バタフライエフェクト
最近は、あの時こうしていたら、などと述懐するようなことは無くなった。
後悔の念など微塵もない上に過去という物語に興味関心がない。
今を受け容れ生きる以外になにもない。
それ以外の存在形式がない。
今以外にこころを沈潜させる場所がないことを深く実感する。
何かを思い出そうという気持ちも起きない。
今を生きるのに、過去の何かを持ち出す理由がない。
何もないのだ。
何もないのに過去をでっち上げることの馬鹿らしさにはついてゆけない。
過去の実体化はあの時の何かを変えたいという気持ちが起こすもの。
それで今が何とかなるのか?
あの時など無いにも関わらず。
何かを変えることは、全体を変えることになる。
だからバタフライエフェクトなのだ。
全ての物事は関係性の網の中に現出する。
意識化出来ることなど1%もあるだろうか?
そもそも記憶とは何か?
それが最も当てにならない。
過去の実体化により、持続する混沌とした生成過程のどこかを物理的に切断した空間にアクセス出来たら、という憧憬が生まれる。
これは、その幻想・妄想の閉鎖空間内の物語を描いた映画か?
この主人公は少年時代によく記憶が飛んだ。
どうやら飛んでる隙に重大な事が起きているらしい。
今起きている問題はその時に起きたことが重要なファクターとなっている可能性が高い。
そこで、空白の時間について真相を探ってゆく。
当たりが付くと、当時付けていた日記を見てその時に時間移動し、そのシーンを変える。
そして戻ってみると、また別の不都合が起きていて、そこの修正のためにまた飛ぶ。
これを繰り返す。
脳内に起きている妄想劇であればこれは成立するだろう。
ディテールまでよく行き届いた物語が描かれている。
主人公はなかなかの作家である。
いや脳が勝手に現実をくまなく編集してしまうのか。
そうなのかも知れない。
現実なんてそんなものだ。
果たしてそんなものか?
現実は掴みきれない。そんなものではない。
舞台ではない。書き割ではない。距離はない。全てがひとつのタペストリーである。
現実の分厚さに圧倒されつつ、その意味を実感するのではなく、変更を試みようとする意識とは?
大切な者を守ろうとした時か?
それが可能かどうかという問題ではなく、その方向性でモノを考えること自体、お粗末だ。
単なる狂気以外の何ものでもない。
わたしは断じて共感しない。
後悔の念など微塵もない上に過去という物語に興味関心がない。
今を受け容れ生きる以外になにもない。
それ以外の存在形式がない。
今以外にこころを沈潜させる場所がないことを深く実感する。
何かを思い出そうという気持ちも起きない。
今を生きるのに、過去の何かを持ち出す理由がない。
何もないのだ。
何もないのに過去をでっち上げることの馬鹿らしさにはついてゆけない。
過去の実体化はあの時の何かを変えたいという気持ちが起こすもの。
それで今が何とかなるのか?
あの時など無いにも関わらず。
何かを変えることは、全体を変えることになる。
だからバタフライエフェクトなのだ。
全ての物事は関係性の網の中に現出する。
意識化出来ることなど1%もあるだろうか?
そもそも記憶とは何か?
それが最も当てにならない。
過去の実体化により、持続する混沌とした生成過程のどこかを物理的に切断した空間にアクセス出来たら、という憧憬が生まれる。
これは、その幻想・妄想の閉鎖空間内の物語を描いた映画か?
この主人公は少年時代によく記憶が飛んだ。
どうやら飛んでる隙に重大な事が起きているらしい。
今起きている問題はその時に起きたことが重要なファクターとなっている可能性が高い。
そこで、空白の時間について真相を探ってゆく。
当たりが付くと、当時付けていた日記を見てその時に時間移動し、そのシーンを変える。
そして戻ってみると、また別の不都合が起きていて、そこの修正のためにまた飛ぶ。
これを繰り返す。
脳内に起きている妄想劇であればこれは成立するだろう。
ディテールまでよく行き届いた物語が描かれている。
主人公はなかなかの作家である。
いや脳が勝手に現実をくまなく編集してしまうのか。
そうなのかも知れない。
現実なんてそんなものだ。
果たしてそんなものか?
現実は掴みきれない。そんなものではない。
舞台ではない。書き割ではない。距離はない。全てがひとつのタペストリーである。
現実の分厚さに圧倒されつつ、その意味を実感するのではなく、変更を試みようとする意識とは?
大切な者を守ろうとした時か?
それが可能かどうかという問題ではなく、その方向性でモノを考えること自体、お粗末だ。
単なる狂気以外の何ものでもない。
わたしは断じて共感しない。