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GOMA28

Author:GOMA28
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メランコリア(2)

NEO.jpg
(単なるイメージ)

”2015 TB145”という死んだ彗星の核、がハロウィンの日(10月31日、本日)に地球最接近するという記事には、感じるところがあった。
僅か直径600mほどの物である。
「スプーキー(不気味)」というあだ名がつけられているそうだ(笑。
映画の「メランコリア」は惑星であり、地球よりも大きかった(恐。
グレイト・インパクトである。

幸いこの彗星は地球から48万km離れた地点を通過するらしい。
地球と月の間の距離より1.3倍離れているので、危険はないはずだ。
しかし、彗星をこれほど間近に見ることは希なことでもある。

折角近づくのだから、観測すればまた何かを発見できるかも知れない。
やはり、当然天文学者はチャンスと見て、ウェストバージニア州のグリーンバンク望遠鏡とプエルトリコのアレシボ天文台で反射電波を精細に調べるということだ。
形状、大きさ、重さ、組成が分かり次第、発表されるはず。

10月10日に発見された「スプーキー」は、3年に1度の周期で太陽を周回しているという。
スロー・コミュニティ・オブザーバトリーで、通過の様子を観ることができるそうである。
*11月1日午前1時~

わたしも、起きれたらそこで、ライブ映像を見てみたい。
(ほとんど自信はない)。


ひとつ、最後にNASAは地球に衝突する可能性が考えられる小惑星は4700個もあると発表しているという。
どのくらいの範囲(誤差)なのかというと、地球から800万km以内というものだ。
先の”2015 TB145”というのが、かなり近いものであったと反省した。
この範囲内で、地球の軌道と交差する星の数は、観測により次第に増えているという。
地球に衝突し、被害及ぼす危険ある小惑星は4700個

潜在的スプーキーはかなりいるということである。
ハロウィンにはぴったりな話題かと思い、急遽アップしてみた(笑。
(笑っている場合か?)

2015.jpg



LUCY ルーシー

ルーシーについて書いていないことに気づいた。
lucy.jpg
”Lucy”
2014年フランス映画。
リュック・ベッソン監督。

脳を100%自在にアクセス-活用できる=時間を任意に行き来できる=肉体-個から解かれる
ということを華麗な映像で示しているようだ。
時間的存在である人間-現存在。
もともと生きられる時間は今だけだが、リニアな時間軸から垂直面に広がれば、身体の枠にとどまれない。
ベルグソンの期間論から言えば、過去・未来の両円錐の頂点の接触点が今現在となるが、この点が無限の平面となるような事象となろう。
やはり受肉している時だけ、つまり物質的な身体を持つ間だけ、世界内存在としてわれわれは外界に物理的に関わることが出来る。
しかしそのあり方を決める根拠となる場所は、脳なのか?

そこらへんが分からない。
少なくとも、わたしという場所は脳にはない。
脳はひとつの機関であり、機能である。
また、人間という単位で考えず、DNA主体に考えれば、人間の肉体は文字通り乗り換えの為の船(器)に過ぎない。
生き延びるべくコントロールする真の主体は、われわれではない可能性もある。
(それこそ見かけ上脳細胞も10%以外の情報は眠っているようであるが)。

実際、脳の機能が大方の人間は10%くらいしか使われていないとして。
それが20%、30%とアクセスできる情報が広がってゆけばどういう変化が現れるか。
脳科学の権威(モーガン・フリーマン)の講演会での彼の仮説に伴ってルーシーの世界も変化してゆく演出である。
彼女にはまず、深い個人的な記憶が鮮明に蘇る。
そして自らの肉体を自由に操れるようになる。
電磁波・振動・磁気・大気・脈動・様々な言葉・人間そのものを具に感じる。
他人の肉体をコントロールできる。
更に物を操れる。
これらに同期して、痛みや恐怖などの感情が消え失せ、知識が爆発的に増大する。
特定の個性などは消え去ってゆく。

と物語は進む。
その間、カーアクション、銃撃戦、格闘シーンなどの、お約束は律儀に挿入している。
最後にルーシーは、完全にコンピュータと融合したソフトマシンとなったかと思うと、スッと消え去りUSBメモリ?状のストレージ一本、脳科学の博士に遺してゆく。

彼女が自分の死(解放)を悟ってから、非常に早いテンポで物語が展開し、あっという間に終わった感がする。
終わり方も、あっけないものであった。
如何にもリックベンソンという映画であった。
VFXを活かした、実験的な思い切った映像作りには好感がもてる。
彼にはこの姿勢で、攻めていって欲しいものだ。


「生命の本質それは、知識を伝えることのみ。」
これについては、その通りであろう。
モーガン・フリーマンが言うと何でも説得力を帯びる。
「その知識を伝えなさい。」
彼女はそれに同意する。

スカーレット・ヨハンソンは段階的に変わってゆく人格?を巧みに表現していた。
この女優は実験的な映画のヒロインを務めるのが好きなようだ。
このままスカーレット・ヨハンソンは人間離れしてゆくのか。
アンダー・ザ・スキンのエイリアンのような役柄がふえてゆくような、、、(あれは傑作であった)。


わたしの希望であるが、折角フェルメールの弟子を演じたのであるから、今度はヴィジェ・ルブランのような美しい画家を演じてみてはどうであろうか?かつてカミーユ・クローデルをイザベル・アジャーニが熱演しているが。


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ガメラ3 邪神覚醒

何故か持っていて観る機を伺いつつ月日が経ってしまった映画。
gamera3.jpg
1999年制作。日本映画。
金子修介監督。
これをもって、ガメラ映画は終了したとの事。

数ある日本映画の中でも最上級の傑作映画に数えられる作品であろう。
世界的に見ても、クリーチャーの登場する映画の中では、これに及ぶものは少ないはずだ。

ハリウッド版ゴジラはなかなかの出来で、あそこまでよく練り上げたものだと感心したが、このガメラの存在感の前では霞んでしまう。
まさに存在そのもので、全てを圧倒してしまうガメラなのだ。
ガメラの造形美は、峻厳で孤高な存在の具現化として妥協なく極まっている。
その上、ギャオスの変異体イリス(ギリシャ神話のイリースか)のエヴァンゲリオンを意識したかのごとき形体。
これまで出てきた超獣の中でも畏怖さえ与える一際美しい姿だ。
ギャオスも進化に伴いシャープで獰猛なかたちに研ぎ澄まされ、最終形と言えるだろう。
それらの造形が本当に”リアル”なのである。
パフォーマンスも見事だ。

であるため、カメラワークは命懸け(又はロボットによる)、実況中継なのだ。
真下からや、ズームの激闘、破壊、爆破シーンが真に迫っている。
激しい流血激闘シーン、特に最後の右手を失ったガメラのバニシング・フィストによるカウンターは凄まじいとしか言えない。

ガメラといえば、中山忍と藤谷文子(スティーヴン・セガールの娘)であるが、今回は前田愛と山咲千里も出演している。
この4人もそれぞれ立場と役割が明確で、わかり易かった。
勾玉と巫女の関係の対比もこのガメラを巡る特殊かつ重要な要素だ。
ここでは、其の辺の事情がさらりと語られてはいる。
柳星張を守り(封じ)続ける守部家、四神における玄武-ガメラと朱雀-イリスの対応関係等。
これは、まだ展開する余地があると思われる。

もう一つガメラシリーズならではの特徴は、ギャオスの遺伝子の特殊性であろう。
染色体が一対のみで無駄な塩基配列のない、完璧な超遺伝生命体である。
単為生殖で繁殖力が高いうえに成長も早い。しかも進化が異常に早い。
ガメラともども、超古代文明の遺伝子工学による産物であるという。
この遺伝子特性はイリスにおいても更に強力に発揮された。
ガメラが一時は戦闘不能状態にまで追い込まれる。

そして、ガメラの葛藤である。
人間から決別しようとしながら、人類を救おうとするその引き裂かれた心情が毎回、描かれる。
少年を救いながらも、ギャオスを倒す戦闘のなか、不可避的に街が破壊されてゆく。
今回、前田愛演じる少女綾奈は、その戦いで両親を失いガメラだけに異常な憎しみを抱く、巫女的な体質を持つ少女だ。
その為、彼女はイリスの巫女となり、その心情が増幅されイリスに融合されるに至る。
丁度、浅黄(藤谷文子)と対関係にある。
しかし、ガメラはイリスの腹を突き破り、その子を取り出し救うのだ。
国防軍からもミサイルを放たれ、多くの人の非難を浴びつつ孤軍奮闘するさなか。
痛手を負いつつ、大量発生し大群で飛んでくるギャオスをまた独りで迎え撃つべく夜空を見上げるガメラ。

「ガメラはひとりじゃない」
最後に綾奈が呟くところは、ガメラにとって唯一の救いか?
孤独な存在である。


ガメラの造形は極まった。
空中戦のVFXも迫力充分。
地上戦での、逃げ惑う人との関係性(空間性)もしっかり描写できている。
これによって、わたしたちがはじめて、感情移入できるドラマが成立する。
すでにこの世界の地盤は磐石である。


またいつか新たなストーリーで、空中戦や水中戦、陸上では富士山などでガメラを見たい。
まだ、われわれにとってガメラが必要である。
女優陣も小松奈々や矢島舞美や生田絵梨花などを出す頃ではないか?
興行収入もアップするはずだ。


リターナー

returner.jpg

”Returner”
2002年度日本映画。
山崎貴監督。
レニー・クラヴィッツが音楽。


美味しい炭酸飲料を飲んだときのスッキリ感と言えば良いか。
様々な映画のエッセンスをオマージュとして取り込み、しっかりまとまったエンターテイメントに仕上げている。
フィフス・エレメントチャーリーとチョコレート工場などと同様に監督の趣味がたっぷり活きている)。
伏線も判りやすく張られており、ストーリー展開、演出・美術・VFXともによく練られたもので、裂け目は感じられなかった。

役者たちも、思いっきり生き生きと演じていた印象が残る。
金城武(宮本)のロングコートのアクションは、典型的スタイルであるが、小気味良くキマっていた。
鈴木杏(ミリ)の中性的な凛とした魅力は、あの時期だけ出せるもので、大変貴重なモニュメンタルな意味を持つ。
樹木希林(謎の情報屋)は、流石に年輪を思わせる、いざとなったら頼れる存在感に満ちている。
岸谷五朗(溝口)は、暴力と金による支配しか考えない凶悪なチャイナマフィアの人格が完全に乗り移っていた。

小道具のアイデアとその使い方もよく考えられており、アクションシーンの中に効果的に組み込まれている。
全体に流れに淀みがなく、エンディングまで気持ちよくハラハラしながら持って行かれたのは久しぶりである。
しかし、見終わってからちょっと疑問の湧くところも少し。


まず異星人の侵略を装った墜落ということで、最初の1体が忍び込んだというミリの認識であったが、世界各地で起きているナレーターの口を借りて発せられているメッセージと、ミリと宮本が目にした子供の宇宙人が「故郷に帰りたい」とその映像と共に訴えてきたことを結びつけ、謎の情報屋が単に迷子になった子供を我々に返してくれという要求に相違ない、と洞察する。
その説得力に対し、ミリも宮本も認識を変え、作戦の目的を子供の救助に変更する。
そもそも何故、ミリは異星人ダグラの最初の1体を抹殺すれば、その後の彼らの襲撃はないと確信して来たのか?
その目的の根拠が示されなかった。早いうちから、その1体は彼らに返すという目的に修正されたため、どうでもよくなってしまっのたが。

もうひとつそれに関連して、あれだけの科学力をもった宇宙人が、何故子供を探す術がないのか不思議である。
事実上、子供が自分の乗ってきた宇宙船から母艦に居場所を伝えたのだが。
今の子でもGPSのガジェット(多くはスマートフォンの装備だが)を身につけている。
ワープして他の銀河から来たはずの知的生命体にしては、バランス上疑問は残る。
レーダーにも捉えられない形で不時着もしたはずだ。

更に、ドラマ的には最も盛り上がる、エンディングのミリの消える場面である。
時間を扱ったSFで、あれほど切ないものは、そうはないと思われる秀逸なところでもあった。
(今少し感情を抑えた演技の方が、より効果的であった気はするが)。
完全に過去を書き換えたのだから、その時点でミリの存在は消え失せる。
まさにそうだろう、素晴らしく悲しい別れだ、としみじみ納得した。
のだが、その後もう一度、宮本が寝ているうちにそっとコートに防弾プレートを忍ばせる為にこの時制にやって来る。(2日前ということか?)その時、彼女は宮本を愛おしそうに眺めてから立ち去る。
しかし未来が書き換えられた時点で、あのミリは存在しない。
ミリと宮本を繋ぐコンテクストは、すでに消滅している。(初めからない事である)。
そこをどのようにして接続を果たしたのか、その経緯(シーン)が少しでも具体的に示されていれば、スッキリするのだが。
恐らく彼が操るバイクの後ろで、きっと宮本がピンチの時、助けに来るから、と語っていることから何らかの手を打っていたのだろうが、、、。明らかに説明不足である。


最後に現れる擬態宇宙船はなかなかメカ好きの心をくすぐる代物であった。
あの飛行機は、大分早い時点で空を飛んでいたように思う。
医学も大変発達しているようで、瀕死の子供がすぐに元気を回復した。
いずれにせよ、子供の命が救われたことで、戦争は始まらず彼らによる地球人の絶滅は回避されたわけだ。
無事、引渡しが成功したことは、人類にとっては大変大きなジョブであった。
ミリはノーベル平和賞をいくつ貰っても不思議はない。
しかし大きなミスひとつ。宮本が死んでいる写真(未来で検索されたデータであろうが)落としていってはならない。
いかなる物も、過去に置き忘れてはならないことは鉄則である。(サウンド・オブ・サンダー


とてもスタイリッシュな見応えのある日本SF映画であった。
最初と最後にかかるレニーの曲は金城のBGMにぴったりの曲想であった。

もう、13年も経ってしまったのだから、まず無理であろうが、ミリと宮本の繋がりが保持されているのであれば、出来れば”2”も見たいものだ。
ただ、鈴木杏が変わってしまっているのが残念である。(金城もガキとは呼べない)。
彼女には成長に見合った物語で、今後も頑張ってもらいたい。


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トランスポーター 1

transporter1.jpg

アクション映画は、シュワルツネッガーやドルフ・ラングレンやシルベスター・スタローンだけではない。
ジェイソン・ステイサムがいる。

”The Transporter”
2002年度アメリカ・フランス制作映画。
リュック・ベッソン脚本。監督はルイ・レテリエ 、 コリー・ユエンということ。
リュック・ベッソンの監督(脚本)関連では、「サブウェイ」「ニキータ」「レオン」「フィフス・エレメント」「アンジェラ」「LUCY」は観ているが、その中では際立ってアクションが激しい。

この「トランスポーター」のアクションは半端ではない。しかもジェイソン・ステイサムは一切スタント無しだという。
大変な運動神経と身体能力(体術というのか)である。
マッスルバトルだけではない。トランスポーターというくらいだ。カーアクションから目が離せない。
特に敵とのカーチェイスよりも、さつに追われて逃げる際の、ドライヴィングテクニックが憎い。
更にヒロインは、スー・チーである。
彼女は「クローサー」(ナタリー・ポートマンではない方の)で、ヴィッキー・チャオと華々しいアクションを魅せていた。
ここでも、アクションこそないが、存分な存在感を示している。


主人公のフランクは3つのルールを決めそれを厳格に守って仕事-運び屋をしている。
ルールとは、「契約厳守」「(依頼者の)名前は聞かない」「依頼品を開けない」である。
しかし、ある依頼で荷物の中身が明らかに生きている人であることが分かってしまう。
彼は気になりバッグの中身を覗くと、女性が入っているではないか。
この自らのルール破りから、彼は思わぬ事件に巻き込まれてゆく。

まず、物語の滑り出しは素晴らしく、格調も高い。
フランクの寡黙さストイックさとBMWの完璧な操り方、全てにおいて密度が濃い。
何より、スーツに身をかためた神経質だが冷静沈着なジェイソン・ステイサムが恐ろしくカッコよい。
このままハードボイルドでスタイリッシュに孤高の運び屋として驚異のドライブやアクションが見られるのかと思いきや、、、。
トランスポーターとは、最初だけだったのか?

