病んだ時間~喜びから生きる~断片補遺

前回の記事が非常に大雑把なまとめで、自分でも納得が行かないところなので、少しばかり充填します。
私にとって関心のある、時間についてです。
音声が人の喉の構造的制限(肉体的な制限)から、どうしても言葉は線状性から逃れません。
当然書き言葉もそうなります。
つまり、言語ー構文として言葉を構造的に俯瞰し高度化する営みも線状化します。
多くは、左から右。上から下へ。
それはそのまま「時間の流れ」を認識的にも強固に固着することでしょう。
この言語の線状構造ー運動に従い、思考の枠組みも決定します。
ですから同時性は本質的には記述不可能です。勿論、話すことも。
時間は不可避的に線状構造をとります。
つまり認識的には出来事の順番という形で並べられる。
それ以外の捉え方が無いからです。
言葉ー理性によってその枠に従い物事を過去・現在・未来と整序します。
そのもっとも洗練された説明はミンコフスキーの著作にあります。
または、テイヤール・ド・シャルダンの説く二つの円錐形が頂点ー今で接続した哲学的時間論も有名です。
が、ここで、この本の著者が何故、末期癌が瞬くうちに消えてなくなったかです。
われわれは大きなエントロピーの矢の中で過去・現在・未来へ持続して逝くことになるのですが、
彼女が単なるエネルギー体ー純粋意識として知ったことは、「すべての出来事が同時に起きている」ということでした。
つまり、出来事に過去も未来もないということです。(同時性)
これには、一旦知性というより、(彼女は知性を捨てたというが)、カント的意味の悟性から解かれたというべきか。
そして彼女の説くように、病が自分のもつエネルギーの一つのメッセージとしての表現形態(作用)であるなら、
まさに、エネルギー体としての関与が容易にできる。(関与という動的な事態ではない)
彼女によれば、このままその世界(全一的連続体)へと放たれるか、肉体へ戻るかの選択に過ぎなかった。
戻るべき身体が完治するには、われわれがこの日常でいう、「過去時制を変える」ことが出来れば良いことになります。
それには壊れた肉体を治すという未来に向けた方向ではなく過去における、病として発現するエネルギーの無効を示せばよい。
つまりは、もはやわたしにはそのメッセージは不要です、本来の自分との調和関係がこのように取れています。
それだけのことです。スイッチを切るのではなく、そのように「存在」すれば、そのようになっていただけのことです。(同時性)
戻れば、末期癌も2日で跡形なく消えていることになります。
これは、彼女にとっては、自明のことでした。
われわれは、地球上でこのような肉体に受肉することで、さらにその言語構造によって線状的時間構造を実体化してしまった。
今、この瞬間に感知し触知できることは、極めて限られている。(悟性により構成された認識枠であると説かれていても)
まさに、「点としての今」なのです。
ここに、永遠としての垂直構造を生きるには、彼女のように誰もが臨死体験するわけにはいかないでしょう。
そのためには、あらゆる恐れから解かれたSeinとして、まずあることです。
楽しく、安らかな生活。幸せな食生活などが基盤となり、自ずと全体としてのエネルギーの調和がそのままでなされてゆくような。
多分、この基盤なしに、エネルギーの調和は不可能であると思えます。
そして、同時に自分の解放。
すべてのあるべき自分からの解放。すべての義務感・責任感からの解放。
すべての価値観からの解放。
すべての判断からの解放。
不確実な事態への自己投企を恐れない。
この平面性にわたしを繋ぎ留めるあらゆる柵を解く。
自らの声を聴くために。
自らとの調和。
これこそが、健康であること。

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