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GOMA28

Author:GOMA28
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バタフライエフェクト

最近は、あの時こうしていたら、などと述懐するようなことは無くなった。
後悔の念など微塵もない上に過去という物語に興味関心がない。
今を受け容れ生きる以外になにもない。
それ以外の存在形式がない。
今以外にこころを沈潜させる場所がないことを深く実感する。

何かを思い出そうという気持ちも起きない。
今を生きるのに、過去の何かを持ち出す理由がない。
何もないのだ。
何もないのに過去をでっち上げることの馬鹿らしさにはついてゆけない。

過去の実体化はあの時の何かを変えたいという気持ちが起こすもの。
それで今が何とかなるのか?
あの時など無いにも関わらず。
何かを変えることは、全体を変えることになる。
だからバタフライエフェクトなのだ。
全ての物事は関係性の網の中に現出する。
意識化出来ることなど1%もあるだろうか?
そもそも記憶とは何か?
それが最も当てにならない。

過去の実体化により、持続する混沌とした生成過程のどこかを物理的に切断した空間にアクセス出来たら、という憧憬が生まれる。
これは、その幻想・妄想の閉鎖空間内の物語を描いた映画か?


この主人公は少年時代によく記憶が飛んだ。
どうやら飛んでる隙に重大な事が起きているらしい。
今起きている問題はその時に起きたことが重要なファクターとなっている可能性が高い。
そこで、空白の時間について真相を探ってゆく。
当たりが付くと、当時付けていた日記を見てその時に時間移動し、そのシーンを変える。
そして戻ってみると、また別の不都合が起きていて、そこの修正のためにまた飛ぶ。
これを繰り返す。
脳内に起きている妄想劇であればこれは成立するだろう。
ディテールまでよく行き届いた物語が描かれている。
主人公はなかなかの作家である。
いや脳が勝手に現実をくまなく編集してしまうのか。
そうなのかも知れない。
現実なんてそんなものだ。

果たしてそんなものか?
現実は掴みきれない。そんなものではない。
舞台ではない。書き割ではない。距離はない。全てがひとつのタペストリーである。
現実の分厚さに圧倒されつつ、その意味を実感するのではなく、変更を試みようとする意識とは?
大切な者を守ろうとした時か?
それが可能かどうかという問題ではなく、その方向性でモノを考えること自体、お粗末だ。

単なる狂気以外の何ものでもない。
わたしは断じて共感しない。

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パトレイバー 特別編

mano.jpg

パトレイバーというものをこれまで見ようとも思わなかったので、今回初めて見てみた。
最新作、首都決戦というのを封切るに当たりその前日を狙ってTVで放送されたものだ。
映画にしては妙な構成だな、と思ったら特別にこれまで発表した短編7つを編集してひとつに組み込んだそうだ。
それをもって、特別版なのか?
これはまた大サービスである?
しかしそれをやる意図とは企画とは何か?
新作を映画館上映するにあたり、それまでのパトレイバーをしっかり復習させておいて、その続きが見たいと言う動機付けをさせ封切りに持っていこうということか。

7つの短編をひとつに編集するなんて、大変な労力と言う前に、そんなことが可能なのかとも思う。
実際に見てみると、ひとつの映画というより、オムニバス映画風だが。

エピソード的には、いろいろな内容がせめぎ合っていても良い。
エピソード間に繋がりがあろうかなかろうかはどうでも良い。
断片的に、登場人物の誰を主体にして、視線が代わって描がかれようが、こちらがついて行ければ構わない。
全体を通しとてもコミカルなアニメ風なタッチで描かれた実写という感覚だ。
ユーモアやギャグが特にアニメ的表現である。
押井守監督の映画は、「イノセンス」「攻殻機動隊」などのアニメは非常にシリアスで緊張感のある実写的な作りである。
それに対しこの実写版には、彼のアニメとかなり対照的な制作姿勢がみてとれる。
意図的に制作方法を変えて撮っているのだが、その理由・必然性は分からない。

実写版とアニメ自体をそのように形式的に分けて(逆転して)撮る方針なのかどうかは知らない。
その判断は、この監督の映画を、特に実写版を、もっと見てからにしたい。
パトレイバーシリーズを特別なものとして描いているのかも知れないし、これについてこれ以上言及できない。

さて、この映画、ハロプロの真野恵里菜やエキゾチックでスタイリッシュであまりにクールな太田莉菜が際立つ存在である。筧利夫も彼独特の雰囲気で物語の基調を作っており、総じてアニメチックで、典型的な表現に対するオマージュというかパロディめいた描写が窺える。
カッコ良すぎる太田莉菜の銃アクションや師弟対決など特に。
実際、様々な要素が詰め込まれている。
真野と福士誠治の絡みはそのまま軽いラブコメアニメのノリだ。
テロリストも昔やっていたTVの「さそり」など思い浮かべる、既視感たっぷりの配役だ。

何というか監督の楽しみ、趣味に付き合わされている感も拭えない。
「警視庁警備部特殊車輛二課」という冗談にせよ、
趣味特有の執拗なディテールへの拘りもメカやその薀蓄等に見られる。
そもそも、レイバーというガンダムめいたあの人型スーツは予算難の警視庁で実際どの程度の存在意義があるのか、と考えれば、真野恵里菜に操縦してもらう目的以外に思いつかない。
元々感情移入等しようもない作品ではあるが、われわれもそれに乗っかって楽しめれば良いではないか、ということかも知れない。

ならばそのスタイルに徹底的に拘ってもらいたい。
太田莉菜の超クールなアクションと、真野恵里菜の文句吐きながらのレイバーによる奮戦である。

ただし、また見ようと思うかどうかは、微妙だ。
ハロプロと言えば、矢島舞美が出るなら、もっと面白そうな気がする。
アクションが厚くなるし。
これはあくまでも押井さんの趣味の世界だから、どうこう言うレベルの話ではないが。

pato.png








魔女の宅急便 実写版

kiki.jpg

アニメ映画は見ている。
しかしほとんど覚えていない。
今回の実写版はそれとの比較では観ることができない。
この映画のみでの感想となる。

もともとこの「魔女の宅急便」は、宮崎駿のオリジナル(原作)ではなく、児童書ですでに刊行されていたものだ、ということは知っていた。シリーズものだという。

しかし、それとも比較はできない。その児童書は見たこともない。
それであくまでもこれだけ、である。


ひとことで言えばファンタジー映画であろう。
架空であることは、しっかりその構造を作らないと今ひとつ入りにくくなる。

まず、この映画、場所も時代も判然としない。
しかし、物語の光景は、不思議にとてもエキゾチシズムがあり懐かしさに溢れている。
様々な家具や小物、街の建物、広場、海の見晴らし、など妙な既視感をもって沁みてくる。
ストーリーは、魔女見習いの素直で前向きな少女が、いくつもの試練を乗り越え成長してゆくという、あまりにも王道をゆく物語枠だ。

昭和のまだ一般家庭にパソコンが普及してない頃の、どこか教会などが街の真ん中にある西洋文化の影響大の島のような、、、。(なんだかドイツ村のある宮古島を少しばかり連想した)
こちらの身体感覚が馴染んでくると、登場人物たちもそれぞれ生き生きと動いていた。
当初抱いた環境に対して話が枠にハマりすぎている居心地の悪さは、次第に安らぎに変わっていった。


出てくる人たちが皆、人形的である。
人形劇にしてもきっと面白いはず。
そんな箱庭のおとぎ話風に思えて安心するのか?
少年・少女期に連れ戻される感覚もあり。
いづれにせよ、この環境に複雑なストーリーなど必要ない。
お決まりの展開で充分。
アーティフィシャルなヴィジュアル世界をこそ楽しみたい。

主人公キキに対して、周りの人の少し突き放したような優しさや素朴さが心地よい。
少し極端なキャラも人形ぽさが出ている。
変に入り込まずにさっぱりした励ましをくれるパン屋の女将おそのさんやオタク飛行家トンボが、とても良い味を出している。昔歌手の独特の雰囲気の女性にはちょっと唖然としたが、彼女は本業は歌手なのか?女優には見えない。
彼らが過剰な内面的感情などを発しないため、物語の抽象性は保たれてゆく。

クロネコジジやカバのCGはちょっとぎこちなさがまた面白かった。
ホーキをまたいで飛び回る少女も、架空の島の街によく溶け込んでいて、自然であった。
やはりキキである。
若さもあるが、新鮮な輝きが素敵だ。
この映画、彼女の魅力で支えられている。
観ているうちに彼女に自然に肩入れしている。
どちらかというと保護者的な立場でだが(笑。
周りのみんなもそうなってゆく。


めでたしめでたし、である。
子供たちにも観せたい。
キャストが思いの他豪華であった。


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寄生獣

kiseijyuu.jpg

わたしは以前(だいぶ以前である)、単行本全10巻ものの漫画で見た。
知人から無理やり借りたものであったが、大変面白かった印象はもっている。
もう20年経ったとも思えないのだが、何がどう面白かったかは、はっきり覚えてはいない。
深津絵里の演じたパラサイトのことはかなり脳裏に残っていた。
今回、全二篇で構成される映画の前編をTV録画で観た。
かなりの年月を経てようやく実写化にこぎつけたわけだが、原作漫画の人気と評価が衰えることがなかったらしい。
わたしの期待もかなり大きなものであった。

映画はいきなり最終場面かと思われるところから始まり、ミギーの回想で話が運ぶのかと思った。
いつの間にかミギーとの出会いからのタイムラインに着いていたが。
(こういうパラサイトがあるとき突然飛来するという設定はわたしたちはガラモンなどで充分慣れている)。
流れは分かるが、それでもダイジェスト版を見ているような感覚になった。
スピーディーな構成なのかも知れないが、映画というより”ウルトラQ”のようなTVシリーズを思わせた。
何というか間がない。

「ミギー」は魅力的なキャラクターである。
今目白押しのキャラクター群の中でも出色の出来だ。
(昨今何故こうもキャラクターが激増したのか?)
その如何にもというユーモアをもった精神性とともに身体造形の変化も面白い。
阿部サダヲの声がその個性に実にフィットしていた。しかもそれに留まらず、彼のモーションキャプターで収録したという。正確に言えば、モーションキャプチャースーツに頭にはカメラを装着して撮るパフォーマンスキャプチャーと呼ばれるVFXらしい。今回、VFXで阿部と新一役染谷の動きの融合が恐らく肝になっているはずだがそこは見事に自然に流れていた。
自分たちの存在理由を考察し人間の研究を進める深津絵里のパラサイト役も堂に入ったものであった。
余貴美子はやはり新一の母親役としての説得力が圧倒的であった。
主人公の新一は彼女役の橋本愛とともに「告白」で途轍もない役をこなしている。
ここでは精神性の変化やワイヤーアクションのエンターテイメントな部分まで幅の広い演技を見せる。
それぞれの役者の好演と高度なVFXで全体のテンションが保たれていたことが分かる。

