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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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小一運動会 マジですか!


IMG_3220.jpg
今日は3ヶ月続く咳き込みが悪化し胸も痛い。
いつもは寝しなに咳き込むのだが、朝から咳込が激しい。
動悸もするが、娘の運動会のため、歯医者もキャンセルして、席取りに7時に出掛けた。
何しろ運動会が今日である事を一昨日知ったのだ。マジですか!
競技で使う装飾Tシャツ作りは協力してきたが、日時を知らなかった。
(最近相当な情報弱者であることをしばしば思い知る)。

割り当てられた見学場所からは何処を取っても娘のクラスはおろか、学年全体の動きそのものも皆目掴めない。
2人が何処でやっているのか、最初の種目については終始分からず仕舞いで、1枚も写真が撮れず、次の出番では、敬老席の後ろから回り込んで狙い、表現演技をなんとか数枚撮れた。
幼稚園から見ると、かなり高度な身体表現であった。少しびっくりした。
次の応援合戦では小さく拾う事はできたが、かろうじて誰だか分かる程度。
それにしても応援合戦は進化してないね、とつくづく思う。
(これは、型だから仕方ない)。

うちでよく歌っていたダンスは見事に見逃した。
(うたからすると結構、期待していたのだが)。
午前中の診察ギリギリ11時に急遽医者に向かったからだ。
まさか玉入れ競技に組み込まれているものとは思えず、プログラムからは推察できなかった。
(恐らくお母さん仲間はちゃんと知っているはずだ)。
幼稚園での玉入れはもう混沌の中で全く写真に拾うことができなかったことから、最初から諦めていたのだ。
後で聞くとそのダンスがとても可愛かったと、、、。

午後についてはわたしは見学はキャンセルとした。
リレーと何だったか?
もう小学校に戻る気力は無い。
(診察は終わって薬を受け取っていても)。

すでに3回、2つの医者で強い薬をもらっており、今回の4回目で終わりにしたい。
吸入薬も2タイプもらってきた。
抗生物質は止めてもらった。
熱が38度を超えないと気管支炎や肺炎は有り得ないということ。
わたしはせいぜい、7度2分というところ。
(つまり、レントゲンで調べる必要はない)。

ひきつけるような咳込はかなり体力を消耗させる。
それに加え歯が痛い。
6月は手術も控えているし、少なくとも基礎的な状態を戻しておきたい。
後遺症は無理だが、何故ここのところ風邪のような症状が異常に長く続くのか分からない。
これも後遺症から来た変調のひとつの現れなのだろうか?
そうなりやすい体質になっているのか?

生活の質は体調次第で決まる部分は大きい。
改めてそう感じる。
表象そのものが歪む変質するというものではないが(ビューティフル・マインド はまさにそうである)、それに対する感情(受け取り方)や関わり方に問題が生じてくる。
スムーズで安らかな関係性が保ちにくい。
ノイズやズレが結局大きくなる。

それらの結果、何よりも疲労である。
今日はゆっくりしたい。
レストランでご苦労様会をした後、早く寝よう。



グッド・ウィル・ハンティング

good will hunting
Good Will Hunting
1997年
アメリカ

ガス・ヴァン・サント監督

ロビン・ウィリアムズ 、、、ショーン・マクガイヤ(精神分析医)
マット・デイモン(脚本) 、、、ウィル・ハンティング(数学の天才)
ベン・アフレック 、、、チャッキー(ウィルの親友)
ステラン・スカルスガルド 、、、ランボー(数学教授)
ミニー・ドライヴァー スカイラー(ウィルの恋人)


過去は多かれ少なかれ傷として浮かび上がるものだと思う。
その才能がどれほどのものであっても、傷は錨の重みとなる。

どうにも身動き出来ない。
足掻いているように見えて、同じ円周上を堂々巡りしている。
その幾何学性に気づかないではないが、単なる知性でその重力を切断できない。

認識が過去の想起であるならば、癒えない傷は今を生きることに、いつまでも作用を及ぼし続けるだろう。

その傷を本当に治すもの。
それは、双方の過去を解体させるほどに忍耐強い愛情なのだ。
双方ともにゼロ地点に立たせてしまう過激な愛情の発動が必要となる。

自分を守っているうちは、同じ重力に囚われたままだろう。

エンドロールでひたすら走破していくおんぼろ車は恐らく、ゴダールのアルファヴァルの車みたいに、微妙に重力値の異なる別世界に行き着くことだろう。


Robin Williamsもよいが、不良の友達がたまらなく素敵だった。

今、転落してゆく若者たちに、あんな愛をもった友達がいるだろうか?
わたしには、いた気がする。

確かにいた。

最高の人生の見つけ方 The Bucket List

bucket list
The Bucket List
2007年
アメリカ

ロブ・ライナー監督

ジャック・ニコルソン、、、エドワード・コール
モーガン・フリーマン、、、カーター・チェンバーズ


エヴェレストに登山する男の意味が最後まで見て明かされる。
非常に粋な秘書だ。
終始大物二人を絶妙にサポートしていた。

ジャックニコルソンとモーガンフリーマンの二人が出ているだけで、もう何故だか感動モードに入っている。
この両者の存在感、尋常ではない。
スターとはこういうものか?
つくづく感じ入るものである。

病室での出会い。
(わたしにこんな出会いがあるだろうか?)
自分の病院経営理念から個室を作らなかったことで、全く出会うはずもない二人が出会う。
一代で巨額の富を築いたが家庭に恵まれなかった男と子供ができたため学者になる夢を諦め只管家族に尽くしてきた男。
二人とも末期癌で余命6ヶ月の宣告を受ける。
最初は啀み合っていたが、そんな場合ではない。
それに大人しく最先端医療に身を任せてその後を静かに送る、というタイプでは2人はなかった。
やり残したことは無いのか?
不可避的にこれまでの自分の人生が対象化される。

”The Bucket List”棺桶リストを実直な男が密かにつけだすと、孤独な富豪が大いに悪乗りしてくる。
それをうんと威勢良く誇張して富豪の自家用ジェットで世界中を旅して、リスト項目を一つずつ潰してゆく。
それが思い切りバカっぽく楽しく爽快な旅となるのである。

モーガンのカテーテルが外れる事故があり、ジャックが心配する妻と家族が待つ家にモーガンを帰すことにする。
しかし、帰り道に寄ったのは、絶縁状態のジャックの娘と孫の住む家の前だった。
ここで、ジャックは激昂し、一旦ふたりは別れることになる。

その後、ジャックの元にモーガンの脳への転移の知らせが入る。
もう手術後は無いことを悟るモーガンがジャックにあてた手紙を彼の妻が渡す。
本当は死後に渡すように頼まれたものであった。
ジャックへのお礼とともに「人生を楽しめ。」である。
モーガンの最後の彼へのお節介である。
彼はその手紙を読み、リストの項目の一つ「世界一の美女からキスをもらう」を実行する。
花を持って例の家に今度は一人で行く。
この場面の描き方、監督の演出センスには、やられた。

ジャックはモーガンの弔辞を読む。
その手のことは生涯にわたって避けてきたことであった。
本当に最期の最期の短期間に親友と呼べる存在を得て、2人はこれまでの人生を更新する。
最高の人生を見つける(この邦題いまいちどうなのか?)

これほどベタな内容で、これほどくるのは何故なのか!
ジャックニコルソンとモーガンフリーマンの二人の演技力と存在感、それは大きい。
秘書役の心憎い気遣い。これも効いている。
監督、脚本のせい、と言えばそれまでだが。
死が普遍的テーマであるからか。

それが勿論基本にあるのだが、この映画それ以上の何かである。
単なるファンタジーを本気に「羨ましい」と実感させてしまう何かである。
本当の映画のもつ力に、まんまと乗せられた。




カッコウの巣の上で One Flew Over the Cuckoo's Nest

One Flew Over the Cuckoos Nest

マクマーフィーとラチェッド婦長を両極の象徴として描かれるこの世界-病院の構図において。
わたしは何処にいるのか?
恐らく今はマクマーフィーのようなトリックスターの触媒効果により、自分を不器用に語り始める患者の1人であろう。

患者-被支配層には次の人種がいる。
全く無自覚のうちに無意識に過ごしてゆく者たち。
半ば自ら選択して入り、出てゆく権利を保有しつつ文句を並べながらもそこに安住する者たち。
自分は何時でも出て行けるのにそこに留まり続け、周囲を活性化することを宿命とする者。
彼-トリックスターの力を自らのものにし、未知の領域に踏み出す者。
(出てゆくこと(自らの外)に憧れながらもその力を受け止めきれず、自壊する者)。
そして病院-体制の管理者たち。
その支配層の代表としてのラチェッド婦長。


