プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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リ・ウファン ~ベルサイユ宮殿 ~鉄板と岩石そして巨大なアーチ

木の葉のざわめき。
月の満ち欠け。
雲の変幻。
昇る朝日と沈む夕日。
群れ飛ぶ鳥影。
これらが、常に見える部屋で過ごしたい。
と想うことがある。

繋がりが欲しいのだ。
自然の鼓動と。
物たちと。


李 禹煥(リ・ウファン)。
pic002.jpg

pic001.jpg

日本の現代美術の牽引者。
ベルサイユ美術館に招かれ。
フランス式庭園に巨大な野外彫刻いや物の構成を行った。
それはまるで大型ビルの建設のようなかたちで進められていったそうだ。

「物派」である彼。
石と鉄の芸術家。
マテリアルな素材に拘る。

物質の持つ意味に触れるため。
そのままの世界の鮮やかさを晒すため。

これだ。


長く薄いカーペット状の金属を敷く。
通ったことすら気付かない程の巨大な金属アーチの下に。
真っ白の小石を敷き詰めた上に大きな石を北斗七星の形体に並べる。
巨大な塀のような鉄板に丈高い木々の葉のそよぎが映り込む。
すぐ傍らで大きな丸みを持った岩石が眠り込む。

廃墟の記憶-破壊されてもなお残存した場を再現する。
そのアート-インスタレーションは、わたしの無意識の希求に共鳴した。

彼の信条は、その場所を輝かせること。
わたしもそういった場所を創ってみたい。
それは取りも直さず、もっとも心地よい場所になる。

物たちが全て自ら煌き立つ「廃墟」に暮らしたい、と時折想ってきた。
勿論、廃墟そのものに暮らすことは叶わないが、そのような部屋をひとつ欲しい。
芸術が生活に一体となった、とかいうアーツアンドクラフツ(ウイリアムモリス)的なものではなく。
もっと物のむき出しとなった姿が自然の中で美しく融合いや連動していることが感じられる場所。
木々と葉の揺れ、日の色合いに鼓動-固有時の休められる部屋が欲しいと想う。
様々な時間を捉えられ、時間を超越できる廃墟。
廃墟としての棲家。

これが理想だ。

リ・ウファンのルーブルの巨大な庭園造形には、触発された。


何らかの形でわたしも造ってみたい。
それがミクロ規模のモノでも、アリかも知れない。

バベル

kikuchi rinko
Babel
2006年
アメリカ

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督
ギレルモ・アリアガ脚本
グスターボ・サンタオラヤ音楽

ブラッド・ピット 、、、リチャード
ケイト・ブランシェット 、、、スーザン
ガエル・ガルシア・ベルナル 、、、サンチャゴ
役所広司 、、、ヤスジロー
菊地凛子 、、、チエコ
二階堂智 、、、ケンジ
アドリアナ・バラーサ 、、、アメリア
エル・ファニング 、、、デビー
ネイサン・ギャンブル 、、、マイク
ブブケ・アイト・エル・カイド 、、、ユセフ
サイード・タルカーニ 、、、アフメッド
ムスタファ・ラシディ 、、、アブドゥラ
アブデルカデール・バラ 、、、ハッサン



この世は「ことば」で出来ている。


この世のほとんどの問題は「ことば」の問題だ。
今更であるが、そう言うしかない。

この映画は、極限的シチュエーションでその問題を浮き彫りにしてみせた。
しかし当事者はそれに気づかないことが多い。
ただ憤るだけ、ただ嘆くだけ、ただ悲しむだけ、ただ諦めるだけ、、、。

ただ、アメリカの家庭で働くメキシコの家政婦が最後に警察で述べることばがすべてを晒している。
「わたしは悪い人間ではありません。愚かな人間なのです。」

言葉はことごとく伝わらない。
外国語だから上手く翻訳できない、等という問題ではない。

権力の言葉、無知の言葉、偏見の言葉、傲慢の言葉、愛憎の言葉、差別の言葉、、、が相互に交わされ、双方にとって「ことば」として機能しない。
それらの関係を「言葉」でなく「目」にそまま置き換えてもよい。
全てが複雑に歪められ、単なる報復・暴走が起こる。
謂わばコミュニケーションの場ではなく(潜在的な)戦場と化すしかない。

メキシコ(及びアメリカ・カリフォルニア)、モロッコ、東京を舞台にストーリーは展開するが、ひとつの凶器ーライフル銃がその場所を繋ぐ。
それは戦争-兵器でもよいが、世界共通語はあたかもそれしかないような気がする。
明瞭に誰にも、それと分かることは、それくらいなのか。

そしてどの場においても、悪い人は取り敢えずいないといえるが、すべてが全く愚かでしかない。
弛緩しきった自堕落な日常で、極限的な事態にあって、どれだけヒトの愚かさが剥き出しになるか。

われわれには実は伝え合う「本当のことば」がまだないか、失われているのかも知れない。
今使っている言葉は、溝をさらに深める機能しかもたない、と感じることの方が圧倒的に多い。
一体、何を見ているのか?

この映画、極力先入観なく見てみると、つまり決めつけを解いて見てみると、一見当たり前に思えるシチュエーションが全く限定されていないことに気づく。
するとかなり恐ろしい事態が見えてくる。
菊池さんと役所さんは実はどういう関係か客観的な説明などされていない。
夜空の下バルコニーに裸体となった菊池さんの姿が、あたりまえの光景を全て異化する。
母親の死因にあの娘は何故あんなに拘るのか?
それにわたしも最後になって気づいた。
その目で見れば、幾つか露出しては来ないか?


われわれは、真っ新な目などもってはいない。
使い古された言葉に塗れて生きている。

この映画は、その先入した言葉を拭い取ることを要求してくる。


アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督のアメリカ映画である。
名前からすれば、メキシコか?
外国に来て映画を撮るという環境はまさにことばを際立たせる創造的な場ではないか。(もっともアメリカとメキシコなら外国という雰囲気でもないかも知れないが。)
夏目漱石もイギリス留学で見えてきたのは日本語である。言語そのものである。
カルロス・レイガダスという監督(闇のあとの光)よりも遥かにしっかりした普遍的な視座を感じる。


そしてわれわれにとってもっとも必要なことは、新たなことばの獲得かも知れない。


麗しのサブリナ

sabrina.jpg

シャンペングラスをお尻で潰したら痛いだろうな、、、!
"Sabrina"ですぐ思い起こすことはこれだ。
さらに、「お尻に刺さったガラス片が全部摘出出来たかどうか、分かるのか?」
「勿論、その破片でグラスを繋ぎ合わせる。」とすぐ返す、この小気味よさ。

そう、セリフがいちいち、小粋なこと。
テンポのよいこと。
日常あんなに粋な会話が出来たら、随分と生活が楽しかろうに。

今思うと、これはとても重要なことだ。
特に子供を育てるような場合。
このユーモアのセンス一つで、生活が一変するだろう。
それに気づいた映画だった。

ことばの使い方次第で全てが決まる、
そして、この映画も、「パリは人生を変える!」
「雨はパリの香りをよくするのよ。」
パリへの憧れ。

パリはアメリカ人にとって文化としての憧れの対象であったのでしょうね。
パリに行けば、素敵な人になって帰ってくる。
花の都パリです。

もっとも、サブリナはパリにあっても、ウイリアム・ホールデン演じるプレーボーイへの思いが断ち切れず、悩み続ける。
料理学校で同じ実習を受けている男爵にも打ち明ける。
「月に手を伸ばしても届かないの。」
「若いのに古臭い事を言う。月だったらロケット飛ばせばよい!」と笑顔で男爵。
全てがこの調子だ。
粋ですねえ。

会話だけでなく、ヘップバーンのサブリナパンツがこれまた粋です。
流行したそうですね。
GIVENCHYのドレスとともに。
しかし、ヘップバーンだからあんなに似合うとも言えます。

ハンフリー・ボガード渋いですねえ。
ジョークも含め、ひたすら渋い。

ウイリアム・ホールデン。
アメリカ的なプレイボーイの典型のようでいて、とても感性豊かで肝心な時には鋭い。好演ですね。

サブリナのパパ役の、ジョン・ウイリアムス。
お抱えドライバーとして仕える立場と娘を気遣う複雑な気持ちがよく伝わります。気品も漂わせた人柄に惹かれますね。

サブリナのまさに揺れ動く乙女心が生き生きと伝わります。
この「乙女心」の動きに合わせて物語が進展してゆきます。
確かな存在感と演技。
あの大作「ローマの休日」を撮ったすぐ後の作品。
彼女の美貌と実力を遺憾無く発揮してますね。
映画界における決定打を放ちました。
これで不動の人気を得ますが、同時に見事な痕跡を残したと言えるでしょう。

この作品、これからも多くの世代が見続けるのに、充分耐えるはずです。
昔のラブコメディとかSFなど、どうしても何処か古めかしいところが気になってしまうものですが。
この映画に古臭さは微塵も感じられません。
ビリー・ワイルダーの手腕によるところが大きいのは言うまでもありませんが。
恐らく何よりこの映画を輝かせているのは、ヘップバーンの魅力だと思います。
時間性を超脱した何かがあります。
1954年制作なのにファッション、車(ロールスロイス)、お屋敷にも全く古めかしさがない。
ある意味、これは驚異的なことです。

もし、女優が違うヒトだったら、ここまでの魔力は効かないと思います。

そして粋なユーモア。
生活の必需品。

その潤滑油が切れ始めたら、またこれを観ましょう。

楽しい映画です。




パリの恋人 

Hepburn.jpg

シンデレラ・ストーリー・ミュージカル・テイスト・シネマ。


オードリー・ヘプバーンとフレッド・アステア。
サニーファニーフェイスとピーターパンの出逢い。
話の流れが夢のよう。
いや、夢そのもの。
ハレそのものの強度で稠密に煌めいて進行する。
映像そのものが結晶体だ。

ここでも「プラダを着た悪魔」の編集長を劇画化したかのようなやり手の女性編集長が登場。
しかしこちらは少しばかりお人好し。
「これからは全てピンクよ!」
と言った割には、ピンクで塗り固めたのは最初だけ?
あれ?っと思ったが、流れはどんどん進行する。

アステアのカメラマンはとても粋だ。
写真を撮っている時も様になっているが、暗室で現像している姿がやけにカッコ良い。
やはり踊りに熟達しているヒトだからこそ、あのような作業の一連の流れも美しく無駄がないのでしょう。

書店のヘップバーンもしっくりしている。
本がヘップバーンにはよく似合う。
しかしあの撮影隊の傍若無人ぶり、当時それほどファッション業界は勢いが凄かったのか?
リチャード・アベドンの時代ならではか?
まるで王侯貴族が農民の民家に押入いるような暴挙だが、ヘップバーンはキスをされて何やら夢心地だ。これには少し無理を感じたが、それはわたしだけか?

後は「ボンジュール・パリ!」と言って歌って踊れば全員そのままパリへ。
この展開は速いというより飛躍している。
文字通り全員すぐにパリに飛ぶ。

「パリに行けばなんでもできる気分になれる!」
パリでは3人揃って、お上りさんのように歌い踊るが、驚いたのはヘップバーンの踊り。

酒場で、「自分を解放したくなったの」と言っていきなり踊りだした前衛舞踏!
いや、個性的なダンスと言ったほうが妥当か。
キュートとも芸術的ともなんとも取れない、視線を宙吊りにするダンス。
かなりの長い時間、その動きの流れ・アクセント・リズムに釘付けになってしまった。

彼女のダンスにアステアが全く絡まず、ずっと観ているというのも可笑しい。

アステアのダンスもかなり堪能はできたが、ヘップバーンのそれにむしろ惹きつけられた。
勿論、アステアのあのホテルの前の広場でのダンスステップは意外性はないが、見応えは充分。
(アステアの御年を考えれば、あそこまで踊れるのはやはり流石としか言えない)

編集長に「マーベラスなピクチュアを撮るのよ」と言われ、アステア・カメラマンのパリ市街で切り取るヘップバーンの広告写真が全てVOGUE誌の表紙のようで。ここでは、「ランウェイ」でしたっけ。

やはりあの場面がわたしには一番印象的でした。
まさに、リチャード・アベドンのスチル(STILL)を想わせるものです。

「共感主義」とか言う哲学教授がジャン・ポール・サルトルをモチーフにしているそうですが、あれではあんまりでしょ。
共感主義というのもヒトを食ったような珍妙さ。完全にサルトルおちょくられてますね。

最後はでも、「共感主義」の実践により、2人は結ばれるのですから、実用性のある学説なのかも。
ほんとにサルトルとは何の関係もないですが。


教会で踊る2人の姿は、マネというよりルノアールか?