パラサイトネットワークが構築され北村一輝演じるパラサイト政治家が市長の座を得ると、実際ボディースナッチャーのような恐怖と不安が押し寄せて来るだろう。
しかし人間側もそれを迎え撃つ非公開の特殊部隊SATをちゃんと用意する。
よくエイリアンものの映画など、極少数の者だけが限られた場所で過酷な戦いを強いられるドラマ設定が多いように思う。
テーマにもよるだろうが、やはり環境設定に違和感を感じることが少なくなかった。
この映画の舞台設定と展開には無理がない。


原作のもつ思想をしっかり射程に収めており、わたしの期待を裏切らない出来ではあった。
アクションシーンとCG、VFXは期待を上回るものがあった。
しかし期待を裏切る驚きはなかった。


次の完結編に期待したい。







Love Letter ~岩井俊二(1995)

Love Letter

今年は2015年。
もう20年も経つのだ、、、。


手紙だけの時間性-間合い。息遣い。質感。想い。実存。沈黙。気づき。叙情。秘密。
そして明らかになる真実。決して相対化されぬ確かなもの。
「拝啓、藤井樹様。お元気ですか? 私は元気です」
このあまりにも儚い、覚束無い投企。

そして来るはずもない返事が届くことから、失われたもの、その想いを音もなく降り積もる雪の中に、結晶化させてゆく物語がはじまる。
(宇宙とは、もともとこんな始まりだったことさえ思い浮かべてしまう。)
しかしわたしたちの日常に、この形式はもはや取り戻せない。
メディアの決定的変質がわたしたちの生きられる時を変えた。
e-mail、chat、facetime、、、意識のリズムと流れは本質的に異化した。

この物語は、失われた時を巡り、二重のノスタルジーに染まって流れてゆく。
わたしたちのこころに強烈な憧れを蘇らせるノスタルジーである。
語られているのは、いや映されているのは、過去の色あせた形式や出来事についてではない。

真っ新な図書カードにくり返し書かれてゆく名前の意味が鮮明に明かされる。
そして図書カードの裏側。
わたしたちの世界-情報はスクリーン平面上にひたすら延長してゆく。
秘めやかに手に取り裏返して知る真実がどれだけ残されているか?
その身体性が。
その次元が。
隠されて時熟する静謐な想い。
その暖かくも凍えた哀しみ。

こんなLove Letterがまだどこかに眠っているのだろうか?
ただ読み取られること、受け取られることをひたすら待ちつづけて、、、。
いや、本人にとっては最初からそれを放棄した想い。
ならば書かずにこころにしまっておけばよいものを。
だが、書きつけないではいられないのだ。
もしかしたら人の営みの全てはその強度に突き動かされた結果かも知れない。
芸術も科学も全て。
そして、かたちをいっさいまとわなかった重力から解かれた夥しい想い、、、。

Love Letterとは一体何か?
Love Letterとは一体何か?

亡くなった一人の藤井樹という存在を巡り、その想いが書き交わされ。
時とともに彼が書いた(描いた)想いがはっきりとLove Letterとなって明かされる。
想いは蘇る。
想いだけが蘇る。
ここにもはや時はない。


晴れ渡る一面に広がる雪原に向けて「お元気ですか? 私は元気です」と何度も叫ぶ。
想いだけが狂おしいまでに空間を満たしてゆく。

真っ白に。



パンズ・ラビリンス

Faunus.jpg
El laberinto del fauno   Pan's Labyrinth
2006年
メキシコ・スペイン・アメリカ

ギレルモ・デル・トロ監督・脚本

イバナ・バケロ 、、、オフェリア
セルジ・ロペス 、、、ビダル
マリベル・ベルドゥ 、、、メルセデス
ダグ・ジョーンズ 、、、パン/ペイルマン
アリアドナ・ヒル 、、、カルメン
アレックス・アングロ 、、、フェレイロ医師
ロジェール・カサマジョール 、、、ペドロ


戦争(スペイン内戦)と父の死、母の再婚、その相手が独裁主義の象徴のような冷酷非情な少尉。
その絶対的な日常が立ちはだかる限り、謎-別の法則下に成立する童話世界が彼女によって要請されるのは不合理なことではない。
それが少女という抽象的な存在であれば、なおのことその世界に生きる権利は高まるはず。

端から現実とファンタジー(ダークファンタジー)などと分けてしまえば、彼女の生きるもうひとつの世界を空想・妄想の類に固定してしまうため、あえて地上界と地下王国ということで、平等に考えたい。

まず両界は少女オフィーリアにとって矛盾なく両立している。森で出会った大きな昆虫が妖精になりその誘いに導かれてから、地下王国のパーンとの関わりが何の抵抗もなく始まる。
しかしそこは地上界の延長にあるのではなく、謂わば重なり合って存在しているため探せば見つかる場所というものではない。彼女の場合、パーンと妖精、童話の本などのアイテムがその次元に導く。

もっとも彼女も地上界と地下王国を等質空間のように自由に行き来できているわけではない。
地下王国においては、入口止まりである。
勿論、彼女は地上界よりも地下王国に住みたいと強く望んでいる。(地上界は義父らの手によってファシズム体制が覆い尽くしつつある)。
自由に行き来できる状況であれば、彼女は地上界に未練はないであろうことは想像に難くない。
パーン(パニックの語源でもあるそうな)羊神は現れるやいなや、いきなり彼女に「あなたこそ地下の王国の王女です。」と仰々しく告げる割に、彼女を迎え入れる条件として相当厳しい危険な試練を与える。

つまり地下王国のメンバーとして正式に選ばれるための試練-儀式を、敢えて言えば地上界~地下王国の亜空間で行ってゆく。地下王国の者たちとの接触はしているが、地上界と亜空間を行ったり来たりしているだけである。そしてそこは、決して優しさや安らかさを暗示する場所には想えない。
暗くて重い。クリーチャーも情け容赦ない非常なものたちだ。
ティムバートンの廃墟感とも異質な時空だ。

パーンから渡されるアイテムとして、マンドラゴアとチョークがある。
それらは、彼女以外の者にも同様の表象として現れる。
マンドラゴアはファシストの義父と今にも死にそうな母(第三者)も見て手にとってもいる。
更に瀕死の母親の容態が急に良くなったのは、それのおかげとしか考えにくい。
チョークは義父は手で掴みそれを砕いており、小間使いとして潜入しているレジスタンスの女もオフェーリアの描いた扉(地下王国の亜空間に繋がる出入り口)を見ている。
しかし、彼らにとっても、それらがオフェーリアにとってと同じく効力(内実)を有するものか痕跡に過ぎないものかは分からない。ただ、オフィーリアを通し、マンドラゴアは童話や魔法世界をまるで信じない母親にも有効性を発揮したことは推測できる。(マンドラゴアが火にくべられ苦しもがく姿はオフェーリアのみの視界でしか描かれない)。
メタモルフォーゼする童話の本(一人で見るようにパーンに言われているため)と妖精(たまたま他の者の目に触れていないだけかも)は彼女の視界の中でしか語られない。
恐らく、地下王国の実質を経験する(あれらのアイテムを使う)には、あれら異界の者とのコンタクトが必要なのだ。そこからはじめてその世界のエネルギーが地上界へと漏れ出てくるのだ。

その世界を彼女一人の妄想(想像)と位置づけるには、アイテムの第三者の可視性、母親への効力、更に過酷な現実の補償(逃避)としては対称性に著しく欠ける(相殺性のない)内容としか考えられない。
新品のドレスと靴を泥だらけにする試練は身重の母親に負担をかけ、限度を超えている。
そしてしぶる彼女に最後に弟を巻ぞいにさせるかのような有無を言わせぬ無理な条件。これが彼女が現実逃避するための妄想として生み出すべきレベルのものであろうか。その必然性がそもそもない(外部性が際立つ)。

そして、第三の試練が究極である。
ここで、彼女の地下王国が想像上のものではないことが判明する。
もし想像でありそれを守るなら、生きて想像し続けるしかない。
生きることが前提となる。しかし、地上界での絶命をはっきり承諾させるメッセージがパーンから放たれる。ある意味究極の非常さである。彼女にとってだけでなく、もし彼がファンタジーの住人であるなら、彼も消える。
絶命したところでファンタジーであれば終了である。
しかし流れはひたすら一点に向けて流れ出す。

彼女は完全に地下王国に移行を遂げるため、ラビリンスに血を滴らせ、絶命する必要があった。
地上における身体を捨てることで移動を完了しなければならない。
地下王国は、別の次元に実在するからだ。
これはパーンによって全て仕組まれた計画である。
わざわざ弟を抱かせて逃げる彼女を助けるがごとく開いた森が、いとも簡単に義父を彼女の元に引き寄せ、最後の決断を促す。彼女の答えも最初から分かっていたことだ。
彼女を祝福のうちに迎え入れるために。

オフーリアの世界はここから眩いばかりに黄金色に光り輝く。
地上にもその証としてひとつの印を残し、、、。


Ophelia.jpg
オフィーリア

主演女優イバナ・バケロに尋常ではない美しさを感じた。
最近、出てくる新人女優たちとは、一線を画する存在だ。
ただならぬ知性と感性を感じさせる13歳。
こういう女優はいそうで、いない。

何と目標の女優が、Natalie PortmanとJodie Foster だそうである。
深く納得するとともに、この先が楽しみだ。
この女優が出る映画は今後も観ていきたい。



羊たちの沈黙

sheep.jpg

ジュディ・フォスターの美しさが際立っていた。
コンタクト同様、権力に対して単独で果敢に挑む繊細な女性を演じきっている。
おそらくそれが、彼女自身の人間としての魅力であり、基本姿勢なのだと思う。
そしてこういう映画を彼女は作りたいのだ。
ここでは特にバッファロー・ビルの自宅に単身で乗り込み銃を震えながら構えて立ち向かっていく姿に実感する。
男社会の権力構造を中央突破しつつ、ハンニバルとの取引から引きだしたヒントから犯人の巣窟を割り出し、身を張って対決する。
その姿は、他のどんな女優よりも美しい。
例え脚本と監督が揃っていても、ジュディー・フォスターがいなければやはり成り立たない。
彼女の完璧な理解と信念があって、はじめて成立するものだ。
この役を他にやれるとしたら、強いてあげれば、Natalie Portmanか?

