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アバター

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Avatar
2009年アメリカ映画
ジェームズ・キャメロン脚本・監督
アバターって、この映画から、やたらと流行った気がするのだが、、、。
環境的に重装備であっても、ヒトが乗り込んでゆくには危険すぎる場所で活動するために、アバターを制作するという発想は面白い。
まず、この発想から様々なアイデアが自律的に立ち上がり広がってゆくはず。

物語の枠としては、奇抜なものではなく、既視感ある先の予見できるものである。
ここで主人公は、優等生の兄の代わりにやってきた頭の空っぽのやんちゃな男、しかも車椅子生活者である。
そのためか、殊更に強靭な四肢を思うままに動かせることに歓びを禁じえない。
更に自分が降り立った世界は異なるコードを学習し身に付けなければならないが、それによって常人(普通の地球人)よりはるかに自由自在な世界-身体を得ることができるのだ。(つまり健常者に対する劣等感など完璧に払拭できる)。
従来のアメリカ式無根拠な優越感と野放図な覇権主義で他者を制圧し金儲けするより、飛行機にも頼らず自分のちからで空を飛び回れる方がずっと気持ちいいぜ、というサイケデリックな異なる世界に夢を託す主人公の物語が展開してゆくのだ。
異文明(文化)に対する向き合い方のそれぞれのタイプとその葛藤とダイナミズムが同時に描かれる。
まずは、コテコテのアメリカ意識からみて、野蛮な文明をどう律するかという構図から始まり、主人公もそこから出発してゆく。
脚も何とか治したいし、それには任務を遂行して金を作らねばならない。
向こうの世界へ、スパイとして派遣される。
しかし、アバターを通し、美しい人型知性体との交流を経て、彼は彼らとその世界観にこそ魅了されてゆく。
ダンス・ウィズ・ウルブスを経て、アダムスファミリー2の、まだちっちゃなクリスティーナ・リッチの文化批評を通るわけではないが、ラストサムライの感覚はもって自己批判と自然を受け容れる。
この自然の受け容れは、そう簡単なものではない。

だが、この映画の圧倒的な魅力は、そこにある。
まず異界の世界観そのイメージの解像度が半端ではない。
そこに息づく生物たちがディテールに至るまで妙に生々しく艶めかしい。
緻密なメカだけではなく柔らかな有機体の描写の妙が特筆に値する。
この魅惑的な異界を具現したVFXの力には目を見張るのみ。
同時代の映画でも恐らく並ぶものはあるまい。

これでは、主人公が自らの置かれた殺伐とした軍の現実より、鮮やかな夢と見紛う異界こそに真実を観るのも頷ける。
自然の幽玄な摂理をダイレクトに感じ取れる主人公の身体-アバターに投げ込まれれば、そちらサイドに目覚めるのは自然であろう。
あんなに暗く先の見えない安月給の軍に居たって、この先たかが知れている。
だが、この選択には「価値」が見出せる。
生きる力に結びつく根源的力に直結するものだ。
仮に動かぬ脚を治してもらっても、それが生きる意欲につながるものかどうか、保証はない。
ヒトは、脚で生きるものではない。この世界に触れてしまったからには、なおさらそうだ。

真・善・美が完備されている世界の真っ只中に生きたい。
そこで飛翔したい。
何の打算もない美しい彼女と身軽に大空をどこまでも飛び回るのだ、、、。
きっとそれこそが本当の世界なのだ。
(観ていくうちにだんだん羨ましくなってくる)。

そう想ったはず。
これまでの日常にしがみつき、高い地位と名誉を勝ち得たとしても、この世界からすればどうにもうすぼやけていて何一つ確信がもてない。
軍の施設で目覚める度に自分のちっぽけでみじめな(戻るべき)姿には、すでに嫌気がさしていた。
主人公は研究者の兄と違い体育会系元海兵隊員ではあるが、素直な感性は、かの世界に強く共振したようである。
その上タフで負けず嫌いであったことも、新たな世界に生まれ変わることに功を奏した。
強さというものは、なんにあっても、なくてはならないものだ。
最近特に思うことである。


物語ではなく、物質的想像力(生命力)を活性する素敵な「イメージ」をもらった。





リピーテッド

BEFORE I GO TO SLEEP

BEFORE I GO TO SLEEP
2014年アメリカ映画
ローワン・ジョフィ監督
「ラスト・ターゲット」は、タイトで渋い名作だった
リドリー・スコット制作総指揮
フリードリッヒ光線は浸透していた

これも、原作となる小説をもつ。


ニコール・キッドマンが暴行を受けた後遺症による障害から、一日で記憶がリセットされてしまうヒロインを生々しく演じる。
眠るまでに自分の状況を巡る真相を突き詰めたい。それが上手く運ばなければまた最初からやり直しの繰り返しとなる過酷な日々に押し潰されそうになる。
ビデオ日記を使ったりの記憶の連続性と同一性維持へのもどかしい試みと挫折。
他者に操作され支配される不安と怒りから自分を救いだす戦いに消耗する。
他人事とも言えない。

コリン・ファースが夫になりすましてヒロインを自分のモノにしようとする障害犯その人。
この人自身が障害を抱えているとしか思えない、病的な役を怖いほど生々しく演じていた。

更に、微妙に絡む怪しい精神科医役のマーク・ストロングは、最後まで怪しく生々しい体温を保ち続ける。
出てくる人がみな、不可解さと疑惑に満ち、矛盾を抱えているところが、リアルだ。
顔や瞳のアップが多いカメラワーク・演出、混沌とした重苦しい葛藤を執拗に演じ重ねるニコールの演技が更に強く印象付ける。
終始心理・生理的微細な感情をさらいつつ、自分が生んだ子供にまつわる真相とその身体性の残り火を時間の奥底に探り続ける彼女。

このひと晩眠れば、前日までのことを忘れ、新たに自分と全ての関係を学習し直さなければならないという設定。
新垣結衣主演のコミカル TVドラマでもやっていたような。何度か部分的に見たが、相手役が岡田くんだったはず。
こちらは、記憶が無くなる事に、何の悩みもなく、お気楽御気楽に日々あけらかんと過ごしているらしかった。
その状態を個性と捉え、積極的に活かすというのもイカスとは思う。

ニコール版では、身悶えしながら記憶障害を克服・回復と同時に、事件の真実を暴こうとしてゆこうというもの。
特に子供に拘る母性が前向きな力を衰えさせず、更新してゆく。
やはり、子供を授かることの意味は深い。(「寄生獣」でもまさにそうであった)。
ドメスティックなところも、生々しさを際立てていた。
生々しさが、「ラスト・ターゲット」に加えられた感の映画と言えるか。


そして、やはり記憶、である。時間である。
これをまとまった形で書く準備など、全くない。
取り敢えず後でまとめるかも知れないための、備忘録的な箇条書きで、今回は済ます。

われわれは生体として記憶を拠り所にして生きている。
そして、自意識・アイデンティティを保つため、昨日の自分と今日の自分は連続線上にあるものと信じている。
(ただの線というより、やはりベルグソンの今を頂点とした円錐の対称形という形をとるか)。
自動的に。
物語は生成される。

われわれにとって、全ての空間は同時に存在する。
時間においては、今という瞬間しか体験できない。

これが、何を意味するのか?
時間が文明を維持するための規制として、つまり一度に全ての事が起っていることから人類(この世のヒト)を守る基本的なシステムとして導入(創出)されたものなのか。
次元の一つとして存在するものなのか。
何からも影響を受けない不変・絶対的なものであることは、すでに否定されているが、まだ本質は解明されたとは言えない。
時間も次元の一つに過ぎないという、今の物理学の基準に則せば、時空-場所という捉えとなり、重力は時空の歪みから生じることになる。
次元についても、70年代以降は11次元で宇宙が構成されているというのが定説のようだ。
それはさておき、、、

知覚生理現象に立ち戻ると、ほんの僅かでも視覚、聴覚の統合編集にタイミングのズレが起きれば、われわれの日常生活に支障をきたすほどに、時間(とりもなおさず記憶)は重要なファクターであることが判っている。
知覚刺激の統合処理を脳によって行うことは不可避的に、エントロピーの自然な流れからの遅延-存在化が起きる。
生体反応から意識的な触りにかけて更なる遅延が発生し、ついで認識的に、存在学的に、遅延が重奏し重層する。
この遅延の重層態を取り敢えず、「身体」と呼びたい。
これまで、ここで記事に「身体」と記してきたことは、すべてこれを意味する。
Seinでもよいが。

時間認識は個人の内にも、その身体状況により、容易に伸び縮みなどはしている。
一般に加齢により時間の進み方は生理的に速くなる。
重力から少しでも解かれることで、時間の進みは緩やかになる。
そう、「エイリアン 2」のリプリーのような目にも実際にあうようだ。

しかし、この自動調整機構に何かの拍子でズレが生じると、自然界からの遅延タイミングの調整がつかなくなることで、統合失調症に陥る。
これも事実だ。

かつてパルメニデスは時間などない。(運動の無限の細分化から考えるに)。
と、堂々と説いていたが、相対性理論と量子力学の統合を巡っての様々な試みを科学雑誌などで見ていると、物理学者のなかにも、時間は存在しない、という説(理論モデル)を披露しているヒトは多い。
”t”はすでに数式の内に存在しないではないかと。
SF作家のバラードも60年代からそれらの時間を真っ向から俎に載せている。
(面白い事、この上ないが)。

心理的におさえても、、、。
時間-記憶は、変化を元に推測される。
物事との相対的関係から実感される。
事象の起こる順番がやはり決定的な根拠となろう。
ミンコフスキーもそう言っていた。
が、それがもっとも根深いわれわれ人類の思い込みのひとつとも言えるのかも知れない。
そうであれば、もう何が本質で何が幻想も、意味ないのであるが。

時間が本質的には幻想であると物理的に説明されたところで、生活の現場は微塵も揺るがないだろう。
パラダイムがそれでひっくり返るとは想えない。
それの正体が例え何であれ、その幻想はわたしというものと同義に世界構造を成立せしめる強固な何かだ。
それだけは、間違いない。
吉本隆明がかつて述べていたように、人間は観念の動物である。
幻想共同体のなかで生きてきた。
順応しようが反発しようが、同一基盤上の幻想構造にあって。

時間感覚の乱れや記憶の障害が起きれば、それは間違いなく、ヒトとして生きることが困難となることだけは確かだ。
この作品では、病をもとにプロットされてはいるが、時間-記憶の問題はいずれにせよわれわれの本質を支えている。
それは、別にニコール・キッドマンの名演から悟る事でもないが、考えさせられる契機には充分なるかと、思われる。


体調から言って、これについて語ることは、もうしんどい。
明日は楽な映画にする(爆、、、。





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ストレイヤーズクロニクル

Strayers Chronicle

Strayer's Chronicle
これも小説が元(原作)にあるらしい。
が、興味はない。
映画を観る目的である。
本は読むべきものが山ほどある。
追加候補はいらない。
瀬々敬久監督2015年度映画。


染谷将太つながりで。
と言うより、彼の演技が見たくて昨日に引き続き、これを観た。
この話も極端な設定(荒唐無稽)で面白い。
しかし、設定だけの駄作がいかに多いか。
しばしばそれに腹が立つ。
許せない!と心底思ったりするが。
そんなことは、どうでもよい。

しかし、、、
これはよかった。
何がよかったか。
多分、岡田将生が染谷将太くらいよかった。
まず、そこだ。

他のキャラも若さでよく動いていた。
みな雰囲気があり、個性的で嫌味がない。
そうそう、寄生獣にもSAT中隊長役で出ていた豊原功補が何とも言えない役で結構動いていた。
中隊長の時より、人間味のある役で、首も切断されず生き残る。
染谷や岡田とともに、よい味を出しているが、中間管理職的役に固まりつつあるような気もする。
しかし、逆に役者として、そこが強みにもなり得るだろう。
かなり個性を印象づけて来たバイプレイヤーに思える。

染谷は器用だから、何でもこなすが、
すべて高密度なキャラに作り上げてしまう。
他には神木君くらいかと思っていたら、これからは、岡田くんもだ。
人物のこころの動揺や葛藤がよく伝わってきた。

なんというか、
以前誰かが言っていた。
映画は、ストーリーや絵面の前に、まずキャラだと、そんなことを。
キャラが個々にしっかりあるものは、確かに面白い。
アベンジャーズや戦隊ものに人気があるのは、そのためであろう。
(淀川さんは、そんなことは言わないな。若い評論家の誰かだ)。

今回は、
敵のボスと赤レンジャーがとても魅力的であったことになる。
「女子ーズ」みたいに最初からクサイパロディで狙いすぎたのは、別の面白さは期待するが、そこは特に面白くも何ともない。
ともかくキャラの濃さ、面白さだ。
しかし、そのキャラも続編、続々編を通して、いよいよ熟生して来ると思われるのだが、この映画はみな死んでしまうので、それは叶わない。「メン・イン・ブラック」は無理。
黒島結菜だけは、生き残るようだが。
彼女の遺伝子を受け継いだ子供が、やがて、、、という映画は無理すれば作れるか。
アベンジャーズの一員にでもしてもらうというのも、ひとつハリウッドに持ちかけてみては、、、?