これは大まかな構図だが普遍性は見てとれるものだ。
わたしもいつの間にかそこにいた。
当初は無能な管理側にいた自覚がある。
もうはっきりしない思い出だが。
(管理側にいても患者的な立場にいることは十分ありうる)。


マクマーフィーとは何か?
生命力を体現した何者かである。
手段はどうであっても、”生きること”に賭ける。
善悪の彼岸にいて、常に少年のような瑞々さを失わない。
周囲のケに対しハレで居続ける。
だが、常時祭りは開いてはいられない。
マクマーフィーは必ず何を企てるにしても、周囲を巻き込まないといられない。
これが彼の宿命となっている。
そういう機能として世界において作動し続ける。
当然、それは反復数にも限界があり、最終的には大人しくさせられてしまう。
宿命的に。

そしてこの物語の題となっている、”One Flew Over the Cuckoo's Nest”のOneであるチーフ。
マクマーフィーが一人でも出てゆくと言いながらも決行せず、その意思を沸き立たせ続けたことにただ独り応えた男。
「できはしなかったが挑戦したぞ!」その彼の今となっては遺言を、引受け実行した。
「お前をこのままでは終わらせない。一緒に行く。」
そもそも何故彼は、聾唖のフリをしてまで(偽りの自己を装って)そこに居続けていたのか。
いつもモップを持って木偶の坊のように実体を隠して。
それは、父のようにごく自然に始末されることから身を守るためであった。
マクマーフィーのような男が魂を蘇生させてくれることを、ひたすら待っていたに違いない。
その相手にのみ自分の胸の内を語ろうと言葉を押し殺してきた。
(ここが周りの言葉を出そうにも言葉を持たない者との違いであった)。
そして彼はマクマーフィーの魂とともに、鮮烈に生きることに挑戦する。

ラチェッド婦長とは、何か?
社会を管理する優秀な人材であり、良心の体現である。
彼女は常に彼らの話を聴き、問題を独りで抱えずにミーティングの場で共有してゆこうとする。
しかし、彼らに自らを解放する生きた言葉はないのだ。だから大人しく従順でいる。
マクマーフィーが来てはじめて、彼らが自らの身体的欲求に気づきそれをお粗末な表現に置き換えられるようになる。
しかしそれは体制的に受け入れられる言葉にはならない。
必然的に体制側とすれば実態として、ありもしない全体をみなければならない。
「しゃべるのが聞こえないから音楽のボリュームを下げてくれ。」
「音楽はみんなのものです。ここには耳の遠い方もおられます。」
個に対する全体の立場はことごとくこのような平行線を辿る。
規則をもっと細やかに多様に設定して対応すればよいという形式・手段の問題というより価値意識に行き着く。
例え個・部分をいくら緻密に集積しても全体にはならないため、体制としての決定-言葉は常に抑圧となる。
その構造の中でラチェッド婦長は最善を尽くす。
マクマーフィーにとっては「彼女は嘘つきだ」としか捉えられない。

そう、大方の構成員にとっては、彼女に不満をもちながらも、従順に従っていればそれで事足りるのだ。
何がこれといって不自由でもない。毎日もらった薬を飲んでいれば良い。
彼ら自身が未だ解放されていないからか。
(自壊した若者はもう少しこころの準備が要る、と言っていたが)
いずれにせよ彼らはいつまでたっても、死ぬまでそこに居続けることだろう。
しかし、マクマーフィーという男が決定的に彼らのこころに刻印されたことは間違いない。

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ビューティフル・マインド

beautifl.jpg

「現実」をどう手懐けるか。
自分だけの現実が厳然と存在し。
客観的に実在する現実は基盤としてある。
どちらも確かに存在価値を持つが過剰であり過酷である。
二重に重なる現実を病とすれば、我々にも少なからずその病はある。
彼の学生時代に現れた親友は誰もが持つ自分の影だ。
自分だけでは出来ない大胆な行為を影はそっと背を押して実行させてくれる。
窓から机を投げ落とす快感。
こんなこと一人で出来るか。
それは研究においても。
必ずしも病はマイナスではない。
彼はおまけに尋常な社会性も持ち合わせていない。
彼の自尊心は数学的な才能だけに支えられる。
それが彼を高邁にもさせ、孤独にも追いやる。

しかし彼は他者と真に共有出来る現実を希求していた。
全てを支配するシンプルな数学的理論によってそれはきっと実現できる。
冷戦下にソ連の暗号のコードブレイクに任用され高く評価される。
政府からの仕事のストレスと冷戦の不安は過敏な彼の神経に大きく響く。
もしかしたらカーチェイスと銃撃戦もしてみたかったのかも知れないが。

自分だけの現実が病として対象化されるにつけ、彼はその現実~幻想に秘密裡に対処しようとする。
その力が妻や大切な人に及ぶことを恐れ。
力は次第に強まり日常生活に明らかな支障を及ぼすまでになる。

この混乱を戸惑い葛藤しながらも受け止める妻の愛情。
膨張し彼の現実を侵食し尽くそうとする病から彼を救ったのはやはり妻だ。

彼が苦痛にもがきながらも求め続けてきたのは最適化された現実だった。
妻にも親友にも受け入れられる現実。
秘密裡に暗号解読を脅迫的に続けながらも、次々に発表する論文。

そしてアダムスミス(見えざる手)を覆す均衡理論。
彼の求めた理論がようやく誰からも受け容れられる。
まだ彼だけの幻想~現実はしっかり内包されて存在するが、彼はそれをすでに手懐けている。
もはや誰もがもつ心の中の他者に過ぎない。
ノーベル賞授賞式のありきたりなスピーチに見えて全くその言葉通りの鮮明な意味。


彼のテーブルに学者たちから一つまた一つ置かれてゆく万年筆。
これが彼の長年に渡る苦闘の末に勝ち取った現実だ。

ラッセル・クロウとジェニファー・コネリーの繊細で抑えられた迫真の演技に圧倒された。
監督の演出、脚本、他のキャストも完璧である。



ジョン・ナッシュ夫妻のご冥福をお祈りします。


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ミッション・トゥー・マース

出てくる人のパーソナリティに違和感がありすぎて、入り込めない。
そのためかなりの距離感をもって眺めた。
火星に何しに行くのかがよく分からなかった。
所謂、普通の探査か。2度目のは救援なのだろうが。
SFには、よく人間ドラマが伏線で流れていたりするものであるが、このドラマはそれが非常にウザイ。
共感できる人物が一人もいない。
セリフも陳腐でつまらない。

SFの描き方であるが、映画をあまり見ないわたしもそこそこの数を見てきて、比較も自然にしてしまうところもある。
何というか、SF的なVISIONの精緻さや宇宙物理学的に見た妥当さ、テクノロジーや建造物の精確さ、などもそこにいる人たち同様とてもそれ自体の重みに欠け軽佻浮薄さを感じる。
昨日、一昨日観た映画からすると明らかな見劣りは否めない。
特に登場人物に魅力がない。この点は大変大きい。
であるから、トラブルが発生しようが、何があろうが真実味にも欠け共感出来ない。
話そのものも、どうも練れていないし根本的につまらない。
そう、わたしの言う真実味とは、本当らしさとか現実的とかいうレヴェルの事ではない。
そんなものを敢えて映画で見てどうする。

強いて挙げれば、終盤の火星人とのコンタクト。
あの場面は、物語として充分受け入れらるものであり、前半の創造性の欠片もないイライラする退屈極まりない部分を全て削除して、この後半の世界を思いっきり拡張してしっかり描けば、全く異なる映画になっていたはずである。
SF映画である限り、中途半端な科学的信ぴょう性やメカの本物らしさ、チープな人間ドラマなどより、我々存在に関する刺激的で示唆に富む大胆な仮説を熱く提示するような作品にこそ触れ、その新鮮な認識に感動を覚えたいのだ。
そうであれば少なくとも、わざわざ観るに値する作品になり得ていたと思われる。


SF風にするためもっともらしいセットは作ってはみたが、内実が伴わず、お粗末さだけが目立った。
これまでのように、がっかりしても、色々細かく拾って語れるところは語りたいというような気も失せる作品であった。


時間を無駄にした。


天使と悪魔

Bernini.jpg
2009年
アメリカ

ロン・ハワード監督で、ダ・ヴィンチ・コードのひとつ前のダン・ブラウンの小説を原作とする映画。
デヴィッド・コープ 、アキヴァ・ゴールズマン脚本

トム・ハンクス 、、、ロバート・ラングドン
アイェレット・ゾラー 、、、ヴィットリア・ヴェトラ
ユアン・マクレガー 、、、カメルレンゴ
ステラン・スカルスガルド 、、、リヒター隊長
ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ 、、、オリヴェッティ刑事
ニコライ・リー・コス 、、、暗殺者
アーミン・ミューラー=スタール 、、、シュトラウス枢機卿


