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シンプルプラン

plan.jpg
A Simple Plan
1,998年
アメリカ

サム・ライミ監督
スコット・スミス原作・脚本

ビル・パクストン 、、、 ハンク・ミッチェル
ブリジット・フォンダ 、、、サラ・ミッチェル(ハンクの妻)
ビリー・ボブ・ソーントン 、、、ジェイコブ・ミッチェル(ハンクの兄)
ブレント・ブリスコー 、、、、ルー・チェンバース (ハンクの親友)
ゲイリー・コール 、、、ニール・バクスター(FBIのフリをする敵)
チェルシー・ロス 、、、カール・ジェンキンス保安官
ジャック・ウォルシュ 、、、トム・バトラー
ベッキー・アン・ベイカー 、、、ナンシー・チャンバース


ファーゴ同様、一面の雪原が絵になる程、美しい。
大晦日のどこかお祭り気分にいるときに、偶然に雪山で墜落した金を積んだ飛行機を見つけたところから、悪夢が襲いかかかる。
大金(440万ドル)に目が眩んだ3人の男は、金をくすね、探している者がいなければ山分けすることに決めた。(それにしても札番号の控えなどを気にしていないのが呑気なところだ)。

物語は空虚な欲望に取り憑かれた人間が後戻り出来ずに加速度的に転げ落ちてゆく顛末が描かれてゆく。
しかも人間というものは、いとも容易く殺人が出来てしまい、ひとり殺れば後は何人でも、、、となるもののようだ。
それはまさに、ファーゴがそうであった。
一度境界を跨いでしまうと感覚の閾値が一気に低くなるのか。

道徳的な善悪(常識)から最初は金の盗み(山分け)を主人公は断るのであるが、欲丸出しの仲間の思慮のないオネダリに容易く押し切られてしまう。
結局、見つからなければ何をやっても基本的に大丈夫だというところにすぐに行き着く。(それはまた目撃されたら躊躇わずに殺す、に繋がる)。
これは、認識的に飛躍のようで、そうではないらしい。
プラトンのソクラテスの対話にまさにこれと同様の内容のものがあった。
人間の属性と言えるか。

兄のジェイコブ(ビリー・ボブ・ソートン)は、とても笑顔の目立つ少年のような純粋さと他人に共感でき思いやりのある人物であるが、主人公の弟を気遣いながら罪を重ねるにつけ、不安と罪悪感に苛まれ消耗し追い込まれてゆく。
最初は無邪気に何も考えず金の山分けを主張するが、基本的にヒトを殺すようなことには耐えられない。
度重なる殺人とそれを隠す口裏合わせに彼は疲れ果て、精神がボロボロになってゆく。
この過程の変化を実に細やかに表現するソートンの演技力には痺れる。
弟のハンクはプライドは高いが頭が硬く、その場を繕う知恵だけで渡ってきた人間で、他者の心情を理解しようなどという精神はもち得なかった。
しかし、兄のジェイコブに事件を機に深く接することで他者のこころの痛みを少しづつ共感するようなる。

ハンクの妻役ブリジット・フォンダであるが、清楚でまともな女性に見えて狂気を隠し持っている役がとても似合う。
ここでも、事態をどんどん狂わせる頭脳となる。
金を見るまでは常識人であったのが、静かに豹変している。
スイッチが入ると徹底して冷徹で明晰である。
完全にボタンをかけ間違っているが、論理的には正しい判断を下す。
こういう女性が1番怖い。
またファーゴでは、事件を解決する女性警官が妊婦であったが、こちらでは行き着くところまで傷口を広げる触媒となる主人公の妻が妊婦である。身籠った女性はやはり、どんな意味でも守りを大切にする。
彼女の提示するプランをハンクが次々に受け入れることで、極めて単純なプランが複雑化し混迷を増してゆく。

雪が何度痕跡を消しても、元に戻るわけではない。
何も書き換えられない。
傷は深まるばかりである。

最後にハンクも兄や仲間のことを思い、妻に逆らい事態の収拾を目指そうとするが、もう制御不可能な構造を流れ落ちるしかなかった。
すでに行き着くところまで行くしかないのだ。
このComplex Planは、最悪の結果を招くしかなかった。


雪の中に、ここまで全てを失ってしまう物語もないだろう。


ファーゴ

fargo.jpg

リアルな映画であった。
一面雪である。
完全犯罪を狙った、用意周到に練り上げられた犯行などは一切なく。
それを緻密な推理で解き進むようなクライム作品ではない。
スリリングなカーチェイスもなく凄まじい銃撃戦もない。
全体のテンポも結構のんびりしている。
いかにも田舎町の出来事だとわかるものだ。
あたかも実際にあった事件に思えるものである。
(実際にあった事件であってもほとんど創作らしいが)。


そもそも偽装誘拐の発想からして、その計画はお粗末極まりない。しかもせこい。
何のプランらしいプランもない。
もう最初から行き当たりばったり。
実行犯の二人はとても仕事を任せられる男たちではない。
後先を考えての行動が全く出来ない2人である。
そのふたりの相手をした元女子大生2人が、これまた現実にいそうな能天気ぶりである。
女性警察署長だけ頭脳明晰であるが、家庭も大切にし、食にも拘り、暇を作って友達にも合い、仕事も効率よくこなす。
その夫の画家もいかにもというキャラクターである。(日本で言えば山下清か)。
現実味がある。
ランディガード(主役のカーディーラー)の男も誘拐されるその妻も息子も皆、平凡でどこにでもいるタイプの人間である。

ただ話の発端だけ、現実性に少々乏しいだけか。
ランディガードの軽い思いつきから、とんでもない惨事が連鎖してゆく。
こういうことは、一度狂い出すと歯止めが効かずにひたすら粗暴に悪い方向へと逸れてゆく。
事態が制御不能の魔物と化してゆくのだ。
それが細かいところから、とても説得力をもって描かれ展開される。
もはや、金のためとかではなく、単に目の前の障害を取り除くためだけに殺害を繰り返す。
逆上して衝動的に。
目的すら、そのときはもはや忘れ去られている。
それが、しっかりあれば、後戻りできない危険極まりない殺人など、こんなケースで行う訳がない。

その点で逆にとてもリアルさを感じる。
日常的で普遍的で滑稽ですらある。
人間の業と哀しさが浮き彫りにされる。

多方事件など実際、そんなものである。
TVドラマで見られるあんな綿密な計画を立て冷静沈着に実行する犯人やそれを命懸けで果敢に迎え撃つ警官も共にあまり現実味はない。
犯人は皆が知能犯ではない。
警官だって家庭が大切であり、趣味も友達との柵もあるのが普通である。


配役がとてもしっくりしており、演出、特にカメラワークが良かった。
しかも一面の雪が、虚無感をいや増しに増す。
女性警察署長のフランセス・マクドーマンドの演技が特に味わい深いものであった。
妙に魅力的な女性であった。
ランディガードのウィリアム・H・メイシーも思いっきり哀れな役を演じ切っていた。


観始めたら、最後まで目の離せない作品であった。

明日から暫く娘がいない

himawari.jpg

最近、映画を観ることが出来ない。
「ブランカニエベス」あたりを観てしまった後、不安が先に立って次を見つける気がしない。。
もうそれほどの映画が残っているような気がしないのだ。
「ターミネーター」などを観たなら、お腹いっぱい、ごちそうさま、と言う他になにもない。
感想とか述べてどうするんだ、という映画である。
であるから、記事にも、もっていけない。


さて、明日から娘達が1ヶ月ほど旅行に出る。
海外だが、飛行場までは送らない。
リムジンバスに乗り込むところまで、車に乗せてゆく。
娘たちのいない日々が明日から始まる。
これは、これでとても恐ろしい。

全てのものが息を潜める。
気温に等しい水溜りに頭まで浸かっているような生活が始まるのだ。


昨日買っておいた花火を今夜、やることにする。
無邪気に喜んでやるのだろう。
火はヒトを集中させ、鎮静させる。
夜の火はきっと心に滲みる。


水泳教室も今日で暫く休み。
ピアノもそうだ。
日頃、ピアノを練習させるのにかなり手こずるのだが、なだめすかしてやらせることも暫くはない。
毎晩見せてくれる絵も、、、。

こんな時に、何かやっておくことはないか?
片付け仕事ならやればやれるだろう。
しかしそれも何か虚しい。
やる意味もさほど感じられない。彼女らのいない時に。


そう顔も見ないのだ。
笑顔も、泣き顔も、怒った顔も。寝顔も。
姿形が暫くの間、全くない。


これは、実際恐ろしいことなのだ。
考えてみたらこれほどの空虚はない。
(メールと画像は送ってもらうが)。
前回、電話とフェイスタイムは、タイミングが悪くてやりづらかったため、やめることにした。
どの部屋もイメージで充満するのだろうか?
思いの他、気が抜けてのんびり、ぼんやりしてしまうのだろうか?


わたしは、基本的に通院以外に家を出る予定はない。


やろうと思えば、ほとんどずっと寝て過ごすことだって出来るのだ。

そうだ、ゆっくり休もう。

summer.jpg


終末期における美術 ~デューラー ~マルク

終末感漂う今日この頃、いささかクーラーにあてられ風邪気味でもある。
咳は相変わらず。

どんよりと纏わりながらチクチク刺してくる不安(又は痺れ)に苛まれる日々。
恐らく今や誰もが少なからずそうではないか?
あえて終末とは今更口には出来ぬが。
かつて、牙を剥いた狂気が音を潜めながらも怒涛のように迫りくる終末期にあって、その空気に最も敏感であった芸術家たちの仕事に少しばかり思いを馳せてみたい。そんな気持ちだ。

まずは、ドイツルネサンスにおいて。
この時期ヨーロッパは自然災害・騒乱・疫病などにより、いよいよ世界の終末がやってきて最後の審判が下ると多くの人々が信じていた。
15C~16C。
代表する画家として、アルブレヒト・デューラー。自意識の目覚め、確信と探求。

001.jpg

デューラー28歳の自画像。
真正面を向いて彼方を見つめる画家自身の肖像画。
ゴシックからルネサンスへの転換期。
まだ肖像画(自画像)は真横か斜め45度から描くもの以外存在しなかった時代である。
(キリストと聖者は正面から描かれることが多かったが)。
この自画像、明らかにその表情の崇高さからみてイエスの厳粛かつ神聖な趣を湛える。
しかし何故か貂(テン)の高級毛皮のコートを羽織っているのだ。
この時期のニュールンベルクの富裕層のものであるが間違ってもイエスに似つかわしい衣ではない。
そして身分から言えば、ほぼ最下層に属する画家が纏う衣服ではない。
あらゆる意味で、時代も法も超越している。
ここに見出されるものは、自意識か。
ルネサンスの人間意識であろうか。
神に捧ぐために絵を教会の壁面に描く無名の修行から完全に放たれ。
立派な額縁で切り取られた移動可能な自我としての絵画の確立を見る。
(勿論、彼以前からカンバスは現れている。が、自意識を明確に打ち出したmonumentalな作品であろう)。

これは強烈な確信に支えられた単なる自画像を超える絵であることは、容易に直感できる。
彼の、時代に叩きつけたマニフェストとも言えよう。
本来、天使や聖人など想像で描くもの以外、鏡を見て描く自画像は、斜めが圧倒的に描き易い。
真正面では鏡との関係から距離ー遅延により(多少なりとも)記憶による作業となる。
少しでも斜めならダイレクトに観て描ける。
レンブラントの肖像画群にも真正面作品はない。

更に、髪の毛より細く鋭い線描による木版画。
そしてグーテンベルグの印刷術による作品のメディア化。
世界に拡散される稠密極まりない彼の絵=自意識の(もはや表現力による)影響力は、人々の終末感をイメージの上で強く決定づけた。
apocal.jpg

「ヨハネの黙示録」
だれもが我先に飛びついて購入したという。
(だからテンの毛皮などなんてことはない)。
更に木版画「大受難劇」が大ヒットする。
個人的な才能ー天才の開花だ。レオナルド、ベリーニ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ、、、。

Melancholy1514.gif

そして究極の作品。
「メランコリア」
謎に満ちた象徴的な画像世界。
無造作に散蒔かれた道具類、どの方向からも和が34になるユピテル魔法陣。
何らかの成り行きを鋭く見守るかのような天使の眼差し。
決然としたその表情は強度において彼の自画像に劣らない。
これは更に強力で難解なマニフェストか!
それとも、探求。
恐らく後者であろう。
宿命的に対峙せざる負えない世界という謎、または終末に向けた。

彼はマクシミリアン1世から依頼された「凱旋門」を100枚以上の版木を使って完成し、莫大な年金を得て優雅に暮らした。


そして20C。
ブラウエ・ライター(青騎士)である。総合的な抽象芸術の年鑑誌であり多国籍制作グループとして知られる。
この抽象芸術は既存の美術界に対する彼らの不可避的な挑戦であり、必然的な戦いであった。
中心人物はカンディンスキー、フランツ・マルク、ガブリエル・ミュンター。他にマッケ、ヤウレンスキー、作曲家のシェーン・ベルクもいた。クレーもマルクとは親交が深く、作品を彼らの展覧会に寄せていた。

Franz Marc

ここでは世紀末の深淵をカンディンスキーより鋭くとらえていたフランツ・マルクである。時代に対する闘争と精神の解放。
ブラウエ・リヒターの年鑑の表紙絵はカンディンスキーによるものであるが、その絵、蒼い馬に跨る「聖なる騎士」はフランツ・マルクその人である。(カンディンスキーの一筆描きでもはっきりマルクと分かる。如何にカンディンスキーがマルクの可能性を信じていたか)。

マルクの絵には、自然の中で遊ぶ鮮やかで生き生きした動物が描かれる。
しかし彼は動物画家ではない。
それは念を押して自ら述べている。

マルクを筆頭に、彼らは色彩を固有色から解放した。
ランボーのように色に(精神的な)意味を見出した。
馬は蒼い。その精神性から。
牛は黄色または赤い。その土着性から。
更に単純で躍動し交錯する輪郭線。
ここには、草や木や地平線や動物の背や尻尾や耳や脚の区別はない。
それらの美しいリズムの交差でしかない。

彼は自然の根源的リズムと様々な生命との調和をしなやかな線と鮮明な色とで躍動的に表す。
新たに導き出された色彩の調和に、活き活きとした生命感を表すフォルムは単純明快でもある。
それはそのまま自然の本質と人間精神の探求であった。
マルクは、一次大戦で最前線の戦地に赴きながらも、「創造のための集積」というフォルム実験を継続した。
まさに戦争も色彩とフォルムを戦いとる過程の一つであったのだろう。
しかし、彼は自分にとって戦後が存在しなことは知っていた。
自然の精霊から伝えられたのだろうか?

