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ブリュッセルより愛をこめて ~Close Cover

brussels.jpg

何十年ぶりに「ブリュッセルより愛をこめて」を探し出して、聴いた。
ベルギーのクレプスキュールレーベルから出たオムニバスアルバムだ。
LPをかけるのも久しぶり。
元は確かカセットテープで発売されたものであるはず。(記憶が確かならば、、、怪しい)。1980年に録音されたようだ。LP版はもっと後で出たはず。
一時期、LPを必死でリッピングしてパソコンにためていたものだが、やっていられなくなった。
CD買ったほうが早いとなり、暫くはCDを買っていたが、それも場所をとり、やがてiTunesで購入するようになった。
だが、LPで持っている音源が全てデジタル化しているわけではない。
特別な愛着のあるシングル(特にフラ・リッポ・リッピのファーストSG)や幾つかのEP版など、ほとんど出てはいない。だからといって、その都度、LPを探りには行かなくなってしまった。
保管してある場所が、単にアクセスしにくいのだ。

昨日、あえてレコード棚を調べると、レア物レコードが結構出てくる、出てくる。
最近ちょっと希なほど、新鮮な気分に浸れたものだ。
しばし惚けてジャケットに見蕩れてしまう。
特に、クレプスキュール、ファクトリーものの30cmシングルがたくさん見つかった。
すでに記憶に無く、初めて見るようなものも幾つか、、、。
(他にオランダ、フランス、イタリア、フィンランド、ノルウェー、今話題のギリシャ物など、、、いずれ聴き直して面白いものは報告します)。
結局、広い意味でのロック(現代音楽含む)は、世界各地、人のいるところには何処にも、恐らくはあることを実感した。
わたしはそれらを高校(大学)時代に西新宿まで足繁く通い、集めたものだ。
その西洋(米もあり)直輸入レコード専門店は雑居ビルの2階あたりにあり、隣は進学塾だった。
そこで、ブライアン・イーノプロジュースの”ノー・ニューヨーク”最後の在庫1枚をギリギリゲットしたことは、今でも覚えている。
まるでアイドルタレントのようにトレンディーにキメた女子高生(だと思う)にすんでのところで持っていかれるところだった。
こっちははるばる長距離を電車に乗って買いに来ているのだ。
ちょいと出かけて訪れました風な娘に負けてはいられない(笑。わたしの武勇伝である?(基本バーゲンセールのオバタリアンと同じだ)。
勿論、”ノー・ニューヨーク”は想像を遥かに超える絶品-収穫であった。
本当にラッキーであった。
何を話題にしていたか?そうだ「ブリュッセルより愛をこめて」である。


純粋無垢な鋭いナイフとなって突き刺さってくるヴィニ・ライリー( The Durutti Column)の2曲がどうしても際立つが、ソフト・ヴァーティクトのThe Fosse(後にClose Coverに改名)が、わたしにとって特別だ。
よくそれをBGMにして、トリスタンツァラの「近似的人間」の朗読をしていた?!
単なる趣味だ(笑。
しかし実に合う。もしお暇があれば試されたし(笑。

それから何よりトーマス・ドルビーの"AirWaves"にハッとした。
一際瑞々しい感性に煌めいている。
トッド・ラングレンばりの極上ポップセンスだ。
初めて聴いたような感動を味わってしまった。(大丈夫か?)
(彼はシンセサイザー奏者・プロジューサー、様々な音楽配信システムの発明家だけではない)。
最近、こんなしなやかな曲を聴く機会がほとんどないことに気づく。

それから、ハロルド・バッド。マイケル・ナイマン。
ソフト・ヴァーティクト(WIM_MERTENS)の様式美とはまた異なる趣のミニマム・ミュージックである。
リリカルという言葉はハロルド・バッドのこんな曲のためにあるような。
マイケル・ナイマンのいかにもミニマム・ミュージックというなかにも感性の冴え渡る曲。
ア・サーティン・レイシオ。懐かしい、としか言えない。
ビル・ネルソン、アンテナを久々に思い出した。

エリックサティをバックにしたジャンヌ・モローのインタビュー、ヌーベルバーグ・シネマ気分になれて得した気分である。NYで神と奉らえていたブライアン・イーノのインタビューもあり、理知的なイーノの軽やかな語り口がBGMに不思議な感じで溶け込み心地よい。
なかなか趣深い楽しい企画である。