そしてハンニバル。
アンソニー・ホプキンスの放なつ、尋常ではない魅力。
「完全な異常だ。」と言われてもまさにその通りとしか言えまい。
生命体として単独の系を生きている。
エイリアンだ。
その意味で、若き実習生:クラリスとは、馬が合う。
幼くして父を亡くしたクラリスにとっては、ある意味父親的に頼れる確かな存在である。
(周囲の男が皆権力欲ばかりで右往左往しセコイためもあり)。
間違いなく彼女を怯えて立ち尽くす羊の悪夢から救った存在である。
彼女はお礼を義務的に上司に述べてはいたが、実は本当に感謝の念を抱いているのは彼に対してである。
ハンニバルが彼女の卒業パーティーにわざわざ電話をよこすというのもよくわかる。
彼の気質からも、クラリス同様、あのチルトン医師のような男はつまらぬ存在であろう。
「これから昔の知人に会うところだ」とエンドロールで船に向かう彼の後をつけて行くハンニバル。
さぞ派手な屍体が甲板かどこかに飾られるのだろう。
(ハンニバルの知性については納得できるが、屍体加工の体力がわたしの想像を絶する、ところではある、、。)


わたしはこの続編がリドリー・スコットによって撮られていることは知っているが、見てはいない。
この‘羊たちの沈黙”が完全にジュディー・フォスターとアンソニー・ホプキンスの映画であるからだ。
ひどくナイーブで過激な単独者同士の稀有な”コンタクト”を異常な緊張感をもって見られるからだ。
これが見れないのでは、少なくともわたしにとっては続編ではない。

続編は、シンプルに”ハンニバル”ということだから、彼をもっと見たければ充分に見るに値しようが、わたしはドラマ的にもクラリスとハンニバルの関係をさらに掘り下げてゆく過程が知りたい。
ハンニバルの凄さ、まさに文字通りの凄さ、をのみ味わいたいという気はあまり起きない。
リドリー・スコットとしては、あの”エイリアン”の延長上のものとなるだろう。
大変凝ったものになっているであろうことは、充分に想像できるのだが。


この”羊たちの沈黙”はジュディー・フォスターとアンソニー・ホプキンスがお互いに相手を際立たせて魅力を輝かせてることが分かる。




オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘~ギュスターヴ・モロー模写

oohara.jpg
”雅歌”大原美術館所蔵。好きな作品のひとつ。

本日。
学生時代に描いた”オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘”の模写をクローゼットの奥から発掘。
”一角獣”は描いて2年後くらいに潰し、後は”グリフォン”がまだどこかにあるはず。(画題は正確には覚えてない)。コバルトブルーの深淵のなかにグリフォンが神秘的に浮き出あがるもの、確かそうだった。うちの画集のどこかにもあるはず。

本物の寸法通りに描いて贋作と言えるところまで描ければ楽しいだろうが、おしゃれ泥棒みたいに、、、しかし元にした、絵ではなく画集の印刷がかなり酷いのもので、後でパルコから出たものと比べると相当lくすんで黄ばんだものであることを知った(残

少し経ってから、上からセルリアンブルーとコバルトブルーを透明に何度か重ねたことがあった。
形だけそれの、色味とタッチ(印刷ではそこが分からない)の違う独自の作品として部屋に暫く飾っていた。
それはそれで、自分にとってはよかった。
眺めていると気持ちが和む。

銀座で絵をよく買うようになって、特に足繁く通うようになった画廊があり、時折うちにワゴンでお勧めの絵を幾つも運んで見せてくれるようになった。勿論、現代作家のリトグラフ中心であるが。
売り込みに来る店員さんが、わたしの”オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘”をぜひ譲ってくれと言うようになった。
でも贋作ではなく模写ですよと確認すると、贋作では困る。模写でないと、と言うので危うく譲りかけたことがある(笑。

わたしは、今でもいや、今だからこそ、譲って失敗したと思う絵がこれまでに4点ばかりある。
それは、ここでは書けないが。
今日、モローの絵を眺めて、つくづく手元に残しておいて良かったと思う。
よりモローの原画に近い写真を見るようになって、これが人手に渡っているのは耐え難い。
それと、手を入れたいところが結構あるのだ。

元絵を気にせず描き変える気はないのだが、描き込みたい気持ちがある。
恐らくこの絵が好きなのだ。
モローのこの絵も、眼前のこの絵も(笑

好きな絵は描いてみると深く味わえると思う。

ひとに見てもらうのも良い。
しかし感想がみなほぼ同じなので、ちょっとふざけてみた。
一時期、うちに遊びに来た同僚たちに、この絵のオレンジの背景の中にわたしはUFOを描き入れた、と説明してみた。
すると、ほとんどの人がへーっと見入るばかりだったり、ホントだ!と納得する人もいた。
「ないじゃん。」という人は一人もいなかったのである。

絵でも写真は特にそうだが、そこに配される文言の役割の大きさを感じた。


それからわたしのその絵は妙な見方がなされるようになったので、壁から外し、アイズピリのリトグラフを掛けることにした。




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スキャナーズ

scanners.jpg

これぞサイバーパンクの極みともいうものでしょうね。
いまだに刺激的です。
思わず力みます。
スキャナー戦の度に。

身体の機能や意識の拡張とその異能性。
ネットワークを介したコンピューターとの接合。
胎児に対する薬物投与による未来社会の管理に向けた企業権力。
取り巻く過剰で退廃的で暴力的な廃墟空間。
スキャナーというヒトを走査して操るー破壊する異能者たちと、そのスキャナー同士の息詰まる対決。
スベースオペラ・スペースファンタジー映画に対する初期の強烈なカウンターパンチですね。
まさにその後の傑作SF映画群を生む背景輻射となっています。


このスキャナーズ。
クローネンバーグ作品の中では、一番スッキリ、すんなり観られる映画でしょう。
エンターテイメント性たっぷりで力みながら観る系の。
頭が破裂したり、血管膨らんだり、体が陥没したり、火が付いたり、、、やりたい放題。
独特のおどろおどろしさは、彼ならではのもの。
しかし後味は何故かスッキリ感がある。
(一種の慣れか?馴染んでしまったのか?)

あえて言えば、難解さ(戸惑い)は最後の場面くらい。
結局、どうなっちゃったのかというところくらい。
どうなっちゃたのか?

まざったのでしょうね。
ハイブリット!

意識は弟。主人公の方。
相手役の女性にとっては凄く微妙なはず。
見た目は宿敵の方だから。
うっそー!と言いたいはず。(唖然としていたが)。

それにしても妊婦のお腹にいる子供がすでに強力なスキャナーとなっている事実。
未来は、一体どうなるのか?
あの企業はとんでもない薬物を産婦人科にばら撒いたものです。
そちらこそ大きな課題ですね。

恐らく、彼ら二人が先頭に立ち、うまい方向に彼らを教育していかなければいけません。
放射能汚染が実際どうなってるのか分からない現状から、危機的状況とすればこちらも他人事ではありませんが。


われわれはクローネンバーグに追いついてしまった。


われわれがすでにサイバーパンクの現実を生きている。






パッセンジャーズ

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「海辺を歩いた。大きな篝火が燃えていた。」”生存者”が語る。

映画で記憶がテーマになるものがどれだけ多いか。
人間の生そのものが記憶に支えられている以上、人間を描くとなれば記憶に何らかの形で関わることは不可避である。
ここでは、”想念”と言うべきか。
100%想念の世界が描かれていると言える。
これはこれで完結できる世界である。
(しかし破れ目はあちこちにある)。
臨死体験は文字通り体験であり、本人が気づいて行動をとっていいる。
自分の立場を知っている。

ここでは、自覚が無い。(主人公が最もない)。
そして、自覚した人から一人一人と消え去ってゆく。
逝くべきところへと。

突然,生を切断された意識とはこういうものなのかも知れない。
当然、事故に至るまでの忌まわしい恐怖の記憶もその間際に芽生えた恋愛の情も、もろろとも、散り散りに飛ぶはずだ。
飛行機に搭乗したことも消えている場合がある。

物語が進行するに付け、セラピストである主人公(Anne Hathaway)はカウンセリング相手のクラー”生き残り乗客”の躁状態の突飛な振る舞いに翻弄されつつも悲痛な孤独に深く向かい合ってゆく。
彼は苦悩しつつ疑っていた。
そして何度も何度も試していた。
できれば、事故でもう一回生まれ変わりたい。
生を感じたくてより際どい刺激を求める。
やがて彼は認識する。
身の回りに現れる人々やかつて大事に飼っていた犬の訪問をうけるなか。
彼女も、何故彼に心惹かれることになったか、本当の理由に気づいてゆく。

そうなのだ、彼女を監視するように後を追っていたのが、航空会社の生存者監視役でもなんでもなく、事故の当事者であった。
彼女はこの男に航空会社の事故原因隠蔽工作のため生き残りが口封じのため消されていると思い、真相を追求していたのだ。
「わたしが悪いのだ。」彼は言い残して去ってゆく。
(事故の真相は闇のままである)。

彼女は彼のバッグの中の事故機の搭乗記録を見て愕然とする。
接触(連絡)したくともできないでいる、仲直りを切望している姉に向けて悲痛の叫びをあげる。
だが、その声は決して届かない。誰にも届かない。
一番深く現実に触れていなかったのは、自分であったことを悟る。
(セラピストであるため全てをその専門言語で還元してしまうことで、物事が見えなくなる)。
そして、全てを知る。

彼女の孤独と張り裂ける切なさが一気に押し寄せる。
見事にこの時までに彼女に対し感情移入していた。
最後の最後にこれまでの流れとともに強く胸を締め付けられる映画となった。


アン・ハサウェイ、共演の パトリック・ウィルソンともに繊細に揺れ動く情感表現が卓越していた。

特にこんな役柄、彼女にはぴったりである。



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「ミラーニューロン」があなたを救う (大嶋信頼) 