マルクの36歳の戦死に伴い、ブラウエ・ライターも解散となる。

招集前にドイツを去っていたカンディンスキーが「また会おう」と彼の元を訪れる。
「もうお別れです。」と返すマルクの言葉に驚き「何でそんな事を言うのか」尋ねるカンディンスキーに彼は「ぼくには分かっています。」「もう二度と会うことはないでしょう。」と答えた。
カンディンスキーは数ヶ月ですぐに戦いは終わると踏んでいた。

終末感が異なっていた。
マルクには分かっていた。
どれほど深刻な終末が訪れているか。
だからこそ、彼の絵には命の煌きが描かれている。


「やがて精神の世界が勝利する。」(フランツ・マルク)

FranzMarc Turm


ニューホライズンズその後、どうなったのか?

ニューホライズンズはいまどうしているのか?
彼自身はもう冥王星から離れ太陽系外へ放たれているはずである。


「冥王星」という名前は野尻抱影さんがつけたそうだ。

少し前に何でも、クレーターがないとか、ちょっと凄いことを小耳に挟んだ。
それでずっと気になっていたが、、、。
ビデオデッキでもキーワード録画に「冥王星」と入れておいたのだが、まともなものが引っかからない。
(最近、信頼性の高かかったキーワード録画が急にトンチンカンになっている、、、どうしたのか?)
というより、未だにわたしは、TVに頼るところがある。(画像は大画面で観たいではないか。高画質録画もしたい。)
それにネットで観ても、何も出ていないではないか、、、。
昨年の記事などがトップから並んでいる状況である。


とりあえず情報として確からしいことは、、、

トゥルーカラーによる処理を見ると、茶色をしている。
これはやはり有機化合物の存在を示唆しているのか?
水が流れたような形に氷がみられたそうだ。
月の3分の2程度の大きさであるが、それまでの予想より少し大きかった。(直径2,370Km)。
南側の1部にクレーターのない地帯(50マイル四方)があり、氷でできた富士山くらいの山が幾つも観察されている。
それらの山は1億年前に形成され、今も成長しているらしい。
nh003.jpg


それにしても、ただぼんやりしていただけの冥王星がこれだけ詳細にきれいに写っているのは感動的だ。
nh001.jpg


何故、すぐに撮影・分析結果が公開されないかというと、今後16ヶ月に渡りデーターがNASAに送られてくるということ。
nh002.jpg

探査自体はすごいスピードですれ違いざまの一瞬であったのに、その分析にはというより、データ送受信には随分時間がかかるようである。(分析自体もある程度、ニューホライズンズ内の装置で行われるようだ)。
われわれ一般へのプレゼンは、それらが全て済んだ後で、分析結果をまとめてからのことになるはず。

暫く、忘れていよう。

Discipline King Crimson

rovert fripp003

1期ファースト「クリムゾンキングの宮殿」とこの3期ファーストの「ディシプリン」をクリムゾンの最高傑作に挙げる人は多いらしい。
わたしが拘る2期では、評価はまちまちのようだ。わたしは、強いて言えば「フラクチュア」の聴ける「暗黒の世界」となるが、アルバムとしてはどれも良い。フリップ自身は「レッド」を挙げている。コンポーズとギター&デバイスを担当して主催している彼が推すなら説得力は充分だが、どれも甲乙つけがたい出来だと言えよう。
曲は名曲揃いで「太陽と戦慄パートⅠ」と「レッド」、「スターレス」など途轍もない傑作である。
それから、「ブック・オブ・サタデイ」、「フォーレン・エンジェル」、「トリオ」、「ナイト・ウォッチ」などの美しい作品群も忘れられない。
太陽と戦慄は間違いなくパートⅠが最もよく出来ている。
それはひとつに、フリップのスコアは勿論として、その前提となるプレイヤーの存在である。彼らの場合特にそれが肝要となる。
そのメンバーを元にサウンドの生成構築の可能性が図られる。
ここにはジェイミー・ミューアとデヴィット・クロスがいる。
ミューアの枠自体を支える演奏も然ることながらパートⅠの要所をクロスのバイオリンが決めていることが分かる。不可欠な要素であるにとどまらないそれを超える描写を全体に与えている。
太陽と戦慄の他のパートにはない、ミューアのパーカッションとクロスのバイオリンの力は大きい。
彼らあってのパートⅠであり、これが紛れもなくクリムゾン続く限りのテーマ曲の原型となる。

ブック・オブ・サタデイやフォーレン・エンジェルからバイオリンパートを取り去ることは想像できない。
 (しかし、後者でのクロスのバイオリンは、エディー・ジョブソンの演奏に発売前に差し替えられている)。
これは、ピアノと管楽器編成によりアイランズが可能となるのと同様である。


わたしは、未だにエピタフの価値に疑問を持たない。
アイランズの美しさに酔いしれる。ケイデンス・アンド・カスケイド(マクドナルド・アンド・ジャイルズの別チューンも含め)の愛らしさもたまらないのだ。
そして2期の怒涛のサウンドに呑み込まれてゆく。

基本的にわたしにとってクリムゾンはそれなのだ。
ペシミズムと美そして解体。
それで充分と云える。

だが、クリムゾンを聴かなくなった元凶のディシプリン、もしクリムゾン名義で出されていなければ、わたしにとっても凄い名作となる。「クリムゾンキングの宮殿」をすり切れるほどに毎日聴いていた者としては、にわかに受け入れられるものではなかったが、改めて聴いてみると、最高傑作にそれを推すファンがいるのも頷けないわけではない。


「戒律」というアルバムで、いきなり人を食ったエレファントトーク(無駄話)ときた。フリップではないアメリカ人ギタリストのエイドリアン・ブリュー作詞である。言葉遊びが目立つ歌詞が多く、「~宮殿」からずっとイギリスの深い文学性も享受していたファンには、新たなポリリズムとディスコなどリズムに大変重きを置いた疾走感溢れるサウンドもろとも、抵抗を示す者が少なくなかった。エイドリアンとトニー・レビンがアメリカ人であることも含めた拒否反応もあったらしい。
わたしはといえば、なに人がクリムゾンをやろうがフリップさえいれば、知ったことではないが、サウンドに感情的な重みが伴わないものは聴きたくなかった。言うまでもなく詩も重要なファクターである。
いきなり飛び出したエレファントのパオ~パオ~ギターには、わたしも絶句しその後クリムゾンは暫く聴けなくなる。
(ギターによる動物の鳴き真似が得意なのだから仕方なかろう、、、それでCMにも出ておった)。

このアルバム一聴して、"Frame By Frame"と"The Sheltering Sky"更に何といっても"Discipline"が圧倒的であった。
これが、バンド名を伏せて発表されていれば誰にとっても驚愕のサウンドに聴こえたはずだ。
当初これほど、キング・クリムゾン・ブランドで損したアルバムもないであろう。
しかしその内容の充実度からやがて見直され、果てはクリムゾン最高傑作のひとつに数えられることになる。
わたしも"Discipline"は奇跡的な傑作だと思う。アフリカの民族音楽を基本としながらも完全にクリムゾンオリジナルにまで昇華させている。しかもこれだけ曲の構造にポリリズムを必然的に取り込んでいるのも見事だ。勿論、クリムゾン初の試みであり完全に成功していることは誰でも認めよう。このアルバムの評価の理由はこの革新性にまずある。

卓越した演奏技術はクリムゾンの場合、当たり前であり指摘する要素ではない。しかしあえて言えば、ブラッフォードの鬼のような変拍子ドラム。フリップは相変わらずだが、これまで以上の高速リフの展開を見せている。
しかし、こうした超絶テク集団はボーカルの弱いケースが往々にして見られる(やはりドラムの凄まじいアルティ・エ・メスティエリなどに)、だが"Cage"を聴くまでもなく、エイドリアンの高音域がよく伸びる音域の広いヴォーカルの安定度は特筆出来る。
こんなに歌いまくるクリムゾンも初めてで、バンドのボーカルを超えている。歌手のような唄を魅せる。
歌詞だけは誰かに任せても良かったのでは?これは、フリップに聞くべきことだったが。
唄う事で、古くからの頑固なファンは兎も角、新しいファンを獲得したことは間違いないであろう。
このアルバムから聴き始めたヒトは、端から「宮殿」のしがらみもない。
面白いじゃん、と言って聴けば良い。
確かにポリリズムや変拍子面白いし、ハードでリフが激速だが重くはなく気持ち良い。
しかし最終曲"Discipline"は全てのリスナーを唸らせる作品となったはずだ。

この"Discipline"リマスター版など次々にCDが更新されているらしい。
"Discipline"ファンの方、要チェック!
(わたしは1番最初に出たので結構)。

続きを読む

The ConstruKction Of Light  Millennium KING CRIMSON

king crimson03

FraKctured !

わたしは、太陽と戦慄パートⅣは一度は聴いていたが、これは聴いていなかった。
これを聴いていなかった。
”Fracture PartⅡ”ともいえようか!?
スペルが変だったからか?
それと気付かなかったのか?それはないなず。
THRAK Attakは正しくは?THRaKaTTaKであった。
この頃からスペルはずっと変だった。
買って、15年間聴いていなかった。
聴いていれば人生変わっていただろうか。
今ほど怠惰な生活はしていなかったろう。(少なくともこれを15年間放置していることはなかったわけだ)。

何故か、この頃からクリムゾンを意識せずに意図的に遠ざけていた。
第6期キング・クリムゾン。
ここに2期クリムゾンが異なるかたちで幾つも蘇っている。
それは異様で崇高な相貌で屹立する。
われわれのノスタルジアを拒絶して。
ヌーヴォーメタル化して。(フリップは造語が好きだ)。
立ち上がりのProzaKc Bluesからして尋常なアルバムではないことが分かるが、このとてつもなさ。
複雑で変則的ポリリズム。不協和音。歪んだイコライズされたヴォーカル。ミニマルシーケンス。アルペッジョ。超重量級のソリッドな音塊。
そして凶暴で無機質にメタル装甲化したサウンド。

"Larks' Tongues In Aspic, Part IV"PartⅠからⅢそしてCoda(終結部)へと、この途切れない流れは形容のしようがない。
われわれのカタストロフとは異質である。
が元々形容することが間違っている。
そのまま受け容れる以外にありようがない。
それに言葉で何らかの手懐も定着も出来ない。

FraKctured !!

しかし、この硬質で重厚極まりないメタルさ(すでに形容)は、2期からすると異様な変容である。
異質な美の基準によっている。
フリップの語るヌーヴォーメタルの実現とはこういうものなのか。
2期のクリムゾンはメタルではない。
ヘビーでハードであったが、このような無機的メタルな質感をもたない。
あくまでも生々しい身体性と張り詰める空気感があった。
直ぐにサウンドが身体に染み渡り、何時でも思い出せた。
このエイリアンの群れは何故か記憶に定着しにくい。
言葉にも勿論しにくいためか。
2期クリムゾンは常に、外界へと発散し解放するベクトルがあった。
われわれの世界の内に轟き響いた。

ところがここは無酸素で、想像の息衝かない、外骨格のエイリアンの世界だ。
力は外というより異次元にひたすら膨大に溢れ出てゆく。
内でも外でもなく。
だから刺激は感じるが興奮はない。(知的興奮はある)。
乾いた哀しみはある。
2期の偉大なリソースに新たな魂を吹き込んだことは分かるのだが、その結果姿形は似て非なるエイリアンに生まれ変わっている。
そうdisciplineも確かに蘇っている。

"The ConstruKction Of Light"
これをmillenniumの復活といって喜べるかどうか?
静謐で冷ややかなSFを観るような気分でもある。
ビル・ブラフォードがアコースティック世界に移動したことが共感できてしまう。
しかしわれわれに何処に移る場所が残されているか?
締めくくりの"Heaven And Earth"
ヒトが誰もいなくなった後に広がる廃墟に響く音楽に相応しい。


がしかし、実はこの世界にこそわれわれは適応すべきなのかもしれない。
来るべき世界はまさにこの様なヌーヴォーメタルの世界なのかも知れない。
われわれの寄って立つ精神性はここに根付く(芽吹く)のかも知れない。
いやすでに「それ」は、かなりの高さに達している。
(知らずのうち15年経っている)。
気付ば、実もたわわに生って!