ともかく、キャラを練ること。
それを充分に利用して、話が支えられる部分は大きい。
プロット、ストーリーを豊かにする。
個体的にも見る者を惹きつけてやまない。
女優で言えば、、、
宮崎あおい二階堂ふみ(このふたり、かなり似た感じだと思うのだが)のような、「わたし何かもってるのよ系」のヒトは、やはり付加価値は高いであろう。
出ただけで、観る側にどこかありがたさを与えてしまう。
女優やめたら新新興宗教の教祖になるのもよいはず。
事務所との契約期間中にはじめてしまっては、干されるだけだが、、、
(いらんことを言って、すぐに脱線してしまう(爆)。

アゲハチームの殺傷力が云われていたが、銃で撃たれて死んでしまうのならば、銃携帯の普通の人の方が強い事になる。
敢えて遺伝子操作や親へのホルモンストレスを加えてそんな人類を作るメリットがあるのかどうか。
細胞分裂速度が速すぎて、20前後で死んでしまうというのも、差し引きすればデメリットしか残らないないように思えるが。
人間ある歳までは、生きないと分からないということが、残念ではあるが、ある。
時間の長さより質であろうが、絶対的に必要な長さはというものはあるのだ。
植物をイメージすれば判る生長だ。
これなしには、意識内容の認識・記憶を身体性にまで蓄積できまい。
花を咲かせ葉を茂らせる養分として。
遺伝的継承のためにも。


最後、あまりにまともに、そのまんまに、染谷くんが燃やされてしまうのには、拍子抜けした。
黒島さんあたりが、度肝を抜くようなアイデアでも出してどんでん返し、というわけにはいかなかったな。
確かにこの映画、伏線も弱いしひねりも無い。
その意味で一本調子であった。
だが、そこは若手キャストのフレッシュさと個性で飽きることなく魅せてくれた。
高月彩良は少しあっけなく死んでしまった感がある。
もったいない気がするが。


しかし、リリカルで良い雰囲気の映画であった。
ゲスのなんとか乙女とかいうミュージシャンのテーマ曲は耳に残る。




寄生獣 完結編

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前後編でひとつの作品であり、かなりの大作である。
わたしもかつて読んだ(見た)岩明均の同名漫画を原作としている。
2015年。
山崎貴監督映画。
「リターナー」を昔作っている。

「チャッピー」よりこっちの方がよかった。
熱かったというべきか。
よくできていた。
パラサイトを介在させることで何より「生命」(身体性)を強く打ち出した映画となっている。
「意識」ではない。
「生命」である。
ここが、「チャッピー」と明確に異なるところであり、わたしはこちらをとる!
「前作」でこの続編を大いに期待させたが、予想以上の出来であった。

キャストがまたよい。
染谷将太と深津絵里の圧倒的な存在感。この2人プラスミギーの3人が主役と言えよう。
特に深津演じる理知的パラサイトには揺り動かされた。
生命と母性は切り離せない。
愛情の静かな発現の場がとても美しく愛おしかった。
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パフォーマンスキャプチャーでミギーになりきる阿部サダヲ、恋人の橋本愛、さらに最強の敵を演じる浅野忠信。
北村一輝の演説姿も良かった。彼が人間だったことには、驚いた。
東出昌大の不気味でタフな作り笑顔もやみつきになる魅力があった。
余貴美子や 大森南朋、國村隼など、実に燻し銀の芸達者で厚い布陣を敷いたものだ。

脚本も丁寧に練られたもので、人とパラサイトの間の複雑な関係性を説得力あるものに描いている。
尋常でないディテールに至るまで伏線を張っていることで、その厚みは素晴らしい。
浅野忠信の最凶パラサイトがピアノで奏でる「亡き女王のパヴァーヌ」も、強靭な線で最期の決戦にまで流れ込む。
人間もパラサイトにおいても、個別性はやはり存在の数だけあるという事実もしっかり押さえられている。
よくある一枚岩の侵入者というものではない。
であるため、自分たちの組織化と人類との共存に、高い知性を持つ深津パラサイトも苦慮する事となった。

演出もVFXが多用されている事を忘れさせる見事なリアリティを現出させている。
かなり奇怪でグロテスクな形や動きがあっても、文脈の中では自然な緊張を保ち、それが浮く場面など全くなかった。
テンポの良さは申し分ない。
実際、ミギーの、他のキャストとの距離感の掴みかたはかなり難しいものであったはずだ。
彼の視座は、右手にある。
阿部サダヲは顔を見せない主役を器用に、こなしていた。
流石と言う他はない。
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橋本愛とは染谷は、「告白」でも特異な共演を果たしていた。
ここでも「生命」を基調に流す、若い男女の関係を妥協なく表している。
2人の変化と結びつきも、ミギーに深津パラサイトとの関係もその流れは繊細で濃い。
題材は特殊な設定にとってはいるが(SFはそれで本質を純化しようとする)、ドキュメンタリー映画よりリアルで、まっとうなストイックさがある。
であるから、こちらも真剣に深く、入り込めた。

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「われわれは、お前たち人類の子供なのだよ。だからあまりいじめるな。」
深津さん演じるパラサイトが最期に聖母マリアの如くに見える。
こんな重いメッセージを不意にくらって、どうすればよいのか?

この完結編、特に秀逸である。
原作との関係でどうのと言う前に、これほどよく出来た邦画は、そうはない。



月光

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また面白い夢を見た。

ひたすら彷徨い歩く。
夢はことごとく無意識の底を攫うような欲動で作動する。
恐らくわたし個人の力で動いているのではないため、いくら外面上大変そうでも、苦痛の内実はない。
ストーリーが劇じみていて、ユーモラスにも感じられる。
内面はなく表面だけの時間が流れているのだ。

何かを探してそこらじゅうを訪ね回るが、埓があかない。
しかし夢の特性か、疲れというものがない。
少なくともわたしの場合、夢で疲れたことはない。
とはいえ、心身ともに休まっているとは思えないところが微妙なのだ。
(眠りの効用はどこにある?休養などではなく、夢のための認識の場所なのだ)。
わたしは、イブ・タンギーの描く卑猥なほど顕な海岸沿いを、走るが何故か覚束無い。
気づくとわたしは、靴が脱げてしまっているではないか。

コーエン兄弟の「バートンフィンク」のエンディングの海辺の白々しい光景にも似ていた。
あれは、額縁に飾られた「絵」のめくるめく悪戯に他ならない。
ベルイマンの「野いちご」の冒頭の真っ白い夢にも重なってくる。
時計には針が無く、馬車が縁石に乗り上げると荷台から柩がずれ落ちた。
息を呑む自分の眠る柩。

そう、あれはキリコの街での出来事であったかも知れない。
夢の地層にあって重要なlandmark だ。


家に引き返すことを考えるが、靴もないのにどうして今更戻れるのか?
地が粉より爽やかな深い砂なのだ。
風も芳しく軽やかに、、、。
テアアンゲロプスの一面の砂浜から滑り落ちるチャンスなのに。
誰もいない部屋の暗がりになにをもって帰るというのか。


ひたすら彷徨い歩く。
するとたちまちカフカのKとなっている。

無意識は徹頭徹尾明晰で稠密な白色光に凝固していた。
影が無い事だけが、異様だった。





天へのきざわし ~そして全てに降り注ぐ

mu.jpg

主格を置くのは止める。
もう、わたしは
とは書かない。

意識は縁に立っている。

夢の底では、明快な殺戮がとめどなく続く。

思考は発光した。

全てが現実にたち起こる。

亀裂が走ってゆく。
冬の乾いた土地に。
多肉植物が高笑いしているではないか。
しばし愉快な気分に浸る。

水が、、、
胃に応る。

彼らも眠りたがっている。
水は大敵なのだ。

太陽光のなかで眠る。
眠り続ける。
その誘惑に、、、
抗えない。

もうわたしはいなくなる。
それは間違いない。


太陽と月がともに登る真っ青な天上に向け
蒸発する。


そして
全てに降り注ぐ

全くこの世の水など受け取ってはいない。
無から有を生じる

快感。


夢が全域に取って代わる。


全くこの世の水など受け取ってはいない。
無から有を生じる

快感。


夜想 ~こぐま座流星群 流星雨に寄せて

ryuuseiu.jpg

共鳴する
アラベスク

飛行船に乗って飽和を誘う
われわれは
墜落することが天上に向かうことだと知っている
ヒンデンブルグよ

全ての創造が誤りから生まれてきたことも
宇宙も
知能も
全てがそうであったことも
そして
いまがその契機であることも


あなたは共鳴してくれる


失いそして
得る
こと

しかし口惜しいことに
失うことと得ることを同時に叶えられない
異なる場所に同時に確率的に存在できても

わたしは
もう
絵を描いていない
代わりに
呼吸をすることにした

これを断念と呼ぶなら
そう言ってくれてもよい

わたしがわたしでなかったころ
わたしは
存在しなかった

わたしは再び
無くなる

わたしは
創発される
わたしは
創発される
わたし
ではなく
創発する
創発それ自体を
目的として


創発そのものが
システムである

リゾームが

ノードが

ネットワーク
を生成する
音楽を
奏でる

自動的に
機械的に
完全な閉鎖系において
曲率0の平面において


この宇宙

どこかで
どこにあっても

共鳴する
アラベスク





虚空

あと、映画から、何やら語るとすれば、、、
Grave of AudreyHepburn


「河」
「アラビアのロレンス」
「天井桟敷の人々」
「陽のあたる場所」
「ベン・ハー」
「ミラノの軌跡」
「ローマの休日」

あたりか、、、
他に思いつかない。

しかし、オードリー・ヘプバーンの映画をあといくつかとりあげてしまってから、その後何が残るか、、、
そうだ、テオアンゲロプスをまだ一度もブログではとりあげてこなかった。
あの砂、、、!
「シテール島への船出 」
それから黒澤映画も、、、。
三船敏郎である。

後、10本くらいは、映画について、やるか。
新作映画、2014~2015のも観たものは、書ければ書いてみよう(笑。
「ビリギャル」とか、面白かったし。
「女子-ズ」の方がもう少し面白かったが。これについてはすでに簡単に書いた。
そう言えば、「ストレイヤーズ・クロニクル」、ミギーの出てくる完結編も観た。
何といったか、、、そうそう「寄生獣」だ。
「寄生獣」については、相当昔だが中学生の女子から本を全部借りて読んだ(見た)ものだ。
「ちびまる子」もその娘に貸してもらったのだが、どちらも凄く面白いものだった。


しかし、ここのところ体調は最悪だ。
精魂尽きている。


「どのように言えばいいのでしょう。とにかく私の人生はとても幸せでした。」

オードリー・ヘプバーンの最期の言葉だそうだ。

妖精またはミューズ。
これ以外に言葉が見つからない。
特にわたしは、彼女のファンではないのだが、何というか、女優としてその完璧性は他に例がない。
と思う。
孤絶した孤高の存在だ。


死んでしまえば、少なくとも自己意識はなくなるはずだから、今のような苦痛や孤独からは解かれることとなる。


まずは、ゆっくり眠りたい。
そのまま起きなくても、特に問題はないが。


眠り

yume.jpg

眠るということの、謎。
飼い猫が眠っているのを以前観てつくづく思った。
その心地よさそうな惚けた寝顔に感心してではない。
余りに無防備な姿を晒してさえも、眠るという行為はずっと生命に存続してきた。
そのことに、神秘的な驚き、畏怖すら感じるのだ。
家のポカポカした縁側に仰向けで両手を投げ出し、大の字に彼女は眠りを貪っているのだが、、、。
これが野生環境であったなら、恐ろしくリスキーな状態だ。

夜行性のハンターだっているだろう。
如何に身を隠して密かに(寝息を殺して)眠っていても、安全とは言えまい。
臭いは消せないし、それ以外に気配を察知される要素もあるかも知れないし。
彼女らの祖先は相当な苦労をして、睡眠を確保してきたはずだ。
少なくとも腹を上に向けて眠っている御身分ではなかったと想われる。
今の子孫の姿を観て、どう思うか?
よい時代になったものだと感心したり、猫族の堕落を嘆いたりするだろうか?
猫を擬人化して思い入れしても仕方ないのだが。
眠りは何故、保存されてきているのか?
単にエネルギー消費を抑え、食糧負担を減らす目的などで説明できるものではない。
生体にとって、余程重要な何かでなければ、その(個体レベルではない)存続をも脅かすはずの、眠り-つまり意識のない外部に対する危険回避不能の状態を残すメリットなどあろうはずもない。

レム睡眠とノンレム睡眠とがあり、前者が筋肉の緊張を解く事に関与し、後者が特に脳の疲労を休めるために不可欠なのだ、といった類の話は昔、常識的な説として耳にしてきた。
しかし、眠りに関する実験などは、ヒトにおいてすることには、限界があり、ほとんどネズミの実験による。
何日眠らないと死ぬか、など人間で実験できるはずはないのは言うに及ばず、睡眠障害の結果の脳へのダメージの可能性があるのならば、その危険性から研究対象には出来まい。(記憶力や意欲の低下などが言われてはいるが)。
実際の話、眠りの本質やその役割-それが何故必要なのか、そのメカニズムも含めほとんど分かっていないのが現状のようだ。

更に夢である。
夢は脳を休めるのか?(フロイトやユングはそこに深い意味を見出したが)。
わたしは、夢の中だけはひどく明晰であり、途轍もない事を考えて自分でもびっくりする事もあるのだが、起きるとほぼ同時に霞となって消えてしまう。これは、ものすごく大きな損害であるといつも感じている。
夢と現にもう少し連続性が保たれないものかと、、、。
しかし反面、特に最近の夢ときたら、陰惨でハードボイルドなものばかりで困惑ものでもある。
わたしの同行してる古くからの友人が次々にヒトを殺害し、どうにもその回路から抜け出ることが出来ず、わたしは途方にくれて一緒に逃避行を続けているのだ。
カフカの小説に出てくるような細かい事務手続きを役人や警察官相手に延々とやったり、検問で奇妙なやり取りを繰り返す。
その間も一緒にいる友人は殺害をやめない。
自分の運転する車の印象がやけに生々しく残っているのだが、何故だか分からない。
古くからの友人とは、わたしの根源的な自我の象徴的存在とか、、、すぐにそう指摘されてしまいそうだが、それはひとまずどうでもよい。車の分析も。
こんな夢は、起きてからも暫くの間、鮮度を保っている。
余程の体験でもあったからか、、、とてもゆっくり脳を休めた気はしないのだが。

ただ、あの生が別の系に属していた事に、身を起こしたところで心底安堵した事は確かだ。
レム睡眠、ノンレム睡眠に関わりなく、ヒトは夢を観ているらしい。
夢について書き出すと、限りが無くなりそうなので、それは今後の機会にとっておくことにする。


われわれは、生涯の時間の三分の一を眠りの時間にあてがわれている。
それに何らかの意味がないはずはない。

以前のブログ記事に書いたが、、、。
「オレキシン」という睡眠と覚醒を調整する物質の発見により、睡眠をそのメカニズムからコントロールする方法を探ることが始まっている。
脳の興奮を全体に緩和して眠りに誘うという従来の方法ではなく、レオキシンを直接ブロックする事で、もっと自然で確実な睡眠を促すことが出来るらしい。
実際にそれを行う「スボレキサント」という薬品が創薬されている。
すでに一般に使われているようだが、その感想を聞いてみたい。
わたしは、従来の睡眠導入剤で眠ってはいるが、その質については上記のごとくであり、どうしたものか(笑。

睡眠障害については、遺伝子レベルでの研究が行われはじめた。
原因遺伝子が究明されれば、さらに根本的な睡眠コントロール(過眠、不眠の制御)が可能となろう。
しかし、「睡眠」とは何か?
「夢」とは何か?