ダ・ヴィンチ・コードを上回る息詰まるスリルとサスペンス。
今回は名画の読み解きではなくむしろその作家の宗教との絡みに焦点が当てられる。
(勿論、前回はダ・ヴィンチの絵画であったが)
ガリレオ(彼だけ天文学者だが)、ミケランジェロ、ベルニーニ、ラファエロなどが重要な要素となる。
しかも半分天使でもう半分が悪魔の彫像など見たこともない(実際映画用に作られた)物も何気なく出てきて不思議に治まっている。
バチカンの描写が虚像も含め、重厚で神聖な雰囲気を醸していた。

アンビグラムの紋章からイルミナティという秘密結社が浮かび上がり。
先に挙げた芸術家・天文学者がそのメンバーであったとおいう。
バチカンはその時、次の教皇選出のためのコンクラーベに入っていた。

そのさなか生成した反物質の入った!カプセルと新教皇の有力候補4人が復活した?イルミナティに奪われる。
イルミナティによれば反物質の保管バッテリーの切れるまで一人ずつ候補者を殺害してゆくという。
象徴学の権威であるトム・ハンクスが呼び出される。
ここでは反物質を巡る科学的な側面はほとんど触れず、宗教的な面が詳細に語られ謎解きがトム・ハンクスによって見事になされていく。
前半CERNという実在の研究所が舞台となりリアリティを高めている。
反物質は物質と反応して対消滅mc2+mc2=2mc2エネルギーが放出される。
その効率性の高さがここでは注目されている。例えば核に変わるエネルギーとして。
しかし現実には反物質生成は僅かなレベルのものである。
電子に対する陽電子などがそれであるが、ポール・ディラックが予言し発見されたのもさほど昔ではない。
この映画のような大量の反物質の生成はまず有り得ないだろう。
しかし、実際それが物質に触れたなら大変なことになる。
そのカプセル維持(バッテリー)がタイムリミットを作ることで、この映画はひたすら目まぐるしく疾走してゆく。

さらにトム・ハンクスに負けない存在感をユアン・マクレガーが強烈に放っていた。
最後の畳み掛けがここまで凄い映画は初めて観た。
わたしは一歩手前で、もう話は終わったかと安心してしまった。
ユアン・マクレガーのあまりに素晴らしい演技のせいだ。
騙された。
カメルレンゴという役職にぴったりあった?怪しさを後でじわっと味わった。
天使と悪魔は彼のことか?

イルミナティの手先(実は実体のないでっち上げ)の実行犯-殺し屋役のニコライ・リー・カースにも惹きつけられた。
悲哀を秘めた実に魅力ある役者である。
天使が実は悪魔であることを彼はトムたちに仄めかしていたが、流石の象徴学者の彼でもその真意をその場では汲み取れなかった。

反物質の女性研究者であるが、当初ナオミ・ワッツが予定されていたらしい。
そのまま彼女に決定していたらさらに厚みのある作品になっていた事は間違いない。
それにしてもダ・ヴィンチ・コードを上回るトム・ハンクスの推理力の冴えが疾走感を絶えず生み出していたが、落ち着いて考えてみると、これは反物質の量産より困難な業に思えた。
まるで、ウルトラQに出てくる博士の閃きレヴェルの超越感がある。
ナオミ・ワッツが絡んでいれば、もう少し人間レヴェルの推理力でも充分緊迫感は出せた気はする。

総合的な出来としてはダ・ヴィンチ・コードだと思うが、エンターテイメントとしてはこちらだと思う。
脇を固める役者が素晴らしい。
(ナオミ・ワッツが入っていない事だけがとても惜しい)。


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華氏451

451.jpg

Fahrenheit 451
1966年
イギリス

フランソワ・トリュフォー監督・脚本
バーナード・ハーマン音楽

オスカー・ウェルナー 、、、モンターグ
ジュリー・クリスティ 、、、クラリス/リンダ
シリル・キューザック 、、、キャプテン
アントン・ディフリング 、、、ファビアン

活字がどれだけわれわれの本質を形成しているか。

話し言葉は書き言葉を前提につくられている。
(書き言葉を通過しない話し言葉は存在しない)。
詞など文字として書かれなければ、誕生し得なかった。

話し言葉だけで今の高度な文節-世界の構造化が出来るわけがなく、当然文化も文明も成立しない。
書き言葉-文字が無い世界では、ヒトは全く異なる生物になっていると思われる。
しかし、人や環境を見ても今とパラレルである。

ここは最低限の文字はあっても本のない世界か。
微妙だ。
割と最近、このような状況に陥ったという世界であろう。
何にしても世界は言葉によって出来ている。
明らかに継承はしていることは間違いない。
少なくとも、科学や経済、産業は発達しているのだから、文学・思想・芸術関係の書物の排除というところか。
所謂、現体制にとって都合の悪い書物の消去。
「焚書坑儒」の世界か。

どの家にも物々しいアンテナが立っており、人々はTVしか見ない。
面白いのは、活字の一切ない、漫画の載っている新聞だ。
ノートはないのか(ワープロは)?それが気になった。
書物-思想が読めないのは兎も角として、考えたことを書き留め読み返すことが出来ないのなら、これは究極的だ。
文字が読めず、満足に書けずTVをひたすら見ていたら、思想統制以前に発狂してしまう。
それで興奮剤や鎮静剤を常時服用しているのか。
血液を取り替えたり。
スポーツを薦めたり。

レイブラッドベリは高校時代よく読んだが、この本は読まなかった。
彼の作品にはことごとく、詩情豊かなファンタジーに心奪われていたのだが。
この映画はどことなく郷愁すら感じる、ノスタルジックな色彩に彩られていた。
サイエンスファンタジーでもなくスリルもサスペンスもなく。
ヌーヴェルヴァーグ的寓話世界とでも言えるか。

監督はフランソワトリュフォーである。
しかも、イギリスで撮影したという。

消防士の乗る真っ赤な車両が何度も何度も出動する。
次々に隠された場所を突止め、本を探し出して火炎放射器で焼き尽くす。
本のページが熱気に捲れ灰になってゆく美しさ。
本に埋もれて自ら焼き尽くされる女性。
どの光景も美しい色調で丁寧に描かれている。

昇進間近の本を焼き捨てる消防士の主人公は、ジュリー・クリスティ演じる本を継承するコミュニティーに属する女性との関わりの中で、本に自分のあるべき過去と自分のありかを探り出そうとする。
本にこそ真実があり、現実があることに気づく。

終盤のBook Peopleの潜む森?は幻想的で濃密な詩情溢れる光景だ。
人間図書館の集まり。
本は焼いてしまっても頭の中にあれば誰にもみつからない。
そこには奇妙な管理社会から押し出され、理想郷が生まれていた。
独り独りが一つの作品を暗記し何時でも暗唱できる。
彼は「エミリーブロンテの嵐が丘」というふうに各自が呼ばれる。
わたしならなんて呼ばれようか?
こんなところに住みたい。

余命幾ばくも無い老人が甥の少年に本の最後の数節を口伝している。
「父は何にもまして死を恐れていました。そして父の予想していた通り、初雪が降る頃死にました。」

主人公がこれから覚えるのは、エドガー・アラン・ポーの「怪奇と幻想の物語」だ。
人々が書物を暗唱しながら交錯するうちに、しんしんと雪が降り始めた。


この世と想えないくらい幻想的な雪景色だ。

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愛・アマチュア Amateur

izabel.jpg

「この男を知っているか?」
「はい、知っています。」「よく知っています。」

出逢ったばかりの記憶を失った自分のことすら分からない男に対して
こう答えきる確信がとても素敵だ。
信仰心のような。

修道院の扉を開いたとたん、警察に誤って銃殺された記憶を失った男。
そこに駆け寄るイザベル(イザベル・ユベール)。

「知っている」とは「信じている」
ということか?

