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GOMA28

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アンダー・ザ・スキン 種の捕食

under the skin
Under the Skin
2013年
スイス・アメリカ・イギリス

ジョナサン・グレイザー監督・脚本
ミッシェル・フェイバー『アンダー・ザ・スキン』原作

スカーレット・ヨハンソン 、、、地球外生命体
ポール・ブラニガン 

見始めて15分程度で止めてしまい、10日間ほったらかしにしていたものを、今日観ました。
退屈だったから止めたのではなく、ホラーかもと想い、見ないことにしていただけです。

続きから最後まで観ました。
これは、ホラーでも何でもない映画です。
SFでも、ないです。

徐々にこちらも自らの身体性をずらしてゆき、エイリアンの主体で体験する映画-トリップです。
こういう体験は必要です。

自分の見方、自分の感じ方、身体性その透明性を異化すること。
こちらがエイリアンに乗り移るように感じてみること。

何故か気づいたらその場所におり、自然に捕食行為をして生きていたら、異形の者と出会い、ヒトその捕食対象に興味・関心を抱き始める。自分の擬態したその顔・体をしげしげ観て、ヒトとして試しに生きてみる気になった。いろいろ生理的に無理はあったが今は相手を尊重?しつつ関わってゆく。ところがその交わりを深める中で、受け容れがたい違和感を感じ、こりゃだめだわ、と混乱し逃げ出した矢先に滅ぼされてしまう。

エイリアン-わたしにとっては災難でした。

、、、という主体-視座をずらして極めて居心地悪い、目眩を覚えながら体験するトリップです。
音楽は効果音的音響でマッチしていました。
風景も殺伐として終始どんよりと曇った奥行を感じる光景でした。

エイリアンを内面化する意思-スイッチを入れるかどうか、こちら次第の映画でしょうか?

このタイプは、わたしにとって、はじめての映画です。

これが中国に渡ると、あやかしの恋へと再生されそうな気がします?!

昨日、この映画をホラー扱いにしたのは、誤りです。
とは言え、エイリアン(わたし)側からは、ホラーだと思います。









”画皮 あやかしの恋”   ~恋とは  ~絶望


gahi.jpg
2008年
シンガポール・中国・香港

ジョウ・シュン、、、シャオウェイ(妖魔)
ヴィッキー・チャオ、、、ペイロン(ワン・シェンの妻)
チェン・クン、、、ワン・シェン(将軍)
スン・リー、、、シア・ビン(降魔師)
チー・ユーウー、、、シャオイー(シャオウェイを助けるトカゲの妖魔)
ドニー・イェン、、、パン・ヨン(元将軍、ドニー兄貴)


では、というところで、中国映画の「画皮」というもの。
サブタイトルは「あやかしの恋」とあります。

確かにあやかしの恋の脈動により物語が生成されてゆきます。
人騒がせな恋の物語だな、とは思いましたが、、、。
恋とはそもそも何か?恋そのものが人騒がせなものなのか?
少なくとも、恋はドラマを複雑にするものでしょう。
映画で、恋愛ものはほとんど見ていないですね。
「夜の上海」は観ました。ビッキーチャオ主演ですと。

ビッキーチャオが円熟した美しい女性を演じています。
「CLOSER」のころは、軽い感じのおねえちゃん。
でしたが。(失礼)
監督もして高い評価も受けているそうですし、演技も巧みで根っからの映画人なのでしょうね。

5大スター一同に会し、とジャケットにありましたが、わたしは映画に疎いため、ビッキーしか知りません。
中国(台湾含む)映画「命」、という人からは風上にも置けんと当然言われることでしょう。
が、ここは大目にひとつよろしくお願いします。


ゴードン・チャンという監督、非常に熟れたお手並みで、数あるテンプレートからひとつ摘み出し、5大スターとその他の役者をポンポンと嵌め込んで、キーワードを「あやかし」、「恋」、「アクション」とでも入力すると、たちまちこういう映画が自動生成される、という風な光景が目に浮かんできてしまいます。

この映画を観て、、、。
中国恋愛アクション映画という伝統と様式がすでにしっかり形成されていることを感じました。
お約束のワイヤーアクションも多用されキラキラとそれは賑やかな、、、。
しかし観ているうちにその光景は解像度を落とさず遠ざかります。

その甘美でアーティフィシャルな模型世界。
精巧に作られたミニチュアの街を綺麗な人間人形が剣を交え、飛び回り、切々と語り合う、、、。
殺し合うが、ひょっこり生き還る。
それは摩訶不思議な幻想世界。


テーマの恋愛というものは、普遍的なものです。

この物語を現実に当てはめて考える・思うことは可能でしょう。
が、わざわざそのような見方をする意味を感じさせない完結性。
遠くに、閉じている星雲を眺めるように観る映画です。

多分、仕事は仕事。息抜きは息抜き。ときっぱりけじめを付け生活している人に向いている娯楽映画です。

生々しいドラマを演じているように見えて、彼らには、身体性がない。
はっきり隔絶された場所で生きる人間人形です。
宮崎駿のアニメーションにも作品によっては見られるものです。
きっと、新たな伝統芸能として洗練されていく方向性があるのではないかと思います。

象徴的に、そこで演じられるあやかしの恋(との恋)も、はじめから時間的に届かぬ距離-絶望です。
形式的な絶望です。
空間的な距離なら、移動は困難であろうと可能性に裏打ちされたロマンが色濃く点灯します。
地続きな場所なら。
しかしあやかしの恋(との恋)は、漆黒の天空の底に点っています。お互いに。(相対的に)
それは宿命的に妖しい光を放って。
誰もが魅入られますが、距離を見誤ったものは死ぬしかありません。
そのあやかしも距離を見失います。

最期に、あやかしの女性も、深く絡んだひとたちも、粋ですね。
完全な諦めからはじめて粋な計らいが出るのかも知れない。

中国映画なのに粋な方々でした。
恋とはそもそもそういうものなのか?
恋さなければ、この場合あやかしの一方的な搾取で方が付きます。
しかしそれは単なるホラー映画です。
アンダー・ザ・スキンです。

もしかしたら恋というものは、本質的に粋なものなのかも知れない。
つまり、絶望を前提にした。


Love Will Tear Us Apart(Joy Division)



これは、恐ろしく難解なテーマであり、30分やそこらで、手に負えるものではありません。
と言うより、このテーマは今後、避けて通ります。



書ける映画が確実に減った。





「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ  ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ

Glenn Gould

初めてゴールドベルグ変奏曲を聴いたのは中学生のとき。チェンバロの演奏でした。
演奏家の名前は覚えていません。
レコードではなく、ラジオからだったはずです。(もしかしたらテープか?でもラジオから録ったはず)
カール・リヒターのものだったかも知れません?!