FraKctured !!!

king crimson04

Thrak 1995 ~Thrak Attak 1996 KING CRIMSON

Rovert Fripp02

"Thrak" Dinosaurのような曲が聴ける魅力。
ミニアルバム(EP)の”VROOOM”の曲をその後ライブで研磨して、このフルアルバムに改めて収めたもの。
VROOOM、Sex~ 、THRAK、One timeが、洗練され再収録されている。
隙のない見事なアルバムである。
ライブ録りとスタジオでの通常録音との違いは、かなり感じられる。


イントロで驚いたが、”VROOOM”は、もう充分に研ぎ澄まされている。3パートに分かれる。
”VROOOM”、"VROOOM VROOOM"そして"VROOOM VROOOM: Coda"
ライブ演奏を音楽的に調整するとやはり尺は短くなる傾向はあるように思える。
しかしこのバージョンでは、練りこむことによって曲想が広がり、1曲にまとめずそれぞれに整理した3部作に独立させたように受け取れる。
この3部ではVROOOM VROOOMが中核になっているように聴こえる。
"Dinosaur"は聴くほどに引き込まれる曲。これは、これまでにない曲だ、と思ったらエイドリアンの曲であった。
これは、クリムゾンがダブルトリオクリムゾンになって初めてのことであろうか?
フリップがコンポーザーから外れている曲があるなんて初めてのことだ。
フリップ=クリムゾンから脱していこうとする方向性は少なからず感じる。
"THRAK"は、随分シェイプアップされスッキリしている。オリジナルからのTHRAKAbridgedチューンとも言えるか?
ここにも窺えるように核をしっかり残した洗練した形態が見られる。
しかし元のTHRAKの混沌とした獰猛なエネルギーを再度確認してみたくはなる。少し短い。
"Walking On Air"の歌と幻想性。フリップ=エイドリアンで実現したタイプの曲だ。
"innner GardenⅠ,Ⅱ"はアンビエントで静謐な美しさを湛えている。これはフリップらしさの窺えるナンバー。
初期のインプロビゼーションの効いた名曲"MoonChild"を連想する。
"RadioⅠ,Ⅱ"も当然フリップらしい。
"One Time"はVROOOMアルバムよりさらに大変丁寧に作りこまれている。
これはシェイブアップではなく明らかにボリュームアップしていた。

どれもとても精緻に作りこまれていて、ただ身を任せて聴いていられるものだ。
そう、クリムゾンにしては聴き易いではないか。これだけ前衛的なのに。
そのせいか、やはり荒削りで獰猛な"VROOOM"(前ライブアルバム)に魅力を感じる。
つまりこれを聴いて"VROOOM"の強力な挑発性を認識することができた。
作品というのは、完成度が高まればよいというのは違うと思った貴重な体験でもある。

それから、どうもダブルトリオというのがどれだけサウンドを変革したのか、よくわからない。
リズムで言えば、80年代クリムゾンの方が際立っている。
"Discipline"のポリリズムなどから見ると、ダブル~がどれだけその方向を突き詰められたのか疑問だ。


さらに、やはりクリムゾンにとっては、神がかったライブがやはりあるべき姿なのかと思った。
(ダブルトリオ編成はこのアルバムで終焉を迎える。音楽的な理由からではなく、それぞれが超売れっ子の超絶プレイヤーであるため、みんなが一堂に集まるスケジュール調整が出来なくなったのが真相らしい)。


"Thrak Attak" "MoonChild"の頃のインプロビゼーションからは、隔世の感が、、、。
ダブルトリオのライブで残したインプロビゼーションの編集アルバムである。

これは、聴きだしたら堪らない魅力が詰まっている。
究極のBGM。
これほどゴージャスなアンビエントもない。
音が一音一音際立っている。
何でも全てがTHRAKのライブにおけるインプロビゼーションで構成されているとか!
それぞれに曲名が付いているので、最初はそれぞれ独自に作られたものかと思っていた。
しかし、独自性を完全に帯びている。

THRAKのライブでその時まさに降りてきたインプロビゼーションはそのTHRAKのコンテクストから必然的に生まれたものである。
しかし本作は、それぞれのコンテクストから際立つ部分を美味しいとこどりして編集されたアルバムである。
その断片が接続されて新たな生命体となって、激しく繊細に微かに暴力的に有機的に波打ってゆく。
全く違うなにかに異化している。
こういう作品づくりはクリムゾンでなければ出来ない。
クリムゾンが素材であるから、はじめてこんな芸術が可能となる。

聴くたびに生成の瞬間に立ち会えて、神秘を垣間見る。
今更比べるのは酷であるが、ピンクフロイドの"A saucerful of secrets"では、これの片鱗も感じられない。
ここには曲を意識したあらゆる予定調和は存在しない。
調性を単に無くしてフラットにした現代音楽の知的操作とも全く別物である。
無意識ー身体の感情が深く渦巻く。
もはや、彼らの才能がどうとか、演奏技術がどうだとか言うレベルではない。

神の領域である。




Thee of Perfect Pair 1984 ~VROOOM 1994 

Rovert Fripp

わたしはアルバム”Discipline"を聴いてからその後のクリムゾンをほとんど聴かなくなっていた。
音楽的にどうのという前に体質的に違和を感じた。
(改めて確認したら"Beat"がどこに行ったのか見つからない)。
さすがにあの"Red"の後に"Elephant Talk"は馴染めなかった。凄いことは確かに凄かったが。
しかし80年代以降のクリムゾンを聴かないでいては、無論勿体無い。
クリムゾンの名の元に聴かなかったら、物凄く気に入って聴き込んでいたかも知れない途轍もない作品群であることは確かだ。
特に"Discipline"という曲は傑作だった。
(大時代的であろうが2期クリムゾンの価値が絶対であることは前提に)。


”Thee of Perfect Pair ”クールな三部作の第三弾目。
ジャケットはシンプルでポップである。クリムゾンが黄色なのだ。暗黒はもう古いのか?第一弾”Discipline"は赤で第二弾"Beat"は青だった。
”Discipline"を出すために、契約上3枚のアルバムを作らなければならなかったことは、有名な話である。
この黄色はおまけか?余計なものだとは、彼ら自身(エイドリアン?)が詞に書いている。
紫(深い菫色)的本質であれば反射する色は黄色なのだが。
完璧なペアの3つ目。
完璧なペアとは、フリップとエイドリアンのことか?

前半はポップだ。極めてゴージャスで緻密で複雑なポップ。これでもかというほどエイドリアン・ブリューが唱っている。
こういう表情の歌はかつてのクリムゾンにはなかった。
ヴォーカルの入るものはトーキング・ヘッズをまず思い浮かべてしまい、戸惑いを覚えるが、やはりクリムゾンはクリムゾンであることがしみじみ分かるチューンである。
ギターはフリップ以外の誰のものでもない。後に"The League Of The Crafty Guitarists"のアンサンブルへと繋がる要素も多分に窺える。(そう言えばLCGで全員でフィリパートロニクスをやったときは唖然とした(笑)。
インストは、フリップ翁得意のサウンドスケープを多用し重層したサウンドを基調とし、その上にパーカッションと旋律というより音自体が確かな説得力で絡んでゆく。
これまでのクリムゾンの躍動的でひたすら重厚かつ崇高な精神性とは異なる、前衛的で実験性溢れるスマートなImprovisationである。
思わず身構えてしまう"Lark's Tongues In Aspic (PartⅢ)であるが、PartⅡからはかなりオルターネイティブしている。
もはや重さの時代ではないことがよく実感できるが、冒頭からの小気味よいメカニカルな疾走感でこれぞ新たなラークスか?とわくわくした矢先、後半はどうしたのか減速し空間的な膨らみと迷いを感じさせ、もやもやして閉じる。(もやもやしたのはわたしのその時のコンディションのせいか?)

詞も、ピート・シンフィールドでもリチャード・パーマー・ジェイムスでもない、ギタリストのエイドリアン・ブリューが書いている。
やはり着地点はポップ。詩的世界はガラッと変わった。
クリムゾンがわざわざやる必要もないのに。
とは言え、その音楽の質の高さは、現代音楽と比べても、更に高い完成度を誇っていることは確かだ。
(ちなみに、完成度では”Discipline"の方が”Thee of Perfect Pair ”よりトータルに見て高いだろう。グラス・ライヒファンがニンマリするような要素もMinimal Musicも含め多分にある。"Beat"については今思い出せない)。


"VROOOM"信じがたい。一発取りライブだと!?
演奏の質の高さに、呆れてものも言えないミニアルバム。
これほどの複雑でソリッドな音が、スタジオライブ一発取りということだ。
ロバート・フリップの趣味なのだから仕方ない。
メンバーは毎回入れ替わっても、ライブで本領発揮が彼らの真骨頂だ。
伝統だけは確かに引き継がれるところはただもう凄い。

特に、ここではダブルトリオ編成ということである。ジャズにあったか?
これが何を意味するのか。
パーカッションがダブルであることの効用は大変よく分かる。
かの大傑作、"Lark's Tongues In Aspic"(太陽と戦慄)でもビル・ブラッフォードとジェイミー・ミューアのダブルパーカッションで凄まじい呪術的サウンドを分厚く構築していた実績がある。ツインギターは珍しくも何ともないがそれをいかに活かしきるかはアーティスト次第。まさにその世界構築の要となる。あのリリカルな哀愁に満ちたウィッシュボーン・アッシュのメロディーとリフの繊細極まりない絡みの美は今でも忘れない。とうてい忘れられない。勿論クリムゾンとは無縁だが。話が逸れそうだが、ここでわたしが戸惑ったのは、ダブルベースである。どのようにサウンド構築に寄与するのか。そこであるのだが、わたしの耳では2人のベースの独自性と絡み等がよく聴き分けられなかった(残。ベースを二人置く狙いが掴めなかった。

"VROOOM"を聴く限り、クリムゾンのハードさそのものはさらに増した感がある。まるで"Red"に匹敵する演奏である。
しかし、ヘビーさ(構造の必然性)をそこまで感じられない。蓄積された方法論的なメソッドの応用範囲にあるとも言えなくはない。
"Cage"などは新しい方向性を感じさせる曲で興味深い。クリムゾンの曲はこれまで分厚く重い長編詩のような感覚で迫ることが多かったが、この曲、内容は異なるがそれと同等な衝撃を1分半で与える!サイバーパンクSF映画の音楽に使えそう。
”Living in the cage of USA”と歌っていることがはっきり分かる。よく分かる。政治的風刺的な詩に移行している。
ブリューの歌唱力?にも注目か。
"THRAK"は終始重厚な混沌としたサウンドそのものといった印象であった。
何というか音でしかない。何らかのイメージを全て拒否するかのような。解体寸前の緊張感は"VROOOM"以上だ。
この曲らしからぬチューンは、80年代にはなかったはず。しかしでは2期にあったかといえば、なかった。
すっと、オルターナティブな"When I Say Stop, continue"に引き取られる。
"One Time"というあまりに美しいヴォーカルナンバーでしっとり終わる。
ちょいと、初期のグレッグ・レイクのヴォーカルスタイルを彷彿させる叙情性。

圧倒的な表出力であることは、言うまでもない。
サウンドの新しさはかなり感じるが、クリムゾンとしての音楽の進化は特筆出来きるものではなかった。では、他にこれほどの作品を提供できるミュージシャンがいるか、と思えば、いないとしか言い様がない。やはり唯一無二のクリムゾンブランドと言える。


明日は、~Thrak 1995 ~Thrak Attak 1996へ。



The Night Watch ~Live At The Amsterdam 1973

king crimson

”King Crimson”はわたしにとってもっとも特別で自然な存在である。
わたしの中核を成す存在である。
それなのにクリムゾンなしの生活をずっと長いこと続けてきた。
確かに”Discipline"以降はあまり聴かなくなった。
”the construKction of light”までしかアルバムも買ってはいない。
しかし、2期までの音はずっとこころの基調として響き続けていたのも事実だ。
だが実際に聴いてこなかった。故意にそうしなかったのだと思う。あまりに順応しようとしていた環境がそれと異なりすぎたからだろう。

それは両生類なのに陸上オンリーで暮らしてきたようなものかも知れない。
体調に異変が出るはずだ。

説明・証明の余地なく、クリムゾンは絶対的存在である。
正式に出された(海賊版ではなく)、2期までのアルバムはほとんど聴いているが、常に所謂、音楽鑑賞ではない。
(そうこれはわたしにとって腐海の謎-存在でもあるのだ)。
"King Crimson"とは、、、。

そのことを少し以前”Epitaph”で思い出させてもらい、今日”Fracture”を本当に何十年ぶりに聴いただろうか!
”Fracture”
何故、わたしはわたしでいることを長いことやめていたのか!
激烈な怒りを覚えた。
目覚めてしまった。ポセイドンの眼醒めだ!