イザベルは、修道院を出て、書いたものはことごとく詩となってしまうポルノ小説家。
書く文は編集長に全く受け入れられない。謂わばキャリアは白紙状態。
イザベルは彼女特有の霊感からひょんな事で出逢った記憶喪失の男を助け匿う。

彼から逃れようとして彼を窓から街路へ突き落とした情婦とも出会い、イザベルは啓示を受ける。
彼女を救わなければならないと。
男はどうやらかつて裏組織にいた危険人物らしいことは知るに至る。
今や彼はその裏組織から狙われる身。
彼の情婦も組織から不正会計のデータを手に入れ組織をゆすろうとしたことから狙われる。
組織の会計係の男も情婦と手を組んだことから組織に狙われ拷問にもかけられる。
危うく逃げ出すが、保護された警察で警官を撃ち、組織から送られてきた暗殺者も撃ち殺し、警察に追われている。
そうして彼らは合流する。

奇妙な逃避行が始まる。
イザベルの霊感から
合ってはならない男と女が再び出逢ってしまう。


舞台はニューヨークというが、ヨーロッパの雰囲気である。
イザベル・ユベールのせいか?
情婦のエリナ・レーベンソンもまるでモンマルトルのキキのようだ。
20世紀初頭のフランスを感じさせる。
彼女の髪型もそれを思わせる。
良い色調だ。

物語の終盤、イザベルのかつていた修道院に彼らは皆で逃げ込む。
彼女はそこで彼の過去をイザベルに伝える。


イザベルは15年間修道院で”神のお告げ”を待っていた修道女である。
彼女は霊感を信じて行動してきた。
記憶喪失の男を助けること。
その男のかつての情婦を救うこと。
それに彼も従った。
僅かな日数であるが、イザベルと男は確かな時間を積み上げ共有してきた。
真っ新な者同士。
お互いに、これまでの歴史は無いに等しい。
まさに何もない時点に出逢ったところからふたりの物語は始まったのだ。


1995年はフロッピーディスクがまだ珍しいものであったか。
そこですでに情報はすべて外部ストレージに記憶された。
本体は空っぽでよい。

お告げ-情報は外からやってくる。

男は空っぽであっても、過去の情報(事情)は別の人間が握っていても、知っている=信じているは別次元のことなのだ。
感じる時には、確かに感じられることなのだ。
天啓のように。

「わたしは知っています。」


この言葉がこれほど重く響くことはない。


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高齢化現象

koureika.jpg
ここ最近、急速に展開している。
うちの地区の旧知の家が次々に取り壊されて行くのだ。

高校時代によく遊びに行った家。同級生の家。高校の先輩の住んでいた家。親同士が仲良かった家。
散歩でコーヒーを飲みに来たレストランまでの道程にまた新たに重機の入っている知っている家を見つけた。

今度は○○さん宅まで。

暫くの間、物静かに蹲っているが、庭の木々や雑草が白い塀越しにも、自らを主張し始めていることに気づく。
空っぽの家には何か反物質めいたものの気配の充満を感じる。
娘は怖いと言う。
それは夕方だからかも知れない。
植物は違う生々しい秩序に流されていく。
多肉がいたなら、無謀に暴れ始めることだろう。
人からのタガが外れてゆくとどうなるのか。


空っぽになる前は、そのうちから巣立った子供の車が家の前に泊まっているのを
時々目にする。
何故かハイブリットカーやリーフが目に付く。
その車が全く来なくなったら家は大方、空っぽなのだ。
あの人たちはどこに行ったのだろう?
そんなことはすぐ近所でなければ、分からない。
施設に入ったのか、子供家族に引き取られたのか、病院にでも入院したのか。
まだ元気で孫の世話を向こうでしている人もいるそうだが。
突然亡くなる人もいる。

彼らは日常から陽炎のようにぼんやりと姿を消す。
わたしも彼らについての記憶をほとんど失う。

大概、すぐに跡地には3軒くらいの建売住宅があっという間に建てられたり
駐車場になったりもしているが。
わたしがほんの少しの期間、絵を見てもらったことのある画家の家は暫くの間、空き地が続いた。
高圧送電線の付近の磁場の影響はよく言われるが、
草の生え方が荒々しいものであった。
そこに潜むものたちも。
多くはネコである。何度も目が合った。
何をしているのか?
トイレにもなっていたようである。
肥やしの増量だ。
一時の間、かなりの植物園になっていたものだ。

今は、草はきれいに刈られて児童会の御神輿置き場となっている。
古くからの繋がりは絶え、新しい人が次々に入ってくる。
それは自然の流れであるが、ゴミ置き場の掃除当番などに色々と支障が出ている。
情報通の奥さんが時折、消えていったかつての地区の重鎮たちの消息を伝えてくれる。
多くは訃報だ。

まだ家はしっかり残っていても、人気がもうとっくからない家が何件もある。
見た目は変わらないが。
塀の内ではきっと、、、
植物が本性を現し、猫が暗躍している。
高圧送電線の下。

ステイ

Naomi Watts

人が不慮の事故(または病)などで死ぬとき、取り敢えず目の前にいる人に何を願うか?
それが行きすがりの赤の他人であっても”Stay"と頼むのかも、、、。
恐らくそうだ。
”Stay!"
「君だけが僕を救える」
そして、最期に出逢った他者-だれかを取り込み重厚に交錯しつつ固有時間が展開して逝く。
よく走馬灯というが、これは残酷なまでに強いコントラストで錯乱する走馬灯だ。

このイメージの重奏と混濁と反復に意識が離れていきそうになるところをつなぎ止めていたのが、ナオミ・ワッツの演技-存在だ。
最期にストラップされるのであるから、途中は捩れながらも乗っかって行かなければならない。
彼女はこのような心理劇?によく出演しているが、こういった役どころが実に合っていることが分かる。
繊細で知的な優しさを的確に表現できる隠れた(隠れてもいないか)名女優である。
(お父さんはピンクフロイドのサウンドエンジニアであったそうだが、この映画もまさにサイケデリックである)。
ライアン・ゴズリングとユアン・マクレガーのセリフの絡みと重なり(双方から同じ言葉が同時に発せられる)など、音の面も映像に一体化し破れ目がない。

途中からプロットとは直接関係ないと言えるが、ユアン・マクレガーのズボンの丈の短さがどうしても気になった。
こういうソリッドなカットの細やかな繋ぎやアングル、様々な映像効果・補正の凝りに凝った映像であるから細かいこともすぐ注意が向く。このズボン丈は充分に目を引き付けて止まないものであった。

この作品は、映画によって何かを訴えるなどという、映画の形式を利用した思想の伝達などではなく、映画そのものである。
映画という形式=内容となっている。
であるから、もしこの映画は何を言いたいのか、という視点で見たら、つまり内容だけを抽出しようとしたら、言葉の還元不能性に行きあたるだけだ。

恐らく、夢を見るのと同等の体験が最適である。
夢はただ受け容れるしかない。
そして朝が来てふっと覚める。
死を前にしたVISIONも自動的にスイッチが入り、周囲の人間-時間から見ればあっという間に切れるのだ。
その狭間の美しくも痛ましい生きられる時間をわたしたちは垣間見た、と言えるか?

その儚さ、無常さ。

確かに”Stay"
「ここにいて」
これ以外に発する言葉がない。

今まさに逝こうとしている彼にそっと寄り添う2人。
ユアン・マクレガーとナオミ・ワッツ。
この瞬間の自責の念を抱えた魂の迷いが3人の世界を作って見せた。
その時の外界の時間にすれば2分程度であろう。
光の速度の物語である。



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アフターライフ

after life
わたしとしては、クリスティーナ・リッチは、アダムスファミリー以来、お久しぶりである。
シニカルで個性的な美少女であったが。(スリーピーホロウにも出てたか、、、)
ここでは冷たい母親に育てられ、とても愛情を受け止める域の低い小学校の先生になっていた。
神経過敏で痛々しい感じの女性である。
また、思い込みも激しく、あまり精気が感じられない。
何か諦観に似た感情も窺える。

その女性が恋人と、愛情を受け止められないことから発した喧嘩の後に、自動車事故で死亡する。
半ば自分に対する自暴自棄な運転での事故であったようだった。
すぐに医師の死亡通知とともに彼女は葬儀場に運ばれる。
そこから話は始まる、のだが。

その葬儀屋には数日前にピアノの先生の葬式で合ったばかりであった。
その時の葬儀屋の彼女を実態を見透かすような目つき。
正確には、ここから始まったと言うべきか。

葬儀屋と2人の地下安置室での3日に渡る数奇な生活?
「あなたは死んだ」と宣告されても意識のある特異な時間を漂うなか。
自分が一時的な昏睡の後に息を吹き返していることが感じられては萎む。
彼女にとっては、自分が死んだのかどうかが、唯一最大の疑問-問題であることに変わりない。
そしてあの事故は一体何であったのかも。
(どうやら、事故の後で筋弛緩剤か何か打たれていたようだ。
誰に?仕組まれて?)
最後まで、確証は得られず、葬儀屋との奇妙な距離感の中、葬儀の日までズルズルと過ごしてしまう。
やはり葬儀屋の「わたしは死者の声が聞ける特殊能力がある」という暗示をかけられると、もう引き下がってしまう。
懐疑的(反省的)意識が芽生えても吹き消されてしまう。
ただ依存的に退行的になるのだ。

生に確信のない者は、死に直面しても生の実感は希薄だ。
葬儀屋にも、「生きる価値のある人生を送ってきたのか!」
「もういい加減に諦めなさい。」とまで、叱咤される。
逆に見れば、明らかに彼女はまだ生きてるわけだ。
息もしている。脈はとってみたか?それにしてもトイレも行かないで大丈夫なのか?などこちらが心配になる。
しかし、注射を打たれながら、君はとっくに死んでいると言われ続けると、死んだ気になる。
生の感覚なんて所詮、言葉ー(無)意識の問題だ。
葬儀にむけた化粧や死装束などの準備が淡々と念入りに葬儀屋によって執り行われてゆく。
死に誘う暗示の言葉と儀式。
彼にとっては全能感に浸れる純粋な趣味-快楽の時間であろう。彼にとっての生きられる時間なのだ。