すでにバッハは聴いていましたが、この曲に対しては、ああバッハらしい曲だな。と思い聴いており、他の印象はこれといって強烈には残りませんでした。が、この曲をこの時期に聴いたことだけは何故か覚えています。元音楽体験としてでしょうか。

「ゴールドベルグ」はグレン・グールド(あたかもニーチェはワーグナー)というくらい?ポピュラー対応図式の状況が続いていましたから、わたしもレコードで聴いたものです。

一瞬、間を置く出だしのアリアの神聖な響きから第一変奏に差し掛かったとき身震いするほどの感動を味わい、高揚感とともに第三変奏のメロディの美しさ優しさに包み込まれたかとおもうと、ピアノはまた精確に躍動してゆきます。高揚し到達しつつまた更に上昇してゆく、、、。バッハ特有の対位法に 弁証法的な語らいを感じ、深く魅了されました。

再演版は亡くなる前の録音で実質、最終演奏にあたるものでした。ちなみに彼の華々しいデビュー版のゴールドベルグ変奏曲は、聴いておらず持ってもいません。おそらく手に入れるのは今は大変かと思われます。そちらの方は録音時間が短い、つまり非常に速いテンポで、流れるように全体のまとまりを大切に弾かれているとよく言われます。再演(最終)版の方は、速いものは速く、ゆっくり弾くものは充分にゆったり厳かに弾かれています。

片方を知らないので、何ともいえませんが、この一曲一曲に独立した解釈を徹底し、完璧に練り上げたであろう演奏はわたしのような素人にはただひたすら神業に思えます。
彼こそ超人と呼ぶのにさほど躊躇することはありません。

この時の音源とは別かとも思われますが、何かの機会でゴールドベルグ変奏曲を弾く彼のビデオも見せて貰いました。(確かフルートの先生にです)。
初めてこの「練習曲」が難曲であることを実感しました。特にピアノにおいて。もともと二段の鍵盤のあるチェンバロ用の曲であることに、はっきりと気づいてしまったのです(遅すぎる!)。
右手と左手の激しくも複雑な交錯は、恐らく、右指でキーを叩くべき所をそのタイミングによっては左指にも変えて弾いているように思えました。妥協は一切せずに技術的な面からの音(装飾音)の省略などは全くしていないのが明瞭に分る演奏でした。(しかし鑑賞できたのは数分でした)。


デビューに「ゴールドベルグ変奏曲」を弾いて大絶賛を博し、その後ライブ演奏は短期間してはいるものの、ほとんどはスタジオ演奏録音であったと思います。その間、レコードによる再演は、本人の意図的には無いのでは。(よくレコード会社との契約などとの関係で、本人の意思に関係なく出されてしまうことは時折ありますが、例えばカール・リヒター最晩年の日本コンサートでの「ゴールドベルグ変奏曲」、、、)
やはりグールドは余程、デビュー作である「ゴールドベルグ変奏曲」に、こだわりとそれを「超えんとする」意志を持ち続けていたのではないでしょうか?

しかし、つくづく処女作というものは、本人にとって大きなものなのですね。
処女作すらもっていないわたしには、想像がつきませんが、いろいろなアーティストをみると本当に重荷でもある一生付き纏う、テーマにもなってしまうように感じられます。

ここのところあっさりやっています、映画感想に絡めますと、ピーター・オトゥールですね。
彼の俳優というキャリアは、いきなり途轍もない高みから始まってしまいましたから、そこを「いかに超えるか」はもう至難の業としか言えないものだったでしょう。
実際、本人は大変だったと思います。
あれもまさに神業でした。奇跡的な。トマス・エドワード・ロレンス本人よりその人になってしまった感があります。
鬼気迫るというより狂気をまともに感じました。あの瞳!
探せば、次々出てくるはずです。(それほどあるか?)


音楽家というより芸術家が、再演録音する-自分の作品を作りなおす-ことは通常ないかと思われます。わたしも自分の一度描いた物を描き直すことは生理的に出来ません。
バッハ繋がりでは、ヘルムート・ヴァルヒャがモノラル版とステレオ版とに分けて2回バッハオルガン曲選集を録音して出していました。多分そのような都合もあり、探せば沢山出て来るかも知れませんが、、、。(実はわたしが音楽に興味を持ったきっかけがヘルムート・ヴァルヒャの弾くハープシコードによる「フランス組曲」です。彼はオルガン奏者として名高い人ですが、そのハープシコードの天上の音色が決定的な音楽体験として残りました)。
絵画でもキリコは後半生において自分の作品コピーを意図的・策略的に行っていました(わたしの友人にも一人、いとも簡単に自分の絵画作品を寸分違わずコピーしてみせる人がおりますが、彼にとってはフツーのことらしいです。例外はどこにでもいます)。
話を戻しますが、グレン・グールドはよほどの愛着からか、のっけからの大成功を乗り越えるためか、、、理由はわたしには分りませんが、再演します。この81年度版には天才の余程の覚悟があったと思います。最初と最後が「ゴールド・ベルグ」というのは、自ずと重く捉えてしまいます。
また、じっくり聴きたいものです。
グレン・グールドのピアノの方でですが。チェンバロは誰の演奏がお薦めでしょうか?