なかでも、この”The Night Watch ~Live At The Amsterdam 1973”は特別だ。

昨今耳にする音楽など一瞬にして価値を失い脳裏から掻き消えてしまう。
(元々、頭に残るものではないが)。
凄まじいインパクトだ、などと呑気な感想を述べている余裕もない。
次元が全く異なる。
未だに絶対的な破壊・解体力を持ち続けている。
これは、大音響で聴かなければならない。
不可避的にそう仕向けられる。
大音響以外に聴きようがない。

Liveでスタジオ録音より創造性の高い音をうみだすアーティストは、キング・クリムゾンとルー・リードだけかも知れない。
(ソフトマシーンも入るか?)
Starless&BibleBlack(暗黒の世界)はこのライブ音源をほとんどそのまま使っている。
信じられなかった。歓声だけ処理され消されていたのだ。
スコアの再現(ELPやYES)ではなく、フリージャズの技見せ的なインプロビゼーションではなく、現代音楽の理知的な構築美でもなく、真の創造の現場の体験である。”Improvisation”の意味が他のアーティストとは明らかに異なる。


"Trio"と"Book of Saturday","The Night Watch"やはり美しい。漆黒の哀愁。甘さも湿り気も微塵もない美とはこういうものか。
"Exiles"は壮大さ、広がりがImprovisationにより際立った。
”Easy Money","Lament"はこの中では幾分ポップでタイトであったが、リズム陣の凄まじい切れと”Starless~”に極まる彼らならではのImprovisationはやはり他に比較するものがない。その圧倒的なハードさだけでも、ヘビー・メタルロックのどれをとっても生ぬるさは禁じえない。

"Talking Drum"はジェイミー・ミューアのパーカッションが入っていないのが唯一残念なところであるが、ビル・ブラッフォードが見事に穴を埋めて余りあるリズムを叩きだしている。呪術的なサウンドはいやが上にもトランス状態に誘い、Larks'Tongues in Aspic (PartⅡ)へと大変な強度を保ち引き継がれる。
彼らのテーマ曲でもあり、PartⅣまではわたしも聴いているが、もはや恐ろしい確信に満ちた、鋭利に研ぎ澄まされたサウンドに昇華されている。
締めくくりの"21st Century Schizoid Man"は更に凶暴化していた。
ELPのライブでの演出的凶暴さとは明らかに違う、破壊衝動と創造のギリギリのせめぎ合いの結果のサウンドである。
まさにその曲の輪郭であるのに、ファーストの先頭の曲とは似て非なるものだ。
全く2期クリムゾンのためのナンバーになっているには驚いた。

しかし、やはり”Fracture”である!
クリムゾンが唯一絶対であるところの理由はこれに尽きる!
これは、音楽がたどり着いたひとつの極であることは間違いない。
レッド・ツェッペリンの「天国への階段」では到底行き着くことの不可能な頂きである。
それだけは間違いない!


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トリックアート美術館 高尾山

kagaminoheya.jpg

2人の子供を連れて、高尾山のトリックアート美術館を訪れた。
小1なので、もうだまし絵―錯視の面白さが分かるだろうという事で、行ってみた。
以前、行った美術館では子供という事で、必要以上に過敏になった監視係から、「触らないようにしてください。」「白線の内側に入らないでください。」と部屋を移るたびに吊り上がった眼で注意を受け、早々に引き上げたこともあった。
さすがに子供でも、美術鑑賞の場はそれとしてわきまえており、騒いだり触ったりはしないものなのだが。

その点、ここはお気軽に鑑賞(遊び)可能と踏んできた。
暑い中わざわざ行くのだから、早々引き上げるようなところは選ばない。
勿論、夏休みの日記対策のひとつである!

だまし絵というとわたしはすぐにあの愉快な?アンチボルトを思い浮かべるのだが、論理的に出来うる限りの制作を試みたのはエッシャーであろう。
以前、エッシャーの「物見の塔」を3Dプリンターで作成したニュース動画を見たことがある。
あれでつくづく思ったのは、3次元を超える世界(次元)の表出は2次元においてしか可能ではないことだ。

当り前なことを言ってしまった。


今回行った、高尾山のトリックアート美術館では、主に立体(遠近)感の演出が主であり、3次元にそのまま移行できる表現ばかりである。
3D風に飛び出たイルカにタッチできるとか高い山や深い渓谷に渡された橋に立つなど、遠近法の加速によるものである。
平面に描いてあるから、わざわざ登ったりすることはない。(登ったらスポーツ体験である)。
しかし、その構造が掴めなければ、絵に的確に対応できない。
最初は、体の動きを彼女らに指示してみたが、絵との関係はすぐに察しが付くものである。
そのつもりになって、その絵の上に立ったり、のけ反ってみたりするまでには時間はかからない。
身体知の浅い彼女らであるが、絵との関係で的を得た演技をするようになる。
とはいえパタンが基本一緒なので、最初は驚くが、あるところから走り回ったりする自分たちの遊びにも向かっている。その環境がまた、走り回るのによい。

ここでは、基本的に写真に納まることが前提である。
カメラのファインダーを通すと、片目を瞑ったのと同様の視覚が得られ、その通りに写し取られる。
しかしそれは帰ってからパソコン上で楽しむものだ。
つまり、直接的な楽しみ方は原理上、半減する。

そのなかでも、結構興味を示したのが、次のものであった。
額の内側の空間でドレス等に着替えお姫様などになれるもの。
(モンスターズインクもあったが、これはコスプレ自体の直接(完結)性がある)。
定番でもある「エイムズの部屋」―部屋の立つ位置によって同じ背でも大きさに差ができ、両端では巨人と小人に見えてしまうもの。しかし、自分が立てば分からない。やはり事後的である。
部屋の一面に鏡が備え付けられているように見せ、実は対称的な調度品で飾られた二部屋が繋がっており、部屋の境に二つある椅子に座るヒトだけが鏡上関係にない「鏡の部屋」。これも事後。
首から上しか見えない椅子。(単に下半身が2枚の鏡の裏に隠されている)。これは、片割れがやっているところを具に観れる。これは、受けた。

途中からわたしはカメラのレビューで子供に度々確認させた。
どんなふうに写っているか見せないと興味が薄れてきてしまうところである。
しかし、自分たちが収まっている姿はほとんど想像通りだったようだ。


麓のレストランで、帰りにピザを食べた。
食べながら聞いたところでは、そこそこ面白かったと言う。
まあ、総体的にみてお出かけ自体含めて面白かったのか。
それにしても、何で高尾山に行ってまで、ピザなのか?
わたしは、「山かけ蕎麦」が無性に食べたかった。
そのレストランの足湯に入ってから電車に乗った。
(これに入ったためか、次女は電車内で眠ってしまった。勿論わたしがおんぶで帰宅である)。


長女が美術館で見た万華鏡に触発され、ヤクルトの殻を2つ使ったフィルター取り換え式の万華鏡を夕食前に作った。少しくぐもった妙な味のある万華鏡であった。
(確かに万華鏡も展示されていた。小さな目のような万華鏡に興味を示していたことを思い出した)。
気づかないところで様々な情報を取り込んでいるものである。


やはりそれなりの刺激体験にはなったような気がする。
次女は手際よく(抜け目なく)日記にまとめていた。


Trick Art Museum

風の谷のナウシカ

osen.jpg

放射能汚染後、この映画の世界にほぼ重なるわれわれの現実。
ただここでは、土壌汚染物質を植物が吸収して分解してしまう。
彼らは枯れて結晶化し砂になってゆく。
そういう自己犠牲的な循環が出来ている。
腐海が広がろうが、浄化は進んでいる。(自然の自浄作用として)。
腐海を焼き払おうとすれば(自然の営みを妨害しようとすれば)、蟲が黙ってはいない。

いま日本の現実は全く絶望的である。
進み広がる汚染の前に何の有効な手も打たれない。
何の展望もなく悪夢の中(デストピア)に住んでいる。
そこでわたしのようにステートレスな希望の映画を観ている。
宮崎映画はみなそうだ。いや押井守もそうだった。

まあ、無国籍はよい。馴染みやすい。
それにまさに、廃墟である。
わたしの住むところも、昔から近景は畑、その先は巨大なパラボラアンテナと浄水処理場、その背後には何処までも続く米軍基地に白樺の並木であった。更にその背後には大規模に掘り返されて剝き出しになった岩場が口を開けていた。
休日にはそこに5,6人くらいのお父さんが集まり、ラジコン飛行機のアクロバット飛行を延々と繰り返していた。
抽象的な舞台である。(今はその空地はきれいに整地され公園となっており、我が家の庭の機能を果たしている)。
希望はないが、ステートレスではある。最初から非現実で思い出に似た地である。

ナウシカはハリウッド映画のスーパーウーマンとは異なり、自分がその役を引き受けざる負えないために宿命的に身を投じていく。悪を倒して仕事を終え、またこれまでの日常に戻りゆったりしましょうなどという、ホームなど端からない。
自分の生が続く限りいるべきところにいるはずである。
裂け目が何処にもない。
求めるものは自然であり、世界が自然なのだ。
そして動物との感応能力は超自然的ですらある。

であるから、どれだけ突出した悪事を行おうと、ヒトもその一部であり、特別な感情を抱こうとしない。
その場で、敵対しようとも局面が変われば、その人間に対し救いの手を差し伸べる。
究極的に彼女にとっての関心事は、何故「腐海」が生まれたのか、「腐海」という謎である。
全てはそこにある。

ナウシカは「自然」の真只中、その本質に身を委ねる。
彼女の認識と洞察は常にそこから来る。
感情もそうだ。

自然の摂理を知ること、そして調和を図ることこそがナウシカの目的だ。
そのために、身の危険を顧みず争いや調停、探索何にでも先頭に立って突き進む。
そこから隔絶された戻る家ー身体などある訳はない。


われわれの世界はもしかしたら、一度壊滅してナウシカの世界に引き継がれるのか?
その段階としか思えなくなった。
今ナウシカだけがいないからだ。
これだけの生命に深刻な打撃を与える事故すら利権の対象でしかない世界である。
どうなるにしても、全的崩壊が前提なのかも知れない。







天空の城ラピュタ

laputa.jpg
1989年度のアニメーション作品。

わたしの好きなロボットの出るジブリの映画。
そんなに昔のものだったか。

ラピュタ―飛行石。井上直久の絵でもイメージを受け継ぎ膨らませいていった。
この印象は掠れることなく、すぐに蘇る。
ひたすら王の帰りを待ち、誰もいなくなった城で墓に花を手向け続けるロボットのことはずっと鮮明に覚えていた。
それから、出てくる食事がどれもとても美味しそうであったことも。

密かに守り継がれる飛行石のペンダント。
代々語り継がれる秘密の呪文。
それを継承する王女である少女。その隠された真実の素性。”リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ”(何とか聴き取った)。
その知られざるラピュタをただ一人写真に撮った冒険家である父を持つ、飛行機を作る少年。
2人のラピュタを巡る運命的な邂逅。
彼らと敵の間に入るドーラ海賊一家。圧倒的な存在感の猛婆の迫力と人情。
敵も元はシータと同じ王族でありラピュタの復権と支配を夢見る男。更に政府軍。
低気圧の雲にすっぽり入り、偏西風に乗って移動することからほとんど誰にも見つからずにいた、という設定。
目の覚めるような夢が広がった。
冒険心が刺激されるというより、何かこの世にはまだ知られていないものことがきっとあるんだというロマンとも言えるか。

ディテールの過剰な描写。特にメカ。フラップターはダビンチ的な発明品に思える。
情景に説得力を裏打ちする音楽。
個々に活き活きとした豊かな個性をもつキャラクター。
これらが、物語を稠密に構築する。久石譲は宮崎アニメには欠かせない。
そして、かつて地上のソドムとゴモラ(旧約聖書)を焼尽くした衝撃的な雷。
(敵の戦艦ゴリアテも旧約聖書からであろう)。
この種の荒唐無稽なファンタジー・冒険譚こそリアリティが肝心なのだ。
わたしは、パズーとシータとともに寄り添って身体的な冒険をした。
憧れと郷愁とスリルと温かみを覚えた。
これこそ詩的な体験といえる。

このゆるぎない物語。
恐らく今後どれだけ3DCGが発達していこうが、この作品は残り続けるはずだ。

わたしの中にすでに20年以上しっかり残っているのだから、、、。
考えてみれば非常に稀なことである。


「バルス」意外とシンプルなことばであった。
(救いを求める呪文が難しかったので)。
ラピュタの高度なメカ部分だけ崩れ落ちて、輝く巨大な飛行石の力が増し。
中空に浮く城は大きな根を張る巨木そのものの姿で空をどこまでも上昇してゆく。
そのさなか、遠い古から城を守るロボットが一体、いつもの仕事を続けている。

シータの瞳に涙が滲む。
わたしも同じ感情に沁みた。


時をかける少女 アニメ

tokikake anime

バタフライエフェクトでは、終始憤りを感じながら観ていたが、時をかける少女はそんな抵抗感なく、スッキリ観ることができた。
後味もよかった。
声優と体の動きに不自然な点があったのは惜しいが。ゴルトベルク変奏曲が使われていたことで、帳消しにしたい(笑)。
バタフライ~の方の流れが単に主人公の利己的な意思で過去を次々に書き換えていくことに嫌悪感が深まっていったのであるが、こちらも内容的には似たようなものである。粗忽者の女子高生が浅知恵でタイムリープを徒らに繰り返す。
しかし、後者に嫌悪を感じないのは何故か?
叔母の修復している絵を千秋の住む未来まで消失から守ることを約束するが、これはもののはずみのようなものである。
前者の主人公がその行為をあたかも愛のためとか美化し、自分の行為にナルシスティックに酔っている間抜けさに呆れて見ているのがバカバカしくなったのだが、時をかける少女・真琴にはそのようなヒロイン的奢りはなく、自分の愚かさをその度に反省しながら直向きに生きている。そこははっきり異なる、清々しさを感じる。
そこに描かれている恋愛の鮮度と質が違う。
自己愛とエゴでドロドロして気持ち悪いバタフライと、真琴の無垢で一途(がむしゃら)な姿勢。
これは年齢の差や男女差との関係ではない。
さらに男子2人と女子ひとりの3人での放課後の野球(キャッチボールか?)という、青春のほんの短期間の危うい時間というのも瑞々しい魅力を醸している。


