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トランセンデンス

Transcendence.jpg

Transcendence
イギリス、中国、アメリカ2014年製作
ウォーリー・フィスター監督
ジャック・パグレン脚本

主人公 ジョニー・デップ
その妻 レベッカ・ホール
親友 ポール・ベタニー
恩師 モーガン・フリーマン


AIが極まった時、ヒトはそれにどう反応し、対応するか?
AIとはかけ離れた、ヒトそのものを逆照射しないテクノロジーであれば、大衆感覚を逆撫でする事は少ないと思うが。
「貴方は神になろうとするのか?」
という拒否反応がどうしても出てくるだろう。(特に宗教家などに)。
ジョニー・デップによって何度も繰り返される言葉「ヒトは解らないものを怖れる」
これから先も魔女狩りが起こる可能性はある。
歴史的に見ても、パラダイムを超えてしまった学者や芸術家の悲惨な運命は少なくはない。

しかし、科学や哲学、芸術においてヒトは少なくとも神の摂理を知ろうと事象の始まりと終わりに関して、そして最も根源的で至高のビジョンを得ようとする欲動の元、弛まぬ探求を続けて来たはずである。
文明が滅びない限り、後戻りはない。
(誰も知る前には戻れない)。

この映画のように、意識-自我がデータとして転送でき、ネットを通してそれが無限成長することが 可能であれば、ヒト自体の概念が一変する有史以来最大の事件となろう。
管理者の身体は地球及び歴史そのものを覆い尽くす。
生身のヒトもいなくなり、みなハイブリッド化し、やがて病や怪我などの苦痛からも解放されてゆくだろう。
これまでもヒトの身体性は、文明と自然史と共に幾度もの変質を遂げて来たはずだ。


ナノロボットのアイデアは特に秀逸だと思われる。
ネットワークと無限増殖するナノロボットがあれば、地球環境の究極のコントロールが可能なはずである。
(当然戦争などに利用されれば、とんでもない事になる。その管理が困難を極めるであろうが)。

その他にも取り分け印象的であったのは、AIをヒトの意識の転送データをベースに創造してゆくという方向性と、AIが人々に脅威を与えるのではなく、人々の共通意識こそが足枷となり、脅威をもたらす危険に満ちているという点である。

結局、ジョニー・デップ演じる天才博士が最大の犠牲者であり、愛する科学者でもある妻や親友の科学者、更に恩師にも理解されなかった事は本当に切ない。(死ぬ直前に妻は解ってくれたが、余りにも遅すぎる)。
ただ、博士もヒトの内面・心情を大ピラに探るようなことは、すべきでなかった。
生理的に嫌悪感を持つことは、当然であろう。
生体としての防衛本能からではなく、観念の動物であるヒトとしての拒否反応である。
端的に言えば、デリカシーが必要ということか。
その違和感が妻を感情的に疎外した面は小さくない。


それにしても、モーガン・フリーマンが愚かな役をやるのは、抵抗がある。1人くらい理解者がいてもおかしくないはずだ。
しかも演技自体に冴えがない。(あまりこの役に乗り気でないのか?)
寧ろ1人くらい理解者がいる方がストーリー的にも自然である。
この点は少し残念であったが、科学技術の発展に人々が管理・翻弄されるという月並で陳腐な内容ではなく、確かなメッセージをもった刺激のあるSF映画であった。

最後にウイルスデータで環境を浄化する彼の計画が頓挫するが、この天才博士自身の再生現象と取り敢えず切り離し、この画期的な環境浄化及び医療システムまで、チャラにしてもったいなくないのか?
妻は、これが自分が理想と思い描いてきた世界に繋がるとは気付かなかったのか?
博士の研究を葬る過激派と言われる連中も、多くはこのように非常に保守的で無明な集団であることが多い。

博士の庭で、密かにナノロボットが活動を続けていた(スタンドアローンで生きていた)ことが僅かな救いか?
そこからの増殖が期待される。


相変わらずジョニー・デップの役作りには説得力がある。
親友の科学者も葛藤する内面がよく伝わってきた。
妻も熱演であったがやや平板な感じが否めない。


ただ1つ、わたしとしては意識の対象化について、あの保守的な親友科学者に同感である。
前提をそのまま認めて見る分には、充分見応えある映画であった。





ダークシャドウ

Dark Shadows

Dark Shadows
2012年アメリカ映画
ティム・バートン監督
ジョニーディップ主演

1970年代の香り
屋敷の内装、調度、荘厳というよりゴシック調の奇怪で過剰な装飾。
黄色い車(シボレー)
屋敷だけでなくティム・バートン色に染まった廃墟風の街。
ポップでサイケデリックな衣装と1700年代の正装
そして音楽、アリスクーパー

古典を追求したドラキュアのビジュアル。
凝ったメイキャップ。
死別した2人が時を隔てて再び出会う正統なストーリー。
特撮をフルに使いながら、セットや模型をできる限り精巧に作り、実写による臨場感を大切にしている。
さぞ試行錯誤を繰り返しながら撮ったことだろう。

そして何と言っても壮絶なアクション。
ティム・バートンの映画でこれ程の死闘(しかしコミカルでもある)を観た記憶はない。
制作スタッフがこれはアクション映画だと言っているのも無理もない。

そのキャストも豪華。
ジョニー・ディップ (バーナバス)200年の眠りから覚めたバンパイヤ。18世紀、水産業で富を築いた街を支配する大富豪であったが、召使のアンジェリークを捨てた為に呪われ、両親と恋人を殺され、自身も吸血鬼にされ生き埋めとなる。
エヴァ・グリーン (アンジェリーク)バーナバスの宿敵の魔女。彼を葬って後、名家コリンズ家を追いやり、自ら経営する企業でそのシェアを全てを奪ってしまった。現在は彼女が街の名士となっている。
ベラ・ヒースコート (ヴィクトリア、18Cはジョゼット)見えないものが見えることから両親に捨てられる。バーナバスの18世紀の恋人でもある。魔女アンジェリークの呪いにより、やもめ岬から落とされ死ぬ。不思議な運命に導かれコリンズ家に家庭教師にやってくる。
ミシェル・ファイファー (エリザベス)コリンズ家の女家長。今や女手一つで名家を支える。バーナバスと協力し家の復興を目指す。
クロエ・グレース・モレッツ (キャロリン)エリザベスの長女。1970年代典型のロック好きな反抗的な10代。知らぬ間にアンジェリークに呪いをかけられ狼少女にされている。
ヘレナ・ボナム=カーター (ホフマン博士)監督の奥さん。精神医学の博士でデヴィッドの心理療法の為招かれたが、何故かこの家に住み着いている。
クリストファー・リー (サイラス)ドラキュラ伯爵の本家本元。コリンズポートの漁師の親方。今回は彼がバーナバスに催眠をかけられる立場。
ガリヴァー・マグラス (デヴィッド)殺された母親の霊が見える少年。バーナバスと気が合う。ただ立っているだけで、説得力を持つカリスマ性を漂わせている。
アリス・クーパー そのまま。やはり歳をとったものだ。コリンズ家の舞踏会で、ライブをしっかり見せてくれる。まさに70年代の文化である。

他にもベトナム戦争について語るヒッピーも出てくる。ドラキュアとたっぷり語り合ってから血を吸われて殺されるが。
この時代を初っ端から堪能できたのは、物語の最初にヴィクトリアがコリンズ家に向かう間ずっと流れていたムーディーブルースの「サテンの夜」のせいでもある。街の情景に素晴らしくマッチしていた。(上質のミュージッククリップのよう)ただし「サテンの夜」は1967年に発表された曲ではある。この曲の後に70年代文化が目覚め花開く。


「唯一の財産は家族」とか「この家のことは、自分の体のように隅から隅まで分かっている」など、家、一族とかつての恋人を守ろうとするバーナバスの奮闘ぶりがゴシックタッチで描かれている。
ジョニー・ディップの18Cイギリス名門の貴族らしい誇張されどことなくぎこちない演技には終始惹きつけられた。
ドラマも伝統に則った古典的な様式美を意識した作りである。
しかしその表現はフルにCGや実写の特撮を駆使した壮大な世界に拡張されていた。


なんといってもディテールに至るまで徹底した絵作りに圧倒された。

Dark Shadows02

エリジウム

Elysium.jpg

Elysium
2013年アメリカ映画
ニール・ブロムカンプ監督・脚本
マット・デイモン、劣悪な職場環境で多量の放射線を浴び余命5日と診断され、その治療の為、「エリジウム」に不法侵入を試みるマックス・ダ・コスタ。(この余命という設定は次作「チャッピー」にも引き継がれる)。
ジョディ・フォスター、「エリジウム」の冷徹なる実質的支配者ジェシカ・デラコート。
シャールト・コプリー、冷酷非道なデラコート直属の傭兵クルーガー。
ヴァグネル・モーラ、「エリジウム」への密航を取り仕切る闇商人スパイダー。

ここでも、ニール・ブロムカンプのディテールをとことん突き詰めたメカが次々に画面を飛び回り覆い隠してゆく。
彼の映画が常にリアリティを高水準に保っているのも、この点が大きな要因だ。
銃器も多彩である。何故か日本刀と手裏剣まで出た。
また、得意のロボット「ドロイド」や「エクソスケルトン」という強化外骨格などデザインが振るっている。
(甲殻機動隊の匂いプンプンだと思ったら、監督は士郎正宗のファンであると。納得。)
「第9地区」同様に「変身」身体の異化ー変容も重要なテーマとして盛り込むことを忘れていない。
荒涼とした地上を砂埃を上げ突っ走るギャングの車が日産GTRであることには、複雑な思いだ。
日本では普通に高級車であるが。
目一杯ダークなGTRであった。
地上のメカはどれも酷く傷んで汚れていた。


衛星軌道上に建造された「エリジウム」というスペースコロニーに裕福な人だけで暮らしている。
彼らは病気や怪我から無縁の生活を楽しんでいた。
それが、地球に残された貧困に喘ぐ人々の最大の憧れである。
上空に見える「エリジウム」は、とても美しい。
貧しい少年だったマックスも例に漏れず上空に浮かぶ理想郷に行くことを願っていた。
しかし、彼を見守るシスターは、この地上も向こうから見れば美しいのだと教える。

富裕層の支配する巨大企業による徹底した搾取により、環境汚染され物資も設備にも乏しい地上で健康に生きることは、ほtんど不可能だ。
また富裕層と貧民層の両極は現統治システム下では、完全固定状態である。
しかも地上の管理体制は家畜を扱うより非道で徹底している。
(マイナンバー制も結構、危ない)。

凄まじい格差社会である。
この光景は、デジャヴュに他ならない。
SF作品に描かれる未来の平民?の姿はいつも恐ろしく荒んだ貧しいものだ。
われわれの共通の未来の記憶か。
このユートピアとデストピア。
いつの世にも夢想される天国と地獄。