この明らかにトランスポーターであった部分は、文句なしなのだが、ライ(スー・チー)を助けたあたりからなんか変になってきた。
彼女の父が中国マフィアのボスで、人身売買で金儲けをしており、調達された400人の中国人を運ぶコンテナから彼らを救出する展開となってしまう。急に何で、彼はそんなことに乗り出すのか?
フランスの警部もそれに手を貸す。(法的には手を出せないらしい)。何であの警部とそんなに仲良しなのか?
突然、闇の世界の運び屋から、正義の味方に変身してしまう。
明らかに流れが変わるのだ。

もっとニヒルでアナーキーなヒトだと思い込んでいたため、人が変わったのかと戸惑ってしまった。
中盤以降は、所謂よくある人の良い、アクションヒーローとなっていた。
顔も最初見た時と違い、優しげである。
アクションの質は流石に一級品であるが、ヒーロー像とプロットに、もすこし一貫性を持たせたい。
別にスー・チーを渋々助けるのは良いのだが、人格や信条そして題名ーテーマはブレないでいてほしい。

そもそもギャングたちも考えてみれば面白い。
ライを何故わざわざ、バッグに押し込んで運ばせるのか?
普通に彼らの車に乗せて移動出来なかったのか?
そのへんの経緯が謎である。

いちいち其の辺のことを詮索するのは、それこそルール違反かも知れない。
ただ最後に一つ気になったのは、フランクがマフィアのボスに銃で断崖に追い込まれる絶体絶命の場面で、岩から掴み取った破片を手に隠し持ったのだが、あれはどうするつもりだったのか?
それまでも、運転中に割れたバックミラーの破片で反撃したり、その場にあるものを巧みに武器としてきたものだ。
何もせず、ライが父親を撃ち殺して助かった、というのはちょっと、、、
むず痒さが残る。

何とも言えない、尻切れトンボという感は否めない。
しかし、前半のジェイソン・ステイサムと彼のアクションは充分に見る価値がある。
スー・チーも同じ年に撮られた「クローサー」ほどではないが、充分魅力は発揮していた。


2,3も観てみようか、と思う。





アイアンマン3

ironman3.jpg

体調が最悪の時は、何も考えず爽快な映画を観て、一気に寝たい。
長女の「溶連菌」感染症で1番密着していたからか、伝染ったみたいである。
今日は全く頭を使わず、観て書くつもりであるが、大丈夫か?


流石に、幼い頃観ていた鉄人28号のような高揚感はないが、楽しんで観ることは出来た。
アベンジャーズでお気に入りになったアイアンマンであるが、ここでは寧ろ人間スターク(ロバート・ダウニーJr.)の苦悩を描いているとも言って良いか。
豪華なテクノロジーの要塞とも言える自宅もミサイルで木っ端微塵にされるし、けっこうダメージを食らう。
主役はアンソニー・スタークという流れで、アーマーのパーツをアクロバティックに装着し、ただ飛び回ってボカスカ相手を粉砕するアクションシーンだけに浸れないものであった。
ストーリー自体思っていたより複雑であり、スターク自身アベンジャーズの戦いでPTSDに悩まされ、発作や不眠に苦しみ、過去の人間関係なども絡んでくる。
勿論、スリリングな展開や意表を突くアイデアを感じる場面がいくつもあったが、フラジャイルで不安定な面がかなり強調されて、そちらの心配が少なくなかった。

途中で、シュワルツ・ネッガーかドルフ・ラングレンの映画にしようかな、とも思ったものだが、荒唐無稽なメカが飛び交い、J.A.R.V.I.S.とのやり取りなども気の利いている、やはりアイアンマンが面白いと思い直す。
ここでは、凄い強敵のアルドリッチ・キリアン博士(ガイ・ピアース)が登場してくる。
キリアンは、スイスの植物学者マヤの遺伝子の未使用領域を有効に使う研究を、エクストリミス(ウイルス)として流用し、軍事目的の運用を企んでいた。
流石にガイ・ピアースを使うだけあって、極めてタフな役柄である。
そして何とヴァージニア・ポッツ(グウィネス・パルトロー)が捕らえられ、エクストリミスに感染させられるのだ。
エクストリミスは、人間の脳の未使用部分を活性化し能力を上げるとキリアンは説明していたが、何でそれが肉体を爆破させる作用も発揮するのかは、分からぬままでテンポよく進む。
兎も角、自分のからだを物凄く高温に発熱させ相手を焼いたり、そのまま自爆テロ兵器と化すのだ。

アーマーもありったけのものが飛んできて、夜空を縦横無尽に行き交い、感染人間を倒してゆく。
スタークも自らエクストリミスで力を得たキリアンとの攻防を繰り広げる。
ここからが一番の見所であろう。
アーマーをこれだけ自動で操れるというのは、もう正太郎くんも開いた口が塞がるまい。
新開発のマーク42というアーマーをキリアンに瞬時に装着させそのまま自爆させるという、今回は自爆が隠れたテーマか。
なかなかのアイデアである。

しかし、最もアレーッと思ったのは、ポッツが火の燃え盛るところに高所から落っこちた場面だ。
だがヒロインは死んではいけない。
彼女は不幸中の幸いか、エクストリミスに感染していたため落下しようが灼熱の只中であろうが、大丈夫なのだ。
結局、彼女が敵の息の根を止める。
グウィネス・パルトローの意外なアクションシーンはもう少し見たかった。


最後にスタークは彼女のため、アーマーを残らず爆破させクリスマスの花火とし、精神的な病を治しアーマー依存性から解かれる決意をする。
ポッツは彼が発明した薬で無事元のからだに戻り、彼もミサイルの破片を心臓から摘出し、アーク・リアクターも胸から外して普通の人間に戻る。
しかし、全てを失っても、「僕自身がアイアンマンなのだ。」


ということで、4はあるのかどうか、微妙である。
アベンジャーズ2はあるはずだ。



うさぎドロップ

usagi.jpg

恐るべし、芦田愛菜!
やはり、ただもんじゃない。
そういえば、これまで芦田愛菜を劇などでまともに見た事がなかった。
これほどとは、知らなかった。
「レオン」でナタリー・ポートマンがあの歳であの演技という事に感心したが、、、。
ここでの芦田愛菜は、ようやく離乳食を卒業したくらいのところではないか?
それなのに、おにぎり握ってるではないか。いや、そういうことではない。
上手いとか言う前に、呆れてモノも言えん。

うちの娘たちを見ているから、尚更そう思えるところもあるのだろう、、、。
セリフも申し分なく、表情だけでの演技、動きの無駄のなさ、間の取り方どれをとっても自然で言うことなし。
子役の稚拙さ、わざとらしさ、自分が何やってるか分かってない、ような場面は微塵もなかった。
ナタリー・ポートマンを越える日本女優の誕生である(祝!

しかし、大人になった早熟の天才の、目も当てられない惨状もかなり見てきている。
彼女は大丈夫か?
いまのところ、ますます女優業に磨きをかけている様子で、良い形で思春期の女性になりつつあるようだ。
このまま、スムーズに育ってもらいたい。
以前、女優で誰が好きか、という質問に「中谷美紀」と答えていたのは、TVで偶然見たことがある。
ただもんじゃない、とその時以来感じてはいた。

さて、”L”でファンになった松山ケンイチ(ダイキチ)が亡くなった祖父の隠し子の保護者を引き受ける。
設定こそ突飛であるが、そこから流れてゆく話はとてもレアリティがある。
いやーっ、見習う面がいくつかあった。
わたしなら確かにやってはあげるが、その前に少しばかり小言を言ってしまうな、と思うところである。
余計なこちらの都合等、一切口にせずその子の目線に立ち、向かい合っている。
意識的に無理してやっていると、すぐにボロが出てしまう。
子供はすぐに見抜くし。
何より無私の愛情が前提になるところだ。
実に、率直で前向きな男である。

ここにはじめて、こころが結ばれてくる。
芦田愛菜(りん)の内面の変化してくる演技がまた秀逸。
ダイキチともしっかり、かみ合いはじめる。
そして、りんのボーイフレンドのシングルマザー香里奈(ゆかり)との関係は幾分無理はあるが、とても素敵である。
この香里奈の役がまたカッコ良い。
サバサバした頼れるお母さんでありつつ、美しいモデルでもあり、健気で繊細さも兼ね備えている。
ダイキチとは、2人の子供の失踪事件を機に急速に接近する。
それにしても3人ともよく走っていた(特にダイキチは走りっぱなしではなかったか?)

この3人とてもピッタリと息が合っていた。
ボーイフレンドもしっかり、りんについて行っていた。
その他、脇を固める役者が豪華であった。
中村梅雀[2代目]がダイキチのお父さん役である。柔らかな優しさに満ちていた。
お母さんも風吹ジュンで、こなれている。
桐谷美玲が妹。よくいる生意気だが快活でシッカリもの。
綾野剛があまりにご都合主義の存在だったが、ご愛嬌か。(ちょっともったいない使い方)。
等々。

この面々、りんの存在とダイキチの決断に対し冷ややかで批判的であった。
しかしダイキチは、りんに対して率直に向かい合うことで彼女が彼女らしさを取り戻していくことに、生きがいを見つけるようになる。
やがてそれは愛情になって深まってゆき、すぐにりんを迎えに行ける残業のない部署に配置替えをしてもらう。
(幸い新しい部署が暖かい人々ばかりで良かったが)。
この決断(降格移転)は、りんを引き取ると言った時の、勢いでした決断とは次元が異なる。
これにより、りんとの生活が破綻せず、彼女が本来の明るさを取り戻すことになった。
ダイキチの家族の眼差しを暖かいものにし、家族の繋がりを豊かにしたのも、ダイキチとりんの関係作りが見事に成功したからである。彼の両親の彼を見る目も変わった。全てが良い方向に向かったと言える。
逆に、そこまでダイキチには決断できず(又は良い方法が見いだせず)、りんとの関係、生活が破綻していたら、家族との関係、家族そのものも、荒涼とした雰囲気が満ちてきたはずだ。


予定調和とご都合主義的なところも多少気にかかったが、面白かったのは、りんの実の母親の存在である。
漫画家として売れてきて、仕事に没頭したいため、りんの母親であることは、やめたのだという。
これはこれで厳しい選択だ。普通は大変身勝手に映る。ダイキチも怒っていた。
女手一つで、漫画家と育児は到底両立できないと悟ったための決断であろう。
それは結果的に、正しかったとも言えるが、彼女は自分が失ったものの大きさも今後ズッシリと感じて生きてゆくことが分かる。

ひとは良く生きるために、何を犠牲にするか、という問題とも言えるだろう。


「世界は愛に溢れていた。」(ダイキチ)

映画を見ている間は、そう思える時間を過ごした。
彼の運勢はまさに「大吉」であったようだ。


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今すぐ再起動 フィラエ

philae.jpg

わたしも再起動したい。
(Sleepがまだ必要なのだが)。
フィラエ(Philae)も目覚めたことだし。
チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に着陸し、7ヶ月間スリープ状態に陥っていた彗星着陸機だ。
太陽光がうまい具合に当たったのか?
水星の永久影みたいなところに嵌ってしまったら、目覚めることはないはずだが。

探査機ロゼッタは、何処に彼を落っことしたか、分からなくなっていたようだが、通信がようやく来たのだ。
ロゼッタを通して85秒間、欧州宇宙機関(ESA)が受信できたという。
その時点で、かなりの回復を示しており、ロゼッタ-フィラエ間通信も確立が認められ、これから本格的な探査の開始が可能となった。
2年間の予定で探査を行う。まだまだ、時間はある。

フィラエは、予定では彗星上にしっかり3本足で衝撃を吸収して錨を打ち込み、すっくと立つつもりであった。
しかし、ロゼッタから自由落下して地表で結構なバウンドを2度もした(そのうちの1回は1kmも跳ねた)そうである。
小さい彗星で重力が弱いし、表面が思っていたより硬く、突起部に落ちたため錨は打てなかったようだ。
そしてその後、内蔵電池で彗星の写真などのデータを送ってきたが、電池切れで眠ってしまった。
Churyumov Gerasimenko02


フィラエは、重量100kgである。
わたしより遥かに重いが、着陸探査機としては軽いものだと思う。
人間でも100kgより重い人はいくらでもいる。
両国に行けばかなりの確率で遭遇するものだ。

このような愛嬌のあるメカが彗星上で動き回る姿を想像するのは、楽しい。
これまで、何台のプラモデルを作り、壊れ手放してきたものか?
フィラエ着陸探査機はその延長線上で宇宙の彼方にポツンといる。

ロゼッタはあのロゼッタストーンからとられた名前だという。
その石碑の分析によって、古代エジプト文明の解明が進められた。
彗星は太陽系初期の姿を保っている。その解析から判明する事実とはどんなものか?
さらに大きな謎が紡ぎ出されるかも知れない。
まずは、フィラエによる精査を待ちたい。
フィラエには科学観測装置が9種類乗っている。
パノラマカメラやX線分光計、ガス分析装置、磁場観測装置、表面を約20cmの深さに掘り試料を回収し、フィラエ内部の分析装置で分析する装置もある。
彗星の周回軌道に乗っている母船ロゼッタは、発した電波が、彗星核によって反射・散乱される様子から、その内部構造を探ることになっている。

