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GOMA28

Author:GOMA28
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ワールド・トレード・センター

wtc-9-11.jpg
まず、体験していない者にとって、この事件は”想像を絶する出来事”である。
体験の共有は出来ない。
しかし、人々の心に伝え残したい出来事は、在る。
少しでもその出来事を、身体的レヴェルをもって知らせようとしたとき、この他に有効な方法があるだろうか。

この映画は、アメリカとかイラクなどと大雑把な国の枠でイデオロギー的に評するものではないと思う。
地震・津波などの天災や通り魔などの人災も含め、災害と言うより究極的な災難に突如見舞われた「ヒト」がどう立ち向かえるか。
運悪く(「ショーシャンクの空に」の主人公が呟いていたように)、たまたま自分の番が回ってきてしまったとき、どうであるか?
それを身につまされるノンフィクション映画である。

監督オリバーストーンもこの作品が安易なプロパガンダにされぬよう、生存者の証言に基づき、抑えた演出で臨場感を何より大切に描いていることが分かる。
距離を持たせたら、必然的にイデオロギーが呑気に入り込んできてしまう。
アメリカの覇権主義・横暴な姿勢へのステレオタイプな批判、またはテロに対する報復や敵意の高揚に容易に繋がるものだ。
しかも、ここでは救援に向かい瓦礫の下敷きになった警官2人とその家族にズームインし、それぞれのこころの濃密な時間を忠実に追っていた。
そのため事件の特殊性や背景の憶測、英雄譚にもならず、思想・信条の入り込む隙を見せない「ヒト」に迫った試みであり。その点で、普遍性をもった作品になり得ていると思う。


特に違和感はないのだが、主演にニコラス・ケイジである。
無名の役者をオーディションで選ぶなどしても、よかったかとも想われる。
名優だと、とかく俳優の存在・演技に目がいってしまうきらいがあろうというもの。
この作品はドキュメンタリーとして観たい。
とは言え彼なら、死に隣あったヒトの心情に説得力が増す。
かなりの尺をただ、地下の瓦礫の下で救援を待ち続ける映像である。
やはりここはニコラス・ケイジの起用は重い。


また、何と言っても辛いのは、何も出来ずただ待つだけの家族であろう。
覚束無い情報と憶測に不安に駆られ疲弊しながら。
この立場も直接的な被害者と同等なものである。
あえて言えば、苦痛(激痛か?)に対する苦悩だろうか。
共に絶望的な事態。死に本当に直面する場所にいる。
まさにギリギリの縁であろう。
そしてそんな時に、何にすがろうとするか?
悔恨や未練はあっても、、、。


逆に、この映画でそれを受け取らなければ、恐らく暇つぶしにもならない意味のない時間を過ごすことになるはず。
アメリカではなく現存在としてのヒトである。

普通に信用している日常は、そんなに堅牢なものではなく、穴だらけであるかもしれない。
あのでかいビルが2つ、あっという間に崩れ落ちてしまったのだ。
先に助け出された警官が、外の光の元で生を噛み締めるとともに驚く表情が印象に残る。
「あのビルは!?」「もうなくなったんだ。」

晴天の霹靂と言ってしまっては、それまでだが、当事者にすれば無限の重みであろう。
黒煙を上げているビルに一緒に助けに行った仲間5人のうち3人が犠牲になってもいる。
後から助け出された警官は助かったとは言え、手術を27回も受けているという。
2人ともに大変な重傷を負っていた。
この事件で救援のためビルに飛び込み、2次被害から救助された警官は全部で20人であり、彼らはその18番目と19番目であったそうである。

2人は目を合わせる空間にはいなかったが、お互いに声を掛け合う事が可能な距離にいて、声が出せる状態であったことが幸いした。
重傷を負い、ひとりで夜を明かすことは地獄であるはずだ。
絶望感に苛まれ気力を失ってしまうか、眠ってしまい、翌朝まではもたないケースが少なくないだろう。
何を話すでなくても、「絶対に眠るな!」と声を掛け合えることは、こんなとき物凄く大きい。

性善説とか性悪説ではなく、この意味で他者は尊い。


火星に「水」 ~ Mitaka ~ ブレードランナー続編

nasa001.jpg

氷の存在は以前から分かっていたことであったが、液体として存在することは、今回初めてNASAより発表された。
それは「塩水」として流れていると。
確かに塩水は氷点(freezing point)を下げる。(凍結防止剤がまさにそれだ)。
探査機マーズ・リコネッサンス・オービターの観測データから解析されたという。
しかし、実際に「液体の水」を確認したわけではなく、その存在が示唆された、というものである。
(物質固有の吸収スペクトルからの解析)。
理論上、ということなら、もう少し誤解の無い伝え方をしてもらいたい。
暖かい時期に急斜面に黒い筋が現れ、冬になるとそれが消えていることからの推測でもあるようだ。
人情から言って「ハビタブルゾーン」を望んでしまう気持ちは多くの人が持っているが、過剰な期待を抱かせることは罪である。
(特にわれわれはSTAP細胞などという茶番に騙されてもいる)。
NEWS


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気になっていた”Mitaka”をようやく、インストールして遊んでみた。
地球から宇宙全体に及ぶ宇宙像を実際に宇宙船に乗った気分で観ることができるソフト。
何と言うか、天文シュミレーターか。
個人で楽しむ分には無料!
これは、凄いソフト。
まだ使っていない方は、是非お試しを。
「宇宙空間モード」と「プラネタリウム・モード」とがあり、これまで観測で明らかになった最新情報と理論モデルを元にマッピングされ作成されている。

「宇宙空間モード」は、地球から宇宙の果て(138億後年先)まで、自在に飛び回り宇宙空間のどこからでも宇宙の構造を眺めることが出来るモード。特に、地球・月・火星は高解像度マップが施されており、宇宙船から眺める臨場感はかなりのもの。
特に注目は、それぞれ衛星が惑星に落とす影(土星の場合はその輪の影も)がしっかり見ることが出来ることである。
太陽系はそれぞれの惑星を周回する衛星の表面もかなりの精度で確認できる。
ニューホライズンズからのデータの結果もすでに反映されているのが嬉しい。
太陽系の外周の冥王星を離れるあたりや銀河系全貌に至ったときは感動的であった。

「プラネタリウム・モード」では、特定の天体に着陸しているとき、そこから眺める空が確認できるというもの。
すべてマウス操作でOK。キーボードも使える。
時間を進める、戻す。
ズームアウト、イン。
離陸・着陸、自由自在。
パソコンで宇宙旅行。
ここからどうぞ 
”Mitaka”サイト
バーチャルリアリティ(VR)ゴーグルの「オキュラスリフトDK2」にも対応している。 *購入に関しては、ご注意を!
  
ソフトは新たな理論モデル、観測による発見の度に、勿論アップデートされる。


blede.jpg

「ブレードランナー」の続編の制作が決定している。
すでに脚本は完成済みとのことだ。
更に、リドリースコット監督によれば、「プロメテウス」の続編も脚本は出来ているという。
”The Martian”(仮題)も含め、彼は現在3本の映画の脚本を完成し撮影を準備しているそうだ。
つい最近、”エクソダス”を発表したばかりと思っていたら、、、大変な仕事量である。
「ブレードランナー2」は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、リドリースコット製作総指揮で来年夏から撮影開始の計画。
脚本の仕上がりはリドリーによれば、とても良いようで大いに期待してしまう。
おまけにプロメテウスまでも続編を観られるということで、楽しみも増えた。
なお、リドリースコット監督の次作としては、「ザ・カウンセラー」が控えているそうである。
超人的!としか言い様がない。
シネマトゥデイより

ダウン・バイ・ロー

down.jpg

”Down by Law”
原題そのままだと何故かホッとする。
刑務所のスラングで「親しい兄弟のような間柄」だそうだ。
アメリカ/西ドイツ。
1986年。
監督・脚本はジム・ジャームッシュ。
何と、自主制作映画だという。インディーズ・ムービー又はインディペンデント映画というやつだ。
という事は、自己資金で制作したものか。
ハリウッドから出てくる映画でないことだけは、わたしにもハッキリ分かるが。

トム・ウェイツはミュージシャンだけでなく、俳優もやってたことを初めて知る。
彼の歌声も良いが、ジョン・ルーリーの音楽がまた、ピシャリと決まる。
この監督、役者をミュージシャンで固めるのが好きなようだ。
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」でも主演の2人はミュージシャン。
ここでも2人がミュージシャンで、本業の音楽も担当している。

「アメリカは大きなルツボ、熱して沸騰させればカスが上に浮き上がる。」
のっけからこんな決まったセリフが飛び出す。
モノクロでまるでミュージックビデオみたいなスタイリッシュな映像にもう釘付けになる。
タルコフスキーの「ストーカー」も男3人連れで、ひたすら彷徨い歩くものであったが、大分雰囲気は異なる。


まず前半だが、リアルな描写で、現状に満足出来ないが、どうしたらよいか分からないでいる男2人が、揃ってごろつきにハメられる。
ジャック(ジョン・ルーリー)とザック(トム・ウェイツ)の2人は同じ監獄に入れられ、反りが合わず反目しながら一触即発状態で過ごしている。
2人とも騙されやすいお人好しだがプライドと理想だけは高いというところがソックリで、似過ぎているため癪に障る。
陰険な空気が濃くなるばかり、、、そんなもんだ。
そこへ突然、調子の良いイタリア人ロベルトが仲間入りしてくる。
片言の英語であるが、お喋りで陽気。
ホイットマン好きの彼は、ジャックとザックを事あるごとに呼び間違える。
そんなことで2人ともすぐに打ち解け、ユーモアに富んだ会話と人柄でそこを和んだ空間に変えてゆく。
「何故そいつを殺ったんだ?ホイットマン嫌いだったのか(笑?」2人もツッコミをいれるなど明るさを取り戻す。
ここでの仕草や会話の間の取り方はホントに、絶妙である。
それだけでも魅惑されるほどだ。
「アイスクリーム、ユースクリーム、、、」の合唱(バカ騒ぎ)は、脚本なのかアドリブなのか、踊りの起源を観るような面白さだった。


わたしにとって、ここから先が後半となる。
寓話の世界だ。「ヘンゼルとグレーテル」ばりの。
ロベルトが脱走を持ちかける。
最近、「ショーシャンクの空に」で頭脳明晰な男が19年を費やして、大変な苦労の果てに脱獄に成功した話を観たばかりであるが、ここでは能天気な男3人があっさり脱獄する。あまりにあっけなく。
これでは、全国の刑務所から囚人が一人もいなくなっても可笑しくない。
ロベルトの言う「アメリカ映画の脱獄場面」でこういうの見たって、一体なんという映画だ?

沼をボートで彷徨う。
同じところを堂々巡りする。脱獄したは良いがどっちがましだったのか、途方に暮れる。
ボートが沈み、岸に上がってもここが何処か見当もつかない。
虫やヘビ、ワニに怯えるばかりの荒野である。
外の世界に解放されたのに、焦燥感と絶望がこみ上げるばかり。
また、2人のケンカが始まる。
そして、ロベルトの捕まえたうさぎを食った翌朝のことである。

「美しき冒険旅行」でもとても印象的だった、道ー文明の象徴を見つける。
一行は安堵感に包まれ歩き出す。
すると忽ち、おとぎ話そのままのレストランが現れる。
ヘンゼルとグレーテルを食おうと待ち構えている魔女の作ったお菓子の家か、日本の話なら差詰め、たぬきが人を魅しているだけである。

そこで、2人を待たせてロベルトが偵察に入るが、その場でレストランをひとりで切り盛りする女性と恋に落ちてしまう。
彼はもう友達を忘れて食事を楽しんでいる。それより凄いのは、もうすでに相思相愛状態なのだ。
その女性は囚人服の男が突然やってきて訝る気持ちはなかったのか?
それ以前に、とんでもない辺鄙なところに、そこそこお洒落なレストランを女手一人というのは、ほとんどホラーの設定である。
魔女なら分かるが、イタリア出身の普通の美女であった。
4人は美味しいイタリア料理を満喫する。ロベルトと女主人の祝福も兼ねて。
2人はこの先ずっとそこに暮らすと言い、ジャックとザックは翌朝、西・東に分かれて旅立つことになる。
しかし後半のこの展開に、特に躓くことは無く自然に観ることが出来た。

彼らが分かれ道まで一緒に歩くシーンは珠玉の映像である。
カメラワークは全編を通して秀逸であった。
分かれ道で2人が上着を交換する。
しかし言葉もなく握手もせず、さっさと違う道をゆくところが、また実に味わい深い。


お洒落な映画であった。(あらゆる意味において)。



VHSテープ版で以前見たはずだが、、、今回DVDでとても新鮮な気分で観ることができた。

続きを読む

フォレスト・ガンプ 一期一会

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”Forrest Gump”
1994。アメリカ。

フォレスト・ガンプのような人は、あんな風に孤独ではあっても、成功するんだ?
ってことは、流石にないでしょう。
特に何も望まない、無欲さがかえって良いのか、余程運が良いのか、どうか?
一種の寓話として観るべきか。

子供の頃は脚に不自由があり矯正器をつけて歩き、知能指数が低いことから公立学校入学が危ぶまれたが母親の力で入学する。その時、彼の世界に生涯住み続けることになる恋人ジェニーと出会う。彼は同級生からイジメに遭うが、それから逃れるために、ジェニーに「走って逃げて。」と言われた時から矯正具なしでとても速く走れるようになる。ここから奇跡の始まりなのか?

