プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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WATARIDORI

Wataridori.jpg

聞こえるのは基本的に渡り鳥の鳴き声と時折挟まれるフランス語の解説。
その設定で鑑賞している。

これは最高の環境ビデオだ。
ひたすら、WATARIDORIの多彩な表情と行為を余すところなく彼ら目線で記録した、貴重な宝の映像と言える。
そして彼らの見る自然をほぼ同様の視座で見る。
自然の捉え方も違ってくる。
生と自然の生(なま)の関係が窺えるものだ。

しかし厳然とした距離感から終始鑑賞することになるかというと、わたしの場合そうはならなかった。
低い雲の上を飛ぶ彼らを、すぐ間近で見続けているとこちらが一緒に飛んでいる浮遊感をもってしまう。
そして、彼らが翼を広げ立った姿で垂直に降りてくるところなど、翼を持っている人類にも想えてくる。
そう、はじめはこちらも彼らと共に飛ぶ身体感覚を覚えるのだが、いつしか彼らの身体の動きの多彩さ、雄弁さから、彼らがヒトに想えてきてしまうのだ。

鳥人である。
敢えて空を選んだヒトたち。

海を選んだヒトがイルカならば。

そんな気がする。彼らの冗談としか思えないコミカルな踊りや過剰な仕草、おしゃべりなどを見ていると、他人とは思えなくなるのだ。
勿論、大自然の厳しさは厳然とある。
だがそこを単に本能だけで機械的に飛んでいるとは思えないものがふんだんに感じられるのだ。

氷と吹雪に身を丸め、大きな雪崩を知らせて一斉に舞い飛び、馬の爆走に驚いて一緒に走り、壊れたダンプの横に集い水を飲みながら何やら談笑している。上空には別の編隊が彼らに気づき弧を描いて何やら告げて去ってゆく。


わたしはこれまで、この記録映画を半分までしか見た事がない。
何故なら、真ん中辺で決まって眠ってしまうからだ。
これほど心地よく眠らせてくれる映画はない。

いつか終わりまで見てみようとは思っているのだが、眠れるうちはこれで眠りたい。
安っぽい癒しビデオでは到底得られない、詩情に満ち溢れている。


その昔、ブライアン・イーノが環境ビデオを出していたことを思い出した。
(恐らくもう見ることはないと思う)。



赤ずきん

Red Riding Hood

あまりグリム童話を気にするものではない。
おばあちゃんが村から離れた森のはずれに住んでいること。
おばあちゃんが赤ずきんのことが大好きで、ビロードの赤ずきんを作ってあげたことと、
狼がおばあちゃんを先回りして呑み込んでしまう、のがここでは殺してスープにしていた。
後は狼のおなかに石を詰め込むところくらいか、、、。
例の「何でおばあちゃんは耳がそんなに大きいの?」という件は、彼女の夢の中に出てくる。
彼女はこの夢でおばあちゃんの危機を知る。

Red Riding Hood
村の風景がことのほか美しかった。
まさに童話の本の中といった感覚だ。

赤ずきんちゃんが狼に襲われるのではなく、村を一緒に出ようと誘われる話。
いや、一緒に行かないと村を滅ぼすぞ、と脅される話であった。
また、この狼は、野生の動物の狼ではなく、人狼であり普段は人になり済まし村の中に紛れ込んで暮らしている。
満月の夜にだけ凶暴な狼に変身するというもの。

一度は普通の狼を退治して安心した村人達だったが、その事実を知らされ皆が疑心暗鬼になる。
ただの狼でないだけでなく、やたら強い狼で、狼ハンターでもけちらされてしまう。
殺す相手も、美味しそうとかではなく、人狼にとって意図された人物である。
(その人物を辿れば誰が人狼なのかあたりが付く)。
また、この騒動が持ち上がったタイミングが、ちょうど主人公が恋人と全てを捨てて村から出ようとした矢先であった。
実は人狼も街に出てもっと大暴れして、人を襲ってやろうという魂胆である。
(更により強固な狼一族の存続も図っている)。
主人公の赤ずきんも狼と話ができたことから(話しているところを見られたため)、魔女扱いされる。
人狼をおびき寄せる囮にされてしまう。

一体誰が人狼なのか。
赤ずきんと樵のピーターとの恋の行方も追う展開。
サスペンスラブファンタジーである。

狼のVFXは”狼男アメリカン”には遠く及ばないが、とくに物語の足を引っ張るレヴェルではない。
この物語は狼自体をこれ見よがしに魅せようという意図はなく、暗がりに恐怖の気配を現すもので足りている。
あくまでも赤ずきんヴァレリーに降りかかる苦難と恋を彼女を中心に描いた映画であった。
とくに彼女をめぐる三角関係も展開がうまく練られていた。
暗闇の雪の白さに対する、彼女のブロンドと赤いずきんの対比が鮮明であった。
登場人物の人数やそれぞれの個性や配役もバランスが取れており、ストーリーのテンポもよかった。


テンポがよく、そつなく描かれた物語であったが、いまひとつ物足りない思いが残るのは何故か。
感情移入するようなシーンは一つもなかったことは確かだ。


バートンフィンク

BartonFink.jpg

まさにカフカ的な細密な世界描写であり、デヴィッド・クローネンバーグとの血縁も匂わせる感触の作品であった。
端からディテールへの異様な拘りに尋常ではない世界観を覚えていたが、隣に寝ていた女性が惨殺されていることに気付くところから、あからさまに全てが発狂し始める。
不思議の国のアリスみたいな変容の不安も感じさせるほど。
現と妄想との絶妙なバランスを行く稀に見る傑作であった。


ジメジメした蒸し暑い安ホテル。壁が薄く隣の部屋の音が聞こえる。
部屋の壁紙がゆっくりとペロンと剥がれる。水滴が垂れる。
蚊が飛ぶ。下水管から音が漏れる。
主人公はタイプライターに向かうが、いくら経っても何も浮かんでこない。
机の前の壁には、海を見詰めて座りこむ女性の絵が掛かっている。
この劇作家バートンは、その絵がとても気になって見入ってしまう。

才能を見込まれて招かれたハリウッド映画であったが、依頼された仕事はB級レスリングものであった。
映画会社の社長はバートンをひどく高く買っており、彼に大きな期待を寄せている。
それは盲目的な情熱であり、その鞄持ち、プロジューサーともども、皆調子が狂っている。
庶民に光を当てた社会派の劇作家である彼は、完全に行き詰る。
そんななか、ホテルの隣部屋の保険のセールスマンであるチャーリーとひょんなことから懇意となる。ある意味、ニューヨークから来て誰も友人のいないバートンにとっての唯一の友と言えるが、いつもバートンが一方的に持論をまくしたてる関係でもあった。

原稿がどうにもならないバートンは、尊敬する作家に相談する。いざ会ってみると自堕落なアル中男であったが、頼りになるその秘書の女性に好意を寄せ助けを求める。
彼はその女性にギリギリの精神状態からは救われ、彼女と一夜を共にするが、世界は翌朝それまでの冗長性から、一気に相転換が起きる。
蚊が女性の体を刺した。
その蚊を叩いて殺した。
血はしかし止めどなくベッドに流れ出し、シーツは血で染められてゆくのだ。
彼女は血まみれで絶命しているではないか。

バートンは混乱を極め、隣のチャーリーに助けを求める。
彼はおれに任せろという形で処理を請け負う。
女性の死体はチャーリーが片つける。
彼はこれはなかったことにして忘れろと言う。
バートンは何もかも彼に任せ、映画の内容を確認したがる社長を何とか納得させに行く。

チャーリーはニューヨークに出張に行くことになる。
バートンはとても心細くなるが、チャーリーはすぐに戻ってくると言う。
彼はチャーリーに食事に寄ってくれと、ニューヨークの実家の住所を教える。
チャーリーはたつ前に、バートンに小包をひとつ渡し、預かってほしいと頼む。

その小包をタイプライターの横に置いてから、バートンは急に仕事が進み始める。
その脚本は彼のこれまでの最高傑作と確信できるものとなる。
彼は浮かれてダンスパーティーで「おれはクリエイターだ」と叫んで羽目を外す。
しかし、その原稿は社長からは完全に拒絶される。
更にこの先、給料分は書かせるが絶対に映画発表はさせないという飼い殺し宣言を出される。社長はこのとき軍に徴集されている。第二次大戦直前の状況である。

ホテルに帰ると、猟奇殺人犯ムントの事情聴取に、警官が彼を訪ねて来る。
首なしの猟奇殺人が立て続けに起きているのだ。
最も新しいものは、バートンの隣に寝ていた女性であった。
バートンは初めてチャーリーの真相を知る。
警官は彼をユダヤ系だと知るとあからさまに失礼な態度を示し帰ってゆく。

チャーリーが猟奇的殺人犯の顔でホテルに姿を現すシーンからは圧巻の展開である。
このホテルはやけに熱いと警官たちは言っているが。
エレベーターのあたりから火が吹き出て、ホテル全体がたちまち火に包まれてゆくではないか。
いまや人懐っこい世話好きなチャーリーではなく、警察に追われるムントとして長い廊下をやってくる。
何をか叫びながら、走り出し警官を射殺する。
「何故僕を選んだ。」の問いに彼は「おまえはわたしの言うことをちっとも聴こうとしないからだ。」と答え彼は自分の部屋に戻っていく。
バートンはニューヨークの両親の家に電話をするが繋がらない。

バートンはチャーリーに託された小包をまだ手に持って海岸を歩いている。
一向に中に興味を示したり、確かめようとする様子も無い。
前方から水着の綺麗な女性が歩いてくる。
彼女は彼の前に腰を降ろして海を見詰める。
その姿がまさに机の前に飾られた絵そのものであった。



ベイマックス

max.jpg

昨日は、ノートパソコンの光学ドライブがディスクを認識しなくなり、そのメンテと娘の宿題で何も出来なかった。
パソコンの方はまだ、未解決。
宿題もまだ半分である。
しかし、一緒に”ベイマックス”観る約束もしていたので、それも観た。

感想を一言で言えば、この制作スタッフに、是非”鉄人28号”を作ってもらいたい。
ベイマックスが夕日に染められた空を飛んでいるところを思わず鉄人と重ね合わせてしまった。
あの蒼井優の出ていた映画”鉄人28号”のリメイクがこんな形で実現されたら、さぞ素敵であろう。
今度は3DCGだ、ピクサーがやってくれれば言うことないのだが。
横山光輝先生もさぞご安心なさることであろう。

これまで見たアニメ映画で、発想と構想が素晴らしくディテールまで緻密に練り込まれたものは幾つもあったが、この作品も間違いなくそのひとつに入る。
しかも思わず唸ってしまう完成度の高さだ。
「もののけ姫」「おおかみ子供の雨と雪」「風の谷のナウシカ」などに並ぶ名作だと思う。
ディズニーの一連の映画の中では一番の出来だ。

まず、キャラクタがどれも絶妙なフォルムで良い。質感・感触すら楽しめる。
登場人物皆が活き活きして個性的で嫌味がない。
なかなかここまでのものを絞り出すのは難しかったはず。
ベイマックスのデザインは少しゴーストバスターズも思わせるが、愛らしくてキャラにぴったりである。
都市の空間も大変ユニークで魅力的であり、見入ってしまう。看板に至るまで。
東京とアメリカのどこかが融合したような空間であるのが面白い。
彼らがカーチェイスで逃げ回った車も軽であった。(ルノーではないよね?)
雑踏を俯瞰した光景は中でも圧巻であった。
精緻で遊び心たっぷりな丁寧な作りで、その中に自然と誘われる空間に仕上がっていた。

ストーリーもピクサーの中では断然良い。
ケアロボットというのもほんわかモードで心地よい。
この物語全体にこの心地よさが溢れ流れている。
メリハリがあってわくわくするし、アイデアも冴えており、説得力がある。
何より感情の起伏を繊細に描き、優しさに満ちた映画であった。
戦隊ヒーローに結果的になってしまう必要があるのか、そこは疑問であるが、また是非”2”を期待したい。
”メリダと恐ろしの森”の対極に位置する作品だ。

