼女らも生きており、わたしも生きているという事実。
どちらも基本的に動物である。
だが、保護者と子供の関係でもある。
こちらの生存形式に沿った形で、まずは彼女らとの共生を図る方法を模索するしか道はない。

ということで、お散歩でお買い物に出かけることにした。
買うものは、お風呂の壁に水で貼り付けてお勉強出来る、地図・英単語・常用漢字のシート。
それから、ブラックライトで文字が光って浮き上がるペン。これをお化け屋敷に使うらしい。
(いま2人は大規模なお化け屋敷を建造中なのだ(泣)。
さらに弓矢である。何に使うのかは、不明。
悪事に使わなければとりあえず良しとする。
わたしは、彼女らの溜まりに溜まった「セイラームーン」と「プリキュア」の録画ディスクを一纏めに保管するケースを買う。
「巴里は燃えているか」を先日観ようとしてディスクをセットしたら、いきなりプリキュアである!

必要なものは購入しなければならない。
すぐにアマゾンで用を足そうとしてしまうが、運動を兼ねてお散歩しながら、両者にとって必要なものを調達できれば、そこそこよい策だと思われる。

彼女らはわたしとのお散歩が好きだという。


これで楽しいと言ってくれるのが、せめてもの、、、である。



萬壽 修(マンジュ・オサム)と盆栽を観る

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久々に本業の絵画に関わる記事を、と思ったのだが、そうもいかなかった。
萬壽 修氏の絵画をほんの数点ばかり観ることができたのだが、、、。(4点だった)。
その他、ドローイングを幾つか。
もう少し、点数を観たかった。

なんでも北海道出身(友人に教えていただいた)で、フランスでほぼ独学により自分のスタイルを確立し、日本に戻ってからは相模湖で静かに制作に没頭していたらしい。
56歳没というのは、早すぎる。
死後、作品は故郷の北海道に戻されてしまっているため、今後氏の作品は北海道で観るのみか?

かなり平板に均されてはいるが、画集では、なかなか掴み難いテクスチャを持っている。
(バルテュスなどその最たるものだが)。

対象の人物は無国籍な感じであったが、フランス人がモデルだと思われる。
映画の1シーンみたいな切り取りや、ポスター性の高い主題のもの(CM広告みたいなもの)もあった。
しかし、一番目を惹いたものは、女性のまるで仮面に似た硬い表情で真っ直ぐ前を見据える肖像である。
空間というか、余白に白い輪郭で刻まれたシンボルが具象画を抽象的に高めていた。
色面がナイフで鋭く曲線的にスクラッチされ量感と硬質な質感に緊張を与えている。
モノの明暗・質感が白を使わず、あくまでも色相の塗り重ねで封じ込めているところに寡黙な美と品格を感じた。
そう、寡黙な絵である。

素材的にどこかのファッション雑誌からそのまま取ってきたかのような要素もあるが、それらが動きや刹那性を形態的に表していても、微塵も動勢を感じさせない、静謐な装飾性がその基本にある。
例の白く引っ掻かれた幾何学的なシンボルが更に象徴的な抽象性-平板性を強調していた。
女性の肖像画には、かなり引き込まれるものがあった。
どの絵についても(ドローイングも含め)、画題を見てもいなかったことに気づく。


隣の展示会場で開かれていた、絵画グループ展をサラッと通過した後、その隣の盆栽展を観た。
2つのグループの盆栽作品を味わったが、3点ばかり改めて面白みを噛み締めることとなる。

1つは、驚異的な幹の捩れ振りである。
更にその幹の唐突な破綻振りである。
これは、作品が小さくても圧倒する力を持つ。
植物-自然の生命の神秘を重々しく感じ入るところでもあった。
特に、二重に色の異なる幹の絡み合うものなど、生と死の対比というより、それらの混合-一体性を露骨に見せられた気がした。

次いで、枝振りの非対称性である。
これは、恐らく作者-栽培家の微妙な手のかなり入った部分かと思われた。
細心の枝葉の調整が至るところディテールに及んで見られたものだ。
基本、正面性をもち、観る面を決められているようであったが、くるっと回して観てみたい気持ちにさせるものもあった。
中には「きのこの森」みたいな格好をして、かえって目立つ木もしっかりあった。