つい出だしで、思い浮かべたバタフライと比べてしまったが、不毛なので止める。
(バタフライは様々に変化する未来のパタンが詳細に描かれていたところなど、見どころもあった)。

ひとつ物語から少し突出していて面白かったのは、調理実習で真琴からいきなり命令されて班(役割)を替えさせられる男子の件である。これは通常、紋切型に描かれた模範的主人公がやることではない。だが、どんな共同体でも実際日常的にみられる階級格差のなせる業であり、その辺に無意識な女子なら何気なくやってしまう暴力だ。男子の怒りは度は越してはいるが、恐らくしょっちゅう不当な差別を受けているための過剰反応と受け取れる。こんなところでも真琴のどこにでもいる普通さが描かれている。(がさつさかも知れないが)。

それから、根本的な疑問であるが、未来人である千秋が何故、真琴に付き合わない?などの告白をするのか?これこそあってはならないことであろう?彼はすぐにこの時代から消えなければならない存在なのに。
すべて一連のタイムリープ騒ぎが繰り込み済みの展開か?
実際、そのことを記憶しているのは真琴だけであるし。問題ないか?
彼が観たがっていた絵を残すことにおいては有効に働いたことは確かであるが。
やはり、何にしても原田知世実写版の深町君の姿勢が正しいはずだ。
実写版の良さもこれを見て分かってきた。特に学園の素朴な生徒の様子。

それにしても、2つの映画で似ているところは、発端となる理科室の怪しさくらいか?
ほとんど、別作品だ。
特にタイムリープであんなに駆けて飛んで、凄まじい着地をするというのも、、、時代の差だけではないな。
時を巡る意味での駆けるではないところが両者の差をよく表しているかも。

このアニメは真琴がタイムリープしながら最初の頃と比べ、かなりの成長をしているところも魅力と言えそう。
最期の夕陽の土手では、真琴が千秋にもう一度改めて告白させたいがために、女の子らしい嘘をつく。
これは、随分変わったものだ。
「未来で待っている。」
と最期に言われ、すぐ行くみたいなことを言っていたが、そこら辺は変わっていない。
しかし、どういう風に未来で逢おう、という事なのか?

ちょっと、思いつかない。記憶は消さないみたいだから、また少し先で現れる気か?


千秋がタイムリープが悪用されたら怖いと思い、夜も眠れなかったが、馬鹿が拾って助かった、というようなことを言っていたが、今回のケースでもかなり危ない要素を含んでいる。拾った者が幼すぎても問題である。いや、ガジェットを理科室で落っことすこと自体があまりに不用意ではないか。絵を観にこの時代に来たのなら、理科室やそもそも学校に潜入しなくともよいではないか。(ラベンダーからエキスの抽出なら納得するが)やはり千秋は未来人にしては?少し変である。


「時は過ぎ去るものではなく、やって来るものである。」
実写版深町君の言葉。


霧島部活辞めるってよ

kirishima.jpg

不登校ではなく退部なのか。
成る程、部活を辞めるに焦点当てた方がアクティブでダイナミックになるな。


階級はどこにでもできる。
階級関係で毎日無意識に誰もが動いているはず。
ここでは、中心人物霧島の不在確認から、自分の存在意義へ自ら視線を不可避的に向けられてゆく人々の心象の揺れと、自分なりの効力意識を見出して生き生き歩みだす人たちの姿が対比的に描かれてゆく。

霧島、菊池とつるむ2人、男子バレー部の主将と霧島の彼女の梨紗とその友人3人の女子が学校の最上位のヒエラルキーにおり、ブラバンの女子部長や野球部主将は彼らより低いヒエラルキーに属し、映画部は全員、最下層にいる。
ブラバン部長と映画部の前田部長はかろうじて交渉可能な関係にあるが、その上の連中は、前田以下映画部などヒトとも思っていない。

そのなかでの自分の存在意義みたいなものを時折確認しながら生きてゆく。
下で虐げられている者程それには自覚的だ。
「ここはおれたちの世界なのだ。」「おれたちはこの世界で生きていかなくてはならないのだ。」と自主制作映画のせりふにも入れている。

(しかし、部活辞めるくらいで、これだけの人に影響を与え動揺させてしまう人も凄いものだ)。
霧島を放課後バスケをしながら待っていた3人が霧島が部活を辞め登校もせず、待つ必要がないことに気づいた時のあの空虚感はよかった。
一瞬足場を失うような軽い異化作用を感じる。
あんな場所に出くわすことが自分にもあった。
具体的に思い出せないが、確かにある。
大概、そこは白昼夢のような廃墟だ。
妙に晴れやかな。

霧島と帰るのをなんとなく楽しみに待っていたし、その間の気心の知れた友達とのバスケも結構はまっていた。
もう習慣ともなっていた。
しかしその行為そのものから理由-動機が抜けてしまい我に帰る瞬間。
そんな時を何度か経験しつつ、自己の存在にその都度対峙してゆくようになる。


あの格好良く運動ができてモテる菊池が何故、前田の向けるカメラレンズに対して涙を浮かべたのか。
それは前田の自分の身の丈を自覚した上で、やるべきことを見出しひたすら取り組んでいる彼の視線に晒され、いまの自分をはっきり対象化してしまったからだ。(以前なら格好つけてカメラに収まったであろう)。
自分はこれといって何をしたいかも模索せず、好きかどうかも解らぬ女子にも振り回されている。
下に見ていた野球部主将のただ無欲に自分の定めた道を全うする姿にも改めて接し動揺する。
もう寄る辺なく、すがるように霧島に電話をする。
自分に対する最終確認の電話である。もう自分に向き合うしかない。

すでに上位陣は全てそうせざる負えないところに追い込まれてゆく。
霧島の部活退部という噂でコケる上位陣とそれに対比して部活に迷わず突き進む下の階層が逆転現象を起こす。

前田とブラバン部長は共に失恋しながらも、(そのおかげで)スッキリと前を向き自分の道(部活)を歩んでいる。
ブラバン部長は菊池を諦めて踏ん切りを付け、前田は顧問に逆らい自分の脚本で好きなように映画を撮る決心(更に失恋がダメ押しとなったこと)により。
前田たちがオリジナル脚本にはっきり拘り出したのは、霧島の噂に呼応してもいる。
霧島が部活の何であるかを全体に際立たせているかのよう。

部活の場所って何だろうか。
ひとつに、自分にとって自分固有の何らかのイマジネーションが練り上げられる共同体だと想われる。
前田がすでに見出し、菊池がないことに自ら気づいたことは、それだ。
前田やブラバン部長や野球部主将の強みはそこだ。
これは誰にも侵食されない彼らの獲得した絶対的な価値だ。
ここで各部活(共同体)の質的な差も浮き彫りになってゆく。
霧島依存していた共同幻想(対・自己幻想も含む)は、どれもイメージの更新・再構成を迫られるということだ。


ただの何でも出来モテる優等生の突然の不登校では、このような動きは出せなかっただろう。
部活辞めるってよ、という部活(イマジネーション=価値を生成する共同体)からの脱退であり、しかもそれが噂(メタ情報)であって、霧島という存在を常に意識し、確認しようとするベクトルが維持される。
すでに霧島自体が電話等絶対にコミュニケーション不可能なメタ存在となっている。
ある意味、「ゴドー」である。
(何故か彼の彼女である梨沙や親友の菊池とかが、家にまでは行こうとしない)。
象徴的な中心=空の周りに目まぐるしく動き回る構造が出来る。
そして霧島が意識化させた部活という各共同体に変性が始まる。

面白い逆転も引き起こされる。





よだかの星

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近所に出かけた帰りに寄った○UTAYAでたまたま借りて観た。
宮沢賢治、花巻の祭りなどとあれば、おやっと思い、嵐の日にはちょうど良いかと思ったものだ。
とても迷った挙句であったが、もし借りなければ、嵐の間中ずっと後悔していそうである。
「宮沢賢治」、「よだかの星」などわたしにとって、キラーワードである。
これは、仕方ない。

主人公はモデルでエッセイストでもあり本も出している人だそうだが、知らなかった。
本格的に本を書いている中谷美紀くらいしか女優では知らない。
しかしこの人も、とても清潔感があり、雰囲気のよい人である。
ドキュメンタリータッチの映画ならアクが強くなく、とても合う感じがした。

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後半、花巻に帰って街を写真に撮る場面が見られたが、全編このタッチで通してもらいたかった。
花巻の昼夜に渡る光景を写真におさめつつ、よだかの星の物語にリンクさせながら淡々と展開するような、、、。

前半の疲れた研究職として、うだうだしている場面や、おばあさんとの長々としたやりとりは、退屈で無駄な時間に思えた。
どうしても物語の展開上(花巻の故郷に帰るための動機つくりの上で)必要なら、10分以内にまとめたい。
それくらいなら耐えられる。
後はたっぷり花巻幻想を宮沢賢治の童話にダブルイメージさせて進めてゆく。
ここは是非大袈裟なCGではなく、昔ジャストシステムから出ていた、幻灯機からの映写のような(紙芝居風の)ものにして欲しい。
絶対にそのような形式が合う。

兎も角、主役の人はよいと思うので、監督と脚本を替え(元も子もないか?)、改めて撮り直して欲しいものだ。
ドキュメンタリータッチのものかと思っていたのだが、全くそうではなく、ロードムービーでもなく、ドラマである。
主人公の女性のドラマだとしても、何がどうなったのかさっぱり分からない。
ドラマチックな展開はないし、淡々とした実写タイプでもない。
(特にプランを作らず、花巻珍道中とかいうロードムービーにしたらすっきりしたかも)。
恐らく脚本が出来ていないため、演出も仕様がなく、それ以前に監督に主題としてのイメージがないらしい。
つまりみんな何が何だか分からず各シーンを撮っていたのだろう?!
父親との思い出も、幼馴染とのやり取りも、どれも空虚で掴みどころがない。
役者も何だかわからず演じていた、、、としか想えない。

今更取材的な要素まで入れるのは辛いが、宮沢賢治とよだかの星に則した映像だけで構成したものが観たい。
パッケージを最初見た感じでは、それに近いものをイメージしてしまった。
これを観てつくづく思うのだが、誰か宮沢賢治作品の目の醒めるような映画を作ってくれないか?
「やまなし」など、どうか?
ヒトの出てこない話である。かなり面白い、いや絶対面白いはずだ。


「鉄人28号」に並ぶどうしたらよいのか分からない邦画にまた出会ってしまった、、、。
早く忘れよう。



ヒミズ

himizu.jpg

モーツァルトのレクイエムの最初のパートが何度も自然に溶け込んで鳴っている映画というのも、、、この映画くらいのものだろう。
いまのわたしにかなりフィットする映画だった。
とても気持ち良い。
よいマッサージを受けた時のような感じだ。
「普通」に観れた。
その刺激が合ったのだろう。
かなりセリフで聞き取りにくい箇所があったが、あまり気にならなかった。
その荒涼とした廃墟と病いの強度を受け取った。

「ヒミズ」、、、もぐらのことだそうだ。
ここでは、主演の今をときめく染谷・二階堂演じる2人のみならず、ほぼ全員がそれではないか。
勿論、観ているわたしも「ヒミズ」である。
そういうテーマの映画である。
普通のヒトが出てこない。
誰もが病み切っている。
とは言え感覚は、いたって素直でノーマルだ。
とても「普通」だ。
だから普遍性がある。

しかし震災後という現実をアクセントとして、この映画の扱う普遍的問題を強調し鮮明にしようとしているように受け取れるが、どうであろう?
演出上、荒涼感や絶望感は増すが、内容的に震災後をもってくる必然性は見当たらない。
少なくともテーマは震災後の何らかの問題では全くない。
だとすれば、それは利用する類のものではないはず。
はっきり言って、震災(後)はいらない。関係ないので外すべき。

二階堂演じる茶沢という女子は特異なトリックスター的役目を果たしていく。
染谷演じる住田にとってこの上ない存在である。
彼女がいなければ、彼は完全に行き着くところまで行ってしまうことは間違いない。
しかし、実際あのような存在が現実に傍らにいてくれる可能性は、ほぼない。
彼女も母親に殺される寸前の身の上でもある。
そして、不自然なほど優しいテント住まいの近所の人たち。
住田をボコボコにする悪党、そしてあからさまに(挑発的に)彼を疎む父親。
(しかし彼は明らかに息子に殺されたがっていた)。
ネグレクトの挙句男と消える母との対象的な他者となっている。
さらに彼らにもまして茶沢は、危ういほどまとわりつき彼のことを心配する。
この有り得ない両極端の特異さとそれらの作るコントラストがこの映画の特徴だ。
この強烈なコントラストが強い刺激を発散し続ける。
刺激が強ければ良いというものではない。
しかしこの映画の刺激は、設定は非現実的だが、極めてリアルに描写された説得力にある。
具現化する表現・演技がそもそも凄まじい。染谷・二階堂・渡辺哲の圧倒的な演技力による。

最期、湖から上がる住田は更生している。
ここ(茶沢が湖に石を投げてから後)の演出は見事であり、絶妙。
茶沢に寄り添われ。
2人とも泣きながら走ってゆく。
共に叫びながら。
「がんばれ」「夢を持て」「希望を持て」「人は一輪の花」などどこかの歌にあったような普通の言葉が一回り回って重々しくも鮮烈な響きをもって蘇る。
何故か清々しい。

とても気持ちの良いエンディング。
訳の解らぬ「希望」をわたしも感じた。



時をかける少女 ~ ニューホライズンズ

tokikake.jpg
細田監督のアニメではない。  
それは、まだ観てない。
ずっと昔の大林監督の映画。

TV放送があったので、観た。
わたしにとっては小さくないカットがあり気になった。
その上まず、びっくりしたことは、原田知世の声である。
その響きに当時の映画の音響を聴いた。

慣れるまで中盤までかかった。
こういう声でかつて観ていたのか?
意外に思えた。
さらにこれほど演技が素人ぽかったか?
これは最後まで引っかかった。
ずっと危なっかしくて、新米アナウンサーのニュース読みを思わず見守ってしまう感じであった。
(これはもしかしてアイドル映画だったのか?)