その走りを認められ、アメリカンフットボールで大学へ推薦されて大活躍し、アメリカ代表選手になりヒーローとなるや、その後もトントン拍子。
陸軍に志願すれば、言われたことを素直にこなすのが性にあっている彼は高く評価され、戦下に負傷兵の命を救った功績を讃えられ議会栄誉勲章まで受ける。
余暇で始めた卓球にも才能を発揮し、中国との「ピンポン外交」で名を馳せ、スポンサーまでつく。
そこで得た資金を元に、エビ漁で成功し億万長者となる。
ジェニーの愛はなかなか勝ち取れないが、ただ走りたくなって始めたマラソン(アメリカ横断)でさらに全米の有名人に。
取り巻き(信奉者)もたくさん現れる。
そこに意味を被せたい人々だ。
だが、フォレストに関わるとみな、成功してしまうらしい。
最たる者は、ダン中尉である。仕事のパートナーとなり運命を切り開いたとも言えそう。
先見の明でアップル株も大量に買い込んで資産運営にも成功していた。
しかしあるとき、フォレストは走り疲れたので家に帰ることにする。

この当時のアメリカンポップ-ロックミュージックもポンポンと飛び出してきて、時代を感じさせるに充分な演出になっていた。
それまで何人もの大統領に面会し、ジョン・レノンやエルビス・プレスリーとも親しく触れ合ってきた、、、。
そのCG合成がまたよく出来ていて、見所のひとつだろう。思わずにんまりしてしまう。(CMでも使われていたことを思い出した)。

(と、書いているうちに何やらアホらしくなる)。
しかし、彼は孤独であった。
一番肝心なジェニーの心を捕らえられないからである。


ベンチに座り、たまたま隣合ったヒトにこれまでの経験を話す流れはそれなりに面白い。
しかし感慨深いところは、ジェニーが不治の病となり、フォレストのところに彼の息子と共に戻った場面からだ。
ここは、「17歳のカルテ」的な部分である。
ジェニーの幼少時、父親から受けた外傷経験は、深く彼女の精神を彷徨わせることとなった。
自分の運命からの逃走を図り、非常に大きな回り道をする。二人にとってである。
そしてようやく、不治の病に掛かり、自分の道を見出す。
フォレストは一途にただ待つのみであったが、二人に残された時間は僅かであった。
誰もが運命に翻弄される。
「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」。
やはり、フォレストのように、出てきたチョコは何でも美味しく食べることが大切なのでは、、、。


ゲイリー・シニーズはこれまで観た彼の役では、一番良かった。
「ミッショントゥマーズ」等より何倍も良い。
かなりの見応えであった。

トム・ハンクスも自閉症の役作りは見事である。
演じている感じがもはやしない域に達している。


しかし同年に上映された「ショーシャンクの空に」のように揺すぶられることは、無かった。

ショーシャンクの空に

sky.jpg
”The Shawshank Redemption”
「ショーシャンクの贖い。」
まさにその通り、という映画であった。
1994年。アメリカ。

"I hope~"
「希望する、、、。」

ショーシャンク刑務所を舞台に、冤罪で終身刑を言い渡され入所したアンディ(ティム・ロビンス)と、そこで出逢ったレッド(モーガン・フリーマン)との友情を軸に、主に刑務所内で繰り広げられる稠密な物語である。
モーガン・フリーマンのモノローグ、ナレーションか?が映画を香り高いものにしている。


レッドは、希望とは危険なものだと、自由-外に対しそれを拒絶する頑な意思をもっていた。
人生のほとんどを刑務所で過ごしてきたため、その環境に馴染んでしまった自分に更に自ら桎梏を加えていたのだ。
しかし、彼は仮釈放で外に出され、シャバでいよいよ行き詰った時、アンディとの約束の実行に踏み切る。
向かうバスの中で、彼は自然に湧き上がった「希望」を胸の中で高らかに唱えた。
"I hope I can make it across the border."
"I hope to see my friend and shake his hand."
"I hope the Pacific is as blue as it has been in my dreams."

アンディが彼に宛てた秘密の手紙を手に取り,レッドは文字通り自ら固執してきた境界-国境を越えてゆく。
そしてたどり着いたところの、なんと美しく清々しい光景か。
夢に描いてきた青く煌く海辺で、2人は待ち望んだ再会を果たす。
これほど爽やかなエンディングがあっただろうか?
(少なくともこれまで、わたしの観てきた映画には無い)。
希望の勝利である。
希望を捨てない強い意志の勝利である。
観ているこちらまで嬉しくなってしまった。


ラストの部分についていきなり述べたが、ここに見事に収斂してくる物語である。
脚本はかなり念入りに彫琢されてきたものだと想われる。
全く隙が無い。観始めたら最後まで吸い込まれるように見入ってしまう作品だ。


刑務所内という閉塞空間にあるが、アンディは自分の教養と職能を活かし、所員の税金対策で仲間にビールを奢り信頼を得、根強い働きかけで図書館を素晴らしく充実させ、大胆にも刑務所中に鳴り響くオペラを流し、受刑者たちの心を豊かに解放に向けようとする。彼の生きることに対する姿勢と矜持に周囲は徐々に感化されてゆく。
塀の外、一見自由でどうにでも生きれると映る世界でも、実は単に塀が透明化しているだけである。
基本、人の住む同じ世界である。その自覚は刑務所内の方が研ぎ澄まされるはずだ。
アンディも優秀で平凡な銀行副頭取であった頃には気づかない内省を深めたと言えよう。
Rita Hayworthのポスターの裏壁に19年かけて穴を貫通させる間に、タップリと。
(ここは菊池寛の小説「恩讐の彼方に」を思わず想い起こすものがあった)。
そして彼が行った画期的で創造的な行為も、シャバでは零れ出してこない能力であっただろう。
囚人たちへの影響に留まらず、彼自身も変わり自らの生を希望をもって生き直そうという意識を高めたのだ。


そして、密かに所長の裏金の「洗濯」に見せかけ、外で生き直すための準備を万全にしていたところは、不屈の精神だけでなく知性と冷静沈着な計画性が不可欠である。
まさに、「ショーシャンクの贖い。」以外の何ものでもない。
アンディの20年分の償い-給料となった。
そして動かぬ証拠を警察に送りつけ、凶悪な看守と所長に完膚なきまでの仕返しをする。
よく出来すぎた話ではあるが、グリーンマイルズとは正反対の結果には、正直ほっとした。


原作は、「刑務所のリタ・ヘイワース」という中編小説。
「スタンド・バイ・ミー」のスティーブン・キングである。
「グリーンマイルズ」「シャイニング」「キャリー」「ミスト」でも著名。
単なるモダンホラーの作家ではない。
フランケンシュタイン等の脚本家、フランク・ダラボン初監督仕事だという。
脚本も手がけている。

処女作だけあって、大変な力作となっている。
(その為か、処女作を超えられない作家は少なくない)。
その後、彼は「グリーンマイルズ」、「ミスト」と圧倒的な作品を作り続けている。
凄いものだ。
しかしスティーブン・キングの専任映画監督だろうか?
カメラワークも音楽も申し分ないものだった。



ティム・ロビンスは「ジェイコブズ・ラダー」でも味わい深い演技が印象に残る。
内生的だが意志の強い聡明な役が似合う役者だ。
そして何よりモーガン・フリーマンである。
彼の存在の大きさを改めて知る映画でもあった。

バロン

baron.jpeg
18世紀、理性の時代と呼ばれた頃のお話だと。
”The Adventures of Baron Munchausen”
「ミュンヒハウゼン男爵の冒険」
”Time Bandits”(1981)、”Brazil ”(1985)のテリー・ギリアム監督1989年度作品。
昨日、”Brazil ”を観たついでに”The Adventures of Baron Munchausen”「バロン」を観てみた。
ドイツ民話『ほら吹き男爵の冒険』を元にしているという。

確かにホラ吹き男爵の話である。
最初のうちはただの痴呆老人に映るが。(医者はいらんと言っているし)。
18世紀とか言っても、別に史実を意識するような類の内容ではない。
「近未来ブラジル」には闇雲に管理社会から抜け出したいともがき喘ぐサムの顛末が描かれる。
われわれの世界と地続きであり、身体的共感ができる。
ジョージ・オーウェルの小説『1984年』にインスパイアされており、その全体主義やカフカの描く官僚主義の香りも強く、意識階層の相互嵌入があって見応えがあった。


バンディットQ(Qが何のことかさっぱり分からぬ)と、このバロンは同じ傾向のものに思える。


物語は、道理と理屈を否定するバロン男爵に、旅芸人の娘サリーが彼の冒険譚を是非聴きたいとせがむことから進展してゆく。
主人公男爵の魅力と話の筋がしっかり引かれているため、バンディットQより心地よく観ることはできる。
また、こちらの方が美術に関しては数段よく感じられた。
美術面の力の入れようは相当なものだ。
しかし、バンディットQの時に感じた違和感と同様のものはある。
その荒唐無稽で支離滅裂な話=映像。

バンディットQ程ではないが、この重力を感じない冗長な話には、やはり厳しさを感じる。
「ホラ話」と言っても、イタロ・カルヴィーノの『レ・コスミコミケ』のようなメタSFなら充分に面白いのだが。
しかし、キャストもよい分、またもう一回も観ても良いかなとも思える映画とは言えよう。


結局、あの老人は一体何ものだったのかは解らない。
「バロン」以外の何者でもないが、、、。
後で思い返せば、三日月から脱出するときや海で溺れないように、紐や髪を自分の手で上に引いていれば大丈夫という場面がこのバロン男爵が何者なのかを象徴していると想われる。

兎も角、映画は観衆の前でバロンの語る-演じる話であり、撃たれて死ぬのも話である?
彼の言うには、もうすでに何度か死んでいるそうな。
(度々死神が飛んできては、魂を持ち去られたり、蹴散らしたりしている)。
そして、話の間中、トルコ軍から激しい砲撃を受けていた街だが、バロンが城門を開けろと叫び、人々が開けるともうトルコ軍が消え失せている。
まるで、バロン男爵が家来と共に、彼の話す通りの戦いでトルコ軍を蹴散らしたかのように。
彼の話で現実が生成されている。
そのバーチャル時空に、暫く全ての人々が飲み込まれていたらしい。


サリーの表情が豊かで愛くるしくよかった。
後の女性映画監督サラ・ポーリー。

バロン男爵は、ジョン・ネヴィル。
如何にもシェークスピアの舞台劇がルーツということが納得できる役者である。
確かに演劇的だ。この役に合っている。

お供の4人もなくてはならない配役だった。
丁度、アベンジャーズみたいな面白さを物語に与える。
こういう戦隊(チーム)もの?は好まれる傾向が強い。(アニメや子供劇でも大人気)。

ユマ・サーマンのビーナスの誕生シーンは綺麗であったが、笑えた。
これはオマージュか?



月の王をあのロビン・ウィリアムズが演じているのには、呆気にとられた。




未来世紀ブラジル

brazil.jpg

”BRAZIL”
わたしは、以前ブログで「未来世紀ブラジル」はまだ観ていない」とキッパリ書いていたが、今回それを観てみて、過去に見ていた事をはっきり思い出した。あの記事は嘘であった事が判明した。わたしの記憶力は実に怪しい。
サウンドオブサンダーの時も、映画の題を思い出すのに苦労した。
パッケージ裏の説明書きを幾つも確認してみて、それを探り出した。
内容を断片的に覚えているものが多い。


「バンデットQ」ははっきり言ってつまらなかったが、これはかなり面白かった。
”BRAZIL”まさにあのサンバの名曲である。
内容にジャストフィットしている。
あの翼を付けた主人公サムが女神を追って飛んでいる空はBrazilの空だろうか?
Brazilとはまさにサムの精神が破綻したところから生じた楽園に繋がる幻想空間であろう。
恐らくあの美女を夢に見た時から狂気が彼の精神を侵食し始めたのだ。


彼は優秀なのに立身出世などに興味なく、生真面目で正義感もちょっとある、できる男であったが、、、。
現実の世界において、夢とそっくりな女性に出逢ったからといって、常軌を逸した行動に出る。
彼女に対する、その突拍子もない無茶な突進は、頭のネジがどこか抜けているか夢の運動に似ている。
初対面の相手に対し、自分の立場も顧みずあそこまで猪突猛進出来るものか?
自分たちをただ追い詰めるばかりの危険な行動がエスカレートするばかり。
何処か調子の狂った冗談話に思えてくるのだ。
無論、現実そのものが悪夢であり、狂態を顕にしている。
情報省が絶対的な権力を握る管理社会。


そこでは、爆弾テロは日常茶飯事。
「ハエ」によってタトルがバトルにミスタイプされた書類が元で、無実の男バトルが家族のいる前で役人たちに強制連行され、機械的な手筈により拷問で殺される。
子供たちはこの問答無用の強制連行を面白がって遊びにしている殺伐とした街。
その遺族への過払い金返金(拷問は当人自己負担)の小切手処理に手を焼き、自分の不運を嘆く役人。
役人は、常にミスに怯え自分の局のミスを他の機関に必死で押し付け合う。
全てが書類(数字と記号)のやり取りの問題に完結する。
苦情を訴える書類などは、窓口を永久にたらい回しにされ採り上げられない。
書類を拒絶し、ゲリラ的なモグリの修理屋なども暗躍する。
勿論、危険人物として指名手配だ。
何から何までセントラルサービスに一元管理されている。

