検査入院に際して 迷走神経反射で感じたこと (臨時発行)

*担当の若い女性医師に書いてもらった図。
6/3に今回の検査結果が分かる。
これまで振り返ると随分時間はかかるものではある。
が、手順を踏むのも面白い。
手術をして副腎の片方を摘出し、血圧関係の薬からすべて解放されるか、
副腎の摘出はできず(両方の副腎から異常な量のホルモン分泌がなされていた場合)、服薬対応となる。
その場合も一般的な血圧降下薬ではなく、アルドステロン拮抗剤 が開発されているため、それを使う。
どちらにしても、はっきりと今後の方針が見える。
そのこと自体は有難い。
自分の身体について、すっきりしないで過ごすことがいかに生活の質-QUALITY of LIFEを下げる要因となるか。
1.自分自身としての身体感覚と死に対する考慮において。
2.他者-周囲に対する在り方として。
ひとこと、Seinとして。
今、まだ咳込(激しい発作的なもの)が残り、負担が少なからずある。
不安材料である。
生はある意味、不安そのものの状態を指すものだが。
それでも続行する。
生そのものが。
意識が途切れない以上。
まず、3次元+時間的存在として受肉してある以上、身体的な線で強度を保ちたい。
サプリメントなどにも気を配り、基礎的な生命線の維持または僅かな底上げを試みてはいる。
わたしは何人もの哲学者が自分の病苦に向き合う姿を読んできたが、、、
みな最期に病気に対して戦う意思を表明していた。
私にとってはとても意外で、同時に共感もできた。
彼らは元気な間、自分の生など考慮にも入れず、他人の死に対しても極めて論理的であった。
少なくとも、自分において生きながらえることより、生きることを強く望んでいた。
しかし、単に生きることこそが必要なのだ。
単に生きることが重要というより必要なのだ。
結局は。
「迷走神経反射」というものを初めて経験した。
カテーテルを引き抜く時に不意にそれは起きた。
それが何やら新たな認識を得るなどという機会では全くなく、単にひどく気持ち悪い思いをしただけであった。確かに生に反する、明らかな負の水準であり、不快のうちに衰滅する予兆を強く感じるものであった。
次の状態に移行するとき、こんなに風情(詩情)のない状態で移りたくはないものだとは漠然と感じた。
しかしこんなものなのかも知れない。
よく、臨死体験をして眩い煌びやかな世界を体験して人が変わって降りてくるケースをよく読むが。
その後しきりに人を集めて、セミナーを開くのもどれだけ途轍もない体験をしたのか察することは出来る。
悟りの瞬間なのか?
物理的にもそろそろその次元が明かされるはずだが。(高次元の解明)
死後がそんなものというなら、せいぜいモノに大いに働きかける機会の溢れているこの次元に拘りたい。
この曲率0の平面こそ面白い。