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取り敢えず、読んでみた(後半からは斜め読み、飛ばし読みで)。
「あなたを救う」という部分で買って読んだ。「ミラーニューロン」で買う気にはなれない。

この本の特徴としては、神経生理学的な解説本ではなく、それに基づく何らかのメソッドの紹介本でもないこと。
ミラーニューロンは、他者の行為の理解や意図の解読に役立つ神経基盤であり、社会関係、対人関係を織り成す土台となると考えられており、言語の起源に関わる根源性をもち、それに不全があれば共感・対人スキルに深刻な影響を及ぼす可能性も認められている。つまり自閉症の解明にも理論は当然応用されるはずであり、拡張性の高い理論といえるだろう。書名からしてミラーニューロンの説をベースにした著者独自の理論的応用・展開がなされるのかと思ったのだが、脳神経学的な解説は全くなく著者の立場が終始不明である。
わたしはその辺にはとんと疎いが、ここで著者は、その他者を模倣する点や共感や意図解読の機能を恐らく前提に、受容する内容から他者がこちらを従属させるため仕掛けてくる罠を暴き、その脅威を振り払い本来の自分を保持するというプロセスを一貫して説いている。
勿論、そういった面を感じられることは実際に少なくない。はめられたと気づいた際などには説得力をもつ。
そこまで行かなくとも、暴力のオントロジーから考えれば、人が2人いるだけで必然的に権力関係が成立するのは自明である。
良い悪いではなく、半ば気づいてはいてもどうにもならないことが多く、通常成立してしまった関係はそのまま受け容れているとは思う。
ただその支配・被支配関係が永続することは耐え難い場合が少なくないはずである。
そこから抜けるには、という方向性は強く明確に感じ取れる。


例として挙げられている蟻社会の2:6:2(仕事をする蟻:適当にやっている蟻:何もやらない蟻)の構図は共感でき、人間社会においても生活経験上蓋然性が高いと思われる。以前、華僑の商人は端からそういう構成で商売グループを作り(つまりそういうメカニズムを承知して)円滑に効率的な仕事をさせているということを読んだことがある。基本的にそれはどんな人間が集まろうが(ドリームチームであろうが)、2:6:2の構図に安定するという。
そう言われてみれば、確かにそう思える。
しかし、それが必然的な構造であるのなら、ほとんど椅子取りゲームと言える。必ず誰かが犠牲となる。
この本を読んだあなたはその生贄から免れるということか?
もっとも構造自体に関しては管轄外ということか。
社会科学、経験科学の本ではないのは見れば分かる。
社会全体がそういう知見を得れば次に進めるかと思うが、、、。(華僑のようにシステムに組み込む)。

また、著者の子供時代の親や周囲の子供との関係や体験談から導入を図るのは分かる。自然な運びであろう。
共感できる点は多々あったし、私自身にも重なる部分が幾つもあった。
しかしそこから理論が抽出され昇華し展開されていくのではなく、最後まで著者の体験談が延々と続くのはどうしたものかと思う。そのせいでひたすら長い、ページ数の多い本となっている。
しかも同様な記述が反復されるために読むのが次第にキツくなる。読み進められない。
ただ唐突に「本音モード」、「浮き輪モード」と叫んで他者からの支配から逃れましょう。
こう言われても無理がある。
わたしとしては、仮面ライダーの”変身!”のほうが恥ずかしくない。心の中で叫ぶにしても。

まず初めに多々あるミラーニューロン理論から著者独自の考えを明確に提示した上で、そこには相手から無意識的であっても意図的に従属関係に組み込まれてしまう恐ろしい罠の仕掛けられる場合があることを理論的にも様々な事例からも示してもらい、防衛策を説いてもらえれば、「~モード」に重みと説得力が自ずと生じるはずなのだが。


実はこの本で全く語られていないため、ミラーニューロン自体についてもよく分からない。

脳内ネットワークとはよく聞くが、これは脳外ネットワークだ。
他の脳とのネットワークなのだ。(無線LANみたいに即座に繋がる、とあるが)。
他の脳による乗っ取りとは気づかず、それを自分独自の感情・意思だと感じてしまう。
これはミラーニューロンの基本特性である他者に対する模倣・共感を特異な方向に拡張している。
理解・解読であれば主体的・意識的対応であるが、ここでは受動的・無意識的な受容である。
通常ならそれは、自分の記憶内容と感じるのが自然であり、過去のトラウマのなせる業であると感じる。
それが今現在の他者の思いなのだ、、、。


脳という部位は分からないことが多い。
デフォルトモードネットワークについても最近しきりに話題となっているが、これから新しいことが次々に解明されていくはずだ。
脳内であれば、血流の変化をfMRIで割り出し、各部位の同期パタンの確認から協調して発動する様子が解析できる。
前頭葉内側と後部帯状体の同期が有名だ。
これらはぼんやりしていて意識的に何か課題に取り組んでいない時に活性化するところである。
脳は1日400Kcal消費すると言われる(体の20%の消費に当たる)が、意識的な活動については5%しか使われていないという例は、いろいろな場面に引き合いに出されている。

無意識的なときほど、エネルギーがはるかに消費されている。
脳が一体何をやっているのか、謎は多い。

そうなのだ。われわれは、自分の脳についてほとんど何も知らないことに気づいていない。

著者の言うように憑依されていても気づかないでそれを自分自身だと思い込み、年を重ねている可能性は少なからずある。
それは今現在における他者からのデータ(ウイルス)侵入であり、他者からの意図的な暗示操作である、という仮設は虚を突かれるところである。
確かに同意できる部分であり、大胆な仮設である。
恐ろしいことである。


ここまで書いて思うのだが、要するに他人などに一切気を使わずに生きることが幸せに繋がるのですよ、という事を言うための一種の方便なのか、とも思えてくる。
この反復する長大なテクストは、一種の催眠療法を狙った形式なのか?
(あまりわたしには効かなかったが)。


こうした類の本のエクリチュールのあり方を考えさせられる一冊でもあった。



夜空

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夜、空を眺められる状況にないことは、辛い、ことがわかった。
別に毎日夜空を眺めるどころか、ほんのたまにしか空など見上げない。
でも、空をゆっくり眺めたいと思うときに外に出れないのは、寂しい。

何年かぶりの大風邪をひいた。
咳が止まらず喉が痛い。熱が体の心に篭っているかのようで、寒気がする。
気持ちは、上空にまたは地の底に向かおうとする。
この地上に落ち着かないのだ。

つまり、この身体に。
収まらない。

わたしの重みが溢れ出てゆく。

岩成達也の「樽切れの思い出」の苦しさ-多(高)次元の中に染み込む。
それは熱を帯びた苦しい夢だ。
炎の垂直性が恋しい。

それはゆらぐ。
船が傾ぐ。
異様に変容するディテール。

熱くなっていると思っていたのだが、じつはひどくひえていた。
しかも乾いてると思っていたが湿っていて。

地上は恐らく耐え難い。

重さを調整することより、天使に戻ることのほうがはるかにたやすい。

しかしなかなか、重さを放棄する気にはなれない、、、。


きっとまだまだ戦わなくてはならない事があるからだ。


妖怪ウォッチ、、、妖怪は流行っているのか?

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妖怪、、、人知を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを引き起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在を一般に指す。

娘も妖怪の話が好きだし興味をもっている。
以前、のっぺらぼうの話をしてから、夕暮れどきなどに、「のっぺらぼうが出そうだね」と言って適度に怖がる。

今は地方の伝承というより都市伝説などに絡む面が大きいように思える。
そういったものは特に女の子のお喋りネタに事欠かない。
まさに口承される噂話である。秘密の共有であるため、少し怖さがあると秘めやかで丁度いい。
真実かどうかは問題とはならない。(しかし真実らしさ-リアルさは求められる。経験者は語る的な)。
とは言え、真実であったら都市伝説ではない。
ただのニュースであるに過ぎない。
現代の発祥のもので、妖怪の他、幽霊・怪獣・宇宙人まで含まれているものも少なくない。
魅力的で生々しくスキャンダルなニュースであれば深夜ニュース的な価値ーダークな感じも滲み出る。
勿論、うちの娘はその域まで来ていないが。
ウルトラQや怪奇大作戦もその文脈に重なる要素は大きい。
あのくすぐったい面白さ。

それからすぐに宮崎駿の映画 「千と千尋の神隠し」を連想してしまう。

言わずと知れた歴代興行収入NO.1の大ヒット作である。
トンネルの向こう側が異界であった。というさもありそうな世界が濃密に描かれていた。
わたしを強烈な郷愁の世界に誘うものであった。
これは共同無意識に明らかに通底している。(だからヒットした)。
あのオドロオドロシイ世界がまさしく妖怪ー八百万の神の世界だと思う。
迫力もあり充分にそれを堪能できた。
しかし、やはりあのような民族学的で重厚な物語があれだけ受けるのには驚いた。
妖怪の放つ非日常的な不思議さと神秘性そして不気味さの魅力をまざまざと感じる。


妖怪ウォッチも娘達がよく見るTV番組である。

ポケモンの流れを確実に引き継いでいるが、話の構図はドラえもん的であり、もっと笑える要素が強い。
モンスターから妖怪へ。ピカチューからジバニャンへ、であろうか。
性別に関係なく受ける。
例えばファッションアイテムの「ほっぺちゃん」となれば女の子限定だ。
妖怪ウォッチのメディア展開(メディアミックスというのか?)には隙がない。
ゲーム、おもちゃ、カード・メダル、アプリ、音楽、DVD、映画、プレゼント投稿企画、グッズ、ニュース・トピックス、漫画、TVアニメ、、、。ゲームに火がつけば攻略本も売れまくる。
レアアイテムで購買欲を釣り上げ、海外展開など、、、考えられることは全てやっている感がある。
ゲームと絡めメダルなどのコレクター欲望を刺激していく戦略はよくわかるが逆らえないというところか。
大人にも飛び火していることが分かる。(あれは必ずしも塾で忙しい子供の代わりに行列に並んでソフトを買っているだけではない)。

しかし、これが「妖怪」というものへの興味かといえば、それだけではない気もする。
ここでの妖怪は、地方の伝承に基づくものではなく、純粋なキャラクターである。
基本的にポケモン路線を受け継いでいる洗練されたキャラクター戦略である。
むしろ昨今のゆるキャラブームとも相まって、親しみやすく愛らしいキャラがもてはやされる。
おかあさんといっしょでも「ようかいしりとり」の歌がヒットしているが、妖怪の危険で怪しい部分を脱臭して面白さコミカルな特徴だけを残したものだ。