アンチエイジングの美容整形手術は、リスクなど度外視で怪しい医者に丸投げ。
レストランでも注文は全て番号。料理はみなペースト状である。
何故かダクトを巡って何度も珍事件が起きる。ダクトへのコダワリは何か?
役所の伝達メールは、コンピュータでは行わず、やはりダクト状の管を通してやり取りする。
妙にアナログで面白い。
役所のすべては形骸化しており、みな忙しぶって書類を持って動き回っているだけ。
サムはその中、ひたすら彼女を追い求め、彼女も急にサムに好意を寄せ、2人は愛し合う。
流れるというより、パッチワーク的に物語は進む。

サムの夢には、亡者となったバトルの家族や大魔神のような姿の東洋的な巨人、何処かで見たことのある岩石の怪人などが出てきて、彼は羽で空も飛べる勇者として、果敢に戦う。
しかし、倒した大魔神が仮面を取ると自分の顔であった。
そこで目が覚める。
何をか自覚したのか?
果たして、どうなのか?目覚めたかどうかも疑わしくなってくる。

サムは最後に思い切り派手な楽天的で気味の悪い夢を見て、逝ってしまったと受け取れる。
しかし少し遡れば現実と想えたシーン、特に彼女の現れが何時も余りに唐突でしかもご都合主義である。
恐らく彼は極めて早い時期に発狂し、白昼夢と夢の間を行き来していたと考えたほうが腑に落ちるのだが。
現実にどんな動きをしていたのかが実は1番判らないくらいだ。

そんな気がする(笑。


面白い冗談映画であった。




ザ・フライ

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”The Fly ”
まず、主演の役者にギョッとする。
もう、端からその顔を見た途端、この映画が尋常なものでないことに感づく。


1986年度制作アメリカ映画。
1958年度制作された「ハエ男の恐怖」という映画のリメイクという。
デヴィッド・クローネンバーグ 監督。
ヒトがハエと遺伝子レベルで合体し、徐々に変態してゆく過程を生々しくグロテスクに物悲しく描いてゆく。
変身前から昆虫的な顔の博士の元で科学ジャーナリストの女性の見守る中、実験が進められる。
荒涼とした巣窟のような実験室兼自宅である。
(まるで昆虫の棲家のよう)。

物体のテレポートには成功しているが、まだ生き物はできない。
そこに科学者は悩んでいる。
マントヒヒで実験してみたらリバース状態で転送されてしまった?!(よくわからん?)
彼女に失敗の原因はと聞かれ「ぼくは生き物は苦手だから勉強しなけりゃ。」
と悠長なことを言っていた暫く後に、ステーキ肉で試してみると、転送後の肉の味が何と合成肉のようだと。
「そうか、肝心なのは新鮮さだ!」と閃き、コンピュータに新鮮さの概念を植え付け、生物の転送に見事成功してしまう。
古き良き時代の香るINTERFACEであるが、きっとハードウェア本体は量子コンピュータレヴェルのものであろうか。
この辺の流れには参った。

しかし、その部分を除けば、マッドサイエンティストの心理状態、意識の変化は充分納得のいく描かれ方だ。
勿論、そのビジュアル面での造形は、クローネンバーグの独壇場だ。
異形の変態を作らせたら、他を寄せ付けない匠の技を魅せつける。
説得力は半端ではない。

最初のテレポートの時に、自分の乗った装置にハエが一匹紛れ込んでしまっていた。
コンピュータはそれぞれを再現するのではなく2体を融合させてしまう。
最初は超人化して体操選手のようなことを始め、やたらに精気漲ってしまった彼だが、、、。
体には昆虫の毛が生え出し、皮膚や爪、歯などから異常がはっきり現れ始める。
分泌液が体から出始め、その液で物を溶かして食べるようになる。

美しい女性ジャーナリストは恋愛関係になったとは言え、徐々に奇怪な外見を呈してゆく彼にはついて行けなくなる。
言動も超人となって高揚を極めたかと思うと、外見の急変とともに悲観的になり後悔し始める。
最初の頃は新たな能力を身に付けた新種の生物になる、と堂々と宣言していたが、「人間に戻りたい、、、」と。
それは、そうだろう。
彼は時とともに容赦なく昆虫化してゆく。

そんな時、彼女は身篭っている事に気づく。
彼女の苦悩は新たなステージになる。
これまでは、恋人という存在に対する苦悩であったが、今度は自分に宿った生命に対するものだ。
最初は堕ろすことを躊躇う彼女であったが、もはやハエというか害虫と言ったほうが良い状態に瀕している彼に対する恐怖から、決断を下す。
しかし、それに気づいたハエ男は彼女を病院から連れ去り、何と転送装置で自分と彼女と赤ん坊の3体で融合しようと強引に迫る。
そうすれば、自分も再び人間に近づくはずって、、、そりゃ身勝手な!
藁にもすがる気持ちは理解できるが。

圧巻は、彼女の手を引っ張って装置にたどり着くまでに、ボロボロと醜く身体が剥がれ落ち、昆虫の正体が顕となってゆくところだ。
ここぞまさしく、クローネンバーグの真骨頂である!


徐々に変化してゆく目を見張る造形面ばかりに拘ってしまったが、それは同時に人間の変身(超人)願望、超脱への欲望と葛藤の見事な表現となっている。
さらにどのような形であっても、異形と化してしまった者の生きにくさも身につまされる。
形そのものが変異していなくても意識の変性(又は価値感・思想・信仰)により、普通に生きれなくなった者も同様である。
無論、完全に変態すれば意識自体が変わり、全く別世界の存在となってしまう。

そして何と言っても彼女のハエ男に対する想い-感情である。
恋愛感情も捨てきれない上に、子供まで身篭ってしまい女-母としての悲痛な心境は如何程のものか。
愛情と恐怖に引き裂かれるなか。
最後は彼を自らの手で殺してしまう事に、、、。


さて、この女性はどうなるのか、、、

「ザ・フライ2 二世誕生」という続編にどうやら引き継がれたようである。
しかし監督はクローネンバーグ ではない。

微妙である。



300

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紀元前480年の話。
ペルシャ大王クセルクセスに土地と水を差し出せ、と迫られスパルタが300人の精鋭で1000000人の兵を迎え撃つ、破天荒な戦いを描く。
国の自立と民衆の自由と矜持を守るために。
史実的には「テルモピュライの戦い」にあたる。

ペルシャ、、、東洋だからか「不死軍団」という部隊が、忍者のような装束であった。
スパルタの軍勢も甲冑は身につけず、ボディービルダースタイルである。


スパルタ王レオニダスは秘策があった。
海岸線の狭い山道にて迎え撃てば、相手が圧倒的に多勢であっても、攻撃を退けることが出来るというもの。
その策により、相手を次々に打ち倒してゆく。
世界各地から集めたモンスターや巨大怪物、火薬そして空を覆い隠すほどの矢を放つなど、続々と襲って来るが何が来ても勇猛果敢に撃退してゆく。
スパルタ精鋭軍は戦いのプロである。(職業が戦士である)。
肝も座っている。

最初から死を覚悟した上での戦闘であったが、もしかしたら打ち負かすことが可能ではないかという希望も芽生える。
しかし、参戦を拒まれた奇形の男がスパルタの陣の裏に回る道をペルシャ軍に教えてしまい、スパルタ軍は数だけでなく体勢上も不利を極める。しかもスパルタ評議会もペルシャから賄賂を受けた者が邪魔をし援軍を出せない。
包囲され絶体絶命の境地に立たされたスパルタ精鋭軍は孤軍奮闘するが、世界全土から集められたペルシャ軍の圧倒的数の前にもはや打つ手はなかった。
自ら神と名告るペルシャ王クセルクセス目掛け、あらん限りの力で槍を投げるレオニダスには思わず感情移入した。
不屈の精神で戦う彼らであったが、王を含め、全員討ち死である。

ある意味、アメリカ人の最も苦手な、しかし異常に拘る自己犠牲の精神を描いている。
まるで、日本の特攻隊である。
侍の美学とも言えようか。
(しかし、東洋に対する固定観念は感じられる)。

CGも効果的に使われているが、演出の道具であり、志のために命懸けで戦うヒトの姿が浮き彫りにされてゆく。
史実などより大切な精神のリアリティを狙った映画であることが分かるものであった。
「ラストサムライ」がそのような志をもったフィクションであったように。

戦いの迫力は、多勢に対し少数の精鋭ということから、終始痛々しさと無常さが強く感じられ、ワクワクするような類のものではなかった。
残酷な殺し合いがずっと続くが、即物的な刺激は何故か無く、選択の余地のない場所に立った者の強度-気高さに打たれるものだった。

わたしは、マッチョは大嫌いだが、この映画に不快感を覚えることはなかった。
寧ろ美しい映画であった。
確かに映像美が際立っていた。
様式美をも感じる。
モニュメンタルな雰囲気を醸すスローモーションや安定したカメラワークがドラマチックな歴史画的な趣を与えていた。



「グラディエーター」にも迫る内容であったと思う。

国王が、戻って国民に伝えよと、一人の負傷兵に託したことば。
「、、、忘れるな。」
これはとてつもなく重い。


やがて、レオニダス王の遺言を引き継いだ民衆が大きな軍勢となり、再びペルシャ軍に立ち向かうところで幕となる。

これは、プラタイアの戦いであろうか。
「レオニダスの仇を討て」という神託を得て、10000人の兵士を集め、ペルシャ全軍と対峙しこれを打ち破っている。
この戦いにより完全にギリシャ全土からペルシャの影を払いのけてしまった。
また、テルモピュライの戦いでレオニダスの軍が4日もペルシャ軍を足止めできたため、サラミスの海戦が万全の体制が組め、ペルシャ軍に大勝する事が出来たといわれる。

300 02

シンデレラ

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”Cinderella”
2015年。実写版。
テーマは勇気と優しさをもつこと。
大切なことだ。
7歳の長女は「アナ雪」よりもよかったそうである。

子供と一緒に観たい映画である。
これほど良質な映画は、なかなか出会えないものだから。
はじめは主役の2人に違和感を覚えたのだが、話の進行に伴いしっくりしてきた。
後半はもうこの2人こそがまさに適役だと心底思った。

それにしても、継母のケイト・ブランシェット は強烈であった。
彼女が物語をきりっと引き締めていた。
クレジットも1番上で、彼女が主役かと疑った。
リリー・ジェームズ は観ているうちに、シンデレラそのものというような勇気と優しさを湛えた美しい女性になっていった。
キット王子も二枚目とは言えそうにないが、好青年が板についていた。
あれなら頑固な父親も改心するわと納得できる。
全く嫌味がない、不自然さもない爽やかな2人であった。
ヘレナ・ボナム=カーター は、「チャーリーとチョコレート工場」「アリス・イン・ワンダーランド 」にも特異で個性的な役で出ていたが、ここでは、お茶目なフェアリー・ゴッドマザー である。
ぴったりだ。

あの黄金の馬車にカボチャが変わるところ、徐々に戻ってゆくコミカルな場面は見ものである。
シンデレラのドレスの変貌もハッとする美しさであった。ガラスの靴もゴージャス。
ねずみとトカゲ、あひるの変身もユーモラスで楽しい。
CGの最も有効な使い方だ。
果たして運命か奇跡か?
CGー魔法の力をちょっとだけ借りるが、後は勇気と優しさをもったシンデレラと王子は結ばれる。
(とは言え、ちょっとだけの力が奇跡または運命を決定的に引き寄せるのだが)。
完璧な映像であった、特に舞踏会は間合いも良い。
それから全般に音楽がしっかり絵にマッチしている。
期待感が静かにドラマチックにひろがる。
あの階段を降りるシンデレラの青いドレスのインパクトは大きい。
母のドレスの面影はなくなってしまっているが、彼女がよければそれでよかろう。


しかし、エラ(シンデレラ)の実母は、偉大である。
「どんな試練にも負けない秘訣を教えてあげるわ。」
「勇気と優しさをもつことよ。」
自らの死に際にこんなことを伝えられるヒトはそうはいまい。
それに引き換え、父親の洞察力には参ってしまう。
よりによってである。
枝など彼女に届けている場合ではなかろう。
しかし、それがなければお話にならない。
(こういった話にはよく賢い母と愚かな父のパタンが見受けられる)。


最後にシンデレラは継母に「あなたを許します」とあっさり告げて、王子とともに出て行く。
この映画では姉たちについては童話にある肝心な描写が除かれている。
自分の足をガラスの靴に合わせようと、踵とつま先を切断している部分と、シンデレラの結婚式に出る途中で鳥に目をつつかれ潰されているところだ。映画は結婚式までは見せていないので、鳥の件は元より入る余地はないにしても。
継母も姉たちも王国の外にひっそり消えたようだが、穏やかな幕締だ。
ディズニー映画として正しい運びであろう。
童話の通りだと、娘には見せられない。


勇気と優しさに満ちた生活を送りたい。
娘とまた観たい。

考える映画ではなく、感じる映画である。


この映画、「シンデレラ」の新たなスタンダートだと思う。

ジャックと天空の巨人

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「ジャックと豆の木」は子供の頃、絵本で見た。
表紙絵を見るだけでほとんどなかみの了解出来る話であった気がする。