様々なエッセンスが理想的な配分で編集された作品だと思う。
この映画はこの先、何度か観たくなりそうだ。
勿論、娘たちと一緒に。





娘たちの帰還

airplane.jpg

強い台風が来ていて心配だったが、無事に帰ってきた。
一安心。
長女が飛行機の中で酔い大変だったそうだが、シャトルバスでは1時間半ずっと寝てきたそうだ。
少し早めに停留所に着いたつもりだったが、車を止めて降りた途端に「キャハッ!」と次女の声。
満面の笑顔で、こっちに駆けてくる。
彼女一人だ。
長女は今、トイレに行っているという。
アナと雪の女王のような青い衣装を着ている。
これでずっと飛行機乗って来たのか?
もうこれくらいのまでの歳が限界だろうな。
荷物をわたしが車に積んでいる間に長女も戻ってきた。
よく眠ったおかげで、体調も度っているようだった。
長女もアナ雪衣装だ。まあ、今年が最後だ。
笑った顔には、下前歯がひとつなかった。
乳歯がグラグラすると気にしていたが、向こうで抜けたようだ。

車の中では、もう煩いこと。
しかし、昨年よりは大人しい。
少しは落ち着いてきたようだ。
顔、というか表情が少しばかり大人びた印象も受ける。
一ヶ月空くと、子供は目に見えて変わっている。

送りの時に、来た道をそのまま帰って、ものすごい渋滞に巻き込まれたので、今回は全く違う道で帰った。
かなりスムーズであった。
向こうでは、あまり喧嘩はしなかった、と言うこと。
実際どうだったか、時折聴いていた様子からは、相当向こうでも喧嘩はしていたそうだ。
こちらに居る時ほど、しなかったという程度であろう。
わたしにお土産は、チョコレートであった。
帰ってお菓子を食べて休んだら、すぐにわたしが撮りためていたプリキュアとセラームーンを一ヶ月分まとめて見始めた。

夏休み中、ずっと朝顔の観察はこちらで引き受けてきた。
それを、彼女らに書き写させた。半分ほど。
そして、久しぶりにゆっくり3人でお風呂に。
もう膝に乗せて頭を洗うのは、限界だ。

色々と限界もやって来る。
再スタートを切るにちょうど良いタイミングでもある。


さて、これからまた楽しくもしんどくなる。
明日は、まず次女の歯医者だ。

忘れないようにしないと。


シャニダールの花

flower.jpg

面白い着想の映画であった。
それにキャストが良い。
人類が植物に還ってゆく、というのは素敵な夢想だ。
花になるということは、眠ることを意味する。
いや、植物として目覚めることになる。
人間みんなの胸に花が咲いて、眠り始めれば地球はまた平和になってゆくだろう。

植物は力強い。
かつて恐竜を滅ぼし、
今や人類を肥しにして、地上を埋め尽くしてゆく。
そんな予感を覚えさせて終わる。


この映画では、女性だけに花が咲いていたが、男性も花になることをほのめかしていた。
女性キャストが揃っている。
刈谷友衣子、山下リオ、伊藤歩、それにヒロインの黒木花である。
綾野剛は勿論、このキャスト陣でこの物語は骨格が支えられている。

顔にしても花にしても非常にアップが多く、質感・量感を大切な美的な要素としているようだ。
しかしそれが物語のディテール描写に繋がっているかというと、どうであろうか。
映画ではあまり見られない画面分割のエフェクトも、その必然性があるかどうか。
それがどういう展開の強調として組み込まれたのかはっきりしない。
注意を惹きつける効果はあったかと思うがどこにどう注目したらよいのか。

掴みにくい朧げな内容であった。
全体的に具体性と肝心な部分の説明が乏しすぎる。
伏線に繋がっていくアイテム(場面)かと思うところがどう接続し広がったのかが不確かで、ただのエピソードなのかと思い直した。

このシャニダールの花から薬品を抽出する製薬会社の業務内容がもう少し具体的に示されないと、基盤が落ち着かない。
手術後の展開があまりに不明すぎで、広がりを全く知ることが出来ない。
女性が手術後ことごとく死ねば当然社会的に取りざたされるし、薬がどれだけの効用が見られているのかも含め分からない。
主任は、あの事態に対し単に犠牲はつきものとして押さえているだけで、研究室においての原因究明や打開策もましてや報告もまるでしないというのも、あまりに非現実的すぎる。
と言うより、決定的に幾つもできる流れの可能性についての考慮がなされていないとしか思えない。
もっとたくさんの流れや場面が生成されてこないと、物語に入ってゆく自然な構造が出来ないのではないか。
各キャストの人物の描き方がどうにも貧弱であった。もう少し量感が欲しい。
まさかあの大写しでそれに替えているつもりではないと思うのだが、、、。
スケッチブックに描く絵が何か重要なシーンに展開してゆくのかと思ったが、ただの絵に過ぎなかったような。
よく神秘主義の書物に載っている図にあるヒトは倒立した植物だ、という絵が暗示的にパソコンのテーマ画像になっていたが、雰囲気を漂わせるまでであった。他にも意味の有りげなシーンがあったが、それが結局どういう働きをしていたのか分からないというのが幾つかあった。
映画のテーマが今ひとつ絞り込まれていないところからくる、スカスカさが感じられる。
テーマに囚われずにわれわれは作品を鑑賞する自由をもつが、その前提として作品がある意図を下にディテールまで広がりを持ってしっかり(有機的に編成されて)作られている必要はあるはずだ。


「自分の理解の及ばない世界は認めないのね。」
それを認めざる負えなくなる主人公。
恋愛関係となっていた黒木と綾野剛であったが、ここで別れることになる。

シャニダールの花を悪魔の寄生植物と取るか、人類の次の姿として受け容れるかである。
戦いと転生の選択に立たされるが、
共存は有り得ない。
どちらかとして生きるだけだ。
ヒロイン(黒木)は植物への道を選ぶ。


と、思ったのだが、いまひとつはっきりしない結末に戸惑う。
自由な解釈ができる構造がない。

キャストの良さで、観ることが出来た。


ニューシネマパラダイス

cinema.jpg

ジュゼッペ・トルナトーレ監督というと船上のピアニストの人か?
この映画もかなり以前から大変な名画として名前だけは知っていた。
ちょっと、題からしてフェリーニあたりを想像していた。


愛情に満ちた映画だと思う。
映画で映画を語っている。
そして人生もひとつの映画だと。
言ってるように思えた。
エンニオ・モリコーネの音楽が光景の全てを美しく染める。


「自分のやることを愛しなさい。」
師でもある映写技師アルフレードが、主人公トトに言う。
少年トトがあれほど熱中できる好きなことをもっていることに、こちらも何かウキウキしてくる。
好きなことは好きなことだ。
誰に咎められても止められない。
ただ、純粋に好きで好きでたまらないのだ。

それをそのまま受け容れ、育ててくれたアルフレードの存在は絶対だ。
少年は父を戦争で亡くしているから、なおさらである。
何に限らず、このような関係が少年時代に持てたかどうか、これが人生を左右するところは大きい。
多くの人は、自分が何が好きなのかすら分からないままに一生を送ってしまう。

彼は、いや彼らは幸せである。
甘酸っぱい恋もあり、兵役もあったり、火事にあったりもするが、基本愛情が湛えられている。
あの映写室の中。
そこには全てがある。
暗がりの果から一条の光線を放ち、人々を魅惑(幻惑)する世界をいくらでも開示して魅せる。
子供でなくともワクワクする、特権的な部屋ではないか。
その中でのやり取りが楽しい。
会場の映画を睨みながらの。
とっても美味しい現場ではないか。
翻ってその部屋から俯瞰する広場の光景。
これがまた、映画の1カットではないか。

映画への愛は、世界への愛へとつながってゆく。
「この街を出てゆくんだ。もう帰ってきてはいけない。」
「ここにいると、全てが不変なものに思えてきてしまう。」

そう、全ては生成変化してゆく。
それがはっきり分かるところで、自分の好きなことをやるのが良い。
多分、留まれば兵役召集の日に現れなかった彼女のことなどにずっと拘泥していたのかも知れない。
100日窓の外で待つ兵隊ような生活をしてしまうかも知れないではないか。
そして彼は「郷愁に囚われてはいけない。」と語った。

結果トトは、自分のやるべきことをしっかりやって映画監督として成功を収めて帰って来た。
アルフレードの訃報を知っての帰郷であるが。

すでにそこでは「ニューシネマパラダイス」映画館は取り壊されることになっていた。
TVやビデオの影響で人が来なくなってしまったのだ。
しかし、映画そのものは、益々盛んに作られてゆく。
人々のそれぞれの人生を映すように。


トトは素敵な形見を手渡された。
愛情に満ち溢れた。


バンデットQ

Q.jpg

以前からファンタジーの名作という噂を聞いており、その題名くらいは知っていた。
遅ればせながら制作総指揮をジョージハリスンがやっていることもあり、ウィズネイルと僕もかなり素敵な映画であったため、観てみる決心がついた。
監督のテリー・ギリアム氏の作品はまだ観た事がなく、彼に関する知識は無い。
勿論、代表作「未来世紀ブラジル」という映画名は知っている。

実はだいぶ以前、レコード店の映画コーナーで、この作品"バンデットQ"のパッケージをそれとなく見たことはあったのだが、実際に見てみたいという気が起きず、違うタイトルを3つくらい買って帰った記憶がある。

今回も、わざわざ店に行く気が起きなかったので、短距離散歩の帰り道にあるT○UTAYAで借りて観る事にした。
そこでも「発掘名作」のコーナーにあるではないか。
"Time Bandits"である。
何でタイムを外して”Q”をつけたのか?
”Q”とは何か?
恐らく深い意味があるはずだが、今のところわたしには分からない。
どなたかご存知の方、よかったら教えてください。
(ちなみに、わたしにとって”Q”とは、オバQやウルトラQなどで、ちょっとした親近感がある)。

さてこの映画、大方の評価にも関わらず、わたしにはどうにも受け入れられない作品のひとつであった。

サーカス小屋での出し物を観る感覚で見る事は出来るが、それでも面白いのは小人の綱渡りのところくらいか。
そこだけは、本当のサーカスみたいで、単純で稠密な緊張が走り、目が離せなかった。
わたしは結構よく作品に対し、荒唐無稽な展開などと、これまでも指摘してはきた。
しかしそれは、コンテクストにおいてよくこのような変容を試みた、という斬新さに驚きを示していることが多い。
船に乗っていたと思ったら、それが巨人の帽子で、その船の底から眠り薬を注射して巨人を眠らせて船から降りるなど、これはギャグマンガなら有りうるものかも知れないが、この類のものを次々に見せられていては、辟易するばかりだ。
ナポレオンにしてもシャーウッドの森とかアガメムノン王とかタイタニック号とかいってみても、どれもそれぞれが明瞭でない。
子供の心をもてば、これが大変素晴らしいファンタジーとして楽しめるというのか?
少しシニカルでブラックなジョークが込められているというようなレベルのものではなく、根本的に安直でデタラメなシーンの連続にしか受け取れないのだ。
想像力を働かせる基盤となる物質性に極めて乏しい。
であるから身を入れて観ることが出来ない。
よくって、NHKの子供向け教育番組に出てくる妙な劇を思い浮かべる。

何も次々にシーンが異なる時空に移ること自体まずいことではない。
だがそれぞれのコンテクストの中で、どれだけディテールが強度を持って描かれているかである。
例えば、常に出てくる小人たちであるが、ブランカニエベスの小人の存在感とあまりの差を感じてしまうのだ。
どの場面もどの存在もディテールまで描かれていない。
ペラペラなハリボテを見ているだけという感じで、見終わるのが大変苦痛であった。

ジョージ・ハリスンの終わりの曲は、如何にも彼らしい曲で微笑ましかった。
ジョージ以外の誰からも生まれない、ふにゃふにゃした魅力がある。



やはり最初の印象で、気の進まないものは、見るべきではなかったのかも、、、。

セブン

SEVEN001.jpg

"se7en"
Gluttony(大食)・Greed(強欲)・Sloth(怠惰)・Lust(肉欲)・Pride(高慢)・Envy(嫉妬)・Wrath(憤怒)
7つの大罪とモーガン・フリーマンの刑事が定年退職まで後、7日。
ともかく、7でいきましょ、ということで”7”なのか。