この問題は、生半可なものではない。


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散策

Hubert Robert

家から駅まで歩いて行った。

いつもなら、車か自転車でゆくのだが。
当然、身体における運動の質が異なる。
それに伴う知覚認識も変わってくるものだ。

車ならステアリングポジションからしか映らない街の光景が素早く遠のいてゆく。
自転車の速度で確認する地図は、主に街路の選択が細かく広がり、細い路地にも入り込んで抜けることも出来、見えるものも異なる。
徒歩であれば、ディテールや微妙な色彩の異なりや変化等にゆっくり関わるだけでなく、新たに加わるモノの姿にハッと驚く。
例え、車や自転車と同じ道沿いを歩いたとしても、捉え方-モノの見え方、発見において大きく違ってくるものだ。

速度-時間によってモノ自体が変わってしまうものだ。
速度による認識の差は大きい。
光すら変わる。

未来派の画家たちは、速度をモノの描写における大きな形成要素として描き込む方法を磨き上げた。
全てのモノはじっとしていても、飛んでもない速度で形を保っている。
生理的感覚運動の原理を自らの創造のコアとした。
モノはすべからくエネルギー態である。

説得力をもった絵画の制作方法を彼らは生んだ。
速度においては画期的なムーブメントであった。
その速度-時間はすべて厳密にエントロピーの示す矢の向きにすべて包含されて逝く。


だが、時間の垂直性-固有時という時制も立ち現れてくる。
そんな契機もネゲントロピーとしての生物として生じるものだ。
もし、ここにユベール・ロベールの廃墟が現れたなら。
寂寥感漂う音楽を暗がりの内に静かに奏でつつ、、、。
強引な希望的夢想だ。
しかしわたしは、数日前にそのような廃墟の夢を観ていた。
わたしの住むこの界隈の平板性、無時間性に対する無意識(補完)的な夢想であったのだろう。
意識の志向性がそれに見合う表象を立ち上げる。
それは生命力が根源的に発する力に他ならない。
益々進行する自分という存在の希薄化という病に対する身振りがわたしを今日、歩かせたのだ。
それは、恐らくどこでも良かった。
歩くこと、、、生きること。

われわれにとっては、死は永遠でもある、らしい。
それらは同義語である。
途轍もない時間が畳み込まれた死の場所。
その闇にはあらゆる人為から解かれた記憶が呼び覚まされるのを待っている。
わたしは、無意識に何の変哲もない街で、廃墟を探して彷徨う。
夢だけでは覚束無いのだ。
目を開かねばならない。

この平板な時間に囚われていてしか、わたしたちには伝える思考が出来ない。
記憶もままならないのだ。

しかし、わたしはこの知れ渡った街に、速度感覚の覚醒に加え、時間感覚の固有時化と垂直性を直覚したい。
生きたいのだ。
歩いたのもそのためだ。

痛みがあるのは、それでいい。
死が間近にあってこそ。
生が際立つ。
神経がリゾームとして、潜み這い出し根源的な記憶に触れてゆく契機となるかも知れない。
儚さと危うさの硲はどこにでもある。
下手に同調した魂を神韻縹渺たる彼方に勾引するちからはどこにあっても発動しよう。
人為から解かれた自然に、善も悪も統制も統合もない。


しかし目の前の自動車整備工場の屋根が眩いオレンジの光に包み込まれている。
いよいよオレンジは鈍く、幾層にも浸透しながら発光する。


整備工場は、いまや後光に大きく包まれた。



公園

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丸一日、日向ボッコをした。
その後、少しばかりSF的な経験もした。

昨日、イルミネーションを読売ランドで楽しんできた娘たちであるが(わたしはいかない)、今日も朝から公園のアスレチックで遊びたいと。
遊ばないとピアノはやらない、などと脅してくる。
お昼は公園の芝生の上で、焼きタラコおにぎりを食べたいとも言う。

わたしはブルーシートで寝ているから、好きなだけ遊びなさいと言うことで、タラコおにぎりを持って出掛けることとなった。

公園に着くなり、まずアイスクリームが食べたいときた。
アイスを食べたら、彼女らは一目散に子供たちで賑わってる遊び場に走りだし、、、その群れの中にすぐに溶け込んで見えなくなっていった。


ブルーシートに座ってボーッとしているうち、ほとんど無意識状態となり、時間感覚が麻痺した。
ときおり、ヒト遊びして戻ってきた娘のどちらかの声で、わたしの意識も戻り、富士山の水ちょうだい、と言う声で水のボトルを渡す。
ゴクゴクと可愛い喉を鳴らして飲むと、また飛び出して行く。

するといつしか戻って来ていて、おむすび、と言う。
2人ともシートに座っていた。
手を洗った?と聞くと、洗ってないことは明らか。
洗っておいでよと言うが、遠いから面倒だと。
除菌シートを渡して手を拭かせる。
わたしも、いちいち指示を出す気にもなれない。

やはりお腹が空いてるらしく、食べるのは早い。
たちまち2人とも、2つずつ平らげてしまった。
デザートは?と長女。
抹茶クリーム饅頭とかいうものを持ってきたので、それを渡すと、2人ともすぐにペロリと食べ、富士山の水をゴクゴク飲んで、また出掛けて行った。


しかし、案の定喧嘩をしたらしく、長女はもう帰る、次女は他の広場で遊ぶと、めいめいに言い張る。
そこで、公園の隣の施設に行くことにした。

市民が予約して使える、陶芸室や工作室、茶室や談話室に会議室、子供の柔らかな遊具のある空間、よくあるその手の施設だ。子供向けのプールがあり、いつかそこで遊ばせようと思いつつ実行は出来ていない。
わざわざ水着持参で来るほどの気力がないというか、、、。

ここのレストランで彼女らはカレーを食べるのが好きだ。
そこで作っているのではなく、明らかにレトルトとわかるものなのだが、それがまた良いらしい。

そんなものだ。

ただわたしはここが苦手なのだ。
部屋で区切られた談話室ならよいが、オープンの広いお喋り出来る場所があって、少しうるさい。
しかも、社交ダンスとカラオケの大部屋があり、そこから漏れる音が半端ではないのだ。
物凄い衣装を着た年配のご婦人たちがダーッと出てきて、腰を抜かしそうになった事もある。
防音設備だけでも少しなんとかしてもらえないか?
いや何と、部屋の扉を開けたままでやってる。
これでは当たり前か、、、。

市民の憩いの場という割には、力が入りすぎてはいないか、と思わざる負えない意気込みと熱気をぶつけられる。
脱力感がない。
しかし、そこまでは納得する。
みんな元気なのだろう。

ただ会議室での卓球には、気持ちが竦んだ。
何か人生の黄昏を見る思いがし、目が眩んだ。
この世と彼此との間の冥界を見る想いがした。
いや何とも名状しがたい光景なのだ、、、。


今日気がついたが、お風呂もありご年配のグループの方々が結構入って行く。
明らかに銭湯とは異る何かだ。
やはり冥界の入口に想えてならない。
皆サークルやら同好会やらに入って楽しんでいるのだ。
公園でもかなりの腕前の三味線と尺八演奏を聞いたばかりだ。
しかし、何というか繋がりを感じることはできない、、、。
他者の世界を垣間見た想いだ。
外国人とか異星人では無く、他者なのだ。あくまでも。
わたし自身ちょっと縁に立っていることが分かる。
あまりに独りでいすぎたためか?


この施設、何度か足を踏み入れているのだが、名前を確認してこなかった。
今日改めて見ると、「市民健康文化センター」というらしい。
言葉の意味がいよいよ空疎になっている。


来週、ここのプールに娘連れで訪れる事になった。






タイガーハウス

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Tiger House
2015年イギリス・南アフリカ映画
トーマス・デイリー監督

カヤ・スコデラーリオ主演、、、悪い大人相手に独りで闘う女子高生、、、旬の女優だ。
アルバトロスとは知らずに観てしまったが、例の「E/T」などより、遥かによかった。
キャストが揃っており、作りがタイトで、かなりの力作と言える。
(特にキャストにお金をかけているのが分かる。新しい「トランスポーター」の人もいるではないか(驚!)
これは観て損はない映画である。
「ロシアンスナイパー」も観てみたい。

「トリプルヘッドジョーズ」はゴメンだが。(「志村けんのバカ殿様」の方がずっと面白いはず)。
「ダブルヘッドジョーズ」でまだ懲りず、トリプルヘッドときた(憤。これだから、アルバトロスは訳分からん。

しかし、たまに良いものがあるというもの。
ここは高校の映画部より予算と人材を投入していない「ダブルヘッド、、、」もあれば、かなりの水準をいく本作など、落差があまりに激しい。

さて、タイガーハウス、すんなりと入って行けるが、緊張感は途切れることがない。
(映画によっては、入り込むまでの敷居が高いものもある)。
ギャングや彼氏の義父と母親などそれぞれの人格が不足なく描かれていて、脚本が熟れている上にカメラワークも安定していることが大きいであろう。
無論、役者も言うことなし。
これといって、物語構成や絵に特別な拘りの無い分、シンプルにわれわれをストーリーに乗せてくれる。
しかし一点、カヤ・スコデラーリオが終始裸足で奮戦していたが、ガラスの飛び散る窓から飛び降りるなど、足に怪我しないか、そっちの方でハラハラした。(いつ靴を履いてくれるのかが、気がかりとはなった)。

話自体これといって複雑な伏線も敷かずスリルもアクションも特に驚くようなシーンはない。
彼女が体操選手らしい身のこなしを見せ、その時々パニックになりながらも、ハサミやガラスの破片やボーガンを使ってギャングに太刀打ちしてゆく。(とは言え、上手くスレスレで物陰に隠れるのがメインではあるが)。
解り易くしっかり魅せるプロットである。
しかし、一点だけ(また一点(笑)、最後のカヤのシーンには驚いた。
彼氏の義父の企みにより強奪した金を、こともあろうにミニクーパーにしこたま積ませ、乗り出してゆく場面には、「やられた感?」があった。

一度、車を止め、家の爆破も確認してニンマリして行く彼女!