"Jack the Giant Slayer"
イギリス童話を元に制作された2013年度アメリカ映画。
(たまには最近の映画も観たい)。


この映画は、まずは国を支配しようとする陰謀によって封印されていた「豆」が撒かれることになる。
それは、長いこと隔絶されていた、巨人の住む天界と人間の世界を結びつけることを意味した。
巨人たちが人間を捕食することを目的に天からぞくぞくと豆の木を伝って降りてくる。
人間と凶暴な巨人との凄まじい攻防戦が始まる、というもの。

元の童話と比べると、、、。
豆と交換されたのは牛であったが、ここでは立派な白い馬。
怒った母に豆を庭に捨てられるが、ここでは叔父に床に捨てられる。そのうちの一粒が床下に落ちる。
雨後、豆が発芽し木となってたちまち天に突き伸びることは同じだが、ジャックがそれを登り巨人の国で「金の卵を産む鶏」を盗んだり、金銀財宝を盗みに行き来する中核となる部分は映画ではばっさり切り捨てられており、高所恐怖症のジャックが木を登るのは、ひとえに急成長する木とともにみるみる天空に連れ去られてしまった姫を助けに行くためだ。
かつて姫の先祖である英雄が巨人を意のままに操る冠を巨人の心臓から作って巨人を封じ、冠は王家に秘密裏に受け継がれてきた。日本で言えば葵の御紋(あくまで水戸黄門の)か。
ここでは、それが重要な鍵となる。国の支配を企てる国王の臣下がその冠と豆を盗み、巨人を操って事に当たろうとする。
原本は、盗まれた財宝に気づいてジャックを追ってくる巨人を、木を切り倒して墜落死させ交通路も封じたことにより、ジャック一家はその後、裕福に暮らしましたというハッピーエンドとなる。
日本の桃太郎に似た、侵略者(強奪者)が幸せを勝ち取るという、ブラックハードボイルド民話のひとつである。
(しかし、実際世界では歴史的に、この例に事欠かない)。
映画では、過去に人肉の旨さを知った巨人たちがそれ目当てで、木を降りて地上を恐怖のどん底に陥れる。
スリリングな攻防の末、ジャックが冠を奪いそれを頭上にのせると同時に巨人たちが平伏し、巨人は天空に立ち去り木も切り倒し、事は収まるというもの。
めでたくジャックは平民ながら姫と結婚し、国王となり国を治める。


絵本で楽しまれてきた民話であったが、3DCG映画となりかなり様相は変わった。
被害者の巨人が圧倒的な鬼に描かれ、悪知恵の働く泥棒ジャックは正直者の正義漢に変わっている。
財宝目当ての冒険で金持ちになってゆうゆうと暮らすレベルから、王国を陰謀と侵略から守り、国と王妃を手に入れるというスケールに変わっている。
映像的には巨人の迫力、破壊力である。
これはCGが最も有効に活かされた映画のひとつと言えよう。
CGファンタジー作品のお手本にもなりそうだ。
肝心なところは全て、見事なフルCGで作られている。
この映画からCGを抜いたらもう何も残らない。
プロットにおいては、人間の強欲と策謀、勇気と愛、国を守るための我が身を省みぬ戦いなど単純明快なものであり、それを具現化する大迫力のスケールをもったCGが一番の見せ所となる。
巨人の大暴れ、破壊と惨劇、人間を喰らう直接的な場面は見せないが、その醜さと迫力はかなりのインパクトをもつ。
テンポも良い。
特に後半、木を切り倒し姫もジャックとともに帰還し一息着いた後の怒涛の急展開が面白い。
3DCGの独壇場である。と同時にCGが完全に自明の形式になっている。


CGをそれと意識せず、素直に浸り込める映画である。
(ただ、7歳の娘たちはかなり怖がっていた。巨人の顔が怖かったのだ)。
レオナルドダヴィンチの恐ろしい顔(醜い顔)のデッサン集にあるような顔であった。
わたしにとっては、絵本ものよりずっと面白かった。
jack02.jpg
明日もこの線で何か探したい。

誰が為に鐘は鳴る

For Whom the Bell Tolls

For Whom the Bell Tolls
ヘミングウェイの小説を映画化。
1943年。アメリカ。
カラーであることに驚いた。
テクニカラーである。

「誰が為に鐘は鳴る」
小説を読み感動したイングリッド・バーグマンは映画化にあたって髪を切り、直接ヘミングウェイ宅を訪れ自分を売り込んだという。
大変行動的な野心家である。
情熱的で傷をもった愛らしい女性を活き活きと演じている。
主演はゲーリー・クーパー。
アメリカの俳優にしてはマッチョでなく、とても繊細な雰囲気があり好感がもてる役者である。
自分の信条とマリアへの思いに葛藤する内省的な性格の教授をそつなく演じている。
若干彼の線の細さを感じるてしまうのは、脇を固める役者が癖があって強力なのだ。
助演するカティナ・パクシヌーの骨太な演技と複雑な心境に揺れるエイキム・タミロフの存在感は際立っていた。


「ゆえに問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと、そは汝がために鳴るなれば」
誰のために弔いの鐘が鳴るのか、それは、あなたのために鳴っているのだ、ということが冒頭に述べられる。
主人公ロバート・ジョーダンは、スペイン内戦を他人事とは思わず志願兵として戦地に赴いたアメリカ人である。
強い使命感をもち、志を高く生きている人である。
橋を撃破する作戦にゲリラの協力を求めるが、そこで知り合うマリアと恋に落ちる。
しかしゲリラ内でのメンバー同士の相克もあり、ロバートにとって耐え難い人格にも出会う。

大変緊迫した流れに緩急をもって、二人の見つめ合うシーンが断続的に挿入される。
片や刹那的で諦観に満ちていて、片や永遠を想わせる愛と希望を湛える情景である。
演出面で、主人公にライトを当て顔を明るく浮かび上がらせるのが印象的であった。
この時期のハリウッドの手法か。
白黒ならきっともっと夢想的で格調も高くなったかと思う。

彼は戦況から橋の爆破が無駄と分かりつつも、中止命令が間に合わないため作戦決行となり、それに殉ずる。
どこか日本の武士のようである。
イラク戦争に駆り出されていったアメリカ兵とは明らかに異なるが、虚しさは同等のものであろう。
最後の場面は、一途なマリアを説き伏せ、仲間を逃すためにひとり残って敵を迎え撃つ彼の心境が顕に示される。
自分の死に、意味-価値を見出したいという最後のこころだ。
もはや、義勇兵としての志ではなく、アメリカや自由という概念-思想のためでもなく、マリアのために死のうと。
共感はできるが、何か自己完結的でナルシスティックな気もする。


自己犠牲と言う前に、何とか共に逃げる方法はないのか、という気持ちも残るのだが、、、。
脚をやられただけなのに、何でさっと死を、と言うより死別を選ぶのか。
別れることを、、、。
「ゆえに問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと、そは汝がために鳴るなれば」


ここで別れることで、真に一体となる事を望んだと見るべきか。



チャーリーとチョコレート工場

Charlie and the Chocolate Factory

"Charlie and the Chocolate Factory"
原作は児童小説とのこと。
ファンタジーであるが、児童が見るにしては、ちょっと苦すぎるか?
映画は、ティム・バートンとジョニー・ディップ推薦のフレディ・ハイモアのタッグである。
とても若い俳優だが、ジュニー・ディップがやってもきっとこんな感じだろうな、という演技であった。
(不思議の国のアリスの帽子屋とダブって見えてしまうのだ)。

この作品でティム・バートンが思い切り遊んでいることが分かる。
数々の名作映画へのオマージュと受け取れるシーンがたくさんあった。
わたしは、映画に疎いためそれほど見つけられないが、通はにんまりしっぱなしであろう。

私自身、チョコレートには目がない。
しかしチョコにしても「チョコレート」という映画は、さほど馴染めなかった。
だがこちらのチョコレートときたら、もうチョコレートそのものが即物的に止めどなく溢れ出してゆく。
呆気にとられるチョコレート三昧だ。
チョコのハイパーテーマパークと言ったほうが良いチョコレート工場と言えよう。


この主人公ウィリー・ウォンカはかつて流行ったアダルト・チルドレンか?
ストーリーは彼が自慢のチョコレート工場を子供達(その保護者も)に見せて回る中で奇想天外な展開をみせるものだ。
ウィリー・ウォンカは父に対するトラウマを抱えチョコレート工場を設立したが、それにまだ囚われている。
会社の後継者をいよいよ決めようというとき、クジで拾い上げた5人の子供たちの中から選びだそうと思いつく。
何故か世界中から集まった子供たちは個性的というより、揃いも揃ってとんでもない連中だ。
貧しい家のチャーリーだけがまともである、どう見ても。

5人の中から選ばれた1人がとんでもない副賞を得られるということから、大変なサバイバルゲーム(”ハンガーゲーム”が記憶に新しい)が繰り広げられるのかと思いきや、単にとんでもない子供たちが自ら自滅してゆき、チャーリーが普通に見学していたらただひとり残ってしまった。
「残っているのは君だけか?」「うん、そうだよ。」「じゃあ君が優勝者だ。」
これほど簡単な勝ち抜き戦は見たことない。

その間面白いシーンは目白押しであるが、特にウンパ・ルンパの多彩なミュージカル・シーンである。
ウンパ・ルンパ役の役者ひとりの多重合成で成り立っているにしても笑えるというより、徹底したダークコメディのほろ苦さが味わえる奇妙な楽しさである。
参加した子供が消えるたびに、ミュージカルが始まる。これは、見ていてクセになりそう。
サウンドもそれぞれに懐メロ調で、もう勝手にやってという感じ。

ウィリー・ウォンカはチャーリーに工場を継がせる(とんでもない副賞)にあたり家族を捨てる条件を出す。
家族思いのチャーリーにそれができるはずがなく、にべもなく断られる。
これが理解できず落ち込むウィリー・ウォンカであったが、チャーリーに父親との和解を助けられ、気持ちが変化してゆく。
父がどれだけ彼のことを思っていたかを知る事になる。
後継者選別ツアーでチャーリーと出会うことにより、ウィリー・ウォンカ自身もトラウマから解き放たれてゆくことになった。


最後は、再度のウィリーからの申し出に、チャーリーは自分の家族と一緒に暮らす事を提案する。
チャーリーはチョコレート工場を得て、ウィリー・ウォンカは家族を得た。
めでたし、めでたし。


おしまい。



第三の男

The Third Man

The Third Man
1949年。イギリス。キャロル・リード監督。

映画らしい映画を見たいと思い、これを観た。
以前、淀川長治氏が「映画の教科書」と評していた作品である。
教科書と言われると少し抵抗があるが、完成度の高い文句なしの映画だと受け取れるものだ。
オーソン・ウェルズも出ているということで。
そして、観て気づいたのだが、すでに観ていた映画であった。半ば無意識のうちに、、、。
(地下道で逃げ惑うウェルズは記憶に残っていた。いつ見たかは定かではない)。

何と言うか、「映画」を観る事の恍惚感をたっぷり味わえた。
「映画」というものを観たという気持ちだ。
そして、今後も時折見直したいと思う。
(映画とはどんなものであったかを思い起こす意味で)。


「第三の男」
非常に繊細なモノトーンであり、カメラワークもアングルショットによるサスペンス効果充分のものであった。
そこに分割統治下のウイーンの街並みの退廃的な美しさが際立っていた。
光と闇の絶妙な操作-コントラスト。影の中から浮き彫りとなるウェルズの表情。人影の巧みな使い方。
演出はきめ細かい。
圧巻は、地下下水道におけるウェルズの鬼気迫る逃避行のシーンである。
明暗の階調はピッタリで、動きやカットに全く無駄が感じられない。

配役も実に決まっている。
主役の三文作家ホリー・マーティンスにジョゼフ・コットン。
親友のハリー・ライムにオーソン・ウェルズ。
親友の彼女、女優でもあるアンナにアリダ・ヴァリ。
ウェルズの存在感はやはりただものではない。顔からしてそうである。
アリダは感情のうねりを秘めながらもブレないクールな女性を好演していた。
ジョゼフ・コットンの幾分粗暴だが内心揺れ動く心理描写は説得力があった。
音楽構成も申し分ない。音はチター奏者アントンカラス作曲・演奏によるもの。
なるほどこの曲かと思った。余りに耳慣れている曲だ。

ストーリーも多言語(米英仏ソ)入り乱れる戦後のウイーンの環境を効果的に表現している。
というより、第三の男を探りつつ、怪しげで胡散臭い人物たちと関わってゆく現実の不透明さをよく実感させてくれる。
交通事故にカモフラージュした友人ハリーの失踪を巡り、ハリーの彼女アリダも絡み話はスリリングに展開してゆく。
緩急のある流れにこちらは抵抗する間もなく乗ってしまう。
特に主人公ホリーが公演場所まで猛スピードで車で連れ去られるシーンには、ビックリした。
ホリーとアリダの間は親密度は増すが、感情的に噛み合わない。
観覧車でのハリーとの濃密なやりとり。粗悪な薬品横流しで荒稼ぎする彼への苦い失望。
ハリーとの関係を巡り、治安警察官との取引も絡み、友人の彼女アリダとの感情も縺れてゆく。
終盤、急降下するようにスピーディに呼吸が苦しくなるほどの緊張感ある地下道のシーンへと流れる。


何かが足りなかったり、突出している感じがしない。
これぞ職人芸であり、完成度の高さであろう。


この話は友人の葬儀に始まり、同じ友人の葬儀で終わる。
ホリーにとっては、信頼していた友人の喪失となるが、アリダにとってハリーへの恋愛の情は変わるものではなかった。
主人公が帰りの空港に行く車から降り、墓地から銀杏並木の道を歩いてくる彼女を待つ。
しかしアリダはホリーに一目もくれず、そのまま立ち去ってゆく。

その絵の静かで美しいこと。



まさに「お手本」と成りうる映画だ。
これを観ると、後の映画に如何に大きな影響を与えているか分かる気がする。


死霊のはらわた

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これをホラーと言わずして何をホラーとするか!
凄まじいホラーであった。
「死霊の盆踊り」を見る前に観ておこうと思ってみたのが運の尽きである。
流石、古典的名作であった。
いや、そのリメイク版であった。
サムライミとあったので、それだと思ったのだが、リメイクの方であった。
TS○TAYAで借りた。わたしは、ちなみにホラーは買わない。
それは兎も角、怖いの何の!