もう一つに、主役の木は結構題材は広く、特に限定されたものではないように思われた。
(これについては作者の誰かに聞いてみたい気もしたが)。
特に片方のグループでは、実の付いている物がたくさん展示されていた。
更に、ただの石が大切そうにサビを感じる器に容れられていたり、小さな粋な鉢に雑草のような花がポカッと植わっているのもあるではないか。
それから、全く枯れているだけに見えて、無性に無常観漂うものもあった。

かなり自由に出来るような気がした事で、何か自分でも手をつけてみたい気持ちがふつふつと湧いてきたものだ。
帰り際に声をかけられ、グループ展のメンバーの手作りという鉢と金の生る木と盆栽の雑誌を貰った。
とても得した気分になった。
もう、その道に入りなさいというメッセージにも想えるものである。
くれたのは、勿論、盆栽命がすぐに見て分かるおじさんであった。

ちょっと遅れてわたしのところにきたサンタにも見えた。




高血圧

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現在の状態である。
いかんともしがたい。

ここのところ(2ヶ月に渡り)血圧が異常上昇してフリーズしている。
適度な運動とかいうが、あるレベルを越えると運動どころではない。
食事療法などには端から興味はない。
食べたいもの食べずに生きる意味などあるか!
それにわたしの高血圧は、生活習慣病では、ない!
と、威張ってみたところで、、、

全身がゾワーっとして気持ち悪いのだ。
特に頭がシュワーっとしている。
思考力とか想像力などと呑気なことを言っていられる状況ではない。
最も自信がないのは、記憶力だが、、、。

どうにかブログ記事を書くときだけは、ボーッとしながらも、意識の下層に沈潜してゆくが、短時間でポッカリ上がってくるっとのびて解けてしまう。
ウルトラマンのカラータイマーといい勝負になる。
時間に賭けるのだ。
なんて緊張感は保てない。

ウルトラマンもそうだが、戦いの真っ最中でも、呆気にとられてポケッとしてしまう時間は、存在する。
それが、歯がゆいだの勿体無いとかいう文脈に対し垂直性をもつ、思わず吹きだす瞬間凍結する場なのだ。
なんと言えば良いのか、、、とかいう当の対象すら覚束無い。
これは、内省によっても傍目に眺めても、何とも言えない笑いの呑み込みとなる。
統一場理論との関係も指摘される。
(ツッコミも萎える場である)。

それにしても、ウルトラセブン目どうしたのか?!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そう思って以前拾っておいたものだが、、、。
(探したら、無くなっていたため、またダウンロードした。Web上にたくさん散らばっているのに驚いた。そんなに有名なのか?)


最近は娘と一緒に、「快獣ブースカ」は観ているが、ウルトラマンシリーズは長年ご無沙汰しており、セブンの顔を忘れていたが、これはない。


だが、いかんともしがたい。
現在の状況である。

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夜に外へ出てみるが、自然が感じられない。
探し物を探しに外に出てみる気分で出てみたのだが。
(勿論、半ば無意識で出てみてから、反省的意識でそう思っただけである)。

昼がもうダメなのは分かっている。
太陽が首元にしっかり届いているときはまだ安心するが。
僅かに、早朝に息吹を感じる。
冷たい風とピリつく太陽の縁は心地よい。
多肉植物の気持ちが何だか分かってしまう一瞬。

ほとんど日中は、太陽も遠のいてしまっている。
太陽に接合できない代わりに、内実を失い寄る辺ない身をパソコンに繋ぐ。
自動的に、われわれは立ち上がる。

時計をしきりに気にする。
やたらとコーヒーをおかわりしてみたりする。
念のためだが、、、。
身体の要求ではない。
頭脳の要求ですらない。
実体のない人間が悪しき廃墟で反復する行為に過ぎない。
ヒューマンドラマがあちこちで安っぽく点滅する。

四方八方から必要ないものが押し寄せてくる。
昼の世界の99%以上は必要ない。

しかし、家の中での夜も99.999、、、%不要だ。
ほとんど必要なものなどないではないか。
どちらにも。
どちらにも必要なものなどない。


昼と夜を分けるのは、太陽と月だけである。
その他は、何の違いもない。
とは言え、昼間に月は結構出ているものだ。
だからヒトは昼間でも夢うつつでいれることもある。
混ざり合うことは、粋ではあるが、何故かインパクトがない。