既得権を自分たちの子孫のためだけに、手段を選ばず断固守り抜こうとする、ジェシカ・デラコート。
飛んでもなく強い極悪人クルーガーは、クーデターを起こしコロニーを統治しようとしたジェシカを殺し自分の支配下に置こうとする。
スパイダーは、富を得る為エリジウムの人間の脳データをマックスに奪わせる。しかしそのデータが地上の人々の解放に繋がることを認識し、使命感に芽生える。
誰よりも生きたいと願っていたマックスは自らの死と引換えに(データリブートには、データ送信側の死が条件であった)、エレジウムをリブートさせ、地上の人々(ここではどれくらいの規模か?)をエレジウムに市民登録する。
彼にこう決意させたのは、幼馴染の女性と不治の病に苦しむその娘をどうしても救いたかったからであろう。
その直接性がなければ、生きたい欲動を葬り去り、急に博愛に目覚めることはまず、ない。

地球に送られた医療ポッドに人々が群がってゆく。
確かに貧困の国では医療と食料が一番の課題(教育もであるが)となっているこの光景には説得力がある。

それにしても、昔シスターから貰った青い地球の写されたペンダントを見つめて憧れだったエリジウムに死ぬマックスのエンディングシーンは切ない。




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ディープインパクト

deep impact

Deep Impact
1998年アメリカ映画
ミミ・レダー監督
スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮

久しぶりにTVで「ディープインパクト」を観た。
結構カットがあったが、思い出すには良い機会である。
同じ年に「アルマゲドン」も発表され、比較され話題となった作品であった。
「ディープインパクト」はCGによるエンターテイメントより、3人の人物を軸にした人間ドラマが丁寧に切々と描かれてゆく。
更にモーガン・フリーマンの大統領の似合うこと。
彼の演説がドラマの枠組みを支えている。
人類未曾有の危機を前に、苦悩し苦渋の選択をする精神がひしひしと伝わってきた。
彼の包容力がこんな時、最期の救いに感じられる。
(これがブッシュであったら死んでも死に切れまい)。

「メランコリア」では、容赦ない完全な壊滅を見たが、ここでは多大な犠牲を払った上での、ハッピーエンドというべきか。
人々の受け止め方は様々であるが、静かに運命を受け容れる(使命を自覚する)彼らの姿が美しかった。
人類、いや生命を存続させたい、という根源的希望と祈り、愛するものをただ守りたいという、ある意味ヒトの本性が発動する場であろう。(当然それ以外の混乱はあるだろうが)。

ニュースキャスター、天体観測少年、宇宙船「メサイア」の船長それぞれの苦悩と葛藤。
そして決断。
それまでの流れにしても充分に納得できる。
実際にこうしたものだろう。
確実な死を前にして、ヒトはジタバタするよりも、超越的(究極的)な価値を何かに求めたりするはずだ。
しかし、それは結局父との和解にあったり、大切な者と運命を共にすることであったり、自らの命と引換えに任務を遂行する行為の内にあった。
ヒトは精神そのものの姿を見せる。

彗星爆破の作業で失明した飛行士が、スクリーン越しの子供の様子を教えられ、愛おしそうに子供の頬に手をのせる姿に、こみあげるものを抑えきれなかった。
その直後「メサイア」は地球の全生命に決定的な打撃を与える大きな彗星の破片「ビーダーマン」を自爆により破壊する。
最悪のシナリオが書き換えられたことを祝うかの如く、人々が見上げる空を美しい花火が埋めていた。


そして重大な事実。
誰もが確実に死ぬ。
わたしにとって唯一確実なこと。
他人事のように、感動している場合ではない。
彗星が地球に衝突する確率は、数万年単位で見れば100%である。
そこで、一旦地球文明は消滅-リセット。
しかしその前に、今現在の自分である。
何となく生きていれば、スパージョン船長のような覚悟をする間もなくあっけなく途切れてしまう。


これを観て思うことは、しっかり意識して、死のイベントに臨みたいということだ。



ソルト

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SALT
2010年アメリカ映画
フィリップ・ノイス監督。


マレフィセント 、ボーン・コレクター 、17才のカルテ、、、のアンジェリーナ・ジョリー主演。
はじめて彼女のアクションをたっぷりと観た。
これほどのアクションをよくこなせるものだと感心するばかり。

アメリカ・ロシア間のスパイ合戦というレベルではなく、国同士の戦争寸前状態ではないか。
設定に現実味はない。(ありえない事ではないにしても)。
アメリカ政府筋の高官にあれだけロシアのスパイが入り込んでいたのにもたまげた。
大枠はどうであっても、アンジー周辺をめぐるストーリーはとてもよく練られている。
展開が飽きさせない、スリルたっぷりのかなりハードなアクション映画であった。

彼女はロシアで訓練され育てられたスパイであるが、その指示の裏をかいて行動する。
しかし、アメリカ側のスパイとも言えないようだ。
アメリカのために長年働いてきた功績はあるようだが、彼女の上司の存在がない。
ソルトの立ち位置がどうも不明である。
一匹狼で組織のないスパイなど有り得ない。
行動の強い動機のひとつが、夫に対する思いであることは、はっきりしている。
とは言え、元々の本当の任務が何であったのか?
彼女は何者?
最後は夫の復讐のため、かつて自分を育てた、ロシアの工作員の殲滅に向かうところで終わる。

何と言ってもこの映画、アンジーのスパイアクションを魅せるための作品であろう。
そこに焦点が当てられていることは確かだ。
終始、彼女は出ずっぱりであり、懐の深い多彩な演技で魅了してゆく。
身のこなしは、ミラ・ジョヴォヴィッチを思わせる3D感覚があり、様々な銃器やその場で作る武器の使いこなし方も充分様になっている。
「トゥームレイダー」の時より遥かに生々しく、リアリティあるアクションが目立ち、その分痛々しい面が目立つ。
激走するところも多いうえにガンガン殴られるシーンもあるが、次々に相手を体術でかわし、倒してゆくといったタフでクールな場面満載だ。
変装でガラッと雰囲気を変えてしまうのも見所である。特に少佐に変身したときの見事な男装には驚いた。宝塚で充分通用する。
「17才のカルテ」での瑞々しい美しさとはまた別の、凛とした強靭な美を体現していたと言えよう。

改めてこの女優の凄さを感じた作品であった。


如何にも続編が用意されるかのような終わり方であったが、それは必要ないと感じる。
続くとすれば、もうロシアの秘密工作員との死闘がメインとなろうが、もう流石にアンジー無理だろう。
それにストーリーとしてもそれ以外に何を盛り込むか。
ソルト=スパイとしては、今の米露関係から見て、相当異なる働きを求められるはず。
彼女の立場(所属)がそもそもどう設定されるのか。
年を隔て制作された「メンインブラック3」でも、主演の2人は随分キツそうであった。


続編を無理に作るべき映画ではないと思う。



6才のボクが大人になるまで

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Boyhood
2014年アメリカ映画
リチャード・リンクレイター脚本、監督

パトリシア・アークエット母親。
エラー・コルトレーン息子メイソン。
イーサン・ホーク(ガダカでお馴染み)。本当の父親。
ローレライ・リンクレイター娘(姉)監督の娘でもある。


12年間に渡り、キャストが同じ役を演じ続けるという途方もない企ての成果だ。
当然「時間」が何であるかが、浮き彫りになってくる。

更にメイソンの成長と彼の感受性にも見るべきものが多い。
勿論、母親と本当の父親の変化もリアリティに溢れ、タップリ感じ入るものがある。

過去や未来という何かがあるのではなく、過去や未来は全て「今」想起される表象であるという事。
これを改めて実感させられる映画であった。

冒頭、6才の少年が寝転んで空を見上げているところから始まり。
大学に入学して、一緒にハイキングに行った女の子とこころ通わせながら、夕暮れの空を見つめているところで終わる。
ただ、日常生活が描かれてゆく。
畳み込まれた「時間」が感情となって心を揺り動かす。静かに染み入らせる。
そんな現実が映されている。

メイソンは感受性と想像力豊かな資質を秘めていた。
彼は矢尻を作って石のコレクションに加えたいが為に、担任の鉛筆削りに石を詰め込んで壊してしまうような少年。
宿題が嫌いで、基本的に空ばかり見ている。
長じて写真家を目指すが、素質は充分であろう。

恋人が出来ると誰もが、自分の本心を語りたがるものであるが、ドライブ中などまさにその機会だろう。
「他の人の評価がどうしても気になってしまう。」
「どう思われても平気と口では言っても、本当は気になるものよね。」
「周りでボクをコントロールしようとする人間に腹が立つけど、相手は意識せずにそうしているんだろうね。」
「コントロールされなければ、何か変わると思う?」
「それは全部さ。やりたいことが何でも出来る。生きてるって感じがする。」
「あなたって、変わってるわね。」
「自分を普通に見せる必要がなくなるだろ。」

青いと言えば青いが、元々青空が好きなのだから、仕方がない。
わたしの好きなタイプの感性だ。

彼の気づいたんだ、と言う認識も同様に面白い。
人間は、ケータイの着信音を聞くと、ドーパミンが放出されるようになった。もう洗脳を受け入れアンドロイド化しているということだ。一からロボットを作るより、今いる人間をアンドロイド化する方が遥かにコスパがよい。
もう、人類は終わりだ。
こんな風なことを彼女に言って聞かせる。

「ボクは生身の人間と会いたい。プロフィールとかではなくて。」
「フェイスブックを止めたところで、ヒトに馬鹿にされるくらいだけど。」
「注目を浴びたくて止めるワケじゃない。」

なかなかよい青年に成長したものだ、と思う。
やはり写真家に向いている気がする。
この彼女とは、いつも暗いと言われ分かれるのだが。


母は3度離婚し、2度再婚する。メイソンとその姉は、2度新しい家族と生活を共にする。(正確には2度目の離婚後友達の家で暫くその家族とも暮らしている)。
離婚は、メイソンの嫌う「他者のコントロール」があからさまに暴力と感じられた時に起きている。
その間、本当の父親は、律儀にその新しい夫の家に週末に訪ねて行っては、2人の子供と時間を共にする。
その時間は、次第に濃密になってゆき、父親自身もしっかりした存在となってゆく。
気の利いた愉しい先輩といった友達感覚の人が、包容力のある思慮深い落ち着いた父になっている。
すでにこの時は、彼には新しい家庭ができていたが。

母親は、如何にもメイソンの親らしく、自らの内なる声に忠実に生きてきた。
実質シングルマザーとして働きながら2人の子を育て上げたと言えよう。
そして2人の自立と3人目の夫と別れ独りとなったとき、思いのすべてが突き上げてくる。
言葉では表せない想いだ。