猟奇殺人事件を追う刑事物語であった。
ブラッド・ピットとモーガン・フリーマンのタッグである。
それだけで見る価値があると言えよう。
グウィネス・パルトロウも街に馴染めない悩める若奥様をチャーミングに演じている。

ミルトンの「失楽園」の言葉「地獄より光に至る道は長く厳しい。」を犯行現場に犯人が貼り紙する。
モーガンの刑事はすぐにこれは本好きな教養ある男だと睨む。
更にGluttony(大食)・Greed(強欲)あたりで、7つの大罪に準じて犯行を行っていることに気づいたため、後何人が犠牲になるかが想定可能になった。
彼がこの事件を担当していてよかったと言えよう。
ダンテの「神曲」やチョーサーの「カンタベリー物語」、骨のない1ポンドの肉の件が「ヴェニスの商人」からとかあったが、これらから犯人の読書傾向が分かり、FBIに頼み図書貸出データを手に入れる。
特に謎解きや物語の構造にそれらが深く組み込まれているわけではなかったが、読書傾向から見事に犯人を割り出すことが出来た。これは少し上手く行き過ぎた感がする。もう少し手間がかかると思っていた。
書物を参考にしていたからといって、必ずしもひとつの図書館で借りるとは限らないはず。
それにわたしは、まず本は借りない。必ず買う。ケースはもっといろいろある。

最後にはヘミングウェイが出てくる。
「この世は素晴らしい。戦う価値がある。」モーガン刑事は後半の部分だけを肯定する。
この映画を見てきて、前半に同意はできまい。

世界観が何故かモーガン刑事と犯人は似ている。
どちらも厭世的で意固地である。
そこも犯罪推理に役立ったところだ。
ブラピ刑事の方は、酒はビール派のようで、モーガン刑事のワイン派と少し相容れない。
文化的な感覚においても、単に性格的なものというより、階級的な枠である。
ブラピの方は、典型的な中産階級か。
彼の奥さんはモーガン刑事の方に感性は近いようで、相談ものってもらい頼りにしている。

さて、犯人は何をやりたかったのか?
最後に5人まで殺したところで、残りの死体を見せると言い、わざと捕まりその場所へとモーガンとブラピを案内する。
車の中では、滔々と自らの信条についてまくしたてる。
そしてしきりに、ブラピに絡む。
あなたに嫉妬する。あなたのようになりたかった、等々。
更に、あなたには絶対忘れられない事件になる、とも。
ブラピは彼の術中にまんまと乗っかりカリカリ頭に来る。
そして、そのまま衝撃の最後のシーンである。
犯人がEnvy(嫉妬)であり、ブラピはWrath(憤怒)となる。
全て犯人の筋書き通りということだ。


この犯人はハンニバルには似ていない。
ハンニバルは殺害対象は彼の趣味による。簡単に想定できない。
ハンニバルは彼自身を伝説と化してゆくのだが、この犯人はやはり事件をこそ歴史に刻み込みたいようだ。
こちらは、世の悪に対する憤慨がまずあり、それを選ばれたものとして裁くという姿勢である。
モーガン刑事と精神的な基調は近いのだが、彼の場合は出来る限り関わりたくない、と言う。
むしろこの犯人は、愚か者へ制裁を加えるという心情からも、アフターライフの葬儀屋に近いと言えよう。


しかし、犯人は何をやりたかったのか?
殺した相手もさほど有名な人物でもなく、世間に対するインパクトという点から考えても何か中途半端なものだ。
犯罪そのものは、大変趣向を凝らし芸術的ですらあり、用意周到で丁寧な仕上げであるが、ブラピ刑事が言っていたように、人々は2ヶ月で忘れてしまうレベルであろう。
ブラピ刑事にとっては、犯人の言うとおり、一生忘れることの出来ない事件となったが。

それから、分からない点であるが、何故最後にブラピ刑事が犯人を撃ち殺してはいけなかったのか?
犯人の目論見はともかく、あの状況ではどうにもなるまい。
そう、犯人の計算通りなのであろう。
ここで死ぬことで犯人に関すること全てが闇に葬られることとなった。
名前すら分からないまま。


とは言え、やはり犯人の目的がいまひとつ分からない。





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ゼロ ダーク サーティー

zero.jpg
Zero Dark Thirty
2012年
アメリカ

キャスリン・ビグロー監督
マーク・ボール脚本・製作

ジェシカ・チャステイン、、、マヤ(CIA分析官)
ジェイソン・クラーク、、、ダニエル(CIA諜報専門家)
ジョエル・エドガートン、、、パトリック(米海軍特殊部隊隊員)
ジェニファー・イーリー、、、ジェシカ( CIA分析官)
マーク・ストロング、、、ジョージ(マヤのCIAの上司)
カイル・チャンドラー、、、ジョセフ・ブラッドレイ(イスラマバードのCIA支局長)


9.11以降、アメリカがビンラディンを殺害するまでを描いた映画。
2001年から2011年までかかっている。
その間、一途にビンラディンを追い続けたCIAの女性分析官を中心とした物語である。

よくある大層ドラマチックな演出の効いた戦争ドラマとは対極にある、淡々とした臨場感あるドキュメンタリータッチの描写である。
静かで抑えられたトーンであるが、通常のやり取りの現場からずっと緊張感が絶やされることがない。
前半、ビンラディンの居場所に繋がる情報を得ようと、捕えた捕虜に拷問を繰り返す。
殴る、脅す、水攻め、音による睡眠妨害、閉所に詰め込むなどいくらやっても一向に口を割らない。
お互いに消耗してゆき、先が見えない。

滞在するパキスタン街なかでは爆弾テロが続く。
西洋人人気のホテルレストランでも、主人公と友人の食事中激しい爆弾テロに見舞われる。

話の分からぬ上司とはしょっちゅうぶつかり、いらいらする。
金で口を割る幹部を見つけたかと思いきや、招き入れると自爆テロであり、彼女はその事件で友人を失う。
自分も車で出かける矢先に激しい銃撃を受け、防弾ガラスで九死に一生を得る。
その後は、根気強くビンラディンの連絡係の携帯発信電波を追って混雑する街中を彷徨い続ける。
居場所はやっとのこと突き止めるが、彼が確実にそこにいるとは確証できない。
人工衛星でも割り出せないように工作された屋敷に住んでいる。
その屋敷にいる女性の数やあまりにも完璧なスパイ対策などから、消去法で彼の存在を割り出す事が出来るだけだ。
大統領の説得に難航する。
屋敷を割り出した後も200日以上が徒に経ってしまう。
ストレスも極限までくる。

上層部が何もやらないリスクにようやく重い腰を上げる。
夜、0時30分に、ステルスヘリ2機で作戦決行となる。
パキスタン政府に内密で夜襲をかける。
”ゼロ ダーク サーティー”
目的は、ビンラディン殺害。

戦いとなれば一方的である。
子供の目の前で次々と銃殺する。
殺した相手は間違いないか。
周りの女に聞いても勿論、正直には答えない。
子供にその死体の名前を確認する。

間違いなく、ビンラディンであった。


やはりこの映画の一番の特徴は、失敗や拷問や犠牲や混迷など実情を地味に描き、アメリカ正義を賛美するマッチョ作品になっていないことである。
しかし主人公の狂気じみた執念は、自分をヒロインと化している面が明らかに見られた。
(「私のために、ビンラディンを殺してきて」と突撃隊員に言うところなどに)。


最後に主人公の女性が、「これからどちらに行くのですか」、とパイロットに聞かれ、何も答えず涙を流すところが、全てを語っている。
彼女は、途方に暮れる。
この虚しさは何か。
ジェット戦闘機たった一人で貸し切り状態での帰国である。
十年間ビンラディンを追い、殺したところで、アメリカがどこへゆくのか分からない。
自分は高卒でCIAに入ってからひたすらビンラディンを追い続けてきた。
そして彼を殺す事を果たした。
しかし何が変わるのか、何を達成したのか。
彼女自身自分がやってきたことの意味など考えたことなどないはず。
何が自分をそこまで駆り立ててきたのか?


やられたらやり返す。
この負の連鎖は止まることがない。
もともと行き着く先など誰も考えてはいない。

分かっているのは、、、
ただ消耗しきるまで続けるだけだ、ということ。

フィフス・エレメント

5th elements
Le Cinquième élément   The Fifth Element
フランス=アメリカ1997年度作品
リュック・ベッソン監督・原案・脚本

ブルース・ウィリス、、、コーベン・ダラス(退役軍人、タクシー運転手)
ミラ・ジョヴォヴィッチ、、、リー・ルー(フィフス・エレメント、愛)
ゲイリー・オールドマン、、、ゾーグ(武器商人)
イアン・ホルム、、、コーネリアス神父
ブライオン・ジェームズ、、、マンロー将軍


SF映画であるが、サイエンス・ファンタジー・アクションであろうか。

リックベンソンは”サブウェイ”が印象に残っている。
ジャンジャック・ベネックスやレオン・カラックスと同様(同格)に観られる。
”ニキータ”、”レオン”は勿論、面白かった。
”ジャンヌ・ダルク”、”ルーシー”もよかった。
本作は、ルーシーに繋がるかといえば、そうでもなくかなり独自な位置にあるだろう。


とても楽しい映画であり、数々のオマージュによって成り立っている。

本作は恐らく監督にとっても特別なものであり、少年時代から温めてきた構想を一気に具体化したものであり、詰め込めるものを余さず詰め込んだ感がある。
ストーリーはあってないようなもの。かろうじて枠があればそれで良い。
テーマは何と「愛は地球を救う」である。
天・地・火・水そして5番目のエレメントが「愛」なのだ。
愛は至高の存在であるミラ・ジョヴォヴィッチそのものなのだ。(それは監督にとってか?!)
ブルースとミラの愛し合うことで、地球に突入してくる反物質を撃退することになる。
この時期、各テレビ局が長時間放送で訳のわからぬ催しをやっているが、あれをうんと豪華にお金を使って戦隊ものでやってみたらこんな風になったかも知れない。


ブルース・ウィリスとミラ・ジョヴォヴィッチ主演であり、2人とも魅力を充分に放っている。
特にブルースはそれほどひどくマッチョな感じもなく、彼の映画では1番カッコ良い主人公になっているように思う。
ミラについては、ここで人気に火がつきヴァイオ・ハザードシリーズが待っている。

他の役者でも”エイリアン”で会社の機密通りに任務を遂行させるアンドロイド役に出ていた役者が僧侶で。
”ブレードランナー”でレプリカントのレオンを演じていた彼が将軍役で出ている。
皆、何れもコミカルでお茶目な役どころである。

更にちょっと奇想天外な役者の使い方である。
人気ラジオDJであろうか。
あの役者の弾け様には、普通の人間ではとてもついて行けない。
憎めないがハイテンションすぎてアクが濃すぎる存在だ。
それから宇宙連邦Ⅰの歌姫の出で立ちと容貌は、あの悪のボスと同様に圧倒的なものがある。
衣装はJeanPaul GAULTIERである。
充分に頷ける。
あのオペラ歌手の場面は特に印象に残る。
”ディーヴァ”がエイリアン化したかのようで、元のディーヴァは実際に唱う場面がなく少し寂しかったが、ここではかなり唱ってもらい、こちらまで得した気分になった。

凶悪宇宙人は珍しいほど悪ズラをした宇宙人であり、神の宇宙人は賢そうでちょっと昆虫ぽかった。
宇宙船もどこかで見覚えのある宇宙船であり、タクシーは黄色で、まさか”タクシードライバー”か?
上空高くにある主人公の部屋に横付けにやって来る中華料理屋台船は、やはりデッカードがうどんを食った屋台を思わせる。


一番楽しかったのは、この映画を作ったリック・ベンソンであろう。
それは間違いない。
楽しかったせいかはともかく、この映画の後で、ミラ・ジョヴォヴィッチと結婚もしている。
勢いはあったはずだ。
何せ好きなものを全て放り込んだ映画だ。
究極の独りよがりだが、それを金もふんだんに使って誰もが楽しめる娯楽映画に仕立て上げている。