当初、チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星はその形から、地球外微生物の存在も期待されていた。
確かに変な形だ。(多分「どっから見ても変な形」)。
ESAの発表が楽しみである。
(NASAではない)。

Churyumov Gerasimenko



エル・スール

omero antonutti

El sur
1983年
スペイン

ビクトル・エリセ監督・脚本
アデライダ・ガルシア・モラレス原作

オメロ・アントヌッティ、、、アグスティン・アレーナス(エストレーリャの父親)
ソンソーレス・アラングレン、、、8歳のエストレーリャ
イシアル・ボリャイン、、、15歳のエストレーリャ
ローラ・カルドナ、、、フリア(アグスティンの妻)
ラファエラ・アパリシオ、、、ミラグロス
オーロール・クレマン、、、イレーネ・リオス/ラウラ
フランシスコ・メリーノ、、、イレーネ・リオスの共演者
マリア・カーロ、、、カシルダ


映画記事が続いている。
たまたま映画について書いてから、関連したものをまた観たくなり、その感想を書き、、、
という具合で記事数が増えていった。

今日、観るとなれば、やはり「エルスール」か。
この調子で、暫く映画の感想記事は続く。

”El sur”
1983年スペイン制作
ビクトル・エリセ監督

少女エストレーリャが8歳から15歳に育つが、とても自然に変わっているのに驚いた。
女優をよく選んだと思う。演出の妙もあろうが。
別に特記するほどのことでもないかも知れないが、わたしは感心した。

圧倒的な絵の美しさ、構図の見事さは「ミツバチのささやき」に劣らない。
フェルメールの絵のようだ、という言葉をどこかで読んだ記憶がある。
一口で宣伝するには、秀逸だと思う。
語られるセリフも少なめだが、今回はエストレーリャの独白の形で物語が進むため、彼女のナレーションが簡潔に入る。
父親が自転車で家出した時から、回想が始まる。

娘と父親は共に愛情を抱きあっている。
しかし娘の幼さと、父親の秘密の大きさから、お互いの間に溝が出来ている。

それにしても父親アグスティンが何をしている人なのか分からなかった。
振り子で水源を探り出す職業なのか?これも何かの象徴か。
兎も角、霊感の優れた人であり、娘の憧れでもあったようだ。
映画を観るのも趣味らしい。
初聖体拝受の日に席につかず、教会の後ろで娘を見守るなど、、、。
謎めいた魅力のある人物だが、ずっと苦悩していることは、幼い娘も知っている。
彼はかつて「南」に住んでいたが、彼の父との確執もあり、北に逃れてきている。
しかしそれだけのことかどうかは、分からない。政治情勢も当然あるだろう。
言葉に容易く出来るものでは、とうていないものを抱えもっているようだ。
このオメロ・アントヌッティという俳優の秘めた感情を表す演技は素晴らしい。
(わたしの好きな映画「湖のほとりで」でも存在感を示していた)。

娘エストレーリャは、イレーネ・リオスという女優を父親のこころに発見する。
ビクトル・エリセ監督は、映画の中に映画を挿入するのが好きなのか、ここにも『日陰の花』という映画が見られる。
そのヒロインがイレーネ・リオス、父の意中のひとである。
その事を知ってから彼女の父親へのイメージが変化してゆく。
彼の苦悩と秘密に僅かでも具体性が帯びることはまた、彼女の内面の成長が促されることでもあった。
そして父親の内面-秘密の場所である「南」が、エストレーリャを一際大きな謎で魅惑してゆく。

何と言っても、グランドホテルで学校の昼休みに父と2人で食事をとる場面がよい。
その時、彼女は思い切ってイレーネ・リオスのこと、カフェで書いていた手紙のことを尋ねる。
(ミツバチ、、、では、母親がしきりに書いていた。これも監督の拘りか)。
答えは返ってこない。
授業をサボれないかと聞く父に、取り合わず彼女は学校に戻ってゆく。
アグスティンとの最後の会話となった。
彼女が父に同調すれば、彼は何をか語ったであろうか?

そして、、、
父は自転車に乗って家出する。
何も語られることなく、物語-彼女のこころは「南」へと収斂してゆく。


彼女は体調を崩し、実際に祖母のいる南の地に転地療養に向かう事になる。
「南」はまさに父を知る旅である。
アグスティンの過去と苦悩を少しでも知ることが出来るかも知れない。
彼女は彼が自殺する前日にかけた長距離電話の伝票をこっそり鞄に入れてゆく。


最後の、エストレーリャの晴れやかな表情が印象的であった。




ミツバチのささやき

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”The Spirit of the Beehive”
1973年スペイン制作。
ビクトル・エリセ監督。
本当に「ミツバチのささやき」であった。

ダリも作品に描いていた「スペイン内乱」直後のまだ緊張の走っていた時期の物語である。
1940年あたりの情景である。
勿論、この作品を制作する頃も政権批判の出来る環境でないため、メタファーを多用してパスしているということだ。
ガラスの扉が丁度ミツバチの巣と同じ形であり、色も濃い蜜の色であった。
当事者にとっては非常に重い作品であろうが、わたしにはひたすら瑞々しい繊細極まりない叙情性を湛えた映画である。

面白いのは、主人公とその姉、両親もみな、実名である。
いや、名前だけであろうが。
少女アナは 、アナ・トレント
姉のイザベルは、イサベル・テリェリア
ついでに父フェルナンドは、フェルナンド・フェルナン・ゴメス
母テレサは、テレサ・ヒンペラ
別に特記することでもないが、わたしには面白かった。

まず映画「フランケンシュタイン」をアナが食い入るように真剣に観るところから、もうわたしも引き込まれ寄り添ってしまう。
わたしも真剣に観た。
ただし、先に「フランケンシュタインの逆襲」を観てしまったのだが。

その夜の姉妹の会話が興味深い。
ここが象徴的な意味ももつのか。
何故、フランケンは少女を殺してしまったのか?
何故、彼は人々に殺されたのか?

姉は、その問いに答えるのではなく、映画なんだから嘘よ、と突き放す。
しかし、それで話がお仕舞いではなら、単に白けた現実主義者にもう話もすることはないだろう。
しかし姉はモンスターは身体をもたない精霊なの、という方向に向けてゆく。
妹を内面化させる。
こころを開いて呼びかければ友達になることができ、いつでも会える存在なのだと信じこませる。
確かに姉はしょっちゅう妹を騙してからかっている。大概そういうものだが。

アナはフランケンを観た時から、彼のことを片時も忘れられなかったのだろう。
さらに姉の話が追い打ちをかけた。
姉に精霊が来ると教えられた廃墟に独りで足繁く通うようになる。
彼女の自我の芽生えと共に秘密の行動の開始だ。
自分自身の内面を見るかのような、廃墟の薄暗い部屋。
そこにいつしか、傷を負った逃亡者が潜んでいた。

想像と現実の境界の場所がまさにその廃墟である。
というか、廃墟とは元々そういうものであった。
彼女はその男を献身的に介護し、父親の上着まで着せてあげる。
それこそフランケンシュタインにしてあげたかったことかも知れない。

しかしそのフラジャイルな世界は突然掻き消えた。
不吉な血の痕跡を残し。
父も全てを気づいてしまっていた。
彼女の中で、再びモンスターは死んでしまう。
ショックを受けた少女は、ただ遠くへと走り去り、やがて森の中を彷徨う。

夢か現か、映画で見た例の湖畔に、同じ構図でフランケンと向き合う彼女。
向こうに行くことを決めて目を瞑る。
モンスターは彼女を殺すのか?
彼女は身を任せる。
あの場面の意味を身を持って知りたかったのだ。

翌日犬に発見されるが、もう両親は目に入らない。
夜、アナはベッドから起き上がり、精霊に語りかける。

「わたしは、アナよ。」



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暗殺の森

Il conformista

”Il conformista”
同調者。体制順応主義者。
1970年。イタリア・フランス・西ドイツ合作。
ベルナルド・ベルトルッチ監督。脚本。

「暗殺の森」
衝撃的なシーンそのまんまで分かり易い。

ドミニク・サンダの妖艶で謎に満ちた印象が一際記憶に残る。
政治亡命しているクワドリ教授の妻である。
また、主人公のファシスト、マルチェロの妻ジュリア( ステファニア・サンドレッリ)も映画の絵作りにはアンナと共に際立った役目を果たしていた。
マルチェロは、少年期にリーノという青年に性的な虐待を受けたためにピストルで殺してしまったことが外傷経験として彼の人格を支配し、その苦しみから逃避するようにファシズム体制下に入り指示通りに動いていた。

彼は、反ファシスト派の支柱でもあるクワドリ教授の周辺調査を命令通り行っていたが、それが暗殺へと修正された。
教授に近づくと、彼の妻アンナの蠱惑的な魅力に惹かれてしまう。

官能的で怪しく、同性愛的な彩も添えた頽廃美の芸術作品とも呼べる映画。
ベルナルド・ベルトルッチの才能を遺憾無く発揮したものだと想われる。
音楽もその映像の流れに対し、裂け目がなかった。
ただ、陶酔してのめり込んでいればよい映画といえようか。

全体的に大きくゆっくりとした流れを感じるが、少しリズムの異なる3つのシーンはどうしても記憶に残る。
一つは、アンナ(ドミニク・サンダ)とジュリア( ステファニア・サンドレッリ)の女性同士で踊るシーンである。
華麗で清らかで、退廃的背徳性も香るインパクト充分な美しいダンスであった。
それから2つめは、アンナが幼い子供たちにバレエをレッスンしている場面である。
ドミニク・サンダの美しさから、マルチェロは、教授と引き離して守ろうと考えるようになる。
彼女はマルチェロがファシストで夫を狙っていることは承知であるが、マルチェロにも心を動かされて揺れ動いている状況だ。

教授が別荘に行く時、マルチェロは、彼女に我々とパリに残ろうと提案する。
自分の誘いに彼女が乗ったため、ひとまず安心したのであるが。
翌日森の中の真っ白な雪道を教授の運転する車をひたすら追いかけてゆく。
3つ目は、充分近づいたとき、助手席に何とアンナのいる事を知る。
道を塞ぐ車の運転手の様子を窺いに外に出たとたん、5人ほどの男が木陰より現れ、教授をメッタ刺しにして殺してしまう。
アンナは叫び声をあげながら、尾行してきた彼らに助けを求める。
いくら断末魔の叫びで窓を叩いても、マルチェロは微動だにしない。
車に匿ってもらえぬことを悟ると、彼女は全速で叫びながら雪の大木の間を縫うように逃げ惑う。
しかし男達に次々狙撃されて追い詰められる彼女。
ついに顔から真っ赤な血を流し絶命する。
このシーンが一番の衝撃であった。


その後、ムッソリーニは倒れ、反ファシズムが巷を席巻する。
そんな夜の街をファシスト時代の旧友と歩いていると、階段に座ってしゃべっている男に出会う。
マルチェロは、その男を見て、かのリーノであることに驚愕し「お前は死んでなかったんだな!」、自分の半生を決定づけた例の日付を叫び、「お前はその時誰に何をした!」と詰め寄った。リーノは逃げ去るが、マルチェロは彼を指差し、「あいつは政治亡命してきたフランスのクワドリ教授とその妻アンナを殺した男だ」「ファシストだ!」と周りにいる人々に叫ぶ。
また、自分をファシストの組織に引き入れた盲目のかつての友人にも「こいつはファシストだ!」と大声で叫び彼は決別してゆく。
しかし、自分のアイデンティティを失い、ファシストであったことであまりに大切なものも失い、家を出るとき奥さんから外に出たら大変な目に遭うわよ、と言われた通りの事態になってしまった。
もう彼が立ち直れる保証はない。


少年期に受けた外傷経験で一生を狂わされるケースはかなり見られる。
そこから逃れるために代替の何かに没頭したりするが、本質的な解消にはならないため、更に苦痛から逃れようと深みにはまってゆく悪循環となる。
希にその元凶の核の部分が突然消え去ったとき、アイデンティティの礎が粉みじんとなる。
人格崩壊が考えられる。


大変煌びやかで美しい廃墟映画であった。
美しい街並みの中で、ヒトはみな影法師のように霞んで消えた。



ラストサムライ

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”The Last Samurai ”
2003年アメリカ制作。
エドワード・ズウィック監督。
日本が舞台であるハリウッド映画。

ハリウッド映画で、ここまでよく日本に迫った、という感想をもった。
神話的な日本の成り立ちに始まり、、、
武士道の精神をじっくりと咀嚼して丁寧に作り上げたことが伝わってくる。
日本に対し造詣の深いトムクルーズが絡んでいる事でも納得出来るところだが。
(薄っぺらい親日家ではない)。

内容は、武士道の精神をフィクションにより、深くリアルに表現しようとしただけでなく、アメリカ建国における自己批判がなされている。
また、日本といっても、明治維新で日本人の意識も二分される動乱期である。
西洋列強に並ぶ国力を持とうと無節操で急激な欧米化を果たそうという政府側と武士道の精神ひいては日本のこころ-伝統・文化を失うことを危惧する天皇を尊ぶ生き残りの武士たちである。
時代の流れから言って、勝敗は初めからついているのだが、彼ら最後の武士たちは、自らの「死に様」をもって「日本」の解体を阻止しようとしていた。

主人公ネイサン(トムクルーズ)は、自身到底認められない惨殺によって先住民族を追い払い、建国に多大な貢献をしたことで英雄としてもて囃され、武器産業の広告塔にも祭り上げられていた。
その過去が彼を日夜自責の念に苦しめ、酒浸りで半ば世捨て人同然にまで追い詰められていた。
オファー内容などどうでもよく自暴自棄か現実逃避ともいえるかたちで、職業軍人として招かれるまま日本に赴くことになる。

ネイサンは政府軍を率い、戦場で敵として戦う勝元(渡辺謙)と出逢う。
彼は勝元たちの村に囚われ、そこで長い冬を越す。
衣食を共にし、剣の道を学ぶことを通して、彼らはお互いに心を通わせてゆく。
規律と矜持。そして恥を知る文化に触れるうちに自分自身が蘇生してゆくのを感じる。
そこでは、饒舌な言葉はいらない。
全ては詩であり、書であり、間であり、行間であり、余白にある。
理解することは出来ないが、感じて受け容れることは出来る。
山村の風景が美しい。心も安らぐ。
ネイサンは、自分のあるべき場所を見出す。


”ダンス・ウィズ・ザ・ウルブス”を思い起こす。
どちらも主人公は奇跡的に生還する。
そして自らを異文化の中で見出すのだ。


時代はサムライとその精神ごと葬り去ろうとしていた。
刀での一体一のやり合いは、命がはっきり見えていたが、距離を持つ銃撃・砲撃戦では、命は忘れられ単なる数で処理される。
戦いは、心身の修練より効率的な殺傷能力の高い武器の選択如何となり、人間は必然的に二次的なものにならざる負えない。政治を悪用したら途轍もない金儲けのチャンスにもなる。