オムニバスアルバムでA面からD面まで4面を、ターンテーブルに塩化ビニール版をひっくり返しながらじっくり聴くという身振りを本当に久しぶりに味わった。
良いものである。と同時に気づいたのは、音がとても良いこと。
さらに何故か、贅沢な気分であった。
近頃、パソコンでiTunesから聴くことが多かった。
音楽に対し、何もせずターンテーブルを眺めながら聴くような向き合い方をしていなかったのだ。
音質だって、パソコンにつないだスピーカーでは限界が大きすぎた。


何とも、とりとめのないことばかり書いてしまった。


ヴィニ・ライリーは3度目の脳梗塞の発作に倒れ今現在も闘病中だ。
他人事ではない。
(世界中のファンからの募金を甥が最近まで募っていたようだ。一段落はしたのだろうか。ゆっくりして欲しい)。




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17歳のカルテ

17.jpg
”GIRL,INTERRUPTED”
久々に見る不可解な邦題。
”17歳のカルテ?”奇妙な違和感。
この病は、思春期のちょっとした気持ちの葛藤などとはまったく異なる次元のものである。
しかし、やはり人間固有の根深い「存在の病」に違いない。

アンジェリーナ・ジョリーの存在感がただならぬものであった。(不必要に美しい自覚的悪役だ)。
青白いウィノナ・ライダーは,こころの過敏な揺れ動きを病的に的確に演じていたと思う。
終盤は特に、このふたりのぶつかり合いが鬼気迫った。
あそこまで、実際にお互い抉り合えるものか。まさに生死を賭けたやりとりである。
生半可なホラーなど吹き飛ばす怖さに震撼する。
「カッコウの巣の上で」を連想してしまうが、こちらのほうが凄みと生々しい痛みが迸っている。
あの病院にあって、少なくとも彼女らは自らの存在を極限的に問う場所を通り抜けたことは確かであろう。
そこが、何であろうと。
容易くできる経験ではない。

ボーダーライン・ディスオーダー、、、。
 わたしはディスオーダーからニューオーダーへ向かったつもりだが。
 今自分がどこにいるのか定かではない。

パラレル・ユニバースは本当にすぐ隣にある。
本作中にもTVで「オズの魔法使い」のドロシーが、冒険して得られるものはすぐ間近にも見つけられるのよ、ということを旅の後に言っていた。
5次元のように間近にそれは存在する。
そんな関係にあらゆる亜時間は存在するようだ。(わたしもその中の少なくともひとつにはまりこんでいる。この映画の主人公(原作者でもあるスザンナ・ケイセン)によれば、それは「流砂」であり「パラレル・ユニバース」となる)。

簡単に落ち込むことはあるが、抜けるとなったら、どうにもならないほどの隔絶を生じる。
程度の問題ではない。
そんな次元だ。

わたしも入院経験はある(「境界性人格障害」ではない)が、病院は体の疾患による入院であっても病棟にあって、人の無意識の狂気と愚劣さは外界にあるより遥かに生(なま)に発露される。
それは唖然とする場である。
わたしは病院に入院することはもう御免だ。
彼女たちのような病であると、入院は非常に長引くらしい。
(精神科医である弟の話では、完治はほとんど困難なものであると)。
価値観やこころの持ち方レヴェルの問題ではないのだから。
また、そこにいるだけでどれだけの影響を被るかも小さなことではあるまい。
そしてその環境に心ならずも順応・依存してしまう。
しかし病院を退院すること自体は可能である。
要は、そこから引き剥がした身を社会というもう一つの病棟に投げ込む覚悟がついているかどうか。
である。

その後、外で再会もあろうが、自己コントロール(プロデュース)がどれだけ効いているか、の間だったりする。
実際、病の完治などわたしには信じられない。
どのような病であるかの違いに過ぎない。
(人の存在自体が端から病であることは言うまでもない)。

あの婦長(彼女の名演が光った)の言うように、全てを余すことなく書き出すことである。
まず、何より確かな人間であることからの治療法である。
精神的な痛みを少しでも対象化する役には立つ。

人として正常・異常などナンセンス。
もはやなにかである必要などない。


「わたし死んでないわよ。」
まさに、そこだ!