L.A.コンフィデンシャル

LA.jpg

1997年度作品。
50年代のLAの警察内部の抗争を描いている映画であった。
街や人々の雰囲気も濃厚に描かれていた。

”ロロ・トマシ”
dying messageの重要さを感じた。
わたしもせめて、遺言だけでもしっかり書いとかなければ、と思う。


「オフレコ事件簿」とは、こういうものになるのか。
確かに同じ原作者のもので、「ブラックダリア」もこんな汚職塗れであった。
LAというか、アメリカ警察はこういう感じなのか?
まさに私利私欲、欲望渦巻く世界である。

そこにあって、自らの信条とプライド(屈折)を貫くとは、、、。
あくまでも自分流正義なのだが。
なかなかのものである。
それぞれスタイリッシュに決めている。

この作品、ブラックダリアからみると、随分スッキリ観ることができる。
最初から最後まで全くダレる余地がない。
あまりに入り込みすぎて、あっという間に終わってしまった感が強い。
わたしは、ほとんどの映画が長く感じてしまう方であるため、希な経験である。
脚本がしっかりしていて、引っかかることがない。
重層的で見事な流れである。
そして俳優の演技が皆、圧巻だ。
全ての役柄が活き活きと際立っている。
それだけに密度が濃い。
これで途中でトイレに立てるわけがない。

やはり、ケヴィン・スペイシー 、ラッセル・クロウ 、ガイ・ピアース 、ジェームズ・クロムウェル 、キム・ベイシンガー の卓越した個性と演技でグイグイ惹きつけられてゆく。
4人の刑事のそれぞれの生き方の違いと、その絡みと更にガイ・ピアースの変化を充分楽しめる。

さらにラッセル・クロウはこの演技で一躍スポットライトが当たったようだ。
後のビューティフル・マインドでは、まさに対極の演技が光ることになる。
彼は演技の幅が広いというか極端な役柄の演技が冴える。


さてクライムサスペンスとしてよくある、上に認められない独自捜査がここでも主人公たち刑事によって展開される。それぞれの動きは、その黒幕はちゃんと掴んでおり、巧みに罠をかけるなど対応を怠らない。
ここでは、3者3様の個性の滲む魅力的な動きから、ケヴィンとガイのコンビによる捜査、そして終盤のラッセルとガイの「落ちこぼれと優等生コンビ」の怒涛の活躍に移ってゆく。
勿論、その脇を話の支流がすべて交差するように流れてゆくところも見事である。
もっともそれが定石かも知れないし、その意味では変わったプロットを特別に捻り出している訳でもない。
特別に派手な動きも見られない。
しかし、これだけ魅せるということは、やはりその完成度の高さ所以なのだろう。
脚本とそれを具体化する俳優の極めて高いレヴェルの達成によるものだと言えよう。


久々のよく練られた時間を感じさせない映画体験であった。



エスター

ORPHAN.jpg

"ORPHAN"、、、確かに孤児であった。

養子を迎えるということは、どういうことなのか。
すでにふたりの子供がいて、下の娘は聾唖学校に通う子である。
充分に手をかけなければならない子がいて、なお外から子供を貰うという必然性がどうも共感しにくい。

妻がアルコール中毒で、下の娘マックスを池で溺れさせかけた。
3人目の子供が死産であった。
この件で、家庭がギクシャクしているからといって、子供がもうひとり増えたら余計に大変になるのでは。
少なくとも、こころの隙間を埋めるような身勝手な都合で子供は育てられない。
夫婦の認識がどうにも甘い。
子供をひとり育てることがどれだけ大変で責任が重いか。
まだ、ペットにでもしておいた方がよかった。


ともかく、この夫婦は自分たちの抱えた問題や矛盾を養子をもらうことで解消できると思った。
さて、ちょっと変わった自分の世界を持つ賢そうな子(エスター)を貰ってみると、、、。

最初の頃だけ良い子が来たと喜んでいた夫婦であったが。
公園でエスターが他の子を遊具の上から突き落として怪我をさせた頃から、不穏な空気に包まれ始める。
夫の前では猫を被っているが、それ以外のところでは、およそ子供らしからぬ言動が目立ち出す。
妻はエスターの異常さに気づき始めるが、夫もカウンセラーもエスターに丸め込まれ、彼女を庇い妻を責める始末。

夫婦の間は更に亀裂が深まり、幼い二人の子供は極めて危うい場所に立たされる。
周囲の人間でエスターに疑いの目を向けるものは、彼女の餌食になってゆく。
子供たちも脅され真実を打ち明けられない。
しかし、真相を探ろうとすればするほど子供たちに魔の手が及んでゆく。
妻の警告は誰にも届かない。
その過程を細やかに丁寧に描いてゆく。

そのなかで、エスターが死産した子供の灰を撒いた土で育った白バラを全部切り取って「お母さん、プレゼントよ」というところは、ある意味、この物語のキーポイントに思えた。
あそこで、妻は「何て酷いことをするの」と悲しみに暮れ、彼女を殴り激怒する。
確かに挑発的な意図からなされた行為であるが、妻は自分が完全に亡くなった子供の身代わりとして養子を得ようとしていただけだということに気づいていないことがここではっきり暴露される。エスターもそれを認識する。
エスターの過剰すぎる自らの腕の骨折は、自分というものの寄る辺なさに対する絶望的な行為であり、抗議でもあったのではないか。エスターの暴挙は彼女の絶望から引き起こされていく。
夫の方はまるで鈍感でどちらの気持ちも何も分かっていない。

エスターが役者が上と言っても、夫とカウンセラーの鈍さが少し程度を越している。
何も、「天使と悪魔」のトム・ハンクスほどキレる必要はないが、余りにも情けないレヴェルである。
その鈍さによって、この映画の恐怖とスリルが支えられていると言えるのであるが。
終盤からの畳み掛けは非常に濃密で緊迫感十分であった。

エスター側と母親側の両者を具にしっかり見ていたのは、1番下の幼い聾唖のマックスであった。
1番辛い思いをしたのは何を隠そう、実は彼女である。
双方の内面を感じつつも、間で必死に耐える幼い女の子の姿がとても孤独で切なく雄弁であった。
そして何より可愛そうだ。
(やはりこれは親が悪い)。


言うまでもなく、エスター役のイザベル・ファーマンの演技は真に迫るものである。
単に人格障害の凶暴な性格を隠し持っているというだけでなく、自分の特異体質に対する宿命的な悲しみと孤独も表していたのだから。
(トイレで暴れる、夫に女として扱われなかったシーンなどで)
恐るべき子役である。
しかし、どれだけ優れた子役といえ、これらを全て理解して役作りしているとは思えない。
勿論、そこが監督の演出の仕事になるだろう。


よく出来た映画であった。

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シャイニング

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閉ざされ非常に限定された場所での狂気の密度の高まりをじわじわと描いてゆく映画。

発狂してゆくジャック・ニコルソン。
恐怖に戦く妻。
不安に怯える息子。
それらの演技と舞台配色、照明、カメラワーク、音楽が厳密に絡み合う。

表情を克明に不気味に浮かび上がらせる照明の明るさ。かなりの高度から車を俯瞰し、ローアングルでひたすらカートを追い、双子までの距離を一気に詰めるこれらのカメラワーク。
どこか東洋的な響きもある刺激的な効果音。
それぞれ徐々に追い込まれてゆく内面を表す卓越した演技。
これから何かが起きる予感を徐々に煽っていく演出が定石通りになされてゆく。

白。赤。緑。を舞台に、何か伝統芸能(能のような)を観る思いがした。
計算しつくされた様式美を感じる。


映画としては面白い作品である。
しかしホラーとして、怖さを期待すると実際さほどそれを感じない。
その作りの見事さを鑑賞する、能を観るような姿勢で関わる方が良いような気がした。
「しつけ」とか「ニガーがパーティーを台無しにしにやって来る」とか、インディアンの墓の上に建てられたリゾートホテル、最後の写真の日付など、WAPSを意識させる流れもあるようであった。
これはアメリカならではである。
日本人にはいまひとつというところだ。

アル中治療後、小説新作へのプレッシャーと閉所恐怖から発狂というのも無理があり、やはりこの曰く付きホテルそのものの災厄であったと言えよう。息子のシャイニングの能力にも、行かない方が良いと引っかかっていたわけである。
呪いのホテルの管理人となったための災難という話か。

この映画でわたしが1番印象的であったことは、幽霊の出る場面がいつも通常より明るい状態であることだ。
お化け屋敷的な暗がりで、恐ろしさを演出することなく、しっかり構築された構造の上でその場面を作っていることがはっきり分かるものである。


最後のあっさり感が時代的(この映画独特)なものを感じるところである。
最近のホラーであれば、2つ3つどんでん返しを入れてくるところであろう。


奥さん役の女優はポパイのオリーブ役であったそうだが、まさにぴったりである。
これほど適任はないであろう。
息子役は素晴らしい将来性を感じたのだが、すぐに役者を辞め、科学の教員となってしまったそうだ。
何か惜しい気がする。



抽象 2つの感性

真島明子氏と上条陽子氏の展覧会である。
相模原市市民ギャラリーにて。
8月8日~8月23日(水曜休館)


真島氏の作品は相模原市を拠点とする女性作家9人の作品展で、過去1度作品を観ている。
今回もその時に展示されていた、一見鳥の巣箱を思わせる作品が何点もあった。
ただ、木肌ではなく色を塗られており、台形状に角度が開かれていたり、もっと形態の分節が細かく進んでいた。
壁面全部を覆うほどの巨大な矩形作品も今回は数点見られ圧倒する存在感があった。

また、今回は床置きの作品も数点見られた。
海辺に自然に作られたように木片のブロックが弧を描いて床に並べられていたり、やはり波を防ぐ防波堤のような高さと角度を持つブロック状の作品などである。

サイズは大小様々であるが大きなものに目を奪われた。
基本的に矩形に拘わり、その枠に対して、量が横溢してゆく力を感じる。
どの作品にもスタティックなモノに潜むダイナミックな動勢を感じるものであった。
決して枠に何をか、はめ込む装飾的なものではなく、枠を絶えず押し除けようとする気配に満ちていた。

別のコーナーには、とても静謐なやはり矩形を基本としたモノトーンの作品が展示されていた。
こちらは、高級カフェなどの白壁に飾ると如何にもお洒落でぴったり合う、という感じのものであった。
(大概、カフェに飾られた絵にわれわれは落胆するものである)。


上条氏のものは、初見であるように思う。
カラードローイングと、黒地に白で形態の描かれたカードが何枚も配置・構成された平面構成、細かく切り抜かれた紙片が細胞のように寄り集まり全体を形作る大きなモノトーン作品とに分かれていた。

ドローイングについては、表現主義的な単純化した形体と色彩で空間を平面的に構成した(描いた)ものであった。
あえて言えば、デ・クーニング的な作風であるか。
「くつ」などのそっけない即物的な題のついたものであった。
別の展示スペースにはトレッシングペーパーの貼られたドローイングが展示されていた。

黒地に白の構成作品では、「弱肉強食」とか「阻害」などの不穏な題名が付けられており、文字通り生命とそれに対抗するフィギュアが混ざり合うように(浸透し合うかのように)描かれ微妙なバランスを保っていた。

1番印象的であったのは、様々な形に切り抜かれた白い小さな紙片が折り重なるように夥しい枚数で構成された作品である。
そこに部分的に紐を思わせる色鮮やかな線模様の描き込まれた黒い紙が貼られている。
全体としてみれば白黒のコントラストになるが、テクスチュアは非常に複雑で重層的なリズムを醸しており、黒地に色の配されたパートは音階を感じさせた。
この黒地に色彩の部分はスクラッチを思わせるものであり、白い切り込まれた紙片の集合体は重厚で繊細なレースを感じさせるものであった。題名は「歪み」など空間的で質的なものである。


ここのところ抽象画(作品)に触れるような生活を送っていなかったため、感覚の焦点がすぐに合わなかったが、やはりたまにはこのような抽象に目を向ける必要があることが分かった。
今回展示会に呼び出してくださった方(同僚)には深く感謝したい。