この娘、何者?
確かに、彼氏の子供を身篭ったにも関わらず、僕には将来があるといって、母親とともに彼女を見放す男ではある。
が、それまで彼氏の身を案じ、彼女を煙たがるその母親すら身を呈して助けようと、ギャング相手に死に物狂いで闘ってきた健気な彼女であるのに、、、。
やはり、それでも彼女を見放した彼らへの不信感と失望があまりに大きかったか。
義父も助けてやったと思ったら、実は彼こそが金の強奪計画の首謀者であったり、彼氏の母親も浮気をしており、偶然訪ねてきた浮気相手が目の前でギャングに叩き殺されたり、、、人間不信となるのも仕方ない。
その、仕返しなのか、見限りなのか、自分の身の保身からなのか、、、?
彼女の絶体絶命の時に、瀕死のギャング実行犯のボスが改心して、彼女を射殺しようとするチンピラを撃ち殺すところなど、結構、オシャレである。(その展開は充分予想はつくのだが)。
ちょっと、フランス映画っぽい感じもしたものだ。

でも、絵や演出にあの特有の雰囲気や格調は、ないな。
ハリウッド映画とも違う、しかしアルバトラス提供の映画では、出色の出来だ。



こういう映画もいいと思う。
主演のカヤ・スコデラーリオはこれからどんどん売れてゆきそうだ。


いらん話だが彼女、あの金を使った途端、足がつく事は知っているだろうか?
素足の足裏の心配と同様に、つまらない事を気にかけてしまうわたしであった、、、。





スリーピーホロウ

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Sleepy Hollow
1999アメリカ映画
ティム・バートン監督

ジョニー・ディップ、、、 イガボット捜査官
クリスティーナ・リッチ、、、 カトリーナ
以上主演。

イガボットというあまり聞き慣れない主人公とカトリーナというありふれた名前のヒロインによる、暗く霧掛り美しく幻想的だが、TVサスペンス2時間ドラマのような犯行動機で展開してきた事を知らされる映画。
スリーピー・ホロウという村での怪奇譚。

イガボット捜査官が首なし屍体の謎を解くため、ニューヨーク市警から派遣される。
自分の開発したガジェットを持ち込み、科学の力で迷信を打ち砕かんと乗り込んだが、初っ端から自分が打ち砕かれる事に、、、。
しかし村の名士の娘カトリーナと出逢い、最終的に恋に落ち、めでたしめでたしの話。
馬車がとても良い雰囲気である。
「ヘッドレス・ホースマン」が「死人の木」からすっと飛び出してくるところは、映画史に残る名シーンであろう。

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それにしても首がよく飛ぶ映画である。
首のない騎士が、首をシャキンと狩るのを自分の目で見てしまった、科学のみを信じる合理主義者イガボット。
少年期に母を狂信的な父に魔女として殺され、神を見限った イガボット氏もこれには混乱を極める。
彼がハンカチを口に当て、気色悪そうに検死するところがまたよい。
神経質でよく倒れるが、怪我に強くひ弱そうで思いの他勇敢だったりする。
わたし的に、昨日の多肉の頭をちょん切るのと妙にダブってしまった(笑。


これほどジョニー・ディップが危ない目に会う映画も少ないはず。
彼は単なる捜査官であり(海賊ではない)、相手は不死身の魔物である。
闘ってどうにかなるモノではない。
それでも思い切りビビる割に、懲りずに無鉄砲に立ち向かって行く。
立ち直りが異常に早い。
やはり普通の神経の人ではないようだ。
良くも悪くも、特異な少年時代を送ったアスペルガー的パーソナリティである。
推理力は冴えていた。
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キャストを含めた映像(美術、カメラ)面はティム・バートンそのものと言えるか。
イガボットという複雑かつナイーブで頑固な役を自然に演じてしまうジョニー・ディップは相変わらず彼の不動のパートナーである。
ひたむきで透明感溢れる繊麗な愛らしさを湛えるカトリーナは、クリスティーナ・リッチでなければならないという説得力があった。
あどけなさが危なっかしい感じもしたが、、、。
「アダムスファミリー」のときの毒気はないが、ただの美少女にはおさまらないところが流石。
やはり密かに白魔術を使う。(イガボットの母も白魔術師であったと窺える)。
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この2人の他の、欲の皮の突っ張った如何わしい人物たちも正にピタンコで楽しめた。
イガボット捜査官の助手の少年も、その風貌も含め何とも言えない渋さだ。
如何にもハリウッド映画に出てきそうな子役とは一風変わっていて面白い。


全体的にアメリカ北部の伝承を下敷きにしているそうで、何やら寓話的な演出が舞台のお芝居を見るようにも感じられた。
スプラッターな場面もアクションもサスペンスもみな、即物的な衝撃は少ない。
所謂、ショックを与える事を一義的な目的としたよくある映画とは一線を画する格調がある。

極めてアーティフィシャルリアリティ煌く、廃墟模型映画である。
稲垣足穂の世界を彷彿させるところがある。
ロード・ダンセイニも混ざってくる。

ティム・バートンの作品のなかでも、特に彼らしい感じだ。

暗くて苦目のゴシックだ(笑。
笑い事ではないが、物凄く作りこんだ稠密感はなく、どことなく希薄な空気感に満ちており、首を切られる場面でも「死霊のはらわた」のような緊迫感などほとんどない。
様式美というのとも違う。
決して安易に確立されたスタイルを(自分のスタイルを含め)踏襲しました、とかいうものではなく、、、


やはりティム・バートンである。
他に言い様がない。


ジョニー・ディップは当然だが、クリスティーナ・リッチも彼の映画によく似合うことが分かった。





多肉をこんな季節に植え替える

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土換えをしていないことで、調子を崩している多肉が幾つもいる事に気づく。
何となく、ノーベル賞関係のニュースを観てから、ボヤっと外に出た時のこと。
自分と娘たちのあれやこれやでいっぱいいっぱいであった為、多肉につい気が回らなかった。
つくづく済まない事をしたものだ(拝。

土が固まり水はけが悪くなれば、根が傷む。
おまけに、寒さと雨の為、、ギュウギュウにビニールハウス詰めにしており、風通しも悪かった。
気温だけなら、日中は暑い日が結構多かったので窓は閉めないでいるのだが、雨に当たるのは何よりまずい。
わたしの好きな、トリープス系は蒸れに弱いのだ、、、。

思い切って、冬なのに土を入れ替え、徒長したしたものについては、10分の1程度に短くした!
ものによっては、頭だけや葉っぱだけにしてしまったが、そんな事これまで冬場にやったことはない。
大丈夫か?春ならなんでもないが、この季節では荒業になろう。
とくにパキポディウム類は冬眠する。
眠っている時(生命活動を最小にしている時)にそんなことしたら枯れるのは、間違いない。
パキポディウムは、いまはもうお亡くなりになってしまい、うちのメンバーにはいないのだが(悲。


多肉たちの総数は、減った。
あまり世話を焼く余裕がなくなったからでもある。
多肉は、日光の当て方、水のやり方、風通し、肥料、土換え、徒長など気をつけないと、見事(自画自賛)な寄せ植えが突然、全滅していたというショッキングな経験もあった。
恐らく、密集による蒸れとそれに伴う病気(虫害)などが原因だろう。
株分けしたり、増やすのは簡単だが、それとなく日頃目を向けていないと、彼ら(彼女ら)もナイーブな生き物である。
そういったこともあり、徐々に数を減らしていった。
多肉の100000000倍手のかかる娘たちに加え、自分の体調のこともあり、人にあげたり、枯れてしまったり、、、。

以前は100鉢をゆうに超えていたが、いまは60鉢くらいになっている。
それに従い大きめのビニールハウスをふたつ減らした為、人口密度はかえって高くなった。
しかも、「徒長君」はヒトの3倍くらいまで空間を占有し始める。
領域侵犯などお構いなし。(中国的だ?!)
暴れだすと、横だけでなく上下に思わぬ進攻をしており、取り出せなくなる兵も出てくるものだ。
まだ、広々していた頃はよい。

規模の縮小は、生育環境の矮小化に繋がった。
雨も降りだし、今日中に作業はとても終わらなかったので、明日に続きをすることにした。
ただ、目先に全体像の把握できる、はっきりした目標とイメージを描いて作業に勤しめることは、精神的に良いことである。
絵を描いたり、音楽を作ったり、詩を書いたりも、そして科学の研究にしても、この延長であろう。
もともと農耕や狩りそして信仰などから、それらの行為は純化されていったはずだ。
もっとも結果-成果については、巨大かつ不確かな広がりを不可避的にもってしまうにせよ。

それでノーベル賞をもらえるくらいの創造にでもなれば、これはトンデモナイことだが(笑。




仮面 ペルソナ

Persona.png
1966年スウェーデン映画
イングマール・ベルイマン監督・脚本


2人の女。
ひとりではない。ふたりだ。
はなす相手―もうひとりの自分が必要。
他者がなければ、発狂しかない。

沈黙と、とりとめのないお喋り。
又は失語症とセラピー。

錯綜から同調。
ペルソナの解体と融合。
カメラ―自意識―コラージュ。


結局、自意識が過剰になったとき、ペルソナが問題化するのか。
「本当の自分」というものが意識に揺らぎ浮上してくる。
役を演じていてハタと思い当たったり、自分のことを喋っていたりする時に徐々に強まる違和感から。
いや、異物感。
「いま在る自分」という。
そしてたまたま目の前にいる他者との間で、自分をまさぐり始める。
奇妙な陶酔と疎外感がないまぜになる場所が生じてゆく。

自ずと「本来の自分という虚構」を探り始める修羅場へと進展する。
女同士だとなおさらそうか?

当然、相手への投影、共感、混迷、反感、問いかけ、攻撃、、、。
いろいろな運動(衝動・情動)が繰り広げられ。
新たなペルソナの採用。
となる。


要するに、われわれは居心地よいペルソナを求めている。
居心地が悪くなれば、それは「本来の自分」ではないと感じだす。
沈黙も饒舌も同様に、ペルソナファンデーションを洗い流す契機-身振りに他ならない。

そして新しくファンデーションを塗りなおす。

ただ、人間というもの、その所作をかなりドラマチックにやらないと気が済まない。
神や政治や倫理や哲学などなど、、、。
つまり、本質や原理を求める。
いや、そういう物語に染まっていると言えるか。


たかがペルソナに、、、。

アンドレ・ブルトンは、かつてそんなものはシャツを着替えるくらいのものだ、と言っていた。


勿論、ベルイマンもそう言っている、、、。








死刑台のエレベーター

Ascenseur pour léchafaud

Ascenseur pour l'échafaud
1958年フランス映画
ルイ・マル監督 ・脚本
「ビバ!マリア」「プリティ・ベビー」は面白かったという覚えがある、、、いつだったか。
わたしは、所謂巨匠の名画というのは、数える程しか観ていない。
本作は監督25歳の時のデビュー作というが、上記2作より印象深く残っている。
今回ブルーレイで改めて、「フランスらしさ」と「映画というもの」をじっくり味わえた。


ジュリアン・タベルニエ (モーリス・ロネ) フロランスの恋人。退役軍人。フロランスの夫を自殺に見せかけ殺害。しかしエレベータに閉じ込められるというドジを踏む。
フロランス・カララ (ジャンヌ・モロー) 名士の奥方で誰からも一目置かれる、独特の特権的オーラを放つ婦人。
ルイ (ジョルジュ・プージュリー ) ゴロツキ。
ベロニク (ヨリ・ベルダン ) 花屋の売り子。ゴロツキの彼女。

わたしが一番、らしさを感じたのは、初期ゴダールにもよく出てきた無軌道な「ゴロツキ」である。
(シャルロット・ゲンズブール主演の映画などにもよく出てくる)。
如何にも頭の悪そうなチンピラが、似たような娘と一緒に、盗みや殺人を反射的にやる。
殺意や罪悪感がなく、超人的というか動物以下というか、偶発的な衝動だけでうろついている凄い生物である。
しかも微生物のような根本的(律儀)な法則性すらもたない。
神経系はあるが中枢は未発達である。
この時代から、若者とは、こういうものであったか?
(当然のごとく、今でもこんなのは時折見かける珍しいものではないが)。
わたしの亡くなった父より少し上の世代である。
フランス映画の雰囲気はいつも、この辺が色濃く滲む。
(日本映画がこの空気を真似すると、途端に小汚くなる)。

勿論、いつの時代にも様々なものがいる。
欧州は異民族が国境を行き来して暮らしているし。
誰もが異星人のような存在なのか、という感覚を最初(いつだったか、、、中学生の頃?)観たときに思った。
恐らく、ゴロツキカップルにドイツ人旅行者が銃殺された時に印象が残ったのかも知れない。
実存主義とかいう次元の問題ではない。
連中には明晰さが欠如しており、理性の欠片もないからだ。
少なくとも、原生的疎外は生じていても、純粋疎外の水準は無い。
それでも今日ママンが死んで、太陽が眩しかったから、でヒトを撃つのと同価の事か?
そもそも、ここにもともと価値などない。


わたしは、どうしてこんなことに拘り始めたのか(苦笑。
この映画にとってそんなこと意味のないことだ。
すべてスタイルの問題である。
いや「方法」というべきか。

この作品、ヒトを殺害するが、その理由を強いてあげれば、その刹那邪魔であったから、とでも言える。
殺した当人に罪の意識は掠めないが、法的な罰を回避しようとする企みは打つ。
ジュリアンは、尋問に正直に答える。
確かに彼は、ドイツ人を殺してはいない。
エレベーターの中にいたことも、そっくり話す。
聞かれたことに対しては、包み隠さず答えているのだ。
だが、そちらの誤解が解けても、更なる重罪が待っている。
警察にとってこの程度の事件は、難解なものではなかった。

プロットは、精緻に精確に描かれてゆく。
ノイズや挿話的な部分も彷徨い歩くフロランスの軌跡上に配される。
車はとても魅惑的な存在であった。小型カメラも、拳銃も、コートも、手袋も。
ガジェットが魅惑的で、それを動かすディテールも程よく描かれるてゆく。

しかし中心的な核はない。
盲目の愛に溺れたふた組の男女のドラマを描いたというものではなく。
(これなら、ドイツ人カップルだって同様である)。
それは、映画を撮るために必要最低限の動機。
構造に流し込むに必要な動力に過ぎない。

語るべき何かを表現するために映画など作らない。
映画を作るべくして映画を作るだけだ。
(音楽や絵画も勿論そうだ)。
その制作方法を恐らく監督誰もが、模索し見出し研ぎ澄ましてゆく。

この映画、サスペンスとしての脚本がよく出来ている。
流れは見渡せるのだが、それで面白さが半減するということはない。
終始目は離せない。
話の流れや内容にではなく、今現在のシーンに惹きつけられる為だ。
特に写真が粋な装置として効いている。
チンピラの写真はともかく、2人の写真を撮っていたのは、余りに軽率であった。
しかし、撮ってしまうものであろう。
充分に頷ける自然な所作の産物だ。
ジュリアンとフロランスの幸せそうな笑顔が、奈落の底に落ちてゆく2人の運命を照らしている。