特撮効果も隔世の感は拭えない。
しかしそれはそれで何とも言えない説得力がある。タイムリープのあの視覚効果は絶妙。
そして懐かしさも。
仄暗い理科室の中でのフラスコから煙るラベンダーの香り。
いつか自分もいたかも知れない、あの呑気で平和な授業風景。
尾道の階段の多い街並みと部屋や調度品、特に人形のノスタルジックな光景。
素朴で穏やかな人々。あの焚き火をする老夫婦。
「モモクリ3年」の童謡。続きの歌も勿論。一緒に唄いそうになる。
「ふかまちくん」耳に残るリフレイン。
次々にテレポーテーションしてゆく光景。ふかまちくんとの秘密のやりとり。
大学の薬学部の研究室。それと知らぬ再会。
わたしにとって映画の原体験ともなった、はずだった。


しかし、、、。
記憶は書き換えられる。

わたしはLily Chou-Chouのあの空気にむしろ郷愁を覚えている。
あの殺伐とした蒼い世界からわたしも抜け出てきた。
いまはそう思える。


タイム・リープを繰り返してきたような感覚はないが、時間を乗り換えてきた感はある。
常に記憶とは、現在の身体知によって編成される。

尾道の光景とあの童謡には変わらず惹かれるものの、かつてのときめきは薄れている。
わたしの側の鋳型のピースが幾つも抜け落ちてるに違いない。
そう、特に初めて見た頃は主人公が薬学部の研究室に残り、ひたすらもはや誰かもわからぬ彼を待ち続けているときに、それと分からず出遇う場面ににたまらぬ切なさを感じたのだが、、、。


かつて大事だったものも、たくさん片付け捨てている。
それは、もうそれに「ときめき」を感じないからだ、ということを片付け名人が言っていた。
その通りだと思う。
(ここのところ、よく物を捨てている。ときめかない物が増えたのは事実だ)。


7月14日。
今日は9年越しのニューホライズンズの冥王星最接近(12500km)による、もっとも鮮明な写真の送られてくる日である。

まずは、どんな模様が見られるのか。
何より、その色は?
有機化合物の色は見られるのか?
太陽系の誕生秘話が明かされるのか?

すでにNASAには映像が届いているはず。
これ一回限りの撮影に「ときめき」を感じる。
逐次公開されるのが楽しみ。
特集番組も組まれるはず。

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おおかみこどもの雪と雨

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TVで観た。
シングルマザーの子育て奮闘記及び子供の成長・自立に向けて描かれたアニメである。
子育ての大変さは、例えば実話を元にしているというが、失業同然で子供をホームレス的に連れ歩く「幸せのちから」などにはほとんど窺えず、「湖のほとりで」のような映画に鮮烈に描かれているあの不能さにある。
うちは、まさに後者の映画に近い状況で育ててきた(いる)ため、このアニメのように大変だがクールに育てるという訳には行かなかった。無論、共感はできる。
ふたりいても、一つでも歳の差があれば、喧嘩もすぐ終息する。
うちの場合は、間に入らなければ収集がつかない。
とてつもない状況に突き進む。

子育てとは多かれ少なかれ人間相手では収まらない。
人間関係ではないからだ。
制御できないエネルギーのぶつかり合いだ。
天災的な破壊的物理現象に近い。(たまに負傷者も出る)。
人間関係で括れる頃には、恐らく子育ては終了しているだろう。

おおかみなら、その方が分かりやすい。
さて、ここでは母親のことを長女の雪が語るかたちで話が進む。

だから必然的に母親には多少の美化はかかるだろうし、母の「雨」に対する思いを客観的に描くはず。
自分に対しては、さほど対象化して語りきれないだろう。
ともかく、母親に聞いた話を基本に語っている物語なのだ。
それに則して観てゆけば良いはず。

父親の狼男は大変孤独な宿命を背負って生きてきた。
母親となる彼女は、その男の背負う深い孤独を直覚し、この人だと決めたのだろう。
これが全ての発端となる。
大変見る目はあるが、これから先の数奇な人生もほとんど想定に入れていたようだ。
想定していない場合、後から絶望して泣いたり喚いたりするものだが、この女性にはそれがない。
最初から腹を括っている。(さすがは、宮崎あおいだ、と感心した)?

夫の不慮の事故死、そのあまりに早い死に伴い、彼女は子供たちの自立を考え深い山里に移り住む。
都市では彼らを無事に育てるには、リスクが高すぎることはすでに明白であった。
その上、彼女は彼らが、おおかみとして生きてもヒトとして生きてもよいと思っている。
どちらが幸せかは分からない。
本当に分からないのだ。(わたしも分からない)。
彼らが自ずから選べるようにしたい。
だから一切、選択の強制はしない。(ただ人前での変身は身の危険を呼ぶためその注意だけはする)。

山里に棲み、彼らは成長につれ自らのアイデンティティに戸惑う。
「雨」は読んだ絵本で、狼が常に悪者であることに悲しむ。しかし、母親は「わたしは狼は好きよ。」と優しく返す。
この時期の子供にかけたこの言葉はたいへん大きく後に響くことになる。
「雪」はエネルギーをひたすら放出するばかりで、ほとんど狼的に生きる(そのために母親の畑は野獣から守られる)が、小学校に行きたいため、変身しない約束をする。
友達に打ち解けるなかで、ヒトとしてのアイデンティティを保持しようとするようになる。
そのさなか現れた男子に自身のアイデンティティを脅かされ、過剰反応をとってしまい彼を傷つけてしまう。これが決定打となり、彼との関係からも彼女はヒトとして生きてゆくことになる。
「雨」は学校生活には同調できず、山に惹かれ「先生」と仰ぐ山を治める狐の元、狼の生活-自然に順応する。
彼はいつしか感覚も感性もほとんど狼となっており、もうヒトとしての属性は残り僅かか?
彼には、もう迷いはなかった。

母親は、「雨」が嵐の中、森に入って行く後ろ姿を見て、「雪」を保護者緊急引渡しで迎えにゆくことも忘れ「雨」をひたすら追いかける。
その姿には充分に感情移入できる。「雪」もそこははっきり母親を理解しているから語れたことだ。
それは、現実にそして夢に観た、雨の中消えて逝く、亡き夫の姿そのものでもあったのだ。
まだほとんど何もしてあげることができなかった「雨」と夫とがひとつの姿となっていた。
彼女は憑かれたようにその姿を追い求めて無意識に森に深く迷い込む。
彼女は決して弱音を吐かず愚痴はこぼさないが、全く確信はないのだ。(いったい誰が生きることにおいて確信などもてる?)
「雨」を案じつつ、あまりに早く別れなければならなかった夫にどうしても会いたい。そして聞きたかったのだ。
これからどうすればよいのか。
それは、答えではないかも知れない。
しかし彼女は動物園で生まれ育った狼にすらわざわざ会いに行っている。
これは、意識の問題ではない。あまりに哀しい不可避的な行動だったのだ。

一方「雪」は、かつて傷を負わせた少年と2人だけ学校に残される。
こんな時間を恐らく誰もが一度は経験しているはず。
わたしもこんな亜時間を記憶のどこかに残している。
郷愁に染め上げられた奇跡的な時間だ。
そこで2人だけの秘密が明かされる。
その秘密の共有が2人の揺るぎない信頼を生む。
「雪」にはもうヒトとしての不安はない。

力尽き気を失った母親を駐車場まで連れてきて森に帰る「雨」の姿は、もう狼でしかなかった。
母親はまだ幼いヒトとしての彼に精一杯呼びかけているが、彼はもう立派に自立した狼なのだ。
その彼の姿を直視してしまった彼女は「元気でね。」と、、、。
いったいそれ以外にかける言葉などあるだろうか!


背景が宮崎アニメを超える美しさであった。



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ブランカニエベス

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一言で言えば、「ただ美しい芸術。」
スペイン=フランス映画という。
監督はパブロ・ベルヘル。若い監督らしい。

白雪姫の物語。
形式に拘り、4:3の画面でモノクロ字幕のサイレント。
しかし音楽は溶け込むように流れ、それがまた素晴らしい。
美しい情景に流れるフラメンコギターにピアノのリリカルな旋律。
リズムを刻む手拍子にも驚いた。
何故、このような形式にしたのか。
主人公の少女時代の横顔、飛行船の浮かぶ空をはじめどの場面も白日夢の美しさ。
この切り取ったときの美しさが4:3の方が優っている画面なのだ、と思った。
ビスタサイズでは違うのだ。
またそれは勿論、油彩やアクリルではない。
木炭というより、鉛筆の細密画であり、デューラーの硬質なエッチングというより、メゾチントの繊細な柔らかさの風合いである。
やはり普通の映画に見ない黒が美しい。
そうルドン的かも知れない。間違ってもゴヤではない。

この映画、チャップリンなどのサイレントとは明らかに違い、モノトーンを手法として採り入れたものであり、カメラワークは現代的なものだ。
演技はサイレント調の演劇的な演出による単純で強調された表現になる。
そのへんは、とてもアーティフィシャルな感覚である。(また言ってしまった、アーティフィシャル)。
ノスタルジーを形式的に狙ったものとは思えないが、少年時代の外傷経験を白昼夢に晒されたような痛みが蘇る。

物語の内容は、童話いや寓話である。
何というか、暗黒メルヘンとでも言おうか。
ミスによる事故が発端となり悪意による奸計が巡らされ、悲惨な話の連鎖となる。
サイレント形式に慣れていないわたしとしては、話の内容を掴むのが大変だった。
(体調のせいもあるかも知れない)。
中間字幕はやはり新鮮である。
わたしとしては、メトロポリス以来か。
聞かれるべき音声-意味が遅延して文字で全面表示されるわけで、普通の映画に味わえない独特の脳内処理が必要となる。
セリフにはその画像とは別にイメージが重層する。
これがいつもより、わたしを惹きつける要素となったことも間違いない。

いたるところが絵なのだが、終盤の主人公の横たわるベッド周辺の物語の殺伐とした流れがやるせないほど美しい。
監督は、絵と音楽の完璧に融合したこの上ない美しい映像が作りたかったのだろう。
無意識から紡ぎ出された映画だ。
そうとしか、想えない。
物語としてのモチーフは悲痛なものであり悲劇なのだろうが、感情的には美しさに酔うばかりである。
そのような物語のレリーフの施された極上のガラス器を息を凝らして眺める気持ちにほぼ等しい。


アベンジャーズなどのビッグ・バジェットを観た後で、まさに芸術と呼ぶに相応しい気品溢れる作品に、清々しい感動を味わった。

その清々しさは解放感とも言えるものだった。

そう、これはハリウッド形式からの解放なのだ!
(あの強引な圧倒的な押し付けからの、、、)

いま、気づいた。

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アイデンティティⅡ

TV録画しておいた映画を幾つか観てみたが、どれもとんでもない出来で感想がない。
エンターテイメント系映画であったが、、、それからホラー系もあったが、2つ頭のあるサメとか、、、。
絶句というより、更に脱力した。
アベンジャーズやメンインブラック、、、それからアバターがどれだけよく出来ていたか、つくづく思った。
エンターテイメントの王道をゆく映画はあまり観てこなかったことにも気づいた。
兎も角、観る側の意識もあろうが、作品自体の質の幅の大きさを殊の他感じるものだった。
これは驚きでもあった。
しかし呆れに近く、新鮮な認識の歓びなどはない。

以前観ておいた「ブランカニエベス」を明日書きたい。

昨日からコンディションも良くないため、今日は特に何もせず、休んでいた。
(確かに体調で受け取る感度が随分違う)。
その度合いの状況もあるが、特に支障のない状態であってもわたしという視座はその度に異なる。