極めて短時間の鑑賞であったため、レポートするのは大変気がひけるのであるが、一応簡単な備忘録としておきたい。
まだ展示期間があるので、改めて見直したい気持ちもある。

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トレインスポッティング

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"Trainspotting"
なんだこの映画のエンディングは?
妙に爽やかな青春映画ではないか!
希望に溢れて疾走してるぞ。
平凡な暮らしに憧れるみたいなこと言って、、、。


1996年当時のロックの名曲が流れる。イギー・ポップ。わたしは当時あんまり聴かなかったな、彼は。
どちらかと言うと、ピンク・フロイドのシド・バレットで終わっていたから。
名優イアン・マクレガーの若き日の姿。
こんな役やってたんだ。
なかなかコミカルでシニカルでボロボロである。
そしてタフである。

わたしはこの世界に接したことはないが、彼らが得た創造に深く感動した覚えはある。
それはたくさん。
例えば、ジョージ・ハリスンの”ビーウェア・オブ・ダークネス”は麻薬なくして生まれる曲とは想えない名曲中の名曲だ。
何度聴いたか分からない。
デヴィット・ボウイの”レディ・グリニングソウル”だってそうだ。
曲を聴けば薬の匂いがする。
(実際に嗅いだことはないのだが、分かる)。

アレイスター・クロウリーやティモシー・リアリー、カルロス・カスタネダ、、、
アンリ・ミショーも勿論含め、それらの成果に随分影響されてきたことは確かだ。
普通では作れないひとつの文化が創造されたことは間違いない。

薬を創造実験に使っていた人はいるが、しかし大部分は、この主人公のように、無軌道に打ちまくっていたことが分かる。
禁断症状とエイズ。暴力と喧騒。親の分からない赤ん坊。
窃盗と麻薬の売買。
懲役とリハビリ措置。
薬を何度絶っても、電話をかけて取り寄せてしまう。
依存性と刹那主義。
虚無と無秩序に溺れ、、、。

あのこの上なく汚い便器に頭からすっぽり入って南海のマリン・ダイビングのように麻薬を探しに潜る姿は何とも、この映画独自の人魚姫ファンタジーだ。まず他のどんな映画でも真似できまい。
それから、薬を打ってそのまま倒れ病院に緊急搬送される場面での”パーフェクト・デイ”(ルー・リード)。
笑うに笑えないものであった。(赤が効果的であった)。
あんな風にぞんざいに運ぶものなのか、と感心した。
もう、パターンができているとしか思えない。

しかし主人公は結構、したたかで順応性も高い。
友達のおかげで失業するが、いつでもやろうと思えば何でもできるパワーがある。
波に乗ればそのまま勢いで行ってしまいそうだ。

くすねた金をうまく使いさえすれば大丈夫。
友達とはもう縁を切ろう、というところだ。
少し複雑だが、前向きな表情で突っ走る。
こちらも何故かワクワクしてくる。


不思議な映画だ。







9

9.jpg

奇妙な映画だった。
ティム・バートンが関わっているということで観た。
人形(人形たち)が主人公であるが、パペットムービーのようなものではなく、大変動きが細やかでスピーディーなキャラクター映画だ。ピクサスで馴染んでいるあのアニメーションの動きだ。それにダークな雰囲気を与えたものか。


廃墟の光景は見事であった。
今回のCGは質感も際立っていた。
人形も寂しげでうらぶれた独特な個性のある形で魅力的である。
動きの意外性もディテール描写も充分楽しめた。

ストーリーは変わっていた。
特に主人公の9であるが、面白い立ち位置である。
通常ハリウッド方式であれば、主人公が必ず正しい道を選択する。
周囲が誤った方向に進むが、悪戦苦闘して修正しカタストロフ的に解決へと雪崩込む。
この物語はしかし、9はどんどん仲間の人形をこの世から抹殺してしまう流れに落としてゆく。

次々に9が発端となりきっかけを作っては、仲間を暴走するマシンの犠牲にしてゆく。
これが所謂、ヒーローらしからぬ主役なのだ。
マシンに精気(エネルギー)を吸い取られ死んだ仲間を救えると主張し、彼らのことは諦めてマシンを破壊しましょうという声を聞かずに、策を講じようとする。
その間にまた仲間が殺られる。

ようやく、見ている方には皆目分からないが、仲間を救う方法が見つかったと言う。
それを実行に移す。
この時にも、9を疫病神だと批判していたリーダー1が彼を救うために身代わりとなる。
そして、敵のマシンを倒し、手筈通りに装置を起動すると、これまでに犠牲になった人形の魂がそこから抜け出てくる。
9たち残った人形に挨拶などして、彼らはみんなで空高く昇天してゆくのだ。
9たちはそれを厳かに見守る。
9とともに生き残った7が、「彼らは自由になったのね。」と夜空を見上げて囁く。

えっ助かる、つまり元に戻るのではなかったのか!?
ある意味、わたしにとってのどんでん返しであった。
途中から後で戻せる事を前提に犠牲を出しながら戦いを進めていたように映るのだが。
もう誰も死なせないと固い決意をしたのは、最初自分が助けられ世話になった2の時だけである。
ハリウッド映画なら、その後の主人公は、身を呈して仲間を守り抜き互いに健闘を讃え合って終わるのだが。
ほとんど主要メンバー全員昇天してしまい、残ったのは9と彼女の7と途中で発見されたよく解らない双子だけである。
ひどく寂しくなってしまったではないか、、、。
こういうことだったのか?

そして最後の9のことば。
「ぼくたちでこの世界は守る。」
それはよいが、君の采配ではみんなが昇天して救われることになってしまうぞ。
それもひとつの捉え方だが、少なくともこの世界-下界は守れない。

そのうち誰もいなくなる気がした。


究極の廃墟映画であった。
トーンが統一され画像全体の仕上がりに破れ目は一切感じられなかった。
映像としての完成度で満足させる映画であろう。


しかしあのピクサスの「メリダと怖しの森」のような不快感はないとは言え、妙に座り心地の良くない椅子で鑑賞した気になってしまった。


カプリコーン 1

Capricorn1.jpg

1977年度作品。
"CAPRICORN ONE"
何故、「1」なんだろう?
「2」もあるのか?
まさかね(笑。
CAPRICORN自体に特に意味はないようだ。
火星探査計画に付けられた名称というほどのものであるか。

やはり複葉機と軍用へり2機のかなり尺を取ったスカイチェイスが圧巻である。
いまならド迫力の3DCGというところだろうが、充分に見応えがあった。
しかし、あのパイロット、翼につかまったままアクロバット飛行で、よく振り落とされなかった。
ほとんど飲まず食わずで砂漠を何日も彷徨い山も登り、蛇とも格闘した後である。
もはや超人の域と言えよう。トイ・ストーリーズでもあそこまではやらない。
農薬散布用の飛行機があそこまでやるとは。
操縦士のじいさんの腕も途轍もない。あれでは、「紅の豚」実写版だ。
記者の推理も超越的なもので一緒にTVを見ているかのようであった。
(何故FBIは麻薬嫌疑をかけて捕らえた彼をおめおめ解放したのかよく解らずじまいであったが)。

それからもう一つ。
記者が車に細工をされブレーキが効かずスピードがどんどん上がる暴走シーンは更にスリリングであった。
よく事故を起こさず、あれだけ持ち堪えて、うまく海まで逃げ延びたと思う。
これも超人級である。怖さでは飛行機よりもこちらの方が上であった。

これらはまず見所であろう。

記者の彼女の車が懐かしの真っ赤なフィアレディZであった。
これも人によっては見所になるか。


そもそも、、、
3か月前にロケットの生命維持装置に欠陥が見つかったが計画は中止できず、そのまま打ち上げることになった。
というのが解らない。
単に、そこを完全なものに修復すれば良いではないか。
場合によっては、打ち上げを少しばかり延期して。
勿論、不良品を納品した企業はペナルティである。
それだけのことではないか?

空(から)の有人ロケットを無駄に打ち上げる方がよっぽど損ではないか。
何のデータも得られない代償ほど大きなものはなかろうに。
(これまでにアメリカのデータ収集の執念はともかく凄いものがある)。
何のための宇宙事業なのか。(何に対する事業なのか?)

アポロ計画もこのような架空のものであったという都市伝説は有名だ。

しかしこれではドラマの前提がなくなり、身も蓋もない。
3人の宇宙飛行士の身を確保し、砂漠の基地で映画撮りしてそれを世界に流すとしても、やはり発信電波ですぐに見破られるはず。
NASAの職員がそれをやり抹殺されたが、他の国だって当然気づく。
そして火星着陸の映像が撮れた後、3人の存在が邪魔なので、大気圏突入時に燃え尽きたことにする。
耐熱シールドの剥離ということで。
そしてそれに当然気づく3人がその施設からの逃亡を謀る。
飛行機に乗り込んで飛んだかと思ったら、燃料切れで砂漠にすぐ不時着。

そこからが後半の見せ場となる。

主人公のパイロット以外の2人はFBIに捕らえられてしまうが、その2人はどうなったのか。
すぐに処分していたとしたら、後が大変である。(処分していなくても大変に変わりないが)。
主人公と国家的な陰謀を見破った記者が、大統領出席の3人の葬儀中に、戻ってきてしまったのだから。
(フェアレディZに乗って)。
もう、ある意味、収拾がつかない大問題に広がるはずである。
そのままTV放映されているのだし、そこで銃殺は出来ない。
その後の状況を「2」としてやってもよいかも。
どうにでも作れるはずである。
「1」がここまで、無理があるのだし、何とでもなろう。

長い映画だが、全くだれずに観ることが出来た。
テンポの良さである。

イグジステンズ

existenz.jpg

eXistenZ
Existence、、、の変容?
1999年度作品。
カナダ・イギリス

デヴィット・クローネンバーグ監督・脚本・製作
ハワード・ショア音楽

ジェニファー・ジェイソン・リー  、、、アレグラ・ゲラー/バーブ・ブレッケン(天才ゲームデザイナー)
ジュード・ロウ 、、、テッド・パイクル/ラリー・アーシェン(警備員)
イアン・ホルム 、、、キリ・ビヌカー
ウィレム・デフォー 、、、ガス
クリストファー・エクルストン 、、、ウィトルド・レヴィ
サラ・ポーリー 、、、メルル
ドン・マッケラー 、、、イェフゲニー・ノリッシュ
カラム・キース・レニー 、、、ヒューゴ・カーロー


誰もが脊椎にバイオ・ポートの穴を開け、神経に直接ゲームポッドを繋いで仮想現実のゲームを楽しむ世界。
この後のSF映画・アニメへの影響がいかに大きいか。
究極のヴァーチャル・リアリティとは何か。
フリップ・K・ディック的な雰囲気のする作品である。

現実とシームレスに繋がる体感ゲーム。
というか、現実とゲーム空間の区別が分からなくなるそんな事態に引き込まれる。
ゲーム空間では、しかし配役IDに対し超越的な自己が残っていることが、その場をゲーム空間だと認識させる。
しかし、死ぬか生きるかのパニックシーンになると、本当はどうだか分からなくなる。
これは、ある意味、危険だ。

ニジマスの養殖場を利用したゲームポッド工場。
そこでは突然変異の両生類の有精卵からポッドを生産していた。
ポッドの有事的なぷよぷよ感。同じく有機体で作られたアンビコード。
ちなみにポッドはコードを介してヒトの代謝エネルギーを動力にして作動する。
両生類の軟骨から組み立てられるグリッスル・ガン。何と弾はヒトの歯である。
であるから金属探知機には反応しない。
変異した両生類をたまたま食べたらイケたのでそれを料理に出す中華料理店。
それをむしゃむしゃ食べる主人公(ジュード・ロウ)。

銃撃もたっぷり、血もほとばしる。
ゲームであるから、簡単に銃殺する。
クローネンバーグの真骨頂である、ぐちゃぐちゃねちょねちょの有機的で内臓的な世界がたっぷり味わえる。
紛れもない彼の発想と体質である。
ゲームの筋書きも凝ったもので、ゲーム会社間のスパイ抗争と現実主義者との思想的なゲリラ戦が盛り込まれ、誰が敵なのかさっぱり掴めない不気味な陰謀に満ちた、スピーディーでスリルに富む展開である。
何とか危機を脱しゲームから帰還したと思ったら、そこもまたゲーム空間である。
そんな入れ子状の仮想空間構造がよく練られている。


しかし実際、このような時空間に浸っていると、身体現実の変容(神経系統へのダメージ)は、無視できないものだろう。
最後のあのふたりのシーンは、現実であってもおかしくはない。
現実を歪めるというより、存在そのものがあやふやになってしまう。



エンターテイメント性はビデオドロームより高く洗練されていた。
とても見易い映画であった。




夏の夜

cocoon.jpg

もし耳を澄ませて、水瓶座流星群の音が聴こえたら、言うことなし。

頼んでおいたビョークの"Cocoon"を観た。
ビョークと石岡瑛子さんが組むとこういうことになるのか!
ただ、モニタに吸い付けられた。
曲もビョークのしなやかに通る囁きに近い唱法で催眠状態に陥る。
やはり、あの真っ赤な生き物のような紐だ。
あれがビョークの顔・体中に職種のような動きで接したり巻き付いたり。
ビョーク自身とても心地よさそうに見える。
それはこちらにも照射される。
口に入ったり、様々な動きをしてゆくうちに、その本数・量は夥しく増え、しまいにビョークを頭から足先まで巻いてしまう。
すると、そのまま重力から解かれて浮かんでゆく。
中身はどうなったのか?
蛹を強く連想する。
想像もつかぬ異なる何かに生まれ変わる、、、。
ここではない場所で?