それにしても、妖怪はキャラの宝庫といえるだろう。


妖怪人間ベム。
「早く人間になりたーい」がとかく有名である。
再放送を録画して娘たちと見たが適度に怖く、話も面白いためお気に入りのアニメとなっていた。
見返りを期待せずに、ひどい扱いを受けても人間を助けようとするところは、娘たちにはピンと来ないようで、わたしと一緒だ。妙に人間臭い妖怪ではあり、親近感は持てる。特にベロについては。


「ゲゲゲの鬼太郎」は職場の傍が本拠地であったため、接することも多かった。もっとも当人にではない。

水木しげる作となれば、むしろ大人に受けの要素が濃い。
妖怪本来の特徴を大切にし、あの独特の渋いリアリティある作風・描画である。
登場人物にもそれぞれペーソスあふれる癖者がいっぱい登場する。
魅力的な妖怪は山ほどいる。塗り壁、一反木綿など秀逸なものばかりだ。
しかしキャラについては大人ならば共感できるという面も少なくない。(ネズミ男、子泣きじじい等)。
ここに親しみやすさや愛くるしさを求めるのはキツイ。
ネコ娘でさえ、子供が共感するタイプとは思えない。
人気はやはり大人が支えているところだと思う。統計を知らぬが。


今の妖怪ブームは、社会情勢の不安定によって起きている、と小松和彦氏は述べている。
未知なるものへの恐怖心それに対して名前をつけて何らかの対象化を図り落ち着かせようとする。
それが妖怪となって現象する。わたしの勝手な解釈で小松氏はこうは言っていないが。
妖怪としての定着は、安定を求めようとする心の生んだものとは言えよう。

彼によれば、見えないものに対する不安からその時代・土地の文化情勢を探る手がかりが見いだせる。
その未知なる存在は、ヨーロッパのような一神教では必然的に悪になってしまうが、日本では八百万の神のひとつになる場合もある。

確かに菅原道真の霊なども祀られることで、怨霊ではなく神となっている。

ボルヘスも妖怪事典を出していることを思い出した。
これは後日、じっくり語りたい。

時代性から見ると、江戸時代に入ると道具が妖怪になったりする。
使い捨てされる道具が次々に妖怪となって異議申し立てをする。
種類もどんどん増えてゆき、キャラクター化が起きる。
文脈は異なるが、キャラクター化は今現在かつてないほど盛んに行われている。
その後、人間関係が生活において重要な要素となると、四谷怪談のような人間の妖怪が主流になる。
その視点で今を分析すると面白いことが沢山見いだせると思われる。
物語性は、ドラえもん的なファンタジーに移行しているが。

今日は取り敢えず、糸口だけ提示するに留める。


想像力のもつ面白さも窺える場所である。


こちらに妖怪のデータベースあり。(国際日本文化研究センター)



ガラダマ ~ウルトラQ

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「ガラダマ」をホントに久しぶりに観た!
Blu-rayに録画したものだ。
とても綺麗な画像である。
かつて観たときの印象そのままだ。
全く色褪せては、いない。(モノトーンだが)。
それは時代を先取りしているとかいうことではなく、もともと日本昔ばなしのような普遍性とノスタルジーに満ちた作品であるという意味で。

子供が、薪を拾いに行ったら、落ちてきたガラダマ(隕石)を見つけ、ひょいと荷車に乗せて先生に見せに来る。
のっけから、お伽噺だ。
未知の物体を漬物石のように扱っている。
しかも、とても軽々しく。実際凄く軽く、それはフワフワと落ちてきたそうだ。
しかし、フワフワ落ちるところは特撮でも難しいはずで、ここは巧みに子供の証言で話を進ませていく。

その隕石落下から、デリンジャー現象、短波障害、電離層の攪乱がみられると博士たちが慌て始める。
通常、太陽フレアが原因となる現象だが、どうやら今回はガラダマの仕業らしい。
そのため長距離通信に障害をきたしている。

博士によると、その隕石は珪酸アルミニウムを高温で合成したガラス状結晶体であり、チグソナイトという地球上にない物質だそうだ。
博士といつもレギュラーで出てくる記者たち一行は、拾った小学生を道案内にしてすぐさま落下地点を探りに行く。
ガラダマの精査は研究所の研究員に任せて。

ガラダマが落ちた地点に着いた博士一行の目前を、今度は巨大な隕石が落下してくる。
そこはユミガサキという土地のダム近くの湖である。
ガラダマとはこの土地の隕石の呼び名であり、そこは有名な隕石スポットでもあるという。
ガラダマは凄まじい水しぶきを上げ、湖に着水する。
周囲の物は津波で押し流される。

ガラダマにはヒビが入り、ポンっと巨大モンスターが飛び出る。
出た瞬間、瞑っていた目をパッチリ開ける。
スイッチが入った感じだ。

そのモンスター、動きは良いが物に関わるには今ひとつ不自由に見える体つきである。
姿からしてキモかわいい部類に属すると思われるが、やることは破壊活動のようだ。
それにしては、そぐわない形である。
今流行りのゆるキャラの元祖とも言える。動きもピョンピョン移動し長い指をしきりにブラブラ動かす。
愛嬌はあり剽軽な動作が目立つが、顔は確かに獰猛な部類である。

こんな稀有で危険な状況であるにも関わらず、それに対応しているのは、博士とその研究室にいつもの記者たちだけである。国防からの危機管理対応・体制は全く発動しない。
通信障害だけの問題か。電話はちゃんと通じていた。単に知らせないだけのことか。

しっかり伏線もあり、思い出の湖底の街を偲ぶ乗客もろとも、船がガラダマの墜落で岩山の高みに跳ね飛ばされ、それを救助する流れが緊迫感を物語に与えて展開していく。
乗客はかすり傷程度である。余程飛ばされ方が良かったらしい。
見た目、飛行機の墜落と変わらぬ衝撃に思えたが。
ふたりの女性を例の記者たちが救い出す。
このとき「早く、早く」を連発する。他の話でもこの言葉がやけに気になる。
アドリブなのか、台本なのか分からないが、やたらにこのフレーズが耳につくのは残念である。
モンスター(ガラモン)が近づいて来る切迫した盛り上げどころである。映像シーンの演出だけで高める工夫がもっと欲しい。

一方、小学生が見つけた隕石を調査中の研究所では、オシログラフにその物体から特徴的な電波が例の場所に発信されていることが分かり、その電波でモンスターが操縦されていることが推測される。
面白いのが、そのコントローラーをノコギリで切断・分解しようとすると、ガラモンがむず痒そうにして転げまわったりするところだ。しかし、ノコギリでは文字通り歯が立たない。

現場にいる博士は、そのモンスターは高度な文明を持つ異星人が地球侵略のため送り込んだものだと看破する。
彼らは先に操縦機を地球に送りつけ、その後カプセルに乗せたモンスターをよこしたのだという。
しかし、高度な科学力を持つ宇宙人も、その操縦機を薪拾いの小学生に持ち去られることは想定できなかったのである。

そしてその操縦機に電波遮蔽ネットを被せることで、唐突に地球の危機に幕が降される。
ガラモンのお手柄は、体当たりでダムを打ち壊したところで終わり、彼は来た時のように目を閉じ、そのままバタンと倒れて動かなくなる。

体を覆うヒレが風に静かにそよぎ、余情を残す。
ちょっと見た目が多肉植物を想わせる。


改めて名作に触れた感動を味わった。

ガラモンは、ゴジラ、ガメラに次ぐ怪獣のアイドルに違いない。
特に、今の時代にはぴったりの、、、。



GOZZILLA ゴジラ 

GODZILLA.jpg

Godzilla

2014
アメリカ

ギャレス・エドワーズ監督

アーロン・テイラー=ジョンソン、、、フォード・ブロディ大尉
渡辺謙、、、芹沢猪四郎博士
ブライアン・クランストン、、、ジョー・ブロディ(フォードの父)
エリザベス・オルセン、、、エル・ブロディ(フォードの妻)
カーソン・ボルド、、、サム・ブロディ(フォードとエルの息子)
ジュリエット・ビノシュ、、、サンドラ・ブロディ(ジョーの妻)


確かにゴジラだった。
ゴジラへのオマージュを受けとった。

それで良いと思う。
ゴジラをよく理解して作っていることが分かる。
コモドオオトカゲなどをもとにしているのか、戦いの最中にも一休みをいれる。
戦い終わってもじっくり休む。
死んだように眠って、目覚めて吠えてから、静かに海に去ってゆく。

もっとも、実際のオオトカゲは体力の消耗というより、変温動物なので体を岩場でじっくり温めているのだが。
そうしないと動けない。
いざ動くとなると思いの外速かったりする。
だがサボテンを食べているときなどのんびりとしていて、ゆっくりだ。
食べながら何を思うのか、暫く止まっていたりする。
(考え事も多いのだろう)。

ゴジラも全体にゆっくりな動作で、威厳も感じられ単なる怪獣の域は明らかに超えていた。
霊獣とも言えようか。
そこは、この監督の天晴なところである。
少なくとも前回のハリウッドゴジラの比ではない。
(あれと比べたら怒られる)。

自然の調和を取り戻す象徴的な力の表れとして描かれている。
しかしその割には戦い方が危なっかしく、覚束ない。
もう少し圧倒的な存在力を誇示してほしい。
本来、口から発射する放射能?も放つ前に背びれが数回発光し、喉の奥に光が溢れてから、激烈に放射される。
しっぽでムートウとかいうのを一撃で撃退したのは良いが、放射能でもウルトラマンのスペシウム光線みたいに一発で相手を粉々にしてほしいものだ。

あのムートウというもの、ガメラに対するギャオスのようなものか?
やはり繁殖を目的に登場する。
恐らく、何にしてもそうであろう。
しかし繁殖されたら地球は当然彼らの星になってしまう。
まず、電気を奪われた時点で人類はほとんどお手上げだ。

今回のゴジラは、完全に人類に対してガメラと同じポジションをとっていた。
ゴジラのほうがもっと、さり気無いが。
ダンディである。
基本的にゴジラもガメラも人類からは(一部を除き)信用されないが、それは仕方ない。
そういうヒーローなのである。
(ゴジラもガメラも橋のシーンが印象的である)。

全体的に夜のシーンが多く閃光の明滅でシルエットが浮かび上がり、昼間も部分的ディテール描写により荒涼さを際立てる。
勿論、怪獣に荒らされ全てが廃墟であるが、扉の一つ向うの救い難い事態が幾つも明かされてゆくのは、過激な演出であった。
廃炉と津波に立ち入り禁止地区。生々しくいくつかの記憶を呼び覚ます。
その場所の廃墟からもズレ落ちてしまった荒廃と秘匿性。
恐れを感じまばらに次々とまいとぶ黒い鳥影。
電気制御を失いバラバラと落ちてくるジェット戦闘機。

渡辺謙も終始、博士としてストイックな役を、秘めた感情を抑えるように、こなしていた。
他の役者も適役でよい流れを作っていたが、ジュリエット・ビノシュが出てきたと思ったら死んでしまうのは、あまりにもったいない、というか贅沢過ぎる主役級女優の使い方だ。もう少し演技させても良いのではないか?
宝田明さんが出ると聞いてたが出ていなかった。あれは単なるデマであったのか?