何故こういうものをヒトは好んで見たがるのか?
確かに意外な展開とどんでん返しもあり、この映画で途中で飽きるヒトはまずいまい。
隙がなく映画としてよくできている。
というか、洗練されている。
もうこの手法ージャンルも歴史的に確立されてきているのだと感じられる。
しかし心臓に悪い。

わたしとしては、ホラーに疎い分、このスプラッター連続のシーンには参った。
思わず「イタターッ!」と言ってしまう痛さである。
(わたしは、血液検査でも注射針は見ないようにしている)。
2013年版であることから、最近のホラーとはこのような傾向を強めているのだろうか。
ショッキング映像をただ極めてゆくこの方向性はどこにいこうとするのか?
刺激をひたすら強めていって、どうするのだろう、と心配になる。

何と言うか、「フランケンシュタイン」「狼男」「ドラキュア」などには、ドラマがある。
クリーチャーそのものにペーソスやユーモアもあり親しみと深みを感じることが出来る。
やはり仄暗い存在の厚みがそこはかとなくあるところが救いでもある。
ここに出てきた悪霊に内面的なものは微塵も感じられない。
悪霊にそれを求めるつもりはないが、存在そのものがあまりに平坦なのである。
であるから、直接的な激しい殺戮方法の見せ場以外に要素がなくなる。
そのパタンを効果的に組み合わせ、最後にこれでもかというダメ押しを入れる。

恐らくその線で秀作はかなり作れるのではないか。
今回も、筋書きは単純である。
あるおどろおどろしい書物を見つけ、それの読めるところを読んでみたら、それが呪いの呪文であった。
呪文を唱えてしまったばっかりに、封印を解かれた悪霊が人間に憑依して操っては次々に惨劇を繰り広げてゆく。
設定もヒロインの薬物中毒を兄弟・友達で治してあげようと集まった山小屋が舞台となる。
少しは森に出るが基本的に小さな山小屋の中だけで話が展開する濃密な舞台である。
後は、効果である。
如何に恐ろしく出現し、惨たらしい殺し方をするか。
そのバリエーションである。
どのくらいストックできるか。
似たようなものでは、興醒めとなろう。

これ1本見た限りでは、充分怖く、刺激的で緊張感は緩むところがなかった。
「オリジナルはらわた」がどのようなものか知らないが、どうやらこれほどのスプラッターではないらしい。
わたしとしては、終わり少し前の、何とかめでたしという場面でエンドロールに移ってもらいたかった。
なにも、あそこまでやらなくても、というところなのだが、、、。


これがホラー映画の王道なのか?
やはり、フランケンシュタインたちまでで、充分。




メランコリア

Melancholia.jpg

"Melancholia"

2011年
デンマーク、スウェーデン、フランス、ドイツ

ラース・フォン・トリアー監督・脚本

キルステン・ダンスト 、、、ジャスティン(有能な鬱病のコピーライター)
シャルロット・ゲンズブール 、、、クレア(ジャスティンの姉)
アレキサンダー・スカルスガルド 、、、マイケル(ジャスティンの夫)
ブラディ・コーベット 、、、ティム(ジャスティンの会社の若手新入社員)
キャメロン・スパー 、、、レオ(クレアの息子)
シャーロット・ランプリング 、、、ギャビー(ジャスティンの母親)
イェスパー・クリステンセン 、、、リトル・ファーザー(クレアの住む屋敷の執事)
ジョン・ハート 、、、デクスター(ジャスティンの父親)
ステラン・スカルスガルド 、、、ジャック(ジャスティンの上司)
ウド・キア 、、、ウェディング・プランナー(ジャスティンの結婚披露宴を仕切る)
キーファー・サザーランド 、、、ジョン(クレアの夫。大富豪)


「メランコリア」ですぐに思い浮かべてしまうのは、アルブレヒトデューラーの精緻極まりない銅版画だ。
そこにも彼方に強烈な光芒を放つ星が描き込まれていた。
デンマーク映画。
ビョークの"ダンサー・イン・ザ・ダーク"の監督。
"ドッグヴィル"もこのラース・フォン・トリアー監督ということ。

有能なコピーライターで欝に悩むジャスティンに キルスティン・ダンスト。
その姉クレアを演じるシャルロット・ゲンズブール。
富豪のクレアの夫ジョンにはキーファー・サザーランド。
そしてジョンとクレアの間に幼い息子レオがいる。
ジャスティンとレオはシェルターを作る約束をしている。


絶対的な存在感をもって迫り来る惑星メランコリアが地球と衝突するまでを描く10分足らずのイントロは圧倒的。
実際に太陽系では潜在的に危険な周回を太陽に対してしている惑星は時折みつかる。
だが、それが地球に衝突するかどうかは、直前に決定する。これまではなかっただけである。
本編はパート1”ジャスティン”、パート2”クレア”に分かれる。
始めと終わりに印象的なワーグナー「トリスタンとイゾルテ」が厳かに鳴り響く。
その後は全て、大富豪の姉夫婦の邸宅内か庭(18ホールのゴルフコース完備)において進められる。
全体を通してストーリーは細やかに厳粛に綴られ、映像は様式美に貫かれている。
撮影は手持ちカメラで撮られていることが多く、微妙な揺れが終始入るが、気になるレベルではない。
去年マリエンバートで」を連想する庭園風景など幻想的な光景が印象的。

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パート1は、姉夫婦宅でのジャスティンの心的状況が豪華結婚披露宴を通してかなり長い尺で描かれる。
「わたし怖いわ」彼女は当初より”それ”を感じている。
ジャスティンは強い不安と欝状態から、自らの結婚パーティ自体をも台無しにしてしまう。
その結果、上司と伴侶を一度に失う。
勿論、身内や関係者からは批判を浴びる。
分別のあるしっかり者の姉は、彼女を詰りながらも手厚く保護する。
ジャスティンの症状はかなり重くなり、一度は帰りかけたがタクシーで姉の豪邸に戻ってきてしまう。
そのままなし崩しに一緒に棲む事になる。

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パート2は、クレアの激しく揺れる心境が繊細に描かれてゆく。
夫と息子が観測している天空の”メランコリア”が大きくなってゆき、気が気でならない。
最初は月と同じくらいの大きさで広大な夜の庭をうち照らしていたのだが。
惑星は清らかな青さで、禍々しく肥大してゆく。
もはやその意味は隠しようのない結末を鮮明に突きつけてくる。
不安は明らかな恐怖にとって変わっている。
夫は厩で自殺しており、彼女も息子を連れまわし泣きながら狼ばいを極める。
今や自らを取り戻し諦観の境地に達したジャスティン。
彼女とレオの作ったシェルターに、悲嘆し戦くクレアも促されて入り3人で手を握る。
完全にジャスティンとクレアの立場は逆転し、そのまま最期を迎える。

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あれだけの質量の惑星が接近したら、大気層が剥ぎ取られ有害な宇宙線が直接射し込み水や地上の数多の物が吸い取られて激突・爆発とならないか?
激突までほとんど地上がそのままでいたように思われるが、どうであろう。
もっと途轍もない衝撃があると思われる。
地球が破壊されれば太陽系の重力バランスも崩れ、他の惑星もかなりの衝撃を食らうはず。
エンディングでは、視座を引いてそこまで描いてくれてよかったかも。

全的崩壊を前にもう何も大切なことなど無い。
語るべき何事もない。
まさにそんな最期。

これも深く印象に残る、時折強く意識に登って来る映画である。








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サウンド・オブ・サンダー

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大分以前に観て、心に残っていた映画である。
わたしがこれまで観たSF作品の中では、かなり異色で際立ったものであった。
映画を観た後で考えると、何故、"A Sound of Thunder"なのかよく分からないが。
レイ・ブラッドベリの短編を元にした映画のようだ。
その短編が「雷のような音」ということで、そのまんまの題にしたのであろう。

これは完全に時間をテーマにしたサイエンス・フィクションである。
そして見応えはあり、何か清々しい。アカデミー賞級の作品ばかり観ていた為、癒しにもなった。
ただ2005年はCGはまだこの程度であっただろうか、とちょっと躊躇いを感じた。
予算の関係であろうか、かなり前時代的な合成画であった。
それであっても、もう一段階ブラッシュアップして仕上げればかなりの作品になったはず。
見かけはB級的な雰囲気を醸すとは言え、内容的にはしっかり考えられたストーリーである。


TIME SAFARI社は”TAMI”というTime Machineで富裕層相手の「白亜紀恐竜ハンティングツアーサービス」を行っていた。
2055年という設定である。そんな遠くではない。(この時代には野生動物はみな死滅してしまいDNAすら残っていないということ)。
所謂、時間旅行である。(関わっている科学者は野生動物のDNA構造をタイムトラベルを利用して解析しようとしてツアー会社にいる)。
ただし白亜紀を見たついでに恐竜を撃ち殺すというスリルとアドベンチャー気分も味わえるというもの。
(撃ち殺す恐竜は数秒後にその池で死ぬ運命にある恐竜ということだ。玉も氷で溶けてしまう)。
巨額の代金を支払うようだが、ツアー自体は大したものではない。
わざわざ白亜紀に行くのならもう少し行動範囲や場所、時間にもバリエーションが欲しいといううものだ。
しかし何にしてもタイムトラベル。必然的に高いリスクを伴うため、絶対的なルールがある。
過去に如何なる変更も及ぼしてはならない。
そのためには、現代の物を残してはならない。
物を持ち帰ってはならない。

しかし、ツアー準備で作業員がミスを犯し、主人公の銃が使えなくなってしまったことからパニックに陥った客が靴底に1.3gの蝶を貼り付けて今の世界に戻ってしまった。
(このミスに対して何でハイゼンベルグの不確定性原理が引き合いに出されるのかは疑問だが)。
儲け主義の社長が生体反応をチェックする機能を節電(経費削減)のためOFFにしていて事故に気付かなかったのだ。
それによって段階的に世界が激変する事態を呼ぶことになった。
文字どうり、これぞ”バタフライエフェクト”である。

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ここで秀逸なのは、”タイム・ウェイブ”という概念だ。
丁度、水の波紋の広がるように改変された時間ー場が現在に打ち寄せてくる。
何度かに分かれて、それはやって来る。
これが大変ドラスティックな変化を予感させ、見る者の不安と好奇心を煽る。

タイム・ウェイブは、問題のツアー後から衝撃波として打ち寄せてきた。
11月なのに夏のように暑い。しかも湿度は90%。
そしてまずは、植物の凶暴な繁殖が始まる。
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異変の真相に気づいた主人公の科学者たちは、そのツアー以前の地球に戻すために奮闘する。
過去が書き換えられたため、生態系全体の上書きがなされる。
その時、人類は存在するのか?存続していたとしても、どのような存在として、、、。
人類にとって、未曾有の危機が迫った。

ビルは植物に取り込まれ、もはや電気もない。かつての街には魔物たちが跳梁跋扈している。
人は瞬く間に地上で最も脆弱な生物へと追いやられる。
最初は植物そして昆虫、さらに爬虫類とも哺乳類とも思えない、いづれも凶暴に進化した生物が猛威を振るう。
食人シダ、食虫バラ、昆虫型生物、ヒヒ型生物、コウモリ型生物、ウツボ型生物等、、、地・空・水における異形の数々。

TAMIのHDを作動させる発電機が生きているかどうかにかかってくる。
もう時間がない。最後の波が打ち寄せてくる。
新たな姿で立ち現れる人類ー彼女がちょっとだけ確認できる。
爬虫類のルーツが入っているようだった。
(なかなかチャーミングで、良いアイデアに思えた)。


かなり思い切った仮説であるが、説得力がある。
こういう進化もあるはずだと思わせるに足る生物の形体である。

「時間」に正面から取り組んだSFのなかでは出色の出来であった。
白亜紀より以前の時間に飛んでから目的の場所に戻り、無事蝶を踏ませず、二度と同じ過ちを繰り返さないための証拠ビデオも撮って帰るのにも成功。
ハッピーエンドである。


美術・撮影技術面にもっと自然な説得力があれば、名作として残るものだと思われる。
肝心なシーンが技術的(経済的)な限界からか踏み込み不足を感じる。
実に惜しい。
だが好きな映画である。