何故か?
自然が感じられない。
冬の自然が、感じられない。
冬は何処にある。


多肉植物たちは、実は冬が好きなのだ。
冬の太陽と冬の月が結構、好きなのだ。


最近、知ってしまったことだ。



月のひつじ

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The Dish
2000年オーストラリア映画
ロブ・シッチ監督

1969年7月に月面着陸を果たしたアポロ11号のTV中継を成功させたスタッフの謂わば縁の下の力持ちの実話を元にする。
しかし、どこが「月のひつじ」なのか?
これこそ”The Dish”に他ならない。

これまた、馬鹿げた邦題の代表格だ。
その街に羊が人より多くいたことから安直に付けたのだろうが、映画の内容とひつじは関係ない。

下らない邦題はさておき、絶妙のニュートラルな雰囲気を湛える映画である。
ドキュメンタリー風でもありコメディタッチのTVドラマを見る気分にもなったり。
オーストラリアのニューサウスウェールズ州の田舎町パークスの等身大に拘って制作されていることが分かる。
ひなびた洒落があちこちにまぶされ、少しばかり田舎の誇張は感じられるが、わざとらしさや大袈裟な演出は全くない。
何しろ人類が有人宇宙船により天体(地球以外の)に到達した初事業の実況中継をNASAから任されてしまった訳である。
打ち上げのタイミングが遅れた為、カリフォルニア州ゴールドストーンの受信設備が使えず、南半球最大のパラボラアンテナに託されたのだ。
町民は訳が分からずお祭り騒ぎで盛り上がり、神経をピリピリさせているのは、バークス天文台の3人プラスNASAから派遣された職員とトラブルにビクツク町長くらいのものか、、、?

街のお祭り騒ぎで、電気が停電してしまい、アポロ11号がロックから外れて通信不能になってしまい内輪だけで大慌て。
その事件をひた隠しNASAに嘘をついてなんとか時間稼ぎしたり、肝心な時に強風に煽られパラボラアンテナを月に向けることが困難に陥ったりと、3人の天文台員と1人のNASA職員の苦労と緊張は絶えない。町長も目を白黒させて狼狽える。
だが、ミスは許されないし、それが外部に漏れては一大事。信用失墜とその影響は計り知れない。町長は下院議員に立候補の話も来ているのだ。
月面直陸に寄せる科学者としての情熱と信念に支えられ、窮地を乗り越え結束も固め、彼らは問題を解決する。
オーストラリアの平原にポツリとあるパークス天文台のパラボラアンテナ”The Dish”により、アポロ11号から降り立った、アームストロング船長とエドウィン・オルドリンの月面歩行する姿が世界中のTVに幻想的に映し出されたのだ。
メッセージや合衆国の旗まで立てている。
着陸までに、”The Dish”のメンバーは、後15秒で燃料切れ状態で着陸船がなんとか着陸できたことや、その寸前にコンピュータがオーバーフローを起こしていたことなども、仕事上知ってしまう。
まったく、仕事の中核にいてしまうと、庶民の知らざる苦労を背負い込むことになることを改めて実感したものだ。

ケネディの宣言していた、1960年代に月に人を送ることに見事に成功し、その映像は残された。
この成果-仕事は歴史に永遠に刻まれることは間違いない。
このとき放映された月面映像番組は、世界規模の飛んでもない視聴率であっただろう。


ついでに観た「ムーンパニック」
Impact
2008年ドイツ・アメリカ・カナダ映画
マイク・ロール監督

ここで、しかめっ面をして、宇宙物理から見ての理論の破綻を上げ連ねてもあまり意味がない気がする。
それ以前に、何を狙った映画(どうやら3時間もののTVドラマらしい)なのかが、どうも掴み難い。
まず、SFといっても荒唐無稽な設定で面白おかしく見せることを主眼にしたものもあり、それはそれで面白ければよいものなのだ。
しかし、これはどうみても、シリアスなヒューマンドラマの設定であるらしい。
シリアスな場合、下部構造となるべき物理的設定がはてなのオンパレードであると、ついて行くのに戸惑うばかりなのだ。