最後に渡辺謙のゴジラを見送る表情には共感する。


ゴジラに対してはノーベル平和賞を検討してもらいたい。




太陽光の下で ~ソフトクリーム

softs.jpg

朝早く太陽の光を浴びた。
気持ちよかった。
この実感が身体の隅々にまで行き渡ると、恐らく身体は0となる。
光のなかに吸い込まれる。

そのまま植物夢の状態で過ごすのも幸せかも知れぬが。
(そんな誘惑に身を任せたくなる)。
夢に融解してしまうと、時間からは解かれても、特定の場所にアクセス-干渉はできない。
全ての場所を見渡せても。
どの場所に存在できても。

「何か」に関われなくなるのは寂しい。
創造的行為は3次元における存在の特権であるはず。


ヴィムヴェンダースの天使も可死-時間的存在となる決心をして地上界に降りた。
彼らは間違いなく5次元の存在だ。
人間が何をやっていようが、ビルから身を投げようが何ら関与できない。

全ての物事にフォーカス可能なわれわれの世界に来て、元天使は満足気であった。
「何か」に関与できることが嬉しいのだ。
創造に関われることが新鮮で驚きなのだ。
そして、食べること。

眠ること。



そして陽光に包まれながら、覚醒し。

わたしは、もう少し深く実感したい。
「何か」を。
もっと深く浸透させ。
行き渡らせ。


公園の展望台から望遠鏡で遠くの果を娘と眺めた。
見晴らせる範囲は地平線までだが。
先のことは全く知りようもないが。
そこには色彩が満ち溢れている。

これから、なんでもやろうと思うことは出来るのだ。


まずは、ソフトクリームを食べながら帰ることにした。


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多肉の鉢を一回り大きいものに。

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多肉植物たちの鉢を一回り大きいものに差し替えた。
ヤドカリなら自分でするが、多肉は植物である。
こちらでやってあげなければならない。

以前はサボテンもたくさん持っていたが、もうほとんど手元には無い。
今は多肉が主体である。
まだいじるには、天候から言っても時期が早く感じられたが、わたしが手持ち無沙汰なのだ。
わたしの都合が大きい。
彼らに頼まれた訳ではない。

暴れて徒長したものも調整した。
あちこちから、ちょん切ったものを、底の浅い鉢に寄せ植えしてみた。
アーティフィシャルなものになった。


プックラした葉っぱがともかく愛らしい、、、。
セダムでは、特にそうだ。「乙女心」「虹の玉」細長くてカラフルなジェリービーンズがたわわに成っているみたいで、乙女心とはよく付けたものだと感心する。しかしどう乙女心なのかと問われると、答えられない。
あの赤みがそれなのだとは思うが。
うちでは数の上(占める面積)ではもっとも多い。

クッスラでは、「金のなる木」「ゴーラム」「茜の塔」が居る。
「金のなる木」は一時、庭植えしたらかなり巨大化したのだが、寒さにやられ駄目になり、小さく株分けしたものが3つの鉢で何とか再生してきている。大きさは以前の株の20分の1ほどであるが、いると落ち着く存在であり、復活させたい。
「ゴーラム」は海の底にいても不思議ではない。形からすると海底に仲間がいそうである。

エケベリアでは、「月影」「万華鏡」「初恋」「イリア」「デスメチアナ」等が居る。
エケベリアは散歩中等にどこかのお宅の庭の隅や公園のやはり隅っこによく見られる。
とてもポピュラーな形だ。よく増える。大きくもなる。
名前も妙にロマンチックだ。これは多肉の固有の「かたち」から連想されるものだと思うが。
少し安直に名付けられた感がするのもエケベリアには少なくない。
どう初恋なのか?とか、、、

アエオニウムでは、「黒帽子」「夕映」だ。
「黒帽子」は日光が不足するとすぐに勢いがなくなり葉を落とし萎んでしまう。
今いる彼は(彼女は)10代目くらいに当たる。やはりいないと寂しい存在で居なくなれば買ってきてしまう。
「夕映」は女性的で可憐で華奢で儚げなところが刺さる。名前もベストマッチ。

ユーフォルビアでは、「紅彩閣」「峨眉山」「ハナキリン」等。
「紅彩閣」はサボテンに見間違えられる恐れがあるが、よく見るとやはり多肉である。
多肉の可愛さがしっかり見られる。
「峨眉山」なんて仏教の聖地で霊山のような厳粛なかたちかと思いきや、パイナップルである。
はっきりゆるめの南国ムードなのだが。本人はどう思っているのか。
「ハナキリン」はかなりでかい。成長するタイプの多肉で木みたいだ。

カランコエでは、「月兎耳」「熊童子」「胡蝶の舞」だ。
もうフワフワなうさぎの耳のような「月兎耳」は、なくてはならない多肉である。
しかしどちらかというと弱い。
どれもそうだが、特に寒さには気をつけたい。
「熊童子」もぬいぐるみの熊の手のようで愛おしい。何と当たり前の感想か!
「胡蝶の舞」はその名の通りの姿と言って良い。これは上手いネーミング。

ハオルチアでは、「玉扇」「十二の巻」「雫石」が居る。
思いっきりアーティフィシャルである。
ぷっくりを超えて絶妙に切断面を綺麗に揃えてくるスタティックな構造など、屋外彫刻家もきっと唸るはず。
「十二の巻」はアロエを想わせる。これもポピュラーでそこここによく見つかる。
部分的に茶色くなりがちでそこが難しい。
「雫石」はエケベリアの葉っぱを限界まで膨らめたというような究極感が漂う。
破裂しそうで怖い夢に出てきたことがある。

ガステリアでは、「虎の巻」「臥牛」が居る。
白っぽいまだら模様がある「虎の巻」はけっこう大きくなる。
「臥牛」とは、そうは見えないが、見ようとすればその重量感から見えないこともない。
多肉ならではの量感そのものである。造形上、複雑さもあり芸術性を感じさせてしまう。

リトープスでは、「日輪玉」が居る。
これも少しずつ大きくなっている。
もうこのカタチだけで文句は言わせないつもりだろう。
鉱物的な(瀬戸物などの焼き物の質感もする)二枚の葉っぱで即物的に成り立つ。
二葉の間から鮮やかな花を咲かせる。
こちらの無意識を擽ってくる確信に満ちた奇妙な生き物だ。


これら多肉は「目」というより「属」によって大きく形が異なり雰囲気も違う。
どれくらい種類があるのか知らないが、日本原産のものがあると聞いて驚いた。
強烈な日照が必要なものと、日光で葉が焼きただれてしまうものもある。
寄せ植えは似たものでしないと上手くいかない。



動物で言えば蝶や鳥などが特にそうだと思われるが、このアーティフィシャルで幾何学的なクオリティは圧倒的だ。
つくづく思うが人の作った芸術など寄せ付けない、造形美を自身の体で体現している様は果敢無くも潔い。
ミドリムシは動物と植物の両方の特性を持つが、多肉は植物と鉱物の間に位置するような形態ー幾何学性がある。
夢の中で一途にこのような美を生き、それがそのままカタチとなって現出していくのだ。
植物とは元々そういう存在なのだと、いつしか彼らの生と同調を始めていた。
剥き出しの夢を!である。

ちょっと危ない。



表現でも内面でもなく ~風景はコード化されていた。

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インターステラーを再度観なければ、と思いつつ、先延ばししている今日この頃。
雨が冷たい。
相当冷えた。

最近は小さなノートでBlu-ray Discを観ることが多い。
ゴダールやレオン・カラックスなどは、それで充分観ることができる。
しかし圧倒的な自然が描かれるものなどは、パネルがデカくないとだめだ。

だが、小ぶりのパソコンをベッドに持ち込んで観たい。
今日は通院ではないが、用があって外に出たため、特に暖かく居たい。
小さな画面でも思いの他観れるものは多いものだし。

最初の入院時もベットでパソコンばかり見ていたが、あの時は疲れるばかりであった。
パソコンを持ち込んだこと自体、後悔した。
しかし自宅静養して、ベッドで適当にパソコンで映画を観ているくらいなら、寛げる。


今日必要以上に外出に時間がかかってしまったのは、帰りに何処ぞの絵画クラブ(会)の発表会をついでに見てきてしまったからだ。(おかげで途中から雨にやられた。傘も忘れた)。
かつてなら、もう随分お休みしているもうひとつのブログ”Low"にすぐさま感想を書き込むところなのだが。
書く気に全くなれない。
疲れのせいではない。

水彩画で絵葉書的な絵がずっらと並んでいる展覧会であった。
見る前からどんなものか100%予測のつく類のものに違いない。
左官屋さんの初級者からベテランまでの手際を見るだけのものだ。
その通りだ。
内輪の会だ。

ある種、綺麗に描けるとそこに満足してしまう。
対象そのものや対象との関係など目に入らない。
対象を描くのではなく、綺麗な絵が手際よく仕上がればよい、という世界だ。
お手本を模写することに終始していた頃の日本画と同様である。
対象は絵を作るためのきっかけに過ぎない。
以前TVで観た、中国の観光絵画の製作の流れ作業を思い出した。

空疎な趣味だが仲間内で満足できればそれで良いだろう。

ちなみにその手の絵なら実際、造作無く描ける。
印象派風の絵画もパタンは幾つかあるにせよ、決まっている。
それ風の絵ならいくらでも描ける。
すでにコード化されているからだ。
それを確かめあう作業なのか。
そういうところなのだ。
お互いに認め合う場。
ここで落ち着いていれば、確かにアイデンティテ-は保証される。