エド・ウッド

ed wood

エド・ウッドという監督を初めて知った。
ティム・バートンの映画なので、目に入ったのだが。
ティム・バートン=ジョニー・ディップのコンビである。
それだけで傑作であると判断できる。
安心してTS○TAYAで借りた。
(久々の散歩で、何となく立ち寄ってみたのだ)。

実際、予想以上に素晴らしい映画であった。
ジョニー・ディップの演技はここでも冴えわたっている
更に、往年の「ドラキュラ」俳優、ベラ・ルゴシ役のマーティン・ランドーの存在が圧巻であった。
アカデミー助演男優賞、その他の賞を幾つも受賞しているが、充分に頷ける。
ジョニー・ディップも主演男優賞を貰って全くおかしくない怪演であったが。

エド・ウッドなる監督は、巷ではZ級映画監督として評価されてしまっている。
おそらくティム・バートンがこの作品の中で忠実に再現しているエドの映画を垣間見れば成る程と思う。
(今時、高校生でもずっと映画らしい映画を撮る。「霧島部活辞めるってよ」の映画部でも)。
しかし、エド・ウッドのファンが映画監督に多いことは注目に値する。
ティム・バートン、ジョン・ウォーターズ、デヴィッド・リンチ、サム・ライミ、クエンティン・タランティーノ、、、
そうそうたる面々である。

ここで描かれるエド・ウッドはひとことで言えば、実に「チャーミング」である。
よく名作は監督名を知らなくとも、その作品のみで生き続けるものだ。
しかしエドの作品は監督としての彼あってのもので、常に彼と作品とのセットで認知されるものであろう。
映画作品としては全く目が出なかったとは言え、彼という存在そのものが作品化して、先のような監督に多大な影響を与えたのである。
映画が好きでたまらず、常に前向きで情熱を失わず、叩かれ強く楽観的に突き進む爽やかなパーソナリティである。
おまけに女装癖があり、アンゴラのセーターに殊の他愛着を示す。
ゴシックホラーの名俳優ベラ・ルゴシに対する献身と崇敬する姿は、彼の志と優しさをよく表している。
ベラ・ルゴシは亡くなるまでの最後の人生をエドと親密に送っている。
彼は優れた映画は残せなかったが、優れた映画を制作する人材を生み出すことに貢献したのだ。
そうでなければ、誰がわざわざこれほどの労作をオマージュとして彼に捧げるだろう?
この作品によって、エド・ウッドの知名度は飛躍的に高まり、多くのカルトファンを獲得しているという。
TVの深夜番組帯でも繰り返し放送され、「映画史上最低の監督」の認知度はちょっとした監督?より上であろう。

それにしても、この映画に出てくる人々は皆凄い。
エド・ウッドは、とんでもない早撮りで、4日位で1本撮ってしまう。
彼は全てのシーン撮りを、どんな出来でも1テイクで済ませ、「完璧だ!」と納得する。
細部には全く頓着しない。
矛盾にも気づかない。流れや構成には関心がない。
編集において、背景が突然違っていたり、昼と夜、内部と外が入れ替わっていようが、観客はそんなことは気にしない、と構わず繋げてしまう。
彼曰く、「細かい事より全体こそが問題なのだ!」
その監督の指示をそのまま受け取り、黙々と作業をこなしてゆくスタッフも凄い。
ずっと彼を信じてついて行き、何作もそのスタイルで制作を続けているのだ。
しかもみんなが出来た作品を傑作だと喜んでいる。
女装に対しても何一つ意見も挟まず、「女のまま」マイクロフォンを握っていてもそのまま容認している。
途轍もない共同体である。

そして常に資金繰りに苦慮している。
どの作品も言うまでもなく興業的には散々であるからだ。
エドは生涯赤貧に喘ぎ、アル中で54歳の若さで没した。
これは、少し辛い。
彼は画家で言えば素朴派、ナイーブ派に当たろうか?
遠くのものが大きくても、指が結果的に6本となろうとも、構図がどうでも全体の雰囲気が気に入ればよい。

わたしは、これまで如何にディテールが細やかに描き尽くされているかに拘って映画を観てきた。
また全体の構成と流れに醍醐味を味わってきた。
しかしこの見方では、彼の作品はまともに見ることは出来ないようだ。
1度見てみたいが、邦題が「死霊の盆踊り」などとついているものもある。
いくらなんでも、アメリカ映画に盆踊りはあるまい、ふざけているのか、とも思ったがまさにベストな邦題であるという意見がみつかる。

やはり見るからには覚悟が必要のようだ。



あの頃ペニーレインと

almost famous

" Almost Famous"
監督キャメロン・クロウが15歳でローリングストーン誌の記者となった経歴がそのままこの映画に活かされているらしい。
この映画も、第58回ゴールデングローブ賞作品賞(ミュージカル・コメディ部門)と第73回アカデミー賞脚本賞を受賞。
ここのところ、有名で評価の高い映画を立て続けに観ていることになるが、全くそのつもりではない。
無作為で選んで観ているだけなのだが。

周りより2年飛び級して何時も年下の立場から、自立して逞しく生きてゆく主人公ウイリアム少年。
彼はアメリカ最年少弁護士を期待されながらも、自らの意志でロックミュージックライターの道を歩み出す。
そのお母さんがファーゴのフランシス・マクドーマンド。大学教授で保守的強権教育ママだ。
お姉さんは母親の専制に反旗を翻し彼氏と家出をしてスチュワーデスになるアニタ。
彼女が大量のLPアルバムを弟に残して行く。素晴らしい姉だ?!
謎のミューズ、ペニーレーンは、母親がゴールディ・ホーンの ケイト・ハドソン。
わたしは結構、ゴールディ・ホーンのファンであった。
こういう娘さんがいたのかと、感慨深い。
どことなく似ているが、母親より二枚目とは言え個性ーインパクトの面ではゴールディの方が上だ。

最初から最後まで、ロックの懐メロが聴けるのは嬉しいが、もうさして感動はない。
何故だろう?
かつては夢中になったアーティストと曲ばかりだったのに。
流石にルーリードとブラックサバスにレッドツェッペリンのBGMには耳が傾いたが。


さてペニーレインであるが、バンドエイドという立場でロックをこよなく愛し、ミュージシャンに常に同行している。
グルーピーではない、と本人は主張しているが、何とも言えない。
ミュージシャンや音楽業界に利用されていることは間違いない。
しかし彼女は多くのミュージシャンのミューズとなって、彼らにインスピレーションを与えてきた。
ミュージシャンを育て、メジャーにする役割をすすんで行ってきたのは確かなようだ。
業界では知らぬ人のいない有名人であるが、自分についてのあらゆる情報を隠すことによって、現実逃避している少女でもある。

バスでの長距離移動とホテル住い。
余程、気心の知れた仲であっても、ウンザリしてくるだろうな。
時には独りにならないと息が詰まる、と観ながらつくづく思った。
わたしは、こういうの苦手だ。
空間に対する感覚。
距離感が難しい。

やはりウイリアム少年の潜り込んだバンド、スティルウォーターもツアー中、喧嘩ばかりしている。
そうなるはず。
特に移動の飛行機が雷雲に捕まって墜落を覚悟した時の告白合戦はどぎつかった。
もう汚物のぶつけ合い合戦である。
無事生還した時の皆の腑抜け様は面白い。

彼らと旅を共にしながら、いつまでも家に帰れないでイライラするウイリアム少年。
そのなかで彼は頭角を表し、ローリングストーン誌にも認められるようになる。
しかし少年はスティルウォーターの面々からなかなかインタビューが取れず、学校の試験をボイコットするはめに。
ある意味散々であるが、バンドのギタリストとは親密な友情を築く。

ウイリアム少年とペニーレインとの関係はとても微妙で繊細なものであった。
これは彼女とバンドのギタリストとの直情的で即物的な関係とは対照的である。
丁度、ロックの思い切りセンシティブな面と本能的でアグレッシブな面を対比したかのよう。
彼女は恋の破綻から自殺を図るがウイリアム少年に助けられ、彼とペニーレインの仲は急速に接近する。
結局、ペニーレインはウイリアム少年だけに、レディという本名を明かす。
それにより、彼女はこれまで依存していたロックの幻想から解かれて、自立を目指すことになる。
所謂、彼女の現実を生きる決心をするのだ。
モロッコで、全く新しく生まれ変わるという。
恐らくそうなるだろう。
しかし、ウイリアム少年は、姉アニタと一緒に母の元に戻る。
3人は対等の自立した個人として良い関係を生きてゆく様子を見せながらエンディングである。

ハッピーエンドというのか。
ただこの後、70年代を終えるとロックは、確実に衰退してゆく。
(物語の最中にも何度もロックは商業化し死に絶えると語られているが)。
一番良い時期のロックミュージック映画である。


さて、ロックは完全に死んだのか?
(ちなみにわたしは、もう曲はほとんど聴かなくなったが、まだロックの幻想の中にいる)。




アーティスト

The Artist

"The Artist"
パーフェクトな映画であった。
これは「映画」というものを楽しむための「映画」だと思う。
”ブランカニエベス”を観たときと同種の感動があった。
制作スタッフの映画へのこだわり。その愛が半端ではない。
みな、映画が好きでたまらないという人たちだと想像できる。
そんな映画であった。


4:3の画面でモノクロ字幕のサイレントである。
中間字幕が要所要所で短く入る。
「ことば」は非常に簡潔であるが音楽が絶えず流れており、内容は雄弁に伝わる。
音楽とシーンの融合も大変高いレベルでなされている。
わたしはその形式からかなり昔の作品かと思ったが、どう見てもストーリーとかカメラワーク、演出など洗練されすぎている。
映像のトーンも絶妙で、他の映画より画面に食い入ってしまうほど。

2011年度フランス映画である。
この無音の説得力をフルに活かした映画作品と言えようか。
ミシェル・アザナヴィシウス監督。例のスパイ映画のパロディ作で有名らしい。
第84回アカデミー賞で10部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞など5部門で受賞している。
この作品については、納得である。


舞台は1927年から始まる。
クラシックカーがひたすらカッコ良い。お抱え運転手も粋だ。
時はサイレント末期の状況であり、1929年ウォール街の暴落による世界恐慌にも見舞われる。
主人公たちも当然、その時代の文化・経済に翻弄される事になる。

この映画はサイレント形式をとる必然性がある。
サイレント映画の大スターがトーキー映画を認めず新しいスターに追いやられて落ちぶれてしまう物語だからだ。
とても小気味よい展開で、かつてのスターと彼に憧れて映画界に入ったペピーの盛衰の対比が描かれてゆく。
主人公は起死回生を狙った監督・脚本・主演のサイレントを制作するが、ペピー主演のトーキー映画に客を全て奪われる。
彼は映画会社を離れ、私費投入の自作映画であったためあえなく破産だ。
ユーモアとペーソスを湛えた物語にこの映像形式がマッチしていることがよく分かる。
細やかな感情表現にこの形式が充分に活きている。
詩的で品格がある。

やがてトップスターとなったペピーが彼を経済的にも精神的にも影に日向に支え助けてゆく。
しかし過去の栄光に縋る誇り高い彼はそれを素直に受け容れられない。
彼は自らを芸術家-アーティストであると定義している。ただの役者ではない。
焼身自殺を図ったが、利口な飼い犬に助けられたり、ピストル自殺をしようとしたところをまたペピーに助けられる。
最後はペピーの計らいで、二人の共演作品が出来、彼は再び精気を取り戻す。
今度は声と共に、カムバックだ。

息の合った見事な二人のタップダンスで幕を閉めるのだが。
ここでもひとつエンドロールのタイミングがカッコ良い。
実にスタイリッシュなエンディングになっている。
全体が充分にアーティフィシャルであった。


ひとつ付け加えたいことは、犬についてである。
わたしは、犬より猫という人間だが、ここに出演していた犬の名演技には参った。
明らかに役をこなしており、演出でどうにかそれらしく見せているレベルではなかった。
この犬も立派に賞を受け取る資格があると思う。
もらうとすれば、助演男優賞なのか?