映画ひとつ観るだけでも、わたしの異なるアイデンティティはレイヤーの如く立ち上がる。
全ての存在に対して、それは異なる。
「本」に対しても「絵」に対しても「音楽」に対しても。
何かを受け容れるための必要不可欠な切り替えである。
「ブレードランナー」を観るときと、「第9地区」を観るときでも少しズレてくる。
しかしそれら作品に対してはほとんど同質な存在でいる。
人・社会・家族関係などの場合は質的に大きく違う。
相手の数だけアイデンティティは用意され作動する。
だからフェイスブックは合わない。

このブログに物を書いている時のアイデンティティが最も支配的なわたしのアイデンティティと言える。
わたしというものがほとんど消えているこの状態がもっともわたしらしい。

関係性に無頓着なこの状態がもっともノーマルである。
動的に中立を保ちつつ普遍的であろうとしながら身体知を拡張しているとき。
それ以外のわたしは、まず相手があり関係性を強く意識したアイデンティティがわたしとなる。
そうでないと、やっていけない。
というか、そういうものだと思う。
それをもって社会というはず。
(共同幻想、対幻想、自己幻想という定番があった)。

わたしは考えてみると、何者でもない状態と、幼少期のトラウマの尻尾が巻き付いた状態の二つに分かれる極の間を大きく揺れているように思う。
夜の2,30分で整理のつく問題ではないため、切り上げるが、いづれゆっくり考えてみたい。


映画も良いが最近、本を読んでいない。
時間がないこともあるが、それよりも本質的なことは、Webへの依存が齎す弊害に想える。
万能メディアが本の役目も代行できるかといえば、それは違う。
非常に便利なものであるが、副作用が気がかりになってきた。


アベンジャーズ

Avengers.jpg
わたしは、TV録画でこの種の映画を初めて観た。
マーベル・コミックは見ていないし、マーベル・ヒーローにはもともと馴染みがない。
この映画は、コミックで人気のキャラクターがドリーム・チームを作って、何やら外敵に挑むという設定だ。
 (外敵の設定とくればアメリカの右に出る国はない)。
それらのヒーロー、ヒロインのファンであれば、当然面白いはず。
何と、キャプテン・アメリカ、マイティー・ソー、アイアンマン、ハルクは同じ原作者だという。
さぞ儲かっているのだろうな、、、ではなく、自分の作ったキャラクターをそれぞれシリーズで動かしながら、オールスターズという形でも組み合わせて大暴れさせられるなんて、さぞ楽しかろうと想像できる。
これはもう、ストーリーがどうとかいう次元ではなく、キャラクターの個性と味だけで作品として成り立つ。
初めて見るわたしでも、訳は分からぬが充分面白かった。
これだと延々と続編が生まれそうだ。

アイアンマンの見た目が鉄人28号に出てくるバッカスに似ていて、一番目を引いた。
やたらと彼だけハイテクなのも興味深い。
他のキャラクターが、凶暴なモンスターズインクみたいなのや、金槌を振り回し雷を呼んだりする力持ちだったり、弓矢が得意な人だったり、ヒアリングの巧みな運動神経抜群の美女だったり、盾をもったフツーのリーダー的な人だったりのマッスル系なので目立つのだ。
個性的といえばそうだが、戦闘力にもデコボコがあるように想える。
どうやらわたしはアイアンマンのファンになりそうだ。
 (念のため、鉄人が好きだとか、ブラックサバスのアイアンマンがお気に入りだからではない)。
基本的に日本のコミックで言えば、DragonBall的な乗りである。
爆発的に売れていることでも同様だ。
お互いに、いがみ合っていても肝心な場面となればチームとして強調して力を合わせ、自己犠牲的に戦う。
友情スポコン漫画にも通じるこれは、万国受けするもののようだ。
その完璧な荒唐無稽な予定調和においても。

安心感のなかでのハラハラドキドキが人気シリーズとして安定する。
いつ正義漢が殺されるかわからないものでは、ついて行けない人が出てくるものだ。
よくできていても必ず拒否反応が出る。
これは間違いなく王道エンターテイメントに撤した作品なのだと思う。
ただCG(3D含む)に関しては、このような映像にこちらが馴染みきってしまっている分、特に何も感じるところはない。。
リアルで大迫力破壊シーンとかでは、感覚的になんとも思えなくなっているのだ。
今後、特殊・特撮効果はこちらの感覚の慣れとの戦いとなるはず。
物凄いローテックな撮影でも度肝を抜く映像は時折観られる。
金をふんだんに使ったハイテク演出だけでは、一本調子になる恐れがあるだろう。
何故か昔流行ったアメリカンプログレッシブバンドの”ボストン”や”カンサス”を思い出してしまった。
この映画の音楽を担当したらぴったりな感じがした(笑。



余談だが、わたしはスカーレット・ヨハンソンの役柄では、真珠の耳飾りの少女が未だに一番好きだ。



グリーン・マイルズ

green.jpg

これは題名そのままのようだ。
ひとまずその引っ掛かりはなしに観られる。
”グリーン・マイルズ”
牢獄から電気椅子の処刑室までの緑色のリノリウムの廊下を指すという。
(ここでは、誰もが歩む路という捉えだ)。
原作はスティーブン・キングだが、処刑した屍体が蘇って吠えまくるようなホラーではない。


ゴルゴダの丘に磔にされたイエスの生死を確かめるため脇腹を槍で突いたロンギヌスは、その血を浴びて盲目であった目が完治したという。
(恐らく槍が刺さるまでは生きていたのだろう。何故なら死体からは血飛沫は出ない。)
その奇跡に改心して彼は洗礼を受ける。
聖ロンギヌスとして後の世に教えを広めることになるのだが。
(槍は後にエヴァンゲリオンでも復活する)。

看守のポール(Tom Hanks)は、死刑囚コフィー(Michael Clarke Duncan)の最期に握った彼の掌を通し「愛を利用してヒトを殺すことが今も世界中で行われている」というメッセージを受け取る。
まさに普遍的な認識だ。
遍く権力が日夜それを実行している。

コフィーの奇跡の力でポールは尿路感染症を(所長の妻の脳腫瘍も)治してもらい、彼の力(生命力)も分け与えられる。
コフィの掌から伝えられた映像には、実際に双子の少女を惨殺したのがすぐ隣の檻にいる凶悪犯である事が伝えられていた。
ポールは既に決定された死刑囚の彼-神の子を冤罪と知りながら処刑する役目に悩み戸惑う。
神に最後の審判の時、何故神の子を殺したのかと尋ねられたら「職業だから」と答えるのか、と。

しかしコフィは由来の分からない得体の知れないちからをずっと持て余してきており、周囲の心の全てが流れ込んで来る苦痛に苛まれ、疲れ果てている。
(人々の治療にも多大なエネルギーを使うが、彼は病んでいる人を放ってはおけない)。
彼はそのまま刑の執行-死を望む。

彼には先天的に事象を制限して取り込む規制がない。
恐らく自然そのものが流れ込むこの作用が彼特有のちからを発現しているのだ。
その幼子のような危うい純粋さが周囲からは、知的な遅れに見える。
しかし認識においては自然な覚者-聖者となっている。


ポールは結局大変な長寿を授けられたが、彼はコフィーから得た「教え」をなんらかの形で生かしていたか。
ただ呑気に長生きしていたように映画では窺えるのだが。

愛に名を借りた殺戮に対し何らかの取り組みをしていたら、何年生きても足りないはず。
ここでは、イエスを殺した罪になぞるように、コフィーを殺したために永い寿命(長いグリーン・マイルズ)を歩まされる苦悩を与えられたという解釈をとっている。
このままいつまで孤独のうちに生き続けるのか、、、と。
しかし、同様に長生きさせられていたミスター・ジングルス(ネズミ)も60年ほど生きて、死ぬ。
ポールも死を望みながら、想い出のなかに埋没していく。
ただ、余生を罰としてのみ捉えて。

もう少し前向きに捉えたらどうか?
とも思う。(わたしが言うと説得力がないのだが)。
これがキリスト教的な限界だ。
これが日本人であれば、どうであろう。
余裕に任せて事業でもやって金儲けでもしているか?
やはり確かな実効意識がなければ、並外れた長生きには耐えられないであろう。


この映画も、キャストがよかった。完璧であった。
特にあの小憎らしいパーシー役は秀逸であった。


わたしは、コフィーに出会って、長生きしたい(笑。
(暇や孤独には充分耐えられるので)。



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ピアノレッスン

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"The Piano"
まさに"The Piano"であった。(何故、そのままではいけないのか?)
いつもわたしは邦題を見てから原題が気になる。
信用できないからだ。
今回も、「ピアノレッスン」ではないことが分かった。
これでは人間(の恋愛)ドラマ止まりであろう。
The Pianoは”Soft Machine”に近い。
「17歳のカルテ」ほど酷くはないが、明らかに違う。

デヴィッド・クローネンバーグの女性版かとも思える程の、piano(という延長)との機械的・有機的な融合、さらに原初的なエロスがむき出しに残酷に描き出されていたジェーンカンピオンの見事な「映画」であった。
わたしは随分と前に彼女のショートフィルムをVHSで3本ほど観た事がある。
確かオーストラリアのコンテストで最優秀監督賞をもらい(彼女はニュージーランドの監督だ)、”ピール”というのがカンヌ国際映画祭で最優秀短編映画賞を取っていたはず。特になんていうことのない面白い映画と思っていたが、後々何故か残るものがあった。
その頃の作品をもう一度観てみようとも思わないが(VHSは面倒くさい)、こんな映画を撮る人だったのだ、と改めて感慨に浸った。

精霊の宿るようなアニミズムの息づく幻想的な映像美とマイケル・ナイマンの繊細で透明に絡む音楽。
打ち寄せる海の波飛沫を受けて、岸辺に捨て置かれるpianoの静謐な雄弁さからもう胸が痛くなった。
pianoから引き剥がされたエイダ(ホリー・ハンター)の身体的苦痛にわたしの身体も共振する。
もう最初から鷲掴みされ、息もつかせない。
彼女が口のきけないことが、より内面を際立たせpianoとの一体感を浮き彫りにする。
緊張感がいやが上にも昂まる。
蒼い空と赤裸々の美しい旋律とともに。

pianoの蓋があたかもクローネンバーグの噛み付くタイプライター同様に敵意を示すかと思うと、自らの身体の一部(肋骨あたりか?)をへし折って取り出すかのごとく、ピアノのキーをひとつ愛の印として相手に差し出そうとするなど、、、延長した緻密な道具との融合体としての身体性と、ヒトが「人間」である前にはるかに深く「性」である現実を、余すところなく濃密に映像化してゆく。
われわれにとって身体はテクノロジーの前提なしに成立し得ない。
ましてやpianoは最も精神の近場にある音楽を具現化する重い機械・道具である。より長いpianoならば弦が伸び倍音はさらに理想的になるが、その関係(身体)性の不自由さが悩ましい。
さらに「死」がまだ地球上に導入される前から「接合」というかたちですでに単細胞生物に「性」は芽生え始めていた。
「人間」など、たかだか200年に満たぬ概念に過ぎず、ミッシェル・フーコーの謂うように、浜辺の砂の表情のようにやがて消えゆくだけのものである。きれいに初めからなかったかのように。
この「映画」は大変な強度をもった本質力と美意識に貫かれている。

ナタでpianoを傷つけられ指を切り落とされた彼女が、ピアノを縛っていたロープに足を絡ませて海に身を投じる場面は、まるで神話を実際に目の当たりにする衝撃であった。pianoと指を失えば、もはや彼女は羽のない鳥だ。
羽を背にしょった娘の母親を自分に繋ぎ留めたい無邪気な悪意も自然だ。
夫が彼女の言葉を正確に聴きとり、彼女の恋の相手に彼女を託すのも頷ける。


何故、彼女は海底でpianoに繋がれたまま漂う屍体とならなかったのか?
恋人との恋愛の情があったからなのか?
生への純粋な衝動からなのか?
恐らく両者によるものだとわたしは思う。
水中であのロープから足を引き抜いて浮かび上がるちからに、本当の救いを感じた。

何の救いなのか、どういう救いなのか分からない。
しかし救いとは、きっとこういうものだと感じた。
男が作った金属の義指がコツコツと鍵盤に当たり、妙に艶かしくて美しい。


配役は申し分ない。

とてつもない大傑作であることは言うに及ばない。


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臨界点

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雨がしとしと降る。
何か内側に溜まっていくように。
やんだかと思っても降っている。
(やんでいる時も実際あるようだが)。
この何かの猛毒に徐々に侵されていく感触。
(放射能か病原菌か呪いか)。

外には出ない。
大雨ならスッキリするのだが、これでは外に出る気分にならない。
外を確かめることから不快なのだ。
息が詰まりそうになる。
全てのものを内側から腐さらせ忽然と倒壊させる悪意に満ちた気を感じる。
宇宙の悪意を。
毒には毒をという感じで、、、

Lily Chou-Chou (Salyu) の「呼吸」を聴いている。
「アラベスク」は昔”クレプスキュール”から出ていてもおかしくない曲だ。
典型的な名曲だ。
、、、ならばスッキリしているはずだが、、、

わたしには、やはり「飽和」と「共鳴」が特にしっくりくる。
が、どれも良い。
「回復する傷」と「グライド」も気に入っている。
全体に懐かしい響きで、郷愁を誘う曲ばかりだ。
しかし、物質的な何らかの記憶に行き当たるわけではない。
残り火をデジャヴのように感じる。
(何故か大岡昇平の”野火”を思い出した)。