今のこれが、”アフターライフ”なのか?
彼女はアナーザーライフを考えてしきりに悔みもする。
何度か緩く脱出は試みる。
だが、外(自分の外)に出るには、やはり根本的に彼女には何かが足りない。
何をするにも朦朧としている。これは重篤な怪我だけの問題ではない。
また、彼氏に電話で助けを求めるたりもするが、彼氏にしても今一歩届かない。
こっちは超越的な視点から眺めているが、彼氏の立場からはあの辺で精一杯だろう、よくやった方だ。
デンゼル・ワシントンなら颯爽と乗り込んでゆくところだが、、、。
生命力その強度が段違いである。(少し映画を混同しているが、、、)

彼女は生きながらすでに死んでいた。
葬儀屋に言わせれば「死んでるのではなく”生”がない」のだ。
ずっと以前からこんなものだったのだ。
あの生の実質を抜き取るような母娘関係から逃れきれなかった。
そして、この女先生の生徒。
彼の母息子関係もただならぬ深刻なものである。
彼と決して語ろうとしない母親と実際に語り合うには、この葬儀屋のようになるしかない。
彼も死体に語りかける資質をもつ少年である。
恐らく彼は将来死体に雄弁に語りかける、葬儀屋の後継者的な存在となろう。

生きる意欲の失せた人間が目にとまる限り、白いワゴンは突如として闇に現れ続けるだろう。

幼い時に学んでしまった愛すれば必ず傷つく、ということ。それでも彼女は彼への愛に迷う。
葬儀屋から、踏ん切りがつかぬなら、彼のところに行ってみなさいと言われ、解放される。
これは彼女が根源的に抱く生への恐怖に打ち勝てるかのテストか?
しかし彼は分かっている。彼女は生きること、やり直すことが出来ない性向なのだと。
究極的な立ち位置でも選択すら出来ない。
生の悪夢に耐え切れず、部屋を出られない。「何も変えられない。」彼女は言う。
諦め横たわる彼女だが、最期に騙されていたことに気づき、抵抗は試みる。
しかし、死を怖がりながらも生を求めることができなかった彼女にもはや猶予は与えられない。

彼女はその気になれば自分を変えることが出来た。
しかし、生を恐れ、死を怖がり、葬儀屋に葬られてしまった。

助けに墓に向かった恋人-彼にもまた、白いワゴンが回帰する。


この映画、細部にわたり周到に演出が行き届いており、赤のコントラストもショッキングであった。



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クライシス・オブ・アメリカ (臨時発行02)

The Manchurian Candidate

原題は”The Manchurian Candidate”2004年度作品。
「傀儡」
まさにそれに尽きる。

「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督作品。
かのデンゼル・ワシントン主演とあらば、構えて見てしまう。
他にも大御所が沢山出ている。

湾岸戦争から始まる。
「あんたはクエートの夢を見るか?」
悪夢から覚めようとして、この物語は始動する。

ここでも、記憶の操作である。
確かに人間の精神における過去の記憶の比重は大きい。
そこを完璧に支配した者が、世界を制するということか?
そしてここでも、それを巨大資本で成し遂げようとする企業とそれに乗っかる政治家である。
国(国民)は、あらゆる情報操作により丸め込まれる。
そう情報操作だ。
しかし、これ-情報操作を完璧になせば、何も数名のクエートの何とか作戦投入兵士に多額の資本を費やした洗脳チップを開発して埋め込む必要もなかろうに、とも感じる。もっとも、それは実験の一過程に過ぎず、その先に大規模な一般への産業化を目論んでいたということなのだろう。
兵士は後からことごとく殺されていくのは、この実験の痕跡を消すためなのか。

とは言えいくらなんでも、というような背中のインプラントのチップは今ひとつ工夫がほしかった。
ちょっと科学的な信憑性に問題を感じる。
終盤、マルコ少佐がエレノアの携帯からの声で傀儡にされてしまったのだが、デルプ博士によって、脳の洗脳システムは解体されたのではなかったのか?わたしが精確に観ることができていなかったか、、、。

それにしても上院議員エレノア(メリル・ストリープ)のモンスター振りが圧巻である。
「プラダを着た悪魔」でもそうだが、強い女を演じたらこの人の右に来る女優はいまい。
黒幕としの貫禄も半端ではない。
まさに黒幕の典型である。
周りはもうタジタジである。
手の出し様がない。
しかし、背後で頼りない息子を大げさな手立てで操らなくても、自分が大統領になればもっと早かろうにとはつくづく思ったのだが、、、。
後ろで操るのが趣味であれば、ただ恐ろしい母だ。
ある意味、根源的な母親の無意識とはそれなのかも、、、という気もしてくる。
面白いのは、このタイプの映画の場合、黒幕-敵は最後の最後まで不可視であることが多いのだが、ここでは最初から最前面にド迫力で出ている。それで押し通してしまう懐も深いというか、、、。メリル・ストリープだから可能なのか。

英雄に仕立て上げられた息子のレイモンド・ショー(リーヴ・シュレイバー)の気弱さは良い対比となっていたが、内向する複雑な役どころを繊細に演じていた。
元上官のベン・マルコ少佐(デンゼル・ワシントン)との微妙な共感と友情も物語の絶妙な基調を成していた。
まさにデンゼルにも引けを取らない好演であった。
マルコ少佐の相談に乗る科学者デルプ(ブルーノ・ガンツ)もまるでアンソニー・ホプキンスばりの曲者の風格があり、ジョーダン上院議員(ジョン・ヴォイト)も少し出番は少なかったが、偉大なアメリカの政治家の姿は凛々しくストイックであった。更に、FBI捜査官キンバリー・エリスもメリハリのある颯爽とした演技が際立っていた。
これは魅惑的な個性をもった役者たちの卓越した演技力に支えられた作品でもあることも確かだ。


結末はあまりに哀れで悲しい。
リーヴ・シュレイバーの目の演技に一票。
勿論、デンゼルあっての作品であることは言うまでもないが。

検査入院に際して 迷走神経反射で感じたこと (臨時発行)

2015051418073315f.jpg
*担当の若い女性医師に書いてもらった図。

6/3に今回の検査結果が分かる。
これまで振り返ると随分時間はかかるものではある。
が、手順を踏むのも面白い。


手術をして副腎の片方を摘出し、血圧関係の薬からすべて解放されるか、
副腎の摘出はできず(両方の副腎から異常な量のホルモン分泌がなされていた場合)、服薬対応となる。
その場合も一般的な血圧降下薬ではなく、アルドステロン拮抗剤 が開発されているため、それを使う。
どちらにしても、はっきりと今後の方針が見える。
そのこと自体は有難い。

自分の身体について、すっきりしないで過ごすことがいかに生活の質-QUALITY of LIFEを下げる要因となるか。
1.自分自身としての身体感覚と死に対する考慮において。
2.他者-周囲に対する在り方として。
ひとこと、Seinとして。

今、まだ咳込(激しい発作的なもの)が残り、負担が少なからずある。
不安材料である。
生はある意味、不安そのものの状態を指すものだが。
それでも続行する。
生そのものが。
意識が途切れない以上。

まず、3次元+時間的存在として受肉してある以上、身体的な線で強度を保ちたい。
サプリメントなどにも気を配り、基礎的な生命線の維持または僅かな底上げを試みてはいる。

わたしは何人もの哲学者が自分の病苦に向き合う姿を読んできたが、、、
みな最期に病気に対して戦う意思を表明していた。
私にとってはとても意外で、同時に共感もできた。
彼らは元気な間、自分の生など考慮にも入れず、他人の死に対しても極めて論理的であった。
少なくとも、自分において生きながらえることより、生きることを強く望んでいた。

しかし、単に生きることこそが必要なのだ。
単に生きることが重要というより必要なのだ。
結局は。


「迷走神経反射」というものを初めて経験した。
カテーテルを引き抜く時に不意にそれは起きた。

それが何やら新たな認識を得るなどという機会では全くなく、単にひどく気持ち悪い思いをしただけであった。確かに生に反する、明らかな負の水準であり、不快のうちに衰滅する予兆を強く感じるものであった。

次の状態に移行するとき、こんなに風情(詩情)のない状態で移りたくはないものだとは漠然と感じた。
しかしこんなものなのかも知れない。

よく、臨死体験をして眩い煌びやかな世界を体験して人が変わって降りてくるケースをよく読むが。
その後しきりに人を集めて、セミナーを開くのもどれだけ途轍もない体験をしたのか察することは出来る。
悟りの瞬間なのか?