パーフェクト・デイ ~ルーリード ~ローリー・アンダーソン ~スーザン・ボイル

スーザン・ボイルさんのカヴァーから

PerfectDay 

こういう、解釈も出来るのですね。
とても新鮮で晴れやかな気持ちで聴けます。

この曲は最後に4回静かに力強くrefrainされる”You're going to reap just what you sow”にすべてのイメージが収束され打ちつけてきます。
彼女は、かなり宗教的(特定の宗派ではなく自然の摂理への畏敬のよう)な、解釈で歌っているように感じられます。

”You're going to reap just what you sow”
やはりここにかかっています。
この歌をどう捉えるか。
どう聴くかは、ここの捉え方次第かと。
彼女は、とても肯定的に捉えていると思います。
「あなたの行いはきっと報われるのです。」おお神よ、、、。


(ボイルのカヴァーからは一旦、離れます)。

”I thought I was someone else
Someone good”
「わたしが別の者、もっとまともな人間だったらよかったのに。」
曲想からして最初から尋常な曲ではありませんが、このフレーズからあからさまに不穏になります。
とても不安に心細くなり揺れてきます。
そして例の最後のフレーズに至るのです。
何故4回も、静かに確かめるように囁くのですか?
耳元で囁くように。

「きっと報いを受ける。」(これに落ち着くか?)
だとすれば、、、
どう繋がるのか?

ひとつ、ここで当時のアーティストたちを思い浮かべてみます。
ミッシェル・フーコー氏も交え、フレディ・マーキュリー、キース・ヘリングなどの著名人(文化人)にも少なからず見られた同性愛者の光景と捉えてみますと。(当然ルーの周辺の多くの人々の中にも見られた光景でしょう。)

「きみの観た(捉えた)ままに受け取ればいいさ。」

どうにもできない業ー現実というものがあります。
”I thought I was someone else
Someone good”
諦観以外の何でしょうか?
PerfectDayなのに何故、このフレーズが、この自分の「存在自体」に見切りをつけたような一節があるのでしょう。
前提として自分たちにとってあり得ない”PerfectDay”を歌っている。

「そのふたり」の光景が淡々と呟くように歌われていたのでしょう。
(ルー・リードの視点は常にマイノリティーに向けられてきました。それにPerfectDayを反語と捉える方がルー・リードという詩人の場合必然に思えます。)
先ほど書いた、「業」が「病い」でもよいのですが。
「薬(ヘロイン)」もありかも知れません。

trainspotting  


という感じでしょうか。



みなさまの解釈・感想よかったらお伝えください。
(わたしが限定してしまったフレーズ関係なしに)


実はわたしは、つい最近まで、ルー・リードとローリー・アンダーソンがご夫婦であることを知りませんでした。
確かに、ロックを聴きまくっていたのは、大学卒業までですから。(友人はロッカーが多かったです)
わたしはルーもローリーも好きなアーティストで、アルバムはしっかりもってはいますが、、、ファンの風上にもおけませんね。

(なんせ、ジョー・ストラマーが亡くなったのも最近知ったぐらいですから。コンポーザーとしての彼に非常に注目していたのですが、早かったですね。慈善事業など社会貢献も先頭に立ち広くおこなっていました)。


ルー・リードとローリー・アンダーソンは、ソウルメイトとしてずっと一緒に暮らしていたそうです。
大変創造的な刺激を与え合っていたことでしょう。
でもある時、急に結婚することになったそうです。
急遽、土曜日に彼らの友人の家の裏庭で普段着のまま式をあげ、その直後にローリーはコンサートに直行したそうです。
同業者でよかったです。
その状況が理解し合えますから(笑
喧嘩にはなりません。

ルー・リードの肝臓癌がもう手の施しようもなくなった時、2人はニューヨークの自宅に戻り、朝の陽光を浴びたいというルーの希望で戸外に出たそうです。

わたしたちは瞑想の実践もしていたので、力を腹から心へ引き上げ頭頂部から抜けさせていく、その準備はよくできていた。それにしても、ルーの死に際しての表情ほど驚きに満ちたものをわたしは見たことがない。ルーの手は水の流れのような、太極拳の21式の動きを辿っていた。目はしっかり開いていた。わたしは自分の腕の中にこの世で一番愛しい人間を抱えながら、死にゆくルーと言葉を交わしていた。そしてルーの心臓が止まった。ルーはそれを恐れてはいなかった。わたしはルーとこの世の最期まで文字通り一緒に歩いていくことができたのだ。人生とはあまりにも美しく、痛ましく、まばゆいものではあるが、これ以上のことはありえない。そして死とは? わたしは死とは愛を解き放つためにあるものなのだと思う。

ルーはきっとまたわたしの夢に現れては、また生きているように思わせてくれることだろう。そしてわたしは今ひとりここに残されて、呆気にとられながらも感謝の気持ちでいっぱいになりながら立ち尽くしている。わたしたちの現生の人生において、わたしたちの言葉と音楽を通して、お互いのことをこれほどまでに変え合って、これほどまでに愛し合えたことは、なんて不思議で、刺激的で、奇跡的なことだったのだろう。


ローリング・ストーン誌(妻ローリー・アンダーソン寄稿)

”You're going to reap just what you sow”



Lou Reed   Laurie Anderson
”You just keep me hanging on”


ルー・リードの”PerfectDay”はSusan Boyleのカヴァーで聴きたくなりました。
彼女のあのVISION、充分にあり、だと思います。


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THEME:音楽 | GENRE:学問・文化・芸術 |

プラダを着た悪魔  ~アン・ハサウェイ

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何か興味をそそる邦題ではないですか?
「プラダ」に「悪魔」ときました。
原題を確認したら、”The Devil Wears Prada”
まんまですね(笑

アン・ハサウェイ。この人はアリス・イン・ワンダーランドでちょっと惚けてちゃっかりした美しい白の女王に扮していたのくらいしか知りません。
ミワ・ワシコウスカヤやジョニー・ディップの陰に隠れて、そこでは今ひとつ存在感は示し難かったように思えます。
無論、プリティ・プリンセスなどの作品がありますので、そちらを注目すべきですが、わたしはまだ観てはいません。

しかし、ここではメリル・ストリープの向こうを張って、彼女の魅力が全開?!
ファンの方どうでしょう?あのゴージャスなドレスの数々。着ていたのはプラダだけではなく多くのブランドを身につけていました。
女性が観たなら、ファッションだけでも面白いでしょうね。


お話は、、、
内容についてあまり語ってしまえば、それまでなので、なるべく触れないようにしますが。
あなたは、今自分が仕事を何となく始めていませんか?

それが多くの人が羨むポストであろうとも、やはり出来ることと、出来ないことがあります。
最終的にやりたい仕事のためキャリアを積む目的でやりはじめたとしても。
そう彼女は文芸誌のライター志望で、ファッションにはまるで興味のない素朴なインテリ娘なのです。

編集長(ストリープ)のあまりに無理な注文、横暴な態度。
場所も時間も関わりなく呼び出される。
アシスタントとは、あれほど大変な仕事なのか。
おかげで、私生活は無茶苦茶。
それは単に殺人的に忙しいとか注文が我儘過ぎるばかりではなく、人として出来ないと感じることまでキャリア・アップのために出来るのか、、、。

同僚や友人に愚痴をこぼす。
しかし愚痴をこぼす相手すら去ってゆく。

しかし、彼女のボスはこう言う。
”決めるのはあなたよ”
何度かこの言葉を肝心な場面に聴くことが出来る。
この言葉は重い。
この映画は、これを語るために作られたのかと思うほど。

また、華々しいファッション業界の奥深かさもじわっと感じられてくる。
わたしの大好きなセルリアンブルーやコバルトブルーの広まった由縁とか。

彼女も次第にファッション界やその仕事に詳しくなり、この業界の魅力を感じるようになる。
普通では会えない有名人とのパーティー、超豪華ホテルに、食事、アクセサリーの数々。
彼女は外面的にも洗練され見違える程に美しくなり、ドレスアップしてゆく。
辛口揃いのオフィスでも、彼女は徐々に認められてゆきます。
そしてコレクションのために行ったパリの華やかさにすっかり虜になり、有名なライターと恋にも落ちる。

が、”きめるのは、あなたよ”
この言葉が蘇る。
メリル・ストリープが言うから余計に重みも出る。

そうなのだ。
決めるのはわたし、なのです。

数々の犠牲を乗り越えてきたカリスマ編集長のハードな経験から放たれる強烈なメッセージなのです。

感情を胸の底に沈めたメリル・ストロープの孤高の凛とした姿は、主人公にも深い学びとなります。
非常にシビアでタイトですが、お互いなくてはならない関係になってゆきます。

しかしアン・ハサウェイも、決めます。



次は、あなたです。


そしてわたしも決めます。

近々(笑

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コンタクト

contact.jpg
Contact
1997年
アメリカ

ロバート・ゼメキス監督
マイケル・ゴールデンバーグ脚本
カール・セーガン原作

ジョディ・フォスター 、、、エリー・アロウェイ
マシュー・マコノヒー 、、、パーマー・ジョス
ジョン・ハート 、、、ハデン
ジェームズ・ウッズ 、、、マイケル・キッツ
トム・スケリット 、、、デヴィッド・ドラムリン
デヴィッド・モース 、、、テッド・アロウェイ
ウィリアム・フィクトナー 、、ケント
ロブ・ロウ 、、、リチャード・ランク
アンジェラ・バセット 、、、レイチェル・コンスタンティン
ジェイク・ビューシイ 、、、ジョセフ
ジェナ・マローン 、、、エリー(少女時代)
ジェフリー・ブレイク 、、、、、、フィッシャー


ついに「コンタクト」について一言書きます。

原作者のカール・セイガンのコスモス、懐かしいです。
SETIにはわたしもまことに微力ながら、協力させてもらっていました、、、。
妙にグラフィカルなインターフェイスにもワクワクしたものです。
所謂、グリッド・コンピューティングの走りですね。
当時はなんて言ってましたっけ。

作品としても「2001、、、」を超えた作品だと思います。
まだ「インタステラー」は観ていないのですが、父と娘との愛情とあらゆる視点から存在の孤独を描いた、孤高のSF映画であることに間違いありません。これがハリウッド映画なのか?カメラワークも絵も文句なく素晴らしい。ハリウッドの懐の深さを思い知る。

この作品。

カール・セイガンの意図をジュディ・フォスターが完璧に理解して演じているのが分かります。
その熱演は凄まじいものです。到底彼女以外にこの役をこなせるヒトはいません。

生まれて間もなく母を亡くし父も幼くして喪い、その喪失の意味、それをみたしてくれる何者かをひたすら求めて宇宙からのメッセージに耳を澄ませていた少女が、やがて優秀な科学者となり、長年追い求めてきた遠方からの信号を遂に捉えることに成功する。
その明らかに数学的な(意味のある)通信は琴座のヴェガからでした。
その解析過程の緻密な描写は非常に説得力のあるスリリングなものです。
またそれに対して政府の保守的な姿勢、マスコミ、一般民衆、カルト集団などの過剰反応や興味本位の空騒ぎなどが想定通り巻き起こります。
少なからぬ妨害や予算の削減や無理解に耐え、彼女は孤独の中で高度な知的生命体からのメッセージを解くために奮闘します。
そのかいあって、解読に見事成功。その設計図を元に紆余曲折を経てヴェガへ向かう一人乗りポッドが製造されます。
しかし神学者たちから信仰に関して問い詰められ、彼女が実証主義者であるという理由から、政治的に上手く立ち振る舞う功名心の強い政府科学顧問にコンタクトの貴重な機会を奪われてしまいます。
しかし、その輸送船はテスト中に、テロにより爆破されてしまうのです。