スパルタ王レオニダスのような奮戦で、砲弾や銃を乱射する政府軍を窮地に追い込んだが、最後は近代兵器の前に玉砕する。
しかし、切腹してはてる勝元の姿に敵の隊長が、涙を流し敬意を表す。すると他の兵士も皆、帽子を取り頭を深々と下げる。
(この時、周りが下げるのを見て真似して帽子は取らず頭を下げている者もかなり見られた。これも日本人独特の日和見主義の本質的な部分であろうか。そこまでしっかり演出されている。見事だ)。

最期に勝元は剣をネイサンを介して明治天皇に託す。
これほどに重いメッセージはない。
まさに、武士道-日本の象徴である。(三種の神器のひとつ)。
天皇は勝元のメッセージを確かに受け取り、自らの信念を力強く告げる。
天皇は、勝元の死に様を彼に聞こうとするが、ネイサンは彼の生き様を語ってゆく。



渡辺謙の存在感が半端ではない。
トムクルーズの内面的な動きを繊細に表す演技に日本的な印象をもった。
小雪は日本女性の理想的な美を極めて日常的な所作に表現しきっていた。
真田広之の茶道もみごとな手並みであった。彼の剣術は勿論、終始物語を引っ張っていた。
明治天皇(中村七之助)も最後に気骨を見せたところで安心できた。


勝元は最期に「うた」の結びができたのか?
全てパーフェクトだった、とネイサンに言い事切れたのだから、胸の内にできていたのだろう。




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ラストエンペラー

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”The Last Emperor”
1987年イタリア、イギリス、中華人民共和国制作。
ベルナルド・ベルトルッチ監督。
坂本龍一、デイヴィッド・バーン音楽。
VHSで以前観たが、DVDで観直した。


運命に翻弄される人間の孤独と空虚を描いた壮絶な作品。
ラストシーンが何とも鮮烈であった。
これほどドラマティックな人生は希なものかもしれないが、少なからず誰もが運命に翻弄される存在である。
全く白紙状態(タブララサ)から自由自在な人生を歩んでいるヒトはいまい。
誰でも前提がある。
それは、親が決まっている(遺伝と環境)ということと同義とも言えるか。
誰もが与えられた(投げ出された)場所から生き始める以外にない。
自明なことだが、改めてその孤独に慄然とする。

清朝最期の皇帝。満州国皇帝。(どちらも傀儡)。
自分とは隔絶した世界の話かといえば、、、。
愛新覚羅溥儀が亡くなったのが1967年なのだ。
キング・クリムゾンが「クリムゾンキングの宮殿」を発表する僅か2年前である。
ムーディー・ブルースの”On the Threshold of a Dream”が西洋音楽で文化大革命のさなか中国に100年ぶりに流されるのが同じ頃であったか。

ならば、わたしがコウロギを貰っていてもよかった。
あの時のジョン・ローン(溥儀)の全てが吹っ切れた晴れやかな笑顔が目に焼きついて離れない。
次の瞬間、少年の目線に戻ると彼は最初からいなかったかの如く、消えていた。
これほど鮮やかな演出を観た事がない。
この映画、演出に驚くところが多々あった。

絢爛豪華で退廃的、末期的で腐臭に満ちた宮廷がレンブラントの絵のように浮かび上がってゆく。
カメラワークがこの巨大な廃墟を絶望的に虚しく抉る。
どこをとっても荒涼とした終末の美しさと腐臭が漂う。
紫禁城を一歩も出ることのできない溥儀の孤独と焦燥の色調の中。
皇帝の色である黄色が鮮やかで虚しくもあった。

溥儀に西洋の教養を身につけさせるために、スッコトランド出身のレジナルド・ジョンストンが家庭教師に呼ばれる。
我らがピーター・オトゥールである。
その後2人は生涯にわたり親交を保つことになるが、最初の出逢いが特に意義深い。
「紳士たるもの、言葉でしっかり意志を伝えなければなりません。」
「では、わたしは紳士ではない。自分の意志ではなく全て指示されて生きている。」
「それは、あなたがまだお若いからです。」
壁一面を飾る書に目を奪われているレジナルド先生に応えて。
「お互い問わず語りに相手の心が分かる。孔子と荘子の会話だ。」
「尊敬に関するお話ですね。」

余白や文脈から意味を汲み取る文化と、言葉ー意味そのもので主張してゆく西洋文化との対比も鮮やかに浮かび上がる。
2人の間がどう変質し縮まったのかを察することは難しいが、お互いに敬愛の念を深めた事は確かだろう。

坂本龍一は「戦場のメリークリスマス」でも似たような軍人を演じていたと思うのだが、このような格好と芸風がよく似合う人だ。
音楽はまさにこの重厚で物悲しい映画音楽であった。
デイヴィッド・バーンのタイトル曲も如何にも彼ならやりそうな音であり、ニンマリである。
音は妙な中国音楽のようなものが入らず、とても良いセンスで構成されていた。


それにしても、自分がかつて住んでいたところに、チケットを買って入る気持ちとはどんなものであろう?
エンディングでこれほどハッとさせられた映画は、やはりいまのところ、ない。




宇宙に眠る

Pluto moons

次女と子供センターに遊びに行き、運動系の部屋はもう入り込めない状況であったため、図書室で本を読むことにした。
長女が体調がすぐれず、予定がことごとく見送りとなり、次女がお散歩くらいしたいというので、一緒に出かけることになったのだ。
彼女は、子供図鑑の宇宙の巻をテーブルに持ってきて、眺め始めた。
そこですぐに気づいたのが、「冥王星」のページである。
まだ、ニューホライズンズからのデータはないので、例のぼんやりした縞模様の冥王星の写真だけなのだ。
最近初めて冥王星をネットで見た小学生は、その精緻な画像が源イメージとなるのだろう。
細かいデータについても、今回の探索でかなり修正された。
つい先ごろ冥王星の青空までもが、Web上に載っていたものだ。

これから、冥王星や火星に限らず、宇宙に関してはどんどん新しい事実がデータで示されてゆくのだろう。
そうそう、メッセンジャー探査機の水星の磁場観測も忘れてはならない。果たして水星に内部活動(ダイナモ理論による)が残っているのか?減速スイングバイを7回もして漸く軌道に乗ったのだ。しかし新事実は結果的に更に新たな謎を呼んでいる。
もう次の観測機が2機(一つは日本製)一緒に打ち上げられる予定(2016年)だ。
水星には数千億トンの氷も貯蔵されているという。太陽間近を巡っているのに-200℃の永久影とはどんな世界であろうか、、、

今後は太陽系の外からデータが送られてくるだろう。
何と言っても、ハッブル宇宙望遠鏡の観測成果が大きい。
惑星状星雲の正体も確認でき、大変美しい宇宙を見ることもできた。
新しい理論や仮説がその度に生まれるのも面白い。
世界がその都度、書き換えられ、膨れ上がってゆく。または、異なるものとして考えられてきた体系が新たな数式で、統合されシンプルになってもゆくはず。
そんなことを、つくづく実感した。

最近、新しい発見、発明のニュースが目に付く。
また、小学生の女子が発明特許をとったという。
世の中悪い流ればかりではないと感じるところである。
(ただ、危ないのは、ネット上のデータは全て改ざん可能である。
何らかの情報操作には細心の注意が必要だ)。


勿論、宇宙ばかりではない。

鬱病やメタボ症候群に深く関わる、「睡眠障害」に関しても光明が射してきた。
これまでは、脳全体の興奮を抑えることで眠りを誘う薬で対処してきたものである。
しかし視床下部から分泌されるオレキシン(神経伝達物質)の発見が、睡眠のメカニズムを解く糸口となる。
オレキシンの増加によって覚醒中枢が活性し、減少に従い睡眠中枢により眠りが誘導される事実が判明した。
まさに睡眠と覚醒を調整する物質(日本人の発見)である。
つまりオレキシンレセプターを塞ぐことで、覚醒信号が神経に伝わらないようにすればよい。
睡眠メカニズムに直接作用し眠りを誘発する手法が可能となった。
そこで開発されたスポレキサントという物質がその役目を果たす。
すでに創薬されているそうである。
いまやテクノロジーの発達によって、因果関係を強力に突き止められる手法が生まれている事が大きい。
光遺伝学によって即時に神経伝達物質の身体的作用が調べられる(日本人の開発)など、検査機器の発達は研究を加速させている。
ナルコレプシーについては、逆に覚醒状態を維持するため、覚醒物質と同等の物質を作りオレキシンレセプターに受容させる新薬のプロトタイプができているという。


動物にとって健康な状態で何時間も意識を失うリスキーな生理機能のメリットが小さいものであるはずがない。
もしさして意味のないものであれば、進化論的に言っても消滅している機能であろう。
しかしそれが何であるかは、全く分かっていない。眠りも宇宙に相当する謎に満ちている。
睡眠とは何かを解明するために、睡眠を作動させる遺伝子の探索が始められた。


時計遺伝子の調査から体内時計の周期が計れるシステムはすでに作られている(日本人によって)。
各個人の固有睡眠時間も割り出されれば、やがてオーダーメード医療にも繋がってゆく。
娘達が大人になった頃に、それら医学の研究成果が享受できるようになっているとありがたい。
ついでに、地球に似た星の探査が進めば、地球に対する意識も深まる気がする。


次女と輪投げを楽しんで、帰った。


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レオン

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”Léon”、アメリカでは”The Professional”らしい。
プロフェッショナル?
「レオン」が1番良い。まさにレオンだ。
アメリカ・フランス1994年制作映画。

リュック・ベッソン監督の傑作。「ニキータ」よりこちらの方がずっと良い。(「アサシン」は良かった)。
ナタリー・ポートマンの12歳デビュー作。
栴檀は双葉より芳し、のお見本である。
ただ、その後のポートマンは、ちょっと器用貧乏な感じがする。
何でもかんでも一通り熟すのもよいが、もっと自分ならではのスタイル-売りをもったらどうだろう。
ジャン・レノ、ゲイリー・オールドマンの強烈な個性は圧倒的であった。

この作品でジャン・レノのファンになったものの、この役のイメージが強すぎて、わたしの中でレオン=ジャンとなってしまっている。
ゲイリー・オールドマンは「シド・アンド・ナンシー」のデビュー作で、性格俳優の地位を不動にしてしまった為、常に狂気を孕んだ突出した人物を演じているが、ここでも変わらず見事なものだ。
同じくリック監督作品の「フィフス・エレメント」ではGAULTIERセンスの凄い衣装で怪演をこなし、「赤ずきん」でもこれよりは地味だが、神父役で一際目立っていた。唯一無二のスタイルを確立している。


話は、深い傷を負った孤独な魂の出逢いと、そこに愛が芽生え育まれてゆく救済の物語である。
レオンは、「フランケンシュタイン」の人間版と言えそうな純粋、朴訥な男である。加えて潔い。
マチルダ(ナタリー・ポートマン)は、聡明で強かで愛情に飢えている。
ふたりが共に過ごすことで、人として救われてゆくのがよく分かる。
この流れは秀逸である。脚本に破れ目がない。

演出においても、名シーンとして印象深いところがたくさんあった。
マチルダがレオンに扉を開けて欲しいと懇願するところ。
開いた瞬間の天国かと思う光に包まれ彼女の安堵するシーン。
これからの彼女の行く末を象徴するような光景である。
レオンの人となりを滲ませる観葉植物を愛おしむ姿。
ミルク好き。
銃を教える代わりに文字を習う。(彼はイタリアから流れてきた)。
換気口を破って彼女を逃がすときの本当のこころを告げ合う、ふたりの最期のシーン。
「地に根を張って幸せに生きよう。」
彼がノーマン(ゲイリー・オールドマン)に背後から撃たれた事を示唆するレオンの視界表現。
「マチルダからの贈り物だ。」という彼の粋な最期。

観葉植物だけはどうにか守りきり、彼女は学校に戻ってゆく。
マチルダがレオンに語りかけながら形見の植物を校庭に植える。
「もう安心よ。」



果たして、ナタリー・ポートマンは処女作を超えたのか?
「ブラックスワン」は確かに素晴らしかったが、、、。


記憶に焼き付く名画である。

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告発のとき

In The Valley of Elah

”In The Valley of Elah”
2007年アメリカ映画。
監督は「クラッシュ」のポール・ハギス。

「告発のとき」とは、観始めた頃は息子を殺した黒幕ー権力・欲望に向けて父が捨て身の告発をするドラマかと思っていた。
邦題からは、そのような連想をもち易い。
しかし、この映画には特定の何者かの陰謀を暴き追求するための告発などは、ない。
息子は、重大な秘密を握ったために殺害されたとかいうものではなく、普段仲の良い同僚の兵士にちょっとしたはずみで刺殺されたのだ。
その若い青年は述懐する「もし違う晩だったら、僕が彼に刺されていたことでしょう。」
まるで、アルベール・カミユの小説みたいなリアリティが明かされる。
この邦題は、ポール・ハギスがこの作品をもって「アメリカ」をまさに今「告発するとき」として制作したものだ、ということを「日本人」に知らしめようと考えられたものであろう。イラク戦争に対して、2007年というのは早い。開戦あたりからもう撮り始めていたのだろうか?
数ある戦争・テロ関連の映画の中でも、極めて内省の深い自己対象化の徹底された作品であろう。
旧約聖書サムエル記にある「エラの谷」では、大方の日本人にはピンとこない。今のイラクの場所である。
エラの谷における戦いで、ゴリアテに立ち向かえる勇者は誰もいなかったなかで、羊飼いの少年ダビデが名乗りをあげる。
少年は、飛び道具で狙いを定め、石の礫で見事ゴリアテを打ち倒す。
その地における新たな戦いである。
しかし、ゴリアテもダビデもない。

ここにあるのは、この戦争の正当性とか、思惑とか、勝敗ではなく、最前線に放り込まれた若者の精神がズタズタに裂かれ極限的に追い込まれてゆく姿である。
彼らとしては、現状にどうやって耐えてゆくか、どう紛らわせてやり過ごすか、それだけが関心事となってゆく。
主人公のベトナム戦争にも従軍した軍警察退役軍人のハンク(トミー・リー・ジョーンズ)は、アメリカの正義を信じ、星条旗に敬意を払う男である。彼の息子マイクも陸軍に志願しイラクに赴く頃は、父同様アメリカの正義を疑わず、誇りをもって乗り込んで行ったはずだ。
しかし、戦争の現実は想像を絶するものであった。
マイクを始め彼らアメリカ兵は、自ら麻薬に溺れサディスティックな捕虜虐待を繰り返し、誰の命令でもないのに少年をひき殺す。
そこは善悪の彼岸の地であった。
自分自身の恐ろしさに慄然とし父への電話で、嗚咽しながら救いを求める叫びをあげる。
マイクを殺害した青年は彼の父に敬意を払いながら、あっけらかんと嘘を何度もつく。
彼を殺して遺体の処置を前にして、腹が減ったからと仲間3人と食事に出向く。
決して日頃から反目し合っていた仲ではない。
よくある言い争いが始まったに過ぎなかった。


この場所ー磁場とは何なのか?
ハンクは2人の息子を2人とも戦争で亡くした。
その虚しさ冷え切った怒りを何処に向けられようか?

