アバター

Avatar
2009年アメリカ映画
ジェームズ・キャメロン脚本・監督
サム・ワーシントン 、、、ジェイク・サリー
ゾーイ・サルダナ 、、、ネイティリ
シガーニー・ウィーヴァー 、、、グレース・オーガスティン
スティーヴン・ラング 、、、マイルズ・クオリッチ大佐
ミシェル・ロドリゲス 、、、トゥルーディ・チャコン
ジョヴァンニ・リビシ 、、、パーカー・セルフリッジ
ジョエル・デヴィッド・ムーア 、、、ノーム・スペルマン
CCH・パウンダー 、、、モアト
ウェス・ステューディ 、、、エイトゥカン
ラズ・アロンソ 、、、ツーテイ
アバターって、この映画から、やたらと流行った気がするのだが、、、。
環境的に重装備であっても、ヒトが乗り込んでゆくには危険すぎる場所で活動するために、アバターを制作するという発想は面白い。
まず、この発想から様々なアイデアが自律的に立ち上がり広がってゆくはず。
物語の枠としては、奇抜なものではなく、既視感ある先の予見できるものである。
ここで主人公は、優等生の兄の代わりにやってきた頭の空っぽのやんちゃな男、しかも車椅子生活者である。
そのためか、殊更に強靭な四肢を思うままに動かせることに歓びを禁じえない。
更に自分が降り立った世界は異なるコードを学習し身に付けなければならないが、それによって常人(普通の地球人)よりはるかに自由自在な世界-身体を得ることができるのだ。(つまり健常者に対する劣等感など完璧に払拭できる)。
従来のアメリカ式無根拠な優越感と野放図な覇権主義で他者を制圧し金儲けするより、飛行機にも頼らず自分のちからで空を飛び回れる方がずっと気持ちいいぜ、というサイケデリックな異なる世界に夢を託す主人公の物語が展開してゆくのだ。
異文明(文化)に対する向き合い方のそれぞれのタイプとその葛藤とダイナミズムが同時に描かれる。
まずは、コテコテのアメリカ意識からみて、野蛮な文明をどう律するかという構図から始まり、主人公もそこから出発してゆく。
脚も何とか治したいし、それには任務を遂行して金を作らねばならない。
向こうの世界へ、スパイとして派遣される。
しかし、アバターを通し、美しい人型知性体との交流を経て、彼は彼らとその世界観にこそ魅了されてゆく。
ダンス・ウィズ・ウルブスを経て、アダムスファミリー2の、まだちっちゃなクリスティーナ・リッチの文化批評を通るわけではないが、ラストサムライの感覚はもって自己批判と自然を受け容れる。
この自然の受け容れは、そう簡単なものではない。
だが、この映画の圧倒的な魅力は、そこにある。
まず異界の世界観そのイメージの解像度が半端ではない。
そこに息づく生物たちがディテールに至るまで妙に生々しく艶めかしい。
緻密なメカだけではなく柔らかな有機体の描写の妙が特筆に値する。
この魅惑的な異界を具現したVFXの力には目を見張るのみ。
同時代の映画でも恐らく並ぶものはあるまい。
これでは、主人公が自らの置かれた殺伐とした軍の現実より、鮮やかな夢と見紛う異界こそに真実を観るのも頷ける。
自然の幽玄な摂理をダイレクトに感じ取れる主人公の身体-アバターに投げ込まれれば、そちらサイドに目覚めるのは自然であろう。
あんなに暗く先の見えない安月給の軍に居たって、この先たかが知れている。
だが、この選択には「価値」が見出せる。
生きる力に結びつく根源的力に直結するものだ。
仮に動かぬ脚を治してもらっても、それが生きる意欲につながるものかどうか、保証はない。
ヒトは、脚で生きるものではない。この世界に触れてしまったからには、なおさらそうだ。
真・善・美が完備されている世界の真っ只中に生きたい。
そこで飛翔したい。
何の打算もない美しい彼女と身軽に大空をどこまでも飛び回るのだ、、、。
きっとそれこそが本当の世界なのだ。
(観ていくうちにだんだん羨ましくなってくる)。
そう想ったはず。
これまでの日常にしがみつき、高い地位と名誉を勝ち得たとしても、この世界からすればどうにもうすぼやけていて何一つ確信がもてない。
軍の施設で目覚める度に自分のちっぽけでみじめな(戻るべき)姿には、すでに嫌気がさしていた。
主人公は研究者の兄と違い体育会系元海兵隊員ではあるが、素直な感性は、かの世界に強く共振したようである。
その上タフで負けず嫌いであったことも、新たな世界に生まれ変わることに功を奏した。
強さというものは、なんにあっても、なくてはならないものだ。
最近特に思うことである。
物語ではなく、物質的想像力(生命力)を活性する素敵な「イメージ」をもらった。