一旦は水泡に帰したかに見えた計画でしたが、天才的なエンジニアであり財閥でもあるハデン氏と、日本の技術力の助けを得て彼女の夢がようやく達せられることとなります。
北海道にもう一つ建造されていたポッドに乗りこみ、彼女はワームホールを幾つも抜け、ついに18時間に及ぶ地球外生命体とのコンタクトを果たすのです。
「2001、、、」より遥かに説得力のある美しい光景。

それは自分が大いなる愛の一部であることを知る体験でした。
周りは地球の優しい海辺の光景。
そこに蜃気楼のように立ち昇る影が、、、それが父親の姿となり彼女のもとに静かにやってきます。
(彼は彼女の記憶から父の姿を借りた高度な知的生命体です。)

「会いたかったよ。」ここからのシーンはわたしには、もう感極まってしまい、、、。
涙なくして観れません。
「ごめんよ。そばにいていられなくて。」(勿論、彼女には彼が誰か分かっています)

「何故、コンタクトして来たの。」

「いや、われわれは聞いていただけだ。君たちが発信してきたのだ。」
「母親と同じ手だ。」
「君たちは美しい夢を見る力をもつが、恐ろしい悪夢も見る。そして途方に暮れ孤独に苛まれる。」
「われわれは何十億年も待った。」
「孤独や虚しさを埋めてくれるのはお互いの存在なのだ。」

「これからどうなるの。」

「家に帰りなさい。」

そして幼い頃、「CQCQこちらW9 GFO」と宇宙に送信し続けている彼女に父親がかけた言葉。
「焦らないで、気長にやりなさい。」
全く同じことばが、再び父の姿をした彼からも発せられる。


その感動に満ちた認識だけ受け取って、彼女は帰還する。
その間、地球時間では1秒に満たない。

しかし何の物証もない、ヴィデオにもノイズしか記録されていない、見かけ上ポッドは1秒足らずの間に垂直に落下しただけであったことから、彼女は政府関係者全員から厳しい詰問を受けることになります。
彼女は大いなる存在とのコンタクトをほとんど誰にも信じてもらえないが、彼女の内面の孤独は癒されているのです。

彼女はもはや寄る辺なきものではない。
もう孤独では、ない。
広大な宇宙に向け続けていた眼差しが優しく自らのこころ(幼い頃の彼女)に向けられた。

認識とは、そういうものなのだ。
確信として揺るがないもの。
叡智とも言えようか。
間違っても知識ではない。

ヴィデオのノイズは18時間続いて撮られていたのだ。


Gauguin.jpg
「われわれは何処から来たのか。われわれとは何か。われわれは何処へゆくのか。」


ここに、地球史上初めて科学と信仰が折り合う地平が開ける。








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告白

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たまたま2本続けて日本映画を見てみたら、何故か同じ監督の作品だった。

「告白」という形式(キリスト教の制度)で物語るというのは、のっけから宗教性を感じました。
「乾き」よりこちらのほうが厳粛で重い。
非常に落ち着いた淡々とした進行で、主要人物の主体-視点をずらしたシーンを観せ、最後にまとめる構成はよく練り上げられていて、ムダもなかったです。

また、登場人物がそれぞれ際立っており、好演が印象的です。
途中の曲-歌は可もなく不可もなく、特に効果もなくあまり意味もなく。
最後のヘンデルはピッタリでした。

「4月物語」の松さんがこういう演技をするとは、、、昔が懐かしいです、、、。
しかし、鬼気迫る名演です。

劇中、何度か「命はかるいとかおもい」とか問われているが、結局命は自分にとって大切か他人事かのどちらかなんです。
恐らくこの作品の示しているところはそこです。
良いとか悪いではなく、どのような身体性をもってしても、個体としてしか存在できないのです。ヒトは。
もう少し言えば、ヒトは自分自身の命にはさほど頓着しない。
自分にとってかけがえのない大切な命に対しては、途轍もなく拘る。
私自身がそうですから。
「それ」に対しては自分がどうであれ、無限大の力を発揮します。
これはだけは、はっきりと断言できる!
そういうものです。

さて、「な~んてね」が、何度か出ていたと思いますが、ここで唯一効いているのが松さんの最後のそれ。
この「な~んてね」がどこにかかるのか、で話はそれぞれに帰結します。
そのパタンを解説してみようなどというアホな真似は勿論しませんが、この最後の「な~んてね」はやりましたね。
(さすがに研究室の爆破までは考えられませんが、本人にはしこたま応えたようで、爽快です。いい気味だ。)
しっかり作られているからできることです。
ディテールまで綿密に作られた良い作品は大概、何通りかに読み分けできます。
それが例え作者の意図を越えていたとしても。

最近とみにワイドショーを賑わしている、「ヒトを殺してみたかった」系のひとつの典型もしっかり描写されていますが、、本当に不気味で、現代の様相を的確に写しているのは、何も虐待・スポイル・過保護などの過剰な環境から起きがちな諸問題と言うより、ごくごく普通のヒト(生徒たち)のここに見られる共通意識でありましょう。

クラス内で殺人(相手は事故死と認定されている)を犯した生徒を虐めることでポイントを競い合うなどという、ゲームアプリをみんなで楽しんでしまうような感覚。そして雰囲気。体温。こういうところに落ち着き、息づくどうにもならないヒトの集合無意識-身体性が一番恐ろしく一番身近な環境を生成しているということです。これを足元にして、隣人愛とか地球の裏側の恵まれない子供たちに、などと呑気なことを語っている場合ではありません(もっとも今時そんなことを言う輩は、ネット上で詐欺商材を売りつけるゴロツキぐらいですが)。

その前に常につきつけられている、この鬼畜にも劣る普通の実態がまず先に厳然とあります。
虐めによる自殺など、何も突出した凶悪な個人が犯人というより、このような普通の感覚の集合体が無意識に実行させているのが現状です。

ふつふつと煮えたぎる悪夢の磁場からは何でも発生してきます。
ほとんどエントロピーの矢の行き着いた果て。
「ゆめにはルールがないの。じゆうだから。」この監督の次回作(「乾き」)です。

それからこれにはもう一つ、大きな特徴があります。
飽きっぽさ、です。
継続して熱心に虐め続けるのもかったるい、という。(別に信念をもってやってるわけではありませんから)。
「自殺でもするかと思っていたら、案外みな優しいのね、、、」(皮肉)
の分けです。

それにもう一つ。
呆れるほどの、自己顕示欲。
自分の犯行の一部始終をHPにつらつら綴る。(メールで知らせる。SNSに投稿するなど。)
尾行も監視も必要なし。
全部事細かく記述されているのを見れば良い。(しかし動機がさっぱり分からん。やってることがお粗末。虚栄心からくる嘘もある。)
自分を大きく見せたいがために、手段として殺人をいとも簡単に行ったりもする。

かつての哲学者にとっても想定外のクリーチャーの発生です。
完全に人間の埒外です!

結局、松さん(なんという先生だったか忘れたので、松さんでいきます)の思惑はほとんどすっきり達せられたということでしょう。しかし、それには後任のクラス担任があの人であることが不可欠です。それも松さんの計略によるものだったのでしょうか?
彼を上手くコントロールすれば、あのように運ぶことは充分可能だと思います。

まともな感覚の娘がまともにあの少年に向き合ったために殺されてしまうのは、本当に皮肉ですが。
あそこで、もししっかりと人間関係を取り結ぶことができれば、新しい場所が発生する可能性はあったはずですが、、、。

「、、、本当の地獄。あなたの更生の第一歩です。な~んてね(笑。」
完全な諦観。
死んでも治らぬ病に、これにはもう、笑うしかない。




この悪夢から生還するのは、ウミガメの卵が大人の亀となるくらいの確率でしょうか?


渇き

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アリスをみつけようとして、全員が発狂する物語。

登場人物全員があっけらかんと人格崩壊している世界が開けている。
徹底的に白けている。
あるのは怒りと狂気。愛憎。
この「乾き具合」は爽快だ。
と、ともに深刻だ。
「告白」
もそうだが、娘をもつ親として、現実がやりきれなくなる。
あらためて。
どうでもよくなる。

そう、ほぼ毎日TVで流れているニュース・ワイドショーのダイジェスト。
それを小気味良く編集してバックミュージックを嵌め込めばこんなMVができてしまう。
それにしては、かなり長いが一気に観ることができる。
しょっちゅう見てるからだ。

カットバックやカットインもとても多く使われているが、時系列の交錯が物語の流れの障害になることはない。
生理的には日常的に慣れた手法だし。
日常というものも概ねこんなテンポかも知れない。
場合によってはもっと速いこともある。
もっと複雑に入れ替わる。
テンションは、終始これでは、はっきり息が切れる。

それにしても、役所さんお疲れ様です!
中谷さんにも言いたい。
寒い中、あの雪白のシーンにすべてが消えてゆく。
いや、永久に見えなくなる。
ここは、あのふたりの役者でないと耐え切れない。


主人公の少女、小松菜奈は底なしの穴にゆっくりと無限落下するアリスにまさにぴったりであった。
その落下は誰にも追いきれない。
そこはもはや夢と現の境もなく、彼女の言うように、
「ルールがないの、ゆめだから」なのだ。
「ゆめに迷い込む子もいるけど、すぐに逃げちゃう」
しかし、逃げずにいても生きてるとは到底言い難い。
もっと酷い。
「自由ってこわいから」
みんな自由という過酷な夢から逃げるために、ことごとく死ぬのだ!

「きみはだれ?」
夢の自由さの中にいるのだから、もうだれでもない。
ということか?
すべてが意味を喪失している。
そういう意味での自由。
真っ白だ。
目が痛くなるほどの白!
無限に広がる雪原を、永久に掘り起こす作業をわれわれは一心にやり続けるしかない。


勿論、アリスがみつかる確率は0だとわかっていて。





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ティファニーで朝食を ~Moon River

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一瞬の笑の中に宿る孤独を感じさせる写真。
エドゥアール・マネの絵画を思い起こさせる。

ムーンリバーは子供の頃のわたしにとって、半ば環境音楽であった。
気が付くと何故か夕暮れどきが多いのだが、アンディ・ウイリアムスのムーンリバーが流れていた。
多分、ラジオかテープレコーダーだ。
ちなみに夜更けになると月の光とかタイスの瞑想曲などをよく聴いていた。
ムーンリバーは囁くように幽かに、クラシックの方はかなりの音響であった記憶がある。
まだ意識的に音楽を聴いていない頃のことである。
ビートルズもバッハもまだ知らない。
今思い出したが、ムーンリバーはオルゴールもあった。
それを聴いて寝ていたこともある。(そちらが主であったかも)

ティファニーで朝食を。
いきなり、ムーンリバーである(初めてこの映画を観たとき、この映画の曲だったのだ、というだけで感動した)。
そのまま、もっていかれた。


土砂降りの雨の中、ヘップバーンが地味な猫を胸に抱く最後のシーンは、随分昔に胸に焼きついていたのだが。
今回は、劇中、バルコニーで彼女が、かの曲をギターを爪弾きながら歌っているところで、もう感極まってしまった。
物語上、まだそういう場面でもないのだが、勝手にそうなってしまった。
わたしの個人的な記憶と感情によるものであろう。
(歌は本当に本人が歌っているのか、吹き替えなのかは知らないし、どうでもよい)。
わたしの映画史上もっとも素敵な場面である。
あんなところを、目の当たりにしたなら、もうわたしなら、惚けてしまう。

