ワールド・トレード・センター

まず、体験していない者にとって、この事件は”想像を絶する出来事”である。
体験の共有は出来ない。
しかし、人々の心に伝え残したい出来事は、在る。
少しでもその出来事を、身体的レヴェルをもって知らせようとしたとき、この他に有効な方法があるだろうか。
この映画は、アメリカとかイラクなどと大雑把な国の枠でイデオロギー的に評するものではないと思う。
地震・津波などの天災や通り魔などの人災も含め、災害と言うより究極的な災難に突如見舞われた「ヒト」がどう立ち向かえるか。
運悪く(「ショーシャンクの空に」の主人公が呟いていたように)、たまたま自分の番が回ってきてしまったとき、どうであるか?
それを身につまされるノンフィクション映画である。
監督オリバーストーンもこの作品が安易なプロパガンダにされぬよう、生存者の証言に基づき、抑えた演出で臨場感を何より大切に描いていることが分かる。
距離を持たせたら、必然的にイデオロギーが呑気に入り込んできてしまう。
アメリカの覇権主義・横暴な姿勢へのステレオタイプな批判、またはテロに対する報復や敵意の高揚に容易に繋がるものだ。
しかも、ここでは救援に向かい瓦礫の下敷きになった警官2人とその家族にズームインし、それぞれのこころの濃密な時間を忠実に追っていた。
そのため事件の特殊性や背景の憶測、英雄譚にもならず、思想・信条の入り込む隙を見せない「ヒト」に迫った試みであり。その点で、普遍性をもった作品になり得ていると思う。
特に違和感はないのだが、主演にニコラス・ケイジである。
無名の役者をオーディションで選ぶなどしても、よかったかとも想われる。
名優だと、とかく俳優の存在・演技に目がいってしまうきらいがあろうというもの。
この作品はドキュメンタリーとして観たい。
とは言え彼なら、死に隣あったヒトの心情に説得力が増す。
かなりの尺をただ、地下の瓦礫の下で救援を待ち続ける映像である。
やはりここはニコラス・ケイジの起用は重い。
また、何と言っても辛いのは、何も出来ずただ待つだけの家族であろう。
覚束無い情報と憶測に不安に駆られ疲弊しながら。
この立場も直接的な被害者と同等なものである。
あえて言えば、苦痛(激痛か?)に対する苦悩だろうか。
共に絶望的な事態。死に本当に直面する場所にいる。
まさにギリギリの縁であろう。
そしてそんな時に、何にすがろうとするか?
悔恨や未練はあっても、、、。
逆に、この映画でそれを受け取らなければ、恐らく暇つぶしにもならない意味のない時間を過ごすことになるはず。
アメリカではなく現存在としてのヒトである。
普通に信用している日常は、そんなに堅牢なものではなく、穴だらけであるかもしれない。
あのでかいビルが2つ、あっという間に崩れ落ちてしまったのだ。
先に助け出された警官が、外の光の元で生を噛み締めるとともに驚く表情が印象に残る。
「あのビルは!?」「もうなくなったんだ。」
晴天の霹靂と言ってしまっては、それまでだが、当事者にすれば無限の重みであろう。
黒煙を上げているビルに一緒に助けに行った仲間5人のうち3人が犠牲になってもいる。
後から助け出された警官は助かったとは言え、手術を27回も受けているという。
2人ともに大変な重傷を負っていた。
この事件で救援のためビルに飛び込み、2次被害から救助された警官は全部で20人であり、彼らはその18番目と19番目であったそうである。
2人は目を合わせる空間にはいなかったが、お互いに声を掛け合う事が可能な距離にいて、声が出せる状態であったことが幸いした。
重傷を負い、ひとりで夜を明かすことは地獄であるはずだ。
絶望感に苛まれ気力を失ってしまうか、眠ってしまい、翌朝まではもたないケースが少なくないだろう。
何を話すでなくても、「絶対に眠るな!」と声を掛け合えることは、こんなとき物凄く大きい。
性善説とか性悪説ではなく、この意味で他者は尊い。