不思議に作り物という感じが微塵もしない、世界を味わった。
この種の映画を今後作ることは、極めて困難だろう。
すでに余りに高い壁がそびえ立ってしまっている。


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イコライザー

The Equalizer

The Equalizer
2014年アメリカ映画
アントワーン・フークア監督
米露関係も微妙なご時世に。
アメリカンヒーローとロシアンマフィアとの攻防だ。

デンゼル・ワシントン演じるロバートは、元CIA今はホームセンターに働き身を隠して生活を送る男。
クロエ・グレース・モレッツのアリーナという娼婦は、元締めに暴力を受けて苦しんでおり普通(昼間)の生活に憧れている。
この強力な主演者2人だからこそ、ここまで惹きつけるというところは大きい。

テーマは、痛快と省略、、、そしてハッピーエンドか?
ロバートは深夜習慣にしているカフェでの読書タイムに、アリーナに出逢い友情も芽生え、彼女のために一肌脱ぐ事になる。
それが巨大なロシアンマフィア組織相手に、たったひとりで立ち向かう事になってしまう。
しかし彼はとても冷静に、瞬時に立てた戦略通りに殺し屋たちを機械的に始末してゆく。
強敵を次から次へとバッタバッタ倒し、普通なかなかたどり着けない一番上のボスまでやっつけてしまう。
この映画、脚本・演出もとても特徴的なのだ。
いきなりマフィアの財源タンカーが大爆発したり、ホームセンターで死闘を繰り広げた3日後に、マフィアのトップの大豪邸に余裕でいつの間にか忍び込んでいる等、大規模な省略に唖然とする驚異の展開。
伏線も細かく張られていて、思わずニンマリさせられる。
この点は、この作品全体ならではの特徴と言えるだろう。


そして何より問答無用で主役ロバートが強い。しかも興味深い。
考えてみると、空を自由に飛びまわるスーパーヒーローよりも彼は強かった。(アベンジャーズの一員でもおかしくない)。
安心して観ていられるため、小気味よいのだが。
殺し方も普段の生活も、非常に几帳面でムダがないとくる。
ホームセンターの物をそのまま武器にしてしまう、創意工夫と拘りも凄い。
読書家。(そう言えばモーガン・フリーマンも読書家が似合っている)。
本以外は余計なものを持たない、最近流行りのシンプルライフ。
睡眠障害の気あり。
やたらと腕時計のタイマーをセットするが、実質それが何を意味するかは定かではない。
整理好きの潔癖症のひとつの表れと見てよいか。
金持ちであり、気前が良い。アリーナに餞別(一度は見受け)で、1万ドル近くをポンと出す。
取り敢えず、悪人にも立ち直る機会を一回は与える主義。
(実は秘密で超能力を使っているフシもある。あのバスから、現地への瞬間移動など)。

「そうなりたいと望むなら、何にでもなれる。」
「世界を変えろ。」
不安気な彼女アリーナに、「完璧より前進を。」
確かに完璧を目指したら、進めない。
このヒトにそう励まされたら、その気になってしまうか。

こうしてネガティブな思いに沈みがちなヒトを暖かく支援し、活き活きと再生させる。
肥満の警備員などその最たるものだ。
終盤には頼りになる男になっていた。
アリーナしかり。
今、求められているのは、このような完全無欠のヒーローなのか!?
いたら助かる事は確かだが。
(始末した連中の屍体処理を迅速にする上部機関がないと、混乱が起こるだろうとちょっと心配な点もある)。


彼女が自分で歌を入れたCDの「感想聞かせて」と言われたはずだが、、、言ってなかったな。金はやったが。
何か言ってあげたら、彼女の今後にとってとても励みになったはずだ。
清々しい終わり方で後味よく、安心した。
なかなかこんなにスッキリしたハッピーエンドは見られるものではない。
とても美味しく爽快な清涼飲料を飲んだ気分。

続編が作られてもよいと思う映画である。


ボブという名のヒトは、本を読むタイプではないことを知った。



クロニクル

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Chronicle
2012年アメリカ映画。
ジョシュ・トランク監督。
前半は特にPOVショットが効いていて、自分が彼らと一緒に能力を得たような気持ちに誘発される効果があった。
画面を通して眺めるというより、その場所にいるひとりとして主観的に秘密の力に関わる身体性が生まれる。
このショット、使い方がバッチリ決まればかなりの演出が望めるものだ。


物語は、ひょんな事で洞穴を見つけて中を探検してしまった男子学生3人が超能力を持ってしまうことから始まる。
青春真っ只中やんちゃな盛りであることから、最初は他愛もない悪戯を楽しんでいたが、この力使ううちに強くなり、思いのままに何でも動かせるようになってゆく。果ては空高く自在に飛び回り雲の上でフットボールまで出来てしまう。
さらにこの力を使うもの同士、何か起これば共振し合う特性があるらしい。
それは、鼻血が急に出ることで察知される。

前半と打って変わって、3人の中のひとり、母は病気で寝たきり、父やいじめっ子達から恒常的暴力を受けている内向的な男子が、彼らの乗る車を煽って来る後続車を超能力で崖下の川に突き落としてしまう事件から、画面の雰囲気が重苦しくなる。
力を使う技能は身に付いたが、力を支配する精神はまだ育ってはいなかった。
また、それ以上に彼の危ない本質が露呈した瞬間とも言えよう。
特にいじめられっ子は、まず危険なおもちゃを手にする前に充分に癒される必要があった。
超能力のお陰で親友もでき、自信も次第につきはじめ上り調子になっていた矢先である。
更に力をうまく利用してパーティーで人気を得るも、肝心なところで、女子に1回愛想を尽かされたくらいで大いに傷ついてしまう。
元々弱い自尊心が完膚なきまでに潰され、かつてない程に彼は内向化するのだった。

後半はただひたすら、強大な力に翻弄されるばかりの悲惨な彼の姿を巡り、展開する。
元々程度の差はあれ、誰にも制御しきれない無意識の志向があり、思わぬところで噴出することはあるものだ。
彼の場合、余りに深いトラウマを抱えており、無意識から突き上げる攻撃性や破壊衝動は半端なものではなかった。
それが、獲得した力と結びつき、理性でコントロール不能、というより理性自体を吹き飛ばして荒れ狂う獣にしてしまう。
ここにまで来るともう手のつけようがない。

結局3人の親友の清々しい友情関係は直ぐに解体し、彼は説得にやって来た優しい献身的な親友を雷で殺し、もうひとりの従兄弟友達と対決することになってしまう。
やはり物を自在に操り破壊できる力はもったとしても、自分自身に対する自信や信頼は芽生えず、そのか弱い自我は追い込まれてゆくばかりであった。
もう行き着くところまで転げ落ちて行ってしまう。
2人の親友の誠意溢れる気持ちは全く届かなかった。

彼は、終始力を他害に使用せず、精神性を高めていった従兄弟に、やむなく殺される。
彼自身の力ではもはや荒れ狂う力を止めようがなかった。
もはや止めてもらうには、一番の親友の従兄弟しかいなかったはず。
それにしても気の毒だ。
彼の養育環境が切なすぎる。
彼はあの家庭からまず、救い出される必要があった。

従兄弟は哲学書を読むのが趣味であったが、内省の場を持つことの重要性を感じた。
特に酷い環境に置かれた者にとって、生死の境になる場合があろう。
結局、空を飛んで逃亡した従兄弟は、内向的な彼が生前に行きたがっていたチベットに行く。

もっと早く、3人で行くべきだった。
家をさっさと離れて。


カメラワーク、脚本、演出が特に見事と言える。
そして3人の俳優も迫真の演技であった。
デイン・デハーンという役者はマークしたい。


「第9地区」と並び評される傑作であることは間違いない。



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シグナル

The Signal

THE SIGNAL
2014年アメリカ映画。
ウィリアム・ユーバンク監督。

「第九地区」や「クロニクル」を凌ぐSFなどと宣伝された日には、そりゃ観るしかない、と普通思う。
それで、観てみた。
そして見終わった。


前半のマサチューセッツ工科大学の学生たち3人が、挑発的にハッキングしてきた相手を車で探しに行くシーンは惹きつけられた。
ハンディカムカメラで追われる光景も臨場感、緊張感たっぷりで、期待が膨らむばかり。
しかし主人公ニック(ブレントン・スウェイツ)が、真っ白い病院で目覚めてから流れが滞る。
そこを脱走してからは、物語自体が迷走を始めたように思えた。
映像の片々は、脳裏に舞ってはいるが、どういう映画であったか思い起こせない。
物忘れがここまでひどくなってしまったか、、、。

記事も印象深いものから拾い上げてゆく形になる。
不明な部分も多い。
コラージュかパッチワークみたいなものになりそうだ。


あそこは一体何処だったのか?
地球ではないのか?
エリア51風の箱庭のあるエイリアンの宇宙ステーションなの?
エイリアンと人類の融合実験を繰り返しているところと思われるが。
アメリカ政府の極秘軍事機関が行っているのか、エイリアン主体で進められているのか、両者間の提携の元実施されているのか。(普通に考えて3つ目であろう)。
一体何の目的でやっているのかは、誰にも明かされない。
エイリアン自体も一度も現れない。
(ローレンス・フィッシュバーンを見るだけで何故か充分な気がしてしまうのだが)。
その代わりというのも何だが、「牛」がいた。
乳搾りの牛であったかどうかは、定かではない。

ローレンス・フィッシュバーンの不気味なほどのドヤ顔が普通の人類ではないと、一目見て思ったのだがズバリ当たってしまった。
最後の彼の頭部には、こちらとしてどう反応すればよいのか、戸惑ったものだが、一際ドヤ顔なのだ。
あれは、改造でドヤ顔になったのか?
普段から彼ローレンス・フィッシュバーンは、ドヤ顔で暮らしているのか?
あのドヤ顔で、「お前は地球人か?」などと聞かれ、主人公ニックはよく素直に答えられたものだ。
(ドヤ顔は、映画の主題には大きく関わるものではないようなので、以降拘らないことにしたい)。
あそこに居るのは、皆融合体(ハイブリッド)なのか、どうなのか分からないが、ニックの動かない脚が、エイトマン(古!)みたいに速く走れるようになったのは、喜ぶべきか?余計なお世話か?
あの赤く発光するメカ丸出しのメタリックな脚は、驚嘆の代物である。
本人も満更ではない様子ではあった。
(玉より速いのだから、まさにエイトマンだし)。
しかし、あんなところにいたのでは、到底得意のトライアスロンレースに参加は出来まい。
そんなレースはあのドヤ顔(また書いてしまった)主任?は開いてくれそうもない。
The Signal02