ウルトラQから派遣されたような天才博士たちが、政府と衝突しながらも、苦慮して計算とシュミレーションを繰り返し、地球最大の惨事を予見するのである。
その上、革新的で誰も理解できない理論と技術をもってその解決策を提示するところには圧倒された。
最終的に自らの身を犠牲にして地球衝突軌道に入った月を破壊?するために月面に向かうのである。
本来なら涙なくして見れない物語であろう。
彼らには、みもごった新妻や母を亡くしたばかりの子供たちもいるのだ。
何という運命なのか、、、と。

そう見せたいとしているヒューマンドラマが、何とも揚げてから3日間放置されていたエビ天の味わいなので、そっちの方で泣けてくるのである。
悲しい気持ちにはさせられたが、ドラマの狙いとは明らかに軌道がズレてしまった。
大変である。ドラマでも主人公たちが月の軌道計算に苦心していたのに。
しかし、とやかく言う事ではないのかも知れないが、褐色矮星(何で褐色矮星である必要があるのか理由が分からない)の破片が月に知らぬ間に(もう少し前に誰も観測出来なかったのか)衝突し、その天体の質量が地球の2倍であれば、重力と磁場の作用に変化が生じ、などといっていられるレベルの問題なのか?そもそもあまりに月のダメージが少なすぎるし、そんなに重くなった天体はもはや地球を周回するものではないだろう。まず、磁場や放電現象-静電気がどうのと言う前に、潮力が凄まじいものになるはず。車が宙を飛んでいたが、わたしならあれで月にまで飛ばしてしまうが。
「先回りして待っていたぞ、息子よ。」「お義父さん、酸素マスクと宇宙服はどうしたんです!?それにここはもうとんでもない重力下なんですよ。」「お前に言われたくないわ!お前も普通に立ってるじゃないか。着陸船だってよくあんなふうによく着地できたもんじゃ。」「これから一刻を争う大事な仕事があるんです。ちょっとほっといてください。」「ほう!めり込んだ何とか矮星とやらをカーボンナノワイヤーをひっつけたミサイルで吹き飛ばすっていうあれか?それを吹き飛ばすというより、月が吹き飛ぶんでないかい?」
妄想が膨らみ、イタロ・カルヴィーノ風の(ファンの皆様気にせずに)御伽話が始まりそうなんで早急に切り上げたい。
アホである。

役者もパニックを起こさなかったか?
主人公を訪ねてくる義父と子供達を結果的に引き受けることとなったスーパーの店主など、俺はどう演じればいいのかと、軽くパニックを起こしていることをその演技の戸惑いから感じた。
もしかして、演技、演出の多くも役者に丸投げなのか?
ともかく、どこもパニック状態で、収まらないドラマと化しているのだ。
一番の被害者は、パックリ2つに割られた月であろう。虚しい、、、。

それにしても、「ムーンパニック」とはよく付けたものだ。
ベスト邦題大賞にノミネートしてもらいたい「邦題」である。(そんな賞があるのならば)。
明らかに原題を超えている(正している)ことだけは確かだ。
これは、間違ってもインパクトではなく、パニックである!
優れた邦題だ。
ちなみに、このドラマはNHKが科学的シュミレートから作られた大作推薦フィルムとして同局から放映されたものという。
わたしは、何で観ていたのか定かではない。録画されていたので観たのだが、、、。
NHKの面目躍如である。
流石としか言いようがない。


美女と野獣

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La Belle et la Bête
フランス・ドイツ映画
クリストフ・ガンズ監督
久々のハリウッドでない作品を観た。
しかしそのスケールは、ハリウッド作品に等しい。
荘重さは、それを凌ぐものだ。
重厚でビビットな絵作りとも言えよう。

「美女と野獣」はジャンコクトーが実写化したもの(こと)が有名である。
わたしは、恐らく見ていないと思う。
何かの機会に見たとしても、あまりに昔のはず。
どっちみち、覚えていない。


美女ベルにレア・セドゥ
野獣 / 王子にヴァンサン・カッセル

一本のバラから話が本格的に動き出す。
「何よりも愛おしい。」という城の領内に入る呪文。
「命が薔薇の代償。」
精霊や泉、、、。
かなり自然界の神秘やアニミズムの要素が強い。
お伽噺は、それを空想して楽しむばかりでなく、自分をそこに投影する場所ともなる。