物理的にもそろそろその次元が明かされるはずだが。(高次元の解明)
死後がそんなものというなら、せいぜいモノに大いに働きかける機会の溢れているこの次元に拘りたい。

この曲率0の平面こそ面白い。

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一ヶ月ほどのお休みをします。

入院、治療などのため、少なくとも1ヶ月のお休みをします。
また、戻りましたら、ここにお知らせします。
その間も皆様のブログには、少し余裕があれば立ち寄らせて頂きます。

ということで、今後とも宜しくお願いします。

ゴーストライター

ghost02.jpg


主人公がかなり普通の人である。
周りの人間-妻や秘書の女性達はかなりのやり手である。
と言うか、野心の塊で大変危険な連中である。

この話は最初から仕組まれていた。
元首相の自伝は、何にどのように利用される目的であったのか。
その首謀者は誰なのかが、物語の最後には深く印象的に浮き彫りにされる。
原稿の紙吹雪が舞い散る中、余情をもって染み渡る。

「わたしは政治には疎いが大切なのはハートだ」とか言ってる男に仕事を任せること自体まず最初から怪しい。
勿論、主人公はプレゼンのおかげで勝ち取ったと思っている。
そのこと自体は正しいのだが。

最初だけ元首相ラングの自伝のゴーストライターに抜擢され、ラッキーかと思いきや。
殺された前任者の初稿を推敲しつつ、取材や彼の残した資料に当たるうち、深く首を突っ込んでいってしまう。
それも不器用に、行き当たりばったりに、危なっかしく。

見ていて、これじゃいつ消されてもおかしくない、とこちらが不安になってくる。
アメリカ東海岸の孤島という舞台設定である。
不穏の押し寄せる風景描写が半端ではない。冬の寒さも肌にじわじわ伝わる。
そう、物語への入り込みは主人公への心配からであり、彼に寄り添う形で流れに乗ってゆく。
周りははっきりした企みで動いているのに、彼はあまりに無防備なのである。

そもそも危険性から言ってもラング氏の別荘に籠って執筆すべきなのに、何でわざわざ安ホテルを外に借りているのか。
原稿の持ち出しは禁じられているのに、外に部屋を借りる不合理は実に不可解であった。

それにしてもラングという人物、テロに対する戦いと言いブッシュの飼い犬などという有難い称号をもらってアメリカに絶対追従したかのイギリス首相そのものではないか。パロディにもなってない。
ここまで分かりやすい、あからさまの設定で出してくるか。
本心の分からない掴みどころものない人物ではあるが。

映画ではCIAに取り込まれ、自国のためではなく自分とアメリカの利益となる方針をとってゆく。
行き過ぎた親米路線やイスラム過激派への拷問加担によりイギリス国民から非難され、ほぼ戦犯扱いにされている。
デモは国内に起こるは、息子がイラクで戦死したことで強い殺意を覚えている父親などが近くを徘徊している。
しかし最後に何であんなにあっけなく撃たれてしまうのか?
専用機から降りるところで、これといった警備すらないのか。
明らかに自伝とセットで仕組まれていた事が分かる。

ラングと大学時代の同胞の教授(CIAと繋がっている)が主人公を最後に車ではねさせたのかも分かる。
秘書からのヒントで前任者が原稿に施したトリックが解けてしまったのだ。
そもそも秘書はなぜわざわざそんなことを主人公に教えるのか。
この物語、主人公だけが、呑気な素人である。
と言うか、間が抜けている。
解いた真実を紙片に書いて、こともあろうにラングの妻に教えてしまうのである。
亡き夫の自伝出版会のスピーチの終わったところで、彼女はそれを手にして表情を変える。
がすぐさま例の教授が耳打ちする。
「大丈夫、この始末はすぐにつける」とでも言ったか。

この秘書や妻には、この主人公ではどうあがいても(あがきもしないのだが)、勝ち目はない。
しかし、それはこちらが俯瞰的に物語を眺める視座にあるからで、実際ただのゴーストライターが周囲の企みに対する感覚自体、持ち得るはずはない。
これは、単なる平凡なライターがある計画実行の為に利用され、消されただけの話なのだ。

全編暗雲垂れ込む、ただならぬ緊張下なのに、弛んだ感じで話が進行してきたが、流石に終盤はテンポが速い。
映像の撮り方もやはり違う。
特に、画面から消えている部分にこちらのイマジネーションを向けさせ暗示的に表現するところなど、この作品に重厚さを持たせているところだ。

ともかく、終始こちらの目を惹きつけ続ける、何か余裕さえ感じさせる映像の作りには感服する。

あの邸宅の窓からの圧倒的な眺めはCGのようである。
ロマンポランスキーはアメリカには入国できないため、かなり抽象的で無国籍な場所を作り出したが、見事に成功していた。

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”M” ~ピーターローレ

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メトロポリスの監督、フリッツラングによる初の1931年度トーキー作品。
85年前、とは一体何をか意味するものか?
今年作成されたフィルムとしても斬新さに圧倒されるであろう。
フィルム・ノワール ”film noir”の先駆けとされる映画。
確かに退廃的で虚無的な緊張に満ちている。
グリーグ作曲の劇音楽『ペール・ギュント』第一組曲の一節「山の魔王の宮殿にて」が初っ端にかかり、犯人”M”の口笛でも作中何度も聞かされる。
コントラストの効いたモノトーンの映像とともに異様に物語の抽象性と異常性も高めていく。

少女の持っていたボールが音もなくころがり、空に人型の風船がゆらゆらぎこちなく登る張り詰めた恐怖。
少女殺害をこの光景に凝縮するフリッツラングのセンスには脱帽する。
彼の映画芸術に対する姿勢をこの一端にも感じる。
このような視座-手法はフェリックス・ヴァロットン(緊迫した神秘的な場所で少女がボールを追いかける絵画)など無意識的にせよインスパイアーされた芸術は少なくないと思われる。
また、ラングに対するオマージュもそうだ。
シュルレアリスムの作家には思い当たる作品が幾つもある。

「Mörder」の頭文字”M”を背中に白チョークで付けられた犯人。
被害者少女が自分の店で風船を買ってもらったとき、犯人であろう男が吹いていた口笛に気づいた盲目の老人が機転を利かせて仲間に頼んだことだ。
それを境に犯人は人々に追い詰められてゆく。
”M”というのも象徴的だ。
彼もまたmassの一人でもあり、MADの一人でもある。
また誰もが”M"である。
様々な意味で。

それまであらゆる手を講じても、少女惨殺を繰り返す犯人が警察には割り出せなかった。
人々は互いに疑心暗鬼となり、街は異常な閉塞感に包まれていた。
BGMがないことがその効果を高めている。
(時折流れるのが犯人の口笛だ)。
犯人をある事務所ビルに追い詰めたのは、街のギャングたちであった。
彼らも警察の取り締まり強化により、仕事に大きな支障が出ていたのだ。

面白い構成は、警察署内の会議とギャングの会議がパラレルに行われていく光景だ。
ともに内容は犯人をどうやってつかまえるか、である。
コメディが散りばめられているのも、作品を過剰に重苦しくさせない仕上げを生んでいる。
そして隙がない。

街中の人間に追い詰められ、事務所の入ったビルに小動物のように逃げ込む犯人。
ついにギャングに捉えられたピーターローレの迫真の怪演が素晴らしい。
舞台の古典劇さながらのギャングによる地下裁判劇。
そこで自身を率直に精確に内省して訴えるピーターローレ。
勿論、救いようのない言説である。
その業の深さと危うさから、ある意味悲劇の主人公にも見えてくる。
また、弁護人のギャングもしっかり役を果たし、盛り上がる。
罪とは人間とは罰とは、、、その問い自体が、いやが上にも浮き彫りになる。
最後に裁判長から死刑が宣告されるが。


ピーターローレの出る作品をまた観たくなる映画でもあった。


ジェイコブズラダー

Jacobs Ladder

時間というものは意識にとって存在するものであり、それ以外の何かではない
この映画には客観的に流れる時間枠というものはない
純粋意識-時間が写されている
そこに夢も現もない
あるのは意識だけだ

この映画は
ジェイコブズが光の眩く射す梯子(階段)を事故で死んだ息子と手を取って登ってゆく一瞬が描かれている

   ヤコブの梯子
   天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子


ベトナム戦争でいきなり始まる
ジェイコブズは銃剣で腹を刺され瀕死の状態でヘリで不気味な野戦病院に連れて行かれる
悪夢からまた別の悪夢へ次々に誘われ
それはあたかもワームホールをいくつも通り抜けるような
めくるめく逃れようのない苦痛が続く

パラレルに異なる生活を同時にしているかのような
そしてどこにでも現れ、付きまとう異形の悪魔たち

あの日にいったい何があったのか?