この映画を観て、ルキノ・ヴィスコンティの「異邦人」を観たくなった。

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フィクサー

Michael Clayton

Michael Clayton
2007年アメリカ映画
トニー・ギルロイ監督・脚本


ケナー・バック&レディーン法律事務所にお勤めの方々、、、。
大変な薬害を齎した巨大企業(被告)の弁護を現在請け負っている。

ジョージ・クルーニー 、、、フィクサー(事務所の、もみ消し専門弁護士)であるマイケル。 息子の親権争いと従兄弟との共同事業に失敗、カネにとても困っている。そこに事務所からアーサーを黙らせるよう圧力をかけられ苦境に立つ。おまけにギャンブル癖もある。
トム・ウィルキンソン 、、、訴訟担当の優秀な弁護士であるアーサー。自分の担当する仕事であったが集団薬害訴訟の事の真相を握り、弁護する被告有利の裁判を自らひっくり返そうとする。マイケルの古くからの親友。
ティルダ・スウィントン 、、、弁護会社法務部ゼネラル・カウンセルであるカレン。被告の過失を隠蔽し、訴訟事件を分の良い和解に持ち込もうとする。その為、アーサーやマイケルの存在が邪魔になる。

物凄くよくある、ドラマに思えるのだが、この映画はこれといったサスペンスもアクションもない。バイオレンスもなければ、コミカルさやユーモアの要素もない上に、ほとんど起伏もない。
巨大な陰謀組織が闇から手を回し、主人公(たち)がどんどん追い詰められ、手に汗握る攻防を繰り広げた末、銃撃されてもちっとも当らない特権的な主人公がものの見事に敵を倒してしまう、といったイメージが直ぐに思い浮かんでしまうパタンなのだが、、、。
逆にこの手のストーリーをもって、垢まみれの既視感から逃れた作品が制作できれば、かなり画期的と言えるかもしれない。


結局ドラマチックな誇張された演出と、主人公の特権的な英雄的要素をとことん削ぎ落としたこの映画は、なかなか味わい深く、じっくり観ることが出来た。
ここには、肝の据わった悪者もいなければ、所謂ヒーローもいない。
既得権を守ろうとする普通の人と、自分の仕事に飽き飽きしたちょっとばかりやり手の人間が出てくるくらいである。
しかも、みんな結構無防備で、さほど計画性も無く、すごく明晰な人もいない。
新鮮というのとは、また別だが、過度な刺激で発散しましょうという類のエンターテイメントとは、一線を画する作品と言えよう。

そう、最近のひたすら刺激を高めて売らんとする娯楽商品に嫌気の指してきた神経には、腑に落ちる。
ここに出てくる人々は、皆先が見えず、不安を抱え、焦り、しくじり、疑いを持ち、怒り葛藤もするが、それらを胸に収めつつ日々の生活を送っていく。
殺し屋は、地味にアーサーを殺し、ソレを指示したカレンは相当にストレスを抱え込む。
更に彼女はマイケル殺しにも同意するが、動揺を隠しきれない。
トイレで自分が守ろうとしていることに対しブルブル震えつつも、顧客へのアドレスには何度も試行錯誤してリハーサルを行って当たる神経質で真面目な姿には、何故か同情してしまうものがあった。
殺し屋は、マイケルが賭博を早く切り上げて出てきた事に慌てふためき、車に仕掛けた爆薬の時限装置のセットをしくじり焦りまくる。
マイケルの車の尾行には失敗するし、マイケルがたまたま外の空気を吸いたくなり夜明けの景色を観に車を離れた時に、突然車の爆薬が破裂する。馬も驚く。(たまたま馬も道端の草原にいたのだ、、、どういう処なのか?)
殺し屋たちは、取り敢えず上手くいったかと、逃げ去るが、、、。
それが一気にマイケルの意思を決め、彼の背中を押すこととなる。

マイケルは、彼が死んだと思い一息ついて公演を終えたカレンの目の前に現れ、アーサーの機密書類のもみ消しと、アーサーを殺させ、自分も殺害しようとした件を不問に附する代わりに金を請求する。
彼女が大いに動揺し、それを受け入れた会話の録音と例の書類を刑事である弟に渡し、企み全ての動かぬ証拠とする。

だがマイケルは晴れやかな達成感など微塵もなく、どうにもやり場のない虚しさを抱えてビルを出てゆく。
最後の、タクシーに乗り何処までという問いに、50ドルで行けるところまで流してくれ、と浮かぬ表情でボソッと返すところが、キメている。(最後に見事なブーツストラップをしている)。


ジョージ・クルーニーが、やたらと渋く格好良く見えた。
そして特筆すべきは、ティルダ・スウィントンの名演技である。
自分たちの利益とプライドを守るため、極限状態まで追い込まれるカレンを繊細に演じ抜き、フラジャイルな心情に揺れるリアルな女性にしていたことは流石だと思う。
彼女でなければ、単に小憎らしい女性悪徳管理職に平板化されていた可能性も高い。


脚本もよいが、それを体現する役者が誰も優れていた。



秋日和

akibiyori.jpg

1960年
小津安二郎監督・脚本


原節子
司葉子
岡田茉莉子
佐田啓二
笠智衆
、、、豪華キャスト!

受付のやたら目立つ女性社員役で岩下志麻が出ていた。
おっと、それからオヤジトリオが出ていて、何とも恍けた味わいを滲ませていた。
実に酒屋の黄色っぽさが似合う。

そう、カラーである!
小津安二郎作品、カラーもなかなかのものである。
相変わらず、挿入される風景や反映する日陰のたゆたう室内の光景が美しい。
それで話の情景が染み込んでくるというもの。
この「間」が堪らない。
絶品である。
ローアングルで、対話する顔の正面撮り。
誰が見ても、小津安二郎作品である。


母と娘の物語か。
テーマ=話は、わたしにとって、なんでもよい。
二次的なものだ。
ストーリーには、端から興味はない。
小津安二郎の映画が観れれば、それで充分。
しかし、母と娘というのは、彼の映画で、他にあるか、、、?

そのためか、我らが笠智衆がチョイ役である。
オープニングのクレジットで不思議に思ったのだが、確かにこの出番では、と納得。
しかし他に見所が幾つか。
この映画で小津に見出された岩下志麻が、後に大ブレイク。(本作ではチラッとしか出てないが)。
「秋刀魚の味」でいきなりヒロインという大抜擢だ。

更にわたしは「喜びも悲しみも幾歳月」も「君の名は」も観ていないが、佐田啓二にはかなりのインパクトを受けた。
日本映画界広しといえども、いそうでいない二枚目俳優だ。
中井貴一には似ていなかった。もっといい男だ(爆。(失礼)。
日本映画の二枚目役によくいる、「ゴロツキ臭」が全く感じられない。
知的な雰囲気は、ピーター・オトゥールに近いものも感じる。

だがここで一際目立っていたのは、岡田茉莉子であろう。
今の映画でも、しっかりヒロインが務まるフレッシュさとビビットな煌きがある。
歯切れの良い役がまた似合っていた。
司葉子も活きがよく岡田茉莉子とのコンビは、AKBより遥かに爽やかでソリッドである。

原節子は母親といっても、聖母マリア風。
かつて誰か男性と夫婦であったというような生活臭がまるでない。
母役をやるにしても、未亡人という設定以外に考えられない存在だ。
彼女は、すでに本物の偶像に近づきつつある。
どこぞの如来像を観る気分に浸ってしまうではないか、、、。
小津映画自体が、名勝を訪れ、静かな時間を楽しむ感覚に似ているがこの作品も例外ではない。
笠智衆と原節子はいつでもお寺の本堂にいる如来像みたいである。
(屋久島の杉みたいな植物性が匂う)。


ふと木陰に吹いてくる清らかな風の心地よさ、、、を想う、、、。
わたしは、お寺の庭が好きだ。


つくづく感じるのは、この監督(脚本含)特有のセリフである。
すでにこの世の語りでは、ない。

笠智衆のあの喋りにわたしは中毒的に魅了されていたのだが、今回はオヤジトリオがそのセリフを垂れている。
いちいち真正面から、例の特異なセリフで迫られては、ほとんど恍惚となってしまう。
カラーであっても、変わらずにシュールだ。
極めてシュールレアリスティカルな映画である。
癖になる、依存性の高い清められた何か、だ。








バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

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Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance
2014年アメリカ映画
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督・脚本
あの「バベル」の監督

リーガン・トムソン (マイケル・キートン)映画「バードマン」の元スター俳優で、舞台での復活をかける。
マイク・シャイナー (エドワード・ノートン)大変癖のある、現有名舞台俳優。
サム・トムソン (エマ・ストーン)リーガンの付き人である彼の娘。元薬物中毒。
レズリー・トルーマン (ナオミ・ワッツ)マイクの同棲相手の舞台の主演女優。


初めてワンカット映画というものを観た。
あまりに自然な流れだったため、普通に観てしまった。
ワンカットで描ききる必然性・目的はいまひとつ分からなかったが、大変な労作であったことは、感じ取れる。
またカメラワークと演出の厳密な計算の上に立った、出てくる役者の達者なこと。
現実空間にすっと滑り込んでくるVFXも含め、絵作りが圧倒的であった。
SFアクションものの迫力とは、次元の異なる水準をもった強度がある。

このようなプロットであると、よくあるパタンでは、最後に真相が明かされ、実は主人公はとっくに海で死んでいた。
しかし、自身の死に気付かず、自分のこの世での夢を追い続けたり、、、などが連想し易いものだ。
例えば「パッセンジャーズ」などのように。(あの映画は、良い映画であったが)。

この作品は、卓越した撮影技術や美術に支えられ、主人公の世界が所謂現実に即しているのか、内的現実(想念)を漂っているのか、またその交じり度合いを特定せずに、一気に最後まで宙吊りにし続けてゆく。
脚本も振るっている。
下部構造が堅牢極まりない。
そのため、かなり文学性(芸術性)・抽象性の高い物語が、リアルで自然に出来ている。
先に挙げた「パッセンジャーズ」タイプの、ああやはりそうだったのか、と腑に落とす日常意識(意味空間)への着地点を設けない。
こちらを、ありきたりな理解で安堵させない、居心地の悪さ、良く言えば想像力を刺激し考えさせる場を提供している。

これは、カフカが発明し、常に彼の作品制作に用いた「方法」と同次元のものである。
つまり、「方法」によって作品を創造するという意味において。
それぞれのキャストに基づいた本をディテールに至るまでしっかり練りこむ。
絵を一瞬の破れ目も作らず、完璧に作りこんでゆく。
物語が厳密な数式により生成されるように見事に展開するのだが、何が語られているのかは判然としない。
解釈の余地が漠然とあるのみ。

ボルヘスがカフカの文学に対して言った言葉を思い出す。
「カフカの小説は、中心が欠如している。」(うる覚えで正確とは言えないが)。
であるから、未完であり続ける。
いくらでも続いてゆく。

その世界がどこまでも精緻に描き切られていれば、ヒトが目の前ですっと空を飛んで行こうが何の不思議もないだろう。
以前、哲学者の池田晶子氏も「わたしは、すぐ前でヒトが突然、空を飛び去っても全く驚かない、、、」とどこかで書いていたが、そのヒトの属するパラダイムのコンテクストにおいて、快不快や価値の感覚はもとより一元的に現実を、語れるものではない。
超現実的な風景を前にし、わたしたちはとても静かに落ち着いて、うち眺めている経験はなかったか?

そんないつか分からない経験の感触を、どこかに感じてしまう映画であった。


こんな映画にはなかなか出逢えない。

貴重な映画体験であった。


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叫びとささやき

Viskninger Och Rop

Viskninger Och Rop
1973年スウェーデン映画
イングマール・ベルイマン監督・脚本
今回もスヴェン・ニクヴィスト撮影
非常に安定した構図であった。

観終わって、しばらく経ってから、はたと気づく。
カラーだ!
わたしは、ベルイマンは白黒映画でしか観た事がなかった。
白黒があの霊的崇高さを醸す、重要なファクターのひとつと捉えていたためか、ベルイマンをカラーで観るという観念がなかったのだ。

部屋の真紅と白のローブの対比が鮮やかな、様式美に際立つ。
しかしカラーを初めて観たことを、何故かすっかり忘れていた。
バッハの「サラバンド」が流れたことは、覚えていたが、、、。

三姉妹とメイドのアンナの4人の存在関係を邸宅内のみで描く、性と死を巡る濃縮ドラマ。
これまで私の観たベルイマンのなかでは、最もヘビーな塊であった。
先日観た「魔術師」が一番、話の流れに乗って軽やかに観ることが出来る作品ではなかろうか?