国旗の上げ方に厳格なハンクが、星条旗を逆さまに上げて鉄柱に固定する。
「ずっとこのままでいい。」


シャーリーズ・セロンの迫真の演技も十分に感情移入してしまうものであったが、他の全てのキャストの存在感も際立っていた。
「メン・イン・ブラック」では到底見られないトミー・リー・ジョーンズの重厚で黄昏た演技には圧倒された。

これまでに観た戦争映画(帰還兵を巡るもの含)やテロ関係の映画より、遥かに闇を可視化している。
陰謀を巡らす権力上層部とか権謀術数を装置として置き、ヒーロードラマを創作・演出した娯楽映画ではない、「告発」作であった。








ザ・バンク 堕ちた巨像

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”The International”
2009年。アメリカ、ドイツ、イギリス制作映画。
トム・ティクヴァ監督。
堕ちた巨像?まあ、分からないことはないのだが、、、安っぽさが加味される。白い巨塔みたいだ。(このドラマは面白かったが)。

クライヴ・オーウェン(ルイ・サリンジャー)、ナオミ・ワッツ(エレノア・ホイットマン)主演。
かなりの力作であった。
脚本・撮影・キャストどれをとっても言うことない。
邦題で損をしている作品であろう。

ヒズボラ、CIA、中国、イラン、イスラエル、ロシアマフィアも全て武器売買で繋がっている。
持ちつ持たれつの間柄である。
国際メガバンクは戦争で荒廃し借金を背負った国を支配下に治め、肥大化してゆく。
法がそれ(経済)を基盤に立っている以上、それに立ち向かうには、不可避的に「法」の外に立つ事になる。
昨日観た映画が思い浮かぶ。

しかし組織として巨悪な力で猛威を奮っているにしても、個人レベルにおいては、銀行の相談役に雇われているウェクスラーや殺し屋のコンサルタントが、死を目前に控えたとき主人公に加担するこころ・矜持をみせる部分はまだ救いかも知れない。
政府組織はダメだが、個人的に貴重な資料や分析結果を教えてくれる内部のヒトもいる。
現実もそういうものだと思う。
とは言え、関係者・協力者が次々に消されてゆく。
中央突破して個のレベルではなく、大衆を大きく巻き込む指導者となっても、改革を阻止しようとする組織に暗殺される。
(囮スナイパーを用意し、その男を犯人として射殺する等巧妙である)。
確かに盗聴、監視、尾行、誘拐、コピー、改ざん、漏洩等やスパイや潜入捜査、暗殺等、実際に時折明るみに出てくるものだ。
この映画でも、決定的な情報を如何に掴むか、または隠し通すかの情報戦の中に殺人も繰り込まれている。

巨大な権力が背景にあるため全ては巧妙で万全である。
巷によくある陰謀説の多くは眉唾ものであるが、こういう世界はやはりあるのだろう。
戦時下にあるところでは、露骨なはずだ。
いや、そうとも言えない。
最近の日本の内閣をみていると、法をも無視して悪法を成立させている。現実はもっとタチが悪い。
結局、歯車の1つを葬ったところで、代りはいくらでも控えている。
構造が変わらなければ、何も変わらない。


映像(カメラワークのお陰か?)の見事な映画でもあった。
ベルリン、ミラノ、イスタンブール、ニューヨーク各都市の雰囲気がよく映し出されていた。
特に、美術館には驚いた。相当なお金が掛かっていることが容易に想像できるものだ。
美術作品と銃撃戦、この創造と破壊のコントラストは鮮烈であり象徴的でもある。

エンディング(エンドロールに至っても)は、何とも後味の悪い暗澹たる締めくくりであった、、、。


クライヴ・オーウェンはナタリー・ポートマンの出る「クローサー」でしか見た事無かったが、荒削りな魅力が印象に残った。
ナオミ・ワッツも、「ステイ」「イースタン・プロミス」くらいで、代表作はことごとく観ていない。安心して観る事の出来る実力派であることは分かる。ストイックな演技がキマっていた。
アーミン・ミューラー=スタールの棘のある温厚で知的な存在感はここでも素晴らしかった。わたしは「天使と悪魔」、「イースタン・プロミス」、「ミッション・トゥ・マーズ」での脇役でしか見ていないが、(代表作は『マイセン幻影』、『シャイン』、『KAFKA/迷宮の悪夢』あたりか?)もっと観たい役者のひとりである。


これは紛れもない、隠れた名作と言える。



ブレイブ・ワン

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”The Brave One”
「勇気あるもの」?そうなのか、、、
2007年。アメリカ、オーストラリア制作。

ジュディー・フォスター(エリカ)とテレンス・ハワード(ショーン刑事)の主演作品。
やはりジュディーは、「コンタクト」「羊たちの沈黙」のような映画のほうが似合うが、ここでも迫真の演技を魅せている。
テレンスは「クラッシュ」などよりもこちらの役の方がずっといい。

ラジオ番組のパーソナリティを務めるエリカが、一線を越える話である。
一線を越えるという事は、もう元には戻れないことを、意味する。
人を殺すと、どうなるか?
こころに風穴が空く。
無かった事には、出来ない。
そして毒食らわば皿まで。
行くところまで行きましょう、、、。

ニューヨーク(合衆国そのものか?)は人種の坩堝というがこの映画、全ての人種を揃えたかの印象がある。
そこでは当然、成功を夢見て集まってくる種々雑多な人間の欲望と劣情の渦巻く闇も禍々しく生成されていよう。

エリカの婚約者はインド系であった。
彼がリードを放してしまった犬を捕まえ待ち構えていたのは、酒に酔ったヒスパニックたちだ。
有色系インテリ風貌の男が、美しい白人女性と犬連れで仲良く散歩している。
酒の入ったギャングが最も逆上する光景であっただろう。

彼を失い、自らも重傷を負い、彼女は日常と表裏一体となった闇の時空を思い知る事になる。
月にも裏側の相貌がある。これまでは想像もしなかった領域に彼女自身滑り込んだ。
護身用のピストルを東洋系の密売者から闇ルートで手に入れるとたちまち。
偶然居合わせたコンビニで店主が強盗に射殺された。
その男のピストルに怯え彼女はヒスパニックの男を撃ち殺す。
”The Brave One”に彼女は生まれ変わったというのか?
ただ、この時から彼女の中の何かがひとつ外れた。

地下鉄で2人組の黒人に絡まれナイフで脅されたとき、ピストルで威嚇するまもなく射殺。

この間、彼女は黒人のショーン刑事と運命的に出会う。
彼は、彼女が暴漢の犠牲者であることを知っており、彼女のラジオのファンでもある。
急速に2人はお互いに惹かれ接近する。
ショーン刑事は正義感が強く真面目であり、法の力を信じている。
エリカは深い心の痛みに耐えて気丈に生きている。

エリカは自ら恐れて過敏になっていた夜の世界をすすんで出歩くようになる。
車に拉致され衰弱したスパニッシュの薬漬け少女を見つけ、男から救い出すが車でひき殺そうとしたため、銃殺する。
娘は車にひかれたがエリカのお陰で命は助かる。

ショーン刑事がオフレコで話していた法の網をくぐり抜けて暗躍する男を、彼女はビルから突き落とす。
エリカはニューヨークでも話題の連続殺人犯となってゆく。
殺人犯にボーナスを出したいと言う警官もいる。市民からもいいことをやってくれたという声もあがる。

犯人探しに協力しショーン刑事と、彼女が助けたヒスパニックの少女の病室を訪れる。
彼は、少女に事件現場で誰を見た、と問いかけたが彼女はnobdyを見たと答える。誰も見てないと。
少女を助けたとき、エリカはわたしはnobdyよ、と伝えていた。
少女は決してエリカを警察に売る気はなかったに違いない。
その気があれば、指差してこの人がいたと言うだけの事である。
しかし、nobdyと名乗られたのも事実である。
少女としては、両者に義を立てたかたちであろう。

「外観は同じでも、中身は違うわたし」
もうかつてのエリカは存在しない。
諦観に満ちていて、映像の全編に虚しさと悲哀が漂う。

結局、彼女は自分の手で恋人を殺した犯人たちを始末する。
最後の一人に取り押さえられたが、機転を利かしてやって来たショーン刑事に救われる。
そして、彼は彼女に自分の銃を使わせる。
これは「合法的な銃」だ、と。
自分はわざと肩を撃たれて。

彼女は、闇の中に姿を消す。
決して救われたわけではない。


ジュディー・フォスターはこのような厳しい状況に耐えるストイックで凛とした演技が素晴らしい。
(ナタリー・ポートマンも頑張ってはいるが、そろそろ的を絞ったほうが良いと思う。)
テレンス・ハワードは知的だが葛藤に苦しむ繊細な演技を見事にこなしていた。




アメリ

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音楽と映像が飛び抜けてよく、不思議なファンタジー映画を味わった。
アメリはひとことで言えば、不思議ちゃん。
フランス映画には、あまり見られないタイプの娘。
(大概、強烈な自己主張と自己顕示欲でギラギラしてたりするが)。

彼女はコミュニケーションが上手く取り結べない。
これは、程度の差で、皆似たようなものだと言えるが。
わたしも大の苦手である。

かと言って、アメリのように変わった面白いことは、出来ない。
まず、あのようなことは、思いつかない。
それ以前に、イタズラする茶目っ気が足りない。
それに何をか起こす前に、疲れる(笑。
確かにコミュニケーション不全を強く「感じている人」ほど、凝った洗練された自己表現にたどり着く。
なかには信じがたいほどの彫琢を経た作品に仕上げて、普遍性まで獲得してしまう場合もある。
偉大な芸術家はそういう例が少なくない。(表現者にならざる負えない方々である)。


自分の部屋で、ふとしたことから古い宝箱を見つけるアメリ。
何となく面白そうだし、それを当人に返そうと決める。
住所を探して、自分と悟られないようなかたちで、彼に宝をそっと見つけさせる。
40年ぶりに少年の記憶を取り戻した彼の、その感動と喜びよう!
その匿名の行為はアメリにとって、この世界がシンプルで明るく澄み切っていることを開示した。
何と言うか、ワクワクすることに乗っかる爽やかさがある。
アメリ発案のこの世の人との繋がり方であろう。

それから、自分の働くカフェでこっそり恋の橋渡しをしたり。
八百屋で虐げられている店員(ジャメル・ドゥブーズ「アンジェラ」の主役)を助けるため、意地悪店長を懲らしめる。
長い年月を部屋に引き篭って過ごす孤独な老画家の好奇心と探究心を蘇らせ、制作意欲と他者への関心を取り戻させる。
老いて意欲の失せた父親の大事にする人形を世界中旅をさせた写真を送りつけ、自分の外の世界への関心を再燃させもする。
自分の手の込んだイタズラ(趣味の領域か)で周りの人が元気になる姿に、彼女は世界との繋がりを感じ充足感を得ていた。

しかし、自分が今度は、当事者となってしまう。
とても変わった趣味を持つ青年に恋をしてしまったのだ。
自分が直接他者と関わる事は原則出来ないため、自分を隠してイタズラをしてきたのだが、今度ばかりはそうはいかない。
回りくどい手の込んだ伝え方をするが、その為事態をかえってややこしくしてしまう。
だがその正体のはっきりしない不思議さが、相手の男性の興味を煽ってゆく。
こころの距離はどんどん縮まる事となった。


この映画全般で重要な役目を果たしているのが、手紙と写真である。
40年越しに届けられた今は亡き夫から妻に送られたラブレターが塞ぐ妻を蘇生させた。
アメリと彼との間も、ずっと手紙(メモ)と写真(パリ駅のスピード写真)である。
父親には、各国の名所をバックにした人形の絵葉書であった。


観終わってみると、極めてお洒落なフランス映画に他ならない事が分かった。

ピアノとアコーディオンの曲が終始良かった。
エンドロールも最高である。



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アンジェラ  Angel-A

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リックベンソン監督。2005年。
モノクロ映画。

主演はリー・ラスムッセン(天使)とジャメル・ドゥブーズ(ヘタレ)。
彼女は、デンマークのスーパーモデル~女優~映画監督と歩んでいる。
彼は、フランスの小柄なコメディアンで片腕が不自由である。

映像が美しい。
パリの街と天使がとりわけ。
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マフィアから金を借りて、借金まみれで命を狙われている男。
如何にも騙されやすく利用されては、粗末に扱われるタイプ。
金策の見込みはなく、身を守る術もない。
嘘で誤魔化し自分を欺いて生きるのも、もう限界。
橋から身を投げるしかない。

そしたら、すぐ隣の欄干から自分と同じように飛び込もうとしている金髪の長身美女がいるではないか、、、。
ここから、ほとんど日本昔話と同等のお伽話の始まり始まり。

その男が川に飛び込もうとする間もなく、その女性が先に飛び込んでしまったではないか、、、
彼は死ぬことも忘れて救助で飛び込み、彼女を抱えて岸にあがる。
男を見下ろす背丈の美女は、あなたの言うことは何でもきく、と言う。

あなたは、内面はとても綺麗で優しい。
嘘で塗り固めず、自分に対峙し素直になりなさい、と何度も熱く語る。
(その熱さは松岡修造レベルである)。
しかしもうとっくに、自分を見捨てている男には、なかなか通じない。
しかも窮地にあり、自分を内省する余裕などあったもんじゃない。

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そこで彼女は、彼の抱えている借金を超人的なやり方で、帳消しにしてしまう。
圧倒されている彼に対し、自分の感じたことを安心して口に出していいのだ、と説く。
だが、彼の小心さと意固地は容易く変えられるものではない。
ここに至って彼女は、禁じられている自分の素性を打ち明けることにする。

わたしは、天使であり、役目を果たすために天上から遣わされてきた、と。
勿論、話だけでは納得できない彼の目の前で、超自然的な有り得ないことをやってみせる。(反エントロピー現象等)。
男はたまげるが、これまでの経緯からも彼女の言うことを信じるしかないと、悟る。

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鏡を前にして自分(と彼女)の顔をしっかり見ながら、映っている顔をどう思うかと彼女は迫る。
私を愛しているか?
彼は、応える。愛していると。初めてあった瞬間から、と素直に。
自分を同じように愛せるか?
自分の外見を嫌う彼に、これまであなたのために一生懸命働いてくれた身体を愛してあげてと優しく語りかける。
戸惑いつつも彼は、自らに向けて愛おしさを認めることが出来る。

高級ホテルから見渡すパリの夜景の美しさを堪能する男。
これまで、そんな風景を見たことが無かったことを深く実感する。
自分をはっきり見出した瞬間であった。
彼は彼女の存在を得て自分の真実を語る勇気を見出す。

彼女の超人的な力も借り、男はマフィアの親分に言いたいことを全て吐露し、相手を屈服させることに成功する。
これで、おれは自由だ!その喜びを噛み締める。
初めて自分の思うことを成し遂げた、と男は意気揚々と帰ろうとすると彼女がいない。
わたしは、やはりここで消えるかと納得しかけたのだが、彼は大股で歩き去る彼女に橋で追いついてしまう。
(彼女は役目を果たし、羽を広げて飛んでゆくのではなかったのか?何で歩いてるんだ?)