この映画は形式上、母親の子供を寝付かせる時の本の読み聴かせ、で進行する。
まさに物語を想い浮かべるように再現する、色鮮やかなファンタジー映画。
その話は、読み聴かせている母親自身の冒険譚?である。
きっと、今は出版社を営む兄たちが企画・出費して世に出した物のはず。

しかしこの見事な映像世界、絵そのものでしか伝達困難な部分は多く、読み聴かせで豊かに伝えられる内容だろうか。
この映像を観てしまっているから、殊更そう感じてしまうのか?
子供にイメージ出来る話か(その生活経験から類推可能か)どうか、と思ってしまう箇所も少なくない。
呪いに支配された森の異様な情景や囁く蛍(精霊)の光や荒ぶる魔物たち。
かつて別の女性が呪われた城で恋をして死んだことをベルが悟った場面とか、、、。
野獣の姿に身をやつした孤独な王の葛藤やベラのこころの揺れ動きなども。
泉の伏線などのディテールも、、、。
絵本は特に、途中で説明など入れてしまえば、物語が失速してしまい、イメージの破壊に繋がる。

何よりも鹿の緩やかに宙に一瞬止まるリズムで走る、あの一際美しい姿。
惚けて見とれてしまった。
ハイジのアニメでも鹿はあんなふうに走っていただろうか、、、?
そして逃げ惑う黄金色の牝鹿を王がついに弓矢で射殺してしまう。
その鹿こそ恋を知るために変身した王妃であった。
(この鹿の瞳と王妃の瞳の重なるカメラワークと演出は特に素晴らしい)。
彼女の父親である森の神の大いなる怒りに触れ、呪いをかけられた王は野獣にされてしまう、、、。
ここは、やはり手っ取り早く、この映像を観せてあげたくなる。
観なければ分かるまい。
往々にして、映像は想像力を限定してしまうものだが、この鹿の走る絵は特に、観て損はない。
現在と王の過去の映像の切り替えも見所であり、この演出は鮮やかである。
(これが話としてどのように語られてゆくのか?)
ただ、この王の裏話は、ベルの夢に反転して現れてゆく。
それと彼女の野獣-王に対する好意-恋慕の情が同期する。

とは言え、幼い娘と息子は一心に母の話に聴き入っている。
きっと、怖くても魅惑的な世界が瑞々しい感性を踊らせて、深く広く心に染み込んでゆくのだろう。
そうだ、経験があれば良いというもんじゃない。
感度の問題は大きい。
良い子たちだ。(誰かさんにもそうして欲しいのだが、、、本にはあまり乗り気でない。その前に、じっとしていない)。



美味しそうな食事や豪華なドレスは野獣が作っているのか、誰か作る魔物がいるのか、魔法によるのか?
多分魔法であろう。(ドレスは、単に保管されていたものを出しただけかも知れないが)。
そのへんが、妙に日本の昔話に見る、狸の話を思い浮かべてしまう。
間違ってもあの変身した犬たちではあるまい。
ベルの人形を見ても分かる。

話によると、監督は宮崎駿を意識して作ったとか。
確かに、そう言われれば狸のばかしより、少女の恐れに立ち向かう姿や意志の強さなどに、宮崎アニメのヒロインに重なる面を見ることが出来る。
アクティブな動きも目立ち、アニメならともかく実写ではかなりキツそうな部分も見られた。
果敢な少女であるが、最終的に愛-恋に目覚めることで、野獣は元の王に復活し、現在の夫である。
彼女こそ、いま子供たちに物語を読み聴かせている母親であった。



子供が興味をもって観られる映画である。
だが、全体像の把握は、難しいかも、、、。











エントロピー

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父の実家に行く。
娘たちが多額のお年玉をせしめる。
わたしの頃の10倍は貰ってる。
実際彼女らが物を買うときは、常にこちらが払うので、ふたりの下に、ただ貯まるだけである。
勿論、こちらからも居合わせた親戚の子供に配って歩くので、潤うのは娘たちだけだ。
もっともそれらは、銀行に積まれてしまうため、実体はない。
彼女らにとってはポイントが貯まってゆく感覚か。
元々、お金には実体がないのだから、あってないようなものだが。
ギリシャはきっと切実だろう。