わたしが数日前に映画の感想で書いた「地球の静止する日」に対し、リメイク版の「地球が静止する日」に「ゴールドベルグ変奏曲」が使われていることを教えて頂いたもので、哀しみのセルフィッシュ・ジーン Ⅰ~地球の静止する日/アルジェの戦い/いのちの戦場 アルジェリア/馬謖、により思わず想い出を書いてしまいました。
博士に宇宙人が出会う場面で流れているそうですね。
「が」の方も機会があれば、観てみたいです。

「ゴールドベルグ変奏曲」にニーチェの思想を実感されるということ。
確かに、「ロマン主義的ペシミズム」の高揚を感じます。ニーチェは古典文献学者の基盤を確立して後、悲劇の偉大さを強調していますね。このペシミズムにはデカダンスの翳りはなく、螺旋状に厳かに上昇してゆく澄み切ったビジョンを感得します。孤高のビジョンを。
寧ろ、ショーペン・ハウエルがワーグナーかもしれません。


長くなりましたのでここで切らせて頂きます。
続きはまたの機会に。

THEME:音楽 | GENRE:学問・文化・芸術 |

遊星からの物体X ファーストコンタクト  The Thing

the thing
The Thing
2011年
アメリカ

マティス・ヴァン・ヘイニンゲンJr.監督
ジョン・W・キャンベル『影が行く』原作

メアリー・エリザベス・ウィンステッド、、、ケイト・ロイド(古生物学者)
ジョエル・エドガートン、、、サム・カーター
ウルリク・トムセン、、、サンダー・ハルヴァーソン博士



何とも言えない邦題ですね。
遊星からの物体X、、、
どこからこういう題名がついたのか。
寧ろ”The Thing”そのままの方が即物性と異物感が顕であったような。
なにしろ凄まじい他者でしたから。

これはSFというより、とんでもないホラー作品です!

しかしよく出来ていた。
息を飲んでただ観続けるのみです。
「遊星からの物体X」は大学生になってからTV番組で観たはずですが、途中で逃げた形跡を感じます。
その前日譚(プロメテウスもそうでした)がこの映画にあたります。 ファーストコンタクト。
こちらは、2011年度版。かなり新しい映画です。以前出たもの(ただのX)は1982年度制作。
「ブレード・ランナー」と同じ年に公開されています。

これは、ホラー映画好きの方以外には、観なけりゃあ損ですよ、なんてとても薦める気にはなれません。
はっきり言って、あのエイリアンも尻込みして逃げ出すこと請け合いです。
心臓に悪い。血圧に影響する。
何でわざわざこんな時にこれを観てみる気になったものか、、、?
”X”に誘われたのかも知れません、、、。

単に、ここのところブルーレイの衝動買いに走っており、これ昔見たけどまた観たい、とかいうレヴェルで幾つか観てきただけでした。
しかし、なんという高画質か!(DVDそのままの画質でブルーレイに焼き付けられているMusicVideoとかありますけど、新しい映画ではさすがにそれはありませんね。)
以前見た「遊星からの物体X」は薄暗くぼやっとしていた気がします。
当時はブラウン管で観ていたし。
こんな呆れるほどくっきりとあんなもの見せられたひには、堪らないですね。身がもたない。
これは、ホラーコーナーで心臓の弱い人「禁」と表示し、並べてもらいたいものです。

「あーっこわかった、、、」
ってどういう感想なんだ!単にその心情を身も蓋もない形で吐露していてどうする。
でもやっと終わってほっとしました、正直なところ。というのが本音なので、、、。
淀川さんならあの表情で、「怖いですねえ~。怖いですねえ~っ。」と言ってくれるので取り敢えず気持ちの方は落ち着くのですが。
でも、終わったという形で終わっていないのが、こういうホラー系の「お約束」です。
嫌だなー。ほんとにヤダ。


わたしは、ホラーはダメなんです。(そのくせ時折、見ます)
エイリアンは格調高いアーティスティックな出立なので、それなりの敬意が持てるのですが(ギーガーさんの作品だからか?画集も何故か2種類持っています。)
こっちはあまりに酷い。酷い。しんどい。ムリ。
あんまりな姿に言葉を失うばかりです。

他者。

全くの他者。

そんな他者が取り込んだ人間を複製して成り済ます(今流行りの)というのだから、その疑心暗鬼の恐怖ときたら。
誰もが仲間をお互いに火炎放射器で焼き殺さんとばかりに恐れ戦いてゆくのです。

これに似た外傷経験をわたしは実は少年時代にしています。
もう映画の題名とかストーリーなど覚えてはいませんが、宇宙の果てから地球へと帰還する船内で、船員が次々にエイリアンに襲われ体を乗っ取られてゆき、地球がもう間近となった頃には、みんなエイリアン化した人のみとなっているという恐怖SFでした。もう日常生活のなかでもフラッシュバックしまくったものです。

結局、南極からこの”The Thing”を外に出さずに完全に葬り去ることを決意し、果敢な戦いが繰り広げられます。断続的に目をそらしつつ注視するというあまり普段しない生理的運動が不可避的になされてゆくのです。


ところで、通常の定番ホラー?なら、完璧な善人の女性科学者とかが、最後まで危うい中を切り抜けて生き残るというパタンでしょうが(こちらもそれで安心したい)、この映画は其の辺も怪しいことをチラつかせていきます。明らかに変です。
ストーリーが細やかによく練られています。
それで目が離せないのです。
怖いもの見たさだけではさすがに観きれませんしね。

更に特筆すべき点は、映画のタイトルとエンディングの効果・工夫です。
この映画ほど決まった、カッコイイイものを他に見たことがありません。(Moonもかなりおしゃれな出し方でしたが)最初と最後が強烈なインパクトで惹きつける。
おかげで余韻がかなり続きます。尾を引きます。残像が、、、夢だけは見たくない。
何においてもショックを与えたいという製作陣の悪趣味?が遺憾無く発揮されていました。
全編、隙のない無駄もない破れ目のない、タイトでヘビーな仕上がり。
でも、間違っても子供には見せられません!


マティス・ヴァン・ヘイニンゲンJr. の初監督作品。
主演は、ホラー映画の主演をよくなさるという、良いご趣味のメアリー・エリザベス・ウィンステッド。



なにか、、、次第にもう一度くらいなら見たくなるかもしれない気もしてくるのです、、、

(乗っ取られたか、、、?)





*1951年度版が最初にありました。タイトルは、”The Thing from Another World”
ストーリーは、「~X」のオリジナル版となります。以前見たのはこっちか?