伝統芸のレベルまで洗練されればまた違う感慨ももてるかも知れないが、そのようなベクトルもない。

居た堪れなくなって、雨の中を帰った。
その絵に対してだけでなく、その場に対して。


外部に特に何かを求める必要性など、ないことに改めて気づく。
小さめのパソコン画面があれば、ほとんど事足りる。
(メールの確認なら最適だ)。
そう、足ることを知る、である。
(しかし、インターステラーは大画面が必要だ)。


4月病

aoi yuu

松たか子主演の「四月物語」(岩井俊二監督:大学の後輩)は、涼やかでしっとりとした香りに満ち、郷愁と焦慮の念にちょっぴり駆られる名作であった。
あの書店での一時や雨の日の傘を借りるあたりの光景は、秘めやかな印象をいつまでも胸中に残す。

これに少し似た印象をもった映画に「船を編む」があった。
松田優作の長男と宮崎あおいの共演で、ひたすら辞書を創る映像が静かに淡々と展開してゆく。
この雰囲気が瑞々しく結晶化を起こしていた。

そう、きっとこのような静謐な時空の果てに、計り知れない何かが起きているのだ。
余白の世界。
間において。
予感がする。

そんな日常であり、無常である。


話は変わる。

一般に4月というと、いろいろやる気を出しすぎて、やたらと友達作りに励んでしまったり、講義や仕事を取りすぎたり、本やら何やら買いすぎたり、趣味や習い事を始めてしまい、しょっぱなから自分の首を絞めてしまう傾向があるという。
しかしわたしは、4月にやる気になったことがない。
例外的存在なのか?

また、健康面からいつもの暮らしに「深呼吸」を入れましょうとか、気温差がもたらす春のイライラに「ジャスミン茶」を加えましょうとか、ポカポカ陽気の眠気に「雑穀」入りのご飯を炊きましょうとか、歓送迎会の胃腸酷使に「しじみ」をお味噌汁の具に加えましょうとか、、、さらに「はしか」もこの時期、新しい環境においてかかりやすい(感染し易い)というアドヴァイスもある。
わたしはもうはしかはやっているので、取り敢えずOKだ。

というより、わたしはそういう状況からはまるきり外れている。
自分の身体感覚にまるで触れてこない。
「これらの日常」には、遠方の結晶化が感じられない。
そしてわたしの現状。
自分を締め付け、酷く体力を減衰させる鈍痛には慣れることが出来ない。
これは、言い方が逆であって、慣れることが出来ないから苦痛と、人はそれを指して言う。


医療に何を頼むのか、任せるのか。
やはり苦痛の除去は大きい。
しかしそれで却って麻痺するのでは困る。

静謐な時空における予感を感じる身体が異化しているのが分かる。
身体は謂わば純粋なアンテナだ。
0を前提に在りたい。
器官なき身体であって欲しい。

生きるとは強度において身体を感じないこと。
無常を刻々と感じること。


インターステラー

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Interstellar
2014年
アメリカ

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作

マシュー・マコノヒー、、、 ジョセフ・クーパー
アン・ハサウェイ 、、、アメリア・ブランド博士
ジェシカ・チャステイン 、、、マーフ
エレン・バースティン 、、、、、、。マーフ
マイケル・ケイン 、、、ジョン・ブランド教授
マッケンジー・フォイ 、、、マーフ
ジョン・リスゴー 、、、ドナルド・クーパー
デヴィッド・オイェロウォ 、、、。、校長
コレット・ウォルフ 、、、ハンリー先生


確実に「2001年、、、」を超えた。
というよりあちらの作品が過去のものとなった。
その科学的な厳格さにおいて。
特に重力と5次元への切り込み方である。
ある意味、今一番ホットな領域と言えよう。
それをしっかり支える理論に則した特撮映像・CG。
ユニークで機能的で信ぴょう性あるロボット。(moonに出てくるロボット同様存在感があった)。

ブラックホールに引き込まれてから、重力のみ流出する5次元の描き方が秀逸である。
時間と重力が主役である。
マーフが恩師に「時間の仮定をそのままにして問題を解こうとする前提が誤りだ」と漏らすところ、思わず乗り出してしまった。
ブラックホール内にある特異点、その中心からデータを拾うことで重力の解けない部分を解く。
これが死にゆく地球から人類を宇宙ステーションに運ぶ計画を現実のものにする。
(実際、特異点データが手に入らぬためこの計画は最初から諦められており、主人公たちは騙されて出発したのだった)。
非常に示唆的なやりとり満載である。
そしてディテールに渡る映像の質が説得力をいやが上にも高める。
ワームホール、ブラックホールのリアリティ。
ほとんどすべて理論上でしか存在を推測できていない、光の届かないものが精妙に描がかれている。

時間が物理的次元である代わりに、特定の存在を見つけられない、という見解には唸った。
それは主人公とその娘との時間を巡る壮絶なドラマともなる。
マーフがポルターガイストとして注目していた現象は、父が放つ異なる次元からのデータ通信であった。
次元を繋ぐ唯一の力、重力によるバイナリーデータとして。(本も落ち腕時計がモールス信号を打ち)
父と娘の絶対的な絆がそれをはじめて情報化するに至る。
さらに生命力と意志が重大な決定力となることを随所に知る。
見事なユレーカである。


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しかし地球を捨てて他の星に移住ということの困難-不可能さを心底思い知る映画でもあった。
あの恐ろしい海の星。そして見渡す限りの氷だけの地表。
迫り来る途轍もない生命に対する拒絶。
孤絶と狂気。
実際、そうなのだろうな、とつくづく思う。
われわれに最適化された地球の死を早めるような愚行はすべきではない。
さすがにわたしでも思う。
同時に重力の問題の解決-相対性理論と量子論が統合されることが待たれる。


極限的に練りこまれた骨太の大作だ。
SFものによくあるご都合主義など微塵もないストイックさで貫かれている。
人間ドラマも科学理論・VISIONと深く絡んでそれぞれに展開する。
特にマン博士だ。このストーリーの重厚さを窺わせる一端であろう。
これを見て、ほかの作品を思い浮かべるとしたら、”コンタクト”くらいのものだ。
どちらにも、マシュー・マコノヒーが出ている。
幸せな役者だ。

キャストはみな適役であったが、娘役が3世代に渡ってよかった。
特に子供時代の娘役のマッケンジーフォイは素晴らしかった。
ジュディーフォスターに負けない存在感である。
この娘の将来性には恐るべきものが感じられる。
アンハサウェイも健闘していた。

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ニューホライズンズ

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冥王星探査機。
NASAが2006年に冥王星及び太陽系外縁天体に向け打ち上げる。

そしていよいよ、今年の7/14に冥王星に大接近を果たす。
9年以上をかけた旅である。

これまで冥王星に関するデータは本当に乏しく、その画像もまともに見れるものはないに等しい。
今回恐らく非常にくっきりはっきりした星の様子を見ることが出来るはずだ。
楽しみである。

木星重力によりスイングバイして一途冥王星に向かったニューホライズンズ。
その間、地球上ではいろいろなことがあった。
ニューホライズンズにとって由々しきことも。
何と到達目指す冥王星が惑星から準惑星へと、多数決で降格されていた。

しかし、それで旅の価値が下がったわけではない。
太陽系外縁天体の数が飛躍的に増え(発見され)、おまけに冥王星の衛星もいつの間にか5つになっていた。
エリスは知られていたが、その他にも次々に見つかったのだ。
そのために、冥王星よりも大きな星も見つかるに至り、冥王星の降格が決まった。
仕方ない。惑星が何十も生まれた日には、われわれも覚えきれないではないか。
結局、太陽系外縁天体の天文学的な重要性と注目度が跳ね上がる。
かの土星のトリトンも外縁天体の1つが重力的に捕まったものだと分かった。
この帯域は太陽系ができたときの記憶の宝庫であるという。
星ができてからほとんど変わらない状態である(惑星まで成長できなかった)こと、特に低温のため揮発せず有機物が保存されているという点は大きい。
わたしにとっては、その有機物のため、冥王星が色彩的に鮮やかな星であるということ。
色彩こそまさに生命の表現であるという感慨に改めて浸った。

そのため任務はより重さを増した。


ニューホライズンズは、7/14に一瞬の最接近をして冥王星から離れてゆく。
いつもわたしはこのような探査機に喩えようのない儚さと無常観を抱く。
9年以上かけて59億km飛び続け、やっと出逢った途端に別れてしまう-任務を終えてしまうのだ。

冥王星の重力は小さく、探査機がその周回軌道に捕らわれるほど減速は出来ない。
小さな探査機ニューホライズンズに逆噴射機構やその燃料を積みこむことは無理である。
さらに地上からのオペレーションは電波の9時間のズレからおこなうことはかなわない。
予めプログラミングされた任務を全て、すれ違いざまに一発勝負で遂行するわけだ。
このあたりにはイトカワのような小さな天体が無数に飛んでいる。
これらの衝突アクシデントの危険にも晒されている。(そこは冥王星の衛星の重力を頼みにするようだが)
その潔さ。
堪らない。


そしてわたしがいつも途轍もない不安と限りない憧れをもって夢想する海。
われわれにとって海以前の海、いや海以上の海。
海とは何か、そのことば以前の海。
しかもそこはどうやら死の海ではない、、、。

エンケラドスにも100km以上の高さの間欠泉が吹き上げているというが。
この冥王星にも地下に巨大な海が存在し、間欠泉も吹き上がっているという。
有機物を含んだ海と表面の氷。
色彩に彩られた海-世界。

不安で苦しくなるほど魅了される。


4月は魔の月 ~マイクロRNA

わたしは、4月に体調が良かったことは、ほとんどないが、今年は過去最悪の月となる。
これほど体調の酷かったことはない。
まだ過去形で語れる状況ではない。
今日はまだ6日か?
そうだ、6日。
小学校の入学式であった。

実質、外的状況がどう変わったわけでもない。
3次元世界が時間的にリニアな方向性をもって生成(衰滅)されているのは確かだ。
ただ、それを受け止める主体における確実な変化が進んでいる。
その言い方は間違っている。
主体諸共の表象のあり様なのだ。
居心地の質が明らかに異なる。
それが暑いのか寒いのかよく分からない。
痺れて、鈍痛に響くにしても、、、
その意味が定まらない。