わたしの部屋には、ゴミだけは自動的に確実に溜まる。
こちらは、実体である。
エントロピーの象徴でもあろう。
ありがたくも自然-宇宙を感じさせてくれる。


相変わらず、長女は車に弱く、途中3回休んでやっとの事で実家に着いたのだが、着いた途端に従姉妹たちと元気に遊び、お寿司を食べまくる。
うちで食べるより3倍は食べた。
全く遠慮は無い。
ケーキも食べる。
美味しい手打ちうどんも平らげる。(実はこれが一番のご馳走)。
何故かオモチャも集まってきたお姉ちゃん達から貰う。
いよいよ娘たちの遊ぶ部屋(元居間)の、エントロピー増大が加速される。
疲れを感じてきた。

娘2人は自分たちのカメラで写真も撮って回る。
実家の裏山にも走って登ってゆく。


帰り際に母親の実家にも回ることとなった。
滅多に来れないうえ、母の歳では機会を逸すると後悔が残る。
積もる話は半端ではない。
話の反復も半端ではない。
わたしはお茶をすすりながら、半ば白昼夢に陥る。

ついでにここだけは見ておきたいという母の思い出の場所も回ることとなった。
会話というものは、記憶を次々に呼び覚ます厄介なものでもある。
生きてる間に1度は行っておきたい、と言われて行かないわけにはいくまい。(また来そうな予感も結構するのだが)。
子供の頃の記憶を辿って行くのでそこが本当にそこなのか、今ひとつ定かで無い。
一抹の不安を抱えながら、小さな寂れた路地に分け入って行く。
母親は確信をもった足取りで歩いてゆくので、取り敢えず何でも良いことにした。
まだ昼過ぎなのに周囲は薄暗く静まってゆき、微塵もロマンチックな要素は無いミステリータッチの光景が開ける。
娘たちにとってはコワオモ・ホラーである。
表情が期待感でいっぱいではないか!
(正直、疲れが増大する)。

突然、此処だと立ち竦む母。
娘の頃よく遊びに来たという、名家の豪邸。
今や見る影もない残骸の山となっているのだった。
かなりの年月、打ち捨てられていたことがひと目で分かる。
廃墟(廃屋)などと呼べる様式は何処にも残していない。
エントロピーの恐ろしい負の圧力が蹲る。
よくよく見ると、太古のエイリアンの死骸と見紛う外車が、目玉を抉られ残骸の下に潰れているではないか。
(考古学者のような気持ちでよくよく見ると、ガソリンを撒き散らして走るシボレーであることが分かる)。

お化け屋敷に最近目覚めた娘たちは、怖くて楽しくて、キャーキャーはしゃいでいる。
勝手にやってろ!


時の重さ、無常さをしみじみ噛み締めながら、とぼとぼ戻ってくる母親を乗せてようやく帰路につく。
向かい車線はスピーディーに流れるが、こちらは遅い。
何と制限速度ぴったりでの走行ときた。

急に静かになっている。
気づくとみんな寝ていた。
あれだけ食いまくって、暴れてきたので当然だが。
みんな眠らなくてもよかろうに、、、。


小さい方のライトを灯す。


長女の心霊写真(笑。
jikka001.jpg


ついでに、次女の。
jikka002.jpg


いつごろ、何処で撮ったのかは、謎に包まれている。
(本人たちに聞いたが分からない)。

明けましておめでとうございます

昨年度はお世話になりました。

今年もどうぞよろしくお願いします。
(一日遅れましたが、昨日元旦であったことを忘れていました)。
Newyear002.jpg

娘たちは、歯が生え変わりました。
少し前までは、笑うととっても面白い顔でした。

とりあえず、デフォルトの状態に落ち着きました。
こちらも、彼女らの笑う顔を落ち着いて見れます(爆。

娘たちほどではないですが、結構暴れていた、、、
多肉植物たちも、落ち着きました(笑。

どちらも元気と言えます。
(片方は著しく手間がかかりますけど、仕方ありません(汗)。


いつも、ご訪問頂いている方々にはとても感謝しております。
これからも、なるべく更新は続けてゆきたいと思っておりますので、どうかお忘れなく。
コメントも頂けたら、とても刺激になります。
そのときだけ正気にものを考える機会となりますし、何よりそれがわたしにとって貴重な楽しみなのです。
どうかお気軽にお寄せくださいませ。
良い映画とか、音楽、絵、写真、本などの情報も、よろしければお寄せください。
(しかし、それは単なるお喋りのキッカケになってしまいますが、すみません)。
一日のうちの、いっときの無駄話も悪くはないかと思います。