”17歳のカルテ”ってなんだそれ?



リリーシュシュのすべて ~呼吸 ~ソフト・ヴァーティクト

Lily ChouChou
赤い空に緑に広がる地(田んぼ?)。
植物の盲目的に萌る生命の中にポツンと佇む脆弱極まりない存在。
ヘッドフォンなしの生活など彼には恐らく有り得ない。
そして夜毎打たれるキーの音。
張り巡らされるウェブ上のスレッドに引き寄せられてゆく孤独なひりつく魂たち。
彼らはエーテルに浸かり癒されたいと砂漠にありもしない泉を求めるように集まってくる。
一時の蜃気楼と知ってはいても。

ピアノ曲”sight”の淡々と流れる凛とした美しさ。
それは昔、ベルギーのクレプスキュールレーベルの澄んだ音楽を思い起こさせる。
(特に「ブリュッセルより愛をこめて」かのウィム・メルテン(ソフト・ヴァーティクト)のThe Fosse、、、)。
スッと腑に落ち、とても心地よい。
そこにジョイ・ディヴィジョン的な屈折が暗い歪みのように入る。
Lily Chou-Chou (Salyu)の詠うどの曲も、あまりに距離感なく馴染んでしまう。
音楽とは何か。この調べに絵は。
自然に存在するようで、ないもの-場所。
しかしそれなしでは呼吸することすら、できない。
まさにエーテルこそが必要なのだ。(エーテルとはまた絶妙なモノを選び出したものだ)。
そうだ別にダークマターがエーテルであっても良いはずではないか。
 飛べない翼。
飽和。
 回復する傷。
アラベスク。
 エロティック。
共鳴(空虚な石)。
 グライド。
(わたしは「飽和」と「共鳴」が特に好きだ)。

そしてクロード・ドビュッシーの前奏曲集第一集からの曲、亜麻色の髪の乙女。ベルガマスク組曲より前奏曲、月の光。そしてピアノ曲、アラベスク1番が主題音楽として空間を生成してゆく。
このポピュラーな印象派の名曲とLily Chou-Chouの曲、”sight”などのBGMがタペストリー状になって流れる。映像と音楽に切れ目がない。どこぞのアーティストのPVでもこれほどの融合は滅多にあるまい。

間違いなくスワロウテイル以上のPVである。
そして金-円よりも抽象度を上げたエーテルである。
(わたしたちには、”金”よりも”エーテル”が必要なのだ)。

しかしエーテルはこれまでに一度も、その存在は否定されてはいない。
単に新たな理論体系により乗り越えられただけの話だ。
所詮、全ては言葉に過ぎない。


そして、確かで儚いもの。
わたしたちの根拠であるもの。


・・・・・・・・・・・・・・・


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スワロウテイル

ito ayumi

着想が面白い。
円を求めてやってくる移民たちの危うい次元の社会。
これは夢か現かその間のような仮想空間に想える。
うまいところを突いてる。
宮崎駿より現実感はあるが、やはり物質的な実態が希薄だ。
しかし、円-金という物自体がそのようなものである。

ブレードランナーを思わせる光源がここにも見つかった。
レンブラント光線に煙った空間。
監督が物語というより映像を作りたいのだな、という気持ちがよくわかる。
映像と音楽の流れを細心の注意を払って紡いでいるようだ。
それは何であろうか。
2時間半のPVであるか。
Charaも主人公だし。
極上のPVである。
尺の長さは気にならない。

言葉も日本語、中国語、英語が交錯し、そのどれもがたどたどしく怪しい。
登場人物全員がコミュニケーション不全である。
なかでも日本語しか喋れない外人の胡散臭さ。
その内容のない明朗な饒舌さ。
それが空虚な物語いっぱいに充満していた。
伊藤歩のアゲハが唯一、寡黙に無骨な言葉を放って、淡々と物語を進行させていた。

動きでは、特にアクション場面などに伝統芸能のような見得が目立った。
その中で、江口洋介の凄みは際立っていた。
また、渡辺篤史のスタイリッシュな目に付くシーンも、自然な動きとは異なる印象が残る。
全て絵であった。
起伏のやたらに激しい三上博史-フェイホンの虚しさはそのままYenTown(円盗)の象徴か。
喧騒の割にとても静かな映像である。
桃井かおりはそのままで存在そのものがアーティフィシャルである。