月に囚われた男 MOON

moon.jpg
Moon
2009年
イギリス

ダンカン・ジョーンズ監督・原案
ネイサン・パーカー脚本

サム・ロックウェル 、、、サム・ベル
ロビン・チョーク、、、サム・ベル(クローン)


デヴィット・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズの初監督作品。
ちなみに数あるボウイの名曲のなかで特にわたしのお気に入りは、”Lady Grinning Soul”
関係ないけど、ボウイと聴けば、血の騒ぐくらいのファンですからお許しを。
多くのミュージシャンが使いたがっていても断られていた、クラフトワークのレコーディングスタジオを彼ら以外ではじめて使う事の出来たミュージシャンがデビット・ボウイでした。
”Low”のアルバムですね、、、もうひとつの絵画・音楽ブログも再開したいものです、、、今思い出しました、、、。
またLow聴いてみたい。(こちらも同時に思い出しました)

この映画も、また観たくなる映画でしょう。
まさにお父さんの血を引いてますね。
良い仕事してます。
いえ、正直これほどの監督だとは、思いませんでした。
大体二世はちょっと、という先入観が有り、これまで観ませんでした。(イメージが壊れるのが嫌で)
観て驚きました。
ブレード・ランナーや第9地区、同等の感動を覚えましたから。
しかも、第9地区もそうですが、かなりの低予算映画だそうで、予算かければ良いというものではないことを証明していますね。良いことです。
全体の雰囲気は、どことなくレトロな印象があり、それが月面の作業基地の殺伐とした閉塞感を上手く漂わせることに成功しています。
登場人物はサム・ロックウェルほぼ独り、二役を演じ。あと良い意味で人間的なロボット。(基地内に据え付けられたロボットですが)
その他のキャストは彼の夢と幻覚?とヴィデオレターに参加のみ。
サム・ロックウェルの好演が光ります。
そう、第9地区の主役とも似た雰囲気があります。
ある意味、ノーマルで勤勉、人も良い。

そして、主人公のサム(彼もサム)は自分が何者であるかを知ってしまいます。
この切なさ、底なしの孤独、寄る辺なさ。絶望。
これはレプリカントたちが必死に追い求めた自分という存在の証。
「プロメテウス」の科学者エリザベスが自分の身を顧みずに探求し続けた創造主の意図。
科学いえ、人間の思想は原理を追い求めます。これはヒトの本源的欲求なのでしょうね。
本質的に死の不安に怯えつつ自分の存在意義を問い続けるのはヒトもレプリカントもクローンも変わりません。

またその覚束無いアイデンティティを支えるものが、記憶です。
われわれは何故、こんなに写真を撮りたがるのか。
写真。植えつけられた記憶であろうとも、それだけがわたしを世界に繋ぎとめます。
この記憶の拠り所が実は如何に切実なものであるかは、自然災害にあい、避難場所からわざわざアルバムを取りに戻って亡くなった男性のニュースでわたしは実感しました。

クローンはブレード・ランナーのレプリカント同様、短い命で交代して逝きます。
家電の交換年月にも似ており、文字通り消耗品。
この月面採掘企業(He3で世界を席巻しているのは)韓国企業です。
宇宙基地内にもハングル文字がありました。
それもあるなと思いました。驚く程性急にIT化を進めた国ですし。


月に手をつけてはなりません。
月が地球に及ぼす影響が小さくない、というより月はヒトにとっての観念でもあります。


プロットがしっかりしており、細部までストーリー、美術が作りこまれた記憶に残る傑作です。
この監督の力量を思い知りました。



月は地球上から見るのが、もっとも美しいと実感する映画でもありました。





プロメテウス

prometheus.jpg
Prometheus
2012年
アメリカ

リドリー・スコット監督・製作

ノオミ・ラパス、、、エリザベス・ショウ(考古学者)
ルーシー・ハッチンソン、、、若き日のショウ
シャーリーズ・セロン、、、メレディス・ヴィッカーズ(調査ミッション責任者)
イドリス・エルバ、、、キャプテン・ヤネック(船長)
マイケル・ファスベンダー、、、デヴィッド(アンドロイド、運航担当)
ガイ・ピアース、、、ピーター・ウェイランド(ウェイランド・コーポレーション社長)
ローガン・マーシャル=グリーン、、、チャーリー・ホロウェイ(考古学者)


前日譚と解釈できる作品ですね。
「エイリアン」の。
「エイリアン」より空間的なスケールの大きさを感じます。
それでいて密度も濃い。
ただ、硬質な触感、手触りの感覚は「エイリアン」より薄れているように思います。
物質感は「エイリアン」に強く感じました。
さらにプロットは人類の起源の探索をめぐり展開します。
創造主「エンジニア」に接触することを目的にしています。
はっきりとした動的な軸があります。
そして何より絵が美しい。この絵はやはり紛れもない、リドリー・スコットの世界です。

何故、彼らは。
何故、人類を生み出したのか。
そして何故、人類を滅ぼそうとしたのか。

それはエンジニアに直接聴く他に方法があるでしょうか。
しかしそれを聴いたところで、自らのDNAを地球に根付かせたことと、心的存在ー現存在としてのわれわれに直接性はもはやないとも言えるはず。

恐らく、エンジニアが地球を滅ぼしにたつことを決めたのは、ウェイランド・コーポレーション社長の言葉を聞いたことが原因でしょう。またはロボットのデイヴィッドが翻訳時に異なることを伝えたのでしょうか。
エンジニアがすぐに地球に向けて出発するほど、逆鱗?に触れるような内容だったのです。
それはヒトの死を引き伸ばすこと。不死の願い。
創造主ならできるはずであると。

昨日とりあげた「地球の静止する日」のクラトゥも「いつ死ぬかは、神のみぞ知る。」
と語っています。(あの映画の重みが分かってきます)
生と死の2点に関しては、ヒトの管轄外であり、口出しできる問題ではないようです。

しかしエンジニアにそれが委ねられると言う訳ではありません。
たとえわれわれが彼らの遺伝子をそのまま受け継いだ生命体であったとしても、その意味で彼らが創造主であろうと、もはやわれわれは、、、いえ、ただ迷うばかり、、、迷いは深まるばかり。そのあり方を一般に実存と呼んでいるだけか。
結局、最後に残った考古学者エリザベス·ショウは、壊れたデイヴィッドの道案内でエンジニアの惑星に向け飛んでゆきます。

答えを求めて。
再び星間の果てに。
あれほど過酷な経験を経てもなお。
地球に戻るのではなく。

しかしたとえエンジニアに聴く機会があったとしても(デイヴィッドはあからさまに無駄だと返していますが)、彼らに応えられるとも思えません。答える気もないのでは。では、彼らの創造主は誰なのか?何者なのか?
起源をどこまで求めるのか?
それが科学だ。確かにそうでしょう。
しかし起源を突き止めて、そこに何らかの答えがあるのか?
そこに何を読み取るかが全てではないでしょうか。
それは結局、われわれの問題なのではないでしょうか。
さらに。
それは外に求めるものなのか?
遥か宇宙の果てに?