すでに天使の方が、人格を持ち始めてしまっていた。
彼は泣きながら天に帰らなければならないという彼女を一緒に生きようと、熱く引き止める。
おれの目を見ろ、自分に素直になれと、今度は立場が逆転する。
取り乱していた天使であったが、目つきが急に変わり羽を大きく広げて天に向け飛び立つ。
(少し天使が人間化し過ぎて興ざめになったところで、何とか無事に天に帰るか、と安堵したのだが、、、)

男は何と天使の脚にしがみつき、バンジージャンプでも高すぎるところまで舞ったかと思ったら天使ともども川に落下してしまう。
丁度、出会いの時みたいに。
男がまた一人となってエンドロールか、と期待したら、間をもたせて天使も水から上がってきたではないか、、、。
これからどうするのか、と思いきや天使の背中にはもう羽がない。
それに気づいた彼女は晴れやかに笑う。
彼女も不自由な「天使」から解かれ、自由の身になったのだ。

非常にシンプルなラブコメディーだったのだということを知った。



考えてみれば、リックベンソンの映画に出てくるヒロインは皆、フラジャイルな超人ばかりである。


思い出のマーニー

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やはり、記憶は物(場)に宿る。
場所=重力=記憶
アンナにマーニーを出現させたのは、あの洋館である。
無意識下に封じ込めていた記憶が、屋敷を見たときに蘇ったのだ。

祖母の想いがあの場所ーアンナの心の底から突き上げてきた。
沼地にあり、そこを訪れる為には水位の変化を待つというところも、身体的な現象に重なる。(月の影響も)。
あの廃炉も屋敷も薄暗く、水に取り囲まれている、時間の厚く畳みこまれた廃墟だ。

コミュニケーションの不全は、他者のみならず自らの身体に対しても、同様に起き得る。
病、ここでは喘息、は安らかに生きようとする欲動が身体を通し意識に、何らかの齟齬を告げ知らせるものだ。
大切なサインまたはメッセージとして。
その時、感覚を研ぎ澄まして、自分の内奥の声に従うこと。
自分でも訳が分からなくても、それを信じること。
杏奈も無条件でマーニーを愛した。
「あなたが何であっても。」


これは、一見現実逃避に受けとられがちなことだが、何も非現実なことではない。
より明晰で深い現実の中にいるのだから。
そう誰もが見る、夢の中でのように。

夢(想)の中で癒される。
そんな経験はないか?
イマジネーションこそ地球に残された最高の財産である。(JGバラード)
それは最も身体に良い薬でもあるはず。


祖母の思念にタイミングよく(機を得て)繋がる事が出来て良かった。
自分の基調ー性格にとことん嫌気がさしたとき、鍵穴に鍵がピタリとハマるように。
自分を苦しめる辛い記憶を、愛で満ち溢れた想いに変える事は、ひとり(意識)だけでは出来ない。
異なるパラダイムを得ることによって、事象の意味が変わるように。
自分にとって最も大切な他者。
他の視座を呼び込むことにより、記憶を書き換えるのではなく、記憶の意味ー価値を変質させたのだ。
これをもって、「生きる力」というのであろう。


こんなシチュエーションが大事なのだ。
昨日観た映画が、予兆に気を付けろ、であったがやはり気配に敏感でいることは、重要であるに違いない。



これまでのジブリ映画にはない物語であった。
ジブリ作品のなかで、1番良かった。


米林宏昌 監督
2014年作品


最近、つくづく思うことだが、日本はアニメーション映画は優れた傑作がたくさんあるが、実写映画はどうもピンと来ないものが多い。まだ、わたしが観ていないだけのことかも知れないが。



デッドコースター Final Destination 2

Final Dead
2003年アメリカ映画。
TVで放映された。
「ファイナル・デスティネーション」シリーズ第2弾。
第1弾は、見る前に消されていた(苦笑。
話は、前回を受けて展開されるものだが、特にそれを観ていなくても内容の理解に問題ない。
バイオハザードⅢ、Ⅳにも出ていたAli Larter主演。

ホラー映画という扱いのようで、死に様がまさにそれではあるが、ホラーに過敏なわたしがホラーと感じなかった。
何らかの作為(筋書き)が感じられる殺人ゲームであり、その主体はどうやら死神とされている。
その死神は、何らかのクリーチャーの姿で実体化しない。(シュワルツネッガーのエンドオブデイズのようにド派手な姿で大暴れなどしない)。
である為、実際死神の仕業なのかどうかは、宙吊りのまま進んでゆく。
この魔の手を擬人化しないところが、この映画の最大の特徴であり、ありきたりの既視感(陳腐さ)から作品を救っている。

実態の分からぬ意思に対する対抗手段はここでは主人公の幻視(予兆認識)であるが、その映像の解釈をめぐる余地も有り、話に複雑さと厚みの増す要素となっている。
いずれにせよ、目に見えぬ経路にハマりながらゴールの死をその手前で如何に回避するかのゲームだ。
攻防戦は斬新なからくり(仕掛け)に幻視と直感で立ち向かうアイデア次第となろう。
特に、日常的な生活環境の中にある様々な物を連動させて凶器化するシーンは、このシリーズにとって要となる。
巧妙かつ絶妙な間ー恐怖の過程を魅せる。
いやでも、NHKのピタゴラスウィッチが容易に思い浮かんでしまう。
まさに、あのアイデアに他ならない。(ドリフのコントの味もあるか)。
今後、シリーズ充実の為に、ピタゴラスウィッチ研究会を制作アドバイザーに招いても良いかも知れない。


更に展開で面白かったのは、新たな命が生まれれば、死のシナリオが書き換えられるということで、必死に妊婦を守り無事出産させ大喜びするが、その妊婦は実は最初から今回の死のリストに無かったことが分かり事態がそのまま突き進んでゆく、一筋縄でいかないところだ。
全てが解決し、安堵してバーベキューを楽しんでいる時に、その家族の少年が以前今回の惨事の犠牲となった男性に命を救われた件が話題に出た。ここで九死に一生を得た主人公の顔が一瞬曇る。
案の定、少年が火に近づいた瞬間ガス爆発が起き、少年の体は焼けて派手に飛び散る。(爆弾でもないのにここまではいかないだろうとは思うが)。母のテーブルの上に息子の焦げた腕が飛んできて、エンドロールへ。
死ぬ運命の者は、一時助けられて生き延びても、何かのキッカケ(予兆)で遠からず死ぬ事になるという話。
こどもはホラー映画でも、あまり惨殺しないものだが(チャイルドプレイでさえも)、この作品では派手に犠牲となる。

この辺のびっくりする展開はいくつもあり、このアイデアの鮮度が保たれる限り、シリーズは好評が続くと思う。


どうもしっくりこないところは、ゲーム参加者に新たな生命が誕生すれば、彼らの死の運命が書き換えられるというもの。
死があらかじめ決められているのなら、誕生についても同様ではないのか?
誕生は突発的な出来事なのか、、、。死は運命で、誕生は偶然?
それぞれの管轄が違い、調整が必要なのか?

また、そのゲーム(死ぬ運命)に巻き込まれた個々の意識描写は適度になされているが、今ひとつ平板な感じがする。
死神などを持ち込み死に直面し慄く割に、宗教性が絡んでこないからだろうか。(ザ・ミストみたいに)。



この先、主人公も予兆に気をつけながら生き延びなければなるまい。
普通なら精神の病気になる。
ずっと療養施設にでも入院していればリスクは低く抑えられると思うが。(前回のゲームから生還した女性のように)。
そういう生活を送るような彼女ではない。
次は、どのような展開か?


フィッシュストーリー

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2009年日本映画。

よく海外の翻訳本を読んでいて、訳が悪いなと感じることが結構ある。
時折、日本語になっていない文も見られる。
なかには学生アルバイトの仕事だったりすることもあるが、そうでないこともある。
実際、英語が普通にできる、とかではなく、芸術や科学、哲学等その分野の研究者が訳さなければ、意味を成さない。
詩になると、その作家の研究と同時に自らをかけた創造行為ともなる。
恐らくこんなに難しい作業はなかろう。

この物語、戦後の混乱期に、ズブの素人が訳した詩的散文を出版したはよいが、その直訳のお粗末さから全て回収の憂き目を見た「フィッシュストーリー」という本からはなしが生成され繋がってゆく。
この訳本、ここまでくればシュールレアリズムの本として、逆に面白いものであろう。
そこに何かを見出すポテンシャルを孕んだものだ。

その流れは、速く広く拡散するようなブロードバンドではなく、思いもかけないローカルなハブからハブに密かに伝わるナロウバンドの極地の繋がりである。

独立した幾つかのお話(御伽噺)が、放電しながら飛び飛びに繋がってゆき、最後に地球が破滅から救われるという何だか晴れやかな話なのである。

セックスピストルズデビュー一年前に、全く売れずに終わる元祖パンクバンド「逆鱗」が、上記の本から着想を得て作った最期のチューン”フィッシュストーリー”が、カルト的価値を帯び、一部で聴き継がれてゆく。
それは曲の良さから、と言うより間奏部分に1分間無音があることから、そこに女の悲鳴が聞こえるという都市伝説がマニアの間に広まったからであった。

しかしその無音部分で偶然女性の悲鳴を聞いた気の弱い大学生がいた。
女性が深夜襲われているところを彼は勇気を振り絞り、何とかそこを逃れる手助けをする。
その後、2人は結婚し、子供が授かった。
父はその子を「正義の味方」にするべく日夜特訓を重ね、来るべき時のため心身ともに万全の備えをさせる。
彼はパシリに使われていた頃、占いをする綺麗な女子大生から、あなたは一度でも何かに立ち向かったことがあるの?と聞かれ彼女の危機に際して怖気づき逃げてしまったことがずっと外傷経験として残っていたのか。彼女がわたしの前にいる人の中に、将来地球を救う人がいる、と言ったことばがずっと引っかかっていた為だろうか。
父は息子に兎も角、夢を託した。

修学旅行中遊覧船で眠ってしまったため、ひとり取り残された女子高生とその船でシェフとして働く長じた彼とが出逢う。
彼女は優秀な高校に通う生徒で、理数系の得意な少女である。
困っている彼女に、自分の父の事や特異な生い立ちを笑い話として聴かせる彼。
そんな時に、世の終わりを説く狂信的な集団に船はシージャックされる。
ピストルを構わず撃ちまくるキレた連中であったが、彼の拳法の前にみんななぎ倒され、女子高生は命を救われる。

2013年。彗星が地球に衝突し、地上は全て海に呑み込まれることが確実となった。
人々は皆、滅亡に狼狽え気休めに高い山に登って避難している状況である。
そんな時、誰もいない商店街の一軒のレコード屋が開いている。
そこに世紀末狂信集団崩れの神父が車椅子でやって来る。
店には、かつて「逆鱗」をプロデュースしていた店長と若い客が音楽は世界を救うという話を真面目にしている。
元神父は、彼らの話がまるで現実味がないことを嘲笑し現実を彼らに突き付けようと、音楽と理想の話にいちいちケチをつけていく。

彗星衝突まで後5時間というところで、ニュースからインドの核弾頭を積んだロケットが打ち上げられたことが報じられた。
その乗員は世界から5人集められたその道のエキスパートであるという。
店長と若者は、ゴレンジャーだ。やはり英雄が地球を救ってくれる、と喜ぶ。勿論神父は呆れて閉口する。
少し前にアメリカが破壊に失敗している。
今回、その時埋められた爆弾目掛けてミサイルを放ち、瀬戸際で接近する彗星を破壊する計画なのだ。
しかし、その軌道が複雑を極め、成功率はゼロに近いとアナウンサーは絶望を伝え、神父は嘲笑う。

だが、彗星は爆破された。
慌てて店の外に出る3人。
2人は空一面に広がる大きな花火を見て大はしゃぎ。やはり助かりたかったのだ。
一方神父は口を開いたきり、フリーズ状態。

何とそのインドのロケットには、あの優秀な女子高生の長じた姿があった。
彼女の軌道計算によって、ミサイルが正確に着弾したのである。

よって、地球は救われた。


チャンチャン。

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アサシン / ASSASIN アサシン

アサシン
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”THE ASSASSIN
POINT OF NO RETURN ”
1993年アメリカ映画。
こんなに古かったか?