真っ赤なミイラ状になったまま。
それは、宙に浮いてゆく、、、。


もう今日は余計な刺激は入れたくない。
このまま、感覚の浄化を待ちたい。

余計なことも考えず。

今日は、ほぼ丸一日間、病院であった。
一番大きな待合ホールにいたためか、ノイズが入り乱れて入ってきた。
近くのご年配の話が大きな声で、丸ごと入ってきた。
少し離れた頭上のモニタには、国会答弁が。
何やら「国家安全保障基本法」に関する野党議員からの質問が出されているようだった。
切れ切れに聴こえてくるのは、特殊な状況下での枝葉末節な事柄をつつく様子に見えた。


恐ろしいのは、ある意識の不条理な欲求ー法案が大きな声でゴリ押しのうちに通ってゆくことだ。
身近にも何度もそんな状況を経験した。
いつしか間に入ってくるような感じで。
自分があらぬ場所に立たされていることもあった。
今回は、日本がよって立つ基盤にトドメを刺すかたちでやってきた。
大地震よりも核のメルトダウンよりも大きなインパクトをもって。
憲法を無視して違憲法案が通るようなら、もう何でもアリの世界がすぐそこに開けている。


まずは、今日は感覚を清めたい。
あんなふうな蛹に成って。
耳を澄ますと、ノイズが幾重にものしかかっているのが分かる。
わたしは、重く沈むしかない。



タクシードライバー

Jodie Foster

ジュディー・フォスター(アイリス)が出ていて何故か新鮮だった。
ロバート・デ・ニーロのタクシードライバー(トラヴィス)が実に様になっていた。
夜景の中の黄色いタクシーが印象深い。

この映画、トラヴィスが銃撃戦を終えて、警官が部屋にやってきたところの俯瞰映像でジ・エンドであればよく出来た作品どまりな気がする。
超脱への抑圧。
いや、アイデンティティの渇望か。
どうにもならない現状から抜け出せない人間の悪あがきと破滅。
とても説得力ある流れである。

しかし最後にくっついた超越的な蛇足部分で映画史に残る金字塔となったのでは。

あの言いようのない、浮かばれない佛の見た白昼夢のような件。
非常に不気味な光景である。
アイリスの両親からご丁寧な礼状をもらい、しかもあの少女が学校に戻り勉強に精を出してると。
体は前と変わらぬ五体満足な姿で職場復帰している(ヒトを殺害したはずだが)。
さらに馬鹿にして自分を振ったご立派な彼女が、ヨリを戻そうとするかのようにタクシーに乗ってくる。
彼女は新聞で彼が売春婦となった少女を助けたことでヒーローとなっている記事を読んだと。
自分は料金を受け取らず、飄々とその場を立ち去る。
この白々しくも虚しいシーンはこの主人公と世界の救われなさを呆れるほどはっきり浮き立たせる。

この無意味な蛇足ほど虚脱感を与えるエンディングはない。
観た後、暫く寝込んでしまった。

ベトナム帰還兵なのだろうか、睡眠障害で一向に眠れない。
街の荒れ果てた環境にもストレスが溜まる。
そんな時、自分を変える転機になるかも知れぬ女性を見つける。
だが彼女とは文化的な面で彼との差がありすぎた。
別れることになるのは、当然であろう。
しかし彼はその現実を冷静に受け取れない。
自己対象化ができない。
矛盾を外に見出し、あのように外に向かう。
「ここから飛び出して何かをしたいんだ。」
銃を何丁も買って、ひたすらマッチョな訓練する。
大統領候補をあてつけに(別れた彼女が選挙の運動員であるため)射殺しようとしたが失敗する。

すると今度は、アイリス(幼い売春婦)にそんな仕事はやめろと独善的な説教をする。
何でも良い。自分が相手に対して頼られる(支配できる)存在となりたい。
前の彼女ではダメだった関係を取り結びたい。
出来れば善きものとして振舞ってみたい。
しかし彼女はその場を抜け出る意思などない。

主人公は、自殺的行為と言える売春宿の襲撃をし何人も射殺する。
アイリスの目の前で客を撃ち殺す。
自分も二発撃たれており、瀕死である。
自害しようとしたが弾が残っていなかった。
アイリスは恐怖で泣きじゃくっている。

何もかもが救われない。
これで何かが変わることなどあろうはずもない。


何であれ、ジュディー・フォスターが出ていることが救いに思えた。
しかし、若すぎる。(13歳だったという)。
早熟の天才だ。



ターミナル

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「ヤギの薬」には、驚いた。
優れた通訳はそういう訳をすると、野球関係でも聞いたことがある。
(「父親に送る薬」では、没収で強制送還なのだ)。
機転がモノを言う。

しかし物語はひたすら待つ話だ。
実際に空港に住んでいたヒトもいたそうで、ターミナルに非常事態で一晩明かすことは有りうる。
しかし主人公は9ヶ月ターミナル内に足止めを食らう。
祖国がクーデターでもはや国として機能を失ったからだ。
ニューヨークまで飛んで来たのに、アメリカに入国できない。
空港の外に出られる目処がいつまでも立たない。
そんな停滞する状況でどう生きるのか、である。
生易しいものではない。

この不条理さは、かなりのものだ。
しかしそれを大変コミカルにペーソスたっぷりに描いてゆくのがこの映画の肝だ。
Tom Hanksの円熟した演技力に負うところがなによりも大きい。


国を失った異邦人として、つまりIDの消失した人間として放り出されてしまう。
言葉も分からず、コミュニケーションもまともに取れない。
お金も自国のものは使えない。
祖国への不安。先の見通しが持てない。
現状に混乱し周囲には不審がられる。
ここですぐに機能するのは管理側の押しつぶさんばかりの圧力である。
彼らの意識もそうだが、具体的に立ちはだかるのは、手続き・書類・規則である。
それを盾に居場所を奪おうとする。
厄介払いである。

何処に行けというのか?
保護は愚か、収容所すら何処にもないのだ。

不便な暮らしを強いられる。
無理解と疎外に耐える。

しかしこんなことは、この映画の特殊な状況下においてのことか?
ほぼ日常的なことだ、という人もいるに違いない。
そういう人は増えていると思う。

この作品では、ひょんなタイミングから冒頭の名翻訳により、同じような外国人を救ったことから、一躍ターミナル内の人気者になれたため、人々が彼に親和的に接するようになる。
流れが一気に変わり、彼をみんなが後押しするようになるのだ。
おかげで彼はニューヨークにやってきた目的を無事果たす。
こんなチャンス通常あるだろうか。
知恵や機転を利かすにも、日常はあまりに無味乾燥で分厚く平坦ではないか?
どうだろう。

主人公は手に職を持っており、一途でバイタリティがあった。
そのへんがひとつの鍵だと思う。


昨日は娘の誕生日だった

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一緒には祝えなかった。
何か自分が宇宙船で他の銀河探索の任務に就いているようで。
そこからお祝いをモニターを通して伝えている感じがした。
どちらかといえば、わたしがもう疲弊した地球に残っている方か?

実際、フェイスタイムでやり取りしている。
何故か、少し会っていないうちに、次女が大人っぽくなった気がした。
長女は生え変わった前歯がしっかり大きくなっていた。
2人の朝顔の咲き具合も画像で送っている。
日記があるからだ。


7歳とは何であろうか?

ケーキはうちで食べるのより豪華なものだった。
かなり奮発したみたいだった。

蝋燭の焔がいともあっけなく掻き消えた。
歌を大声で歌っていた。
やはりほとんど変わっていない。

暫く次女がモニタを独占して、最後に長女がちょこっと顔を出して「またね」となった。
ピアノをずっと弾いていない。
帰ってからが大変だ。


わたしは、8歳の時自ら今の自分の基調を作った記憶がある。
それ以前の記憶はない。
勿論、生まれる前、胎内にいた時からの無意識の記憶が連綿と続いてきていることは確かであろう。
しかし、わたしの意識としては、8歳のときの記憶が大きい。
この時に意識したのは、「ことば」だった。
ことばを意識した時が、こころを意識するこころが生まれた時だった気がする。
この時以降の記憶は切れ切れにある。

彼女らは、ことばは使っているが、ことばを意識しているようには見えない。
まだ、内面ははっきり成立していないであろうし、この先に記憶として蘇る画像があるかどうか。
この「わたし」は、まだ心象に刻まれてないように思う。

今も何らかの体温として彼女らに纏わりついているのかもしれないが。
もう少し元気でいなければ、恐らく父親像は残らないだろう。


7歳とは。
自分にとっても仄暗い闇の向うだ。


スイート プール サイド

Karia Yuiko

相手に対し剃刀を肌に当てる行為は、極めてドラキュア的な接触-交わりに近い。
鋭利な刃を肌の上で滑らせるのだ。
これは、考えてみれば、かなり際どい究極的な所作でもある。
それなりの手指の巧緻性や修練もないと危なっかしい。
素肌を傷つけ血を見てしまう恐れもある(笑。

髭剃りやムダ毛処理は、床屋や美容室のサービスでならともかく、通常は自分でする。
年頃の男子が可愛らしい女子のムダ毛を剃るという設定は荒唐無稽に過ぎる。
しかし面白い発想だ。毛深い女子と無毛の男子。
これ自体は有りうることだ。

男子が何かの理由で女子のムダ毛を剃らざる負えなくなったというのは、意表を突いたアイデアなのだが、やはりここでの動機、理由付けに無理がある。
どう見ても賢そうで、手先も器用に見える女子が、剃刀が使えないというのは、引っかかる。
更に自分で剃れないからといって同学年の男子に頼むか?(女子も難しいものだが)。
性に目覚めた思春期真っ只中の男女である。
しかも家で剃刀を使わず、鋏で剃ろうとしていた。実際にそうして何と自殺未遂と間違えられる?!
結局思春期のひとつの象徴的なムダ毛の悩み(秘密)の共有から、ムダ毛を週一で剃ってあげる儀式的な関係が二人の間にできてしまう。

漫画が原作であるようだが、こちらの方はもう少し自然な流れで描かれているのだろうか?
確かにアニメチックなタッチを感じる。
言葉から起こされた映像というより、絵や吹き出しから構成されたような趣である。

さて剃ることになった後からの、その場のやりとりを観ていると、如何にも思春期の男女の有り様である。
恐らくこの映画は、どんなに荒唐無稽な設定であろうが、力技でこの場面のデリケートな流れを見せてしまいたいのだ。
こんなシーンは、まずあり得ない。
非日常的で何より微妙で繊細なシチュエーションだ。
こんな状況に生まれる会話や仕草は、フランケンシュタインと少女のやり取りに近い危うさと初々しさがある。
少年のその時の誤魔化しに取ってつけたような妄想は不自然だ。
あの滑稽な映像は無い方が美しい。
コミカルさであれば、もう充分コミカルである。