あえて内にとも言いませんが、0.1mm範囲の近傍、さらにミトコンドリアあたりで何かが窺えるかも知れません。

案外、LHCよりも遥かにコスパのよい実験室の片隅で紳士的な出立の博士に発見される可能性もあります。

この辺になるとレトロなSFの方に本来の科学の香しさが漂ってきます。


とは言え、この「プロメテウス」、「エイリアン」に勝るとも劣らない圧倒的なエイリアン映画です。
リドリー・スコットの真骨頂でしょう。


地球の静止する日 (ロバート・ワイズ監督)

メトロポリスからクラフトワークへ
ここに昨日、わたしも記事に採り上げました、”メトロポリス”と”クラフトワーク”に関する、大変気品漂う名文が綴られております。特に、「メトロポリス」に纏わる逸話はきっと想像力を刺激されることでしょう。SAKI様のブログです。ぜひご覧になってください。

さて、今日は、本来なら「未来世紀ブラジル」の流れなのですが、「地球の静止する日」にしました。念のため「地球が静止する日」の方ではありません。1951年制作。ロバート・ワイズ監督のものです。

StoodStill.jpg

この映画も、既視感がものすごくあったのですが、いつごろ見たかは記憶にありません。
意識的に観ていないころでしょうね。
ロボットとかそのようなものに異様にフォーカスしてイメージが沈潜してゆく年代に見ているかも知れません。

ブルーレイで観ましたから、オーソン・ウェルズの「審判」(ブルーレイ)と互角の美しさでした。(どちらもモノクロ)
わたしはDVDでもお釣りの来る程度の画質ではないかなと、この時代を考え想っていましたが、とんでも無い綺麗さに驚きました。つい最近撮られた映画に思えるほどです。
それは、内容に関してもです。
時代性を感じさせるものは車・バイクや電話等に見られますが、何の違和感もありません。
別に未来の出来事を想定しているわけではないですから。
普遍的テーマをとりあげて表現しているだけです。
わたしの生まれるかなり前の戦後、これから明確に冷戦体制に入るという頃に作られた作品です。
恐らくロバートワイズ監督他制作集団は危機意識から使命感をもち制作したのだと思います。
映画としても極めて禁欲的にテーマに沿った破れ目のない作品に仕上がっています。

これは傑作です。

アメリカが共産圏という他者に対し敵視とともに過剰に怯えているこの時期に、UFOでわざわざ地球に飛来し、いきなり生身を晒してメッセージを伝えようという宇宙人クラトゥの真摯な姿勢に打たれます。
が、文字どうり警戒心の強い地球人に銃で撃たれてしまいます。(クラトゥは防護服すら着ないで降りて来たのです)
これだけとっても、まさに人類の普遍的精神-態度を提示しています。
いまも何ら変わりません。
その後の展開も同様で、地球全体のことより功名心等を優先する利己的な人間が対比され描かれてゆきます。

テクノロジー的な面でも、宇宙人の科学力はこのレヴェルにあるということを前提にしているので、引っかかるところはありません。ただ後半に至っても彼は何であんな簡単に銃撃を受けてしまう行動に出るのか、についてはわたしには分かりません。(物事には分からないことがあるのは当然です)
深い意図があるのでしょう。
最近の映画でも軌道傾斜角度の考慮がなかったり、まさかという消化器で宇宙空間を移動など志村けんのバカ殿ならするであろうような場面がシリアスに描かれていたりします。
これはそのような破れ目がないSFとして成立しています。

ロボットも全く語らず、力強く威厳に満ちております。
最近ペラペラしゃべるおべっか使いの薄いロボットが増えてます。
そういう輩は”ゴート”(ゴドーではなくてゴートですね)に一気に踏み潰されることでしょう。(なんせ彼は地球も破壊できるというのです)
また、クラシックカーが妙にモダンで素敵な乗り物に見えました。
まるで未来の乗り物かと錯覚するほどに。
全体にとてもモダンでおしゃれな雰囲気の漂う映画でした。
変な小細工のないところがかえって功を奏します。


ところで、最も根本的な謎が残されています。
ある意味この映画は、この時期によく制作したとも言えそうな映画にとれますが、アメリカ資本主義というより覇権主義のプロパガンダにも充分になりうるものだと思えます。
地球を去る前にこれだけは人類に早急に伝えたいと人々に残したクラトゥの演説です。

結局、平和を守るためなら武力は正当化される、というもの!

アメリカの思想そのものです。
それは、いつだって「わたしの平和」を守るためなら、、、であります.。
言うことをきかねば武力に訴える。
言われなくても分かっている。(それを意識化させるためなのか?)

クラトゥは何しに来たのか?
その真意は謎に包まれたものです。

傑作は奥が深い。



メトロポリス {クラフトワークも少し}

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メトロポリスという言葉からは、映画より先にクラフトワークの同名タイトル曲が流れ出す。
流れ出したら止まらない。耳の奥で鳴りっぱなしである。
まさしく、”Music Non Stop!”である。
それくらいクラフトワークの印象が強い。
(傑作ぞろいの彼らのアルバムのなかでも、あの「人間解体」はとてつもない傑作だった)
この映画、1927年の作品であるから仕方ないが、クラフトワークが音楽担当していたらと、いろいろ空想を膨らめてしまう。

「サイレント」映画であるが、一時も目を離せない緊張感だ。
寧ろサイレントであるための抽象的ーアーティフィシャルな魅力に惹きつけられてしまう。
勿論、バックのピアノも、十分に映像にマッチしており、集中を切らせる要素は全くない。
所謂、通常の映画(トーキー)とは別の芸術を鑑賞している気分に浸っている。
それもとりわけ崇高な芸術に。

映画のなかの何処の部分を切っても、幻想的な絵になる。
この世界は、決して特定の未来(またはテクノロジー)を想定して制作されたものではない。
普遍的で優れたメタファーによって形成されたものだ。
であるから、古臭さなどは微塵も感じさせず極めて新鮮な感動を呼ぶ。
まさに、唯一無比のSF作品に思える。