あの蛹の内側に入ったかのような仄暗い阿片街やその中の総合病院など極致であるが、すべてがアーティフィシャルで夢の断片の繋ぎあわせのようだ。(ミッキーカーチスの怪演は心地よい)。
YenTown自体が書割的な淡い幻想だし、それは社会派的な言葉を端から寄せ付けない。
内実を生まないイメージの世界を周到に作っている。
ちょっと指で啄くと小道具のようにパタパタ倒れたり、あの看板のようにドスンと落ちて壊れる脆弱性に全体が支えられている。
監督の趣味的な物が空間にパズルのように次々にはめ込まれてゆく。
いつも以上に作りこまれた(準備された)音楽だけではなく、サブカルチャーの玩具たちが今回は殊の他役割を担う。
紙幣の偽造とその破り捨て。小学生のバイト。
紙幣の磁気情報を忍ばせたMyWayのカセットテープ。(どうせならシドヴィシャスのMyWayにして欲しい)。
それが屍体の腹からパラサイトのように絡まり出るなど、、、。
ホラーモノまで色々と。
イメージの連鎖のように現れる。
大塚寧々もそのひとつのように。
動くアゲハ蝶も精巧な作り物か。
アゲハの胸に刺青として彫られるスワロウテイルはやけに禁欲的な美しさであった。

ただアゲハやChara-グリコたちの「想い」だけは、仄かに染み渡っていた。
アゲハのフェイホンに対する淡い恋など、この辺の雰囲気は岩井監督のラブレターからから脈々と流れてきている、瑞々しさとリアリティがある。(「4月物語」も想わせる)。

それは繊細さとか柔軟とかいうものとは違い、、、。
しかしひとつの確たる強度である。


エンディングのYenTownBandの”Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜”は、この映画を見る前から 耳に馴染んでいた。


娘の授業参観

unchi.png

うちは不可避的に二人で参加することになる。
わたしは、今回は次女のクラスに入った。しかし、授業の参観だけにし、懇談会はパス。

「ひらがな」授業であった。
ざわつくままに授業が始まった。
ほとんどの子は、先生の言うことは聞いている。
が、うちの娘を含め落ち着きがない子が少なくない。

「あ」から「お」までが頭につく「ことば」(単語)を前の席から後ろまで、横1列ずつ答えていくというもの。
「暗号」とか「隕石」や「威嚇」などがポンポン出てくるのには少し驚いた。
娘は「え」行で、「遠足」という極めて無難な答えを出していた。
先生もほとんど機械的に反応できるレヴェルだ。
一年生もかなりお話などが好きな子もいる。
いろいろ家で読んでいるんだろうな、と思う子もいるのだが、「威嚇」にはちょっとビックリ。
先生もそれには注釈を加えていた。

父兄の間からも、ちょっと抑えた笑いが出たのは、娘の前の列の時である。
最初の子が、「うんこ」と言った。
先生は冷静にはい「うんこ」ですね、と言いホワイトボードに板書した。
次の声と動きで終始目立つ女の子が、大きな声で「ウマのうんこ」と答える。
先生は「ウマでいいですね」と返すが、その娘は「ダメ、ウマのうんこ!」と大声で主張する。
結局、「ウマ」に落ち着くが、次のその娘とぴったりペアの男子がすかさず「ウシのうんこ!」と同様のテンションで続ける。
「もううんこは出てますから、ウシでいいですね」となだめるが、「ウシのうんこ」に暫く拘る。
うちの娘はそれを見てニコニコ顔で後ろのわたしの顔を窺う。

小一らしいと言えばそうだが、「うんこ」がちょっと人(親たち)の集まりで目立ってやろう、のささやかなキラーワードになった。
先生としては想定を逸してはいないが、よりによってこんな時にという状況であったように見て取れた。
まだ大変若い女性の先生である。
「う」なら、一番出やすい安直な発想である。
ひねりが無さ過ぎることを指摘しても良いはず。
もう少し考えさせたい。

それには、少しざわざわし過ぎている。
まず、指示はしっかり通したい。
そうしないと子供たちは安心できない。
子供の発言もしっかり子供たちに聴かせたい。
先生と発言者の対話になってしまっては、授業に広がらない。