また、いつも拝見させて頂いておりますブログAuthorの皆様には、本年も変わらぬご活躍お祈りします。
それぞれの宇宙が膨らみ育ってゆき、その新鮮な息吹にあたることは、ホントに心地よいものです。


ここは基本的にこれからも、ノンジャンルは不可避です。念のため(笑。
例え「何かの映画」について語り始めても、語ることはみな同じになってゆくことでしょう。
(まるで演歌ですね)。
行くところは、例のところへ、、、


今年のさしあたっての目標は、体調を戻すこと、絵をまた描き始めること、です。



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アンビリーバブル・トゥルース

unbelivable truth
The Unbelievable Truth
1989年アメリカ映画
ハル・ハートリー脚本・監督デビュー作

ことばは全く噛み合わず、何も通じない。
だから、のっぴきならない状態で、お互いに何とか物事を運ばざるを得ない場合、契約を取り交わす。
とは言え、それもすぐに反故となる。
事態が微妙にズレてゆくからだ。
そして噂、先入観、思い込み、思い過ごし、思い違い、誤解、そして世界の解釈、、、。
何を大切に思っているかで、ひとはみな違う場所に生きている。

われわれは隣り合っているように見えても、同じ時空に存在しているわけではない。
実は時空を整序する遠近法は形式として作用しなくなっている、
いやはたして、絵画の世界以外で実効力をもっていたかも定かではない。
等質空間と線上的時間はすでに物理学的にも乗り越えられている。

「おれは誰も信用しない。」
と主人公は宣言しつつ、他者と関係を取り結び、何とか生きてゆく。
それ以外にどうすることもできない。(特にムショから出たばかりの身だ)。
周りの面々も、彼より自由で気ままかといえば、とんでもない。
どうにもならなくなると、お互いの胸を突き飛ばし合う。
まるで、道端で出逢ったカンガルー同士の喧嘩みたいで笑える。(オーストラリアではたまに見られるらしい)。
これが、お互いの存在の確認のようで、ペーソスに溢れている。
確認し合うのが、取り敢えず精一杯。
互の容認は小突き合いでへとへとになり、どうでもよくなった時点でなされる。

われわれは、ホントに言語をもったのか?
言葉で判らなくなったのか?
酒もタバコも役には立たない。

しかし、面白いのは皆がことばを超えて解りあってしまっているのだ。
誰も信用しない、といいつつ深く同調もしている。
ことばと裏腹に。
暗黙知というのもあろうが、直覚してしまういきものなのだ、われわれは。

もうひとつこの世界(次元)で生きてゆく(食ってゆく)には、やはり自分の優れた商品価値(長所)を活かすことだ。
主人公はエンジニアとして体系だった知識と秀でた腕をもっている。
ヒロインは持って生まれた美貌を活かし、本意ではないがモデルで荒稼ぎしてしまう。
親が当初心配したハーバード大の学費等、余裕である。
2人とも特にそれを誇示する気は毛頭ないのだが、外界との関係づくりと言えば、そこからしかないのだ。
少なくとも、言葉より確実性と分かりやすさ、即物的な信用性が保証されている。
下部構造として、不可欠なものとなると言えよう。
もっとも、ヒロインの親父さんとしては、娘の姿が雑誌で興味本位の目に晒されるのが気が気でない。

誰もの意識が、歯がゆくズレてゆく。
ズレては、いつの間にか各自の特異な固有時間の内に修復され、また再びズレ始めてゆく。
その間、言葉はことごとくノイズに他ならない。
契約は独りよがりであり、罪は冤罪であった。
事柄については、気づくのが遅すぎたものも出てくる。
しかし、世界がひとつになるチャンスがなくなったワケではない。
全的崩壊の予感である。
ヒロインの超脱する知性と感覚の垂直的に向けられる場所。

利害関係を超えた世界にアンテナを立てるヒロインの少女は、その象徴としての核問題に拘り続ける。
(それは現実的な核ではない。寧ろ原始宗教的な啓示を求める感覚か)。
時折、ふと核ミサイルの飛んでくる音に耳を済ます。

世界がひとつになる。
そんな夢の瞬間が瑞々しい。




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”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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