針時計のインターフェイス。汽車を思わせる工場の白煙噴射。未来派の建造物。
どれも夢に出てくるほど印象深い。
淀川さんも強調していたが、とりわけあの女性ロボットは、偶像のような神がかった神秘性と美しさを湛えていた。
これ以降のロボットなど、それに比べればガラクタおもちゃのレヴェルであろう。
(とは言え、わたしはそれらも好きなのだが、、、)
ヴィリエ・ド・リラダンの未来のイブを視覚化したらあのような姿になるはずだ。

しかし、その元型ロボットが、マリアと同一化する過程の映像はこれまた優れてメタフィジカルであったが、実際マリアになってしまうと、何か物足りなさを感じてしまったのは、わたしだけだろうか?
あの元型ロボットがあまりに美しかったので、普通の人になってしまったのが惜しい気がした。
(あのままで少し活躍の場を与えたいものであった)
勿論、物語上あのマリアになるのが当たり前だが。

最後の、脳と手が和解すれば、、、というような旨があったが、手と脳は同じである。
手は脳である。機能であって肉体(物質)に過ぎない。
寧ろ、手ー脳とこころとか、そういう問題だと思う。
この映画に対し異議を申し立てる気などあろうはずないが、バベルの物語に絡めて最後に出したと思うが、無くても良かったかなとは思う。

一緒に、「未来世紀ブラジル」を観た。
これまた、すっ飛んだ映画であった。
以前から観たいと思いつつまだ観ていないつもりであったが、既視感が強烈にある映画であった。
何処かで、やはり見ていたかもしれない。
メトロポリスとも混ざってこんがらがってしまうところもあった。






一服 「ポンペイ」 そして 「舟を編む」

つい最近、「ポンペイ」(「ポンペイ最後の日」ではありません)と「舟を編む」をほぼ同時期に観ました。
何故か無性に、「メトロポリス」を観たくなり、今日一日(つい先ほどまで)VHSテープを探していたのですが、見つかりません。
もしかしたらDVDでもっているかもです。
以前観てますから。
最近、物が見つかりません。
知らず、捨てているのか?
わたしが複数いる気配が高まる今日この頃。

やはり病のためか、強烈なものを観るには、耐性が低すぎますね。
「ポンペイ」については、どうしてもリドリー・スコットの「グラディエーター」が脳裏に浮かんでしまい、分が悪いです。
真っ新な気持ちで見るのが難しい。
ただ、迫力が凄い、これほどブルーレイの威力を感じたのは初めてです、多分。
何なんだ!と感じたりしました。
「グラディエーター」はDVDでしたもので。
情報量には差が出ます。
血圧が自ずと上がります。

しかし、この映画を見ようという人はほとんど、この迫力を期待して見るのでしょうから、良いとは思います。
キーファー・サザーランドもやたらめったら憎たらしい役を好演していました。
そこも見所かも知れません。
他に際立つところは、、、白い馬がかなり印象的でした。
後は、闘技場と噴火。水蒸気爆発。火砕流。ひたすら逃げ惑い呑み込まれる人々。
感動よりも刺激・衝撃をという人は、お勧めします。
しかしそれを求めるような人は、すでにかなりの衝撃をそれとは感じないくらいのレヴェルになっているでしょうから、、、
アクションや破壊にあまり期待しすぎないで見てください、というべきでしょう。
では、何を観れば良いか、キーファー・サザーランドの憎たらしさでしょうか?
かつて、悪役を好演していた役者が、あまりに真に迫りすぎて、舞台上で殺された事件があったそうですが、彼なら充分に殺される資格があります。

「舟を編む」は、とても静謐な抑えられた演出で、人々の心情が丁寧に描かれていました。
松田優作さんのお子さんたちはよい仕事してますねえ。
ここでは、長男の方です。
本当に、まじめさんになりきっているようでした。
ああいう人はいいですね。
わたしは好きです。
信用できます。
宮崎さん(かぐやさん)は、まじめさんにまさにぴったりの人でしょう。
というより、それ以外の人とまじめさんが結ばれるでしょうか?
と、思うくらい。
つまりですね、まじめさんという人は、天職とも言える辞書作りの仕事と地球上でほぼ一人と言えるような人を配偶者に得て、まさにスーパーマンと言ってしまいたいのです。
地味に見えて、実は変身しないだけのスーパーマンなのです。

おそらく余計な雑念もなく、妙な欲ももたず、ひたすら自分のやるべきことを淡々と行ってきたから、宇宙が自然にサポートしてもっともあり得べき環境-絆を実現してしまったのでしょうね。
そういう気になってしまう映画でした。

それにしても、まじめさん、わたしが過去に見たヒーローものの中でも、ダントツのヒーローでした。
完璧でしょう。



おそらく、明日は「メトロポリス」を観ます。


おやすみなさい。


Kiefer Sutherland
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アイデンティティ

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文章を書くときは「わたしは」という主格をもって書いて(打って)ゆくが、当のわたしは、文章の整合上、主格を置いているに過ぎず、「わたし」をことさら意識したことはない。
日常生活のなかで、主格は特に意識しないと現れない。
その時も、限定条件の上でだが。
少なくとも、考えている時は全く、存在しない。

こうして文章を綴っていて、いちいち「わたしは」と断っていくのが、つくづく鬱陶しい。
(自分は、と置き換えてみると少ししっくりしてくるのだが、ここでは深入りしない)

実際、「わたし」は、何かその時のコンテクストにあって限定付きでの「わたし」に過ぎず、ただわたしと言ってしまったら、ぼんやり放けてしまうだけである。
純粋に「わたし」という時、「考えるわたし」など残らない。
「考える」は純粋に「考える」という持続する運動であり、そこにわたしの介在する余地はない。

取り敢えず、このわたしは日常生活を無意識的・自動的に送っており、「このわたし」は、反省的思考により意識上で記憶(時間的な空間性)により非連続的連続性をもって保持されてはいる。
しかし覚束無いありかたで。

本当にそれがわたしの仕業か、と聞かれたら確証のもてないことが少なくない。
知らず物を運んでたり、置き忘れている。
意識はチェックし損ねている。いや、単に忘れたのか。