少しばかり待っても、全員に指示を浸透させたい。
それで、子供たちが指示内容を確認でき、安心して考える時間が保てる。
指示が徹底しないと、不確かなメッセージに迷う子が不安定になり、クラス全体に波及し浮き足立ってざわついてしまう。
「お友達の発言を聴きましょう。」「口を閉じます。」
「○○さんは何と答えましたか?」
「後ろの席のお友達の話を聴くために後ろを向いてください。」(これは、椅子ごと向けないと無理である)。
この辺、ははっきりとしたメッセージを出し、全員がその体勢となるまで、次に行かないことが大切である。

どうしても人が見ていると、本日の学習内容は時間内に収めたい。
それでどんどん先に進めたくなる。
心情はよく分かるが、ざわつきながら一本調子で行くより、時に静かに注意を集中させる時間を僅かでも作ったほうが結局は子供の学習が深まるはず。

先生の指導内容や組立は実情に合っていたし、子供との距離感や人間関係も出来ていたように思えた。
笑顔も大変よい。
要はメリハリだと思う。
予定通り行かなくても焦らず、締めるところは締めるのが肝心であろう。
長い目で見てそうした方が、後が楽であるはずだ。

小さな怪獣を30人から抱えるのだからそりゃ、大変だ。
確か私たちが子供の頃は、40人いたっけ。

頑張ってください。としか言い様がない。



レナードの朝

Awakenings.jpg
”Awakenings”
文字通りその話だ。

ゾンビーズが出てきたのには、思わずニンマリしてしまった。
あの頃のことなのか。車を見てもそうだ。

わたしにとって、今観るべき映画なのかどうか。
そんな気持ちが少し引っかかった。
これまでもっていて、敢えて観ないでいた映画なのだ。
何故だか分からない。

まったくもって、静かで優しい映画である。
知らずのうちにこちらは完全に無防備な状態になっている。
それはきっと見事な演技のせいである。
役者というものの役割の貴さをこれほど実感させられたことはない。


原作者はオリバー・サックスという脳神経科医である。
確かにそこに興味はあるが、わたしに関係あるかといえばさほどない。
(ここのところ、ほとんど全て自分との関連の中で物事に接しているため)。

嗜眠性脳炎の患者に新薬であるLドーパを投与したことで、実際に彼らが一時的に長い眠りから覚めた話があまりに衝撃的である。
この驚くべき夏のエピソードがなければ、そもそも話にもならず、小説にも映画にもなってはいまい。
まるでおとぎの国の話のような実話だ。
おとぎの国の話のように再び彼らは、残酷に元の眠りへと引き戻される。
しかし、後に確かな信頼の念と愛情が残る。
それまでともに過ごした医師たちと物言わなくなった患者たちとの間に。

再度、生き直した彼らのひと時は、確かな価値-記憶として色濃く残り続けたはずだ。
勿論、彼らを取り巻く人全てに。
(小さな転生かも知れない)。


ロバート・デ・ニーロが病院の食堂で、心を寄せる彼女に身を切るように最後のお別れを言うシーンには、これまでにない込み上げるものがあった。
もう対等な人としては接し合うことができない。
握手をしてたち去ろうとする彼を抱き寄せ彼女はダンスを共にする。
そこには万感迫るものがあった。
そこでは痙攣は安らかに静まるのだ。
永遠を真に感じる。
その時だけは身体は魂と化しているのだ。
そういうものだ。
そういうものなのだ。

彼女がお父さんにではなく(だけでなく)、動かなくなった彼に、新聞の野球欄ではなく、多分リルケの詩を読み聴かせているところで、救われる。
すべてが誰もが救われる。

ロビン・ウイリアムスのDrがもはや親友と言って良いロバート・デ・ニーロや患者たちに徐々に深く接していく中で、彼の中に本来眠っていた愛情を発露させてゆく姿も美しい。

”Awakenings”