あの脚の速さを今後、何に生かしてゆけば良いのか、という悩みを抱えるであろうニックに少し同情してしまった。
オリヴィア・クック扮するヘイリーはヘリで運ばれて何処に連れ去られたのか?
改造された跡はあったが、具体的に彼女がどのような機能を得たのか解らずじまい。
これには不満が残るはず。是非観てみたかった。
施設職員は皆物々しい防護服を着ていたが、感染とは結局何であったのか?
それから、何故エリア51風の舞台を設える必要があったのか?
まるであの病院から感染者が抜け出すことを前提にしているみたいだ。
単にもっと厳重な生体実験所だけでよいのではないか?
更に何故か生身の地球人もエリア内に何人か住んでいるのだが、何でいるのか。あれも演出のサクラか?
病院施設の者たちは地球の通常兵器・機関銃などを使用していたが、エイリアンの方がよいものを持っているのでは、、、。
兎も角この点を見れば、地球のある組織とエイリアンが組んで何をかやっていることは、確認できる。
そもそも最後の光景からして、地球がしっかりあるのかどうかも心配になったのだが、、、。


伏線めいたものがほとんどノイズに過ぎない。
必要な情報に乏しいため、想像が広げられない。
この作品の大きな流れの先を想像させるというのはよいが、もう少し描き込んでもらわないと、考える前提となるものが無い。

ちょうど、ピースが足りず、完成できないパズルに当たってしまった感じだ。
取り敢えず、ピースだけはないと、、、。
至るところ隙間だらけのパズルなのである。
これをこちらで勝手に埋めろと投げられても、流石に酷であろう。


「第九地区」や「クロニクル」の後にSF映画を作ろうとすること自体、非常にハードルの高い仕事となるはず。
The Signal3


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巴里のアメリカ人

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An American in Paris
ジョージ・ガーシュウィンの「巴里のアメリカ人」の世界か。
1951年アメリカ映画。
テクニカラーである。
主演は「雨に唄えば」のジーン・ケリーとレスリー・キャロン(恐らく初めての映画か、非常に若い)。
ヴィンセント・ミネリ監督。
オスカー・レヴァントのピアニストも呆気にとられるほど素晴らしい。
(三枚目振りも含め)。

ブルーレイとはいえ、これ程映像が美しいとは思わなかった。
1951年制作映画にはとうてい思えないものだ。
絵だけでなく、カメラワーク、演出そして何よりダンスと音楽が圧巻である。
そしてシンプルなお伽噺調のラブストーリー。
軽やかでカラフルな起伏のある流れが、心地よい。
これぞエンターテイメントというものを魅せてもらった。

わたしは、どちらかというとミュージカル映画はその他の映画とは異なる表現として身構えて観ているところがあった。
しかしここには日常の光景に、何故唐突にこんな歌と踊りが入るんだという違和感は一切ない。
ミュージカルを意識せずに自然な感じでただ楽しんで鑑賞できる。
歌と踊りは極めて効果的に作品世界を眩く煌めかせるもの以外の何ものでもない。

それにしても、ピアニストの妄想の中での、彼のひとりオーケストラの演奏は素晴らしかった。
(この時期にこれ程の特撮が出来ていた事にも驚きであった)。
おとぼけシーンも達者振りを遺憾無く発揮していたが、見応え十分である。
オスカー・レヴァントの存在がこの映画を大変上質なものにしていたことは確かだ。
言うまでもないことだが、ジーン・ケリーとレスリー・キャロンの踊りには、見入ってしまう。
特にジーン・ケリーのタップダンスはもう「芸」の域だ。
オスカー・レヴァントの妄想(よく妄想に浸る)に次々に現れるレスリー・キャロンのそれぞれの踊りもとてもキュートであった。
オードリー・ヘップバーンのダンスにはとても及ばないにしても、初々しさに輝いていた。

巴里とは、アメリカ人にとっては、やはり憧れの文化の地なのだろう、ということもよく分かる映画であった。
オードリー・ヘップバーンの映画でもタップリと味わってきたことであるが。
最後の悲嘆に暮れるジーン・ケリー長い妄想(また出た)シーンでも、ロートレックの絵を背景にして踊るなど、芸術的な演出が際立っていた。また、ロートレックが似合う。
役柄でもジーン・ケリーは画家であり、オスカー・レヴァントはピアニスト(ホントのピアニストだが)である。
そこからも、歌と踊りとしていつの間にか情感が溢れ出てゆく流れが準備されていたように想う。



劇中の全ての曲がジョージ・ガーシュウィン作曲で役者陣も実力派のベテラン、フレッシュな女優など絶妙な揃え方で、完璧を狙った作品だと思われる。


ミュージカル映画というより、映画の基本が何であるかを感じた。




ゴーンガール

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GONE GIRL
2014年アメリカ
「セブン」のデヴィッド・フィンチャー監督
小説を元に映画化したものであり、脚本はその作者のギリアン・フリンによる。


非常によく練られた作品で見応えは充分であった。
148分もあっという間だ。
脚本も演出、カメラワーク、美術、音楽どれも一体となって高い完成度を誇っている。
キャストも皆厚みを感じる優れた演技であったが特にエイミー役のロザムンド・パイクの怪演は恐ろしい程のインパクトがあった。
役作りが見事である。
全体として、文句を言わせない出来栄えだ。
しかし、夫であるニコラスに同調しこちらまで、絶望的な虚無感に襲われてしまった。
後味はよいとは言えない。

敏腕弁護士さえ、彼女を怒らせるなよと言ってニコラスを見放して帰ってしまう。
やり手の刑事も諦め、警察も手を引く。
何故かメディアのせいで、彼ら夫婦は多くの人々に祝福される。
彼らの事(恐るべき真実)を何もわかっていない人々に。
(ある意味ゴシップもののメディアの大衆操作力は圧倒的なものがある)。
彼は所詮、自業自得と言えるのだが無罪でありながら、刑務所に入るより過酷な運命を引き受けることとなったわけだ。
彼の妹-このなかで最もまともな感覚の人-のこの先の苦労が思いやられる。

エイミーという妻はとても頭脳明晰な人であるが、こんな策謀に能力を使うなら、もっと創造的で建設的な方法を考えられなかったのか、と思ってしまう。
夫の浮気現場を見たことで、これほど綿密で奇抜な凶行に走るというのは、最早趣味の領域だ。
ただ、凄いもんだと感じながら唖然として彼女の行動を追ってゆくしかない。
鬼気迫る姿は迫力充分であるが、感情移入は無理で、終始遠巻きに観る感じであった。

エイリアンより異様で残酷な存在であり、共感困難であるが「女」ということで納得できてしまう面はある。
こういう手の込んだ事はしないまでも、本質はこういうものなのかも知れない。
と実感するところはあった。

このような特性の発現を促すものも、日常のすれ違い、失業などの経済関係、子供に対する考え、価値意識のズレ、環境、メディア報道、時間の生む問題など、、、が引き金となることが分かる。
波風なく安定した境遇にいたら、過剰な刺激もなくお互いに何も掘り下げる必要も生じず、自分のイメージを投影しあい何となく暮らしてゆくことだろう。


大抵のオカルト・ホラーより怖いことは間違いない。
この映画に虚仮威し的なものは微塵もない。
スリラー映画として捉えても一級品である。
問題作である。
この種の映画作品のスタンダードとなるはずだ。


しかし何回も観たいと思う好きな映画では、ない。



チャッピー

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Chappie
不滅の名作「第9地区」のニール・ブロムカンプ脚本・監督。
2015年アメリカ作品。
「第9地区」でも主役をはったシャールト・コプリーがモーションキャプチャーで主役チャッピーをやっている。
多彩なヒトで、プロデューサーで監督でもある。
ニール・ブロムカンプとのタッグは3回目。
よほど気が合うのか。
素晴らしいコンビだ。
ティム・バートンとジョニー・ディップコンビに勝るとも劣らない。


わたしは、AIと聞くと良い気持ちがしない。
観る前から少し不安はあった。

成長するAIは驚く所ではない。
意識を持つ、というところがどうにも危ういところなのだ。
何とも悩ましい。こう来るか?と身構えてしまった。
扱う場合、誰もが相当慎重になるはずだ。
つまりここでは基本的に、自然に突然、意識が生じてしまった、という前提で話が進展してゆく。

チャッピーをソフトレベルで作ってしまった博士は、意識を持つまでになった彼に驚き戸惑う。
チャッピーは自分が死期(消耗期限)が近いことを悟り、自分=意識を他のロボットに移して生き存えたいと訴える。
死を気にするのは、明らかに心についての心を獲得しており、意識を有する実存に他ならない。
現存在ー世界内存在である。
しかしチャッピーの創造主の博士は、意識は対象化し得ないため転送自体が原理的に不可能だと説く。

そして死を巡る戦いが巻き起こる。
ギャングの上下関係や兵器産業内での覇権争い。
そのさなかチャッピーの死を回避するための戦いも目まぐるしく続く。
彼は驚異の速度で、膨大な知を吸収してしまう。
(やはり戦いなどの負荷刺激-外圧は情報獲得や変化を加速する)。

ついに忽然と生じた意識と同様に、それが転送出来てしまうに至る!
それは一体何であるのか?
「意識」とは。
いや、単に意識というより、、、

自分を似せて創ろうという行為は、それが精巧であるほど、自分を逆照射してくる。
結局、死にたくないという意識をもつ、生命としての純粋な欲動。
「魂」と言った方が良いかも知れない。
チャッピーのママが大事なのよ、それをわたしは愛しているのよ、と言っていたまさに「それ」である。

つまり、USBストレージに「魂」入れて持ち運べて、ハードさえ整えば、それを転送出来るのだ。
不死のヒトが生まれた。
良いのか悪いのか。
幸せなことか不幸なのか。
その前に、それは同じ存在なのか。
最も重要な点はそこである。
身体が異なっても同じ存在であることは可能か。

ここでいう魂~意識は完全に身体という入れ物に注入されるもの-データとしてある。
非常に単純な二元論が現実となっている。
博士が理論的に述べていた事は、少なくともそうではなかった。
諸表象がそれとして立ち現れる地平である意識の裏側に回り込んでそれを対象化する、ということ自体が原理的に矛盾している。
そもそも、まず生きようという根源的な生への衝動が、身体という知覚受容体を活性し、結果として世界が身を結ぶ。
前提として身体込みの有り様が意識であろう。
世界内存在とは、身体そのもののはずである。
何らかの指向性をもつ生命力(リビドー)が抽出されたとしても、それによって初めて作動する身体こそが意識となる。
DNAによって発現された情報-記憶を元に生き始める。
また前身の記憶は大脳旧皮質-海馬に蓄えられる記憶以外はリセットされるはずだ。
後天的な経験による記憶こそ外延的で身体という場に植え付けられるものであろうから。
ここではこれについては立ち入らないことにする。