怯える主人公たち
裏を探ろうとすると
車ごと爆破される
親しい主治医も殺され
弁護士にも誰にも相手にされない

やがて怒りを呼び覚ます「ラダー」という薬を軍部が開発・実験を行っていた
軍部が勝てない戦争に業を煮やして軍-彼の所属する部隊に使ったという
その結果、味方同士で殺しあう壮絶な戦いが起きたと
研究者の告白を聴かされる


彼はほとほと疲れきる
(もうそんな幻視に付き合ってはいられない)
誰もいない自宅に戻り、ベッドに腰掛けていると
愛しい息子が独り、階段の下で遊んでいる



「穏やかな心を持てば悪魔は天使となって地上から魂を解き放つ」


彼は静かに息子と階段を登って逝く

音楽がひめやかでよかった





ゼイリブ OBEY

obey.jpg

ミュージシャンでもあるジョンカーペンター監督作

いかにも低予算の薄暗い雰囲気のトーンに染まっていて、これがなかなか心地よい
流れ者の日雇い労働者の主人公がたどり着いたバラックの村から近隣の街へ、比較的狭い範囲で物語が進行する

不景気下にアジテーションと妄想が増大して錯綜する
ハッカーと狂信者の光景に見えて、、、

教会に隠れ何かを作る人たちがいる
実は強大な何者かがTVを使ってメッセージを流しているらしい
シグナルで人を洗脳するようだ

それに抗するレジスタンスの地下組織
教会にミサをテープで流し、中では段ボールに実験道具
秘密裏に制作されるサングラス

噂、暴力が蔓延する
しかし単なる世紀末。未来に直面する不安からではない何かがある
ヘリによる監視
ブルトーザーと武装警官による村の掃討作戦
尋常ではないと流れ者の主人公は気づく

彼が教会に潜んでいたレジスタンスの作ったサングラスをすることで事態が急変する。
本に記されたシンプルな洗脳文が鮮明に浮かび上がる(モノトーンで)
宣伝の看板にも隠されたサブリミナル効果「おとなしく素直に眠れ」と

「支配者」の存在に気付いてしまう。
民衆の中に彼らの髑髏のような顔がはっきりと見分けられる
シンプルな主人公は、いきなり突っ走る

彼は拳銃でエイリアンを撃ち殺しながらも独特の間合いで駆け抜ける

妙に緩い
TV局勤務の女性と妙な間合いで接触し彼女の家に転がり込む
サングラスはひどく疲れるようだが、それにしても隙だらけだ
そして緩い流れ

妙なところでかつての仕事仲間と乱闘が起きる
「サングラスかけろ」「いやだ」
職を失いたくないし面倒には関わりたくないという相手にどう納得させるか?
でここまで殴り合い、プロレス技かけるか

それが異常に長い
10分くらい続いたか、それまで何やってたか忘れるくらいの尺だ
へたをすれば、ここで死ぬ
これは、新たな物の見方を拒否する人間の保守性・抵抗の根強さを描いている場面なのか
単に監督がこういうシーンが好きなのか

無理やりかけさせられた相手がしかしすぐに納得する
アメリカらしい
そうアメリカンコミックの世界を彷彿させる
独特の空気感である

それからは覚めた悪夢が進行する
いつから彼らは地球にいたのか
急に父親が人が変ったように粗暴になった思い出を語る主人公
それに答えて「奴らはこれまで地球人同士を敵対するように仕向けてきたんだ」と怒りを示す相棒
エイリアンの僕滅を誓う彼はもうすでに人類愛に満ちている

2人は時計に隠された転送機能で地下のエイリアン組織にまんまと潜入する
そこでエイリアンと人間のエリートが手を結んで利益をむさぼる光景が顕わに
エイリアンは地球を資源として使いきろうとしている
しかしそれに乗っかる地球人も多いようだ
裏切ったかつての仲間が組織の心臓部を2人にすんなり案内してくれる
「もう実は国なんてないんだ」
「連中に協力すれば殺されないし、金も儲かる」
「強いものと手を組んで何が悪い」
華氏911で観た構図にも十分に重なる

よくある地球人対征服に来たエイリアンではない
地球-同胞を自らの利益のため裏切った地球人との戦いでもある
主人公が気を許したTV局の女もまさにそれであった
ここで、面白いのは重力レンズを利用し彼らの星にアタッシュケースを下げてスッと旅行する地球人の姿だ
このなんともあっけらかんとした光景がまさにこの映画の主調である

最後に残ったレジスタンスも壊滅し主人公と相棒2人だけの抵抗となる
激しい銃撃戦がひたすら続いた果てに
主人公と相棒が命を賭して、洗脳電波の送信アンテナをついに壊す


すると髑髏のようなエイリアンの顔が街中全ての人々に割れてしまう
誰もが擬態(乗り移っている?)エイリアンが普通に見えるようになる
(そういえば擬態して成りすましていたのか、体を乗っ取っていたのかは判然としなかった)
みんながその正体に唖然とする

しかし話の筋からいえば、彼らに協力しているあの主人公たちを窮地に陥れた女のような地球人の正体は分からない
そっちのほうがむしろ怖いはず
それこそ見えない恐るべき敵である

まだこの物語は何も解決していない
この現実のままである



ホリーマウンテン

holly.jpg

The Holy Mountain
メキシコ・アメリカ
1973年度作品。
アレハンドロ・ホドロフスキーという監督は有名なので名前は知っている。
だが、作品を見たのは初めてだ。
ルネ・ドーマルの『類推の山』原作
アレハンドロ・ホドロフスキー監督・脚本・音楽・美術・衣裳

アレハンドロ・ホドロフスキー、、、錬金術師
ホラシオ・サリナス、、、盗賊
ラモナ・サンダース、、、婦人
ホアン・フェラーラ、、、フォン
アドリアナ・ペイジ、、、イスラ
バート・クライナー、、、クレン

監督の思想を余すことなく表現した映画なのだと思われる。
古臭さは感じないし、大変お金を使ったであろう凝ったセットである。
すぐに劇中にぶっ壊すが、映画のゴージャスな醍醐味であろうか。
しかし、ショッキングな映像かというと、昨今のその手の映像に慣れた感覚からすると、刺激はそれ程でもない。

ただ、長かった。
辛くなるほどの長さであった。
もう少し短く編集してもらえまいか?

せめて後40分は短くしてもらいたい。
途中で意識が朦朧としてきて、計20回くらいポーズして、飲み物や軽い食事をしたりして、ようやく見終えた。
終わった後はほっとした。
後日、途中から見ようなどと思ったら、まずもう二度と見ないことは確かである。

徹頭徹尾有り得ない街で有り得ない話が進行するが、考えや感覚的に同調できれば映画というものは、いくらでも身を任せて観て行ける。

この映画は、共鳴できるところが1秒たりともなかった。
60年代終盤から70年代にかけてのサイケデリックなカルチャーが強く反映されている。
あの辺のものは、いまでも新鮮さを感じるところがある。(相当魅力がある)。

あの時期のヒッピームーブメントやオカルト、カウンターカルチャーのすべての波動がわたしにとっては、くすぐったくも刺激に満ちて心地よかった。
その頃のもっとも優れた成果は、ムーディーブルースに感じられた。
レッドツェッペリンのジミーペイジもピンクフロイドとムーディーブルースを一押ししていた。
(懐かしい)。

73年と言えば、次の年には、キング・クリムゾンの”レッド”が出ている。
それを考えると、ロックミュージックの方が遥かに強度がある。
刺激は比べようもなく強い。


この映像手法で、有効な破壊力は当初からなかったと思う。
あれば、いまでも普遍的な力を少なくともわたしにも及ぼすはず。

セットや小物、機械などディテールに渡りよく出来ていた。
町並みや建造物も動物たちもフリークスたちも徹底している。
そう徹底したナンセンスにも。
スプラッターなところも含めた監督の偏執狂的な拘りには、見る価値はある。
これほどそれらで、てんこ盛りな映画は他にないであろう。
力作であることは分かる。

しかしボリュームの点では圧倒的であっても、迫るものがない。
普遍性や独自性があれば何らかの引っかかりを感じる。
その点で言えば、わたしにはかなり退屈であった。

エンディングは有名なところらしいが、わたしは最初からその距離で見ていたので、特に何も感じなかった。
ピエール・ド・マンディアルグは小説「大理石」の中盤でそれをやってのけた。
それでも読者のイマジネーションが希薄化しない強度が稠密に保たれていた。

映像が精神にくい込む力は、この手法だけでは限界を感じる。
わたしはむしろ、「船を編む」などのような姿勢に遥かに力を感じる。


ウィズネイルと僕

Withnail and I

ジョージハリスンが絡んでいる、と言うことで見てみた。
いや実は迷った。
どちらにころがるのか、不安があったのが正直なところ。
(絡むというか制作総指揮だ。ジュディーフォスターがコンタクトで果たした役割)。

しかし見終わってみると、、、。
なんと渋い映画ではないか。
ペーソス溢れる本当に味わい深い作品だ。
人生というものはことごとく、こういうものなんだという感慨がじわじわとこみあげてきた。

淡々とひとの無力さと切なさがあっけらかんと描かれてゆく。
何のドラマもない。
曇り空が広がり、、、。
ロンドンは、あんなに雨ばかりなのか?