そう、記憶はたちまち消え去り、飛んでおり、遥か昔の少年期の光景を鮮明に表象する。
時間ー意識の覚束なさ。
この実相をノスタルジックに克明に描写しているのが、タルコフスキーか。

存在とは、無意識の問題と言える。
この身体である。
感情や記憶の乖離、そして断片化とは、無意識ー身体性の破壊を意味するはずだ。

大きな衝撃によって気を失うとかある期間、離人症的に籠って過ごすといった防衛反応ではなく、修復不可能なほどの耐え難い圧力(暴力)を恒常的に浴びれば、記憶ー意識や感情それを維持する無意識ー身体はバーストしてしまう。

乖離した記憶・感情が何によってまた新たな有機的構成がなされるのかは、わたしは知らない。
しかし、現に解離性同一性障害という事例はあり(この映画で初めて知った)、複数のわたしが、おのおの好き勝手に主体的な行動を始めてしまっては、たまったもんじゃない。しかしそう感じるのはどのわたしだ?
支配的・超越的またはそれらを包含するわたしなしに、誰がそれを感じることができる?

お互いに意思疎通もない、それらのわたし。
これほど放置して恐ろしいものはない。
まさにキメラだ。

しかし自分に、それが起きているかどうか、原理的に自分の内省だけでは確認しようがない。
今現在、わたしがキメラかも知れない。


そう言えば、その痕跡、影が感じられる。



第9地区

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District 9
2009年

ニール・ブロムカンプ監督・脚本
テリー・タッチェル脚本

シャールト・コプリー、、、ヴィカス・ファン・デ・メルヴェ(主人公)


主人公はプロジューサーであり、この映画で初演技の披露だそうだ。
監督も初作品。

何でもそうだが、デビュー作を超えることは、大変である。(多くの人が超えられない)
しかもこれだけの傑作を作ってしまい、この後のことが人ごとながら心配だ。


舞台を南アフリカに置いているが、別にどこでも良い。
エイリアン?がエビに似てようがタコに似ていようが、どうでもよい。

ディテールの精細描写がしっかりなされていれば充分。
テーマは普遍的なものだから。

人は何のキッカケか、意識する間もなく変身する。
後で反省的思考で理由を見出したりするものだが、ほとんど意味ない。

当然、自分の生きてきた場所を追われ、逃走を強いられる。
途中で死ぬか、取り敢えず生存を維持する場所にたどり着いたりもする。

別にそこが本来あるべき場所ではないことは明白である。
思い返してみれば、これまで生きてきた場所だって、ヘドの出るようなトコだった。

だが、そこよりはマシかどうかなんて聞かないで欲しい。
ここ以外に何処に棲めというのか!

勿論、自分の姿はもはや自分であった痕跡すらない(なくなるだろう)。
その場所と見かけは一体となるのだ。

だが絶えず身体は疼く。音もなく悲鳴を上げる。
自分とは一体何だ?

そんなもの、問い自体意味がない。
自分なんてものは端からありはしないのだから。

すべては言葉に過ぎない。
しかし何処からともなく形のない生々しい欲求が純粋に湧きあがる。

生きたい。
どんなかたちであっても、生きるしかない。

生命にとって、それが本源なのだ。
そうしたいのではなく、そうする以外にない。

ただ生きるということ。
物語の最後で、妻が「待っている」と言う。


せめてもの救いか。







アナーザープラネット

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昨日、映画名だけとりあげましたAnother Earthについて少しばかり。
この映画はご覧になっていない方は、もし興味をもたれたならご覧になって損はないです。

その為にも、ネタバレせぬよう(いつも思いっきりネタをバラしていますが)、気をつけます。

この映画、わたしのようにボーっと観ていると、別にもう一つ地球がなくてもドラマとなってしまうのでは。
と、思いかけるところですが、ハッと気づくとこれはとんでもない映画であることを知ります(おそらくそうです)。
ジャケットに最後にどんでん返しみたいなことが書かれていましたが(手元にDVDがなく正確には覚えていませんが)、別にその部分はどんでん返しでも何でもありません。寧ろ物語の構成がとてつもないどんでんがえしの連続です。しかし、そうであったと分かるのも(思うのも)最後を観てからはっきりすることが多いと思われますので。これは、その意味で、もうひとつの地球なしには成立し得ないSF映画です。


これは私見です。
改めて申しておきます。

わたしは、この映画を観て、SF映画の奥の深さを思い知りました。
別に多元的宇宙に関してではありません。
この映像はSFの設定によって可能となりましたが、テーマをそこに設定したようには見られません。

もう一回、確認の意味で見直そうかと思っていますが、今はあまり検証するような鑑賞には体がもたないので、見送ります。
映画はのんびり観たいものです。
しかし、この映画はとんだくせものですので、ちょっとしたサイコスリラーなどとは次元が異なります。

そしてテーマは、「罪」と「ヒト」とがどう向き合うかという究極の問題であり、それを最後にこちらにつきつけたまま終わります。(あまり書くべきではない、もう抑えよう。)

自分で考えなさい。自分が引き受けるべき問題です。
当たり前と言えば、当たり前ですが、逃げずに答えられれば、現在のようにはなっていません。


監督は、マイクケイヒル。
主演女優ブリットマーリングが脚本を手がけているそうです。


ガタカ GATTACA

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Gattaca
1997年
アメリカ

アンドリュー・ニコル監督・脚本

イーサン・ホーク、、、ヴィンセント・アントン・フリーマン(不適正者として生まれる)
ユマ・サーマン、、、アイリーン・カッシーニ(ヴィンセントに好意を寄せる同僚)
ジュード・ロウ、、、ジェローム・ユージーン・モロー(事故に遭い歩けなくなった適正者)


ガタカは”ブレードランナー”や”第9地区”や”IDENTITY”などと同様のわたしの好きなタイプの映画です。
それらは同じなかまといった感じで観ています。(3ツ目のはサイコスリラーでジャンルが違うと云う方がいるはずですが、解離性同一性障害は極めて存在学的な問題と云えます。)
W・ヴェンダースやD・クローネンバーグやティムバートン等を観るときとは違う。
ゴダールやL・カラックスをみるときとも異なるところで観ています。