しかし詩もメロディもまさにこの映画そのものであった。



予定調和に向かい煌びやかにゆったりと流れる大河を想わせる映画でした。
王道をゆくハリウッド映画です。
オードリー・ヘップバーンです。

「TIFFANY」の実に小粋なこと。
あんなことをやってくれるお店が今、ありますか?!
ティファニーの前でパン(バケット)を食べるヘップバーンもなんだかかっこよかったです。

トルーマン・カーポティの原作は読んでいませんが(「カメレオンのための音楽」しか読んでいません)、彼がヘップバーンの役にいてもよかったかも知れませんね。
この映画化にあたり何でも彼はマリリン・モンローに主役をやらせたかったそうですね。
もしそうなったら随分印象の異なる映画になっていたでしょう。
それはそれで、異なる名作になっていたかも知れませんが、この映画はオードリー・ヘプバーン以外の誰の映画でもありません。
彼女の映画です。

相手役の作家も実に繊細な役をこなしていました。
まさにこの映画、彼女と彼との関係の変奏曲です。
トラウマを抱え自由という檻に自らを閉じ込めた女性と彼女への恋に目覚めることで自立-創作に意欲を燃やす作家。
そのふたりのドラマがどのような鼓動と振幅をもって美しく終着するかに尽きます。
他に、特色ある装飾音が効果的に加えられますが。
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「名前は無いわ」と再三訴えるヘップバーンのセリフ。
これは、彼女の知性が説得力をもたせるところで、モンローだと恐らくこうはいかないとことです。
「猫にも、わたしにも名前はない。」

現にわたしは本名でこれを書いていない。
ビデオドロームでクローネンバーグはこれをとうの昔に予言していましたが、名前からヒトは様々なかたちで解かれてゆきます。
それが本来のかたちであるかのように、、、。

「わたしにもなまえはない。」

しかしあえて名前をもつことで、自由の重圧から解放され安らぎを得ることもできる。
そちらを彼女は選ぶ。

お遊戯会 ~寒気 ~地震


ここのところ映画を観た感想をブログに載せている。
しかしそれはあくまでも、わたし固有の意識に引っかかった事柄を記述しているに過ぎない。
間違っても、その映画の評論などではない。
その映画を観て感じた、または連想した物事を記録しているだけである。

つまりは、映画そのものはわたしにとって自分を語るきっかけに他ならない。
そこのところは、取り敢えず語っておきたくなった。

今日、観た映画は、かつて封切りの時に職場の同僚と映画館に観に行ったものである。
そういった意味では、思い出に残る映画であるが、どうにもいま観てみると辛い。
その映画の感想が書けない。
感じるものが全くと言ってよいほど、ない。

純粋に(それが可能なら)、映画評を書く立場であるなら、どんな映画でもそれが書けるはずだが(書かなければ成立しないが)、わたしは、もとよりそんなつもりもない。
現在のわたしの感覚に引っかからないものは、書きようがない。
しかし、ほとんどこれまで観てきた映画は、いまこの映画はキツイなと思って観た映画ばかりである。
最初は実は常に抵抗が有る。
それでも、観終わると、何らかの残り火があり、そこを意識的に突っつくと何かことばが転がり出てくる。
美味しいか不味いかは別として、、、。

幾つか書いてきたものは、そんなものである。
だから、後からもう一度振り返ると、塊からほんの一部分だけ抽出していることが多い。
しかし、それで書き直したり、訂正を出したりしたことはない。(もっとも強く感じたことを書き損ねた時だけ書き直すが)
映画については、詳しく全体に渡り説明し出すと、キリがなくなる。
無理に見方の弱かったところを再度確認するなどすると、ただのネタバレだけの記事になりかねない。
自分の見方の説明に走っても、ろくなことにならない。

長々語らず冷えてきたら切り上げるのが、ちょうどよいような気がする。
印象だけをピンナップして並べ、特に整合性-辻褄を合わせず。

そう思い直して、今日見直した映画がどうだったか、というと、、、。
全く残っていないのだ。
見終わって気になったことは、今日の寒気、それから地震、津波の速報だった。
そう、今日は幼稚園に行くことで、身に滲みて寒さを味わったのだ。

娘のお遊戯会の総練習の印象は残ってはいるが。
こちらは、それなりに大きくなったな、という感慨か。


確実に見れなくなった映画というものがあることが、分かった。
つまり批判的にも見れない。
単に引かっからない。
(今回の映画についてはあえて題名も載せません)。


ボディースナッチャー 1978



今回も昔のTVからの録画です。(録画時に一度、観ています)。
1978年制作。
ボディースナッチャー/恐怖の街(1956)のリメイク版。

ドナルド・サザーランドを久しぶりに見ました。
その上、レナード・ニモイにとは子供の頃以来です。(おおっ、Mr.スポック!)
さらに大傑作「エイリアン」にも出演されていたヴェロニカ・カートライトさんまで!
これだけでも前のめりに観てしまう映画ですが、その内容も申し分ない出来、ではあります。


ずっと、最後の絶望シーンは脳裏に残っていました。
(サザーランドの虚無を絵に描いたような顔もそうですが、ヴェロニカ嬢の表情は「ムンクの叫び」に近い)。

わたしにとって「他者」とは何か?が剥き出された瞬間。
普段、われわれがある名前で呼び合い確認している「相手」がどれだけの信憑性を担保しているか。
現在のコンピュータでは、顔認識程度で手一杯で、とてもその「雰囲気」の違いなど突き止めることは不可能である。


カフカの「変身」のように自分が気づいたときには自分が異物に変わってしまっていて、そこからもはや逃れられない絶望ではなく、周囲の人間が突然、見た目は同じなのに変わってしまっている恐怖と絶望である。

しかし両者ともに、自分にとってはいつもの日常を生きるはずが、取り巻く人々から徹底的に疎外され迫害されるのは変わりない。心が通じないのだから。
自分が虫になってしまうのも、周りの人間がみな虫になってしまうのも、ともに自分の日常が奪われる-自分の場所がなくなる恐怖である。さらに迫害も加わり絶望に導かれて逝く。

前半は断片的であるが異様な細部の克明な描写が、極めて不穏な空気を隅々にまで満たしてゆく。
然りげ無いヒトの交錯の全てが、秘められた意味を持つように浸透する。
ひたすら静かに、、、。

主人公たちが粘着質の繭のような人型を発見してしまってから、秘密裏に計画を進めていたであろうエイリアンたちがにわかに、ざわめきたつ。
街はもうすでにいつもの街ではなかった。

後半からはそのやりきれない恐怖と不安が押し寄せてくる。
予定調和や御都合主義的な仕掛けなど全く用意されていない。
何の手立てもなく全ての道が塞がれて追い詰められてゆくだけ。
息をするにも苦しい空虚の充満した光景が続き。
徐々に確実に絶望の袋小路へと迷い込む。


彼らエイリアンは感情をもたない。
共感や同情が出来なければ、ヒトとの相互理解はもとより不可能だ。
ここには、われわれヒトと他者としてのエイリアンが厳然とあるだけだ。
見た目はソックリなのに、彼はすでに彼ではない、、、。
彼女は昨日の彼女では、もはやない、、、。

この地球環境に適合したからだを乗っ取り、彼らが無事に生を繋いでゆくか、われわれが自らの精神を守って存続して行けるか、しかしわれわれは一方的な劣勢を強いられる。
覚束無いわれわれの相手に対する認識力では、コピーは容易に見抜けられない。
常に彼らに分がある。
常に先手を打たれる。

かつて細胞にミトコンドリアが侵入して、完全に適合したのとは異なり、われわれのからだ-乗り物をコピーし、そこに彼らが乗り移るということは、共存でも共生などでもない。
言うまでもなく単なる乗っ取りであり、ヒトの死滅を意味する。
まさかと思う人面犬!まで現れる。
ある意味、地獄図だ。


しかし、、、
現実に、日常で多少なりともわれわれが心に秘めている不安が晒されているのも確かであろう。
「放っておけ。すぐに眠くなる。」
眠りに落ちている間にそれは起こる。
目覚めた時には、、、

〈もうすでにわれわれは知らず乗っ取られているのかも知れない。〉

何も変わらず生きている。
そのままの地球である。


松岡正剛氏の次の言葉を思い出す。
「誰も今、世界が二分の一になったことを知らない。」


可能性はある。
文句のつけようもない。




宇宙戦争 1953 ~ジョージ・パル ~パペトゥーン ~神 VS 火星人

The War of the Worlds

だいぶ以前、テレビ録画してDVDに焼いておいたものを全部通して観た。

プロジューサーがあの伝説のアニメーション、「パペトゥーン」を発明したジョージ・パルである。
わたしは、そのパペトゥーンというアニメーションの存在を知る前に、ピクサーを見てしまい、そのままずっときたものであるから、未だにそれを見ていない。
DVDが出ているはずである(いや、出たことがある、か?)。
そう言えば、火星人の宇宙船が電気スタンドに似ていたが、ピクサーのあの始まりに出てくるキャラもまさしく電気スタンドではないか!、、、別に関わりはないか、、、。

脱線したが、パペトゥーンによる人形は驚く程、柔らかく動くアニメーションで当時画期的なものとして注目を集めたという。
しかし、その作成が大変な労力を必要とし、一こま一こま異なるポーズの人形に差し替えて撮影してゆくというものらしい。
ひとつのキャラで何千体もの人形が必要となる技法だ。
しかしその動きはというより、その変容の絶妙なところが唯一無二との評価がなされている。

パペトゥーンの制作にあたりジョージは少なからぬ優秀なお弟子をもってはいたのだが、その後の後継者が出ていない。
つまり、その技法によるアニメ映画を引き続いて作ろうという人は出ていない。

やはり対費用効果や単に効率からみても、CG制作の方が簡単だし経費も断然安いはず。
基本形を一体つくるだけで、そのキャラについては無限の動きが生成可能であるから。
さらにアプリケーションのヴァージョンアップ毎にできることは、安定度を増し確実に増える。
しかし、かの独特の動きで知られる「パペトゥーン」はやはり一度は見ておきたいものだ。


ともかくディレクターより先にプロジューサーの名前がロールで出てきた。
確かジョージ・パルは、アニメーション作りを経てプロジューサーになったというから、もうこの時点でパペトゥーン制作はしていないはず。
この「宇宙戦争」でも宇宙人の動きなどに使われているか見ていたが、そのような映像はなかったと思う。
宇宙人は全体像は見せずに闇の中から一部を垣間見せることで、恐怖を演出していた。
それは、全く正しい撮り方であるが、仮に全体像など見せてしまったら、元も子もなくなっているだろう。
特撮は、撮り方である。
一部のディテールを見せるだけでも雄弁に魅せることは出来る。
火星人の手が女性の肩にフッと触れた場面など秀逸であった(一緒にひえ~っと言いたくなるではないか!)。

こちらの感覚に対し、直接性を持つことがいかに大切であるか。
前半の暢気で能天気な雰囲気に比べ、後半の暴徒化した人々の蛮行と廃墟化した街の動きには危機迫るものがあった。
火星人の研究サンプルを大事に輸送していた博士の怒りも十分に共感できる。
この辺は本当に身に迫る普遍的な展開である。
逆に人類としてこのレヴェルを超えなければ、やはりクラトゥに粛清されるのは無理もない。
その前に、火星人の宇宙船に原爆を落とすという暴挙をやってのけるのは戴けない。
アメリカは反省していないのか!(宇宙船は電磁気シェルターに守られ、あっけらかんとしている)
この無神経さに違和感をもってしまうのはわたしだけか?

前半の能天気と書いたが、神父がひとりで火星人の戦隊(何故か常に3体1組で行動)に対し、対話を求めてゆくところは、ある意味素晴らしい行動に見える。
「意思の疎通が充分試みられてはいない。同じ生物であるなら、コミュニケーションは可能であるはずだ。」
しかし向こうは、他者であった。(この意味では日本人も他者である)。
まさに神父が殺されてから、激しい交戦(といっても一方的に火星人の一人勝ち)が始まってゆく。
人が火星人の光線で消えたところを見た博士は間髪を入れずに「中間子を無効にして物質を解体するのだ!」と確信をもって叫ぶ。相当な湯川秀樹先生のファンであったことが分かる。(攻撃が通じないと見るとすぐさま、「電磁気シェルターに守られている!」とその原理を言い当てる。流石は湯川博士の愛弟子!?)