死の床に伏せり、苦痛に苛まれている、次女のアングネス。
それを見舞いに来た激しい性格の長女カーリンと媚を売る三女マリーア。
次女に尽くす、信仰深く無垢な精神のメイド、アンナ。
彼女らが幼い頃の思い出に出てくる母は三女の女優が演じている。
次女のモノローグで、2人は瓜二つに性格が似ていたという。
自分はその家族の中にあって、疎外感と孤独を味わってきた事を思い返す。

この作品における「叫び」は、直接的には次女の病苦の苦痛の叫びである。
「ささやき」は、次女がずっと享受出来ないでいた、三女たちの親密性(親和性)の象徴であろう。
しかし男女関係における「ささやき」は、カーリンとマリーア姉妹にとっては、倦怠や嘘でしかない。
それは、苦悩に満ちた叫びに繋がる。実際長女は、激しく狂ったように叫ぶ。
また、2人の姉妹の間では、ほんの一時ささやきの時は訪れたが、翌日には全く無かったことになっている類のものだ。
「叫びは」苦痛そのものの表出であるが、「ささやき」は虚しさをのこして消え去る。


ベルイマンの作品に決まって現れる、メタフィジックな現象は、ここでは死んだ次女が屍のまま2人の姉妹を心配して語りかけ、自分の身を温めて欲しいと願うシーンである。
姉妹たちはただ恐れ慄くばかりだ。
長女は、その願いを愛してないからできないと撥ね退け、おとなしく死んでくれとも言い放つ。
三女も、わたしは見捨てられないと近づきはするが、触られた瞬間叫び声をあげて逃げ去る。
アングネスが死んだ時には、さめざめ泣いてはみせる2人であったが、それは単なる芝居と言うより惰性的な規範意識により機械的に泣いていただけなのだ。
このような魂の深淵からの「ささやき」に突然触れた瞬間、カーリンとマーリアの本質が露呈し、恐怖にフリーズした。
それにしても、ベルイマンのこのシュルレアリスティカルな映像は毎回見事だ。
あの「処女の泉」の鮮烈極まりない泉の湧起こるシーンといい、絶妙である。
わたしはこんな芸当がハマる監督は、他にタルコフスキーくらいしか知らない。

超越的な(時空を超える)視座-イメージが現実の光景に何の破れ目もなく融合する。
これをもってリアルというのだ。
そう確信させる強度がある。

幼い娘を亡くしているアンナだけが、次女に寄り添う。
アングネスに自分の娘を重ねているところもあろうが、それだけで死にきれない思いを吐こうとする屍を抱くことは出来まい。
この姿、ミケランジェロのピエタ像そのものであった。

ベルイマンが映像の詩人であることがよく示された場面に想える。
やはりこんなシーンは、タルコフスキーの他に観られるかどうか、、、。


物語の最後に、アングネスが小康状態の時、2人の姉妹とメイドとともに、一時を過ごした際の日記をアンナが目にする。
 「“時よ 止まれ”と願った。 これが幸福なのだ。もう望むものはない。
 至福の瞬間を味わうことができたのだ。」

やはり、これが芸術の使命ではないか、、、。
音楽・絵画・詩はこのためにある。
時を止めるために。
改めてそう想った。


そして「叫びもささやきもかくして沈黙に帰した」という字幕で唐突に映画は閉じる。



THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦

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2015年
押井守監督・脚本

今回は、太田莉菜だけでなく森カンナがやたらカッコ良い役ででている、のだが。
相変わらず、、、あのレイバーというのが、文字通りの「でくのぼう」。
なくていいね。
存在自体意味ない。
真野恵里菜が自分で銃を撃った方が、遥かに効率的で精確であろう。
何のために、あれにわざわざ乗るのか?
そのわざとらしさが狙いなのなら、、、
さっぱりわからん。

レイバーがあれで、太田莉菜のアクションももう少し見たかったし、森カンナは基本的に操縦するヘリでしか見えない。
その上、もう少し高度な戦術や操縦テクニックを期待したが、なんだかあっさりやられちゃうし、海面に上がってニヤッと笑ってみせられてもなんなんだか、、、。(バスケのシュートだけ魅せられてもね)。
真野恵里菜もあまり出番がないし、じっくり芝居が見れたのは、筧さんと高島さんだけだ。
やたら、この2人の出番が多かった。
筧、高島ファンにはたまらないことだろう。

わたしは、森カンナにもっとフォーカスした話を観たかった。
志や義のない正義に対する挑戦とやらが実質どういうものなのか。
人物像やその背景をもう少し描いてもらいたい。

結局森カンナは、結局何者だったのか?
これでは、続編がなければ済まないでしょ。


更に、レイバーをどうせならガンダムくらい動くモビルスーツにしてもらえないものか?
ハイパーパトレイバーとか、、、。
これは、無理か。(意図・設定そのものが違うか)。
しかしあれでは、何のために出てきたのか、そもそも映画の題名となる主役では、ないではないし。
エキストラレベルである。

原作や漫画は一切見ていないが、わたしは映画を観たい。
何というか、物語に実写がついて行けない感じだ。
これならお得意のアニメ映画にした方が良かったはず。
アニメ映画であったなら、恐らく圧倒的な出来であった気がする。
(いつもそうであるし)。

適度なユーモアやオタクネタ、小ネタの装飾的なところは兎も角、肝心のストーリー、プロットに物足りなさばかりが残る。
見終わって、筧さんと高島さんのお喋りだけ聞いていたような気になった。

以前観た「パトレイバー 特別編」の方がずっと内容的に面白い。
あそこでも、レイバーはほとんどろくなことはしていないが、意図的にそうしていると思えたものだ。
まず、太田莉菜のアクションシーンが物凄く格好良く、真野恵里菜も活き活きとしており、他の登場人物や話自体がコミカルでかなり楽しめた。

今回は、そこにクールで得体の知れない森カンナが加わり、どうなるかと思いきや、すべてが筧さんと高島さんの背景に霞んでしまった感がある。元気ハツラツ真野恵里菜もいまひとつ。
しょうもないお喋りばかりでは、物足りない。
(さっきから同じことばかり言っているが、それだけ残念で、むず痒いのだ)。


決してつまらないとは言わないが、それほど面白くなかったことは、確かだ。

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アース トゥー エコー

EARTH TO ECHO
EARTH TO ECHO
2014年アメリカ映画
デイヴ・グリーン監督

タック(ブライアン・“アストロ”・ブラッドリー)
マンチ(リース・ハートウィグ)
アレックス(テオ・ハーム)
エマ(エラ・ワーレステット)
4人の少年・少女が、”エコー”と名付けた異星人を助けて、彼が故郷の星に帰還出来るように、力を合わせて頑張る物語、でよいか?

この映画もPOVで登場人物の視座から映画に入り込める。(臨場感がある)。
そのカメラワークは「クロニクル」でも効果的に活用されていた。
しかも、常にタックがビデオを回している記録魔であり、それも通した点で二重にハンディな映像であろう。
携帯のカメラも異星人の目の代わりもしたりして、終始大活躍であった。
少年たちの冒険を描くにはよいカメラワークである。
ぶつくさ言いながらの、深夜の長距離サイクリング。
自分たちの街の路地から路地、庭から庭に逃げる時や、エコーの乗る宇宙船の内部や通路の映像になど打って付けだ。

タック、マンチ、アレックスの3人の携帯に「ゲロ」のような気味の悪い画像が入ってきた。
彼らの住む地区の携帯には、同様な現象が起きたが、3人はそれを地図であると見破る。
3人は親友同士であるが、高速道路建設のため、強制移転で散り散りになる日が迫っていた。
3人でできる最後の思い出作りという感じで、その地図の示すところへと、親に嘘をついて出かけてゆく。
これは良いことに違いない。
観ているこちらも、この流れにワクワクする。
「スタンドバイミー」のノリではないか。
むしろ、「ET」か?

しかし、事態は思いもよらぬ展開を見せ、少年たちは政府の秘密で進める計略に逆らい逃げ回るはめになる。
変なモノを拾ったかと思いきや、それが異星人であった。
更に問題なのは出逢って間もなく、彼らはその異星人と友達になってしまったのだ、、、。

うちの娘を見ても分かるが、彼女(彼)らは、いつも瞬時に友達になっている。嘘みたいだが、本当なのだ。
勿論、友達になるべくしてなる相手であることが、次第にわれわれにも分かってくるのだが。

政府の秘密機関は、異星人を研究材料にし、宇宙船は破壊する計画の下に動いていた。
その宇宙船が少年たちの住む土地の地下に潜んでいることを政府はすでに掴んでいたために、高速道路の工事と偽って住民を立ち退かせたのだ。
この辺は、ありそうな話である。

3人の少年たちには、何故か学校でマドンナ扱いの少女も加わってきて、4人でエコーを守るために苦難を乗り越えてゆく。
大概、オタクっぽい(マンチはオタク以外の何者でもない)子は影が薄い。
ここに人気の美少女が絡んでくるのは、ちょっと突飛に思えるが、それを言うなら宇宙人が少年たちの携帯に次々に地図を送ってきてSOSを呼びかける方が、もう少し突飛に思える。

途中から強引に仲間に入り込んできた彼女が、少し経つとグループの指導的立場に立っている。
これは、よくあるパタンだ。
少年期はどうしたって、女の子のほうがしっかりしているし、いざという時大人である。
彼らの冒険においても、彼女は結構頼りになった。
彼女にあこがれていたタックは、彼女が煙たくなってくるが、そのエマに対して冷たかったアレックスと次第に距離が近くなる。
リアルな心情の変化であり、この辺の丁寧な描写がこの映画を荒唐無稽なものに浮き立たせない。

なんせ、最後は凄いVFXの見せ場である。
地下から突き出て、次々に青空へと上昇してゆく、キラキラ光る物体のパーツ。
シャボン玉より遥かに夢想的。
それが上空高く、巨大な宇宙船へと結合し、凄まじい速度で一瞬のうちに飛び去る。
誰もが少年期に観た美しい光景だ。
レイブラッドベリの世界にも重なるイメージであった。

湿っぽくなる(文字通り地上からの)別れを、明るく解放的な一体感へと、宇宙大に昇華させてゆく。
これって、見事ではないか。


大変な大仕事を成し遂げ、自信をつけて戻ってきたのに、帰った先から親に怒られるとビクビクしているのが、少年らしかった。
4人にとって、一生忘れられない秘密の思い出になったはず。


と謂うより、アレックスの携帯に、彼からメッセージが時々届くらしい。
これ以上に結晶的な暗いトキメキがあろうか!
エンドロールは最後まで付き合った方がよいものだ。


後味の良い作品であった。

われわれは、孤独ではない、、、。
少年期の夢に煌く限り。
EARTH TO ECHO 02



ノア 約束の舟

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Noah (トヨタのミニバンではない)
2014年アメリカ映画。
監督は、「ブラックスワン」のダーレン・アロノフスキー。
音楽の演奏はクロノス・クァルテット。
旧約聖書の「ノアの方舟」から発想された物語。

トルコのアララト山で探検隊がノアの箱舟を見つけたという噂が以前あったが、それを思い出した。
結局どうだったのか?その後の展開を知らないし、調べる暇もなく過ごしてきたものだ。
そういえば、世界中に人間を罰するために神が洪水を起こし、地上を水没させた類の神話・伝承があるように思う。
水没した巨大文明(マヤ・アトランティス含)や水底に眠る宮殿跡など、、、。
集合無意識においても、そのような記憶が人類に通底しているのかも知れない。
鳥を飛ばして地面があることを探らせたりも、他の伝説にあったはず。(どこの話であったか思い出せないが)。


ここでも、神に背き、人間の意志により、地上を支配しようとするカインの末裔たちと、神に忠実なヒトとの対決が見られる。
最終的に、ノアが神の意志を慈悲の精神により解釈し、動物たちだけでなく自分の子孫を繁栄させる道を選ぶことで、空が晴れ渡り美しい虹が掛かることになった。
神の祝福である。
これにノアが気付かなかったなら、今の人類はない。
ノーベル賞どころの話ではないわけだ。

とはいえ、今の人間が天罰を受けた頃の人々よりマシかどうかは定かではない。
あちこちで人災-戦争やテロやさまざまな残忍な蛮行が勃発している現状である。
実際、世界は大規模な天災が起きる徴候にも満ちている。
彗星が降ってきたって、おかしくない。
危うい現実に誰もが身を晒しており、確かなことなど何もないのだ。
神が死んだといっても、科学も常に書き換えられてゆく。
ニュートリノ振動も日本の科学者によって発見され、基本理論が覆されることとなった。

多くの発見・発明・認識・理論など、直感が非常に肝心な切っ掛けであったりするものだ。
ノアの神の言葉を聴く又は幻視(ヴィジョン)は、深い確信を得るに足る強い直感の働きとも謂えよう。
このような、天上に繋がる感覚と意思をもったヒトが、周囲に理解されずとも、黙々とやるべきことを進めてゆくのだ。
(ノーベル賞受賞者たちも多くはそういった人たちであろう)。

ただ、啓示や至高体験であろうと、それを理解し認識する過程において、その人間の資質による解釈-編集が介在する。
それなしに、ことばにならない。
行動はこの後に始まる。
それが「正しい」かどうかが、まことに厄介なことである。
啓示を受けて大量虐殺が実際に行われてきている以上。

この映画では、ある意味ノアは原理主義者とも言え、その結果多くの人間を見殺しにしている。
神の意志という硬直したことばの下で。
(現代は経済的駆け引きがほとんどを占める。ISは広報上神を打ち出してはいるが)。
正しい決断というものは、その時の権力者に委ねられる他ない。
ここで重要な役目を果たすのが女性である。
しかも子供を産んだばかりの。
ノアを変えたのも、それだ。
ここがカギであると、この映画を観てつくづく思った。
生命力の肯定こそが善であると。
また、真であり美に繋がってゆく。


アンソニー・ホプキンスが、ひと癖あるノアの曾お爺さん役で出ていた。
ラッセル・クロウがノアで、ジェニファー・コネリーがノアの妻。
エマ・ワトソンがノアの養女で大いにノアを揺さぶる女性。
このキャストに加え、とんでもないスケールの実際に建造された箱舟と水には圧倒された。
CGの動物たちもリアルで、堕天使の巨人たちのフォルムや動きも新鮮味があり擽られるものがある。
しかし、この豪華さに見合う感動はいまひとつであった。


ラジー賞にノミネートされたと、発表当時話題であったと思うが、かなりの大作ではある。
信仰における葛藤とその大切さが謳われているアメリカ映画のひとつには数えられることだろう。