「第9地区」では、「ブレード・ランナー」レベルのリアリティとドラマをたっぷり堪能できたのだが。
ファンタジー映画として意識などは特に取り合わずに、お伽噺として観れば魅力的なキャラクターの素敵な作品である。
流石に監督がリード3Dアニメーター出であるため、映像は非の打ち所がない。
何よりチャッピーというキャラクターが愛らしく、可愛げがあった。
ロボットキャラでは、1番好きになったし、アイアンマンより造形も気に入った。
脚本に関しては、「第9地区」は全く破れ目がない、優れた感動作であったのだが、本作は絵としての完成度に比べると意識の転送などにやはり説得力が欲しかった。
脚本は「第9地区」のように奥さん(脚本家)とタッグを組んだ方が良いのではなかろうか。


「エイリアン5」を楽しみに待ちたい。
「エイリアン」もリドリー・スコットの絶対的傑作である。







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ET エクストラ テレストリアル

Regrettable.jpg

体調が悪いまま、散歩帰りにTS○TAYAに寄り、何故かこれを借りてしまった。
ジャケットを見て、怖い宇宙人が出てきて、思いっきり脅かされることで、少しでもスッキリ出来るかと踏んでのことだ。
結果、見事にこけた。
アルバトラスであることを確認し忘れた。
Extraterrestrial
地球外生物
2014年カナダ製作。
コリン・ミニハン監督。


ETであるが、宇宙人はあのETというより、「宇宙人ポール」である。
(うちの次女が観て面白がっていたものだ)。
宇宙人ポールだからといって、ハチャメチャコメディではない。
製作者は真面目に何かを作ってしまったらしい。
しかし、焦点が定まらないので、散漫なまま終わった。
もう始まって間もなく実質終わってはいたのだが。

最初の頃出ていた、渋い保安官があっけなく死に、面白そうな情報通のおじいさんもさっさと始末されてしまう。
この2人に何か重要な流れを任せるものと期待させておいて、これではこのキャラの存在意図が分からん。
伏線にもならないし。この2人を活かせば厚みが出たとは思うが、そもそも何を描こうとしていたのかが不明である。
まずもって、これはUFOとの悲惨な遭遇ものなのか、陳腐なラブストーリーものか、宇宙人と軍との極秘の陰謀ものなのか
なんでもよいからホラーと行きたかったのか、どうでもよい付き合いきれない惨憺たるストーリーであった。
笑えるものであれば救われるのだが、、、「宇宙人ポール」がかなりの名作に思えてきたものだ。

B級映画と言われる作品であっても、低予算でしっかりまとまった映画はかなりある。
何を描くか、しっかり決めることである。
そして脚本を充分に練る。
その上で演出効果を、、、とかいう問題ではなく。
音楽があまりに酷かった。これほど酷い音の効果は、映画を見始めてはじめてだ。
間違いなくワースト1である。
確信を持って断言する!
ワースト1である!
これほどセンスのない人間が映画関係者の中にいたこと自体呆れ果てる。

美術も造形関係すべてにセンスの欠片もない。
笑えない分、殺意を覚える映画であった。
勿論、製作者に対し。

借りるとき(こんなもの買いでもしたら、体調が更に悪化する)すぐ隣の棚に、リドリー・スコット製作総指揮(ニコール・キッドマン主演)の映画があったのだが、今日は頭を使いたくなかったので、やめたのが過ちであった。
恐らく月とすっぽんの出来であったことは間違いない。
やはりコンディションに負けてはいけない。

良い教訓になった、と思うことで気持ちを落ち着けたい。


しかし口直しが欲しかったので、録画しておいた「怪獣ブースカ」を観た。
「ブースカ月へゆく」の出来栄えはかなりのものであった。。
それなら何でその記事を書かないのか、、、。
もう今日は、力尽きた。


明日は素晴らしい作品を観たい。




セッション

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WHIPLASH
鞭打ち
ジャズの練習曲名か?
デイミアン・チャゼル脚本・監督。
若き奇才であり鬼才だ。
2014年アメリカ映画。
セッション、、、イカした邦題だ。

生憎わたしはジャズに疎い。
学生時代、周囲にはジャズファンが結構いた。
わたしはその頃、ロックとクラシックを聴いていた。
ともだちにジャズのレコードを借りて聴いたが、それは50年代のおっとりした気品の感じられる愉しい音楽だった。
ひとことで言えば「安らぎ」か。
その後、コルトレーンを聴いたが、全く異質なものを感じたものだ。
それ以来、ジャズは意識的には聴いていない。


世界的ドラマーになる夢をもつニーマンにマイルズ・テラー。
J・K・シモンズのフレッチャー鬼教師。
このふたり以外に誰がいたかも忘れる。

何でも基礎は大事であろう。
表現手段が身についていなければ、何も始められない。
この映画では、如何に譜面を精確に読み取り演奏できるかに重きが置かれる。
所謂、ちょいとズレてスイングするようなノリは、完璧に譜面を再現した果の名人芸というレベルなのだろうか。
わたしは、そんなジャズを聴いていた気がしてきたものだ。

そこに行くまでのdisciplineが如何に過酷なものか!
実際のところ、こうなのだろう。
以前、イタリアのジャズロックグループ、アルティ・エ・メスティエリのドラマーであるリーダー、フリオ・キリコがが来日前の数ヶ月間にわたり、毎日6時間以上の猛練習を重ねてきたと言っていた。
熟練した技巧派で有名なプロでもそうである。
そう、ロバート・フリップのギター集団もその例にもれない。
学生がきちんと技量を身につけるのは、当然であるが、さぞ大変なはずだ。
「スウィングガールズ」のようなおともだちごっこで、どうにかなるものではない。

それは、よくわかるのだが、この鬼教師のように思い切り何度もほっぺたを殴ったり、言葉の暴力を繰り返していたら、今の日本なら即クビ間違いないことは確かだ。
授業空間は恐怖政治の場である。
良い悪いではなく、現在の教育現場においては、世界的に見ても認可されない。
その裏で、陰険で残酷ないじめや陰謀などによる理不尽な暴力は、潜在し続け遍在する。
戦争やテロが毎日報道され、その火種はいたるところにばらまかれている状況にあって。
日常の細部にわたり、ヒステリックに暴力に過敏になり、それを暴き裁こうとする暴力もある。
病的な症状ばかりが目立つ。

とは言え、これは教育か?
伝統芸能などの一子相伝に見られる、奥義の継承のための試練であろうか?
そんな気がした。

このフレッチャーという男は、ひたすら自分の理想を具現化する人材を探していたのだろう。
そのターゲットに想像を絶する様々な罠をかけ、それで死ぬのならさっさと死ねとばかりに。
そこで、見事に這い上がってきた者のみ相手にしよう、というところか。
本物とは、そうして出現するものだ、、、。
これは、教育者に余程の確固たる理念がなければ、至って恐ろしいことだ。
最初から間違っている場合もありうる。(そちらの方が多いかも知れない)。
わたしには、何とも言えない。
この追い詰め方には、趣味の匂いもする。
兎も角、どぎついことだけは確かだ。


この映画、観始めたらエンドロールまで、あっという間であった。
息もつかせぬ、タイトなテンションで突き抜ける。
わたしが知る呑気で優雅なスウィングは無い。


わたしが音楽でソルフェージュの授業を受けているとき、授業をサボって校舎の外でパンクをやっていた先輩のことをを思い出した。(その音は、ホントに邪魔だった)。
音楽への関わり方も、実に様々なものである。
勿論、それでよいと思う。



イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密

The Imitation Game

The Imitation Game
アラン・チューリングの論文名からとっているようだ。
モルテン・ティルドゥム監督
2014年イギリス・アメリカ制作
長い邦題だ。
「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」
手堅い説明文だ。

チューリング・マシーンの発明者、天才アラン・チューリング博士の半生を描く。
主演のベネディクト・カンバーバッチの役作りは真に迫るものであった。
アスベルガー症候群の雰囲気もよく出ていた。
キーラ・ナイトレイの演じる数学者も大変器の大きい魅力ある役柄であった。

物語は、現在と少年時代の寄宿舎生活、独暗号生成マシン「エニグマ」解読チームにおいてチューリングマシンを発明する過程の3つの時間の流れを交錯させ丁寧に練り上げてゆく。
少年時代のあまりに大切な存在の喪失が根底にあったか、彼は同性愛者としも迫害を受ける。
最期には青酸カリを塗ったりんごを食べて自殺する。
41歳であった。

しかし、彼は同性愛に対する迫害を苦に命を絶ったのではなく、愛する親友クリストファーの代わりがやはりいないことへの絶望であったであろう。単に同性愛者であれば、そこも理解して暖かく包み込んでくれる聡明なジョーン(キーラ)と結婚生活も充分に送れたはずだ。現代であれば、ミッシェル・フーコーみたいに堂々と研究生活を送ることができたが、チューリングの場合はどんな環境があったとしても、絶望と孤独は免れなかったと思われる。男というより、夭逝したクリストファーであったのだ。
彼は自分の心血を注いだマシンに「クリストファー」と名づけた。
確かに「クリストファー」は途轍もない進化を今も続けている。
しかし、その思考形体は人間のそれではない。

チューリングが不器用ながら、仲間に歩み寄り、彼らも彼を理解はしきれないが受容し、軍部の無理解や時間との格闘を経てコンピュータの原型を作りあげるドラマは、それは稠密な描写で説得力も言うことない。
しかし、そのハードを有効に使いこなせたのは、彼にインスピレーションをくれ、彼の思考の動きを直ぐに察知できる優秀な仲間との共同作業による賜物ものだ。
ハードができても、それを動かすアルゴリズムが肝心である。
そのヒントが、必ずしも仲が良いとは言えない精鋭仲間と呑んでいるときフト舞い降りてきた。
そのチャンスを逃さないところが、才能であるが、アルゴリズムを見出したところで、彼らは勝利した。

連合軍がドイツに勝てたのは、彼らのおかげと言っても過言ではなかった。
終戦を早めて何千万の人命を救ったとも言われる。
しかし、その立役者の天才が、同性愛ということで罰せられる。
彼の晩年は不遇であった。
(昨日観たジャンヌ・ダルクみたいに)。

ジョーンは、投獄は免れたがホルモン療法(化学的去勢)を続けさせられ心身ともに衰弱したチューリングを何とか励ましたいと願う。
「誰も想像しないような人物が、誰にも想像できない偉業をなしとげる。あなたが普通じゃないから、世界はこんなにもすばらしい。」
前半の言葉は、クリストファーが生前にチューリングに言った言葉である。
彼は涙ぐむ。
彼はかつてジョーンを突き放したが、彼女の身の安全を願ったためであり、彼は彼女を愛していた事は間違いない。
しかし、彼は救われたのか?
いや、彼のクリストファーは、永遠に戻らない。


彼のようなヒトは、どのような時代に生まれても孤独であろう。
「ビューティフル・マインド」のジョン・ナッシュ氏の方がその点では、遥かに救われている。少なくとも穏やかな人生を送っていた。