そしてこの作品を名画に位置づける例の教会のシーンである。
後半からここへの流れは一部の隙もない圧倒的なものである。
特に、この教会を出入りしながら博士と彼女がお互いを探し惑う顛末は、ありありと見る悪夢そのものである。
この身体性-リアリティには驚くしかない。
あの前半の、のほほんとした間延びする、どこか遠くから眺める感じの情景から、この急展開、同じ映画かと思うくらい撮影・内容・作りが違う!ように見える。
これも手法の内なのか?

そして不安に戦く人々の集まる教会の崩壊寸前で、神ーキリスト教の勝利となる。
これは、信仰を問う映画であったのか?

「神が自然界に御作りになった、もっとも小さきものが我々を救い賜ふた。」


こういうことは確かにある。
非常に説得力のある締めくくりであった。


惜しむらくは、前半、特に最初の出だしあたりは、本当に時代性を感じずにはいられない。
あのような解説は、後々の科学の発達を想定して語らずにいた方が、映画作品の格調を保持できると思う。
特に科学のパラダイムは新説-新たな統一理論が出ると、ころっと変わる。


前半だけ作り直したい。

という気持ちとともに、昔のSFは味わい深い、としみじみ思う。
H・G・ウェルズ原作であるからなおさらか?




スウィング・ガールズ ~プリキュア

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ほのぼの、楽しめる映画であった。
観終わったあとで、ホックリできる(素朴さを増す方言も良かった)。
ここで、何故素人が短期間にあそこまで上達したのか、などは突っ込むところではない。
ヒトが何かに夢中になる契機とそれに取り組んでゆく過程が危なっかしくも一途に活き活きと描かれている。
概ねこういうものだと共感できる。
特に数学の先生はよかった。良い先生とはああいう先生ではないかと思う。
わたしは、プリキュアよりもこういうものを子供に見せたい。

何であっても正義が悪をやっつけるなどというものは、精神衛生上よくない。
それこそ悪い思想を子供たちに植え付ける。
さらにあの押し付けがましいワンパタンの鬱陶しさ。
その回路で喜んでしまうというのは、心の発育上問題だと思う。
現実-生活の様々な価値に立脚したものでこそ心を温めたい。

ジャズバンドに熱中することで音楽によって共感を広げ、普通の世界を豊かに生きがいのあるものにしてゆく、そんなありきたりの姿に感動が得られたなら素敵なことだ。
誰ひとり抜きん出た人物はおらず、悪意のヒトもいない。
そんななか主人公の男女の心の機微も瑞々しく、上手い具合に演奏(上手くなってゆく)が挿入されて展開してゆく。
楽しい物語だ。(そう言えばインド映画のあのダンスに入るタイミングも凄い。関係ないが)

普通の生活の複雑さと豊かさを味わうには、ひとつは何かに夢中になることだと思う。
そこから深さが生まれてくる。
世界が自分の場所に凝縮して近づいて来る。
自分の充足に比例するように。
何も変わらないが、確かに変わっている。
世界がそのままで、自分にとって親和的なものになってゆく。


最後に、演奏を終えた少女の笑顔がすべてを語っている。


*出演者が皆、練習をして実際に演奏してることが微笑ましい。プロの演奏とは異なる耳で聴くことができる。

映画の終盤のヴィデオです。

現実でもなく夢でもなく ~サード・オピニオンへ


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タルコフスキーの映画の特徴のひとつでもある、現実と夢、過去と現在のイメージの錯綜。
それはわたしにとって違和感のないものであった。
それは自然である。

しかし、最近わたしはある現実の行為を先取りするイメージが明確(普通)に現れ、それが行われた(終了した)と思い、それを実際に遂行していないことを伝えられることがあった。

ふたりの娘にミルクを電子レンジで温めテーブルに置くという実に自動化された無意識的な行為をした。
そのように現在完了形で認知していたにも関わらず、実は電子レンジに入れる一歩手前のところで(つまりミルクをマグカップに注いだところで)、行為は途切れており、その先のことはしていなかったことを、家族から告げ知らされる、というような事件が起きている。
わたしは、てっきり誰かがわたしが差し出したカップを娘達が口をつける前に撤収したものと思っていた。

では、ありありと記憶している、あの電子レンジ以降の映像は何であるのか?
実際、冷たいミルクの入ったカップがそのままレンジ手前に2つ置かれていたという。

ここのところ、物の置き忘れ、受け取った事自体を忘れて、其の物を探すなどはしばしばあるのだが、やる前にリニアにそのまま進んでゆくべきイメージを自分の内に形作ってしまうのは、なかった。
いや、なかったというのは、それを指摘されて気づく場面がなかったからであり、実際はかなり頻出しているのかも知れない。
これは第三者が絡まないと、分からず仕舞で闇に葬られる(それが大局を左右するような大きな行為でなければ)、そのまま消え去るだけの行為に終わってきたはずだ。

イメージが実態(実際の行為)から乖離し、その先が自動生成され実態は別の行為に接続している。更にイメージの唐突な切断ー忘却もあいまって日常という地平をかなり躓き易くしている。
とは言え、そのために日常を意識的に生きなければいけない、、、など例えば、細かくメモを執るとか、注意深く行動するなどという方策を練る事を考える、というレヴェルの問題では全くない。

日常を支えるヒトの行動はほとんどが無意識に円滑に行われている。
その無意識的自動行動に亀裂が走っているということなのだ。
もとよりメモなど執りようもない。すべてを脳が管轄したらいちいち引っかかり行動不能、バーストしてしまう。
発狂ものだ。

さてどうしたものか?

ここのところセカンドオピニオンにあって精査している中、検査上で大きな異常値がひとつ診られた。
そこを更に精密検査するための入院を3月になってすることになった。
手術もその過程で決められるもよう。
いずれにせよ、認知の基盤におけるめくるめく域の問題で、存在と無との境界を手探りするような感覚の疼く場だ。

例えは変だが、背中あたりにできたニキビを指の腹でムズムズしている時のその核が、やがて自分に属しているものなのか、他の何ものなのか、判然としなくなる、、、その非在の核の一点だけが恍惚とした抵抗となって残り続けてゆくような不安、、、。

とりあえず、わたしにとって意識上で問題化出来ない種の不安なのだ。


おそらく、今回異常値で見出された部位とは別な、異なるレヴェルの問題だと思われる。


サードオピニオン始動か。







ヴィデオドローム2 ~イスラム国 ~アノニマス

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前回あえて書かなかったが、実質あらゆる文化的な枠組みから外れて遍在するテロ組織の最も有効な武器がヴィデオドロームだ。
映画にもあったまさに残虐・殺人シーンが繰り返されている。
プロパガンダの拡散にもっとも効果的というのか。
いまやプラットフォームはどこにでもある。
偏在し潜在しつつ何処にでも顕在化する新しい形態の「国」。
資金もやはりウェブから吸収する。
増幅する。
そのアメーバー状の組織に「国」を名乗っているのが象徴的である。
ヴィデオドロームに最適化した「国家」が現れた。

空爆はもはや実効性をもたない。
下にいるのはみな民間人である。

連中はアメーバーではなく「ウイルス」。
anonymousはそう告げている。
(あの「V・フォー・ヴェンデッタ」の仮面でイメージを浸透させているハッカー集団)
つまりネットの中ではじめて姿を見つけ出せる削除対象だ。
もうすでにかなりのSNSアカウントが彼らの手で処理されているらしい。
これをみても、完全に戦いは、ヴィデオドロームを巡っての攻防となる。
ドロームの路を断つこと。
またはリゾーム状に張り巡らされた経路を可視化すること。晒すこと(リストアップ)である。

もしそれができれば、「国」の弱体化は免れない。
少なくともそういう次元の戦争となっている。
anonymousが「国連」の代わりか?
少なくともアメリカのできることではない。
火種はアメリカであるし。
国では、もはや対抗不可能。

ヴィデオドローム2が今起きている。




ベルリン 天使の詩

Berlin.jpg

この人間の世界-次元には色彩がある、ということを再認識させてくれる映画か。
しかし天使の世界に色相がないというのは不思議な気がする。
天使はいつも眩い光に包まれて降りてきた。
ラッパを吹き鳴らしたりして、華々しく。

このカラーとモノクロの対比は。
感性によって瞬間を享受しつつ生きてゆく世界と完結し全てを見通せるが何にも触れることの出来ない世界との対比なのか。
確かに天使側から世界を感じたことなどない。(当然であるが)。
そのような絵も描かれてこなかった。

そもそも天使とは何か?
天使は教理によって否定されたり、人格をもった存在であったりする(キリスト教の中にあっても)。
通常、神と人間との間に位置する存在となっている。
神の御使いである。
ヒトより優れた能力をもつ肉体のない存在である。
ちなみに悪魔は堕天使のことである。
ミカエルなど高位の天使と、何やら普通の?天使がたくさんいるらしい。
ここに出演している天使は、さほど重責を担っていない自由な天使?に見える。

彼らはヒトを見守っているようであるが無力である。
また、自分たちの在り方を退屈に思っているようだ。

確かに時間から解かれ全て完結している世界にあって、触れえない人の世界を見守るのは、実質無意味であろう。
退屈するなんていうレヴェルではあるまい。
時間的存在で、未来に対し盲目であっても今を感じる事ができる人に憧れるようになる。

そして人間界に共感できる女性を見つけたら、死すべき運命を受け容れて人になってもみたくなる。
それで天使は決心して、人となった。

色彩に驚く。
血の赤に。青に。黄色に。
そして、コーヒーを味わい、寒さに手を擦る。
この感覚が愉しく愛しい。

数年前に人になった先輩天使(ピーター・フォーク)に「自分で発見しろ。面白いぞ。」と言われる。
人として次々に何をか発見しつつ生きることは、実は愉しい事なのだ。
感性の世界!
それを最も濃密に享受しているのはきっと芸術家であろう。
そうつくづく思った。

そして彼は例の彼女に出会い、結ばれる。


音楽、音響と映像との溶け込み方、奥行がいかにもヴィム・ヴェンダースである。
「パリ・テキサス」でも堪能できた彼の独壇場と言える。

全編が圧倒的に美しい廃墟のPVだ。

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ヴィデオドローム

Videodrome
1982年
カナダ

デヴィッド・クローネンバーグ監督・脚本

ジェームズ・ウッズ 、、、マックス・レン(『CIVIC-TV』の社長)
デボラ・ハリー 、、、ニッキー・ブランド(マックスの彼女)
ソーニャ・スミッツ  、、、ビアンカ・オブリビアン(教授の娘、ブラウン管伝道所責任者)
レスリー・カールソン 、、、コンベックス
ピーター・ドゥヴォルスキー 、、、ハーレン
ジャック・クレリー 、、、オブリビアン教授(ヴィデオドローム開発者)


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「裸のランチ」(バロウズ)や「クラッシュ」(バラード)らの映画も手がけており、ここでも以前「イースタン・プロミス」を取り上げたデヴィッド・クローネンバーグの1983年制作映画。
最初の大ヒット作品。
とは言え、映画ではなくヴィデオでカルト的な人気が爆発したという。

まさにヴィデオドロームによる侵蝕が起こった。
ヴィデオカセットまたはメディアでなくドロームとして。

もし、カセット・メディアであればすでに効力はない。

(うちの娘はヴィデオカセットというメディアを知らない。
まだレコーダーは2台ばかり使っていないが残ってはいる。
書庫の屋根裏に1000本以上カセットが積んであるのだが、まだ見たことはないはず。
時折、わたしがどうしても確認したいものを探しに入るが、そんなことも最近は滅多にない。
もう亡くなったヒトが、その山のなかで音もなく蠢いている。
その中でたしかに生きている。不穏な空気が西日で温まってゆく。
そこで多くの様々な世界が再生されることを夢見ている。
ひたすら奇妙な感覚に陥る。
墓地をよこぎってゆく時の感触にも近く。
忘れ去られてゆく記憶のブラックボックス。)

しかしヴィデオは飛躍的に情報量を増やし恐ろしい速度で地球を覆っている。
偏在し何処にあっても顕在する現実となり。
ヴィデオ「ドローム」としてわれわれの身体と化している。

恐らく、われわれヴィデオ世代も無論その後の世代も、この記録された再生映像の受容に身体そのものが最適化されている。
わたしの娘は生まれながらにその身体を受け継いでいる。
最早、メディアではない。
あの郷愁を呼ぶ独特の無骨さ。大きさ。思わぬ軽さ。危うさ。質感。暗さ。
それらをわれわれが「現実」世界にあって、対象として取り扱い、その時間だけ映像記録が接続されるという事態ではなくなった、ということだ。

「生の現実」を生体の固有時間-生理において受容していくことは、今後ますます少なくなってゆき、もうひとつの世界-ヴィデオドロームの再生速度に合わせた表象に、場所に関わらず取り巻かれていくことになる。
ウェラブル端末の発展によりそれはますます加速される。
今後更に新たなガジェットが埋め込まれてゆくだろう。
もはやもうわれわれは自ら動く必要などない。
古いからだを必要としない。
現実は更にスピードを増したガジェット群によって、時空を超えて更新されてゆく。

あのグロテスクに見えた、ビデオの出し入れは、手軽に出し入れ出来る新たな内蔵器官のanalogyに過ぎない。
かつて細胞にミトコンドリアが侵入したときに次ぐ変革か?