存在を扱っているといえばどれもそうなのですが、W・ヴェンダース等はその場-廃墟を見事に描いており、ガタカはその人物-孤独に焦点をおいて全体を描いていると思います。the MachineとかAnother Earth(何故か邦訳だとアナーザープラネット!)等も後者で、所謂SF作品ですね。
サイエンスフィクションでもサイエンスファンタジーであっても良いのですが、このようなSFだと思い切った設定で現存在のあり方を鮮明にドラマチックに浮き彫りにできます。
だからタルコフスキーも「惑星ソラリス」を前提としてみました。
ゴダールのアルファヴィルは絶妙でした。

さてここでは、遺伝子の解析に基づく決定論をヒトの想いが乗り越えてゆくという、ドラマが描かれています。
ヒトの社会における適応性が、DNA解析のみで判断されるというこれまた極端な未来図ですが、今現在われわれも「適応性」を様々な場面で測られていることに重ねてしまいます。
寧ろ自らを進んでその枠に当てはめている。

主人公は、優秀な遺伝子による人工授精が普通の社会で、自然出産によってこの世に出たばかりで不適応者としてデータ登録されます。
しかし父親から運命を乗り越えよという祈りを込めた名を付けられます。(ヴィンセント、、、ゴッホと同じ)
彼は幼い頃から強く宇宙に憧れ宇宙飛行士になりたい意志を示しますが、その父親からなれないことを宣告されます。
これは生きながら死ぬことを意味します。もともと彼は若くして心臓病で死ぬことを出生時に告げられています。
彼は長じて自分の名を捨て、契約を結んだ他人とすり替わることで自分を超克します。
一心に本来の自分にならんとします。権力に怯えながらも。

彼は地球-運命を憎み、身分詐称し細心の注意をはらい憧れのガタカに所属し違うアイデンティティの仮面を被り優秀な宇宙飛行士となってゆきます。ただひたすら宇宙を目指して。
彼のこの意識は、遺伝的には完璧な弟との度胸比べの遠泳競争に如実に表れていました。
帰る岸のことなど全く考えない無茶な泳ぎに、計算してしまう弟は終いにはついて来れなくなっていた。
この一途な想いとは、、、真に実存的なものです。
生きながらえることよりも生きることを選ぶ。

規範という外部の圧力からというより、自らを拘束する意識-催眠から、憧れという強度によって解かれ、その夢を貫いてゆく。
多くのヒトは、この無謀な憧れをその時代の規範意識-パラダイムにより幼いうちから潰しており、想うことすら麻痺してできなくなっていると思われます。
この外傷経験は重くのしかかります。
それがひどく過酷になって、慢性的に継続し、恒常化すれば、場合によっては、解離性同一性障害にまで行き着くこともあるでしょう。

主人公は、結局彼の夢を分かち合う協力者に支えられ、寿命も余裕で越え、彼女まで得て飛び立ちます。
わたしは、彼が自然出産で生まれたからそれができたように想えるのです。

「生命は遠い宇宙の塵から生まれた。僕もそこに帰ってゆくのかも知れない。」
宇宙にまさに旅たとうとするときの彼のことばがとても印象に残りました。
マイケルナイマンの音楽が静かに感動を深めてゆきます。






野いちご

bergman.jpg

Smultronstället

1957年
スウェーデン

イングマール・ベルイマン監督・脚本
エリク・ノルドグレン音楽

ヴィクトル・シェストレム、、、イサク教授
ビビ・アンデショーン、、、サーラ(回想シーンの婚約者/現代のヒッチハイカー)
イングリッド・チューリン、、、マリアンヌ
グンナール・ビョルンストランド、、、エヴァルド
マックス・フォン・シドー、、、ヘンリク・アケルマン
グンネル・リンドブロム、、、シャルロッタ


完成された映画は、わたしにはとても静謐に写る。
イングマール・ベルイマンの「野いちご」もそんな映画だ。
こんな静けさを感じたのはユイレ=ストローブの「階級関係」か、タルコフスキーの「ノスタルジア」、、、少ないわたしの映画体験からは、他に思い当たるものがない。
わたしの生まれる前にこんなにとてつもない映画が作られていたことに何故か驚く。
この映画を見ること自体が夢を見るように覚える。

映像の美しさは夢に似ている。
そこが何処であっても静謐で真っ白な廃墟である。
いきなり冒頭の恐ろしく張り詰めたキリコ空間での出来事。
「生きながら死んでいる」世界そのものの光景。
夢をここまで描ききる映像作家はそうはいまい。

幾つものシーンは、精緻なシニカルでコミカルなカフカの挿話そのものである。
現実が悪夢なのか悪夢が現実なのか。
わたしは主人公のように催眠に落とされる。
これは自己催眠なのか。
車の旅はとかく催眠に陥り易い。
そして催眠により催眠を覚まされる。

それは無意識に触れることか?
主人公を捉えて離さない記憶と感情。
その幾つもの容赦ない生々しい情景。
意識によって強固に構成されてきた悪夢である想い出。

記憶と感情はガラスの断片として漆黒の闇のなかで怪しげに煌きつつ舞っていたに違いない。
それをずっと同様に悔恨によって拾い集め制作し続けていたものだ。
禍々しい光景として。
寝ても覚めても。
自己催眠の幻想の中に。
己を苛む凝り固まった思想の中に。
しかし年を経てその意識の頑固さに罅が入り始める。

何処からともなく彼を祝福する3人の若者が現れる。
彼の一時の車の旅に加わる。
それは彼の疲労が呼んだ者たちか。
きっと意識の隙間から彼らは登場したのだ。

いつの間にか彼を嫌い非難していた義理の娘とも打ち解けてゆく。
和やかな風が世界の隅々まで行き届く。
その夜、若者の内のひとりの娘が窓の下から主人公に向けて悪戯っぽく告げる。
「おじさまが好きよ」と。
この一言で彼を閉じ込めていたトラウマが氷解し、その心は闇の内に放たれ暖かさに包まれる。

おそらく彼はこの先安らかな眠りに、睡眠薬は必要としないだろう。
幼い頃の夢が書き換えられてゆく。
新しい現実に満たされる予感。
それが本当の夢だったのだ。


”Bon voyage.”



金沢国立工芸館「ポケモン×工芸展」6月11日まで。人間国宝の実力派作家たちが新たな解釈でポケモンを創造。

金沢城公園、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、近江市場も直ぐ近く。
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