暗殺者ものを二つ観た。
まず、ニキータ(仏・1990年リック・ベンソン監督)のハリウッド・リメイク版。
ほぼ、オリジナルに忠実に作られているが、最期の決着場面だけが大きく異なる。
設定が仏・露関係から米・中東関係になっていた。しかし如何にもハリウッドという感じはしない。
Bridget Fonda主演。Gabriel Byrne(エンド・オブ・バイオレンスやエンド・オブ・デイズでのサタンは印象的)もいる。
彼らがアメリカというより、ヨーロッパ的だからか。ガブリエルはアイルランド出身だ。

死刑になるか、秘密警察組織の暗殺者として国のために働くか選択を迫られるヒロイン。(元映画は無期懲役だが)。
結局、逃げ切れず、おとなしく死ぬ気もない彼女は、組織で訓練と学習を積み、アサシンとして生まれ変わる。
しかしヤク漬けの殺人犯に更生教育ではなく、ただでいたりつくせりの寮制教育を受けさせているようなものであった。
ここでのブリジットの変貌ぶりは鮮やかで美しい。

狼に育てられた方がまし、というような凶暴な野生児からエレガントなレディに変わり、それが容貌だけでなく、内面的にも変わってしまったため、普通に自分の生を生きたいという意思が芽生えはじめる。
やはり、使う言葉が文化的になり、衣食住のリズムや質によって、意識も変わるはず。
人間になってしまう。彼女の上司(ガブリエル)も彼女に対する恋愛感情から葛藤を抱える。

一般社会に紛れ新たなIDで生活を始め、恋人もできれば普通に人間になる。
人間になれば成る程に、組織の暗殺命令はエスカレートしてゆく。
生きようとすればするほど、精神的に引き裂かれてゆく。
こうした特異な例でなくても、兎角世の中そんなもんである。
「ニキータ」はかなり重々しく、愛によってヒロインが変貌を遂げ苦悩する人間ドラマが描かれていた。
「アサシン」はスタイリッシュに堅苦しくなくスッキリ作られていた。


ガブリエルはクールで超然としているが、最後はかなり人間臭さを滲ませる好演を見せていた。
オリジナルでは、最初から彼女に対する恋愛感情を顕にしていたが、こちらはクールな素振りを見せていた。
最後に、彼は粋な計らいをする。
彼女がそれに感づきほくそ笑むところで、ホッとした。


この映画、ブリジット・フォンダとガブリエル・バーンの魅力でかなり魅せている。
それから、始末屋役のハーヴェイ・カイテルがハードボイルドを絵に描いたようで、カッコよかった。
オリジナルでは、ジャンレノだ。どちらも強烈。


この作品の方が流れに隙がなく洗練されていて、良い意味で軽ろみがあり見易かった。



ASSASIN アサシン
Dolph Lundgren

”One in the chamber”
2012年アメリカ映画。
こちらの邦題の方は、アサシンの前に、ASSASINが付く。紛らわしい。
ドルフ・ラングレンが凄腕のフーテンの寅さんみたいな伝説の殺し屋でひと暴れ。
相変わらずの破壊力を見せつける。
主演は、キューバ・グッティングJrで、2人の格闘シーンも見所のひとつ。
全般に銃撃戦が華々しい。

マフィア同士の抗争に、腕利き用心棒というかアサシンが雇われ、アサシン同士の戦いにもなる。
話は、よくあるヤクザ同士の縄張り争いの定番ものだが、主人公がヒロインの父親をかつて暗殺しているという設定なのだ。
だから、いつも聖書を読み何か吹っ切れずに、その娘を距離を置いて静かに見守っているという男である。
寅さんドルフは、一見イっちまった系だが、敵を始末する時は非常に厳密な作戦を冷静沈着に練ってから実行に移す。
仕事を終えた後、何発銃弾がピストルに残るかまで計算済みというプロ中のプロである。
腕っ節も強く、拳銃の腕前も凄い、キューバにとっては手強い相手だ。


こういう殺伐とした殺し合いムービーは、可憐なヒロインが花を添えるパタンが多いが、ここではヒロインよりもドルフの魅力で作品のエンターテイメント性を釣り上げている。
彼を盛り上げる演出がまた、効いている。
伝説の殺し屋ウルフときた。
それを聞いた敵組織の男は怖気づき、本当にウルフはいたのか、とかやたらにビビる。
鳴り物入りで、ご登場。
犬連れで派手な格好に暴れぶり。(彼にとっては普通だが)。
暗い主人公に対し、ドルフの陽気で豪快な立ち振る舞いがとてもチャーミングであった。

圧倒的に強いドルフと戦い、何とか勝ったキューバであったが、最後にとどめを刺さない。
そのお返しか、キューバがヒロインの彼女を人質に取られ窮地に陥ったとき、彼が助ける。
何と自分の雇い主を撃ち殺して、キューバと彼女を救ったのだ。
後に、犬連れでキューバの家をドルフが訪ね、自分を殺さなかった訳を聞くと、「依頼がなかった」と言う。
普通、自分を殺しに来た相手は、依頼がなくても殺すはずだが、、、。
戦っている最中に、こいつは殺すのが惜しいとでも思ったのだろうか。
案の定、向こうも帰り際に、一緒に組んで儲けようみたいなことを言ってポンと肩を叩きニコニコ帰ってゆく。

何と言うか、彼女も父親を殺した相手に対し、自分を庇ってくれたからといってあっさりし過ぎてはいないか。
そもそも彼のお陰で酷い目(父を奪われ、ギャングに誘拐)に遭っているのだ。
普通、絶対に許さないはずだが、、、。


とは言え、なかなか面白い映画であった。
ドルフ・ラングレンが出ていなかったら、見るに耐えないものであったろうが。

シックス・デイ

six.jpg

”The Sixth Day”
2000年アメリカ映画。
クローン技術が発達した近未来の世界が舞台。
シュワルツネッガー主演。
TV録画で観た。

いくらシュワルツネッガーの娯楽映画だからといって、クローンならクローンにしてもらわないと。
これだと、ドラえもんのコピーロボットである。
ロボット技術が発達して、見た目は人間かロボットか分からないモノの生産に成功した、という状況にすればよかった。
実質、ストーリーは、ほぼこのままで行ける。
でも、もうすでにターミネーターやってるんで、ロボットでは被ってしまうか?
そうすると、主演はウィルスミスか?

と、シュワルツネッガーのための映画であるため、前提条件を変えるわけにはいくまい。
クローンは三毛猫も毛並みの色が親とは全く違っていたりする。
遺伝子情報が全く同じであっても生育環境(経験・学習など)により自分とは異なる個体になる。
何においても瓜二つにはならない。
それから、胚から成長するもので、最初から母体と同じ年齢ということは有り得ない。
まずは、赤ん坊として生まれる。親と同様に普通に成長する。
それを補完するためか、素体?とかいう、なにもない体に遺伝子情報を入れる、しかも記憶までというのは、無理。有り得ない。
DNA,RNAのある身体情報を書き換えていくのならまだしも。
記憶(後天的記憶)については、遺伝とは全く異なる領域の問題であり、コピーして書き込めるような情報ではない。
(内部情報系に対する外部情報系と言える)。本能のみで生きている人間はいない。
パソコンのデジタルデータ移動のアナロジーか?壊れても、新たな同じ体でそっくりそのままを引き継ぐというまさにロボットの発想。


この物語、やはり革命的なロボット技術の発達により、人間ソックリのロボットが、、、とすれば。
何でもアリのブラックボックス化出来るではないか。
ああ、これでは、ターミネーターと一緒だ、、、。
堂々巡りになるので、やめる。
いっそ、アンドロイドとか言って、茶を濁すのもありか?
レプリカントというのは、流石にうまかった、ブレードランナー。

そこにとらわれず、楽しめば結構楽しめる映画ではある。
兎も角いくら殺されてもいくらでも復活する(スペアのある)、コピー人間たちが続々出てくる。
どうしても、ドラえもんを思い浮かべる。
しかし体型は全然異なる、シュワルツネッガー、しかもオリジナルとクローン(やはりコピーと呼びたい)と2人も出てくる。
人間だと信じていた方が、コピーであり、苦悩する。
タクシーの中で居眠りから覚めた、と思ったときそれが引き継がれた記憶をもった「コピー」の目覚めであった。
ここは面白かった。コピー体によって、人間存在の有り様が逆照射される。
しかし、人間とは何かという認識論ではなく、人間はどうあるべきかという存在学に向かう。
シュワルツネッガーの映画であるから必然的に。

ヘリのパイロットを無断で代わってもらった為、自分のコピーを知らずのうちに作られてしまったというのも、なかなかよいアイデアだ。
このコピーは、自覚してなっているのは、法律を破って秘密裏に彼らを製造している企業上層部と用心棒くらいで、他の人は、死んでしまうと企業にとってマズイ人間が知らずのうちにコピーに入れ替えられている。

シュワルツネッガーは、友達が身代わりに殺されたので、彼は生きて自分のコピーと鉢合わせしてしまうはめに。
ここから、物語が目まぐるしく展開してゆく。
この攻防は結構、スリルもあり、目を離せない。
敵は卑怯にも妻と娘を人質に取り、あくまでもシュワルツネッガーを消そうとする。
2人いてはクローン生産がバレるし、企業の悪巧みも暴かれる。
彼は自分のコピーとも仲良くタッグを組み、巧妙な作戦を立てて戦う。
しかし、惜しむらくは、昔のSFから借りてきたような味のある光線銃を多用することだ。
ヘリコプターも自動操縦したりでよく出てくる。
設定上必要な道具であろうが、シュワルツネッガーの持ち味が削がれてしまう。
彼の主演なら、荒唐無稽なマッスルファイトをフルに期待してしまう。
シュワルツネッガーのもうひとつ得意なマイホームパパぶり(如何にもアメリカ的な)は健在であった。


彼らはクローン製造工場を潰し、共に家族を命懸けで守った。
クローンであろうが、人であろうが、何であるかより、何をやるかに意味がある、というようなところで終わる。
2人一緒には帰れない。
片方は家族の元へ戻り、もうひとりは旅に出ると。


スリリングなアクションはあったが、マッスルファイトはおとなしめのシュワルツネッガーであった。
しかし、こういうシュワルツネッガーもよいかも。
面白かった。



火星~冥王星~セレス

ここのところ、太陽系の惑星、準惑星に発見が続いている。
NASAからの続報が待ち遠しい。
特に、火星、冥王星、セレス(ケレス)はこれからである。
キーワードは氷か?


火星
mars001.jpg

オポチュニティー が火星の地表を探査中である。
2004年からであるから、もう11年も働いていることになる。
直径が3mmの球体の集積している場所が見つかった。

mars rock water

本当に球体でビックリした。
今後の解析が楽しみだ。
冥王星、セレスの探査と違い、こちらは地表にぴったり張り付き移動中である。

mars.jpg

望遠鏡ではなく顕微鏡で見るレベルまで調べられる。ここが強みだ。
これまでにも、ドライアイスの雪崩とか、随分気の早い、移住した時の「氷の家」のモデルまで発表されていた。
先ごろのオポチュニティー からのデータから、「水和塩鉱物」 の存在の可能性が示唆された。

mars002.jpg

どうやら、水の含有土壌があるようで、初の地球外生命体の発見も、そんなに遠くではない。



冥王星
plute.jpg

太陽系外縁天体に属する準惑星。月よりも小さい。しかし衛星のカロンは冥王星の半分以上の直径を持つ。
そのため2重星と見られる場合もあるようだ。

caron plute


大きさも正確なところは、少し前まで分からぬままでいた。
ようやくニューホライズンズのお陰で、測定でき直径2370kmであることが分かった。
2006年には、国際天文学連合で準惑星にされた。太陽系外縁にあるエリスの方が大きいことが分かったこともあり、冥王星を惑星に留めると、惑星候補がたくさん出てきて、覚えるのも大変なことになってしまう。
(実は、以下の衛星よりも小さい。ガニメデ、タイタン、カリスト、イオ、月、エウロパ、トリトン )
長いあいだ、冥王星はボヤッとした画像でしか、見ることができなかったが、大変詳細なデータがニューホライズンズから送られて来ている。ニューホライズンズは2006年に打ち上げられ、今地球から50億km離れた空間まで来ている。
高精細な画像から、地表には非常に多種多様な地形が見られることが分かった。
平坦な雪原の広がった場所と険しい起伏の続く場所など、非常に複雑な様相を呈していることが分かる。
大平原にはクレーターはなく、一酸化炭素の氷が確認されてたようだ。

caron.jpg


さらに衛星、カロンの高解像度写真も公開された。
東西に走る谷が明瞭に見て取れる。
グランドキャニオンの4倍長く、2倍深いということだ。
小さな衛星に見合わぬ、複雑で激しい地殻活動が想像される。

今現在、ニューホライズンズから送られてくるデータは圧縮データであるが、非圧縮データも遅れて送られてくることになっており、より高解像度画像が見られるはず。


セレス(ケレス)
ceres.jpg

火星と木星の間(小惑星帯)にある準惑星である。
小惑星帯の全質量の三分の一を占める最も大きな惑星(水星の五分の一)である。
2007年に打ち上げられた探査機ドーンが今、セレスの周回軌道に乗っている。
表面はクレーターだらけであるが、綺麗な球体をしている。

クレーターの中に輝く光が発見され、話題を呼んだ。
それは、太陽の影に入ったとき、光らなかったため、発光体ではなく反射物であることが分かった。
氷の面であるという説が有力視されている。
当初、2つ発見されていたが、観測の精度が上がるにつけ、その数は増えるばかりである。

ロンリー・マウンテン と呼ばれる高さ6kmの突起物が何で出来ており、なぜ出来たのかが話題である。
NASAは一般に意見を求めている。
氷の塊であろうという声が大半を占めているようだ。
太陽系の起源の情報を保持している惑星として、今後の研究に大きな期待がかかっている。

ドーンは最終的に、セレスに対し高度375キロの最終軌道にまで到達するそうだ。
今後、より精細なデータとその解析結果が明かされることになろう。



   *画像は全て米航空宇宙局(NASA)の公開画像。

フィールド・オブ・ドリームス

field of dreams
”field of dreams”
1989年度アメリカ映画。

この映画は、思い出深い映画である。
昔わたしがかなりの集団を連れて見に行った映画なのだ(笑。
この映画を見たいという人がおり、それではみんなで見に行きましょうということになった。
結局すごい人数になった。野球チームよりずっと多い人数だ(笑。

とうもろこし畑とナイター照明に映える芝生が綺麗だった。
わたしは野球には興味ないのだが(強いて言えば日ハム)、同僚に連れられ1度だけ見に行ったことがある。
確か「ヤクルト対阪神」のナイターで、今でも芝生の色とビールの味で覚えている。ビアガーデンで呑むビールより美味かった。これでタンの串焼きでもあるとこたえられない、と思ったものだ。
野球は時折、大きなヒットが打たれた時だけ何かあった、という気がしたが後はただ緑を眺めつつ、ビールとおつまみを味わっていただけである。
阪神ファンの同僚は、贔屓チームの負けで落ち込んで、やけ酒を飲みに行き、わたしは帰った。
さすがに、もう呑めない。


この映画、とうもろこし畑がよい。
ケビン・コスナー演じる主人公レイが生活苦も顧みず、畑を削って野球場にしてしまう。
仕事中にお告げを聴いたのだ。
"If you build it, he will come."
しかしその言葉が球場を作れという意味だとは、わたしにはわからなかった。
彼にはそれが分かった。お告げは、やはり分かるヒトにしか降りてこない?
畑を犠牲にしてナイター設備までして、どういうつもりか、、、。周囲の人からは好奇の目で見られる。
奥さんの同意がなければ、まずこんなことは出来ない。
ある晩、幼い娘が球場に誰かいる、と言ったときから毎日かつてのメジャーリーグの選手が現れるようになる。
とうもろこし畑の堺から、往年の野球選手が出てきたり帰っていったりする。
レイが作った野球場を天国だと言って、野球史に名を残す選手たちがゲームを楽しんでいるのだ。
この様子は、見えるヒトにしか見えない。
夢や理想を大事にもっているヒトにしか見えないらしい。


内なる声に耳を傾け、その声に従いましょう(あの声は君の声だ)。夢を大切にしましょう。
不条理こそ信じましょう。素敵なことがおきます、という御伽噺である。

また、自分の目で確認出来るということが、如何に肝心か。
結局、見えたということが分かったとなる。
それには前提として、表象として当のものを有機化させる言語が無意識的に生成されていなければならない。
冗長性から相転移するかのごとく、一気に見えるときは見えてしまう。
丁度、レイの義兄がそんな様相であった。


面白いのは、彼らレジェンドたちは、球場の外には出られない。
少なくとも野球選手としては実体化しないようだ。
そして1度外に出たら、もうその当時の選手の姿には戻れない。
だから彼らの誰もが縁で止まる。この世の人間は、自由に球場に入り彼らとキャッチボールが出来るのだが。


野球選手では芽が出なかった高名な医者が、1度でよいからバッターボックスに立ちたいという願いを叶え、また医者に戻り去ってゆく場面には、かなり感動してしまった。(役者はバート・ランカスターだ!)。
それからレイと今は亡き父親がそこでキャッチボールをする姿である。
キャッチボールにことばはいらない。
ここで、きっとレイと父との失われた時間は全て取り戻されたのだ。
"If you build it, he will come."とは、このことだった。
やはり、レイの内なる声であった。


最後に気になったのが、作家であるテレンス・マン(サリンジャーがモデルらしい)が、彼らの一員シューレス・ジョー・ジャクソンに誘われ、とうもろこし畑に消えてしまったことだ。
若い頃の夢に浸りたいヒトたちが、たくさんオハイオのこの球場にやって来る、と太鼓判を押していたテレンスである。
この球場のことを本に書くとレイに約束して行ったのだが、どうなったのか?