何からもとリ残された2人の売れない俳優。
別に売れなかろうが、俳優であろうがなかろうが、寄る辺ない身は誰もが似たようなものだ。
それを意識する度合いによる。
しかし、とてもやっていけないくらいにどん底では、荒むばかりだ。
アルコールと薬に走る。溺れる。

郊外に逃げてみても、何がどう変わるものではない。
あたりまえのことだ。
環境の問題ではない。
却って厄介事が増える。

選択の余地がないのだ。
孤独は誰にもどうにもできない。
プライドも捨てられない。
しかし自分たちは常に一方的に選別される身なのだ。

何であろうが、自己意識(イメージ)がどうであろうが、人は選ばれなければ生きてはゆけない。
認められなければ、一歩が踏み出せないのだ。

やがて僕が役にありつく。
相棒のウィズネイルとは、お別れということになる。
取り残される彼はシェークスピアをひとりで演じ、拍手の代わりにシャワーのような大雨だ。

そんなものだ、と思う。
僕はまたいつかウィズネイルを思い起こすことがあるだろうか?
あっても、思い出したくない記憶かも知れない。
いや、監督の若いころの実体験が元にあるのだとしたなら、、、
何とも言えない苦くも愛おしいトーンに染められた思い出に編集されるのだろう。


ちょうど、この映画のような。


ジョージハリスンの”While My Guitar Gently Weeps”が聴けるというのもこれを観る理由の一つだったのだが。
ほんの数秒遠くのラジオで鳴っていたような気がする。

それはないよな。


高尾山に登る

Takaosan.jpg

娘たちと娘のお友だちの家族と一緒に、7人で高尾山に登った。
高尾山に行くまでの電車はもう問題ではなかった。
長女の電車酔いは、最近すっかり見られなくなってきた。
そこは嬉しい。

行きは2人乗りリフトに乗り。
帰りはケーブルカーに乗り。
残りはかなり歩いた。
デコボコの木の根の這い回る土の上を。
彼女らのペースで。
しかし相当、脚力も付いていた。
軽々とランダムな凹凸を乗り越える。
特に大人がセーブして歩く必要もなく。
山道を走り出すのを何度も止めたほど。

樹々のお陰で涼しく歩けた。
しみじみ観察しなくとも、とても植生が豊かであることはすぐに感じ取れる。
霊木もいくつかあり、次女が”トトロで見た”と大きな声で叫んだ。
人だかりであったが、しんとした。

何も大変な感覚は無かった。
とても楽しめた。
標高599mで道のりが子供たちに適していて、ハイキング感覚。
娘たちには、丁度良い運動にもなった。
冒険にもなった。
わたしにとっても。

長女はリフトは随分気に入ったが、ケーブルカーは電車に似ている事から、はじめは乗るのを渋った。
が、普通の電車でない事が分かり、景色を見て風を受けて、充分楽しんでいた。
どれも待ち時間と行列はかなりのものであったが。
猿は娘たちが怖がったため、猿園の前はスルーした。

「六根清浄」関係が充実していた。
以前こんな石を見たことがない。
天狗がいっぱいいた(気がした)。
もっとも、わたしが最後に来たのは10年以上も前である。
今流行りのパワースポットが綺麗に出来上がっていた。

女子高生にも人気のパワースポットである。
仏舎利の建つ真言宗の薬王院である。
修験道の霊山でもある。
相当なリニューアルである。新しくてピッカピカであった。
石や建造物の全てが新しかった。
石車の回り方、回し方などがあるようだったが、娘たちの行く方向に適当に回って、回して降りることになった。
後で、「六根清浄」と唱えながらやることを思い出した。
でも108回は無理だ。
ただ何となく煩悩から解かれた気分は味わえた。
感覚も少し冴えた気分だ。(六根清浄自体それを狙うものだった)。

頂上には、よく集まったという感じで人が溢れかえっていた。
ビジッターセンターがあったのは初めて知った。
うちの双子は、展望台や望遠鏡には凝っており(家では顕微鏡だが)、レンズ越しの光景も楽しんでいた。

絶対食べようと思っていた「とろろそば」はお昼持参のため食べられなかった。
わたしは終始朦朧としていた。
だが、歩くことは苦にはならなかった。
ここでなければ、えらくキツイ距離のはずである。
そう、距離ー空間とはまったくもって質であるから。


やはり霊山であるからか。
多様な植物のおかげである気がする。



5月 さつき

adachi.jpg

菖蒲月~あやめつきとも呼ばれる。
今日はノヴァーリス の誕生日である。
レオナルド・ダ・ヴィンチが亡くなった日でもある。


何も生じず何もなくならず、何とか持ち堪えて過ごしたい。
何も起こらずに終わって欲しい月である。
金環日食が見られる月。いや部分日食か。
地球が、天体が動いていることを、少しばかり気にする。
しかしわたしの気がかりは、地球がピアノ曲線を描き複雑極まりない運行をしていることとは、恐らく別にある。

端午の節句
うちは娘だ。
しかし、こどもの日。そう5月は子供の月だ。
落ち着かない。
心が騒ぐ。
脈動が一定しない。

新緑のせいか、何かの気配が充満してきて呼吸が苦しくなる。
新しく萌える季節に。
爽やかな風をひたすら待ち焦がれる。
ただ、日が強く暑い。
しかし芯は凍えている。

たまらず、、、
外に出た。
夜でも緑の気配が漂う。
漆黒が欲しい。
この明かり。


月だ。
月の冷光。
気持ちがスッと覚めてくる。
わたしの中心を置くところ。
最も確かなもの。
少しずつ遠ざかりながらも、、、。
確かな魂がそこに優しく重なってゆく。
救われる場所。


月。


子供の頃の、天体望遠鏡が欲しい。
裏側を捲って見れないけど。
だからこそ
粋である。


moon.jpg



今月は入院と通院で埋まる月。








ダヴィンチコード

code.jpg

ひたすら隠され続けた戦いの歴史が明かされる。
聖杯を巡っての。
聖杯とは何か?
ダ・ヴィンチの絵画を読み解いてゆく。
究極の形態ー象徴としての解読。

これまでの歴史ー勝者の物語に対し、この映画は隠された真実を解き明かさんとする。
フィボナッチ数列、アナグラム、シンボリズム、、、そう象徴・暗号的にしか語り得ないものを通して。
通常の言語で語り得ることに真実がもはや宿る訳がない。
われわれの世界はもっと深い闇を孕んだ分厚いものだ。
複雑な概念と抽象的なイメージに満ち満ちている。
それを丸ごと救い出したい。

一義的な言語の暴力と退廃から。
執拗に襲いかかる権力の象徴ーパリ警察からの逃避行。
歴史の自己生成力とでも呼べるか、その強度。
しかしその逃げ場は垂直性にある。
飛行機で唐突に逃げる。
逃げても内側から次々に食い破られていく。
それでも逃げて、見つけ出す。

もしかしたらそれが影の歴史で絶え間なく繰り広げられてきた戦いなのか。
これもそのひとつの再現なのか?
その過程に葬られた多くの真実ー言葉。

ここで特に印象に残ったことは、過去の女性の大虐殺の闇の事実である。
自然に一体化した女性。学者。司祭。神秘主義者。自然崇拝者、、、とあったはず(ダヴィンチコードには)。
何百万人の女性の虐殺がなされてきた、という。
異教性を徹底的に削除する過程で今の文化の基礎である父権的社会が確立した。

わたしは現実の女性を無条件に崇拝する気など全くない。
むしろ逆である。
しかし、真の女性性は今最も重要な価値を顕にしつつある。
今まさにアクエリアスの時代を迎えているのであるから。
わたしは水瓶座である。
自らの内に深く沈潜しなければならない。
それが何事にも優先する行為となる。
もう時間の浪費は許されない。
全てのくだらぬ権力の塵芥を抹消して、地下に目を向けなければならない。

主演のTom Hanksの視線の先を追って。
幻視しなければならない。
ルーブル美術館の上向きのピラミッドと下向きのピラミッドの交差する角度にできる六芒星の示す地下深くに眠るマグダラのマリアを。
わたしも幻視しなければならない。
身体の地下深くに。
照準ー角度を調整して。

歴史を断ち切ること。
全てを疑い尽くし。
自己に沈潜すること。

ひたすら垂直に。







”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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