男子はこの行為のうちに恋心が生じ、女子は他に好きな人がいて、後ろめたさを感じ出す。
週一の儀式もどうやら覚束なくなる。
おまけにその男子を好きな女子が儀式を妨害し始めたのだ。

男子の素朴な思い込みのパワーに、女子(この女優特有)の凜としたアンニュイさ加減がとても心地良い。
言葉のやり取りもそうだが、話し方、間や声量、声質までもが絶妙である。
男子の自転車の後ろに乗って、イズミヤの歌を唱うところが特にこの女優の資質が窺える気がした。
この両者(特に女優)のもつ才能には、貴重なものを感じる。

終盤、狼男のように猪突猛進して女子に迫ったのに、肝心なところで理性的に抑制を効かせてしまった男子。
最後に、「剃り方教えてあげるよ。」「うん。」と女子。
そういう終わり方なのか?
何というか、、、。
呆気ない。


この刈谷 友衣子という女優、違う映画に出たらまた素晴らしいセンスを見せてくれるのでは、と期待してしまったのだが、何と2014年に引退してしまったそうである。
わたしは、少女期のジェニー・アガター より彼女のほうが、才能は上だと思う。



ドラキュラ ~石岡瑛子

Dracula.jpg

ゲイリー・オールドマン 、、、ドラキュラ伯爵
ウィノナ・ライダー、、、ミナ・マーレイ / エリザベータ
アンソニー・ホプキンス 、、、エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授 / 司祭
キアヌ・リーヴス 、、、ジョナサン・ハーカー(ロンドンの弁護士)
サディ・フロスト、、、ルーシー・ウェステンラ(ミナの親友)
リチャード・E・グラント 、、、Dr.ジャック・セワード
ケイリー・エルウィズ、、、アーサー・ホルムウッド卿
ビル・キャンベル 、、、クインシー・P・モリス
トム・ウェイツ、、、R・M・レンフィールド
モニカ・ベルッチ 、、、ドラキュラの花嫁
ジェイ・ロビンソン、、、 Mr.ホーキンス(ジョナサンの上司)


Bram Stoker's Draculaとしてコッポラ監督による原作に忠実なドラキュラ映画。
1992年アメリカ制作、ゴシックホラー映画である。
ゴージャスな作品で、見応えは半端ではない。
美術装飾・衣装デザイン・撮影・キャスト全てが豪華絢爛である。

ルーマニアのトランシルヴァニア城の城主であったドラキュラ伯爵の悲恋物語と言えよう。
昨日は特殊メイクに目を奪われたのだが、今日は圧倒的に衣装・美術である。
アカデミー賞で衣裳デザイン賞(石岡瑛子)を受賞している、その衣装が尋常な迫力ではなかった。
わたしは、石岡瑛子氏についてはほとんど知らない。
名前は知っており、それとなく気にはなっていた世界で活躍するデザイナー(アートディレクターか?)である。

ドレスの類は勿論だが、紳士のフォーマルスーツや甲冑そしてガウン、花嫁衣裳の超時代性には驚いた。
また、何と呼べば良いのか、あの最後に身につけていた金の装束である。
クリムトも多分に入っていたことは分かる鮮烈なものだ。
雄弁でソリッドで躍動的なフォルムであり線だ。
官能的で高貴で怪奇な雰囲気が全編を満たしていた。
石岡瑛子氏はコッポラに拘っていたらしい。
彼の監督映画で、ひとつ魅せようとしたのだと思う。(恐らく)。

やはり赤が際立っていた。
PARCO劇場のポスターや西武美術館の「NUBA」(レニ・リーフェンシュタール)のポスターでも赤は印象深かった。
日本人であるが、いかにもジャパネスクという要素はない。
しかし、時空において超越的な造形を0から行ったような潔さを感じた。

そう言えば、彼女の映画美術デビュー作"MISHIMA"はまだ、日本上映は封じられたままか、、、。
ぜひ見てみたいArt directionである。
金閣が真っ二つに割るという、、、。
わたしは彼女が演出したビョークの"Cocoon"を何故か持っていなかった。
慌てて今日、注文した。(ビョークのヴィデオは全部持っていると思い込んでいた)。
曲はよく聴いたものだが、PVはビョークの白い肌の上を、赤い紐が繊細で奇妙な動きをしてゆく印象が強く残っている。

何というか、脚本を読み、時代考証を元に監督の構想も受けてデザインをするはずだが、Visualizationというものは、取りも直さず、創造行為にほかならない。
また、チームであたることの難しさも当然あるに違いない。
どれだけの想像力と手順・段階を経て具現化するのか、久々にそんなことを漠然と想い巡らした。
 "Discipline"が肝心なのだろう。
(そういう感想が自然と湧いて来る)。
このような意匠へ到達するまでには。


映画であるが、日記形式で進んでゆく。
原作もそうみたいだ。
フランケンシュタイン狼男との大きな相違点は、「性と死」が極めて濃密に描かれることだ。
であるから、最も純文学として高められるポテンシャルを持っていると言えよう。
ある意味、人間に関することをすべて持ち込む余地はある。
性愛から神(影の存在)との関係まで、全てが入り込む。
更に、環境的には城主様であり上流階級のパーティーであり、装飾的にもいくらでもアイデアを凝らせる場である。
ただ、尋常ではないのは、ヒトの血を吸わないと滅んでしまうということだ。
吸われた人間も吸血鬼と化してしまう点である。
この究極的な点において、社会から追いやられる宿命をもつ。
しかしこの乾きは、血=愛でもある。普遍的テーマだ。

映画作りには、やりがいが充分な題材ではなかろうか。
恐らく、作る人によって主題は多岐にわたるだろう。
(それで夥しいドラキュラが跳梁跋扈し始めた)。
コッポラの本作は、ドロドロした永遠の純愛とでも言ってしまいたくなるような、物語になっている。
これぞデフォルトのドラキュラではなかろうか。


わたしとしては、ヴァン・ヘルシング教授の存在が大きかった。
久々にアンソニー・ホプキンスに会えて嬉しかったものである。



狼男アメリカン

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An American Werewolf in London
1981年
アメリカ

ジョン・ランディス監督・脚本
リック・ベイカー特殊効果

デヴィッド・ノートン 、、、デヴィッド・ケスラー
ジェニー・アガター 、、、アレックス・プライス看護師
グリフィン・ダン 、、、ジャック・グッドマン
ジョン・ウッドヴァイン 、、、J・S・ハーシュ医師
フランク・オズ 、、、コリンズ
ブライアン・グローヴァー 、、、酒場の老人

フランケンシュタインの次は、狼男か。

ということで、1981年制作映画。
「狼男アメリカン。」題からすると、少し薄そうに思えるが、大変濃くてホットな映画作品であった。

何と言っても特筆すべきは、コンピュータグラフィクスを使わずに、全て手作業で驚くべきSFXを成し遂げていることだ。
特典のビデオでリックベイカー氏の具体的な作業の流れを観たが、この仕事に対する愛情なしに出来ないことだということだけは認識した。
所謂、やり方がある訳ではない。ソフトの操作で作るのではない。
勿論、自分が積み上げた経験と知識はあるが、基本0から監督の構想を具体化するためにアイデアを捻り出して作り上げてゆく。
素材から自分で選んで工夫して作り、試行錯誤を繰り返して仕上げていく。
その過程を見ると、いやでも作品を鑑賞する目も肥えてくる。
気の遠くなるような作業であり、変身する主役もそれに飛んでもない長時間を共にするわけで、ともに同等の熱意がなければ無理だ。

彼らの、ものづくりの熱気というか、生きがいも伝わってくる映画であった。
何よりも白眉なのは、極めて明るい照明の下、部分的に変身過程の変化をきめ細やかにディテールに至るまで描写していること。呆気にとられるほどの表現力であり、説得力である。
しかも、変身時の苦しみに身を捩り悶えながらの明瞭な変身をまざまざと見せつける。
これは制作者側の余程の自信と確信がなければできないことである。
暗がりの中で単にフィルム操作で、動かぬ作り物に手を加えて演出する類のものとは全く次元を異にしている。

そして、作る側の楽しさが伝わってくる。
映画というものは、本来こういうものなのだと夢想させてくれる。


ユーモアと恐怖は相反するものではなく融合するものだと、監督は主張する。
些か力技ではあるが、それは、ありだと納得できるものだ。

夢と現実が入交り、夢の中でさらに夢見、現実への出口を見失う。
もはやそこには自分がいない!
死と生が交じり合う、死のうにも死ねない彷徨える魂が主人公に自殺を勧めに寄り集う。
自分(狼の自分)が殺した者たちだ。
真面目に謝ってはみる。他にどうしろというのか?
勿論、だれも許してはくらない。当たり前だが、、、。
場所は、ポルノ映画館で。
事態は深刻で修復不可能、全く絶望的で滑稽で笑いに満ちている。

そう、どちらかといえば、ユーモアと恐怖というより、ユーモアと絶望の気がしてくる。
恐怖は確かに物語中の人物にとってはそうであるが、われわれにとっての直接性ではない。
驚きは感じるが。(さらに技術・メカニカルな点で大いに感心するが)。
しかし、ここで描かれる絶望は、直に共有するものである。

この主人公ほど選択の余地のない追い詰められた立場にあれば、もう映画館で冗談言うくらいしか出来ることもない。
ただお喋りしていて決断が下せぬまま、満月の下の惨劇となる。
もはや、行くところまで行きなさいという感じで、一気にど派手にカタストロフを迎える。


ストーリー的にはお約束通りで、結末まで時計仕掛けにキッチリ展開してくるのだが、充分に面白い映画体験であった。
「美しき冒険旅行」のジェニー・アガター の大人になった姿にも出会った。
彼女に関しては、演技は申し分ないが、オーラは16歳の時の方が輝いていた。
2300年未来への旅よりも更に普通の大人になっており、物足りなさは若干感じてしまった。
(恐らく役のせいであろう?)

SFXにおいて特殊メイクを少しでも知りたいと思えば、このBlu-ray Discの特典が大変参考になるはず。
リックベイカー氏の解説はその内容だけでなく、ものづくりに関わる人間の基本姿勢に触れることも出来る。


今度は、ドラキュアか?