大変お洒落な映画であった。


ハンガーゲーム

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The Hunger Games
2012年
アメリカ

ゲイリー・ロス監督・脚本
スーザン・コリンズ原作・脚本

ジェニファー・ローレンス 、、、カットニス・エバディーン
ジョシュ・ハッチャーソン 、、、ピータ・メラーク
リアム・ヘムズワース 、、、ゲイル・ホーソーン
ウディ・ハレルソン 、、、ヘイミッチ・アバナシー
エリザベス・バンクス 、、、、、、エフィー・トリンケット
レニー・クラヴィッツ 、、、、、、シナ
スタンリー・トゥッチ 、、、シーザー・フリッカーマン
ドナルド・サザーランド 、、、、、スノー大統領
ウェス・ベントリー 、、、セネカ
トビー・ジョーンズ 、、、クラウディウス
アレクサンダー・ルドウィグ 、、、ケイトー
イザベル・ファーマン 、、、クローヴ


1~3まであるようだが、今日は1をまず見た。
何とエスターであの狂気の娘を演じていたイザベル・ファーマンがナイフの名手として出ている。
チョイ役だが非情で強靭な殺し屋であり存在感は示していた。
しかし出演時間は短く、ちょっと残念。

主人公のジェニファー・ローレンスはあまり見ないタイプの女優で、どこか陰りのある何時も居心地の悪そうな雰囲気が良くも悪くも感じられた。
如何にも突然殺し合いゲームに参加せざる負えなかった少女の葛藤と不安はよく表現されていたが。
神経の昂ぶりと極限的な心理表現は幾分物足りない。
物語全体の流れはしっかりしており、テンポよく緊張感は途絶えることはなかった。

政府によると、このハンガーゲームは、民衆の反乱を根絶するため、「悲劇の歴史を胸に刻み未来を守るためのゲームである。」とのこと。
貧しい12の地区から男女1人ずつ選び出し、計24人で殺し合いをさせ、富裕層がスポンサーとなってお気に入りの戦士が有利に戦えるよう物資を与えることが出来るルールである。スポンサー参加形式のゲームとしてより面白くなるはず。
戦いの様子は、全てカメラで完全に監視され全国民に放映される。
最後にひとり生き残った者が勝者で、何不自由しない生活が政府から保証されるという。

ローカルな地区に対し、中央政府の置かれた都市キャピトルの格差の甚だしさは、圧倒的である。
主人公の地区の貧困さは一体何時の何処かと思えるような場所だ。
発達したテクノロジーと富は全て支配者の独占である。

こんな政府の理屈と政策の現状に対し、「みんながTVを見なければゲームなんかやらないだろう。」
とか、「森に2人で逃げよう。」などと幼馴染の彼氏はいたって呑気だ。
主人公も「こどもは作らない。生きるところはここしかないもの。」
という具合で、現状認識で終わっている。
しかし、実際あまりの格差は、体制を対象化する余裕を生まないのかも知れない。
そのような国が現在あるのも確かである。
この映画かなりリアリティあるのかも。

「生き残りたかったら観客に好かれることだ。」
これはある意味プレイヤーが本音などを出している余裕を奪う上手い方法だ。
見世物として良い顔をしてアピールしないと、生きて帰れないことを意味する。
ゲームが長続きするのも解る。

パレードで着飾り、思い切り贅沢な部屋で饗す。
意味のない必修科目やトレーニングをさせ、評価をし番付を付けて盛り上げる。
富裕層は、基本サッカーのサポーター気分だろう。
イメージ作りも念入りである。
主人公と相棒は「運命の恋人」というキャッチコピーで民衆に強烈にインパクトを与えることに成功する。


どうなんだろう?
かつてのコロシアムもこんな感じであったのだろうか?
「厳しい自然環境が死を招く。」「怪我や病気で死ぬことのほうが多い。」、、、こちらの方が過酷か。
舞台は単なる闘技場ではない。
勿論、その自然環境は完全に主催者が操作出来、自在にプレイヤーに攻撃も与えられる。
ある意味、生かすも殺すもゲームメーカー次第である。そしてスポンサー。

ゲーム始まりのところで、スティーブ・ライヒのデザート・ミュージックのような音楽が流れたのが印象的であった。
プレイヤーの死が大砲の音と自分の目の前の空間に顔が表示されるというのも、ハイパーリアルであり、何かゲームの中に”トロン”のように入り込んだような雰囲気もある。この完全管理された殺し合いゲーム。
基本的にどちらも殺られれば死ぬのは変わりない。
ほぼ同次元の戦闘環境だ。
戦闘はトラップや蜂、猛獣など仕掛けが凝っておりかなり見応えがあった。
あの猛獣は3DCGと解釈すればよいのか?あれが出来るのならもっと何でも可能だろう。
(3Dプリンターの発展系か?トロンであれば、コードでよい)。

非常に誇張されたほぼ有り得ないアメリカの未来像であるが、ディテールもよく作り込まれ、仕掛けも工夫されておりよく出来ていた。この世界観の中においてはリアリティがしっかり感じられる。
しかしひとりしか生き残れないのに同盟を組む心理になるだろうか?
そこは、疑問である。
もうひとつ。
結局、同じ地区に限り2人生き残りが急遽認められる。
これをやらないほうが物語に重みが出るはずなのだが、、、。
妙な居心地の悪いハッピーエンドというより、如何にも"continue"という感じで終わる。


2、3を観ないといけないようだ。


イングリッシュ・ペイシェント

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しんどいの一言。
砂漠の風とその表情が印象的であった。
出だしは、アラビアのロレンスをまた思い浮かべてしまったりした。
とんでもないことだ。

これは恋愛ー不倫ドラマなのかと判明した時点(かなり初期)から急速に気持ちが引いていった。
恋愛モノや不倫物語自体がどうのというのではない。
主人公や他のキャストに多少なりとも感情移入や共感がもてない事がその大きな要因である。
テーマが何であっても、映像のどこかに寄り添える要素のないことには、見る行為は不可避的に苦痛を伴う。
ゴジラやガメラなら勿論、エイリアンにも同調や愛着がもてるが、この作品でとりあえずそれができたのは、ジュリエット・ビノシュの看護婦くらいのものだ。
彼女とインド人の兵隊のエピソード、特に礼拝堂の壁画を高みから光で照らして見るところなど、ちょっと面白かった。
(もう少しこちらの話を膨らめても良かった気もする)。
他に挙げるとすれば、砂漠そのものと砂漠の街の情景、夕日の光の射す部屋でのハンガリーの民謡くらいか。

砂漠に長く滞在すると、ヒトは別の人生を夢想するようになるものなのか?
飛行機を操るのも、何か幻惑を呼ぶのかも知れない。
サン・テグジュペリが砂漠を飛行機で横断するときの幻想を語った行を何となく思い起こした。
しかし、この不倫は、周囲にめいっぱい災難をもたらすものであった。
ただでさえ、戦争でヒトが不幸になっている時代である。
しかし、そういう時だからこそ、起きるのかもしれない。
それこそが人間だ、と言われれば、はあそうですかと答えるばかりだが。
ある意味、普遍性はあるのだろうが、わざわざ映画で知るようなことではない。

あの”泳ぐ人の壁画”は作り物ではなく、本当にあるいうのは意外であった。
かなりわざとらしいものに見えたものだから。
ここでの話もかなりよそよそしいものであった。
少なくとも感情に訴えるような場面は微塵もなかった。
他人の不倫の話を3時間に渡り見せられても、はっきり言って面白くも何ともない。
全くの他人事である。
暇を持て余していても見る価値はない。

この映画の何が何処がよいのかさっぱり分からないが、今後は時間は無駄にせぬように、事前に調べてから見ることにしたい。
ということだけこころに誓った。

差し当たりどういう評価を一般的に受けた映画なのだろう、と思ってWikiなどをみてみると驚いた。
第69回アカデミー賞作品賞、第54回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞受賞だそうである。
アカデミー賞では、作品賞/監督賞/助演女優賞/編集賞/撮影賞/音楽賞/衣装デザイン賞/音響賞を受賞している。
アマゾンでよく映画を購入するのだが、そのレビューを見ても絶賛が多い。
これは前もって調べるのも、コツがいるなと思った。
少なくとも、過去に遡ったり未来へ行ってしまったりの「時間」を安易な小道具として演出に使用しているもの。
ドロドロ愛憎劇は、どうも生理的に苦手であるため避けたいと思う。

今回の映画が単に生理的に合わないレベルのものとも思えないのだが、多方が傑作と認定済みの映画のようである。


急にタルコフスキーを観たくなった。



ダンス・ウィズ・ザ・ウルブズ

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"Dances with Wolves"
そのまま。
清々しい。

文句のつけようがない。
アラビアのロレンスを思い起こすほどのスケールであった。
荒涼とした大平原の峻厳な美しさ。
狼やバッファロー、馬などの動物の生々しい描写には圧倒された。
特にあの狼の演技?演出には驚く。
秘めやかで荘厳な音楽も申し分ない。

キャストについては、スー族のインディアンが個性的で味わい深く魅力的であった。
子供から族長まで皆、厚みのある崇高な存在として描かれている。
それに引き換え侵略者である白人たちの粗野なこと。
あれでは単なるゴロツキではないか。
自己対象化がひとつの強いテーマであることがよく解る。
「失われる前にフロンティアを見ておきたい。」

まさに異界での他者との関わり。
この命懸けの投企。
暗闇での飛躍。
初めての狼とインディアンとの遭遇。
未知との遭遇という以外にない。

自分のパラダイムを超脱することは、恐らくあの自殺を決意した時になされたのであろう。
脚を切断されるならいっそ死のう。
あれは一か八かの賭けであった。
いや、賭けですらなかった。
完全に死を決意したのだろう。

しかし奇跡的に生き残ることとなった。
ならば、生まれ変わることも可能だ。
そう踏んだのだと思う。
脚も軍曹付きの軍医に診てもらったおかげか、切断されずに治っていた。
ならば、孤独な地に赴きたい。
この選択が既に進むべき道を明かしている。

彼に野蛮な種族のように教えられてきたインディアンとの交渉を決意させる。
彼はその結果、正しい認識を得る。
(戦時中は必ず敵は魔物扱いである)。
認識の深まりと同時に周囲からは信頼を得てゆく。

揺るぎない関係性は、このように打ち立てられるものかも知れない。
大局的な政治的動向(歴史的背景)は兎も角、主人公の単独者として自立する過程が鮮やかに描かれていた。
全く異なる文化を持つ彼らとの関わりの中で、これまでの自分とは何であったのかを内省する。
(夏目漱石はまさに英国で日本を洞察したのだろう)。
そして自分を迎え入れてくれた共同体の価値に目覚める。
彼は自らの生を深く実感することとなった。
これまで一度たりとも感じたことのない充足であった。
文字通り生まれ変わったのだ。
得がたい絆を得て。

ケビン・コスナーの”狼と踊る男”は役にピッタリであった。
素敵な呼び名である。

「何処にいてもお前と俺は友達だ!」と何度も叫んで呼びかけられる関係など、容易く築けるものではない。
それを説得力を持って描ききっている。


この映画の普遍性はここにあると思われる。


イルマーレ

the lake house
”the lake house”
イルマーレは主人公が逢うはずであった有名レストラン。

これはドラえもんのリメイク実写版だ。
ドラえもんへのオマージュか?
ハリウッドがそれと気づかれぬように作っていたのだ。
表向きは、韓国映画のリメイクと言っているが。
実はそうなのだ。(バカボンのパパか?)

それにしてもこんな”the lake house”ガラス張りの家には住みたくない。
落ち着かないではないか。
朝寝坊も恐らくできまい。残酷な光に晒され大変なことになるに違いない。
湖畔も増水したら怖い。
おちおち暮らせない。

ドラえもん的な映画であった。
あのポスト、もお手軽であったが、あれがなければそもそも話が始まらない。
前提であるからよしとする。
ポストに限定すれば破綻は少なく済んだかも知れない。
ほんの僅かな時間流の交錯する場所であり、そこでは同時制で手紙の交換ができる、と。
しかし、2006年と2004年という場所ー時空は、同時に存在できない。
物理原理に反する。異なる場所が同一化してしまう。
時間を空間化した典型的な誤謬となろう。
ポストはよいとしても、最後にふたりが会うことは断じて有り得ない。
彼がすでに死んでいる時間系で生成されてきた世界に、唐突に彼が死んでいない時間系が入れ替わる。
電車の線路切り替えのように空間的に考えてしまっている。
これをしてしまっては、それまでの面白いお話が台無しではないか?
エンディングだけでも考え直してくれーっというところだ。
これも既に遅い。

時折、最後にやっちまったーっという映画に出くわすが、これほどの痛手を食った映画もあるまい。
珍しいほどだ。
結構面白く見ていたのに残念である。
実は最後だけではなく、彼女のバースデイパーティーでも彼は声をかけダンスをしてキスもしている。
あったばかりで。彼としては2年前の彼女であるが。
時間流というより場所の交錯がしょっちゅう起きている。
マンション前に木を植えたのも。街の散策の途中の壁の落書きも。
ほんの僅かな変更でも影響は想定できないものを生む。
こういうことが実際に起きたなら、意図せぬ事態が巻き起こる可能性も少なくない。

あのふたりでめいめいに、2年差の街並みを歩いて回るところなど結構素敵なシーンであった。
気持ちがどんどん手紙によって近くなってきても、終始こんな風に展開していっても充分ラブストーリーになると思うが。
どうであろう。
手紙は、ともかく良いものだ、ということを再認識した次第である。

この映画、実はやっちまったのはラストだけではない。
最初の交通事故だ。
もうあそこで、彼氏が死んでしまったのね、と分かってしまうのだ。
(バカボンのパパか?)
それを気にしないで観ていこうと思い直して観るのだが、弟の打明話を待ってましたと思って観ているのはどうしたものか。
あまりに全てのものがご都合主義に組み合わされていて、かえって白けないか?
時間を扱うのは難しい。
また、この映画は間違ってもSFではなく、ラブストーリーをドラえもんベースに組み上げたものだ。
「どこでもポスト。」
それだけでは、ラブストーリーは難しいか?


エンドロールのポールマッカートニーの曲はよかった。
如何にもポールらしいメロディーだ。
終わりよければすべてよし?