そうだ、これは久々に触れる、確かな光景であった。






カポーティ

Capote.jpg

カポーティ。
これも「冷血」は読んでいない。
実際に起こった凶悪殺人事件の取材による小説である。
いかしこの映画は彼が「冷血」を完成させるまでを描いた伝記的映画である。
彼によってノンフィクション・ノベルという新たなジャンルが切り開かれるに至る物語である。
この映像は完全にオリジナルとして観る事のできる作品だ。
隅々まで映像美に拘った映画である。
カーポティの小説描写のように瑞々しく痙攣する危うさを滲ませる。
クローズアップや間が冴え渡る。
奇を衒ったところやムダは一切ない。

しかしこのカーポティ、妙に既視感のある人物であった。
実際、滅多にいないと思うが。
遭ったことのあるような、、、。
似ている人物がいたような。

思い当たったのは、彼は幼形成熟(ネオテニー)の容姿-雰囲気だ。
ある種のエイリアン、未来人-人類の進化形。
環境の過酷さに適応するための生物学的な特殊化。
少年のまま大人へと成長してしまった姿だ。
フリップ・シーモア・ホフマンが一番それを直覚していたのだろう。
あの役作りから明らかに分かる。
ジョン・ナッシュを演じたラッセル・クロウのように見事ななりきり方であった。
似ている似てないレヴェルではない、確かな変身である。

幼少年期の育成環境が人に及ぼす影響の大きさは、やはり計り知れない。
カーポティが興味を惹かれる殺人犯もやはり自分のように年少期の人間の環境を与えられなかった男であった。
同種の者同士は触覚でそれを悟り、惹かれあう。
「僕と彼は一緒に住み彼は家の裏から出てゆき、僕は表から出て行った。」
カーポティはそのようにお互いの関係を例える。
特殊な育成環境への依存から身を引き剥がし、いかに自らの内的な意思を発露させるか。
人は誰でも少年期にその先の成長をかけた(淘汰から免れんとする)戦略を練る。
無意識的に意図的に。生物学的に(生命論的に)。
もっと言えば、どんな自然法則からも自立的に。
カーポティもその殺人犯も「適者」でなかったことは確かであるから。

超能力のような尋常でない才能が彼を生かした。
これは通常に発達した人間の能力とは異質だ。歪みとして捉えられるところでもあろう。
その魅惑する唯一無二な特異なセンテンス。人をたちどころに取込み、巧みに操る話術。その語り口。
「ぼくも子供の頃から常に人から誤解されて生きてきている。この外見からも、話し方からもね。」
「母に置き去りにされホテルに閉じ込められたぼくは、その恐ろしさのあまりに大声で叫び続け、そのまま気を失ってドアの前に寝込んでしまったよ、、、。」
(実際彼は母親に捨てられ親戚をたらい回しにされて育ったが、この言葉が彼の表現であることには違いない)。
おずおずと犯人は心を開いて語り始める。
カポーティの前では、誰もが全てを語ることになる。

だが今回ばかりは、詳細な取材を積み上げるため友人関係まで築いてきた実行犯を殺さないことには物語は完結しない。そういう新手法を編み出したのであるのだから仕方ない。
濃い取材を取るため弁護士を雇い死刑を先延ばしにしてきたが、裁判が4年以上も長引くことはもう耐えられなかった。
この稠密な物語から一刻も早く解放されたい。
小説は朗読会を経て、ほぼ大絶賛で迎えられることは確定してる。
しかしこの年月はじわじわと彼を引き裂き、深く蝕むことになった。
他者(その家族)の中に踏み込むことは、同時に自分(その家族)の中にもまた踏み込んでゆくことになる。
自分を徹底して対象化しきれるか、それに耐えられるか。
意識化という作業は、極めて過酷で残忍だ。

冷血とは願望だ。
殺人者も本人の内奥や血縁の周辺を精緻に調べるほど感情に移入してきてしまう。
彼もまた超一流のセールスライターのように自分の思惑通りに人をコロッとその気にさせるが、既に作家というエゴイストには徹することはできない。
「あまりに恐ろしいものに接すると、かえって気が休まるよ。」
彼も当初、余裕を持って気楽に始めたことであった。
「冷血」でありたかった。

最後に彼は自分を最愛の友と呼ぶ殺人犯に死刑執行の前に会う。
そこで彼は思わず涙をこらえきれなくなる。
これは彼自身を深く戸惑わせたことだろう。
もしかして、初めて彼が他者に共感した時であろうか、と思った。