プリズナーズ

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PRISONERS 
2013年アメリカ映画
ドゥニ・ビルヌーブ監督

まさに、プリズナーズ。
みんながプリズナーズであった。
しかし、もともと誰もがプリズナーズではなかろうか?
あのエッシャーの絵のような、、、。

すごく長い時間観ていた気がする。
わたしは、病院の予約があったので、途中で再生(ブルーレイで観ていた)を止めて、外来の受付を済ませて、大急ぎで家に戻り続きを観たが、その後もかなりかかった。おかげで、何時もうんざりするほど待つ時間が、今日はなかった。
一体何時間の映画であったのか?
調べてみたら、153分だと。
今日の病院はすぐ近くなので、途中から観に帰るという芸当ができたが、もうひとつの病院は片道電車で2時間なので、アイアンマンでなければ、無理。

わたしもホントにプリズナー。

演出が抑えたトーンでヒタヒタと話が進み、急激でショッキングな展開が無い分、大変重苦しい映画であった。
しかし、緊張は途切れず、目は一時も離せない。
非常にタイトな映画だ。しまった脚本だ。
にも関わらず、長く感じたのは、通院の予約時間が気になったからであろうか。
(この話はもうよい)。


まず、間違いなく謂えることは、娘が誘拐されたとき、容疑者の些細なことばも聴き漏らさず徹底的にそれに拘り抜く父親の意思には、全面的に共感する。
一線を越えようが、どうしようがこの際、関係ない。
親であれば、当然のことだ。
この映画でもそうであるが、警察に任せておけるはず、なかろう。

しかし、この父親と大きな違いは、わたし(また多くの日本人)は、一神教(キリスト教)を支えとしない。
この映画、そこが重要なテーマと覗える。

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。


この主祷文が父親によって、幾度か唱えられる。(全部と部分のときがあるが)。
息子と鹿を撃つ時、自分の直感した容疑者を拷問にかける合間に。
彼は敬虔なクリスチャンであり、娘が救われるよう常に神に祈り続け、神と己を信じて果敢に行動する。
息づまっても迷いは、ない。プロテスタントの独立心というか、備えを怠らず自らの家族は責任を持って守るという精神。
この強い信念が信仰の力の賜物なのか?
少なくともこの点が、わたしの身体性には、ないところだ。
多神教ではなく、無信仰なのだ。家は一応、真言宗ではあるが、葬式(お寺)やお墓の関係であるに過ぎない。
(一時期、真言関係の本は読んだが、その知識は身体性へと繰り込まれることはなかった)。

この事件を担当する敏腕刑事は、フリーメイソンの指輪をしている。
「ルシファーの子供」つまりは異教徒とも言えようか。(至高の存在への真摯な信仰を入会条件に挙げており、キリスト教徒も当然いるが)。
明晰で論理的な行動を彼はとってゆく。
推理も鋭いが、犯人(犯行の真相)に先に辿りついたのは、娘の父であった。
キリストをのみ信じる者が真実を得ると示すかの如く。

また、犯人側の人間周辺には、悪魔の象徴である蛇がわんさと登場する。
わたしがキリスト教に詳しければ、恐らくディテールに渡って、このような象徴が鏤められていることを知るはず。
最後に明らかになる真犯人は、主人公が締め上げた男の叔母であり、かつて息子を癌で亡くした女であった。
彼女の犯行の動機は、息子を奪った理不尽を神に問い、神への復讐のためこれまで多くの子供の命を奪ってきたという。
彼女は理性で、何故わたしの息子を奪ったのか、という疑問から信仰を捨て神に刃向うのだ。
しかし主人公は、何故わたしの娘を奪うのですか、とは決して問わない。
信仰において、神の御心は原理的に人智の及ぶところではないからだ。
さらに深い信仰によって彼は、ひたすら神に救いを求める。

この映画は、ヒト同士の戦い-謎解きが、神と悪魔とのものに想えてくる。



ヒュー・ジャックマンが信心深い父親ケラー。
ジェイク・ギレンホールが鋭い刑事ロキ。
この両雄の凌ぎを削る演技は、繊細であり緊張感たっぷりであった。
ケラーがkellerであれば、文字通り「地下室」となり、あの不時の災害に備えた見事に充実した地下室そのものである。
「ノアの箱舟」を想起させるに充分だ。
ポール・ダノという役者は、面白い。娘をさらった発達障害の男を終始灰色の状態に保ち続ける絶妙な演技であった。
(実際に手をかける役は叔母であるが)。


その長さだけでなく、体質的にまた観るということは、ない映画だと思う。
勿論、問題作であり優れた映画作品であることは、確かだ。




ドラキュラ ZERO

Dracula Untold

Dracula Untold
2014年アメリカ映画
ゲイリー・ショア監督

ドラキュラ(ヴラド公) ルーク・エヴァンズ
ミレナ(妻) サラ・ガドン


トランシルヴァニアのワラキア公国君主ヴラド公は、オスマントルコの使者から戦闘員として1000人の子供を差し出せ、という要求を突き付けられる。大量の銀貨を貢いだにもかかわらず。
葛藤の末要求に従わず、彼は圧倒的な軍勢を誇るオスマントルコと戦う道を選ぶ。
当然家臣の反対を押し切ってである。
「300」を思い起こすところでもあるが、多勢に無勢どころではなく、ほぼ彼独りで戦うこととなるのであった。
「アベンジャーズ」でも大変な戦闘となるはず。相手は数十万だ。
独りで立ち向かうには、人間技や戦略をいくら立てたところでどうにかなるものではない。

そこでヴラド公はかつて牙の山で遭遇し、2人の兵士を殺した魔物に力を借りることにする。
彼はそれが国を窮地から救う残された唯一の秘策であり、巨大な兵力をものともしない超越的な力を得る千載一遇のチャンスと見たのだ。
魔物も自分の棲みかに2度来たのはお前が始めてだと、彼を認めるものの、闇の力を与える代償を求めた。
それがバンパイヤとなることであった。
つまり血を吸わなければ滅び、日光に当たれば溶けてしまうという宿命を背負い続けることを意味する。

領民と愛する妻子を守るため、平和のためにヴラド公は悪魔となることを選ぶ。
皮肉な選択であるが、もはやこれ以外にトルコ勢を打ち破る方法はなかった。
この映画で、はじめて何故ドラキュラがバンパイヤとなったかが、分かった。
彼は国をずっと平和に治めてきた名君であったが、これを機に領民から魔物扱いされ火攻めにもあう。
ドラキュラ伯は義のため非常に孤独な戦いを強いられることになる。
終いには愛するミレナまで失う。
(ドラキュラは彼女の血を吸い、完全なバンパイヤとなる)。


戦いにおいては、やはりVFXが効いていたが特に蝙蝠の集合・離散しながらの敵を蹴散らす素早い攻撃は迫力充分である。
ヴラド公自身「串刺し公」と異名を持つ勇猛な武人でもあるが、そこに闇の力が加わり超絶な戦闘力となった。
それは、強さで怯まぬ敵に対し恐怖で威嚇する効果も大変大きい。
敵の兵士も目隠しをして戦いに臨むが、巨大な竜巻レベルのエネルギーで吹き飛ばされては一巻の終わりだ。

結局、妻との約束を守りぬき、子供を救い自らは太陽光の下に崩れ落ちる。
とはいえ、ドラキュラは何度も甦るのだ。
物語の最後は、現代に甦るドラキュラとかつての妻ミレナとが時を隔て、ビル街で出逢う。
しかし不穏な魔物もスーツ姿で2人の後をついてゆく。
「ゲームを始めよう」と、、、。
意味ありげに終わる。


続編をいかにも匂わせるが。
現代を舞台にでもやるのか?
もしそうなら、ひとりアベンジャーズではないか!
息子が領主となり、その続編というのもできないものではないだろうが、、、。
恐らく、この映画の続編はないように思える。



東京物語

tokyou.jpg

1953年度日本映画。
小津安二郎監督。
笠智衆、原節子主演。

デジタルリマスター版がBSでやっていたので観た。
相当きめ細やかな修復が何度にもわたり行われてきたようだ。
オリジナルが焼失してしまったのが痛手であったか、この年代のフィルムであるからか、この画質が限界なのであろう。


以前観たのは、いつであったか?
ローアングルのモノクロ映画であることは勿論。
笠智衆の存在感は脳裏にしっかり焼き付いていたが、、、。


シュールである。

SF映画でもここまでシュールではない。
平凡で普遍的な日常を切り取った世界がこれであれば、もうわれわれは異界にいる。
今現在、何一つ誰ひとり、ことばにしても、この映画に重なってくる要素は見あたらない。
例え紀元前を題材にした作品であってみても、どれも今の人間ドラマに過ぎない退屈なものばかりだ。
小津安二郎の世界は、それらのどれにも全く似ていない。
人類にかつてこんな場所(時空)があったという、たまらない郷愁に駆られるこの超現実性。
あのバス。卓袱台。宿の部屋の前に、二つ几帳面に揃えられたスリッパ。絶えずはためく団扇。蚊取り線香からたゆたう白い煙。
紀子が手に持つ一升瓶。
タルコフスキーのワインの瓶と同様のアウラを纏う。

そして、美しい。
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これほど美しい情感溢れる(シュルレアリスム)映画が他にあるだろうか?
出てくる人々の誰もが美しい。
ことば、所作、立ち振る舞い、表情それらの全てに品格が満ち、優しく清らか。
老夫婦が朝の埠頭を連れ立って歩く姿は、もはや下界ではない。
(といっても、決して冥界ではなく)。
この世界であって、すでに失われた世界なのか、、、。
例えば、アトランティスとかの、、、そんな夢想をしてしまう。

特に原節子 と香川京子のこの世離れした優麗さに、こころが沈静化してゆくのが分かる。
そして浄化されてゆく、、、。
この映画は、高血圧に効く。
いや、病一般の治癒に役立つ。
異次元の特効薬に違いない。

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これから定期的に観て(服用して)いこうと思う。


しかし、笠智衆、原節子とは何者か?

あのおばあさんもとても素敵である。
ああいう人と一度縁側で、茶飲み話をしてみたい。
お湯は、程よい温度に保たれた「魔法瓶」から急須に注ぐ。
やはり茶請けには、お煎餅がよいか。
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今度の水曜日が楽しみ、、、。
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BSの予約忘れずに。


パシフィックリム

Pacific Rim005

感動した!
100点満点の映画である。
よくこれほどまでの作品を作ってくれた!
ここまで嬉しくワクワクしたのは、何年ぶりだろうか?

Pacific Rim
2013年
ギレルモ・デル・トロ監督・脚本
「パンズ・ラビリンス」も申し分無かったが。
日本の怪獣へのオマージュを超えた孤高のカイジュー映画が創造された。
ギレルモ・デル・トロ監督をして出るべくして出た映画である。
円谷英二を尊敬しているとのこと。うちも親戚が彼のもと、特撮監督していたこともあり、他人とは思えない(笑。
押井守とも親交を持つらしい。
フランシスコ・デ・ゴヤの「巨人」をイメージソースにしているという。
どちらも納得。
VFXは文句なし。(水の表現がここまで出来ているのは驚異)。

「ゴジラ」(ギャレス・エドワーズ監督)もかなりの出来栄えであったが、本作はそれを凌駕する圧倒的なものである。
ニール・ブロムカンプ監督と通じる資質を感じた。
怪獣、ロボット・兵器などモンスターメカオタクであることは、言うに及ばない。
それだけに、メカのディテールの作り込みは尋常ではない。
更に動きや破壊場面も多彩で新鮮であった。
イェーガー(人型ロボット)が倒れこみビルの破壊される時の息を呑む美しさは、かの未来派画家も絶賛するに違いない。
ウンベルト・ボッチョーニに感想を聞いてみたい。
Pacific Rim004



何と言っても、カイジューとイェーガーとの死闘が繰り広げられるシーンに恍惚となる。
イェーガーには、異世界と繋がる深海の割れ目に侵入しゲートを破壊することが最終任務として課せられる。
カイジューもイェーガーもニール・ブロムカンプ監督の造形に引けを取らないものであるが、カイジューの全貌と、昼間の明るい空間での戦いも観たかった。
もっと造形をじっくり堪能したくなるものだ。

ローリー・ベケット(チャーリー・ハナム)
森マコ(菊地凛子そして幼少期は芦田愛菜)
この2人で「ジプシー・デンジャー」(イェーガー)に乗り込み、益々進化し力を強めるカイジューたちに立ち向かう。
神経とマシンを接続する「ドリフト」によって2人が右脳と左脳を分担し、記憶と意識を同期させて操縦する。
操縦は、パイロットの身体運動能力がそのままの動きで反映される。
であるため、格闘技練習にも余念がない。
なお、森さんは、優秀なパイロットであると同時にイェーガーの開発者でもある。
2人ともカイジューによるトラウマを抱えている。(どちらも肉親を殺されている)。
このカイジューたちは全て、地球を略奪しようとする異星人にコントロールされて送り込まれてくる。
個々に何となく迷い込んで暴れているわけではない。