それが、今でも分からない。



ホワット・ライズ・ビニース

What lies Beneath

”What lies Beneath”
したにあるもの、、、「何かいる!」(怖。
2000年度アメリカ映画。
ロバート・ゼメキス監督。作品には他に「フォレスト・ガンプ」がある。


ハリソン・フォードとミシェル・ファイファーが、ノーマンとクレア学者夫妻を演じる。
ノーマンは発表を控えて準備中の論文作成に集中している。
妻のクレアはかつて有名な音楽家であったが、今は主婦業に専念し夫を支えている。
前日のリーアム・ニーソンにハリソン・フォードとだぶるイメージがあったのだが、実際こうして見てみるとかなり違う。
当たり前か。

後半、思いもよらぬ展開を見る。
これまでになかったことが起きる。


クレアは昼間は暇である。
お隣さんや身の回りのことが兎角気になる。
そのうち、ドアが勝手に開いたり、女性の姿を幻視したり、パソコンが突然起動しモニタに暗号が表示されたり、湯気に曇ったガラスに文字をなぞった跡があったり、別人格が憑依したかの如く振舞ったり、、、。デジタルからアナログまで、様々な想像を掻き立てる現象が起きる。
怖くなり夫に相談はするが、今それどころじゃないんだ、と言われカウセリング受けるか?と心配される。


何かいる、、、。
霊の現れ方が絶妙であった。
クレアの幻覚とも、実際に現れたとも受け取れる出方である。
シリアスな描き方に破れ目なく、一貫して重厚な流れが続く。
ミシェル・ファイファーの演技が終始、映画の基調となってゆく。
またカメラワークがサスペンス調で、きっちり計算されていて迷いがない。

隣の家庭が何やら険悪な状況で、不穏で犯罪的な空気に包まれている。
クレアがそれに敏感になるのは、自分の家にも同様な何かを強く感じ始めたからだろう。
それが何の兆候なのか、どういう結果を呼ぶのかが次第に明らかになってゆく。
隣の女性は、最初は夫に対しひどく憤っていたが、次に会ったときは、おとなしく怯えた様子を見せている。
何かがあったことは確かで、クレアの直感通りのことが、起きていた可能性が浮かぶ。
先日彼女は心配するクレアを強く撥ね付けていたのに、わざわざ何もなかったという事を印象付けるためお礼に来てお茶まで付き合っている。この変貌は怪しい。クレアはもう追求することは止めたが、その矛先は家に現れる女性の幽霊に向けられてゆく。

その「女性」はイニシャルを風呂場の曇ったガラスに書き残すという粋な手段で訴えてきたため、クレアはパソコンでその主を探し当てることに成功する。
クレアは、そのイニシャルが夫が務める大学の行方不明となった女子学生と一致することを突き止める。
彼女は、その学生の家から髪の毛を持ち出して招霊するなど、深みに入ってゆく。
この辺りから、物語は急展開である。
彼女が1年前のパーティで錯乱状態で取り乱した時の、失われていた記憶が蘇ってきたのだ。
家に帰ったら、彼女と夫が寝ていたことが思い出されたのであった。

ノーマンは、浮気は渋々認めたが、彼女はあてつけに自殺したのだと誤魔化す。
彼女は怯まず夫を鋭く追求する。
その結果、彼が殺ったことが判明。
バスタブで殺害し、湖に車ごと彼女を沈めたのだ。
クレアは、湖の底から箱を探し出し、入っていた被害者のネックレスをする。

ハリソン・フォードがヒールをやるとは、これが意外であった。
まさか、という感じであったが、ここからはノーマンの邪悪さがこってり描かれる。俄かに彼が悪顔になってゆく、、、。
しかし、クレアを大事に思っていたのは確かで、学生とはあくまで浮気であった。
学長に言いつけると脅され、学者生命が絶たれることを恐れて殺したと言う。(ここが彼が悪役に転じるに当たり、月並みな理由で物足りない)。

彼はクレアもバスタブで水死させようとする。
しかし、この時、殺害された娘の顔がクレアの顔に一瞬重なる。それに動転したノーマンは仰け反り頭をしたたか強打する。
彼女は縛られ薬も打たれているため体の自由が効かないが、かろうじて足で栓を抜き、難を逃れる。
そして車で逃げるが、ノーマンは後ろにつけてあったボートから、運転席に乗り込んできて彼女の首を絞める。
そのまま車は道を逸れ、林に突っ込み、その先の湖に落っこちた。

何とその湖は、女子学生を沈めた湖ではないか!
夜の水の中、クレアが絶体絶命となった時、車に積んでいた鉄パイプが落下し底に沈んでいた車のルーフを突き破る。
するとそこから、白骨化した遺体が静かに上昇してゆく。



最後は、クレアがその女子学生の墓に花を手向けるところで終わる。


最後まで緊張は解けなかった。良質のサスペンスである。




アンノウン

unknoun.jpg
”Unknown”
2011年度アメリカ映画。
ジャウム・コレット=セラ監督。「エスター」の監督である。

とてもよく練られた脚本であった。
何よりストーリーに引き込まれる作品である。
事故による記憶喪失で自分が何者であるかに苦悩し、外国で言葉も不自由で頼る人もいない。
この寄る辺なさと、彼を消そうと襲いかかってくる男たちにより、窮地に立たされるマーティン博士。
彼の命を助けたのが、これまた危うい立場のジーナという不正移民のボスニアの女性である。
彼は彼女の多大なる援助により、この後を乗り切ってゆく。

最愛の妻はマーティンにすっかり入れ替わった男と夫婦として過ごしている。
次々に自分の存在を否定する事実を突きつけられ、ますます混乱と焦燥を極める。
妻と信じて疑わなかった女性がただ妻を装う役の組織のメンバーであったことに愕然とする。
そして本当の自分を取り戻したと確信した矢先に、それが暗殺組織が計画を実行するための仮のIDに過ぎなかったことを知らされる。博士にしてはドライビングテクニックがあまりに上手いなどの伏線が幾つもはられてゆくが。
驚愕の自分の正体。

しかし、それも今や過去の自分であった。
ジーナのおかげで、彼は新たなアイデンティティを自分の意志で獲得する。
彼女と一緒に新しいパスポートを持って旅立つ2人、、、。


ベルリンの硬質な雰囲気がこの映画にしっくりしていた。
バイオテクノロジーの研究者であるマーティン博士と不法滞在のタクシー運転手ジーナの関係が自然な展開で説得力があった。
マーティン博士(リーアム・ニーソン)とジーナ(ダイアン・クルーガー)に加え、ブルーノ・ガンツ、フランク・ランジェラの脇固めが作品をとても重厚にしている。


国際学会参加のためベルリンを妻と訪れたマーティン博士。
彼がトランクを空港でタクシーに積み忘れなければ、途中で事故に遭わなければ、全ては計画通りに実行されたのか。
何の問題も起きなければ、食糧難を救う革命的なバイオ技術を発明した博士のデータを奪い、彼をそのパトロンでありパテントフリーでそれを世界に公開しようとするアラブの王子の暗殺と見せかけ、殺害することに成功したであろう。
しかしマーティンが事故に巻き込まれ、彼の替え玉が素早く起動していた。
邪魔になったマーティンには刺客が向けられた。


彼は記憶喪失時でも、妻との思い出の断片だけは何度も鮮明に想い浮かべていたが、暗殺者としての記憶は全く浮かんでこなかったのは何故か?
そちらの方が情報量からすれば圧倒的に多いはずである。
恐らく、役割としてではなく本当に妻役の女性を愛していたのだ。
それが彼にとって何よりも心を占める思いとなっていた。
そこで記憶を1度失った時点で、夫婦を偽装した時以前の暗殺者としての記憶を無意識のうちに全て葬ってしまったのだろう。
精神面では、愛する妻をもつ植物博士としてのアイデンティティに落ち着いてしまった。
その後写真展で出会った時、その女性が彼を無碍に拒絶しなかったのは、彼女も彼に対する好意はあったことが分かる。

彼とジーナの2人は、議場の爆破を阻止するため果敢に戦う。
博士と王子は、無事会場から避難でき、犯行は阻止されてしまったのだが、何故爆破を放って置かなかったのか?
妻役をしていた女性は何故、危険も顧みず爆薬の時限装置を切りに戻ったのか。
彼女の額面通りの説明では腑に落ちない。


久々にサスペンスの傑作に唸った。


チャイルド・プレイ 生誕の秘密

curse of chucky

うっかり、ホラーと知らず、観てしまった。
娘がセーラームーン(プリキュアは飽きたらしい)と一緒に、散歩帰りのTSU○AYAで借りてしまったのだ。
おにんぎょさん、と言っていたが、、、確かにそうだが。
コーナーは少し離れていたはずだが、、、。

”Curse of Chucky”
「チャッキーの呪い」だと。
知らなかったが、この映画はシリーズもので、チャイルドプレイ1~3、チャッキーの花嫁、チャッキーの種(?
と5作も続き、これが1番新しい「誕生の秘密」6作目に当たるという。
1作目が1988年である。
今作が2013年。その間25年。歴史を誇るシリーズなのであった。
襟を正して観なければだめなのか?どうか、、、。
そして今回も明らかに次に続く終わり方である。
ホラーは特に疎いわたしだが、人形が主人公であり末永く伝統芸能化?してゆきそうなシリーズとなる気がする。
このネタなら今後、いつまでも続きそうだ。
もう四半世紀も繋がっているのだ。
100年続いても不思議はない。

人形に人の怨念が乗り移るという話は日本にも古くからあり、その点でアメリカンホラーであっても妙に馴染みやすいところでもある。
しかし、88年当時はどうであったろうか?
CGで人形の顔を人間の悪ガキそのままの表情にしてしまっているのは、些か興醒めであった。
いっこく堂の人形みたいに口が上下にだけパクパク動き、目がぎょろっと動く人形の方が遥かにアーティフィシャルで不気味であるはず。
そこは気になった。

この映画、被害者のヒロインが殺人犯にされ裁判で精神に異常をきたしていると看做され施設入り、までの流れは分かるが、それ以降については、これまでのシリーズを見てない者にはさっぱり分からん。
体格のよい知らない女性が何やら重要な役割で出てくる。
非常に悪そうな女で、警官の首を切ったりチャッキーの仲間なのか、彼を宅配で送りつけている人騒がせな女だ。この女が当シリーズでどのような位置を占めているのか、何故突然出てきたのか、知っているひとしか分からない。
今はおばあさんのところに、チャッキーをまるで怖がらず信じ込んでいるアリスは預けられているのだが、そこに宅配で送られてきたチャッキーが彼女に何やら悪しき呪文をかけているところで終わる。ついでに、おばあさんは殺される場面がちらっと見えた。
次回の第7作目では、チャッキーが少女に乗り移っていたりするのか?
長年のファンなら、いくつかのパタンを思いつき、興味しんしんで楽しみだろう。

いたりいなかったりする、座敷わらしみたいな人形チャッキーが、自分でヒョコヒョコ歩き、斧を平気でもち、振り回すところは何とも言えない。
ちょっと擬人化が濃すぎて、ただの小人の役者の演技に近い感覚になり、不気味さが削がれる。
牧師は恐らくチャッキーの正体に気づいたので殺されたのだろうが、この時は怨念のような遠隔操作で殺しているらしい。
そんな力があるのなら、あの身の丈で斧を使うより、その力で次々に殺戮していった方が効率も良いし、CGも自在に効果的に使え呪術性が高まる気がする。

ベビーシッターのジルは、あの程度で普通、感電死するものだろうか、と思う。
ヒロインのニカの姉は、目玉を上手く抉り取られ、それが階段をポンポンと転がってジルのところに落ちてくる。
なるほど、と思う。が、既視感がある。
惨劇中にずっと寝たままの方がよかった姉の夫は、起き出してニカの足を大いに引っ張り彼女を窮地に立たせる。
どうも、ホラーはこのパタン(お間抜けな夫)が多いと思う。
呆気なく彼は、チャッキーに斧で下顎から下を分離され、パクパク動くいっこく堂の人形顔にされてしまう。
そりゃ、叫んだまま寝転がっていては、まな板の上の、何かである。
ニカは、脚が不自由で車椅子ながら、あらゆる手を尽くして勇猛果敢にチャッキーと戦う。
しかしチャッキーの前には苦戦を強いられる。首を切り離しても、自分で首を繋いで反撃してくるのだから、気が抜けない。
見所は、ニカが感覚のない脚を犠牲にして、彼の斧攻撃を防ぐ場面だ。
ここは、思わずイタっと、声を出してしまった。同様なことが「死霊のはらわた」にもあった。(回数では、はらわたの勝ち)。
終始、汚い言葉遣いのチャッキーと仲良しにしていたのは、ニカの姪である幼い少女のアリスだけであった。
信じる者は救われる、、、違うか。


人形がツギハギのすごい顔になって、首が回ったりするのは、エクソシストを思い出す。
ひたひたと迫る恐怖の演出はこなれたものであるが、むしろ怖さより、スプラッターなエグさが優っている。
「死霊のはらわた」もその極みかと思うが、これもかなりのものであった。
ホラーものとして、しっかり構成されたよく出来た映画であったと思う。
が、今回の作品は、これまでのシリーズをどうやら見ていないと特に終盤については、分からないものになっている。
では、前5作を見てみるか、、、という気には、残念ながらならない。



”Bon voyage.”

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