時空間そして速度が生体を離脱し、われわれの新たな身体として再組織化されている。
今現在の事態の起源を記した映画とも言える。
この先更に膨大なデータが新たな現実をドロームしてゆく。
それがわれわれの表象を更新してゆくことだろう。

音響の催眠効果は尋常なものではなかったことも付け加えたい。

「時計じかけのオレンジ」が精神における記録なら「ヴィデオドローム」は身体の変革(の前日譚)を記録している。


トロン ~レガシィ

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1966年の「ミクロの決死圏」でヒトが小さくなり潜水艇に乗り込み、脳の治療にあたる映画をかつて観たことを思い出した。同様のものに以前ここでも取り上げた「インナースペース」(1987年)もある。
NHKの教育番組にもそれに似た光景を思い浮かべるものもあった。
「人体」の中を小さくなって探索するという分かりやすいCG映像で話が進められていたはずだ。

教育番組はさて置き、冒険娯楽映画としても、人体の治療においては、人があえて小さくなる必要などあるはずなく(できたと仮定してもかえって危険で意味がない)、ナノテクノロジーを医療に応用することは大分以前から実際に研究開発が進められている。
映画においては、その荒唐無稽さに距離をおきつつ筋立ての面白さに付き合うことになるが、やはり入り込むには無理があった。

現在ナノテクノロジーの最も活発に開発の進んでいる分野はコンピュータだろうか。
今回の映画は、その回路の中、グリッドに人がデジタル還元いや変換されて入り込む話だ。
何故?何のために?
そのグリッドの中に理想郷を作ろうということらしい!?
何か絵本の中に入り込むような御伽話の感覚だ。
道具立てはサイエンスっぽく、ストーリーはユートピア幻想というファンタジーか。
共通意識の地平(パラダイム)に変に抵触するものは、感覚的に許容範囲を外れる。

生体は変換できない。還元もできない。
例えば生体は現実界にあり、意識を回路に拡張、連動するというなら、その前提で観る事は可能だろう。
だがそれはすでに既視感が充分ある。
しかし、デジタルグリッドに生体自体が閉じ込められ出てこれないというのは、無理を通して道理を引っ込めるにも無理がありすぎる。
思い込めない、と言う前に視座が定まらない。
グリッドの中でデジタルDNAによる生命体アイソーが突然現れた、とまで繰り出してくる、、、。
その前提は中吊りにしたまま、多民族間の抗争みたいに見るとあまりに陳腐で幼稚である。
プログラムがヒトの形をしていて、はぐれプログラムは闘技場で対戦をを強いられたり自殺したりする。
クルーという自分(設計したプログラマー)のコピーが反旗を翻しユーザー(ヒト)に対しプログラムたちを統制し対立せんとする、、、。
これはアナロジーではなく、ただの稚拙な擬人化に過ぎない。


となれば、大迫力・豪快な3DCGで形式的に押しまくる方法がある。
その迫真のスピード感で映像自体のチカラをもって最後まで魅せてしまう、というもの。
しかし「アバター」を観てしまった目では、その映像には深みや厚みがなく、薄っぺらさが残るばかり。
(トロン-レガシーは2010年制作。アバターは、2009年。)

ここには、かつてのアメリカ映画によく見られた「父・息子の葛藤・和解」のテーマも流れている。
もう苔の生えている図式だ。
今更、そのテーマが普遍性を持ちうるはずがない。
そんな父ー息子関係などどこにもないし共感など得られようはずもない。
つい最近「時計仕掛けのオレンジ」を観てしまっている目では、白々しささえ感じない。
ナンセンス!

「逆二乗則の破れと余剰次元」をテーマとしたらどうだろう?
小さな世界ー次元の話となる。
この世界は、小さな虫なら現実界のことととれる。
外骨格の小さな存在としてその世界を当然analogyとなるが、表現してみたらどうだろう?
これはすこぶる面白いものになり得る。(かも!?)

だれが監督をやってくれるか?
そこが問題だが。


今日はわたしのハッピーバースデイ!
ベルイマンでも観て感動したかった、、、。
もう寝ましょう。

地球が静止する日  (2008)

The Day the Earth Stood Still

わたしもかつて混乱したので、ひとまず確認しておきます。
"The Day the Earth Stood Still"(1951)「地球の静止する日」と全く同名で、邦題が「地球が静止する日」(2008)助詞のみが異なる映画は1951年度版のリメイク映画。(20世紀フォックス)
”The Day the Earth Stopped”(2008)「地球が静止した日」過去形となった邦題のものは、「地球が静止する日」の便乗作品として位置づけられています。つまり内容が非常に似ており、また他のSF映画からも要素を取り込んで作られているそうで、20世紀フォックスから盗作であると警告を受けたものとか。(わたしは観る暇がないので観ませんが)

このような関係ですので、基本真面目に作られた"The Day the Earth Stood Still”の2作品だけ観ておけばよいかな、と思っております。

それにしても紛らわしい。

2作品を比べて検討する気などまるでありませんが、オリジナルとリメイクというには内容が違いすぎる気はします。
その点をことごとく挙げてゆくのは面倒な上、意味がないのでしませんが、クラトゥがやってきた目的が全く違うのは、どうしたものか?そこが違っては、別の映画ではないか、と思います。
似ているのは、高度な文明をもつ異星人がロボット一体連れてアメリカに舞い降りたところと、細かいところを見れば、名高い博士に対面し、黒板の数式を書き直し博士から信用を得るところくらいでしょうか。

しかしそこでゴールドベルグ変奏曲が流れます(*2008年度版のみ)。そうです、クラトゥが初めて地球人も捨てたもんじゃないと考えるきっかけとなったものです。
音楽です。バッハです。(ゴールドベルグのアリアから第一変奏まで流れていました)
それを聴くまでは、彼は地球を守るため地球人を一掃するつもりでした。
「美しい」と初めて彼から肯定的なことばが発せられます。


これは教訓的な映画です。
今後、もし地球人は滅ぼすしかない、という宇宙人が来たのなら、いきなり話し合いで決着など着くはずありませんから、まずは丁重に寛いでもらい、バッハを流すことです。

政府高官が下らない抗議などして(さらにお約束の失言を吐いたりして)即刻滅ぼされては困ります。
最高の自己紹介としてバッハでいきましょう。
地球人のこころです、といったかたちで。(演歌は止めましょう、日本に来ても。)
でも博士が「地球人はみなこれと同じだ」と言ったら「そうだろうか?」、とすぐに怪しまれていましたね。
そりゃそうです。みんながバッハであるはずないものね。すぐに気づきます。
しかし、彼のその曲をこよなく愛する生物なのですとか、すがればちょっとは考える余地を与えるかも。
ともかく、まずは人類の至高の作品を享受してもらうしか方法はないのではないか、と思いました。
候補作品としては「モナリザ」とかも。(ゾンネンシュターンとかは友好的関係を築いてから顔色見て観せましょう)
それからおもむろに会談の場を作りましょう。

前のクラトゥは地球人の核使用(特に宇宙への核持ち込み)を警告しに来たのであり、人類を守るために来たのですが、
新しいクラトゥときたらのっけから地球人を排除して他の生命を生かす目的で来たと言うのです。
前のクラトゥが平和主義者(アメリカ的)であるとすれば、今度のクラトゥは過激なエコロジストです。
結局、地球人が変われるかどうか、信用してもらえるには、エモーショナルな訴えしかないということでしょう。

やはり感情です。

女性科学者とその義理の息子との葛藤と和解を間近に見て、辛口クラトゥも人類の未来を信じてみることにしました。
それはどんな世界的リーダーの理屈より説得力をもった、ということでしょうか。


それにしても、出てくる子供が可愛げのないやつでしたね。
オリジナルの方の子供は、素朴で素直な普通の子供の設定でしたが。
まあ、クラトゥ自体、オリジナルは友好的で温かみがありましたが、リメイク・クラトゥは基本シビアで冷たい感じです。

一番面白かったのは、あのメタリックな何でも解体?してしまう群れなして飛ぶヒッチコック的な虫ですね。
ゴートがその虫に変わってゆくというショッキングな映像はCGの極みです。
今回のものはやはり後半のCG映像が効いています。
異星人の力の示し方の違いがここにはっきり、現れてきます。
地球のエネルギーを病院や飛行中の旅客機などを除き全て止めてみせるのと、どんどん虫を飛ばして片っ端から人も物も消してゆくのは、ある意味正反対です。
今回は地球人(アメリカ人)が大量に殺されていますし。



ロボット、ゴートについては甲乙つけがたいものでした。
クラトゥは両者ともに味があります。

わたしとしては、オリジナル作品の品格に一票ですね。








エターナル・サンシャイン

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Eternal Sunshine of the Spotless Mind
2004年
アメリカ

ミシェル・ゴンドリー監督
チャーリー・カウフマン脚本

ジム・キャリー、、、ジョエル・バリッシュ
ケイト・ウィンスレット、、、クレメンタイン・クルシェンスキー(ジョエルの恋人)


池に張った氷の上に寝ること。
これ自体優れてanalogyだ。
この覚束無い感覚こそが生きるということか?
しかしここではいかにそれをふたりで生きてゆけるかである。
それができれば、生きる不安をスリリングな愉しみとしてゆけるはず。

ここでも「記憶」だ。
眼球は高速で微動しており、視覚表象はすべて記憶の集積-編集による。
現実は記憶に由らざるを得ない。
何を語る(騙る)にも何を行うにも「記憶」である。
記憶なしの生など有り得ない。

恋人関係にあったふたりの男女がそれぞれお互いに関する記憶を消す。
「忘却は、よりよき前進を生む」
という事から。
確かに忘れることができなければ、新たな場所には進めない。
(忘れることが出来ない乖離した記憶-感情により人は病み苦しむ)

しかし男の方は相手の記憶を消す過程で、その女性の大切さ大きさを知り、そのプロセスから逃れようとする。
眠った状態でオファーした業者の記憶消去作業にあらん限りの抵抗を試み始める。
つまり脳内「記憶図」を辿っての、次々に錯綜するイメージを巡る脳内攻防戦(いや逃避行か)となってゆく。

半ばネットゲームのような感覚でもある。
ここでは、自分の恋愛-「彼女」という記憶を完全消失から守りぬくゲームである。

「記憶には感情の芯がある」
恋愛の場合は、まさにそうであろう。
深い感情の熾火はいつまでも漆黒の内に明滅している。
例え記憶の片々はかき消されても、強烈な情動を伴いその記憶は立ち現れてくる。