マイブルーベリーナイツ

night.jpg

ウォン・カーウァイ監督の映画。
ノラ・ジョーンズが主役。
ミュージシャンとしては、CDなどは聴いていたが、女優として見たのはこれがはじめて。
彼女にとっても、はじめての主演らしい。
そう言えば、恋する惑星も、主演はフェイ・ウォンでミュージシャンだ。
(6枚ほどCD持ってる)。

ミュージシャンを主演に使いたい人なのか?
劇中の選曲もしっかりはまっていた。
音が大切にされていることは分かる。

夜の映像-色彩が特殊だ。
ネットリ感がある。(恋する惑星の時のように)。
話も、ウォン・カーウァイの世界だ。
スタイリッシュだし。
アメリカ人キャストであるが、何故か香港的。
ジュード・ロウもアメリカンというより、神経が東洋的な感じがした。
他の人たちもアメリカ人なのにマッチョ感が薄い。

ジュード・ロウ経営のカフェから始まり、ひとまわりして1年経って元のところに戻ってくる。
ノラにとって一種のイニシエーションか。(いや二人にとって)。
離れている間、離れるほどジュード・ロウとノラ・ジョーンズの絆は深まってゆく。
それは、宛先だけを書いたノラの近況を伝える手紙のせいだ。
こういう関係がお互いの想いを濃密にさせる。
「電話よりこちらの方が気持ちが伝わるのよ。」
わたしも絶対にそう思う。更に、、、
メールやSNSでの頻繁なやりとりは、何でもリアルタイムに情報を伝え合っているように見えて、非常に関係は希薄化している。
会ってもお互いに面白くも何ともない。その存在の重みが失せている。

彼女が旅先で親しくなる人たちは、みな関係性に悩み苦痛を抱えている。
ノラ自身も発端は失恋からである。
他者との絆をどう取り結んでゆくか。
彼女はほぼ1年の月日を見ず知らずの人との関わりを通し、彼らがあるべき自分を見出し決断してゆく凛とした姿を見届けてゆく。(なかにはそれが死であったりもする)。

考えてみれば、かなり突出した個性にばかり出逢っている。
特にナタリー・ポートマンのとがったギャンブラーとの関係等。
2人が車に乗ってそれぞれ自らの道に分かれてゆく、アメリカの広大なハイウェイがまた心地よい。
彼女にも決断(新たな選択)の時がちょうど良いタイミングで訪れたのだ。
念願の車も手に入れて、待っている彼氏のもとに還ってゆく。
(待っていることは彼女もこちらも当然分かる)。

完全にあるべきところに収まってゆくのであるが。
そこにゆくには、これだけの体験と時が必要であったことが描かれている。
廻り道で時熟した。


やはり全体の雰囲気がエキゾチックで面白い。
カメラワークと色彩のせいか。
東洋的な精神を感じる言動のせいか。


この監督の味がよく出ている。

メメント

memento.jpg

メメント・モリ  死を想え
メメント、、、ここでは、思い出とは何か、、、であろうか?
記憶は、正常であっても無意識的に意図的に編集され改竄されもする。
更に記憶障害をもった際に、意識的に記憶を操作することができる場合も生じてくる。


クリストファー・ノーランという人はこういう映画を撮るんだ。
「時間を感じないヒトがどうしたら癒されるのか。」
これは大問題だ。
主人公にはL.A.コンフィデンシャル に出ていたガイ・ピアース 。
複雑な役柄である。ハードボイルドな表情が印象に残る。


空間の物語はすごく作り易い。
時間も空間的に描けばわかり易い。
時間-記憶がほとんど覚束無い状態をそのまま描こうとすると、これは難しい。

妻を暴漢に襲われ殺され、自分も頭を損傷し脳にダメージを与えられる。
彼は前向性健忘症という側頭葉性健忘症のひとつの症状を呈し、新しいことが覚えられない。
今起きていることも僅かな間しか記憶に留めておけない。
であるから、逐一メモをとりインスタントカメラで写真を撮って、自分に起きた事象を管理している。

この映画、こちらも何も解らない状況で、主人公と共に出来事を体験してゆく。
俯瞰できる立場にない。
ある種の臨場感が特殊な鑑賞体験を生む。

主人公は自らの妻の事故以前の記憶はもっているが、肝心な部分を自己防衛のために書き換えている。
妻の死因についてである。
『サミー・ジャンキスを忘れるな』と自らの腕に彫った刺青を彼は何度となく確認している。
自らの胸に沸き起こる矛盾を打ち消すかのように。
妻は実は、暴漢に襲われた事が原因で死んだのではなく、彼がインシュリン注射で妻を死なせてしまった(妻の自殺を結果的に助けてしまった)という事実を無意識の底に押し沈めてしまっている。
自分を襲った悲劇を、サミー・ジャンキスと糖尿病のその妻の物語に捏造し罪悪感から逃れ、無意識的に復讐の正当化を図っている。

結局、連続殺人が自己目的化している。
真犯人ジョン・G(この人物はすでに1年前に彼に殺されている)をこの先、際限なく探し出してゆく。
夥しいジョン・Gをこれからも標的にして。

最初悲劇の主人公のような様相で出てきた男が。
また周りの人間すべてが麻薬がらみで、主人公に手を貸す素振りで彼を良いように利用していく。
金儲けのために。皆、悪人である。

しかしこの映像形式は、喪失していく時間を扱う上で革新的な手法だと思う。
非常に短いスパンで、出来事が遡行してゆく。先ほどのシーンの原因が次のシーンで判明する。
まるで時間パズルを見るようだ。
ひとつのシーンにも、「おれはやつを追っているのか?いや追われているんだ!」
拳銃で狙われていることを忘れていた事に気づく。
先回りして身を隠していたことを忘れ、相手の部屋で無防備にシャワーを浴びてしまう。
非常にスリリングであり、普通に生きることすら困難を極める。


「時間を感じないヒトがどうしたら癒されるのか。」
主人公が問うたこの問題は大きい。
生きるための強烈な目標を設定しないことには、習慣も条件付けも、手順もそもそも計画自体が覚束なくなる。
つまり生きられない。大変な強度を維持する目的がなければ続かない。
そして彼は常に殺人の達成を記録から消し、新たな復讐劇に身を投じる。
彼自身が彼の病いを利用している、逆説的なテーマに掏り替わってゆく。
生きるために。
いや、刺青が消えない限りこれは続くはず。


主人公の忘れっぽさに、わたしに似ているなどと見始めたが、記憶が如何に生活を普通に送るために大切なものであることを思い知ったものだ。






PicNic ピクニック

picnic.jpg

3人で世界の終りを見に行く話。

CHARA彼女の黒い天使の魅力が全開である。
雰囲気は、”ヴァンパイア”に近いものか。どうだろう?
驚くようなデヴィッド・クローネンバーグ的な悪夢が出てくる。
壁から毒キノコのように現れ、ツムジを責める男。
部屋に放尿しまくる。
カラスを素手で捕まえ、羽根を剥ぎ取りジャケットにして着るココ。
サディスティックでエロティックな職員たち。
グロテスクである。人間の本質である。
こども-天使の世界である。

敢えて境界線上を行き来する事が、とりあえず生きることか?
塀の上しか歩けない危うさ。
ココとツムジは何故か重力感覚がないのか、信じて疑わないからか。
落ちる心配というものがない。
ずっと塀の上を歩き続けてきたからか。
サーカスのピエロみたいに。
まず、この2人は落ちて死ぬことはない。
人を殺したかどで精神病院に入れられている2人。

拘束と自由
死と生
天使と悪魔
それらの狭間を無心に渡ってゆく。
ココとツムジ。

塀の上からは、教会。賛美歌。大道芸。そして鋭い視線。海。防波堤が見える。
ココとツムジは下には決して降りない。
そこは地獄に違いない。
これから救われに行くのだ。
地球の最期を見届けるのだ。


「わたしが死んだら世界もない。」
これは当たり前だ。
世界は同時に消滅する。
パパとママが神様なのも仕方ない。

太陽をピストルで撃つ行為。
神に祈る行為に等しく。

「仕方ないわね。それじゃああたしが死ぬしかない。」
まさに天使である。

ココはツムジノために世界を終わらせてあげる。
カラスの真っ黒い羽根が舞飛ぶ。


終焉はやたらカッコイイとしか言いようがない。


仮面学園

Kamen.jpg
レアなものを観てしまった。(別にレアではないか?)
藤原竜也初主演の作品。
”時をかける少女”みたいな、角川のアイドル映画かと思ったが、やはりその路線だと言える。
藤原竜也はミステリアスで屈折した内向的な仮面職人を上手く演じていた。
黒須麻耶は快活で好奇心旺盛な美少女高校生という設定であろうが、幼さと荒削りなところが目立った。
(藤原に対する秘めた恋愛感情の表現などかなり厳しいところである)。
はっきり言って、あの原田知世を凌ぐ大根ぶり(笑であった。

この主演二人で売り出そうとして作った映画だと思われるが。
脇を固める役者は皆ベテランであり、安心して見ていられる。
特に渡辺いっけいなど安定した演技で、物語をスムーズに流れるようにする役でもある。

黒須さんは、すぐに消えてしまったが、大変惜しい。
個性的な美女であり演技さえ磨けば、同じような顔ばかりの女優の中で際立つ存在になったはずなのに。
しかし、ここでは藤原竜也の真に迫る表情に対し、彼女の学芸会演技は途轍もない対比を見せた。
ある意味、そこがこの作品最大の見所なのかも知れない。
だが下手でもなんでも数多く出演すれば、それが不思議な個性となる場合もある。
鷲尾いさ子を見よ。


仮面を被ることで人間の不平等が解消されるということから仮面をつけて登校する学生が出てくる。
”D”という仮面信奉者のサイトにはじまり、ファッション業界や心理カウンセラーなどがもっともらしい理屈をつけ、それをマスコミが拡散してゆく。
仮面を付けて日常を生きるという社会現象が若者の間に巻き起こる。
かつていじめに苦しめられた者たちが、仮面のおかげで自分をリセットし、新たなパーソナリティの下で生活できるというもの。

そう考えると、あの”やまんば”も間違いなくこの種の仮面に相違ない。
やまんばはさすがに正視に耐えなかったが、仮面の厚顔無恥さ加減も滑稽である。
この篭って見る。この関係は今至る所にある。
分裂症の典型であり、Web社会の前提でもある。
自分の身を隠して、やりたい放題の事をする。

この身体性で暴力関係が解決するわけはない。
いじめなどは到底なくならない。
単なる力関係から加害者、被害者の逆転は起きることはあっても。
グロテスクで滑稽な光景である。

結局、仮面などに依存しないで自分の顔で暮らしていきましょう、というオチである。
それしかないと思う。
やまんば(何故か頭に浮かんでしまう)もそうだが、仮面は鬱陶しい。
長く続けられるものではない。不便である。

身軽に、ロハスにいきましょう。
とまでは、言っていないが、最後の黒須さんが仮面を満面の笑顔で窓から投げ捨てる姿はそのものである。
この映画は、やはりかなりのレアものである。
黒須麻耶は実に惜しい。





ガール

girl.jpg

何故かとても感動した。30代キャリアウーマンが様々な悩みに立ち向かい克服せんとして頑張る映画である。
何にどう揺れ動かされたのかは、判然としないのだが、入り込んでしまった。
とても面白かったのは事実だ。
これが”女性”であり、”ガール”であるのかはともかく、作品として充分に楽しめた。

ほとんど何も期待せず見たのだが、大当たりであった。
しかしどう良かったのか、今の段階ではさっぱり分からない。
では、一週間くらいおけば、その辺を分析して、ここに理由を書けるかとなると、、、
ほとんどそれは見込めそうにない。

どうなのだろう?
TVドラマ(トレンディドラマ)はこんな感じなのだろうか?
わたしは、TVドラマは見ないし、録画した映画以外にTV自体ほとんど見ないため、よく解らないのだが。
しかし、4人のまさに生き様が絡み合いつつ、進行してゆく流れは映画という尺と枠が有効に機能していると感じた。

1時間やって、次週にという塊の繋がりでは、この濃密な時間は表現できないと思われる。
4人がそれぞれ確かな関係性の広がりを持ち個性が際立っていて、しかも適宜絡み合いに深みがある。
また、4人以外の登場人物も充分な(誇張された人格も見られたが)質量を持った活き活きした存在であった。
特に初音映莉子さんが出てきたのには、得した気分になった。

どんなに表面的に恵まれて見えても、誰もが普遍的に持ちうる迷い、葛藤や欲望はある。
そこを細やかな感情の起伏を大切に丁寧に描いてゆく。
檀れい、加藤ローサがとりわけドラマに躍動感と奥行を与えていた。 
かなりの役作りをして臨んでいる感があり、キャストはぴったりであったと思う。

所謂、ドラマであった。誰もが楽しめる内容であると思われる。
ただ、この4人、かなり恵まれた立場にいると感じられる。
心理描写は自然であり、境遇に対する悩みや頑張りにも説得力があり、爽やかである。
しかし、実際にこの4人のような女性がいたら、憧れを持たれる側であろう。

対男社会という権力抗争も普通に入ってくるが、それに全体として傾き過ぎないところもバランスが取れていた。
基本的に男女は友好的であり、筋を通せば受け入れられるのだ。
そして女性にとってのお洒落の重要性である。
ここが女性がガールたる所以であろう。

香里奈にとってこれほどの適役はないと思う。
他3人麻生久美子、吉瀬美智子、板谷由夏の存在感も申し分ない。
最後にみんなが活き活き晴れやかな雰囲気で閉じるのも心地よいものだ。
こういう映画もないことには。


女性は、いつまでたってもガール以外の何者でもない。
と香里奈の言うことは、この映画で理解できる。



”Bon voyage.”



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