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ジャンヌ・ダルク

Jeanne dArc

The Messenger: The Story of Joan of Arc
1999年アメリカ・フランス制作。
リュック・ベッソン監督。

ミラ・ジョヴォヴィッチのジャンヌ・ダルク。
神の声を聞く少女であり。
オルレアンの乙女である。
処女でありビジョン(神の姿を観る)の能力ももつ。
男装の美女ということで、ビジュアル的にも宝塚ファンなど彼女に憧れるひとはいるはず。
いや、ベルばらのファンこそ、ジャンヌの信奉者だろう。
と言うより義経贔屓の日本人は、ジャンヌファンは多いに違いない。
この男装ファッションは異端とされる。
軍旗を掲げて勇猛果敢に戦う。
いつも殿で。
最期に焚刑に処せられる。
国を救ったヒロインが。

この後に起きるのが宗教改革である。


この時代フランスは、オルレアンとブルゴーニュの二派に分かれて王位をめぐり激しく対立していた。
そこにイギリスが深く絡み、英仏100年戦争が続いていた。
イギリス優位な戦況に有り、オルレアンが陥落寸前に、少女の率いるフランス軍が奇跡的にイギリスの進行を止める。
シャルル7世を戴冠させることにも見事に成功するが、肝心のパリ攻めで味方に裏切られてしまう。
シャルル7世はまんまと見せかけの休戦協定に乗ってしまい、ジャンヌ達に援軍を送らず、彼女らを陥れてしまうのだ。
休戦協定を結ぶフリをして軍備を整えたイギリス軍=ブルゴーニュ公爵派にジャンヌは囚われ宗教裁判にかけられる。

素朴で無垢な信仰心に姉を惨殺された激越な復讐心と神からの徴を受けたことでもう彼女の進む道は決まったのだろう。
間違いなくジャンヌはそのカリスマ性で兵士を魅了し、大変な武勲を残した。
自分の全てを神に託して純粋にフランスのために戦った。
フランスにとっては聖女以外の何者でもないはずだ。
しかし、この映画では彼女から神性を剥がし、田舎育ちの知能は高いが無教養な娘の側面が描かれる。
ヒステリックで高慢な女に。
ジャンヌは最期に、彼女の全ての行動を支えた確固たるビジョンについても「、わたしの見たいように見ただけだ」と告解する。
ある意味、究極的な自己否定である。
そして彼女が幼い時から慕っていた(観ていた)「あの方」からはじめて許される。
これが救済か?

ひとは知っている物事しか見えないし、見たいようにしか、物事を見れない。
これは、原理的に自明なことだ。
だが、あのようにものを見、風に徴を直覚し、神を幻視することで、フランスを救う事が出来た。
彼女も残酷な現実をビジョンにより支えられて生き抜いてきたのだ。
幼い時の苛烈な経験からこころを病んだという心理学的な病理に落とし込んではそれまでである。
しかしあの告解に追い込む責め苛む言葉、あれは内省ではなく、神の降臨でもなく、悪魔の奸計によるものかも知れない。


1999年カナダで制作されたクリスチャン・デュゲイ監督による、ヴァージン・ブレイドも観てみたい。
リーリー・ソビエスキーの方が聖女らしさを湛えているという噂だ。
ミラ・ジョヴォヴィッチ本人にそれが表現できないというのではない。
この作品のシナリオ及び演出によるものだということは確かだ。




ネバーランド

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Finding Neverland
2004年アメリカ・イギリス制作。
マーク・フォースター監督。
劇作家ジェームス・マシュー・バリーをわれらがジョニー・ディップ演じる。
観る前から、太鼓判を押してしまうわたし。


想像力-信じる力ですべての境界線を消してゆく物語。
現実と夢の相互浸透が心地よくできるなら、世界の偏見や常識や確執もその重みを失ってしまう。
ひととひとの繋がりの危うさと創造性そして救済力について感じ入るものであった。
かなり体調の優れないときでも、この映画ならこころ安らかに観ることができる。
優しく暖かい映画だ。
しかも純粋な。
純粋な強度は、諸刃の刃でもある。
物事を分け隔てる壁はフッと消え去りもするが、同時にお互いの領域を少なからず揺さぶってしまう。
場合によっては、逆に作用して余計に壁が頑丈になりもする。

しかし創造的に統合されるとき各要素の変化・再編は必然的なものだ。
よい芸術とは、この暖かな破壊力を持ってヒトを癒すのだろう。
元々変わるという事は、自己解体を意味する。
解体した時には、枠はない。
新たに有機的に組織され分節化される。
言葉が生まれ変わってゆく。
その言葉で、反目し合っていた者同士が新たなつながりを認める。

この映画を観て、豪華な装丁の分厚いノートが欲しくなった。
それに古風で適度な重みのある精巧なペンがあれば言うことない。
そのアイテムが、変身させてくれるはず。
夢の世界を生成するガジェット。
今や、ピーターパンはかろうじて舞台に残っているが、TVではプリキュアそしてセイラームーン、仮面ライダーが飛び回っている。
夢を抱き、それを求めると言うより、敵を倒すアクションのみが生き残っている。
まず敵を設定しないと、何も始まらない。
物語は、常にそこから始まってゆく。
敵を倒すことが目的である。

それが日常になる。
何が変わるのか?
日常を異化するイマジネーションを揺さぶる力。
変身の目的を生み出す力が肝心だ。

主人公の世間体などまるで気にせず、自分のやるべき事だけを、どうしてもやってしまう体質こそが、貴重で大切にしていきたいものである。
確かにその奥さんになるには、それなりの覚悟が必要である。
創造には時間がかかる。
籠る必要がある。
孤独に耐えなければならない。
しかし舞台の初演を必ず観に来ていた奥さんは、充分に素晴らしい方である。

主人公の劇作家に限らず、夢の達成には、犠牲も払わなければならないのだろうか。


久々に泣ける映画であった。

エス ES

es.jpg

Das Experiment
エス(es)=イド(id)であり、無意識的な欲望。それに対する超自我(super ego)。両者を調整する自我(ego)と大雑把にいえるか。
邦題の示すところは分かる。原題よりもこの映画の内容をキャッチーに示唆していると言える。
この映画、もはや自我の統制が効かなくなり、大脳の旧皮質が爆走している様相だ。
人は役割を得ると、そのペルソナにいとも容易く同化し、滑稽なほどエスカレートして役に深入りしてしまう。
同監督の前回に見た作品もまさにその例であるが、誰もが何らかのアイデンティティにしがみついている事に変わりはない。
それがシンプルに固着した極限的ペルソナか、希薄で両義性のもとに揺れ動く表情があるものか、の度合いの差であろうか。
社会は様々な点で、大きな(透明な)監獄である。
(蛇足だが役割におけるシラケ具合が人間的な幅といえるかも知れない)。

原題が単に「実験」とあっさり。何の実験か観ればわかる、ということだろうか。
「実験」と単に突き放すことで、人権など無視するこの実験の非情さを浮かび上がらせる作用は感じる。
主題は今ひとつ掴み難い。
ドイツ2002年。
オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督
この監督、もともとこういうのが好きなんだろうな、、、。


看守役と囚人役に分かれたロールプレイを高額な金額に連られてやって来た人間にやらせる心理実験ということ。
環境は極めて単純に強調された役に最適化されているものだ。(大学内模擬刑務所)
ただ2人ばかり、異なる目的で実験に紛れ込んだ男がいる。ひとりは記者。もうひとりは軍の要請で任務に当たる軍人。
記事を一般向けに面白く書くため、主人公である記者が思い切りゲームの場をかき混ぜ、煽る。
派手でセンセーショナルな現場に成れば、被験者として得られる報酬より高い収入が入り、記者としてのキャリアアップにも繋がる。
煽りの手段の一つで、彼は看守役のプライドの高い内向的なナルシストに向けて、相手の気にしている弱みを極めてえげつなく攻撃してしまう。
全員の前で、情け容赦なく。そこで受けた看守役の男の外傷経験は如何程のものか?
ここから、ナルシスト看守はヒトラー総督に変身してゆき、全ての歪みがグロテスクに加速してゆく。
ある意味記者の思惑通り事は進展し、彼もそれによって痛い目にあうが、自業自得である。
彼はあくまでもトリックスター(道化)ではない。実験自体を台無しにするデストロイヤーのようだ。
人間があれほど見境なく暴走しまくるとは、彼も想定していなかったわけだが、行き着くところまで行ってしまうことを恐れていたのは教授の助手くらいか。(彼女も唯一の拠り所となってしまった「秩序」を守るために捕らえられ囚人にされたが、これも自業自得だ)。

大変危うい実験をしっかり管理も予想もしない杜撰で無能な教授達が元凶であるが、この記者も自分の責任をどう捉えているのだろうか?
これが甚だ疑問である。報酬を当てに始めたゲームの場を、死者2人と重傷者を3人出す陰惨な地獄にまでにしたのは誰か?
最後にこの男が彼女と2人寄り添ってニンマリと遠くをうち眺めている姿が、救急車で運ばれる他の被験者たちとえらく鮮明なコントラストをもって描かれていた。逮捕者や裁判で追求される者も出しているのだ。
後半記者と協力して事態の収拾に活躍した軍のスパイは、この実験を極力客観的に捉えて、報告のため静かに役をこなす対称的な立場であった。彼や他の参加者にとっても実験の目的(最初から破綻はしていたが)から見ても、記者の魂胆と行動は完全に背任である。
この自己本位な記者と異常にプライドが高く傷つきやすい監視役の暴走で、貴重な人体実験から犠牲者を出しただけで、誰も得はせず、ほとんどまともなデータも得られたとは言えまい。
しかし、囚人側の後半における感情の喪失と無気力さ、精気の著しく減退する様は自然な説得力があった。
あの看守に棒で殴られ深手を負った男も、生きる力(リビドー)さえ残っていれば、死ぬ傷ではなかったはず。
この辺の推移と硬直した秩序への異常な依存性については、貴重なデータとなり得たか。
(同監督の映画で、形骸化したナチスの法にしがみつく人間達の姿が重なる)。


普通に異化する人間を地味に描くのは、厳しいかも知れない。
創作や演出はよりリアリティを表現するために不可欠となるが、これは必然性を超えており、ツッコミのやりすぎと管理する側のボケ過ぎで肝心のDas Experiment自体が内破している。(ブラックボックスの中にあった、ドライバーには笑えない)。
細部は兎も角、全体として尋常ではない鬼気迫る面白さが増し、エンターテイメントとして並みのホラーなど寄せ付けない力を生んでいるとは言えよう。
しかしインパクト、緊迫感や緊張感はかなりのものであったが、主題を踏み越えてしまっている感は拭えない。