Pacific Rim006

人間キャラも際立っている。
主演の2人の他に、チーム物には必ずひとりいるライバル意識丸出しで反目する優秀なパイロット。
ここでも定石通り、彼が他のイェーガーに乗り込み活躍するが、壮絶を極める戦いの中、極限状況下に主人公達と友情も芽生える。
しかし、いささかもこのパタンが古さや陳腐さを感じさせない。
森さんの命の恩人で養父でもあるスタッカー司令官(イドリス・エルバ)の演技はドラマに厚みを与えていた。
どうやら、怪獣・ロボットの造形面だけでなく、自らの身を犠牲にしても任務を遂行する日本の武士道精神も彼らは継承している。
チームのオタク博士2人が、身を危険に晒しながらも、何と殺したカイジューの脳とドリフトしてカイジューが送り込まれる現象の背景を探ったことは大きい。
この情報で異空間への侵入方法が明らかになった。
しかし、あそこまで濃いオタクキャラは初めて見た。(昔のハリウッド映画の出っ歯でメガネのカメラを提げた日本人に替わるものか?)
日本のアキバあたりでモデルとなるヒトでも見つけたのか。

念のため、菊地凛子はある意味、誰よりも迫真の演技を見せていた。
この役は彼女以外には考えられないというレヴェルであった。
相手役も、役柄ぴったりの役者である。
忘れてならないのは、ハリウッドデビューを果たした芦田愛菜の天才子役ぶりであろう。
ただ、泣いて逃げるだけで、監督絶賛であったという。(ちょっと、もったいなかった)。
わたしとしては、セリフのひとつくらいほしかったが、、、。

ハンニバル・チャウというカイジューの体を切り刻んで高値で売りさばく富豪闇商人の存在も面白い。
人類の終末がすぐ身に迫る混乱期には出てきてもおかしくないキャラと想える。
映像が非常に精緻に自然な流れで作り込まれているため、突飛な設定や存在も全てリアルに観ることができ、どのシーンにも裂け目がない。
Pacific Rim


この映画のエンドクレジットには、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ、とあった。

さぞ御二人もお慶びであろう。




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プリディスティネーション

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Predestination
オーストラリア2015年製作
マイケル&ピーター・スピエリッグ兄弟監督・脚本
ロバート・A・ハイライン原作


最近の映画の傾向として思えることだが、とても感性的にささくれ立っているものが多い。
神経にヒリヒリ触る。
何にしても、刺激が過剰なのだ。
過剰な刺激を求め続ける人々への相当な供給に過ぎないものか。
映画というものの進化と捉えるべきことか。


ときどき空気が痛く感じることがある。
太陽があまりに眩しすぎることがある。
木々の敵意を覚えることがある。
風が妙によそよそしく思えることがある。

世界と折り合いのつかない自分にふと気づく。
少年時代に定期的に落ち込んだ虚空にいることに気づく。
ずっと自分の背骨が身体とヒリツキあっていたことに改めて気づく。



俯瞰(超越的視座)がなくとも、感じるこの閉塞感では言い表せない時間ー運命への呪縛。
この映画、妙に主人公と感覚的に重なってくるものがある。

精神的に重いのではないが、生理的に痛い。
純粋に思考実験としての、タイムパラドクスとしてみても。
自分だけで閉じた円環時間系が、何周目かに恐らくそれが始点部分で途切れ、曲線へとトポロジックに変換された。
その過程がこの映画で描かれているようだ。

ここに登場する主要な人物はみな時間に閉じ込められた独りの分身であるに過ぎないという究極の事態にあり続ける。
この時間系にいる条件は、過去・未来において誰とも関わりを持たぬ者であり、時空警察官として課せられた任務である後継者の選定と、最終目的はこの時間系の円環運動を止めることである。
時空警察官(タイムジャンプして大事件を未然に防ぐことを目的とする)と両性具有であった青年(時間警察官の後継者)とその以前の姿である女性。
女性であったころの恋人である男(彼女を残し突然消え去る)、この彼との間に産れた娘(誘拐されたうえに孤児となる)。
更に巷でフィズル・ボマーと恐れられている爆破テロ犯。
この全てが時間移動のカラクリのなか、どれも姿を変えただけの独りの同一人物ということである。
なお、時空警察官はその後継者となった青年が、フィズル・ボマーを追い詰めた時に、全身火傷を負い手術を受けて人相の変わった姿である。
もうひとつ彼女は帝王切開で出産した際、大出血により女性器を切除せざる負えなかったのだが、その時両性具有の特異体質であった事が判明し、男性の特性を強化する手術を受け、完全な男性化を果たす。更にその娘を連れ去ったのも、別(警官)の自分である。その娘は孤児院に捨てられ、長じて男に変身する当の彼女である。彼女と恋仲になるのは男となった未来の彼女自身である、、、。

最後には、意を決した時空警察官が、度重なるタイムジャンプにより正気を失ったとされる未来の自分(フィズル・ボマー)であり、かつての青年であり、彼女であり、彼女を捨てた男でもあった(自分)に出逢う。
彼が都市の歴史的な大爆破を行う1日前である。
恐らく、これはこの円環時間系における初の出来事であろう。
この未来の全ての自分のなれの果ては、突然やってきた若い自分に逢って驚く。(基本的に同じ姿の自分には逢わない)。
また、彼の組織の上司は、翌日起こる大惨事によって、組織の強化が図られたと語っていたことからも、これが阻止されるのは、初めてであると受け取ることができる。
彼はなれの果ての自分を銃殺し、時間の呪縛から解かれたはず、、、。
自殺であろうが、もはや、自殺か他殺かも判然としない。
そもそも自分とは、他者とは、何か?


生理的に受け容れ難い作品であったが、異様な生々しさを覚えた。
自分(男)と自分(女)が出逢い愛し合い、子供ができるというのは、近親相姦と同等の気色悪さがある。
しかもその子供が自分ときている。
これほど究極の世界があるだろうか。
他者がいない世界はどうにも想像できない。
だが、誰しも他者が何であるかは知らない。
自意識しかない。全て~についてのわたしの思い-考えを越えるものではない。
とはいえ、自分を一番理解できるのは、果たして自分か?
それも認め難い。
物語では、相次ぐタイムジャンプにより精神を病む危険性が高い、と言っているが、それよりもこの自分しかいない時間系を永遠にめぐり続けることによる発狂が必然であろう。
そして、彼が都市を破壊するに至るのを回避するために、その当事者となる自分が乗り込んでゆくという矛盾。
そもそも最初からいなければよかったではないか。

果たして、彼女は自分同士の結合から特異体質の両性具有になったのか?
それが自己完結する時間系を作るに最適な条件であったにせよ、どこから「それ」は生じてきたのか?
家のハイラインの本を調べてみたが原作は見つからなかった。
暇があったら取り寄せて読んでみたい。

バイオリンケースで時空を移動というのも、何とも言えない。
面白いアイデアではあろう。
その時間に突如現れ着地する姿が、妙にリアリティがあった。


イーサン・ホークは複数であり独りでもある男の表情をうまく微妙に演じ分けていた。
サラ・スヌークは、青年と若い女性を演じ分ける大変な熱演であるが、男装の醸す雰囲気は、この映画の質感を象徴していた。


また観たいとは、思わないが問題作ではある。
これについて書くこと自体、生理的にしんどい。


魔術師

Max von Sydow

ANSIKTET
1958年スウェーデン映画
イングマール・ベルイマン監督・脚本

イングマール・ベルイマンの映画は、「神の沈黙」や「生と死」を基調テーマとしているが、本作でも変わらぬものである。
しかし、この作品は特にストーリー展開に重きが置かれていると見え、その「面白さ」から、一瞬も目を離せない。
そう、ひとことで言うと、ただ面白く、逆らいようのない映画の魅力にグイグイ引き込まれてゆくのだ。
「映画」とはこういうものであったか、というその原質というか本質について夢想させられるものであった。
謂わば映画というものの孕む恍惚とした艶めかしさに浸ることが出来る。
それは感覚を擽る物質性によるものだ。
(ガストン・バシュラールのいう物質的想像力に作用する)。

この映画の特筆したいところは、シーンの切り替えの絶妙さである。
それぞれのシーンのプロットと演出がどれもすこぶる印象に鮮やかで、緊張感が途切れない。
次を予見しつつ観るという遠近法によらず、生成現場に同期して目撃する距離感と言える。
恐らくこれが映画を観るという醍醐味なのだろう。
映画に疎いわたしであるが、ようやく淀川長治さんの陶酔の意味が少し分かった気がする。

相変わらず絵の美しさは驚異的だ。
モノトーンというのも大きな要素と感じられるのだが。
何故か古い映画なのに、異様にシャープで鮮明な映像にも感心する。
また、演出やカメラワークも随所に唸るところがあった。
恐らく観るたびに、それが新たに見出されるのではないかと思われる。

これだけ奥深く質の高い映画をコンスタントに生むことのできる監督も、そうはいないはず。
他に圧倒的な傑作揃いの監督に、タルコフスキーがいるが、作品数は少ない。
(もっと彼の映画を観たいと心底思う。大学卒業制作の「ローラーとバイオリン」も見事な作品であった)。
惜しまれることに、亡命や病などの苦境により、亡くなるのが早すぎた。
まだ観ていない映画も、全て観てみたいと思わせる監督はそう多くいないものだ。

マックス・フォン・シドーやグンナール・ビヨルンストランド、イングリッド・チューリン、ビビ・アンデショーンなどベルイマンの映画では度々見かける。(もしかしたら常連か?)
この主要キャストの固定も作品の品質を維持させる要素のひとつかも知れない。
監督の意向を熟知した役者を使うことで、極めて狙いの精度は高まるはずだ。
特にマックス・フォン・シドーはベルイマン作品の象徴的な存在に想える。
神や死を語るに最も適した俳優のひとりであろう。
ストイックでナイーブだが、どことなくユーモアとペーソスを滲ませる。
とても味のあるユニークな役者で、実はベルイマンを観るひとつのお目当てにもなっているものだ。


この作品はベルイマンの初期作品に当たるらしい。
あの「処女の泉」はこの作品以後のものという。
「第七の封印 」「野いちご」もこの映画以降だ。


わたしにとって、まだ観ていないベルイマン作品がいくつも残っていることが嬉しい。




エイリアン2

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alians
1986年アメリカ映画
ジェームズ・キャメロン監督


完全に前回の続編であり、リプリーがまた今回もエイリアン退治に乗り出すこととなる。
彼女を取り巻くドラマは進展している。
ノストロモ号での惨劇から独り生き残り、57年間の冷凍睡眠状態から救出され地球に戻ったが、11歳であった娘が今の自分より年老い最近亡くなったという事実に悲しみ打ちひしがれる。
更にエイリアンとの死闘が根深いトラウマとなっており、普通の睡眠には戻らず、悪夢に魘される毎晩。
エイリアンの恐ろしさをただひとり知る人物であり、会社の上層部からは全く理解をされないことが更に彼女を苦境に立たせる。

今回文字通り”alians”複数である。
そのクリーチャーは前作のギーガーのデザインを継承しているが、今回は大挙して潜み、襲いかかってくる。(実は5体作り演出で大勢に見せているそうだ)。
その上、卵を次々に産む巨大で威厳あるクイーンが初のお目見え。
物凄いフォルムだが、どことなくレディを感じさせるように見えるのは、わたしだけか?
動きがエイリアンならでは、という工夫がなされている事はよく分かる。


前作に引き続きシガニー・ウィーバーがエレン・リプリーのまま主演。
今やテラホーミングとなっている小惑星LV426のコロニー唯一の生存者である少女ニュート。
ユタニ社お得意のヒューマノイド(前回のアッシュの改造型)ビショップ。
また、この会社相変わらず懲りずに、エイリアン生捕りや会社施設を守る為暗躍する社員バークも派遣させている。
その他今回は沢山の荒くれ海兵隊が戦闘の為、組織された。
彼らの中での確執やそれぞれの個性も活き活きと描かれている。

リプリーは、自らのトラウマ克服の為と、エイリアン殲滅の使命感にもつき動かせられ、調査船に乗り込む決意を下した。
かつてエイリアンを葬った経験を買われ、アドバイザーとして彼らに加わることになったのだ。
そして結局、戦いのプロではないリプリーが独りで前回より遥かに強そうなクイーンを宇宙空間に放り出すことで2連勝をあげる。
(今回も決まり手は、似たようなものである)。

この作品の場合、基本的に導入に説得力と必然性があれば、後は如何に緩急をつけ、特撮を駆使しリアリティ溢れるアクションを魅せてゆくかが全てであろう。
今回はデザインは前作を踏襲している為、動きのリアリティに拘っている。
確かにこの動きはエイリアンに他ならない。
前回が秀逸な物質感の対比を際立たせる静かな空間的芸術性香る作品であったが、”2”は、明らかに動きを狙っている。流れ、キャラクタ、ガジェット、武器、装甲兵員輸送車や飛行艇そして人物間の感情の揺れや確執など全てが動的に練られていた。
暗い場面が多かったが、やはり「タイタニック」、「アバター」の監督の絵作りだ。


リプリーは当初、ヒューマノイドの存在を嫌悪していたが、前回と異なり新型のビショップはその誠実さから気に入ったようであった。
恐らく今回の任務遂行と、嫌悪感をもたらしていた源イメージが上書きされた事で、気持ちが楽になったはずだ。
しかも娘を亡くしたこころの傷を癒すかの如く、ニュートが心を開き自分に懐いてくれたことは、大きい。
最後の「おかあさん!」でリプリーは、しっかり立ち直れる確信を得た。
彼女にとっては、結果的に行ってよかった討伐であったが、他の隊員にはたまったものではないとしか言いようがない。
結局、お約束とは言え、リプリーと少女、怪我をした分隊長に体を半分ちぎられ上半身だけのビショップだけで何とか帰還である。
限りなく全滅に近い。



しかしもう、シガニー・ウィーバーにはこうした役は、少し痛々しいものを感じた。
「エイリアン」の時の彼女が鮮烈過ぎたせいか?




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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