そもそも感情の伴わない記憶があるとは思えない。
われわれが知覚する表象は生命の欲動-本源的な感情なしには成立し得ないはずだ。
窺い知る物事には少なからず何らかの感情の温みがある。
(それが生命と密接しているからこそ、蓋然的なのである)
勿論、その意味での真理-客観など原理的にない。

次々に瓦解してゆく思い出の建物と風景のなか。
「モントークで待っていて」
と言い残して彼女が消える。

恐らくこれで繋ぎとめた。
記憶は場所に結びつく。
いや場所から我々が現象する。
我々自体が量子的存在であることを思い知る。

感情や精神というものは、場所にあるのだ。
そんなトポロジックな在り方を思い起こさせてくれる映画であった。


夜に静まる雪原が美しい。







時計じかけのオレンジ  

clockworkorange

この映画はだいぶ以前に見始めたところでリタイヤしておりました。
その後、DVDを購入して観ないままでいたものを、今日ようやく観ました。

恐ろしい傑作でした。
SF映画に数えられていますが、全くSFではないです。
時代に関係ない普遍的な、普通の世界を描いています。
サイケデリックでアーティフィシャルな世界で時代性を特定できません。
そのためいつまでも古くならない。
元々新しさなどないのですから。

造語は普遍的な流行です。
常に造語は生成され続ける。
暴力は永遠不滅なもの。
クラシックも永遠不滅なもの。
その両方がずっと映画の基調を成すこの作品は永遠に不滅です。

やはりスタンリー・キューブリックは只者ではない。

彼の作品のなかでも、わたしは「2001年、、、」よりこちらに感銘を受ける。
圧倒的に共感する。
牧師の言うようにヒトに「自由な選択」など可能であるか!
また生半可な条件反射を生理的に植え付けて何が変わるのか。
全く意味はない!

拷問でヒトは変われない。
死のうとしても簡単に解放されない。
何故か気づけば生きている。
精神は囚われたまま。

最後のアレックスの表情が全てを物語っている。
全てを、物語っている。
鏡のように、、、。


何も変わらない。




トータル・リコール

Total Recall
Total Recall
1990年
アメリカ

ポール・バーホーベン監督
フィリップ・K・ディック原作『追憶売ります』

アーノルド・シュワルツェネッガー 、、、ダグ
レイチェル・ティコティン 、、、メリーナ
シャロン・ストーン 、、、ローリー
マイケル・アイアンサイド 、、、リクター
ロニー・コックス 、、、コーヘイゲン
マーシャル・ベル 、、、ジョージ
メル・ジョンソン・Jr 、、、ベニー
マイケル・チャンピオン 、、、ヘルム
ロイ・ブロックスミス 、、、エジェマー


観てしまった。
としか言いようのない映画であった。

シュワルツネッガー主演ならばと、構えて観たが、想像以上のバイオレンス・マッスル・アクションであった。
この場合SFはおもいっきり派手に暴れるための空間作りの枠としてある。
であるから基本はボカスカ殴り合うか、銃撃戦である。
それも極めて激しい。
息もつかせぬ展開にひたすらハラハラドキドキしっぱなしである。

心臓に悪い。
ホラーも悪いが、こっちも大変悪い。
まさか主役は死なないだろうと思いながらも、ここまでやられて大丈夫かと心細くなる。
本当にこれほどの修羅場をくぐり抜けてしまうのは、人間わざではない。

この映画については、ただバイオレンス・アクションの連続を観てもらうしかない。
それ自体がこの映画体験だ。
内容について他に言うべき言葉もない。
と言ってしまえば身も蓋もないので、、、。

あえて言えば、ここでも記憶の操作である。
「記憶」はSF映画にとっては、キラー・アイテムである。
これに絡めた映画が何本あるか。
わたしが思い出すものだけでも、幾つも浮かんで来る。
何れも名作・傑作ぞろいである。

記憶を操ることで、どれだけ人を操り管理できるか、この映画もかなり極限的なところまで追っている。
記憶がインプットされた偽物であり、本当の自分の記憶はどうなっているのか、相手は自分にとって何者なのか。
敵か味方か。
その緊迫感の上での駆け引き、激しい攻防が繰り広げられる。
場所は火星である。
その地を支配する独裁者との戦い。
独裁者は空気までも管理している。
主人公の活躍により、何とかレジスタンスの目的は達っせられるのだが、、、
最期はエイリアンの古代文明が作り出した要塞のような巨大な機械を作動させることで解決する。
何とも決めは、凄い飛び道具だ。
SFの自由度は、スケールをとてつもなく広げることが出来るところにある。

もうひとつ、この映画で大事な時にひょいと手軽に出てくるホログラムである。
あの操作を銃撃戦をしながらどういうタイミングで行っているかは不明だが便利なアイテムである。
(それを言ったら鉄人28号の正太郎くんも立場は危うい)
ここでも主人公は絶対に撃たれないというアクション映画のお約束を守り、めいっぱい大暴れを披露している。
特にシュワルツェネッガーの筋肉が至るところで躍動し、見るからに頑丈そうな金属製拘束具も剥ぎ取ってしまうパワーにはもう脱帽である。
最後にミュータントだった、なんてオチではないだろうなと、途中から心配になったものだ。

おなかの中に寄生?している超能力者というのも異様であった。
レジスタンスのチーフとして身を隠すには良い方法なのか。
凄いアイデアと受け取るべきか、判断不能に陥った。


この映画については、すべて観るー体験するである。
ストリー・内容など取り敢えず考える暇なく、ジェット・コースターに乗せられている。
SFの枠を借りた、ダイナミック・マッスル・バイオレンス・アクションとでも言っておきたい。


そう、これだけは、観ていない人に忠告しておかないと。

この映画観ながら物は食べられません。
あらゆる意味で。


フランケンシュタインの逆襲 1957

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ホラーがダメなわたしでも、イギリス・ハマーフィルムのホラー作品は面白いということは以前から聞き及んでいた。
出来もすこぶる良いという噂である。
実は「フランケン・シュタインシュタインの逆襲」がいつの間にかわたしのDVDの棚にも隅っこに入っていた。
邦題やジャケットのキッチュさからして、先日観た「女子ーズ」的なコミカルさを感じていたので、怖いではなく面白味を期待して持っていたのだ(恐らく)。

シリアスな大作ながら、「第七の封印」はユーモアにも溢れていた(特に死神や役者に)。
こっちの面白怖いであろう作品はどのような仕上がりか。
名作「フランケンシュタイン」が時を経てどのように描かれているのか、時間がどうにか取れたので寝る前に観ておくことにした。


夢には出てほしくはないな、と思いつつのっけから時代を感じさせるオープニング映像と音響である。
出たーという感じであったのだが、物語に入り込むにつれ、かなり緻密で至極真面目な流れである。
少なくとも笑える場所など見つけようもない。

話はどうやら博士と共同研究者とのシリアスな愛憎劇が主軸となって展開し、怪物は出るには出るが印象に薄い。
勿論、怪物あってのふたりの葛藤・困惑・対立なのであるが。
登場人物の心理ドラマがよく描かれていて、怪物は禁欲的に要所要所で出番を待っている。
彼が自由気ままに暴走してそれに引っ張られて物語が膨らんでゆく、勢いに任せた話ではない。
想定内のお出かけはするが、枠がしっかりしている。

こんな真面目な映画を観るつもりはなかった。
しかも文学的な香りはなく、単なる怪奇・恐怖劇でもない。
怪物も腕力はあるが危なっかしく意外に脆いし。
ジェイソンが顔を出したら立場はない。
科学的探求からいつしか怪物を自分の手で作るんだという悪趣味な拘りで暴走してゆく博士と倫理観あるこの映画唯一の良心とも言える協力者との葛藤は、確かに迫真の演技で見応え十分だが、そこだけではキツイ。
なのに最後まで目を離せない映画なのだ。


テクニカラーによるキッチュな総天然色画面は、この映画独特の魅力である。
このアーティフィシャルな色彩はクラシックな実験室に禍々しさと郷愁満ちる絵を与えている。
効果音はさすがにその頃を偲ばせるものであるが、この映画の演出には、ピッタリであった。
死者から体のパーツを切り取ってきては、繋げてゆくというMADサイエンティストにはこれしかない気が次第にしてくる。
映画の絵としての魅力、雰囲気がまずは要であることをここでも確認する。

そしてこれが元型としてその後のハマーフィルムの隆盛につながってゆくのか?
テレンス・フィッシャー監督、ピーター・カッシング、そしてクリストファー・りーのトリオのスタートでもある。
ひとつの形式を作ることはなかなか出来るものではない(日本では寅さんシリーズか?)。
さらにそれを商業的成功に結びつけることは容易いものではないはず。


怪物も見終わってみると、実に味がある。
単純なクリーチャーではない。
存在の仄暗い厚みが感じられる。
他の人々が明瞭な設定で描かれていて、彼だけが曖昧で危うい場所を揺れ動いてゆく。
行動範囲も限られており、茂みを分けてそっと俔う表情など可愛げしかない。
足場の悪い屋上でついに彼は滅びてしまう。ペーソスあふれる場面である。
この落下シーンこそ映画の極みかと思うと、幾つもの名場面が思い起こされてくる。
知らずに名作を観ていたのか、、、と最後に味わう映画であった。

わたしとしたら、「闇のあとの光」よりこっちのほうがよい。
しかも向こうのほうがずっとどぎついドッキリホラーだった。


マンガの「怪物くん」のヒトのよいフランケンはここから生まれてきたと思う。
おまけにフィギュアでも人気がある。
家を掃除していると、どこからか一体くらい出てくるものである。
ウチでもゼンマイじかけが発掘された。
(女の子の家では無理だろうが、、、)






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第七の封印

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これも圧倒される完璧な作品。

新約聖書ヨハネの黙示録からの引用も使われ(最初と最後)、終末予言に恐れ戦く中世の北欧を舞台に話は展開します。
十字軍の遠征は多くの犠牲を強いて徒労に終わり。
その上に黒死病の蔓延。
享楽的刹那的になり、自堕落な生活に溺れる者もいれば、狂信的な信仰に過激に走る者もみられます。
魔女裁判に魔女の火刑、鞭打ち行者、狂信的なアジテーション。堕落した聖職者。
その中を跋扈する悪魔。


このような地上の災禍にひたすら沈黙する神の真意に苦しみもがく主人公の騎士。
ほんの一時、旅芸人の家族に、心安らぎを覚え、その時間を胸に留めようとする。
野いちごとミルクの食事のなんと贅沢なこと、、、。

すべてが深い実感を伴って打ち寄せてくる。
その恐ろしい強度。
鮮やかな明暗の対比に幻惑される。

常に死と隣り合わせ。
ひとつ足を滑らせば奈落の底。
虚無という恐怖。


生きにくい時代ですね。
などと言っている場合ではなくなっている今日このごろです。
偏在し潜在を続け至るところに顕在する「、、、国」と称する疫病も発生しています。
世界の無意識を突き破る他者。

いよいよ悪魔が誰の背後に潜み鎌を振り上げているか分かりません。
しかし終末への畏怖はまるで感じられない。
もはや神がいないからか?