いまの気分と相殺する何かではない。
わたしが消えない。
つまり、新たな場所が生じない。
(転移が起きない)。

全曲聴き終えて、iTunesリストにある次の曲は、Sightだ。
同じく小林武史氏の。
これこそ昔懐かしいクレプスキュールだ。
これはかなり心地よい。

もう少し長い曲だったらもっと良かったのにと思う。
すぐ終わってしまい名残惜しい。
ウィン・メルテンがその次に入っている。
ここでは”Maximizing The Audience”が。

特にリリカルなミニマムミュージックでよいのは、いつまでも流れていることである。
徐々に変化(僅かに更新)しながら反復する。
それは永劫回帰を感じさせる。
ヒトという歴史を。
大いなる反復。

うんと劇的なのは昔よく聴いていたラベルの「ボレロ」だったが。
ちょうどその頃、フィギュアスケートの選手がよく使っていた。
特に、アイスダンスの競技でそれはとても激情的で、効果的であった。
(何というペアだったか、名前は忘れた。満点をよくとっていた)。

現代音楽(ミニマムミュージック)では非常に静謐でリリカルにこみ上げる反復である。
時間が長いので催眠効果がある。
魔術的である。
麻薬である。
しばし痛みを忘れる。


明日は、ジェーンカンピオンの”ピアノレッスン”でマイケル・ナイマンを堪能しよう。
そんな気分だ。


空中庭園

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最近つくづく思うことは、場面を変えたり自分を変えたり、など劇的なことは何もできないことである。
体調を変えることがこれほど困難であるとは思いもしなかったし(笑。
何というか、シンプルな日常生活の反復のなかで変わることしかないように想える。
変えようとして変えられるものではなく、変わることだと。
化学変化のための、何かの触媒は恐らく必要だ。


たまたま「空中庭園」という映画を観た。

大地から遊離し、植物に繰り返し繰り返し水やりしながら生活してゆく。
日々、恍惚としてそれを反復する。
そして無意識に、やり直す。
もっと花が萌えるように。
いや、新たに芽吹きますようにと。
その気だるくめくるめく恍惚とした反復。

反復が基調となり主題となると、形は定めておきたい。
勿論、言葉やルールに拘るようで実は端から誰もそんなもの信じていない。
「秘密がない家族」という建前のおかげで、誰もが無秩序にばらけていく。
ただ、主人公の主婦(小泉)は、家庭(空中庭園)を維持する。
「完璧な微笑み」とともに。
ここには嘘しかない。
自分の過去も含めて。

そもそも家庭とは、それ以上の何かであるか?
少なくとも彼女はそんな何かを望んでいない。
地方のショッピングモール開発中の新興住宅地。
その家族は団地の何階に住んでいたか。
時折、解れが露呈しても、関心もない素振り。
何よりも生活の形を維持し、反復することである。
彼女の幼い頃の母親との関係による荒れた無意識が発するリビドーによるところが大きいであろう。
しかし、それはあくまでも彼女の編集した物語に過ぎない。

恐らく無意識では揺れ動きながらも、、、
嘘や誤魔化しなど所詮どうでもよく、自ずと湧き上がる悪意と恐怖が洗い清められてゆきますようにと。
ただ祈りのように。
庭の手入れをし、もはや誰の為でもなく食事の支度を続けているはずだ。
生活を維持・更新する。
ときに入院中の母親やかつての悪友に「死ね!」と毒づき(少々発散し)ながらも、自分の役を演じ続ける。

しかし母は誕生日のお祝いとともに夢を観る度、過去の物語は密かに良いものに書き換えられていくことを伝える。
まるでそれは魔法の言葉のように響いた。
思いもかけぬ母の言葉に触れ、彼女は自らの感情をそのまま庭園に向け解放する。
明らかに彼女は背中をひと押しされた。
雷の閃光に映える夜の豪雨のなかでカタストロフを迎え。
そのときを誰もが待っていたかのように、反復の果ての祝祭に向かう。
まさに、synchronicityだ。
何を変えるでもなく、植物のようにひたすら生きること(植物状無意識)で、忽然と芽生える時に芽生える。
反復行為は祈りに似ている。
冗長性から急激に相転移する物質の化学変化の如く。

「おかえり」
で、目が覚めるように、すべてがやりなおせることが分かる。
誰も、何も変わっていないようでも。
これから先も同様な生活に見えても。
全く新しい生活に更新している。
そんな物語。
いや現実。
わたしの希望か?


小泉今日子の存在が瑞々しかった。
ベランダのマイガーデンがあまりにも似合う役作りであった。
そして美しい微笑みと虚ろな寒々しい表情の転換。
こんな役は彼女に適任である。
かつて天才的な自己プロデュースを続け、トップアイドルとして駆け抜けた人である。




メン・イン・ブラック

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「幸せのちから」のウィル・スミスを観ていたので、今回TV録画しておいた「メン・イン・ブラック」1,2,3も観てみた。

どちらにもウィル・スミスのタフさがまず際立つ。
ストーリーなどから突出してそれが印象的だ。
前者には直向きでしなやかなタフさが、後者はもう人間離れしたアニメチックなレベルのそれを感じる。
シュワルツネッガーとはまた違う柔の強靭さだが、普通のヒトなら少なくとも何度か死んでる。
後から気づいたが、これもSFというのだ。

つまり、何でもアリの映画はSFとなる。
そういうものらしい。
また、彼と組むにはトミー・リー・ジョーンズしかいないように想わせるところが凄い。
ベストタッグだ。
CMではお馴染みのエイリアンを演じている彼であるが、確かに人間離れした風格がある。
実際、ウィルと同じようなアクションをする若い俳優とのタッグでもそれなりに成り立つだろうが、彼なしでこのような奥行は出ないと想う。
トミーと組むことでストーリーに秘められた背景や奥が自然に感じられてしまう。

「メン・イン・ブラック」
”MIB”と呼ばれる組織の総称だそうである。
彼らは地球に住むエイリアンの監視を通常任務として行い、我々に対して悪意を持ち攻撃を仕掛けてくるものを撲滅する役割を秘密裏に遂行しているのだ。
であるから、メンバーはそれまでの人生は戸籍ごとリセットされる。
人々の記憶もそれはもう事件の度に、ひっきりなしに消されている。
彼らMIBは、猛獣なんてものじゃない、とんでもない悪者エイリアンとの大変タフな戦いも繰り広げてゆく。
グロテスクだがニンマリできる小ワザや仕掛けも所々に効いている。
主人公のウィルはスカウトされて、すんなり優秀な隊員として活躍してゆく。
そうでなければこのテンポは成り立たない。
トミーはこの組織の伝説的なヒーローである。

余談だが、政府や外圧をかけてくる諸外国の悪辣極まりない陰謀についてWeb上によく見かけるものである。
実際エイリアン関係も興味はあるが、政府やマスコミの隠蔽や操作そのものが改めて気になるところである。
「インターステラー」でもアメリカのアポロ計画はソ連にお金を使わせるための、全てでっち上げフィクションであったというくだりがある。
例の911さえ、アメリカの戦争でまた一儲けするための自作自演であったなどという記事も見つかる。
われわれの気づかぬところで何が密かに進められ実行されているのかは、実際攫みようがなく分からないものだ。
不自然な裂け目や痕跡が気になることはしばしばあるが、、、。
話を戻したい。

特にこの物語の前日譚も明かされる、時間軸を遡る重層的な作りの3は面白い。
かなり大胆で小気味よい出来だ。
この映画は、1~3までを独立したものではなく、ひとつの映画として観たい。
1と2を個別に観ても面白いが、いまひとつ物足りないのだ。
3を続けて観て全体としてキリッと締り、なるほどと想う。
時間的な奥行が入って物語が広がり、重みも増して完結する。

3では、若き日のトミー・リー・ジョーンズを違う役者がこなしているが、ほぼ完全に彼の芸風をコピーしており、最初は違和感を覚えるが、それがいつしか見所となっていた。
これも見事な好演だった。
 (さすがにもう、トミーの年齢であのアクションは無理であろうし。上手い設定でナイスなキャスティングだといえる。)
登場人物もバラエティに富み、幅広い。
もともと様々な異星人がたっぷり出ていたが、あのように人型ばかりでなく外骨格や爬虫類(変温動物)から高度に進化した生物がいてもよいと思う。
Time Machineの利用にも上手い工夫が見られた。
あの辺はなかなかスリリングで息もつかせない。
そしてトミーとの繋がりの経緯も明かされる。
このシーンへの流れは全く想定外であり、情感をたたえる起伏があった。
トミー・リー・ジョーンズは最初と最後だけ実に味わい深い演技で現れる。
それだけで存在感十分なのだから、これも大したものである。
ウィルの表情-演技も1番深みが見られるものであった。
(2から見ると2人とも歳をとって円熟味を増しているのか)


3つ通してみると結構面白い。
(あえて言えば、3>1>2の順に面白い。しかし1,2あっての3である。)
考えたりする暇を与えないタイトな作りは流石だ。
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コレクター ~ヴァンパイヤ

023Ashley Judd
モーガン・フリーマンとアシュレイ・ジャッドによる「コレクター」を観た。
わたしの感覚の問題かも知れないが、この映画にあまりサスペンス性は感じなかった。
それなりのスピード感はあるものの、奇想天外な展開はこれといってない。
ストーリーはなにか馴染みのあるものである。
しかし最後までしっかり魅せる。
最後は確かに意外性も盛り込んでいる。(驚きはないが)。
モーガン・フリーマンやデンゼル・ワシントンは出るだけでその映画が名作っぽくなるものだが、これもそうだ。
彼の重厚さが、見る目を引き止めている。
そしてアシュレイ演じるタフな女性も一際魅力を発散している。
だからコレクターに狙われるのだが。

コレクションとは、最初から不可能性を孕んでいるものであるが、対象が人間ではまず成立し得ない。
という当たり前な話が前提となる。
コレクターとしては、その対象に自由に動かれては困る。
独自の意思を持つなんて以ての外だ。
そこでフィギュアなどで用が足りれば(際限はないにしても金が続く限り)問題ないが、実際のヒトでそれをやろうとすれば、当然殺す方向にしか逝かないのは自明であろう。
殺してしまうと折角のコレクションが減る。
そこが厄介だ。
メトロポリスのあの精巧なロボットかヴィリエ・ド・リラダンの未来のイブなどを作ってみたらどうか。
これならかなり彼の欲求は満たされるだろうか?
ただ映画の設定はSFとなるかも。(それともフランケンシュタインのような怪奇ものか?)

逆らわれるのは不愉快であるが、最初からプログラミングされたものでは面白くない。
まず興味が沸かないはずだ。
そこが厄介なのだ。
だが、ただ嫌がる者、逃げたい者に無理やり自分のいうことをきかせ、それに応じると当然のごとく憤る。
許せない。
ヒトというものは、そういうものだ。
この関係でコレクションが成立するわけがない。
最初から不可能である。
彼は生きた他者をコレクションしたいのだ。
(美しい女性の人形-屍体ではなく)。

彼には確かに外部の他者が必要なのだと思う。
生きた他者が。開かれた系が。
今の自分に感じられないもの。未知の輝き。大いなる者。
ともすれば、真・善・美を希求しているのだ。
それに触れたい精神がまずあったはずだ。
どうだろうか。
その彷徨える孤独な精神が。乾きが。
それが彼の情熱(狩り)の発端となったのでは。

もはやこの映画からは、かなり離れたことを話している。
昨日のヴァンパイヤにむしろ近い話だ。
あの映画がここで引っかかってきている。
あの孤独である。
コミュニケーションの不全とかいう問題では全くない。


ヴァンパイア

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距離感をもって観たが、最後まで一定の距離のもとで鑑賞し終えた。
全く感情的に迫るものはなかった。
そういう映画も珍しい。
しかし、つまらいという映画ではない。
飽きるわけでもなく、躓くこともない。
一定の速度感を持って引力が働き続ける。
好きとか嫌いとか拘る映画ではなく、今後また観ることがあるかどうかもわからないが。

ただ何が描かれているのか。
ひたすら淡い薄明のなかでの幻のように映像が流れて行ったという印象である。
物語は希薄である。
登場人物全員が存在感が無く、靄の中の人影を追う感覚になっていた。
存在感がないのではなく、実体感がないのだ。

マッピングされたどこか遠い場所で演じられた光景を見る感覚とでも言えば良いか。
内容的な儚さではなく映像そのものが儚い。
「亡き女王のためのパヴァーヌ」などの名曲が今回も適所に流れるが、虚ろだ。
光景も絵としての美が捉えられている。
だが洒落た絵葉書のようにも見える。
ただ、白い風船がとても生き生きとして雄弁であった。

人の血を吸う(ここでは飲む)ことでしか生きて行けない存在の孤独、は描かれている。
それに関わる(彼に心寄せる)人たちもひどく孤独だ。
また、自殺志願者であってもそれを捕食の対象と割り切れない彼の人間性もわかる。
ただこの特殊なシチュエーションでなくとも、生きにくさは自明としてある。
あえてこれに感情移入して浸るほど余裕がない。
というところが、わたしの基本的な心情なのだ。
今現在の自分の(特殊な)状況下にあることで、充分に入り込めなかったということなのか?

とも思ってはみたが、やはり風船ばかりが後に残った。

恐らくこの映画は、いつ観てもわたしの感想は変わりそうもない。
決してつまらない映画ではない。
よくできた映像作品ではあると思う。

プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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