マイクロRNAという核酸の報道をTVでちらっと観た。
国立癌センターの分子細胞治療の一般向けさらっとした解説だった。
そこでmRNAの他に小さく切断されたマイクロRNA(miRNA)という核酸があることを初めて知った。
細胞間でのコミュニケーションにも使われる短い(塩基の少ない)核酸らしい。
細胞の中にいる。その種類が2500くらいだそうだ。
確かに細胞同士でのやり取りが出来ないと全体ー生体として都合が悪い。
主に彼らはRNAのDNAコピー制御をしているそうだ。これは凄い役割だと言える。

RNAにマイクロRNAが接合すると、そのRNAは作動しなくなるという。
実験でRNAに被さるべきマイクロRNAを取り除けると異常なタンパク質増殖が起き、生体の成長・老化に異常をきたす。
何せ、ヒトのDNAにおけるタンパク質設計情報は、0.4%らしい。
つまりタンパク質合成のための遺伝子情報を含まないRNAがあるということ。
DNAから転写されたといえ、ノンコーディングのRNAがたくさん存在することになる。
その中にマイクロRNAもあるらしい。

マイクロRNAはそれぞれが特定の機能を有しているという。
つまり、どのRNAの働きを制御するかという役目だ。
そのマイクロRNAの機能が正常に働かない時に癌細胞が生成されることになる。


癌の発症はその初期状態においても、マイクロRNAが血液中に流れ出すことが分かっている。
癌には13種類あり、それら全てが血液1滴中に、どのmiRANが含まれるかで何癌であることが特定できるそうだ。
つまり極めて初期の癌があっさり血液検査ではっきり分かってしまう。これは感度において大変なことだ。
これまでの腫瘍マーカーでは初期は発見できない。
もっとも、それをしっかり特定するまでは、相当数の検体による臨床実験が必要とされるはずで、一朝一夕に実際の医療に使われるのは無理であろう。まずはデータベースの準備だ。
しかし、確かな理論さえ構築されていれば、後はその実証と技術的な面だけである。

また、当然であるが、特定のマイクロRNAと特定の癌の関係が判明すれば、解析・診断だけではなく治療に使える。
マウスによる癌の抑制例も科学誌に発表されている。
体に優しい核酸治療。
再生医療にも応用されるはず。
マイクロRNAがips細胞のような万能細胞に初期化できるなどという凄いことを何気なく言っていた。


この身体に優しい治療というのが、わたしにとっても主要テーマとなる。
ともかく、痛みや痺れ苦痛の伴う、しかもはっきりしない治療からは解放されたい。
これは切に願う。


「ただこの耐え難い痛みをとってください。そうしてくれたらもうニ度と来ません。」
プロコル・ハルム「グランド・ホテル」より”ロバーツボックス”



生活の質 ~後遺症と再発を睨みつつ

”Quality of life”
最近つくづく感じるところである。

病後、後遺症や再発の危険性に悩まされつつ自分の生活をすることの難しさを痛感する。
生活の質は明らかに低下するが、現状に則した生活を送る必要がある。
そこを考えずに、やるべきことなど出来はしない。
周囲は全くこちらの状況になどお構いなく動いており。
もはや、わたしのやるべきこと自体の輪郭も薄れてゆく。

5月にまた手術前入院をし、そこで副腎からホルモンがどのように出ているのかを確認する。
その際、片方だけから流出しているのであれば、その片方を摘出する。
しかし、両方からであれば、両方を取ることはできないため、薬の投与だけで今後も進めていくことになる。
現状維持は辛い。
手術で高血圧だけでも治れば、今後のリスクもかなり減り、生活の質もある程度保証される。
まずは、薬から解放されるのがありがたい。
薬を飲むだけでも、気持ちが塞ぐ。
前回の検査入院で、検査結果全てが陽性と出て、原発性アルドステロン症であることが分かった。

病名がはっきりするだけで、安心することはある。
その対処法が取り敢えず確立していることが多いからだ。
つまり安全性も通常あるレヴェルを維持している。

今後は、自宅におけるリハビリである。
幸い機能的な障害が全くないため、首・手足の痺れと頭のズシッとした重さである。
それに、5時を過ぎると急激に疲れてくる。
これが大きい。
何か根を詰めて行うことはほとんど出来ない。
文を書き散らすのがせいぜいだ。

公園への散策と軽い凝りを取る体操だけしているが、微妙な立ち位置だ。
回復期リハビリとかならそのための施設はあるが、わたしの現状にちょうど合ったリハビリ機関は見つからない。
わたしの場合、すぐに(1ヶ月で)自宅に戻されたが、「維持期」リハビリの過程に属するのか。
死滅した脳細胞の近傍の細胞が新たなネットワークを形成することで、その機能をある程度まで肩代わりすることはよく言われているが、これはリハビリの質に負われることも多いらしい。

記憶の飛びも気になる。
これは精神的な問題と処理されることが少なくない。
精神神経科での心理テストなどである程度、それが器質的な欠陥によるものかどうかが分かるという。
結果、気のせいですよと言われたとして、何か解決する問題ではないが、それも5月にプログラムされている。

いずれにせよ、自分が自身の身体を構造的に捉えていないと、治療が統合的に進まない。
しかしものを考える当の部署がぼんやりしているため、何とも名状しがたい状況下にある。
身体に薄皮が一枚被されている感覚と称すべきか?

ビビットな世界が懐かしい。

再起動を図りたい。



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エンド・オブ・バイオレンス

Andie MacDowell

ヴィム・ベンダースの作品は、どれもが優れた廃墟Videoだ。
ライ・クーダーが今回も音楽を担当しているが、このサウンドが響き渡る光景はベンダース特有のものである。
ひと目で彼の映像であることが分かってしまう。
心地よい絶望的なlandscapeが広がる。

これもロスが舞台だ。

「暴力の終焉」を狙った国家規模の暴力システムを軸に物語は展開する。
このシステムはあらゆる場所の監視に留まらず、その行為自体と行為者も強制終了させる。
近い将来、Googleも危ない、、、気がしてくる。
このシステムの開発者の預かり知らないところで、その終焉システムが作動していた。
システムの動作に疑問を抱き、そのことをついに突き止めた彼は、一度だけ会ったことのある映画プロデューサーにメールでその情報を送る。

それが切っ掛けでそのプロデューサーも命を狙われることになる。
(彼を誘拐した二人組もシステム作動テストに利用されたのか?)
国家機密に触れてしまった者、それを他者に知れせてしまった者、協力を断った者すべて命を狙われる。
開発者も銃殺される。

プロデューサーから離れる妻、彼の秘書、彼を匿ったメキシコ人たちとの暫しの暮らし、暴力音楽を売りつける黒人ラッパー、女優に鞍替えを図るスタントウーマン、事件を追う若い刑事、システム開発者の元で働くメキシコ女性とその娘、密やかだが、ひと時の安寧を生きるシステム開発者とその父との関係、などが稠密に交差されて描かれる。

ベンダースの作品はスリルとサスペンス映画に陥らない。
ここには、スリルも無ければサスペンスも無い。
勿論、SFでも無い。
「存在」を脅かす不安と緊張は絶えることないが。
そして醒めた諦観。
カフカの作品を読む感覚に近い。

特に、二人のチンピラに襲われた後、メキシコ人家族のなかに主人公が身を隠して過ごす、少し長めのシーン。システムエンジニアと父との暮らし。最後のメキシコ人女性(エンジニアの下働き)とFBIの男とのやりとり。彼女の娘と主人公との空を見上げて心を通わせるシーン、、、この辺がヴィム・ベンダースらしい世界の雰囲気がとてもよく醸されていた。
わたしの印象に残るシーンである。


この映画、女優陣が個性的で誰もが際立っており、印象に残る。
またシステムエンジニアの淡々とした(しかしシステムテスト中は常に神経質で過敏である)演技はこの映画の基調を作っていた。


あの圧倒的名作である「パリ、テキサス」や「ベルリン、天使の詩」にも感じられる、深い味わいが何時までも消えない。



おしゃれ泥棒

Audrey Hepburn01

Peter O'TooleとAudrey Hepburnの共演であれば。
弥が上にも期待してしまう。
勿論、期待を裏切らない傑作。

2人とも美術館の雰囲気が似合いますな。
とはいえ、美術館の変なところに隠れているのがほとんどだったが。

オードリーはここでもGIVENCHYです。
確かにいつも着こなしているだけあって、自然ですね。
普段着という感じです。(尼僧物語でも着ていたほどですから)。
美術館だけではなくオードリーの家、室内、調度品、家具類に至るまで非常に高級感ある品格を感じさせるセットです。
何しろ今回は大金持ちの凄腕の贋作画家をお父さんにもつ娘です。
お父さんがオードリーには似てもにつかないですが、そこはご愛嬌(笑
とてもよいお父さんなのですが。
懲りないお父さんで、娘も心配です。娘婿も(笑。

車がかなり現代的になっているところから、もう彼女もかなりのキャリアを積み重ねてきたわけですが、とっても若く見えます。
ピーターの方が年下ですが、劇では彼より若い女性を生き生きとした感じで演じています。

文字通り、話は“How to steal a million"の方向で展開しますが、
面白いギミックとユーモアに溢れていて、緊張感はあまりなく、
ブーメランや磁石のからくり等、遊び心たっぷりで笑えます。
ピーターやお父さんとのやりとりもウェットにとんでいてクスッと笑えるところ満載。
深夜の警報から後の警備員たちの騒ぎはドタバタコメディとしても一級品です。

そして標的のヴィーナスがオードリーにそっくり。
鑑定家(自称美術品泥棒)のピーターはやけにそれに拘る。
実はGrand Motherがモデルだと、納得(笑
そして、おじいさん作であると。
芸術家一族ですね。
(まっとうな芸術家でもやって行けるところを、有名贋作一族で通すところが面白い)。

オードリーの作品は、最初危ない感じの相手役が実は地位のある正義の人、というパタンが多いですね。
(”暗くなるまで待って”は、最後まで辛く厳しかったですが)。

配役がまさにピッタリでした。
わたしの後味の良い映画ベスト3に入ります(笑


わたしは、”ローマの休日”とともに、この映画が大好きです。
勿論、”ティファニーで朝食を”、”麗しのサブリナ”、”昼下がりの情事”もこれに劣らぬ出来ではありますが。
雰囲気がオードリーにとてもあっています。
ピーターも力が抜けていて、こちらもホッとします。

血圧も安定します(笑





”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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