旅芸人の家族はこの物語にあって、牧歌的な時間を生み出してゆく。
芸人の夫は幻視者であり、神や悪魔の姿を見てしまう。
そのおかげで、というより騎士の計らいによって彼らだけ死から免れることとなる。
彼らの役割とは何なのか?
勿論、死-疫病と魔女狩りから逃れ続ける者がいなければ文字通りの終末である。

綿密に練り上げられたテーマは普遍性をもつ。

その宗教性はタルコフスキーのサクリファイスを想わせるところもある。
もっとも、こちらの作品が先に制作されているものだが。

死神と騎士がチェスをする場面やその死神の姿は、われわれに決定的な印象を残している。
死神とチェスをやって時間稼ぎをする間に、主人公は神の真意を知っておきたかったに違いない。
それを悪魔なら知っているであろうと、尋ねるが「知らない」と彼は答える。
結局、騎士は最期までその答えは知ることが出来ない。

その問い自体が、、、自分のそれまでの生自体が、、、意味がなかったのか?
騎士は最期を迎えて、いよいよ絶望の縁に困惑を極める。


最後に騎士の居城に訪れた死神は、各人にそれぞれどう映ったのだろうか。
みな姿-意味が違うはずだ。

恐らく拾われた娘にはまさに待ち望んだ時であった。
その法悦の表情で
「、、、やっと終わるのですね。」

彼女の眼前には神々しい姿が。


SaintJohn on Patmos



処女の泉

Jungfrukallan.jpg

Jungfrukällan
1960年
スウェーデン

イングマール・ベルイマン監督・製作
ウラ・イザクソン脚本

マックス・フォン・シドー、、、テーレ(裕福な地主)
ビルギッタ・ヴァルベルイ、、、メレータ(妻)
グンネル・リンドブロム、、、インゲリ(養女)
ビルギッタ・ペテルソン、、、カリン(娘)


映画らしい映画を観た。
それも飛び切り素晴らしい映画を。
やはり、映画とはこういうものだ、とつくづく思った。


「野いちご」のような夢と現の交錯はないが、はりつめたlyricismは崇高なまでに美しい。
厳しい自然の中で一神教の下に暮らす人々の姿である。
われわれ日本人にはなかなか酌み尽くせない自我の存在がある。
その厳しさが。苦悶が。

罪と罰。
受難と復讐。
そこにはいつも唯一の神への問いかけが。

残虐なシーンは2箇所あるが、それも含め神話の世界の光景に想える。
ヒトのすべての行いにも異なる光に照らし出される。
どんな蛮行にも劣情にも無知蒙昧にも未熟さにも、怒りにも悲しみにもひとつの穏やかな光が注がれ。
何もかもがひたすら美しい。

すべては神に予め定められていたかのごとく物語は静かに進んでゆく。


このベルイマンの映画の際立った美しさ。
この映像に比較できるのはタルコフスキーの作品くらいしか知らない。

光・炎・水の表情。
明暗のコントラスト。
神の摂理が至るところに見出される。


最後に湧き上がった泉はまことに鮮烈であった。
さらに下働きの娘がその水を何度となく顔に浸していたのが印象に残る。
あたかも己の罪を必死に洗い清めようとするかの如く。


わたしも共に泉に顔を浸したい衝動に駆られた。


四月物語 ~松たか子

matsu takako

加藤和彦さんが出ています。
何の役でしょう?
大学教授でしょうか?
懐かしいですね。
一瞬の姿ですが、ここに記録されて残ります、、、。


大学に入学したばかりの松たか子演じる卯月の身の回りの些細な出来事をピンナップした清涼感に満ちた映画です。
彼女の仄かな恋心が描かれていますが、淡々とした静かな描写に波を立てるほどではありません。
幾つかのエピソードが優しく綴られてゆくだけです。

本屋を充たす空気が知らず自分の中にも流れ込んでいます。
彼女のサークル活動には、その頃の自分の体温を感じます。
土砂降りの雨が何故だか古い自分の記憶を幽かに刺激してゆきます。

ほんのちょっとの劇中劇には思わず見入ってしまいました。
(もったいないほどのキャストを使い、、、。)

しかし切れ切れのはなしは、ふっと途切れます。
すべてが。
そういうものでしょう。

四月物語ですね。

何か気配が充満していて、もの苦しさとときめきが綯い交ぜになった
ものごとの始まるいっときのおはなし。

でもそれは、あっという間に終わります。
そして二度と戻らない。

でも、そういうものでしょう。
世の中のすべては。

一陣の風です。


松たか子さんの初々しい存在感は「初恋のきた道」でのチャン・ツィイーに勝るとも劣らないものでした。


松たか子さんのPVのような気もしてきますが、、、。
今は、「アナ雪」の歌唱力でも注目されていますね。
初主演だそうです。(この姿はここに記録されて残ります、、、)
そう、監督は岩井俊二
いかにもという映像と音楽です。



今日は気持ちが重い。冴えない。ツイテイナイと気分の滅入ったときには、このような映画がカンフルとなりましょう。
(しかし、どこか無常-nostalgiaを感じてしまうのはわたしだけでしょうか?)

女子ーズ  ~夜の上海

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キッチュな娯楽映画で、内容の面白さというより作りの面白さがポイントです。
「地球の平和を守る」というナンセンスもののパロディを「普通の女子」による”女子ーズ”というこれまた虚構のキャラクターを使って、表現する。
となれば、各キャラクターの誇張された人格やその面白さ、場面ごとのやり取りにおいてのズレや間が肝心となりましょう。
特にストーリーらしいものなどはなく、展開らしい展開もないため、当然キャラクター自体にウエイトがかかってきます。
やはりそこにはお金をかけたのか、今が旬の若手有名女優を当てています。

豪華キャストで何を演じさせるかと思えば、「普通の女子」です。
「普通の女子」が「緩く」「かわいく」各自の仕事や怪人倒しを協力してまじめにやっていくという映画です。


しかしどうなのだろう、この脱力・ゆるネタは、実際見る者にどのくらいの効果があるのか?
少なくともわたしにとっては、想定内のネタであり、やられた!と唸ってしまうような場面はなかった。
腹を抱えて笑うようなものではない、思わずニヤッとしてしまう面白さを散りばめていることは分かるのだが。
ほとんど先の読めるズレ・ユルネタで進められる水戸黄門的な運びであり、それをそれとしてトレースして楽しむものでしょう。
そういった意味では、なかなか楽しめた。

深夜の連続ドラマでやっていそうなものをそのまま映画にしつらえたような。
しかし、わたしでも知っている有名女優をこれだけ揃えるのは、ちょっとしたドラマでは無理か。
もうこれだけのメンバーで”2”を出すのは、困難かも知れませんね。

基本この映画は御ひいきキャストを見るに適した映画であり、「桐谷美玲・命」というヒトなら、もう何遍でも見直す価値のある映画となるでしょう。(他のキャストについても同様)

わたしも”2”が出ればまた見ます。




外国旅行の醍醐味は、知らない場所で、言葉の分からぬ人たちの中で、自分や日本を見つめなおすよい機会ー空間だと思われる。
しかし、そこで財布ーお金も携帯も持たず、おまけに自分のいたホテルの名前も覚えていないときたら、これは緊急事態であろう。
しかし主人公は自ら迷い出てしまいます。
身一つで、夜の上海に、、、。

今をときめくカリスマ美容師といえども、中国のヒトが誰でも知っている分けではありません。
しかも日本人。
ファッション関係者かおしゃれに興味のあるヒトくらいでしょう。
そして相手は上海の女性タクシー運転手。

しかし「夜の上海」とは、こういう光-ネオンの海なのですね。
この幻惑する光と闇の世界は、ここだけのものかも知れません、、、。
主人公と女性ドライバーは小気味よく無鉄砲に走り回る車で長い長い濃密な夜を過ごします。
その車は故意にクラッシュします。
何度も主人公を乗せたり降ろしたり、を繰り返しつつ、迷い込んでは引き返しまた進みます。
しかし夜が終わるように、やっとふたりの車は彼のホテルに到着します。
入り組んだ幾重もの夢からふと解けるように。
この夜は本当に長かった。

そして翌朝、そこが新たなふたりの起点となる。
彼は彼女にドレスを選びメイクを施す。
この絶妙な接触。
この鮮烈なインターフェイスから生まれたものは、
恋。


参りました。
それまでこの深い夜の迷走はどうなるのか、、、
最終的な決着は想定していても、実際どう結ぶのか、ソワソワしながら観ていたのですが。

本当にお洒落な着地。

こうなると想っていても、驚きました。
心地よいハッピー・エンド。

photo005.jpg










闇のあとの光 ~アンダー・ザ・スキン断片補遺

post tevebras lux

メキシコの監督カルロス・レイガダスの作品。
ビスタサイズではない4:3アスペクト比による画面。
さらにセンターフォーカスで周辺部の画像のダブる世界。
その形式で見せる必然性とは?
感覚的に見にくさが引っ掛かかり、普段の映画の無意識化された見方-所作が絶えず意識化されることは確かだ。
その現実を「  」に容れて提示する効果を狙ったのだろうか?

身の回りのプライベートな映像をかき集めて編集したようにも映る、時間軸のバラバラな短い映像の羅列にみえて、赤く発光する牛のような悪魔が道具箱を持って部屋に入り、何をするでもなく出て行く。そんな、魔術的でアーティフィシャルな場面も暗示的に挿入される。
恐らくセンターフォーカスの画面自体が、今現在のそこではなく記憶に畳み込まれた、一種魔術的な世界の提示なのだろう。

波や雨、鳥のさえずり、犬の吠える声やチェーン・ソウの音など。
自然や人の営みの音がバックミュージックを一切使わない空間に響き渡る。
暮れた湿り気の多い重々しい曇天のなか。
何かが潜在していて不意に事件を起こすような不穏な雰囲気に絶えず呑まれる、、、。

性や暴力、依存症、虐待、言い争い、殺人や自殺など。
人の欲望が断片的にあからさまに描かれていく。
刹那的で利己的な行為の容赦ない描写が続くが、最後の自殺場面は、他にちょっと見られないものだ。

ラテンアメリカの作家といえばアルゼンチンのボルヘス、メキシコではシュールレアリスムの詩人、オクタビオ・パスがすぐに思いつくが、彼らにも通じる、一種独特な世界観が窺える。

私にとってこの映画も新しい視覚体験ではあった。
しかし何というか、良いものを見たという充足感、または感動とか呼べるものとは異質である。
タルコフスキーを観た時の重厚で濃密な感動体験とは全く別の何ものかであった。


視座をずらして見ることを要求する映画が先日見た、アンダー・ザ・スキンになるだろう。
前回の記事で、躊躇して書かなかった事を少し付け加えておきたい。
(少々エイリアンを擬人化し、また対象化していつもの視座で見ることに戻ってしまうきらいがあったため控えた。)


前半は、彼女の心象風景は、荒涼とした波打ち際であり、泣き叫ぶ赤ん坊はそこに無数に転がる丸石のひとつ、すでに捕食対象としての価値のない男に対するひとつの行為、その光景に見られるだけのものである。

人間的な意味での言葉も内面も完全に無い状態である。だから映像も非常に濃密な虚無で満たされながら進行している。まるで昆虫の世界を覗くような。

しかし単なる捕食対象でしかなかった人間への関心の芽生えとともに、徐々に確実なヒトとの新たな関係の取り結びと受容的な態度が生まれ、自分自身の変化に対する不安と戸惑いがいや増しに増してゆく。
従って後半、彼女は明らかに人間的な様相を呈し始める。
そして、ヒトに対する強い関心と綯交ぜになった受け容れ難い違和感を対象化し、言葉にすれば「恋」とも呼べそうなこころの動揺に、と言うよりその動揺に従いこころとも言えるものが現象し、堪らずその場を逃げ出してゆく。
「画皮」のはがれ、黒い本体となった時にある意味、全てを悟った。
その時がまさに滅ぶ時であった。殺されたにしても、確かにエイリアンとしての死を迎えたのである。(すでに捕食が不可能な状態になった時点でその方向性は免れないものであった。)

全体に非常に稠密で緊張感あるストイックな映画であった。
スカーレット・ヨハンソンのエイリアン理解も見事な演技に表れていた。
ルーシーより娯楽性は低いが、こちらの方が破れ目がなく、質の高い映画であった。
どうやら彼女は芸術性(実験性)の高い映画が好みのようだ。
わたしとしては、「真珠の耳飾りの少女」がベストであるが、、、。



*昨日は病院とその帰りが人身事故により、アップする余裕はありませんでした。
今後、このようなケースはたびたび予定されています。(人身事故は困る)
長期に渡るお休みはありませんので、どうかご訪問のほど宜しくお願いいたします。







”Bon voyage.”

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