いや、看守が「お前が始めたことだろう!」と殺意も顕に記者にナイフを突き立てて、ドキュメント的物語が覚めるように終息していったことからして、主題はそちらにあったと言える。秩序-法を至上のものとし、そのもとには何でも許される硬直した支配・被支配の構図を挑発的に強化し、それを極限にまで押し進めることに拍車をかけたのは誰か。ひとりの暴走が如何に激しい触媒効果を発揮するか、それこそが映画のテーマか。

いずれにせよこの被験者(被害者)たちは、重い後遺症に悩まされることは間違いない。
彼女とのこれからを夢見る、主人公の記者を除いて。

そして結局、あの謎めいた女性は一体何ものなのか。
彼女にとって記者は、敬愛する亡き父の代わりの運命的な存在なのであろうか?
エスには、攻撃衝動や支配欲が渦巻いているが、同時に愛や性に対する欲動にも満ちている。タナトス(死の衝動)も大きなものである。(車のクラッシュで出逢い、丁度父の葬儀の帰りというのも偶然を超えた何らかの符号を暗示させる)。
彼女は、愛を体現したエスの側面として、あのように主人公を救う役割で現れたのかも知れない。
(フロイドのいうリビドー=本能的に湧き上がる生きようとする力の象徴的存在)


邦題の「エス」というのは、謂えている。



ヒトラー最期の12日間

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Der Untergang 没落だそうだ。
2004年ドイツ、オーストリア、イタリア制作。
オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督。

ブルーノ・ガンツがアドルフ・ヒトラー総統。生き写しというか憑依したかの如き怪演。
『ベルリン・天使の詩』が何故か懐かしく思えた。熱演を超えている。
アレクサンドラ・マリア・ララが秘書トラウドゥル・ユンゲを演じる。
「コントロール」でイアン・カーチスを演じたサム・ライリーの奥さん。
また、ゲッペルス役をはじめ、キャストが皆独特の個性を放っていた。

完全に没落間際の数日間の息も詰まる荒涼とした光景が途切れることがなかった。
ヒトラー総督は、物語の最初から絶望を通り越した妄想の世界に半ば入っている。
すでに明晰な状況判断など望める状態にない彼が、誰彼お構いなくヒステリックに怒鳴り散らす。
極限状態を厭が上にも際立たせるものだ。
そして何よりもリアリティである。
ドイツ人監督によるドイツ人俳優たちの映画作品としての重みは、大きい。
アメリカ人が敵として描くドイツ兵ではない人間が描写される。
ドイツ国民にとっても、単なる映画の域を超えた意味を有するものであるはずだ。
ドイツ人自らの内省による告白、といえようか。(ここにはまだ晒されていないものが少なくないとは思われるが)。
そしてこの映画の説得力は勿論、その普遍性にある。

「ドイツ国民がどれだけ死のうが、それは自業自得だ。彼らが我々ナチスを選んだのだ。」
といったことを、ヒトラーもゲッペルスも口を揃えて述べている。
ここだけは、とりわけ重く受け取らなければならない。
日本で今、あのような首相(内閣)がとんでもないことを進めているのも、彼らに権力を与えた者の責任である自覚。
これがなければ、歴史は何度でも繰り返す。

権力を握った者たちの暴挙により戦争(殺戮)が起きるのではない。
大衆がそれを望んだから起きたのだ。
その真理をついている。

国そのものが廃墟と化して逝くのを、いつまでも信じられずに(受け留めきれないのであろうが)、総督にすがり奇跡の勝利を願う兵士や看護婦の姿がひたすら物悲しい。
上層部の人間のほとんどは、どういう方法で死のうか、、、。
それしか考えられない。
この期に及んで、「わたしたちをお導きください。」
きっとそうなのだろう。
虚無とはこのことか、と思うしかなかった。


ダイアン・アーバスならきっと撮っていたであろう少女兵。
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戦火の中で猪突猛進の働きを讃えられたヒットラーユーゲントの少年のひとりが、この少女や仲間の少年兵の骸を嫌というほど見てきたはずなのに、あるときひとつの死体を眼前にして、ふと我に返り両親の元に一目散に逃げ戻る。
ドイツが降伏したと思ったら両親は殺され孤児となっており、かの秘書と手を繋いで、赤軍の間を塗って逃げ延びるその少年の、何をかはっきり自覚した目が最も印象的であった。

ラストターゲット

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”the american”
ある意味、カーボーイスタイルでアメリカ人(よそ者・流れ者)がイタリアに身を隠しにやって来た。
「ラストターゲット」では、興醒めではないか。
2010年アメリカ制作。
アントン・コービン監督。オランダの監督で、元フォトグラファーである。
ポートレートやロックミュージックビデオの制作で脚光を浴びた。
かのイアン・カーチス(ジョイ・ディヴィジョン)の生涯を描いた「コントロール」が映画監督第一作目である。


昨日の映画は要素を足してゆく方向性で制作されていたが、この作品は、ギリギリまで引いてゆき、徹底的にそぎ落とすことで主人公のストイックな生き様とその変化を雄弁に表している。
基本はn-1の方法による。

少し昔の作品かと思って観始めたが、古い部類には入らないことに気づく。
(車も古くはない)。
70年代のヨーロッパ映画の雰囲気や色調を漂わせる品格が感じられるものだ。
監督がオランダ人であるからか、ゴシックロマンの精神を(ジョイ・ディヴィジョンから)受け継いでいるからか。
ハリウッド産でありながら、非ハリウッド的作品になっていることが、ここでは何故か嬉しい。

ジョージ・クルーニーが物静かな銃器を作成するスペシャリスト-職人(メカニック)である。
イタリアの歌手で女優でもあるヴィオランテ・プラシドが、娼婦から彼に恋心を抱くようになってゆく。
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派手な演出を一切抑え、ただならぬ緊迫した空気に終始充満していた。
イタリアの片田舎の街の迷路状の古びた階段を主人公が登り降るだけでドキドキする。
銃の撃ち合い、カーチェイス、乱闘シーンもあっさりシンプルに、しかしリアルに挟まれているが、元スナイパーであるクルーニーの演ずる依頼を受けた銃を仕様に忠実に作成する職人的姿が淡々と描写されていく。
闇の世界の男を描くサスペンスものとしては異様に静謐であるが、各シーンの緊張感と密度の高さは圧倒的である。
時間の流れは非常にゆっくりに感じられる。
そのさなかに、クルーニーの心象の波打つ様子が窺えるものだ。

文化と自然が調和している環境に馴染み、自分が心を許せる女性に出逢い、神父と共に語り合い、日々を送ってゆくに従い彼の内面に変化が訪れる。
そのこころの揺れ動き、葛藤、眠っていた愛情の発露、闇社会から脱する決心を固めるまでの過程が雄弁に表されている。
彼は愛着を寄せてくる女性であろうと、僅かな疑いが生じれば躊躇なく撃ち殺す人間であった。
常に命を狙われる境遇にあり、誰にも気を許さず、孤独に耐え冷静沈着に警戒を緩めず生きてきたのだ。

仕事を完璧に仕上げ、依頼主に銃を渡すと、彼は警戒しながら彼女の待つところに飛んでゆき、永遠に共に暮らすことを約束する。
そのタイミングに自分の作成した銃で彼は狙われる。
生き方を完全に変えることは、やはり命懸けとなるしかないものか。
だが、何者かがその狙撃犯を射殺する。
暗殺者を暗殺できるのは、その依頼主以外に考えられない。
何故、依頼主は狙撃犯を撃ち殺したのか。
いや、何故それが彼に仕事を持ちかけ行動を指示する男であるのか。
もうすでにクルーニーは、実質スナイパーを引退しており、今回銃を制作することを頼まれただけである。
足を洗うと言われたところで、すでに半分身を引いている男を消す必要もあるまい。
その男は自ら、クルーニーを背後から狙う。(自分で引導を渡したかったのか?)


最後は恋人のところに車で向かいつつ、はじめて顕に感情表現を見せ、受けた傷のため息絶える。
こういったドラマのお約束ともとれる、切なく苦い終わり方であるとは言え、実際こういうものだと、つくづく思う。


流石に高名なフォトグラファーであっただけあり、絵が美しいこと、この上なかった。



カサンドラクロス

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The Cassandra Crossing
1976年イタリア・イギリス・西ドイツ制作。
ジョルジュ・パン・コスマトス監督。
パリ・アムステルダム経由ストックホルム行き大陸横断鉄道の列車内でのパニックを描いたもの。
このタイプの映画はリメイクされ易いのでは、と思われる。
もうすでに、あるのだろうか?
映画に疎いわたしは、そのへんは分からない。

細菌感染パニックと言っても、電車という密閉空間で、感染が乗客に広がり深刻な事態に突き進むという、ある意味サイコスリラーの要素の染み渡る、息の詰まるテンションの作品ではない。
その事件を事故に見せかけ隠蔽しようとする国側の権力に対し、乗客が抵抗する流れが主題となる。
細菌汚染はこの騒動の起きるきっかけに過ぎず、国家は機密を守るためには、人命の犠牲など厭わないというスタンスにより、乗客の敵は細菌ではなく権力となる。
この映画が撮られたのが、70年代であるがこの後、こういったテーマの作品がどれだけ制作されてきたか。
あまり映画を観ていないわたしでさえ、うんざりするほどの既視感を抱く。
陰謀と隠蔽を巡る権力(国家・巨大企業)との戦い。
強大な敵としては、ドラマを作り易いはずだ。
われわれの日常意識のコンテクストに直結した、しかし透明で謎めいた不安を煽る象徴である。
地球を征服に来た異星人とか怪獣を設定してしまうと、信ぴょう性や説得力を高める理論的な肉付け、演出、美術、エフェクトをかなり重厚にしないと、軽薄なB級作品の匂いから逃れられなくなるだろう。

この映画の導入部の細菌パニックをそのまま展開し深めていって、最後まで稠密な命懸けの攻防を描ききっても良かったと思う。
しかしその方向性であると、相当重苦しい作品になる可能性が高い。
国家の細菌兵器の研究・製造、反体制側のテロ、予期せぬ機密事項の拡散、事件の隠蔽工作、個として生存権の行使・反抗、、、。
いろいろ詰め込まれてはいるが、かなりあっさりとスッキリ見ることができる。
非ハリウッド映画の良い面が目立つお洒落な出来栄えであった。

キャストに大御所がたくさん出ていることも、作品の質感を高める要因となっている。
テンポや流れも小気味よい、破れ目のないものがたりであった。
最後はやはり自覚のあった(正しい認識を得て、適切な行動をとった)者が生き残ることとなる。
後の映画に大きなインパクトを与えたお手本的な作品であることが、充分うかがえるものであった。