フランケンシュタイン

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1931制作。
フランケンシュタインの逆襲(1957)は、味わい深く見応えのある映画であった。

また1994年制作のフランケンシュタインが最も原作に忠実で、人間的な苦悩が顕になっていたと思われる。
大変ドラマチックで迫力のある映画であった。

この古典映画の方は、格調高いが不気味な不条理さに貫かれた名作である。
ある意味、冷徹な描き方だ。
その分、リアルで普遍性がある。
そして、とんでもない怪物映画である。


「ミツバチのささやき」に繋がるあの少女との場面は、この作品世界を象徴する名シーンである。

あの少女とのやり取りに、すべてが込められる。
少女にとっては、木々も人も池も小鳥もみな同等のアニミズム的な世界の話し相手だ。
相手の名前ーIDなど関係ない。
端から相手の本質と関わってしまう。

彼には名前も言葉もない。
こころは芽生えているが、文化的なコードは身に付いていない。
身体的な認識すらない。
疑いなど微塵もない、無垢な状態で2人は邂逅してしまった。
だから言葉を介さずとも、直接やり取りできる。
だがこれほどフラジャイルな状況はない。
(いったい幼子二人で置いたらどうなるのか)
花びらの可愛らしさに魅せられた結果に過ぎない、これは悲惨な事故だ。
彼はこの結果に気づき、恐れおののく。
居た堪れなくなり、何処へでもなく逃亡する。

人々は、名付けられない(名付けようのない)存在に対し過敏であり、恐怖心に根付く攻撃性を発揮する。
彼を作った科学者フランケンシュタインですら、そうである。
「親」がそうであるのなら、彼が誰にとっても疎まれるのは必然だ。
彼に対しては殊更激しい、集団ヒステリーとも言える排斥が始まる。
人々の潜在的に蓄積された恐れと攻撃性が、彼に向けて集中する。
人々に疑問はない。


こういうことが歴史的に何度あったことだろう。
いや、日常茶飯事におきていることか。

彼は外からも内からも追い込まれる。
その恐れと苦痛を「親」に訴えようとするが、その気持ちは受け容れられない。
最初から彼は誰にも受け容れられてはいなかった厳然たる事実。
結局、風車小屋で寄って集って処刑されるのは彼だけであった。
「親」は塔から落とされたのに、ぬくぬくと生き残り、そのまた親はシャンパン片手に「フランケンシュタイン家に祝福あれ」
と上機嫌。


とんだ冷酷な怪物映画であった。



ザ・ミスト

mist.jpg

The Mist
1980年
アメリカ

フランク・ダラボン監督・脚本
スティーヴン・キング『霧』原作
マーク・アイシャム音楽
ロン・シュミット撮影


トーマス・ジェーン 、、、デヴィッド・ドレイトン(大物画家)
マーシャ・ゲイ・ハーデン 、、、ミセス・カーモディ(狂信的なキリスト教信者)
ローリー・ホールデン 、、、アマンダ・ダンフリー(新任の女教師)
ネイサン・ギャンブル、、、ビリー・ドレイトン(デヴィッドの息子)
アンドレ・ブラウアー 、、、ブレント・ノートン(著名な弁護士)
トビー・ジョーンズ 、、、オリー・ウィークス(スーパーマーケットの副店長)
ウィリアム・サドラー 、、、ジム・グロンディン(機械工の作業員、カーモディの信者となる)
ジェフリー・デマン 、、、ダン・ミラー(デヴィッド側に同調する年配男性)
フランシス・スターンハーゲン 、、、アイリーン・レプラー(小学校で教師をしている白髪の老女)


ゴシックロックの”Dead Can Dance”の音楽がこのフィルムの神学的重厚さを更に増していた。
一部の隙もない、完璧な作品である。

これほど身につまされる映画はない。

一人であれば、自分だけの責任において黙々と行動をとるだろう。
しかし、雑多な人間の集まりにあって、コンセンサスをとりつつ行動することは大変な困難に突き当たる。
まず、集団が一枚岩で行動を取るなどということは不可能である。
事態が深刻であればあるほど。

人間は何であれ意識-思考で判断し行動するしかない。
もっと言えば自分に深く染み込んでいる言葉(パラダイム)で考えるしか他にない。
それが限界である。
窮地に追いやられれば、まさにそれが顕在-発動する。
明確な経路がなければ迷いに迷い、何かを(誰かを)信じる方向に流れるだろう。
そこに自らを預けようとする。それしかなくなる。
もともと信仰はそういった場所に生じたはずだ。
その選択は究極であるが上に、極めて排他的だ。
その信仰(虚妄)の為には犠牲(殺害)も厭わない。

外敵に対する以前に、内部に外部ー他者を作り粛清する。
それによって狂信的なまとまりを保持しようともする。

その信じる対象が何であれ、聖書の物語、科学の法則、経験則、、、自分の信じるヒトであれ。
その言語体系に沿って、表象を感知し、事象を認識する。
策を企てる。
これは事後的な判断により正誤が評価される。


だれも先の事など解らない!


事態は、人知の及ぶところではなかった。
しかし、もともとそうであったのだ。
それが当たり前のことであった。
暫く人間は、そのことをすっかり忘れていたのだ。

自分の判断の及ばぬことが厳然と存在する。
そのことを、、、。

どこにあっても、霧に視界を奪われたら要注意である。
霧の中にそれを感じ取ったら、危機的状況である。
少なくとも、われわれの理性など何の役にも立たない。
いや、邪魔するだけである。
その迫り来る不安と恐怖に呑み込まれ。

不可知論の選択ではない。
ただ、本能の壊れた人間はあまりに脆弱であるということだ。
その前提の上で、身を守るしかない。
ギリギリのところまで、希望を捨てず。
如何なる短絡も、破滅しか呼ばない。


これは、永遠に残る映画の一つであることは間違いない。



「セラフィム(熾天使)の主」とは何か?
(天使の9段階の1位にあり、最も神に近い天使)。
そのホストとは、神か。


それは自然でもある。



原作本

美しき冒険旅行

walkabout.jpg
WALKABOUT
1972年
イギリス

ニコラス・ローグ監督・撮影
ジェームズ・ヴァンス・マーシャル原作
エドワード・ボンド脚本

ジェニー・アガター 、、、姉
リュシアン・ジョン 、、、弟
デヴィッド・ガルピリル 、、、アボリジニの少年

イギリス映画であるが、オーストラリアの広大な地での出来事である。
"Walk About"
オーストラリアのアボリジニの成人の儀式(未開の地での1年間の修行)をいう。

1972年制作だが、撮られた年代が何時ごろのことか画面からは判然としない。
時間を超越した普遍性を覚える光景が綿々と続く。
ある意味、オーストラリア奥地のドキュメンタリーフィルム的な価値もあろう。
いやドキュメンタリーよりも直接的な身に迫ってくるドラマチックな感覚である。
"Walk About"の実際も、かなり具に窺えるものだ。
これほど生々しい狩りの様子は、TV(教養)番組で見れる範囲のものではない。
途中で何度も文明と自然との物質的なカットアップの対比もなされる。
撮影技術(何と監督の撮影である)、カメラワークも申し分ない、このような映画ではじめて可能となる映像体験であろう。



始まってすぐに、日常が急展開する。
白昼の悪夢だ。
昼食をピクニック気分で摂ろうとしたら、父親の発砲。拳銃自殺。乗ってきた車は火ダルマ。
砂漠の真ん中で、女子校生とその幼い弟が放り出される。
姉は極めて落ち着いて弟を導くが、場所が場所であった。

こちらとしては、とんでもないことになった、とかなり気をもむ。
確かに過酷な世界なのだが、それほど酷い描写ではない。
水を求めて炎天下にもがき苦しみのたうち回るようなところまで行かない。
何故か淡々としている。
これはお姉さんの人格からくるものに思える。
落ち着いていて、弟にとって最も安心でき信頼に足るタイプの女性だ。

自然の生き物や動物の死骸、小動物の動きや枯木や砂が実に美しく描かれてゆく。
果てない砂漠の光景があまりに見事で、悲惨な状況という気持ちは薄れてしまう。
だからといって、サン・テグジュペリの星の王子様にはもちろんならない。

丘の上になんとか登り見渡すが、道路も家らしきものも見当たらない。
1夜を明かして彷徨い歩き、水も尽きかけた頃、緑の木が視界に入る。
水の湧き出るオアシスを見つけ、ほっと一息すると、Walk About中の精悍な少年に出遇う。
2人の待ちかねていた、人間の登場だ。(実はこちらも心細く、待ちわびていた)。

その少年との野生の生活が始まる。
ことばも通じない関係で大平原で生活をともにする。
これは鮮烈な体験だ。
自然と他者とを相手に生きるのである。
少女にとっても弟にとっても無意識に刻まれる位の記憶になるに違いない。


3人はすぐに打ち解ける。
幼い弟の順応ぶりはやはり早い。
無邪気に狩りの真似事をして喜ぶ。
アボリジニの少年の狩りの腕に憧れを抱いている。
少女も自宅のプールではない、自然の池での水泳を通して自然に溶け込む。
しかし、少年との間には、お互いを意識する微妙な溝が生じる。
ここでの、自然物と特に少女の素肌の物質的な対比など、芸術的な撮り方が際立つ。
マン・レイを思い浮かべた。

3人は廃屋にたどり着く。
そこであたかも家族のように暮らし始める。
かなり仲良く過ごしていたが、そこにはすでに性が芽生えている。
少年は或る時、全身に化粧を施し、彼女の前で舞い始める。
求愛の踊りであることは、彼女もはっきり認識する。
彼はWalk Aboutが終わり、成人として求婚したのだ。

しかし、彼女の意識は文明にしか向けられていない。
戻ることしか念頭にはないのだ。
弟は彼に感化されているが、彼女は弟とそこを出る決意をする。
翌朝、2人は夜通し踊っていた彼が力尽き、木にぶら下がって死んでいることを知る。
彼女はまたしても死に対して淡々とした態度で、弟とともにそこを去ってゆく。
道路はすぐ近くにあった。(弟がすでに見つけていた)。

道路の路面に一歩踏み出すときの彼女の表情が印象に残る。
自分の社会に戻る象徴的行為でもあり、そこを街まで歩くことが戻るための儀式である。


最後は数年後主婦となった彼女が、アボリジニの少年と泳いだときの思い出に耽る光景で閉じる。

閉ざされた森

BASIC.jpg

BASIC
どういう意味なのか?
物語を観た限りでは、まさに「閉ざされた森」であった。
真相は、というか事件の全貌はやはりはっきりしない。
またその目的についても。

一度TVで観ただけで、何とも言えない部分もあるが、腑に落ちないままで終わってしまった。
よくわからない映画である。
また、わかろうという気も起きない。


最後まで観たところで、遡行して考えると主演のトラヴォルタの役-演技にどうも整合性が感じられない。
まずトラヴォルタの物語への入り方がスッキリしない。
当初明らかにトラヴォルタは事故のような感じで尋問をやらされたように見える。
あの組織の管理職に当たっている男に無理やり尋問のスペシャリストとして呼ばれたように振舞っている。
しかし、最後の場面でやはり麻薬捜査をあの軍の演習から行ってきたということがはっきり明かされる。
だが、あの管理職(何という役職だったか)の男の事件への関与は知らなかったとも言っている。
その男に呼び出されるということは、単なる偶然なのか?(仕組んだのか?そうではないように受け取れる)いまひとつよくわからない。
つまりその男がトラヴォルタも引き込もうと思って呼んだというのか?(これは彼自身がその男にも問い正している)。
その偶然に乗っかって捜査が出来たというのか?
(明らかにトラヴォルタも知らなかった事実が発覚している以上)。

つまり、あくまでも演習中に銃撃戦が起こり、4人も不明者が出て、負傷者が1人、死者が1人、黙秘する隊員1人という状況をなんとか打開し、真相を掴みたい(報告書を書きたい)ということで呼ばれたわけだ。
しかし真相のほとんどは彼は予め知っている。
だが、麻薬に関する情報は詳しくは分かっていないことは見て取れる。
ならば、その機に何故、それにフォーカスした上手い尋問をしないのか?
全く意味のない無駄な尋問をしたりそれをやめようとすらしている。

また、そもそも隊員のIDに関する情報を正確に持っていない軍というものがあろうか?
あそこで、隊員が入れ替わっていることに、彼らは本気で驚いていたが、わたしはそのことに驚いた。
それでよく上の立場に立っているものだと。
更に、隊の中で麻薬に関する怪しい動きが察知された場合、わざわざあのような訳のわからぬ演習をやらせる意味が掴めない。
抜き打ちの身体及び持ち物検査すれば、容易に発見できるはずである。
あれは、単に死人を出す可能性のある荒唐無稽で無意味な行為であり、趣味が疑われる。

物語の枠自体に引っかかるものがあり、自然な気持ちで観ることが難しいものであった。
ある事件を関わる立場により、多面的に描写するのは分かるし、それぞれがどう嘘をついているかも、使う言葉などから推測するというのも、あるはずだが、トラヴォルタにとってはある意味、この件は俯瞰的に見られる事柄であり、あのようにガタガタ騒いで慌てたりする類のことではない。どう見ても不自然であった。
また、最初から麻薬に関して巧妙な尋問をしていたわけでないのも解せない。


この物語は、あの女性管が主役となって、彼女の視点から全てを語らせたら、最後の場面まで破綻なくしっかり繋がり、幾度にも渡るどんでん返しの驚きも彼女に寄り添い共感しながら味わえ、観ごたえも十分なものになったのではなかろうか?


トラヴォルタの存在が終始邪魔に思えた。
それとともに、第八なんとかという超越的組織が有り、それがどうとか、というのも何か鬱陶しさを感じた。
陰謀説と同様に。

物事には裏があり、真相があり、超越的な立場が存在し、我々には隠されて有る、というこの観念にだいぶわたしは飽きてきた。




”Bon voyage.”



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