裸のランチ

william burroughs

カットアップやフォールドインによるイメージの生成・解体とは?
書き言葉=コミュニケーションを刻み再構成することで新たな世界を引き寄せる。

画家のブライオン・ガイシンは「文章は絵より50年遅れている」ことをその技法とこみに彼におしえたという。バロウズはその効果に驚き、それを使った制作に夢中になる。紙とハサミを小説に使った。
それは恐らくジャンキーとしての彼の知覚を精確に記述するに最適化された技法であったのだろう。
トリスタンツァラなどのダダイストやシュルレアリストたちもその技法・思想を制作にフルに使っている。
その後、ロックミュージシャンも歌詞やサウンドリミックスなどに活かしている。
もっとも深く理解しそれを音楽に応用し続けたのは、ジェネシス・P・オーリッジか。
確かにスロッピング・グリッスルの”20 Jazz Funk Greats” は完全に飛び抜けた孤高の作品だった。
何度聴いても飽きないほどにどこまでも異様に美しく虚無である。
サイキックTVの作品にしてもそうだ。

もともとガイシンはモロッコのジャジュカ音楽をテープに録ることからカットアップに行きあたったらしい。
彼はそれを絵画制作に応用した。
そしてバロウズに伝授した。
そして「ビートニク」に乗って広く世界中に伝播した。

前衛ジャズロックのソフトマシーン(ロバートワイアット)もバロウズなしには出現しなかったはず。
クローネンバーグ作品も生々しく毒々しいソフトマシーンのオンパレードだ。
そうここではクローネンバーグの「裸のランチ」の感想を述べようとしていたのだった。


わたしは原作を読んでいない。
映画はあくまでも映画であり、それを観ればよいのだが。
まずはこの映画、音楽の良さに痺れた。フリージャズが実に各シーンに効いている。
そのためか、時代性(古さ)などは微塵も感じさせない。
やはり音楽は映画にとって肝心要だ。

しかし、ここではカットアップが意識できるところは特にない。
文脈の線状性を解体するような力学は働いていない。
居心地の悪くなるようなイメージのシーンも特にない。
ただ変容したイメージのフォールドインが度々スイッチのオンオフのようになされるが、全体としての物語はスムーズに流れる。そのためとても見易い仕上がりになっている。
さらっと観れて納得できる。これでよいのか?
重奏する異様な、というより名づけ難いイメージに圧倒され目眩を起こすのも覚悟の上で観たのだが。
カットアップとは言葉をイメージ不可能なオブジェに戻す試みであるはずだから。
(少なくともガイシンの絵画はその意味でオブジェである)。

言葉や絵画や音に比べ、映像は形式上イメージがもっとも制限され解体しにくいことを改めて痛感する。
「裸のランチ」として形式をバロウズ的カットアップをもって作成するのではなく、基本的にバロウズの姿=パフォーマンスを内容的に見事に描写した作品といえようか。

映画でここまでやれるのは、やはりクローネンバーグだからであろう。
虫や虫のタイプライター、そしてほとんどエイリアン、エリートのムカデ?もいかにも彼らしい異化である。
ここでのマシーンと人の一体化はまさに官能的でグロテスクで郷愁にも染められたものだ。
何か幼年期の記憶にも繋がる思い。
内蔵的な記憶か。
あの尻が口を抑えて止めどなくしゃべりだすエピソードや「血も凍るような有害な言葉」などのセリフは多々散りばめられるが。

結局はじめて出逢った言葉の原質には触れ得たのか。
コミュニケーション以前のいや以降の世界の片鱗は垣間見れたか。
”クラーク・ノヴァ”タイプライターへのFetishな拘り。
それによってかろうじて世界に繋がる。
書き言葉(コミュニケーション)が明らかな変容を示す。
詳細明快な報告書が鮮烈な新しい詩となって打ち出されていた。
その孤絶した言語体系は意に反して友人に認められ、作家としても名声を勝ち得る兆しを見た。

しかし作家にさして興味もない彼はタイプライターを捨てて
インターゾーンでの麻薬事業を手伝うためにアネクシアに旅立つ。
万年筆を一本もって。
かつて射殺してしまった妻そっくりの女性とともに。

彼バロウズにとって、ウイリアムテルごっこが終生深く尾を引いていたであろうことは、ここでも痛ましく確認される。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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