トラウマ ~乖離 ~Mental Breakdown

Sigmund Freud

そもそも後遺症とは何か?いや、その前に、、、

トラウマ、PTSDとは、何度反復しても臨場感の褪せない記憶のようだ。
物語として手懐ることが出来ない。
外傷という結果-瘡蓋ではなく、まさに深刻な傷を負わされる現場(時空)が突然侵入-生々しく再現される。
そうだ、過去に受けた激越な衝撃が心的編集機構に組み込まれずに、存在しているのだ。
それらは、時間の侵食にあわない。
われわれの時間系には反復の形で回帰する。
編集の効かない記憶とは、外部のものに他ならない。
この他者性は免疫のないウイルスとして、身体のどこかの場所に居座っているのか。
昇華できない異物。呪いの刻印として。

蝕まれる身体からは、表情が打ち流されて逝く。
しかし、それはあくまでも刺激を少しでも遮蔽するペルソナ-仮面であり、神経はいよいよ研ぎ澄まされて域は低く震え続ける。
鈍麻する感覚と感性が過敏に波打つ神経を、綿のごとく締め付けてゆく。
不眠症だ。
白光する暗闇に。
全ての身体組織は、冷たく冴える。

そんな折、能動的な意思が有効ならば、音楽(芸術)を求める。(スポーツもあるか)。
一種のポゼッション、トランス状態に身を置くこと。(ランナーズハイもあった)。
それはある意味、アルタードステイツ(変性意識)を求める行為でもあろう。
そこで異物を昇華してしまうのだ。

主体に統合性が保てず自立性が発揮出来ない場合、フラッシュバックや複数の人格が出現するまでに至る。
以前記事に取り上げた「アイデンティティ」における、解離性同一性障害に通じるものだ。
昨日の映画もこの乖離症状の変調上のものとも捉えられる。
魔女狩りなど、集団的な宗教的憑依とも言えよう。
人類史的な乖離もこれまで何度も起きてきたはずだ。
個はどんなときにもあるとしても、何らかのスーパーエゴに憑依されている状況として。
いや、単にパラダイムの変遷史上の光景の一つというべきか。
われわれの強迫的な共通感覚の芽生えは、いつごろから生じたのか?
定住化-農耕民族としてのストレスの蓄積から始まっているという見解もあった。(と、記憶する)。
であれば、この過程は必然であろう。

トラウマ ~乖離 ~Mental Breakdownは、人間にとって何らかの苦痛を伴う外傷的災難ではなく、もはや属性ともとれるものであろうか。
後遺症ではなく、新たな特性。
ミトコンドリアが細胞に外部から侵入して、生存になくてはならない要素となったように。
人間としての常体といえようか。
苦痛を伴う?
病いはなくならない。

精神医療が不可欠とされる文明として、このまま存続してゆく気がする。
分裂病がスキゾフレニー、クレペリン・ブロイラー症候群、統合失調症と病名を変えつつ、文化的に組み込まれて展開してゆくように、当分この流れを維持してゆくはずだ。



サイレントヒル

silent hill

”Silent Hill”
2006年のカナダ・フランス制作
クリストフ・ガンズ監督。


その街は聖書からの文言や宗教(キリスト教)的な暗示に満ちている。
雪かと思いきや、空から絶え間なく舞い落ちてくるのは、灰であった。
陰惨な歴史から解かれることが永遠に来ないことを、思い知らせるに充分な荒涼たる風景だ。


そこに繰り広げられるまさに、廃墟映画。
わたしはゲームをしないため、「サイレントヒル」も「バイオハザード」も映画でしか知らない。
しかし、映画作品だけで比べてみると、こちらの方に見応えを感じる。
勿論、バイオハザードも見事なアクション映画であり、ヒロインの存在は圧倒的だ。
だが、こちらの主人公ローズ(ラダ・ミッチェル )も存在感においては全く遜色ない。

娘シャロンの身を案じて母親であるローズが、途轍もない地獄に迷い込み、試練を次々に突破して彼女を取り戻すという、如何にも元がゲームであることが分かる物語である。
この物語は、ただ母が娘を取り戻すに終わらないところにレアリティを覚える。
娘の魂は、別の次元-異界の存在に同化することではじめて安らぐが、その娘と時空間を共にするということは、この現実界には存在できないことを意味していた。
残虐で気味の悪い映像も多いが、空間の稠密な廃墟性がただならないものだ。
これほど不気味で抽象的なクリーチャーもこれまでに観た事がない。
しかし1番恐ろしいものは、やはり人間であった。

恐怖と狂信は相性が良いとつくづく感じる。
ヨーロッパは、勿論キリスト教に結びつく。
人々は共同体の内に、異端-他者を探り出し、彼女をスケープゴートとして矛盾や不満や不正を解消することを選ぶ。
さらに安寧と保全の為に、自らを丸投げする権力者を要請するのだ。
古今東西を問わず、人々は常に支配されたがってきた。
契約する相手が悪魔(異端)か神かは、兎も角。

サイレントヒルは、現実世界と地続きであるが、サイレンと共に暗転し悪夢の世界-異界に場が入れ替わるようだ。
どうやら異界は、30年前に少女アレッサが犠牲となった魔女裁判直後の時空に流れを止めているらしい。
病室に横たわる火傷で瀕死のアレッサの姿がそのままそこにある。
忌まわしい儀式に関わった、教会に籠る人々も、その凍結した時空の住人であろう。
アレッサに生き写しのシャロンも宿命の場所に引き寄せられてゆく。

外部の現実界に属する人間たちは、地続きの廃墟の姿のみを経験するだけである。
その内容-異界にはアレッサに何らかの関係性をもつ者だけが侵入できるのだ。
と言うより、アレッサの思念により作られた環境こそがサイレントヒルの内実と言えよう。

最後の方で明かされるが、シャロンは、アレッサの善の部分を切り離し外界に送った片割れであるという。
その母娘関係から、ローズはアレッサにとってもある意味母であることから、時空超えが出来たのか。
ローズの夫も娘の父ではあるが、彼には僅かに妻の香水の香が感じられるくらいで、全く異界の存在は感知し得ない。
それは、シャロンが養女であり、血のつながりがそもそもない上に、「父」という存在はオカルト思想においては他人同然ということだろう。
その父親と同じ場で家族として生活を共にするのが、この現実界であるとすれば、ある意味完全体となったアレッサであるシャロンと共に生きる母ローズは、何処に行こうと(家に戻ろうと)夫に出会うことはない。
そう、彼女の香水の香だけは、彼が微かに感じとることはあっても。

廃墟に魔女裁判、オカルトの方に深く針が振れると、このような亜時間の場にレアリティが生まれる。


演出が素晴らしく、脚本もカメラワークも秀逸であった。
最後まで緊張の途切れることのない、よく練られた物語である。



ラスト・キング・オブ・スコットランド

last king
体調がまだ優れない時に観るには、ハードな映画であった。
アミン。

こういったカリスマとは、一体何であろうか?
恐らく人々の無意識に溶け込み、麻痺させる毒を持つ人物であろう。
パフォーマンスやプレゼンテーションは確かに多くの人々の根底に持つ欲求を代弁して高揚させ強く惹きつけるものである。
しかし、猜疑心と冷酷な支配欲、更に残虐性がそれに魔力を与える影-謎の奥行の強度を増す。
ただ単なる理論の正当性やら高潔な人格などで、熱狂的人気は得られない。
誰もがその薄っぺらさに辟易するだけだ。
魅力は魔力でもある。
天使は悪魔でもある。

その両極性の厚みがカリスマを作るのかも知れない。
アミンは民衆の支持を得る為に調子の良い嘘を言い、権力を握って徐に本性を出したのではないはず。
そんなものに騙されるほど人々は愚かではない。
初めから凄まじく大きな振幅を魅せる心性をもった男なのだ。
多分、平常時に逢った時など、魅了されてしまうような人格であるはずだ。
しかし、同時に30万人もの同胞の虐殺を命じてきた。
権力という座も魔力を増長させることがわかる。

この物語は、アミンが独裁をしいたウガンダの情勢とアミンと言う人間を、スコットランドから軽い気持ちでやって来た大学出たての医者ニコラスの目を通して描いている大変リアルなものである。
ここにはイギリスの影(政商)も常にちらつく。
アミンを利用し、政権を彼がとってからは、邪魔になってきた。
実際、アミンには政敵が多い。
常に命は狙われている。
多くの独裁者がそうであるように、彼も相当追い込まれ精神が参ってしまうことが少なくなかったはずだ。

そこに思慮を欠いた、軽薄な(根拠のない優越感をもった)医者がやってきた。
アミンがイギリス人ではない、容易く感化できる他国の医者を側近に求めるのは分かる。
イギリスは勿論、同胞にも気は許せない状況だ。

新米の医者が権力の中枢に、あっという間に取り込まれる。
彼は自分が担当していた村を見捨て、権威の魅力に惹かれあっさり求めに応じ、アミンの主治医となる。
しかし、ニコラスは現在ウガンダがどういう情勢か、イギリスの暗躍、アミンの敵対勢力、アミンの複雑な人格の分析など全くせず、スコットランドからやって来た部外者の立場で、アミンの権力下で取り敢えず、自由気ままな特権的な生活を送っている危うさに気づかない。(プライドからイギリスに対する敵対心は抱いているが)。

ニコラスは、国のために忠実に尽くしてきた大臣にアミンが嫌疑をかけるような彼の言動により、大臣を処刑させることに繋がった件をどれだけ重く受け止めたのか?
反発していた英の政商に助けを求める。しかし、もはや全く相手にされない。
そして、最初に赴任した村での経験を生かせず、こともあろうに暴君の妻の1人を誘惑してしまった。
しかも子供までできてしまう。
そこから、スコットランドから自分探しの旅気分でやって来たニコラスの目の覚める転落となってゆく。
大概のことは許されていたが、これは逆鱗に触れる。
当然のようにその女は見せしめに虐殺される。
それに単純に腹を立て、彼はアミンに頭痛薬として毒薬の入った瓶を渡してしまう。
ダメ押しである。側近は直ぐに訝り見破る。

これでただで済まされるはずがない。
しかし、元主治医の犠牲的救出により、命は救われハイジャック被害に遭った人々に紛れて逃げることに成功する。
(助けた医者はニコラスを庇い銃殺される)。


アミンの捕らえられた彼にかけた言葉が、当たっている。
確かに彼は正しい事を言う男だ。
「「情けない。お前は何か一つでも有意義なことをしたか?」「すべてお遊びだったのか?」
「アフリカに行って、“僕は白人、お前らは現地人”というゲームでもしようということか?」
「我々はゲームじゃないんだ、ニコラス。我々は人間だ。この部屋も現実だ。お前にとっては死がたぶん初めての現実の体験になるだろうが。」

「お前は殺されて当然の男だが、生きてこの憎悪に塗れたこのウガンダという国を世界に知らしめてくれ。」
元主治医が彼を助けるとき語った言葉である。


多くの人間を犠牲にしてチャラ男は母国に帰っていった。






プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

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